アルザーノ帝国魔術学院。アルザーノ帝国の人間でその名を知らぬ者はいないだろう。今からおよそ四百年前、時の女王アリシア三世の提唱によって巨額の国費を投じられて設立された国営の魔術師育成専門学校だ。今日、大陸でアルザーノ帝国が魔導大国としてその名を轟かせる基盤を作った学校であり、常に時代の最先端の魔術を学べる最高峰の学び舎として近隣諸国にも名高い。現在、帝国で高名な魔術師のほとんどがこの学院の卒業生である確固たる事実が存在し、それゆえに学院は帝国で魔術を志す全ての者達の憧れの聖地となっている。その必定の流れとして、学院の生徒や講師達は自分が学院の輩であることを皆等しく誇りに思っており、その誇りを胸に日々魔術の研鑽に励んでいる。彼らに迷いはない。そのひたむきなる研鑽が、将来、帝国を支える礎になることを、自らに確固たる地位と栄光を約束してくれることを正しく理解しているからだ。  よって、この魔術学院において授業に遅刻する、サボるなどというその辺の日曜学校のような意識の低いことはまずめったに発生しない。ましてや生徒のひたむきな熱意に応えるべき講師が授業に遅刻するなどという事態は通常ありえない。ありえないはずなのだ。
「……遅い!」
 魔術学院東館校舎二階の最奥、魔術学士二年次生二組の教室。正面の黒板と教壇を、木製の長机が半円状に取り囲む構造の座席、その最前列の席に腰かけるシスティーナは、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。 「どういうことなのよ! もうとっくに授業開始時間過ぎてるじゃない!?」
「確かにちょっと変だよね……」
 システィーナの一つ隣の席に腰かけるルミアも首をかしげる。
「何かあったのかな?」
 見渡せば、一向に現れる気配を見せない講師に、同クラスの学友達も訝しむようにざわめき立っている。
『今日はこのクラスに、ヒューイ先生の後任を務める非常勤講師がやってくる』
 一から七まである魔術師の位階、その最高位、第七階梯(セプテンデ)に至った大陸屈指の魔術師であるセリカ=アルフォネア教授が直々にこのクラスに赴き、そう発表した朝のホームルームから早一時間過ぎ。セリカが構築した『まぁ、なかなか優秀な奴だよ』という前評判は早くも瓦解しそうな勢いだった。
「あのアルフォネア教授が推す人だから少しは期待してみれば……これはダメそうね」
「そ、そんな、評価するのはまだ早いんじゃないかな? 何か理由があって遅れているだけなのかもしれないし……」
 システィーナはそんなルミアに振り返り、猛然と抗議する。
「甘いわよ、ルミア。いい? どんな理由があったって、遅刻をするのは本人の意識の低い証拠よ。本当に優秀な人物なら遅刻なんて絶対ありえないんだから」
「そうなのかな……?」
「まったく、この学院の講師として就任初日からこんな大遅刻だなんて良い度胸だわ。これは生徒を代表して一言言ってあげないといけないわね……」
 と、その時だ。
「あー、悪ぃ悪ぃ、遅れたわー」
 がちゃ、と教室前方の扉がどこかで聞いたような声と共に開かれた。
 どうやらその噂の非常勤講師とやらが今、やっと到着したらしい。すでに授業時間は半ばも過ぎている。恐らく魔術学院設立以来、前代未聞の大遅刻だ。
「やっと来たわね! ちょっと貴方、一体どういうことなの!? 貴方にはこの学院の講師としての自覚は——」
 早速、説教をくれてやろうとシスティーナが男を振り返って……硬直した。
「あ、あ、あああ——貴方は——ッ!?」
 ずぶ濡れのままの着崩した服。蹴り倒された時にできた擦り傷、痣、汚れ。
 嫌な記憶は蘇る。朝、通学途中で会ったあの変態が、そのままの姿でそこにいた。
「…………違います。人違いです」
 男は自分に指を差してくるシスティーナの姿を認めると、抜け抜けとそんなことを言い放ってスルーの態勢に入った。
「人違いなわけないでしょ!? 貴方みたいな男がそういてたまるものですかっ!」
「こらこら、お嬢さん。人に指を差しちゃいけませんってご両親に習わなかったかい?」
 表情だけは紳士のそれのまま、男がシスティーナに応じた。
「ていうか、貴方、なんでこんなに派手に遅刻してるの!? あの状況からどうやったら遅刻できるって言うの!?」
「そんなの……遅刻だと思って切羽詰まってた矢先、時間にはまだ余裕があることがわかってほっとして、ちょっと公園で休んでいたら本格的な居眠りになったからに決まっているだろう?」
「なんか想像以上に、ダメな理由だった!?」
 男の物言いは突っ込み所が多過ぎて、遅刻をとがめる気にもならない。
 周囲の反応も同様だった。現れた講師の異様な姿に、教室中の生徒達がざわめき立つ。
 だが、男はそれを華麗にスルーして教卓に立ち、黒板にチョークで名前を書く。
「えー、グレン=レーダスです。本日から約一ヶ月間、生徒諸君の勉学の手助けをさせていただくつもりです。短い間ですが、これから一生懸命頑張っていきま……」
「挨拶はいいから、早く授業始めてくれませんか?」
 苛立ちを隠そうともせず、システィーナは冷ややかに言い放った。
「あー、まぁ、そりゃそうだな……かったるいけど始めるか……仕事だしな……」
 すると、先ほどまでの取り繕った口調はどこへやら。たちまち素が出てきた。
「よし、早速始めるぞ……一限目は魔術基礎理論IIだったな……あふ」
 あくびをかみ殺してグレンがチョークを手に取り、黒板の前に立つ。
 途端にクラス中の生徒が気を引き締める。システィーナもグレンに対するさっきまでのわだかまりを捨て、その一挙手一投足に注視し始めた。
(さて、どの程度のものかしらね……)
 第一印象こそ最悪だったものの、このグレンと言う男は、大陸でも屈指の魔術師であるセリカ=アルフォネアに『なかなか優秀』とまで言わせたほどの男なのだ。その男が行う授業、期待していないと言えば嘘になる。
 かと言って、システィーナはセリカの評価を鵜呑みにする気はさらさらない。あくまで評価を下すのは自分だ。今までがそうだったように、わかりにくい所はどこまでも突っ込んで質問するし、あいまいに誤魔化そうとしてもそうは問屋が卸さない。いつの間にか『講師泣かせのシスティーナ』などというありがたくない二つ名で学院内に知られるようになってはいるが、それも全て自分が魔術という崇高な道に対してひたすら真摯であるがためだ。妥協する気はない。むしろ誇りにさえ思う。
(さて、お手並み拝見させてもらうわ、期待の非常勤講師さん?)
 システィーナはもちろん、クラス中の注目が集まる中、グレンは黒板に文字を書いた。

 自習。

 黒板に大きく書かれたその文字に、クラス中が沈黙した。
「え? じしゅ……え? じしゅ……う? え? ……え?」
 システィーナはその文字について、自分が真っ先に思い当たる意味とは別の意味についての解釈を何度も試みた。だが、ことごとく失敗した。当然である。そんな短い単語に込められた意味など、たった一つに決まっているからだ。
「えー、本日の一限目の授業は自習にしまーす」
 さも当然、とばかりにグレンは宣言した。
「……眠いから」
 さりげなく最悪な理由をぼそりとつぶやいて。
「……………………」
 沈黙が支配する。圧倒的な沈黙がクラスを支配する。
 そんなクラスの面々を置き去りに、間違っているのは自分じゃなくて世界だとでも言わんばかりに堂々と、グレンは教卓に突っ伏した。
 十秒も経たないうちに、いびきが響いてくる。
「……………………」
 沈黙が支配している。圧倒的な沈黙がクラスを支配している。
 そして。
「ちょおっと待てぇええええ——ッ!?」

 システィーナは分厚い教科書を振りかぶって、猛然とグレンへ突進していった。
「どうかお考え直し下さい、学院長ッ!」
 帝国魔術学院の学院長室に怒声が響き渡った。
 声の主は二十代半ばの、神経質そうな眼鏡の男だ。学院の正式な講師職の証である梟の紋章が入ったローブを身にまとっている。名前はハーレイ。多くの魔術師が第四階梯(クアットルデ)で生涯を終えるこの世界において、この歳で早くも第五階梯(クィンデ)に至った若き天才魔術師である。
「私はこのグレン=レーダスというどこの馬の骨とも知れぬ男に、非常勤とは言えこの学院の講師職を任せるのは断じて反対です!」
 ばん、と両の手で激しく執務机を叩いて、正面に腰かける初老の男性をにらみつける。
「しかしなぁ、ハーレイ君。彼を採用するのは、セリカ君たっての推薦なのだよ?」
 激しい剣幕で迫られても初老の男性はどこ吹く風、好々爺然とした表情を崩さない。
「リック学院長ッ! まさか、あなたはあの魔女の進言を了承したのですか!?」
「まさかも何も、了承したからグレン君は非常勤講師をやっとるんだろうに。確かに彼は教職免許を持ってない。だが、教授からの推薦状と適正があれば、非常勤に限り特例で採用が認められるから何も問題なし……」
「その適正が問題なのです! これを読んでもう一度お考え直し下さいッ!」
 ずばん、と。ハーレイは書類の束を学院長——リックの腰かける机に叩きつけた。
「これは、先日に測定したグレンという男の魔術適正評価の結果です! なんなのですか、この惨憺たる結果はッ!」
「ふむ? ほほぅ、なんつーか特徴がないのう。魔力容量(キャパシティ)も意識容量(メモリ)も普通、系統適正も全て平凡、良くも悪くも普通の魔術師……いや、基礎能力だけ見れば中の下って所かの」
 リックはハーレイから渡された書類の束を手に取り、ざっと目を通していく。
「しかも奴の魔術師としての位階はたかが第三階梯(トレデ)! 経歴も合わせてご覧下さい!」
「む? ……おお、彼はこの学院の卒業生だったのか」
「卒業と言うのは語弊がありますがね。奴は卒業魔術論文を提出していません」
 ふん、と小馬鹿にしたように、ハーレイは鼻を鳴らした。
「グレン=レーダス。十一歳の時に魔術学院に入学……十一歳じゃと!?」
 書類に眼を通していたリックが驚きの声を上げた。
「通常、学院に入学する年齢は十四、五歳じゃぞ!? それを十一歳で、じゃと!?」
「……ええ。当時は史上最年少で難関と名高い学院の入学試験を通った少年、と言うことでずいぶん騒がれたようですな」
 忌々しそうにハーレイは顔をしかめた。
「だが、奴の栄光はそこまでです。入学後の成績は極めて平凡。そして、四年の魔術学士課程を経て十五歳の時に卒業……という名目の退学。最終成績もやはり平凡。特に見るべき物はありません」
「ふむ……どうやら、そのようじゃな……」
「そして、問題は奴のその後の進路です! 奴は魔術という至高の神秘の求道に一度は身を置きながら、卒業から今日に到るまでの四年間、何もせずに無駄な時間を過ごしていたのです! もし、その間、魔術の道に邁進していれば、どれほどの魔術の発展に貢献できたことか!」
 確かに見ればグレンの経歴項目欄には四年間の空白があった。
「ほう……四年間も無職でのう……一体、何かあったんじゃろうか?」
「もう私の言いたいことはわかるでしょう!? 奴のような低位で低俗な魔術師など、この学院の講師として、ふさわしくないということです!」
「うーむ、別に我らが魔術学院の講師募集要項には、経歴や位階による制限などなかったように記憶しておるのだが?」
「明文化などされてなくてもそんなものは暗黙の掟でしょうが!」
 再び、ずだんとハーレイは机を叩いた。
「思い出して下さい、学院に在籍するそうそうたる講師陣を! 第四階梯(クアットルデ)は当然、すでに第五階梯(クィンデ)、第六階梯(セーデ)に到る者すらいます! そしてその誰もが高度な魔術を修め、研究成果を残した者達ばかり! なぜグレンのような男が彼らと肩を並べられるのですか!?」
「ふむ……」
「あなたもあなたです、学院長! こんな重大な書類に目を通さずに、なぜ二つ返事で彼の採用を許可したのですかッ!?」
「そりゃあ、だって、ほら? セリカ君が推薦してくれた男じゃろ? こう……なんか面白いこと、やってくれるような気がせんか?」
 リックはいたずら坊主のように口元を歪める。
「しません! あなたはあの魔女を過大評価し過ぎだ! あの魔女は過去の栄光にしがみついて己が我欲を振りかざし、守るべき秩序を破壊する旧時代の老害ですッ!」
 その時だった。
「言ってくれるじゃないか、ハーレイ」
 学院長室内に突然響き渡った、その何気ない言葉にハーレイが凍りついた。
「ふふ、あのハナ垂れ小僧がまぁ、ずいぶんと偉くなったもんだ。私は嬉しいぞ?」
 振り向けば、部屋の隅に意地の悪い笑みを満面に浮かべるセリカがいた。
「な……いつからいた? セリカ=アルフォネア……」
「さ、いつからだろうな? 先生からデキの悪~い生徒に問題だ。当ててみな」
「転移の術で……いや、時間操作……そんな馬鹿な……魔力の波動も、世界則の変動も感じられなかった……」
「はい、不正解。お前、まだまだ三流だよ、精進しな。ついでに課題だ。今の不思議現象を究明してレポート三百枚以内にまとめろ。あ、これ、教授命令な」
「ぐぅ……ッ!」
 屈辱に震えるハーレイを尻目に、セリカはリックに向かい優雅に一礼する。
「ごきげんよう、学院長」
「おお、セリカ君。相変わらず若くて美人じゃのう、羨ましいのう」
「ふふふ、学院長もまだまだ若くて素敵だぞ?」
「ほっほっほ、そうか! ならばセリカ君、今晩辺りワシと一緒に……どうじゃ?」
「あはは、お断りだ。てか、相変わらず学院長はお盛んだな。いい加減枯れろよ」
「ふははははっ! ワシは生涯現役よ!」
 そんな温い空気を、ハーレイが机を叩いて吹き飛ばす。
「私は認めんぞ、セリカ=アルフォネアッ! あのような愚物を講師に据えるなど、絶対に認めんッ! 何かあったら責任を取ってもらうぞッ!」
「……取り消せ」
 その時、その低く漏れたつぶやきに部屋の空気が凍てついた。
「別にお前が私をいくら悪く言おうが構わん。陰であいつを悪く言うのも流す。だが……私の前で、私に向かってあいつを悪く言うのは許さん。取り消せ。謝れ」
 セリカの圧倒的存在感がハーレイをあっと言う間に絡め取っていた。
「な、にを……グレンとか言う男が……取るに足らない三流魔術師である……のは事実……だろう……が……ッ!」
 脂汗を垂らしながら、ハーレイは喉奥から声を絞り出すように言う。
 そんなハーレイをセリカは目を細めて冷ややかに流し見る。
「お前にこれが受けられるか?」
 見れば、セリカは左手に嵌めていた手袋をゆっくりと外しにかかっていた。
「——ッ!?」
 セリカのその動作を見て取ったハーレイは目に見えて狼狽し、青ざめた。
「わ、わかった……取り消す……私が……悪かった……」
 言質を取った瞬間、セリカはにっこりと笑い、外しかけていた手袋を嵌めなおした。
「くそぉ……覚えてろよッ!」
 捨て台詞を吐いて、ハーレイが学院長室を逃げるように出て行く。
 残されたリックとセリカの間にしばらくの間、沈黙が流れた。
「やれやれ。相変わらずおてんばじゃのう。学院長室が吹き飛ぶかと冷や冷やしたわい」
 呆れたようにリックはため息をついた。
「だが、セリカ君。流石に今回の一件は君の差し金でも無茶だよ」
「……わかってるよ。本当にすまんと思ってる」
「なんの実績もない魔術師を強引に講師職にねじ込む。ハーレイ君に限ったことではない、恐らくあの反応が学院に関わる者達の総意じゃろうな……」
 セリカは少しの間、押し黙ってから迷いなく言った。
「責任は取るさ。アイツがこの学院で為すことやること、全て私が責任を取る」
「そこまでして彼を推すか……彼は君にとってなんなのか……聞いていいのかな?」
「はは、別に浮いた話も、特殊な因縁もないよ。ただ……」
「ただ?」
「あいつにはただ、生き生きとしていて欲しくてな。まぁ、老婆心だよ」

「うわー、見ろよ、ロッド、あの講師を……」
「あぁ、スゲェな……目が死んでる……」
「あんなに生き生きとしていない人を見るのは初めてだ……」
 教室のあちこちから、ひそひそと響く囁き声。
「で~~多分、こうだから~~きっと、こんな感じで~~で~~大体、こうで~」
 生徒達の蔑みきった視線の先では、脳天に盛大なタンコブを乗せた男……グレンがまるでゾンビのように緩慢な動作で教鞭を取っていた。
「あぁ、ヒューイ先生はよかったなぁ……」
「ヒューイ先生、なんで辞めちゃったんだろ……」
 端的に言えば、グレンの行う授業は今までに見たことない最低最悪の授業だった。
 とにかく、聞いていて授業の内容が理解できない。そもそも説明になっていない。だらだらと間延びした声で要領の得ない魔術理論の講釈を読み上げ、時々思い出したかのように黒板に判読不能な汚い文字を書いていく。
 生徒達は授業の内容を何一つ理解できなかったが、このグレンとかいう非常勤講師が恐ろしくやる気がないことだけは理解できた。こんな授業は拝聴するだけ時間の無駄であり、その時間を自分で教科書を開いて独学した方がまだましだった。
 それでもごくわずかに、この最低の授業からでも何か得るべきものを得ようとする真面目で健気な生徒もいた。
「あの……先生……質問があるんですけど……」
 とある小柄な女生徒がおずおずと手を上げる。
 名前はリン。少し気弱そうな、小動物的雰囲気を持つ少女だ。
「なんだ? 言ってみな」
「ええと……先ほど先生が紹介した五十六ページ三行目に載っているルーン語の呪文の一例なんですが……これの共通語訳がわからないんですけど……」
「ふっ、俺もわからん」
「えっ?」
「すまんな。自分で調べてくれ」
 あまりにも堂々とそんな風に返され、質問したリンは呆然と立ち尽くしていた。
 こんなグレンの対応に、元々腹を立ててはいたが、ますます腹を立てたシスティーナが席を立ち、猛然と抗議した。
「待って下さい、先生。生徒の質問に対してその対応、講師としていかがなものかと」
 刺々しいシスティーナの糾弾に、グレンは心底面倒臭そうにため息をついた。
「あのなぁ。だーかーら、俺もわからんって言ってるだろ? わからない物をどうやって教えりゃいいんだよ?」
「生徒の質問に答えられなければ、後日調べて次回の授業で改めて答えてあげるのが講師としての務めだと思うのですが?」
「むぅ……だったら、やっぱ自分で調べた方が早いんじゃねーか?」
「そういう問題じゃありません! 私が言いたいのは——」
「……あ、ひょっとして、お前らってルーン語辞書の引き方、まだ教わってねーの? それじゃ調べられんか……しゃーねぇ。面倒だが、俺が調べておいてやるよ。あーあ、余計な仕事増えちまった……」
「ぐ……辞書の引き方くらい知ってます! もう結構ですッ!」
 どこまでもやる気ない態度を改めようとしないグレン。
 肩を怒らせて、荒々しく着席するシスティーナ。
 それをはらはらした様子で見守るルミア。
 教室内の雰囲気は最悪。クラス中で募る苛立ち。無駄に流れる時間。
 こうしてグレンの記念すべき最初の授業は、何も得る物のない不毛な時間の浪費に終わったのであった。

 グレンの初授業終了後、学院の女子更衣室内にて。
 身に着けている制服やケープ・ローブを脱ぎ捨て、上下の下着姿となったシスティーナは木製ロッカーの中にそれら衣類を叩き込みながら、苛立ちのあまり吐き捨てた。
「まったくもう、なんなの!? あいつ!」
「あはは……まあまあ」
 ルミアがあいまいに笑いながらなだめるが、システィーナの怒りは収まらない。
「やる気なさ過ぎでしょ!? なんであんな奴が非常勤とは言え、この学院の講師をやってるわけ!?」
「そうだね……グレン先生にはもうちょっと頑張って欲しいかも」
 次にシスティーナ達が受ける授業は錬金術実験である。
 確かにシスティーナ達が普段、着用している制服やローブは身体回りの気温・湿度調節魔術——黒魔【エア・コンディショニング】が永続付呪(エンチャント)されており、見た目以上に夏は涼しく冬は暖かい、とても便利な代物だ。男性と異なり、その生来の外界マナに対する親和性の高さを伸ばすため、魔術の習熟初期段階では薄着で過ごすことを推奨される女性にとって、その制服は強い味方である。
 だが、錬金術の実験は実際に生徒達の手で魔法素材を加工し、器具を操作し、触媒や試薬を扱う授業だ。その実験内容によっては衣服がひどく汚れたり、衣服に薬品の臭いが移ったりしてしまう場合がある。
 それゆえに、システィーナのクラスの女子生徒一同はこの更衣室に集い、実験用のフード付きローブに着替えている真っ最中であった。
 半裸になった少女達の、瑞々しく張りのある肌。子供から大人へと移行する思春期の少女特有の艶かしくも清楚な身体の線。誰もが惜しげもなくその若さの証をさらしている。年頃の男子生徒達には目の毒過ぎる肌色のユートピアがそこにはあった。 「はぁ……確か次の錬金術の実験もアイツが監督するんでしょ?」
「うん、そうだよ。グレン先生はヒューイ先生の後任だから」
「うぅ……胃に穴が開きそう」
 その時、顔をしかめていたシスティーナが、突然、何か思いついたかのようにほくそ笑んだ。隣でするりと肌を滑らせて衣類を脱ぎ、下着姿となったルミアを流し見る。
「これは……癒しが必要だわ」
「システィ?」
 システィーナは戸惑うルミアに素早く近づき、ルミアの背後から突然、抱きついた。
「えい!」
「きゃ!?」
 システィーナは思いっきりルミアのすべすべの背中に肌を密着させ、下着に包まれたルミアの胸の二つのふくらみに手を当てた。
「あー、やっぱりルミアの身体は気持ち良いなー、肌は白くて綺麗で、きめ細かくて」
「ちょ、システィ、だ、だめだよッ!」
 甘える子猫のようにすりつくシスティーナの腕から逃れようと、ルミアは顔を真っ赤にして抵抗する。が、システィーナの腕は蛇のようにルミアに絡みつき、逃げられない。
「きゃん! システィ、あっ、だめ!」
「むむむ……ルミア。貴女、なーんか順調に育ってるわね……」
 システィーナは掌に伝わってくる、微かに芯のある柔らかな感覚が以前とは微妙に変化している事実に眉根を寄せた。ルミアの胸は大ぶりではなく、小ぶりでもない。まるでルミアと言う少女の身長体格から精緻に計算したかのような、理想の黄金比と造形美を保った双丘だった。
「はぁ……良いなぁ、これ。私はなぜか胸には栄養行かないからなぁ……うぅ……癒しどころか私、なんだか落ち込んで来たんだけど……」
「ちょっと……やめてってば、システィ。そんなに強く……あ、あんッ!」
「あー、もう、羨ましいなぁ! ほれほれ、良いのはここかー? ん? ん?」
「ひゃんっ! い、いやっ! やめて……」
 どうやら、こういう場で年頃の少女達のやることなど同じようなものらしい。
「ず、ずるいですわ、テレサ! あなた、いつの間に——」
「うふふ、成長期ですから」
「わたくしを差し置いて、けしからんですわ! ええい! こうしてやりますわ!」
「きゃっ! ウェ、ウェンディさんっ!?」
 更衣室のあちこちで似たような悩ましい光景が展開されていた。
 女子生徒一同、きゃいきゃいと姦しくも楽しげに騒いでいる。
 だが、そんな少女達の前で、更衣室の扉が突如、ばぁんと乱暴に開かれた。
「あー、面倒臭ぇ! 別に着替える必要なんかねーだろ、セリカの奴め……ん?」
 全開となった扉の外に、借り物の実験用ローブを肩に担いだ不審な男が立っている。
 グレンであった。
 扉から最も近い位置にいたシスティーナとルミアの二人と、グレンの目が合う。
 三人とも無言で硬直。
 そして、今まで半裸の少女達が妖精のように戯れる楽園はどこへやら。突如、その場に氷結地獄が展開され、時間すらも完全凍結し、全てが沈黙した。
「……あー」
 グレンは部屋の中をじっくりと見渡す。そこに女子生徒達しかいないことを確認すると、面倒臭そうに頭をがりがりかいて、更衣室の外のプレートを見やる。
「昔と違って、男子更衣室と女子更衣室の場所が入れ替わってたんだな……まったく余計なコトしやがる」
 その場に、なにやら凄まじい殺気が徐々に渦巻きつつあった。
 その抗えない流れを前に、グレンはうんざりしたようにため息をついた。
「やーれやれ。これが最近帝都で流行の青少年向け小説でよくあるラッキースケベ的な展開ってやつか? はは、まさか身をもって体験することになるとは思わなかったが」
 システィーナを筆頭に、ゆらりと少女達が動きかけた。
 グレンは、それを威風堂々と手で制した。
「あー、待て。お前ら落ち着け。俺は常日頃、こんなお約束展開について物申したいことがあってな。まぁ、聞いてくれよ。末期の水代わりに」
 少女達の動きが止まる。死刑囚も最後に何か言い残すことは許されるのだ。
「俺、思うんだが……その手の小説の主人公って馬鹿だよな? ラッキースケベ的イベントを発生させた時点で、ヒロインにボコられるのはもう確定してるのに、どうして慌てて眼を背けたり手を引っ込めようとしたりするんだろってな。たかが女の裸をちらっと一目見るのとボコられるのが等価交換だなんて割に合わねーだろ? どう考えても」
 そんな最低最悪な前口上の後、グレンはここに高々と魂の宣言をする。
「だから、俺は——この光景を目に焼きつけるッ!」
 くわ、と。グレンは目を血走らせんばかりに見開き、腕を組み、修羅の表情となって仁王立ちし、眼前に広がる肌色成分多い光景を凝視して——
「「「「この——ヘンタイ———っ!」」」」
 その日、学士二年次生二組の女子生徒達による、とある非常勤講師への目を覆わんばかりの凄惨な校内暴力事件が発生した。
 ちなみに、その日の錬金術実験は担当する講師が人事不省に陥ったため中止となった。