アルザーノ帝国魔術学院では、魔術競技祭開催前の一週間は、競技祭に向けての練習期間となっている。
 具体的にはその期間の全ての授業が三コマ——午前の一、二限目と午後の三限目——で切り上げられ、放課後は担当講師の監督の下、魔術の練習をしてよいことになっている。
「はぁ……」
 放課後。針葉樹が囲み、敷き詰められた芝生が広がる学院中庭にて。
 グレンは適当な木に背中を預けて座り込み、自分のクラスの生徒達が競技祭に向けて魔術の練習を行っているさまを、疲れたような遠目で眺めていた。
 呪文を唱え、空を飛ぶ練習をしている生徒がいる。
 念動系の遠隔操作魔術でキャッチボールをしている生徒達がいる。
 攻性呪文(アサルト・スペル)を唱え、植樹に向かって電光を撃つ練習をしている生徒がいる。
 中庭の向こう側では、システィーナとルミアがベンチに腰かけて呪文書を広げ、難しい顔で羊皮紙に何かを書き連ねており、その周りを何人かの生徒達が、あれこれ相談しながら取り囲んでいる。彼女達は競技用の魔術式の調整をしているらしい。
 グレンのクラス一同は今、一週間後の競技祭に向けて静かに盛り上がっていた。
「まったく熱心なこった……人の気も知らないで……」
 昨日までの熱血ぶりとは一転、今日のグレンはテンション駄々下がりだった。
 なにしろ見てしまったのだ。他のクラスのそうそうたる参加メンバーを。
 召喚【コール・ファミリア】の呪文でネズミの使い魔を召喚し、偵察に向かわせたのだが、他のクラスは案の定、学年でも優秀さで有名な生徒達が、複数の競技に何度も繰り返し出てくるようだ。各々尖った部分で対抗しているので、グレンのクラスの生徒達がまったく何もできずに……ということはないだろうが、そもそも地力が違う。どうひいき目にみても勝つ見込みは薄い。
 グレンの餓死の運命は、もはや冗談抜きで確定になりつつあった。
「ちくしょう、ずるいだろ……優秀な奴ばっか使うなんて、どいつもこいつも勝ちゃそれでいいって言うのかよッ!? 勝利よりも大切なものってあるだろ、くそぅ!」
 自分も参加メンバーを成績上位者で固めようと思った事実は、すでに忘却の園だった。
「ちぃ……今からでも無理矢理、編成を変えるか? 担当講師権限で……」
 今もそんな悪魔の囁きが胸の奥底から聞こえてくる。
 だが、グレンはふと、生徒達を見る。
 皆、楽しそうだった。昨日までは気後れして尻込みしていたようだが、皆、なんだかんだで少しでもいいから競技祭に参加したかったのだろう。生徒達は生き生きとしながら、自分が出場する魔術競技の練習をしていた。
 そんな光景が、グレンの古い記憶の片隅を微かに突き、ふと、思い出す。
「魔術競技祭……あぁ、そう言えば……俺がこの学院の生徒だった時も……そんなんあったような気がするな……」
 生徒達が楽しそうに練習する光景を見てグレンはようやく思い出した。この学院に魔術競技祭などという伝統行事があったことを、今の今まで本当にすっかり忘れていたのだ。
「ま、無理もねーか。俺、この学院の卒業後、とんでもなく濃い三年間を過ごしてたわけだし……なにより競技祭に参加したこと、一回もねーしな……」
 今から数年前、この学院の生徒だった頃の自分に思いを馳せる。
 その頃はすでに、魔術競技祭に参加できるか否かは成績次第という悪しき慣例が出来上がりつつあった。当時は平均以下の生徒が切られるだけだったが、平均以下の生徒だったグレンは当然、選抜から弾かれた。今思えば、同学年次の生徒達と比べ、三、四歳も年下だったグレンに対する仲間外れみたいな感情もあったのかもしれない。
 だから、いつも競技祭で楽しそうに盛り上がるクラスの生徒達を、グレンは一人、遠巻きに眺めていた。それは、ひどくつまらなくて寂しい記憶。そんなことを毎年繰り返せば三年目あたりには、競技祭に対する興味すら欠片も失せる。
 そんな暗い思い出、忘れて当然と言えば当然であった。今回、担当講師として競技祭のクラス監督をすることにならなければ、一生思い出すこともなかっただろう。
「ちっ……嫌なこと、思い出しちまったぜ……」
 毒突きながら、再び自分のクラスの生徒達が一生懸命練習している様子に目を向ける。
「はっ……ったく、ド下手くそ共が……あー、こりゃ無理だわ、無理無理……」
 多分、勝つのは無理だろう。一週間でどうこうなるとは、とても思えない。
 思えないが——
 練習する生徒達を、隅っこの方で寂しそうに眺めている生徒は——一人もいない。
「はぁ……やれやれ」
 グレンはがりがりと頭を掻きながら、立ち上がった。
「……ま、いっか」
 誰へともなく呟くその顔は、どこかさっぱりしたものだった。
「ともあれ、当面の食料はなんとか調達しないとな。特別賞与とかもう期待してねーが、餓死はごめんだぜ。この学院、シロッテの木とか生えてなかったかな……あれの小枝がありゃ、次の給料日くらいまでならなんとか……」
 そもそも昨日から水だけで何も食べていない。仕方なく、グレンが学院内の森などで食べられる野草や枝を探しに行こうとした、その時だ。
「さっきから勝手なことばかり……いい加減にしろよ、お前ら!」
 突然、激しい怒声が耳に飛び込んでくる。
「……なんだ?」
 グレンが面倒臭そうにその方向へ目を向けると、どうやらグレンのクラスの生徒達と他のクラスの生徒達の何人かが、中庭の隅で言い争っているらしかった。
「……おーい、何があったんだ?」
 放っておくわけにもいかず、ため息混じりにグレンがその場所へ向かった。件の生徒達は、今まさに相手へ掴みかからんばかりの一触即発の雰囲気を放っていた。
「あ、先生!? こいつら、後からやってきたくせに勝手なことばかり言って——」
 グレンのクラスの生徒、カッシュが興奮気味にまくし立てる。
「うるさい! お前ら二組の連中、大勢でごちゃごちゃ群れて目障りなんだよ! これから俺達が練習するんだから、どっか行けよ!」
 カッシュに相対する他クラスの男子生徒も、やはり興奮気味に言葉を吐き捨てる。
「なんだと——ッ!?」
「はいはい、ストップ‾」
 グレンは取っ組み合いを始めたカッシュと男子生徒の首根っこを掴んで、左右へ強引に引き剥がした。
「あがが……く、首が……痛たた……」
「うおお……い、息が……く、苦し……」
「ったく、くっだらねーことで喧嘩してんじゃねーよ……お前ら沸点低過ぎだろ」
 生徒達が大人しくなったのを確認して、グレンが手を離す。
 首を解放された二人がむせながら地面に這いつくばった。
「えーと? そっちのお前ら……その襟章は一組の連中だな。お前らも今から練習か?」
「え……あ、はい。そうです……その……ハーレイ先生の指示で場所を……」
 比較的大柄な生徒二人を、腕力だけであっさり制したグレンの姿に萎縮してしまったらしい。一組の生徒達は先ほどまでの威勢を引っ込め、殊勝に応じる。
「ふーん、そう……」
 がりがりと頭を掻きながら、周囲を見回す。
「うーん、まぁ、確かに俺ら、場所取り過ぎか……悪かったな。全体的にもちっと端に寄らせるからさ、それで手打ちにしてくんね?」
「ば、場所を開けてくれるなら、それで……」
 なんとなく丸く収まりそうな雰囲気に、様子を見守っていた生徒達が安堵するが——
「何をしている、クライス! さっさと場所を取っておけと言ったろう! まだ空かないのか!?」
 怒鳴り声と共に二十代半ばの男がやってくる。学院の講師職の証である梟の紋章が入ったローブを羽織り、眼鏡をかけた神経質そうな男だ。その男の名は——
「あ、ユーレイ先輩、ちーっす」
「ハーレイだ! ハーレイ! ユーレイでもハーレムでもないッ! ハーレイ=アストレイだッ! グレン=レーダス、貴様、何度、人の名前を間違えれば気が済むのだ!? てか、貴様、私の名前を覚える気、全ッ然! ないだろッ!?」
 二人の間で、このやりとりはもうすっかりお馴染みらしい。
 気楽に挨拶したグレンに、学院の講師ハーレイはもの凄い形相で詰め寄った。
「……で? ええと、ハー……なんとか先輩のクラスも今から競技祭の練習っすか?」
「……貴様、そこまで覚えたくないか、私の名前」
 ぴきぴきと拳を振るわせるが、ハーレイはつき合ってられんとばかりに話を続ける。
「ふん、まあいい。競技祭の練習と言ったな? 当然だ。今年の優勝も私のクラスがいただく。私が指導する以上、優勝以外は許さん! 今年は女王陛下が直々に御尊来になり、優勝クラスに勲章を賜るのだ。その栄誉を授かるに相応しいのは私だ!」
「あっはっは! うわー、凄い熱血すねー、頑張ってください、先輩!」
 道化じみたグレンの態度に、ハーレイは忌々しそうに舌打ちした。
「それよりもグレン=レーダス。聞いたぞ? 貴様は今回の競技祭、クラス全員をなんらかの競技種目に参加させるつもりなのだとな?」
「え? あぁ、うん、はい、まぁ、そうなっちゃったみたいっすね……不本意ですけど」
「はっ! 戦う前から勝負を捨てたか? 負けた時の言い訳作りか? それとも私が指導するクラスに恐れをなしたか?」
 グレンは困ったように頭を掻いた。
 自分はどうもこの、ハーなんとかと名乗る男に敵視されているらしい。ことあるごとに、こう一方的に突っかかって来るのだ。最初からよく思われてはいなさそうだったが、思えば非常勤講師だった頃、心を入れ替えて真面目に授業をし始めたあたりから、さらに敵視されるようになったような気がするが……その因果関係はわからない。
 まぁ、とにかく今回も適当にあしらうのが吉だろう。
「いやぁ、そうかもしれませんねー、なにせ、ハー……なんとか先輩のクラスには学年でも上位の生徒達が特により集まっていますからねー、いやー、もう、優勝は先輩のトコで決まりかもしれないっすねー、あー、女王陛下の勲章羨ましいなー」
 ひたすら道化を演じるグレンに、ハーレイは苛立ったように歯噛みする。
「ちっ……腑抜けが。まぁ、いい。さっさと練習場所を空けろ」
「あー、はいはい、今すぐ。ええと、あの木の辺りまで空ければ充分ですかね?」
 グレンはハーレイのクラスの生徒達が練習するのに必要充分だろうと思われる面積分を充分に考慮して、場所割りを提案するが——
「何を言ってる? お前達二組のクラスは全員、とっととこの中庭から出て行けと言っているのだよ」
 そんなハーレイの一方的な言葉に、その場の二組の生徒達が凍りついた。
 流石にグレンが渋面でこめかみを押さえ、抗議する。
「先輩……いくらなんでもそりゃ通らんでしょ……横暴ってやつですよ」
「何が横暴な物か」
 ハーレイが吐き捨てるように言い放つ。
「もし、貴様に本当にやる気があるのであれば、練習のために場所も公平に分けてやってもいいだろう。だが、貴様にはまったくやる気がないではないか! なにしろ、そのような成績下位者達……足手まとい共を使っているくらいなんだからな!」
「——っ!?」
「勝つ気のないクラスが、使えない雑魚同士で群れ集まって場所を占有するなど迷惑千万だ! わかったならとっとと失せろ!」
 そのひどい言い草に、グレンのクラスの生徒達はしゅんと、表情を暗くし……

 ——お前みたいな劣等生、栄えある競技祭に出場させるわけないだろう? グレン。
 ——わかったらとっとと失せろ、お前は足手まといなんだよ!

 そんな生徒達の姿が、いつか、どこか、誰かの姿に、どうにも被って……
「あぁ……ったく、もう、今日は本当に次から次へと思い出したくもねーことを思い出せてくれんなぁ……あー、やだやだ……」
 突然、意味不明なことを呟きだしたグレンが、困惑を隠せない周囲の生徒達をよそに、いきなりハーレイの鼻先へ、びしりと指を突きつける。その勢いで両袖に腕を通さず羽織ったローブがばさりと翻った。
「お言葉ですがね、先輩。うちのクラス、これはこれで最強の布陣なんすよ。やる気がない? 勝負を捨てた? ふっ、馬鹿言わんといてくれませんかね? 無論、俺達は狙ってますよ? 優勝をね。まぁ、せいぜい油断してウチに寝首を掻かれないことっすね」
 口の端を釣り上げ、グレンは不敵な笑みを浮かべている。
 そんなグレンの放つ不思議な威圧感に気圧され、ハーレイが脂汗を浮かべる。
「……く、口ではなんとでも言えるだろうな、口では。だが、事実、お前のクラスはシスティーナやギイブルといった優秀な生徒達を遊ばせているではないか……ッ!」
「ほう? なるほど……つまり、えーと……ハー? なんとか先輩は、あくまでウチのクラスの布陣を伊達や酔狂の類い、と、おっしゃりたいわけですか……?」
「そ、そうだ……それ以外の何がある! 成績上位者を使い回すのは競技祭の定石だ! 私のクラスだけはない、どのクラスも毎年やっていることだろう!?」
「くっくっく……どうやら先輩だけでなく、学院中の講師共は皆、ボンクラの無能だったようだ……まーさかまさか、成績上位者で出場枠を固めるだけで、勝てるなどと思っていらっしゃったとは……ふはーっはっはっは! 笑止!」
 ひとしきり悪役のように哄笑し、グレンはハーレイに堂々と宣言する。
「いいっすか? 先輩。俺達は全員で勝ちに行く、全員でな。目指す一つの目標の前に、誰が主力だとか足手まといとか、んなもん関係ない。皆は一人のために、一人は皆のために、だ。その一体感こそ何よりも最強の戦術なんですよ? わかりませんかね?」
「くっ……そんな非合理的な精神論が通用するとでも……ッ!?」
 だが、そんなハーレイの反論を、グレンは胸を張って切り捨てるように返す。
「給料三ヶ月分だ」
「な、何ィ……ッ!?」
「俺のクラスが優勝する、に俺の給料三ヶ月分だ」
 グレンの宣言に、ハーレイは当然、周囲全員がどよめいた。
 特にグレンのクラスの生徒達が、ぽかんとした表情でグレンを見つめている。
「しょ、正気か、貴様……ッ!?」
「さて、どうしますかね? 先輩。この賭け乗りますか? いやぁ、三ヶ月分は大きいですよねぇ? もし負けたら先輩の魔術研究が、しばらく滞っちまいますよね……?」
「ぐ……ぅ……ッ!」
 講師職にとって給料は重要な意味がある。教授職ともなれば、学院から研究費が多く下りるが、講師に回される研究費は雀の涙だ。よって、講師が功績を挙げるために自分の魔術の研究を進めるならば、その研究費は自分の給料から出さなければならない。魔術講師は高給取りのようで、実際は常にかつかつなのである。
 当然、ハーレイも三ヶ月分もの給料を失うようなリスクは避けたい。三ヶ月分の給金を失えば、その間、ハーレイの魔術研究は確実に遅れてしまう。
 負ける気はしないが、しょせん勝負は水物。どう転がるかわからない。
 それに——このグレンの妙な自信に満ちあふれた表情、余裕の態度。
 何か、策が、あるのか——?
「くっ……いいだろう!」
 だが、生徒達の手前、ハーレイもここで退くに退けないのだろう。
「私も、私のクラスが優勝するに、給料三ヶ月分だ!」
 脂汗を浮かべながら、ハーレイは忌々しそうに宣言した。
「ふっ……流石、先輩。いい度胸です。気に入りましたよ? やっぱ、そうこなくっちゃね……くっくっく……いやぁ、ごっつぁんです、せ ん ぱ い?」
 どこまでも余裕綽々に、不敵に笑うグレン。
「ちぃ……ッ! こ、この私に楯突いたこと、必ず後悔させてやるぞ……ッ!」
 恨み骨髄とばかりに、ハーレイはグレンを烈火のごとく睨みつける。
 そんな二人の様子を、はらはらしながら見守る生徒達。
 そして。
(……やっちゃった————ッ!?)
 表面上、不敵な表情を見事に保ったまま、グレンは心の中で頭を抱えていた。
(うちのクラスの生徒達バカにされて、なぜかイラッとして、ついやっちゃったけど、おいおい、どうすんのコレ? 冗談じゃねえ! いっくらなんでも三ヶ月断食とか保たねーぞ、俺死ぬぞ? 東方の仙人じゃあるまいし……ッ!)
 要するに、威風堂々たる態度でグレンは戦々恐々としていた。
 策? そんなものは当然、ない。
「おのれ、グレン=レーダス……貴様という男は……ッ! 魔術師としての誇りも矜恃もない、たかが第三階梯(トレデ)の三流魔術師がこの私を愚弄するなど……ッ!」
(うっわー、怒ってらっしゃる……めっちゃ怒ってらっしゃるがな……あっはっは、やっべえ、どうしよ!?)
 グレンは思わず売り言葉に買い言葉で喧嘩を売ったことを今、激しく後悔していた。
(よし……土下座だ。こうなったら、土下座しかねえ。今から一生懸命、心を込めて謝ればきっと許してくれる——いざ、目で見よ! 俺の必殺固有魔術(オリジナル)【ムーンサルト・フライング土下座】を——)
 グレンが見栄もプライドも恥も外聞も全てまとめて大遠投しようとした、その時だ。
「そこまでです、ハーレイ先生」
 凜と涼やかに通る声が、グレンの機先を制してハーレイの言葉を封じた。
「それ以上、グレン先生を愚弄するなら、私が許しませんから」
 声の主は、いつの間にか駆けつけてきたシスティーナだった。
(なんてタイミングで出てきやがんだ、この白猫ぉ——ッ!?)
 グレンは泣きたくなってきた。
「貴様、システィーナ=フィーベル!? あの名門フィーベル家の……くっ!?」
 ハーレイはシスティーナの介入に明らかな狼狽を見せている。
「そもそも、練習場所に関する貴方の主張にはどこにも正当性がありませんし、グレン先生に対する侮辱行為も不当です! これ以上、続けるなら講師として人格的に相応しくない人物がいることを学院上層部で問題にしますが、よろしいですか?」
「ぐぅ……ッ!? こ、この親の七光りがぁ……ッ!」
 明らかに余裕をなくしたハーレイに、システィーナは余裕の笑みを向ける。
「今、ここでそんな低俗な争いをせずとも、グレン先生は逃げも隠れもしません。一週間後の魔術競技祭で正々堂々とハーレイ先生率いるクラスと戦うでしょう……」
 そして、どこか嬉しそうな、期待に満ちた表情でシスティーナはグレンに振り向いた。
「ですよね、先生!?」
「お、おう……」
 としか言えなかった。ここで違うとか言ったら単なる極悪人である。
「くそ、覚えていろよ、グレン=レーダス! 集団競技になったら、まずお前のクラスから率先して潰してやるからな! 首を洗って待っていろ!」
(なんでこんなにハードル上がっていくの? 誰か助けて……)
 と、心の中で涙をさめざめと流しつつも——
「おととい来やがれ」
 親指を下に向け、首をかっ切る仕草と共にメンチを切るしかない。この世の中には抗えない流れという物があるのだ。
 鼻を鳴らし、忌々しそうに肩を怒らせながら去っていくハーレイ。
 一難は去ったものの、残された超特大の爆弾に、グレンはがっくりと首を落とした。
「……少し、見直したわ」
 そんなグレンにシスティーナが声をかける。その銀髪の少女は髪を掻き上げ、あさっての方向を向いている。心なしか頬に赤みが差しているようだ。風邪だろうか?
「まさかそこまでして、私達の練習場所を守ってくれるなんて……いざという時には、体を張ってくれる人だって知ってはいたけど……ほら、先生って……やっぱり普段が普段だし……そういうところを改めて見ると……その……」
「別にお前らのためじゃないんだがな……」
「ふふっ、謙遜?」
 もちろん、謙遜とかではなく、紛れもない事実である。
「代償を賭して己が技を競い合うは魔術師の華……うん、やっぱり先生も根っから魔術師だったんですね!」
(なんで嬉しそうなんだ? こいつ……)
「いいですよ、任せてください先生! 先生がここまで私達のことを信じてくれているんだもの、私達は絶対に負けないんだから! ね、そうでしょ、皆!」
 システィーナのあおりに、クラスの生徒達皆が力強く頷いていた。
(お前ら、どこにそんな根拠があるんだ……失う物がない奴は気楽だな、ちくしょう)
 そも、全て自業自得なのだが、グレンは全力で知らないふりだった。
 珍しくグレンへ、ご機嫌な笑みを向けるシスティーナ。
 そんなシスティーナへ、恨めしそうに引きつった笑いを向けるグレン。
「なんか……かみ合ってないような気がするなぁ……なんでだろう?」
 そんな二人の様子を、ルミアは苦笑いで眺めていた。

 魔術競技祭、練習期間の日々が過ぎていく。
 なんだかんだで誰もが参加したかった競技祭に(成り行き上)参加させてくれて、(表面上は)生徒達のことを考えてくれている(ように見える)グレンに対する求心力は、思った以上に高かったらしい。
 グレンのクラスの生徒達は実に士気が高く、勝つために一生懸命、魔術の練習と勉強に励んでいた。そこには、もはや他クラスの成績上位陣に対する負い目も気後れも、女王陛下の前で無様に負けるかもしれないことに対する恥も外聞もない。
 皆、一生でたった一度の、二年次生の部の魔術競技祭に対して必死だった。
 一方で、グレンも生徒達のその熱意によく応えた(座して飢え死ぬわけにもいかないから)。どこか鬼気迫るような熱心さで、生徒達の練習と勉強につき合った。
「えーと、『グランツィア』……今回は三人制、か。クラスの数だけチームがあるから、合計十チーム。だが、競技祭進行の都合上、総当たり戦やトーナメントなんかをいちいちやってる時間はないから、当日、クジで決められた一つの相手チームとの一発勝負、その得失点差がクラスの点数となる……ふむ」
 グレンが今回の競技祭のルール冊子とにらめっこしながら、ぶつぶつ呟いている。
 その日、グレンは教室で、競技種目の一つ『グランツィア』——魔術師の伝統遊戯である結界陣取り合戦——の参加生徒達に作戦指導をしていた。
「この条件なら……よし、いいか、お前ら。条件起動式を使え」
 何を思いついたのか、グレンが冊子から目を離し、参加生徒達——アルフ、ビックス、シーサーの三人を見回した。
「グランツィアが、結界を構築する速度が重要なのはわかるよな? で、だ。よそのクラスをちょいと使い魔に偵察させてきたんだが……間違いなくお前らより構築速度が速い。どのクラスも結界構築速度を極限まで高める方向で練習してる。で、こんな連中とまともにぶつかったらあっという間に陣地食われて終わりだ」
 じゃあどうするのか、と三人の生徒達が顔を見合わせる。
「そこで対抗する手段が条件起動式だ。条件起動ってのは、対象とする場や物に初期設定した条件が達成されたとき、自動で術を起動するパッシヴな魔術起動法だ。今回はこいつを使う作戦を取る」
「条件起動式……ですか」
 条件起動式、と聞いて生徒達が苦い顔で眉を潜める。
 実は魔術師にとって条件起動式はあまり良いイメージがないのだ。
「まぁ、良い顔はしないだろうとは思った。条件起動式なぞ、この間、魔導戦術論の授業で教えたとおり、昔から呪い(カース)や制約(ギアス)に散々使い古されてきた悪名高き術式だ。『○○しなけりゃ、お前は死ぬ』ってな感じでな……まぁ、それは忘れろ」
 気を取り直して、グレンが解説に戻る。
「条件起動式の復習をするぞ? この式の利点はいったん術式を組んでしまえば、起動は自動になること、あくまで魔力励起させない起動前待機状態のため、相手に物凄くバレにくいこと。欠点は起動のタイミングを自分で選べない、起動タイミングが相手の行動依存になってしまうことだ」
 グレンが作戦を黒板に書いていく。
「三人制のグランツィアなら、二人のオフェンスと一人のディフェンスに分かれ、二人が結界構築による陣取り、一人が相手の陣地を潰すのが定石だな? だが、お前達は三人ともディフェンスだ。相手が構築した陣地を潰すフィールド・ブレイクだけに専念しろ。作るのに比べて潰すのは簡単だしな」
「でも、それじゃ勝てないんじゃ……」
「そうですよ、それじゃどんなに頑張ったって引き分けしか……」
「引き分けを狙っている、と思わせるんだ」
 こんな搦め手はやりたくねーがな、とグレンは頭をボリボリ掻く。
「言いたかないが、相手にとってお前らは格下だ。連中のプライド的には引き分けなんて許せないはずだし、得失点差がクラスの得点になるというルールの性質上、点数的に大差をつけて勝ちたいはず。なら、引き分けの膠着状態が続けば、連中は必ずアブソリュート・フィールドの構築に手を出す」
「結界構築に手数がかかるけど、いったん構築されたら手出ししてはいけないっていうアレですか?」
「あぁ、そうだ。それも高得点を得るために必要以上にデカく作ろうとするだろう。そこで、だ。お前達は『敵が一定得点以上のアブソリュート・フィールドを構築』、それを起動条件とした超広域を制圧する条件起動結界の仕込みをしておくんだ……相手の妨害をしながらな。敵もまさか引き分け狙いをやっていると思っていた格下相手が、一発逆転で大量得点による圧勝を狙ってるとは思うまい……多分」
 言葉尻が、ほんの少しだけ自信なさそうなグレンだった。
「まさか、サイレント・フィールド・カウンターですか!?」
「そんな高等戦術、僕達にはとても……」
「でも、やるしかねーぞ? まともにぶつかりゃ百パーセント負けるだけだ」
 厳然たる事実を突きつけられ、生徒達は押し黙った。
「とはいえ、相手に冷静になられると負ける。相手が確実に勝とうと小さくアブソリュート・フィールドを作り始めたらアウトだ。起動条件が満たされない。かと言って、その小さなフィールドを起動条件にしてもたいした点にはならん。条件起動の起動効果限界は条件の達成難度に左右されるからだ。残り時間によっては簡単にひっくり返される」
 かかかっ、とグレンがチョークを走らせ、黒板に作戦の概略図を書いていく。
「要は相手が大技に頼らざるを得ないように、いかに相手の構築したノーマル・フィールドを迅速に潰すかに、この作戦の成否がかかっている。てなわけで、お前らは特にフィールド・ブレイクの練習をするんだ。てかもう、ぶっちゃけそれだけやってろ。わかったな?」
「わ、わかりました、先生!」
 そんなグレンの様子をシスティーナとルミアは遠巻きに眺めていた。
「ずいぶん熱心ね……あいつ、本当にこの四十人全員で勝つ気なんだ……」
「ねぇ、システィ。あんな風に真剣な顔で何かに取り組む先生の横顔って、やっぱり格好いいよね?」
 感心したような表情のシスティーナに、ルミアが嬉しそうに笑いかける。
「……別に? 大体、あいつ、普段だらしないんだから、たまにはああして真面目になってくれないと困るわよ」
「ふふ、素直じゃないなぁ」
「……ど、どういう意味よ?」
 しかし、それでも一つだけ、二人には解せないことがあった。
「でも、グレン先生って……なんで日を追うごとにやつれていってるんだろう?」
「うーん……ひょっとして風邪かしら?」
 この魔術競技祭絡みの一件における最大の謎だった。

 そんなこんなで、瞬く間に一週間が過ぎた。
 今日はアルザーノ帝国魔術学院、魔術競技祭、開催当日。
 そして、アルザーノ帝国女王アリシア七世を来賓として学院に迎える日である——

第二章 魔術競技祭、開催

 山の稜線から顔を覗かせる曙光が、薄闇のヴェールを払い始めた早朝。
 朝靄漂う中、帝国北部イテリア地方と南部ヨクシャー地方を結ぶ街道上を南下する馬車があった。雄々しく逞しい馬四頭に牽引されるその馬車は、要所要所に金銀細工のリレーフが施され、いかにも貴人専用といった豪奢なしつらえとなっている。
 それを裏付けるかのように馬車には翼を広げた鷹の紋——帝国王室の紋章があった。ロイヤル・ホースカート。王室に縁ある者達のみが乗車を許される由緒正しき馬車だ。
 その四方を軍馬に騎乗した衛士達が固めている。盾と翼の文様をあしらった緋色の陣羽織、腰には細剣(レイピア)。帝国軍において、特に王室の貴人達を守護することを主任務とする王室親衛隊の衣装だった。
 王室親衛隊とは、高度な剣術と一通りの軍用魔術を修めた帝国軍屈指の精鋭である。それゆえに親衛隊に所属する衛士達は皆が皆、選ばれた者としての誇りと尊き王室の守護者としての使命感を抱き、鋭い覇気に漲っている。
 そして、最も馬車の扉に近い位置に、周囲の親衛隊の面々とは纏う風格も、放つ眼光も一際違う武人がいた。やや白髪交じりの黒髪に髭、鋭い眼光、あちこち肌を走る古傷がいかにも歴戦の古強者を思わせる男だ。
 王室親衛隊、総隊長ゼーロス。すでに初老の域にさしかかっているものの、四十年前の奉神戦争を戦い抜くことで鍛え抜かれたその士魂には微塵の陰りもなかった。
 ふと、周囲に鈴鳴りのような金属音が響き渡った。それを聞いたゼーロスは腰袋に手を入れ、中から半割れの宝石を取り出し、それを耳に当てる。
「報告せよ」
 威厳と重圧感あふれる声色でゼーロスが言った。
『はっ! 第五班、第六班は本隊のおよそ一キロス先を先行、現在、その周辺地域の歩哨中。なお、現時点において野盗、魔獣の類いの姿はございません』
 すると、宝石から先発隊からの状況報告が聞こえてくる。
「うむ、ご苦労。だが、抜かるな。主要街道周辺は軍が定期的に街道整備を行い、いまや民草らが護衛なしで行き交える時代になったとはいえ、今、我々が随伴している御方は女王陛下なのだ。それをゆめ忘れぬよう、己が義務と忠誠を尽くせ」
『はっ!』
 通信を切り、宝石を腰袋に戻すと、ゼーロスは再び周囲に油断なく注意を払い始める。
 怪しき者が近寄らば、斬る。いざという時には己が身を盾にするのみ。
 そんな、涼やかながら確固たる裂帛の意思。
 ゼーロスと王室親衛隊が守る限り、馬車の中の貴人に危害がおよぶ事態など万が一にもありえない——見る者に自然とそう思わせる威風堂々ぶり。
 そんな忠義の衛士達の頼もしい雄姿を、その女——アルザーノ帝国女王アリシア七世は馬車の中からカーテンレースごしに見つめていた。
 アリシアは長く艶やかな金髪をアップにまとめた、優しげな瞳の淑女だった。ごく自然に周囲の者達の背筋を正させるような高貴さと気品、それでいて悪戯に周囲を委縮させない穏やかな気質を持ち合わせている。すでに御年三十代も後半だというのに、かつてアルザーノの白百合と謳われたその美貌に衰えはなく、ますます磨きがかかったようでさえある。そんなアリシアの本日のお召し物は、王室の権威を象徴する装飾煌びやかなロイヤル・ドレス——女王の公的な正装——ではなく、黒とベージュを基調とした簡素な外出用ドレス。だが、それでも人物の内面に秘められた品位品格を隠しきれてはいなかった。
「もうすぐ……フェジテに到着になりますわね、陛下」
 アリシアの隣に腰かける二十代半ばほどの女が声をかけた。ヘッドドレスにエプロン、ガーターベルトなどと言った使用人服に身を包む、黒髪黒瞳の女性だ。
 彼女の名はエレノア。女王アリシアの身の回りの世話を務める侍女長、政務を補佐する秘書官、そして護衛までをも兼任する才女である。かつて、アルザーノ帝国大学政経学部を主席で卒業し、剣術や魔術の腕も超一流と鳴らしていたエレノアはその能力を買われ、女王の補佐役に抜擢。今や上級貴族の一角たる四位下の官位に就き、公私において女王を支える存在となっていた。
「ええ、そうですね、エレノア。あの学院に顔を出すのは久しぶりですわ」
 アリシアは艶然と微笑み、窓から馬車の進行方向へと視線を移す。見渡す限りの牧草地帯、左方に大きく緩やかに婉曲する街道の先に微かに見え始めたフェジテの市壁と——その行き先を象徴するかのように、空に浮かぶ幻の城の偉容があった。
「しかし、学院の転送法陣さえ、あの忌々しい組織に破壊されていなかったら、陛下がこのようなお苦労をなさることなどありませんでしたのに……」
 転送法陣とは、離れた場所と場所を繋いで一瞬で移動することを可能とする、超高等儀式魔術を補助する魔導施設である。敷設に適した土地の霊脈の関係上、世界中のどこにでも自由に敷設できる代物ではなく、おまけに敷設には莫大な金と時間がかかる上に、法陣を活用できるのは魔力操作に長けた人間——魔術師だけという欠点もある。
 だが、それでも都市間移動を駅馬車や徒歩、船に頼るこの世界では便利極まりない代物だ。近年開発された蒸気機関という新しい動力源を利用した鉄道列車の整備も現在、政府の開発条項にあがっているが、実用化はまだまだ当分先、転送法陣に代わる物ではない。
 アルザーノ帝国魔術学院にも、帝都オルランドと学院を繋ぐ転送法陣があったのだが、この転送法陣は一ヶ月ほど前、学院を襲ったテロ事件の際に破壊されており、いまだ復旧のめどは立ってない。ゆえに女王が帝都からフェジテに赴くには、このように馬車を使い、何日間もかけて移動するしかなかった。
「いいんですよ、たまには」
 エレノアの憂いに満ちた言葉を受け、アリシアはいたずらっぽく笑いながら人差し指を口元にあて、ウインクした。もう良い歳だというのに、どこか童女のような雰囲気のあるアリシアには不思議と似合った仕草だった。
「こうして帝都の王宮から出て、政務を離れ、外の世界を見るのも楽しいものですよ。それに、たまには口うるさい爺やから離れて羽を伸ばすのも悪くないですし」
「はぁ……陛下ったら……それを聞いたらエドワルド郷がまた泣かれますわ」
 公的な場では非情に厳粛で、威厳と威光に満ちあふれ、まったく隙のない傑物として諸国に知られているアリシアだが、エレノアは自分の仕える主君が私的な場では意外と茶目っ気あふれた子供っぽい人物であることを知っている、数少ない人物の一人だった。
「それにしても……ご機嫌ですね、陛下」
「ふふっ、わかりますか?」
 アリシアは遠い目で窓から馬車の行く先を見据える。
「娘に……三年ぶりに会えるかもしれないんですもの」
「エルミアナ王女殿下……ですね」
 だが、アリシアの期待を、エレノアは申し訳なさそうに諫める。
「陛下、お気持ちはお察しいたしますわ。ですが……」
「わかっています。みだりな接触は避けるつもりです。遠くから……遠くから、ほんの少しでもあの子の元気な姿を見ることができれば、それで充分ですから……」
 でも……もし、できるのなら——アリシアは声にならない言葉を呟き、胸元に下がっているロケット・ペンダントを手にした。楕円形の真鍮製で、由緒正しき王家の人間ともあろう者が身につけるには、えらく簡素な作りだった。
 アリシアがロケットの蓋を開くと、中には射影機で撮像されたモノクロの肖像が入っていた。アリシアと、その両脇にアリシアの面影を感じさせる二人の幼い少女が仲むつまじく並んでいる構図。その少女達の片方は——三年前、自分がこの手で放逐した少女だ。
「陛下、それは?」
「だめですね……捨てられないんです。私はこの国を導かなければならない女王なのに、あの子には何もかもを捨てさせたのに、私は……これでは女王失格ですね」
 アリシアは自嘲気味に言った。
「そんなことはありませんわ。陛下は派閥と権謀術数入り乱れるあの魔窟のような帝国政府をよく御しておられます。陛下なくしてはこの国は立ち行きません。それに……貴女はアルザーノ帝国の女王であると同時に、母親でもあるのですから……」
「……でも、あの子はきっと私のことを恨んでいるのでしょうね」
 小さく嘆息し、アリシアはロケットの蓋を閉じた。
 そんなアリシアの様子を見てとったエレノアは、神妙な面持ちで進言する。
「ご無礼を承知で進言させていただきますわ、陛下。よろしいでしょうか?」
「なんですか?」
「そのロケット・ペンダント……もし、万が一のことがあれば問題になります。フェジテに御参着の際には、置いていくのがよろしいかと存じ上げます」
「そうですね。世の中ままならないものですね……でも、どうしましょう? 何か代わりの装飾を用意しないと……エレノア」
「はい、わかりました。今、お召し物に合う物をお探しいたしますわ」
 エレノアは座席の下から宝石箱を取り出し、それを物色し始める。
 しばらくして、エレノアはネックレスを一つ、宝石箱から取り出した。
 翠緑の宝石が納まった金色細工だった。
「ふふ、陛下。これなどいかがでしょうか?」
「あら、綺麗。でも、初めて目にするものですね。一体、どうしたんですか? それ」
「ええ、陛下に相応しいとても良い一品でしたので、先日、知り合いの宝石商から新しく入手しておいたのです。きっと、今の陛下のお召し物にお似合いですわ」

 ——夢を、見る。
 それはルミアにとっては、もう何度見たかわからない夢。
 だから、ああ、またあの夢だ……と胡乱な意識の中、ルミアは漠然と思った。
「ひっく……ぅう……お母さん……お母さん……」
 一筋の光も差さぬ、塗り潰したかのような真っ暗闇の中、幼い自分は泣いている。
「やだよ……捨てないでよ……わたし、いい子にする……いい子にするから……もう、わがまま言わないから……わたしのこと、嫌いにならないで……」
 幼い頃の私にとって母は私の世界の全てだった。だから母から捨てられた私は、世界の全てから嫌われてしまった、要らない子になってしまった、そんな風に感じていた。
 それでも恐る恐る周囲を見渡す。私を冷たい目で追放した母親の姿を探すかのように、誰か私の味方をしてくれる人を探すかのように。
 だが、代わりにその目に飛び込んで来たのは——
「ひぃ——ッ!?」
 死体だった。血塗れの死体が自分の周りに、いくつも転がっている。母に捨てられたと思って僻み、お世話になっていた家の人達に毎日当たり散らしていたら、ある日、突然、私をさらった、悪い魔法使いの人達の死体だ。
 きっと、私のことを嫌いになった母親が、捨ててもなお悪い子のままでいる私を殺そうと差し向けたのだ。なぜ、その魔法使い達が死んでいるのかはわからないけど……その光景はまるで、お前に味方してくれる人は誰もいない、世界からそう突きつけられたかのようで……未来の自分の姿を暗示しているかのようで。
「ぁ、あ、あ、ああああ——ッ!?」
 怖い。怖い。怖い。感情が振り切れる。
 捨てられた悲哀も、さらわれた恐怖も、血と死体の気持ち悪さも。
 あの時の私は、何もかもが限界だった。
「もう、嫌ッ! 嫌ぁあああ——ッ!」
 頭を抱えて私は泣き叫んだ。
「なんで……ッ!? どうして、わたしばっかりこんな目に!?」
 暗闇の中、ただ一人ぼっちで私がわめいていると——
「……泣くな。静かにしろ」
 背後でぞっとするような、暗く、低く、冷たい声。
 反射的に首だけ回して振り返ると、そこには、黒髪、黒瞳、黒い外套、全身黒ずくめの男の人がいて、昏く冷え切った瞳で私を見下ろしていた。
「——ひッ!?」
 心臓が止まるかと思った。今まで理解を拒んでいた頭が瞬時に状況を理解した。
 そう、あの悪い魔法使い達を殺したのはこの人だ。
 この人が変な紙切れを取り出したら、なぜか悪い魔法使い達は皆、あの怖い魔法が使えなくなって……そして、この人は鉄砲とかいう恐ろしい武器で、悪い人達を一方的に射殺したのだ。最後は皆、命乞いすらしていたのに、この人は微塵も容赦しなかった。
 そして——きっと、次は私の番なのだ。
「い、いやぁあああああああッ!? やだ、助けて!? 誰か、誰か助けて!?」
「うわ、しまった!? な、泣くな!? 俺はお前の味方だ! 味方!」
「嘘ッ! 私に味方してくれる人なんているわけないもん! この世界で私に味方してくれる人なんていない! お母さんも、お母さんすら私を捨てたのに——むぐッ!?」
 その人は咄嗟に私を床に組み敷き、手で私の口を塞いだ。
 その瞬間、あまりもの恐怖に心臓が破裂しそうなほど跳ね上がった。私の背筋を氷の刃で刻まれたような悪寒が痛みすら伴って駆け上る。小船を翻弄する嵐のような狂乱、次第に空白へと淀んでいく思考の中、私は死に物狂いで暴れたが、手足は完全に押さえつけられ、何もできなかった。
 殺される、いよいよ殺される。死にたくない。助けて、誰か助けて。
 いやだ。こんな所で一人ぼっちで死ぬのは嫌だ、嫌だ、嫌だ——
 ——だけど。
「俺は、お前の、味方だ」
 ゆっくりと、一言一言、言い聞かせるように紡がれたその言葉に。
 訴えかけるように必死な、真摯なその眼差しに。
 私の狂乱は少しずつ、引き潮のようにゆっくりと、落ち着いていく。
「……ッ……ッ…………ッ!」
 それでも恐怖は消え去らない。心臓が破れそうなほどの動悸は治まらない。ぼろぼろ涙があふれる。だって、この人がさっき私の目の前で、血も涙もなく人を殺したのは事実なのだ。私はこの人が怖い。たまらなく怖い。怖くて死んでしまいそうだった。
 けれど、その人はそんな恐怖に震える私を、ほんの一瞬だけ悲しげに揺れた瞳で見つめて、そして、言った。
「頼む。敵は外にまだ残ってる。お前がそんな調子じゃとても切り抜けられない」
「……ッ!」
「俺のことをいくら怖がろうが、嫌おうが構わない。だが、もし、お前が泣きやんでくれるなら————……」

 …………。
「ルミアー? ほら、そろそろ起きないと……」
「……むにゃ?」
 ゆさゆさと揺さぶられ、ルミアの意識が夢の中から現実世界へ舞い戻る。
「あれ? …………ええと」
 ルミアが寝ぼけ眼をうっすらと開ければ、そこはシスティーナと共同で使っている、いつものフィーベル邸の一室だ。華やかな文様が描かれた絨毯、壁の燭台、磨かれたオーク材の机に椅子など、部屋に据えられた調度品の数は控えめだが、どれも品が良い。
 自分はゆったりと丈の長いネグリジェ姿で、ふわふわの羽毛布団を抱きしめ、ベッドの上で寝そべっている。
 そのベッドのそばにはシスティーナがいた。今日のシスティーナが普段の学院制服姿に加え、その細腰に革の剣帯を巻いて、曲線状の鍔を持つ柄(スウェプト・ヒルト)が美しい細剣(レイピア)を佩剣するという魔術師の伝統的な決闘礼装なのは、今日が魔術競技祭当日だからだろう。
 ゼンマイ式の壁かけ時計へ目を向ける。朝の七時過ぎだ。窓から差し込む朝の陽光と、カーテンを揺らしながら吹き込む爽やかな風。本日はよい日和になりそうだ。
「……早いね、システィ」
「ほら、まぁ、私はその、やることあったから……そんなことよりもほら、今日は魔術競技祭なんだし、お父様とお母様は仕事でいないし、もう起きなきゃ」
「うん、そうだね……」
 ふわ、と小さくあくびをしてルミアは身を起こした。
「私、下で待ってるから。……二度寝しちゃだめよ?」
「……しないよー」
「と、言って二度寝したことが今まで三回あったわよ」
「あはは、そうだっけ?」
 互いに苦笑いを交わしながら、システィーナは部屋から出て行き、ルミアはベッドからのそのそとした動作で降りる。絨毯の柔毛がルミアの足の裏を微かにくすぐった。
「久しぶりにあの夢、見たなぁ……」
 ルミアはまだ少しはっきりしない頭のまま、夢の内容に思いを馳せた。
 今からおよそ三年前、エルミアナとして生きていた今までの人生を全て否定され、ルミアとして生きていくことを余儀なくされ、フィーベル家に引き取られた頃の話。
 母親から捨てられたという負い目から、何もかもが信じられなくなり、この世界に自分の味方はいない、自分は一人ぼっち、自分は世界で最も不幸な子、と荒れていた頃。
 ルミアはシスティーナと間違われて誘拐され、そして、グレンと出会った——
「どうして今になってまた、あの頃の夢を見るんだろう……?」
 もう、全て吹っ切ったはずだ。
 考えようによっては母親がしたことはルミアにとって悪いことばかりではなかった。システィーナと友達になることができたし、なにより自分を助けてくれたグレンと出会うことができた。グレンがあの時の出会いのことをすっかり忘れているのが、ほんのちょっとだけ不満だけど、それでも今の自分はあの頃よりも前向きに生きている。エルミアナとして何不自由なく生きていた頃とは違い、人生に新しい目標もできた。
 全て、吹っ切ったはずなのだ。
「……ううん、吹っ切ったって……思いたいだけなのかな……?」
 なんとなく、またこんな夢を見た原因には心当たりがある。
 今日、学院にあの人が——かつて、自分を捨てたあの人が来るのだ。夢の中の出来事を体験する切欠、全ての元凶が、今日、学院にやって来る。どうやらその事実は自分にとって、思っていた以上の心労だったらしい。
「…………」
 ルミアはベッド横に据えてある小さな丸テーブルの上に置いてあった楕円形の真鍮製ロケットを手に取り、その蓋を開く。中には何も入っていない。否、正確には、かつてそこには何かが入っていたらしく、その何かが剥ぎ取られたような痕が残るのみだ。
 ルミアはしばらくの間、無言でそれを見つめ、やがて何かを振り払うかのように、軽く頭を振りながら、その蓋を閉じた。
 ロケットに繋がる鎖の端を両の手でつまみ、首の後ろに回して留め具を合わせる。
「よし、今日は頑張ろう」
 一つ、小さく気合いを入れて、ルミアは自分の衣類が納められたクローゼットに向かって歩き始めた。