いよいよ女王陛下を歓待するその時が近づいていた。
 魔術学院正門前は、女王陛下の行幸を出迎えるため、学院関係者でごった返していた。正門から本館校舎の来客用正面玄関に向かって人垣の道ができている。先発で到着した王室親衛隊の面々が周囲に目を光らせ、あふれかえる生徒達を仕切っていた。
 今や、その場に集う学院関係者の全てが、緊張した面持ちで女王陛下の到着を今か今かと待ちわびていた。
「ていうか……本当に陛下、今日来んの?」
 そんな人垣を構成する一角、緊張に満ちたこのような状況にも関わらず、ただ一人グレンはいつもの調子で、すっとぼけたことを呟いていた。
「貴方、いまさら何、馬鹿なこと言ってるのよ!?」
 グレンの左隣に並ぶシスティーナが呆れたようにグレンをたしなめる。
「あはは、ちゃんとお越しになられるはずですよ? 陛下はこういうこと、大切にするお方です。ほら、民の様子を視察するためによく各地を巡歴なさっていますし」
 グレンの右隣に並ぶルミアも苦笑いするしかない。
「いや、だってさぁ、帝都からここまでめっちゃ遠いじゃん? 転送法陣も今は使えねえし……俺が陛下だったら絶対、面倒臭くて来ねぇ」
「アンタみたいな出不精と女王陛下を一緒にすんなッ! 不敬でしょうが!」
 ぺちん、とシスティーナはグレンの背中をはたいた。
 すると、たいした力を加えたわけでもないのに、グレンがよろめいた。
「……先生!?」
 とっさにルミアがよろめくグレンへ駆け寄り、脇下に腕を入れて支える。
「っとと……すまん。つーかさ、来るならさっさと来て欲しいんですけど……俺、もう、こうやって立ってるだけで限界……は、腹が……」
 と、その時だ。
「女王陛下の御成りぃ~ッ! 女王陛下の御成りぃ~ッ!」
 人垣の道の中央を、馬に騎乗した衛士が叫びながら駆け抜けて行く。
 それを受け、待機していた楽奏隊が歓迎のパレードマーチを演奏し始めると、生徒達一同は大歓声を上げながら盛大な拍手を巻き起こした。
 音の爆音が辺り一帯を支配する。やがて、人垣でできた道の間を護衛の親衛隊に囲まれた豪奢な馬車が悠然と進んで行く。女王アリシア七世が窓から身を乗り出して、生徒達の歓声と拍手に応えるように手を振ると、さらに拍手と歓声の音量が上がった。
 そんな、盛況ぶりの最中。
 ルミアは音のない異世界にただ一人取り残されたかのように、その光景を遠い目で眺めていた。女王を讃える歓声も、拍手の渦もまるで耳に入っていないようだった。
 無意識のうちにルミアの手は首にかけられたロケットを探り当て、それを開く。
 中には——やはり、何も入っていない。
「どうしたの? ルミア」
 すると、親友の様子に気付いたシスティーナが、心配そうにルミアに声をかける。
「それ……ロケット? ……中に何も入ってないみたいだけど?」
 システィーナに手元を覗き込まれたルミアは慌ててロケットを閉じ、首を振った。
「あ、あはは、なんでもない、なんでもないよ?」
 そして、取り繕ったかのように歓迎パレードの方へ目を向ける。
「それにしても、女王陛下って相変わらず凄い人気だよね……それに、とてもお綺麗な人だし……なんか憧れちゃうなぁ……」
 システィーナはそんな不自然なルミアの様子に、確信した。
「ルミア……やっぱり、貴女……」
 ルミア=ティンジェルは本名ではない。ルミアの本当の名前はエルミアナ=イェル=ケル=アルザーノ。帝国王室直系の正当な血筋を引く、元・王位継承権第二位——つまりはアルザーノ帝国の王女様だ。
 ルミアは本来ならば、このような場所にいるはずのない貴人なのだ。だが、三年前、ルミアが『感応増幅者』と呼ばれる先天的異能者であることが発覚し、様々な政治的都合から表向きは病で崩御なされたとして、その存在を抹消されたのである。
 その裏事情はとても複雑だ。
 アルザーノ帝国王家の始祖は、隣国のレザリア王国王家の系譜に連なっている。それゆえにアルザーノ帝国とレザリア王国は、互いの国家の統治正統性や国際権威上の優位性について、常に揉めに揉めてきた関係だ。おまけに帝国王家の統治正統性を保証する帝国国教会を、レザリア王国を事実上支配する聖エリサレス教会教皇庁は異端認定しており、両教会の関係もすこぶる悪い。
 そんな中、帝国王室の血筋から悪魔の生まれ変わりであると、いまだ広く堅く信じられている異能者が生まれてしまったことが明るみになりかけたのだ。
 もし、エルミアナの存在が外部に漏れれば国内混乱は避けられず、神の子孫であるとされる帝国王家の威信は地に落ち、常に帝国の併合吸収を狙うレザリア王国や聖エリサレス教会教皇庁が知れば、第二次奉神戦争勃発の引き金にすらなりかねない。
 アルザーノ帝国は良くも悪くも神聖なる王家に対する民衆の絶対的な威信でもっている国である。エルミアナの存在は帝国を根幹から揺るがしかねない猛毒だったのだ。
 そのためエルミアナ王女は表向き病死とされ、密かに処分されることが決定した。国家を背負い立ち、国民を守らねばならない女王と帝国政府の苦肉の決断だった。
 そして、様々な思惑と権謀術数の果てにエルミアナ王女——ルミアは今、こうしてシスティーナのそばにいる。
 システィーナもつい最近までルミアのそんな壮絶な素性など露ほども知らなかった。両親がどこからか引き取ってきた身寄りのない子、そんな風に思っていた。しかし、一月ほど前に起きた事件の後、事件解決の功労者の一人として、ルミアにもっとも近しい人間の一人として、システィーナはルミアの素性を帝国政府の上層部から極秘に聞かされた。事情を知った上でルミアの秘密を守る民間の協力者となることを要請された。
 そして、そんなルミアの素性を知っているからこそ、システィーナは今のルミアの心境が容易に想像できた。
「ねぇ、ルミア。……大丈夫?」
 システィーナはルミアに寄り添い、ルミア以外の誰にも聞こえないように囁いた。
「ん? それってどういうこと? システィ」
 同じくひそひそ声で返すルミアの様子はいつも通りだ。
「えと……ほら、ルミアの本当のお母様って……ほら……」
 どこに誰の耳があるかはわからない。公の場で決定的な言葉を紡ぐわけにいかず、システィーナは言葉を濁した。だが、流石は姉妹同然の親友同士、ルミアはシスティーナが一体、何を言いたいのかを簡単に察した。
「心配してくれてありがとう、システィ。でも、うん、私は大丈夫だよ。だって私の本当の両親はシスティのお父様とお母様だもの」
「……そう」
 複雑そうな表情でシスティーナは親友の横顔を見つめる。
「それじゃあルミアは……もう、本当のお母様には……その、なんの未練も?」
「うん……だって私、幸せなんだよ? システィとお父様とお母様と一緒で、皆、凄く良い人で……」
 ぎゅっと、ルミアはロケットを握りしめながら儚く笑った。
「ルミア……」
 なんともいたたまれない気持ちでシスティーナは言葉を失った。本人が幸せだと言うならシスティーナには何も言えなかった。
 そんな二人のやり取りをグレンは黙って見守っていた。
 空気を読んだわけではない。ただ、しゃべると空きっ腹に響くからであった。

 魔術競技祭は例年、魔術学院の敷地北東部にある魔術競技場で主に行われる。
 競技場はまるで石で作られた円形の闘技場のような構造だ。中央には芝生が敷き詰められた競技用フィールド。三層構造の観客席は外に向かうほど高くなり、空から見れば深皿のように見えるだろう。
 この競技場は魔術的ギミックを組み込んだ建築物でもあり、管理室からの制御呪文一つで、フィールドをなみなみと水の張られたプールにしたり、樹木が乱立する林にしたり、炎の海にしたり、石造りの舞台を出現させたり、あらゆる条件・競技に対応可能だ。
 そして今、競技場の観客席は人であふれかえり、活気に満ちていた。
 観客席にいるのは学院の生徒達だけではない。生徒達の両親や、学院の卒業生など、学院の関係者が続々と集まっている。競技場観客席の最も高く見晴らしの良い場所に据えられたバルコニー型の貴賓席には、女王陛下の御姿も見えた。
 魔術を公の場で使用することを法的に禁じられているこの国において、魔術による競い合いというものは、実際に参加するにしろ観客に徹するにしろ、魔術師達にとっては何物にも代えがたい娯楽なのだ。そういうわけで今年も大勢の観客が学院の内外から集まり、賑わっていた。
 魔術競技祭は学年次ごとのクラス対抗戦で、年に三度行われる。つまり一年次生、二年次生、三年次生の三つの部があることになる。今回開催されるのは二年次生の部だ。ちなみに四年次生の部は、四年次生が卒業研究で忙しいとの理由で開催されない。
 最終的に表彰されるのは、総合一位に輝いたクラスのみだ。二位や三位に意味はない。全か無か。それゆえに勝利にあらゆる手段を尽くすことを是とする魔術師の、古典理念を正しく踏襲した表彰方式である。
 そして、今回の二年次生の競技祭のみに限り、女王陛下自らが表彰台に立ち、優勝クラスに勲章を直接下賜するという帝国民ならば誰もが羨むような名誉がある。
 魔術競技祭に参加する全ての生徒が、そして各クラスの担当講師が、なんとしても優勝したい……そう息巻いているのが今回の二年次生の部の魔術競技祭であった。
 そんな中、二年次生二組——グレンの担当クラスは特に学院内の噂でもちきりとなっていた。なにしろ、この状況で、まさかのクラス生徒全員参加なのだ。成績上位者も成績下位者も分け隔てない、この平等出場。
 グレンは勝負を捨てた、流石は魔術師の風上にも置けない男、でもグレン先生のクラスは全員参加できて羨ましい、いや待て、このやる気のなさは女王陛下に対する不敬ではないのか? ……この一週間、各方面で散々に囁かれた。
 グレンがハーレイに喧嘩を売って、お互い優勝に給料三ヶ月分を賭けているという噂も注目を集めるのに一役買っていた。
 とは言え、奇異の目を集めてはいたが、誰もグレンの担当しているクラスに期待などしていなかった。勝負になるとすら思っていなかった。
 やがて時間がやってくる。決闘礼装としての細剣(レイピア)を腰に吊った生徒一同が中央のフィールドに集合整列し、魔術競技祭開催式が行われる。開式の言葉、国家斉唱、関係各者の式辞、生徒代表による選手宣誓——式は粛々と進んでいく。
 そして、女王陛下の激励の言葉と共に、とうとう魔術競技祭が開催されるのであった。

 ————。
 競技場の外周に等間隔にポールが立っており、その外側を飛行魔術を起動させた選手達が風を切って飛び翔けている。
 二人で一チームを作り、広大な学院敷地内に設定されたコースを、一周毎にバトンタッチしながら何十周も回る『飛行競争』の競技。
 そして、今はそのラストスパート。観客席の生徒達は、競技場の外側を大きく回るように飛翔する選手達の、予想外な勝負展開に歓声を上げていた。
『そして、さしかかった最終コーナーッ! 二組のロッド君がぁ、ロッド君がぁああ——ぬ、抜いた——ッ!? どういうことだッ!? まさかの二組が、まさかの二組が——これは一体、どういうことだぁあああ——ッ!?』
 魔術の拡声音響術式による実況担当者、魔術競技祭実行委員会のアースが実況席で興奮気味の奇声を張り上げている。一位、二位確定の先頭集団はそっちのけで、グレンの担当クラスである二組チームにご執心のようであった。
『そのまま、ゴォオオオル——ッ!? なんとぉおおお!? 飛行競争は二組が三位! あの二組が三位だぁ——ッ! 誰が、誰がこの結果を予想したァアアアアア——ッ!?』
 洪水のような拍手と大歓声が上がった。
 その拍手の発生源は主に、競技祭に参加できなかった生徒達からだった。グレン率いる二組クラスとは別のクラスだが、何か共感できるものがあったのかもしれない。
『トップ争いの一角だった四組が最後の最後で抜かれる、大どんでん返し——ッ!』
 一位は当然のようにハーレイ率いる一組だったが、前評判で勝って当たり前のハーレイの一組より、負けて当然だったグレンの二組の奮闘ぶりの方が会場の注目の的だった。
 一方、競技祭参加クラス用の待機観客席にて。
「やったぁ、凄い! 先生、三位! ロッド君とカイ君、三位ですよ!?」
(うそーん……)
 隣で手を打ち鳴らして大喜びするルミアをよそに、グレンは目を点にして呆然としていた。その視線が向けられる先に、飛行魔術の名手として知られる他クラスの選手達を相手に健闘したロッドとカイが、空でハイタッチして喜びを分かち合っている。
(……ま、まさか、ここまでやるとは……)
 とは言え、冷静に考えればこの結果は確かに当然の帰結とも言えた。
 空を飛ぶ飛行魔術は、専用の飛行補助魔導器——昔は箒型の気流操作魔導器がよく用いられていたらしいが、今は指輪型の反重力操作魔導器が主流——を身につけ、黒魔【レビテート・フライ】の呪文を唱えることで発動する魔術である。
 そんな飛行魔術の腕前を競うのが『飛行競争』の競技であり、今回の『飛行競争』は学院敷地内に設定された一周五キロスのコースを二人で交代しながら計二十周するというルールであった。一周だけ見るなら瞬発的な飛行速度が重要だろうが、二十周ともなれば相当の魔力消費と疲労が予想される持久戦となる。元々、維持や制御が難しい飛行魔術には鋭敏な集中力も必要とされる。この条件下で好成績を残すには、事前に何度もコースを完走して、綿密なペース配分を確立しておくことが必須だ。
 この一週間、この競技だけを練習してきた者と、複数の競技の練習の片手間にしか練習してこなかった者や練習する暇がまったくなかった者とでは、ペース配分に関する練度と精度に必然的に差が出てくる。
 実際、ロッドとカイは地力では他クラスの選手に劣っており、前半は最下位を低迷していた。だが後半、練習不足の他クラスの選手は皆、前半の激しい首位争いの結果、ペース配分を誤って失速、自滅。中には魔力切れで途中脱落してしまう選手すら出る始末。去年の『飛行競争』がごく短距離の速度比べだったことも災いしたのだろう。
 色んな要因が重なり、その漁夫の利を得る形で二組が好成績をさらうこととなった。
(いや、まぁ、確かに一週間で飛行速度上げるのは絶対無理だから、ペース配分の練習だけやってろ、とは言ったがな……)
 ここまで上手くハマるとは予想外である。
「幸先良いですね、先生!」
 システィーナも顔を上気させ、興奮気味にグレンに話しかける。
「飛行速度の向上は無視してペース配分だけ練習しろって、どういうことかと思っていましたけど……ひょっとして、この展開、先生の計算済みですか?」
「……と、当然だな」
 いくら相手が、あの普段生意気で小姑のようにうるさいシスティーナとはいえ、そこまで感服されたような表情を向けられれば、もう、そう答えるしかなかった。
「俺はこうなることを、この学院全体に蔓延する『飛行競争』に対する認識からすでに読み切っていた……なにしろ今回の『飛行競争』は【レビテート・フライ】の呪文を使って、一周五キロスのコースを二人で交代しながら計二十周する競技だ。一周だけ見るなら瞬発的な飛行速度が重要だろうが——」
 結果を見てようやく気付いた勝負の裏に潜む落とし穴を、さも最初からわかっていたかのように堂々と説明するグレン。なんかもう格好悪いことこの上ない。
「——後は連中がペース配分間違って勝手に自滅するのを待つだけさ。だから、俺が指示したことは実に簡単だ。ペース配分は死んでも守れってな……ふっ、楽な采配だぜ」
 席に深く背を預けて足を組み、余裕綽々な表情を掌で隠し、指の隙間から不敵にほくそ笑むその様は、いかにも大策略家な雰囲気を(見た目だけは)かもし出している。
 そして、そんなグレンの後付け講釈をかたわらで聞いていた生徒達はすっかり勘違いして、グレンに畏怖と尊敬の目を向け始めた。
「ひょ、ひょっとして俺達……」
「あぁ……まさか……とは思ったが、先生についていけば、ひょっとしたら……」
(やめて、君達。俺にそんな期待に満ちた純粋な目を向けないで。心が痛いから)
 また、観客席通路の向こう側から、土壇場で負けてしまった四組の生徒と二組の生徒達が言い争いをしているのが聞こえてくる。
「……ちっ! たまたま勝ったからっていい気になりやがって……ッ!」
「たまたまじゃない! これは全部、グレン先生の策略なんだ!」
「そうだそうだ! お前らはしょせん、先生の掌の上で踊っているに過ぎないんだよ!」
「な、なんだと!? くっ……おのれ二組、いきがりやがって! 俺達四組はこれから、お前達二組を率先して潰しにいくからな! 覚悟しろよッ!?」
「返り討ちにしてやるぜ! なんてったって俺達にはグレン先生がついているんだ!」
「ああ、先生がいる限り、俺達は負けない!」
(やめて、君達。本当にやめて。もうこれ以上、ハードル上げないで、お願い)
 グレンは心の中で冷や汗をかいていた。
「あの……先生? なんか顔色悪いですよ? その、大丈夫ですか?」
「あぁ、ルミア……お前だけが心のオアシスだ……」
「……?」
 どこか憔悴しきっている様子のグレンに、ルミアはきょとんと首をかしげた。

「あっはははははははははははははははは!」
 女王の貴賓席に相席を許される栄誉を賜った学院の魔術教授セリカは、誰もが予想だにしなかった『飛行競争』の結末に、女王の御前であることも忘れて膝を叩きながら大笑いしていた。場所が場所ならば即座に斬って捨てられてもおかしくない暴挙である。
 実際、女王の背後に控える侍女長エレノアは露骨に眉をひそませ、貴賓席の周囲を警邏するゼーロス達王室親衛隊の面々は不愉快そうにセリカを睨みつけた。
 だが、この自由奔放唯我独尊を地で行く大陸最高峰の女魔術師はどこ吹く風だ。
「はしたないぞ、セリカ君。陛下の御前だよ。そんな風に笑うのは不敬ではないかね?」
 同じく貴賓席に相席する学院長リックが、ため息交じりにセリカをたしなめる。
「あー、いや、すまんすまん。悪かったな、陛下。許してくれ」
 だが、セリカに反省の色は欠片もないようだった。
「セリカ様。流石に陛下に対するそのような口の利き方は……」
 流石に見逃せず、エレノアが苦言を申し立てようとするが——
「いいんですよ、エレノア」
 女王陛下——アリシアはそんなセリカの傍若無人な態度にも気分を害した風もなく、穏やかに笑っていた。
「彼女と私は旧知の仲、私が子供の頃から色々とお世話になった友人でもあります。それに、今回の私の訪問はアルザーノ帝国女王としての公的なものじゃありません。将来、帝国の未来を支える若者達の、飾らないありのままの姿をこの目で拝見するための、帝国一市民アリシアとしての私的な訪問なのです。堅苦しいことはなしですよ?」
「それはそうですが、陛下。これは我々学院側の体面もあってですね……」
「賓客歓待礼式を国賓式ではなく、貴賓式にさせたでしょう? ほら、今日の私は貴方方ほどの大人物が一方的に平服しなければならない相手じゃありませんよ?」
「そ、そんな、恐れ多い……むぅ……」
 困ったようにリックがこめかみを押さえてうめいた。
「楽しそうですね、セリカ」
「ああ、楽しいよ、アリス」
 アリシアの言葉に、セリカはアリシアの幼少の頃の愛称で応じた。
「実に胸がすく思いだ。最近の魔術競技祭に権威を求める、くっだらない風潮にはうんざりしてたんでね。勝つために成績上位者しか出場させないとか、もうね、アホかと。ったく、なんのための『祭』なのか、ちょっとは足りない頭で考えろというんだ」
 こらえきれないかのように、セリカはくっくと含み笑いを続ける。
「しかし、そのグレンという講師の方の戦術眼は凄いのですね」
 アリシアは先ほど、セリカからこの勝負の裏に潜む落とし穴について聞かされている。
「まーさか。あいつは多分、なーんにも考えちゃいないよ」
 だが、セリカはあっさりとそれを否定する。
「クラス四十人全員使う選択も、ペース配分重視の戦術も全部たまたまだ。それが本当にたまたま上手くいっただけだ。なにせ、あいつは基本どこまでも凡人だからな。ただ、それなりに努力はしたというだけの」
 だが、とセリカは言葉を続ける。
「間違いなく凡人のはずなのに、凡人以外の何者でもないのに、あいつは、なぜかいつも予想外のことをやってくれる。そういう星の下に生まれてきたんだろうな。昔からそうだったよ。だろ? 女王陛下殿?」
 セリカはそう言って、アリシアにウインクを飛ばした。
 意味深なセリカの言動に、アリシアは少しだけ言葉を選ぶように沈思して——
「そう、ですね。ええ、彼はそんな子でした……」
 懐かしむように微笑んでいた。

 それからもグレンのクラスの快進撃は、奇跡的に続いた。
 成績的には平凡な生徒が初っぱな三位という好成績を収めたことが特に効いたのだ。
 自分達でもやればできる、戦える。勝負事においては士気の高さが何よりも重要であることを体現するかのような二組生徒達の奮闘ぶりだった。
 さらに、使い回される他クラスの成績上位者が後に残された競技のために、魔力を温存しなければならないのに対し、グレンのクラスの生徒達はその競技だけに全魔力を尽くせるという構造的有利。
 グレン本人すら気付いていなかったが、精神論を否定していたはずの他クラスの講師達が、実は魔術師としての体裁や格式に拘った非合理的な戦術を指導してしまっていたことに対し、過去に生きるか死ぬかの軍生活が長かったグレンは、表向き精神論を掲げていたが、勝つという一点に関してはどこまでもシビアで合理的な戦術を指導していたこと。
 様々な要因が、グレンのクラスと他のクラスの地力の差を埋めていた。

『あ、中てた——ッ!? 二組選手セシル君、三百メトラ先の空飛ぶ円盤を見事、【ショック・ボルト】の呪文で撃ち抜いた——ッ!? 『魔術狙撃』のセシル君、これで四位内は確定!? またまた盛大な番狂わせだぁああああああ——ッ!?』
「や、やった……動く的に狙いをつけるんじゃなくて、動く的が狙いをつけている空間にやってくるのを待ってろっていうグレン先生の言うとおりだ……これなら……ッ!」
 成績が平凡な生徒達は、予想外の奮戦をして……

『さぁ、最後の問題が魔術によって空に光の文字で投射されていく——これは……ちょっと、おいおい、まさかこれは——な、なんとぉ!? 竜言語だぁあああ——ッ!? 竜言語が来ましたぁあああ——ッ!? これはえげつない! さっきの第二級神性言語や前期古代語も大概だったが、これはそれ以上ッ!? 出題者、解答者達に正解させる気が全くないぞぉ!? さぁ、各クラス代表選手、【リード・ランゲージ】の呪文を唱えて解読にかかるが、ちょっと流石にこれは無理——』
「わかりましたわッ!」
『おおっと!? 最初に解答のベルを鳴らしたのは二組のウェンディ選手! 先ほどから絶好調でしたが、いくのかッ!? まさか、これすら解いてしまうのか——ッ!?』
「『騎士は勇気を旨とし、真実のみを語る』ですわ! メイロスの詩の一節ですわね!」
『いった——ッ!? 正解のファンファーレが盛大に咲いたぁ——ッ!? ウェンディ選手、『暗号解読』圧勝——ッ! 文句なしの一位だぁあああ——ッ!』
「ふふん、この分野で負けるわけにはいきませんわ。とは言え……もし、神話級の言語が出たら、いきなり共通語に翻訳するのではなく、いったん新古代語あたりに読み替えろっていう先生のアドバイスには感謝しないといけませんわね……」
 成績上位者は安定して好成績を収め続ける。
 観客席も二組が参加する競技が始まる時は特に盛り上がった。
 住む世界の違う成績上位者のみで構成されるクラスより、より住む世界の近いグレンのクラスの方が見ていて熱が入るのだろう。
 そのクラスを率いるのが、良くも悪くも色々と話題の尽きない噂の新人講師ということもある。いずれにせよ、二組は今回の魔術競技祭の注目の中心にあった。
 だが——
(まぁ……地力の差は大きい、か——)
 二組の待機観客席にて。自分のクラスの生徒達がハイテンションで盛り上がりに盛り上がる中、グレンは一人冷静に戦況を見つめていた。
 グレンは競技場の端に据えられた得点板を見据える。
 現在、グレンのクラスは十クラス中の三位。ハーレイのクラスは一位である。
 一位から三位までは、それほど大きな得点差はない。だが、じりじりとハーレイのクラスに離されている感は否めなかった。
(ていうか、まぁ、よくここまで食い下がったもんだ)
 本来ならば、ぶっちりぎりの最下位で当然なのだ。
(お前ら、えらい。本当に俺の言うことを信じて、この一週間、皆、本気で一生懸命頑張って来たんだな……)
 思い返せば、グレンは当初、魔術競技祭になど欠片も興味なかった。そもそも、この学院出身だというのに、素で競技祭のことなど忘れていたし、さらに競技祭に熱を入れることになったのも、元はと言えば金のためだ。それが嘘偽りない事実だった。
 だが、こんなにも皆で一丸となって、楽しそうに、一生懸命に勝負に挑み、皆で応援し合っている自分のクラスの生徒達の熱い姿を見ていると——
「……ったく、勝たせてやりたくなっちまうだろうが……あぁ、面倒臭ぇ」
 グレンは誰にも気付かれることもなく、一人ごちていた。
(だが、どうする? ここまで健闘できていること自体、まぐれっつーか、奇跡の賜物なわけで、地力の差は歴然としているぞ……)
 今は勢いだけで誤魔化しているが、競技が進行すれば進行するほど、本来の地力の差が現れ、じりじりと突き放されていく展開になるであろうことは容易に想像がつく。
 個人競技の多かった午前と比べ、午後は配点の大きな集団競技が多い。逆転が狙えるとしたらここだ。そして、逆転するためには、依然、最高レベルの士気が必要だ。
 グレンのクラスは三位。午前中に後、一つ順位を上げておきたい。
 それが成せれば——午後にまさかの可能性が、ある。
「確か、次が午前の部で最後の競技だよな……えーと、なんだったか……?」
 グレンが手元のプログラム表を開いた。
 それをしばらくの間、じっと見つめて……
「……なるほど。ひょっとしたら、いけるかもな」
 グレンはにやりと笑った。

 魔術競技祭、午前の部、最後の競技が始まる前の空き時間にて。
「ねぇ、先生……」
 その時、気が気ではなかったシスティーナは、隣でだらしなく腰かけるグレンへ不安そうに声をかけた。
「その……今からでも、ルミアを他の子に変えない?」
「はぁ……?」
 いかにも、お前何言ってんの? みたいな表情をシスティーナに向けるグレン。
「だって、あの子の競技は……」
 システィーナは中央のフィールドに目を向ける。そこには次の競技に備えて待機する生徒達の姿があった。出場者は十人、等間隔で円を描くように定位置に並んでいる。その中の一人に、やや緊張した面持ちでたたずむルミアがいる。
「『精神防御』……やっぱり、こんな過酷な競技、あの子には無理よ……ッ!」
 システィーナは必死にグレンへ訴えかけるが、グレンはどこ吹く風だ。
 競技『精神防御』。精神汚染攻撃への対処法は魔術師の必須技能の一つであり、この競技はその能力を競うためのものである。具体的には精神作用系の呪文を、白魔【マインド・アップ】と呼ばれる自己精神強化の術を用いて耐えるという形で競わされる。そして、少しずつ受ける精神汚染呪文の威力は上がっていき、最終的に正常な精神状態を保って残った者が勝者となる敗者脱落方式の耐久勝負だ。
「見てよ! 他のクラスの出場者は皆、男の子じゃない! 女の子はルミアだけよ!?」
 システィーナの指摘通り、いかにも精神的にタフそうな男子生徒達が揃い踏みする中、ルミアだけが紅一点だ。
「お、おい……見ろよ……大丈夫なのか……?」
「女の子がこの競技に出場するなんて……」
「あのクラスの担当講師は一体、何、考えてるんだ……?」
 そんなルミアの姿に違和感を覚えているのは、システィーナだけではないらしい。観客席の四方から戸惑いの声が上がっていた。
 そんな空気を読めてないのか、あるいは読んでいるのか。
 ルミアは困惑の視線を一身に集めながらも、観客席に座る自分のクラスメイト達に向かって小さく手を振りながら、にこにこと笑っていた。
「ははっ……あなたもひどい人だ、先生」
 グレンの背後から皮肉げな笑いと言葉が上がった。システィーナがちらりと横目を向ければ、そこには口の端にひねた笑みを浮かべるギイブルが座っていた。
「あなたは去年の競技祭の時、この学院にいなかったから、この競技の過酷さを知らなくても無理はないのでしょうがね。この『精神防御』……去年は軽度の精神崩壊を起こして三日間くらい寝込む者が続出したんですよ? そんなことも調べてないんですかね?」
「…………」
 グレンは無言だった。
「それにほら、見て下さいよ。彼女の隣を」
 ギイブルはルミアの右隣にいる生徒を指差す。
 そこにはやたら迫力のある生徒がいた。魔術師らしからぬがっしりとした体格はルミアの二回りも三回りも大きい。赤く染めた髪に、日焼けした浅黒い肌。顔立ちは常に何かに苛立っているかのような強面、夜道で不意に出会った女子供の誰もが泣いてしまうこと請け合いだ。指輪やネックレス、ピアスにブレスレットなど、なんの魔術的効果もない銀細工のアクセサリを体の至る所に身につけており、制服の袖はまくりあげられ、肩に入れ墨の入った筋肉質な腕がさらされている。
 道を歩けば、往来の札付きチンピラすら避けて歩きそうな、威圧感と迫力をまとうその生徒の名は——
「五組のジャイル。没落貴族や商家の次男三男が集まる不良チームの頭だの、暴力事件を起こしてよく警備官のお世話になっているだの、色々と悪い噂が絶えない生徒さ」
 ふん、とギイブルは忌々しそうに鼻を鳴らした。
「だが、それでも彼は去年の『精神防御』の勝者だ。それも、他の追随を許さぬほどの大差をつけた、ね。やれやれ、素行はともかく精神力の強さだけは本物らしい」
「た、確かに……気合い入ってそうな人だしなぁ……」
 システィーナが納得したようにうめく。基本、誰もがインテリ然と澄ましているこの学院の生徒達の中で、ジャイルの異彩ぶりは見ていて目眩がするほどだ。
「ま、彼のことはさておいて、です。先生、いくらなんでもこの競技に初出場のルミアを彼にぶつけるのは酷なんじゃないですかね?」
「…………」
「事実、いくつかのクラスはジャイルが出場するというだけでこの競技を捨てにかかっている。ハーレイ先生の一組に至っては、この競技に限り足手まといの成績下位者を特別に送り込んでいる始末だ。まぁ、合理的な判断ですね。この競技は一位抜けの人にしか得点が入りませんし、下手に主力を送り込んで壊されてしまったらたまりませんから」
「…………」
「まさか……とは思いますが。先生、彼女……ひょっとして捨て石のつもりですか?」
 そんなギイブルの言葉に、システィーナがはっとしたようにグレンの横顔を見る。
 グレンは手を組んで顎を乗せ、両肘を両膝の上に乗せた格好で沈黙を保っている。
「ああ、なるほど。彼女は治癒系の白魔術は得意ですが、それ以外はそうでもない……そこそこ、こなしはしますがね。今回、治癒系の呪文が役に立つような競技がない以上、他の戦力温存のために、彼女をここで使うのは実に合理的だ……」
「…………」
「ははっ、いやいや、たいした戦術眼ですよ、先生。吐き気がしますがね」
 グレンは無言。先ほどから何も言わずに目を閉じたまま、だ。
 その沈黙は……何よりも雄弁な肯定なのではないだろうか。
「先生……嘘、ですよね? 先生に限って、そんなことするわけないですよね……?」
 システィーナが不安げにグレンに呼びかける。
 だが、グレンが返答する気配はない。グレンのことを信じてはいるつもりではあるが、その態度はどうにも不安にさせられる。
「先生、何か言って下さいよ……先生……先生ったら!」
 矢も盾もたまらず、システィーナがグレンを揺さぶると……
 がくん、とグレンの体が傾いだ。
「zzz……」
 よくよく見れば、グレンは涎を垂らして、いつの間にか盛大に眠りこけていた。
 人の話など何一つ聞いちゃいなかった。
 システィーナとギイブルが頬を引きつらせながら数秒間、たっぷりと絶句して。
「この、起きろぉおおおおおおおお——ッ!?」
「ぐぼぁはぁあああ——ッ!?」
 システィーナ渾身のボディブロウが、グレンの脇腹に良い角度で刺さった。
「な、何しやがるんだ、この白猫ッ! せっかく人が節約待機モード入ってんのに!?」
「うるさい! わけのわかんないこと言わないでッ!」
 そして、システィーナは遠くにいるルミアを指差し、まくし立てる。
「それよりも、今のギイブルの話、本当なんですか!? 本当にルミアを戦術的な捨て石としてこの競技に送ったんですか!?」
「はぁ……?」
「もしそうだったら……いくら先生でも、私、絶対に許さないんだから……ッ!」
 微かな怒りと戸惑いに肩を震わせ、システィーナが必死にグレンを睨みつけてくる。
「……話がまったく読めんが」
 グレンは面倒臭そうに頭をがりがりと掻いて、言った。
「ルミアが捨て石? ……はぁ? お前ら、何言ってんの?」
「え?」

(ああ、なんか緊張してきたなぁ……)
 競技開始までのわずかな間。ルミアは周囲を見渡しながら適当に時間を潰していた。
 自分のクラスメイト達が座っている観客席を遠目に眺めれば、システィーナがグレンの脇腹を殴りつけている見慣れた光景が小さく見えた。また何かあったのだろうか?
(システィも素直じゃないなぁ……)
 ルミアが微笑ましくそんなことを思っていると。
「……おい、そこの女」
 隣から噛みつくような野太い声が浴びせかけられた。
 ルミアが目を向ければ、そこには仏頂面をしたジャイルがこちらを睨んでいる。
「悪いことは言わねえよ。今からでも棄権しな」
「!」
「この競技はお前みてえな女子供に務まるヤワな競技じゃねえ……医務室のベッドで精神浄化受けるハメになりたくなけりゃ、とっととすっこんでろ」
 普通の女子生徒ならば、思わず竦み上がってしまいそうなほどの威圧的な恫喝に加え、飢えた野獣のような眼光がルミアを射貫く。だが——
「あはは、ええと、確か……五組のジャイル君だったよね? 私のこと、心配してくれてるの? ふふ、優しいんだ」
「……あぁ?」
 まったく予想外の反応に、逆にジャイルが毒気を抜かれて戸惑った。
「大丈夫だよ、私。クラスの皆も一生懸命頑張ってるんだもの。私だって頑張らなきゃ」
「ちっ……ああ、そうかい。後悔しねえことだな」
「それに……ジャイル君の五組は確か、今、二位だったよね?」
「……ふん、くだらねえ。それがどうかしたか?」
「私のクラスが今、三位だから……もし、私がジャイル君に勝ったら……順位、入れ替わっちゃうね?」
 そう言って、ルミアは立てた人差し指を口元に当て、いたずらっぽくウインクする。
「……面白ぇ」
 ジャイルがウサギを見つけた狼のごとく獰猛に笑った。
 正直、ジャイルはクラスの勝ち負けなど興味がなかった。そもそも魔術競技祭などどうでもよかったし、今、こうしてこの場にいるのも、いけ好かない担当講師やクラスメイト達がまるで腫物を扱うような態度で、びくびく頼み込んできて鬱陶しいから、仕方なく出場してやっているだけのことだ。
 だが、誰もが恐れて近寄らない自分に対し、こんなか弱そうな小娘がこれほどわかりやすく『挑戦』してきたのだ。燻る餓狼のような闘争心に火が着くのは必然だった。
『あー、あー、音響術式テス、テス。えー、時間になりましたので、ただ今より精神防御の競技、開始します!』
 響き渡る実況の音声に、観客席から歓声が上がる。
『ではでは、今年もこの方にお出まし願いましょう! はい! 学院の魔術教授、精神作用系魔術の権威! 第六階梯(セーデ)、ツェスト男爵です!』
 すると、参加生徒達が組んでいる円陣の中心に、突如どろんと煙が巻き起こり、燕尾服にシルクハット、髭と言った伊達姿の中年男性が現れた。
「ふっ、紳士淑女の皆さん、ご機嫌よう。ツェスト=ル=ノワール男爵です」
 比較的簡単な短距離転移魔術で、芝居げたっぷりに現れた男が一礼する。
「さて、それでは早速、競技を開始しよう。選手諸君、今年はどこまでこの私の華麗なる魔技に耐えられるかな……?」
 ごくり、と。参加選手達の何人かが唾を呑んだ。
『それでは第一ラウンド、スタート! ツェスト男爵お願いします!』
「それではまず、小手調べに恒例の【スリープ・サウンド】の呪文あたりから始めてみようか……いくぞ!」
 こうして、『精神防御』の競技が始まった。
「《身体に憩いを・心に安らぎを・その瞼は落ちよ》」
 ツェストが白魔【スリープ・サウンド】の呪文を唱える。
「《我が御霊よ・悪しき意思より・我が識守りたまえ》」
 同時に、生徒達が対抗呪文(カウンター・スペル)として白魔【マインド・アップ】を唱えていく。
 生徒達が呪文を完成させた直後、ツェストが自分を取り囲む十人の生徒へ、等威力で一斉に術をかけた。音叉を叩いたような音が波紋のように周囲に染み渡っていった。
 呪文の威力が場に拡散していき——
『ね、寝た——ッ!? 第一ラウンドでいきなり脱落したのは一組、ハーレイ先生のクラスだぁあああああ——ッ!?』
 地べたに倒れ伏してぐっすりとお眠りになった生徒に、観客の失笑が集まった。
『ちょ、これ完全に捨て駒だ——ッ!? やる気なさ過ぎでしょハーレイ先生ッ!?』
「うーむ、私としては、もうちょっと耐えて欲しかったのだがね……」
『まぁ、去年の覇者、五組のジャイル君いますからねー、きっと主力温存作戦でしょう。彼の勝利がもう決まっているようなものですから、イマイチ盛り上がりも欠けますしね。というわけで、実況の僕としては、紅一点、二組のルミアちゃんがどこまで残れるか……これが見所だと思うんですけど、どうです? 男爵?』
「ふっ、そうだな。可憐な少女がどこまで私の精神操作呪文に耐えてくれるか、いたいけな少女の心をどのように汚染し尽くしてやるか、実に楽しみだ……ふひ、ふひひ……」
 男爵が気持ち悪い薄ら笑いを浮かべながら、ルミアを一瞥する。
 流石のルミアも、これには脂汗を垂らして思わず一歩引いていた。
『うわぁ……ここで男爵、まさかの嫌な性癖大暴露……ていうか、男爵ってまさかそういう変態的な人だったんですか?』
「何を言うか、私は断じて変態ではないッ! 私はただ、喪心しちゃったり、心が病んじゃったり、混乱しちゃったり、恐慌を起こしちゃったりした女の子の姿に、魂が打ち震えるような興奮を覚えるだけだッ!」
『変態だァアアアアアアアアア————ッ!?』

 あいつ、クビにしよう。学院長リックが密かにそう心に決めたことも露知らず、男爵は次々と威力を高めながら精神操作系の呪文を唱えていき、生徒達も必死に【マインド・アップ】を唱えて対抗し、ラウンドは着々と進んでいった。
『ツェスト男爵の白魔【コンフュージョン・マインド】の呪文、決まった——ッ!? うわぁ、やばい!? 八組の選手耐えきれなかったぁあああ——ッ!?』
「あばばばばばばばばばば……暑い! 暑い!」
「ぎゃああああ——ッ!? ちょっと君! 男子生徒に脱がれても私はちっとも嬉しくないのだが!? どうせならルミア君——」
『おい、やめろ! 少しは欲望隠せよ、このバカ男爵! 救護班、早く八組の人連れてって! 精神浄化! 精神浄化!』

「次は白魔【マリオネット・ワーク】だ! 皆を私の操り人形にしてせんじよう! さぁ、踊れ!」
『ぷっ! だっははは——ッ!? 耐えきれなかった十組の選手、踊りだした——ッ! ていうか男にセクシーダンス躍らせんな、バカ男爵! キモいんだよッ!?』
「……ちっ」
『ちょ、男爵、アンタ何、ルミアちゃんの方見て舌打ちしてんの!? いい加減にしろよこの変態エロ親父ッ!?』

 吹き荒れる精神汚染呪文の嵐。大方の予想通り『精神防御』の競技は去年同様、阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を成し始めていた。
 だが、盛り上がる競技フィールドとは裏腹に、当初、観客席は冷めていた。なにしろ傍目には地味な競技だし、何より結果がもう見えているのだ。
 五組のジャイルが勝つ。それが大方の予想であり、実際、どんどん威力が高まる精神汚染呪文を前に、ジャイルは冷めた目で平然と立っている。

「だ、男爵……俺、実は男爵のことがずっと好きで……」
「ぎゃああああ——ッ!? 嫌ぁああああ——ッ!? じ、蕁麻疹がぁあああッ!?」
『く、腐ったぁああああ——ッ!? 男爵の下心全開の白魔【チャーム・マインド】! ド裏目だぁああああ——ッ!? ていうか、ホント誰かなんとかしろよ、この変態犯罪貴族! 救護班は取りあえず精神浄化! ついでに男爵の頭も浄化したれ! 早く!』

「今度は白魔【ファンタズマル・フォース】の呪文で、名状し難き冒涜的な何かの幻影を見せてせんじよう! 我が秘奥が魅せる宇宙的脅威、存分におののくがよい!」
「ぁああああああああああ——ッ!? 嫌だぁああああああああああ——ッ!?」
「うわぁああああ——ッ!? やめろぉお!? それだけはヤメロォオオ——ッ!?」
「ああ、窓に!? 窓にィ——ッ!?」
『正気を失い、狂気にのたうつ選手達! ちょ、やり過ぎでしょ男爵!? 救護班、精神浄化急いで! ていうか毎年思うんだけど、なんでこの競技、禁止になんないの!?』

 だが、ラウンドが進んでいくうちに、ざわざわと観客席はどよめき始めた。
 この過酷な競技、真っ先に脱落すると思われていた二組のルミアがいつまでも残っている。しかも他の選手達のように頭をかきむしったり、爪を噛みながら必死に耐えようとしているわけではなく、平然としているのだ。まるでその隣のジャイルのように。
 あれ? ひょっとして……まさか?
 観客席の生徒達の疑念は段々大きくなっていき——
 それは次第に期待へと変わっていき——

『九組脱落——ッ!? なんと、誰が予想したかこの展開——ッ!? これで五組代表ジャイル君と、二組代表ルミアちゃんの一騎討ちだぁあああああ——ッ!?』
 この予想外の展開にいつの間にか観客たちは盛り上がり、今、大歓声を上げていた。
「う、うそ……」
 観客席でルミアを見守っていたシスティーナは唖然としていた。
「こ、こんなことが……ここまで強かったのか……彼女……」
 常に冷めた態度を崩さないギイブルも動揺を隠せないようだった。
 そんな二人にグレンは面倒臭そうに言った。
「白魔【マインド・アップ】は、素の精神力を強化させるだけの呪文だ。元々の精神制御力が強い者ほど……要するに肝が据わっている奴ほど大きな効果がある。で、うちのクラスにルミアより精神力が強い奴はいない」
「あの子が……?」
 ん、とグレンは頷いた。
「あいつは常人とは心構えっつーか、在り方がなんか違うんだよ。まるで平時からいつだって死ねる覚悟を固めているような……ある意味、異常な人種だ。素の精神力の強靭さでルミアに敵う奴はなかなかいやしない」
「そ、それであの子をこの競技に……?」
 システィーナは、ふと、一ヶ月ほど前に学院で起きたテロ事件を思い出す。言われてみれば、あの時のルミアはテロリストの外道魔術師達を相手に一歩も引くことなく、毅然としていた。少し間違えばすぐに殺されるかもしれなかったというのに。
「しっかし、まぁ、なんだ……あのジャイルとか言う奴も大概だな。一体、どういう修羅場潜って来たんだ? あいつ……」
 グレンは呆れ顔で、ルミアと同じく平然とその場に残り続けるジャイルを見る。
「……ルミアに任せりゃ楽勝だと思ったんだがな。仕方ない、万が一の時は……」
 親友を夢中で応援するシスティーナのかたわら、グレンは一人静かに覚悟を固めていた。