魔獣錬磨師の訓練生の朝は早い。特に、魔獣錬磨師育成学園【ベギオム】唯一のスライムトレーナーであるレイン・エルハルトの朝は、空を削るように聳える山の峰から太陽が顔を出すよりも早く始まっていた。
静まった学園の寮でただひとり目を覚ましたレインは、すぐさま身支度を整える。学園の制服を身に纏い、もはや何代目になったか覚えていないブーツに足を通す。応急処置用の治療具や薬草のホルダーを腰に付け、新しく始まった一日に挑むように大きく息を吸う。
「新しい朝に感謝を」
ルームメイトを起こさないように祝詞を唱え、静かに扉を開ける。レインは足音を殺しながら、寮の廊下を駆け抜けた。寮の階段を飛び降り薄明かりの廊下を走り抜ける。宿直室で織物をしている寮のおばちゃんが、そんなレインに気が付き、軽く手を上げた。
「やあ、おはよう。レインちゃん。今日も早いね」
「それだけが取り柄だからな」
「頑張るのはいいけど、ほどほどにね。怪我したら、元も子もないんだからさ」
「わかってるけど。雑魚キャラは怪我してやられてなんぼだろ」
「また、そういうこと言って」
困り顔で微笑む寮のおばちゃんに、「んじゃ、行ってくる」と言い残し、レインは寮の外に飛び出した。新しい朝。昨晩から降り続いた雨は上がっていた。空気が重く湿気を吸っているが、それでも雨が降った翌日は、普段の朝より清々しい。
レインが両手を広げ、大きく息を吸う。新鮮な空気が一気にレインの身体に流れ込んだ。「さぁ~て! 今日も行くか!」
一人楽しげに呟きながら、レインは再び走り出した。雨に冷やされた空気が身体を包み、澄んだ風がレインの脇をすり抜ける。空はほんのり青に色づき始め、新しい世界の夜明けに、学園周辺にある森で朝方のモンスターたちが活動を開始する。
レインが学園にあるモンスター用の宿舎へ向かうと、宿舎の前にあった大岩が脈動した。隆起した岩の一部は、二つのルビー色の瞳を持った頭部に。続けて岩の左右が隆起し、ハンマーのような強固な腕に。二つに分かれた胴体は、胴と腰になり、腰からは二つの足が伸びた。強大な身体を支えるその強靭な足は、生半可なモンスターなど一撃で粉砕する。
瞬く間に岩から姿を変えた一般にゴーレムと呼ばれる岩石兵は、生徒たちのモンスターを守る守衛であると同時に、モンスターの脱走を防ぐ看守でもある。
「よ、おはようさん」
レインが軽く手を挙げると、ゴーレムは緋色の瞳を輝かせ、ゆっくりとレインを見降ろした。ゴーレムは比較的温厚なモンスターであるが、全般的に知能は低い。中には高い知能を有するハイランクのゴーレムも存在するが、モンスターの宿舎を守るこのゴーレムは、一度与えられた使命を全うする機械的で単純な思考しか持ち合わせていない。まして、人の顔など、主であるトレーナー以外はほとんど覚えられないだろう。
そんな、本来は知能の乏しいゴーレムなのだが、モンスターの宿舎を守るゴーレムはレインの姿を見るや否や、その表情を和らげ、ゆっくりと身体を脇にどけた。
「おお、サンキュー」
軽く手を上げるレインに、ゴーレムがぎこちない動きで頷く。
本来、モンスター宿舎に入るのは、学生証を提示しなければこのゴーレムに手痛いお仕置きを受ける。だが、レインはもはや顔パスで入れるようになっていた。毎朝誰よりも早くモンスター宿舎を訪れていたので、さすがのゴーレムも顔を覚えてくれたらしい。それでも、初めてゴーレムが学生証を無しに道を開けてくれた時は、本当に飛び跳ねて喜んだ。
顔を緩ませながら、レインが高等部一年生用のモンスター宿舎へ足を向ける。トレーナーが飼育するモンスターは、学園から特例をもらっている一部を除き、就寝時間はこのモンスター宿舎に預ける決りになっていた。
モンスター宿舎に入ったレインが、腰に下げたホルダーから学生証を取り出し、壁にあるスロットに差し込む。甲高い音が鳴り、学生証を照合が始まった。ハイランクのモンスターを盗もうとする不届き者が後を絶たないため、照合は念入りに行われる。
照合が終わると、学生証がスロットから吐き出され、スロットの上に設けられた穴から蛍火のように淡い緑色に発光するオーブが飛び出した。オーブはレインの頭上を飛び越え、壁をすり抜け、宿舎の奥に消えて行く。オーブは各モンスターの檻を開けるカギだ。
オーブが飛んでいくと同時に、宿舎の扉が左右にゴゴゴゴゴと重い音を立て、ゆっくりと開いた。むわっと扉から獣臭が溢れだす。並みの人間なら顔を歪ませるところだろうが、実家がモンスターファームを営むレインにとっては慣れた臭いだ。
「さてと」
そろそろ相棒を迎えに行くか、とレインが扉をくぐろうとした、その時、
「ぴぎぃー!」
宿舎の奥から聞き慣れた鳴き声が響き、何かがレインに向って跳び跳ねてきた。
「ペムペム!」
愛嬌のあるつぶらな瞳。まんじゅうのような楕円形のフォルム。しっとりと濡れた青い肌。牙の無い口に、おもわずつつきたくなるプニプニのほっぺ。そのゼリー状の身体には、レインとの契約の証であるスライムの紋章が刻まれている。
全世界で最多の固有数を誇ると同時に、最弱のモンスター。
スライム
それが、レインの相棒だった。
「よぉ、ペムペム。ちゃんと寝たか?」
「ぴぎぃぴぎぃー!」
両腕を開いたレインに、ペムペムは全力で喜びながら、全力でレインの胸に飛び込み、
「ぐほっ!」
レインの身体をモンスター宿舎の外へと吹き飛ばした。
ドゴンっと、人とスライムがぶつかったにしてはありえない音が早朝の清々しいモンスターの宿舎に響く。ペムペムの技、【体当たり】をまともに受けたレインは、胸に抱えたペムペムと錐もみしながら転がり、モンスター宿舎の前に倒れ込んだ。
今日も今日とて、容赦のない【体当たり】だ。日に日にコレがしんどくなるのだが……
「ぴぎぃ?」
どうだった?と身体をくねらせながら、ペムペムがレインを覗き込む。
その可愛さ、反則級だ。怒れるわけがない。
「いや、いい【体当たり】だったぞ。ちゃんと成長してんな」
レインが褒めながらペムペムの顎(たぶん)を指先でくすぐってやると、ペムペムが「ぴぎぃ~」と嬉しそうな甘えた声を上げた。
そうだ、ペムペムは悪くない。
全ては、こんなバカ可愛く育ててしまったレインが悪いのだ。
そう結論付けたレインは腹筋に力を入れて一気に身体を跳ね起こすと、ペムペムを下ろし、埃まみれになった服を払いながら言った。
「さぁ~て。今日もトレーニング始めっか!」
「ぴぎぃーっ!」
レインの声に、ペムペムは声高らかに応えながらぐにょっと身体を伸ばした。レインとペムペム。二人の朝は、学園の外周を回るランニングから始まる。その距離、一周なんと20キロ。レインのブーツが大地を蹴り、湿気を含んだ芝生から水が跳ねる。
「はっ、はっ、はっ」
レインの走るペースはかなり速い。毎日自己ベストを更新するつもりで走っていれば、自然とペースは速くなる。そして、そんな並みの学生ならすぐに息が切れてしまうペースに、ペムペムはその弾力のある体で大地を弾みながら、遅れることなく並走していた。
「はっ、はっ、っふ。ペムペム、調子、良さそう、だな」
「ぴぎ、ぴぎ」
レインの声に、ペムペムが一際大きく弾み、得意げな笑みを零す。スライムのペムペムは、前日に雨が降った今朝のように湿度の高い日は調子がいい。普段は少し遅れ気味に付いてくるが、今日はレインに並ぶどころか、一足先に外周を飛び跳ねていた。
「ぴーぎ、ぴーぎ、ぴーぎ♪」
「あっ、バカ。調子にノんな! ペムペム、止まれ!」
「ぴぎ?」
レインの鋭い声が響き、ペムペムが慌てて振り向く。すぐに調子に乗るのは、ペムペムの悪い癖だ。その上、よりによってレインの声に振り向いて完全に前を見ていない。
ゴム毬のように綺麗に弾んだペムペムは、気持ちよく飛んでいった。
木にぶら下がる、巨大なハチの巣に向かって。
ドンッと、ペムペムの身体がハチの巣にヒットする。ペムペムの【体当たり】を受けたハチの巣は枝との結合部分が外れ、大きく吹き飛んだ。吹き飛んだハチの巣は、そのまま正面にあった木の幹にぶつかり、地面へと落下する。
「やべ……」
「ぴ、ぎ……」
レインとペムペムが顔を引き攣らせながら、異様な静けさを放つハチの巣を凝視する。
「セーフ……じゃねぇ!」
ブブブブブブブブブブブブブブブブン
重低音の羽音が、レインの淡い期待を吹き飛ばした。ハチの巣から、一匹の巨大な蜂が這い出てくる。黄色と黒の胴体に、分厚い羽根。口元にはクワガタのような鋭い牙が覗き、無数の複眼により構成された真っ赤な双眸は、敵の動きの全てを捕捉する。そしてなにより、臀部から大きく突き出した毒針。その一撃は、大型のモンスターですら毒状態にし、遂には死に至らしめる、自然界指折りの猛毒だ。
昆虫モンスター《キラービー》
巣を吹き飛ばされたことに怒り狂うキラービーは、その両羽を大きく振るわせると、ペムペムにその鋭い牙を向け、一気に跳びかかった。
「避けろ、ペムペム!」
「ぴぎ!」
レインの声を受け、ペムペムがその身体を右へ弾きだす。一瞬遅れて、キラービーの鋭い牙が、今の今までペムペムがいた場所を切り裂いた。空中を自在に動けるキラービーの追撃は速い。キラービーの黄色と黒の身体が空中を滑り、横手へ跳んだペムペムへと肉薄する。眼前に迫る牙に、ペムペムは着地するや否や、間髪入れずに再び跳躍した。
キラービーの牙が、再び空振りに終わる。しかし、いくらペムペムがキラービーの攻撃を回避しようと、キラービーの複眼から逃れることは敵わない。数えきれないほどの複眼でペムペムを捕捉するキラービーは、一旦攻撃の手を休めると、羽を大きく震わせて、その身体を上空へと持ち上げた。飛行能力がある以上、制空圏はキラービーにある。
キラービーは悠々と空中からペムペムのことを見降ろすと、その鋭い牙を納め、代わりに子供の腕ほどはある太い針の先を、ペムペムへと定めた。
「ペムペム、次が勝負だぞ。狙いは、分かってるな」
「ぴぎ」
レインがペムペムに声をかける。緊張の糸が張り詰める。キラービーの重低音の羽音だけが不気味に鳴り続けた。ただ空中で留まっているだけじゃない。キラービーは体中の細胞を撓めかせ、必殺の一撃を溜めているのだ。徐々に徐々にキラービーの羽音が重くなる。
そして、切り立った山の峰から、朝日が大地に差し込んだ、その時。
キラービーの羽音が一層その重さを増し、猛毒の針が朝日と共にペムペムへ降り注いだ。重力を巻き込み速度を増した毒針が、ペムペムへ向けて一直線に迫る。
「ペムペム、しっかり狙えよ」
不敵な笑みを湛えるレインが、ビシッとキラービーを指差す。力を溜めていたのは、キラービーだけじゃなかった。ペムペムも、キラービーに悟られないよう、ゼリー状の身体を撓めかせ、来るべき一瞬を狙っていた。
あわや、その毒針がペムペムの身体を貫こうとした、その瞬間。ペムペムは限界までためた力を解放し、その身体を地面とスレスレに打ち出した。キラービーと交差するようにペムペムの身体がはじけ飛び、地面を舐めるように滑走する。キラービーの複眼から、ペムペムの姿が消失する。キラービーの複眼は敵の一切の動きを捕捉するが、唯一背後に回った敵の動きまでは、自身の大きな羽が邪魔をして追うことが出来ない。
「決めろ、ペムペム」
ペムペムはただ回避したわけではなかった。地面スレスレを飛んだペムペムが、その身体を撓らせ地面を弾き、一気に飛び上がる。狙っているのはキラービーの背後にあった一本の大木だ。太い木の幹に、ペムペムの身体がぶつかる。ペムペムの身体が大きく潰れ、次の瞬間、木にぶつかった以上の速度と威力で、その身体をキラービーへと撃ち出した。必殺の一撃を外したキラービーは、迎撃の態勢を取れていない。
ペムペムの身体が、キラービーの背中、二つの羽の真ん中に直撃する。野生のキラービーは、気性こそ荒いがその体力は少ない。二度の跳弾により加速したペムペムの身体を受け止めたキラービーは、そのままペムペムと地面に挟まれ、気絶した。
「よくやったな。ペムペム」
「ぴぎぃ♪」
レインの労いに、ペムペムが嬉しそうに声を弾ませる。
「だけど、もともとはお前が調子に乗ったからだ。よって、この後の【体当たり】のトレーニング、プラス500回にするから、覚悟しとけよ」
「ぴぎっ!?」
得意げだったペムペムの表情が、一瞬にして凍りつく。
「さあ、いくぞ。ペムペム。戦闘した分時間食っちまったから、【体当たり】のトレーニングはちょっと急ぐぞ。休憩はほとんどないと思えよ」
「ぴぎぃぃっ!」
許してください、と言わんばかりに、ペムペムが目を丸くして涙を溜める。
そんなペムペムの懇願を完璧に無視し、レインは残りのコースを走り始めたのだった。
「ペムペム。ペースが落ちてるぞ。あと【体当たり】341回。気合い入れろ!」
「ぴぎぃー」
大きく鳴き声を上げたペムペムが、力強く地面を弾いてサンドバッグへと突撃する。小さな体がサンドバッグにぶつかり、ボスンと鈍い音を立てサンドバッグが吹き飛んだ。
「53ポイントか。だいぶ、威力が落ちてきたな」
レインが、手元の回数計と、サンドバッグに浮かび上がった数字を見比べる。
サンドバッグに詰められた砂は、衝撃や魔力に反応する特殊な鉱石を砕いたものを使用していて、与えたダメージを数値化して教えてくれる。しかも形状記憶及び位置記憶装置が施されているおかげで、元の位置まで自動で戻ってくれる優れものだ。
むくっと無限に起き上がってくるサンドバッグに、ペムペムは辛そうな表情を浮かべながら攻撃のスタート位置へ後退する。身体をぴょんぴょんと飛び弾ませないでずるずると身体を引きずるあたり、そろそろ本当にキツイのだろう。事実、与えるダメージは【体当たり】のトレーニングの開始時点から、すでに半分を大きく下回っていた。
スタート位置へ戻ったペムペムが、舌を出しながら苦しそうに息を吐く。
「どうした、ペムペム。もう限界か?」
「ぴぎー!」
挑発的なレインの声に、ペムペムは大きな声を上げながら、激しく身体を横にゆすった。
最弱は努力を重ねてなんぼ。限界だと嘆いて休んでいたら、それこそ本当の最弱だ。
「おっしゃ。その意気だ。じゃあ、次。残り、340回」
「ぴぎぴぎ!」
レインの覇気に、ペムペムは疲れた体に力を込め身体を小刻みに震わせながら体当たりの態勢を整える。そして、今まさにペムペムの身体が一つの砲弾となろうとした、その時。
「【ブレススパイラル】」
艶と力強さを織り交ぜた声が響き、螺旋状の炎がペムペムの脇を突き抜けた。
螺旋の頂点がサンドバッグを突き飛ばし、更に熱風を巻き起こす業火がサンドバッグを包み込む。熱風と炎に蹂躙されたサンドバッグは、ペムペムが先ほど突き飛ばした時とは比べ物にならない距離を吹き飛び、黒焦げになって地面を転がった。焼けただれた部分にうっすらと浮かんだダメージ指数は1049ポイント。突如サンドバッグを襲った業火の渦は、ただの一撃でペムペムの体当たりの実に約20倍の威力を叩き出した。
「攻撃とは、こういうものを言うのだぞ。レイン・エルハルト」
その声は、堂々とした足音と共に、ゆっくりとレインに近づいてきた。
「はぁ……。朝っぱらから……」
レインが辟易とした表情で肩を落とす。振り向かなくても分かる。こんな高飛車な喋り方をする女は一人しかいない。空を見上げて溜息を零したレインが振り返ると、そこには馬ほどのサイズのドラゴンを従えた、一人の少女が立っていた。
「人に攻撃の仕方を教える前に、もう一回初等部に戻って礼儀を教わってこいよ。エルニア・F・ミレーネブルク。朝の挨拶は、おはよう、だろ」
レインがこみ上げる苛立ちを抑えながら、目の前の少女を睨みつける。
深い煉瓦色の瞳。鮮烈な朱色の髪は前髪と横髪はショートに切り揃え、後ろ髪は三つ編みで腰まで流し、先端を筒状の髪留めで留めている。すらっと伸びた足に、慎ましい胸元。美少女というに何のためらいもない容姿だが、その立ち振る舞いにはか弱さの欠片もない。
エルニア・F・ミレーネブルク。
レインのクラスメイトであり、同時にレインが一番苦手な女子がそこに立っていた。
エルニアは不快そうに眉を寄せると、「ふん」とあからさまに鼻を鳴らして、綺麗に整えられた前髪を払った。
「すまないな。どうにも私は、幼稚な相手には幼稚な対応を取ってしまうらしい。私の礼儀が初等部なみというなら、お前の格も初等部ほどだということだろう」
「ほんと、その言い回しはどうにかならないのかよ」
相変わらず容赦のないその言葉にむしろ尊敬すら覚えながら、レインは小犬でも追い払うように手を振った。
「朝からお手本のような挑発ありがと。だけど、残念。俺たちはお前の相手をするほど暇じゃねぇんだよ。なぁ、ペムペム」
「ぴぎ」
不意の攻撃にぶるぶると怯えていたペムペムが、レインの声にピシッと姿勢を正す。サンドバッグは、すでにすっかり修復され、元の位置に戻っていた。
「させるか! 【ブレススパイラル】」
レインとペムペムがトレーニングを開始しようとした矢先、再び渦を巻く炎がサンドバッグを遥か彼方に吹き飛ばした。今度はかなり念入りに吹き飛ばされたようで、2・3のトレーニング施設を飛び越えたサンドバッグは、完全にレインの視界から見えなくなる。
「なんなんだよ!」
留まることを知らない理不尽な攻撃に、レインが声を荒らげて振り返る。そこには、大きく口を開け、炎の残滓を飲み込むドラゴンの姿があった。
緋色の鱗を身に纏った、エルニアのパートナー。《ホースドラゴン》のキールは、どこか申し訳なさそうに目を伏せながら、大きく頭を下げた。
(我が主が申し訳ない)
レインの脳に、重厚な声が響く。キールの声だ。高い知能を持つモンスターの中には、こうして念話で人間と会話できるモンスターがいる。さすがに、初めて話しかけられたときはレインも腰を抜かしそうになったが、今となってはもう慣れたものだ。
レインは、キールの眼を見ながら心の中で語りかけた。
(相変わらず振り回されてんな)
(普段は大人なのだがな、どうしてもやはり君には……)
「何を、人を無視して勝手にトレーニングを始めようとしている。まだ話は終わってないぞ。とんだ礼儀知らずだな」
「お前にだけは言われたくねぇよ!」
おそらく、キールはレインにだけ念話を飛ばしたのだろう。それにしてもエルニアの唯我独尊ぶりには頭が痛くなる。
一方、弱ったレインを見られたことに喜んだエルニアは、見下すように顎を上げると、自分の力を誇示するかのようにつつましい胸を大きく張った。
「ふふ。辛気臭い男だ、お前は。やはり、ドラゴンの紋章を授かった私と、スライムの紋章を授かったお前とでは格が違うようだな」
勝ち誇った笑みを浮かべ、エルニアはドラゴンを象る紋章が刻まれた右手の掌をレインに向けて突き出した。
この世界に生まれ落ちたものは皆、生まれながらにしてモンスターの紋章を授かる。その授かった紋章により、従えられるモンスターが決まるのだ。授かるモンスターの紋章は、遺伝が大きく影響する。両親、そしてその先祖が発現したことのあるモンスターの紋章が、子供に受け継がれていく。ごく稀に、今までの先祖に発現したことのない高位の紋章が子に発現することもあるが、99%は遺伝であるというのが学者たちの見解だ。
モンスターの紋章はこの世界で重要なステータスとなる。レアなモンスターの紋章を受け継げば、それだけで将来は約束される上、なにより異性から絶大にモテる。そりゃそうだ。なんて言ったって、自分の子供や子孫に、レアなモンスターの紋章が発現するチャンスが与えられるのだ。特に、モンスター界の双璧とされる神とドラゴンや、その次にレアな天使・悪魔などといった紋章を受け継いだものは、例え平民の出であっても、王室に迎え入れられることだってある。
ドラゴンの紋章を受け継いだエルニアも、例に漏れず男子から絶大な人気を誇っている。
この容姿や家柄ならば紋章がなくてもモテそうなものだが、少なくともレインはエルニアと付き合いたいとは思わない。
そもそも、レインとエルニアが付き合うことなんて永遠に、絶対に、万が一にもない。
人気の高いレアな紋章があれば、当然人気のない紋章もあるのが世の常だ。レインが授かったスライムの紋章は、その最たるものだろう。スライムは戦闘力が弱いうえに、経済的なモンスターとしても価値が低い。というか、無いに等しい。それはそうだ、スライムなんて、森、草原、山、湖、どこに行っても捕まえられる。わざわざ、飼育しようだなんて思わないし、そもそも需要がない。
人気のない紋章を授かった者には、紋章を消す《落紋》をする者が多いが、スライムの紋章を授かった者の《落紋》率は全紋章中堂々の第1位。理由は二つ。紋章に掛かる税制を回避するためと、単純に恥ずかしいからだ。
紋章の如何で格付けしようとする風習は、この世界が生まれた当時からあった。別に、レインは今更その風習をどうこう言おうなんて思っちゃいない。
レインにとっては、エルニアの言葉など鳥の羽よりも軽い。
ただし、言われっぱなしで引き下がる気はこれっぽっちもなかった。
「その、スライムトレーナーに負けたのは、どこのどいつだったかな」
とぼけたように言ったレインの言葉に、エルニアの澄ました顔が途端に紅潮した。
エルニアは以前、レインとペムペムに戦いを挑み、敗れてる。レイン自身、過去のことなので正直自慢する気もないが、調子に乗ったエルニアを黙らせるには、これが一番効く。
実際、効果は絶大だった。エルニアはまるで駄々をこねる子供のように頬を膨らませると、顔を真っ赤にして唇を歪めた。
「あ、あんなの。非公式の野良試合じゃないか」
「ああ、そうだ。学校の裏で、お前がいきなり喧嘩吹っかけてきたんだからな。記録もなんもない。だから、別に俺だって言いふらす気はねぇよ。けどな――」
笑みを消したレインが、一振りの剣のように視線を鋭くし、エルニアを睨みつける。その圧倒的な気迫に、動揺していたエルニアが熱いものにでも触れたように身を引いた。
レインは口元に不敵な笑みを浮かべると、その場で膝を付き、ペムペムの頭に手の平を乗せながら言った。
「あんまり、ペムペムのことを馬鹿にすると――本気で怒るぞ」
水を打ったように、辺りがしんっと静まり返る。レインの言葉には、言い返せない凄味と揺らぎない自信があった。エルニアですらレインの放つ気迫に鼻白み、息を飲む。
だが、エルニアはすぐに気を引き締めると、レイン以上の凄味を言葉に乗せて言った。
「ふ、ならば。その怒りは溜めておけ。今度の課外授業のパーティーを組むために、今日は生徒同士の模擬戦闘訓練をやるそうだ。パーティーの力量を揃えるための力試しという名目らしいが、そんなものどうでもいい」
レインに向けてエルニアはビシッと指を突き立てて、宣言した。
「公式の戦闘で格の違いを教えてやる。首を洗って待っていろ、レイン・エルハルト!」
一方的に締めくくったエルニアは、颯爽と身を翻し、悠然と女子寮の方へと歩き始めた。
(修練の邪魔をした非礼は、私が詫びよう)
その後を、帰りざまに念話を飛ばし、レインに頭を下げたキールが続く。
嵐が過ぎたトレーニング場で、小鳥の鳴く声がのどかに響く。レインがトレーニング場の東側に聳える学園の大時計を確認すると、そろそろ寮の食堂が開く時間になっていた。
「あ~、くそ。今朝の分のトレーニング、消化しきれなかった」
グシャグシャと髪を掻き乱したレインは、しばし悩んだ後、小さくため息を着き、ペムペムと共に生徒たちが目覚め始めた寮へと引き返した。
*
「そこまで。両者引き分け」
「んげっ。もうタイムアップかよ?」
審判役の生徒の声に、レインが慌てて制限時間を示す大砂時計へ視線を走らせる。砂時計の砂は、きれいさっぱり下のガラス球の中に落ちて大きな砂丘となっていた。
レインが視線を闘技台に戻す。闘技台の中心では、斧を構えたゴブリンとペムペムが、今まさに最後の打ち合いをしようとしていた。両者からあふれ出す熱は最高潮。対戦相手の生徒も、悔しそうに唇を噛んでいる。
「時間が短すぎるんだよ、くそ」
悪態を付きながら、レインが口惜しそうに砂時計を睨む。
「いっそ無視して……て、やっぱり駄目だよな。はぁ、しゃあない。ペムペム、下がれ」
がっくりと肩を落としながら、レインが手招きをしてペムペムを下がらせた。
「あ~あ、もう少しだったのにな。なぁ、ペムペム」
「ぴぎぃ~ぃ……」
ペムペムが残念そうに頷く。とはいえ、済んだことを考えていてもしょうがない。レインは肩の力を抜くと、労うようにペムペムの頭を撫ぜた。
「まぁ、負けなかっただけ良しとすっか。午前の対戦は終了。飯にしようぜ、飯に」
「ぴぎぃ、ぴぎぃぴぎぃ!」
ペムペムは大喜びで飛び跳ねると、元気よくレインの肩に飛び乗った。
すでに野外闘技場のあちらこちらでは、早々と午前中の組み合わせを消化した生徒とモンスターが昼食を食べ始めていた。レインも自分とペムペムの弁当を取り、ざっと適当な場所を探す。できれば涼しい木陰か、ベンチなんかの休めるところで昼飯にしたい。……したいが、考えることは皆同じ。レインが狙うところは先約で埋まっている。
いい場所が見つからず、仕方ないとため息を零したレインは、手近にあった闘技台の段差に腰を下ろした。
「熱っ!」
太陽と生徒たちの熱気で十分に熱された白石がジュッとレインの尻を焼き、顔を歪めたレインが飛び跳ねる。思わず絶句するほど、白石はとんでもない高温になっていた。
「お~お~、熱ぃ~。お前ら、よくこの上で戦ってたな」
「ぴぎぃ~」
暑さにやられてきたのか、ペムペムが舌を出しながら身体をぺしゃんこにして、蚊の鳴くような声で応える。スライムのペムペムは湿地には強いが暑さや乾燥には弱い。とてもじゃないが昼飯を食べられる環境じゃない。
どうしたものかと頭を悩ましていると、突然レインの視界の端で何かがピカッと光った。
「ん? なんだ?」
レインが首を捻る。少し離れた木陰で、顔なじみの男子生徒が大きく手を振っていた。
「レインー。こっちこっちー」
「ガゼット!」
手を振っていたのは、レインのクラスメイトでありルームメイトのガゼット・ガールバレスだった。すらりとした高身長。老若男女に好まれる柔和な顔つきで、シャープなメガネが知的さを醸し出している。額に刻まれた紋章は雷で、学年での成績は上位ランク。
現実にこんなやつがいるのかと思うほど、誰からも認められる完璧超人の友人だ。
レインがガゼットの方へ駆け出す。風通しの良い涼しい木陰には、4・5人は楽に座れるランチシートが敷かれ、そこに一人の女子生徒がちょこんと座っていた。
「お、アリカも一緒か。こんちは」
「こ、こんにちは。レイン君」
レインに声をかけられたアリカは、手をもじもじとさせながら、小さく微笑んだ。
「おまえらも、相変わらず一緒にいんな」
「まぁ、幼馴染だからね。それに、あんまり一人でいると、僕もアリカも声かけられてめんどくさいしさ。――君と違って」
「大きなお世話だ!」
笑いながら同情するように肩に手を置いてきたガゼットに、レインは激しく怒鳴りながらその手を振り払った。
ガゼットが授かった雷の紋章は、別名【精霊紋】と呼ばれ、ドラゴンや神などに比べれば稀ではないが人気が高い紋章だ。なぜなら、その使い勝手が恐ろしいほど広いのだ。【精霊紋】を授かったトレーナーは、その属性を宿すモンスターなら、本人の力量にもよるが理論上はあらゆるモンスターと契約できる。本来なら適応する紋章でなければ契約できないドラゴンや神ですら、その属性が雷ならばトレーナーの実力次第で契約することができる。上位の【精霊紋】トレーナーは王宮のお抱え魔獣錬磨師になることも多い。
当然、その人気度はレインのスライムの紋章とは比べ物にならない。加えて、このルックスだ。女子から人気が出ない方がおかしい。その腹黒さに関しては知らぬが仏だが。
ガゼットだけでなく、アリカの方も男子には多大な人気があった。ただし、アリカが授かった紋章はウルフであり、そこまでレアであったり、人気がある紋章ではない。
アリカの人気は「紋章と見た目を兼ね備えてこそ最高の恋人」と言われるこの世界には珍しく、紋章を抜きにした人気だ。
大きく純粋な瞳と、瑞々しい唇。男の独占欲をダイレクトに刺激する可愛さと儚さを兼ね備えた容姿に加え、顔つきとは裏腹な、兵器クラスともいうべき豊満な胸。料理の腕は一流なうえ、献身的な態度。性格は控えめで引っ込み思案だが、それがまた肉食系男子の煩悩に拍車をかける。男子陣ではいくつものアリカファンクラブがあるのは有名な話だ。
だが、そんな人気者のアリカだが、未だ彼女と付き合った男子は皆無である。
だれもが狙う美少女アリカ・セクスレンには、一人と一匹の強烈な番犬がいた。
「もう、ガっちゃん。レイン君をからかっちゃダメだよ」
「あはは、ごめんごめん」
「あ~、反省してない。ガっちゃんの分のご飯、抜きにするよ」
「ア、アリカ! ソレは卑怯だ!」
「悪い子にはお仕置きです」
「くっ、反抗期なのか」
「レイン君。ガっちゃんなんかほっといて、ご飯食べよう」
「お、おう」
「待て、アリカ。冷静に話し合おう」
「議論の余地なしです」
番犬その1 アリカを狙う男子に対して強烈な雷の裁きを落とすが、今はそのアリカにお仕置きを落とされている幼馴染ガゼット・ガールバレス。
「レオンー。おいでー。ごはんだよ」
「ぐるぅ」
番犬その2 さっきから隙あらばアリカに声をかけようとする男子を片っ端から威嚇で跳ね除けていた、ウルフ系モンスターの中で中級ランクに位置する《氷狼族》のレオン。
二人に比べれば、スライムトレーナーであり容姿も平均的なレインなんて、この場にいること自体が不釣り合いなのだが、そこは3人の仲と言うしかない。
自分とペムペムの修行しか頭になくて、恋人探しを初めから考えていないレイン。そんなレインを無害と判断し、なんだかんだでレインの思い描くプランが面白く、部屋も同室とあってレインと一緒にいることが多いガゼット。番犬+レインに守られ、落ち着いた時間を確保できるアリカ。そんな微妙な関係が、どうにも心地よい雰囲気を作り出していた。
「さてと。んじゃ、いただきます」
寮のおばちゃんに作ってもらった弁当を広げ、レインたちの昼ごはんが始まった。
「あ、あの。レイン君。ちょっといいかな」
「ん、なんだ?」
サンドイッチを頬張るレインが、控えめに声をかけてきたアリカの方に顔を向ける。
アリカは落ち着きなく視線を彷徨わせると、おずおずと自分の弁当の横に隠していた、クーラーバッグをレインに差し出した。
「え、えっとね。ペムちゃんに、モンスター用のお弁当作ってきたんだけど、よかったら食べさせてあげてもいい?」
「ペムペムに?」
「ぴぎぃ?」
目の前に出されたクーラーボックスに、サンドイッチを飲み込んだレインと自分のお弁当箱に顔を突っ込んでいたペムペムが、揃って目を輝かせる。
「うぅ……」
自分に集まった好奇の視線に、アリカが視線を泳がせながら自信なさそうに身を引く。レインは不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに視線をクーラーボックスに落とした。アリカの反応も気になるが、それ以上にクーラーボックスの中身の方が気になるのだ。
一方、アリカはレインたちの視線がクーラーボックスに注目するや否や、楽しそうに状況を伺っていたガゼットの袖を全力で引っ張った。
――ガっちゃん。やっぱり駄目だよ。恥ずかしいよ
――ここまで来て、何言ってるんだい?
――だって。もし、いらないって言われたら……
――大丈夫。そんなこと、レインは言わないし…………ボクが言わせるわけないだろ
唇を振るわせるアリカに、ガゼットは妖しく眼鏡を光らせながら純粋かつ邪悪に微笑んだ。いたずら好きのゴブリンですら裸足で逃げ出すその笑みを、アリカは知っている。昔、内気なアリカが苛められていたとき、イジメっ子を二度と立ち直れないほど完膚なきまでに叩きのめした、あの笑みだ。
――その、ね。今日はレイン君も疲れてるんだし、今度別の日に……
――疲れてるからこそ、飯で釣るんだよ。何事も、仲良くなるにはまず餌付けからさ
――餌付けって……
――それに、今日作ったのはペムペムのだろ。まだ、本番前の予行練習だよ
――そ、そうだけど……
「なぁなぁ、開けていいか?」
二人のやり取りなど露知らず、好奇心を抑えられなくなったレインが、じれったそうに身体を揺すりながらクーラーボックスを指差す。
「え! え、ええっと……」
イメージトレーニングを2、3個飛び越えてきたレインの言葉に、アリカがビクッと身体を縮こませる。ただでさえ小柄なアリカがますますもって小さくなった。
「いいんじゃない。アリカが君たちのために朝早起きして作ってきたんだからさ」
そこですかさずフォローを入れるガゼットは、もはやさすがと言うしかない。アリカが視線で抗議するが、もはや遅い。
アリカが制止する間もなく、レインの手はクーラーバッグの上蓋を持ち上げていた。
「……うぅ」
レインの反応を直視できず、アリカが目を瞑り、顔を背ける。
一方、当のレインの反応はと言えば……
「すっげー。めっちゃうまそーじゃねーかよ」
アリカの予想をいい方向に裏切り、満面の笑みでクーラーバッグの中を覗き込んでいた。
クーラーバッグの中には、綺麗な半球のゼリーが並んでいた。色は涼しげな薄黄緑と透き通った水色の二種類。ゼリーの中には、モンスター用のグミが漂うように浮かんでいた。
「これ、ペムペムに作ってきてくれたのか?」
「え、あ……うん」
「へ~、よく出来てるな。人間でも食えそうだし。ペムペムにやるのもったいねぇな」
「ぴぎぃ!」
レインの言葉に、口からよだれを垂らしてクーラーバッグを覗き込んでいたペムペムが、驚きと抗議が混ざった声を上げる。レインの言葉は冗談でなく、アリカが作ってきたゼリーは町のスイーツ店で並んでいてもおかしくない出来だった。
「モンスター用の料理を欲しがるなんて。レイン、ようやく君は人間を辞めたのかい?」
「『ようやく』って何だ。まるで、前から俺が人間を辞めたかったみたいじゃないかよ」
「あはははは、何を今さら!」
「こぉら! せめて否定をしろ、否定を!」
楽しそうにぼけるガゼットに、レインがそのわき腹を肘で小突く。
そんな二人をよそに、目の前でずっと「おあずけ」をくらっていたペムペムは、もはや我慢の限界とばかりにクーラーバッグに顔を突っ込み、ゼリーにかぶりついた。
シャリッと、ペムペムが噛みついたゼリーが、涼しげな音を立てる。確かに外側はゼリー状だったが、その中はシャーベットになっていた。二種類の食感が、ペムペムの口の中に折り重なって広がる。そして、その味はと言えば……
「ピッギーーーー!」
すでに寮のおばちゃんが作ってくれた弁当の3分の2を食べ終え、お腹が膨れたはずのペムペムが叫ばずにはいられない味だった。食べかけの弁当のことなど完全に忘れ、ペムペムがアリカの弁当に顔面から喰らいつく。
「すっげー、食ってるし」
レインが半ば呆れ気味に呟く。ペムペムはその身体をきれいにクーラーバッグに詰め込んでしまっていた。傍から見ていると、「お前がゼリーかよ」とツッコミたくなる。
「う~ん。これはキツイ躾が必要だな」
自分のパートナーの食い意地の張り方に、レインの眼がギランと光る。よし、夕方からのトレーニングは地獄のとっておき、鬼も泣き出すスペシャルメニューにしよう。
「はふぅ。……よかった」
一方、強大なモンスターに立ち向かったかのような緊張感から解放されたアリカは、レインに気付かれないように小さく安堵の息をついた。アリカがガゼットに小さなガッツポーズを送る。ガゼットは片手を広げて、「50点」と声を出さずに唇だけ動かした。
「ん? ガゼット、なにやってんだ?」
「何でもないよ。さてと、僕もご飯にしようかな。ね、アリカ」
「あ、う、うん。エヘヘヘヘ。私もご飯食べなきゃ。はい、レオン。待たせてごめんね」
自然な笑顔のガゼットと不自然な笑みを浮かべるアリカに、レインがますます首を傾ける。けれど、アリカとレオン、ガゼットとガゼットの懐からひょこっと出てきた雷の精霊のピックが昼ご飯を食べ始めるのを見てると、なんだかどうでもよくなってきた。
まぁ、いいや、とレインが次のサラダサンドイッチを口に運ぶ。三人の間で他愛もない話に花が咲く。飯は旨いし、天気はいい。実に心地いい、昼休憩の時間だ。
「あ~あ。レインと引き分けとか、マジでダッセーよな~」
そんな心地よい時間は、わざとらしく大声で話す二人の男子生徒に粉々にぶち壊された。
高笑いをしながら、二人の男子が歩いてくる。一人は午前中最後の模擬戦でレインが対戦したゴブリン使いだ。ゴブリン使いの生徒はちらりとレインたちの方へ視線を向けると、その反応を確かめるようにさらに言葉を続けた。
「あんな雑魚のスライムなんかと引き分けとか、ほんと笑えねぇし」
「はは、そりゃ災難だったな。どうしたんだよ、調子悪かったのか?」
「ああ、実はその前の試合で、ちょっとでっかいダメージもらっちまってな。でもよぉ、制限時間がなかったら、俺の圧勝だったぜ」
へらへらと笑いながら、二人がレインたちに近づいてくる。そして、レインたちのすぐ脇まで来ると、さも今気づきましたとばかりにわざとらしく笑い始めた。
「おっと、噂をすればレインじゃねぇか。ワリーワリー、オーラがなくて気が付かなかったわ。雑魚キャラ過ぎると、存在感ないよなぁ」
上から目線の威圧的な笑みに、アリカが嫌そうな顔をする。その隣に控えるレオンの鼻頭に獰猛な皺が寄った。低いうなり声を上げ、レオンが男子生徒たちを牽制する。
「言わせとけ、レオン」
そんなレオンを、レインは興味なさそうに軽く手を振りながら押し留めた。
「なんだよ、レイン。せっかく守ってくれる番犬に、その態度はないんじゃないか」
言い返さないことをいいことに、ゴブリン使いがさらにレインを挑発する。
レインはガゼットに目を走らせて軽く肩を竦めた。ガゼットも、レインに倣いつまらなさそうにメガネの位置を直す。
「ガゼット、その唐揚げもらっていいか?」
「ん、いいよ。はい」
「サンキュー」
「ちょ、ちょっと。二人とも……」
二人にはゴブリン使いの挑発なんてどこ吹く風だった。まるで関心がないように、二人は自分たちの相棒と共に昼ご飯を再開する。
そんな二人の態度が気に食わなかったのか、ゴブリン使いは怒りに唇を歪めると、途端に声を荒げだした。
「なんだ、てめぇら。この腰抜け野郎。負け犬野郎! 何か言い返してみろよ!」
「ワン、わんわん。わおーん。これでいいか? 言いたいこと言ったらさっさと帰れよ」
逆切れするゴブリン使いを適当にあしらいながら、レインがほのぼのとお茶を啜る。
そんなレインの態度にゴブリン使いがこめかみに青筋を立てていると、一緒に歩いてきた生徒がゴブリン使いの脇腹を肘で小突いた。
「おいおい、落ち着けよ。こんなランキング最下位の奴にマジになるなって」
「そ、そうだな。確か、この間のランキングじゃ250人中231位だっけか?」
「残念。230位だ」
ニヤリと笑って答えるレインに、ゴブリン使いはどういう表情を作ったらいいのか分からず渋面を浮かべて吐き捨てた。
「お前は皮肉が分からなねぇのかよ」
「皮と肉ぐらいはわかるぞ」
「そういうことを言ってんじゃねぇ!」
「じゃあ、そういうお前は何位なんだよ?」
レインの質問に、ゴブリン使い見下すようにレインを睨むと胸を張って答えた。
「123位だ」
自信を持って答えるゴブリン使いに、今度はレインの頬が引き攣った。
「うわ……、びみょ~」
「それでよく堂々とレインに喧嘩が売れるね」
「1・2・3で無駄に揃ってるところが救いだな」
レインとガゼットが思わずあきれ果てる。半分のほんの少し上でこの態度を取るとは、器がデカいのか小さいのか……
一方、自信満々に自分の順位を披露したゴブリン使いは、二人の反応が気にくわず忌々しげに地面を踏み鳴らした。
「くそ、腹立つ奴らだ。いいか、いい気になるなよ、レイン。制限時間なんてねぇ本当の実戦だったら、俺のゴブリンがお前のスライムなんかと引き分けで終わるはずがないんだからな。それに、今日の模擬戦はトレーナーへの攻撃も【契約の絆】も禁止だったろ。トレーナー攻撃ありのランキング戦なら、お前らなんかKOしてやらぁ。お前のスライムと俺のゴブリンとじゃ、格が違うんだよ。格が!」
「本当の実戦――ねぇ」
ゴブリン使いの言葉に、「ふ~ん」と意味深げに鼻を鳴らし、レインは静かに微笑んだ。
その口元に、ただならぬ好戦的で危うい笑みを湛えながら。
「な、なな……」
笑みから漏れる殺気に、ゴブリン使いが思わず怯む。戦いに飢えた鬼族の如き好戦的で、炎の精霊の如く燃えたぎる壮絶な笑み。その笑みに刻まれているのは、スライムトレーナーにはおおよそ似つかわしくない確固たる自信だった。レインがその笑みを浮かべたのは一瞬だったが、ゴブリン使いを黙らせるには十分だった。
場の空気が俄かに緊迫する。
「聞くに堪えんな」
悠然とした声が、緊迫した空気ごとその場を支配した。
「これはこれは。学年ランキング3位のお出ましだ」
ガゼットが中指でメガネを押し上げながら、楽しそうに呟く。
そこには緋色の鱗を輝かせるキールを従えたエルニアが立っていた。ただ、眉は吊り上り、誰の眼にも不機嫌であることがよくわかる。
エルニアは、怒っていた。
ドラゴン使い。その紋章だけで並みの魔獣錬磨師はひれ伏すが、エルニアが放つ怒気の支配力はある意味それ以上だ。なまじエルニアが美人であるだけに、彼女の怒った顔は、それだけで段違いに迫力がある。
ただの一言でその場の支配権を得たエルニアは、煉瓦色の瞳でゴブリン使いを射抜いた。
「おい、お前」
「は、はいっ!」
レインには高圧的に出ていたゴブリン使いが、エルニアの言葉に背筋を伸ばす。
エルニアはゴブリン使いを値踏みするように頭から足まで観察すると、研ぎ澄まされた刃のように鋭く目を細め、「ふん」と苛立たちを隠そうともせず鼻を鳴らした。
「さっき、お前は『格の違い』がどうとかと言っていたな」
「え、あ、いや……」
「言っていたな!」
「ひゃ、ひゃい!」
問い詰めるエルニアに、顔中に汗を滴らせたゴブリン使いが裏返った声で慌てて答える。
「気に食わんな」
エルニアは吐き捨てるように言った。
「堂々と戦いを挑むならいざ知らず、戦いの外で嘲り罵る。貴様にはプライドがないのか? それとも、よほど腕に覚えがあるのか? ならば私のキールが貴様のゴブリンの相手をするぞ。なんでも、本当の実戦がお望みらしいな」
エルニアの言葉を受け、キールが実に雄々しく、勇ましく、まさにモンスター界の王と呼ぶにふさわしい態度で喉を鳴らし、ゴブリンを睨みつける。キールに睨みつけられたゴブリンはぶるぶると震え、全身から汗を噴き出させた。押せば倒れそうなゴブリンは、もはや戦意喪失どころの騒ぎではない。主が発端とはいえ、実に気の毒なゴブリンである。
「どうした、さっきまでの威勢はどこへ行った? ランキングがそんなに気になるというなら、私に勝った暁にはこのエンブレムをくれてやる」
そう言って、エルニアは制服の二の腕に刻まれたエンブレムを引っ張った。学年上位10位までが制服に刻むことを許された強さの証。本来なら軽々と賭けられるものではない。
キールがモンスター界の王たる泰然とした態度を取るならば、エルニアは女騎士のように凛然とした態度で、ゴブリン使いと向かい合った。
「本当の格の違いというものを、私が教えてやろうか?」
「い、いいいい、いえ。し、失礼しました!」
完全にエルニアに屈服したゴブリン使いが、ゴブリンを抱え仲間と共に一目散に逃げ去っていく。その瞬間、一部始終を見守っていた他の生徒たちから歓声が上がった。
エルニアが涼しげな微笑みを浮かべ、歓声を上げる生徒たちに軽く手を振る。
「お~お、まるで英雄だな」
「何をのんきなことを言っている」
感心したようにレインが呟くと、それまで生徒たちに微笑みを浮かべていたエルニアの表情が一転した。ゴブリン使いを黙らせたような鋭い視線で、エルニアがレインを睨みつける。ただ、その表情は怒っているというより、どこか悔しそうだった。
「なぜ貴様は、あれだけ言われて何も言い返さない! 答えろ、レイン・エルハルト」
「なぜって、言われてもなぁ」
「はぐらかすな!」
曖昧な返答は許さない、とエルニアが鋭い視線で釘を刺す。レインは肩を竦めながら、どうしたものかとガゼットの方へ視線を流した。レインの視線に、ガゼットは「答えてあげたら」と素直な意見を述べる。
レインは「はぁ~あ」と軽く息を吐くと、このひと騒動の中、ちゃっかり満腹になって昼寝を始めているパートナーを膝の上に乗せながら、エルニアの質問に答えた。
「あんなの相手にしてたらキリがないだろ。あんな挑発、俺にはもう日常会話の域だぜ」
「だからと言って、言わせておけばいいというわけでもないだろう」
「いや、それはそうかもしれねぇけど。てか、そもそもなんでお前が怒ってんだ?」
「貴様が馬鹿にされると、私が悔しいのだ!」
エルニアの声が闘技場一帯に響く。
………………はい?
沈黙の波紋が、静かに生徒の中に浸透する。その頭上に生まれる疑問の?マーク。疑問が生まれれば、おのずとその思考は解答へと向かう。
今のエルニアの言葉に対する解答は、くしくも生徒たちのほとんどが一致した。
「ちょちょちょちょちょ、今の聞いた?」
「まさか。あり得ないでしょ。エルニア姉さまが。相手はあのスライムトレーナーだよ」
「くそ、なんなんだ。誰か、誰か間違いだと言ってくれ」
「待て待て待て待て待て、落ち着くんだ。お前ら、冷静になれ!」
「お前が一番冷静になれ! 今お前が食ってる魚、お前のパートナーだぞ」
静寂に亀裂が入り、一気に崩壊する。なにより奇跡なのは、その崩壊に、その静寂と混沌を生み出した本人が気づいていないということだ。
「ん、なんだ? なんだ、この空気は?」
広がる波紋、妙に生温かい視線、エルニアが訝しげに辺りを見渡す。
「エ、エルちゃん」
そんな、ただ一人事態を把握していないエルニアに、ある意味この場にいる誰よりも衝撃を受けたアリカが、震える声で声をかけた。
「ん、どうした。アリカ。顔色が悪いぞ。そして、なんだ。この、妙に生温かい空気は。居心地が悪い」
「だって、エルちゃん。今の言葉……」
「言葉? 私が何かおかしなことを言ったのか?」
「レイン君を馬鹿にされると、エルちゃんが悔しいって」
「確かに言ったが、その言葉のどこ……にぃっ!?」
悟った、今、エルニアはすべてを悟った。その顔が、熟れきったリンゴのように紅潮する。身体は羞恥にわなわなと震え、威厳としていた態度は澄み切った空の彼方へ霧散した。
「ち、ちち、ちがーう。みんな、よく聞け。私は、そんなつもりで言ったんじゃないぞ。私が言いたかったのはだな!」
必死で弁解するエルニアだが、思春期真っ盛りの学生たちにその言葉が届くはずがない。むしろ、必死に弁解すればするほど、生徒たちの好奇の視線は熱くなるばかりだ。
羨望の視線とはまるで違う、好奇心を集めた熱視線。普段は凛然と言葉を紡ぐエルニアの唇が、わなわなと震える。
「くくくくくく…………」
「何がおかしいんだ?」
「おかしいわけあるか、レイン・エルハルト!」
不用意に声をかけたレインの胸ぐらを、エルニアが半泣き状態になりながら掴みかかる。その顔はもはや熱いほど紅潮し、あまりの熱気に眠りこけていたペムペムが目を覚ます。
「お前、どどどどど、どうしてくれるんだ?」
「いや、俺が一体何をした?」
「こんな辱めは、生まれて初めてだ!」
「あ、いや~。あ~、うん。心中察するぞ。お気の毒に」
「貴様なんぞに、同情されたくないわ!」
悲鳴に似た声を上げながら、エルニアがレインを突き飛ばす。
「私が。こんなスライムトレーナーごときと、そんな不埒な関係と誤解されるなど。家名の恥だ」
「いや、それはさすがに俺に失礼すぎるだろ。まぁ、極東の島では、人の噂も75日で消えるらしいぞ。気長に待ったらどうだ?」
「75日だと。そんなに待てるか! 気が狂う」
綺麗な髪を掻き乱し、エルニアが激しく取り乱す。口元に手を当てブツブツと独り言を呟く姿はただただ異様だ。とてもじゃないが、他人が声をかけられる雰囲気ではなかった。
静寂の中、ほとんど聞き取れない独り言が続くこと数分。
エルニアは突然荒々しく息をつくと、もう一度レインの胸ぐらに掴みかかった。
「私にこれほどの辱めを与えたのだ。レイン・エルハルト。責任は取ってくれるんだろうな?」
「あのなぁ、お前さあ。自分の言葉が、自分の首を絞めてることに気が付いてるか? そんな言い方したら、余計に誤解を招くだけだぞ」
「~~~~~~~~~っ! お前、この期に及んで、まだ言うか!」
「いや、だから。自滅してるのはお前だって」
どうやって宥めたものかとレインが困っていると、不意に頭の中で声がした。
(主が迷惑をかける)
キールだ。
(いや、いいんだけどさ。さすがに、そろそろどうにかしてくれないか、お前の主様を)
(すまぬな。こうなっては、もはや誰の声も届かんのだ。親方様でも、こうなった主には手を焼いている。止められるのは、姉君ぐらいのものだ)
(ああ、生徒会長ね)
(そうだ。しかし、まぁ。なんだ)
そこでいったん言葉を区切ったキールは、鋭い牙の並んだ口元に笑みを作りながら、レインに再び念話を飛ばした。
(貴様も、主ならまんざらでもないだろう)
(お前、ちょっと親父臭いぞ)
異常なほど親近感を覚えるキールの話し方に、レインがスッと肩の力を抜く。知能の高いモンスターは、みんなキールのように人間くさいのか?
そんなことを考えていると、脈略のない言葉をばかりを叫んでいたエルニアが意を決したようにレインの胸ぐらから手を離し、仁王立ちになってビシッとレインを指差した。
「勝負だ、レイン・エルハルト」
「はい?」
「勝負と言ったら勝負だ。午後の第一試合。貴様と私の勝負であることは知っているな」
「ああ。そういや、そんなスケジュールだったな」
「そこで私と勝負しろ。貴様が負けたら、全生徒の前で『自分は女には興味がありません』と公言してもらう」
「ふざけんな! それじゃあ、まるで俺が男に興味があるみたいじゃないか」
ブルッと、レインが本気で身を震わせる。冗談じゃない。何が悲しくて、男の園の中に足を突っ込まないとならんのだ!
「つか、なんで俺がそんな何の得もない条件を飲まないといけないんだよ。俺のメリットはなんだっ?」
「チッ。それもそうだな」
舌打ちをするものの、エルニアは意外なほどあっさりレインの言葉に首肯した。自分で決めたことにはまっすぐで、そんなときは他人のことなどまるで考えないエルニアだが、正々堂々な勝負を重んじる気位の高さは人一倍だ。一方的な意見や条件を押し付けたりはしないところが、強引ながらも人を惹き付けるエルニアの持ち味なのだろう。
エルニアはひとしきり考えると、自信という文字が後ろに見えるほど自信満々な笑みを湛え、声高らかに宣言した。
「百が一、千が一、万が一。いや、億が一に貴様が勝ったら。その時は、なんでも貴様の言うことを一つだけ聞いてやろう。私がほしいというなら、そう願えばいい。その時は、潔くお前の恋人にでもなんでもなってやる」
どうだ、とばかりに、エルニアが胸を張って宣言する。
その言葉に、レインは手を顔に当て、ガゼットは楽しそうに笑い、アリカは両手で口を塞ぎ、その他の生徒たちは思い思いのリアクションで驚きを表現した。
「お前、バカだろ」
「ふん、そう言っていられるのも今のうちだ。待っていろ。私と貴様の格の違いを教えてやる。ハーッハッハッハッハッハ」
声高らかに笑いながら、エルニアがキールを従えその場を後にする。
エルニアがレインたちから十分に離れた頃、レインの頭の中に再びキールの声が届いた。
(まぁ、なんだ。悪い子でないことは分かってくれただろう)
*
魔獣錬磨師育成学園【ベギオム】。その北西側にある闘技場の一角は、異様ともいえる熱気に包まれていた。学生同士の対戦など相当な好カードがない限り普通なら誰も見ない。さらに言えば、ドラゴンとスライムの戦いなんて勝敗が火を見るより明らかだ。
普通なら見たって面白くもなんともない……はずなのだが。
「お前ら、自分のバトルに集中しろよ」
闘技台に上りながら、レインは呆れ気味に呟いた。第4闘技台には今日一番の観客が集まっている。ふと周りを見れば、ほかの闘技台は軒並み空になっていた。
「貴様こそ、目の前の戦いに集中したらどうだ! レイン・エルハルト」
突き刺さるような声に、レインが視線を対戦相手に向ける。エルニアはキールを従え、その燃えるような煉瓦色の双眸でレインを睨みつけていた。
「どうでもいいけどよ。お前、いつまで俺のことフルネームで呼ぶつもりだ?」
「ふん。貴様が勝ったら、何とでも呼んでやる。万が一にでも私が負けたら、貴様の奴隷にならなければならないからな」
「おい、こら。人を悪人みたいにいうな」
「なんだと。奴隷でも生ぬるいというのか。貴様、私に何を望む気なんだ!」
羞恥に顔を赤らめたエルニアが、身を守るように両手で自らの身体を抱き締める。途端に、周囲の生徒たちからすさまじい罵声がレインに飛んだ。いやいや、勘違いも甚だしい。というか、どういう思考回路しているんだ、この女は?
箱入り娘の世間知らずとは聞いていたが、エルニアの思考回路はレインたち平民の斜め上を行くらしい。レインは諦めたように顔に手を当てて、力なく言った。
「もう、いいわ。試合始めようぜ」
「っく。私の身体が早くほしくてたまらないだと。この、変態が!」
「ほんと、いい加減にしろよ。マジで!」
「フン。冗談が通じない奴だ」
「どっからどこまでが冗談なんだよ!」
さすがに苛立ってきたレインに、エルニアが、ふふん、と愉悦たっぷりに鼻を鳴らす。
レインは、それ以上の追及を諦めた。というより、言葉でのコミュニケーションを諦めた。戦いへの闘気が萎える前に、こんなわけのわからない問答はさっさと終わらせたい。
馬鹿げた話は終わりだと、レインは声のトーンを落とし、浮ついた気持ちを引き締めた。
「これでも、俺はお前と戦うの、けっこう楽しみにしてたんだぜ」
「何をいまさら。なんの冗談だ?」
突然、エルニアの表情が変わる。戦いに挑むその闘志は、煉瓦色の双眸をより一層輝かせた。さっきまでの羞恥に怯える乙女は、すでに影も形もない。
エルニアがドラゴン使いとして十二分な覇気を纏い、レインと向かい合う。並みの魔獣錬磨師なら、竦んで戦意を放棄しているところだろう。
「さすがだな。おもしれぇ」
だが、レインは竦むどころかエルニアの覇気に呼応するように熱の籠った笑みを浮かべた。スライムの紋章を受けた者にあるまじき好戦的な笑みに、生徒たちが息を飲む。
両者の視線が混じり合い、壮絶な火花が闘技場に咲き乱れた。互いの眼に刻まれるのは、敗北など考えない自信の二文字。舌戦から実戦へ。生徒たちが大きな声援が乱れ飛ぶ。
「ペムペム、いつも通りだ。俺は、お前だけを信じる」
「ぴぎ」
レインがペムペムに語りかけながら、闘技台の中心を指差す。ペムペムはレインの意志に従うと、ゆっくりとその指先へ身体を移動させた。
「キール。分かってると思うが、遠慮はいらない相手だ。お前の力、存分にみせてやれ」
(そのようだな)
エルニアが腕を組んだまま、ほんの少しだけ緊張した声でキールに語りかける。レインとペムペムは、非公然とはいえエルニアとキールに土を付けた相手だ。
口では余裕を滲ませていたが、エルニアは決してレインを過小評価していない。
エルニアの脳裏に、最弱のモンスターであるスライムに打ち倒されたキールの姿が蘇る。
「あの悔しさは忘れんぞ!」
吐き出す言葉には、並々ならない決意が込められていた。そんな激情を隠しもしないエルニアに、キールが大きく翼をはためかせながら、落ち着いた口調で語りかける。
(主よ、熱くなるのはよいが。今日の闘争が模擬戦であることを忘れてはおるまいな。レインへの攻撃は禁止事項だ)
「…………分かっている」
(分かっているなら、なぜ我から目を背けるのだ?)
あからさまに目を逸らすエルニアに、キールは厳しい視線を送った。
校内のランキング戦とは違い、今日の模擬戦はあくまで生徒たちのパワーバランスを見ることが目的であり、それゆえに危険を伴うトレーナーへの攻撃と、使用後にトレーナーが大きく疲弊する【契約の絆】が禁止されている。これは、普段のトレーナー同士の決闘とは大きく違う。本来、トレーナー同士の戦闘なら、モンスターを迎撃しつつトレーナーを狙うのが定石だ。トレーナーが気絶すると契約の効果が薄れ、モンスターが弱体化する。
だが、今日はその定石が通じない。
「ふん。敵などもろともに焼き払えばいいものを!」
歯に衣を着せぬエルニアの言い方に、キールは苦笑するように口元を歪めながら、長い首を折ってそっとエルニアに角を摺り寄せた。
(主よ、こう考えてはどうだ? モンスター同士のバトルに専念できるということは、それだけ明確に我とあのスライムとの実力が出るというものだろう)
「なるほど、そうか! さすがキール、よく気が付いた。その通りだな! 過去の汚点を消し去るには、今日はまさに最良の日!」
知識が高いドラゴンとはいえ、モンスターに諭されたエルニアはその事実を恥じることもせず高笑いする。一方、エルニアの思考がいい方向に流れたのを確認したキールは、小さく翼を振るわせると、その鋭い双眸を戦いに向けて柔軟を始めたレインたちへ向けた。
キールとて、二度も同じ相手に負けるつもりはない。キールは再戦への興奮に大きく翼を羽ばたかせる。燃えるような熱風が生まれ、エルニアの炎の如き髪を靡かせた。
炎の風を生み出しながら、キールがエルニアを守るように彼女の前へ歩み出る。
その雄姿に、レインの口から口笛が漏れた。
「ひゅ~、さすが。圧巻だな」
馬のように四肢を地面に突き立てるキールは、《ホースドラゴン》という種類に分類される。しなやかさと強靭さを併せ持った四肢が生み出す爆発的な突進力は、ドラゴンの中でも群を抜いている。背中に炎を具現化したかのような四枚の翼を生やし、誇りと忠誠心によって固められた瞳で敵を見据えながら悠然とたたずむ姿は、いつ見ても惚れ惚れする。まだ発展途上期であるとはいえ、キールからはすでに王者の風格が漂っていた。
闘技場の両端でペムペムとキールが睨み合う。
だが、この威圧感の差をいったいどう表現したらいいだろうか。片や、全モンスターの中で最高クラスの攻撃力と持久力、そして耐久力を誇り、全トレーナーの憧れの的であるドラゴン。片や、全モンスターの中で最弱のスペックであり、戦闘よりはむしろ愛玩用として扱われるスライム。学者の中では、スライムより人間の戦闘力が高いとさえ言われている。改めて向かい合った両者のモンスターに、生徒の間では笑いが零れ、どこか冷めたムードさえ漂っていた。
レインも、別にそれを悔しいとは思わない。
そういうものだ、この世界は。
「だからこそ、面白いんだよなぁ」
興奮に乾いた唇を舐める。ぞわりと、背中や肩を包み込む震えは、武者震い。
この圧倒的な戦力差を前に、レインの瞳には敗北に対する懸念など微塵もなかった。
レインとエルニアがゆっくりと闘技台の端へ移動し、トレーナーがパートナーに指示する指揮台へと上る。改めて自身のパートナー越しに向かい合い、両者は声高らかに叫んだ。
「スライムトレーナー、レイン・エルハルト。そのパートナー、ペムペム」
「ドラゴントレーナー、エルニア・F・ミレーネブルク。そのパートナー、キール」
「「己が紋章と、パートナーの名に懸けて。勝負!」」
本当の戦場に挑むかのような魂の叫びと共に、戦いの火ぶたが切られた。
魔獣錬磨師育成学園【ベギオム】。その北西側にある闘技場の一角は、異様ともいえる熱気に包まれていた。学生同士の対戦など相当な好カードがない限り普通なら誰も見ない。さらに言えば、ドラゴンとスライムの戦いなんて勝敗が火を見るより明らかだ。
普通なら見たって面白くもなんともない……はずなのだが。
「お前ら、自分のバトルに集中しろよ」
闘技台に上りながら、レインは呆れ気味に呟いた。第4闘技台には今日一番の観客が集まっている。ふと周りを見れば、ほかの闘技台は軒並み空になっていた。
「貴様こそ、目の前の戦いに集中したらどうだ! レイン・エルハルト」
突き刺さるような声に、レインが視線を対戦相手に向ける。エルニアはキールを従え、その燃えるような煉瓦色の双眸でレインを睨みつけていた。
「どうでもいいけどよ。お前、いつまで俺のことフルネームで呼ぶつもりだ?」
「ふん。貴様が勝ったら、何とでも呼んでやる。万が一にでも私が負けたら、貴様の奴隷にならなければならないからな」
「おい、こら。人を悪人みたいにいうな」
「なんだと。奴隷でも生ぬるいというのか。貴様、私に何を望む気なんだ!」
羞恥に顔を赤らめたエルニアが、身を守るように両手で自らの身体を抱き締める。途端に、周囲の生徒たちからすさまじい罵声がレインに飛んだ。いやいや、勘違いも甚だしい。というか、どういう思考回路しているんだ、この女は?
箱入り娘の世間知らずとは聞いていたが、エルニアの思考回路はレインたち平民の斜め上を行くらしい。レインは諦めたように顔に手を当てて、力なく言った。
「もう、いいわ。試合始めようぜ」
「っく。私の身体が早くほしくてたまらないだと。この、変態が!」
「ほんと、いい加減にしろよ。マジで!」
「フン。冗談が通じない奴だ」
「どっからどこまでが冗談なんだよ!」
さすがに苛立ってきたレインに、エルニアが、ふふん、と愉悦たっぷりに鼻を鳴らす。
レインは、それ以上の追及を諦めた。というより、言葉でのコミュニケーションを諦めた。戦いへの闘気が萎える前に、こんなわけのわからない問答はさっさと終わらせたい。
馬鹿げた話は終わりだと、レインは声のトーンを落とし、浮ついた気持ちを引き締めた。
「これでも、俺はお前と戦うの、けっこう楽しみにしてたんだぜ」
「何をいまさら。なんの冗談だ?」
突然、エルニアの表情が変わる。戦いに挑むその闘志は、煉瓦色の双眸をより一層輝かせた。さっきまでの羞恥に怯える乙女は、すでに影も形もない。
エルニアがドラゴン使いとして十二分な覇気を纏い、レインと向かい合う。並みの魔獣錬磨師なら、竦んで戦意を放棄しているところだろう。
「さすがだな。おもしれぇ」
だが、レインは竦むどころかエルニアの覇気に呼応するように熱の籠った笑みを浮かべた。スライムの紋章を受けた者にあるまじき好戦的な笑みに、生徒たちが息を飲む。
両者の視線が混じり合い、壮絶な火花が闘技場に咲き乱れた。互いの眼に刻まれるのは、敗北など考えない自信の二文字。舌戦から実戦へ。生徒たちが大きな声援が乱れ飛ぶ。
「ペムペム、いつも通りだ。俺は、お前だけを信じる」
「ぴぎ」
レインがペムペムに語りかけながら、闘技台の中心を指差す。ペムペムはレインの意志に従うと、ゆっくりとその指先へ身体を移動させた。
「キール。分かってると思うが、遠慮はいらない相手だ。お前の力、存分にみせてやれ」
(そのようだな)
エルニアが腕を組んだまま、ほんの少しだけ緊張した声でキールに語りかける。レインとペムペムは、非公然とはいえエルニアとキールに土を付けた相手だ。
口では余裕を滲ませていたが、エルニアは決してレインを過小評価していない。
エルニアの脳裏に、最弱のモンスターであるスライムに打ち倒されたキールの姿が蘇る。
「あの悔しさは忘れんぞ!」
吐き出す言葉には、並々ならない決意が込められていた。そんな激情を隠しもしないエルニアに、キールが大きく翼をはためかせながら、落ち着いた口調で語りかける。
(主よ、熱くなるのはよいが。今日の闘争が模擬戦であることを忘れてはおるまいな。レインへの攻撃は禁止事項だ)
「…………分かっている」
(分かっているなら、なぜ我から目を背けるのだ?)
あからさまに目を逸らすエルニアに、キールは厳しい視線を送った。
校内のランキング戦とは違い、今日の模擬戦はあくまで生徒たちのパワーバランスを見ることが目的であり、それゆえに危険を伴うトレーナーへの攻撃と、使用後にトレーナーが大きく疲弊する【契約の絆】が禁止されている。これは、普段のトレーナー同士の決闘とは大きく違う。本来、トレーナー同士の戦闘なら、モンスターを迎撃しつつトレーナーを狙うのが定石だ。トレーナーが気絶すると契約の効果が薄れ、モンスターが弱体化する。
だが、今日はその定石が通じない。
「ふん。敵などもろともに焼き払えばいいものを!」
歯にものを着せないエルニアの言い方に、キールは苦笑するように口元を歪めながら、長い首を折ってそっとエルニアに角を摺り寄せた。
(主よ、こう考えてはどうだ? モンスター同士のバトルに専念できるということは、それだけ明確に我とあのスライムとの実力が出るというものだろう)
「なるほど、そうか! さすがキール、よく気が付いた。その通りだな! 過去の汚点を消し去るには、今日はまさに最良の日!」
知識が高いドラゴンとはいえ、モンスターに諭されたエルニアはその事実を恥じることもせず高笑いする。一方、エルニアの思考がいい方向に流れたのを確認したキールは、小さく翼を振るわせると、その鋭い双眸を戦いに向けて柔軟を始めたレインたちへ向けた。
キールとて、二度も同じ相手に負けるつもりはない。キールは再戦への興奮に大きく翼を羽ばたかせる。燃えるような熱風が生まれ、エルニアの炎の如き髪を靡かせた。
炎の風を生み出しながら、キールがエルニアを守るように彼女の前へ歩み出る。
その雄姿に、レインの口から口笛が漏れた。
「ひゅ~、さすが。圧巻だな」
馬のように四肢を地面に突き立てるキールは、《ホースドラゴン》という種類に分類される。しなやかさと強靭さを併せ持った四肢が生み出す爆発的な突進力は、ドラゴンの中でも群を抜いている。背中に炎を具現化したかのような四枚の翼を生やし、誇りと忠誠心によって固められた瞳で敵を見据えながら悠然とたたずむ姿は、いつ見ても惚れ惚れする。まだ発展途上期であるとはいえ、キールからはすでに王者の風格が漂っていた。
闘技場の両端でペムペムとキールが睨み合う。
だが、この威圧感の差をいったいどう表現したらいいだろうか。片や、全モンスターの中で最高クラスの攻撃力と持久力、そして耐久力を誇り、全トレーナーの憧れの的であるドラゴン。片や、全モンスターの中で最弱のスペックであり、戦闘よりはむしろ愛玩用として扱われるスライム。学者の中では、スライムより人間の戦闘力が高いとさえ言われている。改めて向かい合った両者のモンスターに、生徒の間では笑いが零れ、どこか冷めたムードさえ漂っていた。
レインも、別にそれを悔しいとは思わない。
そういうものだ、この世界は。
「だからこそ、面白いんだよなぁ」
興奮に乾いた唇を舐める。ぞわりと、背中や肩を包み込む震えは、武者震い。
この圧倒的な戦力差を前に、レインの瞳には敗北に対する懸念など微塵もなかった。
レインとエルニアがゆっくりと闘技台の端へ移動し、トレーナーがパートナーに指示する指揮台へと上る。改めて自身のパートナー越しに向かい合い、両者は声高らかに叫んだ。
「スライムトレーナー、レイン・エルハルト。そのパートナー、ペムペム」
「ドラゴントレーナー、エルニア・F・ミレーネブルク。そのパートナー、キール」
「「己が紋章と、パートナーの名に懸けて。勝負!」」
本当の戦場に挑むかのような魂の叫びと共に、戦いの火ぶたが切って落とされた。
*
エルニアはスッと目を細め、対峙するレインとペムペムを見定めた。
こうして改めて向かい合ってみても、やはり分からない。なぜ、自分が非公式とはいえ、どこかバカっぽさが漂う男と、モンスター界最弱と言われるスライムに敗北したのか。
運が悪かったと言えなくはない。油断したと言えなくもない。言い訳ならば、いくらでも思いつく。だが、この心の奥にどっしりとのしかかる敗北感は、そういった口先だけの言い訳ではどうにもならなかった。
エルニアとキールは、この男とこのモンスターに負けたのだ。
確かに、二人の努力は認めよう。レインは、ドラゴンの紋章と家柄だけを見て寄ってくる男たちに比べれば、いまどき珍しいくらいに気骨がある男だ。ペムペムも、モンスター界の王者であるドラゴンのキールに臆することなく向かってくる。
エルニアは、決してレインとペムペムのコンビを過小評価していない。
だからこそ、エルニアは負けたくはなかった。
エルニアの目指す人は、このコンビの遥か先にいるのだから。
「こんなところで、足止めなどされてたまるか!」
エルニアは固く握っていた拳を開くと、大きくその手を突き出した。
「蹴散らせ、キール」
(うむ)
キールが頼もしく頷き、石畳を蹴る。キールが今まで立っていた場所の石畳がビキッと音を立てて陥没した。突風がエルニアの傍らを走り抜け、相棒が一陣の赤い旋風と化す。
生徒たちの歓声の中、キールが瞬く間にペムペムへと肉薄する。突進の勢いを保ったままキールは翼でバランスを取り、大きく右の前脚を振り上げた。それは、岩盤をも切り裂く鋼鉄の爪を宿した竜の前脚だ。最弱のスライムなど一撃で切り裂く。
「速ぇえなっ! おい!」
爽やかで、楽しげで、そしてエルニアにとってこの上なく不快な声が耳を撫ぜる。
キールが放つ強烈な圧迫感に、レインは笑いながら腕を薙いだ。
「ペムペム、左に跳べ!」
「ぴぎ」
レインの指示が飛び、ペムペムが即座に答える。
「逃すな! キール」
レインの指示に呼応し、エルニアがキールに指示を飛ばす。突然の指示にも関わらず、キールは咄嗟に振り降ろす爪の角度を修正。水色のスライムに、ドラゴンの白い爪が迫る。
その爪は僅かに届かず、間一髪で避けたペムペムのすぐ脇で石畳を深々と削り取った。
「チッ」
キールの攻撃が避けられたことに、エルニアがその端正な唇を歪める。
悔しさの余韻を受ける間もなく、エルニアは突き出していた腕を慌てて引き戻した。
「下がれ!」
エルニアの眼は、口の端を楽しげに歪めて腕を突き出すレインの姿を捉えていた。
「遅ぇよ」
キールの攻撃をただ避けるだけなら、他の生徒にも出来る者はいる。
「【体当たり】だ。ペムペム」
そこから反撃に繋げられる者はごく少数だろう。
キールの死角に潜り込んだペムペムは、無防備な脇腹に向けてその小さな体を弾き出した。直撃を直感したエルニアの頬に冷や汗が伝う。
回避を――ダメだ、間に合わない!
「ぴぎぃぃ!」
会心の鳴き声が闘技場に響いた。
ペムペムの小さな身体が太陽の光を朱く反射する緋色の鱗に直撃し、潰れ、ひしゃげる。
開始早々の完璧なクリーンヒット。大方の予想を裏切るペムペムの先制打に、攻撃を受けたキールやエルニアだけでなく、観戦していた生徒たちの全員が虚を突かれる。
第四闘技台が静まり返る。
キールは自分の身体にぶつかって押し潰されているペムペムを凝視したまま、困惑の表情を浮かべていた。潰れていたペムペムが徐々にもとの形を取り戻し、ポーンポンポンポーンと音を立ててキールの身体からゴム鞠のように落っこちる。ペムペムがへばり付いていた場所は、鱗がはがれるどころか、掠り傷一つ付いていない。
「ぴぎ」
どうだ!と言わんばかりに、声を上げ、ペムペムが小さな体いっぱいに自己主張をする。
静寂。そして……
「「「あっはははははははははは」」」
生徒たちの間から爆笑が巻き起こった。
ドラゴンのキールに対し胸を張るペムペムに、生徒たちがお腹を抱えて笑い転げる。
「あーははは、いひひひ。腹いてぇー、なんだありゃ」
「そんなダメージじゃ、ドラゴン倒すまでに何年かかるんだよ」
「悪いこと言わないよ~。ペムペムちゃん、怪我しなうちに下がりなさ~い」
ペムペムを指差し、生徒たちが思い思いの言葉を叫ぶ。一撃を与えたとはいえ、生徒たちの間でペムペムの勝利を考えるものなど皆無だった。自分を笑う生徒たちに、ペムペムが顔を朱くしながら、うにょっと身体を伸ばして抗議する。だが、その愛くるしい姿は、さらなる笑いを誘っただけだった。
「キール」
戦いの緊張感が緩和される中、鋭いエルニアの声が闘技台に跳んだ。その声にキールがペムペムから大きく飛び退き、エルニアの傍へと下がる。
エルニアは、大声で笑う生徒たちをよそに、どこまでも真剣な表情を浮かべていた。
「大丈夫か? 異常は?」
(ない。麻痺や毒の類ではないようだ)
「つまり、前回と同じと言うことか」
(うむ、ただの【体当たり】だ。それ以上でも、以下でもない。まぁ、以前よりは少しばかり強くなっているが。どちらにしろ、我が鱗を貫くものではない)
「そうか。だが、油断するなよ」
(わかっている。我も、二度も同じ相手に土を付けられたくはないからな)
キールが烈火の如きルビー色の双眸を鋭く細め、生徒たちに怒り続けるペムペムを睨む。一切の慢心や油断はない。頼もしいと言えば頼もしいが、ある意味当然の自信とも言える。
相手はたかがスライム。ドラゴンのキールが遅れを取るわけがない。
自信があるのはエルニアも同じだ。
だが、エルニアはその自信の中に、一抹の不安を抱えていた。
「なぜ、反撃を受けた?」
キールもエルニアも一撃で仕留めるつもりだった。その一撃を避けられ、あまつさえ反撃を喰らわされたのだ。
(得体がしれんな)
「まったくだ」
エルニアもキールと同意見だった。
レインに「こら、油断するな」と叱られたペムペムが、再びキールに向かい合う。小さな体躯。モンスターと言うよりも、あれではマスコットだ。いや本当に、なんだ! あの、ぽよぽよ、ぷよぷよとした動きは。抱きしめたくて仕方がないじゃないか!
「キール あれは何の心理攻撃だ?」
(こちらの攻め気を削るのが目的かも知れんぞ。油断するな)
「……なるほど、高度な心理戦と言うわけか」
「いや、お前ら何言ってんだ?」
呆れ顔を浮かべるレインに、エルニアは騙されてなるかと思いっ切り自分の両頬を叩いた。バチンと乾いた音が闘技場に響き、騒いでいた生徒たちが静かになる。
静寂の中、エルニアは大きく息を吸った。
エルニアは耐えるのが苦手だ。それは、エルニア自身も自覚している。
下手な我慢は戦闘に差し支える。わだかまりはすっきりさせた方が気持ちいい。
頬を真っ赤にしたエルニアは至極真面目な表情を浮かべ、ビシッとレインを指差した。
「レイン・エルハルト!」
「だから、フルネームで呼ぶなってーの。――なんだよ?」
「このままでは戦いに集中できん。そこでだ、私が勝った時の条件を一つ追加する」
「言ってる意味がさっぱりわか――」
「私が勝ったら、一度抱かせろ!」
その呪文は、エルニア以外の時を止めた。
*
レインは自分の耳を疑った。
『抱かせろ!』
エルニアは確かにそう言った。
他の生徒たちの反応を見れば、その言葉がレインの幻聴でないことは明らかだ。
「エルちゃん……『抱かせろ』って……はぅ~……」
なにより、エルニアの発言を聞いて、立ちくらみでもするようにへたり込んだアリカが、その言葉は幻聴じゃなくて現実だということを証明していた。これがまだ恥じらいの一つでも浮かべてくれたのなら可愛げがあるが、エルニアの態度は威風堂々の一言に尽きる。
残念ながら、どう控えめに見ても冗談で言っているようには見えない。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」
レインがようやく言葉を絞り出す。会場全体の思いを代弁したその言葉に、相対するエルニアはなぜか怪訝な表情を浮かべると、肩にかかった髪を払いながらはっきりと答えた。
「聞き取れなかったのか? バカ者め。しょうがない、ではもう一度言うぞ。私が勝ったら、一度抱か――――」
「まーった待った待った! それ以上言うな!」
「何を慌てている? 訊ねたのは貴様だろう?」
「いや、それはそうだけどよ。年頃の女がそんな言葉を軽々しく言うな! お前には恥とか外聞がないのか?」
「恥? 外聞? 何の話しだ? そんなに恥ずかしいことなのか?」
「少なくいとも俺は恥ずかしい」
「なぜだ、お前だってよく抱いているだろう」
「はぁぁあっ!?」
レインが思わず絶叫した。一体、エルニアは何の話しをしているのか、レインには理解不能だ。何回も抱いている? ふざけるな、寂しいかなレインは女子と付き合ったことなど、ましては抱いたことなど一度もない!
レインは、本来ならあり得ないことだが、キールとエルニアから視線を切り、その場にいたクラスメイトに弁解した。
「ちょっと待て、みんな聞いてくれ、俺はそんなこと一度……も……」
弁解の声が尻すぼみに小さくなる。
「え、ちょっと。ホントに?」
「レイン君、女子に興味なさそうなのに」
「けだもの……」
「うわ~、ないわ~。しかも、『よく』抱いてるって。『よく』抱いてるって!」
渦巻く女子の軽蔑の視線。
「くそぉ! レインの奴! アイツだけは仲間だと信じていたのに」
「まさか、レインに先を越されるとは? 許せんぞ!」
「相手は誰だ!? 吊し上げて吐かせろ!」
「レイン殺すレイン殺すレイン殺す」
突き刺さる男子の殺意の視線。
今、第四闘技場はかつてない混沌と化していた。
クラスメイト達の激情の視線を浴び、レインの頬が引き攣る。やばい、殺される!
レインが模擬戦を投げ出して逃げよう、ペムペムを自分の足元にこっそりと呼び戻す。
その時、この修羅場を作り出した空前絶後の馬鹿が、ようやく異変に気が付いた。
「ん、なんだ。お前たち、何をそんなに動揺しているんだ?」
「お前が変なこと言うからだろうが!」
再びエルニア達に向き直ったレインが、こめかみに青筋を立てて怒鳴りつける。
しかし、エルニアはレインの怒りが理解できないっといた様子で、むしろ「なぜ私が怒鳴られなければならないのだ」と言わんばかりにムスッと頬を膨らませた。
「変なこと? 私が何を言ったというんだ?」
「全部だ! 全部! 自分の言ったこと、全部まるっと思い出してみろ」
「それが人にものを頼む態度か」
「だまらっしゃい! いいから、さっさと思い出せ!」
レインのあまりの剣幕に、エルニアが不服そうに眉間に皺を寄せながら、口を小さく動かして自分の言った言葉を思い出しながら反芻する。
1秒、2秒、3秒。ボンッと音を立て、エルニアの頭の上にきのこ雲が浮かんだ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
今度はエルニアが絶叫する。
エルニアはその双眸を限界まで見開くと、喉を引き裂かんばかりの大声で叫んだ。
「違う! 違う違う! 違うぞ! 私が『抱きたい』と言ったのは、ペムペムを、だ! 断じて、お前なんぞを、お前なんぞとまぐわりたいと思ったのではない!」
腕をバタつかせながら弁解するエルニアに、ペムペムが「ぴぎぃ?」と小首を傾げる。
その必死の弁解が功を奏して、というよりは、そもそもドラゴントレーナーがスライムトレーナーなんかに好意を持つわけがないという常識に、クラスメイト達は「ああ~、ですよね~」とばかりに、ポンと手を打って納得した。
ぜぇぜぇと肩を揺らすエルニアを見ながら、同じく壮絶な勘違いから解放されたレインが、暇つぶしに鱗の手入れを始めていたキールに語りかける。
「おい、キール! 今度、お前の主にちゃんとした人間の言葉を教えておけ」
(我は、ドラゴンなのだが)
「お前の方が言葉が達者だ」
(……善処しよう)
ぶるるっとキールが身震いをし、古い鱗を弾き飛ばしながら首肯する。
「はぁ、疲れた……。んじゃ、そろそろ再開するか。準備はいいな、ペムペム」
「ぴぎっ!」
レインが緩んだ緊張を張り詰めさせながら、ペムペムの調子を確認する。まだお互い一手しか仕掛けていないが、それだけ見てもペムペムの調子は悪くない。
不敵な笑みを口元に浮かべながら、レインがベキバキッと指を鳴らす。そして、レインが今度は先手を取ろうと拳を前に突き出した、その時――
「お前たち、今の私の痴態を、言いふらすつもりじゃないだろうな……」
淀んだヘドロのような声が、レインの昂ぶった闘志を一気に削り取った。いや、レインだけではない。その声に、第4闘技場一帯の空気が一変した。
(主?)
声を発したエルニアの異変に、不吉なものを感じたキールが首を捻り後ろを振り向く。
そこには、この世の終わりのように両目に溢れんばかりの涙を湛えながら、ひどく歪んだ笑みを浮かべるエルニアが大きく右手を振り上げていた。
「お前たち……許さんぞ」
わなわなとエルニアが唇を振るわせ、ゆっくりと右手を天上へ突き上げる。掌に刻まれたドラゴンの紋章は、エルニアの怒りを具現化するように烈火の如き朱色に輝いていた。
輝く紋章に共鳴し、キールの身体に刻まれた紋章が炎の如き朱色に輝く。
その紋章から迸る激情に、キールの口が焦燥に歪んだ。
(ぬ! マズイ! 皆の者、逃げ――)
キールの警告が終わるよりも早く、
「【エクスプロ―クロー】」
エルニアは高々と振り上げた腕を振り下ろした。
(ぐ!)
キールは抗おうとしたが、契約の強制力により無理やり技が引きずり出される。
「やべぇ! ペムペム、逃げるぞ!」
レインたちが闘技場から飛び降りて身を丸くする後ろで、エルニアのように高々と振り上げられたキールの前脚が闘技場の石畳に振り下ろされた。
マグマのごとく赤く染まった爪が石畳を抉る。次の瞬間、火山の噴火のような轟音と共に闘技場が爆発した。紅蓮の業火が吹き上がり、逆巻く爆風に闘技場の岩盤が吹き飛ぶ。
キールの警告に間一髪でその場から逃げ出していた生徒たちが、その光景に息を飲んだ。
爆発の中に爆炎よりも苛烈なシルエットが浮かぶ。煉瓦色の髪を爆風にはためかせるエルニアと炎神の加護を受けた緋色の鱗を身に纏うキールは、悠然と爆炎の中に佇んでいた。
(主よ、落ち着け。やり過ぎだ)
「大丈夫だ、キール。私は落ち着いている。とりあえず、この場にいる全員の唇を焼けば、私の痴態が風潮されることは防げるな」
歪んだ笑みを浮かべるエルニアに、生徒たちが戦慄する。
そんな中、ただ一人その暴君に立ち向かう最弱の魔獣錬磨師とモンスターがいた。
「ペムペム! あの大馬鹿野郎に一発ぶちかませ!」
闘技場を破壊した業火にも負けない力強い指示と共に、蒼い軌跡が炎を切り裂く。その青い弾丸は、エルニアの顔面に当たる寸前でキールの広げた緋色の翼に弾かれた。
「トレーナーへの直接攻撃は、今日の模擬戦では反則だろう。レイン・エルハルト」
「先にぼろくそしてくれた奴が、何言ってんだ! 【契約の絆】まで発動させやがって。下手すりゃ死ぬぞ!」
戻ってきたペムペムを肩に乗せながら、レインがエルニアに真っ向から向き合う。
レインは所々焼け焦げて穴の空いた制服を摘み、怒りのままにエルニアを怒鳴りつけた。
「あ~あ、どうすんだよ! こんなに焦がしまくってくれやがって。弁償しろよな!」
レインは親の仕送りで学生寮住まいをしていた。必然、出来る限りの無駄遣いは避けたい。学園からの進学祝いに配られる制服は、2着目以降は自腹が義務付けられている。
指が通るほどの焦げ跡を見つめ、レインががっくりと肩を落とす。
「貴様……。私との戦いよりも……服の心配か?」
そんなレインに、エルニアは突然だらりと頭を下げ、酷薄とした笑みを浮かべながら恐ろしいまでに優しくキールの頬を撫でた。
「正確には今月分の小遣いの心配だよ。いや、まてよ。これぐらいなら縫えば直るか?」
「貴様は……、貴様はどこまで私をおちょくれば気が済むのだ!」
エルニアの怒りに呼応するかのように、周囲でくすぶっていた炎が一斉に燃え上がった。
膨れ上がるエルニアの激怒に、生徒たちがレインに向け「ばか、やめろ!」と叫ぶ。
そんな切羽詰まった生徒たちとはまるで真逆の、楽しげな笑い声がレインの耳を撫ぜた。
「相変わらず君は馬鹿だね~、レイン」
「ガゼット! お前、逃げなかったのか?」
レインが振り向きざまに訊ねると、ピックを頭の上に乗せたガゼットは微笑みながら肩を竦め、傍らにいたアリカ――いつのまにかショックから立ち直ったらしい――とレオンを指差し、続けて不自然に水浸しになった地面を指差した。
「レオンに即席の氷壁を作ってもらってね。このとおりピンピンしてるよ」
「そりゃ残念だ」
「本音漏れてるって。それより、どうするんだい? 見ての通り、ドラゴントレーナー様はご立腹だ。でも、今ならまだ親友権限でアリカが止められるかもしれないよ」
話を振られたアリカが、縮こまりながら小さく頷く。
だが、レインの視線はすでに正面だけの敵だけを見据えていた。
「これは俺の勝負だ! 手ぇ出すな!」
はっきりと応えるレインに、「まぁそうだろうね」と満足そうに微笑んだガゼットは、心配そうな表情を浮かべてレインを止めようとしたアリカの肩に手を乗せた。
「それじゃあ、僕たちは見物させてもらうとするよ」
「でも、ガっちゃ――」
「お~~、下がれ下がれ。巻き込まれて怪我すんなよ」
「大丈夫、僕たちは君より強いからね」
「へっ。言ってろ!」
「あ、ちょっと! がっちゃん、放してよ! 放してったら」
アリカを引きずりながら後退するガゼットを目の端で確認し、「まぁ、一応聞いとくか」と小声で呟きながら、エルニアに向けて叫んだ。
「んで、どうする。どっかの馬鹿が闘技場を吹き飛ばしちまったが、まだ続けるのか?」
「愚問だ。まずは、元凶を絶つ!」
「こらこら。だれが元凶だ。だれ――」
「言っておくが!」
レインの言葉を遮り、エルニアは炎で焼かれたばかりの剣のように熱く鋭い視線でレインを睨みながら、叫んだ。
「先に私へ攻撃を仕掛けたのは、お前だ。レイン・エルハルト。ここからはランキング戦の方式に則って行う。ふふ、殺し合いではなくランキング戦に則るなど、私はどこまで優しいんだ。ふふふ、ふははははは」
どこか病的にさえ思える淀んだ笑み浮かべるエルニアに、レインが一つ確認を取る。
「それは、【契約の絆】ももちろんありだよな」
「貴様。もはや愛おしくなるくらいの馬鹿だな。【契約の絆】なしで、一秒でも私たちの前に立っていられると思うのか。いや、それ以前に、私が手を抜いた戦いを許すと思うのか? 本気の勝負と言っただろう」
本気の勝負。つまりは、トレーナーへの攻撃をも加味した、正真正銘の殴り合い。
ドラゴントレーナーとの真剣勝負など、本来なら自殺行為だ。それが、全紋章中最弱と言われるスライムトレーナーならば、なおのこと。
だが、レインの目は絶望していなかった。いや、むしろ。絶望に気持ちが萎えるどころか、レインの双眸はキールの爆炎以上に燃え上がった。
「願ってもねぇ! いいぜ、やってやる!」
興奮気味に声を震わせながら、レインが意識を掌に刻まれたスライムの紋章に集中させる。沸騰するようなレインの闘志に、スライムの紋章が青く輝く。その輝きに共鳴するかのように、ペムペムに刻まれたスライムの紋章が青く輝いた。
トレーナーとモンスターの契約を一時的に強化する技巧【契約の絆】を発動させたのだ。
二つの命が一つに結ばれ、強力な力がペムペムに漲り、同時にペムペムの力がレインへと流れ込む。生命力と言う燃料に直に火を付けるような行為だ。発動の後は酷い疲労に見舞われるが、そんなことは関係ない。
「さぁ……行くぜ!」
レイン&ペムペム、エルニア&キールの第二ラウンドが始まった。
「キール。【メガフレア】」
レインに身構える暇すら与えず、エルニアが腕を突き出しキールに指示を飛ばす。
(レイン、ペムペム。死ぬなよ)
警告はするものの、キールは手加減する気など毛頭なかった。キールが口を大きく開き、その口腔から紅蓮の炎が吐き出す。吐き出された炎は、まさに全てを飲み込む炎の津波だ。エルニアの激情を具現化するようなその攻撃は、今までの攻撃とはケタが違う。
熱風と灼熱を振り撒きながら、非情な炎がレインに迫る。
「いきなり全開かよ。けっこう!」
その圧倒的な攻撃を前に、笑みを漏らしたレインは後ろに飛んだ。
ペムペムがレインの意図を汲み取り、レインが止まるや否やその肩から飛び降りる。
「アリカ、レオン! こいつ、借りるぞ」
アリカたちへ一瞬視線を走らせたレインは、片手を水浸しになった芝生に押し当て、今度は傍らのペムペムに向けて叫んだ。
「飲み込め、ペムペム」
「ぴぃぅ~ぎぃぃ!」
レインの命令を受け、ペムペムが芝生にできた大きな水たまりの水を身体に取り込む。レオンが作り出した氷壁はかなり大きく、そこから溶け出した水は膨大だ。大量の水を吸収したペムペムに、レインは押し寄せる炎の津波を睨みながら、次の指示を飛ばす。
「【分裂】しろ! ペムペム!」
「ぴぎゅに~!」
レインの指示を受け、ペムペムがその身体から小さな分裂体を生み出す。ペムペムの身体から生まれたミニペムペムは、次から次へと迫りくる炎の津波に身を投げ出した。
「小細工など無意味だ! 蹴散らせ、キール!」
エルニアがレインたちを覆い隠すミニペムペムの群れを振り払うように腕を薙ぐ。
大量の水分を吸収したペムペムの分裂体は凄まじい量だったが、いくら量が多くても、キールとペムペムが放ったエネルギーの量の差は圧倒的だ。炎の津波がミニペムペムの壁を一瞬にして飲み込む。時間稼ぎなどあってないようなものだった。
炎の津波の後に残ったのは、焼けた芝生と燃え残った闘技場の瓦礫だけだ。
「やったか!?」
「甘めぇよ!」
レインはその瓦礫の影から飛び出した。ミニペムペムの狙いは目暗まし。瓦礫を盾にし、さらにミニペムペムで自分たちを覆い隠すことで炎の津波を耐えたレインがエルニアに肉薄する。その肩に乗ったペムペムは、すでにキールへの攻撃態勢に入っていた。
「させるか。キール、【フレアアロー】」
キールがその緋色の翼を大きく羽ばたかせる。その勢いで剥がれた翼の鱗が空中で折り重なり、目にも鮮やかな緋色の矢となった。
「うわっ熱!」
飛来する炎の矢を、レインが前に転がるように受け身を取って辛うじて躱す。だが、炎の矢は一本だけじゃない。キールがさらに翼を羽ばたかせると、キールとエルニアを包み込むように計13本の炎の矢が生まれ、レインたちへとその標準を合わせていた。
「撃て!」
エルニアの号令を受け、炎の矢がレインたちへ向け放たれる。一撃でも喰らえばレインはもちろん、ペムペムも戦闘不能だ。
「ペムペム。もういっちょ、【分裂】!」
「ぷっぎ!」
再びペムペムが小さな分裂体を生み出し、ミニペムペムが迫りくる炎の矢を体当たりで迎撃する。だが、一本の矢を落とすのに、ミニペムペムは三体も必要だった。
レオンのおかげで大量の水を補給したとはいえ、【分裂】を生み出し続ければすぐにペムペムが内包する水分は枯渇する。
レインが残りの【分裂】回数を計算する。その一瞬が仇となった。
迎撃の勢いがわずかに緩み、その間隙を見逃さなかった炎の矢がレインへと肉薄する。
「あらら、こりゃやべぇな」
言葉とは裏腹に、レインは慌てなかった。迫る火の矢の中でレインが踊る。
頭部に向けて迫る炎の矢を軽く身を掲げて躱し、右足を狙ってきた矢は左に飛び退いて避ける。角度を付けて両わき腹を狙ってきた矢は右側に集中してペムペムの分裂体をぶつけて活路を作り、頭上から落ちてきた矢はぎりぎりで体を捻って免れる。
生身でドラゴンが放つ炎の矢を躱したレインに、避難していた生徒たちが目を見開いた。
「何を驚いてんだよ。スライムはあらゆるスペックで他のモンスターに劣る。だったら、その弱さを補うためにトレーナーが自分を鍛えるのは当然だろ」
レインの言葉はもっともだが、驚くべきはその練度をドラゴンの攻撃を躱すところまで高めたということだ。【契約の絆】はモンスターだけでなくトレーナーの身体能力も跳ね上げ、さらにはモンスターの持つ特性もトレーナーに還元する。エルニアが灼熱を身に纏ったキールの傍に立っていられるのも、キールの耐火性が還元されているからだ。
だが、レインが契約をしたモンスターはスライムだ。例え【契約の絆】により何らかの能力が付加されていても、とてもドラゴンの攻撃を避けられるとは思えない。
「残念。【契約の絆】を発動した俺に、そう簡単に攻撃を当てられると思うなよ」
レインがなにやら意味深な笑みを浮かべ、ペムペムの顎を指先で撫でる。
「キールの攻撃を真っ向から躱すとは、相変わらずの変人だな」
生徒たちは驚いていたが、一度レインと戦い、そして敗れたエルニアは知っていた。
だからこそ、エルニアはわざと避けやすいように攻撃をし――
「しかし、これならどうだ!」
レインの油断を誘った。
頭上からレインを狙い、その足下に突き刺さっていた矢が爆発する。咄嗟に跳躍して爆発の直撃を避けたレインだが、爆風に煽られて空中でバランスが崩れた。
「もらったぁあああ!」
エルニアが会心の笑みを浮かべて叫び、レインたちへ向けて腕を突き出す。空中で回避行動が出来ないレインに、残った三本の矢が大気を焼きながら突き進む。
「【分裂】――だめか! 間に合わねぇ!」
回避が出来ないと悟るや否や、レインの指示を受けるまもなく、レインの肩に乗っていたペムペムが自ら炎の矢に向けて飛んだ。迫りくる炎の矢に、ペムペムが後ろのレインに当たらないよう、その小さな身体を広げて盾になる。
三本の炎の矢はほぼ同時に水色の盾に突き刺さった。
水の中に取り込まれた炎の矢が爆発し、辺りに不自然な爆音が響く。
炎の矢の爆発をもろに受けたペムペムは、木っ端微塵に吹き飛んだ。
「しまっ!」
やり過ぎた、とエルニアの顔が青ざめる。
その時、エルニアの傍らにいたキールの頭が、激しい音を立てて横に流れた。
(うぐっぅ!)
キールが苦悶を漏らす。同時にエルニアの頬に平手打をされたかのような衝撃が襲った。
【契約の絆】はメリットばかりではない。発動している間は、モンスターのダメージまでもがトレーナーへと還元される。エルニアが慌ててキールに視線を走らせると、その横顔面に今しがた木っ端微塵に吹き飛んだはずのペムペムが張り付いていた。
「なに!」
虚を突かれたエルニアの目の端に、したり顔で指を鳴らすレインが映る。
「【分裂】か!? だが、いつの間に?」
「【メガフレア】の間に、こっそりと」
立てた人差し指を唇にかざすレインに、意図を悟ったエルニアが悔しそうに奥歯を噛む。
分裂体を肩に乗せたレインが陽動を仕掛け、その隙に本体がキールの死角を取る。トレーナーが深手を負うリスクを承知の上での無茶苦茶な作戦だが、レインは他の生徒とは違い、自力でモンスターの攻撃を躱す力がある。
エルニアは完全にレインの術中にハマっていた。
(主よ、うろたえるな!)
「分かっている! そんな攻撃など物の数ではない」
キールの檄にエルニアが即座に答える。ペムペムの体当たりは不意打ちで、しかも顔面の急所を狙ってにもかかわらず、ほとんどダメージを与えられていなかった。
「振り払え、キール」
キールが大きく首を撓らせ、横顔に張り付いていたペムペムを振り払う。
「ぴぎぎぎぎ!」
ペムペムは必至にキールに張り付いていたが、ドラゴンの強靭な首が可能にする強力な遠心力に、遂にその身体がキールから引き剥がされた。宙を舞うペムペムに、キールが真珠の如く白い牙が生え揃った真っ赤の口腔を開き、次の一撃の標準を定める。
「キール【フレ……」
「その口閉じてろ! ペムペム、もう一発【体当たり】!」
(ぐっ!?)
大きく開いたキールの口が、下顎に突き刺さった衝撃に強制的に閉じられた。
「まだ分裂体を隠していたのか!?」
「俺はペムペムの分裂が一体だけなんて言った覚えはないぞ」
「小賢しい小細工ばかりしおって!」
「小さいからってなめんなよ。小さくて目立たないのも、けっこう役に立つもんだぞ」
「やかましい! 黙れ!」
エルニアは激昂しながら、キールの下顎に張り付くペムペムと空中に飛ばされたペムペムを見比べた。今、キールに攻撃を加えたペムペムにはレインとの契約の証であるスライムの紋章がなく、空中でぐるぐると回転しているペムペムには紋章がある。
「そっちが本体だな」
落下するペムペムに狙いを絞り、エルニアはその細い腕をペムペムに向けて突き出した。
「キール。焼き落とせ【ブレススパイラ――」
(主よ、攻撃を中止しろ!)
「なに!?」
切羽詰まったキールの声に、エルニアが咄嗟に攻撃の指示を切る。何事かとキールに目を向けると、キールはその口を水色の何かですっぽりと包まれていた。
キールの口を塞ぎ止めているのは、ペムペムの分裂体だ。今の状態で攻撃を放っていたならば、攻撃はペムペムの本体ではなくキールの口腔を蹂躙していただろう。
「何をしている、キール。そんなもの引き千切って、さっさと口を開けろ!」
キールの牙は岩盤をも噛み砕く。当然、その顎の力は強靭だ。スライムの、しかも分裂体などに耐えられるはずがない。
「あ~、そりゃ無理だな」
「なんだと!」
エルニアが再び視線を前方に向けると、レインが指先を窄めて閉じた左手に右手を被せながら、楽しそうに演説した。
「動物の口は、閉じる力は強いが開く力は弱いんだ。モンスター界屈指の顎の力を持つ《鰐族》でも、閉じた状態で口を縛れば恐くねぇ。と、隙ありだ。【体当たり】」
レインの肩に着地したペムペムが、その反動を利用してキールに再び突撃する。だが、今度の攻めは馬鹿正直過ぎた。攻撃に備えて身構えたキールの受けたダメージは、先に受けた【体当たり】よりもさらに小さい。
たび重なる無意味とも思える攻撃に、エルニアは眉を顰めた。
「一体何を狙っている、レイン・エルハルト」
その言葉は、どこか慎重だった。エルニアには、レインの意図が分からなかった。あきらかに攻撃が優勢なのはレインだが、ダメージは皆無と言っていい。
「さあ、なんだろうな?」
エルニアの問いかけに、レインは口の端を吊り上げた。
はたして、エルニアはレインの企みに気づくのだろうか?
気付いた時に、エルニアはどんな顔をするだろうか?
「ペムペム下がれ」
その光景を思い描きながら、レインは一度ペムペムを呼び戻した。
自分の肩に戻ってきたペムペムに、レインが声を顰めて確認する。
「ペムペム、どうだ? もう少しか?」
「ぴぎ、ぴぎぴぎ。ぴぎっ!」
レインの問いかけに、ペムペムは身体をブルブルと震わせながら、力強く答えた。
「あと強い攻撃を1発か」
輝きを増すスライムの紋章。ペムペムに滾るエネルギーを感じ、レインが力強く頷く。
「よし、じゃあもう一発……」
突如、レインが首筋に強烈な悪寒が走った。レインが慌てて視線を走らせる。いつの間にかキールとレインたちの距離が埋まり、反対にエルニアがキールから距離を取っていた。
「まずい!」
レインが状況を理解すると同時に、エルニアが大きく腕を広げて叫ぶ。
「全てを飲み込め! 【クリムゾンウィング】」
エルニアの声に、キールがその身体を大きく震わせる。緋色の鱗が輝きを増し、その輝きはキールの背中に雄々しく生える四枚の翼に集約された。たとえ発射口となる口を塞いでも、まだキールには攻撃の術がある。一瞬の溜めの後、キールが翼を大きく羽ばたかせる。翼を覆う緋色の鱗が剥がれ落ち、辺り一帯に舞い散った。
「ペムペム、お前を信じる! 行け!!」
レインがすぐさま、両方のペムペムに指示を飛ばす。本体のペムペムがレインの肩から跳び退き、キールの口を塞いでいたペムペムが、その身体を膨張させてレインを包み込む。
すでに、レインの周囲は鮮烈な緋色に染まっていた。
舞い散る鱗とは別に、キールの尾の鱗の一枚が剥がれ落ちる。
尾鱗は一枚で一本の小さな矢となり、その矢が舞い散る鱗の一枚に触れた瞬間……
世界が紅蓮色に染まった。
緋色の鱗が次々に誘爆。爆発が爆発を呼び、紅蓮の炎が闘技場を覆い尽くす。
回避すらも許さない紅蓮の連続爆発。この爆破地獄に耐えられるのは、炎神の加護を受けた緋色の鱗を宿すキールのみ。世界最弱のスライムが受け切れるダメージじゃない。
分裂体のペムペムの体内に避難していたレインだが、分裂体は爆炎により蒸発。直撃を免れたものの、爆発の残滓がレインの制服を焼き肌を炙る。
ようやく爆発が収まり、そこへ吹いた一陣の風が闘技台を埋め尽くしている白煙を攫っていく。火薬のにおいが漂う闘技台上では、所々に爆発の残り火が燻っていた。
うっすらと白煙の残る闘技台に、レインの肩から離脱したペムペムの姿は見当たらない。
「どこへ行った?」
再びキールの傍らに並んだエルニアが、周囲に視線を走らせる。
(ふむ。爆発で吹き飛んだか?)
「もしくは、爆発をまともに受け――」
「おいおい、どこ探してるんだよ?」
「なに!」
突然掛けられた声に、エルニアがハッとしてレインの方を向く。
エルニアは驚いた。
レインは笑っていた。
パートナーが爆発に巻き込まれ、自分自身も爆発の熱に晒されながらも、レインは会心の笑みを浮かべていた。
「いいのか? 油断してるとエライ目見るぞ」
「何を言っている。良く見てみろ。お前のパートナーは、どこかへと吹き飛んだのだぞ」
エルニアが慌てて声を上げ、レインの言葉を振り払うように大きく腕を薙ぐ。
(我らの心配より、己のパートナーの心配をしたらどうだ)
いつもはレインを尊重するキールも、今回ばかりは皮肉気に笑って見せた。
エルニアとキールのコンビに、レインはやれやれといった風に肩を竦め、再び笑った。
「良く見るのはお前の方だろ。存在が小さ過ぎて気が付かないのか」
その言葉は自信で満ちていた。それは、過信でも慢心でも、ましてやハッタリでもない。
レインは、勝利を確信していた。
「何を馬鹿な!」
口ではそう言いながら、エルニアとキールに焦燥が走る。再び緊張の糸を張り、辺りに対して目を凝らす。だが、やはりペムペムの姿は見つからない。
レインはもう一度小さな笑みを浮かべると、よく響く声で言った。
「『灯台もと暗し』って言葉、知ってるか?」
「何を言って……なっ!?」
目の前で起きた信じられない光景に、エルニアは思わず声を上げた。
(ぐふぅぉっ!?)
呻き声を漏らし、キールの身体が浮かぶ。並みのモンスターよりも体重の重いキールを浮かしたのは、その腹部に身体をめり込ましたペムペムのとてつもなく重い一撃だった。
「限界まで溜めた【体当たり】だ。いくらドラゴンのキールでも、これなら効くだろう」
レインの声が、辺りに木霊する。だが、エルニアはレインの声など、まったく聞いていなかった。キールの腹部から零れ落ちるペムペムは煤で黒ずみ、身体から白い煙を上げている。ダメージは大きい。完全に【クリムゾンウィング】を回避したわけじゃない。
エルニアは即座に理解する。ペムペムは爆発の瞬間、キールの足下に逃げ込んだのだ。
キールが【クリムゾンウィング】を耐えきれるのは、その緋色の鱗と、自分の身体の周囲を爆発圏にするからだ。だから、キールの足下も一応の安全圏と言えなくはない。爆発の熱に晒されても、まともに受けるよりずっとダメージ小さいだろう。だが――
「なぜだ? なぜ、ペムペムは分裂体へ逃げなかった」
エルニアの意見はもっともだ。分裂体へ逃げたのならば、ここまでのダメージを負わずに済んだだろう。
「その理由は、お前たちがこれから身をもって体験するぜ」
「なんだと! 訳の分からないことばかり言いおって!」
(我が主よ、戦いに集中しろ。まだ、勝負は終わっていないぞ)
取り乱すエルニアに、キールの鋭い声が飛ぶ。エルニアの視界の端で、ペムペムの小さな身体が地面に激突した。おそらく、キールがペムペムを叩き落としたのだろう。
ペムペムが、なんとか身体を置き上がらせる。だが、その身体は所々赤く爛れ、白煙が上がっていた。ダメージは大きく、満身創痍。対してキールは、最大まで威力を高めた【体当たり】を受けてなお、大きな余力を残していた。
一撃における圧倒的な攻撃力の差と、敵の攻撃に対する耐久力。レインとペムペムがどんな手段で自分たちの攻撃を回避しようと、力の差、戦力の差は歴然だ。
あと、一撃。どんな小さな一撃でも喰らわせれば、ペムペムは確実に沈む。
「あと一撃で、ペムペムはノックアウト。そんなこと考えてそうな顔だな」
「な、なななな!」
自分の思考をそっくりそのまま読み取られ、エルニアが顔を赤らめる。
だが、その赤らんだ顔は、すぐに冷静さを取り戻した。いや、冷静を取り戻したのではない。レインの浮かべる笑みに、全細胞が警告音を鳴らし、背筋に鋭い冷気が走ったのだ。
「さて、そろそろ反撃に出るとするか。なぁ、ペムペム」
「どういうこ……」
目の前の光景に、エルニアは言葉を飲み込んだ。小さなペムペムの身体が真っ赤に染まり、蒸気機関のような白煙を上げている。それは、キールの攻撃によるダメージではない。際限なく湧き上がる白煙に似たオーラは、モンスターの生命力が視覚化したものだ。
今、ペムペムの身体からは、果てしないエネルギーが迸っていた。
「ま、まさか。【昇華】だと!」
ペムペムの変容に、エルニアの額から大粒の汗が滴った。
「ばかな……」
エルニアが後ずさりながら、呻くように呟く。【昇華】。それは技ではない。モンスターが経験値を積み、ある一定の限界、能力の壁を越えた時に発動する大地と空の恩恵だ。
壁を越えたモンスターを大地は祝福し、全ての傷を癒し、体力を完全に回復させる。
壁を越えたモンスターを空は祝福し、数刻の間、その全能力を数十倍に引き上げる。
たとえどんな弱いモンスターだとしても、【昇華】が発動したとき、そのモンスターの力は数十倍に跳ね上がる。
だが、だとしても!
「なぜ。なぜ、今【昇華】が発動するっ!?」
エルニアが自分の胸元を握りながら、声を張り上げる。エルニアの中で、初めてレインとペムペムと対峙した時の光景が脳裏に蘇った。そう、あの時も、あと一歩のところまで追いつめたとき、ペムペムの【昇華】が発動した。【昇華】なんて、そう易々と起こるものではない。ましてや、同じ相手に二度も【昇華】が発動するなど、天文学的な確率だ。
「ありえない!」
目の前の光景を、エルニアが全力で否定する。だが、ペムペムの小さな身体から迸る強力なエネルギーは、まごうことなき本物だった。
「こんな、偶然……」
困惑するエルニアに、レインは笑いながら、ゆっくりと語りかけた。
「ありがとうな、本気で戦ってくれてよ」
レインの言葉が理解できず、エルニアが返事に窮する。
「なぜ、私に礼を言うのだ?」
「楽しかったからだよ。また、やろうな」
穏やかなその言葉を最後に、レインとペムペムの逆襲が始まった。
「さぁ、ペムペム。こっからは小細工なしだ。全身全霊全力全開でぶちかませ!」
「ぴぎぃー!」
キールへ向けて、ペムペムの身体が弾ける。もっとも基本的な技である【体当たり】。その攻撃にキールは一切反応できなかった。気付いた時には、ペムペムの小さな身体が、その何倍とあるキールの身体を弾き飛ばしていた。
「うぐ!」
辛うじて初撃を耐えたキールだったが、その威力は先ほどまでとは、文字通り桁が違う。速度、パワー。それはもはや、ドラゴンの攻撃に迫るものがある。
初撃のダメージを振り払えないうちに追撃は訪れた。反撃の体勢を整える暇もなく、キールの顎にペムペムの体当たりが炸裂する。脳が揺れ、一瞬キールの意識が飛ばされた。
(くっ!)
なんとか意識を取り戻し、キールが身体を飛び起こす。そこへペムペムが真正面から突っ込んできた。遊びもフェイントもない、真正面からの特攻。普通に考えれば、舐めているとしか思えない。だが、迎撃に振り上げたキールの前脚は、振り降ろす間もなく弾き飛ばされる身体に引っ張られ後方へと流れた。
最弱のスライムといえ、こうなってはもう手が付けられない。ペムペムの猛攻は弱まることがなかった。右から攻撃を受けたかと思えば、次の瞬間には左に衝撃が走り、背後から翼が弾き飛ばされたかと思えば、今度は顎への痛烈な一撃が意識そのものを刈り飛ばす。
【契約の絆】により還元されるダメージに、エルニアの表情が歪む。それでも、エルニアは必死に抗おうとした。隙を見て攻撃の指示を飛ばし、キールも応えようと、何度も内なる炎を高ぶらせる。
その攻撃は形になる前に、ことごとくペムペム【体当たり】に殺された。口腔に炎を蓄えれば頬を体当たりで撃ち抜かれ、翼から炎の鱗粉を撒こうとすれば、翼を羽ばたかせる前に強烈な体当たりにより脚を刈り取られバランスを崩す。結果、キールは何度も自分の攻撃の誤爆を受けることになった。キールもなんとか善戦しようと試みたが、間断なく飛び交うペムペムを捉えることは敵わない。
(ここまで、か……)
ダメージの限界に達したキールが、ズシンっと砂埃を上げ身体を闘技台に倒す。
「俺たちの勝ちだな」
「ぴぎぃ!」
レインとペムペムの勝利に、勝負開始当初は一切レインたちを応援していなかった生徒たちの間から、大きな歓声が上がる。
「ば、ばかな……」
呻くように呟いたエルニアはキールに駆け寄ることすらできず、その場に膝を付いた。【契約の絆】によりダメージを還元したことよりも、敗北という事実が、エルニアの精神を完膚なきまでに打ちのめした。
この日、エルニアは世界最弱のモンスターによる人生二度目の敗北を知った。
*
大歓声の中、レインは大きく息を吐き、大金星を挙げた相棒の名を呼んだ。
「ペムペム、お疲れ」
「ぴぎぃ」
喜びの声を上げ、ペムペムがレインの胸に飛び込んでくる。【昇華】はすでに収まっていたが、ペムペムの身体は戦いの熱にかなり火照っていた。
「あっつ。おーおー、よく頑張ったな。えらいぞペムペム」
「ぴ~ぎ。ぴぎ、ぴ~ぎ」
「はは、そっかそっか。お前もうれしいよな。よし、ご褒美に。今日のトレーニングメニューは倍にしてやろう」
「ぴぎぃ!」
レインの言葉に、火照っていたペムペムの身体が凍りつく。
「冗談だよ。よく冷えただろ」
「ぴぎ~」
笑うレインに、ペムペムが抗議の声を漏らしながら、ふにゃっと身体を和らげる。実際、今の今まで死闘を繰り広げていたのだ。こういう風に、身体と精神をいい具合にほぐしてやるかどうかは、魔獣錬磨師の腕の見せ所でもある。
レインは労うようにペムペムの身体を撫でてやりながら、闘技台を降りた。
「やぁ、お疲れ」
闘技台を降りたレインにガゼットがタオルを投げる。その視線が、打ちひしがれるエルニアと、彼女へ駆け寄るアリカへ流れた。
「いいの? なんか一声かけてあげたら?」
「なんて言うんだよ。勝った奴が負けた奴に声をかけても、悔しさが残るだけだ」
「さっすが、生まれ持っての敗者、スライム使いは言うことが違うね」
「褒めてんのか、それ?」
肩を竦めながら、レインはチラリとエルニアの方に視線を向けた。呆然自失といったエルニアが、アリカの手を借りて立ち上がっている。レイン自身、ペムペムの【昇華】が発動していなければ、酷い疲労困憊に見舞われていただろう。【契約の絆】は大きな力が発揮できるが、それは命を全力で燃やしているようなもの。易々と使えるものではない。
エルニアのことは、アリカに任せておけばいいだろう。アリカはエルニアのルームメイトのはずだ。ガゼットの話では、親友と言える仲らしい。
レインは努めて冷静な表情を保ちながら、エルニアから視線を外した。中途半端な優しさや思いやりが救ってくれるものなど、なにもない。それをレインは誰よりも知っていた。
「にしても、もうちょっと喜んだら? 普通のトレーナーなら、ドラゴン使いに勝ちなんてした日には、大喜びで駆け回った挙句、故郷に手紙を送るよ。レインはクールだね~」
静かに闘技台を離れようとしたレインに、ガゼットがエルニアたちの方を指差す。
「お前、俺が負けると思ってたのか?」
「んにゃ、まったく。相性が良すぎだからね」
とぼけた表情でメガネを押し上げるガゼットに、レインは「だろ」と笑った。
「それにしてもよ。午後からのバトルがこれ一戦だけってのは、どういうことなんだ?」
レインはポケットの中からクシャクシャになった対戦表を取り出すと、その取組を見ながら面白くなさそうに口をへの字に曲げた。そんなレインに、「そんなこと、訊くまでもないでしょ」とガゼットが笑いながら、対戦表のレイン対エルニアの欄を指先でなぞる。
「大方の予想は、キールのいっぱつKO。ペムペムは戦闘不能で、それ以降の試合は出られない。不戦敗じゃあ、生徒たちの実力が測れない。だったらいっそ、負けを前提に組んでしまおう。いやー、職員会議の様子が目に浮かぶね」
「不服だ」
「まま、そう言わずにさ。終わったんなら、休んどけば? もしくは、早めにペムペムのトレーニングを始めるとかさ」
「ぴぎぃ!」
余計なことを言うなと言わんばかりに、ペムペムがつぶらな瞳で慌てて抗議する。
「ほら、ペムペムも喜んでるよ」
「ぴぎー!」
「あははははは。こんなに喜んで、うんうん。ペムペムもレインに似て、だいぶおかしくなってきたね」
「ぴぎ。ぴぎぴぎぴぎ」
「ははは、嫌がってる嫌がってる」
「お前、わざとやってるだろ。そんで、ペムペム。そんなに、俺に似るのが嫌なのか」
「ぴぎっ!」
「ぐ。今日一番いい返事しやがったな、こいつ。あーあ、そうかわかったよ。やっぱり、今日のメニューは倍で行く!」
「うわ~、器ちっちゃ」
「黙れ、いじめっ子が」
「ちょっと、いいか。レイン・エルハルト」
「うおっ! びっくりした。急に声かけん……な……」
レインの声が尻すぼみに小さくなる。
いつの間に近づいてきたのか、レインのすぐ後ろにはキールとアリカを引き連れたエルニアが、亡霊のように前髪を下ろしながら立っていた。立っていたというより、なんとか気力で持ちこたえていると言った方がいいかもしれない。目は気丈なのだがどこか虚ろで、悔しさを堪えるためか、キュッと唇を一文字に結んでいる。
「よ、よぉ。その……大丈夫か?」
敗者には言葉をかけない主義のレインだったが、思わず声をかけずにはいられなかった。それほど、エルニアはショックを受けているように見えた。
ただ、レインは大きな勘違いをしていた。
エルニアの瞳が虚ろなのは、負けたショックではなく、レインを凝視することができなかったからであることを。
エルニアの唇が引き結ばれているのは、悔しさからじゃなく、恥ずかしさであることを。
エルニアが放つ、なにか揺らめくような雰囲気が、実は己の全羞恥心に対する大きな葛藤であることを。
「レイン・エルハルト!」
「お、おう!」
ひときわ大きな声で名を呼ばれ、レインが思わず姿勢を正す。その後頭部が、なんの説明もないまま、がしっとエルニアの手に掴まれた。
「おい、エルニア。何してんだ。ってこら、なんでそんなに、真っ赤な顔してんだよ」
「~~~~~~~~~~っ、これ以上、私を辱めるな。黙ってろ!」
「これが黙ってられるかって、うお!?」
頭がグイッと引き寄せられたかと思えば、女性にして169センチという高身長から、レインのほぼ目の前にあったエルニアの顔が、ゆっくりとレインの顔に迫ってきた。
「待った! 待った! 待ったー!」
間一髪、レインの手のひらが、二人の唇の間に滑り込む。ふよっと、僅かに湿り気を帯びた柔らかな感触に、レインの心臓が跳ね上がった。
「何をする! レイン・エルハルト」
「それはこっちのセリフだ! ビックリし過ぎて、心臓が口から飛び出るかと思ったぞ」
「誰も、お前の心臓など欲しくはないわ!」
「俺だって誰にも渡したくねぇよ!」
睨み合う両者。あまりのことに周囲は唖然。
レインとエルニアが互いの身体を押し引きしながら、至近距離で睨み合う。
「貴様、なぜ拒む。お前のせいで、私は公衆の面前で無理やり唇を奪われるのだぞ」
「お前の目ん玉は飾りか? 無理やり唇を奪おうとしてるのはお前だろ!」
「な、なんだと。貴様、一体どの口がその言葉を叩く。ここまで来て乙女の唇を拒否するなんて、意味が分からん……っは、まさか」
何とかしてレインの手の平をどかそうとしていたエルニアが、突然熱いものに触れたかのように、慌ててその手を離した。サッと身を離したエルニアが、怯えるように手を擦りながら、レインから身を隠すように後ずさる。
「貴様、やはり女よりも、おと……」
「ペムペム。【体当たり】」
「ぴ、ぴぎ?」
「行け!」
レインの指示を受け、ペムペムがその身体をエルニアの顔面に向かって弾き出す。「うぷっ!」と苦しげな呻き声を上げ、顔面にペムペムを張りつけたエルニアは、よろめきながら後ろに控えるキールに寄り掛かった。
「むむむむむ。む……ぷはー」
顔面に張り付いたペムペムを離し、エルニアが大きく息を吸う。
その姿を視界に収めながら、レインはキールに声をかけた。
「おい、キール。お前の主の思考回路を、凡人の俺にもわかるように説明してくれ」
(おそらく勝負の前に言った『恋人になる』という約束を果たそうとしているのだろう)
「やめさせろ」
(まぁまぁ。そう、邪見にするものでもないぞ。我が言うのもなんだが、主は人間の雌としてはかなり優良であろう。何が不満なのだ?)
「不満て、お前……」
キールの言葉に押され、レインがエルニアを改めて観察する。容姿、プロポーション、財力、ドラゴンの紋章。エルニアは超A級ランクの女子と称するに、何のためらいもない。
レインの視線に気づいたエルニアが、今さら恥ずかしくなってきたのか視線を逸らしながら顔を赤らめる。チラチラとこちらを伺う瞳は、レインに何かを期待しているようだ。
「いや……なんか違うだろ、こういうの」
レインは首を横に振った。勝負に勝ったから、相手のことを好きにできる。こんなの、恋愛でも何でもない。そりゃ、レインだって年頃の思春期の男子だ。その、そっちの話に興味がないわけじゃない。いや、むしろ、出来るものなら彼女を作りたいと思ってる。
そりゃそうだよ。男の子だもん。
でも、やっぱりそれで、この場の勢いに流されてエルニアと付き合うのは、何かが違う。
「ああっぁ、もう。じれったい」
いい加減に我慢の限界を迎えたエルニアが、再びレインに迫ってくる。
「レイン・エルハルト。お前も男だろう。女の一人や二人、どーんと受け止めてみろ」
「いや、だからちょっと待て。なんか、主旨変わってきてないか? つか、その前に、なにより落ち着け。そもそも、お前は俺と付き合いたいのか」
「断じてない」
見事な拒絶。レインもこれには若干傷ついた。胸にグサッとナイフを刺された気分だ。
「だったら、別にいいだろう。こんな茶番なんか」
「ちゃ、茶番だと。貴様、私の誇りを茶番だというのか!」
「そんなことは言ってないつーの。だから、俺はお前と付き合うつもりはないし、お前に付き合えって命令する気もない。これで全部、丸く収まる。OK?」
「NOだ」
「なんでだよ!?」
胸を張って答えるエルニアに、レインが頭を抱える。
「ちょっと、確認するぞ。勝負の取り決めは、勝った相手が負けた相手に何でも一つだけ命令できる。で、OK?」
「OKだ」
「んで、俺はお前に『恋人になれ』って命令する気はない。OK?」
「OKだ」
「じゃあ、お前が俺と付き合う義務はない。OK?」
レインが念入りに確認する。その言葉を吟味するように頷いたエルニアは、澄ました表情で髪の毛を払い、堂々と答えた。
「もちろん。NOだ!」
「なんでそうなる!?」
強烈な頭痛が、レインの頭を直撃した。
「お前は俺と付き合いたくない。俺はお前に付き合えと命令する気もない。なら、付き合う理由はどこにもないだろ」
「貴様が命令しなくても、私は負けた時、貴様の恋人になると宣言してしまったのだ。ミネ―レブルク家にとって、自分の発した言葉は絶対だ。そう易々と覆せないのだ」
歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほど、エルニアがその白い歯をむき出しにして食いしばる。一方、レインは「はぁ」と疲れた表情で肩を落とした。
「出たよ、この家柄根性」
「辛気臭い顔をするな! そんな顔では、お前の恋人である私の品性が疑われるだろう。ただでさえ、お前の顔は品性が欠如しているのだからな」
「失礼にもほどがあるぞ!」
猛然と抗議しながら、レインは改めて頭を横に振った。ダメだ、絶対にこんな女とは付き合っていられない。心労がたまって過労死する。
(レイン。そろそろ諦めたらどうだ。こうなった主を止められるのは、姉君ぐらいだぞ)
(だったら、その姉君を呼んで来い。妹がどこぞの馬の骨ともわからない奴と付き合おうとしているってな)
(ふふ、ホースドラゴンの我を前に『馬の骨』とは、言ってくれる)
(いや、なんもうまくないぞ)
(……我も馬鹿なことを言った。忘れてくれ)
言ってみて恥ずかしかったのか、キールが視線を泳がしながら首をもたげる。本当に、どこまでも人間臭いドラゴンだ。
(と、ともかくだ。貴様も、今はつがいがいるわけでもあるまい。ならば、我が主と付き合ってみるのも一興ではないのか)
(つがいって、お前な…………。そうだ、その手があったか!)
パチンと指を鳴らしたレインに、キールが首を傾げる。
そんなレインに、エルニアが再び首を掴もうと二人の距離を詰め寄ってきた。
「レイン・エルハルト。おとなしく、私と付き合え!」
「まぁ、落ち着けエルニア。俺はお前と付き合うことはできねぇんだよ」
「なぜだ! こら、逃げるな!」
さらりと体を躱しエルニアとの距離を空けたレインは、近くで呆然とことの成り行きを見守っていたある人物の腕を引いた。
「悪い。俺、今こいつと付き合ってるんだわ」
レインが、自分の隣に引き寄せた人物の頭に、ポンと優しく手を乗せる。その引き寄せた人物に、エルニアが息を飲み、その場で固まった。唇はわなわなと震え、煉瓦色の瞳はひどい裏切りでも受けたかのようなショックの色を湛えている。
エルニアの目の前に立った人物。それは、恋人がいない者同士、夜通し理想の恋愛について語り明かしたこともある、ルームメイトにして親友のアリカだった。
「え、え……」
一方、アリカは突然のことに現状を全く理解できていなかった。
「レイン君、なにを言ってるの?」
混乱の時間は長くは続かない。ゆっくりと、レインの言葉がアリカの頭に浸透していく。
今、こいつと付き合っている。今、こいつと付き合っている。今、こいつと付き合っている。今、こいつと付き合っている。今、こいつと付き合っている……
こいつって、誰のこと?
疑問の答えは、アリカの頭の上にあった。
「えええええええええぇぇぇ~」
アリカはガゼットですら今までに聞いたことがないほどの大声を張り上げ、そして……
「あ、あうぅ……」
気絶した。
モンスター用の餌を作るコック、食育師を夢見るアリカの朝は早い。
小鳥のさえずりが聞こえる中、アリカはそっと布団の中から身体を起こした。なんだか身体が重たいのは、昨日よく眠れなかったからだと思う。
それはそうだ。意中の人にいきなり「恋人」と宣言されて安眠できるほど、アリカの心臓はタフじゃない。近くで手を叩かれただけでびっくりして気絶するネズミモンスターの《ライトラット》の方が、いくらかアリカよりもマシだろう。
「ううぅ……」
恋人という単語を思い出し、アリカが顔を手で覆いながら、ぼすっと真っ赤に熟れた顔を枕に落とした。顔が熱くて、胸が苦しい。ついでに身体がだるいから、病気じゃないかと思ってしまう。こんなことがガゼットに知れたら、絶対に「それは恋の病だね」と言われるに決まってる。冷静なくせして人を苛めるのが大好きな幼馴染の顔が目に浮かぶ。
「ガっちゃんのばぅぁか~。レイン君はもっとばぅかぁぁあぁぁ~」
顔を枕にぐりぐりと押し付けながら。アリカがくぐもった声を上げる。隣に眠るルームメイトはものすごくよく寝る子だから、ちょっとぐらい声を上げても大丈夫。特に昨日の夜はレインとの関係を夜遅くまで本気で追及していたから、たぶん今日は寝坊するはずだ。
「レイン君かぁ……」
無意識に零れた言葉にビックリして、アリカは慌てて口元を枕に押し付けた。
レイン・エルハルト。その顔が、声が、アリカの瞼の裏に生々しく蘇る。
初めてレインを見たのは、中等部に入ったばかりだった。その頃、レインは酷いイジメに遭っていた。スライムや下級の紋章を持つものにとって、それは珍しいことじゃない。
でも、アリカは知っている。レインは絶対にスライムの紋章をいいわけに使ったり、妬んだりしなかったことを。そして、どんなトレーナーよりもパートナーを、ペムペムを大切にし、信頼していたことを。パートナーとの信頼が一緒に過ごした時間と比例するなら、きっと誰もレインとペムペムには敵わないはずだ。
レインはいつでも、ペムペムと訓練場にいた。そして、誰よりも努力していた。誰よりも悔し涙を流しながら。
レインは中等部の間、ずっと負け続けていた。引き分けすらない連敗に次ぐ連敗。スライムの戦いは負けて当然、勝って奇跡と言われるくらいだ。それでも、レインはペムペムを、スライムの紋章を《落紋》で捨てることはしなかった。そして、中等部卒業の頃には、戦えば引き分けに持ち込めるようになり、ときおり勝つことさえあった。
そして、今では同年代で屈指のドラゴン使いであるエルニアに勝つまでになった。
試合の後、みんなはまぐれや偶然だって口を揃えて言っていた。でも、アリカは違うと知っている。エルニアには悪いと思うが、アリカはひょっとしたらレインが勝つんじゃないかと思っていた。いや、それでもまさかホントに勝った時にはびっくりしたけど。
「むへへ、レイン君。ホントに凄いなぁ~」
だらしなく顔を弛緩させながら、アリカが呟く。
そしてふと、アリカは隣のベッドで眠るエルニアへ目を向けた。エルニアは人形なんじゃないかと思うほど綺麗に布団に入って、規則正しい寝息を立てていた。寝返りを打たないのか、布団やシーツには皺ひとつついていない。寝姿でさえ、どこか堂々としていた。
じっとエルニアの寝顔を見ながら、不意にアリカがため息を零す。アリカから半ば強制的に恋人を申し込まれるレインと、そのレインにいきなり恋人宣言されてしまった自分。いったい、どこで運命が狂ったのだろうか。こんなうれしい……いやいや、ややこしい恋愛なんて、アリカは望んでいなかった。
アリカはもっと初々しい、学生らしいお付き合いをレインに望んでいたというのに。
「むぅ~~……」
もう一度顔を枕に押し付け、アリカが不満と言うか、わだかまりと言うか、恥ずかしさと言うか、とにかく抑えきれない感情を枕の綿に染み込ませる。
「ぶぅぅ~~~~……っぷは!」
たっぷりと鬱憤を枕に吐き出し、アリカは一気にベッドから起き上がった。
肉球柄のパジャマから学生服に着替え、髪の毛を整える。最近、胸元が苦しくなってきたのは、エルニアには絶対に内緒だ。身長の話と胸の話はエルニアに対して禁句である。
鏡の前に立ち、アリカが両手で自分の胸元を押さえながら静かに目を閉じる。
「新しい朝に感謝を。灯る太陽に喜びを。香り運ぶ風に祝福を。芽吹く大地に幸いを」
朝の祝詞を終えたアリカは、「行ってきます」とエルニアに小さく声をかけながら、寮の部屋を後にした。
女子寮の生徒はまだほとんど夢の中で、廊下は朝の静寂に包まれていた。誰もいない廊下を、アリカが少し早足気味に歩く。アリカが向かったのは寮の食堂だ。机と椅子が並べられ、普段なら生徒の談笑が絶えない食堂も、今はまだ眠りの中。アリカは並べられた机や椅子を素通りすると、食堂の調理室へ続く扉にスッと身体を滑り込ませた。
「おはようございます」
アリカが挨拶をすると、食堂のおばちゃんたちが一斉に「おはよー」とあいさつを返してきた。よくモンスター用の料理を作りに来るアリカは、寮の食堂調理室の常連だ。
寮の食堂は、調理場が奥と手前で分かれている。手前は学生のための料理を作るところで、奥が学生のモンスターたち用の料理を作るところだ。なので、奥の調理場には普通の調理場には考えられないほど大きな包丁や、岩石などのスパイス、怪しい匂いがするキノコなどが所狭しと置かれている。ときおり、モンスター用の食材が誤って人間用に混ざることがあるが、今のところ重病になった者はいない。
まぁ、軽い腹痛などは日常茶飯事なのだが……
アリカは戸棚から自分用のエプロン(肉球マーク仕様)を取り出すと、慣れた手つきで準備を整えた。モンスターの料理を作る食育師を目指すアリカは、よくこの食堂を借りて料理の研究をしている。
アリカは胸に手を当てて大きく息を吸うと、奥ではなく手前にある調理場へ向かった。
「あ、おっはよー。アリカちゃん。今日はそっちなの? と見せかけて胸をふにょっと」
「ひゃあ! マロさん」
「むふふふふ。また実ったんじゃないの? まぁ、あたしほどじゃないけど」
「うみゃ~、やめてくださいよ。怒りますよ」
「わとととっと。ごめんごめん、だから、包丁向けるのはやめてね。マジで」
額に汗を流しながらとぼけた笑みを浮かべながら、マロはやんわりとアリカの手から包丁を取り上げた。20代後半とまだまだ若くして寮の厨房の料理長になったマロは、そのさばさばした気質や親身に話を聞いてくれることから、女子寮の中ではみんなのお姉さん的な存在だ。料理の腕もかなりのもので、人間用モンスター用のどちらも作れる、アリカが憧れる女性だ。――多少手癖が悪いのが玉にキズなのだが。
マロはひょいっと包丁を回転しながら放り投げ、刃先を指先でキャッチするという無茶苦茶な一芸を見せながら、持ち手をアリカへと差し出した。
「んで、今日はまたどうしてこっち側に?」
「え、あの、それは……」
もじもじと手を擦り合わせるアリカに、マロは白い歯を見せて笑った。
「って、訊かなくても知ってるんだけどね。告白されたんだって、アリカちゃん」
「…………ふぇっ?」
アリカが目を丸くして息を飲むと同時に、食堂の中がざわめいた。食堂のおばちゃんたちが、大津波のごとくアリカに迫ってくる。
「アリカちゃん告白されたの?」
「どこの子? 紋章は?」
「アリカちゃんも女の子だね~。可愛いもんね~。私もあと30年若かったらね~」
「で、どうなの。返事はしたの?」
「あわわわわわ。ちょっと、みなさん落ち着いてください」
「ちなみに、相手はアリカが前々から気になってたスライムトレーナー君で~す」
「マロさん!」
「スライムトレーナー? アリカちゃんも、変わったところ狙ってくわね」
「いやいや、恋愛に紋章は関係ないよ。好きになったら、しょうがないじゃん」
「え、いや。あ、その……」
「まぁ、そういうことだから。ここは若い者同士、このマロおねぇさんに任せて、おばちゃんたちは散った散った」
「「ええ~」」
「若いって言っても、あと少しで三十路……」
「こらそこー! それ以上言うな~~!」
「お~、怖い怖い。じゃあ、アリカちゃん、頑張ってんね」
「あ、はい。どうも」
「ふぅ、やっと散ったか」
楽しげにため息を零しながら、マロが手早く食材の準備をする。
「じゃあ、作ってしまいますか。お弁当」
「え?」
「何不思議そうな顔してんのさ。分かるよ、私も女なんだしさ。昨日がチーム決めの学内戦なら、今日は探索の課外授業だろ。そんでその様子なら、アリカちゃん、その雄と同じチームなんだろ」
「お、雄って。というか、なんでそんなに詳しいんですか?」
「だって、私OGだもん」
マロがひらりと、普段水洗いばかりしているにもかかわらず綺麗な手をアリカに見せる。そこに刻まれた紋章は炎の精霊紋。次の瞬間、マロが置いたフライパンの下から、ボワッと炎が吹き上がった。
「便利よね~。料理に向く紋章を持つとさ。ああ、ちなみに、私の精霊はバーミっていってね。これがまた可愛いんだわ。胸はちっこいけど」
その言葉に抗議するように、メラメラと燃え上がり、マロに向けて火の粉を飛ばす。
アリカの料理が始まったのは、マロがエプロンに燃え移った火を消した後だった。
*
魔獣錬磨師育成学園【ベギオム】は、グレイテリナ大陸一の大国であるエルグ王国の一角、国王の城とは街を挟んでちょうど反対側に設立されていた。設立と言っても、学園の外周は大きな塀で囲まれており、授業以外の外出は特例を除き週末以外禁止されている。
模擬戦で学生たちは四人一組のパーティーに分けられていた。本日の課題は、学園の西方に位置するオウズの森に赴き薬草5種の採取と20種類のモンスター討伐すること。
5種類の薬草はともかく、20種類のモンスターの討伐はそれなりに時間がかかる。どのパーティーも朝早くから準備を整え、街で必要な道具を買い、とっくに出発していた。
「ほかのパーティー、そろそろ森に着いてっかな?」
そんな中、レイン&ペムペム、ガゼット&ピック、エルニア&キール、アリカ&レオンの一行は、今なおエルグ王国の町中を歩いていた。
「まぁ、そうだろうね。僕たちのパーティーだけ、1時間遅れの出発だし」
「盛大に寝坊した奴がいたからな」
「そのことについては、ちゃんと弁解しただろう!」
レインとガゼットの会話に、俯き気味に歩いていたエルニアが顔を真っ赤にして怒鳴る。街を歩く通行人やそのパートナーのモンスターたちの視線が、何事かと一斉に集まる。
突き刺さる視線に、エルニアの睨み返しが炸裂する。美人のエルニアが浮かべた鋭い視線に、好奇の視線は一様に撃ち落とされた。学園の生徒たちは、ある意味この街の重要な収入源だ。課外授業や遠征に赴く際はいろんな道具を購入してくれる。本来なら、妖しい道具を売り込もうと商売人たちが声をかけてくるものなのだが、エルニアの気迫に押され、彼らは自分のパートナーと共に、道の端で縮こまっていた。
「おいおい、あんまり脅してやるなよ」
「うるさい! そもそもなんで私がお前なんかと一緒なんだ!」
「昨日のランキング戦の結果を考慮してだろ。文句があるなら、先生に言え。まぁ、あんなに暴れておいて文句を言える立場じゃないだろうけどな」
「うぐぅ。貴様、誰のせいでこうなったと……」
目の端をこれでもかと吊り上げるエルニアだが、その声にはいささか迫力に欠けていた。よく見れば、吊り上げた目じりには涙が溜まっている。エルニアも、怒鳴ったはいいが、ばつの悪さにすぐにまた顔を伏せてしまった。
「アリカが起こしてくれないからだぞ」
「ご、ごめんね。エルちゃん。私、ちゃんと起きてると思ったから。ほら、昨日は早起きだったし。もし寝坊しても、そんなに遅くならないと思って」
「昨日は頑張ったんだ。私の寝起きの悪さは、お前がよーく知っているはずだろう」
「あ、う、うん。ごめん」
「おーい。置いてくぞー」
後ろでボソボソと話し合う女子二人に、先を歩くレインが声をかける。
「デリカシーのない奴め。お前、恋人を置いて行くとはどういう神経をしているんだ?」
「恋人? ……ああ、悪い悪い。そうだったな」
そういえば、昨日そんなことになってたんだっけとレインが小声で零す。自分でもどうかと思うが、恋人騒動のことなんてすっかり忘れていた。
しかしまさか、まだ本気にしてるとは思わなかった。
レインは「……よし」と覚悟を決めると、二人の傍へ歩み寄り、その小さな手を引いた。
「ほら、いくぞ。アリカ」
「え、え、ええええ?」
「なに!」
アリカの手を取るレインに、アリカとエルニアが各々派手なリアクションを取る。
「お、お前。何をしているんだ」
「何って、いやほら。まだ先は長いから手を引いてやろうかと」
「ならば、手を引く相手が違うだろう!」
すぐ近くで店番をしていたオークが思わず逃げ出しそうになるほどの剣幕で怒鳴ったエルニアが、レインを突き刺さんばかりの勢いで自らの右手を差し出す。
「爪、伸びてるぞ」
「言いたいことはそれだけか?」
こめかみをピクピクと痙攣させながら、エルニアがレインを睨みつける。その整った眉の間に、まるで彫刻刀で掘ったかのような深い皺が刻まれていた。
「嘘を言うな。レイン・エルハルト」
「嘘ってなんだよ。嘘って」
「お前がアリカと付き合っている、ということだ。昨日、私はアリカから聞いたぞ。お前の言っていることは、まったくのデタラメだということをな!」
「ぐ……」
てっきりお人よしのアリカなら口裏を合わせてくれるものと思い込んでいたレインが、エルニアの言葉に顔を歪ませる。もはや完全にレインは手詰りだった。もともと、レインも嘘をつくのが得意なタイプじゃない。ちょっと叩けば、あっという間にぼろが出る。
嘘をつくには、なにより相手のどんな言葉にも動じない強かさが必要なのだ。
そう、例えばレインの隣にいるガゼットのような。
「その話が本当だっていう証拠があるの? エルニアさん」
「どういう意味だ? ガゼット・ガールバレス」
「だ、か、ら。アリカがエルニアさんに話したことだよ。まったく、アリカもお人好しなんだから。まぁ、親友のことを思えば、当然と言ったら当然かな」
肩を竦ませ、大げさに首を振りながらガゼットがメガネのフレームを押し上げる。
レインとアリカは、そのときガゼットの眼が妖しく光ったのを見逃さなかった。だが、付き合いが長い二人とは違い、エルニアはガゼットの変化に気付かない。
「当然とはどういうことだ」
本能的に何か危険を察知し身構えるエルニアに、ガゼットはあくまで人の良い笑みを浮かべると、さも真実であるかのごとく自信満々に、嘘八百を並べ始めた。
「単刀直入に言うと、レインとアリカは付き合ってるんだ。それも、この学園に入学してからすぐにね」
「な、なんだと! いや、そんなはずはない。アリカは、私と同じく男性経験がほとんどないといつも言っていたんだぞ」
「エルニアさんとアリカが夜どんな話をしていたかわかんないけど、事実は事実だ。そうじゃなきゃ、人見知りするアリカが僕以外の男子とご飯を食べるわけないでしょ。それに、アリカの番犬のレオンが許すはずもない。ねぇ、レオン」
ガゼットの声掛けに、周囲の警戒をしながらも軒先で焼かれた豚の丸焼きを眺めていたレオンが「ぐる?」と不思議そうに鳴く。だが、そこはアリカのパートナーでガゼットとも付き合いの長いレオンだ。話の内容は理解できないまでも、雰囲気でガゼットの話を肯定した方がいいと判断し、重々しく首を縦に振った。
レオンの応答に、エルニアの自信が大きく揺らぐ。
その大きく揺らいだ瞳は、半ば助けを求めるようにアリカの方を向いた。
「アリカ、なぜ私に嘘を……」
「え、あ、まって。エルちゃん、私は……」
「そりゃ、アリカにとってエルニアさんが親友で、傷つけたくなかったんだよ。アリカは決して悪気があって話さなかったんじゃないんだ。だから、許してほしい。この通りだ」
ガゼットが真摯な表情を浮かべ、往来の真ん中であるにもかかわらず頭を深々と下げる。そのガゼットの態度と、「親友のためを思って」と言う言葉が、とどめだった。
エルニアは一瞬、今にも泣きだしそうなほどショックな表情を浮かべたかと思うと、すぐにまたいつもの威風堂々たる雰囲気を取り戻し、大きく胸を張った。
「ま、ままっまま。そういうことなら、ししし、仕方ないな」
その口から発せられる言葉は動揺以外の何ものでもなかったが。
しかし、びっくりなのは、当の本人が自分自身の動揺に全く気付いてないということだ。
「わぁかった。今回の件はなかったことにしよう。ま、まぁ。恋人など遊戯の戯れにすぎんからな。レイン・エルハルト。お前も、軽々しく私の名を呼ぶんじゃないぞ。いいな」
「呼んだ覚えもないけどな」
「そ、そうか……」
あっさりと答えるレインに、エルニアが一瞬さびしそうな表情を浮かべる。
そんなエルニアに、良心の呵責に耐えきれなくなったアリカは、レインやエルニアに見えないようにガゼットの袖を引っ張った。
――ガっちゃん、ガっちゃん。なんでそんなウソつくの?
――ふふ、今世紀最大のファインプレーだろ
――なに言ってんの! エルちゃん落ち込んじゃったじゃない
――アリカこそ、なに言ってるんだ。こんな絶好のチャンスに?
――チャンス?
アリカが少しだけ興味ありそうに小首を傾げる。そんな幼馴染にガゼットは「釣れた」と最上の笑みを零しながら、そっとメガネの位置を正してレインの方を顎でちゃくった。
――だってそうだろ。話しを持ちかけたのはレインだ。ここで攻めなくてどうする。
アリカが、ちらりとエルニアを相手に困った表情を浮かべているレインを盗み見る。
――恋愛ベタなレインを落としたいなら、方法はひとつた。既成事実を作る!
「き、既成!」
「ん、どうした。アリカ、そんな大声出して?」
「あ、ううん。レイン君。なんでもないよ、うん。なんでもない! 私、そんなやましいことなんて、これっぽっちも考えてないから!」
「お、お、おう」
両手をブンブンと振るアリカのあまりの迫力に、レインが鼻白みながら身を引く。
アリカはガゼットに対し猛然と抗議を開始した。
――ガっちゃん! 何言ってんの!
――僕は有効な方法を教示したまでさ。レインの性格なら、一度関係を持てば絶対に裏切らないからね。
――だ、だからって。そんな……
既成事実。その言葉が連想させる極致を想像したアリカが、唇をわなわなと震わせながら顔を紅潮させる。
――だ、だめ。私たち、まだ学生なんだよ。そんなこと……
――恋愛に年齢は関係ない。と言いたいところだけど、また、確かに体裁は悪いだろうね。だ、か、ら。僕もそこまでやれとは言わないさ。けど、この恋人役はチャンスだ。ここで頑張れば、レインの本当の恋人にもなれるかもしれないんだよ
――そ、そうかもしれないけど
――まぁ、頑張りな。アリカがその気なら、僕はいつでも最終決戦の場を用意してあげるよ。なんせ、僕はレインのルームメイトだ。レインと部屋で二人きりなんてことも……
――ガっちゃん!
――はは、ごめんごめん
どこまで本気かわからないガゼットに、アリカが憤慨しながらポコポコとその肩を叩く。
その少し離れたところでは、なぜか異様に拗ねるエルニアをレインが懸命にフォローしていた。
「お前、なんでそんなに拗ねてんだよ」
「拗ねてなどいない! ただ、猛烈に腹が立って、気持ちの整理がつかなくて、誰かに八つ当たりをしたい気分になっているだけだ」
「それを世間一般じゃ拗ねるって言うんだよ! つーか、八つ当たりなんて止めろ!」
本当にキールに攻撃を指示しかねないエルニアを、レインが必死に説得する。ふとエルニアの掌を見ると、ドラゴンの紋章が【契約の絆】を受けて煌煌と輝いていた。
「こんなところで【契約の絆】なんか発動させんじゃねぇ!」
「大丈夫だ。ちょっと躾のなっていない大きな子供を捕まえてお仕置きしてくるだけだ」
「躾のなってないのはお前だ!」
「では、ここでキールの臨時特訓を始めるか」
「町が焦土になるぞ!」
「もしくは、そこの露店の肉を買い占めて営業停止に追い込むか」
「地味にたちが悪いぞ! つーか、そんな金あんのかよ」
「ふん! 精霊石鉱山を5つ所有するミレーネブルク家をなめるな!」
「どこの成金お嬢様だよ! いい加減にしろよ、エルニア!」
嫌がらせがどんどんエスカレートするエルニアに、レインが語彙を荒くして怒鳴る。
「……ぁ」
レインの剣幕に、荒んだ笑みで次の標的を探すエルニアが、急にその勢いを無くした。
なぜか、その両頬をキールの緋色の鱗のように赤く染めながら。
「ん、どう……した?」
エルニアの態度のあまりに唐突な変化に、今度はレインがその勢いをなくす。
エルニアはその整った唇をわなわなと震わせると、ごくりと大きく唾を飲んだ。
「もう一度……」
「んぁ?」
「もう一度、言え」
「何を?」
「言え」
顔面真っ赤、なのに無表情で詰め寄ってくるエルニアに、レインは得体のしれない恐怖を味わいながら、思い出した言葉を口にした。
「どこの成金お嬢様だよ」
「そっちじゃない! ふざけるな馬鹿! 消し炭になりたいのか!」
「そ、そんなに怒んなよ。え、えっと。んじゃ……」
レインは言っていい迷いながら、もう一つの言葉を口にした。
「……エルニア」
レインがその言葉を口にすると、エルニアは恍惚とした表情で天を仰ぎ……
突然、ハッとした表情で、レインを睨みつけた。
「なぜ私は満足しているのだ!?」
「俺が知るか!」
一方的に怒鳴られたレインが、エルニアに怒鳴り返す。
「はいはい。じゃれ合うのはそのくらいにしようね。そろそろ森に行かないと課題が終わんないよ」
なぜか少し面白くなさそうな表情を浮かべたガゼットが、ぱんぱんと手を叩き二人のコントに終止符を打つ。その後ろでは、アリカがレインと目が合うや高速で目を逸らし、そして再びレインと目を合わせるという奇行を繰り返していた。
アリカの行動が気になったが、ガゼットの言うことはもっともだった。エルニアの遅刻もあり、レインたちのパーティーは予定の時刻から大幅に遅れている。
「そうだな。必要な物は揃えたし、急ぐか」
レインが軽く頷き、街の正門に向けて歩き出す。
エルニアにガゼット、そしてアリカもその後に続いて歩き始めたのだが、
「レオン?」
ガゼットの隣を歩くアリカが、唐突にその足を止めて振り返った。
アリカのパートナーであるレオンが、さきほどレインたちが騒いでいた場所から動いていないのだ。レオンはアリカの忠狼。彼女の傍を離れることはほとんどない。全員が足を止めて怪訝な顔を浮かべると、レオンに駆け寄ったアリカが困ったような声を上げた。
「レオン。その子、どうしたの?」
レオンの氷のように薄水色に透き通った尾を、小さな子供がしっかりと掴んでいた。5・6歳くらいの女の子で、足元にはパートナーと思しき小さな《二尾猫》を連れている。
「なんだお前は?」
アリカの後に続いたエルニアが、凛然とした雰囲気を和らげもせず女の子を見下ろす。
エルニアが醸し出す強者の雰囲気に、幼い女の子は「ひゃっ」と竦みあがり、足元にいた《二尾猫》は女の子の服の中に潜り込んでしまった。
「おいおい、怖がらせるなよ」
「わ、私じゃないぞ。キールに怯えたのだ」
「だってよ、どーだキール?」
(主には悪いが弁解させてもらおう)
「だとよ。分かったら下がっとけ」
「ぐっ……仕方あるまい」
エルニアが、子供を怖がらせないようにと離れて待機していたキールに寄り掛かる。さすがに子供に怯えられたのはショックだったのか、その表情は暗かった。
「これは完璧に迷子だね。名前は? お母さんかお父さんはどこかな?」
一方、エルニアとは対照的に、老若男女の誰もが思わず心を開いてしまう柔和な笑顔を浮かべたガゼットが女の子に声を掛ける。レインが微妙な顔を浮かべる中、ガゼットマジックに騙された女の子は緊張を和らげ、その大きな瞳を涙で潤ませた。
「おかあさんと、クルール。どこか行っちゃったの……」
「クルール?」
「《氷犬》のクルール。お母さんのお友達……」
どうやら、この子は母親とそのパートナーと一緒に買い物に来ていて迷子になったらしい。レオンの尾っぽを握っていたのも、母のパートナーである《氷犬》に似ていたからだろう。《氷犬》は確かにその外見が《氷狼族》のレオンとよく似ている。
「レオン、よく吠えなかったね。えらいえらい」
アリカが少女に尻尾を掴まれても吼えることのなかったレオンの頭を優しく撫でる。
「そういうこと、か。ガゼット、時間は?」
「そろそろ出発しないと本格的にヤバいね」
「でも、この子を置いていけないよ」
困り顔をして首を振るアリカに、遠巻きに状況を眺めていたエルニアの鋭い声が飛んだ。
「迷子ならエルグ警団の屯所に行かせればいいだろう」
「簡単に言うけどよ。ここから一番近い屯所まで20分は歩くぞ」
「迷子になったのはその子の責任だ。それに、その子の親も見つからなければ屯所に来るだろう。私たちには課題があるのだ。こんなところで、いつまでも道草は食えないぞ」
エルニアの言葉は薄情ではあるが、レインは言い返そうとした言葉を飲み込んだ。レインたちが急ぐのは事実だし、人探しも警団の方が専門。エルニアの言い分はもっともだ。
もっともだが、こんな子供を一人で何キロも離れた屯所まで一人で歩かせるという選択肢はレインにはなかった。自分がどうなるのかと怯える女の子に、レインは穏やかに微笑み、その小さな頭にポンと優しく手を乗せる。
「しゃーない。みんなは先に森に向かってくれ。俺はこの子を警団まで送り届けてから追いかける」
「バカを言うな。どれだけ時間がかかると思っている? 送るというなら……、私がキールと共に送る。キールが走れば、お前が走るよりずっと早い」
エルニアがチラチラと女の子の方を向きながら提案する。ずいぶん薄情な提案をすると思ったら、合理的に女の子が自分を怖がらない方法を考えていたらしい。
本当に、まったくもって回りくどいというか、素直じゃないというか。
そわそわとした視線の投げかけてくるエルニアに、レインは肩を竦めながら答えた。
「怖がられてるのに無茶すんなよ。こんな街中じゃキールは全力疾走できないだろ。それに、キールは長い間飛ぶの苦手なんだろ。知ってるぞ」
レインの指摘に、エルニアは苦々しい表情を浮かべた。レインの言うとおり、身体の大きなキールは町中を全力で走ることはできない。そして、成熟した《ホースドラゴン》ならともかく、まだ若いキールは長い間飛行することもできない。
「でも、レイン君。ここから警団の人たちの屯所まで遠すぎるし、レイン君だけに任せるなんて申し訳ないし。みんなで行った方が……」
「大丈夫だよ。俺とペムペムなら毎日トレーニングで走り込んでるし、警団のとこ行ってガゼットたちを追いかけるくらいなら余裕だよ。なぁ、ペムペム」
「ぴぎぃ!」
ペムペムがレインの肩から飛び降り、元気良く飛び跳ねる。こちらもやる気十分だ。
そんなレインとペムペムに、エルニアは不可解そうに眉を寄せながら、ガゼットの肩を引っ張った。
「おい、ガゼット・ガールバレス」
「エルニアさんは、本当に僕とレインのことはフルネームで呼ぶね」
「名を呼んでもらえるだけありがたいと思え。そして答えろ。レインは何を考えているのだ。迷子と言えど、エルグ王国は治安がイイ。一人でも歩いて行けるだろう」
「レインは兄弟が多いらしいから弟さんか妹さんと重ねちゃったのかな。それに……」
ガゼットはメガネを中指で押し上げると、面白い玩具を眺めるように楽しげに続けた。
「スライムの紋章の、弱者として生まれてきちゃった者の義務感てやつなのかな。レインは、ああいう弱いものを見過ごせない性分なんだよね」
微笑むガゼットに、エルニアが返す言葉を思いつかず、身体を解すレインに目を向ける。
面倒事以外の何物でもないはずなのに、レインの表情はなぜか活き活きとしていた。
「とはいえ、これ以上遅れるのは困るし、レインに体力を使わせるのも得策じゃない。ということで、今日はせっかくパーティーを組んでるんだし。チーム戦といこうか」
「チーム戦? 何を言っているんだ、ガゼット・ガール――」
「エルニアさん。ちょっとキールに技を出させてくれる。危なくなくて、それでいてなるべく派手なヤツ」
「何をいきなり?」
「いいから、エルニアさんも急ぎたいでしょ。『だいぶ遅れちゃったし』ね」
遅れたという言葉を強調するガゼットに、エルニアが「うぅ……」と反撃の言葉を詰まらせる。エルニアはこの時、穏やかに微笑むガゼットの顔に悪魔の微笑を見た。
「キール、上を向け」
(次からは寝坊せぬようにな)
「うるさい、黙れ。【ブレススパイラル】」
小さな笑みを作ったキールの口から炎の螺旋が生まれ、火柱となって天上へと駆け上がる。突如放たれた炎の渦に、街に買い物に来ていた市民たちが驚きの声を上げて足を止めた。何事かと店に入っていたお客までが通りに殺到し、一瞬にして人垣が出来上がる。
「エルちゃん?」
「おい、エルニア! 何やってんだよ?」
「私に聞くな! こっちの男に聞け!」
羞恥に顔を赤らめながら張り上げるエルニアの隣で、大観衆の中で一人涼しげな微笑を浮かべるガゼットが、その頭をトントンとたたいた。
「ピック、ちょっと手伝ってほしいんだけど」
「マスター。私は人ごみが嫌いだ」
「そう言わないで、あとでアリカに特製クッキーを作ってくれるように頼むんどくから」
ガゼットが困ったような笑みを浮かべて頼むと、彼の髪がモコッと盛り上がり、中から雷の模様をその羽に刻んだ精霊、ピックがひょっこりと現れた。
「それで、マスターは私に何を望む」
「そんな事務的にならないでさ。折角かわいいんだから。ピックも、もっとこう女の子らしくにこやかに」
指先でガゼットがピックの頬を押し上げると、その指先で小さな雷の蕾が炸裂した。
「早くしろ」
凄みを聞かせるピックに、ガゼットがしびれた手を振りながらお願いする。
「んじゃ、一つ頼もうかな。あの女の子が迷子なんだけど。お母さん探してくれる? あの子に似た電磁波の人。ピックなら見つけられるでしょ」
「次からはそうやって素直に頼んでほしいものだな」
呆れながら呟くピックの双眸が、バチバチと放電する。その小さな瞳に電気を溜めたピックは女の子を一瞥すると、レインたちを取り巻く観衆の一方を指差した。
「こっちだ。人の輪の一番外に似た電磁波が見えた」
「そう、ありがとうね。ピック。……チュッ」
「マ、マスター!」
突然頬にキスをされたピックが、その小さな顔をイチゴのように赤らめる。その様子に満足そうな笑みを浮かべるガゼットにもう一度小さな電気を放ったピックは、一目散にガゼットの髪の中へと潜り込んでしまった。
「相変わらず、変態チックな趣味してるな。お前は」
「愛憎表現豊かと言ってほしいね。それより、お母さんは見つかったよ。最後の仕上げは、二人に頼もうかな」
皮肉など軽く受け流し、ガゼットがレインとアリカにウインクする。
レインとアリカが顔を見合わせる。人の壁はすでに相当な分厚さになっていた。とても、女の子一人が抜けられるようなものじゃない。
二人は互いのパートナーに視線を走らせると、納得するように頷きあった。
「そういうことかよ」
「ごめんね。ちょっとだけ我慢してね」
アリカが謝りながら、女の子をレオンに背負わせる。しっかり握るように教えたものの、子供の、しかも女の子の握力ではレオンから振り落されかねない。
そこで登場するのがペムペムだ。ペムペムは蓄えた水分で一時的に身体を膨張させると、女の子と《二尾猫》の身体を包み込み、レオンから振り落されないように固定した。
「レオン、頼んだよ」
「グルゥ」
「ペムペム、しっかりやれよ」
「ぴぎ!」
主の命令を受け、レオンは軽く助走をつけると、店の壁に向かって高々と跳躍した。
「うっきゃああぁぁ~」
少女の悲鳴と共に、レオンの身体が店の壁を駆ける。少女の力だけでは間違いなく振り落されるだろうが、少女を包み込むペムペムがしっかりと少女をレオンの背に繋ぎとめた。
観客の歓声の中、レオンが壁から飛び降りる。
その先には、少女の母が口に手を当てて、声にならない悲鳴を上げていた。
「お母さん!」
「ミサ!」
少女が母親に駆け寄り抱きつく。その姿を見届けたレオンは、来た時と同じように壁に向けて跳躍し、レインたちのもとへと引き返した。
「おかえり、レオン」
「よくやったな。ペムペム」
主たちの労いを受けて、レオンとペムペムが満足そうに主へ身を摺り寄せる。
その時、人の生垣の向こうから、先ほどの少女の精一杯の声が響いた。
「おにぃーちゃーん。おねーちゃーん。ありがとー」
届いた感謝と観衆の拍手に、レインたちが恥ずかしそうに微笑み合う。
「意外と、いいチームかもな。俺たち」
「ひとえに私のおかげだな」
「う、うん。そうだね。エルちゃんが一番頑張ったね」
「はいはい、気持ちがまとまったところで。そろそろ行こうか」
再びガゼットがぱんぱんと手を打ち、その場を収める。
そうして、レイン一行は気持ちよく森へ向かおうとしたのだったが……
「んで、俺たちはどうやってここから抜け出せばいいんだ」
レインが頬を引き攣らせて、勇んだ足を止める。正門へと続く道のりは、キールが放った火柱に興味を引かれた人とモンスターで埋め尽くされていた。
「ありゃ……」
さすがにこれは計算外だったと言わんばかりに、ガゼットが苦笑いを浮かべて頬を掻く。
レインたちが町を出たのは、他のクラスメイトが町を出発した2時間も後のことだった。
「ペムペム、右に避けて【体当たり】だ」
「ぴぎぃ」
レインの指示に、ペムペムがクマ系モンスター《ギルベア》の剛腕を紙一重で避け、その身体とは不釣り合いに小さな頭部に体当たりを喰らわせる。渾身の一撃はギルベアの脳を大きく揺らし、その意識を刈り取った。
重々しい音を立て、大地を揺らしながら昏倒したギルベアが倒れ込む。だが、勝利を喜ぶ暇もない。飛び退くペムペムの前には、イノシシ系モンスター《ビッグボア》が、蹄で大地を削りながら力を蓄え、大人の腕ほどもある鋭い牙を向けていた。
「ちっ。何回目の戦闘だよ」
レインが億劫そうに舌を打ちながら、悪態を漏らす。
その声に、レインの後ろで毒々しい斑点を持つカエル系モンスター《ポイズンフロッグ》の相手をしていたガゼットが、やれやれと肩を竦めながら答える。
「8回目。もう討伐の方の課題は軽くクリアだよ」
「だろうな! さすがに様子がおかし――来るぞ!」
レインが鋭い声を飛ばし、会話を打ち切る。目の前には、ペムペムごとレインたちを串刺しにしよとするビックボアが、その巨体からは考えられないすさまじい速度で迫ってきた。並の攻撃じゃあ、この突進は止められない。
「ペムペム。【分裂】して足を刈れ」
「「ぴぎ」」
レインの指示に、一匹のペムペムが二匹に分裂する。目の前で標的が分裂したことに、ビックボアは一瞬ぎょっとしたが、それでもその突進は緩まない。このまま行けば、たやすくペムペムを弾き飛ばし、その牙はレインの身体を貫くだろう。
だが、得てして前方へ進む力が強ければ強いほど、横からの攻撃には弱いものだ。
「「ぴぎ!」」
二匹のペムペムが同時に左右に跳ぶ。一匹のペムペムが、跳んだ先にあった木の幹を踏み台に、全身のバネを総動員した体当たりをビックベアに向けて解き放った。水色の砲弾が、ビックボアの横顔面に炸裂する。横からの速度が乗った一撃に、ビックボアの身体がぐらっと大きく傾き、その太い足がバランスの崩れる身体に引きずられ大きくもたつく。その足元目掛けて、反対側からもう一匹のペムペムが体当たりを試みた。二発目の水色の砲弾はぐらつくビックベアの足を吹き飛ばし、巨体から支えを奪う。足を刈られたビックボアは、レインたちの遥か手前で無様に転がり、頭から野太い木の幹に激突して気絶した。
「さすが、こっちも負けてられないね。ピック。【ヴォルトウェーブ】」
「了解だ。マスター」
ガゼットの声に、雷の如く俊敏に飛び回りポイズンフロッグを牽制していたピックが、そのどこか取っ付きにくそうな切れ目の双眸を細め、小さな両手の掌を合わせる。ピタリと合わさった両掌が開かれると、その掌の間で耳が痛くなるような放電の音が響いた。
「シッ!」
短く息を吐き、ピックが掌に溜めた電撃をポイズンフロッグに向けて解き放つ。放たれた電撃は波状に広がり、5匹のポイズンフロッグにヒットした。電撃の弾ける音が響き、閃光が目を焼く。電撃を受けたポイズンフロッグは、眼を回し腹を空に向けて気絶した。
だが、いくら撃退してもモンスターたちは耐えることなくレインたちの前に現れた。茂みを割って出てきたのは、頭に大きな蕾を付けた植物系人型モンスター《マンドラゴラ》だ。8体のマンドラゴラは一斉にレインたちを取り囲むと、葉っぱの両手を振り払い、無数の葉っぱを手裏剣のごとく飛ばしてきた。
「乱戦は苦手なんだよ! ガゼット」
「了解。ピック頼んだ」
「まったく、妖精使いの荒いマスターたちだ」
防御を任されたピックが、渋い顔をしながらもどこか嬉しそうに指を鳴らす。その小さな指先が弾けると、そこから電撃の種が生まれ、レインたちを襲う葉の刃の前に立ち塞がった。電撃の種に触れた途端、鋭い音と共に種が弾け、葉の刃を焼き落とす。
「ナイスディフェンス。じゃあ、今度は俺達が行くか。ペムペム、【体当たり】だ!」
「ぴぎ」
分裂体を吸収し一体に戻っていたペムペムが、マンドラゴラへその身体を弾き飛ばす。
「待つんだ、レイン! マンドラゴラに不用意に近づくと……」
「え?」
そこへ、ガゼットの鋭い警告が飛んだ。肉薄するペムペムに、マンドラゴラの頭の蕾が膨れ上がる。ペムペムがマンドラゴラに体当たりをヒットさせようとした刹那、マンドラゴラの蕾がプシューッと音を立ててその中に内包した黄色い毒霧を噴出した。
「ぴぎぎぃぃ!」
回避行動が取れなかったペムペムが、毒霧の中にまともに突っ込む。勢いが弱まったペムペムに、マンドラゴラは余裕の動きでその身体をペムペムの攻撃軌道上から外し、目標を失ったペムペムは毒霧に揉まれながら木の幹に激突した。
「ぴぎぃ~……」
「マズっ!」
レインの顔に焦りが走る。木の幹からズルズルと落ちるペムペムは、明らかに動きが鈍っていた。マンドラゴラの毒霧攻撃。動きを封じる麻痺系の神経毒だ!
弱った相手から仕留めるのが、野生の鉄則。マンドラゴラたちの標的は、完全にペムペムに定まった。マンドラゴラたちが一斉にペムペムに襲い掛かる。
「ピック。ペムペムのフォローを!」
「まったくもって世話が焼ける」
ピックがその薄黄色の翼を羽ばたかせて、ペムペムのフォローに向かう。その行く手を、最後尾にいたマンドラゴラたちが遮った。振り払われる葉っぱの腕。無数の葉の刃が、飛翔するピックを襲う。ピックは再び指を鳴らし電撃の種を生み出し葉の刃を焼き落としたが、そのタイムラグは致命的だった。ペムペムに向けてマンドラゴラたちがその葉の刃と化した腕を振り下ろす。
ペムペムへの直撃を覚悟したレイン、ガゼット、ピックが表情を歪めた、次の瞬間。
彼らの視界の端から、青い疾風が森の中を駆け抜けた。
マンドラゴラたちが振り下ろした葉刃の腕が、固い音を立てて深々と木の幹を削り取る。その攻撃の中に、ペムペムに命中したものはない。
「レオン!」
レインが快心の声を上げる。森の中を駆け抜けた青い疾風。氷の軌跡を森に刻んだレオンの口には、苦しそうに目を回すペムペムがしっかりと咥えられていた。
レオンが獰猛な皺を鼻頭に刻みながら、マンドラゴラたちを睨みつける。マンドラゴラたちは一瞬怯んだように身を引いたが、すぐに戦闘態勢に移った。ペムペムは麻痺。敵はピックとレオンの二体。マンドラゴラたちは8体。数の利にマンドラゴラが攻勢に出る。
「私を打ち負かしたお前が、こんな雑魚に手こずるなど。甚だ不愉快だな、レイン・エルハルト」
突如、一体のマンドラゴラが炎に包まれた。炎は伝染し、別のマンドラゴラに燃え移る。
二体のマンドラゴラを灰にしたキールが、悠々とした足取りで現れた。マンドラゴラにとって、炎は最悪の相性だ。しかも、相手はドラゴン。格が違う。
本能で負けを悟ったマンドラゴラたちは、一目散に茂みの中へと逃げ去った。
ようやく戦闘終了。レインは大きく息を吐きながら、エルニアとアリカに手を振った。
「ナイスタイミング。助かった」
近くの岩に腰を下ろし、レインが二人に礼を言う。実際、今のはかなりヤバかった。戦いを急いだレインのミスは明白。二人の援護がなかったらペムペムは完全にやられていた。
「お礼はレオンに言って」
はにかむアリカとは対照的に、エルニアは不機嫌そうにキールの首を撫ぜながら言った。
「なぜ、私がお前を助ける必要があるのだ。私を倒したお前なら、この程度の雑魚モンスターなど楽勝だろう」
「そういうな。ペムペムは乱戦が苦手なんだよ。って、そうだ。ペムペムの調子は?」
気を抜いていたレインが、慌ててペムペムのことを心配する。
ところが、それは無用な心配と言うか、心配するだけ損だった。
ペムペムは、アリカの豊満な胸の中で、大事そうに抱っこされていた。
「大丈夫、大きな怪我はないみたいだよ」
「いっそ、今から一発殴ってやりたいぐらいだけどな」
「え、え、え! だ、ダメだよ。レイン君、なに言ってるの?」
「冗談だよ。冗談。半分な」
「半分~?」
じと~っとした上目遣いで、アリカがレインを睨めつける。日頃引っ込み思案なアリカだが、モンスターに注ぐ愛情は人一倍だ。レインは素直に頭を下げて謝ると、アリカの胸の中でふにゃ~っとくたびれているペムペムの頬を突っついた。
「んで、こいつどんな状態なんだ」
「麻痺にかかっちゃたみたい。どうしよう、麻痺消し薬ちょうど切れちゃってるし」
「しゃーねぇな。ペムペムは休戦だ。エルニアの言うとおり雑魚敵ばっかで経験値もあんまり期待できないし。アリカもそろそろ疲れてきたろ?」
「ちょっと待て、なんでアリカばかり心配するんだ?」
「だって、女の子だぞ」
「お、お前は……」
レインの無神経な一言に、エルニアの表情が曇る。エルニアは何か言いたげに口をもごもごと動かしたが、結局何も言えず、「もういい……」とどこか寂しげに漏らしながら、キールの背中に飛び乗った。
「なんなんだよ?」
「エルちゃん……」
首を傾げるレインの横で、アリカが心配そうにエルニアを見る。場を微妙に重い空気が支配しそうになったところで、すかさずガゼットが別の話題を持ち出した。
「にしても、みんな少し変だと思わないかい?」
ガゼットの言葉に、場の空気が引き締まった。
「確かに、な。このモンスターとの遭遇率は異常だ」
「それだけではない。戦うモンスターにしてもそうだ。ギルベアと出会うのは、もっと森の最深部だろう。こんな森の前半で戦う敵ではない」
「マンドラゴラもだね。あの子たちは臆病だから、自分から出てくるのって珍しいよ」
そう、今日の森は何かがおかしい。実際、レインが十日ほど前にこのオウズの森を探索したときは、これほどモンスターと遭遇することもなく、むしろモンスター討伐の課題をこなす為にかなりの距離を歩き回ったくらいだ。
なのに、今日はすでに課題の討伐数を大きく上回っている。戦闘数が異常なのだ。
「どう考えても、おかしいわな。これは」
何か得体のしれない変化が、森に起きている。これは、あくまでレインの勘だが、弱者の定めと言うべきか、危険に対する勘はよく当たる。
「ペムペムも、これだしなぁ」
レインが、アリカに抱っこされているペムペムに視線を移す。そろそろ降りろ、と思ったが、どうやら強力な麻痺らしく、降りたくても降りられないと言った方がよさそうだ。
全員が考えをめぐらす中、いち早くガゼットがこれからの行動について提案した。
「討伐の課題はクリアしたんだ。採取する野草も森の前半で取れるんだし、今日は早めに引き返そう」
「そうすっか」
ガゼットの提案に、レインはすぐに頷いた。森に入ってからの連戦で、すでに全員がかなりの体力を消耗している。一発で体力を使い切る【契約の絆】を発動していないだけもう少しなら持つだろうが、ペムペムは麻痺を受けてまともに戦闘に参加できない以上、引き返すことに異論があるはずない。
「そうだね。無理しても危ないし」
レインに続き、アリカもガゼットの提案に頷く。そんな二人の賛成でパーティーの方針が決まったかに思えたが、そこにエルニアが「待った」をかけた。
「いや、もう少し奥に進もう」
「なんでだ? ペムペムは麻痺で動けねぇし、課題も何とかなると思うぞ」
「ふん、笑わせるな。スライム一体の戦力くらい、キールがいくらでもカバーできる」
ここまでキッパリと宣言されるといっそ清々しくなるのはなぜだろう?
にしても、さすがに今の言い方にはカチンとくるわけで、いくら弱いことを自覚しているレインでも言い返したくなる。
「言ってくれ……」
「だ、だから! ……ちょっとは、私を頼ってもいいんだぞ。レイン・エルハルト」
背中を向けたまま早口に言うエルニアに、レインの言葉が止まる。言ってることは自信ありげなのに、その背中はなぜか縮こまっていた。
ちぐはぐなエルニアの態度に、レインが小首を傾げる。
「いや、まぁ。そりゃ、頼ってるけどさ」
「そ、そうか! ふふ、そうだな、当然だな。では行くぞ。遅れるなよ、レイン・エルハルト」
ぱっと笑顔を浮かべたエルニアが、キールの上で振り向く。そして、さっきとは打って変わって自信に満ちた表情を浮かべ、先陣を切って歩き始めた。よくわからないエルニアの態度に、レインがどうにも微妙な表情を浮かべながら、後ろ髪を掻く。
レインがエルニアを頼っているのは本当だ。レインとペムペムの戦術は、連戦乱戦には向いてない。その意味では、いつどこから何匹の敵が襲ってくるかわからない森の探索では、雑魚相手なら単体で一掃できるエルニアとキールは大きな戦力となる。
それはそれとして、エルニアのこのテンションの変わり方は、とにかく理解できない。普段の人を遠ざけるオーラを放ちまくっている彼女とはギャップがありすぎる。
怒ってみたり、悲しんでみたり、自信なさ気だったり、喜んでみたり。
「なんだよ、いったい? なあ、ガゼット。エルニア、なんかいつもと違わないか?」
先を行くエルニアの背中を見ながら、レインがそっとガゼットに耳打ちをする。
するとガゼットは、ひどく残念なものを見るような目でレインを憐れむように見たあと、「はぁ~~~~」と長く重い溜息を吐き出した。
「まぁ、普段ペムペムとどうやって勝つかだけ考えている君には、難題かもね。これは」
「えっと……。もしかして俺、バカにされてる?」
「褒めてるんだよ、これでも」
全然褒められている気がしないのは、気のせいだろうか?
「あ、あの! レイン君!」
「うおっ! びっくりした、どうしたアリカ。いきなり」
レインが小さく飛び上がりながら、声の方を向く。レインの目の前には、それまで黙っていたアリカが、きゅっと身体を強張らせながら、挑むような表情を浮かべていた。その顔は真っ赤で、今にも湯気が立ち上りそうだ。
「わ、わわわわわ、わわわわっわ!」
一度言葉を飲み込んだアリカは、ペムペムをぎゅっと抱きしめながら大きなタメを作ると、全身を強張らせ目を瞑りながら、その小さな口を大きく広げた。
「私のことも頼ってもい……きゃ!?」
「うお! な、なんだ?」
突然吹き荒れた突風が、アリカの言葉を奪い去った。
森の中を駆け抜けてきた風の重圧が、レインとアリカの身体を包み込む。森の大木が揺れるほどの風圧だ。体重の軽いアリカの身体は、風の腕に捕まりフワッと浮き上がった。
「アリカ! ――って、どわっ!?」
とっさにレインがアリカの腕を掴み、風の腕からアリカを奪い返す。だが、掴んだ体勢が悪い。足の踏ん張りが利かず、今度はレインの身体が風の腕に捕まれた。レインはなお粘ろうとしたが、そこへ一際大きな突風が吹き付ける。
「や、やべ!」
レインのつま先が、地面から離れる。その最中、レインの服の裾が何か大きな力に引っ張られた。レオンがその牙でレインの裾を捕まえたのだ。雄々しく青い四つの足が地面を踏みしめ、レインとアリカの身体を地面へ引き戻す。
「ナイス、レオン!」
心強い仲間に礼を言うと、レインはアリカを抱き締めながら、その場に這いつくばった。
「レ、レイン君! ちょっと、あの、手が……」
「悪い、ちょっとだけ耐えてくれ。文句は後でちゃんと聞くからよ」
「あ、う、ううん。いいの、あの……ありがとう」
「どういたしまし……」
「こら! レイン・エルハルト。お前、どさくさに紛れて、アリカに何をしている!」
風の轟音をかき消す怒号が、レインの耳に届いた。声の主は、もちろんエルニアだ。地面に頬を擦りながら前を見ると、10メートルほど離れたところで、伏せたキールを暴風壁にしたエルニアが、怒りに満ち満ちた表情でこっちを睨んでいた。
「ふぁふぃも、ふぃてねーご」
弁解しようとしたレインの口の中に、容赦なく突風が入り込む。とてもじゃないが声を届かせられる状況じゃない。
「そこに直れ、レイン・エルハルト。やはり、お前は私が引導を渡してくれる!」
「エルニアさん、落ち着いて」
エルニアと同じくキールの身体に守られていたガゼットが、今にも飛び出そうとしたエルニアの身体を捕まえ、引き戻した。
「離せ、ガゼット・ガールバレス。まさか、レインの肩を持つつもりか。奴は、お前の幼馴染を手籠めにする気だぞ」
「それはそれで望むところ……じゃなかった。ともかく、今飛び出すのは危険だって」
「そんなことは百も承知だ。だが、それ以上に私のルームメイトが危険なのだ」
「いや、だから。それは願ってもなかったりしなかったり……」
(皆の者。取り込み中のところ悪いが、デカいのが来るぞ!)
その場にいた全員の脳内にキールの声が木霊すると同時に、再び突風が吹き荒れた。
「ぐおぉぉぉぉ。きょ~れつぅ~」
息が止まるほどの突風の中、レインがアリカの腰に手を回し、近くにあった木の根を引き千切らんばかりに握りしめる。レオンが二人の前に伏して盾になってくれているが、すべてを防げるわけじゃない。轟々と風の咆哮が鼓膜を叩き、小石や砂が肌を打つ。口の中には砂利が入り、風圧で目も開けていられない。
数秒後、ようやく突風が収まると、体中に付いた葉っぱや砂ぼこりを叩き落としながら、レインはようやく身体を起こした。
「大丈夫か? アリカ」
「うん。なんとか」
「よし。ガゼット、そっちはどうだ?」
「無事だよ。もちろん、エルニアさんもね」
「ふんっ」
機嫌悪そうに頬を膨らませるエルニアだったが、その表情が突如驚きに変わった。
「おい……なぜ、こんなところにあんなモンスターがいるんだ?」
わなわなと震える指先で、エルニアが木々のなぎ倒された先を指差す。
エルニアの指の先には、全身をエメラルド色の鱗で染め上げた巨大なドラゴンが、強風でなぎ倒された木々の円陣の真ん中で悠然と佇んでいた。
螺旋状に薙ぎ倒された木の中心で、ドラゴンがその鱗と同じエメラルド色の瞳をレインに向ける。深い、どこまでも深い、英知を感じさせる深緑の瞳。睨まれたレインの全身の毛という毛が、一本残らず逆立つ。本能が警鐘を鳴らす。理屈じゃない。
敗北が目の前に佇んでいた。
キールとは比べ物にならない巨躯は、そこら辺に生えている木の3倍はある。巨躯に比べてその翼は少し小ぶりではあったが、それでも広げれば並みの家の屋根の数枚分はあるだろう。地をしっかり踏みしめた両脚は、その足下にあった野太い木を軽々と踏みつぶしている。両腕の先に光る野獣の牙のような爪の威力は、薙ぎ倒された木々の中で、無残に引き裂かれている大木の残骸が教えてくれた。
ドラゴンが、その真珠のように白い牙が生え揃った口を大きく開き、真っ赤な口腔を天へ向ける。咆哮。それはもう鳴き声というより嵐、災害に近い。両耳を塞いだレインだったが、咆哮が引き起こす空気の振動で、肌が痛いぐらいに痺れてくる。
成体となったドラゴンの存在感は、文字通り桁違いだった。そのあまりの迫力に、レインの隣にいたアリカが腰を抜かしてその場にヘタリこむ。
「へへへへへ、マジかよ。すげーな」
大き過ぎる衝撃は、人をバカにするらしい。レインは笑わずにはいられなかった。
「こんな状況で笑えるなんて、えらく余裕だね。レイン。頼もしいよ」
「そりゃどうも。んで、頼もしいついでに教えてくれよ。あのドラゴンは、なんだ?」
「四つん這いじゃなく、ああやって両腕双脚でいられるところをみると《グランドドラゴン》の類じゃないかな。属性は、まぁこの様子じゃたぶん風だろうね。ちゃんとした名前はわかんないな。試しに訊いてみたら?」
「そりゃいい。通訳はキールに頼むか」
(バカを言え。アレは同族の我でさえ人間と同じレベルに見ている。まともな会話が出来ると思うな)
炎を操るキールが発した冷たい念話に、レインがごくりと喉を鳴らす。
ドラゴンはとにかく長命な種族だ。優に1000年を生きる個体さえ報告されている。その分、繁殖期も短く、手に入れるのが困難な種族であり、誰もが憧れるモンスターだ。
だが、憧れが強く興味本位で手を出せば、その代償は大きい。いち早くそれに気づいたエルニアが苦い表情を浮かべながらキールから飛び降り、レインの脇を小突いた。
「おい、レイン・エルハルト。アレを見ろ」
「ん? って、おい。あいつら、なにやってんだ!」
レインが頬を顰める。薙ぎ倒された木々の一角に作られた土の暴風壁から、レインと同じ制服に身を包んだトレーナー達がドラゴンへの攻撃のチャンスを伺っていた。その中にはレインにケンカを売ったゴブリントレーナーの姿もある。
トレーナー達は素早く体勢を整えると、一斉に自らのパートナーに指示を飛ばした。
「ゴブー【こん棒投げ】」
「リッちゃん【ハーブアタック】」
「サカボン【水鉄砲】」
「ドドン【エアーズクラッシュ】」
ゴブリンが手にしていたこん棒を投げ、植物系モンスターのプラントが様々な効果が付与された薬草を飛ばし、陸上魚類族のエアーフィッシュが口から勢いよく水を噴出し、土ゴーレムがその剛腕で砕いた地面を隆起させる。
襲いかかる四つの攻撃に、風のドラゴンは身構えることもせず、ただ無造作にその尾を薙ぎ払った。攻撃というよりは虫を追い払うに等しいその動作だが、一条の鞭と化した剛尾は竜巻を生み出し、軽々とモンスターたちの攻撃を打ち払う。吹き荒れる竜巻は勢い余り、ドラゴンへ攻撃したモンスターばかりか、トレーナー達へと牙を剥いた。
「【ブレススパイラル】」
渦巻く螺旋の業火が、吹き荒れる風の牙と衝突する。辺りを熱風が吹き荒れ、上昇気流となった二つの攻撃は朱色の炎の火柱となり天空へ向けて駆け昇った。
「何をしているんだ、貴様らは!」
「エルニアさん!?」
突然現れた救世主の姿に、生徒たちの顔に希望が満ちる。
そんな生徒たちに、エルニアは厳しい視線を向けた。
「質問に答えろ。何をしているんだ! 死にたいのか!?」
「ああああ、あや。そ、そそ、それは……」
「はっきり答えろ!」
「私たち、探索途中であのドラゴンがあそこの洞穴に入ってくところ見てて、そしたらゴルド君がドラゴンを狩ってエルニアさんの鼻を明かしてやろうって言って」
「あ、こら。キルニ、てめぇ、黙ってろ」
「黙るのは貴様だ。バカモノが!」
「ひぃ!」
エルニアがゴブリントレーナーを叱咤する。当然と言えば当然の怒りだが、これまたとんでもない尾っぽを踏んだものだ。
エルニアはその美しい双眸を怒りに染めながら、ゴブリントレーナーに詰め寄った。
「貴様も知らぬわけではないだろう。成体となったドラゴンは、滅多なことでは人を襲わん。奴らにとって、人も他のモンスターも同等、取るに足りない存在だからな。だが、自分に牙を向いた人間に対しては制裁を加える。当り前だ、自分と格の違う者にケンカを売られれば誰だって腹が立つ。特にお前のような身の程知らずのような者にはな!」
こみ上げる怒りのままにエルニアが一気に捲し立てる。その剣幕に押されたゴブリントレーナーは足を木の幹に取られ情けなく尻餅を付いた。
エルニアはゴミでも見るようにゴブリントレーナーを睨み、怒りのままに吐き捨てる。
「ここは私が食い止める。貴様らはさっさと学園に報告しろ。こんなところにこのレベルのドラゴンがいることは異常だ。すぐに姉上に、生徒会長に伝えるんだ。分かったな!」
「は、はひぃ!」
エルニアに怒鳴りつけられたゴブリントレーナーが、手足をバタバタとさせながら、自分のパーティーと共にその場を撤退する。けれども、身の程を弁えずにドラゴンの誇りに挑んだ愚か者を、風のドラゴンは許さなかった。
必死に逃げるゴブリントレーナーへ向け、ドラゴンがその口腔を開く。その口腔に周囲の空気が集約され、乱気流渦巻く球体と化した。ドラゴンがその首を大きく引き、撓らせた首の反動を利用して乱気流の玉をゴブリントレーナー達へ向け吐き出す。
「させるか! キール、【ソニックファイア】」
キールが口を開き、乱気流の玉へ狙いを定める。次の瞬間、キールの口から亜音速の炎が解き放たれた。炎の導火線は瞬く間に乱気流の玉と接触する。乱気流の玉に満ちる空気はキールが放った炎に熱しられ膨張し、限界まで膨れ上がった空気は球体を維持できず轟音と共に弾け、方向性を持たない風となり霧散した。
空で弾けた乱気流の玉を見て、エルニアの顔が俄かに緩む。もしかしたら生徒会の応援が来る前に、エルニアだけで風のドラゴンを討伐できるかも知れない。
「バカやろう! 油断すんな!」
成体のドラゴンの前に、それはただの幻想に過ぎなかった。叫んだレインは、ドラゴンが巨腕を降り上げる瞬間をハッキリと見ていた。圧倒的な力の差に全身が戦慄する。
「エルニアー!」
レインが叫ぶと同時に、ドラゴンはその腕を振り降ろした。間一髪でレインの声に反応したキールが、エルニアの細い腰を咥え、大きく飛び退く。
大木が引き裂かれ、大地が砕かれる轟音が辺りを震撼させた。
「――っ!」
エルニアの青ざめた顔が、レインにもはっきりと見えた。
ドラゴンが振るったその鋭爪の一振りは、大地に深々とその爪痕を刻んでいた。えぐり取られた土砂は空へ跳ね飛ばされるが、次の瞬間には重力の手に捕まり、辺り一面へと降り注ぐ。視界が茶色に染まり、轟音が耳を打った。
その最中、レインはエルニアとキールへ迫るドラゴンの二撃目の爪をしっかりと捉えていた。エルニアを咥えているキールは、即座に反撃が出来ない。
「ペムペム」
レインがペムペムへ視線を飛ばす。だが、ペムペムはマヒでまだ動けない。
「くそっ!」
頭上に落ちてきた木の根を腕で払いのけながら、レインは叫んだ。
「ガゼット!」
「無茶振りすぎるって! ピック【スパークアロー】!」
「マスターもな!」
ピックが無数の雷の矢を生み出し、ドラゴンの爪へ向けて解き放つ。閃光と化した光りの矢は瞬く間にドラゴンの爪へ次々と飛雷した。だが、一撃の威力が弱い。爪は停滞するものの、未だエルニアとキールはその射程内だ。
「今だよ。レオン、落として!」
今度はアリカが叫ぶ。その声に導かれ、ピックが時間稼ぎをしている間にレオンが空気中の大気を凍らせて作りだした巨大な氷の鉄球がドラゴンの爪へ落下した。ドラゴンの爪に衝突した氷の鉄球が、その力に打ち負け、重々しい音と共に砕け散る。
その間に、エルニアを咥えたキールはドラゴンから離脱し、レインたちと合流した。
「よう、命あってなによりだ。って、ん?」
エルニアに声を駆けたレインが、訝しげに眉を寄せる。エルニアの反応がない。キールの口から離されたエルニアは、自力で立てないままその場に膝を付いてしまった。
「お、おい。エルニア!」
レインが声を駆けるが、エルニアはどこか定まらない視線で遠くを見たまま返事がない。その姿は、まるで人形のようだ。目立った外傷はないが、完全にその思考は沈黙していた。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ。こら、起きろ。エルニア!」
レインが大声を出しながら、エルニアの頬を叩く。
「……っ!」
頬に走る痛みにエルニアが顔を顰め、小さく声を上げる。まだ少しぼんやりとした様子だったが、腫れあがった頬を自分の手で撫でると、次の瞬間にはカッと目を見開き、自分の頬を撫でていた手でレインの頬を叩いた。グーで。
「うごっ!」
綺麗に入った右フックに、レインが呻き声を上げてよろける。
エルニアは、腫れた頬以上に顔を真っ赤にしながら、涙目になってレインを睨んだ。
「お、お前! 私に何をするんだ? 私はまだ、お前のものになったつもりはないぞ!」
「とりあえず、お前が言うことは質問じゃなくて『ありがとう』と『ごめんなさい』だ」
「その前に、君たちに言わせてもらうよ。ふたりとも真面目にやって!」
ガゼットの切羽詰まった声に、レインとエルニアが改めて現状を認識する。
ドラゴンは完全にレインたちを標的に定めていた。
「一応聞くけどさ。逃げる? 戦う? 話し合う? 僕的には一目散に逃げたいけど」
「ただ逃げたところで、逃がしてくれる相手ではないだろう。だったら、己が紋章に掛けて戦うだけだ。キール【エンブロム・フレア・ギガブレス】」
エルニアが、キールの最大攻撃技を叫ぶ。キールもそれに応えようと身構える。キールの全身が濃い赤褐色の閃光を放ち、全身から熱風が吹き荒れる。
が、そのキールの変化は、攻撃に転じることなく縮小した。
キールが申し訳なさそうにエルニアの方を振り向く。
(主よ、残念ながら体力切れだ。ここまでの連戦がたたったな)
そう、さっきキールが反撃よりも回避を選んだのは、反撃に転じるだけの力がもう残っていなかったのだ。場に重い沈黙が流れ、そして。
「とりあえず、頑張って逃げ道を探すか」
レインが、どうにも沈痛な表情をしながら全員に提案した。
「ガゼット、ピック。アイツの目を暗ませることできるか?」
「まぁね。じゃあ、そこまでの道案内をしてもらうよ。いくらピックが他人を出し抜くのに長けた意地悪さんだとしても、あそこまで行くのはかなりきついからさ」
「聞こえているぞ。マスター」
ピックが髪の毛の先からバチッと電気を放電させ、ガゼットを睨みつける。そんなピックに、ガゼットはふわりと笑ってウインクした。
「うん、怒った顔も可愛いよ。ピック」
「マ、マスター!」
「はは、照れてる照れてる」
「~~~~っ!」
「こらそこ、じゃれ合ってないで真面目に頼むぞ」
「僕はいつでも大真面目だよ。レイン」
「ああ、そうですか」
相変わらずの変人ぶりを発揮するガゼットに、レインは「はぁ~」っと深い溜息を着いた。自分の都合の為なら、他人でも平気で巻き込む危うさがガゼットにはある。
そんなレインの雰囲気を悟ったのか、ガゼットは不意に柔らかく微笑んだ。
「警戒しなくてもいいよ。――僕も、あのドラゴンのヤバさはビンビン感じてるからさ」
語尾を鋭くさせたガゼットの眼がスッと細まる。今回は本当に信頼しても大丈夫な時らしい。そうなれば話は別だ。人を出し抜くことに関してガゼットの右に出るもはいない。
「レイン、アリカ、それにエルニアさん。耳を貸して」
ガゼットが三人を呼び、手短に作戦を説明する。その口から紡がれる言葉に、レインは目を見張った。いや、レインだけじゃない、アリカは口を押さえて驚きの声を抑え、ガゼットと付き合いの浅いエルニアに関しては、最上級のドラゴンよりも恐ろしい生物を見るかのごとく、口をポカンと開けたままガゼットを見つめている。
一拍置いて、レインは大口を上げて笑いながらガゼットの肩を叩いた。
「あははははは。あいっかわらず、お前の考えることはすげぇよ。ガゼット」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、ちょっと力が強いかな。てか、痛いよ」
「その作戦、本気か。ガゼット・ガールバレス」
「もち。今ある手札で、一番成功率の高い方法だと思うけ――みんなっ、伏せてっ!」
突如、凄まじい風圧がレインたちを襲った。その風に捕まり、倒木が次々の舞い上がる。空中で大木と大木がぶつかり合い、裂け、砕け、木片の吹雪が辺り一帯に吹き荒れた。
ドラゴンが大きく鼻を鳴らす。ただ一度の攻撃で、辺りの光景は一変した。螺旋状に薙ぎ倒されていた倒木の一角が大きく抉れ、まだ地に根を張っていた大木を薙ぎ倒していく。
その一撃は、まさに天変地異。
「いや~、サンキューな。アリカ、レオン。助かったわ」
超ド級の一撃を辛うじて生き伸びたレインは、氷の暴風壁の影で「ひゅー」と短い息を吐いた。実際生きた心地がしなかった。アリカがレオンに頼み、周囲の木々を巻き込んで形成した氷壁。その上を舞う突風の嵐は、もし巻き込まれていたならひとたまりもない。
他の三人も、皆同じ気持ちだろう。先ほどまでのどこか緩んだ空気は、完全に消えていた。背筋が寒いのは、レオンが作りだした氷の壁の裏にいるからじゃない。
「みんな、分かっていると思うけど。チャンスは一回きりだ」
「【契約の絆】はどうする?」
「それは各自最後の手段。発動後の疲労困憊になられたら、逃げるに逃げ切れなくなるからね。レイン、ペムペムの調子は?」
「見ての通り、囮がやっとだ」
「十分。アリカ、レオン。きついと思うけど、ペムペムをフォローしつつ、あのドラゴンの注意を引きつけて」
「うん、分かった」
「主役のピックも、覚悟はいい?」
「マスターがやれと言えば、やるしかないだろう」
レインたちの意気込みを確認したガゼットは、最後に、彼にしては珍しく少し躊躇いがちにエルニアへ視線を走らせた。
「エルニアさん、キール。こうやって話すようになって日も浅い。というか、僕は昨日初めてまともに会話したし、僕のこと信頼できないと思う。それは仕方ない。だから……」
ガゼットは一度言葉を切ると、悲しげな表情を浮かべ続けた。
「いざとなったら、エルニアさんとキールだけ逃げてくれても構わない」
「んなっ!」
ガゼットの言葉に、エルニアは激しく驚き、その顔を怒り一色に染め上げた。
「ふざけるな! エルニア・F・ミレーネブルク。このドラゴンの紋章に誓って、チームメイトを置いて逃げ出したりはせん」
「本当? 計画を立てておいてなんだけど、エルニアさんたちが一番危ないんだけど」
「誇り高きドラゴントレーナーが危険を預かるのは当然のことだ。いらぬ心配だ。エルニア・F・ミレーネブルク。貴様の作戦、私が見事に成し遂げてくれる」
拳を大きく振り払い、エルニアがガゼットに宣言する。
エルニアのその言葉に、ガゼットは大げさに安堵の息を着いた。
「そうか、よかった。さすが、ドラゴンの紋章を授かりし者。心構えが僕らとはまるで違うね。じゃあ、悪いけど頼んだよ」
「ふん。当たり前だ。行くぞ、キール!」
エルニアが風のドラゴンを見定めながら、力強くキールの身体を叩く。
その後ろで、さっきまで不安そうな表情をしていたガゼットが澄ました顔で微笑んだ。
「うん、エルニアさんはいい子だね。実に乗せやすい」
「後で怒られるぞ」
楽しげにエルニアの背中を見送るガゼットに、レインは頭痛でもするように頭を押さえながら、小さくため息を着く。
氷の暴風壁が砕け散ったのは、まさにその時だった。
圧縮された空気の球が氷の壁にぶつかり、轟音と共に氷を粉砕する。砕かれた氷の欠片は太陽の光を受け煌めき、ダイヤモンドダストとなって宙を舞う。
その煌めきの中、三つの影が飛び出した。
「レオン、【フリーズストライク】」
アリカの指示を受け、正面切って飛び出したレオンが周囲の水分を凝結させ無数のつららを作り出す。槍の切っ先のように鋭くとがったつららは、レオンの遠吠えを合図に、一斉にドラゴンへ向けて放たれた。空気を貫き迫るつららに、ドラゴンが大きく翼を羽ばたかせる。大地を覆うような双翼の羽ばたきが生み出したのは、驚異的な速度で渦巻く二つの竜巻だ。逆方向に渦巻く竜巻につららは次々の飲み込まれ、一瞬にして噛み砕かれる。
「ペムペム。今だ、ぶちかませ」
ペムペムがその小さな体を利用して、大木の影に隠れながらドラゴンとの距離を詰める。そして十分にその距離を近づけたところで、全身で大きくタメを作り、限界まで威力を高めた体当たりを、ドラゴンの足に向けて打ち出した。
タメは十分、射程も圏内。外す理由は一つもない。
ペムペムの体調が万全だったなら。
「ぴ、ぴぎぃ~」
ペムペムが大きく失速する。マンドラゴラから浴びた麻痺の毒が、ペムペムの動きを奪ったのだ。勢いを削がれたペムペムは、ドラゴンの足に届くことなく身体を地面に着地させる。いくらペムペムの存在感が小さいとしても、攻撃の時の闘志にドラゴンが気付かないはずがない。風のドラゴンのエメラルド色の瞳が、足元で力なく舌を出し麻痺毒に自由を奪われているペムペムを捉える。
「ぴ。ぴぎぎぎぎ」
ペムペムは何とかその場から逃れようとするが、思うように体動かない。
「ペムペム! 逃げろ!」
レインの叫びも虚しく、ドラゴンがその豪脚をゆっくりと持ち上げる。それはさながら大岩だ。ペムペムの上に影が差し、巨悪な圧迫感がペムペムへ向けて落とされた。
崩落のような轟音があたりに響き、砕かれた大木の木片が土煙と共に辺りに舞う。
その土煙の中を、太陽の光に煌めく氷の影が飛び出した。レオンだ。その口には、しっかりとペムペムの小さな身体が加えられている。
「ナイスフォロー!」
レインが指を鳴らし、レオンに声援を送る。レオンに助けられるのは本日二度目だ。よほど、レオンの口にとってペムペムは収まりがイイらしい。
そんなバカなことを考えている間に、ドラゴンが生み出した土煙を目隠しにしたキールが最後の詰めに入っていた。エメラルドの鱗の壁を、緋色の鱗が駆け昇る。キールはその脚力に物を言わせ、一瞬にして風のドラゴンの目前へとその身を滑り込ませた。
だが、今のキールに必殺の一撃を放つ力はない。
無防備のまま姿を現したキールは、風のドラゴンに取って格好の的だ。風のドラゴンがその口を大きく開く。丸飲み? いや違う。その口腔に蓄えられたのは、すべてを粉砕する風の砲弾だ。まともに受ければ、キールと言えどひとたまりもない。
「大きい攻撃は、それだけ発動に時間がかかるんだよね」
戦況を見守るガゼットの声は冷静だった。
そりゃそうだ。ここまで、完全にガゼットの作戦通りなのだから。
風の砲弾を作るドラゴンに向けて、同じようにキールが大きく口を開く。その真っ赤な口の中から、小さな雷の妖精がその身体の数百倍はあるドラゴンの鼻の頭に飛び出した。
「取った!」
冷静に呟いたピックが、その小さな掌をドラゴンの眼にかざす。
「ピック【ライジング・サン】」
雷の妖精の攻撃は一瞬だった。ピックの掌から、太陽よりはるかに眩い閃光が解き放たれる。その閃光をまともに受ければ、さすがのドラゴンとはいえただでは済まない。事実、ドラゴンの片目は完全に視力を失い、その余波は無事なもう片方の視力さえ奪い取った。
視覚を潰されたドラゴンが、首を大きく振り回しながら、あらぬ方向へ口腔に練り上げた風の砲弾を解き放つ。続けてドラゴンがいつ止まないとも知れない咆哮を吐き出した。それは、強烈な光を浴びたことに対する動揺か、それとも怒りか。
「今だ。逃げるぞ!」
その隙を見逃さず、レインたちは一斉にドラゴンの作り出した円陣から離脱する。
学園へ帰るまでの間、ついに風のドラゴンの咆哮が途絶えることはなかった。
至高のドラゴントレーナー、エルニアの朝は遅い。
素肌の上からワイシャツを羽織り、飾りっ気のないパンツ一枚という無防備な姿で眠るエルニア。その鉛のように瞼が開いたのは、三つ目の目覚まし時計を払いのけ、たっぷり10分が経過してからだった。寝ているときは驚くほど姿勢がいいが、寝起きは冬眠明けのギルベアより悪い。布団は皺くちゃ、髪の毛は乱れ、口元にはヨダレの跡ができている。
眠い。とりあえず眠い。とにかく眠い。
なんで、こんなにも夜明けというものは早いのだろうか。エルニアが瞼を薄く開き、ぼやけた視界の中で燦々と輝く朝日を恨めしそうに睨みつける。太陽も時には寝坊すればいいのだ。そうすれば全世界の人が、もっと朝のまどろみを楽しめるというのに。
口をへの字に曲げながら、エルニアが腕を杖にしてうつ伏せになった身体を起こす。朱色の髪がベッドに流れ、白いシーツに朱い糸の波紋が広がった。
ぼーっと白と赤のコントラストを眺めていたエルニアが、不意にその拳を握り、力任せにベッドを殴りつけた。ボスッと鈍い音が響き、ベッドに広がっていた朱い髪が弾む。
さらに数秒間、乱れたシーツと髪をぼーっと眺めていたエルニアは、カクッと首を折り、両手の支えを解いた。エルニアの上半身が重力に引かれベッドに落下し、広い額がシーツにめり込む。いきなり落ちてきた衝撃に、ベッドがギシギシと抗議の悲鳴を上げた。
「ううぅぅ~~……」
額をシーツに押し付けたエルニアが、獣のように唸る。頭の中をいろんな思いが駆け巡る。レインに試合で負けた。悔しい。勝負に負けたのだから付き合ってやると言ったら断られた。悔しい。しかも、その理由はエルニアが親友と思っていたアリカと付き合っているからだと、レインは言った。悔しい。アリカには優しくするくせに、自分にはちっとも優しくしてくれない。悔しい。そんなレインを見返してやろうと思って風のドラゴンを倒そうとしたら、倒すどころか一矢報いることさえできなかった。悔しい。
こんな悔しい朝は初めてだ。
「ぅぅううぅぅぅぅう~」
エルニアが再びうめき声を上げる。そのうめき声は最後の目覚まし時計のベルの音にかき消された。スライムを模した目覚まし時計がエルニアの枕もとで壮大な鳴き声を上げる。
「うるっさいっ!」
エルニアは腕を持ち上げると、その手を思いっきりスライム型の目覚まし時計に落下させた。ボニュッと本物さながらの弾力が掌を弾ませ、鳴き声が止む。スライム型の目覚まし時計が、エルニアの最後の防衛線だ。ここで起きないと、本当に学園に遅刻してしまう。
「………………はぁ」
エルニアは名残惜しそうにため息を零すと、気持ちを切り替えてガバッとベッドから起き上がった。てきぱきと毛布を畳み、ちらばった目覚まし時計を元の位置に片づける。
さっきまでの緩慢な動作が嘘のように、エルニアは無駄のない動きで身支度を終え、隙なく髪の毛を整え、ドラゴントレーナーとしての風格を漂わせながら鏡の前に立った。
鏡の中の自分自身に挑むように目を鋭くし、エルニアが力強い言葉を放つ。
「新しい朝に感謝を。灯る太陽に喜びを。香りを運ぶ風に祝福を。芽吹く大地に幸いを」
朝の祝詞を詠ったエルニアは、鞄を手に持ち、颯爽と寮の部屋を後にした。
食堂で繋がっているが、男子寮と女子寮は別棟になっている。廊下には学生たちが次々に顔を出しいたが、男子のいない女子寮だ。エルニアのように朝から完璧に仕上げてくる女子は少なく、無防備な女子たちが他愛もない会話を楽しみながら食堂へ向かっている。
そんな朝は少し気を緩めていた女子生徒たちだったが、ひとたびエルニアに気が付くと、その態度は一転した。ある者は顔を紅くし小さな悲鳴を上げ、ある者は焦りながら服装を整える。女子の中には急いで自室に引き返し、一から身支度を整える者さえいた。
(まったく、いつになってもこの光景だけは慣れないものだ)
自分に向けられる黄色い歓声に軽く手を振って応えながら、エルニアは食堂へ向かう足を速めた。遠巻きに声をかけてくるだけならいいが、積極的な女子に捕まってしまうと、キールを迎えに行く余裕がなくなってしまう。
食堂にたどり着いたエルニアは堂々と中に入った。もちろん、この行動が引き起こす状況は理解しているが、こそこそ隠れるのは性に合わん。
案の定、一部の女子からの熱狂的な悲鳴が食堂に響き渡った。さすがに手ぐらいは振るが、下手に付き合いすぎると朝から許容以上の食事を準備される羽目になる。
今日は、昨日のドラゴンの処置について通知が降りるはずだ。討伐するにしても、捕えるにしても、ドラゴントレーナーのエルニアはメンバーに選ばれるだろう。そんな大役に、腹を膨らませたみっともない姿は何としても避けなければならない。
エルニアすでに決めておいたメニューをすぐさま注文すると、あくまで上品にふるまいながら素早く朝食を終え、女子たちに捕まる前に食堂を後にした。一瞬、食堂の奥で料理の手伝いに駆り出されていたアリカに声をかけようと思ったが、背に腹はかえられない。
食堂を後にしたエルニアは、すぐにモンスター用の宿舎へ向かった。
モンスター用の宿舎では、すでに学生たちが長い列を作っていた。赤褐色のゴーレムが、ひとりひとりの学生証の写真と本人を確認している。これがまた長い。
知能の低いゴーレムは人の顔をほとんど判別できず、写真と本人の顔の判別すらままならない。学生一人を確認するのに数十秒。ゴーレムがその身体を分割し、五体に分裂して判別を行っているが。それでも、エルニアの番が回ってくるのは、ずっと先のことだろう。
もし、エルニアがこの列の最後尾に並んでいたとしたら、だ。
「こういう時は、ドラゴントレーナーでよかったと思うな」
エルニアはひとりごちに呟くと、ずらっと並んだ列から外れ、モンスター宿舎に連立して作られた、もう一つの宿舎へ足を傾けた。
誰もいない宿舎の入り口にエルニアが近づくと、宿舎の前にあった蒼い大岩が脈動した。大岩は即座に四肢を隆起させ、巨大な岩の身体を作り上げる。最後に盛り上がった頭部には、深い知性の光を湛えた蒼いサファイアが収まっていた。
「おはよう。エルニア・F・ミレーネブルクだ。我がパートナーのキールを迎えに来た。ここを通してもらうぞ」
エルニアが学生証を蒼いゴーレムに掲げると、ゴーレムはすぐに恭しく頭を上げ、静かに道を開けた。この蒼いゴーレムも門番には違いないが、これは《サファイヤブロックン》と呼ばれるゴーレムの上位種だ。知性も戦闘力も、赤褐色のゴーレムの数倍を誇る。
なぜ、二体のゴーレムに、二つのモンスター宿舎があるのか。答えは簡単だ。赤褐色のゴーレムでは、この宿舎に預けられているモンスターたちを抑えきれないからだ。
蒼いゴーレムが門番を務める宿舎。こちらには、キールを筆頭にしたドラゴンや、ドラゴンよりもさらに希少種な神族などのハイランクのモンスターたちが預けられていた。
ハイランクのモンスターの逃亡防止、かつ、盗人からハイランクのモンスターを守れるのは、過去数十年にわたり宿舎を守護してきたこの蒼色のゴーレムだけだ。
ゴーレムが再び大岩になる気配を背中で感じながら、エルニアは宿舎の扉を開けた。低位モンスターの宿舎のような獣臭は一切漂ってこない。その代わりに、高位モンスターの放つ並々ならない存在感が宿舎の中に満ちていた。宿舎の中だけ、空気の密度が濃くなったかのような錯覚に襲われる。満ち溢れる重圧に、身体が扉の外に押し出されそうだ。
エルニアは気を引き締めると、学生証を壁のスロットに差し込んだ。学生証の照合が終わり、モンスターの檻を開くカギとなるオーブが宿舎の奥へと消えてゆく。
ガチャリと鍵が外れる音が聞こえ、少し遅れて緋色の鱗が宿舎の奥から現れた。
「どうだ、キール。しっかり休めたか?」
(無論だ。もう二度と我が主に恥などかかせんよ)
「そう気にするな。昨日の一件は、私のミスだ。だが、同じ轍は踏まんぞ。次こそ、あのドラゴンを討伐する」
(――わが主の望みのままに)
キールが大きく首をもたげ、エルニアにその尊厳とした頭を差し出す。
エルニアは優しくキールの頬を撫ぜると、その緋色の角に唇を寄せた。エルニアの子供の頃からの、キールがまだ卵から孵ったばかりの頃から続く、二人だけの秘密の所作。
角に口づけをもらったキールは首を元に戻すと、どこか意地悪げに唇を吊り上げた。
(この口づけを、あの男にはしてやらんのか)
「男? 誰だそれは?」
(レインだ。奴はなかなかの雄だぞ。捨てておくにはもったいないだろう)
「キール。その冗談は笑えんぞ」
エルニアが鋭い視線でキールを睨みつける。悔しさがふつふつと蘇ってきた。
「そもそも、この私の誘いを断るなど。あの男、何様のつもりだ?」
どうやら、あの男はキールに勝ったことを実力だと思っているらしい。あんなものは、ただの偶然。運が良かっただけだ。都合よく【昇華】が連続で発動した。それだけのことだ。だが、負けは負けだ。勝負で負けたのであれば、エルニアは潔く契約を守る。
「それをあの男は!」
エルニアが、持ち上げた足を思いっきり地面に叩き落とした。靴底が地面を踏みつけ、大きな音と共に砂ぼこりを撒き上げる。
思い出したら、本当に腹が立ってきた。これは、一言あの男に言ってやらんと収まらん。
「キール。行くぞ!」
(行くとは、どこへだ?)
「決まっている。あの男のところへだ! 朝なら、間違いなくトレーニング場にいるのだろう。風のドラゴンの討伐前の景気付けだ。奴に引導を渡してくれる」
ドラゴンや神族のモンスターが放つ存在感を吹き飛ばすほどの気迫で宣言し、拳を握ったエルニアが宿舎の外へと歩き出す。
その背中を追いながら、キールは心の中でレインに大きく頭を下げるのであった。
*
エルニアがキールを迎えに行っている頃、レインはいつも通りペムペムと共にトレーニング場で朝一のトレーニングに励んでいた。ペムペムが身体を収縮させ、溜まったエネルギーをサンドバックに向けて炸裂させる。蒼い砲弾と化したペムペムの体当たりがサンドバッグに炸裂し、大きくひしゃげたサンドバッグが重い音を立て吹き飛んだ。
「ダメージは135か」
サンドバックに浮かび上がった数字を見て、レインが満足げに頷く。学園で支給された麻痺消しがよく効いたらしく、ペムペムの動きは完全に通常状態に戻っていた。ペムペムも、表示されたダメージ数値を見て、得意げに喉を鳴らす。
「こら、調子に乗んな!」
得意げな表情を浮かべて見せるペムペムに、レインの強烈なデコピンが炸裂する。
「ぴぎぎ!」
「そんな顔をしてもダメだ。昨日、麻痺毒の霧。確かに俺の指示ミスだ。でもなぁ、お前なら避けれただろう。違うか?」
「ぴ……ぴぎ~」
表情を厳しくするレインに、ペムペムの表情が萎れる。
ペムペムは、スライムは全世界のモンスターの中で最弱だ。その弾力性のあるボディーは物理攻撃に耐性があるが、魔力を含んだ攻撃には一転してめっぽう弱い。キールとの戦いで受けた【クリムゾンウィング】にしても、あれはキールの緋色の鱗の影に隠れたから耐え切れたのだ。まともに喰らえば、それこそひとたまりもない。
危機察知と危険回避。ペムペムが生き残るために、勝ち上がるために必要不可欠な能力だ。それを油断で欠いたというなら、その代償はあまりに大きい。それはペムペムもレインに嫌と言うほど教えられていた。だから、レインの声はいつになく厳しい。
自責の念に、ペムペムがさらに身体を小さくして眼を固く閉じる。ペムペムにとって、何より恐ろしいこと。それは、戦いに負けることでも、生き残れないことでもない。
ペムペムにとって何よりも恐ろしいこと、それはレインに捨てられることだ。
(馬鹿だな、お前も)
そんなペムペムの気持ちを、レインがわからないはずがなかった。
レインは苦笑を浮かべながら、ペムペムの頭を力強く撫ぜた。
「俺も、お前もまだまだだな」
「ぴぎ?」
「大丈夫だ、心配すんな。俺は、絶対にお前を捨てたりしねぇよ」
「ぴぴぴ……ぴぎぃー!」
「わぷっ。だ~か~ら~、顔に張り付くのは止めろ。ってこら、顔舐めるな!」
顔面に張り付くペムペムを、レインが必死に引き剥がしにかかる。やっとの思いでペムペムを引き剥がしたころには、レインの顔はヨダレでべとべとになっていた。
「嬉しい愛情表現だけど、やり過ぎはペナルティーだ。走り込みの追加と、体当たりの追加。どっちがいい?」
「ぴ……ぴ……ぴぎぃぎ~♪」
「こぉら。誤魔化して許してもらえると思うなよ。わかった、そんじゃダブルで追加すっか。残った分は夜に持ち越しだ。いいな!」
「ぴぎぃ!?」
悪魔的な笑みを浮かべるレインに、ペムペムの顔が恐怖に引き攣る。
「お、おはようっ!」
そんな朝の微笑ましい光景に、妙に上ずった声が割り込んだ。
そして、まさかこの声が嵐の幕開けになろうとは……
顔面をペムペムのヨダレでべとべとにしたレインは知る由もなかった。
*
三人の思考は同時に停止し、意識が半分吹っ飛んだ視線が空中で絡み合う。別に、誰かが何か悪いことをしたわけでもないのに、三人が三人とも緊張の色を隠せないでいた。
相手の反応を伺うように、それぞれの眼が少しずつ理性を取り戻す。電源が落ちたように止まっていたレインの思考も、少しずつ動き始めた。ただ、動き始めたとはいえ、レインの思考は絶賛渋滞中。言葉を吐きだす余裕はない。
開口一番はエルニアだった。
「レイン・エルハルト。お前は、ここで何をしているんだ?」
「朝飯だよ」
「アリカ。さっきまで寮の厨房にいなかったか?」
「うん。でも、マロさんがさっさと行きなってお尻叩いてくるから……」
「そうか……」
「「それで、エルニア(エルちゃん)は何でここに?」」
「………………所用だ」
完全にハモッたレインとアリカの質問に、エルニアはそっぽを向いて、聞こえるか聞こえないかくらいの声で答える。それで会話は停止した。
気まずい静寂の中、そっぽを向いていたエルニアの首が、ゴーレムのようなぎこちない動きで再び前を向く。整った双眸から伸びる視線はレインとアリカの間から動かない。おそらく、エルニアからは彫像のように固まったレインとアリカがよく観察できるだろう。
アリカがわざわざ作ってきてくれた弁当を頬張るレイン。その頬に付いたご飯粒を取ろうと、半身にした身体を傾けながら健気に手を伸ばすアリカ。まるで絵に描いたような、仲睦まじい恋人同士の姿に、エルニアの顔がゆっくりと、だが確実に紅潮していく。その姿はまるで【昇華】だ。このまま放っておけば本当に湯気でも立ち昇りそうだ。
予想外に可愛らしい反応に、レインがますます言葉を詰まらせる。
そんなレインの視線に気が付いたのか、エルニアはいきなり歯を食いしばり、悔しがりながら恥ずかしがるという器用なことをしながら、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「ま、まぁ。恋人のお前たちがどこで何しようと、私は何も気にしないがな」
腕を組みながら、エルニアが再び顔を背ける。ただ、その心に渦巻くわだかまりの大きさは、服の袖が皺になるほど力の込められた指先がはっきりと物語っていた。
なんだろうか、この言いようのない居心地の悪さは。顔を見合わせたレインとアリカが、そろって顔を渋らせる。
キールの身体をゴスゴスと殴り始めたエルニアに、レインの胸がチクリと痛む。
まぁ、風のドラゴンの一件でそろそろ熱も冷えた頃だろう。
――謝って、そろそろ白状しとくか?
レインが手で口元を隠しながら、そっとアリカに耳打ちする。
――え、あ、……うん。そう……だね
アリカはなぜか少し口惜しそうに表情を曇らせたが、今度はキールの頬をつねりだしたエルニアを前に、すぐに小さく頷いた。
さて、アリカの了承は得られたとして、どうやって白状したものか。レインが頬を掻きながら頭を悩ませる。素直にごめんと謝るのが一番な気もするが、そうするといきなりキールの火炎弾を飛ばされかねない。たぶん、エルニアは手加減しないだろう。キールなら死なない程度に火加減してくれそうだが、それでも熱いのは勘弁してほしい。
「エ、エルニア」
「気安く……私に話しかけるな。この下郎が」
なぜ、そんなさびしそうな顔をしてこんな暴言を吐かれなければならないのだろうか?
は~っと、レインが大きくため息を着く。男相手なら、謝る、殴り合う、笑い合うの三拍子で終わる話でも、エルニア相手だと笑い合うが殺し合うになりかねない。さすがに、朝からそんな殺伐とした光景はやめてほしい。
キールの翼の鱗をペリペリとめくるエルニアが、じと~っとした視線を流してくる。キャラが変わりすぎていないだろうか? いつもの毅然とした彼女の姿は見る影もない。
エルニアのあまりの変わり様にレインが戸惑いながら、再びアリカに耳打ちする。
――今日のエルニア。なんか変じゃないか?
――えっとねぇ。実は私と二人でいるときは、エルちゃんわりとあんな感じなの。エルちゃんだって女の子なんだよ、レイン君。ちょっと、男の子には厳しいけど。
――……じゃ、なにか? 俺は男として見られてないってことか?
――いや、そうじゃなくて。あの、えっと、それはね。う~ん
突然、アリカが顔を真っ赤にしながら、両手で自分の顔を挟んで悶絶する。口をもごもご動かすが、小声でよく聞き取れない。頼みのアリカまでが自分の世界に入ってしまい、レインは完全に孤立してしまった。こうなっては頼れる相手は一人、いや一匹しかいない。
レインは鱗を剥がされる痛みにもピクリとも動じないキールへ、SOS信号を送った。
(キール。このよくわからない状況をなんとかしてくれ)
(雄冥利に尽きる状況に思えるが?)
(冗談言ってる場合じゃねぇっつーの)
(そもそも、その雌と付き合っているなどというホラごとを言ったおぬしの責任だろう)
(まあ、そうだけど……って。お前、気づいてたのか?)
(もちろんだ。おぬしらの中は不自然すぎるからな。気が付かぬのは、主くらいだろう)
(マジか~。結構うまくごまかせてると思ってたんだけどな)
エルニアを誤魔化す目的は達成できていたとしても、モンスターであるキールに演技を見破られていたことに、レインが激しく自信を無くす。
そんなレインに、この人間臭いドラゴンは、口の端を吊り上げて、笑いながら言った。
(まぁ、雄同士の情けだ。火加減はしてやろう。安心して我が業火の餌食となれ)
(今、餌食って言ったよな。こんがり焼き上げて召し上がる気まんまんじゃねぇかよ)
レインが恨めしそうにキールを睨みつける。エルニアは相変わらず無言のまま何かを訴えてくるし、アリカは依然として自分の世界に入り切っている。
レインがお手上げとばかりに天を仰いだ、その時。
「ここに居ましたか。エルニア・F・ミレーネブルク」
一人の女子生徒が、恐れもなしにこの混沌に風穴を開けた。
いきなり参入してきた女子生徒に、レインたちは一瞬動揺したがすぐに緊張の糸を張った。女子生徒もレインたちと同じく学生服を着こんでいるわけだが、その肩のラインは最上級生の緑色。しかもその袖口には、学園の運営機関でもある生徒会執行部のエンブレムが縫い付けられていた。
レインたちの中にいきなり割り込んできたあたり、彼女もかなりの魔獣錬磨師なのだろう。語らずとも、彼女の放つ空気でよくわかる。モンスターを連れていないにも関わらず、彼女はレインたちを緊張させる何かを持っていた。
腰までスラッと伸ばした黒髪が美しいその女子生徒は、手に持っていた筒状の紙を広げて、その切れ目の双眸でエルニアを射抜いた。
「エルニア・F・ミレーネブルク。生徒会長よりのお達しです。他の者もおりますが、読み上げてもよろしいでしょうか?」
口調はあくまで丁寧だが、異論を許さない雰囲気が彼女にはある。
生徒会からのお達し。おそらく、風のドラゴンの討伐に関することだろう。
エルニアもレインと同じ結論に至ったらしく、先ほどまでのどこか間の抜けた雰囲気が嘘のように気を張り詰めながら、「どうぞ」と静かに上級生へ先を促す。
エルニアは数少ないドラゴンの紋章を持つ者だ。しかも、風のドラゴンの第一発見者となれば、当然討伐部隊に組み込まれるだろう。エルニアの双眸には、討伐に対する不安と期待が揺れていた。
「では、読み上げます。『エルニア・F・ミレーネブルク。右の者を、ドラゴン討伐のメンバーより除外する』」
「なっ!」
読み上げられた文面に、エルニアの双眸が大きく見開かれる。
次の瞬間には、エルニアはキールの背に跨り、生徒会室のある塔へと駆け出していた。
*
「姉上! これは一体どういうことですか!」
レインたちが生徒会室に辿り着くと、乱暴に開け放たれた扉の向こうから、怒りを織り交ぜた絶叫が木霊した。一瞬、部屋に飛び込むことを躊躇ったレインだが、聞き耳を立てて「はい、おしまい」というわけにはいかない。レインたちと共に走ってきた黒髪の生徒に止める気配がないことを確認すると、レインは意を決して生徒会室に飛び込んだ。
質の良い絨毯が敷かれた生徒会室は、両壁を重厚な本棚で埋め尽くされていた。学生寮とはまるで違う雰囲気に、レインの脚が思わず止まる。
その部屋の奥で、朱色の髪が大きく揺れた。朱髪を振り乱したエルニアが腕を振り上げる。レインが制止の声を駆ける間もなく、その腕は執務机に思いっ切り叩きつけられた。
手の平で机を叩いたとは思えない鋭い音が響き、その後をエルニアの怒りの声が追う。
「姉上!」
ドラゴンの慟哭を思わせるエルニアの声が部屋中の本を震わせた。その慟哭に、答える声はない。レインが怪訝な顔をして部屋の奥に目を向けると、一人の女子生徒が指を組んだ手を机に乗せ、凛と微笑みながらエルニアの怒りを受け止めていた、
前髪の二房を三つ編みにし、肩ほどで切りそろえられた髪は、エルニアと同じ朱色。しかし、その双眸は人の身でありながら神々しいまでの金色で、立ち会う者を畏怖させる。
一目でエルニアの姉と分かるその彼女は、顔立ちはエルニアに似ているものの、醸し出す存在感はまるで別物だった。
それもそうだろう。レインもこうして間近にお目にかかるのは初めてだ。
ドラゴンの紋章よりも、さらに希少種。百万人に一人とも呼ばれる奇跡の紋章。
エルニアの姉、アリエル・F・ミレーネブルクは、その掌に神の紋章を宿していた。
ただ黙って、エルニアの言葉を受け止めていたアリエルの視線が、不意にレインの方へ滑る。アリエルと目が合った瞬間、レインは思わず息を飲んだ。黄金の瞳は、まるでこちらの全てを見透かしているようだった。
値踏みするようなアリエルの視線を受けながら、レインは内側から込み上がってくる感情の高鳴りに、吊り上る口元を抑えられなくなっていた。
向き合っただけで分かる。あの風のドラゴンなんて目じゃない。遥かな、手を伸ばそうという気持ちさえへし折るほどの格上。この生徒会長相手にペムペムでどう立ち向かったら戦うことが出来るか、レインにはまったく想像できなかった。
(これが……ゴッドトレーナー!)
レインが沸き上がる興奮に、思わず唇を舐める。
そんなレインの内心をよそに、エルニアは再び振り上げた拳を執務机へと叩き落とした。
「姉上。私の話を聞い……」
「いつからそんなに偉くなったのかしら? エルニア」
その声は、まるで琴を弾いたかのように澄み渡っていた。
感情に突き動かされていたエルニアが、姉の声で我に返る。
アリエルはまるで教師が生徒を叱るように、優しいながらも厳しい口調で続けた。
「学友の前で恥ずかしいと思わないの? もう少し、淑女らしい落ち着きを持ちなさい」
「学友?」
「あなたの、後ろにいる子たちのことよ」
虚を突かれた表情で振り返るエルニアは、その時ようやくレインたちの存在に気付き、か~っと顔を赤らめた。
エルニアがレインやアリカの視線から逃げるように、キョロキョロと目を泳がせる。助けを求めようと傍らに手を伸ばすが、パートナーのキールは塔に入れず外に控えている。ちなみに、ペムペムもレオンも塔の玄関で待機中。モンスターは授業以外では特別な許可がない限り、学園内の塔には入れない。この場にいるのはレインたちトレーナーだけだ。
「あ~、まぁ、なんだ。俺たちのことはいないものと思っていいから、続けていいぞ」
レインが親切心から助け船を出してみると、エルニアは打って変わって、呪い殺さんばかりにレインを睨んできた。はっきり言って怖い。アリカもこんなエルニアは初めてなのか、ビクッと身体を竦ませて、レインの服の裾を握りしめている。
「エルニア。友達を怖がらせるのは止めなさい」
「姉上。アリカは確かに私の友ですが、その男は友でもなんでもありません」
「あら。ではボーイフレンドなのかしら?」
「冗談も大概にしてください!」
意味ありげな笑みを浮かべるアリエルに、エルニアが再び執務机に自らの手を叩きつける。今度響き渡った音は、先ほどエルニアが執務机を叩いた時の比ではない。
「誰が! あんな! 男と!」
怒りの塊を吐き出すように、エルニアがアリエルの言葉を完全に否定する。
エルニアがムキになればムキになるほど、アリエルの口元は楽しげに吊り上がった。
「そうですか? 割と、いい殿方に見えるのだけれど。ああ、もしかして、彼がこの間の模擬戦であなたとキールを破ったというスライムトレーナーなのかしら?」
「な、なぜわかったんですか?」
ああ、ここに馬鹿がいる。驚愕の表情で身を引くエルニアに、レインは肩を落とした。
「うふふふふふふふふ」
「~~っ! 何がおかしいんですか! 姉上!」
エルニアが、また手の平を執務机に叩きつける。もはやその手の平は真っ赤になっていたが、おそらく今のエルニアはそんな手の痛みなんて感じてはいないだろう。
その後も二、三言やりとりを繰り返すエルニアとアリエルだったが、どちらかと言えばエルニアがヒートアップするばかりで、どうにも話が進まない。
まぁ、最弱と呼ばれるスライムのトレーナーが良家の、しかもドラゴントレーナの恋人になることは永久にないので、そんな話は置いといて。
「本題に入らないなら、俺たちは帰るぞ」
レインが呆れ気味に呟くと、エルニアはハッとした表情で、慌てて手に握ってクシャクシャになっていた紙を執務机に押し広げた。
「姉上。私が討伐隊から除外とはどういうことですか? 昨日、生徒会に報告したときは、私が討伐部隊のメンバーになると聞きましたが」
「それは、報告を受けた者の早計な判断でしょう。まぁ、確かに当初あなたは、ドラゴン討伐のメンバーに組み込まれていましたけど。私に届いた討伐編成案には」
「じゃあ!」
身を乗り出すエルニアに、アリエルはゆっくりと、そして明確に首を横に振った。
「エルニア。あなたとキールの実力では、風のドラゴンの討伐には力不足です」
きっぱりと言い切ったアリエルに、エルニアが愕然としてよろめく。だが、すぐに気持ちを立て直すと、猛然と抗議を開始した。
「そんなことありません!」
「風のドラゴンに手も足も出ず逃げ帰ったと報告を受けましたが、間違いでしたか?」
「いや、それは。それまでの戦いでキールが消耗していて……」
「いいわけですね」
胸に手を当てて悔しそうに唇を噛みしめるエルニアに、アリエルの鋭い言葉が飛んだ。揺らぐ朱い瞳を、揺ぎがない金色の瞳が容赦なく睨む。だが、エルニアの瞳に宿るドラゴントレーナーとしての誇りの炎も、まだ潰えてはいなかった。
「ですが、ドラゴンの討伐にはドラゴントレーナーが必要不可欠です。姉上にこのようなことを言うのは恐縮ですが、ゴッドトレーナーほどでなくても、ドラゴントレーナーは希少な存在です。討伐は明日と聞きました。そんなすぐに、代わりが手配できるとは……」
「その心配には及びません。サラ」
「はい。アリエル生徒会長」
アリエルの言葉に、エルニアの下へ討伐部隊から除外の通知を持ってきた執行部の女子生徒が、隙ない動きでアリエルの傍らに歩み寄った。
「紹介するわね。我が生徒会……いえ、隣国のトレーナー育成学園を入れても屈指のドラゴントレーナー、サラ・カミサキよ」
「以後、お見知りおきを」
紹介を受け、サラがメリハリのある動作で腰を折る。サラ・カミサキ……名前の語調と黒髪から察するに、極東にある島国の出だろう。
隣国含めて屈指の実力と言われれば、さすがのエルニアも口を噤まざるえない。
それでも何とか反論をしようとしたエルニアだったが、その思いを言葉にする直前、エルニアはハッとした様子でレインの方を振り向いた。
レインの顔を睨むエルニアが、唇を歪めながら顔を紅く染める。レインとの勝負に負けたことを思い出しているのだろう。スライムトレーナーに負けたドラゴントレーナー。たとえ偶然や油断だとしても、そんな者を間違っても討伐メンバーには加えまい。
エルニアの悔しそうな顔は、この討伐除外の原因はレインにあると言いたげだった。
レインにすれば八つ当たりも甚だしいが、こんな状況だ。ここは、甘んじて恨みの視線ぐらい受けてやろう。レインが気の毒そうな視線をエルニアに返していると、「というわけで」と切り出すアリエルの澄んだ声が響いた。
「エルニア。その顔見ればもう察していると思うけど、改めて言うわね。エルニア・F・ミレーネブルク、あなたを風のドラゴンの討伐部隊から除外します。反論は、ないわね」
念を押すように黄金の瞳が、エルニアを睨む。口調はあくまで穏やかで柔らかいが、それが逆に黄金の瞳の鋭さを際立たせていた。
いつもは自信たっぷりのエルニアも、この生徒会長の自信と威厳を前には手も足も出ないらしい。一歩身を引くエルニアにレインが何か助け船を出そうと言葉を思い浮かべるが、残念ながらこの生徒会長を言い負かすだけの気の利いた言葉は全く出てこない。
スライムトレーナーのレインは言わずもがなだが、ドラゴントレーナーのエルニアさえ、ゴッドトレーナーのアリエルの存在感の前には霞んでしまう。
まぁ、どんな恨みがましい視線を送られても、レインはエルニアのチームメイトだ。隣にはアリカもいる。こんな居心地の悪い生徒会からさっさと退散して、アリカにエルニアを慰めてもらいながら、レインが八つ当たりを受けて発散させる。これがベストだろう。
レインはそう心の中で区切りを付けた。エルニアも、あくまで納得はしていないだろうが、これ以上の抗議を諦めたように身を引いている。
そんなエルニアに、アリエルは満足そうに微笑んで、言った。
「まぁ、落ち込むことはないわよ。エルニア。ドラゴントレーナーがゴッドトレーナーに勝てないのは、しょうがないことだから」
その言葉は、冷静だったレインを沸騰させるには十分過ぎた。
「……おい」
深く、重く、暗い声。普段のレインから考えられないほど殺伐とした声に、レインの袖を掴んでいたアリカが思わずその手を離す。
「レイン……くん」
おずおずと、アリカがレインの名前を呼ぶ。その声はもちろん耳に入っていたし、止めようと思えば、この場で踏み留めることだってできた。
より深く踏み込んだのは、他ならないレインの意志。
別にプライドのない奴らに何を言われようと、レインは基本的に受け流す。先日のゴブリントレーナーがいい例だ。あんなもん、レインにしたら気にするまでもない。
でも、そんなレインにも受け流せないものがある。
「運命に定められた地位だとか」
レインが執務机に向けて歩み寄る。
「生まれ持っての格の差とかよく言うけどよ」
あっけにとられて立ちすくむエルニアから、レインが通知の紙を奪い去る。レインはそのまま底冷えするような鋭い視線でアリエルの黄金の瞳を射抜くと、手に持った通知の紙をビリビリと細切れに破り捨てた。
「神の紋章。ドラゴンの紋章。悪魔の紋章。天使の紋章」
不揃いな紙片となった通知を放り投げ、紙吹雪の中レインがアリエルに尋ねる。
「それってそんなに偉いのか?」
レインの声は、まるでゴッドトレーナーが紡いだ言葉のようにその場の全てを支配した。
誰も、隣国屈指と言われたサラでさえ、ピクリとも動くことができなかった。
最弱のスライムトレーナーを前に、その場にいるすべてのトレーナーが圧倒されていた。
生徒会室に舞う紙吹雪。最後の一片が床に落ち、ようやく生徒会室の時間は動きだす。
「何かしら、ずいぶん怖い顔しているようだけど」
隣に佇むサラすら呆気にとられる中、アリエルは微笑みを浮かべながら落ち着いた様子で口を開いた。微笑んではいるが、その眼光はおそろしく鋭い。レインの隣にいたエルニアが、小さく悲鳴を上げ身を引くほどに。
神の紋章。たぐいまれなる強運にして幸運。奇跡としか言えない天からの授かりものだが、実際はそんなにいいことばかりでもない。
紋章は資格であって力そのものではない。神を屈服させるほどの力、もしくはその資質を持って初めて意味を持つ。事実、過去には神の紋章を受けながらも、その重みに耐えきれず、トレーナーの道を去る者も多い。トレーナー潰しの破紋章。神の紋章には、そんな忌み嫌われた別の名前がある。そんな紋章を飼い慣らしているアリエルは、まさにあまた凡夫のトレーナーからすれば、文字通り神に等しい存在だろう。
だが、だからと言って。
「神の紋章が……いや、たとえどんな紋章であったとしても、どんなモンスターを従えられたとしても――――」
レインがその掌に刻まれたスライムの紋章を握りしめる。
まるで、そこに誓いを立てるように。
「紋章だけで、人が他人よりも偉くなれるわけじゃねぇんだよ!」
レインの言葉は、怒涛の風となって部屋の中を駆け巡った。
「それは、どういう意味かしら?」
アリエルが微笑んでいた眼を鋭く細める。それはうわべの笑みを取り払った本気の威圧だ。できることなら、すぐにこの場から逃げ出したい。けど、ここで逃げ出したら、レインはペムペムに合わせる顔がない。ある人にスライムトレーナーの楽しさを教えられたあの日。スライムトレーナーということに誇りと夢を見出したあの日。一緒に世界最強になるとペムペムと誓ったあの日。レインは、もう二度と紋章をいいわけにしないと決めた。
どんな紋章を持つトレーナーに対しても、レインは決して逃げないと決めた。
たとえ、神の怒りを買うこととなろうとも。
「言葉のまんまの意味だよ。あんたは生徒会長だ。だから、あんたが言った言葉、決めたことに生徒の俺たちはもちろん従う、でもなぁ、それはあんたが生徒会長だから従ってるだけで、ゴッドトレーナーだから従ってるわけじゃねぇんだよっ!」
ふんっと、レインが荒々しく鼻息を鳴らす。言うことは言った。言ってしまった。言わずにはいられなかった。レインがスライムトレーナーであるために。
真っ向から神に喧嘩を売ったレインに、エルニアやアリカだけでなく、サラまでもが揃って息を飲む。そんな周囲をよそに、レインは満足気に息を吐いた。怒りのままにぶちまけてやった爽快感が胸を突き抜ける。
晴れやかな笑みをこぼしたレインは、そのまま踵を返した。
「まぁ、正直。自分の妹の頼みすら聞き入れてやれない度量の狭い生徒会長の言葉なんて、もう従いたくないけどな」
おまけとばかりの捨て台詞。もうこれで、レインは完全に生徒会のブラックリストに載っただろう。下手をすれば、トレーニング場や、その他もろもろの学園施設の利用に制限がかかるかもしれない。
でも、それがどうした。あとはもう、どうにでもなれ。なるようになれだ。
それ以上に、レインはここで引く方が嫌だった。
「エルニア、アリカ。帰るぞ」
「お、おい!」
「あ、え? ちょっと待って、レイン君」
生徒会のドアへと向かうレインに、それまで現状を見守るしかなかったエルニアとアリカが慌ててその後を追いかけ、その背と掴んで引き留めた。
姉の様子を気にしながら、エルニアはレインにそっと耳打ちする。
――お、お前。誰に何を言ったかわかっているのか?
――ああ、わかってるよ。
――レイン君、大丈夫なの? その、生徒会長さんにあんなこと言って。
――ああ、すさまじい啖呵だったぞ。大丈夫なのか?
――知らん! たぶん、ダメだ。
――ダメだって、お前なぁ……
信じられないとばかりに眉を顰めるエルニアに、アリカも心配そうにアリエルの方を何度も振り返る。レインだって、この後の学園生活を考えたらとんでもない相手に喧嘩を売ったことは重々承知だ。
だけど、男なら引けないことだってあるだろ。
自分の紋章に誇りを持つトレーナーなら譲れないことだってあるだろ。
それがたまたま今回だったって話で、相手がたまたま生徒会長だったって話だ。
レインだって少しも後悔していないと言えば嘘になる。考えられるだけの罰直だけでも、すでに寒気を覚えずにはいられない。
――レイン・エルハルト
この後のことを考え気を重くしていると、不意にエルニアが声をかけてきた。何やら落ち着きなく手を握ったり解いたりして、俯く顔も仄かに赤い。よく見れば、肩が小刻みに震えている。これはやばい。マジで怒ってる。姉に対してあんな啖呵を切られたのだ。妹なら怒りもするだろう。
――なんだよ?
勇気を振り絞ってレインが聞き返してみると、エルニアは慌てて顔を背けて、そっぽを向きながら言った。
――その。まさか、私を庇って……
「スライムトレーナーさん、ちょっといいかしら?」
いつになく弱気なエルニアの声を、アリエルの柔らかな声が遮った。
「なんだ?」
レインは再び緊張の糸を張り詰めると、エルニアとアリカを庇いながら、一歩アリエルに向けて歩み寄った。
鋭い眼光を潜め、再び温和な笑みを浮かべながらアリエルがレインに語りかける。
「あなたはゴッドトレーナーには従わないと言ったけど、こんな話は知っている? ありとあらゆるモンスターは神の前には、自然とひれ伏すものなのよ。そして、神の言葉は、本能的に従ってしまうの。それが、自然の摂理。いわゆる、神の啓示ね。あなたが認めようが認めまいが、格の差というものはこの世に存在する。格上の者が格下の者を従え、導くのはある意味使命なの。それがある世界がうまくいくためのシステムだから。それで、一つだけ質問に答えてほしいのだけれど、いいかしら?」
「――どうぞ」
「世界のシステムへの反逆があなたの望みなの?」
推し量るような黄金の視線が、レインの返答を待つ。
レインは大切な宝物のように、その名を呟いた。
「カルナ・マルナークス」
レインが口にした人物の名に、エルニア、アリカ、サラが揃って首を傾げる。生徒会を運営する立場上、全学生の名を把握しているサラですら、その名は聞き覚えがなかった。
そんな中、ただ一人、アリエルだけがその黄金の双眸を興味深そうに細め、納得したように顎を小さく引いた。
「なるほど。それがあなたの目指す道なのですね」
「そうだ」
「あなた、おバカそうに見えてとても危険な男なのね」
「買いかぶり過ぎだろ。俺は神様に喧嘩を売った、ただの馬鹿な男だよ」
肩を竦めながら笑い、レインが再び生徒会室の出口へと向かう。
生徒会室を後にする直前、執務机に座るアリエルがおかしそうに笑った気がした。
*
「うん。君は馬鹿だ。果てしない馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。君がモンスターだったら、君を従える紋章は馬鹿の紋章だ」
「バカバカバカバカ言いすぎだぞ」
「まだ足りないくらいだよ」
理解しがたい物を見る目でレインを睨みながら、ガゼットが大きなため息を着く。
放課後、自室で談笑がてら生徒会室での一部始終を説明した感想がそれだった。レインも馬鹿なことをした自覚があるが、自覚があるのと人に連呼されるのはまた別の話だ。というか、誰だってこれだけバカバカ言われたら腹が立つ。
レインが面白くなさそうに、胡坐をかいた股の上で休むペムペムの顔を横にびにょ~引っ張る。ペムペムが果てしなく迷惑そうな顔をしているが、これはこれでものすごくストレス減退効果があるのだ。ここは我慢してもらおう。
「本当に馬鹿だね」
まだ言い足りないのか? この男は。
ガゼットは小声でバカバカと連発しながらスナック菓子を摘み上げ、あまりおいしくなさそうに噛み砕く。その肩では、ピックが自分の身体ほどもあるクッキーを抱えながら、ちびちび齧りついている。かと思えば、ピックが不意にクッキーをくるっと回した。クッキーの裏には、器用に「バカ」と彫られている。主従揃って大概にしろや、バカ。
「っと、もうこんな時間か」
レインが時計を確認すると、もう夕方の7時を回っていた。モンスターたちが宿舎に帰る門限は8時だ。ぎりぎりになるとまた宿舎前に長い行列ができる。時間を見て、ペムペムを宿舎に返しに行かなければならない。残り時間を計算するレインに、ガゼットはスティッククッキーを指揮棒のように回しながら、問いかけた。
「それでどうするんだい?」
「なにが?」
「なにがじゃないだろ。あの生徒会長の前でそれだけの啖呵を切ったんだ。目を盗んで風のドラゴンの討伐に行くなり、エルニアさんの参戦を推奨するなり、何かあるだろう?」
「…………は?」
何言ってんだ、とばかりにレインが聞き返すと、ガゼットは面白いくらいに引き攣った笑みを浮かべながら頭を抱えてしまった。
「冗談、じゃないよね。レインは冗談が言えないし、通じないし」
「俺は純粋だからな」
「単細胞の間違いだろ。うん、本当に君はスライムマスターにふさわしいよ」
「単細胞生物を馬鹿にするなよ」
「ぴぎぃー」
レインだけでなく、ガゼットの発言にペムペムも身体を伸ばして猛抗議する。
そんな単細胞コンビをよそに、ガゼットは心配そうな目で、もうすっかり太陽が地平線の彼方へ沈んだ紫暗い空へ視線を流した。
「厄介ごとが起きなきゃいいけどね」
「厄介ごと?」
「エルニアさんだよ。君に感化されて、安易な行動にでなきゃいいけど」
「それはないだろ。いくら激情直行型で乗せられやすいエルニアでも、そんな無茶……」
言いながら、レインはものすご~く不安になってきた。不安を振り払うように頭を振り、レインがわざと誤魔化すような笑みを浮べて、スナック菓子を手に取る。
「いや、ほら。エルニアだって、けっこうな実力者だろ。さすがに、あのドラゴンと自分の力量差くらい分かるんじゃないのか?」
「スライム使いだと油断して、君に負けた彼女だよ」
「うっ……」
「それに、じゃあ逆に聞くけど。君は勝ち目のない敵には戦わないのかい?」
「んなわけあるか!」
「負けん気の強さなら、彼女、君といい勝負だと思うけど?」
ガゼットが適当に折ったスティックのクッキーを口に運ぶ。ポリポリとクッキーを噛み砕く音が、いやに部屋の中に響いた。気のせいか、肌寒くなった気さえする。
いや、それは気のせいじゃない。確かに、部屋の中の温度が下がっていた。
「レイン! 後ろ!」
ガゼットが、突然腰を浮かせて、窓を指差しながら叫ぶ。
レインが慌てて窓の方を振り向く。窓はまるで冬のように、一面霜に覆われて曇っていた。季節は、もう夏の暑さを感じ始めている。窓が霜に覆われるなんてあるはずがない。
まして、窓に氷の結晶が連綿と浮き上がるはずがない。
次々と、霜の降り立った窓に氷の結晶が線となって浮かび上がってゆく。初めは、何かのいたずらかと思ったが、そうじゃない。
『エルニア キール 森に向かう』
それは、伝言だった。
「レイン!」
「分かってる、外だな!」
文字が完璧に浮かび上がるや否や、レインとガゼットは弾かれたように部屋から飛び出した。廊下で談笑する生徒たちを掻き分けながら、レインとガゼットが寮の外へと飛び出す。外はとっくに夜の帳が落ちている。宿舎が混む前にモンスターを預けようと夜道を歩く生徒たちの中で、心配そうに胸の前で手を組むアリカはすぐに見つかった。その傍らには彼女の忠狼、レオンが口から白い冷気の息を吐きながら、彼女を守るように佇んでいる。
窓に浮かんだ文字は、レオンが冷気で作りだしたものだ。あんな精巧なものを作り出すレオンの技量や、アリカのモンスター育成力に驚かされるところだが、今はそれを気にしている暇はない。
「ガっちゃん、レイン君。エルちゃんが、エルちゃんが」
駆け寄るレインたちに、アリカが今にも泣きそうな顔で手に握っていたメモを差し出す。メモには、男らしいほど角ばった字で書き置きがされていた。
『風のドラゴンを獲りに行く』
「まじかよっ!」
レインはその一文に目を走らせると、苛立ちに任せメモをグシャッと握り潰した。
「これは、マズイな……」
その隣で、厳しそうに眉を寄せたガゼットが、心配そうな表情のアリカに語りかける。
「アリカ、先生にはこのこと報告済みかい?」
「ううん、まだ。だって!」
「時間外の無断外出。バレれば停学で寮内謹慎か、最悪退学もありえるからね」
深刻な表情を浮かべるガゼットに、アリカが辛そうに自分の胸へ手を押し当てる。エルニアが挑んでいるのは、ただのモンスターじゃない。立ち向かうものを震撼させるモンスター界の絶対王者ドラゴン。しかも、アレは成熟した個体だ。早く応援を呼ばなければ、エルニアの命が危ない。
しかし、エルニアは敵の強さも、学園での立場も全部覚悟して向かったはずだ。そんなエルニアの邪魔は、絶対にしたくない。
助けたいのに助けに行けないジレンマに、アリカの目じりに涙が浮かぶ。
「ガっちゃん」
助けを求めるようにアリカがガゼットの名を呼ぶ。
そんなアリカの葛藤を十分に理解した上で、ガゼットは重い口を開いた。
「学園に連絡しよう。エルニアさんは優秀だし、普段の素行だって悪くない。うまく説明すれば穏便な対処をしてくれるはずだよ。お姉さんが生徒会長だっていうのも大きいね。なにかしらの便宜を図ってくれるかも……」
「それは期待薄だろ。あの姉ちゃんじゃ」
あくまで冷静な判断を下すガゼットに、レインは少し苛立ちながら首を横に振った。
直接話したレインには分かる。アリエルは姉妹の情よりも、きっと自分の今の立場を優先する。生徒会長ならば、生徒に対しては皆平等に接しなければならない。身内贔屓なんてもってのほかだ。いや、むしろ。
「下手すりゃ、一番重い懲罰かもしれねぇぞ。姉ちゃんの決定に反発してんだからな」
「そこは、半分ぐらい君の責任が入ってくると思うけどね」
「う、うるせぇよっ!」
声を荒げるレインに、近くを歩いていた生徒たちが何事かと視線を向ける。
「わわわわわわ、レイン君。ちょっと、声抑えて」
アリカに注意され、レインが慌てて口を塞ぐ。
そんなレインに「やれやれ」と肩を竦めながら、ガゼットは声を抑えながら聞いた。
「じゃあ、どうするんだい? エルニアさんには失礼だけど。正直、エルニアさんとキールじゃ、あの風のドラゴンには……」
「ああ、厳しいだろうな。だから俺とペムペムが行く」
こともなく宣言するレインに、アリカは思わず両手で口を塞ぎ、ガゼットは「やっぱり」と呆れ気味に肩を落としながら微笑んだ。
「そう言うと思ったよ」
「本気なの、レイン君?」
「まぁな。エルニアの性格なら、絶対に助っ人なんて頼まないだろうけど。最悪の時は俺が引き継ぐ。身体は全快してるな、ペムペム」
「ぴぎぃ!」
すっかりやる気になっているレインに、ペムペムが元気よく身体を伸ばす。二人にドラゴンと戦うという気負いは皆無だった。どこか戦いを楽しみにしている様子ですらある。
そんな単細胞コンビの様子に、ガゼットは改めて「やれやれ」と肩を竦めた。
「一番はエルニアさんが思い止まるか、戦っていても逃げていてくれればいいんだけどね。でも、今の時間から外に出るのは厳しくないかい?」
「今の時間、正門の警備員のオッチャン達は帰宅生の帳簿整理で忙しいはずだ。こそっと出ればバレねぇって。うちのペムペムは目立たないしな」
「出るのはいいけど、帰りはどうするの? レイン君。街の正門も閉まっちゃってるよ」
「実はさ、朝のランニング途中でいぃ~感じの洞穴見つけてんだ。モンスターが巣食ってる様子もないし、一晩くらいは何とかなんだろ。野宿か~、久しぶりだな。故郷では、よくやってたけど。なぁ、ペムペム」
「ぴぎぴぎ」
レインの言葉に、ペムペムもどこか楽しそうに首を縦に振る。ドラゴン討伐を理由に、まるで野宿することを楽しんでいるようにすら見えた。靴の紐を縛り直し、バッグの中身を確認したレインが、心配そうなアリカに向けて楽しそうに手を上げる。
「てなわけで。俺らちょっと行ってくるわ。留守番と夜間点呼の代弁よろしく」
「レイン、その前に一つ言聞いていいかい?」
「ん? なんだ?」
「その洞穴、レインとエルニアさん、それにキールとペムペムのほかに、もうひとコンビくらいは入れる余裕はあるかい?」
「ガっちゃん!?」
驚くアリカとは対照的に、今度はレインがガゼットの真似をして呆れ気味に微笑んだ。
「入れるよ。結構デカかったからな。でもよ、二人も抜けたら代弁要員はどうすんだ?」
「今日の宿直はものぐさデバン先生だから、きっと点呼は各階のフロア長に任せるはずさ。だったら、夜間点呼は一言だけ『みんな~いるな~』。これで終わりだよ」
「俺らの階、大丈夫か?」
今度は本気で呆れるレインに、ガゼットは意味深に微笑みながらレインを睨んだ。
「それに、こんな面白そうなバトルを見逃したら、なんのためにレインの友達やってるかわからないからね」
「傷ついた。その言葉で俺はひどく傷ついた!」
「あははははは。まぁ、道中の無駄なバトルで体力消耗したくはないだろ。こっちにはピックがいる。目暗ましで戦闘回避にはもってこいだ。露払いは僕がしてあげるよ」
「あっそ。――んじゃ、任せるわ」
「うん、了解」
レインとガゼットは改めてお互いの装備を確認し、風のドラゴンへ向かうまでの最短ルートを打ち合わせる。そして、今まさに出発しようとした、その時。
「ど、洞窟!」
ずっと胸の前で手をもじもじと動かしていたアリカが、突然大きな声で叫んだ。
「なんだ!?」
「アリカ、どうしたんだい。いきなり大声出して?」
普段はおとなしいアリカの大声に、レインとガゼットの動きがそろって止まる。
そんな二人に、アリカはたぶん人生一番の勇気を出し、遠慮がちに微笑みながら訊ねた。
「洞窟だけど、もうひとコンビ入れる余裕……ある……かな」
立っていることすらままならない突風。息を吸うだけで肺が焼け爛れそうな灼熱。螺旋を描いた朽木の森は、ドラゴンが振り撒く無情の破壊で、辺り一帯を焦土と化していた。
「キール!」
エルニアがその身に残ったわずかな気力を総動員して叫ぶ。朱色の瞳は、空中に発生した小規模の竜巻に囚われ、上下左右も分からないままぼろ雑巾のごとく振り回される相棒の姿を捉えていた。
竜巻が霧散し、風の腕から解放されたキールが為すすべもなく地面へ落ちる。【契約の絆】で繋がっていたエルニアに激痛が伝播した。全身を苛む激痛に、エルニアが歯を食いしばる。その視界を風の爪によって剥ぎ取られたキールの鱗が、その後を追い緋色の花弁のように舞い散った。
(そんな……情けない顔をするな。我が……主よ)
満身創痍ながら堂々たる動作で起き上がったキールが、半顔をエルニアに向け、安心させるように微笑む。その微笑は迸る激痛以上にエルニアの胸を締め付けた。
「くそ、私はなんというバカ者なのだ!」
エルニアは、自分の浅はかさを呪った。風のドラゴンを討伐し、姉を、そしてレインを見返してやろう。エルニアは、ただその一心に燃え、キールと共にここまで来た。夜行性のモンスターが活発になる夜の森だが、夜に活動するモンスターは総じて臆病なものだ。モンスターの王者、ドラゴンのキールにわざわざ戦闘を望むものはなく、エルニアはほとんど体力を消費せず、この風のドラゴンと対峙した。
キールが万全ならば、風のドラゴンにも後れを取ることはないと信じていた。
自分とキールならば、必ずやこの風のドラゴンを討てると信じていた。
だが、結果はどうだ。戦闘が始まるや否や、エルニアとキールは始終劣勢だった。キールの火炎は風のドラゴンの疾風に遮られ一撃も通らず、肉弾戦ならばと踏み込んでも、キールの爪では数百年もその命を守り続けてきたエメラルドの鱗に傷一つ付けられない。
それほどの実力差。キールと風のドラゴンは、種族は同じであっても格が違う。
風のドラゴンに対する恐怖に、自分への情けなさに、エルニアの足が震える。
「私は、こんなにも弱かったのか?」
自分自身に対する後悔は、風のドラゴンの攻撃に対する注意を完全に奪っていた。
(エルニア!)
キールの切羽詰まった念語で、エルニアが我に返る。目の前には周囲の大気を凝縮し、乱気流の渦をそのうちに作り出した風玉が迫っていた。野生のモンスターは人間の命など考えない。
ただ無情に、風のドラゴンはエルニアを仕留めようと攻撃を放っていた。
いくらキールとの契約でドラゴンの力を身に纏っていても、風のドラゴンはそのキールをいとも容易く叩き伏せる。そんな風のドラゴンが放った攻撃だ。まともに人間が喰らえば、よくて全身骨折、悪ければ死。
エルニアは、自分に飛来するその風玉をどこか遠い出来事のように眺めていた。
避けなければ、と思うが身体が動かない。
キールに指示を飛ばさなければ、と思うが声が喉から出てこない。
「……レイン」
ただ、その言葉だけが、エルニアの心から零れ落ちた。
あの無礼者の顔が、こんな時だというのに頭に浮かぶ。
なぜあんな奴に意地を張り、こんな無謀な戦いに挑んだのだろう。わからない。けれど、レインにだけは負けたくない。2度の敗戦、エルニアの中でレインの存在が大きくなった。この感情をなんといえばいいのか、今のエルニアには考える余裕も時間もない。
ただ、それでも。風玉が迫ってくるまでの一時は、まるで温めた飴を引き延ばすように、長く感じられた。刹那の時間の中、いやに周りの光景がよく見える。キールが、エルニアを助けようと四肢に力を蓄える。だが、風のドラゴンとの戦いで疲弊しすぎていて、きっと間に合わないだろう。キールが、念話ではない咆哮を上げる。久しぶりに聞いた、キールの本当の声。森に木霊するその声に、野鳥たちが眠りから覚め飛び去っていく。
引き延ばした時間は、やはり一瞬に他ならなかった。
渦巻乱気流がエルニアの髪を掻き乱し、今まさにその身体を喰らおうと迫る。
一刹那がエルニアの命運を分けた。エルニアの視界が唐突に横へと流れる。エルニアの身体を抱きしめる、腰に回された力強い腕。必死の形相でエルニアを押し倒し、抱え込むように身を丸めたのは、見間違うはずもないあの愚か者。
理解不明のスライムトレーナーだった。
「よぉ、呼んだか?」
それはエルニアの無事を喜ぶ安堵なのか、それともこんなボロボロのエルニアを小ばかにしているのか、とにかくエルニアを抱え込むレインは笑っていた。
その顔を見たエルニアの頭が、それまでの絶望など忘れカッと熱くなる。まるで熱湯を浴びせられたようだ。まともにレインの顔が見れず、エルニアが拗ねるように顔を逸らす。
そんな沸騰したエルニアの顔が、冷水を浴びせられたかのように凍りついた。
木々を引き裂き、天地を揺るがす轟音が辺りに轟く。風玉が地面にぶつかり、凝縮していたエネルギーが無差別にはじけ飛ぶ。一瞬遅れて、強力な風圧の牙が縦横無尽に駆け巡った。無茶苦茶な方向へ吹き荒れる突風は、二人の身体を木の葉のように浮かし、辺りの木々ともども吹き飛ばす。人間の身体を弄ぶ小さな台風は、息をすることすら許さない。
「ペムペム! 【膨張】だ」
「ぴぎ!」
耳をつんざく風の轟音にも負けず、レインとペムペムの声は確かにエルニアの耳へ届いた。レインの服の下からペムペムが這い出て、身体を一気に膨らませる。事前に水分を吸収していたのか、膨張したペムペムはキールと比べても引けを取らないサイズになった。
「おい、エルニア。思いっきり息吸っとけよ」
いや、この風の中で無理だろう。
反論する暇はなかった。数倍、いや10数倍に膨らんだペムペムはあっという間にレインとエルニアを飲み込んだ。辛うじて息を吸ったエルニアの身体が、ペムペムの半流動体の身体の中に沈んでゆく。
ペムペムの身体の中は、先ほどまで耳を殴っていた轟音の全てを遮った。静かな、とてつもなく静かな空間で、冷たいながらも力強い生命力がエルニアを包み込む。
そのなかで、レインと触れ合っているところだけが、暖かかった。
不思議な浮遊感、水とも何ともつかない感触で身体を包み込むペムペム。
エルニアは覚えていないが、生まれる前、母親のお腹の中はたぶんこういう所だったのだろう。そんな場違いな考えが、エルニアの心の中に沁み渡る。
「ぽ~ぎ、ぽぎぷぎ……っぷぎ」
暴風が止み、安全を確認したペムペムが二人を吐き出す。そのままへたり込んだエルニアは、全てから解放された子供のような無垢な表情のまま一筋の涙を流した。
(主よ、大丈夫か)
キールの声に、エルニアがハッとして顔を上げる。そこには、自らの体中の傷よりもエルニアの安否を心配する相棒の姿があった。
キールが朱色の瞳でエルニアの無事を確認し、レインに対し深々と頭を下げる。
(主を救ったこと、心から礼を言う)
「そんな大したことしてねぇよ。それに、面白いもんも見れたしな」
(面白い物?)
「ああ。ドラゴントレーナーでも泣くことがあるんだな」
「ば、ばか。違う。これは」
エルニアが腰を支えるレインを突き飛ばし、キールの影に隠れながら慌てて涙を拭う。
そんなエルニアに、レインがしっかりと風のドラゴンを見据えながら歯を見せて笑った。
「でも、ま。安心したぜ」
「あ、安心!?」
その言葉に、エルニアは反射的に両手で身体を抱き締めた。身体が、胸の奥が熱い。まるで締め付けられるように苦しくて、震えるほどに切なくて、紅潮が抑えられないほど恥ずかしい。エルニアが今まで感じたことのない感情が、大きな波となって押し寄せる。
「ああ、安心したよ」
エルニアが自分の身に起きた変化に驚いていると、レインは顔半分だけ振り返った。
「人をゴミみたいに扱うドラゴントレーナーさんにも、ちゃんとした人の心があった……イテッ!」
「大きなお世話だ!」
憤怒に顔を真っ赤にしたエルニアが、拾い上げた石を次から次へレインに投げつける。
「イテ、イテテテテ! おい、命の恩人に失礼だろう!」
「いやいや、レイン。失礼なのは君だろう」
二撃目の投石を避けるレインに、追い付いてきたガゼットがやれやれと肩を竦ませ――
「ガっちゃん、邪魔!」
「え? うわっ!」
アリカを乗せたレオンの体当たりに、朽ち落ちた木の残骸の中へ派手に吹き飛んだ。
「エルちゃんっ!」
「アリカ!?」
吹き飛んだガゼットには一瞥もくれず、レオンから飛び降りたアリカがエルニアに抱きつく。アリカは目に涙をいっぱいに溜めながら、エルニアの胸をぽかぽかと叩き始めた。
「もう、エルちゃんのバカ! なんでこんな危ないことしたの! すっごく、すっごく心配したんだからね!」
「す、すまなかった。アリカ。謝るから、そんなに泣くな」
「謝ったって許さない。ばか、ばかばかばか……本当に、本当に……無事でよかった」
「アリカ――」
涙を流して無事を喜ぶアリカの頭を、エルニアが微笑みながらやさしく撫でる。
「おーい、感動の再開のところで悪いけどよ。誰かこの悲運なメガネのことも気にしてやれよ」
レインがアリカとエルニアに声をかけながら、胸辺りまで綺麗に埋まったガゼットを無理やり引っ張り出す。そんなガゼットに、アリカは手を腰に当てながら頬を膨らませた。
「ガっちゃん、いい年なんだから泥だらけになって遊んでたらダメだよ」
「レイン。素直に、真面目に、率直に応えてくれ。僕が何か悪いことしたかい?」
「日ごとの行いだろ。諦めろ」
メガネの位置を直しながら溜息を零すガゼットにレインが呆れたように笑った、その時。
ガアアアアアアアアアアアオォオオォォォオオオォ
空気を軋ませるような咆哮と共に旋風が吹き荒れた。風のドラゴンが大きく翼を羽ばたかせ、幾重にも旋風を生み出し、自らを中心とした円状に風の層を作っていく。風は折り重なるにつれその勢力を強め、ついにはレインたちを完全に風の暴風壁の中に閉じ込めた。
「今度は逃がさない、ってことなのかな?」
触れれば身を砕かれそうな風の輪を悠長に眺めながら、ガゼットがのんびりと呟く。その顔には、焦りや絶望など欠片もない。
ガゼットの心境が、エルニアには理解できなかった。敵は風のドラゴン。その圧倒的な力は、直に戦ったエルニアが誰よりもよく知っている。まさに王者と言うに、何のためらいもない絶対的な力。正攻法はもとより、切り崩せる方法すらまったく思いつかない。
なのに……なのに!
「今日は前と違って万全だぜ。誰が逃げるかよ。なぁ、ペムペム」
「ぴぎ!」
なのに、なぜあの男とスライムは、平然とドラゴンの前に立っているのだ!
地面に散らばった木片を踏み砕き、レインとペムペムがドラゴンとの間合いを詰める。
その歩みに、迷いなどなかった。
ドラゴンとスライム。その種族としての力の差は、天と地よりも離れている。立ち向かうどころか、本来ならその場に立つことすら辛いはずだ。モンスターとしての本能が、ペムペムにドラゴンの前に自らを立たせるはずがない。
それは、レインも同じだ。エルニアも、ドラゴンを従えられるこの紋章がなければ、風のドラゴンと一戦交えられたかどうか。レインとペムペムがやろうとしていることは自殺行為だ。キールと戦うのとはわけが違う。
「おい、ガゼット・ガールバレス。何をしている、早く二人を止めないか」
風の円陣に囚われていては逃げ場などないが、それでもエルニアは叫ばずにはいられなかった。風のドラゴンの強さは、直に刃を交えたエルニアが誰よりも痛感している。
「エルニアさん。まさかとは思うけど、まだレインに戦いで負けたことを偶然だったなんて思ってないよね」
必死の訴えに、ガゼットはまるで危機感など感じていない様子で、微笑みながら答えた。
「こんな時に何を言っているんだ。それに……悔しいが、あのドラゴンとキールとでは話がまるで違う。このまま戦えば……死ぬぞ」
最後の言葉を、エルニアは胸が締め付けられる痛みを感じながら絞り出した。
エルニアに抱きつくアリカも、心配そうな表情でガゼットの反応を待つ。
それでもガゼットは、その笑みを崩さないまま、レインを止めようとはしなかった。
「確かに。キールとあの風のドラゴンとじゃ、まるで格が違う。体力、膂力。その身に蓄えた生命力、全てにおいてあのドラゴンの方が格上。契約によるアドバンテージがあったって僕だったら絶対に戦わないね」
そこで一度言葉を切ったガゼットは、そのメガネを月明かりに妖しく光らせながら、興奮を押し殺せないように笑みを湛えて続けた。
「だからこそ、断言できる。キール以上に、あのドラゴンはペムペムとの相性が抜群だ」
ガゼットの言っていることすべて、エルニアには理解不能だった。おそらく、彼の幼馴染であるアリカにも、その真意は読み取れていないだろう。
スライムが風のドラゴンとの相性がいいなどと、古今東西どんな文献にもありはしない。そんなことを真面目に言っているなら、はっきり言って精神を疑われても仕方がない。
だが、今のガゼットはある確信の下にその言葉を言っているように思えた。
言葉を続けられないエルニアに、ガゼットが子供のように笑いながらはっきりと言った。
「まあ、見てな。こんな面白い物、他じゃそうそう見られないよ」
月明かりの下、旋風のリングの中で、ガゼットはまるで大勢の観客に宣言するように大きく手を広げて戦いの合図を告げた。
「さぁ、始まるよ。スライムトレーナーの逆襲が!」
*
風のドラゴンは、その鱗と同じくエメラルド色の瞳で、前線に立つレインとペムペムを見下ろしていた。深い知性を漂わせる瞳に、激しい感情の光が浮かぶ。
戸惑い、そして……
ガアアアアアアアアアアアオォオオォォォオオオォ
怒りだ。
ドラゴンの咆哮が、世界を眠りから呼び覚ました。愚者にして愚鈍。愚策にして愚弄しているとしか思えない目前の敵に、誇り高きモンスターの王者は暴君と化した。
大気を震わせる怒号。あらゆるモンスターたちが危険を察知し避難する。
そんな危険地帯の最前線に立つレインは、壮絶な笑みを浮かべて武者震いに震えていた。
「逆襲ねぇ、簡単に言ってくれるぜ。なぁ、ペムペム」
「ぴぎ」
チームメイトを背に、ペムペムを傍らに立つレインが震える拳を握り締める。立ち向かう敵は強大。全モンスターにおいて神に並ぶ絶対の王者。なるほど、大した存在感、そして威圧感だ。対して、こちらのパートナーは全モンスター界最弱と言われるスライム。震えない方がおかしい。
こんな最高のシチュエーションで、燃えない方がおかしい!
「ペムペム、準備はいいな」
「ぴぎ!」
主の言葉に、ペムペムがその身を震わせ臨戦態勢を取る。その姿にレインは信頼の笑みを湛えながら、自分の授かった紋章に意識を集中させた。【契約の絆】が発動し、レインの掌の紋章とペムペムに刻まれた紋章が共鳴する。
二人の紋章が青白く輝き、夜の闇を退ける。体の奥底が熱くなるのを感じながら、レインはゆっくりと拳を握りしめた。ペムペムの力がレインに流れ込み、四肢の筋肉がスライムの恩恵を受けて常人ではありえない柔軟性を宿す。気分の高揚と相まって、今ならどこまででも跳び上がれそうだ。
「お前もやる気みたいだな。ペムペム」
「ぴぎぴぎ~」
レインの声に、ペムペムは身体を大きく弾ませて答えた。流れ込んだのは力だけじゃない。その小さな体に宿した力強い意志がレインへと流れ込む。
その闘志は、レインに負けないほど昂ぶっていた。
「けどよ、もちろん俺だって負けねぇぞ」
【契約の絆】を通して繋がった二人の闘志は、互いが互いを高め合うように燃え上がる。
そして、ドラゴンの咆哮が止み……
ドラゴンとスライム。
「さぁ、見せてやろうぜ。単細胞と笑われ、世界最弱と決めつけられ、できそこないと馬鹿にされ、誰にも見向きもされなかったスライムと、その紋章を刻んだ魔獣錬磨師の戦い方をよ!」
最強と最弱の戦いが始まった。
たとえどんなモンスターが相手でも、レインとペムペムが取る攻撃手段はたった一つだ。
「さぁ、いくぜペムペム。【体当たり】だ!」
「ぴぃ~ぎっ!」
小さな身体を弾き出し、ペムペムが風のドラゴンに肉薄する。その後を、躊躇うことなく大地を蹴ったレインが続く。
小細工などありはしない、愚直なまでの真っ向勝負!
身の程を知らない愚か者に対し、風のドラゴンは容赦なく迎撃に移った。天を切り裂くように振り上げられた剛腕が、ペムペムとレインに向けて振り下ろされる。
レインは首筋に走る悪寒を頼りに、咄嗟に手前にあった朽木を蹴った。
強引にその進路を変えたレインのすぐ目の前を剛腕が薙ぎ払う。轟音に続き、砕かれた木々が不揃いな木片となって宙を舞った。肉弾戦においてトップクラスの攻撃力を誇るゴーレムを、はるかに凌駕するドラゴンの鉄槌。喰らえば人間など塵のごとく粉砕する一撃必殺の攻撃だ。
だが、どんな強力な攻撃も当たらなければ意味がない。砕け散る木片に頬を叩かれながら、間一髪で攻撃を回避したレインは視線の端に移るペムペムの姿を追い続ける。ペムペムはドラゴンの攻撃にひるむことなく踏込み、すでにドラゴンの懐へと潜り込んでいた。
「ぶちかませ!」
腕を突き上げたレインの号令に、ペムペムの小さな体がドラゴンの巨体に直撃する。完璧だ。ペムペムの身体が大きく潰れ、衝突の衝撃を余すことなくドラゴンに叩き込む。
「ぷぅぃ~ぎっ!」
ひしゃげた身体をもとの形に復元したペムペムは大きくその場から飛び退くと、レインの肩に舞い戻った。
「よっしゃ!」
レインが拳を握る。隙を突いた渾身の一撃。攻撃の感触は、完璧な角度とタイミん――
ガアアアアアアアアアアアオォオオォォォオオオォ
攻撃を受けたドラゴンが、天に向けて吼えた。
その咆哮にダメージの残滓など微塵も感じられない。
「ま、効かねぇよな。このくらいじゃ」
レインに動揺はなかった。このくらいでダメージが与えられるなんて、端から思ってない。確かに攻撃は直撃した。だが、いくら直撃したとはいえ、レインたちが放ったその攻撃は、幾千の戦いの中で幾万の攻撃を受けたドラゴンにとっておそらく最弱の攻撃だろう。
大気を震わせる咆哮の中、レインは極限までその集中力を絞り込む。
そう、まだまだ戦いは始まったばかりだ。
そして何より、ドラゴンの本領はここからだ。
ドラゴンの咆哮が止む。その瞳に宿る剣呑な輝きは憤怒。
稚拙としか言えない、攻撃ともいえない攻撃にドラゴンの怒りは頂点に達していた。
攻撃を仕掛けるでもなく無造作に、それこそ塵でも払うかのようにドラゴンが片翼を薙ぎ払う。ドラゴンの翼は、まるで箒でごみを退かすようにあっけなく大木を吹き飛ばした。久しぶりに顔を出した森の地面だが、空を拝む時間は短い。逆方向から振り払われたもう一本の翼が露見した地面を大きく抉り、土石もろとも空の彼方へ吹き飛ばしたからだ。
攻撃そのものが天変地異。攻撃一つ一つの規模が桁外れだ。憤怒はドラゴンの本質。怒るほどに強い。キールと戦っているとき、このドラゴンは全く本気を出していなかった。
「へ~すげぇな~。でも……」
だが、そんな格の違いを前にしてなお、
「だからどうした!」
地形を変える真のドラゴンの破壊力を前にしてなお、レインは一歩も引かなかった。
いや、むしろ。だからこそいいのだ。
レインの口元に笑みが浮かぶ。相手が強ければ強いほど、絶望が大きければ大きいほど、レインたちの勝機は大きくなる。
そんなレインの肩に乗るペムペムは、レインからの次の指示を待っていた。ペムペムの眼もまた、風のドラゴンを倒すという闘志に燃えていた。
「ぴぎ!」
「ああ、分かってる!」
ペムペムの意志に、レインは深く頷く。空腹な者が食事を欲するのと同じく、勝利に対して飢えている者は勝利を欲する。レインとペムペムは、まさにそれだ。
勝利飢えた獣を止められるのは、勝利という最上の御馳走のみ。
「ペムペム。もう止まらなくていいぞ。全身全霊全力全開でぶちかませ!」
「ぴぎぃー!」
鳴き声を後方へ置き去りに、ペムペムの身体は蒼い軌跡となった。
ペムペムがその身体を右前方へ撃ち出し、蒼い軌跡を大地に刻む。狙った倒木を踏み台に今度は左へ。そしてまた右へと、次々に倒木の間を跳躍し、小さなペムペムがドラゴンの眼を翻弄する。いかにドラゴンといえ、地面すれすれを砲弾のごとく移動する小さなペムペムを捉えることは難しい。苛立ちに身を任せドラゴンがその豪脚で大地を踏み砕く。巻き上がる粉塵と木片。残念外れだ。そこにペムペムは存在しない。
粉塵に隠れ、ペムペムがその身体を上空へと撃ち出す。狙いはドラゴンの右上腕。初撃に続くクリーンヒット。さらにペムペムはドラゴンの腕から、次の標的へ向けてその身体を撃ち出していた。ドラゴンのこめかみへ、ちいさな蒼い砲弾が直撃する。
が、それでも絶対王者は揺るがない。
ぎらりと光る瞳が、こめかみにへばり付くペムペムを捉える。身の危険を感じたペムペムが、その場から急いで離脱する。
強烈な圧迫感が、死の影となってペムペムを覆い尽くした。
雄叫びと共に、ドラゴンが離れようとするペムペムに向けて剛腕を振り払う。
回避する暇を与えず、分厚い鱗がペムペムを捉える。まともにドラゴンの一撃を受けたペムペムは、まるでゴム鞠でも蹴飛ばしたかのように吹き飛び、倒木の中へと落下した。
ペムペムの身体を受け止めた倒木が砕け、ぱらぱらと周囲に木片が舞い散る。
エルニアとアリカが揃って悲鳴を上げた。
あっけない幕切れ……に思われた、その時。
「ぴーっぎ!」
砕けた木片の中から、土埃にまみれたペムペムがひょっこりと顔を出した。
「馬鹿な!」
その姿を見たエルニアが、思わず声を上げる。確かにペムペムはドラゴンの一撃を受けた。岩石の身体を持つゴーレムですら砕く一撃に、ペムペムが耐えきれるはずがない。
そんなエルニアに、レインは口元に笑みを湛えながら当たり前のように呟いた。
「そんな驚くことじゃないだろ。スライムの弾力性に富んだその身体は、単なる物理攻撃にめっぽう強いのは常識だ。まぁ、爪や牙なんかは無効化できないけどな」
楽しげに、そして誇らしげにレインが解説する。
そのとき、レインの首筋に再び鋭い悪寒が走った。
風のドラゴンの憤怒に燃える瞳が、レインにその怒りの矛先を向けていた。
いくら最弱のスライムとはいえ、大地を縦横無尽に跳ね回るペムペムを捉えるのは難しいと悟ったのだろう。風のドラゴンの殺気がレインを射抜く。その威圧感はもはや災害。レインの全身の毛が逆立ち、全神経が警報を鳴らす。
「はは、手加減……してくれそうにないな」
風のドラゴンが、その双翼を大きく羽ばたかせる。生まれた攻撃は、不可視の風刃。鋭い音が大気を両断しレインへとその刃を向けた。
「レイン・エルハルト!」
「レイン君!」
風のドラゴンの攻撃を浴びるレインに、エルニアとアリカが叫ぶ。吹き飛ばされたペムペムでは到底間に合わない。
そんな二つの悲鳴に、レインの悲鳴は重ならなかった。ペムペムに攻撃が当たらなければ、自分が攻撃の対象になることなんて分かってる。
レインはとっくに覚悟を決めていた。
迫る死に、レインが極限まで研ぎ澄ませた意識を紋章へと集中する。スライムの紋章が青白く輝き、ペムペムの力がレインへと流れ込む。
「頼むぜ、ペムペム」
ペムペムの力を信じ、レインは直感にその身を完全に委ねた。
風切り音が迫る。目の前の朽木が両断される。
地を這う不可視の刃を、レインは慌てることなく無造作に片足を一歩引いて回避した。
「な!」
「うそ!」
再び、エルニアとアリカの声が耳を撫ぜる。
レインは二人に軽く笑顔を向けると、人間など容易く切り裂く風の刃と対峙した。
風のドラゴンの攻撃は一撃でも喰らえば致命傷は免れない。そんなことは分かってる。
ならばどうする。答えは単純。
「さぁ、当ててみろ」
その全てをよけきればいい!
首を狙った刃を身を屈めて躱し、左腕を切り裂きかけた刃は同じ方向に身体を回転させて受け流す。背中をバッサリと切り裂かれる寸前に身を前方に投げ出して転がり、天から降り注いだ刃は咄嗟に跳ね起きて回避する。
驚くべきことに、レインはドラゴンの攻撃をたった一人で回避した。
だが油断はできない。なぜなら、攻撃の手は風刃だけではないからだ。
風のドラゴンがその口を窄め、圧縮した空気の散弾をレインに放つ。小さな風玉とはいえ、その一発は岩をも粉々に砕く。
風刃と同じく、人間が喰らえば致命傷――
「当たらねぇ、当たらねぇ、当たらねぇ! そんな攻撃、当たらねぇぇええ!」
常識を打ち崩す哄笑。レインは笑いながら、その怒涛の攻撃を避け続けた。
頭上から降り注ぐ風玉の飛礫を、レインが身を躍らせて回避する。地面にぶつかった風玉が弾け、砕けた木片や小石がレインの身体を叩く。小さな攻撃は無視。レインは死をもたらす攻撃に全神経を集中し続けた。レインが避ける、避ける、避ける。地を蹴り、朽木を楯にし、時には弾けた風玉の爆風さえも利用し、風のドラゴンの攻撃を避け続ける。
エルニアとアリカだけでなく、風のドラゴンまでもがその光景に目を見開いた。
いくらモンスターとの契約で身体能力を向上させているとはいえ、ただの人間が最強種ともいえるドラゴンの攻撃を避け続けているのだ。先日の模擬戦でキールの怒涛の攻撃を避け続けたように、レインは風のドラゴンの暴風雨の如き攻撃を避け続けた。
「やっぱり、ペムペム。お前らスライムは最弱だ。最弱で、最弱で最弱で、そんで――」
風刃と風弾の嵐の中、レインは心底楽しげに笑った。
「最高だ!」
首筋を撫ぜる悪寒を頼りに風の攻撃を避け続けるレインは、心の底から叫んだ。
もちろん、レインが避けられているのには種がある。
【契約の絆】を発動した魔獣錬磨師は、モンスターの力の恩恵を受けられる。スライムは確かに全モンスター中最弱だろう。だが、最弱ゆえにスライムたちには大きな力がある。
危機察知能力、そしてそれに伴う逃げ足の速さだ。
敗北と苦悩の中で、レインは最弱と言われるスライムの力を信じた。
死が迫る中ですら、レインは最弱と言われるスライムの力を信じた。
信頼は力となり、モンスターはより強い力でトレーナーに応えてくれる。
生まれ持った強さに慢心した攻撃では、レインから勝利は奪えない。
とはいえ、敵は遥かに格上。
「いつっ!」
いくらペムペムの力を受けているレインとはいえ、その全てを回避できるわけではなかった。時間が経つにつれ、足場が悪くなり、攻撃の数も増える。ペムペムの力で強化されたとはいえ、限界を超え始めた筋肉が悲鳴を上げる。一撃、また一撃と、風の刃がレインの肌を掠め、風の弾がレインの肩を打ち抜く。まだ直撃こそないが、風の猛攻に晒されるレインの身体は血に濡れ、血風が朽木の表面に朱い斑点を彩った。
掠り始めた攻撃に、ドラゴンの口端が吊り上る。
だが、笑みを浮かべているのは、レインも同じだった。
「いいのか? 防御がお留守だぞ」
ここぞとばかりにレインが笑い、攻撃の合図とばかりにその指を高らかに打ち鳴らす。
その瞬間、蒼い軌跡が夜の闇を貫いた。
「ぷぎぃいいいいいいいいい!」
最弱と蔑まされるパートナーを信じて囮となったレインに、ペムペムは限界まで溜めた【体当たり】で応えた。レインが囮となり時間を稼いでいた間に限界まで身体を撓めかせた、渾身の一撃。その攻撃は、ペムペムと風のドラゴンの距離を一瞬にしてゼロにする。
蒼い砲弾となったペムペムが、ドラゴンの弱点である鼻頭に突き刺さった。
今度の一撃は確実にドラゴンにダメージを与えた――ように見えた。
「ぴぎっ!」
ペムペムの身体が、叩きつけられた殺気にビクッと震える。鼻頭の急所に攻撃されたにもかかわらず、ドラゴンは怯むどころか反撃を開始した。邪魔だと言わんばかりに頭を激しく振り、鼻に引っ付いたペムペムを引き剥がす。振り払われたペムペムが凄まじい勢いで地面に叩きつけられた。再び粉塵が巻き上がり、ペムペムの姿を覆い尽くす。
風のドラゴンも馬鹿ではない。この程度のことでペムペムはビクともしない。だからこそ止めを刺しに来た。ドラゴンの口腔に周囲の大気が圧縮される。乱気流渦巻く風の玉。レインに向けたものより、はるかにデカい。高密度に高められた大気はあらゆるものを圧殺し、乱気流はあらゆるものを引き千切る。ペムペムがその直撃を受ければ、戦闘不能は免れない。耐性があるのは単純な打撃の話しだ。スライムの耐久力は本来高くない。
だからこそ、ペムペムはすでに動き出していた。ドラゴンが見据える粉塵の中に、ペムペムは存在しない。ペムペムはすでに、ドラゴンの股下で攻撃の準備に入っていた。
「ぶちかませ! ぺむぺむ!」
「ぴぎぃぃぃぃぃ!」
レインの声を引き金に、ペムペムが真上へ向けて一直線に飛び上がる。全身を撓めかせて作った溜めは十分。ペムペムは発射とほぼ同時にドラゴンの下顎へと激突した。無理やり口を閉じさせられたドラゴンが口腔に圧縮した乱気流を噛み砕く。
キール戦では不発だったが、今回は見事に炸裂した。
ペムペムに向けられるはずだった風玉が、ドラゴンの口腔内を蹂躙する。いかにペムペムの攻撃が弱くても、今ドラゴンに向けられた攻撃はドラゴン自身が生み出したものだ。無事で済むはずがない。溜まらず血塊と共に風の余波を吐き出したとき、幾多ものモンスターを噛み砕いてきたドラゴンの牙が風に捕まり宙を舞った。
怒り狂ったドラゴンの瞳が、自由落下に任せて地面へ落ちるペムペムを捉える。唸る風の轟音が辺りに響き渡った。ドラゴンが口腔に残ったわずかな風の残滓をペムペムに向けて吐き出したのだ。それはレインに向けられたものと同じ目に映らない真空の刃。しかし、ペムペムには最弱ゆえの飛び抜けた危機察知能力がある。
ペムペムが身を捻る。軟体の身体は、空中でも器用に風の刃を避けた。
だが、刃の数が多すぎる。
「やべぇ!」
ペムペムの回避力を上回る刃の数にレインが焦る。
無数の風刃のうちの一本がペムペムの身体を深々と切り裂いた。
「ぴぎぃぃぃぃぃ!」
耳を塞ぎたくなるような悲鳴が、辺り一帯に木霊する。
ペムペムの受けた傷は深い。そして、ダメージを負ったのはペムペムだけじゃない。
「ぐがっ!」
レインの腹部がまるで鋭利なナイフで切り裂かれたかのようにパックリと切り裂かれる。レインとペムペムの【契約の絆】は強い。強いがゆえに、ペムペムが受けたダメージはより深くレインに同調する。
腹部を抑えたレインの手が、瞬く間に鮮血に染まる。さすがはドラゴンの攻撃。掠っただけで相当な深手を負わされた。血が止めどなく流れ、レインの体温を奪う。
初めて負わせた傷に、ドラゴンが歓喜の咆哮を上げ追撃を仕掛けた。振り下ろされる剛腕の鉄槌。その分厚い鱗と固い地面に潰されれば、傷を負ったペムペムは一溜りもない。
「怯むな、ペムペム。【体当たり】だ!」
そんな絶体絶命のペムペムに向けたレインの指示は、さらなる攻撃を加えるものだった。正気の沙汰とは思えない指示に、エルニアとアリカがぎょっとする。ここは、何としてもペムペムを下がらせる以外に策はないはずだ。
だが、エルニアとアリカの予想を裏切ったのは、レインだけではなかった。レインの指示がペムペムに伝わるよりも早く、ペムペムは次の攻撃の標的を選択し、傷ついた身体を撓めかせていた。レインの声がペムペムに届いた時、それはすなわち発射の合図。ペムペムの身体が跳躍し、コンマ数秒後にその背後の地面が爆散する。爆風すらも加速に利用し、ペムペムはドラゴンの足へ向けて体当たりを炸裂させた。
「よっしゃ。それでいい」
レインが不敵な笑みを浮かべながら、身体の至る所が血で濡れているとは思えないほど力強く頷く。一瞬前にやられかけたとは思えない壮絶な笑み。今の攻防。もしレインとペムペムが一瞬でも後退を考えていたなら、ドラゴンの鉄槌と地面に潰されていただろう。コンマ数秒でも攻める姿勢を保ち続けていたからこそ、ペムペムは死中に活を見出した。
だが、ペムペムが受けたダメージは、ことのほか大きく、重く、深い。ドラゴンの足へ攻撃を加えた瞬間、切り裂かれた傷口が開いて、ペムペムが苦悶の表情を浮かべる。
紋章を通して、ペムペムの状態がレインに流れ込む。突き抜けるような激痛だけではない。連続攻撃による疲労がレインの体力を奪う。契約のデメリット。モンスターとの信頼が深ければ深いほど、モンスターがダメージを受ければその痛みや疲労までもが鮮明にトレーナーに同調する。
だが、レインの心は折れなかった。
もちろん、ペムペムの心も。
「ペムペム、勝つぞ」
「ぴぎ!」
血に濡れた主に、ペムペムは振り返らない。レインとペムペムを繋ぐただ『勝ちたい』というだけの単純な信念は、すでに痛みを凌駕していた。
身を引き裂くような苦痛に呻くどころか、ペムペムの攻撃はさらに加速した。
吹き荒れる風の刃をドラゴンの足を盾にして躱し、飛び上がるや否や、ドラゴンの背中へ強烈な体当たりを直撃させる。双翼の付け根もまたドラゴンの弱点の一つ。弱点への連続攻撃、そしてドラゴン自身の自爆。ペムペムが与えられる攻撃は可能な限り試した。
それでもドラゴンの耐久力は絶大だった。
ドラゴンが大きく翼を羽ばたかせる。生まれた暴風は、必死に鱗に噛みつき引き剥がされまいとするペムペムをいとも簡単に空へと誘った。打ち上げられたペムペムは格好の的だ。ドラゴンが今度こそペムペムを仕留めようと、再び口腔に乱気流の風玉を作り出す。
よもや、無防備かと思われたペムペムが加速して落下するなど、ドラゴンは思いもしなかっただろう。
打ち上げられた時、ペムペムはすでに反撃の態勢に移っていた。繰り出す攻撃はもちろん体当たり。確かに単独で打ち上げられたペムペムには足場がない。ならば作ればいい。
「そうだ、それでいい!」
指示を受けるまでもなく【分裂】を足場にしたペムペムに、レインの顔に再び鮮烈な笑みが浮かぶ。レインは確かに感じた。ペムペムが自分と同じ考えを持ち、次の攻撃を選択するのを。レインとペムペムに刻まれたスライムの紋章が、夜の闇も退くほど力強く輝く。それは、互いの信頼の証。互いが信頼すればするほど、紋章はより力強く輝く。
もう二人の間に細かい指示などいらなかった。
レインの掛け声を受けず、ペムペムは空中に作り出した分裂体を足場に空中からドラゴンに向けて己の身体を撃ち出す。重力を味方につけて加速したペムペムが、ドラゴンの鼻頭と激突する。再び弾ける風玉。ドラゴンの口腔で、暴風が暴れまわる。
が、今度はドラゴンの立ち直りも早かった。ドラゴンは口の中で暴れまわる風をすぐさま操り、鼻頭にいたペムペムを振り払うや否や、圧縮した空気の飛礫をペムペムに向けて吐き出した。無数の空気の弾丸が、ペムペムに襲い掛かる。
「ペムペム。最大【分裂】」
レインの声に焦燥が混じる。紋章から伝わる今のペムペムでは、あの空気の球が一撃でも当たれば戦闘不能だ。ペムペムが今持てるだけの体力を使い、無数の分裂体を生み出す。出し惜しみはない。内包していた水分を使い切る覚悟でペムペムが分裂する。
ペムペムの全面を覆うように生み出された無数の分裂体が、次々に襲い来る風の飛礫を受け水風船を割ったかのように弾けた。分裂は攻撃以上に体力を消費する。風の飛礫が切れるのが先か、ペムペムの体力が切れるのが先か。レインにとってもこれは賭けだ。
ぎりぎり勝ったのはペムペムの体力の方だった。地面に落下したペムペムは、荒い息を吐きながらすぐに行動を開始する。それは、もちろん次なる攻撃のためだ。
倒木を踏み台に、ペムペムがドラゴンへ向けて肉薄する。ドラゴンが迎撃しようと腕を振り上げるが、ペムペムの攻撃の方が遥かに早い。再び、ペムペムはドラゴンの胸に目掛けて飛び上がる。振り下ろされる剛腕が、ペムペムの背後の空間を撫ぜる。伴った暴風に翻弄されながら、ペムペムは確かにドラゴンの胸に突き刺さり……
そのまま、力なく落下した。
「ぴぎ……ぴぎ……ぴ……ぎぃ」
這いつくばったペムペムが、荒い息を吐きながら何とかドラゴンへ向けて体勢を立て直す。だが、それは見守る者にとって、痛々しい以外のなにものでもなかった。
「も、もうやめさせろ。レイン・エルハルト!」
エルニアが叫ぶ。その声は懇願に近い。ペムペムがどれだけ攻撃を繰り返しても、どれだけ風のドラゴンの誤爆を誘おうとも、風のドラゴンはまだまだ余力を残している。
なにより、ペムペムと同様に凄惨な姿となったレインを前に、エルニアは叫ばずにはいられなかった。ドラゴンの攻撃に制服は引き裂かれ、その下に覗く肌には無数の傷が刻まれ、血が滴っている。特に腹部を大きく切り裂いた傷はレインの命を確実に蝕んでいた。
尋常でないほど力強い【契約の絆】により鮮明にペムペムのダメージを還元したレインは、傍から見ても満身創痍だ。体力の限界も近い。その全身からは汗が吹き出し、膝に付いた両手で何とか身体を支えている。もはや、いつ意識を失ってもおかしくない。
勝ち目がまったくない勝負。エルニアの声は、その現実を雄弁に語っていた。
その懇願に対する返事は、
「馬鹿……言え。面白いのは……ここから……だろがっ!」
疲労や激痛すらも捻じ伏せる力強い笑みを湛えたレインの横顔だった。
レインは感じていた。ペムペムの中で胎動するエネルギーを。離れていても伝わってくる。ペムペムの中で、抑えきれないエネルギーが唸りを上げているのを。
ドラゴンが止めを刺そうと、ペムペムへ向けてその鋭利な爪を振りかぶる。ペムペムはぐったりしたまま動かない。ドラゴンが、突風を纏った腕を振り下ろす。ペムペムは、身じろぎもせずその爪を待ち構える。
抉れる大地。エルニアとアリカの悲鳴が、夜の森に響き渡り、
「ぴぎぃぃぃぃぃ!」
赤く燃え上がったペムペムの体当たりをその身に受けたドラゴンが、大きく仰け反り、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
悲鳴を飲み込むエルニアとアリカ。近くの大木に腰掛け、頬杖を突きながら楽しげに戦況を見守るガゼット。そして――
「きぃぃいたぁぁあぁぁぜえぇえええぇえ!」
待ってましたとばかりに腕を振り上げるレイン。
四人の視線は、全身から蒸気の様なオーラを立ち昇らせるペムペムに注がれていた。
「【昇華】だと……」
エルニアのその声は、ありえない、と言っているようにレインには聞こえた。
その声を心地よく聞きながら、レインはまるで勝利を掴むようにドラゴンに向けていた手の平を握り締めた。
身体を覆っていた疲労はもうない。
ようやく、待ちに待った時が来た!
「さあ、ペムペム。反撃開始だ!」
「ぴぎぃぃぃぃぃ」
レインの号令を受け、ペムペムが天上の月に向かって吠える。
「行っけぇえぇぇぇぇぇ!」
レインが力任せに拳を突き出す。その拳が打ち出したのは、拳圧なのではなく蒸気を上げて燃え滾る赤いスライムの弾丸だ。
「ぴぎぃっ!」
【昇華】を果たしたペムペムが、風のドラゴンへと突撃する。踏み台にした倒木が、反動を受けきれず吹き飛んだ。暗闇を切り裂く朱い軌跡が、ドラゴンの片腕を弾き飛ばす。
腕に走った衝撃に、風のドラゴンが大きくよろけた。
「まだまだ行くぞ!」
もちろん、それだけでレインとペムペムの攻撃は終わらない。風のドラゴンの腕を弾き飛ばしたペムペムは、すぐさま次の倒木を踏み台に次の攻撃へと移っていた。朱い弾丸と倒木が反対方向に吹き飛ぶ。
側面から【体当たり】を仕掛けるペムペムに、風のドラゴンが反応した。その長い竜尾が唸りを上げ竜巻さながらの威圧感を伴いながら飛び上がったペムペムを叩き落とす。
単純な激突の衝撃、攻撃力そのものはまだまだ風のドラゴンが上。
だが、ペムペムにはその力を十二分に発揮させる魔獣錬磨師が付いていた。
レインが【契約の絆】に攻撃の意志を込めて叫ぶ。
「ペムペム、吹き飛ばせ!」
度重なる指示。その声は自分の居場所を主張するようなものだ。風のドラゴンがレインにその攻撃の矛先を向け、大きく腕を振り上げる。
レインに向けて振り落とされたドラゴンの腕は、突如として地面から吹き飛んできた一本の大木により明後日の方向へ弾き飛ばされた。
ドラゴンの腕に激突した大木が二つに裂け、木片を振り撒きながら地面に落下する。
風のドラゴンが、倒木が飛ばされた方向へそのエメラルド色の双眸を向ける。
そこには、主に手を出すなとばかりに遥か巨大な風のドラゴンを睨みつける、小さなスライムの双眸があった。
「ぴぃぃぎゅぅぅぅいぃぃぃぃぃ!」
主への敵意に、普段は温厚なペムペムが吼える。
レインの口元に、喜びと楽しさを織り交ぜた笑みが浮かんだ。
「ペムペム、手当たり次第でいいぞ! 思う存分ぶっ飛ばせ!」
「びぎゃ!」
レインの指示を受けたペムペムの姿が霞む。逃げ足が速いということは、それだけ素早いということ。持ち前の素早さと反発力を存分に発揮し、ペムペムが倒木の間を駆け抜ける。朱い軌跡が倒木の間を縫い、その軌跡をなぞるように無数の倒木が風のドラゴンに向けて打ち出された。
自分に向けて弾き上げられた無数の大木に、ドラゴンが大きく翼を羽ばたかせる。ドラゴンを守るように巨大な竜巻が出現した。大木はことごとく竜巻に捉えられ、轟音と共に宙を舞う。風の結界ともいえる絶大な防御力。並大抵の攻撃では、ドラゴンには届かない。
倒木の砲弾が止み、巻き上げられた倒木が次々に重力に誘われて落下する。
容易く敵の攻撃を封じたことに満足したのか、風のドラゴンの口元に笑みが刻まれる。
そんな風のドラゴン以上に、レインは笑っていた。
「勝負の最中に、油断なんかしてんじゃねぇ!」
レインが決して届かぬ距離でありながら、風のドラゴンに向けて渾身のアッパーカットを掬い上げる。笑みを作っていたドラゴンの口元が大きく歪む。その下顎に突き刺さったのは、レインの拳ではなく、竜巻の暴風を掻い潜り懐に潜り込んでいたペムペムだ。
「ぴぎ!」
自由落下などという怠慢を許さず、ペムペムが落下中の倒木に向けてその身体を弾く。落ちる大木を踏み台に、ペムペムは風のドラゴンへ突撃し、攻撃が炸裂するや否や、次の倒木へと着地する。落下する無数の倒木とドラゴンの間を、赤い軌跡が駆け抜けた。
最弱のモンスタースライムが、ドラゴンと互角に渡り合う。
それは、誰の目にもにわかには信じられない光景だった。
そして、その眼を疑うような光景は制限時間付の逆襲劇でしかなかった。
「ぴぎ? ……ぷぎゅぅ~」
ペムペムの動きが目に見えて減速する。同時に、その身体はもとの涼しげな青色を取り戻し、吹き上がる蒸気も引いてゆく。
【昇華】の効力が切れたのだ。
「ちっ。やっぱり、【昇華】一回で倒すのは虫が良すぎるよな」
レインの言葉に、双翼の防御を解いた風のドラゴンが、その口に確かな笑みの形を作る。
その笑みはエルニア達にとって絶望に他ならなかった。