頬を撫でる風に熱が帯び始め、いよいよ夏の到来を思わせる早朝。切り立った山の峰から昇る朝日はすでに空高く、全ての大地に、人に、そしてモンスターにその恩恵が降り注ぐ。
その朝日を自室で浴び、多くの生徒が緩やかな朝の始まりを迎える。それが魔獣錬磨師育成学園【ベギオム】における一日の始まりなのだが、今日は様子が違っていた。
普段ならば人影も少ない、いや、あるトレーナーを除いて誰も訪れることのない朝のモンスターの宿舎前。そこにはすでに、学園の制服に身を包み、自分のパートナーを迎えに来た多くの生徒が行列を作っていた。
列の進み具合はきわめて遅い。待ちきれなくなった一人の男子生徒、いつもであれば早朝のモンスター宿舎に唯一現れる魔獣錬磨師、レイン・エルハルトは、もどかしそうに腰に巻き付けたポーチの留め具を弄びながら、ずらりと並んだ生徒たちの後頭部を睨み付ける。
「あと、何人並んでんだ? あ~、くそ。トレーニングの時間がなくなる!」
クシャクシャッっと髪をかき乱しながら、レインが軽く飛び跳ねる。生徒の波の向こうには、5つの巨体が立ちはだかっていた。ルビー色の瞳を宿した岩の頭に、同じく岩で作られた強靱な胴体。そこから伸びる手足もまた岩石。その四肢から繰り出される鉄槌は、並のモンスターなど一撃で粉砕する。ゴーレムと呼ばれるその岩石兵は、盗賊などから生徒たちのモンスターを守る守衛であり、モンスター達の脱走を防ぐ看守でもあり、そして何より、この行列を作り出している原因だった。
学生が自分のモンスターを連れ出すためには、まずこのゴーレムに学生証を提示して許可をもらわなければならない。が、一般にゴーレムの知能はきわめて低い。モンスター宿舎を守るゴーレムにあっても、一度与えられた命令を全うする機械的な知能しか持ち合わせていない。それ故に、学生証の確認には異常なほど時間がかかる。
レインだけでなく、そろそろ周りの生徒たちの苛立ちもピークに達してきたのだろう。そこかしこで舌打ちや小言が聞こえてくる。けれども、パートナーのモンスターがいない中で、このゴーレムにケンカを売るのは無謀もいいところだ。その結末は、ゴーレム達の隣でノビている生徒たちが如実に語っている。
遅々としか進まない行列にレインが歯がみしていると、その隣にいた男子生徒が柔和な笑みを浮かべて、落ち着かせるように肩を叩いた。
「まぁ、いいんじゃない? ゆっくりいけばさ。ペムペムだって、たまには寝坊したい日だってあだろうし」
「いんや、駄目だ。甘やかすと癖になる。つーか、遅れたのはお前の準備が遅いからだろ、ガゼット」
肩に乗せられた手を払いのけるレインに、ルームメイトのガゼット・ガールバレスはやれやれと首を横に振りながら微笑んだ。
「確かに、準備が遅れたのは謝るよ。でも、本当に遅れた原因は他にあるんじゃないかな? ねぇ、レ・イ・ン」
何かを揶揄するように、ガゼットが笑みをさらに濃くしながら、再びレインの肩に手を乗せる。
すらりと伸びた高身長、嫌みのない知的さが漂うシャープなメガネ。誰もが思わず警戒を解くその柔和な顔立ちだが、レインに向けられた笑みには間違いなく悪魔の微笑みが隠れていた。
ガゼットの言葉に、レインの口元が歪む。そんなレインに、ガゼットはさらなる追い打ちを掛けた。
「レイン。お腹、大丈夫?」
「う、うるせぇ!」
声を荒げて、レインが再びガゼットの手を払いのける。しかし、勢いのわりに、払いのけた手はどこか力がなかった。よくよくその顔を見てみれば、額には脂汗が浮かび、歯がガチガチと震えている。ガゼットがその視線を下げると、先ほどまで腰から下げたポーチの留め具を弄んでいたレインの左手は、何かを堪える様にお腹の方へと移動していた。
そんなレインに、ガゼットはからかうというよりは、どこか労るような口調で言った。
「本当に、今日のトレーニングは休んだ方は良いんじゃない?」
「……甘やかすと癖になるんだよ」
「それ、自分に言ってたのかい? まったく、本当に君は馬鹿だね。レイン」
「あいつの馬鹿舌よりましだ!」
思わず叫んだレインだったが、その瞬間込み上げてきた強烈な吐き気に、ウッと慌ててその口元を抑えた。正直に言えば、吐き出した方が気持ちが良いだろう。なんせ、今朝レインが無理矢理食べさせられたのは、人間用ではなくモンスター用の飯だった。いや、調理した本人は人間用と言っていたのだから真偽のほどは定かではないが、あれを人間用と言うにはレインの良心が許さない。
「あいつ、絶対に俺を殺すつもりだろ。そうだろ!」
「うーん。なんか期待どおりっていったら期待通りなんだけど。まさか、アリカが付いていてあれほどとはね。うん、いと楽しい」
「俺の生死を楽しいの一言で終わらせるな!」
怒鳴りながら、レインは肩を落とした。吐き気も小康状態になったが、いつまた襲ってくるか分からない。ポーチの中に入っている薬はモンスター用。試しに使ってみるかと一瞬本気で考えたが、悪化の一途をたどるような気がしたのでやめておいた。
「しかし、人が多いな」
気持ちを紛らわせるために、レインが前にも後ろにもずらりと並んだ生徒を見ながら呟く。
隣にいたガゼットもレインに倣って首を回すと、「そうだね」と軽く首肯した。
「ランキング戦も近いからね。力が入るのは当然なんじゃないかな」
「まぁ、そうだろうな」
ガゼットの言葉に、レインも軽く頷く。魔獣錬磨師育成学園【ベギオム】では、2ヶ月に一度の周期で学内のランキング戦が開催される。今回のランキング戦はテストの直後ということもあり、テスト勉強でなまったモンスター達に活を入れるべく、多くの生徒たちが朝早くからモンスター宿舎に並んでいた。
「あ、レイン。ようやく順番みたいだよ」
「だな、あー長かった」
話をしている間に、ようやくレイン達の順番が回ってきた。
二人がゴーレムの前に並ぶと、ガゼットの前に立ちはだかったゴーレムは学生証を見せるようにと身体を揺らし……
レインの前に立ちはだかったゴーレムは、レインが学生証を提示する前に自らその巨体をどけて道を作った。
ゴーレムの確認を素通りしたレインに、生徒たちから驚きの声が上がる。
そんな生徒たちの驚きを、どこか呆れたように微笑むガゼットが代弁した。
「レイン。どうやったら僕もこのゴーレム相手に顔パスで入れるようになるんだい?」
「毎朝誰よりも早くパートナーを迎えに来てやれば、自然に覚えてくれるぜ」
レインは事もなげに言ってみせるが、ゴーレムは一般に知能が低いゴーレムに主である魔獣錬磨師以外の顔を覚えさせるなど並大抵のことではない。そんなゴーレム相手に顔パスで入れるのは、レインの日頃の鍛錬の賜物だ。
ようやくゴーレムの確認が終わり、レインとガゼットがモンスター宿舎の入り口に設けられたスロットルに学生証を差し込む。学生証の照合が終わると、2つの淡い緑色に発光するオーブが飛び出し、壁をすり抜けて宿舎の奥へと飛んで行った。
オーブが飛んでいくと同時に宿舎の奥の扉が音を立てて開く。むわっとした温かい空気が漏れ出し、獣臭が鼻を突く。
ほどなくして、ぽんぽーんと何かが軽快に弾む音が響き、小さな青い生き物が宿舎の奥から飛び跳ねてきた。
「ペムペム!」
愛嬌のあるつぶらな瞳。まんじゅうのような楕円形のフォルム。しっとりと濡れた青い肌。牙の無い口に、おもわずつつきたくなるプニプニのほっぺ。そのゼリー状の身体には、レインとの契約の証であるスライムの紋章が刻まれている。
全世界で最多の固有数を誇る同時に、最弱のモンスター。
スライム
ペムペムと言う名前が付けられたこの世界最弱のモンスターこそ、レインの誇れる相棒だ。
「ぴぎー!」
ペムペムはレインの呼びかけに大声で応え、そして……
「ぐほっ!」
迷いのない素晴らしい【体当たり】で、レインの身体を宿舎の外へと吹き飛ばした。
ペムペムを胸に張り付けたまま吹き飛んだレインが、ごろごろと宿舎の前を転がり、後頭部を杭柵にぶつけてようやく停止する。
目の前で星がチラついていると、「どうだと!」とばかりに胸をはるペムペムの向こうに、苦笑を浮かべるガゼットが見えた。
「レイン。君も、よくもまぁペムペムの【体当たり】を毎朝受けられるね」
「日に日にきつくなるんだぞ、コレが」
制服に付いた埃を落としながら立ち上がり、レインが自分の肩に乗っかってきたペムペムの頬を指先で突く。
そのレインの掌には、スライムが象られた紋章が刻まれていた。
この世に生を受けた者は皆、生まれながらにしてモンスターの紋章を宿す。そして、紋章に適応するモンスターとのみ契約ができ、モンスターを使役することができる。
神の紋章を宿す者は神と、ドラゴンの紋章を宿す者はドラゴンと、天使、悪魔、亜人、狼。それらのモンスターと契約し、錬磨し、時には土地を開拓し、時には敵と戦う者。
それが魔獣錬磨師である。
モンスターの紋章はこの世界で重要なステータスとなる。高位の紋章を持つ者は高みを目指しやすく、下位の紋章を持つ者には紋章を捨てる《落紋》をする者も多い。
学園唯一のスライムトレーナーであるレイン。その手に刻まれたスライムの紋章を《落紋》する者の割合は、全紋章の中で堂々一位。
だが、肩からポンと飛び跳ねたペムペムを頭に乗せたレインは、そんなハンデなど露ほどにも気にせず、どこまでもまっさらな笑みを浮かべて、一日の気合いを入れるように肩を回した。
「まっ。これで大体今日のペムペムの調子が分かるからな。一種のスキンシップだよ」
「頼むから、いつか宿舎の前で倒れてるなんてことにはならないでくれよ」
「俺も、出来ればそんなことしたくねぇよ。それより、ピックはどうしたんだ?」
レインが小首を傾げてガゼットに訊ねる。ペムペムは出てきたが、ガゼットのパートナーが一向に宿舎から出てこない。
「あれ、おかしいな……?」
ガゼットは小首を傾げながら、雷の紋章が刻まれた手で頬を掻いた。
特定のモンスターではなく、雷や炎、水や風と言った紋章は別名【精霊紋】と呼ばれている。神やドラゴンほどではないにしろ、各属性に合うモンスターならば契約可能という汎用性の面で、非常に人気が高い紋章だ。もちろん、高位なモンスターともなれば未熟な魔獣錬磨師では使役できなくなってくるが、優れた【精霊紋】使いの魔獣錬磨師は、王宮などからお呼びがかかることも少なくない。
なかなか姿を見せないパートナーに、ガゼットはなにやら思うところがあったのか、パチンと指を鳴らしてペムペムの方を見た。
「しょうがない。ペムペム、ちょっと悪いけど、ピックを起こして来てくれないかい?」
「ぴぎ?」
ガゼットの頼みに、ペムペムは不思議そうに身体を捩ったが、すぐに小さな身体を大きく揺らして頷いた。スライムは基本的に人懐っこく、警戒心がない。パートナー以外の頼みでも、ある程度親しい者なら迷わずそのお願いを受け入れる。
「ぴぎぃ~」
頼られたことが嬉しかったのか、ペムペムは意気揚々とレインの肩から飛び降りると、ポーンポーンと宿舎の奥へと消えていった。
そして数秒後、
「ぴぎぃぃぃいいいいいぃーっ!」
壮絶なペムペムの悲鳴が、宿舎の中から木霊した。
「ペムペム!?」
驚いたレインが、慌てて宿舎の中へと飛び込もうとする。
だが、レインが飛び込む前に、ペムペムは宿舎の入り口に戻ってきた。ただし、飛び跳ねずにズリズリと地面を這いながら、だ。よくよく見れば、ときおりバチッバチとペムペムの身体が放電している。ちなみに、放電系の技なんてペムペムは覚えていない。
ペムペムが何とか宿舎の入り口まで出てくると、ようやくその背中に小さなモンスターの姿を確認出来た。
雷を模した羽を折り畳み、両足を抱え込むように眠るのは、ガゼットのパートナーにして、雷の精霊の女の子、ピックだ。
「ああ、そうそう。ピックはすんごく寝起き悪いから、ペムペム気を付けないとダメだよ」
「わざとだろう! 絶対にわざとだろう!」
悪い笑みを浮かべてペムペムに注意するガゼットへ、レインが盛大にツッコミを入れる。
その声がうるさかったのか、ピックは膝を抱えていた手を解くと、迷惑そうにガゼットを見上げて呟いた。
「マスター、早いぞ。まだ、精霊達は眠る時間だ」
「でも、僕はもっとピックと一緒にいたいんだけどな」
「私は眠たい」
「そんなこと言わないで、あとでアリカにマドレーヌ作ってくれるように頼むからさ」
「……しょうがない」
口を尖らせながらも頷いたピックは、雷を思わせる鋭い動きでペムペムから跳び上がると、ガゼットの袖口にもぐりこんだ。付いては行くらしいが、どうやらまだ眠り足りないらしい。それにしても……
「なぁ、ガゼット。ピックってさ、お前の懐や髪の毛の中にもぐりこんだりしてるけど、実際どうやってんだ?」
「さぁ? まぁ、妖精なんだからそのくらい出来るんじゃないかな?」
素朴な疑問をガゼットはさらりと受け流す。
レインも深くは追求せず、朝から思わぬダメージを受けたペムペムを抱きかかえると、まずは学園の外周を走り込むために、その足を学園の門の方へ向けたのだった。
「ふぅい~、間に合った」
教室に飛び込んできたレインが、階段状に並べられた長机の間を駆け上り、愛用している窓際の席に腰を落とす。教材が入った鞄と腰のポーチを机に乗せると、レインと一緒に教室に駆け込んできたガゼットが、「もう無理」と言わんばかりに机に突っ伏した。
「はぁはぁ、レ、レイン。ちょっと、早すぎ。まったく、体力馬鹿なんだから」
「そういうガゼットは体力がなさ過ぎなんだよ。ペムペムの方が体力あるぞ。なぁ、ペムペム」
「ぴぎっ!?」
声を掛けられたペムペムが、びくっとそのゼリー状の身体を強張らせる。何をしているのかと思えば、こっそりとレインが下ろしたポーチの中から、ご褒美用のおやつを盗み出そうとしている真っ最中だった。
「ほら見ろ、まだまだ余裕じゃね~~~~っか!」
レインがペムペムの身体を引っ掴み、ポーチから引き剥がす。何とかおやつを取り出そうとペムペムは必死にポーチにかじりついていたが、びにょ~っと伸びた身体に引っ張られて、その牙のない口はすぐにポーチから引き剥がされる。
「たく、油断も隙もねぇ。明日からはもう少しトレーニングの量を増やしても大丈夫そうだな」
「ぴぎ!!」
レインの言葉に、ペムペムが涙目になりながら必死になってその青い身体を横に振る。レインのトレーニングは只でさえキツいのだ。これ以上の増量はペムペムにとって死活問題になってしまう。
ペムペムがレインの機嫌を取るために、「ぴ、ぴぎぃ~」っと甘い鳴き声を漏らす。その可愛さと言ったら反則級だが、レインはそんなペムペムの懇願を無視して着座。ペムペムは慌ててレインの手から机に飛び降り、何とか気を引こうと机の上でその青い身体をウロウロさせるが、レインは一向にペムペムの方を見てくれない。それどころか……
「ふぅ、熱いぃ。あ、そうだ。レイン、ペムペムちょっと貸して」
「ぴぎ?」
「どうぞ、ご自由に」
「ありがとー。よいっしょっと……。はぁ~、良い枕だね~、ヒンヤリして柔らかくて実にちょうど良い」
「ぴぎぎぎぎ」
メガネを外して完全に休憩状態に入ったガゼットに、二つ返事でペムペムを貸してしまう始末だ。ガゼットの枕にされたペムペムは何とか抜け出そうとするが、両腕でがっちりと抱え込まれて一向に抜け出せない。スライムはモンスターの中で最弱の種族だ。学者の中には、スライムより人間の方が強いという者も多い。その言葉の通り、押さえ込まれたペムペムは、なかなかガゼットの頭の下から抜け出せないでいた。気がつけば、ガゼットの顎の隣で、いつの間にか出てきていたピックがスヤスヤと寝息を立てている。よほど、ペムペムの身体は寝心地が良いらしい。
そんな平和なやりとりをしていると、不意にレインの後ろから声が掛けられた。
「レ、レイン君。間に合ってよか……」
「ふん。遅刻ぎりぎりとは、結構なご身分だな。レイン・エルハルト」
控えめな声を、自信の塊のような声がかき消す。
レインは揺るぎのないその高圧的な態度にがっくりと肩を落としながら、一段高いところにある長机から自分を見下ろす二人の少女に振り返った。
窓から差し込む朝日の中、柔らかな薄黄色の髪と鮮烈な朱色の髪がレインの視界を彩った。
「間に合って良かったね。レイン君」
椅子に腰かけながら胸の前で手を組んだ少女が、律儀に言い直しながらレインに向けてはにかむ。
ふんわりと広がる薄黄色の髪と、淡いオレンジ色の大きく純粋な瞳。小動物のような愛くるしい小顔とは対照的な、男を魅了してやまない豊満な胸元。組んだ手の隙間から除く紋章が象ったモンスターは狼。
なんとか声を掛けようと近づく男子生徒を片っ端から威嚇ではね除ける忠狼、額に氷の兜を乗せる《氷狼族》のレオンをパートナーにする彼女の名はアリカ・セクスレン。
レインの良き友人であり、ガゼットの幼馴染みだ。
朝、ペムペムを迎えに行く前にも顔を合わせているアリカに、レインが「ああ、本当にぎりぎりだったけどな」と笑って答える。
そんなレインに、アリカの左の席に座っていた少女が、ふんっと鼻を鳴らしながら、その形の良い口を開いた。
「少し弛んでいるのではないか。レイン・エルハルト。せっかく、この私が朝食を作ってやったというのに。なんだ、その様は?」
胸の前で尊大に腕を組んだ少女は、凜とした声を張りながらレインを睨み付けた。
朝日にも負けない鮮烈な朱色の髪。強い意志をそのまま固めたかのような、深い煉瓦色の瞳。大空を舞う鷲のように凜と美しい容姿に、隣に立つアリカとは対照的な慎ましい胸元。その手に従えた紋章は、この世界において神と双璧をなす王者ドラゴン。
身体が大きいため、今は教室の外でしばしの休息を取っている《ホースドラゴン》のキールをパートナーとする彼女の名はエルニア・F・ミレーネブルク。
レインの良き好敵手であると同時に、レイン最大の天敵だった。
エルニアの顔を見た瞬間、レインの口元が歪み、自然とその手がお腹の方へと移動する。
「ん? どうした、レイン・エルハルト。教養のない顔が、さらに今日は優れないな?」
「誰のせいだ誰のっ!」
怒りで不調をねじ伏せたレインは、拳を堅く握りながらエルニアを睨み付けた。
そう、ペムペムを迎えに行く前から、そしてトレーニング中もゲリラ的にレインを襲撃した腹痛の原因は、エルニアがレインにと作った朝ごはんが原因だった。
「お前のわけの分からん飯のせいで、俺は朝から地獄を見たんだぞ!」
「わけのわからないとは何だ! 私の料理の腕は、料理長のマロに『もう教えることは何もない』と言わしめ、もう厨房に来る必要もないと免許皆伝を受ける程なのだぞ。感謝してしかるべきだろ」
「それは免許皆伝が出たんじゃなくて出禁を喰らったっていうんだよ!」
あまりに自信たっぷりに胸を張るエルニアに、レインがバシンッと机を叩きながら立ち上がる。あの地獄を味わったレインだからこそ分かる。ここでエルニアを止めなければ、今度は確実に殺される。
「ふっ、何を馬鹿なことを言っているのだ。レイン・エルハルト。私の料理の腕は、すでにアリカに匹敵すると言っても過言ではないのだぞ」
「それを本気で言ってるんなら、今すぐ保健室に行ってこい! お前の料理の腕なんか、アリカの足下にも及ばねぇよ! なぁ、アリカ」
「え、あ、えっと……」
口ごもるアリカが、申し訳なさそうな視線をエルニアに向ける。しかし、ゆるぎない自信で迷うことなく言葉を待つエルニアに、アリカはもじもじと指先を絡ませながら、慌ててその視線を下げた。
「その、私なんかまだまだで……。エルちゃんも、頑張ってたし……」
「ほら見ろ、アリカもこう言っているぞ! まったく、貴様の馬鹿舌には呆れて物も言えんな」
アリカの言葉に、エルニアがふふんっと得意げに鼻を鳴らしながら、満足げに頷く。
レインはそんなエルニアから視線を外すと、真摯な眼差しでアリカに語りかけた。
「なぁ、アリカ」
「ぅ、な、何かな? レイン君」
「お前の作る朝飯は本当に美味かった」
「え、え、えええぇぇ」
真面目な顔で褒められ、アリカがお風呂上がりのように顔を真っ赤にして、両手でその頬を抑える。おそらく、今までの彼女の生涯の中で、これほど嬉しい言葉はない。ふわふわと浮かぶような感覚が身体を包み込み、目の奥が熱くなる。
一言でアリカを夢心地にしたレインは、真摯な表情を崩さないまま、至極真面目な顔で、懇願するように続けた。
「だから言ってやれ。エルニアに。もう料理は作るなって」
「え、それは……」
紅潮していたアリカの頬から一気に熱が引き、今度は一転して表情が暗くなる。夢から現実に引き戻された彼女は、頬から降ろした手を小さく太股の上で重ねながら、良心の呵責の中で悲鳴を上げた。
レインの言っていることはもちろん分かる。なにせエルニアの料理の材料は、半分モンスター用の材料を使っているのだ。いや、実際に人間の料理にモンスター用の食材をアクセントとして加えることはあるのだが、エルニアの料理はその量が半端ではないのだ。包丁使いやフライパン捌きは器用にこなしていたのだが、あの材料選びでは全てが台無しになってしまう。
だが、「トレーニングで疲れているレインに精の付く物を食べさせてやらねば」と楽しそうに食材を選ぶエルニアに、アリカは何も言えなかった。あの時にちゃんと一声かけていれば、エルニアの料理もあそこまで酷くはならなかっただろうに。
エルニアの失敗を自分の失敗として受け止めてしまったアリカが、どちらの味方にもなれずにその小柄な身体を固くする。
前門のスライム後門のドラゴン。普通ならばスライムを打ち崩すべきだが、残念ながらアリカの前にいるスライムはドラゴンにすらケンカを売る胆力の持ち主だ。
あわやアリカがプレッシャーに耐えきれず涙を流しそうになった、その時。
「ぴぎぴぎぴぎぎぎぎ。ぴぅぃ~っぎ!」
「ん? んが!?」
ガゼットの腕の中から身を捻りだしたペムペムが、その勢い余ってレインの頭にぶつかっり、一緒になって長机の間に倒れ込んだ。
「レイン君!」
「おい、レイン・エルハルト。大丈夫か!?」
受け身も取れないまま倒れ込んだレインとペムペムに、エルニアとアリカがそれまでの緊張などすっかり忘れ、慌てて身を乗り出す。机の縁から覗きこむと、ペムペムの体当たりをまともに受けたレインが、背中を擦りながら何とか起き上がっていた。
「痛っっってぇ~~」
「あはははは、ごめんごめん。レイン。逃げられちゃった」
今の今まで完璧にペムペムを枕にしていたガゼットが、眼鏡を掛け直しながらレインの腕を掴み、その身体を引っ張り起こす。その最中、一瞬アリカと視線を合わせたガゼットは、レインとエルニアに気づかれないように軽くウインクをした。
――ガっちゃん、ありがとう
絶妙なタイミングで助け船を出した幼馴染に、アリカがこっそりと頭を下げる。
ガゼットはそんなアリカに軽く微笑むと、再び話題が元に戻らないように、それとなくレインに話を振った。
「そう言えばさ、レイン。今日じゃなかったけ」
「何がだ?」
「何がって……噂の転校生が来る日だよ。ほら、行く先々の学園で強い奴を見つけたら片っ端から勝負を仕掛けて、すぐにまた別の学園へ転校していくっていう噂の」
「あ、ああ~~。そうだっけ? いや、ああ、そうだったな。そうだった、そうだった」
「覚えてないならハッキリとそう言いなよ。本当に君はペムペムのトレーニング以外は頭にないんだね」
呆れる様にガゼットが溜息を零す。と、ちょうどその時、教室の扉が音を立てて開き、年30半ばほどの男性教諭、レインたちのクラスの担当であるデバン先生が現れた。
デバン先生の登場に、いや、正確にはその後ろに付いてきた一人の女子生徒の姿に、騒いでいた生徒たちが、まるで借りてきた《二尾猫》のように大人しくなる。
教壇に立ち、静まり返った生徒たちを面白そうに一瞥したデバン先生は、もったいつけるように軽く咳払いをすると、彼らが待ちに待った言葉を口にした。
「お前ら、喜べ。お待ちかねの転校生で、新しい仲間だ!」
まるで学生のようなテンションで、デバン先生が声高らかに叫ぶ。「おおー!」と沸き立つ生徒たちに満足そうに頷きながら、先生は「んじゃ、自己紹介頼むぞ」と、転校生の背中を軽く押した。
一歩、転校生がその足を前に進める。
生徒全員、そしてそのパートナーたちが新しく現れたライバルに注目する。
「えっ――と。こんにち、は。ジナ・レームライトです。どうぞ、よろしくお願いします」
のんびりとした独特のテンポで話すその少女、ジナは、実にゆっくりと頭を下げると、同じくらいゆっくりとしたペースでその小さな頭を持ち上げた。
深い栗色の瞳に、瞳の色を柔水で薄めたかのような褐色の肌。垢抜けていない純朴な顔立ちは特別美少女というわけではなかったが、彼女の動きに合わせて揺れる白銀の髪に生徒たちは目を奪われた。
まるで高尚な銀細工のような銀色の髪が、彼女の一動作に合わせて静かに揺れる。腰元までの伸ばされたその髪は、銀幕の様に彼女の身体を包み込んでいた。
ジナを見守る生徒たちが、彼女の次の言葉を待つ。
そう。生徒たちにとって、ジナを推し量るために最も重要な情報が、まだ彼女の口から明かされていなかった。
「あ、そうそう。忘れてました。えっと――、私の紋章は……」
生徒たちの無言の重圧に気が付いたのか、それとも本当に忘れていたのか、ジナがぽんと手を叩き、その片手を生徒たちに掲げるように持ち上げる。
だが、その掌が生徒たちに向けられる前に――
「ぴゅぎ!」
ジナの後ろ髪が突然盛り上がり、その銀幕の中から飛び出したピンク色のモンスターが、生徒たちの前に躍り出た。
ぽよんっと音を立てて、壇上に飛び出したモンスターが生徒たちを睨み付ける。
まるで、ジナを守るように飛び出した、彼女のパートナー。
そのモンスターとは――
「「「スライム!?」」」
世界最弱の名を欲しいままにするスライムだった。
「ぴゅぎゅい!」
生徒たちの驚きの声に、壇上に飛び出したピンク色のスライムが声高らかに鳴き、スライムにしては珍しく自信満々にふんぞり返る。
そんなパートナーをちらりと見たジナは後ろ髪を不自然に盛り上げたまま、何事なかったかのように生徒たちへ自分のパートナーを紹介した。
「ご紹介が、遅れました。私のパートナー、《ノーマルスライム》のルルです。ちょっと生意気だけど、実はいい子です。どうぞ、よろしくお願いします」
銀髪を揺らしながら再び頭を下げるジナの横で、彼女のパートナー、ルルがこれ見よがしに踏ん反り返る。
普通の学園ならば、あるいはジナが転校してきたのが別のクラスならば、とめどない笑いが巻き起こっただろう。
だが、幸か不幸か、ジナが転校してきたのはこの学園唯一のスライムトレーナーの在籍する教室だった。
嘲笑でもない、歓迎でもない微妙な雰囲気に、ジナが不思議そうにその首を傾げる。それは、教壇で生徒たちを威嚇するように睨み付けていたルルも同じだ。幾度も転校を経験したジナたちにとって、生徒たちの反応は初めてのものだった。
「えーっと、どうしたので、しょうか?」
ジナが困ったように質問する。
その質問に、生徒たちは応えることなく、まるで示し合わせたかのようにその視線を移動させた。
まるで、今にもジナに勝負を挑みそうな、興奮した面持ちで腰を浮かせるレインへと。
「ん?」
生徒たちの視線に促されるように、ジナの視線がレインへと流れる。
レインの肩には、もちろん彼のパートナーであるペムペムが乗っていた。
レインとジナ。二人のスライムトレーナー視線が空中で絡み合う。
無言の問答。レインとジナがその視線の中で何を語り合ったのか、ジナがレインの双眸の中に何を感じ取ったのか、それは誰にもわからない。
「ルル」
先に沈黙を破ったのはジナだった。レインから視線を切ったジナが、パートナーの名を呼ぶ。ジナに名前を呼ばれたルルは、そのゼリー状の身体を撓めかせると、軽い反動をつけてジナの肩へと跳ね上がった。
ふと、思い出したようにジナが傍らにいたデバン先生に目くばせをする。
ジナの言いたいことを敏感に感じ取った先生は、グッと親指を立てると、にこやかな笑顔を浮かべて言った。
「生徒同士の交流は大歓迎だ。行って来い」
「ありがとう、ございます」
デバン先生に小さく頭を下げたジナが、ゆっくりと、ただし迷いなく、窓際から壇上になった生徒席の階段を上る。
銀髪を緩やかに揺らしながらレインの隣に来たジナは、懇切丁寧にその頭を下げた。
「はじめ、まして。ジナ・ルークライト、です。どうぞ、よろしくお願いします」
ふわりと広がった銀髪の隙間を、窓から差し込む朝日が潜り抜ける。銀糸のような髪が煌めき、褐色の肌を包み込む。その肩にスライムを乗せていなければ、まるで一枚の絵画のようだ。
「レイン・エルハルトだ。こちらこそ、はじめまして」
ジナの挨拶に、レインは口元に好戦的な笑みを浮かべながら答えた。
抑揚の少ない話し方をするジナは表情が少ない。だが、レインと相対するその表情には、どこか待ち焦がれた相手を見つけたかのような、小さな笑みが浮かんでいた。
ともすればその変化を見逃してしまいそうな笑みを浮かべながら、ジナが肩に乗ったルルを指さす。
「パートナーのルルです」
「ぴゅぎ」
「ペムペムだ」
「ぴぎ」
名を呼ばれたルルとペムペムが、それぞれの主の肩から机の上に飛び降りる。
「ぴぎぃ、ぴぎ、ぴぎぎ」
久しぶりに同族に合えて嬉しかったのだろう。ペムペムは声を弾ませながらルルへと近寄り、
「ぴぎぎぎぃぃいぎいぎぃ!?」
頭からがぶりとルルに噛みつかれ、教室全体に聞こえるような悲鳴を張り上げた。
「ぴぎぎぎぎ、ぴぎ、ぴぎぎぎぎぎっぎぎぎ!」
「ぴゅぎぃいいいいいい!」
「ぴぎー! ぴぎぎぎぎ! ぴ、ぴぎぃー!」
ルルに噛みつかれたペムペムが、その愛くるしい目に大粒の涙を溜めながら机の上を跳ね回る。しかし、いったい何がそんなに気に入らないのか、ペムペムの頭に噛みついたルルはいっこうに離れる気配を見せない。スライムの口には牙などないはずなのだが、ルルはペムペムがどんなに跳ね回ろうとも、その口を開こうとしなかった。
散々跳ね回ったペムペムが、助けてと言わんばかりに涙目になりながらレインを見上げる。
「えっと、悪い。あんまりうちのペムペムを苛めないでくれるか?」
「ごめん、なさい。でも、ルルはとてもいい子です」
そこだけは何が何でも譲れないのか、ジナが小さく胸を張って少し自慢げに主張する。ガジガジガジとペムペムに噛みついて全く離れようとしないルルに「いい子」という言葉は若干納得できないものがあったが、レインの興味はとっくに別のところにあった。
「それで、俺に何か用なのか?」
「え、あ、はい。それではですね」
一拍置いたジナは、丁寧な動作でレインに手を差し伸べると、迷いのない口調で言った。
「ちょっと、私と、戦っていただけないでしょうか?」
それは掛け値なしの挑戦状。
世界最弱のスライムの魔獣錬磨師から、同じく世界最弱のスライムの魔獣錬磨師への挑戦状。
「ちょっと待て! 貴様、誰に断わって……」
「エルニアーっ!」
溜まらずに腰を浮かせたエルニアを、レインの鋭い声が抑え込む。その声に込められた気迫に、突き付けられた視線に、彼女は前かがみになった姿勢のまま、ぴたりとその動きを止めた。
レインは笑っていた。
ジナを嘲笑しているのではない。ましては、こんな自分にという自嘲でもない。
レインの肩は抑えきれない興奮に震えていた。
自分以外のスライムトレーナーに出会えたこと。そして、そんなスライムトレーナーが自分に対して勝負を申し出てきたという現状に、レインは震えずにはいられなかった。
レインがゆっくりと立ち上がり、差し出された手を取る。
その小さな手は、レインを推し量るかのように、彼の手をしっかりと握り返した。
「いいぜ。やろう! なぁ、デバン先生。いいだろ?」
レインの声が、教室で弾ける。
その声を待っていたかのように、何やら教室の黒板でチョークを躍らせていたデバン先生は、バンッと音を立てて黒板を叩いた。
「生徒同士の交流は大歓迎だ! 行って来い!」
デバン先生が叩いた黒板には『一限目は自習』の文字が、でかでかと刻み込まれていた。