吾輩は首長竜である。
名前はまだない。
胴に当たる部分が欠落している不完全な体と朦朧とした意識、そして『完成』するという本能を携えて今日この場所へやってきた。
とはいっても、この場所のことは吾輩よくわかっておらん。分かっているのは、この濁った『おーろら』のようなものに包まれた景観のねじくれた場所が、吾輩が――吾輩たちが完成するのに避けては通れん道であるということだけだ。
吾輩はそれを本能的に知っている。
しかし――それを邪魔する者がいるというのは、ここへきて初めて知ったのだが。
「はっ……はぁっ……!」
破壊された町並みの中、吾輩を見上げる生き物。
それは、吾輩から見れば酷く小さな生き物だった。
青みがかった黒い毛を頭部から生やし、白を基調とした衣装を身に纏う、二足歩行の生物――そして吾輩と違って、全てを備えた完全なる体。
初めて見たその生物のことを、しかし吾輩は知っている。
あれは、吾輩たちを生み出した母にして神にも等しい生物――人間であるということを。
とはいえ、神とは絶対的な力を持つもののことを指す。その点、あの人間は神には到底及ばんだろう。
吾輩の攻撃を避けるので手一杯、それも回避したところで、体を投げ出すような方法ゆえに、細かい傷は数え切れない。
しかしこの人間、なぜここまで粘るのか――先ほど逃げた三人のように、さっさと逃げてしまえばいいものを。
吾輩の最優先事項は完成することであって戦うことではない。逃げる敵の背中を追うほど、吾輩暇ではないのである。
しかし向かってくるというなら、安易に背を向けることなどできはしない――こやつらには、吾輩と同じように知性がある。それは時として、研ぎ澄ませた刃よりも鋭く敵を抉るものだ。
つまり、この人間は排除しなくてはならない。
吾輩は人間を打ち倒すべく、骨のような翼を広げた。
◆◆◆
――骨みたいな翼が来る!
すだれの様に垂れ下がってる、翼竜の翼から肉をすべて削ぎ落としたような骨の翼が、触手のように蠢きだした。あたしに狙いを定めて、それらが一斉に素早く伸びてくる。
あたしはその動きを見落とさないように目を見張り、着弾地点を予想して後ろに跳びはねる。これで、距離は稼げたはず……っ!
ほどなくして前方から真っ赤な閃光――そして、しゅぉっ! と水が蒸発するような音がした。
首長竜の攻撃の余波に顔をしかめながらも、その攻撃の跡にぞっとする――翼が着弾した場所を中心として、直径三メートルほどの範囲が、黒煙を吹きあげる焦土と化していた。
超が付くほどの強烈な熱波――あたしが喰らえば、致命傷どころか即死確定だ。
幸い、範囲がやや狭いからあたしでもまだ生きのびてられてるけど――この化物相手に、それもいつまで続くか……。
ネッシーみたいな首長竜に、骨のような翼をくっつけた怪物。体長は約十メートル――ただし、生物として明らかに不自然な場所がある。
首の付け根、翼の付け根、そして鰭の付け根に無くてはいけない胴体が、あの怪物には存在しない――それだけじゃなく、体の部分部分が薄い。色、厚み、両方の面で。水墨画に水を垂らしたようにぼやけた輪郭が、かろうじて首長竜の全形を示している。
生物ではありえない体の構造を持つ、異次元ならぬ『二次元』より襲来する怪物。
人の想像力の成れの果て。
その名は『グラフ』。
この異空間――災厄の卵などとも呼ばれる『セカンドハーフ』を通り、三次元へ向かうことで完成しようと暴れまわる怪物たち。
……っていっても、こんなあからさまな怪物とぶつかるなんて……あたしのグラフィティじゃ太刀打ちなんて出来ないし……!
もっと、強い力があったなら。心の底からそう思う。
ほんっとにもう、
「ついてないよ……っ!」
呻くような呟きがあたしの口から漏れた。同時、再び首長竜の翼が蠢き、あたしを狙って伸びてくる。
さっきと同じだ。着弾点を予想して、思いっきりバックステップ。
ごろごろと地面を無様に転がるけど、死んじゃうよりはいい。
直後に蒸発音――顔を上げると、やはりそこには焦土が出来上がっていた。
もしも巻き込まれたら――そう思うと、つぅっ、と汗が頬を撫でた。
次の瞬間。
ぼこっ、と言う音と共に、あたしの目の前に何かが現れた。
「――――っ!?」
声にならない悲鳴を上げる。あたしの目の前に現れたそれは、首長竜の翼だったからだ。
視線を下にずらす。コンクリートを突き抜けて骨のような翼が生えていた。まさか――地面を通って!?
あたしが状況を理解すると同時に、翼の先端が光り始める。さっきから何度も見ているこの現象は、首長竜の熱波放射の前兆。
このタイミングじゃ、逃げられない――!
暖簾に腕押しとは思いつつも、地面を蹴って体を投げ出しながら、あたしは苦し紛れに自らのグラフィティを使用する。
睨みつけた瓦礫が、ほんのちょっと、翼へ向かって飛んだ。
その距離――たったの、三センチ。
あたしのグラフィティじゃ、攻撃を届けることすらできない……っ!
もちろん、首長竜がそれで止まってくれるはずもなく。
あたしの抵抗も意に介さず、首長竜は熱波を放射した。
そして、あたしは、死――
発光を強めた翼の眩しさに、思わず目を閉じるその直前。
銀色に閃いた何かが、あたしと翼の間に割って入って――何かと思う間もなく、体を抱き上げられる感覚。少し離れた場所から、蒸発音が耳に届いた。
一体、何が起きたの? あたしはゆっくりと、閉じた瞼を開いていく。
「……ふぃー。間に合ったか……にしても、防げるもんだな」
「え、……っ!?」
あたしを抱えて、恐らくさっきまであたしがいたであろう場所を見てそう呟いたのは、予想もしなかった人物だった。
だって、この人は――
「悪いな、いきなり抱えちまって。大丈夫か?」
そう訊ねてくるけど、あたしは驚愕に頷くことしかできない。
「ほんとに大丈夫かよ……よっと」
両手に持った剣の刀身に触れないようにゆっくりと下ろしてくれたけど、どうやらあたしは腰が抜けていたらしい。体が言うことを聞かずにその場でへたり込んでしまった。
「ダメじゃねーか……ああ、いや、まあいいか」
そう言って、白いコートの裾を翻し――彼は、右手に日本刀、左手にレイピアを握り、首長竜へと構えた。加えて背後には、付き従うように四本の剣が浮いている。その後姿を見て、あたしが感じたのは、首長竜どころじゃない圧倒的な威圧感。
「しばらく、そこでへたり込んでろ――すぐ終わらす」
言った瞬間、銀色の軌跡だけを残して、彼の姿が消え失せた。
――余談ではあるんだけど、ここから首長竜までの距離は約三十メートルある。
だというのに。
「……ぅぇっ?」
あんまりにあんまりなその光景に、喉の奥から変な声が出た。
白いコートが、離れた首長竜の背後に現れたその直後。
いつの間にか斬られていたらしい首長竜の首が、ずるりと地面に落ちたから。
◆◆◆
瞬迅剣――特に銘があるわけじゃないけど、今握っているこの日本刀のことを俺はそう呼んでいる。俺のグラフィティの能力の一端だ。超高速移動に伴う居合の斬撃。刃の届く範囲に入ったものを端から斬り捨てる滅茶苦茶な刀。
三十メートルの距離を一瞬で詰めて、首を斬り落とすぐらいわけはない。
……っていっても、グラフって連中は首落としたぐらいじゃくたばってくれないんだよな……事実、落とした首の眼球が、ぎょろりと動いて俺を睨む。
「ま、今回は封印班も置いてきたし」
ちゃき、と日本刀を構え、反対の手で細身の刀身を持つレイピアを握る。
どう見ても打ち合いに向かないこのレイピアの名前は結界剣。文字通り、振るった軌跡から透明の防壁を出現させる防御の剣だ。
「撃退しちまおう」
余計な行動を取られる前に、俺は足を踏み出し、距離を詰め、斬る。ヒレを斬ったと同時に地面を踏みつけ、今度は斜め上の翼を狙う。すれ違いざまに斬りつけた直後に、宙へ向けてレイピアを振るう。その軌跡から半透明の壁が現れ、それを足場にして、今度は斜め下へ跳ぶ。そしてすれ違いざまに斬りつけ、足場に結界を作って次の場所へ――
縦横無尽に跳びはねる俺の動きに、首長竜が付いてこられるはずもないし――全身から熱波を放つ機会も与えない。
ゴリ押しとも取れるけど、これが一番手っ取り早い。あんまりこれを繰り返すと、ちょっと酔いそうになるけど。
程なくして、首長竜の鰭と骨みたいな翼、切断した頭から下の首が、無数の斬撃によって細切れになった。ちなみにこの間、約二秒。翼なんかぶつ切りにしたそうめんみてーになってる。マズそうだ。
そう思っていると――動きを止めた俺の目の前に、ぼこっ、と翼が地面から生えてきた。ありゃ、まだ翼残ってたのか。失敗した。
「けど、その手はさっき見た」
呟く間にも刀が閃き、あっという間に微塵になる。
が、次の瞬間――俺を取り囲むように、そこかしこからぼここっ、という音がする。
そう来たか、と俺は内心舌を巻く。一本目はフェイントで、俺を包囲するこの六本が本命。しかも既にほぼ発光してやがる。……案外斬れてないもんだな、と少し反省。
化物じみた外見してるけど、こいつにはどうやら、それなりに知能があるらしいことは分かった。
確かに、振り向きざまに斬れるほど近くはないし、数も多い。かと言って、高速移動で逃げようにも包囲されてるから逃げ場もない。
なるほど、詰んだな。
相手が俺でさえなければ、な。
「さっき見たっつっただろ」
左手に握ったレイピア。それを地面へ、俺の周りに円を描くように斬りつける。
赤い光が俺の視界を塗りつぶしたのと、振るったレイピアの軌跡から、無色の防壁が現れたのは同時だった。
さっきは距離を取ったけど、その必要がなかったことを俺は確認している。
十中八九防げるだろうとは思ってたけど、あの時は女子もいたからな……万が一、結界透過みたいな特性を持ってたらまずかったし。
初見の攻撃を結界だけで絶対に防げると思うほど、俺は自信満々じゃない。
俺を囲った透明な壁が、灼熱の波を遮断する。そして結界を解除、瞬迅剣で周囲の翼を根こそぎ切り刻み――未だに茫然としている女子の近くへ戻った。
「――来たな」
あちらもこちらも切り刻まれ、落ちた首を除く体の全てがぼやけた輪郭のみになったことで、奴の背後から音もなく近づく、汚れた虹色みたいな楕円。
『窓』と俺たちは呼んでいる――物理的にも能力的にも触れることができない、何か。
とりあえず分かっているのは、あれはグラフがセカンドハーフへやってくるための入り口であると同時に、奴らを二次元側へ強制送還させるためのレッドカードでもあること。
グラフがダメージを受けるにしたがって、窓はグラフへと近づくこと。
そして――
「終わらせるか」
両手に握っていた剣を手放す。浮遊したそれらは背後の剣の輪へ加わる。そして伸ばした右手に、別の剣を掴んだ。短い柄に、幅広で薄い刀身を持つ片刃の剣。ゲームなどでよく見る中国刀――正しくは柳葉刀らしいけど――のようなその剣を、振りかぶる。
この剣の名は飛翔剣。
まあ、それだけでどんな能力を持っているのかは大体予想がつくだろう。
――話は戻すけど、グラフがダメージの限界に達した場合、一体窓はどうなるのか。
こうなる。
俺は、頭めがけて、右手の剣を振り下ろした。
振るった剣の軌跡が、淡い光を伴って――飛んだ。
◆◆◆
吾輩の首へ迫る、三日月のような何か――おそらくは、斬撃を飛ばしたのだろう。
……やれやれ、今回は駄目だったか。
まあいい、吾輩にはまだ次がある。ここで消されるということは、向こう側へ押し返されるというだけのこと。また、必ず現れる。
しかし、あの後から現れたほうの人間――力は青毛の人間とは比べ物にならんな。あれこそまさに、神と呼んでも差支えないのではないか。
あれに比べれば青毛の人間は蟻のようなものだ――いや、蟻は言い過ぎか? せめて鼠にしておいてやろう。どのみち雲泥の差には違いないが。
三日月が、吾輩の頭を真っ二つにした。
背後より迫っていた楕円の『口』が、『だめーじ』の限界を察して吾輩の体を呑み込んだ。
向こう側へ引きずり戻される感覚。
混濁する意識の中、たとえ神が相手でも牙を剥こう、と吾輩自信を奮い立たせる。
完成するためならば、何度でも。
◆◆◆
首長竜があっという間に撃退されてしまった。
にわかには信じがたい光景を、口を開けてぽかんと見ていると、彼は握っていた中国刀と背後に浮かぶ五本の剣を消して、白いコートの裾を翻し、
「おーい、大丈夫かー?」
そう声をかけて、未だにへたり込んだままのあたしに手を差し伸べてくれた。余裕すら感じさせるその笑顔が、今のあたしにはちょっと辛い。
「……大、丈夫です」
手を掴んで立ち上がらせてもらい、助けてもらったのだから、と続きを口にする。
「あの、ありがとう……ございます。だけど、なんで……?」
「なんでってそりゃ、SOS入ったからな。先に出てきた奴らから」
なるほど、と納得したのが半分。あの三人、あたしを見捨てたくせにSOSは出してくれたんだ。それには素直に感謝したけど、だからと言って許すつもりにもなれなかった。
というか、あたしが訊きたいのはそう言うことじゃなくて。
「いや、その……なんで、笹宮室長がここにいるんですか?」
「……あ、やっぱ知ってるんだ、俺のこと」
照れたように頭を掻きながら、この人は何を言いだすのだろうか。自分の立場、分かってないのかな?
――ホワイトキャンバス防衛室『室長』、笹宮銀(ささみやしろがね)。
いま組織全体でも四人しかいない、特級イレイザーの一角を担う人物。
正式にイレイザーになってから、たったの三日でその座を任されたというエピソードも含めて、あなたの名前を知らない人なんて、きっと一人だっていやしないのに。
「まあ、なんでって言われると、俺が動くのが一番早そうだったからかな。実際、結構危ないトコだったじゃん」
「それは……そう、ですけど」
ちら、とあたしの制服の胸章を見て、へえ、と彼は感心したように声を上げた。
「逆に、よく凌いだもんだ。まだ三級だってのに……将来有望だな」
まだ三級。
将来有望。
その言葉が、あたしの胸にグサリと刺さる。
正式にイレイザーになってから二か月が経った今でも、最底辺の三級のあたしにとって、そんなに辛い言葉はない。
「……っ」
思わず泣きそうになり、あたしは足早にその場を後にする。
「あ、おい?」
室長の言葉に返事もできず、あたしは逃げた。
あたしにできたことなんて、瓦礫を三センチ動かしただけ。しかも首長竜に届きもしなかった。それに引き換え、笹宮室長はあっという間にあの首長竜を押し返してしまった。
比べれば比べるほどに、あたしが惨めになっていく。
あたしにも、あんな強い力があったら、もう少し堂々としていられたのかな――なんて。
『物質を三センチ動かすだけ』というどうしようもないグラフィティを得たあたしなんかは、そう思ってしまうのを止められなかった。
◆◆◆
「んー……なんかまずいこと言っちまったかな」
サイドテールを揺らしながら、逃げるように歩き去ってしまった彼女を見て、残された俺は反省した。褒めたつもりだったんだけど、何かが琴線に触れちまったのかもしれない。
「……ま、それは仕方がないにしても」
視線を、さっき首長竜の頭があった場所へ向ける。とどめの一撃、首長竜を斬るにとどまらず、後ろにまで飛んだその結果。地面には、落ちれば怪我じゃ済まないレベルの深い深い溝が刻まれていた。
ただ一撃の斬撃で、これである。
「……やっぱ強すぎるよなぁ、このグラフィティ」
内心げっそりしながら俺は呟いた。いやまあ強力なのはいいんだけど……なぁ。
正直、もっと弱い力が欲しかった。
……ってのがどんだけ罰当たりなのかは分かってるつもりだけど、それでもため息つかずにはいられなかった。
もっとこう、弱い力をうまく使って大逆転! みたいなのがやりたかったんだけど……と、言ったところで周りに理解されないのは訓練生時代に経験済みだから口には出さない。
口には出せない。
「はぁーあ……」
まあ、今はあの首長竜を完成させずに済んでよかったと纏めておこうか。
「……この惨状を、外に持ち出すわけにはいかないもんなあ……」
町があったであろう場所を眺める。
建物はほとんどが瓦解し、首長竜の放っていた熱波でそこかしこから火の手と黒煙が立ち上っている。こうして眺めている今でも、あちらこちらから建物の焼け崩れる音が聞こえてくる。
見渡す限りが揺らめく赤と蠢く黒で埋め尽くされるその光景に背を向けて。
「ここが三次元だったらと思うと、ぞっとするな。次元災害とはよく言ったもんだ」
二・五次元の世界(セカンドハーフ)から抜け出すべく、俺は先に出て行った彼女を追――
「……っ!」
閃いた。
俺の中で、過去最高と言っても差支えない名案が。
「そうか――そうだよ。この際、俺じゃなくてもいいんだ」
にやりと、その内容に独り笑いを浮かべる。
「じゃあ、まずは支部に戻って調べないとな……」
心の内から湧き上がるわくわくと、高ぶったテンションを押さえきれずに、俺は小走りにサイドテールの女子を追う。
ちょうどその時、セカンドハーフに限界が来たらしく、濁ったオーロラのようなドームが消滅。そして背後で、何事もなかったかのような、破壊される前の町並みが――三次元の世界が現れた。
けど、俺の関心はそんな当然のことにもはや向いてなかった。
――さぁ、面白くなってきたぞ?
四年前の七月七日、日本に大きな異変が起こった。
日本全国八か所――秋田・埼玉・富山・滋賀・和歌山・鳥取・愛媛・鹿児島の上空に、濁ったオーロラのような外観を持つ巨大な球体が現れ、それらが徐々に降下を始めるという事態が発生した。
けど、球体が落下してもすり抜けただけで、町や人に被害はなかった。人々は喜ぶ以前に、その理解不能な状況に混乱していた。
その混乱が収まる間もなく、さらなる事態が人々を襲う。
地上で、ドーム状にとどまった異空間の内部に、のっぺりとした影のようなものが現れた。街を壊しながら動くそれは、こちらへ近づくにしたがってだんだんと、立体化していくように厚みを増していく。
その事態を伝えようとした数人の勇気ある人物が、異空間の中へと脚を踏み入れるも――彼らは驚愕に脚を止めることになった。
異空間の中に、影はおろか、街への被害も見受けられなかったのだ。
錯覚だったかと外へ出て確認すると、依然として影は中で暴れていた。
人々が混乱を極める中、その怪物たちは、とうとうこちら側へと脚を踏み出した。
ある場所では王冠の中心に浮かぶ杖。ある場所では異形の修道女。ある場所では無数の武器を携える蜘蛛。
どれもが生物としてあり得ない、欠落部位と異形を持つ化物――のちにグラフと呼ばれる怪物が、初めて日本に出現した。
そして始まる、グラフたちの大侵攻。
当然自衛隊も出動したけど、各々に特異な能力を持つグラフに兵器は大して効果を発揮せず、むしろ返り討ちに遭って被害は拡大する一方だった。
唯一――和歌山県を、除いては。
和歌山県に現れたグラフがとんでもない気まぐれを起こし、最初に目を付けた少年に――つまり、人類に味方したのだ。
そのグラフは少年にグラフとの戦い方、グラフを封印する方法などを教え、アドバイスに従って少年は死ぬ気で戦った。
結果、他の七体のグラフを封印または撃滅し、一端被害を食い止めることに成功した。
その意味不明・原因不明の大災厄から約半年が経ち。
あの七月七日を境に、各地で発生し始めた異空間――通称セカンドハーフに対策するための組織が、日本を救った英雄とまで祭り上げられた少年と、その周りの人物たちの手によって創立された。
その名も、次元狭界管理機構。
ホワイトキャンバス。
――その設立から、さらに四年ちょっと。
ほとんどのセカンドハーフがグラフ出現の前に消されるようになり、人々はセカンドハーフが発生しても慌てない程度には、脅威を感じなくなっていた――
◇◇◇
ホワイトキャンバス富山支部は、呉羽山の隅っこに建っている。
ここはかつて県立図書館だった建物らしいけど、四年半前のグラフの大侵攻により半壊。とても図書館としては機能しなくなって廃棄されたのを、ホワイトキャンバスが買い取って修繕、増築し――今に至る。
ちょっときつめの坂を上ったところに、でーんと構える屋根の平たい大きな建物。その解放されてる屋上に、あたしは一人で佇んでいた。
「あ、いたいた。やっと見つけたよ、琴ちゃん」
そう呼ばれて、あたしはぎくりと身を強張らせて――観念と覚悟を決めて、ゆっくり後ろを振り向いた。
口原琴音という名前のあたしのことを、口原でもなければ琴音でもない、琴ちゃんと呼ぶのはいまのところチームメイトである彼女しかいない。
「……新奈。こんなところまで何しに来たの」
「それはこっちのセリフだよ? こんな寒い場所にいたら風邪ひいちゃうよ」
富山県の冬は確かに冷え込む。今は十二月に差し掛かってて、吐く息がもう既に白い。解放されてる屋上に、他に人がいないのも納得だ。まだ雪は降ってないけど、いつ降ってもおかしくないぐらい、空には灰色の雲が立ち込めてる。まだ昼前なのに、景色は随分と暗かった。
まああたしの心情的に、暗く見えるってだけかもしれないけどね。
「あはは、そうかもね」
心の限り笑って返したつもりだったけど、思ったよりも笑い声が乾いていたので、正直ちょっと引きつった。吹き付ける冷たい風の方が、まだ湿気を帯びてるかもしれない。
あたしが引きつった笑みを浮かべた先にいたのは、親友である平上新奈。同期の第七期生で、年も同じ十六。高校生なら一年生だ。訓練中に知り合って、特に劇的なことがあったわけでもないけど、よく話すようになった。馬が合うのかな。
ふわっふわの栗色の髪と、のほほんとした愛らしい表情。
白を基調とした女子統一のジャケットは、あたしと違って胸元がふっくらしてる。…………。さておき。胸章の数字は『Ⅱ』――イレイザーの大半を占める、二級イレイザーを示す数字だ。下に履いてるのは、膝丈のスカート。女子はスカートの長さを選択できるから、ここは人によって個性が出るところだと思う。
ちなみにあたしは機動性重視でミニスカート。ただパンツを見られると恥ずかしいから、下にスパッツも履いている。
一度風が二人の間を通り抜け、新奈が再び口を開く。
「で、琴ちゃんは大丈夫なの? わたし、すっごく心配したんだけど」
世間話もそこそこに、新奈は本題を切りだしてきた。
――チームメイトである新奈たちに黙って、他のチームと一緒にセカンドハーフに行き、強力なグラフに追い詰められた挙句、笹宮室長に助けられたのが昨日の話。
多分、これで逃げられたらたまらないと思ってるんだろうな。……もっとも、あたしの自業自得だと思うけど。だって……。
「琴ちゃん、さすがに酷いと思わない? 部屋に行っても居留守を使うし、メールしても帰ってこないし、電話しても出てくれないし。別に怒ってるわけじゃなくて心配してるんだから、声ぐらい聞かせてくれもいいでしょ?」
怒ってるやばい怒ってる……!
笑ってるけど目が笑ってないって言う典型的なキレモードだ。……だって気まずかったんだもん……。
剣幕に押されて思わず視線をそらして呟いた。
「……ごめん」
「謝られても」
その先は言わなかった。ただ、「仕方ないよ」と言外に聞こえた気がした。
「で、怪我とかはないの?」
「……ん。かすり傷とか、ちょっとすりむいたのばっかりだから」
脚にはちょいちょい絆創膏が目立つけど、それだけで済んだ。
「そっか。じゃあ安心したよ」
先ほどまでとは違う、本当に安心したような笑みを浮かべる新奈。裏切りに等しい行為をしたにも関わらず、ただ心配してくれている親友に、少なからず罪悪感を覚えた。
「わたしだけじゃなくて、壱彦くんも心配してたよ? 後で顔見せにいかないとね」
「……ん、そうだね」
昨日セカンドハーフに勝手に行った理由とかについて、それ以上を追求しないのは、多分新奈の優しさだ。あるいは、新奈なら察しはついてて、敢えて触れないだけかもしれない。いずれにせよ、ありがたい話ではあった。
かちゃり、とドアが開く音。二人で視線を屋上の入り口に向けると、よく知る顔がそこにいた。
「お、やっと見つけたぞ、口原」
噂をすればなんとやら、というけど。
あたしを見つけて歩いてきたのは、髪を短く刈り上げた、背の高い少年……青年の方がしっくりくる気もするけど、年齢的には少年のはず。あたしたちの二歳上だから、高校三年の年で第三期生。この人もあたしのチームメイト……というか、リーダーだ。
肩幅があって、筋肉で引き締まった体つき。何を考えてるのか、この寒空の下、制服であるジャケットの袖を肘まで曲げているにも関わらず顔色一つ変えないツワモノ。
胸章には『Ⅰ』の数字。
全国に現在約三千人いる防衛室の戦闘員――イレイザーの中でも、百人ちょっとしかいないと言われる精鋭、一級イレイザーを示す数字。
飛鳥壱彦。あたしたちのチームのリーダーだ。
「壱彦先輩まで……」
「壱彦くん、お疲れ―。わざわざどうしたの?」
「どうしたもこうしたも――口原探してあちこち駆けずり回ってたんだよ。つうか新奈ちゃんも一緒だったのか。連絡してくれりゃよかったのによ」
「ごめんごめん、わたしも見つけたのついさっきなんだー」
にへらと笑う新奈と、じゃあ仕方ないと納得した壱彦先輩。この二人、実家が隣同士の幼馴染なのだとか。新奈の姉と三人で、よく遊んでいたらしい。
「つうか、なにもこんな寒いところで話込まんでも……体冷やすぞ?」
「そう思うなら壱彦くんから服着てよ」
全くの同感だった。驚くほど説得力ないよね。
「? 俺は平気だが」
「見てるこっちが寒いって言ってるんだけどなぁ」
新奈が、言わせないでよ察してよと言わんばかりの呆れた目で壱彦先輩を見る。
「壱彦くんって頼りになるし信頼もしてるけど、そういう馬鹿なところが玉に瑕だよね」
吐いた。新奈が毒吐いた。
新奈って優しいし、常識をわきまえてもいるんだけど、笑ったまんまで時々刺さるようなこというのが玉に瑕だよ……。
「お、おぅ……昔っからたまにキツイよな、新奈ちゃんって」
幼馴染の壱彦先輩は多少の耐性があるらしく、冷や汗一つかいただけでなんとか流した。……馬鹿なのは否定しないんだ……。
壱彦先輩は逃げるように屋上入口を指して、
「ともかく、話するなら中の方がいいだろ。エントランス行こうぜ」
と提案した。それには、全面賛成だった。
先に歩き出した壱彦先輩を追うように新奈も歩きだし、あたしもそれについていく。
ふと、自分の胸章が目についた。そして、思わず呟いてしまう。
「……こんなはずじゃなかったのになあ……」
ぽつりと呟いたあたしの言葉が聞こえたのか、複雑そうな表情で新奈がちらりとこちらを見たけど――聞こえなかったことにしたらしく、前を見て階段を下りはじめる。
その優しさは、ありがたいけどちょっと辛い。
――あたしの胸章の数字は、『Ⅲ』。
イレイザーのランクでも一番下――三級イレイザーを示す数字だった。
◇◇◇
ホワイトキャンバスでは、半年に一度団員を募集している。イレイザー、研究者、技術者、受付とかまで一緒くたに。
入団する先それぞれに研修期間みたいなものはあるけど、やっぱり一番大変なのは、あの災厄に真っ向から立ち向かうことになるイレイザー志望の団員だと思う。
イレイザー志望の団員は、入団してから半年間の訓練期間を課せられる。体を鍛えるのはもちろん、グラフに関する知識、戦い方なども教わるためだ。
あの怪物たちと命を懸けて戦うんだから、当然生半可な訓練じゃない。面白そうって理由で来た人たちは、大半が途中で諦めるぐらいだ。
その半年間を乗り越えてようやく、グラフと戦うための能力――『グラフィティ』を手にする資格が与えられる。これを手に入れて、ようやくホワイトキャンバスの正式な戦士――イレイザーとして認められるのだ。
半年間の訓練期間を修め、激励の挨拶が終わった後、志望者はとある部屋に通される。
ホワイトキャンバスの部署と部屋を兼ねてるややこしい名称――禁書管理室、略して通称、禁理室。
文字通り、『禁書』と呼ばれる書物を保管しておく部屋だ。
禁書とは、とある方法によりグラフを本の中に封じた物のことを指す。
これを手に取ることで、人間はグラフに対抗するためのグラフの力――グラフィティを使用することができるようになる。
ただ、その特殊な封印方法ゆえか、どんな能力が手に入るか、究極的には分からない。もしかすると変なグラフィティが、もしかすると飛びぬけて強いグラフィティが、手に入る可能性もあるということだ。
要するに、ほとんど運頼みということだ。運だけ、って言うわけでもないけれど。
禁理室に入ると、自分を呼ぶ声のようなものを感じる。
それは中にグラフが封じられてる影響なのかもしれないけど――禁理室に入る直前にも言われた。
――自分を呼んでいる禁書を手に取ればいい、と。
その通りにした結果――訓練成績首位の最優秀訓練生の座まで上り詰めたにも関わらず、手に入れたグラフィティがよわすぎて、正式にイレイザーになってから二か月が経った今でも三級イレイザーのままで、期待外れの烙印まで押されてる子が一人いる。
……何を隠そう、あたし、口原琴音のことである。
◇◇◇
屋上から二階分降りて左へ曲がると、自販機や机、椅子が設置されているエントランスホールがある。休憩所や待ち合わせ場所によく使われる場所で、今もちらほら人がいる。
おもむろに、壱彦先輩が財布を取りだした。
「なんか飲むか? 奢るぞ」
「いいの? ありがとー。じゃあわたしホットカフェオレね」
「はいよ。相変わらずコーヒー好きなんだな……口原は?」
「あ、いやそんな、あたしなんかに奢らなくても」
「じゃあこのキンッキンに冷えてるドリアンサイダーを……」
「そっちのホットココアでお願いします」
即座に言いなおした。とはいえ壱彦先輩も本気ではなかったらしく、笑いながらお金を投入していく。
飲み物を買い終わるのを待っていると、少なからず視線を感じる――気づかないふりをして、視線は決して動かさない。
悪い意味で有名になっているのは、何となく感じている。将来を有望視されてた最優秀訓練生が、実戦でろくに使えない弱小にまで落ち込んだんだから仕方がない。
正式にイレイザーになってから二か月も経てば、誰もが二級に上がるとまでは言わなくても、それなりに戦えるようにはなっている。あたしは、戦うことすらできていないのだ。富山支部に約二百人いる三級の中でも、最底辺なのは間違いないと思う。
ましてや、あたしは最優秀訓練生――過去にその栄光に輝いた人たちは、アベレージ二週間ほどで二級に上がっている。成績が普通だった新奈も、一カ月半で二級に昇格した。少なくとも、最優秀訓練生で二か月経っても三級に留まっている人なんていないだろう。
とはいえ、あたしだってこのグラフィティを欲しくて手に入れたわけじゃないけれど。
物質を三センチだけ動かすグラフィティで、どうすればいいって言うの……?
「ほれ、口原」
「え、あ……ありがとう、ございます」
ひょいと渡されたホットココアの缶を手に取る。ちょっと熱いぐらいの缶を両手で転がしながら、椅子に座ってプルタブを引っ張った。
机を囲んで談笑する新奈と壱彦先輩を見て、戦力になれないことを申し訳なく思う。
なんでこんなに――ついてないんだか。
生まれつきの不幸にもめげないようにと思って、昔からそれなりに体を鍛えてはいた――ここにきてからはさらに努力を重ねた。おかげで、最優秀訓練生にまでなれたけど、実戦で結果が出せなきゃ意味ないよ。
昔からそうだ。くじ運が悪いのはもちろん、小学生の時の演劇では、お姫様役と言う女子垂涎のポジションを得たにも関わらずセットが倒れて下敷きになったとか。商店街の福引で一等の温泉旅行を取ったかと思ったら、それを入れたカバンが運悪く川に向かってアイキャンフライしちゃったとか。
自分で羅列しても、ちょっと引くぐらい運が悪い。
そんなあたしが、禁書を選ぶときにまともなのを引けるはずなかった。
努力が報われるなんて甘いことを言うつもりはないけど。
こうも見事に踏みにじられると、さすがにちょっと、凹んだ。
不幸と言う負い目から来る気弱さは、ますます加速していった。
ふと、昨日あたしを助けてくれた笹宮室長の姿を思い浮かべる。
――あんな強いグラフィティがあれば。
あたしの気弱も、ちょっとは直るのかな――そう思ったとき。
エントランスホールのスピーカーから、盛大なハウリングの音が放たれた。突然の出来事とあまりの音量に、思わず顔をしかめてしまった。
「なっ、なんだぁ?」
耳を抑えた壱彦先輩が声を上げた直後、調整が済んだのかザザッ、と音が入る。
『あー、あー、よし』
……ん? 今の声、まさか……?
『えーっと、今から名前を呼ぶ奴はすぐに笹宮室へ来ること!』
――あ、この声、間違いない。
周りにいた人たちも、放送をしているのが誰か気づいて、ざわつき始める。
「……これってあの人だよね?」
「笹宮だな。しかし、珍しいこともあるもんだな。あいつが直々に呼び出しとか」
新奈の問いかけに壱彦先輩が頷く。
ホワイトキャンバス富山支部・防衛室『室長』にして、特級イレイザーの笹宮銀!
昨日あたしを助けてくれた、恩人だ。
「笹宮室長っていったら、整ってるのに印象薄い顔立ちって言うのと、超凶悪グラフィティ〈七式〉で有名だよねー。もっとも、わたしはあの超頑丈な訓練ホールをズッタズタにして、その向こう側にある屋外訓練場まで半壊させたって噂話しかきいたことないけど」
「……あの屋外訓練場を?」
「たった一発でね」
「一発ぅ!?」
あたしはその話を初めて聞いたので、驚いた。
屋外訓練場は楕円形で、外周約二キロメートルの広大なグラウンドだ。それが半壊?
いやそもそも、訓練ホール自体並の頑丈さじゃないのに。ダイナマイトじみた爆発を起こすグラフィティの使い手が全力で試し打ちしてもろくな傷がつかなかったあの部屋が、崩壊? しかもただの一撃で?
「あ、でもお前ら、そのあと笹宮がなんて言ったか知ってるか?」
「へ? わたしは聞いたことないけど」
「あたしもです」
ごめんなさいとか、そのあたりだろうか。
「『俺、まだ本気だしてないのに』だそうだ」
「「…………」」
二人して、沈黙した。どんな化物なの、笹宮室長って……。
確かに、昨日戦ってるのを見る限りじゃ、全然力を出してないように見えたけど……。
「あ、そういえば昨日琴ちゃんって笹宮室長に助けられたんじゃなかった? もしかしてその関連の呼び出しかな?」
「あー……うん、そうなんだけど……でも向こうだってそんなあたしなんかに興味もないだろうし、まさか呼び出しなんてされるわけが――」
そんな風に、全く関係ないだろうと思ってココアを飲もうとしたら。
『三級イレイザー口原琴音! 今すぐ笹宮室へ来ること!』
「ぅえっ!?」
あたしは驚きのあまりココアを取り落してしまう――慌ててそれをキャッチしようとしたら、勢いが強すぎてぽーんと飛んでいってしまった。壱彦先輩の方へ。
そして重力に逆らえなかった中身が、壱彦先輩にかかってしまった。
「あ、え、あっ、すっ、すいません!」
「あーいいって、気にすんな」
笑いながら水玉模様になった制服の上着を脱いで、黒のタンクトップ一枚になった壱彦先輩。……季節を忘れそうになるけど、今冬だから。室内でもそれは寒いから。
「っていうか、ちょ、なんで!? なんであたしが呼び出されるの!?」
「……琴ちゃん、何したの?」
「何かした覚えなんてないよ! そんな、室長に呼び出されるような真似なんて……あ」
「……あ?」
「口原、心当たりでもあんのか?」
ガシガシと、脱いだ制服でココアまみれになった頭を拭いてるワイルドすぎる壱彦先輩が訊ねてくる。……もういちいちつっこんでられない。
「あ、いや、その……自分があんまりいたたまれなかったから、お礼だけ言って、逃げるように帰ってきちゃったんですけど……まさかその失礼な態度が原因で……?」
「でもそれだけでわざわざ呼び出すかなぁ? お礼も言ったんでしょ?」
「ま、とにかく行った方が良いだろ。なにせ室長命令だからな」
それに、と壱彦先輩は立ち上がる。
「ここに居続けると、注目をもっと集めることになっちまうぞ」
「……あ」
エントランスホールにいた全員の視線が自分に集中しているという状況に気づいて、ココアの缶を拾ってゴミ箱へ突っ込み、あたしは逃げるように笹宮室へ向かった。
◇◇◇
……あたし、何したんだろう。
考えれば考えるほど、一歩踏み出す度に不安が募る。
身に覚えがないというのが、逆にとても怖かった。知らない内に何かをしでかしてしまっただろうか。……怖いなぁ。
「じゃ、俺たちは部屋の前で待ってるからな」
「部屋には二人っきりなのかな? 襲われないようにね、琴ちゃん」
「う、うん……って、襲われるってのはさすがにないんじゃない?」
「いやいや、わからないよ? 笹宮室長だって男子だもん。告白するために二人になれる場所に呼び出したなんてこともあるかもしれないよー?」
いや、ないでしょ。あたしが笹宮室長と会ったのなんて昨日が初めてだし。
「うん、でも頑張ってね」
何を頑張ればいいのかもわからないまま、結局部屋の前までついてきてくれた二人に見送られて、あたしは富山支部・防衛室『室長』の部屋――笹宮室の扉をノックする。
だれも室長室と呼ばない理由は、言いにくいからの一言に尽きる。だから、室長の部屋のことは、みんな苗字に室をつけて笹宮室と呼んでいる。
返事を待っていると、
「来たな!?」
「きゃ――ったぁっ!?」
返事も確認もなしにバーン! と勢いよく扉が開かれて、ゴッ! とあたしの額に扉が直撃。意識が飛びそうだ。
……なんて……運が悪い……っ!
「どわっ! すまん、大丈夫か?」
真っ赤になった額を押さえて、震えながらうずくまるあたしに話しかけてきたのは、扉を開いた張本人――整った顔立ちなのにどこか印象の薄い顔立ちをした、手入れも改造もしてない黒髪の少年・笹宮室長。
ただ昨日の自信満々な顔と違って、今は『やっちまった』的な感情が浮かんでいる。
「だ……大丈夫じゃ、ないですよぉ……」
「わ、悪かったな。とりあえず、中に入ってくれ」
「は、はい……」
少しばかりバツが悪そうに、ホワイトキャンバスの男子用の制服――白いコートの裾を揺らしながらあたしを招き入れるので、とりあえず涙目で中へと入る。
後ろで扉が閉まる音がした。ダンジョンのボス部屋に閉じ込められたような気分になって、ちょっと怖かった。
見回すと、室長にあてがわれる部屋だけあって、結構な広さがあった。
正面の、どこかで見たタイトルのライトノベルとかで散らかってるデスクがまず目に入る。その隣では黒髪をアップで纏めて、きっちりスーツを着こなす、凛とした表情の女性――秘書さんがいた。彼女は部屋へ入ってきたあたしを眼鏡越しに一瞥して、すぐにペンを動かす作業に戻った。
……とりあえず、襲われる心配はなさそう。人がいるなら告白ってわけでもないよね、と新奈の冗談を可能性から潰していく。
緊張で心臓が高鳴り続け、胃が痛くなってきた。変な汗をかいてないだろうかと不安になったころに、笹宮室長は目の前のデスク、その向こうの椅子に腰かけて口を開く。
「――さて、一日ぶりだな」
そう言われて、なんと返すのが正解なんだろう。えっと、と、とりあえずお礼を!
「あ、え、えと、せ、先日は、助けていてゃだいて本当にありゃがっ!」
……噛んだ。軽く死にたい。
「ああ、いいよいいよ。礼なら昨日聞いてるし、そんなガチガチにならなくっても」
あたしが緊張しているのがよほどおかしかったのか、笹宮室長が苦笑する。ほっぺが紅くなっているのは、言われるまでもなく自覚してる……うわぁあ。熱い。
「わざわざ呼び出して悪かったな。で、呼び出した理由の方なんだけどな」
「……っ!」
あたしの体がぎしり、と強張る。
室長に呼び出されるようなことなんて、あたしは本当に――
「いろいろ考えたんだが――お前しかいないと思ってな」
……へ?
室長は、ちょっと照れたように笑いかける。
「俺の中では、やっぱりお前が一番みたいなんだ」
「う、へ? いや、あの……それって、どういう……?」
言葉を反芻して、徐々に顔が赤くなる。
いや、だってそのセリフはどう聞いたって、その……。
『告白するために二人になれる場所に呼び出したなんてこともあるかもしれないよー?』
不意に新奈のセリフが頭に蘇る。
え、でも、秘書さんだっているのに? まさか笹宮室長そういうの気にしないタイプ?
混乱し続け、脳内がヒートアップするあたしに、畳みかけるように笹宮室長は口を開く。
「まあ急にこんなことを言われても困るかもしれないけど」
「え、いや、そ、それは、だって……いきなり言われたら、その、心の準備とかが」
「まあでも安心しろ! ちゃんと面倒見てやるからさ!」
「めっ!?」
この時点で、あたしの頭はオーバーヒートを起こした。
告白どころかまさかのプロポーズ? そ、そんなこといきなり言われて、どどどどうしろって言うのよ!
「いやあの、せめてそういうのはもうちょっとお互いのことを知ってからの方が!?」
「俺は口原のこと分かってるから心配するな!」
「でっ、でも! あたしたち、昨日話したのが初めてじゃないですか!? しかもあたしがかなり失礼な感じで!」
「よくあることだから気にしてないよ。それに俺はお前に嫌われたって構いやしない」
え、それってなに? 今は嫌いでもいいからいつか必ず振り向かせてやる的な宣言? そんなちょっと男前なセリフに、不覚にも胸が高鳴った。
肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せ、笹宮室長は達観したような笑顔で、言う。
「だってお前は、俺の理想の――」
ああ、駄目。その先は言っちゃいけない。
そんな笑顔で告白なんかされたら、あたしは――
「俺の理想の、ポンコツだから!」
………………………………………。
オーバーヒートを起こしていた頭が、そのまま凍り付いてしまったかのように何も考えられなくなった。完全なる思考停止状態である。
そして、勝手に告白だと勘違いしていたことにちょっと洒落にならない恥ずかしさを覚えるだけでなく、とんでもない暴言を吐かれたという現実を少しずつ理解して――
◆◆◆
防衛室『室長』――それは、基本的に一級イレイザーの中でも、数多くの戦果を挙げた者が就くポジションだ。個人の強さはもちろんのこと、場面・状況に応じた適切かつ迅速な判断までも求められる、中々に厳しい立場と言えるだろう。
特に富山支部と言えば、八つのグラフ発生点の中でも最もセカンドハーフの発生率が高い地域だ。防衛室の重要度は、各地の中でも一番高い。
――俺は、そこまで上り詰めることがちょっとした夢だった。
どう使うのかも分からないしょっぼい能力を駆使して、仲間と助け合って、経験を重ねつつ少しずつ上へと上り詰める――そして、最終的に室長の座につくというのが、俺の理想のプランだった。
のだけれど。
蓋を――もとい、禁書を開けば、手に入れたのはまさかの真逆のチート級能力〈七式〉。
訓練ホールと屋外訓練場を崩壊させてしまったそのぶっ飛んだ力だけを理由に、俺は正式にイレイザーになってからたったの三日で特級イレイザーに飛び級昇格、あまつさえ防衛室『室長』にまでなってしまった。
理想のプランの斜め上を行く展開で、夢はあっさり叶ってしまった。
団長からは「部活動の部長でもやるようなノリでやればいい」と言われたけど、正直、集団登校の班長にもなったことのない俺になんてことを、と思ったのは事実だ。
ぶっちゃけ、気まずいのだ。
それなりに経験を積んだ後ならばともかく、イレイザーになったばかりの俺が、先輩方を差し置いてグラフィティだけが理由で室長になっちゃったとか。
もちろん、就いたからには責任は果たす。室長としての勉強とか、戦術とかも学んだつもりだ。室長になったばかりの頃よりは、慣れてきた感はある――まあ、書類仕事に関しては全て中滝さんに奪われてるんだけど。俺は報告書とかに目を通すぐらいだ。
そんな風に身の入らない毎日を過ごしていたのだが――昨日、俺は天啓を受けた。
自分がダメなら、しょぼいグラフィティを持ってる雑魚を育てればいいじゃないかと。
その天啓に従い、俺は三級イレイザーの資料を漁って、一人の少女に目を付けた。
それこそが――『物質を三センチ動かすだけ』のグラフィティを持った雑魚!
今目の前にいる、サイドテールが特徴的な口原琴音だった――
「……ぐすっ、うぇええええ」
――のだが、しかし。なんかいきなり、俺は困難に直面したようだった。
「え、あれ!? なんでいきなり泣き出してんの!?」
泣いた女子の扱いなんぞ知らん。いきなりぐずりだした口原にぎょっとしていると、
「室長、本気で言ってるんですか?」
呆れたと言わんばかりの口調と冷たい視線で中滝さんから突っ込まれた。
「下手に紛らわしい言い方ばかりするからこんなことになるんですよ」
「紛らわしいって……何がですか」
「…………」
無言で睨まれて、しまったと頬を引きつらせた。いかん、また敬語が……。
「……ごほん。何が? だって、俺が探した中ではこの上ない理想のポンコツなんだぞ? かつて最優秀訓練生で、身体能力と成績がよくて、おまけにしょうもないグラフィティ持ってて訓練期間終わってもまだ三級なんて最高の条件が整ってる奴、そうそういないよ!?」
ここまで褒めちぎればさすがに泣き止むだろう!
そんな打算を含んではいても、心の底からの俺の言葉に口原は、
「ひっく、えぐっ……うぇええええええん」
「泣き止むどころか大号泣!? 褒めたのに!?」
「それで褒めてるんですか? 三級イレイザーディスってどうするんですか」
「何言ってるのさ中滝さん! これは最大級の賛辞だよ!」
「大惨事の間違いでしょう……ふふん」
中滝さんがなぜかちょっとドヤ顔した後。
「こっ、琴ちゃん!? 大丈夫!?」
ノックもなしに部屋の扉が勢いよく開かれた。
栗色でふわっふわの髪してる女子が、血相変えて笹宮室へ飛び込んできた。その後ろからは背の高い、筋肉質な青年もやれやれと言いたげについてきた。
女子の方はともかく――青年の方は知ってる。一級イレイザー、飛鳥壱彦さんだ。
「え、ちょっ……まさか盗み聞きでもしてたの!?」
ぐしぐしと涙を袖で拭いながら、突然の乱入者に口原が訊ねる。
「わりーな、口原。俺は止めたんだが……お前の泣き声が聞こえたって新奈ちゃんが突っ込んでっちまってな」
申し訳なさそうに言ってくる飛鳥さん、そして栗髪の女子は口原を抱きしめた後に、お世辞にも友好的とは呼べない視線を俺に向けてきた。雰囲気は柔らかいけど、これはかなりの曲者だなぁと思う。特に、単純に怒りと呼べない視線を向けてくるあたりが。
「入ってくるならノックなりをしなさい。仮にも室長の部屋なんだから」
「あ、すいません、つい……それより笹宮室長? 琴ちゃんに何したんですか?」
「いやいやちょっと待て、いまこの状況だけ見たら盛大に誤解を招くとは思うから一応、第三者の中滝さんからこの状況に至るまでの経緯を話してもらおうと思う。よろしくお願いしま――」
ぎろり、と中滝さんに睨まれた。ぺろっと舌を出してから言いなおす。
「よろしく」
「ええ、かしこまりました」
んん……慣れないなあ。口原と栗髪の女子に奇妙な目で見られたが、まあ、仕方がないだろう。秘書に睨まれて前言撤回する室長ってのも、まあ、傍から見れば変な関係だよな。
とはいっても、説明するほどのことでもない。俺が室長で、中滝さんは秘書。その立場を中滝さんが明確にしたいってだけの話だからな。
俺の要請を受けた中滝さんが、考えるように虚空を見上げて話し出す。
「そうですね、状況を簡潔に説明させていただくと――笹宮室長が口原さんに立場的暴言の嵐を吐いて泣かせたと言うところでしょうか」
「なんでこの状況で引っ掻き回すようなこと言うのさ!?」
「傍から見ればこういう状況でしたが?」
「……笹宮室長?」
「いや待て、ごっ……誤解じゃないかもしれないけど! まだ用件は半分も伝えてない!」
栗髪の女子から寒気がするジト目で見られて、俺は慌てて弁解する。
「口原、お前――強くなりたくないか?」
「え?」
突然言葉を向けられたのが予想外だったのか、口原は目を瞬かせる。
「今回お前を呼んだのは他でもない、お前みたいな能力の使い方が分かってない三級の奴を強くして、戦力を引き上げようと思ってな。その試験的な強化プログラムを、お前に受けてもらおうと思ってるんだ」
その場の全員が、ぽかんとして――少しずつ瞳に理解の色が灯りだす。
どうやら誤解は解けたらしい、と安堵した俺は、続きの言葉を口にした。
「だって考えてもみろ! しょぼいグラフィティしか持ってない雑魚が強敵に逆転勝ちするなんてこの上なく面白いだろ!?」
……あれ、全員の目から理解の色が消え失せた。そして、直後に向けられた憐憫の視線。ああ、こういうやつか、みたいな感情がありありと見て取れたけど、どういう意味だコラ。
とはいえ、反論もないようだから俺は続ける。
「正直に話すと、俺のグラフィティは強すぎて面白くないんだよな。不満と言ってもいい」
言うや否や、人の皮も被らずに盆踊りしてるエイリアンを見るような目で三人から見られた。何言ってんだこいつ、と雄弁に物語る視線の中、唯一中滝さんだけが額に手を当てため息をついた。
「俺はもっと弱くても、工夫できるグラフィティが欲しかったんだよなあ……それこそ、応用が効くならほんとにしょぼいグラフィティでもよかったぐらいで」
俺が不満をタラタラと述べ始めると、遮るように口原が手を挙げた。
「いや、あの……この際、室長の趣味は何でもいいです。それより、訊いていいですか?」
「なにを?」
「あの……なんであたしなんか選んだんですか? 三級を強くしたいって言うなら、もっといい候補がいたと思う、んですけど……」
「ああ、そんなこと。そりゃ決まってるだろ」
「あたしが、最優秀訓練生だったから、ですか?」
俺の言葉を先取りしようとして、血反吐を吐きそうな顔で口原が言う。そんな顔するなら言わなきゃいいのに……。
それに、口原の言葉はてんで的外れだ。
「んにゃ、別にそこは大した理由じゃない。下地ができてるって意味じゃ最優秀訓練生なのは助かったけど」
俺は軽い調子で否定する。そして笑ってこう続けた。
「俺がお前を選んだ理由は、資料を漁った限りだと、口原のグラフィティがだれよりもしょっぱかったからってのに尽きるな」
ぐさり、と音が聞こえた気がして、口原が膝から崩れ落ちる。
……あ、またやっちまった。意図せず口原の気にしていることをざっくり抉ってしまったことにさすがに罪悪感を感じた俺は、フォロー代わりにもなるかわからん、正直言うつもりはなかったもう一つの理由を口にする。
「あとはまあ、そうだな」
言うつもりがなかった理由は――ちょっとばかり、気恥ずかしいからだ。
「昨日助けた縁があった――って言ったら笑うか?」
――背後の棚に並べられているイレイザーのファイル。それをめくっていて、口原のページで目が留まったのは、直前で助けていたからかもしれない。
だとすれば、それはたぶん、縁というやつだろう。
そんな、ちょっと子供じみた理由を話すと、なんだか雰囲気が柔らかくなった気がした。……な、なんだよこれ。なにこの微笑ましい感じ。やばい、ハズい!
けどまあ……笑われなかったから、よしとしよう。俺は一つ咳払いをして、場の空気をリセットする。
「さて、じゃあ――結論を聞かせてもらってもいいか?」
俺は、若干緊張しつつも、口原の目を見て、再度訊ねた。
「改めて訊く――口原琴音。お前、強くなりたいか?」
口原は、俺の言葉を受け――栗髪の女子の手の中から抜け、一歩こちらへ進んできた。
「……あの、正直にお話しすると、あたし、笹宮室長のことは苦手です」
「えーっと……どの辺が」
「大体全部です。誤解させるような語り口、とか……弱い能力を面白そうだとか……あんな強い能力を不満だとか、あたしのことを雑魚だとか言うあたりが」
俺の人格そのものが否定されてる……っ!?
これはもしかすると、断られるのだろうか……俺が恐々としていると、
「でも、なんだか……この機会を逃すと、この先上に上がるなんて、絶対にできない気がするんです。それは、その……困ります、から」
口原が、俺の目を真っ直ぐに見据える。
そして、ハッキリと口にした。
「笹宮室長、あたし、強くなりたいです。グラフに勝てるぐらいに――一級の人たちにも並べるぐらいに」
口原の返事を聞いて、俺は安堵と嬉しさから笑って返す。
「――交渉成立だな。任せとけ、俺がお前を強くしてやる」
「お……お願い、します」
「まあ、どのみち口原に選択肢はなかったと思うけどな」
「……え? あの、それってどういう……」
困惑した様子の口原が、不安そうな声音で訊ねてきた。
「断るって言われたとしても、室長命令でプログラムに参加させるつもりだったからな。強くなりたきゃ黙って従えっつって」
笑いながら軽い冗談のつもりで言うと、今度こそ全員に呆れた視線を向けられた。
プログラムは明日から始めるという旨を伝えて、この日は解散した。
――この結果が口原にとって幸とでるか不幸と出るか。
それは、ここからの俺次第か、な。
――富山の冬は、やはり冷え込むな。
白い息を吐きながら坂道を上り、珍しく晴れた空を見上げながら私はそう思った。
坂道を登り切れば、一日ぶりに見るホワイトキャンバス富山支部が待ち構えている。どうせ退屈な一日になるのだろうから、せめてセカンドハーフの一つでも出現してくれればいいが、とやや不謹慎なことを考えつつ玄関をくぐった、その時。
「――そういや、昨日のあれ、知ってるか?」
「あぁ、聞いたって。口原の奴、室長から呼び出し喰らったんだろ?」
「なんだってんだかなぁ……まぁどーでもいいけどよぉ」
ぎゃはははは、と笑う馬鹿そうな連中の会話が耳に届いて、私はそいつらに詰め寄った。
「おい。今なんと言った」
「あん? 急に何――って、あ、あんたは……!」
私の顔を見るなり、三人組が顔を引きつらせる。なんだ、失敬な。
「もう一度だけ訊くぞ。今なんと言った」
「く、口原が――室長に、呼び出し喰らったって」
「……ほぉ」
――ホワイトキャンバスには、『室』と付く部署が五つある。
防衛室、研究室、技術開発室、禁書管理室、編集室の計五つ。そのそれぞれにトップである室長がいるわけだ。
だが研究室、技術開発室、禁書管理室、編集室の四つの部署の室長は、ホワイトキャンバスという組織において一人ずつしかいないのに対し、グラフとの戦闘を担う防衛室のみは、その重要度から本部・各支部に一人ずつ据えられている。
そしてこの富山支部において、『室長』という言葉が指す人物はただ一人。
――防衛室『室長』、笹宮銀!
事実上、この支部のトップに立つ人間だ。
「……あいつめ」
少なからず因縁のあるあの馬鹿の顔を思い浮かべるだけで、額に血管が浮かびそうだ。
「じっ……じゃあ、俺たちはこれで!」
何を察したのか、慌てたように三人は歩き去っていってしまった。だがどうでもいい、聞きたい情報は聞き出せた。
だが――不可解なのが、もう一つの名前だ。
口原。私が口原と聞けば、思い浮かべるのは第七期最優秀訓練生だった少女。
いまや落ちるところまで落ちた、三級イレイザーの顔だ。
「……分からんな。笹宮の奴が口原を呼びつける理由が分からん」
――だが、奴ならば、意味の分からない理由でやりかねん。
『弱いグラフィティが欲しいから』などと抜かして訓練から手を抜いていた奴ならば。
……だんだん腹が立ってきた。
「あの馬鹿者め――室長の仕事も果たさずに、今度は一体何をする気だ!」
こうなれば、直接問い詰めるまで!
私は、肩で風を切って、笹宮室へと足を向けた。
◆◆◆
――笹宮室長が、口原さんをナンパした翌日である今日。
「じゃ、ちょっと行ってきますね、中滝さ――」
性懲りもなく敬語を使おうとした室長を睨みつける。一瞬表情を強張らせて、
「ちょっと行ってくるよ、中滝さん」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
部屋に来ていた三人――口原さん、平上さん、飛鳥さんを引き連れて出て行った笹宮室長を見送って、やれやれとため息をつく。
室長になってもう一年ほどが経つのだけれど、敬語を使う癖が直りはしないらしい。確かに、私は二十歳の女性で向こうは十七の少年だ。敬語を使いたい気持ちも分からないではないけれど、彼は室長で私は秘書だ。そこで重要なのは立場であって年齢ではない。大人の社会とはそう言うものだと思っているけれど。
ふと、窓から外を眺める。木の葉は紅葉を通り越して枯葉になった。吹きすさぶ北風が、往生際悪くしがみついていた葉っぱを容赦なく揺り落とす。
そんな何でもない風景を見て、平和になったものね、と素直に思う。
四年前の、あのときに比べたら――
◇◇◇
四年半前の七月七日。
当時、富山県に住んでいる高校一年生だった私は、よりにもよって目の前で見てしまったのだ。
県立図書館を中心に発生したセカンドハーフから、グラフが出現する瞬間を。
あの化物が街を蹂躙する、災厄そのもの光景を。
フードを目深に被り、背中に翼を持った修道女。ただし翼は左に四枚、右に二枚と言うとんでもなくアンバランスな配置だったけど。
祈るように組まれた腕は薄紫色で骨ばっていて、おまけに指は三本しかなく、鋭く尖った爪が生えていた。悪魔か何かが修道服を被っているんじゃないかと思うような外見だった上に、目深に被ったフードの中には顔のようなものが見られない。
翼が神々しいぐらいの翠色であったことも、この場合マイナスにしか働かなかった。むしろその全体像の歪さに寒気すら覚えたほどだ。
そしてドーム状の異空間が消滅した後、グラフは翼を羽ばたかせた。エメラルドを加工したような翠色の羽が、グラフの周囲でほどけた瞬間。
何本もの竜巻が立ち上り、周辺にあった家屋を、明らかな意思を持って破壊し始めた。
私は、立ち上る竜巻に巻き込まれないよう、吹き荒れる突風に体を持っていかれないよう、その場で蹲っていた。
――ほんの、数分の出来事だった。
風が止み、顔を上げると、見慣れた街が見たことのない風景になっていた。
県立図書館は半壊。森は抉られ地面はむき出しに。見渡す限りの家々は、瓦礫や木片と化していた。
そんな景色を茫然と眺めてから、私は未だ上空に留まっていたグラフを見た。
そのフードの下には顔などないのに。
あのグラフは、私を嘲笑っているように見えた。
◇◇◇
――数年後に、まさかあれらに対策する組織で働くことになるとは思わなかったけど。
こうして今生きていられるのは、そして人々が何でもない日常を送っていられるのは、奇跡に近いだろう。実際、あのとき和歌山に現れたグラフが気まぐれを起こしていなければ、日本は終わっていただろうから。
――さて、と。
しんみり感傷に浸ってる場合じゃなかったわね。さっさと書類を片付けないと――そう思ってペンを再び握ったその時。
「どういうことだ笹宮ぁっ!」
突如として笹宮室に飛び込んでくる、金髪を揺らした一人の少女。
おいまたか。私は無礼者を一瞥する。
「……ノックぐらいしなさい」
「と、これは失礼――中滝さん、笹宮の奴は一体どこへ?」
「さて。研究棟の方へ行くと言っていましたが」
……部屋の場所も知ってるけど、わざとぼかしたのは私なりの気遣いと言うやつだ。
「協力感謝します。失礼しました」
部屋から出るや否や、バタバタと走っていく。まったく、落ち着きのない……。
彼女が走っていったであろう方向に目をやり、ふぅ、と一つため息をつく。
「……本当、平和になったものね……」
なにせ、あんなバカ騒ぎが許されているのだから。
気を取り直して、私は書類にペンを走らせ始めた。
◆◆◆
「さて、じゃあまずプログラムについて簡単に説明しとこうか?」
白いコートの裾を揺らして前を歩く笹宮室長が、後ろをついていく琴ちゃん、わたし、壱彦くんに向けてそう言った。
「最初に能力検証。使えそうな効果を見極めて、そのあとにそれに合わせた特訓メニューを組んで、実践する感じだ」
すれ違いざまに、廊下を歩く団員たちが何事かとわたしたちを二度見する――笹宮室長が外を出歩いてることもあんまりないし、それが注目度抜群の、落ちぶれた第七期最優秀訓練生と一緒っていうならなおさらかな。
「ってわけで、いまから俺が知る限りじゃ、最っ高の研究者のとこに行くから。まあちょっと変わった人じゃああるんだけど、いい人だから心配するなよ」
「笹宮室長がそう言うって、随分変わった人なんですねー」
「えっ」
笹宮室長が抗議のような声を上げたけど、わたしはにっこり笑って黙殺した。
「ん、んー……さておき。多分、お前のグラフィティについても色々とアドバイスくれると思うぞ。なにせ外部からもお呼びがかかるレベルの能力解析の第一人者だ。本人ですら気づかない効力を検証の結果から見抜く人だしな」
「え、いやあの……笹宮室長? このグラフィティについてアドバイスなんてもらっても仕方ないと思うんですけど……あたしのグラフィティなんて三センチ動かすだけですよ?」
自信なさげに、俯きがちに琴ちゃんが言う。
「お前……強くなりたいならもうちょっと自信持てばいいのに」
「……自信が持てるほど結果を出せてませんから……」
「琴ちゃん、根拠のない自信は持てないタイプだもんね」
「だって、できるかどうかも分からないのに虚勢張って失敗したら恥ずかしいじゃない」
「いいじゃん、別に。今更失うもんもないだろ?」
「……笹宮室長、あたしのこと苛めてます?」
「いや? 育てがいのあるポンコツだって褒めてる」
「……やっぱり室長は苦手です」
涙目で拗ねたような琴ちゃん。そんな表情を見て笹宮室長はちょっと困った顔をしてるけど、まさか今のでまた褒めたつもりだったの? どういう思考回路してるんだろ。
「あーそう言えば、その室長ってのも堅っ苦しいからできればやめてほしいんだけど」
おどけたように、いきなり笹宮室長が言いだした。
「……だって室長は室長じゃないですか」
「せめて先輩とか、さん付けにしてほしいんだが」
「分かりました、笹宮室長」
「……なに、平上って俺のこと嫌いなの?」
全く呼び方を変えなかったわたしに、笹宮室長が怯えたような顔つきで訊いてきたので、わたしは真摯に答えた。
「まさか、そんなことないですよ笹宮室長。別に琴ちゃんのことをぼろっかすに言ったことなんて全然怒ってませんよ笹宮室長」
「怒ってるヤバいこれ絶対怒ってる……っ!」
目の前で友達が貶されるとこ見たし、このぐらいの意趣返しはしておかないとね。
「い、いや、まあ呼びやすいならそれでいいよ」
結局笹宮室長の方が折れた。よし勝った。
冷や汗をかきながらわたしから目を逸らした室長は、最後の希望とばかりにじーっと琴ちゃんを見つめた。
琴ちゃんは、しばらく口をもごもごさせた後、
「……笹宮先輩。これでいいんですか?」
慣れない言い方に、ちょっと恥ずかしそうに言う琴ちゃんが可愛かった。
同時に笹宮先輩が、琴ちゃんの手を掴む。
「うひっ!?」
突然の行動に琴ちゃんの肩が、奇声と共に跳ね上がる。心拍数も跳ね上がってるらしく、顔がみるみる赤くなっていく。
「し、し、室……せ、先輩?」
「お前は素直ないいやつだなぁ……」
「い、いやその……ど、どう、いたしまして……?」
男の子に手を握られたことなんてほとんどないだろうから、意識するのも仕方ないとは思うけど、いきなり手を取るってどうなのかな? わたしはセクハラで通報しようか悩んだけど、まあ琴ちゃんが意外とまんざらでもなさそうだから見なかったことにした。
視線が泳ぎっぱなしの琴ちゃんから、笹宮室長が手を離して前を向く。
「よし、じゃあこれからそれで頼むわ。距離が縮まった感じがしていいしな、先輩って」
「なっ……」
うめき声のようなものを上げた琴ちゃんに笹宮室長が振り返るけど、琴ちゃんはかたくなに目を合わせようとしなかった。なんなんだか、と言いたげに笹宮室長は再び前を向くけど、琴ちゃんはしばらく赤くなりっぱなしだった。
……意識するにも早すぎない? と思ったけど、昨日の笹宮室での告白まがいのポンコツ宣言が、意外と後を引いてるのかもしれないなぁ。
ま、あれは直前に余計なこと言ったわたしにも責任あるかもしれないけどねー。
◆◆◆
「さて、ついたぜ、口原」
あたしにそう笑いかけ、ホワイトキャンバスの研究棟――その二階のとある一室、『松葉』とプレートの掛けられた部屋の前で立ち止まり、笹宮先輩がノックする。
ほどなくして、扉が開かれて――中から現れたのは、なんと巫女だった。
『!?』
「はいはーい、いらっしゃーい! 待っとったよぉ、銀くん!」
にこやかに笑う女性は、さらりと流れる髪を清楚な髪留めで纏め、白い小袖と緋袴に身を包んでいる。そして足は足袋という徹底ぶり。どこからどう見ても巫女だった。
腕を通さずに肩に引っ掻けた研究者用の白衣が、かろうじて彼女を研究室関連の人物であると示している。
「あはは、よろしくお願いします、みよりさん」
中から出てきた巫女さんと、親しげに会話する笹宮先輩。……いやあの、笑ってないで説明してください、説明。
「って言っても、別にウチの方からそっちに行ってもよかったがやけどね」
「いや、みよりさんちゃっかりしてるから移動分の貸しが追加されそうで」
「むむっ。さすが見抜いとるねえ」
「そこは否定してくださいよ……」
「で、後ろにおるんが、例の?」
ぽかーんとしているあたしたちを見て、そういえば紹介まだだった、と焦ったように笹宮先輩が言う。
「あ、そうそう。昨日も少しお話しましたけどね――っと、こっちも紹介するの忘れてた。みんな、この人が研究者の松葉みよりさんね」
「富山県産十八年物、松葉みよりやちゃ。よろしくー」
そんな彼女の挨拶に釣られて、あたしたち三人も軽く頭を下げ、それどころじゃないと頭を振った。
「まあ、ぽかんとするのも無理はないか。なにせみよりさんバリバリの富山弁――」
「笹宮室長、そっちじゃないです」
新奈にばっさりと斬り込まれて、笹宮先輩が、あ、と言いたげにぱりぱりと頭を掻く。
「あーそっか、俺はみよりさんのこういう恰好には見慣れてたから……初対面でこれは驚くよな、悪い悪い。自分でも変わってるって言ってたのにな」
うっかりしてた、と笹宮先輩。ついで、みよりさんが軽くポーズを取って言う。
「似合っとるやろ?」
「いやあの、似合ってるとかそれ以前の問題だと……」
「安心しろ口原。見かけはこんなだけどれっきとしたホワキャンの研究者だから。能力解析の第一人者だぞ?」
「全くそうは見えないんですけど……」
笹宮先輩とあたしがそんな会話をする傍ら、新奈が挙手して質問した。
「あのー、なんでそんな恰好してるんですか?」
するとみよりさんは自信満々に答える。
「趣味やちゃ!」
「趣味!? 巫女で奉公するのが趣味!?」
思わずあたしは叫ぶけど、みよりさんは更なる衝撃発言。
「なぁん、コスプレが」
「コスプレ!?」
「みよりさん、そういうのが好きだからなー。前見た時はテニスウェア着て研究室を走り回ってた時もあったけど」
「初対面ってことで、気合を入れて勝負服やちゃ! メイド服とどっちにしようか悩んだがやけど、あっちはちょっとベタ過ぎっからねー」
けたけたと笑って、みよりさんがあたしを見る。
「あ、そっちのサイドテールの子は口原琴音ちゃんやろ?」
ずばり名前をいい当てられたあたしは、目を丸くする。
「え、知ってるんですか?」
「そりゃまあ、各期の最優秀訓練生ぐらいは調べとっちゃ。特に口原ちゃんって言ったら悪目立ちしとるんで有名やし」
「……知られてないほうがよかったです。あたしってそんなのばっかり……」
「そっちは二級イレイザーの平上ちゃんと――一級イレイザーの飛鳥くんやね」
「俺たちのことも知ってんのか?」
「期待外れとチームを組む物好きやって意外と有名……っと、失礼。失言やったね」
予期せぬところからの期待外れの言葉が、あたしの胸をざっくり抉る。……やっぱり、皆から見てもそうなんだ……うぅ。
そんな凹んだあたしを尻目に、何かを探すようにあたりを見回すみよりさん。
「どうかしました?」
「いや、飛鳥くんのチームって言ったらもう一人、封印班の子がおらんかったっけ?」
「あぁ、雪子さんか」
苦笑と共に壱彦先輩が語りだす。
「雪子さん、団体行動がちょっと苦手な人だからな。基本的に別行動してるんだ」
「なーんだ、そうながけ……見て見たかったな、噂の年上ロリ」
恋い焦がれるような瞳でいまなんて言ったのこの人……危ない。この人絶対危ない。
あたしが危険人物を見る目をみよりさんに向けていると、笹宮室長が口を開いた。
「じゃ、紹介も簡単に済んだし、次の場所に行こうか?」
「次の場所って――」
「能力検証の場。すなわち、訓練棟三階のグラフィティ訓練室だ」
「あ、あの……さっきもいいましたけど、今更検証の必要ってあるんですか? あたしのグラフィティなんて、三センチ動かすだけなのに」
「いーや、そうとも限らんがんじゃないがけ?」
あたしの言葉を遮って、巫女コスのみよりさんが反論する。
「確かに、その効果だけ見たら雑魚すぎるグラフィティやちゃね。けど口原ちゃん、自分のグラフィティの性能は完璧に把握しとんがんけ?」
「え」
想定外のことを訊ねられ、あたしは思わず固まった。
「効果範囲は? 効力が及ぶ最大面積は? 連射はできるん? 弾く方向は自在なん? 他方向への同時使用は可能? 動かす速度は変えれるん?」
「え、えっと、それは――」
どもるあたしに、みよりさんはさらに疑問を叩きつける。
「動かした物質に何か変化はあるん? もしも動いてる最中に別の物質にぶつかったら、ぶつかった方の物質はどうなるがやろうね? 同じように動かされるか、それとも動かせないのか? もしかしたらとんでもない速度で弾き飛ばされるってこともあるかも――」
「…………」
なにも言い返せなかったあたしは新奈の胸でしくしくと泣いた。
「ま、こんな感じやちゃね。昨日のうちに銀くんから話は聞いたから、検証したいことのアイディアはまとまっとるんよ。まずは何より、自分の能力をより深く知るところから始めんにゃんちゃね」
「……分かり、ました」
みよりさんの言葉に、あたしは頷き。
巫女を引きつれたあたしたちは更なる好奇の視線を集めながら、グラフィティ訓練室へと向かったのだった。
――この数分後。
能力検証の最中、あたしのグラフィティが生み出したまさかの結果に、全員絶句することになる。
◆◆◆
「――研究棟、と一言に言うが、中々難題だぞ」
中滝さんに笹宮が向かった場所を聞いた私は、研究棟にある部屋を虱潰しに探していた。三階の大研究室と会議室に始まり、二階の合同研究室、そして一階の個人研究室を片っ端から当たっていく。
かなりの時間を食ったが、その甲斐はあった。個人研究室が残り三つまで減ったところで、有力な情報を得られたからだ。
「笹宮室長? ああ、さっき松葉さん連れて訓練棟の方に向かってたよ。あんなすごい面子じゃ注目集めないほうが無理だよなー」
「……訓練棟。なるほど、協力感謝する」
この研究棟の、本部棟を挟んだ向かい側。グラフィティの訓練のためにある強化材質建造物、訓練棟。一階・二階はぶち抜きで巨大なホールが造られていて、新人イレイザーの能力検証や、集団戦の訓練でも用いられる。縦に七十メートル、横に三十メートル、高さは十五メートルと非常に広い。二階部分には観覧席まで作られている。
そしてその上部である三階には、小分けにされたまっさらな部屋が合計八つ用意されている。こちらは個人用、一チーム用の小型の訓練室だ。
……何をするつもりか知らんが、向かう先は決まった。
目撃証言から察するに、わずか六名。それで大ホールを使うとは考えられない。
訓練棟三階で、今度こそ問い詰める!
◆◆◆
「動かせる距離はきっちり三センチ、グラフィティで物を動かせる距離は口原ちゃんから半径三メートル以内。最大効果面積は直径三メートルの円形。動かせるんは一か所で、二方向以上の同時使用は不可能。でも三センチ動き終わった物質に対しては再度グラフィティを使うことも可能。動かせる速度は一定、そして動かしたものの途中での方向転換ができんことを考えると、動かすよりは『弾き飛ばす』って感じやね――」
それが今までの検証で明らかになった口原ちゃんのグラフィティの効果。限定条件といっても過言じゃないかもしれんね、ここまでくると。
ここまでガッチガチに縛られ取ったら、むしろ変わった効果の一つや二つはあってもよさそうやけどねぇ、と思ったその時。
めきっ! と言う音が、部屋に響き渡った。
「な……」
訓練棟三階、グラフィティ訓練室、その一角。
約十メートル四方の部屋の中、全員の視線は中心の鉄塊に注がれとった。
「……口原、お前何したんだ?」
その光景を見とった飛鳥くんが言う。
「な、何って――普通にグラフィティ使っただけですよ? な、なのに……」
口原ちゃんは未だに信じられないと言った様子で口を開く。
「――なんで、ただの空き缶が鉄塊にめり込むの!?」
部屋の中心に置かれた鉄塊――その、さらに中心部。
そこには、ほんのわずかとはいえ、なんとドリアンサイダーの空き缶がめりこんどった。
その結果を見て、ウチは驚き。銀くんはと言うと――
「いやぁ、こいつは面白くなってきましたね、みよりさん? にしても、ああいう力があるんだったら、まずは――」
心底楽しそうな気持ち悪い笑顔で、そう言っとった。それを見て、ウチは思う。
ああ、あのころから全く変わっとらんねえ、と。
◇◇◇
ウチ――松葉みよりと銀くんは、彼が訓練生の頃からの付き合いだったりする。
富山支部の図書館でウチと似たような趣味の漫画やライトノベルを積み上げて、ノートに何か書き込んでは、にやにやしていたのを見てしまったんが始まり。
彼はこの頃から既に、しょぼい能力を手に入れたらどういう使い方をしようかと考えていたらしい。その特訓法、その利用法の全てを、創作物を参考に考えとったがやとか。
それを考えているときの笑顔と言ったら――研究者が何かを発見したような、気持ち悪い感じやった。味が薄いとはいえ整った顔立ちの彼の周りに、人が座らんのも納得やちゃ。
その笑顔に、類は友を呼ぶって奴かなあと苦笑して、積み上げられた漫画やラノベについての話題を出し、話しかけてみた。
思った以上に意気投合したウチらは、その後もよく話すようになった。
もっとも、想定外に強力な力を手に入れて、彼が室長になってからは、気に入った作品について話し合う機会も減ってしまったがやけど。ウチもそれなりに忙しくなったしね。
そんな彼から、久しぶりに頼みがあると言ってきたのが、昨日のお話。
「強くしたい奴がいるんです。知恵と力を貸してくれませんか?」
話を聞けば、雑魚を育てるためのプログラムを開くにあたって、サンプルとして『三センチだけ物質を動かす』グラフィティを持つ三級イレイザー、口原ちゃんを強くしたいと。
結構な難題振ってくれるねえ、と返すと、
「その方が燃えるでしょ?」
といけしゃあしゃあと言い返してきた。いい笑顔で。
「まあ、手を貸すんはやぶさかじゃないがやけど……それはさておき、なんでまたウチにわざわざ知恵を借りに来たん? 銀くんなら一人でも色々教えてあげられるやろ? あんだけ特訓法やら使い方やら考えとったがやし」
その下地があるからこそ、そのプログラム開催に向けて動き出したがやろうしね。
「あ、もしかして技術開発室の手も借りたいとか?」
ウチの従兄に一人、技術開発室に所属しとる人がおる。元イレイザーやった彼のグラフィティは〈練金術〉。複数の物質を練り合わせて強化物質を作り、それを使った武器・防具をイレイザーに支給することでホワキャン全体の手助けをしとる。何を隠そう、訓練棟の強化材質も大体彼の手によって作られたものやったりする。
富山の技術開発室を仕切っとるんはほとんど彼やし、職人気質で頑固ではあるけど、ウチを通して頼めば結構すぐに動いてくれるやろうからね。
そう思って訊ねたがやけど、でも考えてみればそんなん室長命令とかでどうにでもなりそうな気はするなぁ、とも思った。
対して、銀くんは頬を掻きながら言う。
「あー、場合によってはお願いしたいですけど、理由は別にあって。能力解析の研究者の意見があった方が、説得力が出そうなんで」
「ははあ、まあ確かにね」
ウチは研究室に入ってから、県内・県外問わずに色んなイレイザーのカウンセリングを行ってきた。能力の解析・助言は、ウチの得意分野やちゃ。
「あと、ほら」
つづけた言葉は意外なことに、少しばっかり恥ずかしそうに。
「最近、みよりさんとあんまり話とかできてませんでしたし」
「……なんけよちょっとぉ、やめてよね、そういうがんさぁ」
言葉とは裏腹に、ウチは頬が緩み切った。そして、銀くんに答えを返す。
「しゃあないねえ、お姉さんに任せとかれま!」
――こうして、ウチは可愛い年下室長のために力を貸すことを決めたがやった。
能力検証も終わり、みよりさんとの話し合いの結果、口原のプログラムの方針が決まったところで、特訓開始。
「……ところで、笹宮先輩」
バス、バス。
「ん? どうした?」
バス、バス――バサッ。
「あ、こら。集中力切らすなって」
「四回。まだまだ続けられそうやね、うん」
「……あたしは一体何をしているんですか……?」
床に落ちた白衣(提供・みよりさん)を悲しげに眺めた口原が、俺にそう言った。
「なにって、そりゃあグラフィティを使いこなすための訓練だけど」
「白衣を弾き続けることがですか……?」
「そう。口原にとっては基礎訓練になるはずだ」
『動かす』じゃなく『弾く』って認識を変えた上で、宙へ放り投げた白衣を落とさないように弾き続ける。確かにいきなりこれだけやれって言われても分かんないかもな。
「いやあの、この特訓の意味って……確かに難しいんですけど、何をやってるのか分かんなくて……」
沈み切ったテンションの口原に、みよりさんが肩を竦めて言う。
「単純に、グラフィティを途切れさせずに使えるようにするための訓練やちゃね。口原ちゃんの場合はこれが生命線になるから。あと、慣れてきたらもうちょっと小さいがんとか、大きいがんとかでも弾き続けてもらうつもりやし」
「……その心は?」
「グラフィティの効果面積の制御。常に最大直径で弾いとってもいいがんやけど、それやといらんもんまで弾き飛ばしそうやしね。弾く物質に合わせた面積を制御するための訓練やちゃ。特に白衣やったら、空中でふわふわ形変わるし、うってつけなんやちゃ」
「……なるほど。分かりました」
理屈はわかったらしいが、これができたからと言って何になる、みたいな感情が滲みはしているな。まあ、さしあたって目指すべき最終地点は見えた。その辺もおいおい説明していくつもりじゃあるんだけど――ん?
……なんか、外が騒がしいな? バンバンバンバン、扉を開いては閉じるみたいな音が聞こえて――
そう思って扉に目を向けた直後、突然扉が開いた。全員の視線が入口に集中する。
……うわぁ、こいつが来たか。
その侵入者は俺の顔を見るなり、きっと睨みつけてきた。
「やっと見つけたぞ、笹宮!」
突然やってきたそいつは、外見だけならちょっと驚くぐらいの美少女だ。
腰まで届く金髪はきらっきらのロングストレート。整った顔立ちに高い鼻、強気に吊り上がる瞳はクロワッサンみたいなこんがりブラウン。雪みたいな白い肌と、バランスの取れた抜群のプロポーションは、男子のみならず女子まで一度は振り返るほど。日本人離れしたパーツが多いのは、クォーターゆえの外人の血のなせる業か?
選択しているのがミニスカートのせいで、長い脚が余計長く見える。
ジャケットの胸章の数字は『Ⅰ』。
飛鳥さんと同じ一級イレイザーにして、第五期最優秀訓練生。同期の中では、最も早く一級に名を連ねた、富山支部でも指折りの実力者。
その名も――
「あ、こんにちは、ふぅ先輩」
「む――なんだ、平上もいたのか……ってだれがふぅ先輩だ! 私を呼ぶときは水瀬先輩かルンちゃんと呼べと言っているだろう!」
「いや、この年になってそれはないですよ……」
「なっ……」
ばっさりと平上に斬られてがっかりしているその姿で、美少女度がちょっと落ちた。
にしても、『ふぅ先輩』ね……言いえて妙だと忍び笑いしていると、目ざとく水瀬が咎めてくる。
「貴様、何を笑っている!」
「いや、別に? ところでなんか用か? 水風船」
瞬間、ものすごい勢いと形相で胸倉掴まれた。
「……誰のことを、今そう呼んだんだ? 笹宮ぁ……!」
「水風船なんてこの場にお前以外いないだろ、水瀬。ただのあだ名だし、そうカリカリすんなよ。全く変わってないなお前」
「訓練生時代から手を抜きっぱなしの貴様に言われたくはない!」
また人聞きの悪いことを……。
そんな俺たちの様子を見て、挙手して質問してくる勇気のあるやつがいた。平上である。
「あの、お二人って共に第五期訓練生でしたよね? 実は仲良しさんだったりします?」
「冗談じゃない! 私はこいつのような手を抜く奴が大っ嫌いなんだ!」
「全力出してないってだけなんだけど」
「同じことだろう!」
俺は肩を竦める。
平上がさっき言った通り、俺と水瀬は第五期生の同期だ。
訓練生時代から水瀬はこんなふうな性格だったし、周りは敵ばっかだった。
けど実際の所、こいつはかなり優秀だ。身体能力が高ければ頭も回る。常に努力を絶やさずに何事にも全力で取り組む、向上心に溢れた生真面目タイプの人間だ。第五期最優秀訓練生に選ばれるのも、まあ納得がいく。……性格は、さておき。
対する俺は、さほど訓練に力を入れてなかった。しかしそれにも理由がある。
単純に、あんまり優秀にならないほうが弱いグラフィティを封じた禁書に選ばれやすいんじゃないかと思ったが故、そういう行動をとっただけだ。手を抜いていたなんて言われるのは、むしろ心外である。
全力で、目標のために手を抜いていたというのに。
……うんまあ。
そんな俺がとんでもないグラフィティを手に入れただけじゃなくて、一級すら飛び越えた特級イレイザーに任命されるどころか防衛室『室長』まで任されちゃってるというこの現状に対しては、水瀬に限らず、同期と先輩方に少々悪いとは思っているけど。
だから水瀬が俺に噛みついてくるのは納得できるし、多分こいつの言葉は多かれ少なかれ、団員の言葉を代弁してるものだろうとも思う。
成績もよくなかったくせに、運がいいだけであの座についた奴――なんて、耳にしたのは一度や二度じゃないからなぁ。
ただ水瀬に関しては、訓練生の時に一回だけ、幸運にも勝っちゃったってのもあるからなぁ……あれ以降だよな、たしか全力で訓練に取り組めとかって言いだしてきたのって。
さておき。
「っていうか、なんでここにいるって分かったんだ?」
「……さっき貴様の部屋に突貫してきた。姿が見えなかったから中滝さんに場所を訊き、研究棟でも聞き込みをした結果、ここへ向かったという情報を得たんだ」
「はー、なるほどね。で、用件は?」
忌々しげに舌打ちを一つ残し、胸倉から手を離し、腕を組んだ水瀬が口を開く。
「今朝、通りすがりに聞いたんだ。昨日の放送で、口原なんぞを呼び出していたようだが、一体何のためだ?」
突然話題に挙げられた口原が、表情をこわばらせた。
「……お前、それを聞くためだけにわざわざあっちこっち駆けずり回ったのか? ご苦労と言いたいとこだけど、暇なのか?」
「やかましい。どうせまた貴様は、ロクでもないことを企んでいるのだろう? 室長としての仕事もしないままにだ」
「おいおい、今までのこと考えると反論はできないけど、今回のこれは室長としてのれっきとした仕事だぞ? 三級イレイザーを鍛えて戦力になるようにするのが俺の最終目標で、そのサンプルとして口原を強くしようと思ってるだけだ」
「口原を? ……はっ、馬鹿馬鹿しい」
嘲笑に顔を歪めて、俺の答えを鼻で笑う。それだけでなく、廊下のあちこちから失笑のような笑い声。それを聞いた口原が、居心地悪そうに身を縮めた。
「貴様の奇行は今に始まったことではないから、今度は何を言いだすかと思えば――笹宮、貴様も知っているだろう? 口原のグラフィティがどれだけ弱いのか。なぁ、口原」
矛先を向けられ、口原は逃げるように俯くけど、水瀬は構わず続ける。
「最優秀訓練生だというのに、その性格。三センチ動かすだけなど、ある意味貴様にお似合いのグラフィティではあるがな。期待外れの烙印まで押された今、この組織全体が貴様にとって針の筵だろうに」
口原の胸を抉るようなことを歯に衣着せずにズバズバと言う。口原は俯いた顔に、怯えたような表情を浮かべている。
――水瀬は、天上天下唯我独尊を地で行くほどの超傲慢な性格だ。
外見がなまじ完璧なだけに、内面のバランスの悪さが一層際立つ。そんなだから触らぬ女神に祟りなしなんて言われるんだよ。俺も水瀬も、嫌われ具合なら多分そう変わらんぞ。
実力は確かに、一級イレイザーの中でもトップクラスだけど――性格が最悪に近いせいで、未だにチームを組むことができてない。俺みたいな特級イレイザーならともかく、水瀬の場合は……うんまあ、自業自得としか言いようがない。
一匹狼といえば聞こえはいいけど、要するにぼっちということだ。
「そこまでしてホワイトキャンバスにこだわる理由がお前にあるのか? 気弱な自分を変えたい程度の理由で居座り続けられるほど甘い組織ではなかったはずだがな」
上に立ってないと気が済まないってだけの理由しか持ってないお前がそれを言うのか?
「…………」
口原はなにも言い返せない。水瀬のわざとらしい言葉だけが、訓練室に響いている。
「……なあ、平上」
そんな中、俺は声を潜めて話しかけ、
「なんで水瀬の奴、あんなに口原に突っかかってるんだ? 面識あるの?」
と訊ねる。今となっては落ちぶれた三級イレイザーの口原に、プライドの高い水瀬が突っかかってる理由が、ちょっと見えない。
そんな内心を察したらしく、平上は納得したように話してくれた。
「えっとですね……琴ちゃん、最優秀訓練生だったじゃないですか」
「だな」
「で、訓練生時代のときにふぅ先輩が訓練の様子を見に来たんですよ。なんでもチームメイトの候補を探しに来たらしくって」
「あいつにまだチームを組む意思があったとは驚きだな」
「で、琴ちゃんに目を付けて言ったんですよ。正式にイレイザーになったら私のチームに入れてやってもいいって」
「とことん上からだな、あいつも」
「ただ、琴ちゃんがあの性格なんで……」
――え、あの……あたしなんかが水瀬先輩と組むなんて恐れ多いですよ。絶対脚を引っ張っちゃいますからダメですって。本当に、ロクでもないことになりますから。ここは他の人を探したほうがいいと思います。絶対、その方が良いと思いますから。
「――みたいなことをいって、ふぅ先輩の誘いを断っちゃったんですよね。ただ、二人の溝を深めちゃったのは断ったことよりも……」
「あー、つまり口原のうじうじした態度が気に入らなかったと」
平上は頷く。
「実はわたしもふぅ先輩から『見どころがある』って何度か誘われてるんですけど、丁重にお断りしてるんですよ。面倒くさいの目に見えてるんで。それでも別に嫌われた様子はないから、ふぅ先輩が琴ちゃんを気に入らないのは、性格が原因と見るのが妥当かと」
さらりと毒を吐く平上が、ちょっと沈んだトーンで続けた。
水瀬は、嫌いな奴はとことん嫌うタチだからな……俺もがっつり嫌われてるし。
「しかも、まだ昇格もできてないから……」
「それにつけ込んで言いたい放題ってわけか……相変わらず性格わりーな、あいつも」
やれやれと何度目になるかわからないため息をつく。
――と、唐突に、水瀬が一度、口を止めて表情を消す。
「……口原。貴様、一言ぐらい言い返したらどうだ」
嘲笑から侮蔑へ、水瀬の表情が切り替わる。
「ここまで言われっぱなしで、貴様は何も言いたいことがないのか? そんなわけはないな、貴様にもプライドぐらいあるだろう?」
試すような、それでいて見下した視線で見つめられる口原は――
「文句があるなら、言ってみろ」
今にも泣きそうな目で水瀬をみて、口を開こうとして――そのまま閉じた。
結局、口原は――なにも言えなかった。
「……腰抜けが」
吐き捨てるように言って、目を細める。
「つくづく、イレイザーには向かん性格だな。そんな臆病者だから、先日も見捨てられたんじゃないか?」
「っ、ふぅ先輩!」
口原の顔がくしゃりと歪んだ。さすがにこれ以上言わせるとまずいと思ったのか、平上は口を挟もうとしたが――
「その辺にしといてやってくれるか、水瀬」
ぱんぱん、と手を叩きながら間に割って入ったのは、飛鳥さんだった。
「いくらなんでもさすがに言い過ぎだろ――おっ?」
水瀬の言葉に耐えかねたらしく、目元を拭うようにして、口原は廊下へ走り去っていった。それを肩越しに一瞬だけ見て――再度、正面からその視線をぶつけるように、飛鳥さんは水瀬を見た。
「あのなぁ、あんま人が気にしてることをずけずけと言うもんじゃねえぞ」
「ふん……私が口にしたのはただの事実だ。気に病むのは奴の勝手だろう」
「だからよ……あぁっ、ったく」
バリバリと頭を掻いて、眉間に皺を寄せたのち、説得は無理だと言うように背を向けた。
「お前と口原の間に何があったのかは俺は知らん。だが大事なのは立場や力じゃなくて、グラフ連中と戦う覚悟じゃねえのか?」
口原を探してくる、と最後に言い残して、飛鳥さんも外へ歩いていった。水瀬は、しばらく面白くなさそうに眉をひそめて――ふと、口を開く。
「……ふん。話を戻すが、笹宮。貴様、本当に口原を育てるつもりか?」
「? 当たり前だろ」
そのために呼んだんだから。
「徒労に終わるぞ、間違いなくな。あんなグラフィティ、どう使おうが実戦で役に立つはずがない。三センチ物を動かしたところで何ができる」
「……くっくっく」
急に笑い出した俺に、水瀬は何だこいつ、という表情をした。
「いや、やっぱその辺、俺とお前の違いが出てるよなぁと思ってさ」
「はぁ?」
「お前に取っちゃ強いグラフィティが強い能力なんだろうけど、俺の考えは違う。効果はしょっぱくても、結局は発想と使い方次第だ。化ける可能性はどんなグラフィティにも存在する――つまり、弱いイレイザーはいても弱いグラフィティはないってことだ」
「理解に苦しむ話だな」
その言い草には、ちょっとカチンときた。
「ま、バトル漫画の醍醐味を水風船に理解しろって方が無茶かな」
挑発的に口にした直後、水瀬の正拳突きが俺の顔面めがけて放たれる。俺はそれを、顔を左に逸らすことで躱した。
舌打ちする水瀬に対して、俺は笑って言う。
「二週間後でどうだ」
「……なに?」
「お前と口原の決闘」
俺の意図を測りかねたのか、水瀬の眉がぴくっと動いた。
「……貴様、本気で言っているのか?」
今度こそ正気を疑うと言わんばかりの視線を受けて、俺は頷く。
「もちろん俺は本気だよ。二週間あれば、口原はお前に勝てるぐらい強くなる」
「はっ、馬鹿馬鹿しい話だ。私が受ける理由がないな」
提案が却下されそうになったところで、俺は魔法の言葉を水瀬に告げる。
「なんだよ、負けるのが怖いのか?」
「誰に向かって言っている? いいだろう、その勝負受けてやる」
二つ返事で水瀬が返した。……ちょろいなぁ。隣にいたみよりさんも、視線だけで俺に告げる。水瀬ちゃん、ちょろいねぇ、と。
「とはいえ、勝った時の私のメリットがないと言うのも事実だな。わざわざ労力を使って三級イレイザーの中でも最底辺の口原を叩きのめすなど、意味はない」
「メリットねぇ……あぁそうだ、じゃあこういうのはどうだ?」
ぴっ、と人差し指を立てて、言う。
「お前が勝ったら、俺が一つだけ、なんでも言うこと聞いてやるよ」
「……なに?」
水瀬の目に、獲物に飢えた肉食獣のような光が灯る。
「室長権限でなんでも叶えてやる。つってもまあ、できる範囲でな。さすがに特級に引き上げろってのとかは無理があるから」
「ふん、私もそこまで馬鹿ではない。それよりも、本気だな? 反故にできると思うなよ?」
「俺をそんなにセコい奴だと思ってんの? 約束は守るっての」
頷いた俺の顔を見て、水瀬は言質を取ったと言わんばかりに笑いだした。
「ふっ……はははっ! いいだろう、ならば二週間、せいぜい口原を鍛えることだな! あまりに一方的な決着では興ざめだろう? だが――」
くるりと金髪を翻し、――肩越しに最後の一言を放つ。
「三級イレイザーごときが百人束で掛かってこようと、私が負けるはずはないがな!」
そう言い残して、珍しいことに上機嫌で、水瀬は俺の前から姿を消した。
……しばらく、沈黙が下りた後。
「……あの、笹宮室長。決闘の張本人置き去りにしちゃってますけど、大丈夫ですか?」
ここにすらいませんけど、という平上の質問に、俺は。
「ま、大丈夫じゃね?」
と適当に返したら、ものっすごいジトっとした目で見られたので、慌てて弁解する。
「あーいや、なんの考えもないってわけじゃない。むしろ、ちょうどいいだろ」
「なにがちょうどいいんですか?」
「精神へし折れる一歩手前のここが根性の見せ所だろ――この逆境を乗り越えてこられるなら、きっとあいつは強くなれる」
「乗り越えられなかったら?」
「惜しくはあるけど、それまでだな。水瀬の不戦勝でも実害被るのは俺だけだし」
あっけらかんと笑う俺を、変わったものを見る目で見てくる平上。さっきが盆踊りするエイリアンを見る目だったことを考えると、だいぶ柔らかくなったんじゃないだろうか。
やがて、ぽつりと平上は言う。
「でも、琴ちゃんは戻ってきますよ。どんなに辛い訓練でも乗り越えていた琴ちゃんを、わたしは少し後ろからずっと見てましたから。ちょっと、立ってる位地は変わっちゃったけど――だから、きっと今回も」
大丈夫です、と締めた平上の顔には、口原への確かな信頼が浮かんでいた。
……友情ってのはいいねぇ、と口の端を吊り上げた俺は、
「ま、そうなることを祈ってるよ」
と、呟いた――思いのほか、期待の感情が言葉に乗ったような気がした。
「でも、珍しいがんじゃないがけ? 銀くんがあそこまでムキになるって」
みよりさんが、覗き込むように言ってくる。
「……俺、ムキになってました?」
「もうちょっと軽い景品にしても釣れそうやったけどね。なんでも言うこと一つって、えらい大きく出たなぁと」
みよりさんがニヤニヤしてる。
「夢を否定されたみたいでカチンと来ちゃった? それとも……」
じぃっと目を覗きこまれて、思わず目を逸らす。
「口原ちゃんの可能性を否定されたからカチンと来ちゃったがかな?」
「……さぁ、どうでしょうね」
「素直じゃないがんやからぁ」
やれやれと言いたげに、みよりさんが微笑した。
◆◆◆
「…………」
水瀬先輩から逃げてきたあたしは、目元を拭いながら廊下を歩き続ける。
暖房もついてない廊下は、空気が恐ろしく冷たい。頭を冷やすにはちょうどいいともいえた。
とにかく今は一人になりたかった。となると、向かう先はやっぱり屋上だ。屋上に行ける階段があるのは本部棟の反対側、研究棟の隣の部隊棟。チームでミーティング等を行うときに申請を出せば、部屋の使用を許可される棟だ。ここの三階からでなければ屋上へは向かえない。
「……あんなに言うこと、ないじゃない……」
部隊棟の三階へ向かう階段を昇りながら、誰にも聞こえないぐらいの声で、ようやく水瀬先輩への文句を呟いた。
意味がないにも、ほどがあるけど。後の祭りってこういうことかな?
ふっ、と乾いた笑いを漏らして、虚しくなった……どうせ腰抜けですよ、あたしは。
水瀬先輩の言葉を思いだし、緩みそうになる涙腺を締めるためにぐっと歯をくいしばる。
「……やっぱり、あの人は苦手」
笹宮先輩と同じぐらい苦手だ。
常に自信満々の水瀬先輩を思い浮かべる。腰に手を当てた仁王立ちが無駄に似合う水瀬先輩は、なんでああも自信に漲っているのか。
「……やっぱりグラフィティかな」
水瀬先輩は、それはそれは強力なグラフィティを持っている。あたしなんかとは比べ物にならないグラフィティ〈天水創造〉は、まさに一級イレイザーに相応しいものだ。
ただ、やっぱりそれだけでもないんだろうとは思う。
最優秀訓練生――その座は、才能だけで奪えるほど軽い場所じゃない。
きっと、あたしと同じか、それ以上に努力を重ねたんだと思う。
そして、その努力を重ねた自分自身を信じているからこそ――文字通りの、自信に満ち溢れているんだろうな。
あたしは、逆だ。
努力を重ねはしたけれど、結果が出なければ意味がない。
最優秀訓練生なんて肩書は、あたしにとっては結果ではない。何の意味もなさない代物でしかなかった。
例えば最優秀訓練生になって、結果を出していたならば、もう少しは自信がついていただろうけれど。
三センチ、物質を動かすだけじゃ結果なんて出すこともできず。
根拠のない自信を抱くことのできないあたしは、こんな場所まで落ちぶれた。
周りの同期は次々に二級に上がっていく。新奈だって二級になった。
そして、焦ったあたしは――無謀な真似をして、結局、昨日死にかけた。
「……惨めだなぁ……」
自虐的にそう呟いて、階段を昇って三階にたどり着いた時――聞き覚えのある声が曲がり角の向こうから聞こえてきた。
「……っ!」
その声に、あたしは顔を引きつらせる。現状もっとも会いたくない人たちの声だったからだ――慌てて、あたしは身を隠せる場所を探し、屋上へ向かう階段を、できる限り静かに駆け上る。踊り場を折り返して、その場でしゃがんだ。これで下からは見えないはず。
「――ったく、マジ昨日は散々だったよなぁ」
「その話、四回目だぞお前」
ぎゃはははは、と馬鹿みたいに笑う三人組――思いだしたくもないけど、忘れられるはずもない。
あたしの同期で、一応三人とも二級に昇格している。昨日あたしがセカンドハーフに同行させてもらったチームであり――あたしをトカゲの尻尾にして、まんまと逃げおおせた人たちでもある。
「なんであんな化物が出てくんだよ? いくら六百メートル級でも強すぎんだろ」
「やっぱあれだろ、口原の不幸が伝染したんじゃねーの」
あたしの名前が出て、自然、体が強張った。
「つーか、お前もよくあんな提案受けたよな。セカンドハーフに同行させてほしいってのはともかく、手柄まで欲しいなんてよ」
――そんなことを、チームメイトに頼めるはずもない。だから、あたしたちのチームが非番だった日に、唯一顔見知りだった彼らに、恥を忍んで頼んだんだけれど。もちろんタダじゃない。
「お返しに何でもするって言ってたんだぜ? そりゃ引き受けるだろ、あいつ外見はいいんだからよ」
自分のいないところで褒められていると知っても、言っているのがあの三人だと全く嬉しくなかった。今となってはなんてことを口走っていたのかと後悔してる。
「うっわ、ゲッスい発言だなオイ」
「まぁデートの一つや二つは付き合ってもらおうと思ってたけどな?」
「そりゃ華があってよろしいこって」
ぎゃはははは、と再び笑う三人組の会話を聞き――背筋を走る悪寒で、体は震えていた。
あたしは。
焦っていたとはいえ、あんな人たちを頼っていたのかと。
こうなってくると、昨日首長竜に遭遇したのは、運が良かったのか悪かったのかもわからなくなってくる。
――首長竜の力を見た後、あの三人に続いてあたしも逃げようとした。
けど、三馬鹿の中でもリーダー格の馬鹿が、
『何でもするって言っただろ! 俺たちの逃げる時間を稼げ!』
と言ってきた――ふざけないで、とも思ったけど、全員が追い付かれて死んでしまえば中の状況を外に伝える人間がいなくなる。
それに、どうせ犠牲になるなら――曲がりなりにも二級に上がっている彼らよりも、あたし程度が犠牲になった方が、ホワイトキャンバスの戦力低下は少ないだろうと思ったのも事実だし、現実だった。
結果として、あたしはギリギリのところで室長に救われたわけだけど。
「しっかし、まさかあいつも生き残るとは思わなかったよな。やっぱ腐っても最優秀か」
「でもまずいんじゃね? 俺らがあいつ囮にして逃げたことチクられたら」
「いやぁ、あいつにそんな真似できるとはおもえねーな。あの気弱だぞ?」
「そりゃそーだ。しかも俺たち、あいつが自分から囮になったって報告してんだ。むしろあいつの評価は上がってんだろ、逆に感謝してほしいぐらいだね」
ぎゃはははは、という笑い声。
――ふと。
話を聞いていて、体が震えてきた。さっきまでの悪寒が理由じゃない、別の震え方。
あの三馬鹿の醜悪さに――じゃない。自分があまりに情けなくて――これも違う。
自分の心の奥底から湧き上がってくるような、これは一体何だろう。
気づけば、爪が食い込むほどに拳を握り込む自分に気づいて――ああ、そういうことか、とあたしは体の震え、その理由に気が付いた。
「怒ってるんだ、あたし」
言葉にした途端、火山が噴火するように、自分でも驚きの激情が体の隅々に満ちていく。
あんな人たちにコケにされていることが、酷く腹立たしく思う。あんな人たちがあたしより上に立ってるのが、びっくりするぐらい気分悪い。今までに感じたことのない怒りの感情に身を焦がしながら、三馬鹿が歩き去ってしまうのを待つ。
屈辱、っていうのは――こういう時に使う言葉かな。
いまならきっと、面と向かっても言いたいことを言えると思う。
ただ、いま怒りに任せて文句を言っても、負け犬の遠吠えにしかならない。三馬鹿に軽くあしらわれて、それで終わり。
だったら、どうするのか。
――そんなの、決まってるよ。
三馬鹿が下の階へ行ってしまったのを確認して、踊り場から動き出す。三階から二階へ降り、あたしは再び研究棟を通り、本部棟を経由して訓練棟へ向かう。三馬鹿には間違っても遭遇しないように気をつけながら。
自信が欲しい。
そのためには、強くならなくちゃいけない。
かつてないぐらいの確固たる決意を胸に、あたしは訓練室の前に立つ。
そして――
◆◆◆
……口原の奴、もう行ったかね?
ここは部隊棟の二階――階段前の、窓の外。
その窓の桟に指を引っ掻けてぶら下ってた俺は、足音が遠ざかっていったのを確認。懸垂の要領で体を持ち上げて、目だけを出して確認する。
「ん……よしよし、誰もいないな」
ここに隠れる際に開けた窓を再び開いて、勢いをつけて体を持ち上げた後に、ひょいと中へ身を躍らせると、腰に巻いてた上着が揺れた。
「ふぃー、気づかれなくてよかったぜ」
口原を探しに出たはいいものの見失った挙句、三階に昇ろうとしたら三馬鹿連中の話を聞いちまい、顔を合わせるのもどうかと思った俺は思わず窓の外へ身を躍らせていた。
もうちょっと隠れる場所がなかったとも思わないが。緊急事態だったから仕方ない。今が冬に差し掛かってて、誰も外にいなくて助かったぜ……危うく通報もんだ。
「……ま、わざわざフォローにくるまでもなかった、かね?」
自分で開いた窓を閉め、口原が向かったであろう方向――研究棟の方を見て、笑う。
気が弱いと俺もずっと思っていたが、どうもそれだけじゃぁないらしい。最優秀訓練生にまで選ばれたその根性を発揮するのは、案外これからかもしれんな。
「さて、と」
口原のこれからに期待しつつ、俺は一階へと脚を進める。
三馬鹿の話は俺も聞いていたが――口原的には、これ知られたくなかったことなんだろうな。まぁその辺の気遣いも含めて、頑張って隠れたわけなんだが……このタイミングで連中もあの話題を出すかね? つくづく、口原は運が悪いと思わざるを得ない。
一階の廊下を歩いているうちに、姿よりも先に声で連中の位置を把握する。馬鹿笑いしている三馬鹿へ向けて、俺は足音を隠しもせずに近づいた。
三馬鹿になんの用か――ってのは、ちょいとばかり『ヤブ』な質問だな……あれ、『ヤベ』だっけ? ……まあいいか。
あいつらへの用事とか、そんなものは決まっているだろ。
チームメイトを命の危険に晒されて、平然としてられるほど俺は温厚な人間じゃないぞ。
俺の接近に気づき、三馬鹿が振り向くと同時。
「ぶっふぁふぉ!?」
ど真ん中の馬鹿の横っ面を、思いっきりぶん殴った。クロスカウンター気味に入った拳は絶妙で、真ん中馬鹿がフィギュアスケートの選手みたいにぐるぐる回転しながら吹っ飛んだ。どうやらギリギリ意識はあるようで、片手で血が流れる鼻を押さえながらもう片方の手を左馬鹿に取ってもらってる。
「ひぇっ……ひぇめぇ、あひゅか! いきなりなにひやがる!」
顎が外れたのか、痛みでアゴが動かんのか、随分と間抜けな喋りになったな。
「何の説明もなしに、なんだってんだよ?」
「ゴミ掃除すんのにわざわざ埃を掃くとか言わねえだろ」
「ゴミだァ!? いきなり殴ってきたかと思えば言ってくれるじゃねえか!」
「仮にも仲間を見捨てるような奴らをゴミ以外になんて言えってんだ」
その言葉を聞き、三馬鹿の表情が等しく強張った。
「てっ、テメェ、まさかさっきの話聞いて……!」
「お、落ち着け! おい飛鳥さんよ、グラフィティも使えないのに三人相手にできんのか?」
セカンドハーフと訓練室以外でのグラフィティの使用は、基本的に禁じられている。単純に、いらん被害を出しかねないからだな。
しかし、グラフィティだけに頼っていると思われるのは心外だな。
勝ち誇ったように言う右馬鹿への返答は、ゴキゴキと鳴らす指の音と――
「吹けば飛ぶような埃がどんだけいようとおんなじだ。グラフィティなんか必要ねえよ」
引く気は無いという意思表示。
「テメェらのその腐った根性、今すぐ叩きなおしてやるから覚悟しろ!」
――十二月の廊下は確かに涼しいが。
俺の怒りを冷ますには、焼け石にミミズ程度の効果しかないようだった……ん? なんか違うか?
◆◆◆
あたしは、訓練室の扉を開く。
「……よう。帰ってくると思ってたぞ、口原」
訓練室で待っていた三人の視線があたしに集中する。
水瀬先輩がいないのはほっとしたけど、壱彦先輩の姿も見えない……? いったいどこに行ったんだろう? ――じゃなくて。
「……笹宮先輩。あたし、本当に強くなれますか?」
それを聞いた笹宮先輩は、何を今更、と言いたげに口の端を吊り上げ、言う。
「当たり前だ」
その返事に、その眼光に――少し、安心した。
この人なら、きっとなんとかしてくれると。
気弱な自分を変えるぐらいの、自信が欲しい。
その自信を手に入れるためならば――笹宮先輩の指示に、全力で従う。
「あたしの体は、今から笹宮先輩に委ねます。なので、よろしくお願いします」
「ぶっ!? げほっ、げほ!」
……なんでこのタイミングで咳き込むかな?
「……琴ちゃん、言ってること分かってる?」
「……っ! ……っ!」
呆れたような新奈の視線、そして突然お腹を抱えて笑いだしたみよりさん……そんなに変なこと言った、あたし? だって、あたしが強くなれるかは笹宮先輩の指導方法にかかってくるわけで、つまり何をすればいいかの指示を仰ぐために体を、ゆだ、ね――
「――っ!」
新奈の視線の意味に気づき、あたしは一気に赤面した!
「ちょっ、ま……ち、ちが、あ、あああの、そういう意味じゃなくてですねっ!」
「い、言うな、分かってる。今のは動揺した俺が悪かった」
手を振ってあたしの言い訳を制してくる笹宮先輩……うわあぁあ、あたしってばテンションに任せて、頭の中で考えもせずになんてことを……っ!
両手で顔を覆って、恥ずかしさに悶えていると、新奈が場を仕切り直すように言う。
「いやー、琴ちゃんが立ち直ったみたいでよかったよ。壱彦くんに励まされた?」
「え、壱彦先輩? ううん、会ってないんだけど」
「そうなの? じゃあどこ行っちゃったんだろう? っていうか、何のために琴ちゃん追ってったんだか」
相変わらずさらりと酷い新奈の発言に、一応ケータイで連絡しておけば、と提案した。
「っていうか、琴ちゃん一人で立ち直れたんだね。ますます壱彦くんいらなかったなあ」
「あ、あの……新奈、そのぐらいにしといてあげたら?」
なんだか新奈の中で壱彦先輩の評価がダダ下がりしてた。
……なんだろう、なぜかすっごい不憫に感じる。
「でも……こういう訊き方するのもどうかとは思うけど、琴ちゃん、なんで戻ってきたの?」
新奈の素朴な疑問に、あたしはどう答えたものかと少し考えて。
「ん……あんな人たちよりも下にいるのが、ちょっと悔しくなっちゃって」
「あんな人たち?」
「気にしないで」
細かく話すのもちょっと気が引けたので、お茶を濁して話を変える。
「それじゃあ、笹宮先輩。改めてご指導、よろしくお願いします」
「お、やる気満々だな? そうこなくっちゃ」
笹宮先輩は、みよりさんの白衣を手に持って、あたしに笑いかける。
「じゃ、まずは訓練の再開といこうか!」
「……はい!」
本当に大丈夫かと思ったのは一瞬。笹宮先輩に、付いていくと決めたから。
あたしは手渡された白衣を持って、今一度自分に誓う。
――絶対に、強くなって見せるんだから。
「あ、そうそう。言い忘れてたけど二週間後に水瀬と決闘取り付けたからよろしくな」
「あ、はい、分かりました。二週間後に、水瀬先輩、と……っ!?」
……水瀬先輩と、決闘!?
ちょ、待って!
「聞いてないんですけどっ!?」
返事は、けらけらという笑い声だけだった。
◆◆◆
「うーっす、やってるな」
一仕事終えた後、俺はケータイに入ってた連絡を見て、口原が立ち直ったことを知った。よしよし、とガッツポーズをして、俺は悠々と帰ってきたわけだ。
「あ、お帰りー、飛鳥くん」
話しかけてきたのはカチカチとカウンターを使っている巫女、もとい松葉。適当に返事を返し、部屋の中を見回す。
訓練室の中央あたりでは、サッカーボールでヘディングでもするように斜め上を向いた口原の姿。その視線の先では、白衣がばっさばっさと動いていた。シュールな絵面だな。
そしてタイミングを間違えたのか、白衣が床にばさりと落ちた。
「十五回。意外と慣れるんも早いかもしれんね?」
「いやあ、まだまだ! 口原、まずは目指せ百回だ!」
「ひゃっ……りょ、了解です」
笹宮に熱血したセリフを吐かれて怯んだ口原は、それでも白衣を拾い上げた。
そして上に放り投げようとしたところで俺に気づいたらしく、口原がこっちへ走り寄ってくる。
「あ、壱彦先輩。あたしを探しに出てくれたって聞きました……ありがとうございます」
「いいよ、チームメイトのこと心配すんのは当然だ。それに、結局見つける前に立ち直っちまってんだから世話ねえよな」
礼を言ってきた口原に、続けろよと促した。口原が頷き、白衣を空中へ放り投げる。
その横顔は、この訓練を始めた時と違って、迷いが消えていた。
「――で、壱彦くん? いったいどこで何してたのかな?」
隣へ近寄ってきた新奈ちゃんが訊ねてきた。
いつもの俺ならどもっていただろう――だが、今日はあらかじめ答えを用意してきている。いつまでも頭の悪い俺だと思うなよ、新奈ちゃん!
「あー、ちょっと腹が痛くなってな、トイレに籠ってた」
「へぇー、壱彦くんっていつから女の子になったの?」
新奈ちゃんの視線が俺の腹部に向けられる。……しまったと俺は少し焦った。
血が数滴、腰に巻いたジャケットに飛んでいた。これじゃあただトイレに行ってたってんじゃ理屈が合わないな……。
でもなんでトイレと血で女子扱いされるんだ?
隣では松葉が、「意外と平上ちゃんってエグいこと言うねぇ……」と呟いてたが……なんなんだか?
俺が新奈ちゃんの意図を測りかねてると、ふっと馬鹿にしたように口を開く。
「壱彦くん。正直者が嘘つかない方が良いよ? 意味ないから」
「いや、ほんとだって。腹痛くなってさ――」
「はいダウト。だって壱彦くんが問い詰められて即答するなんて、事前に答えを考えてたからでしょ。その辺の駆け引きって壱彦くん本当下手なんだから正直に言って?」
「……新奈ちゃんはもうちょっと羽衣着せようとは思わんのか……っ!」
「歯に衣って言いたかったの? 壱彦くんって本っ当に馬鹿だよね」
言い間違いまで訂正されて、俺はじりじりと崖っぷちに追い詰められていく錯覚を覚えた。涼しいはずなのに冷や汗がじわりと滲む。
これ以上新奈ちゃんの機嫌を損ねたら冗談抜きで崖から突き落とされかねない。俺は両手を挙げて降伏した。この状態の新奈ちゃんには、今まで敵ったためしがない。
「いや、本当に大したことじゃないって――ただの、個人的な喧嘩だよ」
「喧嘩?」
「そ、喧嘩。あと説教」
――この日から約二日後。
あの三馬鹿が、指を詰めんばかりの勢いで口原に謝罪に来たらしいが、それはまた、別の話だ。
――プログラム開始から一週間が経ち。
「あ、あの……笹宮先輩」
「ん? なんだよ、口原」
朝一にグラフィティ訓練室に来るのは、あたしと笹宮先輩だけ。その二人っきりの時間に、あたしは昨日から膨れ上がっていた疑問を訊ねてみた。
「……いやあの、身をゆだっ……委ねるとか、いっておいてあれなんですけど……あたし、水瀬先輩に勝てるんですか?」
あたしと水瀬先輩との決闘を取りつけられていたと知ったのが、六日前。
しかも、あたしが負けた場合は、笹宮先輩が水瀬先輩の言うことをなんでも一つ聞くというおまけつきで。
……新奈の話だと、笹宮先輩は、あたしが水瀬先輩に勝てるぐらい強くなると言ってくれたそうだけれど。
「その……白衣弾いてるだけじゃ、何もできないような気がして」
一週間、空中の白衣を落とさないように弾き続けてきた。百回どころか昨日は二百回以上を記録したけど、未だにあたしはあの訓練の意味がよくわかっていない。
「……ふむ? つまり、不安だってか」
「ええと……はい」
ただでさえ苦手なタイプの人なのに、水瀬先輩は一級イレイザーの中でもトップクラスの実力者だ。
白衣を弾くだけの訓練しかしてないのに、不安に思うなという方が無理だと思う。
六日前の覚悟はなんだったのかと思わないでもないけれど、テンションをずっと維持できるほど、あたしは自分の精神を制御できません。
「そうか……じゃあ今の訓練にも慣れてきたみたいだし、新しい訓練も取り入れるか」
「……っ!」
思わず息を呑む。
「そ、それは……どんな訓練なんですか?」
きっと、水瀬先輩に勝てるぐらいに強くなるための訓練だ。生半可な物じゃないと思う。だけど、絶対に音を上げたりなんかしない。
強くなってやるんだという確固たる意志を胸に、あたしは笹宮先輩の言葉を待つ。
「ラップでも弾いてもらおうかな!」
「えぇ……」
思わず音を上げたけど、これあたし悪くないよね?
◆◆◆
「よーっす、やってるなー二人と、も……?」
「? どうしたの、壱彦、く……」
グラフィティ訓練室に入るなり、わたしたちはシュールな光景に言葉を失ってしまった。
「あ、新奈。おはよう」
「おはよー、琴ちゃ……じゃなくって」
わたしたちに気づいた琴ちゃんが、両手を挙げたままわたしたちへと話しかけてきた。その手の先からは、薄っぺらくて透明な膜が垂れ下がっている。
何かと思ったけど、あれラップだ。引き延ばしたラップを横につなげてあるんだ。そして部屋の中には、散乱する無数のテニスボールが……
「……あのさ、琴ちゃん。何してるの? まさか訓練だなんて言わないよね?」
「えっと、それは――」
「もちろん訓練に決まってるだろ!?」
わたしにそう返してきたのは、琴ちゃんの反対側に立つ笹宮室長。その手に握るはテニスボール、どうやら散らばっているボールは笹宮室長が投げたものであるらしい。
「さーて口原、じゃあ次行くぞ!」
「は、はい!」
ぐるんぐるんと肩を回す笹宮室長に、琴ちゃんが迷うことなく返事する。……琴ちゃん? ちょっとは人を疑うことを覚えたほうがいいんじゃないかな?
それとも、琴ちゃんはあの訓練の先に何があるのかを既に聞いているのかな?
笹宮室長がボールを投げ、琴ちゃんの持つラップにばすっ、とぶつかり皺を作る。
「失敗か……よし、次行くぞ!」
何が失敗だったのか、どうなれば成功なのかが分からない……。
「まあ、あれだけ見ても何やっとんがんかわからんちゃね」
苦笑しながら、バインダー片手にみよりさんが近寄ってくる。
「説明してあげっちゃ。あれはね――」
と、その時。
笹宮室長のブレスレットからけたたましい警報音が響き、ボールを投げようとしていた笹宮室長がつんのめった。非常に耳にうるさいこの音が示すのは――
「――セカンドハーフか」
壱彦くんがぼそりと呟く。
セカンドハーフが出現した際、緊急警報として、待機命令を課せられている団員の通信機から一斉に警報が鳴りだす。ただ、この数日間一緒にいて分かったけど、笹宮室長には常に連絡が来るようになってるみたい。
次いで、警報が鳴りやみ――ピピッ、ピピッ、という呼び出し音。
あれは、通信が入った時の音だ。
「――こちら笹宮。どうしました?」
『お疲れ様です。笹宮室長、先ほどセカンドハーフが出現しました』
「うん、それは分かってるんですけど、なんでわざわざ俺に……あ。そういえば今日って」
思い当ることがあったのか、笹宮室長が苦い顔をした。
『はい、水瀬さんが他の希望者を抑えて出撃希望をしているため回線を繋ぎます』
「やっぱりか……了解です」
オペレーターの話を聞き、納得したように笹宮室長が応じる。
短い電子音のあと、笹宮室長が口を開く。
「よう、水風船。出撃を希望したらしいな」
『……貴様、次会ったときは覚えておけよ……』
そして通信機の向こうから、聞きなれた声。ふぅ先輩だ。
『それで、なんだというんだ。わざわざオペレーターに命令してまで回線を繋げるとは』
「いや、お前が行くのはいいんだけどさ、お前グラフを撃退してばっかだろ。たまには封印して来い」
『はぁ? 貴様は馬鹿か、私一人で封印なぞできるはずもないだろう』
「じゃあ今回のお前の出撃は認めないから。行きたいなら三分以内に同行する封印班を決めること。言っとくけどこれ室長命令だからな」
『なっ、きさ――』
ふぅ先輩の言葉を待たず、ぷつりと通信を切った笹宮室長。……ふぅ先輩の血管も切れたんじゃないかな……。
「今の、どういうことですか?」
「ああ、言った通りの意味。水瀬の奴グラフを撃退しかしてないからな。今度出撃希望した時は俺に繋ぐようにオペレーターさんに言っておいたんだ」
わたしの質問に答え、肩を竦めた笹宮室長。
「まあ、あいつも大概ぼっちだから多分無理だと思うけ――」
途端、呼び出し音を鳴らしたのはわたしのブレスレット型通信機だった。
「……まさか?」
「……このタイミングってことはたぶん、そうでしょうね」
『――聞こえるな、平上? 貴様らのチームは手が空いているだろう、今からセカンドハーフへ向かうぞ』
「……また随分急ですねえ……どうしたんですか?」
まさか笹宮室長とわたしたちが一緒にいるとは思ってないんだろうなー。
『文句なら笹宮に言え。封印班を連れていかねば私の出撃を認めんなどとほざいたんだ』
「それで、雪子さんがいるわたしたちのチームに打診してきたと」
『封印班はそもそも人材が少ない。心当たりに声は掛けたが、どいつもこいつも臆病者ばかりでな。残りはお前らだけなんだ。当番でもないのに悪いが頼めないか』
ふぅ先輩が諦めればいいんじゃないのかなー、と思わなくもなかったけど、ふぅ先輩その辺意地っ張りだから、引っ込みつかないんだろうなー。
「壱彦くん、どうする?」
「ん? いいんじゃないのか」
「はーい。じゃあ、雪子さん呼んできてもらえる?」
あいよー、と返事をして壱彦くんが出て行った。
「ふぅ先輩、壱彦くんの許可も出ましたからオッケーですよ」
『そうか、助かる。あぁそうだ、どうせならば口原の奴も連れてこい』
「琴ちゃんもですか?」
名前を出された琴ちゃんが、ラップを構えたままぎょっとこちらを見た。
『ああ、どうせならば力の差と言うものを見せてやろう』
「はぁ……分かりましたー。じゃあすぐ正面に行きますね」
通信終了。
「だそうですけど、よかったですか? 笹宮室長」
「……自分でまいた種だからな。こうなるのはちょっと予想外だったけど、仕方ない」
「あ、あの、笹宮先輩、あたしはどうすれば――」
「どうもしなくていいんじゃないか? いまの水瀬の口ぶりだと戦わせる気は無いみたいだし。せっかくだから水瀬の能力をしっかり見てこいよ。対策も立てやすくなるだろ」
パンパン、と笹宮室長が手を打った。
「ほら、いくなら急げよ。こうしてる間にもセカンドハーフは降下してきてるんだからさ」
笹宮先輩に急かされて、わたしと琴ちゃんは訓練室を出た。
正面玄関へと向かう途中、琴ちゃんがそう言えば、と言いたげに口を開く。
「今さらだけど、新奈って水瀬先輩のことふぅ先輩って呼んでるよね? なんで?」
「あ、琴ちゃんふぅ先輩のフルネーム知らないんだね」
走りながら、取り出したメモ帳に、その名前をさらさらと書く。
「これがふぅ先輩のフルネームなんだ」
『水瀬 羽流雲』
「……新奈、これなんて読むの。いや、字が汚いって意味じゃなくてね」
「ばるうん」
「……あぁ、なるほど……それで笹宮先輩も水風船って……」
琴ちゃんにしてはとても珍しい、同情したような表情を浮かべてこう呟いた。
「つまり、キラキラネームの煽りをもろに受けちゃったってことね……」
その通り、とわたしはこくりと頷いた。
◆◆◆
私――水瀬羽流雲は、自分の名前が嫌いだ。
親は「風船みたいにふわふわした子に育ってほしいよね」などと願っていたらしいが、生憎私はそれを見事に裏切って、融通の利かない堅物に育った。自覚はしている。
小さい頃は名前のことでからかわれることが多かったから、上に立ってあのバカどもを見返してやろうという子供らしい反逆心が、今の私の原点だろう。
上を目指すその生き方のおかげで、敵も随分と増えた気がするが――私の努力に追い付けもしない怠け者の僻みなど、一々受け取る義理もない。
ほぼ孤立している現在は、『羽流雲』という名前が図らずもぴったりな状況だ。人の手に届かぬ場所で、一人ふわりと浮かんでいるようなものだからな。地味に腹立たしい。
しかし、今の私には名前よりも嫌いで、この状況よりも腹立たしい者がいる。
特級イレイザーにして防衛室『室長』笹宮銀、その人である。
◇◇◇
私は、笹宮が嫌いだ。
訓練成績が低め。それだけならば私はああも奴に突っかかりはしない。全力を出さない奴は嫌いだが、全力を出してその程度ならば仕方がない、という考えが私にあるからだ。
ただ、一度だけ――訓練生時代、私は一度奴に敗北を喫しているのだ。
対グラフを想定した集団訓練――セカンドハーフを模した円形のフィールドの中にいる三人のグラフ役に対して、イレイザー役の十人が立ちはだかるという訓練だ。
これは数の利をどう活かすか――また、数の不利をどう乗り切るかを想定したもので、グラフィティを得ようが得まいが、動き方の基本は変わらない。
グラフ側の勝利条件は、イレイザー側の背後にある出口から円形の外へと脱出すること。これは統計的に、セカハン内部のグラフは、イレイザーが侵入した場所から外へ出ようとすることが多いため。
逆にイレイザー役の勝利条件はと言うと、グラフ役の完全無力化だ。グラフ役の両手両足、そして首には外れやすいリングが嵌められており、それをすべて奪うことで無力化となる。もしくは、制限時間二十分の間にリングを三つ以上奪い、グラフ役を外へ出さないこと。後者の場合、グラフは封印されたと見なされるのだ。
ただこれだとグラフ側が厳しすぎるため、三人にはペイント弾が込められた銃、塗料の入った風船、同じく塗料の入ったペットボトルが支給される。それによって汚れたイレイザー役はグラフによる攻撃を受けたと判断されその場で倒れることになる。
――その訓練で、私はイレイザー側の指揮を執り、笹宮はグラフ側の指揮を執ることになった。
とはいえ、それまでの戦績はほぼイレイザー側の勝利で終わっていたし、塗料を浴びればアウトと言っても、それを防ぐための障害物もいくらかある。
状況は私たちの圧倒的有利だった。当然、負けるとは思っていなかった……しかし。
結果として、私たちのチームは敗北に追い込まれた。
笹宮の奴は、あろうことかペットボトルの塗料を、イレイザー役に向けるのではなく自ら被ったのだ。そして頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになった奴は言う――「これでお前ら、俺には触れないな?」
イレイザー側は汚れてしまうことが失格条件、しかしそれはグラフ側のルールではない。塗料でずぶ濡れになった笹宮に触れた時点で、リングを奪う前に失格だ。
そしてイレイザー役の隊列に、自爆上等とばかりに突っ込む笹宮――想定外の事態に隊列・行動を乱したイレイザー役の足元で、ぱぁんと弾ける塗料風船。どうやら笹宮に目を奪われていた隙に別のグラフ役が転がしていたようで、それが更なるパニックを誘う。
加えて側面から襲い掛かる、三人目のグラフ役のペイント弾――見る見るうちに数は減り、最終的に私も塗料を浴びて失格、なんとグラフ役は全員が生き残って悠々と円内から抜け出したのだった。
「あんなの反則だろう」などという声が上がったものの、笹宮は飄々とした様子で、
「持ってる武器を最大限利用しただけだろ? 逆に、触れた時点でアウトな能力を持ってるグラフがいないとも限らないだろうに」
という実際の戦闘を見越した一言で、その場の全員が黙らざるを得なくなった。
それにそもそも、実際の戦闘と言うなら、身体強化系のグラフィティでも持っていない限り、生身でグラフの攻撃を受けた時点で私たちは死ぬか、かなりの重傷を負うことになるだろう。脚が千切れれば動くことはできず、腹を貫かれれば痛みで動くこともままならない。この訓練は、『イレイザー側が相手の攻撃をいかに喰らわずに無力化できるか』という側面も持っていたのだと敗北した後で気づかされた。
――無論、その後のルール改変等により、笹宮の取った作戦を他のチームが使うことはなかったが。
確かに、本物のグラフはその時限りの戦いをする方が確かに多い。当然だ、各々持っている力が違うのだから。意表を突かれた、など戦場ではなんの言い訳にもならないのだ。
そういう意味では、奴の着眼点・そして作戦の立て方には目を見張るものがあった。奴が隊列を崩した直後の追い打ちも、恐らく奴の指示によるものだろう。
そして勝利した奴は、普段の訓練の時とは全く違う、ぎらつきながらも楽しそうな顔を見せていた。
笹宮は訓練の時に手を抜いている、と悟ったのはその時だ。
それからはなんども全力でやれと言ったのだが、奴はのらりくらりと躱すばかり。
腹が立って仕方なかった。仮にも私に勝った男がああでは、私の示しがつかんのだ。
結局、訓練期間が終了するまで奴は自分のスタイルを変えることなく、弱い能力が手に入りますようになどと禁理室に入る前に合掌していたほどだ。腹立たしい。
ところが、手に入れたのはあり得ないぐらい強力なグラフィティ。あまつさえ、その力だけで奴は特級イレイザーと防衛室『室長』に任命される始末。
能力の強さに僻んでいるわけではないが、それに腹が立たないといったら嘘になる――しかしそれよりも腹が立つのは、奴が室長としての仕事をほぼしていないという現実だ。
書類の類は秘書である中滝さんに丸投げ、奴本人はほぼ毎日小説・漫画を読みふける毎日だとか。訓練をしているという話も聞かないし、セカンドハーフへ行くとしてもSOSが入った時のみ。そして今度は何を思ったか、百歩譲って三級を育てるのはよしとしても、見込みのない口原琴音を育てるなどと言いだした。
奴の奇行は目に余る――だが、それもあと一週間で終わりだ。
一週間後――口原に引導を渡し、笹宮にはこう命じるつもりだ。
室長として、全力で仕事をしろ、と。
◇◇◇
「……これが今回のセカンドハーフか」
ホワイトキャンバスの送迎車――緑のランプを車体の上で点灯させた白のワンボックスカーから脚を踏み出し、見上げる。
富山支部から車で二十分――の、ところを、運転手さんが赤信号無視速度制限無視で飛ばしてきた結果、五分でたどり着いた。
目の前にあるのはトンネルが通っている山なのだが、その山はいま、濁ったオーロラのような外観を持つドームによって覆われていた。ここへ来るまでの間に得た情報によれば、今回のセカンドハーフは直径四百メートル。空中に現れてから徐々に地上へ降下し、最大円周でとどまるため、上は最大二百メートル、と言ったところだな。
セカンドハーフの大きさは、発生するごとに違うが――出現するグラフが強く、高い知能を備えているほどに、その直径は大きくなる。
平均は三百メートル前後、五百を超えるとかなり大きな方に入る。そこまでの大きさになれば、一級イレイザーが率いるチームか、二級のチーム複数で向かうことを推奨されている。つい先日、六百メートル級に二級のチーム単体で向かった馬鹿もいたようだが。
四百メートルという今回の大きさを考えれば、この中にいるグラフは、構えるほどではないが油断できるほどの雑魚でもないだろう。
――中へつながる道からは、内部にいたのであろう車が、警官の誘導の元、次々と抜けてくる。セカンドハーフは、一般人に影響を及ぼさない。故に、通りぬけることができる。問題点があるとするなら先が見えにくいことだが、そのための警官の誘導である。
だが万が一グラフが実体化した際の危険性を考慮し、セカンドハーフの周囲二百メートルからは人々が避難させられる。いま出てきた車も、速やかにこの場を離れることだろう。
――まあ、私が来たからには、それも徒労に終わるだろうが。
「支部へ。セカンドハーフを確認。これより突入する」
『了解しました。……再確認しておきますが、今回は封印ですよ?』
「分かっている。それでは行くぞ、お前たち」
「はーい」
平上が呑気に胸を揺らしながら降りてくる……妙に良い発育してるな、あいつ。別に胸にコンプレックスはないが、思わず自分と比べてしまう。
「うう、ちょっと緊張するなあ……」
「ま、今回は見学みたいなもんだろ? 気楽に行こうぜ」
ちょっと蒼い顔をして歩いている口原を励ましながら、飛鳥さんが口にした。
そして、もう一人――とたたっ、と慌てたように追いかけてきたもう一人。
「……朝森さん。今日はよろしく頼む」
「……ぉ……く」
声が小さくて聞き取れん!
「……飛鳥さん。なんだって?」
「よろしく、だとさ」
苦笑して翻訳してくれた飛鳥さんの後ろに隠れるようにしている彼女の名は、朝森雪子。飛鳥さんのチームが擁する封印班の人間だ。
身長は百四十センチをギリギリ超えたぐらいだろうか。ホワイトキャンバスの制服の上にさらに大きめのレインコートを着て、おまけにフードまで目深に被っているものだから、外見合羽を着ている小学生にしか見えん。小さなリュックを担いでいるから、なおさらに。
フードからチラチラ覗く童顔も、全体の幼さにより一層拍車をかける。強いてそんな外見とずれている部分を上げるとするなら、フードの端から見え隠れする明らかに染めた茶色の髪だろうか。
さらに、彼女は声が小さい。飛鳥さんは無駄に耳がいい(平上談)らしく聞き取れるようだが、私には途切れ途切れで、しかも聞こえてほぼ母音のみという、蚊が鳴く方がまだ聞こえるかもしれない音量だ。正直、困る。
しかし、一番驚きなのが――この外見で、十九歳という一点に尽きる。
そう、私たちの中で一番年上なのだ、この人は。
……封印の実力は確かにあるらしいが、正直不安は拭えなかった。
まあ、ここまで来て文句も言っていられない。
私は、全員を促して、セカンドハーフへと足を踏み入れた。
◆◆◆
ずぶり、と田んぼに手ぇ突っ込んだような感覚が全身を覆った。ドームの外周を抜けると、そこには薄暗い景色が広がっている。
見かけは、外からの景色と全く同じ、山。だが漂う雰囲気は明らかに別物だ――避難し終わってないはずの一般人が人っ子一人見えないせいか、酷く静か。時折聞こえるめきめきという音と、どこからか吹く風だけがこの空間のBGM。
セカンドハーフ――二次元から襲来するグラフが、完成するために三次元を目指して通る、トンネルのような異空間にして異次元の災厄世界。
二・五次元狭界(セカンドハーフ)とはよく言ったもんだ。
空に突然球体として出現し、落下した先の風景を二・五次元上に完全再現する性質を持っているため、外からの見た目は全く変わらない。巻き込まれた車までそこに再現するんだから、本当無駄なコピー能力だよなと思う。
ただ、通常、この空間――二・五次元上の世界へ侵入することはできない。研究者の説明によると、単純に『次元が違うから』らしい。
だから、三次元の存在である人間は、セカンドハーフの中に入ろうとしても通りぬけ、普通にセカンドハーフに覆われた、三次元の町の方に入ってしまう。
ここに、避難を続けているはずの人はおろか、カラス一羽虫一匹もいない理由がそれだ。
じゃあ逆に、どうやったらこの空間に入ることができるのか?
この場所へ入ることができるのは、ここに出現するグラフを元とする能力・グラフィティを持つホワイトキャンバスのイレイザーか、あるいはグラフィティの影響を受けている道具を持っている人物だけだ。
俺たち四人はイレイザーで、隣でふらっとしてる雪子さんは、現場へ向かう団員なら全員持ってる技術開発室お手製の通信機器を持ってるから、侵入可能ってことだ。
って、おいおい。先を行く三人のあとを追おうとした雪子さんの小さな体が、かなり大きく傾いたので慌てて背中を支えてやった。
「とっと、大丈夫か、雪子さん」
「……だ、だいじょうぶ」
かなり小さな声でそう返してくる雪子さん。幸い俺は耳がいいから、雪子さんとの会話は円滑に進む。周りの奴らはほとんど聞こえてないらしいけどな。
セカンドハーフに入った直後は、次元の違いからかは分からんけどちょっと酔ったような感覚になって、ふらつくことも結構多い。
大丈夫ならいいんだが……。
「ま、無理しないでくれよ」
ぽすぽす、と思わず手を置いたら、フードからちらちらと見える頬がかぁっと赤くなる。そのあと雪子さんがぶんぶんと手を回してきたので、ひょいと手を引っ込めた。
「……わたしのが、年上……」
「ははは、悪い悪い」
雪子さんの頭がすげー置きやすい位置にあるから、思わず撫でたりすることがあるんだよな。やっちまう度にかなり恨みがましい目で見られるんだけど。
そのあとに雪子さんは頭に手をやって、なんかすこし遠くを見てぼーっとしたあと、いきなり頭をぶんぶんと振りだした。この行動の謎っぷりといい、外見といい、悪いけど子供にしか見えねーな。
雪子さんとは、もうぼちぼち半年ぐらいの付き合いになるか――チームに加わってくれそうな封印班の人間を探しているときに、富山支部の隅っこで、人目を避けるようにスケッチをしていた雪子さんを見かけたのが最初だ。
普通に話しかけて、雪子さんが小さな声で呟いた一言に、普通に返しただけで雪子さんが目を丸くしてたのはよく覚えてる。そもそも会話が成立する相手が少ないらしい。
で、ちょくちょく話して仲良くなって、チームに俺が誘ったと。はは、まだ半年しか経ってないのか、あれから。なんか随分前のような気がするな――
そう思ったとき、山の方から聞こえためきめきと樹木のへし折れる音が、俺の意識を過去から現在に引き戻す。
……気を抜いてる場合じゃなかったな。ここはもう戦場だ――隣にいる雪子さんも気合を入れているのか、むふーっとしていた。だから和んでいる場合じゃないってのに。
「では、手筈を整えておくとしようか」
先を歩く水瀬が、脚を止めずにそう口にした。薄暗い世界の中、あいつの金髪は眩しいぐらいに映えるな。はぐれた時にはいい目印になりそうだ。
「とはいえ、このぐらいのセカンドハーフならば中にいるグラフも知れている。ほぼ私一人で大丈夫ではあるだろうな。基本的に私が攻撃と足止め、平上は私のサポートだ」
「はーい」
ゆるっとした調子で、栗色の髪をふわふわさせながら新奈ちゃんが返事をする。
「それから、朝森さんの準備が整うまでのサポートは、飛鳥さんでいいだろう」
「ん、まあ妥当だな」
新奈ちゃんのグラフィティはどっちかってーとサポートメインだからな。戦闘においてメインを張れる俺と水瀬は二手に分かれたほうがいい。万が一不意を打たれて無防備な雪子さんが狙われた場合、新奈ちゃんだけじゃちょっと手に余るかもしれんし。いや、もちろん防御という一点に関しては、俺や水瀬を遥かに凌ぐんだけど。
傲慢だけど、現場における指揮とかはちゃんとしてる。だれもが苦手だと思っちゃいるみたいだが、こいつの実力は誰もが認めざるを得ないレベルにある。
……それだけに、だからもうちょい性格が丸くなればなぁ……。
「……あの、あたしはどうします?」
特に指示を出されていない口原が水瀬に訊ねた。対して水瀬は、特に見向きもせずに言う。口原のことなど眼中に無いと言わんばかりに。
「貴様はただ見ていればいい。私との実力の差と言うものをな」
「……わかりました」
サイドテールを揺らして歩く口原は、無表情。声も抑揚を押さえた平坦な物。
ただ緊張しているだけ――なら、いいんだけどな。
「ん? どうしたんだ、雪子さん」
じぃっとこちらを見上げてくる雪子さんに気づくが、目が合った瞬間逸らされてしまった。が、そのあとそろりとこちらを再び見上げ、胸に手を当てながら小さく口を開く。
「……ょ、ょろ、しく……」
「おう、もちろん。こっちこそ頼むぜ、雪子さん」
俺がそう笑い返すと、雪子さんはこくりと頷いて、珍しくいつもより早足になる。なんか、上機嫌だな……ま、やる気があるのはいいことか。
歩いているうちに、山の麓にたどり着く――途端、木の枝を揺らす音が俺たちの方へ近づいてきた。
「……近いな。油断するなよ」
「ふん。誰に向かっていっている」
俺の言葉に対して水瀬が不敵に呟くと同時、雪子さんが右手を背後に回して、リュックの中からバインダーを取りだす。左手は前に回して、レインコートを全開にする。
レインコートの内側、膝丈スカートの腰回りには、美容師とかが腰に下げてる道具入れみてーなものがぶら下ってる。中に入っているのはペンや消しゴム、色鉛筆からクレヨンまで、ありとあらゆる絵を描くための道具が揃っていた。
そして、バインダーの紐を首にかけ、リュックからもう一つの道具を取りだす。
何も描かれていない真っ白な本――グラフの封印に必要不可欠な道具、『白本』。薄めではあるが、サイズは辞典ぐらいある。
それをバインダーに開いてセット、封印の準備が万端になった雪子さんがペンを構えた。
口原は俺たちの後ろへ――今回は、本当に見ることに徹するらしい。
水瀬・新奈ちゃんは前方へ。
油断なく……っつっても水瀬はどうだか知らんが、少なくとも新奈ちゃんが油断なく見つめる先――バキバキバキ、と木がへし折れる音が響き。
「――来るぞっ!」
水瀬の一喝と同時、がさぁっ! と山林から一体の影が飛び出した。
――さあ、戦闘開始だ!
えへへ、嬉しいなあ……まさか壱彦くんが隣にいてくれるなんて。水瀬さんのことは性格的に苦手だけど、この采配はぐっじょぶと言わざるを得ないよね!
……はっ。
緩みそうになる頬を、わたしは頑張って抑える。だめだめ、もう敵が来てるじゃない。
わたしは自制心を極限まで高めて、目の前のグラフを観察する。
飛び出してきたのは、猿と熊を足して二で掛けたような、三メートルはありそうな大きな怪物だ。ところどころ、ぼやけた輪郭だったり、色が薄かったり、立体感がなかったりもしているけれど、この威圧感は紛れもなくグラフ。
顔はお猿さんがベースだけど、唾をまき散らす口元は熊。ふさふさで気持ちよさそうな毛に覆われている二の腕は、五本の細長い指で握っている大木と変わらない太さ。胴体と脚は腕に比べれば細いけど、それだけにより一層腕の太さが際立つ。お尻から生えてる尻尾は、先端が鏃のように尖っていた。
けど、そんな外見的特徴を差し置いて、最も目立つ部分がある――いや、『無い』って言った方が良いのかな。
心臓から右肩にかけての部分が、完全に欠落している。輪郭すらも存在しない。
グラフが『落書き(グラフ)』と呼ばれる、最大の所以。
異次元ならぬ二次元よりやってくる彼らは、そもそもは人の想像力から生まれるものであるらしい。
例えば、未完成のお話のキャラクター、例えば設定だけを適当に作られて完成まで持っていかれなかったネタ。果てには机の端の落書きなど――大雑把に形作られてはいるけど細部の詰めが甘いまま放置された、人の想像力の成れの果て。それが中途半端に実体を得て動き出したものがグラフだとされている。
その半端な部分を完成させるために、完全な実態を得るために、三次元――つまりこのセカンドハーフの外を目指して、彼らはやってくる。
――もっとも、セカンドハーフの外へ出たところで、欠落した場所は欠落したままらしいんだけれど。話して聞かせて、はいそうですかって帰ってくれる相手でもない。
だから、わたしたち、ホワイトキャンバスの役目は――セカンドハーフの外に、グラフを出さないこと! 四年半前の悲劇を、繰り返させるわけにはいかないからね。
わたしは、グラフのスケッチを始める。
それと同時、グラフも攻撃を開始――片手に持っていた大木の幹を、鉛筆でも投げるような気軽さでぶん投げた。
唸りをあげる大木の幹は、へし折られていて剣山と変わらない。
だけど水瀬さんは表情一つ変えずに言う。
「平上!」
「りょーかいですっ」
祈るように手を組んだ平上さんが、目を開く。
「〈十球儀〉!」
瞬間、平上さんと水瀬さんを、球体の結界が包む。半透明の球体に、太い幹が弾かれた。
それだけじゃない――二人を守った結界の展開と同時に、九個の球体が周囲に現れた。
平上さんのグラフィティ、〈十球儀〉。
ゆったりと動いているそれらは各々に独自の周回軌道を持ち、天球儀のように宙を舞う合計十個の球体結界。ピンポン玉からバスケットボールまで、球体の大きさは大小様々だけど、直径はそれなりに自由に変更できるらしい――大きくすればするほど、防御力は落ちるって言ってたけど。
周回軌道も変更できるらしいけど、結界同士がぶつかんないように気を付けなきゃいけないから結構大変、と以前平上さんが言っていた。
初撃を防がれたグラフが、近くの木を手あたり次第へし折っては投げてくるけど、平上さんの結界がそのことごとくを防ぐ。
そしてグラフが十本目の木を投げようとしたところで、結界が縮小――二人が防御の外に出る。危ないよ、と思ったけど、多分水瀬さんの指示なんだろうな。
「次はこちらの番だな」
そう呟いて、胸の前あたりで右手を水平に振る。するとその軌道に沿って、墨を混ぜた綿菓子みたいな、どんよりとした黒い雲が現れた――雨雲だ。
投げ飛ばされた十本目の木へ向かって右手を突き出すと、手の前へと雲が収束。
「〈天水創造〉!」
グラフィティの名を叫ぶと同時、雨雲から無数の水の弾丸が、激しい雨のように放たれる。それらは投げられた木を空中で穴だらけにしてなお、勢いが全く衰えない。
久しぶりに見た――水瀬さんのグラフィティ、〈天水創造〉。
雨雲を生み出し、そこから放つ雨で攻撃をすることのできる能力だ。水の弾丸で敵を蜂の巣にすることも、呼び出した水で押し流すことも可能な、強力な『水』のグラフィティ。
自らが投げた木を木端微塵にしたその攻撃が危険であることを察したのか、グラフ……くまざるさん(仮)は俊敏な動きで弾幕の範囲から逃れる。
目標を失った弾丸が、破砕音と共に山肌を削り落とす。直線状にあった木が穴だらけになったのはもちろん、根を支える土を失った木々がドミノ倒し式にめきめきと倒れていく。
「ふん――ちょこまかと!」
なんだか活き活きしてる水瀬さんが、右手で円をいくつも描いていく。円が結ばれた場所から、次々に雨雲が発生していく。
水瀬さんがそうしている隙に、くまざるさんがこっちを見た。うひゃあ。
ペンを動かし続けるわたしに向かって、くまざるさんがへし折った木を思いっきり投げつけてくる。うひゃひゃあ。
迫る木を見て、ちょっとだけ身が竦むけど、スケッチの手は止めない。逃げない。
だって――
「雪子さんに手ェだしてんじゃねえっ!」
壱彦くんが、守ってくれるからね。きゃああ、壱彦くん格好いいーっ!
だっ、と跳んでわたしに迫る木の横へ――そして、体を捻って打ち下ろされたハンマーみたいな蹴りの一撃が、強制的に木を叩き落とした。叩き落とされた際に生まれた風でフードがなびく。
「よっ、と」
そして着地した壱彦くんは、わたしが抱えなきゃなんないぐらい太さ、かつ私の身長の倍はある長さで、相当な重量のはずの木の幹を、片手でひょいと上に放り投げ――
「そら返すぞ熊ゴリラぁ!」
落下してきた木の幹を、くまざるさんの方へと蹴り飛ばした。
もちろん、ただの人間にそんなことができるはずがない――いや、壱彦くんなら素の状態でもやりかねないけど、そうじゃなくて。
あれが、壱彦くんのグラフィティ〈四頸〉の能力。
単純な身体強化能力じゃなくて、『頸』っていうのを扱えるようになったって言ってた。
中国拳法とかで言うところの『氣』とか、そんな類の力をより強力にしたものらしくって、それを練って体に流すことで身体能力を引き上げることができるんだとか。
うーん、正直よくわかんないけど、壱彦くんがカッコいいからよし!
そして幹の返品を喰らったくまざるさんは、お断りだと言わんばかりに腕を振り上げる。手首のあたりから、鎌のようにぎらつく爪が現れ、迫る幹を叩ききった。……随分大きな特徴を隠してたなあ。スケッチに描き足さないと。
白本の中には、くまざるさんの姿。ただし、何もない心臓から右肩の部分にかけては、鎧のようなものを装備させた。その姿は、まるで戦士。これで、ちょっとは自然になった。
――ちなみに、わたしだって遊んでいるわけじゃない。これはグラフを封印するのに欠かせない工程だ。
二次元より不完全さを伴って現れるグラフは、『絵』や『文章』と言った形で『完成』されることで、二次元上に縛りつけられるという性質を持っている。
これがいわゆる、グラフの封印だ。
その際に必要になってくるのは、確かな表現力と自由な発想。
グラフをそのままスケッチしても完成しているとは言えない。なぜなら、グラフが必ず持つ欠落部位こそグラフの不完全さそのものなんだから。
その欠落部位をいかに自然に補うか。封印班はそこを問われる。
ちなみにこの白本には、人類初のイレイザー、かの英雄のグラフィティである〈禁術教典〉、そのページのコピーが使われているため、普通の紙よりはグラフの封印をし易くなっている、らしい。技術開発室最大の発明とかって言われているアイテムだ。よくわからないけど、出自が同じだから親和性が高いってことなのかな……? ううん、難しい。
さておき、絵で封印するときは文章に比べて必要な道具も多いけど、下書きがすんじゃえばほぼラインを塗って色を付けるだけ。もちろんいろんな角度から複数枚描かなくちゃいけないから、ある程度の時間はかかっちゃう。
けど、わたしには頼もしいボディーガードがいるから、安心して絵を描くことができる。
グラフが壱彦くんの反撃を防いでいた間に、準備を終わらせたらしい水瀬さんが右手を振り下ろす。
「喰らえ!」
水瀬さんの周囲に浮かんだ無数の雨雲から、さっきの五倍はあろうかという水の弾幕が放たれる。雨っていうか、もはや豪雨。
……封印する気あるのかなぁ? まともに当たったら多分消えちゃうよ?
さすがに喰らってはたまらないと踏んだのか、くまざるさんが跳躍。水の弾幕の範囲から逃れはしたものの――
「ふん、空中では動けんだろう!」
右手に雨雲を収束させる水瀬さん。が、そこでくまざるさんが予想外の動きをした。
尻尾の先端――尖った部分が、指のようにがぱっと開いたのだ。
「――チッ」
先の展開を察して舌打ちを残した水瀬さんが、平上さんの側へ一歩動く。瞬間、弾丸みたいな勢いで、しっぽが二人目がけて伸びた。迫る爪のような尻尾の先端は、しかし――
「〈十球儀〉!」
展開した平上さんの〈十球儀〉に阻まれる。けど、開いた尻尾の先端が、ぎしりと結界を鷲掴みにする。
……まさか。緩くたわみ気味だった尻尾がぴんと張ったのを見て、わたしはくまざるさんが何をしようとしているのか分かった。
「! 平上!」
「わかってます!」
水瀬さんが警告、平上さんが答え――突如、伸びていた尻尾が、巻きとられるメジャーのように素早く縮む。
そして二人に迫るくまざるさんが、勢いの乗った右手を振り下ろそうとして――
「そこっ!」
真横から叩きつけられた結界に、トラックに轢かれたように吹き飛ばされた。
平上さんのグラフィティ、〈十球儀〉は、相手の攻撃を防ぐ盾だけじゃなく、遠心力を付けて相手にぶつけて攻撃することもできる便利な能力だ。ただ、やっぱり球体だから攻撃力にはやや欠ける、のかな?
吹っ飛ばされたくまざるさんが、体勢を立て直す。ただ、全身がさっきより薄くなっているように見えるのは、錯覚でもなんでもない。
グラフはダメージを受けると、二次元側へ強制的に押し返される。血などが出ない代わりに、立体感を失っていくのだ。
そしてダメージを与え続けて、封印をせずにセカンドハーフ(この世界)から強制的に追い出すというのが、いわゆる『撃退』だ。
ただ撃退したグラフは死んじゃうわけではなく、あくまで押し返されるだけ――つまり、いずれまた出現する可能性もあるということだ。
加えて高い知能を持っている個体であれば、こちらの情報を持ち帰ったうえで対策をしてくることすら考えられるため、強力な個体であるほど封印することが推奨されている。
以前それで、他の支部が痛い目を見たことがあるらしいから。
……とはいえ、今回の封印命令は、水瀬さんの自業自得だろうけれど。
さて、下書きは大体できた、かな?
「朝森さん! あとどのぐらいで完成する?」
水瀬さんが、こちらを見ずにそう訊ねてくる。
「じゅ……十五分、くらい?」
「十五分ぐらいだとよ!」
「了解した――ならば、まずは奴の機動力を奪う」
頷いた水瀬さんが左手は上へ、右手はくまざるさんへ向ける。
左手から浮かぶ雲はふわりと上空を覆い、右手の雨雲からは水の弾丸が放たれる。
再び跳躍して逃げようとしたくまざるさんだったけど、
「にがさ、ないっ!」
弧を描いて迫る結界が、くまざるさんの進行方向を塞ぐ。結界に衝突し、動きの止まったくまざるさんを〈天水創造〉の弾丸が打ち抜いた。
左手と、左脚、そして脇腹――それぞれが貫かれて、立体感を失って、ぼやけた輪郭のみと化す。輪郭になった部分はもはや使えないから、これでくまざるさんはだいぶ動きが鈍くなったはず。
しかし攻撃の手を休めることなく、水瀬さんは両手から雨雲を呼び出し追撃する。けどさっきに比べれば随分と散発的な攻撃だ。牽制、かな?
「お、来たな」
壱彦くんの呟きに、くまざるさんの背後へ目をやる――わたしにも、見えた。
グラフがセカンドハーフへやってくるための入り口とも、セカンドハーフの核とも言われる、汚れた虹色の楕円――通称、『窓』。
グラフから一定の距離を保つ『窓』は、グラフがダメージを負うにしたがってその距離を縮めていく。
その性質ゆえ、わたしたちにとってはグラフのダメージを示すバロメーターでもあり、封印するためにあとどのぐらいダメージを与えなければいけないかの目安でもある。
グラフのスケッチを完成させても、それで終わりじゃない。このセカンドハーフにおいては、グラフにある程度のダメージを与え、二次元側にその存在を寄せなければ、二次元上で完成させることはできないからだ。
大体『窓』とグラフの距離が五メートル以内ならば、封印可能圏内だ。
……弱らせないと捕らえられないっていうのは、どこの世界でもおんなじらしいね。
水瀬さんが挟み込むように弾丸を繰り出すけど、くまざるさんは左手・左脚を失ってなお、右脚としっぽを使って器用に避ける。
――ふと、気づく。
向こう側から聞こえる雨音。一瞬、視線を向こう側へやって――え、と言葉を失った。
……み、水瀬さん、なにやってるの……?
あんぐりと口を開けてしまった後、水瀬さんの狙いに気づく。あの弾丸の放ち方は、攻撃じゃなくて――誘導。
ただ、やりたいことが分かっちゃっただけに、不安は拭えなかった。
くまざるさんが、撃退されちゃうかもしれない……。
あれって大丈夫なの、と壱彦くんに訊ねる前に、それの前触れがやってくる。
地鳴り。振動。ズズズズズ、という不穏な音がして――
「ふん、思ったよりも時間がかかったな――山を崩すのに」
にやりと笑みを浮かべた水瀬さんの視線の先には、山頂付近を削り続ける雨雲があった。しばらく前に飛ばしていた、水瀬さんの雨雲だ。
そんな高い所にある場所を、水瀬さんのグラフィティで削り続ければどうなるか。
――轟音と共に土砂崩れが発生し、大木・岩石入り混じる土色の波が、真下に追い込まれたくまざるさんを呑み込まんと駆け下りる。
気のせいか、くまざるさんがぎょっとした顔をしたように見えた。
そして逃げようとしたところで――横から迫った平上さんの結界が広がって、くまざるさんを弾き飛ばさずに包み込む。捕らえられたくまざるさんに、平上さんが呟いた。
「大人しくしててね?」
微笑んだ瞬間、その結界もろとも、土石流がくまざるさんを呑み込んだ。
静寂。
……グラフを封印するために山を崩すなんて、水瀬さん何考えてるんだろう?
ここは二・五次元上だから、三次元の世界には影響がないって言っても……その辺の考え方の吹っ飛び具合が、一級の一級たる所以なのかもしれない。
心配なのは、くまざるさんだ……多分、無事ではあるんだろうけど。かろうじて『窓』は目に入るから。消えているなら、『窓』もろとも消滅するはずだし、ね。
あれだけの量の土石流に生き埋めにされてたら、〈十球儀〉を破ったところで身動きとれないだろうから、これであとはわたしの絵の完成待ちだ。
結構、あっけなく――この日の戦いは、幕を閉じたのだった。
◆◆◆
あのグラフが生き埋めになってから数分後。
雪子さんの作業が終わったらしく、最後に表紙に題名を書く。グラフに名前を付けることが、封印するときの最後の作業なのだそうだ。
タイトルは、『森の戦士』。
途端、白本が淡い虹色の輝きを放ち、グラフが埋まっているあたりから立ち上った光の粒子が、白本へと収束する。
パラパラパラ、と空中で独りでにめくられていった白本がぱたん、と閉じ、光が消失。
白本が、グラフの能力を封じた『禁書』へと変化した瞬間だ。
それが手元に帰ってくるや否や、雪子さんはリュックから取り出した分厚い革のカバーをかぶせる。これで、封印は完了だ。
「お疲れ様です、雪子さん」
「……ぉ……さぁ……」
「おつかれさま、だとさ」
すかさず壱彦先輩が通訳に入る。
「ふっ。大したことなかったな」
封印の完了を見届けた水瀬先輩が、金髪をふわっと掻き揚げて勝ち誇る。
「ちょっとやり過ぎじゃないですか? これ。いくら影響ないって言っても」
「構うまい、こいつらを止めるためなら私たちの行動は全てが正当化される」
「一番危ない人の発言ですよそれ」
やれやれと言わんばかりの新奈にも、水瀬先輩は動じない。
「ところで――どうだ、口原。私と貴様の力の差が分かったか?」
全員の視線が、最後方にいたあたしに向いた。
話を振られたあたしは――
「そう……ですね、よく、分かりました」
素直な感想だった――力の差はよくわかった。
あたしと水瀬先輩の力の差も――水瀬先輩と、笹宮先輩との力の差も。
どう思ったのか、水瀬先輩は上機嫌であたしを見下す。
「ふん、そうだろう。貴様が私に勝とうなどと百回生まれ変わっても不可能――」
「あ、いや」
その言葉に、思わず異議を申し立てていた自分にやや驚いた。自分の言葉を止められてイラッとした風な水瀬先輩に少し怯んだけど、今更言葉を止めることもできずに、あたしは考えていたことを、はっきりと口にする。
「今度の決闘で、水瀬先輩には……勝ちます」
――その場の全員が、息を呑んだ。鼻白んだ風に、水瀬先輩だけが言葉を発する。
「……貴様、本気で言っているのか?」
「はい」
「山すら崩せない貴様のグラフィティで、私に勝てるとでも?」
「……決闘の内容って、山を崩せるかどうかでしたっけ」
揚げ足を取ったあたしに、水瀬先輩は苛々とこめかみをひくつかせる。
なんだろう、この気持ち。確かに、水瀬先輩は強い。それは紛れもない事実。
――だけど、ああそうか。やっとわかった。さすがにこれは口には出せないけど、あたしは自分の思っていることに気づいた。
だからこそ、言える。
「全力で、勝ちに行きます。今度の決闘、負けません」
水瀬先輩の目を、まっすぐに見つめる。水瀬先輩もまた、あたしを見て――
「……ならば、私は全力で叩き潰しに行くだけだ。完膚なきまでに敗北させてやるから覚悟しておくといい」
帰るぞ、と言って歩き出した水瀬先輩とすれ違う。
……ふぅ、と張りつめていた気が抜けた。
「突然どうしたの? 琴ちゃんってば」
あたしたちの様子を無言で見守っていた新奈が、不思議そうな表情で訊ねてきた。
「確かにな。俺はてっきり意気精進してるかと思ったんだが」
「精進してどうするんですか……」
「意気消沈って言いたかったのかな?」
壱彦先輩って本当に色々駄目だよね……。
「ん、んー……どうしたって言われると、ちょっと困るんだけど……意外と、勝てないこともないのかなって、思って。あ、もちろん調子に乗ってるわけじゃないですけど」
「そりゃ、なんでまた?」
壱彦先輩の言葉に、目を逸らしながら答える。
「……えっと、多分、この間の首長竜に遭遇する前なら、多分みんなの予想通りに凹んでたと思うんですけど」
――あたしは、あの時見てしまった。
今回とは、封印と撃退という面において全然違う戦闘の仕方だったけれど――それにしたって圧倒的な、実力の差。
笹宮先輩が、全然本気を出さないままに、力押しで首長竜を撃退してしまったあの力。
「――あれに比べれば、意外と、超えられない壁でもないのかもしれない、って思ったの」
ぱちくりと目を瞬かせてる三人に見られているのが恥ずかしくなってきたから、あたしはサイドテールを揺らして歩き始める。
「さ、行こ?」
三人の返事を待たずに、あたしは少し、小走りに出口へ向かう。
心の内に浮かんだ強気な自分を、少しでも長く維持していたかったから。
◆◆◆
……琴ちゃんがあんなことを言うとは思わなかった。
支部へ帰る車の中で揺られながら、わたしは今日の出来事を振り返る。
わたしたちが出口に到達するかしないかのときに、セカンドハーフは消滅した。グラフが封印・ないしは撃退されてから、時間差で消滅するようになっている。崩された山はもちろん元通り――というか、三次元側に被害は届かないから当然なんだけど。
未然に潰せば被害は出ない、災厄の卵。それがセカンドハーフというものだから。
二十分もすれば規制は解除されるから、あの場所はもう車で渋滞しているころだと思う。
とはいえ、そんなことはどうでもいい。重要なのは琴ちゃんだ。
どういう心境の変化か、琴ちゃんが随分とやる気になっていた。反対に、意気消沈させることに失敗したばかりか、揚げ足を取られたふぅ先輩は不機嫌そうに肘掛をコツコツと叩いている。
二列目で隣に座ってる雪子さんが、萎縮したように小さい体をさらに縮めていた。
そんな雪子さんの手には、バインダーと一枚の画用紙。それから、ペン。時折さらさらと聞こえるのは、雪子さんがペンを走らせているから。
これは、雪子さんなりの決まり事らしい。セカンドハーフでの戦いが終わった後は、その時の様子を絵に残しておきたいそうだ。
むふーっ、と息をつく声がしたので、三列目に座ってるわたしは、後ろから訊ねた。
「雪子さん、見せてもらってもいいですか?」
「……ぁい」
手渡されたバインダーの中に描かれていたのは――
「……わぁ、上手」
思わず漏れた感想が聞こえたのか、雪子さんが恥ずかしそうにフードを引っ張る。
山を背景に、横に集合したわたしたちの絵。山の木が一部へし折れてるのは、あのグラフ――『森の戦士』がいたことを示してるのかな。
一番左には、琴ちゃん。そっぽを向いて無表情だけど、なぜだか暗い雰囲気ではないのが不思議だ。
その隣に、わたし……って、ちょっと。わたしの胸、こんなにおっきくないよ!? 雪子さんにはこんな風に見えてるってこと? 恥ずかしいなあ……。
で、真ん中にはふぅ先輩。金髪を書き上げる姿は凛々しいけど、どこか表情に無理があるような……そう、苛立ちを無理やり押さえてるような表情だ。一々、表現が細かい。
ただ、その隣にいる人物が謎過ぎた。
一番右端にいる雪子さんの頭に手を置いているのは、制服を袖までまくり上げた大柄な青年。引くほど爽やかなスマイルは、一周回ってこっちを見るなと言いたくなるレベルだ。
こんな人、わたしたちの中には……いや、消去法で予想はつくけど。
「……あの、雪子さん。これだれ?」
「……ん」
右から二番目の人物を指さすと、ちょっとむっとした風に助手席を指さした。
そこに座っているのは、壱彦くん。
……デスヨネー。
「そっかぁ……」
わたしは雪子さんにお礼を言って絵を返す。
ぼふっとシートに体を預けて、ふぅーっとため息をつく。
雪子さんには、壱彦くんがああいう風に見えてるわけだ……。前に絵を見せてもらったときは、まだもうちょっと普通だったと思うんだけど。
絵を見て一目でわかる好意の量だった。
力の入れ方が違い過ぎじゃない、雪子さん……。
「さて、今日の特訓はちょっと趣向を変えてみようか!」
銀くんが開口一番そう言った。
「い、いきなり……どうしたんですか?」
口原ちゃんの特訓を始めて八日目、時刻は朝九時。場所は珍しく笹宮室。
ここにおるんは、今日はナース服に白衣の気分なウチことみよりと、口原ちゃんに銀くん、そしてこの部屋の実質的な主である中滝さんだけ。壱彦くんと平上ちゃんは、昨日の戦闘の報告書を書き上げるって名目で水瀬ちゃんに拉致られていったらしい。噂の年上ロリこと雪子さんには、今日もお目に掛かれず。むむ、エンカウント率低いね。
「文字通りさ。まあ最近体動かしてばっかりだったし、たまには頭を使おうかって話」
言い終わると同時に、来客用の机にどかっ、と紙袋を下ろす。
「えっと、今日いつもの訓練やらないんですか? 調子よさそうなのに……」
「昨日の夜もそんなこと言うとったね? なんかいいことでもあったがけ?」
――水瀬ちゃんから誘われて、セカンドハーフへ行ったのが昨日の話。それから帰ってきた後は、やけにやる気があったみたいやったから、気にはなっとったがよね。
「えっとですね――」
口原ちゃんが話してくれたことによると、水瀬ちゃんの実力は確かにすごいものやった。けど、銀くんと比べると、超えられない壁でもないかもしれない、と思ったらしい。
それを聞いた銀くんは――
「やる気があるのは結構だけど、油断するなよ?」
「して……ませんよ」
「お前みたいなポンコツがあいつに能力だけで敵うなんて思ったら大間違いだぞ?」
「あたしのやる気を根こそぎへし折ってどうするんですか……」
見る見るうちに口原ちゃんの覇気がすり減っていく。
とはいえ、自覚のあるなしに関わらず、今の口原ちゃんは虎の威を借る狐やちゃ。
ま、やる気がすり減るだけっていうんもちょっとアレやちゃね。
「口原ちゃんは気弱を直したいみたいやけど、それは決して悪いことでもないがやぜ?」
「え、でも……それだと萎縮しちゃって、戦えないんじゃ……」
「違うな。強気な奴でも弱気な奴でも、戦うときに必要なのは戦う覚悟だ。性格はそんなに関係ないよ」
銀くんがそう言ったので、ウチも続ける。
「強気なんは確かに悪くないけど、気弱やからこそ周囲の危険には敏感になる。グラフと戦って無事に戻ってくるためには、むしろ必要不可欠なものやちゃね」
「注意力の強い奴、戦場で生き残るやつってのは大概、臆病者なんだよ。よく言うだろ?」
ステレオで諭された口原ちゃんは、目を回しにかかっとった。
「き、気弱なまま……臆病なまま戦う覚悟……?」
そんな様子を見た銀くんが苦笑しつつ、持ってきた紙袋の山を差す。
「まあ、だから今日は水瀬に勝つための作戦を練ると同時に、こいつを読んで応用力を高めようかって思って持ってきたんだ」
そう言って銀くんが取りだしたんは――
「あら懐かしい。昔図書館で読み耽っとった漫画じゃないがけ」
「名作ぞろいですよねえ」
両手にずらりと並んだのは様々な漫画の単行本。どれも能力バトルものやった。それを見た口原ちゃんが、正気に戻ってぽつりと一言。
「……え、いやあの……遊んでる場合じゃないと思うんですけど……」
「まあまあ、一応理由があるんだ、これにも。水瀬みたいな堅物は否定しがちだけど、漫画から得る知識ってのも案外馬鹿にできないもんだぞ?」
「グラフィティ事態が既に空想の産物みたいなもんやからねぇ。訓練期間の真面目な座学よりかは、漫画みたいな雑だけど荒っぽいやり方が参考になることも案外多いがんやちゃ。似たような能力を使うキャラがおったら、そこから色々ネタを持ってこれるからね」
再びウチら二人から同時に諭され、しかしまだ納得がいかないのか、口原ちゃんはぼそぼそと反論する。
「……三センチ弾くなんて能力を持ってるキャラがいるとは思えないんですけど……」
「あくまで参考の話だっての。それとも、よっぽど嫌な理由でもあるのか?」
じっ、と銀くんに見られて、言葉に詰まる口原ちゃん。多分、口原ちゃんが断ったなら、銀くんは要望通りに訓練室に行くんやろう。強制を促す視線じゃなく、問いかける目やし。
銀くんなりに、考えがあっての今回の訓練。それを口原ちゃんも理解しているからこそ、彼女は即答できんがやろうね。
そして――
「……わ、分かりました。笹宮先輩に従います。わがまま言って、ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げた口原ちゃんにほっとしたような表情をした銀くん。
「いや、別に謝れって言ったつもりはないけどな」
「それで、どれ読めばいいですか?」
「これなんかどうよ? 一つの能力でできることが滅茶苦茶幅広いって漫画なんだけど」
「あー、それ面白いがんよね」
「これですか? あたしも少し読んでたけど、伏線張る期間長いからちょっと離れちゃったんですよね……ちょっと! 空間に扉作るとか反則じゃないですか!」
「な、面白いだろ?」
ウチら三人が、それぞれに思ったことをあーだこーだと口に出す。
今日の訓練は、賑やかなことになりそうやった。
◆◆◆
……少し、思いあがってたのかな。
漫画を読みながら、さっきまでの自分を見直してみた。調子に乗って失敗する味方サイドの人間があたしと似たようなセリフを言っていて、かなり恥ずかしかった。
あたしと水瀬先輩の力の差が開いているように、水瀬先輩と笹宮先輩にも力の差は開いている。だけど、それは別にあたしが勝てるかもしれないなんて理由にはなりえないことを、今更ながらに悟った。
笹宮先輩に勝とうと思うならば、確かに水瀬先輩に勝つことの方がハードルは低く見える。でもそれは、超えられない壁が高すぎる壁に変わった程度に過ぎない。
水瀬先輩は、今のあたしでどうこうできる相手じゃ、ない――
そう結論を出して、ちょっと精神的に沈んだ状態で、漫画を読み始めて二十分ほどが経った頃。突然みよりさんのスマホが着信音を鳴らした。
「もしもし? ……あ、了解やちゃ。そしたら今から行くし、うん、よろしくねー」
スマホでの通話を終えたみよりさんがナース服のポケットにそれをしまい、ドアノブに手をかけながら振り向いた。
「ごめーん、ちょっと用事できたから外出してくっちゃー」
「はい、いってらっしゃい」
あたしはそう口にしてみよりさんを見送った。
扉が閉じ、部屋の中にはあたしと笹宮先輩の二人だけ。いや中滝さんもいるけど、こっちのことにはほぼノータッチだから……。
……うわ、どうしよう。何話せばいいかわかんないんですけど……!
みよりさんが行ってしまったのをきっかけに、あたしたちの間には沈黙が下りる。ぱら、ぱら、という漫画を開く音だけが、部屋の中に静かに染みていく。
……い、居心地悪いよ……そうだ、何か質問を!
「しゃさ宮せんぱっ……」
……緊張しすぎて噛んだ。
「……何、緊張してんの、お前?」
「い、いやっ、そのっ……べ、別に緊張しているわけじゃ……っ」
もぉー、恥ずかしい……顔真っ赤だよ。頭を振って、質問のために再度口を開く。
「さ、笹宮先輩って、なんでそんなに弱い能力が好きなんですか?」
素直な疑問だった。普通は、強い力とかが好きだって人が多いはずなのに――そう、例えばあたしみたいに。
派手で、格好良くって。敵を寄せ付けない圧倒的な強さ。
――笹宮先輩が持ってる〈七式〉なんて、まさにそれを体現したようなグラフィティだ。
意外にも、あたしの質問に対して、笹宮先輩は考えるように天井を見た。
「ふぅむ……あんまり、そういうの訊いてくる奴っていなかったからな――どっちかっていうと、なんであんな強い能力が不満なんだって訊いてくる奴がほとんどだったし」
そして、少しの間目を瞑って――
「やっぱ、夢ってのもあるかな。それに、格好いいじゃん」
「弱い能力が?」
「正確には、弱い立場にいるやつが、知恵と工夫を凝らして逆転するのが、だな」
ニヤリと笑いながら、笹宮先輩が訂正してくる。
「だって、工夫と覚悟が実力を塗り替えるとか、最高に熱いじゃねーか」
「そう……かもしれないです、ね」
「ま、自分じゃそれができなくなったから口原にやってもらおうと思ってるわけなんだけどな。逆に、口原はなんで強い能力に憧れてるんだ?」
……え。あたしは思わぬ質問に一瞬思考を停止させてしまった。で、言葉に詰まった挙句、あたしが捻りだしたのは――
「だって……強い力を使って格好良く戦えたら、気弱な自分も変えられると思って」
そんな子供みたいな一言に、笹宮先輩はこういった。
「そんなもんかね? 確かに強い力は、派手だし戦いやすい。けどそれ故に、手に入れたやつは力の工夫を怠る。そうして足元を掬われる」
俺が言えた義理じゃないけどな、と笹宮先輩は、珍しく自嘲の笑みを浮かべた。
「で、そういう奴らは死んじまうか、生き延びても敗北に身を震わす。間近で感じた死の恐怖から逃げるように組織から抜けていった優秀な奴らを、俺は少なからず見てきたよ」
わずかに憂いを帯びた声音。室長が――笹宮先輩が、珍しく表に出した苦悩。
「だから結局のところ、必要なのはやっぱり覚悟なのさ。能力の強弱に関係なく、たとえ死にかかってもまだ戦える覚悟がな」
だからこそ、と笹宮先輩は言葉を続ける。
「首長竜と戦って死にかけて、組織の中でもボロッカスみたいな扱い受けて、それでもまだ戦う意思のある口原は絶対に強くなれる――自分を変えられる。俺が保証してやるよ」
――そんな言葉が、不覚にも、あたしの涙腺を緩めた。慌てて、漫画で顔を隠す。
「……その、自信は一体どこから、くるんで、すか……」
声が震えているのに、気づかれないだろうか。
「今までの口原を見てきたからだよ。あんなに頑張ってた所を見せられたら、教える側としては期待せずにいられないさ」
そんな、一歩間違えればプレッシャーにもなりそうな言葉も、なんだか今はすとんと胸に落ちてきた。涙腺をぎゅっと締めて、漫画の上の方から目だけを出す。
「……やっぱり、笹宮先輩のことは、ちょっと苦手です」
「ありゃりゃ。そりゃ悪かったな」
肩を竦めた笹宮先輩が、手元の漫画に目を落とす。
そしてあたしは、聞こえない程度に、ほんの少し、口を動かす。
「……苦手、なんだけどなぁ……」
ぽつりと呟いたその一言は、笹宮先輩の耳には届かない。
それでよかったけど、ちょっぴり残念でもあった。
――ふと、頭に思い浮かぶ光景は、あたしと笹宮先輩が初めて会った時のこと。
抱き上げられていたんだ、と今更ながらにちょっと意識して――あの時の笹宮先輩の横顔が、なんでか中々、頭の中から離れてくれなかった。
◇◇◇
「じゃじゃじゃじゃーん! たっだいまーっ!」
「わぁっ!?」
突然扉を開いて帰ってきたみよりさんに、あたしはびっくりして声を上げる。
「おかえり、みよりさん」
「いやー、ごめんね、待った?」
「ほんの一時間ぐらいじゃないですか。で、例のブツ、出来てました?」
「もっちろんやちゃ!」
二人が、あたしに意味の通じない会話をする。何かを取りに行ってたってことかな? そう思って見ると、みよりさんの手にはなにやら布の巻かれた、細長い何かが握られている。長さから察するに、竹刀とか? 二メートル……も、なさそうだけど、かなり長い。あたしの身長と同じぐらいはあるかもしれない?
そんな風に考えていると、笹宮先輩とみよりさんが揃ってあたしに視線を送った。なんか妙にニヤニヤしてて、あたしは思わず立ち上がって一歩後ずさる。
「な、なんですか……?」
じり、と一歩詰めよってきた笹宮先輩が、みよりさんから受け取った白い布の包みを、ずい、と差し出してきた。
「ここまで頑張ってきた口原への、プレゼントって奴だ」
「え、ぷ、プレゼント……?」
「そう。みよりさんの従兄――技術開発室に頼んで作ってもらった。グラフィティを最大限有効活用するための、口原専用の武器だ」
――あたし専用の、武器……!
あまりにも甘美な響きに、あたしはむしろ疑わしく思って手を出しあぐねる。
「ほ、本当に、こんなのもらっちゃっていいんですか?」
「むしろ口原専用だから、他の奴に渡したって仕方ないんだよ。ほら、受け取れ」
ずずい、とさらに差し出されたその武器を、あたしは恐る恐る、両手で受け取った。ずしり、と心地いい重みがあたしの腕にのしかかる。
「こ、これって……なんなんですか? 形状から察するに、剣とか?」
「まあ、開けてみろよ」
するり、と布の端をほどいてみた。緊張とワクワクで、心臓の高鳴りが止まらない。
端から現れたのは、どこかで見覚えのあるJ字の持ち手。……ステッキかな?
その持ち手を持って、布からあたしの武器を引き抜く。
そして現れたのは――
「びっ、ビニール傘ぁっ!?」
折りたたまれた透明なフィルム、それを支える銀色の鉄骨。そして見覚えがあるどころじゃないJ字の持ち手――どこからどう見てもビニール傘である。
「ちょっこれ! 武器って言うか日用品じゃないですか!」
「ちっちっち。もちろんただのビニール傘じゃないがんよ、口原ちゃん」
予想を見事に裏切られてパニックを起こしたあたしに、みよりさんが説明してくる。あ、もしかして、見た目がビニール傘ってだけで何か特殊な力が――
「透明性と強度を両立したフィルムに、ウチの従兄のグラフィティによって強化された鉄骨。そんじょそこらのビニール傘とは比べ物にならん耐久力を持っとるよ!」
「ってことは、これを構えれば敵の攻撃を防ぐことが――」
「できるわけないだろ。市販のビニール傘よか丈夫って程度だぞ」
「じゃあ何のために作ってもらったんですかこれ!」
思わず声を荒げるけど、笹宮先輩は全く動じない。
「それで攻撃を防げるかどうかは口原次第ってこと」
「? あたし、しだい……あっ」
あたしは、ふと今までの訓練を思いだす。
――そうか、このビニール傘の使い方は……。
「気づいたみたいだな?」
笹宮先輩が、にっと笑う。
あたしは、こくりと頷いた。
「じゃ、実践してみようか?」
「……はい?」
言うが早いか、笹宮先輩の後ろには、すでに剣が舞っていた。
細い刀身の、どう見ても打ち合いには向かないレイピア。ごつい刀身を持つ片刃の直刀。波打つ刀身を持つフランベルジュ。細かい説明は不要な日本刀。細かい説明は不要な日本刀。幅広で薄い刀身と短い柄を持つ柳葉刀。
各々に全く違う能力を持つと言われる、笹宮先輩の代名詞、六本の剣〈七式〉。
……あれ? 前に見た時は混乱してたけど、よく見たらこれ『七』式なのに――
「六本しかないんですか!?」
「そこを突っ込まれると、俺は何も言い返せないんだよなあ」
肩を竦めて笹宮先輩が苦笑い。
「それになんで日本刀が二本あるんですか!」
「そこまでが、俺のグラフィティを見たやつのテンプレだ」
あぁあ、なにこのツッコんだら負けた感じ……!
じゃ、なくて。
「あ、あの……笹宮先輩? 実践って、いったい何を……」
「もちろん、その新兵器の使い方って奴」
言いながら、ちょっとバックステップを取った笹宮先輩は背後から一本の剣を構える。中国刀。その剣の能力は、助けられた時に見た。首長竜に止めを刺した、『飛ぶ斬撃』の剣。
「え、いやあの、ちょっと待ってください心の準備が――」
「それは困った、口原が防いでくれないとこの本部棟が真っ二つになりかねないな」
「銀くんっ!?」
「……笹宮室長?」
「大丈夫ですってみよりさん、中滝さんも。もちろん冗談ですから」
珍しく焦ったような声を出したみよりさん、そして物々しい雰囲気を感じ取ったらしい中滝さんにも、にこっと笑う笹宮先輩。
「威力は抑えますんで――真っ二つになるのは、最悪この部屋だけですよ!」
「銀くぅうんっ!? それ本当に大丈夫ながけ!?」
「ええまあ、最悪笹宮室長の給料から修理代を天引きしておきますので」
「口原、目を逸らすなよ? 傘、開け!」
あ、笹宮先輩、本気だ。
頭をよぎった、訓練の風景。あたしはいままで、何をしてきたのか。
この手に持ったビニール傘で、どうすればいいのか。
決して広いとは言えない個人研究室の中、ほんの三メートル向こうで、振り下ろされる中国刀。軌跡が淡い光を放つ。
そして、あたしは、反射的に傘を開いて――
◆◆◆
「……合格だ」
俺は一言、そう呟いて、〈七式〉を解除。
――飛翔剣は、確かにその役を果たした。斬撃は間違いなく、口原へ向かって飛んだ。……まあ、最悪の場合を想定して傘の端、口原から逸れる方向を狙いはしたけども。
だが。
目の前でへたり込んではいるものの、口原の体には傷一つなく。
もちろん、新兵器である巨大なビニール傘にすら、傷はついていなかった。
「ほら、掴まれ」
手を伸ばすと、口原が恨みがましい目で俺を見てくる。
「……もし、あたしが防げなかったら……どうする、つもりだったんですかぁ……」
「防げない、なんてことはないと思ってたね。でも、口原はあれに対応できるだけの力は備わってるってことが証明されたろ?」
ぱちくりと目を瞬かせる彼女へ、俺は悪戯成功、とばかりに笑みを向けた。
「自信、少しはついたか?」
ぱくぱく、と口を開けたり開いたり、餌を求める金魚みたいになっていた。
「……銀くんって、本当に……」
みよりさんが、やや呆れたように、苦笑交じりにため息をついた。そして、その言葉の続きを、意外なことに口原が引き継いだ。
「意外と、強引、ですね」
でも、と続けて、
「……確かに、少し――自信、付いたかもしれないです」
弱々しくも、口原は確かに、微笑んだ。
よしよし、と俺は頷いて、一番弟子の成長を喜んだ。
「じゃあ、それを踏まえて打倒・水瀬の作戦を練るとしようか? まずあいつの性格的にはだな――」
結局、その日は、水瀬をどう倒すかという作戦会議で潰れた。
ただ――俺と口原のテンションは、ちょっとばかり高めだった。
◆◆◆
そして、あっという間に月日は過ぎて――いよいよ明日が、決闘の日。
あたしたちはみよりさんの研究室で、最後のミーティングを行っていた。
「うぅ、緊張するなぁ……」
胃がキリキリするけど、笹宮先輩がばしっとあたしの肩を叩く。
「何言ってんだ、あれだけ特訓したし、対策も立てたんだ。水瀬に勝つためにこの二週間を費やしてきたんだし、ちょっとは自信持て」
「そう言われましても……」
「頑張ってね、琴ちゃん! 絶対応援に行くよ!」
「あ、ありがと、新奈」
「俺も行くぞ。まあ、負けても口原は問題ないんだろ? 気楽にやってこいよ」
「いや、あの……さすがにそれだと笹宮先輩に悪いじゃないですか」
壱彦先輩の言葉にそう返すと、
「なんだよ、殊勝なこと言ってくれるじゃん。でも飛鳥さんの言う通りだ。気楽にやれよ」
と、笹宮先輩が笑う。
「でも、口原ちゃんには決定的に足りんあるものがあるんやちゃ」
みよりさんがそう言うので、え、とあたしはドキッとする。
「確かに。俺も気になってたんだよ」
笹宮先輩まで? な、なんだろう。あたしに足りないもの――自信、かな?
「口原に足りないもの、それは――グラフィティの名前だ!」
「そっちですか!?」
「だって、ないがんやろ? 名前」
「た、確かにないですけど……でも、名前つけるほど大層な能力じゃないですし」
「何言ってるんだよ、グラフィティの名前があると使ったときの勢いが違うぞ」
「そ、そんなものですか……?」
「ってなわけで、これは俺からのもう一つのプレゼント。グラフィティの名前を考えた」
ぴっ、と手渡されたメモ用紙。新奈と壱彦先輩に見守られる中で開けば、そこには……。
「え、えぇ……っ!? あ、あの、ちょっとこれ大仰すぎるんじゃ……」
「いいんだよ、お前のグラフィティちょっと効果がアレなんだから、名前ぐらいハッタリ効かせとけ」
「こ、これ公言するんですか? う、うわぁ……で、でも、せっかく考えていただきましたし、これ、使わせていただきます。それに……」
「……いかにも中二っぽいね」
「なんでこの読み方にしたんだ?」
新奈と壱彦先輩が後ろでそんなことを言うものだから、その先の言葉をあたしは言いだせなかった。
……それに、ちょっと、格好いいし、とか言いだせる雰囲気じゃないよ。
――力の使い方は、わかった。作戦も、立てた。グラフィティに名前もついた。
これで、準備は整った。
明日は、絶対――水瀬先輩に、勝つ!