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Name:メリダ=アンジェル Class:不明
【HP】5 【MP】0
【攻撃力】1 【防御力】1 【敏捷力】2
【攻撃支援】− 【防御支援】− 【思念圧力】0%
【主なスキル/アビリティ】なし
総合評価……【1‐G】
※フランドール統一白兵戦能力測定基準によるステータス表
聖フリーデスウィーデ女学院入学資料より抜粋
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「これは、ひどいな……」
思わずといった様子で唸り、青年は羊皮紙から顔を離した。目の前には灯りひとつない玄関ホール。高そうな椅子に蹴躓かないよう留意しつつ、ため息とともに歩み出す。
「ここまでどん底のステータス数値は見たことがない。というより、養成校の成績評価で【G】なんていうランクが存在していたのか」
「おう、俺も初めて知ったよ」
隣を連れ立って歩く男が、嘯きながらひょいとレポートを引き取っていく。一桁ばかりのステータス数値を眺めて、「くははっ」と乾いた笑いと煙草の煙を吐き出す。
四十過ぎに見えるこの男性は、一応は軍務における青年の上司である。しかしそのだらしなく着崩した軍服に、伸ばしっぱなしの髪に、ろくに整えられてもいない無精ひげが彼の尊厳を地に貶めている。青年は憮然と、煙草の煙を手のひらで払った。
その引き締まった長身から大人びた雰囲気を醸してはいても、彼はまだ十七歳である。もちろんあらゆる任務に対応するため、煙草や酒どころかある種のクスリまで嗜めるように仕込まれてはいるが、どうにも大人の嗜好品とやらは苦手だ。
玄関ホールのテーブルにはまさにそうした、一本で青年の給金何カ月分になるのか知れないウィスキーのボトルが並べられていたが、それらのいくつかは割れて絨毯に中身を零している。暖炉には火が入っておらず、当然ながら住人の気配もない。
ホールの先には二階へ続く螺旋階段と、晩餐室と応接室に繋がる二枚の扉があった。上司は歩くのに使っていた杖(ステッキ)でひょいひょい、と上階を示し、青年は無言で頷く。
腰に差していた漆黒の刀に左手を添えながら、先んじて階段に足を踏み入れた。
「まあ、細かいステータスは置いておこう。どん底だろうがなんだろうが、これからの成長次第だ。——しかしそれはなんだ? 位階(クラス)が不明に、MP(マナ)がゼロというのは」
上司の手のなかにあるレポートを振り返り、ついでに彼自身をじろりと睨みつける。
「確認するが、幼年学校の入学資料じゃないんだな?」
「もちろん違う。彼女が今年の四月……つまり三カ月前から通っているのは、由緒ある聖フリーデスウィーデ女学院。貴族のご令嬢が集う、まぎれもないマナ能力者の養成学校さ。驚くべきことに件のメリダ嬢は生まれてから今日に至るまでまったくマナを発現できず、当然として、どんな位階を秘めているかもいまだ不明というわけだ」
「ということは、十三歳か……」
ありえない話だ。通常であれば七歳前後で覚醒する、それが《マナ》というものだ。
能力者に様々な異能を授け、身体能力を常人以上に高めさせるマナは、選ばれし貴族階級のみに授けられた恩寵(ギフト)。——いや、逆か。彼らはマナを持つがゆえに貴族の特権を与えられて、その引き換えとして《外敵》の矢面に立つ責務を課せられているのだ。
「しかもアンジェル家と言えば、三大騎士公爵家の《パラディン》じゃないか!」
驚嘆混じりの青年の声が、螺旋階段の吹き抜けに反響する。
マナがもたらす異能の力は、その方向性によって十一種類の《位階(クラス)》に分類される。
防御力に優れた《剣士(フェンサー)》、攻撃力に秀でた《闘士(グラディエイター)》、敏捷力では他の追随を許さない《侍(サムライ)》。さらには遠距離戦で真価を発揮する《銃士(ガンナー)》、《魔術師(ワイザード)》、《神官(クレリック)》に、変幻自在の立ち回りを得意とする《舞巫女(メイデン)》と《道化師(クラウン)》……。
大半のマナ能力者はこのいずれかの位階に属し、貴族としての爵位は、当代家主の立てた武勲によって決定されている。——たった三つの例外を除いて。
その特例が、いわゆる三大騎士公爵家。他の貴族とは身分も能力も別格のものとして扱われている、《聖騎士(パラディン)》、《竜騎士(ドラグーン)》、《魔騎士(ディアボロス)》の名を冠した三つの上級位階だった。
なぜ特別扱いされているかといえば、それらの位階が非常に強力かつ、稀少だからだ。
何しろ数十以上の家名が連なる八つの下級位階とは異なり、上級位階に属するのはたったの三家のみ。ドラグーンの位階を継承するシクザール家。ディアボロスを象徴するラ・モール家。そして最後のひとつ、パラディンの血筋を受け継ぐのが——メリダの生まれた、アンジェル公爵家というわけだ。
マナは血に宿り、血によって子孫へと引き継がれていく。ゆえに貴族の子供はまた貴族。そしてその潜在能力(ポテンシャル)は、貴族としての血の純度が大きく影響すると考えられている。
このロジックもまた、上級位階が至高たる所以だ。彼らのマナには、その血には不可侵の優位性があり、下級位階の貴族どころか仮に平民の血と交わったところで、生まれてくる子供は揺るぎなく上級位階のマナを宿しているはず——…………そのはずなのだ。
だが先の資料の通り、その常識が覆されているということは、すなわち。
「そのメリダ嬢は……アンジェル家の本当の娘ではない……?」
「そうだ。まさにその可能性が疑われている」
上司が低い声で頷くのと同時、階段を上り切って二階に辿り着いた。
こちらにもやはり住人の気配はなく、ガス燈もすべて消されている。上司の向ける杖に従って、青年は左側の廊下へ。ついでに、差し出されてきたレポートの束を受け取る。
「つまり、何者かが赤子をすり替えたと?」
「いいや、出産には大勢が立ち会っていたからそれは考えにくいそうだ」
「とすると……」
言いよどんだ青年とは逆に、四十過ぎの上司はあっさりと口にする。
「簡単さ。件のメリダ嬢はアンジェル家現当主、フェルグス=アンジェルの実子に非ず。彼女の母、メリノア=アンジェルと不倫相手との不義の子である可能性がある」
「…………」
青年は静かに目を落としたが、レポートは無機質な報告を返してくるばかりだ。
新しい煙草に火をつけながら、上司は酒場で世間話でもするかのように語り続ける。
「この仕事の依頼人は、評議会の一員でもあるかのモルドリュー武具商工会の長、モルドリュー卿。メリノア=アンジェルの父にして、メリダ嬢にとっては母方の祖父にあたる人物だ。彼にしてみれば騎士公爵家に嫁いだ自慢の娘が、よもやパラディンの血筋を途絶えさせたなどと認めるわけにはいかない。何が何でも真相を突き止めねばならぬと、こうしてメリノア夫人の交友関係をしらみつぶしに洗わせているってわけだ」
「つまりはこの屋敷の主が、その不倫相手の《容疑者》のひとりということか」
相変わらず死んだように静まり返っている屋敷の天井を、青年は見上げる。廊下の途中にあった扉を開けてみれば、その先は暗闇に包まれたビリヤードルームだった。
——ここももぬけの殻か。怪訝そうに眉をひそめつつ、音を立てずに扉を閉める。
上司は懐から別のレポートを取り出すと、折りたたまれていたそれをばさりと広げた。
「——宝石商・ジヴニー=エルスネス。昔、モルドリュー卿が彼の父を訪ねた際、付き添いで来ていた当時十一歳のメリノア嬢はひどく暇を持て余していた。それを気遣ったジヴニー青年が得意のピアノを披露し、それに感激したメリノア嬢はお返しに彼の似顔絵を描いて贈った。ふたりの様子はひどく仲睦まじげに見えた……とのことらしい」
「たったそれだけか? 十一歳の頃の話だろう?」
青年が思わず素で驚くと、上司もまた嫌そうな顔でレポートを仕舞い込んだ。
「要はそれだけ行き詰まってんだよ。——通っていた寄宿学校の友人、習いごとの同輩、商工会の若い男衆、それぞれの親戚に至るまで! とにかくメリノアさまと交流のあった人物を手当たり次第に探ってるんだが、まったく有力な情報が出てこない!」
「そこまで苦労しているのなら、いっそのことメリノアさまを直接問いただせば……」
上司はやれやれと頭を振って、青年の台詞を遮る。
「ところがどっこい、彼女はすでに墓の下なのさ。もう五年以上も前にな」
「……そうか」
「そこで! いよいよもってお前さんの出番となるわけだ!」
ぱんっ、と高らかに手のひらを打ち、上司は芝居がかった仕草で腕を広げた。
「お前の任務はこうだ。この無能才女、メリダ=アンジェル嬢の家庭教師となり、彼女のパラディンとしての覚醒を助け、導き、騎士公爵家に相応しい戦乙女へと教育せよ!」
「外が駄目なら内から、というわけか」
「そうとも。モルドリュー卿の方でもたびたびプレッシャーをかけているそうなんだが、全く効果が上がらないらしくてな。これは専門の講師が必要だって話になったわけだ」
「それは理解したが……」
青年は壊滅的な数値のステータス表を取り上げ、げんなりとため息をつく。
「……なぜ私なんだ? 任務だったら私もこのまま身辺調査のほうに回りたい」
「いやいや、お前以外に適任いねえだろうよ。思い出してみろ、奇人変人ばっかりのウチの部隊のメンツを! とてもじゃねえがこんな繊細な任務任せられねえ。その点お前ときたら、ほら! 外面の良さと猫っかぶりは天下一品!」
「よし分かった。断わらせてもらう」
ばん、と上司の胸にレポートを叩き返し、青年は軍服の裾を翻した。廊下の行き止まりにあった両開きの扉に足を向けると、上司が猫なで声で追いすがってくる。
「た〜の〜む〜よぉ〜騎士公爵家からの依頼だよ? 父ちゃんを助けると思ってさあ〜」
「単に拾いものをしただけのくせに、都合のいいときだけ父親面をするなクソオヤジ」
「分かった、オーケイ、真面目に話をしよう、いいからこっちを向け」
隣に並んだ上司は、身振り手振りをまじえてそれなりに真摯に訴えかけてくる。
「実際のところ、もう選り好みさせてる段階じゃねえんだよ。事態は動きはじめてる」
「というと?」
「犯罪組織さ。メリダ嬢の無才の噂が、徐々に国中に広まり始めていてな。暇なご婦人がたの社交場の話のタネになるぐらいならまだいいんだが、不穏な輩までメリノアさまの不倫の真相を嗅ぎ回ってるらしい。階級制度の撤廃を謳ってるような連中にしてみりゃあ、公爵家の基盤を揺るがしかねないこの事件はさぞや美味い餌に見えることだろうよ」
「そいつはぞっとしないな」
言いながら廊下の端に辿り着き、両開きの扉を、上司と並んで同時に押し開ける。
いかにも犯罪者でございといった悪人面が、扉の向こうにずらりと勢揃いしていた。
「「…………………………」」
あちらにとっても予想外の闖入者だったのか、どこか間の抜けた沈黙が数秒横たわる。
そこは書斎だった。壁際に整然と並んだ書架に座り心地の良さそうな椅子。執務机には高級ブランドの燕尾服をまとった男性が腰掛けていて、ぐったりと上体を倒している。
そしてその周囲を、襟の高い黒衣に身を包んだ十数人の男たちが取り囲んでいた。表社会を生きていたら決してこうはなるまいという窪んだ目つき。全員なにかしら武装しているのが雰囲気で分かる。煌々と灯されるガス燈の光が、刃に滑ってぎらりと光る。
上司の口から、ぽとりと煙草が落ちた。青年を横目で見て、空々しく笑う。
「……ぞっとしねえだろ?」
直後、黒衣たちが一斉に拳銃を突きつけてきた。
十数の撃鉄が叩かれるのと同時、青年の腰に提げられた刀が、りん、と鯉口を鳴らす。
青年の腕が霞むように閃いた。弾丸以上の速度で抜刀し、雨あられの銃撃を一つ残らず弾き返していく。最後の一発を斬り飛ばしたとき、遅れてきた銃声が鼓膜を叩いた。
全身の筋肉が、みしりと唸る。爆発するかのような勢いで、青年は床を蹴り出した。
突撃と同時に一人を薙ぎ払う。両脚を開いてアクロバティックに舞い、左右の黒衣を斬り刻む。螺旋状に飛び散った鮮血が頬を叩き、そこでようやく敵集団は青年の姿を認識して、同時にその常識外れのスピードに気がついた。
「くそッ——」
黒衣のひとりが銃口を向けてきた——瞬間には、青年は攻撃を終えていた。床に膝を落とす動作と連動して三つの剣閃が奔る。首筋への薙ぎ払い、右肩から左脇にかけての斬り下ろし、最後に斬り返された三撃目が胴体を分断。
黒衣の全身から血潮が噴き出す頃には、青年は再び床を蹴っていた。しゃがんだ体勢からさらに上体を倒し、全身のバネをしならせながら床すれすれを駆け抜ける。同時に煙るような速度の刀が、縦横無尽に踊りながら黒衣たちに致命傷を刻んでいく。
床を蹴り飛ばし、壁を走る途中で書棚のひとつに靴先を突っ込む。そのまま勢いよく振り抜けば、並べられていた本たちが弾丸のごとく飛び出した。それを浴びせられた黒衣が思わず顔をかばい、直後に脇を飛び抜けた青年によって首を斬り裂かれた。
「あと一匹!!」
上司の号令に、反射運動のごとく青年は壁を蹴り飛ばした。並べられた椅子の隙間を疾駆しながら際限なく加速し、超スピードで放たれた剣尖が最後の敵の首筋に——
きぃいん!! と。寸前で跳ね上げられた敵の腕が、青年の刀を受け止めた。
驚くことに武器すら握っていない、腕そのもので防いでいるのである。全力で押し込んでも斬り裂けないばかりか、凄まじい膂力で鍔迫り合いを維持してくる。——強い。
よくよく観察すれば、その最後の敵は装いも他の連中とは違っていた。まるで亡霊のように裾がぼろぼろの黒外套をまとい、フードを目深にかぶって素顔を隠している。身長は青年と同じくらいに高い。おそらく正体は男性であろう。
予想に違わず、奴はフードの奥から青年の声音で語りかけてきた。
「僕の部下を五秒足らずで……その闇色の軍服、きみたち正規の騎兵団(ギルド)じゃないね?」
「そう言う貴様らはどこの組織だ。その妖しげな黒外套、今すぐ引っぺがしてくれる」
青年は瞬間的に蹴りを叩き込んだ。黒外套のふくらはぎ、脇腹と左側頭部を神懸かり的なバランス感覚で立て続けに蹴りつける。が、岩盤を叩いているかのように揺るがない。
ならば返す踵を顔面に——打ち込もうとした寸前、軸足に何かが絡みついた。
黒外套の袖から伸びた、包帯である。青年が床に引きずり倒されるのと同時、黒外套が鋲付きブーツを高く上げた。全力で踏みつけられた踵は——書斎の床を粉砕する。
一瞬早く床を転がっていた青年は、黒外套の背面側でブレイクダンスを舞った。下半身が回転しながら跳ね上がり、両の踵が黒外套の後頭部を立て続けに打ち据える。
並みの相手ならこれで昏倒させられようものだが、重苦しい衝撃音が響き渡ってなお黒外套はびくともしなかった。しかし、相手が数瞬怯んだ隙に小回りの利くナイフを抜き、青年は左足首の束縛を切断するとダンスの延長動作で跳び退る。
入れ替わるように前に出た上司が長大なリヴォルバーを抜いて、黒外套めがけて引き金を絞った。大口径の弾丸はしかし、外套の裾から飛び出した包帯によって弾かれる。
ゆるりと振り返った黒外套は、袖や裾から幾筋もの包帯をたなびかせていた。
あの意思を持つような挙動に並外れた呪力——青年の黒刀を以てしても貫けない防御力の正体は、あの奇妙な包帯だろう。青年は刀とナイフの二刀流を構え、上司はリヴォルバーを油断なく突きつけたまま、どこか面白がるように煙草の煙を吐いた。
「よう兄ちゃん! 不倫調査か? 何かめぼしい情報は見つかったかい?」
「さあね、自分でそこにいる主人に聞いてみれば?」
吐き捨てると、黒外套は膝の高さにあったテーブルを蹴り飛ばしてきた。青年はたやすく斬り払うが、敵はその隙を利用して窓に飛び込んでいる。
けたたましい音を立ててガラスをぶち破り、黒外套は闇のなかへと逃げ去っていった。青年はすぐさま窓に駆け寄るものの、もう標的の姿はどこにも見つけられない。
「追えるが、追うか?」
「今はいい。——ふい〜、ありゃ強いな。ステータスだけならお前とタメ張ってたぞ」
上司が肩から盛大に力を抜いて、長大なリヴォルバーを懐に戻した。
青年はまだ警戒は解かないまま、刀を振って血を床に払う。そこではっと気づいた。
「そうだ、エルスネス卿は……」
上司は無言で執務机に歩み寄ると、そこに突っ伏していた燕尾服の男性の髪を掴んだ。
乱暴に引き上げて、顔を覗きこむ。すぐに手を離し、やれやれと首を振った。
「死んでる」
「……つまり、エルスネス卿が《クロ》だったということか?」
「どうかな。なにも知らずに死ぬまで拷問されたのかもしれねえし、秘密を喋ったあと口封じに殺されたのかもしれん。——だから言ったろう? もう事態は切迫してるんだ!」
扉の前に落としていた羊皮紙の束を拾い上げ、上司はそれを投げつけてくる。青年は片手を振って受け取りつつ、あらためてそこに綴られている任務の概要を眺めた。
「メリダ=アンジェルか……」
壊滅的なステータス。貴族にもかかわらずマナが使えないという異端の存在。さらにはそんな少女を至上の騎士に育成せよという、クライアントの無茶な要求……。
加えて注目すべきは、その期間だ。家庭教師としての就任予定は、メリダ=アンジェル嬢の聖フリーデスウィーデ女学院卒業までの、約三年間。かつてない長期任務。
こんな諜報活動が生ぬるいぐらいの、ハードな三年間になりそうな予感がする。
「……仕方がないな。この無能才女、メリダ=アンジェル嬢の家庭教師、たしかに私が引き受けよう。しかし、どうしても気になっていることがもうひとつ」
「なんだ?」
「この任務——そもそもどうしてウチなんだ? メリノアさまの身辺調査ならまだしも、家庭教師なんて仕事は表ギルドの、まっとうな部隊の連中に回せばいいだろう」
至極当然の疑問を口にすると、上司は返り血を浴びた頬をかき、煙草に火をつけた。
「……とんでもない。こいつはまぎれもなく、お前さん向けの仕事だよ」
「どういう意味だ?」
「おいおい、すっとぼけるなよ! 俺たちに相応しい仕事なんてたったの一つだろうが」
その場所は、闇に満ちていた。
斬り刻まれた家具。大量に散らばる亡骸。むせかえるような死の臭い。
夜を凝集したような軍服と、ぬめり気を帯びた鮮血を全身にまといながら——
杖を突いた男は、こう言って嗤った。
「——暗殺さ」
大地に突き立てられた巨大なシャンデリア。それがこの世界の姿だ。
人々が見上げる空には一切の光がない。星や月、太陽といったまばゆい天体の存在は、古代の文献のなかに伝承として語り継がれているのみだ。詩人の創作である、とする学者も多い。昔は頭上一面の空が青く輝いていたなど、到底信じられぬ、と。
この世界では天頂から大地、そしてその果てに至るまで、すべてが夜の闇に覆い尽くされていた。そこにどんな環境が広がっているのかも定かではない。大地の総面積など想像の埒外だ。なんの色彩も捉えられない完全な暗闇……。その片隅にあって、高さ数百から数千メートルに及ぶ超巨大なガラス容器の群れだけが、煌々とした灯りを放っている。
それが人類最後の都市国家、《ランタンの中の世界(フランドール)》だった。
ランタンの直径は最大のもので五キロ。この超スケールのガラス容器は『キャンベル』の名称で呼ばれ、それぞれに街区が収められている。特権階級たちの多く住まう《聖王区》を取り巻くよう二十四のキャンベルが密集し、金属基盤に支えられて整然と屹立する様はシャンデリアと形容するしかあるまい。もっとも、サイズは桁違いだが。
各キャンベルの中間には金属製の橋が幾重にも架けられ、そこを渡る鉄道が人々の移動手段となっていた。そして今まさに、聖王区の端に開いたトンネルから飛び出し、数百メートルの高架線路に沿いながら別のキャンベルへと下っていく一本の列車が見える。
その二等客車、後部寄りのコンパートメントにて。何気なしに窓を眺めるひとりの青年は、荘厳な威容を誇る数十のキャンベルを視界に収めながら、取りとめもなく考えた。
こんな途轍もない建造物を何者が作ったのか、想像するのもはばかられる。
——と。
† † †
青年の乗る列車が辿り着いたのは、聖王区の外周に位置するキャンベルのひとつ、カーディナルズ学教区だった。様々な分野のカレッジが立ち並び、住民の実に半数が学生というフランドール随一の学園街である。
時刻は早朝。白い蒸気のたちこめるプラットフォームに降り立った途端、青年はここが学生たちの街であるということをひと目で認識した。
列車から降りる者、乗り込んでいく者。構内を行き交う乗客たちの年齢層が、総じて若い。青年は瑞々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、着こなれた軍服を軽く整える。
外衣のポケットから取り出したのは、街のおおよその地理が描かれた紙片だった。
カーディナルズ学教区の特徴といえば、『思索する尖塔』とも称される美しい建築物たちである。数学者と物理学者と芸術家が心を一つにして設計したかのような、理路整然としたとんがり屋根が幾百も空を衝いている景色は、まさに圧巻だ。
目指す場所は、この尖塔の街並みの最端。
街を横断するシムズ水路の畔に、話に聞いたメリダ=アンジェルの屋敷は建っている。
今日から三年間——この街で、青年の家庭教師としての生活が幕を開けるのだ。
「聖王区とはずいぶん空気が違うな」
メモをポケットに仕舞いながら、すんすん、と青年は小さく鼻を鳴らした。
「「頭の良さそうな匂い」」
呟いた言葉が、図らずも、高く澄んだ声と重なる。
ぱっと傍らを見下ろせば、同時にこちらを見上げてきた人物と目が合った。
今まさにタラップを降りてきた、ひとりの少女である。青年より少し年下、十六歳ぐらいだろうか。都会風というか、身だしなみに気を使っているのがひと目で窺い知れる。
艶のある赤い髪は手入れが行き届き、すらりとした肢体は魅惑的かつスレンダー。妖精の翅のように華やかなその装いは、ステージから飛び降りてきたショウダンサーか、雑誌から飛び出してきたファッションモデルを思わせた。
当然、周囲の少なからぬ男性の目を引きつけている彼女だが、当人に自身の魅力に対する自覚はないようだ。こちらに向けてきたあどけない笑顔は、ずっと子供っぽく見えた。
「えへへっ、ハモっちゃった」
「みたいだな。——ではなく、ええと」
青年はそっけなく返しかけて、すぐに小さく頭を振る。
この街に着いた瞬間から任務は始まっているのだ。今の自分は騎士公爵家に赴任する家庭教師の身分。その立場で接する全員に、仮面を徹底しなければならない。
一瞬あとには、青年は人当たりの良い笑顔を赤毛の女の子へと向けていた。
「ご旅行ですか?」
「う、ううんっ、仕事なの! そういうあなたも……」
「ええ。ご覧のとおり、学生ではないもので。——行きましょうか」
彼女を自然とエスコートして、列車前部の荷物車両へと向かう。
するとその途端、赤毛の女の子に見惚れていた周囲の男性ばかりか、構内を行き交う婦人たちまでもがほう、と頬を染めて立ち止まった。キャンバスを広げていた似顔絵描きはすぐに絵の具と筆を取り上げ、記者らしき背広の男性がカシャッとシャッターを切る。
我々がこうして並んでいる姿がそんなに絵になるだろうか。心の片隅でそう首を捻る青年とは裏腹に、赤毛の女の子はやはり周囲の視線に気づかない様子で、紅潮した頬はどこか浮かれた雰囲気だ。
荷物車両に辿り着くと、青年は一足先にタラップを踏む。
「番号札は?」
「あれ、何番だっけな、ええと…………あった!」
スカートのポケットから取り出されたタグを、青年はさりげなく引き取る。ひとりで荷物車両に入っていくと、出てきたときには右手に自身のトランクを、左手にはたくさんアクセサリーの飾られた、大きく可愛らしい旅行鞄を提げていた。
「お待たせしました、レディ」
旅行鞄を差し出すと、ぽかんと口を開けていた赤毛の女の子は、興奮気味に叫んだ。
「し、紳士だっ!」
「これぐらいは当然です。目的地までご一緒できれば良いのですが……」
ぶんぶんっ、と恐縮したように頭を振ると、少女は慌てて旅行鞄を引き取っていく。
聞けば彼女の目的地は、カーディナルズ学教区でもっとも瀟洒な高級住宅街。人気のない郊外へと向かう青年とはまるで逆方向である。
駅を出ると、街並みを一望できる、長く大きな階段の上に立つ。
さながら舞台のワンシーンのように、そこでふたりは握手を交わした。
「実はあたし、ひとりで不安でたまらなかったんだけど……この街に来て早々、親切なひとに会えてよかった! なんだかこれから、色んなことが上手くいきそう!」
「それはなによりです。ではいずれまた、どこかで」
「うんっ、またね! ぜったいぜったい、また会ってね!」
青年の手のひらを両手で握り、何度も上下に振ってから、少女は一足先に階段を駆け下りていった。ときおり赤い髪が翻り、笑顔とともに手のひらが振られてくる。
小さく手を振り返し、遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら……
「ふう」と、青年は人知れずため息を零した。
上司が「天下一品」と太鼓判を押した猫っかぶりは伊達ではない。悲しいかな今回の任務、やはり部隊のなかで自分が一番適任のようだ。
赤毛の女の子の姿が人波に溶けて消えたのを確認し、青年もまた目的地を目指すべく、トランクを片手に階段へと足を踏み出した。
メモを頼りに、放射状に伸びる街路のひとつへ。知的なとんがり屋根の建物と、すがすがしいまなざしをした学生たちの合い間を、郊外へと向かってひた歩いていく。
都市国家(フランドール)を構成する二十五のキャンベルは、それ自体が——正しくは内部の街がだが、夜の闇を押しのけるほどの鮮烈な光を放っている。その正体は、道々に等間隔で掲げられている街燈だ。ガラス窓の奥に満ちる、特殊な気体の輝き。
《太陽の血(ネクタル)》である。
フランドール近郊の鉱脈から採れるその液体燃料は、気化させたものを炎にかざすことで強力かつ神聖な光を放つ。それは、この世界の呪われた夜から都市を守る盾であり、鎧だ。人類が文明社会を維持するための、最後の生命線——
鉱脈のネクタルが尽きたとき、はたしてフランドールの生活はどうなるのか。評議会で散々議論され、いまだ明確な答えの出ないその問いが、青年の脳裏を横切って、去る。
遥か未来の心配よりも、今はこの見知らぬ街で迷子にならないことの方が重要だ。
メモを頼りに足を進め、ときおり露天商に道を訊ねながら歩き続けていると、いよいよ目的地であるキャンベルの端っこまで辿り着いた。しばらく前から通りの右手側には石塀が伸び、頑丈そうな鉄柵が来訪者を拒んでいる。
柵の向こうに見えるのは、驚くべきことに鬱蒼とした植物園だった。
キャンベル内に存在する緑は、もちろん天然のものではありえない。これだけの庭園を維持できるのは、いったいどれほどの財力を有した名家だろうか。
青年のおおよその予想通り……と言うべきか。そこから少し進んだ門扉の前に、エプロンドレスをまとった少女たちが三人、ガス燈の下でお淑やかに佇んでいた。
青年が近づいていくと、メイドたちは揃って、ゆっくりとお辞儀をする。
「クーファ=ヴァンピールさんですね? ようこそ、お待ちしておりました」
その、今回の任務のために用意された偽名を聞いて、青年は優雅な笑みを返した。この仮面が万人に有効だということは、先ほどの赤毛の女の子が証明してくれている。
「はじめまして。これからよろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそ。お会いできてうれしゅうございますわ」
三人のなかで真ん中、一歩前にいたメイドが、花のような笑顔とともに顔を上げる。牧歌的でやわらかい印象の、それでいてしっかりと芯を感じさせる少女だった。
「わたくし、当屋敷メイド長のエイミーと申します。分からないことがあったら遠慮なさらず、なんでも頼ってくださいね?」
「メイド長?」
青年——クーファは、ほんの少し眉をひそめた。エイミーと名乗った彼女は、どう見ても年の頃十七かそこら、つまり自分とそう変わらない。召し使いたちの長は『ミセス』の敬称で呼ばれ、通常であれば、もっと年齢と経験を積んだ女性が任せられるものだ。
ふと、任務につく前に上司から聞いた話を思い出す。血筋が疑われてからというもの、件のメリダ嬢はアンジェル家のなかでかなり微妙な立場にいるらしく、父親からも邪険にされた彼女は最低限の使用人とともに別邸へ追いやられているのだとか。
最低限とはすなわち、人数だけでなく、経験値という意味でもあるのではないか。エイミーの後ろにいるふたりのメイドも、まだ少女と呼んで差し支えない年齢である。
「見て、男よ!」
「男だわ……!」
「ずいぶんお若いのね……」
「落ち着いていらっしゃるけど、おいくつなのかしら?」
こそこそと。彼女らは客前だというのに、顔を寄せて内緒話に花を咲かせている。あからさまに向けられてくる興味の視線には、どこか熱が込められていてこそばゆい。
「見て、あのすらりと高い背丈……っ。騎兵団(ギルド)の軍服がこの上なくハマってるわ!」
「それに艶やかで紫ががった黒髪に、涼しげな切れ長の瞳も素敵……!」
「いかにも、『やり手ですが何か?』って雰囲気ね!」
「むしろ先輩のはずの私たちが、教育という名の厳しい指導をされてしまうのよっ」
「ああっ、なんて鬼畜!」
「鬼畜の教師だわ……っ!」
誰が鬼畜教師だ。
言葉とは裏腹になぜか喜んでいる様子の彼女らに、クーファは聞こえないふりをしつつ小さく嘆息した。するとその仕草を誤解したのか、エイミーが慌てて手を伸ばしてくる。
「まあっごめんなさい、お疲れですよね! お荷物をお持ちいたしますっ」
「いいえ、お気遣いは無用です」
やんわりと断りながら、クーファは伸ばされてきた手のひらを握る。
「今日から同僚なんですから、お互い遠慮はなしにしましょう? オレを手足と思って、任せられる仕事があったらなんなりと申しつけてください」
「まあ!」
エイミーはぽっと頬を赤らめた。背後のメイドたちがざわめく。
「さっそくエイミーが落とされたわ!」
「エイミーずる〜い!」
こほん、とわざとらしい咳払いをして、若きメイド長はスカートを翻した。
「で、ではお屋敷にご案内いたします。参りましょう?」
三人のメイドに付き添われて、クーファは門扉をくぐり抜ける。その先は、塀の向こうからも覗けた広大な植物園だ。鬱蒼と生い茂る背の高い植物の隙間を、舗装された細道が曲がりくねりながら伸びている。道の先は緑に隠れ、屋敷の姿はまだ見えない。
「男の方が来てくださって助かりました。女所帯だといろいろ大変で……」
エイミーが水を向けると、他のメイドたちも便乗して身を乗り出してきた。
「力仕事とかお任せしていいですか〜?」
「荷物運びとか、高いところのお掃除とか!」
クーファが苦笑しつつ、空いた方の腕でぐっと力こぶを作り、
「どんとこい」
答えてやると、「「きゃ〜〜〜っ!!」」と黄色い歓声が返ってきた。
彼女らによれば、屋敷にはもうひとり同じ年頃のメイドがいるという。裏を返せば、使用人はたったのそれだけ……。男子禁制、というありふれた言葉が脳裏を横切る。
仕事とはいえ、その花園に踏み込んでいくことに緊張しないではない。しかしこの雰囲気の和やかさを見る限り、任務に支障をきたすほど心を惑わされることもなさそうだ。
——道の先で《彼女》に出会うまでは、クーファは確かにそう思っていた。
メリダ=アンジェルのお屋敷は、五、六人で暮らしてちょうど良い広さの、瀟洒な二階建てだった。カーディナルズ学教区の街並みに相応しいとんがり屋根で、周囲を埋める植物園とあいまって、魔法使いの隠れ家のような雰囲気である。
門扉から約五分。ようやっと辿り着いた玄関口で、エイミーはふわりと振り返った。
「あらためまして、クーファさん。当家へようこそおいでくださいました。ここが今日から三年間、あなたの職場になります。すでにお嬢さまがお待ちに…………あら?」
そこで、ふと気づいたように彼女は頭上を振り仰いだ。ここまで導かれてきたクーファも、それに付き添っていたふたりのメイドも、ほぼ同時に顔を上向ける。
話し声が漏れ聞こえてきたのだ。
玄関の真上にはテラスが張り出している。声の源は、その奥の広間からだった。
『ねえ、まだかしら? 迎えに行ってからずいぶん経ってるわ』
『もうお嬢さまってば、何回おんなじ質問するんですかぁ? ちゃんとエイミーたちがお迎えに上がってますから、もうじきお見えになりますって〜』
『でも、予定の到着時刻まであと三分しかないじゃない。もしかしたら道に迷われているのかも。それともまさか、列車事故に遭っていたり……! わたし、様子を見てくる!』
『ちょ、ちょっとメリダお嬢さま!?』
直後、テラスへ飛び出してきた人影があった。忙しない靴音がクーファたちの頭の上に反響する。クーファはその姿を確かめようとして、一、二歩、三歩とあと退る。
——直後、視界に押し寄せてきたまばゆさに思わず目を眇めた。
黄金色の髪だった。
ネクタルの神聖な灯りよりも、なお眩しい。もはや色と言うよりも《輝き》だ。宝石の反射光を天使の指先が編み上げたら、あのような神々しいブロンドになるのだろうか。
駆け出してきた勢いのままに柵へ跳びつくと、奏でられたハープのごとく金髪が舞う。そのおてんばな仕草だけは、資料にあった十三歳という年齢のままだ。
お人形という形容がぴったりな、幼くも精緻に整った顔の造形。
やわらかそうな桜色の頬に、華奢な体躯と可愛らしい背丈——。幼年学校を卒業したばかりだとは思えないほど完成された美貌に、クーファの目は一瞬で吸い寄せられる。
半ば見惚れるように見上げる先で、当のメリダは柵から大きく身を乗り出し、遠くのほうを眺めていた。探し人が真下にいることにまるで気づいていないらしい。
「う〜ん…………見えない! 植物園にはいらっしゃらないわ。ということはまだ街の方? それとも門の前に……もうっ、前から思ってたけれど植物が育ち過ぎなのよ!」
「ちょ、ちょ、ちょ! お嬢さま、危ないですってばあ!」
広間から追いかけてきたメイドが慌てたのも、さもありなん。
なんとおてんばなお嬢さまはもどかしそうに文句を言いつつ、柵にがしっと片膝を乗せたのだ。さすがにその光景には、クーファも「うっ」と喉を詰まらせてしまう。
登校時刻が迫っているのか、メリダは学院の制服姿だった。赤薔薇のように奥深く、それでいて鮮やかな色合いが彼女のブロンドにはよく映える。
それは結構なことなのだが……当然ながら、下はスカートである。こちらの視点からすると、大胆にめくれ上がった裾の内側が非常にはしたないことになり——…………
クーファはすかさず、さっと顔を逸らした。
代わりに慌てたのが、同じ視点を持つエイミーたちである。
「い、いけませんいけませんわ、お嬢さま! こちら! こちらです!」
「見えてますっ! 男のひとが見てますってば!」
「えっ?」
まったく予想しなかったのであろう方向から呼びかけられて、メリダはそのままの体勢できょとん、と首を傾けた。そしてようやく気づいただろう。玄関先から自分を見上げている三人のメイドと、その真ん中に立つ軍服姿の長身に。
自分の格好と、互いの立ち位置を鑑みて——想像するしかないが、クーファには彼女の幼い美貌がみるみる紅潮していくのが分かった。
「えっ……あっ、ふわわっ……!? ——きゃっ!」
「「「あっ!!」」」
くすぐるような羞恥の声と、一転して鋭い悲鳴。同時にエイミーたちが大きく息を呑んだのを察して——クーファは瞬間的に顔を跳ね上げた。
メリダがバランスを崩し、二階のテラスを転げ落ちたのである。こういうとき、心構えのない人間はとっさには動けない。クーファはトランクを捨てて足もとを蹴り、彼女の落下地点へ滑り込んだ。腕を広げて待ち、若干の余裕を持って——受け止める。
ぽすんっ、と。羽毛に似た衝撃がクーファの胸に収まった。お姫さま抱っこである。
何が起きたのか分からないのか、メリダはぎゅっと目をつむったまま固まっていた。
「だ、大丈夫ですか? お嬢さま」
「えっ……? ——あっ、えっと、は、はい……っ」
おそるおそるまぶたを開いた彼女は、ぱちんと、クーファと視線を衝突させる。
途端。彼女の幼い美貌が、耳の先まで真っ赤に染まった。
先ほどのことを思い出したのか。それとも腰が抜けたのか。あるいは細かい筋肉がびっしりついたクーファの腕が、あまりに硬くて居心地悪かったせいなのか。
桃色の唇だけが震えて、熱い吐息とともにつぶやきが零れる。
「あなたが、わたしの先生、ですか……っ?」
「は——はい、クーファと申します。これから三年間、よろしくお願いいたします」
「……っ」
メリダは、またぎゅっと唇を引き結んでしまった。
宝石じみた瞳が引力を放ち、クーファの視線を引き寄せる。図らずも至近距離から見つめ合う格好になり、どんどん狭まる視界からは彼女以外の一切が消え失せていく——
エイミーたちがわっと駆け寄ってきて、クーファもメリダも、同時に我に返った。
「お嬢さま!! ご無事で何よりでしたわ!」
「わわっ! えっ、あ、わたし……な、なんて格好……!」
そこでようやく、自分の体勢を顧みたらしい。異性からのお姫さま抱っこなど初めての経験だったのか、真っ赤な顔でクーファの胸を押しのけて、飛び下りてしまう。
そのまま逃げ去るかと思いきや——寸前で、公爵家のプライドが彼女の足を留めた。
「せっ……先生をお部屋へご案内してちょうだいっ」
精一杯の声音で言い置いたのち、屋敷に飛び込んでいく。慌ただしくも可愛らしいブーツの音色が遠ざかって……玄関先に残された使用人たちは、自然と顔を見合わせた。
「ええと、あの方がオレの主人になられる……?」
「……メリダ=アンジェルさまですわ」
しごく頭の痛そうな様子で、エイミーはお辞儀をする。他のメイドたちも「やれやれ」と肩をすくめていた。どうやらこの屋敷の主のおてんばっぷりは毎度のことらしい。
これは色々と覚悟せねばならないかとクーファが腹をくくっていると、屋敷のなかから靴音が近づいてきた。メリダが戻ってきたのかと思いきや、そうではない。
ばん! と玄関を跳ね開けたのは、まだ名前も知らぬ四人目のメイドだった。
「お嬢さまがテラスからフライハイで大変!! ……って、あれ? お嬢さまは??」
きょろきょろと玄関前を見渡し、姿の見えない主の代わりに四人の同僚を発見する。同年代のメイドたちと、上司のエイミーと、初めて顔を合わせる家庭教師の青年……。
クーファがすかさず、にこっと愛想笑いをプレゼントすれば、
「鬼畜のイケメン教師……っ」
メリダの危機をすっぱり忘れて、とろんと瞳を潤ませていた。だから鬼畜ではない。
† † †
玄関先で思わぬ騒動に見舞われたものの、クーファはようやく屋内へと招かれた。
私室としてあてがわれたのは、二階と屋根裏の中間。半屋根裏部屋とでもいったところだった。階段の途中に据え付けられた扉を開け、エイミーは軽く頭を下げてくる。
「今まで男性のお部屋というものがなかったものですから、急いで空き部屋をお掃除させていただいたんです。ご不便をおかけして申しわけありませんわ」
「いえ、まさか」
重たいトランクを手に、クーファはこれから三年を過ごすことになる自室へと入る。
荷物を床に下ろして、ようやく人心地ついた。エイミーは謙遜していたが、クーファがこれまで寝泊まりしていた聖王区郊外のボロアパートに比べれば、楽園のごとしである。
それが偽らざる本心なのだが、エイミーは額面どおり受け取らなかったらしい。クーファにこの職場を気に入ってもらおうとしてか、一生懸命に身を乗り出してくる。
「うちのお屋敷ではお嬢さまも我々使用人も、一緒になってお食事をするんです。今晩はクーファさんの歓迎パーティを計画していますから、楽しみにしていてくださいねっ!」
「ええ、楽しみにしてます」
「……って、これクーファさんには秘密なんでした! やだ、私ったら……!」
「あははっ」
恥ずかしそうに頬を押さえるエイミーの姿に、こちらの表情も自然とほころぶ。
彼女が退室していったあと、クーファはあらためて室内を見回した。
空き部屋と言っていたが、隅々まで掃除が行き届いている。ベッドはかつてないほどにふかふか。新品のマットレスからは、街燈(ネクタル)のぬくもりをたっぷりと含んだ優しい匂いがする。これらすべて、メイドたちが新しい仕事仲間のために準備したのだろう。
「悪くない職場じゃないか」
トランクを壁際に移動し、窓を開けた。
室内に吹き込む花の香り。《灯当たり》は良好。二階半からの眺めは抜群——
「悪くない」
すうっと、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、まぶたを閉じる。
するとふいに、扉の外に誰かが立つ気配があった。
ややためらうような沈黙のあとに、こんこん、とひかえめなノックの音が響く。
『……せ、先生。よろしいですか……?』
「お嬢さま?」
クーファはすぐにドアへ駆け寄った。扉を開けてみれば、聖フリーデスウィーデ女学院の制服に身を包んだメリダが、もじもじと膝をすり合わせながらこちらを見上げていた。
「どうされました? 学校にはまだお時間があるはずでは」
「は、はいっ。ですからあの、その……っ」
言いにくそうにしていた彼女は、やがて意を決したふうに視線を上げる。
「よろしければ学院が始まるまで、さっそくレッスンをお願いできないかなって……」
「は……」
「す、すみません! お疲れなのに!」
ぺこりっと勢いよく頭を下げる少女を前にして、クーファは軽く面食らっていた。
——へえ、これは驚いた。どれだけやる気がなければあんなどん底の成績を叩き出せるのかと思いきや、意外や意外、本人はいたって努力家じゃないか。
クーファの方でも、俄然彼女に対する興味が湧いてきた。
「いいですよ」
答えつつ、クーファは軍服の外衣を脱いで、軽くネクタイを緩めた。
「それでは簡単に力を見てみましょうか。運動できる格好で庭に出てください」
「は——はいっ! よろしくお願いします!」
顔を上げたメリダは、とても嬉しそうに笑った。
瞬間、クーファの心臓がどきんっと跳ねる。彼女の笑顔のあまりのまばゆさに、思わず息を忘れて見入ってしまったのは——きっと不意打ちだったからだろう。
† † †
お屋敷の裏手には、花園に囲まれたお茶会のための広場があった。球技ができそうなぐらい広く、トレーニングには申し分ない。そこにワイシャツ姿のクーファと、トレーニングウェアとスパッツに着替えたメリダが、それぞれ練習用の武器を手に向かい合う。
「では、基本的な型の演技から。常用剣術教本(マスター・オブ・ディフェンス)の《貴人の立つ門》を一番から二十八番まで、間違えてもいいので最後まで通してみてください」
「は、はいっ」
硬い声で答えて、メリダは身の丈ほどもある木剣を構える。
その得物は彼女の体格には合っていないような気がしたが、パラディン・クラスであればあれぐらいの長剣を手足のように振り回す。メリダもそれを意識しているのだろう。
彼女が本当にパラディンであるならば、問題はないのだが……。
「——ヤッ」
短い呼気とともに、メリダは踏み込んだ。膝が柔軟に沈み込み、振り抜かれた刃が、ビュッと空気を唸らせる。
「ほう」
クーファの唇から、思わず感嘆の吐息が漏れた。
武器に振り回されてしまうのではないかと心配していたが、メリダは遠心力を利用してうまく長剣を操っていた。斬り下ろしから逆袈裟へ、清流のごとくなめらかに回って、さらに一閃。
クーファの視線を意識しているからか、ところどころぎこちなさがあった。しかしそれでも、身に染みついた努力量は裏切らない。見本の型を体が完璧に再現できるようになるまで、おそらく何百何千と素振りを繰り返してきたのだろう。
最後までつかえることなく演技を終えて、メリダはしゅっと剣を上げた。
「よく練習されているようですね」
手帳にさらさらとメモをしてから、クーファも木刀を手に取った。
「では次は、軽く打ち込みをしてみましょうか」
メリダの正面に回り、すっとまぶたを閉じる。
暗闇のなか、意識の奥底に浮かび上がるのは、青白い焔の塊だ。
小さな欠片に過ぎないそれに、ありったけの思念を瞬間的に叩きこむ。激しさを増した焔は凄まじい勢いで膨張し、音速を超えて全身をさかのぼって——
一気に燃え上がる!
ごうっ! とクーファの全身から蒼焔が噴き上がった。マナの解放である。
焔といっても、我が身を焼いたりはしない。その輝きは、《夜》を退ける神聖な力を放つのみ。マナとはいわば、能力者の体に宿る《太陽の血(ネクタル)》だとも言われているのだ。
「ふわぁ……っ!」
メリダが目を丸くしてこちらを見つめていた。
「先生のマナは蒼いんですね……! そんなに澱みのない焔、わたし初めて見ました!」
「そうですか? お恥ずかしい」
「あのっ、失礼ですけど、先生の位階はなんですか……?」
「《サムライ》です。敏捷力に優れた位階ですね」
反り返った細身の木刀を、ひゅんっと回してやると、メリダはまた感嘆の声を上げた。
苦笑しつつ、クーファは木刀を正面に構える。手のひらからマナが伝わり、片刃を伝った蒼焔は、切っ先でりんっと空気を灼いた。
「では、自由に打ち込んできてください。当たりそうになっても寸止めは要りません」
「は、はいっ」
緊張した顔で頷き、メリダは長剣を上げた。やはり少し重そうで、剣先がぐらつく。
不動の体勢で待つこと数秒、メリダが動いた。踏み込みとともに剣先が跳ね上がり、大上段へと振りかぶりながら一気に距離を詰めてくる。
「ヤアァ!」
威勢の良い掛け声を聞きながら、クーファは「おや?」と内心首を傾げた。
しかし、もう遅い。長剣の切っ先が、重量を上乗せして勢いよく振り下ろされる。軌道に合わせるように位置をずらされた木刀へと、鋭く叩きつけられて——
バシイイイイ!! と耳をつんざくような衝撃とともに、跳ね返された。
「きゃうっ!」
メリダは二メートルは後方へ吹き飛び、たまらず尻餅をついた。彼女の手から離れ、上空へと舞い上がった長剣は、天頂で真っ二つに砕ける。落下地点がちょうどメリダの真上だったので、クーファはすばやく前進して木刀を振るい、残骸を払い落とした。
木刀を左手に持ち替え、くらくらと目を回しているメリダを助け起こす。
「すみませんお嬢さま、大丈夫ですか?」
うかつだった。彼女の資料にあった【MP0】の記述をすっかり失念していた。
なぜマナを宿す能力者たちが貴族の特権を与えられ、引き換えに外敵の矢面に立つ責務を課せられているか、少し考えれば分かろうというものだ。メリダはマナをまったく扱えない。マナをまとわせた武器とそうでない武器とが衝突すれば、こういう結果を招く。
「予定を変更しましょう。まずはマナを目覚めさせるところからですね」
バラバラになってしまったメリダの木剣を見回して、もうひとつ苦笑。
「武器も新しいのを用意しましょうね」
「……すみません」
ちっとも悪くないのにメリダはそう言って、深くうなだれた。
練習用の武器を収めて、メリダを広場の中央に立たせる。
クーファもまた身軽な格好で、彼女の真正面から基本的な講義を開始した。
「能力者の肉体には、目に見えないいくつかの器官が備わっています。全身にマントルと呼ばれる十カ所のマナの噴出孔があり、それらをヴァポライザーと呼ばれる二十二本の通り道が繋いでいるのです」
ぽん、とメリダの頭に手のひらを置く。正確に示したい場所は頭蓋の中央なのだが。
「噴出孔(マントル)にはそれぞれ名前が付けられています。ここが《ケテル》」
続いて華奢な右上腕、右前腕。左上腕と左前腕。すらりとした右腿にふくらはぎ、左腿にふくらはぎと、順々に手を触れさせていく。同時に読み上げる名称は、それぞれ「ビナー、ゲブラー、コクマ、ケセド、ホド、マルクト、ネツァク、イェソド」である。
最後にクーファは、胸の中央に指先を置いた。メリダの頬がちょっぴり赤くなったが、こちらはあくまで真面目な顔である。十三歳の少女も、ぎゅっと唇を引き締めた。
「《ティフェレト》——ここが一番重要なマントルです。マナの源泉はここにあり、二十二本のヴァポライザーはすべてここに集積されています。このティフェレトに能力者の意思で圧力を加えることにより、ヴァポライザーを通じたマナが全身から解放されるのです」
やってみましょう、と促すと、メリダは大きく頷いた。
目を硬くつむり、手のひらを組み合わせて、祈るような姿勢を取る。
そのまましばらく待ってみるが……何も起こらない。
メリダの額に汗が浮かび、頬を伝って落ちていく。
——やはり駄目か、と。クーファは声に出さずに呟いた。
たとえばクーファは、尻尾を持つ猫の感覚が理解できない。超音波で飛ぶ蝙蝠の真似事はできない。魚のようにエラがなければ、水中で呼吸することもできない。
自分にない身体器官を持っているとすれば、それはもはや、自分とは別の生き物だ。
メリダが今感じている苦悩も、それと似たようなものだろう。
彼女の身体にはマントルもヴァポライザーも、そしてマナ自体も存在しないのだ——
「……お嬢さま、そろそろ学院のお時間です」
結局、エイミーが呼びに来るまでなんらの成果も得られなかった。とぼとぼと屋敷に引き上げていく小さな背中を、メイド長は切なそうな表情で見つめる。
ふと、エイミーはクーファの方を振り向いて、無理やりに笑顔を作った。
「そうですわ、クーファさん。学院でもお嬢さまのお世話をよろしくお願いします」
「お任せください。公爵家の使用人として気を引き締めないといけませんね」
「——えっ!?」
びっくりしたように振り返ってきたのはメリダだ。おそるおそる訊ねてくる。
「せ、先生も学院にいらっしゃるんですか……?」
「え、ええ。ご存知ありませんでしたか? オレはお嬢さまの教育係であると同時に、従者でもあるのです。聖フリーデスウィーデ女学院は原則的に男子禁制とのことですが、オレはお嬢さまの付き人ということで、特別に立ち入りを許可いただいています」
「……っ」
メリダは複雑そうな表情で唇を噛みしめると、ぱっと身を翻した。屋敷に駆け戻っていくその背中に、残されたクーファとエイミーは顔を見合わせるばかりである。
彼女がなにを懸念しているのか、このときのクーファには知るよしもなかったのだ。
† † †
メリダの通う聖フリーデスウィーデ女学院は、お城のような校舎に大聖堂が併設された歴史と風格あるカレッジである。南地区のアルベルト大通りに位置し、広大な敷地を高い城壁で囲んでいるようだ。遠目からでも、空に突き出す校舎の尖塔が見える。
貴族の子弟が通う——すなわちマナ能力者の見習いたちが学ぶ養成学校は、フランドール全体で十三校。なかでもとりわけ聖フリーデスウィーデ女学院は、一人前の淑女としての教養を身につけさせることに重点を置いている、由緒正しいお嬢さま学校だった。
さすがに通学の時間帯ともなれば、街の通りには学生が多く溢れかえる。伝統的なローブ姿や可愛らしいプリーツスカートなど、学校ごとに制服も様々。
そのなかを聖フリーデスウィーデ女学院の、愛らしさと品格の調和したゴティック風の制服をまとったメリダは、ややうつむきがちに石畳を見つめて歩いていく。
華奢な両腕には、ずっしりと中身の詰まった革鞄を提げていた。
「重そうですね、お嬢さま。お持ちしましょうか?」
「いっ、いえ! 平気ですから!」
こちらを見ずに、ぶんぶんと首だけを振る。いったい何が入っているのだろうか?
やがてアルベルト大通りに近づき、周囲には同じ制服を着る女生徒たちの姿が増えてきた。ひとり、凛々しい軍服姿のクーファだけが色彩も身長も抜きん出ていて、ちらほらと好奇の視線が集まってくる。メリダはますます居心地が悪そうに肩を縮こまらせた。
聖フリーデスウィーデのエントランスは、城門を兼ねる細長いトンネルである。その脇に、メリダと同じ一年生の徽章をつけた数人がたむろしているのが見えた。
歩いてくるメリダを認めると、髪をツインテールに結んだひとりが手のひらを上げた。
「やっと来た! 遅いじゃないメリダ!」
メリダは顔を上げると、なぜかちらっと、クーファのほうを気にする素振りを見せた。
それから笑顔を作って、同級生たちの元へと駆けていく。
「お、おはよう、みなさん」
「おはよう! ねえ、頼んでたものは?」
ツインテールの女の子が手のひらを突き出す。他の数人はくすくすと笑っていた。
メリダは鞄を開けて、二冊の分厚い本を取り出す。
それは全区的に有名なとある作家が手掛けた、恋愛小説の最新刊だった。「学生に読ませるには内容がやや過激ではないか」と、聖王区で少し話題になったのを覚えている。
ツインテールの女の子は、メリダからひったくるようにして小説を受け取った。
「これよこれ! クリス・ラトウィッジ先生の新作! ずっと読みたかったの!」
「ネルヴァさま、次はわたくしにお貸しください!」
「わたくしも! わたくしもぜひ読ませていただきたいですわ!」
女生徒たちはわらわらと小説に群がった。ネルヴァと呼ばれたツインテールの女の子が、にっこり笑ってメリダを振り向く。
「よかった! わたくしの家って厳しくて、こういったものは送ってくれないの。その点メリダはいいわよね、おうちにお母さまもお父さまもいらっしゃらないんだもの!」
メリダはあいまいな表情で頷いて、ぎこちなく笑い返した。
そのとき、ネルヴァが背後に控えていた軍服の存在に気がつく。
「あらメリダ、そちらの方は?」
「あっ……今日から来てくださった、わたしの家庭教師で……」
「メリダさまが家庭教師ですって!」
恋愛小説に群がっていた女生徒たちがはしゃぎ始めた。彼女らのリーダーらしきネルヴァが、さっと手のひらを上げて注目を集める。
クーファの前に進み出ると、お淑やかにスカートをつまんでお辞儀をした。
「はじめまして。わたくし、マルティーリョ伯爵家のネルヴァと申します。メリダとはわたくしの《ブルーメン》でとても親しくさせていただいていますの」
「ブルーメン?」
「《ブルーメン・ブラット》……いわゆるユニットのことですわ、先生?」
よく言えばからかうように、悪く言えば馬鹿にしたようにネルヴァは笑う。
ユニットとは、フランドールの守護を司る軍事組織——すなわち、マナ能力者たちによって構成された《騎兵団(ギルド)》における、最小の運用形態である。
最大五人で一組の《ユニット》。ユニットを複数連ねた《レギオン》。攻勢も防衛も、このユニット、もしくはレギオンを基本にして戦術が組み立てられる。
その予行演習という意味も兼ねているのだろう。貴族子女の訓練生たちが通う養成学校では、在学中から同級生たちとのユニット設立を推奨し、レギオンの編成を前提としたカリキュラムが組まれているのだと聞いた。
ネルヴァが得意気に講釈してくる。
「聖フリーデスウィーデでは、ユニットを《花園》を意味するブルーメンの名で呼びますの。わたくしたちは学校でも寮でもいつも一緒。勉強会をしたり、お茶会をしたり、お泊まり会をしたり……。まことの姉妹としての絆を結ぶのですわ」
「なるほど。美しいしきたりですね」
「ふふっ、勉強になりましたでしょうか? 先・生」
嫌味ったらしいアクセントにも怯まず、クーファは涼しい笑顔を返す。
「ご教授痛み入ります。オレはクーファ=ヴァンピール。以後お見知り置きを」
「ヴァンピール家……? 聞いたことのない家名ね」
ネルヴァは少し首を捻ったのち、どうでもいいといったふうに身を翻した。
そのときグループの——否、姉妹(ブルーメン)の誰かが面白がるように発言した。
「ねえそういえば、エリーゼさまも家庭教師を取られたのではなくて?」
「えっ!?」
途端、メリダがびくっと肩を震わせる。
他の少女たちの背中に隠れて気づかなかったが、少し離れたところにもうひとり、一年生の女生徒がいた。清楚に切り揃えられた銀色の髪に、白雪を思わせるやわ肌。氷のように冷たいまなざしが、まっすぐメリダを見つめている。
どことなく、ふたりは似ている。メリダの唇が青ざめ、震えるように動いた。「いたの、エリー」と、かすれて消えてしまいそうな声が、クーファの耳にだけは届いた。
エリーゼと呼ばれた女の子は、無表情のままひとことだけ答えた。
「……今朝、お屋敷にきた」
「しかもその方、最年少で聖都親衛隊(クレストレギオン)に入られたエリートだとか!」
「まあっ、格が違いますわね!」
ネルヴァが囃し立てるように言って、エリーゼを除く他の少女たちが笑った。誰と、なんの格が違うのかは言われなかったが、メリダは小さく肩を震わせた。
「さあ、ホームルームに遅れてしまいますわ。行きましょう」
ネルヴァが呼びかけて、固まっていた一年生の雛鳥たちが歩き出す。メリダは少し渋っていたが、続かないわけにはいかないらしい。
メリダがエリーゼという女生徒を敬遠しているのは明白だ。クーファが任務前に読んだ資料にもその名前があった。エリーゼ=アンジェル……彼女も騎士公爵家の一員で、いわゆる分家の血筋に当たる。メリダとは従姉妹の間柄だ。
ひそかに出自が疑われているメリダとは違い、エリーゼはとうの昔にパラディンの位階を覚醒させ、入学直後からめきめきと才覚を現しているという。
落ちこぼれの本家と優秀な分家……。当人同士の関係だけではない、様々な大人たちの思惑が絡み合っているのは想像に難くなかった。
列の後ろで思考を巡らせるクーファを、先頭のネルヴァがちらと振り返ってきた。なにやら意味ありげに笑うと、はきはきとした声で姉妹たちへ話題を投げる。
「親衛隊といえば、みなさん、卒業後の進路について考えていまして?」
「まあっ、ネルヴァさまったら。少し気が早いのではないかしら。わたくしたち、まだ入学したばかりですのよ?」
「そんなことはないわ、三年間なんてあっという間よ。ねえメリダ?」
「え、えっ?」
唐突に呼びかけられて、列の端をつかず離れず歩いていたメリダは肩を跳ねさせる。
ネルヴァは得意満面に言葉を続けた。
「わたくし、ずっと考えていたの。あなたみたいな落ちこぼれをどこの部隊が引き取ってくれるのか、真剣に悩んだの。だってトモダチだものね。あなただって養成学校に通ってるんですもの、もちろん将来は騎兵団(ギルド)に入るつもりなんでしょう? ねえ?」
「え、ええ……」
「わたくし、メリダにぴったりの所属先を考えたの。白夜騎兵団(ギルド・ジャックレイブン)なんてどうかしら?」
ネルヴァが告げると、ほかの少女たちが「きゃあっ」と囃し立てた。
数百に及ぶレギオンによって構成されたフランドールの軍事組織、すなわち人類の総戦力は、《燈火騎兵団(ギルド・フェルニクス)》の名で呼ばれている。彼らに発行される任務は大きく四つ。キャンベル内の秩序を保つ《治安維持》、人類の生存圏を死守する《領土防衛》、防衛線をくぐり抜けた外敵を排除する《外敵討伐》に、危険な夜の領域へと踏み出していく《夜界探索》。
なかでも任務で多大な功績を収めたり、あるいは大きな武芸大会で優勝するなど華々しい実績を打ち立てた者が《聖都親衛隊(クレストレギオン)》なるエリート部隊へと招かれて、聖王区の警備を担う特別任務、《聖域守護》に従事するという決まりになっている。
だが巷では、とあるひとつの噂が根強く囁かれ続けていた。フランドールの裏側には、平和を象徴する燈火騎兵団(ギルド・フェルニクス)と対を為す、闇の騎兵団(ギルド)が存在するのだと……。
いわく、彼らは社会の陰で暗躍する秘密組織である。貴族や大商人はみな彼らの魔手を怖れている。密談を交わすときは、壁の向こうに彼らの存在を疑わなければならない。下層居住区でクーデターを目論んでいた武装組織が、一晩のうちに街ごと消されてしまったなどなど……彼らに関する伝説は枚挙にいとまがない。
彼らには呼び名が求められた。そこで誰が呼び始めたか、いつの間にか浸透していた呼称が《白夜騎兵団(ギルド・ジャックレイブン)》。その名は幽霊や天災などと並んだ恐怖の象徴として、あるいは、「実際にはありもしないもの」という代名詞としてもよく知られている。
つまり深く考えずとも、ネルヴァはメリダをからかっているのだ。
「ああでも、メリダはもう将来の進路を決めているのよね? わたくし知っているの」
「——っ!!」
びくっ、と。決定的なひとことを予感するかのように、メリダがひとり立ち止まった。
反して他の少女たちは、余興のクライマックスを期待して身を乗り出してくる。
「教えてくださいませ、ネルヴァさま!」
「わたくしとても興味がありますわ!」
「まあ、落ち着きなさい。わたくし入学の面接のとき、偶然メリダと同じグループだったのだけれど、そこでこの子が面接官にこう話しているのを聞いたのよ。——『わたしの目標は聖都親衛隊(クレストレギオン)に入ることです。そうして人々の希望の剣となるのが、わたしの幼い頃からの夢なのです』って。わたくし、それを言っているのが噂の《無能才女》だって知ったとき、もうおかしくっておかしくって……!」
ネルヴァを含むブルーメンたちが、「「「きゃははは!!」」」と甲高く哄笑した。
彼女らが周到なのは、ここが通学路のど真ん中だという点だ。周囲には聖フリーデスウィーデの女生徒たちがひしめいており、大声で話していれば自然と内容は筒抜けになる。
こんな場所で心の内面を暴露されるのは、いったいどれほどの屈辱だろうか。
「…………っ」
メリダは全身をぶるぶると震わせながらも、唇を噛みしめてこらえていたが、
「ねえ、エリーゼさまはどう思われます?」
「——っ!」
一人が銀髪の少女に水を向けると、びくっと華奢な肩を震わせた。
列の反対側にいるエリーゼは、笑いの輪には加わらず、ずっと無表情のままだった。
注目を浴びた彼女は、やがて、ゆっくりと唇を開く。
「……わたしは」
その瞬間、メリダはぱっと駆け出した。向かうのは校舎の方角ではない。どこに行こうとしているのか、本人ですら分からないのかもしれない。
そんな彼女を、通学路の少なからぬ視線が見送った。同情のまなざしである。彼女らに悪気はなくても、メリダにとっては針のむしろだ。
その光景が最高の名画だとでもいうふうに、ネルヴァはにんまりと笑みを浮かべる。
「ああ楽しい……っ。ずっとわたくしの友達でいてね、メリダ」
嗜虐心たっぷりに呟いたとき、少女がもうひとり、列から抜け出した。
「あらエリーゼさま、どちらへ?」
「…………」
無言のまま一瞥し、彼女もぱたぱたと走り出した。向かう先は、メリダが駆けていった方向である。
ここまで影を貫いてきたクーファだが、さすがに家庭教師兼従者として続かないわけにはいかない。ネルヴァたちに軽く会釈をしてから、ふたりのあとを追った。
† † †
敷地のあまりの広さにやや迷ってしまったが、クーファは人気のない大聖堂の裏手でふたりの姿を発見した。最初に聞こえてきたのは、メリダの叫び声である。
「……なんで追いかけてくるのよ! あんたもどうせ無理だって言いたいんでしょ!?」
物陰からこっそりと顔をのぞかせると、メリダがエリーゼを詰問している様子がうかがえた。金髪の少女の目もとは赤く腫れており、泣いているところに声を掛けられて、動揺しているといった状況なのは容易に知れる。
息を殺して見つめていると、銀髪の少女はクーファの知る限り、はじめて表情を動かした。ほんの少し眉を寄せて、ためらいがちに口を開く。
「あのねリタ、わたしも聖都親衛隊(クレストレギオン)に……」
「——っ!!」
メリダの顔が、さっと赤くなった。
「気安くリタって……呼ばないで!!」
エリーゼの肩が、びくっと震えた。それだけの大声で怒鳴って、メリダはまた駆け出した。聖堂の角を曲がって、ちょうどそこに隠れていたクーファとはち合わせる。
「せんせ……っ!?」
大きく目を見開いて、じわりと瞳を濡らすものに気づく。真っ赤な顔でぐしぐし顔をこすり、彼女は顔を背けて走り出した。
傍らを駆け抜けていったとき、きらめく雫がひと粒、クーファの手のひらに弾けた。
金髪が乱れたように舞いながら遠ざかっていくのを、クーファはただ見送る。振り返ると、エリーゼもまだ背中を向けたままうつむいていた。
ふと、クーファは思いついたように手帳を取り出し、さらさらとペンを走らせる。
——《無能才女》の目標は、騎兵団(ギルド)の最高峰・聖都親衛隊(クレストレギオン)への入隊。
「笑えない冗談だ」
くすりともせずに呟いて、手帳をポケットへと戻す。
† † †
つまるところ、これがメリダ=アンジェルの現状だった。貴族の家に生まれながらマナが使えない、そんな異端児が子供たちのコミュニティに馴染めるわけがない。
それでも彼女なりに、できる範囲でそれなりの努力はしているようだった。
クーファが目にしたのは、午前の座学授業、凛と姿勢を正して座る主の背中である。
教壇に立つ二十代後半ほどの女性講師が、百八十度の扇を描く生徒たちの机を見回しながら、まるで幼児を相手にするかのようなゆったりとした声で呼びかける。
「みなさん、もうじきお待ちかねの夏季休暇がやってきます。みんなの関心は学期末の公開試合と、そのあとに催されるサークレット・ナイトのお祭りで持ち切りだろうけれど……その前に、一学期総仕上げの学力試験も控えているのを忘れていないわね?」
何人かの生徒が恥ずかしそうに視線を落とす。女性講師はくすりと笑った。
「みなさんが聖フリーデスウィーデに入学して、初めての学力試験です。武芸を磨くことばかりに夢中になって、勉強をおろそかにしている子はいないかしら? 今日は、今までに学んだ内容を復習してみましょう。——誰か、歴史学(ヒストリア)の『呪われた夜と、ランカンスロープと、人間の関係性』の項目について、説明できる子はいませんか?」
そこで誰よりも早く、ぴん、と手のひらを上げるのがメリダだった。女性講師は嬉しそうに彼女を指名する。
メリダが椅子から立ち上がった。ほんの一瞬、クーファのいる方を気にする。
「……人間は、ランタンの中(フランドール)に暮らしているわたしたちです。《夜》は、フランドールの外に広がっている暗闇のことです。そして《ランカンスロープ》は、暗闇の中に潜んでいる化け物です。ランカンスロープは知性の高いものから獣同然のモンスターまで様々で、彼らの生態はほとんど謎に包まれています。最高位の《吸血鬼》、人狼《ワーウルフ》、捕食する《トレント》に、姿無き《ウィル・オ・ウィスプ》など……彼らにはマナと対をなすアニマという異能があり、害意を持って人間を襲います。ランカンスロープから力の弱い人たちを守るのが、わたしたち貴族——マナ能力者たちの使命です。ランカンスロープを撃退し、フランドールに近づけさせないのが、燈火騎兵団(ギルド・フェルニクス)のいちばん大切な仕事です」
女性講師は目線で続きを促した。メリダは一度こくんと喉を鳴らしてから、続ける。
「ランカンスロープが厄介なのは、元は人間や普通の動植物だったという点です。これが『夜は呪われている』と言われる一番の理由です。夜の暗闇は生物を蝕み、やがてランカンスロープへと変えてしまいます。それを防ぐために、わたしたちはランタンの中(フランドール)から離れられません。夜の領域へと出かけていく騎兵団(ギルド)の勇士は、ネクタルの灯りを手放せません。もしもフランドールのガラス容器(キャンベル)が割れる日が来たら、それが人間の歴史の終焉でしょう。太陽の血を宿すマナ能力者は、フランドールに暮らす全ての、そして、この世界最後の人類の希望です。わたしたちはそのことを、胸に刻み続けなければいけないのです」
「今日が試験日でなくて残念だわ。こんなに模範的な回答を聞いたことがありません」
女性講師が手放しで褒めて、教室中の生徒が「わあっ……!」と瞳を輝かせる。メリダは頬を染めてうつむき、すかさずその後頭部に冷や水をぶっかけるのがネルヴァだった。
「『わたしたちマナ能力者』ですって! あの子、人類の希望なんですって!」
「聞きましたわ! わたくしが同じ立場だったら、顔から火が出ているところです!」
彼女のブルーメンの姉妹たちが、同調してくすくすと笑う。反対に教室がしん、と静まり返った。女性講師はこほん、とたしなめるように咳払いをして、教本を持ち上げる。
「……授業を続けます。次に『ネクタルの用途。圧力式と吸入式の違い』の項目を——」
女性講師がよどみなく次の生徒を指名し、入れ替わりにメリダは着席する。ネルヴァたち数人はいつまでも彼女を嘲笑して、他の生徒はそちらを気にしつつも何も言えない。
メリダも、ひとことも言い返すことはなかった。
いくら教本を丸暗記しようとも、型の動きを完璧に再現できるようになろうとも、彼女はマナが使えないという、途轍もないディスアドバンテージを抱えていたから。
午後の実技の授業時間——クーファは彼女が《無能才女》と呼ばれている理由を、嫌というほど目の当たりにさせられることになった。
聖フリーデスウィーデには、敷地の広さに恥じないいくつもの練武場が備わっている。
そのうちの一つに、サーカスで用いられるのに似た円形のステージがあった。ロープで円錐状に区切られた舞台の上に、様々なアスレチック器具が設置されている。
まるで遊園地のアトラクションのようにも見えるが、決定的な違いはその危険度だ。足場は数十メートルの高さにまで張り巡らされ、落下を防ぐ柵もない。であるにもかかわらず、挑戦者を叩き落とさんとする仕掛けがそこかしこに張り巡らされているのだ。
学院指定のトレーニングウェアに着替えた一年生たちが、ステージの入り口に列を為していた。脇に立つ教官の合図で数人ずつ入場し、各障害物を突破する際の練度やクリアまでの時間を測定している。この成績を《フランドール統一白兵戦能力測定基準》に当てはめることで、能力者としてのステータスが可視化されるというわけだ。
もちろん、挑戦者がマナを用いることを前提として設計されているこのステージは、普通の身体能力しか持たない人間が足を踏み入れればただでは済まない。
到底跳び越えられるはずのない巨大な落とし穴の前で、メリダが足をすくませていた。同時にステータスを測っていたネルヴァが、これ見よがしに後ろからせっつく。
「ほらメリダ! あとがつかえてるんだからさっさと跳びなさいよ!」
「……っ」
膝を震わせているメリダを見上げて、ステージの外の生徒たちははらはらしている。見かねた教官が記帳していたレポートを置き、かわりに二本の木剣を取り上げた。
「メリダ=アンジェル! そこで少し待っていなさい!」
教官はステージに踏み込むと、生徒たちが数分かけて登るコースをわずか十秒足らずで踏破。軽やかにメリダの前へと舞い降りて、木剣の一本を彼女へと放った。
直接立ち合うことでステータスを測ろうというのである。それも方法のひとつだ。
しかしクーファは、生徒たちの後方から見守りながら「同じことだ」と嘆息していた。
攻撃力が【1】、防御力が【1】、敏捷力がかろうじて【2】——それがマナを持たないメリダ=アンジェルの限界なのである。
「やああっ!!」
不釣り合いな木剣を手に、メリダは気勢も高らかに打ちかかった。しかしそれを迎える女性教官は、騎兵団(ギルド)の現役を退いてなお研ぎ澄まされたマナをまとっている。
——木剣が宙を舞い、メリダが不様に床へ倒れ込むのに五秒とかからなかった。
「あうッ……!」
もう何度目になるか分からない光景なのだろう。メリダが苦悶の声を上げた途端、見計らっていたかのようにステージの外からネルヴァたちの哄笑が飛ぶ。
「あっはははは!! ねえメリダ、あなたやっぱりエンターテイナーになるべきよ! 聖都親衛隊(クレストレギオン)なんかよりよっぽど現実的だわ!」
「……っ!!」
うつぶせで倒れ伏したまま、白くなるほど手のひらを握りしめるメリダ。それを見下ろしていた女性教官が、ため息をつきつつ背中を向けた瞬間だった。
「——うああっ!!」
手負いの小熊のように吠え、メリダが跳ね起きざまに木剣を振りかぶった。すでに構えを解いていた女性教官は、踊りかかってくる女生徒の姿にはっと目を見開く。
「メリダ=アンジェル! 無茶はよしなさい!」
無防備な教官の肩を木剣が直撃して——耳をつんざくような衝撃音とともに跳ね返った。
教官は何もしていない。たとえ何もしていない棒立ち状態であろうとも、マナをまとっているというだけで常人には不可侵なのだ。勢い任せの斬り下ろしは数倍の威力で己に跳ね返り、小さくて華奢なメリダの体は冗談のように後方へ吹き飛ぶ。
そして、あっさりとコースを飛び出した。
「あ……」
全身を風になぶられ、メリダは頭が真っ白になったかのような表情を浮かべていた。重力に引きずられるまま上体が傾き、数十メートルの高さから落下していく。
「メリダ=アンジェル!!」
教官が絶叫し、生徒たちが息を呑む。そしてクーファは、やれやれと身を起こした。
直後、ぎゃっ!! という凄まじい靴音が練武場を突き抜けた。
女生徒たちがその音を後方に感じたのと同時、黒い疾風がステージに飛び込んだ。着地とともに鋭角でターンし、足もとを焦げつかせながらさらに加速。女性教官が十秒かけたコースを二秒も要らずに蹂躙すると、適当なところで跳躍して腕を広げる。
落下途中の金髪少女を、クーファは空中で抱き止めた。優雅にお姫さま抱っこで救出して、運動エネルギーを全身に分散しながら着地。ぎゃりり、と再び足もとが焦げつく。
メリダをふわりと床へ下ろして、流れるようにひざまずいた。
「お怪我はございませんか? お嬢さま」
ぽかーん、と。メリダはもとより、ステージ内外にいる全員が言葉を失っていた。一拍遅れてきた女性教官が隣に降り立ち、面白がるような笑顔を向けてくる。
「たいしたものですね。はなまるを差し上げましょうか?」
「光栄です、ミセス」
クーファが恭しくお辞儀したとき、ようやく感情が追いついた女生徒たちが、歓声を爆発させた。ステージがうおんうおん震えるほど、凄まじい熱狂がクーファを包む。
「お名前を! お名前をお聞かせくださいまし!」
ひとりが口火を切ると、あとはもう止まらなかった。女生徒たちが堰を切ったようにステージへなだれ込んできて、あっという間に全方位が色とりどりの花に包まれる。
その陰でメリダが輪の外に弾き出されていたが、誰も気にしなかった。
「ひと目お会いしたときから気になっていたのです! わたくしコラーダ子爵家の……」
「ちょっと抜け駆けはずるいですわ! ご挨拶と贈り物はひとりずつ順番にです!」
「あまり見えなかったけど、見惚れてしまいました! 教官先生より速かったのでは?」
「あら、それは聞き捨てなりませんね。誰か、彼に木剣を貸しなさい!」
「ミ、ミセス、お戯れを……」
生徒たちに教官まで加わり、大変な騒ぎである。この輪に加わっていないネルヴァたちのグループは大変面白くなさそうな表情で、どうにか水を差してやろうと頭を捻り、
「メ、メリダ=アンジェルにはもったいない先生ね!」
そう飛ばされた野次は誰の耳にも届くことはなかったが、当のメリダにだけは届いた。
「…………っ!!」
ステージと対照的にうら寒い外側で、メリダは身を翻した。まだ授業時間内だというのに練武場から立ち去っていく。明確な授業放棄(エスケープ)だが、引き止める者は誰もいない。
それどころか誰ひとり、メリダがいなくなったことに気づくこともなかった。
「…………」
クーファだけは彼女の金髪を見送っている。本来なら追うべきなのだろうが、今は寄り添っても逆効果だろう。それどころか、自分はもう、あの娘には……————
「クーファさま?」
あらぬ方向を見ていたクーファに、女生徒のひとりが首を傾げてくる。クーファはすぐさま笑顔を向け、非の打ちどころのない受け答えをしながら、仮面の裏側で考えた。
——潮時だな、と。
その日の遅く、屋敷の皆が寝静まった頃、クーファは自室で机に向かっていた。
任務の報告書を作成しているのである。これは郵便屋ですら知らないルートを通って、明け方前には人知れず上司のもとへと届く。
レポートに綴るのは、簡単に次のようなことだ。
――今日一日観察したが、メリダ=アンジェルに才覚はまったく見られない。
――結論。彼女は騎士公爵、フェルグス=アンジェルの実の娘ではない。
――よって私は、私に与えられた《二つ目の任務》を果たす。
羽根ペンを置き、クーファは椅子を立った。まだ荷解きもしていなかったトランクをマットレスに上げ、ベルトを外す。
着替えや日用品、文庫本などが収められていたそれは、巧妙な二重底になっている。仕掛けを外して蓋を開き、クーファはその下に隠されていたものを露わにした。
――噂がある。母親が聞き分けのない子供に聞かせるような、くだらない怪談話だ。
いわく、この国には表の燈火騎兵団(ギルド・フェルニクス)と対を為す、評議会直属の闇の騎兵団(ギルド)がある。彼らに発行される任務は《要人暗殺》に《機密管理》、時に人間すら被検体にした《禁忌実験》など、耳を疑うようなおぞましい汚れ仕事ばかり。
その構成員はほとんどが幼少期から組織で教育された、表社会には存在するはずのない者たちだ。人前に出てくるたびに名前を変え、立場を変え、目的を達したのちは霞のようにいずこかへと消える。犯罪の下手人は、そもそもこの世界には存在しない――
「まさか、こんなに早く《家庭教師の仮面(ヴァンピール)》を捨てることになるとは……」
トランクの底に隠されていたのは、毒薬、火薬に爆薬、ワイヤー、それに黒塗りのナイフなどなど。何が必要になるか分からないから色々と取り揃えてきた。
手始めに漆黒の革手袋を両手にはめつつ、彼は思案する。
――今回、私に下された任務は二つある。一つはあの落ちこぼれお嬢さまを教育し、アンジェル公爵家に相応しい戦士へと育て上げること。
そして二つ目。もしもメリダ=アンジェルの成長がまったく見込めず、すなわち、彼女が正当なパラディンの血筋ではないと確信できた場合には。
あのアンジェル家の汚点となる娘を、跡形も残さず――
「始末せよ」
きゅっとワイヤーを握り、袖の下に仕込む。血の一滴でも残したらまずいから、絞め殺すのが良いだろうか。それとも灰になるまで燃やすのが良いだろうか。調べられないように「死体を残さず」というのは、なにげに面倒くさくて難しい。
念のためナイフを帯に差し、クーファは部屋を出た。サムライ・クラスとしての愛刀はさすがに必要ないだろうと思い、マットレスの下に隠したままだ。
メイドたちが寝静まっている屋敷の廊下を、足音も衣擦れの音もなくクーファは進む。
「ごめんなさい、エイミーさん。みなさん」
小さく声に出して、彼女らに謝る。先ほど盛大な歓迎会(パーティ)を催してもらったばかりだ。
本来なら、こんなに早く事に及ぶべきではない。上司は「うまくすりゃ一月くらいで戻ってこられるかもな?」などと笑っていたが、慎重を期してもう少し間を空けるべきだ。
なにせ新しい使用人がやってきたその日にお嬢さまが不審死を遂げれば、誰だって疑いの目を向けるだろう。いくら《クーファ》が社会的に存在しない人間で、容疑はクライアントが揉み消してくれるとはいえ、関心を引くこと自体避けるべきである。
それを推してなお任務を敢行するのは……ひとえに我慢できなくなったからだ。
メリダ=アンジェルは見るに堪えない。
放課後のレッスンでも、彼女はなんらの成果を上げられなかった。それも当然。母親が商家の人間だったというメリダは、予想が正しければ貴族の血を継いでいないのだから。
富豪とはいえ平民階級だった母親と、どこの誰とも知れない不倫相手との間に出来た娘。アンジェルの家名を名乗ってはいても、メリダにパラディンたる資質はない。
それを知らずに彼女は、愚直に己の才能を信じている。
「憐れな娘だ」
心からそう思う。歓迎パーティに最初だけ顔を出し、挨拶だけして自室に戻ってしまったメリダの表情をクーファは思い出す。
彼女の人生は苦しみに満ちている。これからもずっと苦しみ続ける。そして、その苦しみが報われる日は永遠に訪れない。
ならば、その連鎖を早々に断ち切ってやることが――
暗殺者の慈悲(アサシンズプライド)だ。
灯りのない廊下で、すらりと高い人影が、一階にあるメリダの寝室の前に立った。
「お嬢さま、世界は残酷なんです」
せめて、その絶望を知らないまま逝けることを幸せに――
とそこまで考えたところで、クーファはふと、扉の向こうの違和感に気づいた。
すぐさまドアを開け、室内に踏み込む。広すぎない寝室に、可愛らしい調度品。乙女趣味な鏡台とクローゼット。それらがはっきり見えるのは、机でキャンドルが光っているからだ。天蓋付きのベッドにはネグリジェがたたまれている。
メリダの姿は、ない。
「どこへ……」
机には学院の教本が詰まれていて、ノートを開いてみれば小綺麗な字がびっしりと綴られていた。そして訓練用の木剣がなく、クローゼットを開けてみれば彼女のトレーニングウェアも見当たらない。
つまり、こんな時間まで起きて明日の予習をしていたかと思えば、次は剣を持って自主練習へと向かったのだろう。彼女の熱心さにはつくづく頭が下がる――…………
いや、待て。
ぴくんっと、クーファの鋭敏な聴覚が違和感を聞き取った。
メリダの寝室は窓が開け放たれている。ここから直接テラスへ出て、トレーニングに向かったのだろう。しかし真っ暗な庭のどこにも、彼女の姿がない。
屋敷を囲む植物園のほうから、再び硬質な違和感が響き渡る。
「――ッ」
考える前に、クーファは飛び出した。風のように植物園へと駆け込んでいく。
フランドールの空は昼も暮れも関係なく、暗い。しかしそれでも、人々には生活時間の概念がある。一日も終わりに近づけば商店は閉まり、人々は家路を辿って、街燈は灯りを絞って皆が眠りにつく。薄暗く寝静まった街は、遠くの音がよく響く。
違和感の正体は容易に知れた。
「なぜこんなところに……!!」
黒豹さながらの脚力で小道を駆け抜け、やがて視界の先に複数の影を発見する。すぐさま地面を蹴って茂みに紛れ、狩りを行う獣のように気配を殺した。
ヴァイオレットの瞳が、暗闇の向こうに標的の姿を捉える。
一人はメリダ嬢。予想通りトレーニングウェア姿で、身の丈に合わない木剣を懸命に振り回している。そんな彼女を取り囲んでいるのが、ぼろぼろの道化服にカボチャをくり抜いたような頭を乗っけた、異様な姿の三人組だった。
「ランカンスロープ……っ!?」
声に出さずにクーファは呻く。図らずも昼間、学院で聞いた講義が脳裏を横切った。
奴らこそが、夜の領域に住まう人類の仇敵。かつて人間だった者たちのなれはて。その名称は、「深い眠りにつき、本来の自我を失ったもの」を意味している。
あのカボチャ頭の連中は、ランカンスロープのなかでも最下級に位置する《パンプキンヘッド》と呼ばれる種族だった。これといった異能(アニマ)もたいした知性も持たず、本能的に力の強い相手に従うだけ。時には人間に使役されることすらある雑魚だ。
そんな雑魚が、こんな高層街区まで侵入して来られるはずがない。
クーファはふと思い出した。任務につく前に上司が言っていた台詞――『モルドリュー卿の方でもたびたびプレッシャーをかけているそうなんだが、全く効果が上がらないらしくてな』という何気ない言葉を。
「これがプレッシャーか……!」
三体のパンプキンヘッドが、メリダの祖父、モルドリュー卿の差し金であることは明白だった。ランカンスロープとの戦闘を強制することで、彼女のなかに眠るかもしれないマナを揺り起こそうとしているのだろう。
無茶苦茶にもほどがあるやり方だ。
「はぁ、はぁ……! なんなのよあんたたち……!」
メリダが息を荒らげて睨みつけても、パンプキンヘッドたちはけたけたという笑い顔を崩さない。メリダは勇ましく木剣を振り上げ、突撃していった。
「やああっ!」
なめらかなフォームでの打ち下ろし。しかし、木剣がカボチャのかぶりものに衝突した直後、メリダは跳ね飛ばされたように後方へ吹っ飛んだ。
「きゃう!?」
打ちつけた木剣の方が半ばから砕け、その反動がメリダを襲ったのだ。パンプキンヘッドは避けることもせず、地面に倒れ込んだメリダを指差してけたけたと笑う。
あれがランカンスロープの厄介なところだ。連中は通常の武器・兵器による攻撃手段の一切を無効化する。その守りを貫けるのはネクタルの光やマナ――《太陽の因子》のみ。なればこそ、国はランカンスロープに対抗できる唯一の存在、マナ能力者たちに貴族の特権を与え、その育成と運用に心血を注いでいるのだから。
「うっ……く……!」
折れた木剣を握りしめ、メリダが身を起こそうとする。その傷ましい姿は図らずも、クーファや学校の教官との立ち合いで手も足も出なかった、あの場面を彷彿とさせた。
嘲笑うかのように、一体のパンプキンヘッドが彼女の手を蹴っ飛ばした。「あっ!」という悲鳴に重なって、半分だけになった木剣がくるくると宙を吹っ飛んでいく。
「い、ったぁ……この!」
血のにじむ手のひらを握り、メリダは直接殴りかかった。大きく目を見開いたパンプキンヘッドは、踊るようにステップを踏んで足を引っかける。跳びかかっていった勢いそのままに、メリダは顔から地面に倒れ込んだ。
「ふぐっ! ……うぅ……!!」
顔中泥まみれになって倒れ伏すメリダの周りを、三体のパンプキンヘッドが取り囲む。けたけた笑い、妖しい踊りを舞って、戯れのようにとんがり靴で蹴っ飛ばす。
ごろごろ地面を転がるメリダを指差して、また耳障りに爆笑する。
「うっ……うぅ……っ……!」
メリダは土を引っかきながらもがき、まだ立ち上がろうとしていた。
――何をやってるんだ? と茂みの中でクーファは眉をひそめた。
マナを持たない普通の人間は、どうあがいてもランカンスロープには敵わない。貴族の子供だろうと平民の子供だろうと、幼年学校で口酸っぱく教わることだ。だから平民はランカンスロープから必死で身を隠さなければいけないし、貴族は彼らを護るために前へ出なければならない。
メリダはマナを持たない側なのだから、助けを呼べばいいのだ。なのになぜ、さっきから滲みそうになる涙を必死でこらえるばかりで、悲鳴の一つも上げようとしないのか。
カーディナルズ学教区には騎兵団(ギルド)の優秀な部隊が詰めている。大声を上げて、巡回中の彼らに呼びかければいい。こんな最下級のランカンスロープなどあくびまじりに片付けてくれる。それとも、屋敷のメイドたちを巻き込むことを怖れているのか? だが今は、マナ能力者であるクーファも屋敷にいることを知っているはず――…………
答えを掴みかねているうちに、目の前の状況はさらに悪い方へ転がりつつあった。
「もう……いいでしょ……帰ってよ……っ」
地面にうつぶせたまま、メリダが呻いた。パンプキンヘッドたちの注目が集まる。
たびたびプレッシャーを与えられているということは、これが最初の襲撃というわけでもあるまい。連中はこれまでにも何度かメリダの訓練中に現れ、一方的な戦闘をしかけては大ごとになる前に退散していったはずだ。その状況は、おそらく今とまったく同じ――
しかし今回ばかりは、連中の様子が違っていた。一体のパンプキンヘッドが腕を閃かせると、袖口から錆びついた鉤爪が音を立てて飛び出す。もう片方の手を伸ばし、地面に散らばっていたメリダの金髪を掴むと、乱暴に引きずり上げた。
「えっ、なに……痛っ!」
はじめて、メリダの唇から悲鳴めいた声が漏れる。パンプキンヘッドは彼女の腰まで届く金髪をぐいと引き上げると、そのなかほどに錆びた鉤爪を当てた。
事態に気づき、はっと、メリダの表情が引きつった。
「うそっ、やだ……やめて!! 髪に触らないで!」
すぐさま跳ね起きようとするが、他の二体のパンプキンヘッドが彼女を押さえつける。髪を引っ張り、鉤爪を当てている一体は、にたにたと下卑た笑いを浮かべた。
もがきながら、メリダは必死の形相で叫ぶ。
「やめなさいよっ、放して! それはお母さまの形見なの! 死んだお母さまと同じ金色なの! これを失くしたら、わたしはお母さまのことを思い出せなくなっちゃう!!」
『ケタ、ケタ、ケタ……ッ』
それはさも愉快、とでも言いたげにパンプキンヘッドは嗤う。
クーファのような暗殺者すら差し向ける始末だ。メリダの祖父、モルドリュー卿がいよいよ痺れを切らしているのは明白。「パラディンでなければ殺しても構わない」とまで豪語しているのだから、ことここに至って、手心を加えるつもりなどないのだろう。
それでもし死んだら、それも良しと判断されてしまったのだ。
「う、うぅっ……放、しなさい……っ!!」
メリダは限界まで力を込め、パンプキンヘッドたちの怪力を跳ねのけようとしていた。その分の体力で助けを呼べばすぐに解決するかもしれないのに、まだ呼ばない。
――なぜ? 理由の知れない苛立ちがメリダへと向かう。なぜ助けを呼ばないんだ!?
クーファの膝が反射的に跳ね上がり、理性の左手がすぐにそれを抑え込む。言葉にできない衝動が自分を突き動かそうとしている。なぜ、なぜ、なぜ――…………
その答えは、ついに、メリダ自身の言葉によってもたらされた。
「わたしは……髪を大事にしなくちゃだめなの……! 聖都親衛隊(クレストレギオン)に入らなくちゃだめなの……! だって、だってそうしなくちゃ、わたしは本当に……っ」
「誰にもアンジェル家の子供だって、認めてもらえない……――――」
目に見えない電撃が、頭のてっぺんから爪先までをひと息に駆け抜けた。
クーファはこの任務につく前、アンジェル家に関する資料をひととおり頭に叩き込んだ。そのなかに、たしかに次のような記述があった。
『アンジェル家から輩出されたパラディンは、全員が聖都親衛隊(クレストレギオン)への所属経験を持つ』
メリダもそれを意識しているのか。身の丈に合わない木剣を振るのは自分がパラディンだと信じているからか。この期に及んで助けを呼ぼうとしないのは――
助けを呼べば、自分が《マナを持たない側》であると。
貴族の娘ではない、アンジェル家の子供ではないと――認めることになるからか。
クーファの全身から、一気に力が抜けた。ああ、本当に、笑えない冗談だ。
こんな澱んだ茂みのなかで、私はいったい、何をやっているんだ――…………
『ケキャアアアア――――――――――ッ!!』
甲高い奇声を発して、パンプキンヘッドがいよいよ鉤爪を振り上げた。その直後、カボチャ頭の中心に、か――――ん! と涼やかな音を立てて、一本のナイフが突き立った。
さしたるダメージはないが、連中は予想外の事態にぽかんと動きを止める。
「オレの主人に触れるな」
暗がりから歩み出た軍服の人影へと、パンプキンヘッドたちが一斉に振り向いた。
殺意を宿して揺らめく瞳から、一切の感情が、消える。
「失せろ」
ぶん! と空気が震え、直後に一体のパンプキンヘッドの頭部が、十文字に斬り飛ばされていた。踏み込みと同時に突き立っていたナイフを握り、縦横に振るい、連中がクーファの姿を懐に認識した瞬間には、一体を絶命させている。
しかし同時に、ナイフがマナの圧力に耐えかねて粉々に砕け散った。元々ランカンスロープ用の武器ではない。クーファはすぐさまワイヤーを引き抜くと、煙るように腕を振るう。唖然と突っ立っていたもう一体のパンプキンヘッドの首にワイヤーが巻きつき、直後にマナの蒼焔が伝い奔った。
ようやく状況に気づき、パンプキンヘッドは必死でワイヤーを引き剥がそうとしながら何事か喚き立てた。
「『助けて』……?」
クーファは、まばたきをしない。
「どうして生きて帰れると思う?」
ワイヤーを握った腕を鋭く振り抜くと――スパァン! とカボチャの首が刈り飛んだ。
三体目、最後のパンプキンヘッドはもっとも状況判断が的確だった。すなわちクーファの速度を見た瞬間、背中を向けて逃げたのだ。ステータスが文字通り桁違いだということを理解したのだろう。二体目の首が地面に落ちる頃には、奴はワイヤーの範囲外に逃れていた。
モルドリュー卿の元へ帰すわけにはいかない。クーファは燃え上がるマナを右手のひらに集中し、初級の攻撃(アサルト)スキルを始動させた。
「《幻(げん)刀(とう)三(み)叉(しや)……」
蒼焔が渦巻きながら急速に研ぎ澄まされていき、手のひらの延長上に刃を形作った。透けるように薄い三枚の蒼刀が、クーファの腕に連動して揺らめく。
「《虚(こ)空(くう)牙(が)》!!」
鋭い踏み込みとともに、腕を一閃。遥か離れた間合いから、マナの蒼刀はパンプキンヘッドの背中めがけて飛翔した。退路を塞ぐように三方向から追い上げ、それぞれが交差する収束点で――ざしゅっ! と道化服を斬り刻む。
三つに分断されたパンプキンヘッドは、悲鳴を上げる間もなく地面に転がった。
威力や派手さではなく、ただひたすらに速度と正確さを突き詰めたサムライ・クラスの戦闘スタイル。ほぼ一般人と変わらないメリダにしてみれば、まばたきの間の出来事である。ほんの少しの声と、音と、光を感じたと思ったら、もう周囲に静寂が戻っていた。
目を瞬かせながら顔を上げてみれば、軍服の長身が背中を向けている。
「せん、せい……?」
声を掛けられて、クーファは振り向いた。
内心、「やってしまった……」と自分に呆れていたところだ。
あきらかにクライアントの意に背く行為である。モルドリュー卿を納得させられるよう三体のパンプキンヘッドの死を誤魔化さなければならない。そもそもこんな高層の街区(キヤンベル)で連中が見つかったら大騒ぎだ。うまく亡骸を処理しなければ……。
しかしそんな小賢しい思考は、振り返った瞬間に吹き飛んでしまった。
一本たりとも奪わせてはいない。しかし地面に広がり、泥にまみれてしまっている金色の髪を。自分が「貴い」と感じた少女の、涙と血に濡れた表情を目にした瞬間に――
「……遅くなって申し訳ありません、お嬢さま」
ひざまずいて手を差し伸べると、メリダはよたよたとその手を取って起き上がった。
ぐしぐしと目もとをこすると、泥の跡がさらに広がってしまう。
「いいえ……ご迷惑おかけして……すみませんでした」
「お嬢さま」
きゅっと、クーファは彼女の両手を引き寄せた。
冷えたその指先に、自分の熱を伝えようと強く握りしめる。
「お嬢さま。どうかオレにだけはあなたを助けさせてください。あなたの力になりたいのです。たとえどんな嵐のなかであろうと、オレは必ずあなたの声に応えてみせます」
「…………っ」
ずっと噛みしめられていたメリダの唇が、ふいに溶け崩れた。
大きく見開かれたルビーのような瞳から、ぼろっと大粒の涙が溢れる。
――そうしたらもう、あとは止まらなかった。
「うっ……うぁっ……うああああああああああ!! ああああああぁぁぁぁん!!」
広大な植物園の隅々にまで響き渡るような声で、メリダは泣いた。
今日一日分の涙では到底まかなえない量だと、クーファは思った。
† † †
屋敷への帰り道。植物園に挟まれた小道に、金と黒の主従の姿があった。
顔をぐしゅぐしゅにして泣いて、喉が痛くなるまで叫んで、胸のなかにあるものを全部吐き出したら、ようやくメリダは少し落ち着いた。気丈な子のようで、みっともない姿を見られてしまったと、それからしばらくは恥ずかしそうにしている。
自然と手を繋いで歩きながら、幼い少女はもじもじとこちらを見上げてきた。
「あの、先生……今日学校で会った、エリーゼって子のことを覚えてますか?」
「え? はい。お嬢さまの従姉妹にあらせられると、お話だけは伺っております」
「ケンカしてるとこ、見られちゃいましたよね……」
困ったようにメリダは笑った。大聖堂の裏で鉢合わせたことをずっと気に病んでいたのだ。心の機微に敏感な子だと、クーファは思った。
ゆっくりとした歩調を刻みつつ、メリダはぽつぽつと語った。
「わたしたち、昔はとっても仲がよかったんです。エリーはぼんやりしてて、考えてることが分からないって周りから誤解されがちで。それなのに、本当のあの子は弱虫で、泣き虫で……だから、『わたしが守ってあげなきゃ』なんて思ってたんです」
くすっと小さく笑いながらも、メリダの表情はすぐに曇ってしまう。
「……でも幼年学校に入って何年かしたら、わたしたちの関係は変わっちゃった」
「変わった?」
「わたしはいつまで経ってもマナに目覚めなくて、それなのにエリーはパラディンになって、急にみんなから認められて。いつの間にか私の方が置いてけぼり。いじめられてるわたしをあの子がかばってくれるようになって……昔は逆だったのに」
それで今はこんなです、とメリダは自嘲気味に言った。
「学校でのわたし、ご覧になりましたよね? クラスメイトにからかわれても、笑ってごまかすだけで、ひとつもやり返せない。こんな姿をエリーに見られてると思ったら、わたしもう恥ずかしくて、みっともなくて……あの子と顔が合わせられない……!」
メリダの独白は、クーファの胸の奥をぎゅっと締めつけた。トラウマというやつだ。普通に殴られるよりも、罵倒されるよりも、人前で辱められるという経験は深く心を刻む。
「お嬢さまの気持ち、少し分かります」
「先生も? うそっ、先生はそんなに立派なのに……」
「オレは《夜界》の出身なんです」
メリダはきょとん、と目を丸くした。ぴんと来ていない様子だ。
「え……? それって、キャンベルの外の、下層居住区の……?」
「そのさらに外側です。言葉通り、夜の領域からフランドールに逃げ込んできました」
みるみる瞳を大きくして、メリダはびっくりしたように叫んだ。
「ええっ!? フランドールの外に、人が住んでいるんですか!?」
「住んでいるというよりは、どうにか生き延びているといった状態でしたけれどね。呪われた夜といっても、すぐさま人を化け物に変えてしまうわけではありません。だから様々な理由で夜の領域に取り残されて、ランカンスロープに見つからないよう息を潜めて隠れ住んでいる人たちも、ごくわずかですがいるのですよ」
「ふえぇ……っ」
メリダの呆けたような顔がおかしくて、クーファは少し笑った。
学校の教科書などには載らないが、騎兵団(ギルド)に発行される任務の一つ《夜界探索》には、新たな資源や生存圏の獲得のほかに、そうした難民の救助も含まれているのだ。
クーファは遠くの空を、学教区を包むガラス容器(キヤンベル)の向こうを見つめながら、続けた。
「物心ついた頃には、オレは夜界の大地を彷徨い歩いていました。押し潰してくるかのような周囲の暗闇と、今にも燃え尽きそうな灯りの心細さを今でもよく覚えています。オレとオレの母は、本当に運良くこの都市まで辿り着いて、命を拾うことができたんです」
「先生の、お母さまですか!?」
「ええ。フランドールに暮らしはじめてまもなく、亡くなってしまいましたけど」
メリダの表情がしぼむのを見るのは心苦しかったが、クーファは続ける。
「もともと夜界での強行軍で体が限界だったというのもあるのですが、母をもっとも苛んだのはストレスです。夜界出身者に対する、フランドール住民の差別」
「差別?」
「『夜界に取り残されていた者は、体が呪詛で穢されている。近くに寄ると伝染る』んだそうです。オレも子供の頃は、近所の子たちから『ばい菌』と呼ばれていましたよ」
「ひどい!!」
眉を寄せて怒ってくれるメリダのことを、クーファは好ましく思った。
「もちろん根も葉もない噂です。しかし、重要なのは《事実どうであるか》ではなく《大勢がどう思うか》ですから、差別意識はまたたく間に浸透して際限なくエスカレートしていきました。……それでも母は最期の最期まで、オレにだけは、愛する息子にだけは幸あれと、そう願って息を引き取っていきました」
「…………」
メリダにはこれ以上聞かせられないが、庇護者を失った夜界出身の子供はいよいよ生き場所を失った。そこを引き取ったのが、例の《存在しない闇の騎兵団(ギルド)》だ。
以来、クーファはスプーンのような感覚でナイフを握らされ、生き地獄のような訓練で青春時代を潰し、今はあんな小汚いおっさんの下で汚れ仕事をやらされている……。
「だからね、お嬢さま。オレはとても羨ましかったんです」
「うらやましい?」
「オレは教育こそ受けましたが、学校には行ったことがありませんでしたから。ときおり目にする学生服の子たちが、昔からとても羨ましかった。あんなふうに友達と笑って、学校に行って勉強して、放課後は喫茶店ではしゃいだり、休日はガールフレンドとデートをしたり……そんな当たり前の青春を送れる彼らのことが、ちょっぴり妬ましかった」
そこでメリダの方を振り向き、にこっと笑う。
「――でも学校は学校で、色々な苦労があるものなんですね?」
メリダは一瞬面食らったような顔をして、けれどもすぐに笑い返してきた。
「そうですよ? 先生。学校は戦場なんですからっ」
「ふふっ」
「えへへ……っ」
くすくすと笑い合う。話している間に、メリダの体力もずいぶん回復してきたようだ。
そろそろ切り出す頃合いかと、ふいに足を止め、クーファは表情を引き締めた。
「お嬢さま」
雰囲気の変化を感じ取ったのか、メリダもぴくっと緊張しながら立ち止まる。
「は、はい」
「提案があります」
「提案……?」
首を捻ったメリダに――自分からすればずいぶん小さい、ほんの十三歳の女の子に、クーファは慎重に言葉を選びながら続ける。
「今日一日、家庭教師としてお嬢さまのことを拝見させていただきましたが……率直に申し上げます。お嬢さまがこのままどれだけ鍛錬を重ねられたところで、マナ能力者として覚醒する可能性は、極めて低いと思われます」
メリダの表情に、一瞬で色々な感情が横切った。
「え…………」
「稀にあるんです。貴族の家に生まれながら、マナを受け継げなかったというケースが。そういう話は表に出てきませんし、しかもお嬢さまの場合は騎士公爵家ということで、多くの人を混乱させてしまったのだと思いますが……」
出自をごまかすためのクーファの方便を、メリダはほとんど聞いていなかった。
顔を俯かせ、小さなこぶしを、胸の位置でぎゅっと握る。
「そう……ですか」
しかし落ち込む暇を与えず、クーファは身を乗り出した。
「ですから、提案です。お嬢さま、オレに命を預けてみませんか?」
「えっ……?」
「危険な賭けですが――お嬢さまのマナを目覚めさせる方法があります」
メリダの反応はあたかも、蜃気楼のオアシスを見つけた旅人のようだった。
空気を求めるかのように唇が震え、ほとんど無意識によって問いかけが零れる。
「どうやって……?」
「まだ公には知られていない、実験中の治療薬を使います。薬に能力者のマナ、今回の場合はオレのマナを混ぜて服用していただくことで、深く休眠しているお嬢さまのマナにショックを与え、叩き起こすことができる……可能性があります」
これも半分は方便である。実際にクーファが考えているのは《マナの移植》だ。
挿し木の理論である。
クーファの体内にある木(マナ)から枝を一本だけ切り取り、メリダへと移植する。切り取られた方の木からは新たな枝が生えるため支障はない。そして移植された方の枝は地中に根を伸ばし、力強く大きな木へと成長する。
「ただし、危険です。この術の成功率は七割……十回やって三回は失敗する計算です」
「失敗したら、どうなるんですか……?」
一瞬、オブラートに包むべきかと考えたが、思い直して正直に告げる。
「後遺症が残ります」
「後遺症?」
「どんな症状が出るかは分かりません。オレの知る限りでは、片腕にびっしりと鱗が生えて千切れ落ちた人、顔面が内側に潰れて鬼のように醜くなった人、全身の肌が緑色に変色した人など様々です。そしてこれらの後遺症は、どんな名医に見せても決して治すことができず、一生そのままです。最悪の場合……命を落とすことさえあり得ます」
「――っ」
さすがにぞっとした様子で、メリダが自身の肩をかき抱く。
人が人でなくなって死ぬというのは、クーファにとってもあまり気分の良いものではない。しかし、「遺伝子構造をいじるのはそれほど危険な行為なのだ」と、我が闇騎兵団(ギルド)のマッドサイエンティストは得意げに語っていた。
「オレからは強制できません。どうしますか?」
「………………………」
凄まじい葛藤が小さな体を駆け巡っているのが、傍から見ていてもよく分かった。
「試しにやってみよう」では済まない。「やはりやめておけばよかった」は通じない。
この選択は、メリダの人生を真っ二つに分岐させる。
運命が神の手ではなく、自分自身の手に委ねられているめったにない瞬間――
しかしその重圧を背負うには、十三歳という年齢はあまりに未成熟かもしれないと、いつまでも結論が出せない背中を見てクーファは思った。
「…………」
張り詰めた五分間が過ぎたとき、クーファは口調を和らげて言った。
「もちろん、やらなかったからと言ってオレは家庭教師をやめたりしません。きちんと卒業まで、お嬢さまの成長をお助けさせていただきます。今すぐに結論を出さなくても大丈夫ですよ。どうしましょうか?」
「やります」
メリダはそう言った。
胸もとを握りしめた彼女の表情は、なんと表現したらよかったのだろう。
泣いてはいなかった。理由は言わなかった。意気込みを語ったりもしなかった。
ただもう一度はっきり、言った。
「やります」
「……そうですか」
クーファは静かに頷いて、石畳の上にひざまずいた。
キャンベル内に存在する緑は、もちろん自然のものではありえない。奇跡のような花々に囲まれながらメリダの左手のひらを引き寄せると、その指先に口をつける。
「……マイ、リトルレイディ」
「えっ?」
「お嬢さまがオレに命を預けたように、オレも今、お嬢さまに命を賭けたのです」
ぴんと来ていない様子の十三歳の主を、クーファは笑って見上げた。
「準備をしなければいけません。さあ、早くお屋敷に戻りましょう?」
† † †
テラスを通り、開けっぱなしだった窓からメリダの寝室へと戻る。秘密裏に行うべき行為である。屋敷のメイドたちを起こさないように、クーファはその場で準備を始めた。
ペブロットの葉を丹念にすり潰し、中和液に混ぜてよく溶かす。紅魔蝶(べにまちよう)の燐粉を加えてさらにかき混ぜ、あとは水精のダイヤをひと粒落とせば、しゅわしゅわと泡を立てながら液体がピンク色に染まっていく。それと……飲みやすくなるようハチミツをスプーン一杯足しておこう。
備えあればなんとやらというか、本当にいろいろ取り揃えてきて正解だった。眠るように殺す毒から重病を引き起こす毒まで、それらは素材の調合を変えればクーファが言っていたような《治療薬》になる。どちらも同じ劇物だからだ。
素材の分量を完璧に、入れる順番を正確に、かき混ぜる回数と速度まで計算に入れて……神経をすり減らすような作業を続け、いくつかの素材を調合すれば、最後にぼわんっとひと塊の白煙が上がって、ビーカーの液体が淡いきらめきを放った。
これにクーファの血液とだ液を混ぜれば、マナを移植する薬の出来上がりである。
口内を噛みちぎると、鋭い痛みとともに血が滲み出す。クーファは振り返った。
「できましたよ」
メリダはベッドに腰掛けて待っていた。すぐ横になれるようにと指示しておいたので、クーファが調合に専念している間にネグリジェへと着替えている。
薬が出来上がるまでの時間、彼女はずっと黙って自分の膝を見つめていた。しかし声をかけられたとき、華奢な肩がぴくんと跳ねたのをクーファは見逃さなかった。
「……っ」
顔を上げず、石のように体を強張らせている。
クーファはいったんビーカーを下げて、訊いた。
「やはりやめておきますか?」
「い、いえっ。そうではなくて……」
メリダはおずおずと上目遣いになって、こちらを見上げた。
「あの、先生……ひとつだけ、嘘をついていただけませんか?」
「嘘?」
「はい。……嘘でいいので、約束してほしいんです」
メリダは自分の細い肩を抱いて、続けた。
「そのお薬を飲んで、もし、わたしの体がおかしなことになってしまったら……そのときは先生、わたしをお嫁さんにして、もらってくださいますか?」
「お嬢さま……」
「う、嘘でいいんです! 今このときだけの嘘でいいので……少しだけ安心させて」
「…………」
クーファはベッドの前に膝をつくと、彼女の指を取った。先ほど口づけした指である。
「……ご安心を、お嬢さま。治療は必ず成功します。なぜなら悲劇のお姫さまは、最後には必ず幸せになると、たくさんの物語が証明しているのですから」
すると、メリダはぱあっと表情を華やがせた。
「それじゃあ、先生は王子さまですか!?」
「お、オレはどちらかというと、毒リンゴを運んでくる悪い魔法使いではないかと……」
するとメリダはちょっとむきになったふうに、ずいっと身を乗り出してくるのだ。
「わ、悪い魔法使いが王子さまだって、きっといいと思うんですっ」
「とんだ鬼畜王子ですね……」
自分で叩き落としてから救い上げるとは、夢見る乙女も飛び起きかねない斬新設定である。クーファが「やれやれ」と苦笑すれば、メリダも「ふふっ」とおかしそうに笑った。
肩の荷が下りたみたいに、華奢な体がくすくすと揺られている。
さあ――これが物語の始まりになるのか、あるいは悲劇の終幕になるのか。
審判の時間だ。
「はじめましょう」
クーファが立ち上がると、メリダも表情を引き締めて頷く。クーファも頷き返して、ビーカーを口もとに近づけると、メリダに慌てたように待ったをかけられた。
「あ、あれ? どうして先生がお飲みになるんですか?」
「えっ、あ、そうか。すみません、説明していませんでしたね」
肝心なことを言い忘れていた。いったんビーカーを戻して、続ける。
「薬には最後の材料としてオレのマナを使いますから、一度オレの体を経由させなければいけないのです。そしてそれ以降は外気に触れさせると組成が変化してしまうので、お嬢さまはオレの口から、直接服用していただく形になります」
「それって、つまり…………き、キス……っっっ!?」
メリダの金髪がぼふんっ! と跳ねて、顔が真っ赤に沸騰した。
……まあ、正確には口移しだが、十三歳の女の子にはどっちでも同じことだろう。このリアクションと彼女の生活を鑑みれば、初体験に違いない。大事なファーストキスをこのような形で奪ってしまうのは、さすがに可哀想な気がしなくもなかった。
「や、やめておきましょうか……?」
「い、いえっ、違くて! 嫌なんじゃなくて! その……っ」
メリダは真っ赤に染まったほっぺたを押さえて、必死に顔を隠そうとしていた。
「なんだか本当におとぎ話みたいだなって……やだ、わたし……っ!」
な、なるほど。王子さまの口から流し込むのが遺伝子改造の毒薬でさえなかったら、たしかにロマンチックと言えるかもしれない。
しかし、やるならやるで覚悟を固めておいてもらわないと困る。クーファの口に含んだ瞬間から薬は変化を始めるので、直前で躊躇われでもしたらお互いに危ないのである。
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶです! ふ、ふつつか者ですが……っ」
「そんなに気負わず、体を楽にして。――では、いきます」
勢いが肝心だ。五秒間だけ心の準備の時間を与えて、クーファはひと息に薬を呷った。口のなかに溜めていた血とだ液が混ざった瞬間、薬に弾けるような刺激が奔った。
ここからは一秒も間を空けられない。メリダの華奢な肩を掴み、確認もなく唇を押しつける。強張っていた桃色の唇を、自身の唇を押しつけて強引に開かせる。
「んむっ……ふぅ……!!」
薬が移り始めた。決して飲みやすくはない味と、舌が痺れるような刺激。それにキス自体の経験がないために、メリダはぎこちない。下手をしたら零してしまう。
恥じらっている場合ではないと、メリダはクーファの首にぎゅっと腕を回して抱きついてきた。唇を隙間なく合わせ、お互いの舌を絡めるようにして、一生懸命に薬を飲み込んでいく。少なくはない量の液体が、こく、こく、と小さな喉を滑り落ちる。
お互いに汗をかいてしまうほどの数十秒が過ぎて、ようやく薬をすべて移し終えた。名残を惜しむようにゆっくり唇を離すと、ちゅぱっと、やけに艶めかしい音が響き渡る。
いつの間にか、二人して痛いぐらい抱きしめ合っていたことに気づいて、メリダはぱっと体を離した。うつむけた顔は首まで真っ赤で、とろけてしまったかのように唇が熱い。
しかし、その直後。
どくんっ! とメリダの体が大きく跳ねた。
「うッ……!!」
「吐き出してはいけません。耐えて呑み込んでください」
口もとを押さえたメリダを、すかさずクーファは制止する。
今メリダの体のなかでは、薬が劇的な変化をはじめている。胃のなかでマグマが煮えたぎり、体中の関節が地割れを起こしたように痛み、氷山に放り出されたかのごとく寒気に苛まれているはずだ。
とても正気でいられず、メリダはベッドに倒れ込んだ。クーファは彼女を抱え上げて枕に寝かせ、上に何枚も毛布をかぶせてやる。
あとは、時間との戦い。
数時間もすれば、メイドたちが起き出してくる前には、結果が出る。
マナを得るか、それとも薬に負けて体が壊れるか――
「うっ、ぅぅ……うぅ~……ッ!!」
「そばで看ていますから、安心してお休みになってください」
聞こえてはいないだろうメリダに呼びかける。今、彼女は眠りにつけないほど苦しく、かといって自分を保ってもいられないほど意識が朦朧としているはずだ。十三歳の女の子に味わわせるには、想像を絶する地獄である。
調合器具と素材を手早く片付け、クーファは椅子を持ってきてベッドの脇に座った。これもあらかじめ用意しておいたお盆からタオルを絞り、メリダの汗を拭いてやる。
今日、主になったばかりの小さな女の子。あるいは憐れな暗殺対象。あらためて、自分はとんでもないことをしているぞとクーファは自覚した。
この術が成功したとしても、メリダが得る位階は待望のパラディンではない。クーファと同じサムライだ。それでは暗殺の依頼人、モルドリュー卿を納得させることはできない。彼はメリダの母、メリノア=アンジェルの不倫を否定するために、メリダに騎士公爵家としての血筋を証明してもらいたいのだから。
クーファはすでに知っている、メリダは公爵家の血筋ではないということを。それを隠蔽しようとしていることがもしバレたら、今度はクーファの方こそ暗殺対象にされてしまう。自分の保身だけを考えるなら、メリダにはこのまま死んでもらった方が良い。
――今後のことを考えなければ……。
数時間後、もしメリダがグロテスクな死体になっていたら、あの三体のパンプキンヘッドもろとも後処理をしなければ。森に埋めるのが良いだろうか。それとも棺に詰めて川に沈めるのが良いだろうか。中途半端に生き残ってもらっては逆に困る。彼女にこのような施術を行ったのが知れたら、表向きにも裏的にもただでは済まない。
本当に、私はいったい、何をしているのか……――――
「……かあ、さま…………っ」
そのとき、メリダが小さく声を発した。うなされているのだ。
「おかあさま……おとうさま……どこ……?」
無意識に腕が持ち上がり、誰もいない真っ暗な天井へと伸ばされる。
「わたしをひとりに……しないで…………っ」
閉じられた瞳の端から、ひとすじの涙が零れた。力尽きたように腕が垂れる。
腕が毛布に落ちる直前――ぱしっ! と。クーファがその手のひらを掴んだ。
「がんばれ、お嬢さま……!!」
そのまま自分の額に押し当て、両手でぎゅっと握りしめる。
「がんばれ、がんばれ……! こんなところで負けるな……!!」
ベッドの縁に肘をついて、額に押し当てた小さな手のひらへひたすらに念じる。
殺人者である自分の祈りに意味はあるだろうか?
なければ呪いでもいい。どうか自分の言葉が鎖となって、この子の存在を世界に繋ぎ止めますように。
「生きろ、生きろ、生きろ、生きろ……っ!!」
クーファはきつく目を閉じて、雪のように冷たい指の感触だけを感じ、念じ続ける。
そのとき、苦しそうに寄せられていたメリダの眉が、ふいに和らいで、
「……せんせい…………」
聞きとれないほどにかすかな吐息が、安心したように零れた。
† † †
「ん……っ」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
一瞬、視界がホワイトアウトするような感覚がして、全身にけだるい脱力感がのしかかってきた。重いまぶたをしばたたかせると、鮮烈な光が網膜を刺激する。
世界の明るさは、すなわち《朝》が来た報せだ。人々の活動時間帯が近づき、幾万の街燈がまばゆいほどに光を増す。眠りについていた街が、音を立てて動き始めている。
久々にじっくりとした目覚めを迎え、クーファは――すぐさま飛び起きた。
「しまった、寝て……っ!?」
自分で自分が信じられず、垂れてもいないよだれを拭う。
徹夜で看病するつもりだったのに、あっさり睡魔に負けて意識を手放してしまったらしい。確かに移植術でマナを切り離した分、かなり体力を消耗していたが、こんなに無防備に寝こけてしまうなんて諜報部隊のエージェント失格である。
「そうだ、お嬢さまは……!」
枕もとに――メリダの姿はなかった。乱れた毛布が、彼女の痕跡を物語るばかり。
自分でベッドから出て、どこかへ行ったということは、少なくとも死んでいるわけではないらしい。しかし、目覚めた彼女はいったいどのような姿になっているのか……。
そのとき、きゃあ! と、どこからか少女の悲鳴が聞こえた、
屋敷で働くメイドたちの声である。
「……っ」
クーファの喉が、緊張でごくりと鳴る。
見れば窓際で、カーテンが風にそよいでいた。窓が開けっぱなしになっている。庭の方から、複数人が駆け回る気配を感じる。少女たちの悲鳴はなおも断続的に響く。
騒ぎの中心にメリダがいるであろうことは、すぐに察せた。
「お嬢さま……っ」
クーファはもたつく足取りで窓に駆け寄った。震える手のひらでカーテンを握り、一気に開け放つ。
「お嬢さま!!」
直後、ぼうっ! と目の前に白焔が膨れ上がって、クーファはたまらずのけぞった。
「うわっ!?」
「――あっ、ごめんなさい先生!」
慌てたような声が聞こえて、クーファはわけが分からずに目をしばたたかせる。
まず、眼前を煽った炎はまったく熱くなどなかった。自然の発火現象ではない。色も、まるで獅子のたてがみのような気高い黄金。――マナの焔。
広場の中心で、満面の笑みを浮かべている女の子から発せられているものだった。
「見て、先生っ!」
つぼみを花開かせるように、メリダがぱっと両腕を振り上げる。黄金の火の粉が大量に舞い上がり、まるで花吹雪のように降り注ぐ。
バレリーナさながらにダンスを踊れば、指先から迸った煌焔が大蛇のごとくうねり、妖しく舞を彩った。
空を飛び交う光の乱舞に、屋敷のメイドたちは大興奮だ。みな寝間着に裸足のままで庭を駆け回り、きゃあきゃあと黄色い悲鳴を上げてはしゃいでいる。
「すごい! すっごいよメリダさま!」
「うわあっ、いつの間にこんなことできるようになったんですかぁ!?」
「見てくださいクーファさん! お嬢さまがとうとうマナを……!」
メイド長のエイミーが駆け寄ってきて、めそめそと涙を拭った。
「お嬢さまもわたくしたちも、ずうっとこの日を夢見てきたんです……っ! きっと、クーファさんのご指導のたまものですわ! なんとお礼を言ったらいいか……!」
「……ええ。オレもとても嬉しく存じます」
感動しているふりをしながら、クーファは顔の半分を手のひらで覆った。
手のひらの下に隠したのは、凄絶な笑みだ。
さあ――これでもう後戻りはできないぞ!
お嬢さまには母親の不倫を知られてはいけない。私が暗殺者だということももちろん秘密だ。そして同時に、クライアントのモルドリュー卿や私の属する《白夜》には、メリダの本当の出自と、私が彼女に深く肩入れしていることを隠し通さなければならない。
これらのどれか一つでも違えれば、ふたりもろとも、即、死――
だから……嗚呼どうか、小さくも気高い我が主よ(マイ、リトルレイディ)。
私にあなたを、殺させないでくださいね?
葛藤する暗殺者の視線に気づきもせず、メリダは楽しそうにいつまでも踊り続けた。
ネグリジェの裾が花びらのように広がり、煌焔がダイヤモンドのごとく世界を彩る。その中心でまばゆい笑顔を浮かべる彼女は、まるで太陽のように美しかった。
========================================
Name:メリダ=アンジェル Class:サムライ
【HP】144 【MP】16
【攻撃力】14(11) 【防御力】12 【敏捷力】17
【攻撃支援】0%~20% 【防御支援】- 【思念圧力】10%
【主なスキル/アビリティ】隠密Lv1
総合評価……【1‐F】
【侍/サムライ】
高い敏捷力と《隠密》アビリティによって、敵を死角から葬り去る暗殺クラス。マナの収斂による中距離戦にも若干の適性がある。
反面、防御性能には期待できないため、グラディエイターとは逆に、戦場の陰でこそ真価を発揮するクラスと言えるだろう。
適性[攻撃:B 防御:C 敏捷:A 特殊:中距離攻撃C 攻撃支援:C 防御支援:-]
========================================
――報告。
メリダ=アンジェルの家庭教師に就任して一日目、早くのマナの覚醒を確認。
いまだ位階は判然としないものの、パラディンである可能性は極めて高いと思われる。
今後の育成次第では、公爵家令嬢として相応しい成長を期待することも充分に可能。
ついては、クライアントに暗殺の中止を進言し――
「駄目だ」
ぐしゃっと、クーファは作成途中の報告書を握り潰した。
主観がメリダに寄り過ぎている。もっと無機質な文面でなければ怪しまれる。真実を婉曲的かつシンプルに綴り、最低限の嘘を効果的に滑り込ませるのだ。
「レポート一枚書くのにどれだけかかってるんだ……」
デスクワーク用の眼鏡を外し、眉間を念入りに揉みほぐす。
メリダの屋敷に家庭教師として潜入して三日目。時刻はもうすぐ朝方の五時になろうかという頃だ。徹夜で自室の机に向かっていたクーファは、結局一睡もできなかった。
この任務につく前は、虚偽の報告書をでっち上げるなんて考えもしなかったことである。あの真夜中の施術(キス)から丸一日以上が経って、クーファはようやく実感が湧いてきた。
自分がいかに危険な立場にいるか、ということを。
本来なら、自分はもうメリダ=アンジェルを殺していなければならない。彼女を救い、かつクーファ自身の立場を守るには、途方もない難題をいくつもクリアする必要がある。
上司の目を欺き、クライアントを納得させ、世間の印象を操作する。それでいて且つ、メリダ自身には彼女の不安定な境遇を悟られてはならない――
ほとんど不可能である。
三年後、自分とメリダはともに、無事に生きて卒業式を迎えられるのだろうか?
「……しかし、もう後戻りはできないな」
何度となく自分に言い聞かせた言葉を、もういちど噛みしめる。
気合いを入れて椅子から立ち上がり、クーファは自室を出た。なんとなれば、この難易度SSSクラスの超級任務、完璧にやり遂げてみせるしかあるまい。秘密は一滴たりとも漏らさない。そしてあの少女を、光輪を背負うルビーのごとく完璧に磨きあげるのだ!
そのためにもまずは――と、決意も新たに向かった先は、メリダの寝室である。
扉の前に足を止め、あまり響かないよう注意しつつ、数回ノック。
「……お嬢さま、よろしいですか?」
するとすぐに、部屋の中から近寄ってくる気配を感じた。そっと丁寧にドアが開かれ、本日もお美しいメリダ=アンジェルが顔を出す。ネグリジェ姿は天使そのもので、徹夜仕事でささくれていたクーファの心が潤わされていくのを感じる。
まだ早朝とも呼べない寝静まった空気のなか、ふたりで静かにお辞儀を交換した。
「おはようございます、お嬢さま。――よく起きられましたね」
「おはようございますっ、先生。――だって先生の言いつけですもの」
言いつつ、メリダはちょっぴり恥ずかしそうに金色の髪の毛をいじる。
「なんて、昨日昼間にいっぱい寝たから、目が冴えちゃったんですけど……」
「よくお休みになられたようで、なによりです」
クーファはくすっと笑い、失礼にならない程度に室内を示す。
「お邪魔しても?」
メリダはすぐに一歩下がり、ふんわりと笑いながらドアを開いた。
「いらっしゃい、先生」
その甘い声と仕草に、本気で「天使か」と思ってしまったのはここだけの秘密である。
さて、もう何度も訪れた年頃の少女の寝室に、クーファはあらためて足を踏み入れた。メリダからはいつも優しい花の香りが漂うのだが、それはエイミーが自慢していた入浴剤の効果らしい。クーファを招き入れると、彼女はしっかりとドアを閉める。
がちゃん、と施錠して、鍵を鏡台へと置いた。
「それで、先生。大事なお話ってなんですか?」
すぐには答えず、クーファはテラス側に歩み寄ると、すべての窓と鍵を確かめた。風を入れるために開けられていたカーテンを、しゃっ、と隙間なく閉じる。
――これでもう、この部屋で行われることを知りえる者はひとりもいない。
マナを目覚めさせたばかりの昨日、クーファは大事を取って、メリダに学院とレッスンを休ませていた。ゆえに今日から、本格的な彼女の育成が始まるというわけだ。
しかしその前に、どうしても彼女に告げなければならないことと、しなければならないことがある。ゆえに昨日の晩餐のあと、クーファはメリダにそっと耳打ちした。
『明日の朝、大事なお話があります。このことはエイミーさんにも秘密にしてください』
メリダはその言いつけをきちんと守り、こうしてクーファを待っていたのである。
健気で素直なネグリジェ姿の生徒を振り返り、クーファは厳かに口を開く。
「実は折り入って、お嬢さまにお願いしたいことがあるのです」
「え? はい、なんでしょう。先生のお言いつけでしたら、なんでも」
「ありがとうございます。ではさっそくですが、着ているものをすべて脱いでください」
「分かりました。…………――って、ええええっっっ!?」
素直に従いかけた彼女は、寸前で我に返って素っ頓狂な悲鳴を上げた。クーファは唇の前に人差し指を立てて、「シィ」と息を吹く。あくまで落ち着き払った表情である。
「大きな声を出さぬよう。エイミーさんたちを起こしてしまいます」
「す、すみませんっ……! で、でも先生っ、真面目な顔してなにかと思えば……っ!」
「大真面目です。オレだって気恥ずかしいですが、これは大事なことですから。――お嬢さま、先日服用した薬が非常に危険だったということを覚えておいでですか?」
メリダはきょとんとして、おそらくはあの晩の記憶を手繰って、それからクーファの唇を見つめて、最後にぼうっと頬を赤らめた。……まあ、覚えているならよしとしよう。
「お嬢さまは見事、薬に打ち勝ち、マナを獲得されました。ですが万が一、体に異常が出ている可能性も捨てきれないのです。ゆえに、その検査をさせていただきます」
「そ、それならエイミーに頼んで……っ、ううんっ、自分でだって出来ます!」
「この検査は単純に表面的な異常だけでなく、骨や筋肉や内臓、そしてなによりマナ器官が問題なく機能しているかを調べる意味もあるのです。これは肉体構造を熟知している武芸者であることはもちろん、マナ能力者であるオレにしかできないことです」
たとえば今後メリダが怪我をしたとき、風邪を引いて医者にかかったとき、体のどこかに原因不明の異常が発見されたらどうなるだろう。その源はなんだという話になり、クーファの行った投薬があきらかになり、それが誰かの耳に入った時点で命運はお終いだ。
学校に行き、大勢の人間に会う前の最後のチャンス。メリダの尊い体を一ミリ単位で精密に掌握するのは、この時点でクーファにとっての絶対必要条件なのである。
「で、でもやっぱり脱ぐなんて……っ」
「……仕方ありませんね、そこは妥協します。めくり上げてくださるだけで結構です」
「めくりっ……!?」
「ざっと全身の肌が見られればよいので、ネグリジェの裾をたくし上げていただければ」
「デリカシーというものを!」
ぼすんっ、とメリダが枕で殴りつけてきた。乙女の底力かなかなかいい一撃だったが、顔面を打ち据えられてなおクーファの表情は崩れない。あくまで真摯に、である。
「お嬢さま。オレがあなたの教育に当たる上で、これはどうしても必要なことなのです」
「うぅぅ~~~~……っ!」
誇張ではなく、命を賭けたクーファの訴えに、メリダの心も揺れていた。もともと嫌がっているわけではなく、肌を見られてしまうのがただただ恥ずかしいだけなのだ。
しかしやはり、自分でめくって見せつけるなど、乙女の羞恥心が認めないらしい。
――仕方がない。ここは自分が《悪役》を演じるしかなさそうだ。
内心やれやれと嘆息しつつ前に踏み出し、クーファはメリダの足もとにひざまずいた。
「申し訳ありませんお嬢さま、無茶を申しました。やはり考え直しましょう」
「えっ――?」
息をするのも忘れていたみたいに、メリダが視線を上げる。当然耳まで真っ赤だ。
クーファはにこりと笑い、腰の高さから彼女を見上げた。しかし、その優しさが純真な心に刺さったのか、メリダは「ううっ」ともどかしそうに表情を歪ませる。
「ご、ごめんなさい先生っ。わたしが意気地なしだから……っ」
「良いのですよ、お嬢さまはそのままで。それにどのみち――見せていただくことになるのは変わりませんので」
「えっ?」
「失礼」
クーファの行動は実に迅速だった。流れるようにメリダのネグリジェの裾を掴むと、盛大に手のひらを翻す。ぶわさっ! とフリルとレースが視界いっぱいに舞い上がった。
そしてメリダの裸が、ほぼ余すところなくクーファの視線にさらされる。
「えっ……――――」
メリダは何が起きたのか理解しかねていた。服が翻っている時間など実際には一秒か二秒足らず。しかしそこは熟練のサムライたるクーファである。動体視力と反応速度をいかんなく発揮し、目の前に広がった肌色を隅々まで精査していく。
美味しそうなふともも、可憐な桃色のショーツ、小ぶりなおへそに、十三歳とは思えない腰のくびれ。そして、ささやかに膨らみつつある乙女の双丘……それらは風圧を浴びてふるん、とプリンみたいに小さく揺れ、その先端でツンと上向く桜色までを――
確かめたところで、ようやく我に返ったメリダが裾を押さえこんだ。
「きゃああああああああああっっっ!?」
人生最大の衝撃をいまだかつてない絶叫で彩り、メリダは股を押さえこんだ。空気をたっぷりはらんだネグリジェの裾が、名残惜しそうに舞って、落ちる。
「なっ、な、なな、なんっ……えっ、み、見られ……? え、え……っ?」
熱暴走で壊れたオルゴールみたいに呟くメリダは、自分の身に起きたことを処理し切れていない様子だった。真っ赤な顔の彼女を前に、クーファはゆらりと立ち上がる。
見たところ前側には異常なし――機械のようにそう判断しつつ、軍服の外衣を脱いで床に放る。ワイシャツの袖をまくり上げ、ほぐすように五指を蠢かせた。
「お嬢さま、特別テストといきましょうか。オレはこれからお嬢さまのネグリジェを全力でめくりにかかりますので、お嬢さまはそれを阻止してください。十回めくられたらお嬢さまの負け。その前にこの部屋を脱出できたらお嬢さまの勝ちです。では、始め」
「えっ、なに、特別テスト!? な、なんですかそれっ? ――って、速い!!」
びゅん! とメリダの背後に回り込んだクーファが、駆け抜けざまにネグリジェをめくり上げていった。小ぶりなヒップ、わずかに食い込んだショーツに、思わず撫で上げたくなるような白い背筋――しっかり観察されたのち、メリダの手のひらが遅れて追いつく。
「きゃああああっ!! ちょっ、ちょっと先生! 怒りますよ!?」
「申し訳ありません。オレも心苦しいことこの上ないのですが、これは絶対的に必要な不可避の条件でありオレの意思ではどうすることも――はい、三回目」
「ひゃあっ!? い、言ってる意味がよく分かりませんけどついでみたいにめくっていくのをやめてください! というか、どうしてマナも使ってないのにそんな速いんですか!?」
「マナ能力者とはいえ、素の体力が基盤ですから。今のお嬢さまを制圧することぐらい、片手片足あれば事足ります。それよりも、まるで抵抗できていないではありませんか」
「きゃあ! きゃあっ! きゃあ~~~~っっっ!?」
余談だが。
このどったんばったんの大騒ぎは当然部屋の外にも届いており、加えて仕事熱心な屋敷のメイドたちがそろそろ起き出していることは明白。こののち食堂に顔を出したクーファとメリダは噂好きのマダムみたいな好奇の視線にさらされることになるのだが閑話休題(それはさておき)。
「先生のえっち……っ!!」
「なんとでも」
特別テストであっさりと勝利をもぎ取ったクーファは、そのペナルティとしてメリダをベッドに寝かせていた。体の外側を確かめたら、次は内側である。つまりは触診だ。
マナの噴出孔であるマントルと、通り道であるヴァポライザーを検査するのである。それぞれがきちんと機能しているか、接続されているか、末端まで通っているか……これらは生き物のように流動的で機械よりも繊細なため、指先の感覚だけが頼りとなる。
とはいえネグリジェ姿でベッドにうつ伏せになるメリダは、こちらの作業はまだしも気が楽なようだった。指先でそっと撫でられるのはくすぐったかろうが、そこまで破廉恥な場所には手を伸ばしていない。それはクーファの方こそ恥ずかしがったからである。
本来であれば、絶対の安全を求めるのなら――下着を含め全部脱がせて仰向けにし、しっかりと手のひらを以て精査するべきだ。しかしそんなことをすれば本格的にお嬢さまの尊厳が危うかろうし、クーファの方も今後彼女とどう接したらいいか分からなくなる。
いくら大人ぶっていようと、所詮十七歳であることを痛感させられた瞬間だった。
とはいえど、可能な限り検査の精度は高めなければならない。ネグリジェの裾はふとももの付け根ぎりぎりまでまくり上げさせてもらっているし、「触っていい」と許可をもらった場所には遠慮なく指を伸ばさせてもらっている。
メリダはもう色々あきらめたのか、のぼせたように真っ赤な顔で枕に突っ伏していた。
「……先生って、わたしのこと女の子だなんて全然意識してくれてないんですね」
ふと、いじけたような声が聞こえた。クーファは作業の手は止めぬまま、答える。
「そんなことはありません。先ほども申し上げたでしょう? オレだって恥ずかしいのです。ただ、感情が表に出ないよう訓練しているだけです」
「ほ、ほんとうに恥ずかしいなら、なんでこんなことするんですかっ?」
「会ったばかりで変に思われるでしょうが、オレはお嬢さまを大事に想っていますから」
ぱっと顔を上げて、メリダはこちらを振り向いてくる。
「え……」
「ですからオレが行ったことで万が一、億が一、お嬢さまのお体に傷がついていたらと考えると、夜も眠れないぐらいに怖ろしいのです。それを思えば誰にそしられようと、たとえお嬢さま自身に嫌われようと、オレ自身の名誉や感情など取るに足らないこと……。今のオレが望むのはただひとつ、どうかお嬢さまが健やかであれと、それだけです」
「…………」
メリダはしばし、じっと黙って何かを考えていた。
やがてきゅっと唇を噛むと、クーファに一声かけてから仰向けになった。
ずっと胸をかばっていた腕すら外し、クーファの瞳を遠慮がちに見つめてくる。
「……ごめんなさい、先生。検査で必要なところがあったら、好きに触ってください」
「え? はい」
どんな心境の変化だろうか。まあ、そう言ってくれると検査もやりやすい。とはいえ、本当に好き勝手触るのはこちらの羞恥心が邪魔をするのだが。
先ほどよりスムーズに触診を進めながら、クーファは口を開いた。
「ところで、お嬢さま。検査とは別に、もうひとつ大事なお話をしなければなりません」
「え? はい。なんですか?」
「実はお嬢さまが獲得された位階は、残念ながらパラディンではないのです」
きょとん、とメリダの瞳が大きく見開かれた。
「え……?」
「本来であれば優性因子であるパラディンが発現するはずだったのですが、これも稀に起こることです。無念かとは思われますが……」
言うまでもないが、これもまた方便である。彼女にはそもそも騎士公爵家の血はなく、クーファのマナを分与することで人工的に能力者に仕立てたのだから、当然の結果だ。
「それじゃあわたしの位階は、なんなんでしょう?」
「サムライです」
「サムライ……先生と同じ?」
「はい」
メリダは少し考えるように天蓋を見上げたあと、ふるふると首を振った。
「……昨日までのわたしは、マナを得ることもできなかったんだもの。パラディンになれなかったのは少し残念だけど、仕方ないです。きっとご先祖さまの血が濃く出たんだわ。それに、それが運良く先生と同じサムライだなんて! わたし、文句なんかありません」
「お嬢さま……っ」
じぃん……! なんて、感激している場合でもない。
思わず止めてしまっていた指を動かし、肉付きの薄いふとももにつうっと滑らせる。
「納得していただけてなによりです。――ですがお嬢さま、お嬢さまが得た位階がサムライだということは、当面の間、誰にも秘密になさった方がよろしいかと存じます」
「えっ、なぜですか?」
「お嬢さまご自身が納得していようと、騎士公爵家であるという立場上、よからぬ噂を立てる者が必ず現れるからです」
メリダは分かったような分からないような顔をして、あいまいに頷いた。
「先生がそう言うなら、そうします。でも、いつまでも隠しておけるかな……?」
「当面の間だけで結構です。いずれはステータス表にも記さなければならないこと。けれどその前に実績さえ打ち立ててしまえば、反対意見などある程度黙殺できますから」
「そういうものなんですか?」
「そういうものです」
それが、クーファとメリダが生き延びる唯一の活路だった。
今回、クーファに与えられた任務は二つある。その《一つ目の任務》を達成してしまえば良い。要は、メリダを騎士公爵家に相応しい人間として育成できれば良いのである。究極的にはそれこそ、彼女の心が望むとおり聖都親衛隊(クレストレギオン)への入隊を果たすのが望ましい。
メリダの位階が明らかになれば不穏な噂も流れるだろうが、華々しい実績さえあればそれらを捻り潰すことができる。血筋に関しては、メリダが言っていたようなことで一応は言い訳が立つ。あとはそれで、クライアントのモルドリュー卿が納得するかどうか……。
もちろん口で言うほどたやすい道ではない。メリダの成長がもたついたり、思ったような実績が得られなかったりしたら、モルドリュー卿はいよいよ彼女を見限るだろう。その場合はメリダを見過ごしていたクーファにだって、無慈悲な断罪が下されるに違いない。
自分と彼女の命運は、このあまりにも細く儚い肢体に掛かっているのだ……。
メリダの足の爪先を、最後にしゅっと撫で、クーファはようやく体を起こした。
「――お疲れさまでした、お嬢さま。全身の検査がくまなく終わりました。身体の内外、および全身のマナ器官、あらゆる面において一切の後遺症はございません」
「よかった……」
メリダをベッドの縁に腰掛けさせると、クーファは床にひざまずいて深く頭を垂れる。
「数々の無礼をお許しください。この罰はいかようにも……」
「いえっ、そんな! 先生はわたしの体を想ってくださったんですもの!」
ぱたぱたと慌てたように手のひらを振ってから、メリダは花のような笑顔を咲かせる。
「ありがとうございます、先生」
「お嬢さま……」
「わたしは、先生の生徒になれますか?」
はっと、クーファの瞳が見開かれる。
『オレがあなたの教育に当たる上で、これはどうしても必要なことなのです』
クーファは確かにそう言った。検査の結果は、メリダも気にしていることだったのだ。
「……お嬢さまはもうすでに、オレの自慢の生徒ですよ」
クーファはつぶやくように言って立ち上がり、テラスに面した窓際へ。もう時刻は六時近く。朝の訪れとともに、フランドールの街燈たちが競い合うように強く輝く。
じゃっ! とカーテンを開けば、押し寄せてきた光がメリダの寝室を満たした。
退路は断たれた。そして同時に、反撃の準備も整った。ここから始まるのだ――
クーファとメリダの、命運をかけた育成の日々が!!
クーファはベッドを振り返り、震え上がるほどの眼光を以て告げた。
「さあ、さっそくレッスンを始めます。運動着で庭へ出なさい、メリダ=アンジェル!」
† † †
殺傷力のない木刀と言えど、それを扱うのがマナ能力者ならば事情は大きく変わる。
蒼焔と煌焔、それぞれのマナを乗せた武器がぶつかり合うたび、バシイイイイ! と雷鳴のごとき衝撃音が響き渡る。屋敷の広場に、断続的な閃光が瞬く。
マナの煌焔を全身から噴き散らすトレーニングウェア姿のメリダは、先日に比べて飛躍的に運動能力が向上していた。武器もパラディン向けの長剣ではなく、サムライ・クラス御用達の三日月のごとく反り返った片刃の木刀である。
もう自分から打ち込んで無力に跳ね返されるといったことはない。武器を自分に合うものに持ちかえたおかげで格段に動きやすそうだ。
それでもやはり――彼女と立ち合うクーファの目からしてみれば、成長はまだまだこれからといったところである。
「くっ、やっ、えいっ……あわわっ!」
急に跳ね上がった身体能力に戸惑いつつも、メリダは懸命に刀を繰り出す。しかしいくら打ち込もうとも、クーファは片手一本で軽々いなしてしまう。涼しげな立ち姿の彼は流水のようになめらかで手応えがなく、それでいて打ち込みは雷よりも鋭く強烈なのだ。
ぶんっとクーファの腕が振り上げられて、メリダは反射的に刀を跳ね上げた。しかし直後、すぽーん! っと見事に足もとが刈り取られる。足払いをかけられたのだ。
メリダは受け身も取れずに芝生に転がった。
「きゃうんっ!?」
「ほら、相手が武器を振り上げたからといって、武器で攻撃してくるとは限りませんよ。加えて……」
クーファが握っていた片手を、ぱっと開く。メリダの足もとに砂粒が飛ばされてきた。
「きゃっ! ……な、なんですか、これ?」
「さっきお嬢さまが背中を向けている隙に拾っておきました。それを顔に向かって投げつけられたらどうしますか? 目をこすりながら相手の攻撃に対応できますか?」
「うっ……」
言葉に詰まったメリダは、お尻をぱんぱんとはたきながら立ち上がった。
「こ、こんなの学院の授業じゃ習いませんでした!」
「そうでしょうね。ランカンスロープにもそう言い訳してみますか?」
「う、うぅぅ~~……っ!」
手も足も出ないわんころみたいに唸って、メリダは両手でぎゅっと木刀を構え直す。
「……も、もう一本お願いします!」
くすっと笑い、クーファも木刀を上げる。
「よろしい。――続けますよ」
悠然と待ち構えるクーファめがけて、メリダが勢いよく地面を蹴り出す。
そして再び数度、広場を閃光が染め上げ、最後にはお嬢さまの悲鳴が高らかに響き渡るのだった。
さんざんダメっぷりを思い知らせたあとは、剣術理論の時間である。
汚れひとつないワイシャツ姿のクーファと、何度もすっ転ばされて泥まみれになったメリダが、広場の中央に木刀を下げて向かい合う。
「さて、どうしてお嬢さまの攻撃が一発も当たらず、逆にお嬢さまが何度も何度も叩かれてしまったのか、理由はお分かりですか?」
「そ、それはっ、先生がとてもお強いからです!」
「違います。もちろん単純なステータスの差で勝敗が決まることも多いですが、今回の問題はそこではありません。お嬢さまは、オレの《隙》を突いていないからです」
「隙?」
クーファは身を屈め、足もとから土くれを掬った。
「たとえばさっき、オレはどうしてお嬢さまに砂を投げつけようとしましたか? なぜ、何度も足払いをかけて転ばせたと思いますか?」
「ええと、痛がってる女の子の姿がお好きだから、とか……」
「やめてください断じて違います」
即座に否定しておきつつ、クーファはごほんと咳払いをした。
「……それは、お嬢さまに大きな隙を作っていただくためです。上段に剣を振り上げる→足払いをかける→無防備な相手に攻撃する。見ていないときに砂を拾う→相手の視界を潰す→無防備な相手に攻撃する。これらすべて、最後に有効打を叩き込むための布石なのです。お嬢さまはこれをおろそかにし、最初から有効打を狙いに行ったから、ステータスで勝るオレに攻撃を届かせられなかったのです」
「そんなことを言われても、どうしたらいいか……」
眉を寄せて悩むメリダを前に、クーファは首を捻りながら木刀を肩に担いだ。
「例えばそうですね……っと、その前にお嬢さま。裾がめくれておへそが見えています」
「えっ、きゃあ!」
「隙あり」
ぽかんっ! と、振り下ろされた木刀がメリダの脳天を打った。
ぶたれた頭を押さえつつ、メリダは涙目になって抗議してくる。
「先生ずるいですっ!」
「相手が目の前で武器を振り上げてるのに油断しない! ――とまあ、今のは極論ですがこういうことです。今のお嬢さまは服の裾に気を取られて頭の上が完全におろそかになっていました。きっかけはオレの言葉です。自分の攻撃を確実に届かせられるよう、相手の意識をコントロールし、油断している箇所を作り出す。これが《隙を突く》ということになります」
勉強家のメリダは、腕を組んで一生懸命クーファの教えを理解しようとしている。
「相手の意識を……コントロール……」
「はい。上級者同士の戦いになるとこれが難しい。達人は、こちらがどれだけ揺さぶりをかけても意識のコントロールを手放しません。全身を見回しても油断している箇所など皆無。だから『隙がない』などと言われるのです」
「…………」
しばらく頭を捻り、メリダはうんうんと唸って考える。
ふいに、あさっての方向へと指を突き出した。
「見て、先生! あんなところに国王陛下が!」
「いません」
「世にも珍しい天獄鳥(てんごくちよう)が!」
「飛んでません」
「エイミーたちが水浴びをしています!」
「……してません」
「今、ちょっと振り返りそうになりました?」
「な、なるわけないでしょう!」
ごほんと咳払いでごまかしておきつつ、クーファはおもむろに懐中時計を取り出した。
「……そろそろ切り上げましょうか。お嬢さま、学校の準備をなさってください」
さんざんすっ転ばされてメリダは泥だらけである。水浴び……ではなくシャワーを浴びる時間も必要だ。お嬢さまが身支度にどれぐらいの時間をかけるか、前もってエイミーに訊ねておいて正解だった。
学校と聞いて、メリダの表情がぱぁっと一気に輝いた。
「学校! わたし、学校行くの楽しみです!」
「おやおや、随分な変わりようですね。あんなに憂鬱そうだったお嬢さまはいずこへ?」
「だって、この前までのわたしとは違うもの! 今のわたしにはマナがある! 立派な位階もある! 学校のみんなとなにも変わらない! 仲間、仲間!」
よほど嬉しいのかカタコトになっているメリダである。「レッスン、ありがとうございました!」と丁寧にお辞儀すると、子犬が尻尾を振るみたいにして駆けていく。
その肩を、クーファはがしっ! と逞しい手のひらで引き止めた。
「少々お待ちをお嬢さま。最後にもうひとつだけ、とても大事な指導が残っていました」
「え? はいっ、なんでしょう!」
なんでも聞きますっ、と言わんばかりのお嬢さまへ、クーファはにこりと振り返る。
「本日から一週間――オレとのレッスン以外でのマナの使用を、一切禁止します」
† † †
「なんでですかあ~~~~~~~~~~っっっ!?」
メリダの悲痛な叫びが、聖フリーデスウィーデのエントランスに響き渡っていた。
時刻は昼過ぎ。平常時であればこれから午後の実技授業が始まろうかという頃である。しかし校舎側のトンネルから歩いてくるメリダは、決してサボっているわけではない。
本日から一週間、聖フリーデスウィーデ女学院は学期末の公開試合へ向けて特別なタイムスケジュールとなる。義務的な出席は午前の座学のみで、午後は全生徒の自由練習が認められているのだ。公開試合は複数人によるチーム――ユニット単位で行われるために、その配慮としての準備期間というわけである。
よって授業がなくとも、生徒たちは各々のユニットで集まって練武場を分割し、試合に向けて練習に取り組むことになる。名目上は半日授業でもこんな時間に下校しようとする生徒など他におらず、よってメリダの嘆きの声は誰にも聞き咎められることはなかった。
相変わらず彫刻のように整った怜悧な顔で、クーファがその隣に付き従う。
「申し上げたでしょう? 今のお嬢さまはまだマナを目覚めさせたばかりで、不完全な状態なのです。公爵家令嬢として『かくありたい』と願うのなら、今は己を高めることのみに専念してください。みんなにちやほやされたいなどと考えるのは一週間早いです」
「ちやほやされたいだなんて思ってませんっ。打ち明けるのもダメだなんて……」
しょぼん、と可哀想なぐらい肩を落とす主人に、さすがに罪悪感を覚えないではない。
もちろん「不完全な状態」云々はただの詭弁だ。クーファの狙いはただひとつ。メリダの覚醒を衆目にさらす前に、時間の許すぎりぎりまで彼女を鍛えたいということ。
そして見極めるのだ、《無能才女》メリダ=アンジェルの資質を。
彼女が本当に、この命を賭してでも育てる価値があるのかどうかを――
クーファはそっと、メリダの華奢な肩に手のひらを添えた。
「お嬢さま、運命の日は一週間後です。それまではご学友たちにも勘違いさせておきなさい。なればこそ、彼女らはかつてない奇跡を目の当たりにすることになるでしょう」
真摯に語り聞かせると、こちらを見上げたメリダは、きゅっと表情を引き締めた。
「……はいっ、先生。わたし、ぜったいに試合で良い結果を出してみせますから!」
「おっ。気合い充分ですね、お嬢さま」
クーファが感心すると、メリダは一転、「えへへっ」と緩みきった笑顔を向けてくる。
「実はわたし、エリーと昔約束していることがあって。公開試合が終われば、サークレット・ナイトのお祭りがやってくるでしょう? そのパレードで…………あっ」
そのときだ。行く手をふさぐように現れた複数の人影が、メリダの口を閉ざした。
トンネルの出口から差し込む逆光が、ツインテールの色彩を透かしている。
「なぁに帰ろうとしてるのよ、メリダ」
「ネ、ネルヴァ……」
メリダの肩が冷たく強張った。ツインテールの少女たちは、メリダを自身らのユニットに加えていたグループだ。あれを《姉妹(ブルーメン)》と呼んでいいのかは甚だ疑問だったが。
ふんぞり返って腕を組み、ネルヴァは高圧的に口を開く。
「あなたはわたくしのブルーメンの一員だっていうのに、忘れたの? ついに脳みそまで落ちこぼれてしまったのかしら。これから練習だからさっさと着替えてきなさいよ」
「……わ、わたし」
口ごもりながらも、メリダの震える声がトンネル内に反響する。
「わ、わたし、ユフィーたちのユニットに入れてもらえることになった、から」
「はぁ? クラス委員長? あいつ……ッ」
「も、もう申請も済んじゃったから、あなたたちのユニットには入れない……ごめん」
ネルヴァを取り巻いていた女生徒たちが、これみよがしに騒ぎ立てた。
「信じられない! なんて勝手なんでしょう!」
「わたくしたちがどれだけ迷惑するか、考えてもいないんでしょうね!」
さっと手のひらを上げて、ネルヴァは彼女らを鎮める。
芋虫を見下ろすような冷たい目で、ネルヴァは吐き捨てた。
「あっそ。ならいいわ、わたくしたち四人だけで出るから。それで、なんであんたはこんな早くに帰ろうとしているの?」
「れ、練習には参加しなくていいって言われちゃって……。そ、それにこれから、先生とのレッスンが……」
「先・生・との・レ・ッ・スン!!」
ははっ! とネルヴァは甲高く哄笑した。しかし、目がまったく笑っていない。
「へえそう。メリダはわたくしやユフィーたちとの練習より、そこにいる先生とのレッスンを優先するんだ! 結構なものね。さすがは騎士公爵家のお嬢さまだわ!」
「ち、ちがっ、別に、そんなつもりじゃ……っ」
「試合、楽しみにしてなさいよ」
じろっとメリダを――続いてクーファを睨んで、ネルヴァは傍らを歩き過ぎていった。他の少女たちも、それぞれ悪態を置き土産にしてリーダーのあとを追っていく。
全員の足音が聞こえなくなってから、メリダは「ぶはっ」と息を吐き出した。
「き、緊張した……っ!」
「お嬢さま、なぜガツンと言い返さないのですか!」
クーファがたまらずに詰め寄ると、メリダはもじもじとスカートの裾を握る。
「だ、だって……」
「もう彼女らに気後れする必要はありません。堂々としていれば良いではありませんか」
「そ、そう言われても、いきなりは難しいです。ずっといじめられてきたんだもの……」
「やれやれ。これはフィジカルばかりでなく、メンタルの鍛錬も必要なようですね」
肩をすくめつつ、クーファはおもむろにエントランスの出口を振り向いた。
「――それで、そこで覗き見しているあなた方もお嬢さまに何か御用ですか?」
えっ? とメリダは顔を上げる。
すると城門の陰から、ふたりの少女がおそるおそる顔を出してきた。
「ひ、人聞きの悪い言い方しないでよ! ちょっとそっちが取り込み中みたいだったから、物陰からこっそり機会をうかがってただけだもん!」
「……ロゼ先生。それをたぶん、覗き見って言うんだと思う」
「うぐっ……!」
クーファとメリダの師弟のように、コントラストが見事な二人組だった。
背が低い方、聖フリーデスウィーデの制服を着た銀髪の女生徒は、クーファの記憶にもまだ新しい。メリダの従姉妹にあらせられるエリーゼ=アンジェル嬢だ。
そしてその隣にいる、エリーゼより頭ひとつ背の高い赤毛の女の子。妖精の織物かとみまごう艶やかな衣装をまとった彼女は、こちらも驚くことにクーファの知己であった。
「おや」と眉を上げるとあちらも気づいたようで、彼女は機嫌を直した子犬のようにぱたぱた走り寄ってくると、クーファの手をぎゅっと包み込んだ。
「えへへ……っ! また会えたねっ、紳士さん!」
「……あなたでしたか」
正直、もう二度と会う機会はないと思っていた。この街区にやって来たばかりの二日前、駅で束の間のあいだ連れ立ったファッションモデルのような女の子である。
傍らのメリダが、どこか不安そうなまなざしでこちらを見上げてきた。
「あ、あの、先生。そちらの方は……?」
ぱっとそちらを見下ろし、赤毛の女の子はクーファの手を捉まえたまま、もう片方の腕をクロスする形でメリダへと手のひらを差し出した。忙しない少女である。
ぱあっと、無防備な笑顔がまぶしく発散される。
「はじめまして! あたしは一昨日からエリーゼお嬢さまの家庭教師になった、ロゼッティ=プリケットっていいます。気軽にロゼって呼んでね? メリダさま!」
「ロゼッティって……まさかあの、一代侯爵(キャリア・マーキス)のロゼッティ=プリケットさまですか!?」
メリダが目を丸くすると、赤毛の女の子はだらしなく頬を緩めた。
「い、いやあ、そんな大した者じゃあ……『あの』とか言われると困っちゃうなあ、でへへへ……っ。どこに行っても名前知られちゃっててまるで有名人みたいだなあ、あたし」
まるでではなく、実際に超有名人なのだこの少女は。一線級のマナ能力者という肩書きとは裏腹に、貴族ではない《下層居住区》の出身であるという立場ゆえに。
下層居住区とは、蔑称で「壁なしの貧民街」とも呼ばれる。
フランドールを構成する二十五のガラス容器(キャンベル)。キャンベルを支える金属基盤。その金属基盤の真下に広がっているのが、人口およそ三十万人が暮らす下層居住区である。
キャンベルは収容可能人数の限界とともに、生産力という問題も抱えていた。
ありていに言えば、人工の世界であるランタンの中(フランドール)には農作地がない。都市の生命線である太陽の血(ネクタル)を採掘してくる人材も必要だ。その役割を担っているのが、キャンベルの外で暮らす彼ら――フランドール総人口の約半数を占める下層労働者階級だった。
このロゼッティという少女は、その下層居住区の生まれでありながら幼き日に突然マナを覚醒。プリケットの家名とともに、特例として貴族階級へと格上げされた経歴を持ち。
偏見からマナ能力者の養成学校に通えなかったにも拘らず独学で自らの位階を極め、ユニット戦であるはずの全校統一トーナメントにおいては前代未聞のワンマン優勝を達成。
最年少で聖都親衛隊(クレストレギオン)への入隊を果たしたばかりか、国王陛下からそれらの功績を讃えられて、一代侯爵……「ロゼッティが存命である限り、キャンベルの区長と同等である侯爵の位をプリケット家に与える」という、特別な称号を賜った少女――
まさに、努力で成し遂げられるすべてを成し遂げてきたと言っても過言ではあるまい。
「って、いろいろ大げさに言われてるけど、今はアンジェル家の使用人の身だからそんなこと気にしないで? あたしたち、もう親戚みたいなものよね! はいっ、よろしく!」
と笑い、ロゼッティはメリダの手を握ってぶんぶんと振る。どうやらこの能天気なおねーちゃんは、アンジェルの本家と分家の微妙な関係をまるで理解していないらしい。
メリダは、いまだ頭が追いつかないような顔でこちらを見上げてきた。
「せ、先生たちはお知り合いなんですか?」
「……ええ、顔と名前ぐらいは。一代侯爵がこの街で何の仕事かと思っていたのですが」
すっと瞳を眇め、クーファは正面のロゼッティをまっすぐ見据える。
「まさかこんな形で再会することになろうとは」
「えへへっ、なんかあれだね! 劇のシナリオみたいだよね!」
相変わらずにへらにへらと笑っているロゼッティである。クーファの微妙な表情の変化にも気づかない様子で、あらためてこちらの手を包み込んでくる。
「あなたのこともエリーゼさまから少し聞いたの。クーファ=ヴァンピールさん、だったよね? お互いアンジェル家の使用人だし、ご息女の家庭教師だし、通ってる学校も一緒だしっ、これから仲良くできるといいねっ!」
「…………」
クーファは表情を動かさず、しばし彼女の手のひらを見下ろした。
……この赤毛の能天気はまるで分かっちゃいないらしい。自分たちふたりが、いったいどのような立場に立たされているかということを。
メリダとエリーゼだけではない。その教育係であるクーファとロゼッティもまた、世間からは比較の対象にされているのだ。その立ち居振る舞いから教養、教え子の実績にいたるまで、絶えず数多の視線が二人を値踏みしている。「どちらがより有能なのか?」と。
そのことを十全に理解していれば、こちらの答えなどただひとつ。
――負けられん。お嬢さまの名誉のためにも、この女にだけは絶対に負けられん。
クーファはそこでようやく、にっこりと笑顔を返す。彼女に包み込まれている自身の手のひらを持ち上げると――前触れなく、ばぁん! と振り払った。
信じられないものを見たといった表情で、ロゼッティは目をぱちくりとさせる。
「えっ、あ、えっと、えっ……??」
「申し訳ありませんが、もはやこれ以上、あなたと仲良くするわけには参りません」
「な、なんで? なんで? なんで? なんで!?」
「あなたのようなちゃらんぽらん女は、メリダお嬢さまの教育に悪影響だからです」
「ちゃらんぽらん――――――――――っっっ!?」
ロゼッティの絶叫がトンネル内に響き渡った。
両目に涙すら浮かべながら、ロゼッティがクーファに詰め寄ってくる。
「ちゃらんぽらんって何よちゃらんぽらんって何よ! この前はそんなこと言わなかったのに! あんなに優しくて紳士だったのに!」
「それはそれ。愛想を売るべき時と相手を見極めるのも、紳士の嗜みというものです」
「しっ……信じられないこの腹黒!! あたし感動したのに! 本当にこんな王子さまみたいな人もいるんだって夢みたいだったのに! あたしの胸のドキドキを返してよ!」
「はあ? いるわけないでしょう、あんな歯の浮くような王子さまなんて。メルヘンは十二歳までに卒業しておいてくださいよ、この幼稚脳」
「む、むっ、むっきぃぃぃぃ――――――――――!! あったま来たぁ!!」
甘いロマンスの予感から一転、どうしようもない口喧嘩を始めてしまった大人たちを前に、制服姿の公爵家令嬢たちはおろおろと戸惑うばかりである。
「あわ、あわわわわ……っ! ど、どうしていきなりこんなことに……っ??」
とにかくこうしてはいられない。根が真面目なメリダは果敢に一歩を踏み出した。
「ふたりを止めなくちゃ! いくわよ、エリー!」
「えっ」
「あ……」
はたと振り返って、ふたりは顔を見合わせてしまう。
みるみる顔が真っ赤になるメリダとは対照的に、エリーゼはぼんやりとした無表情のまま、小さくこくりと頷いた。
「うん」
「え、えと、その、あの……」
「なにしたら、いい?」
「やっぱりナシ!! 今のナシ! わたしがなんとかするから!」
わちゃわちゃわちゃと腕を振ってから、メリダは懸命に声を上げた。
「もう先生! 子供みたいな意地悪はやめてくださいっ!」
ぴた、と言い争っていた家庭教師コンビも口をつぐむ。
「今のは先生がいけないと思います。人の悪口を言うのはよくありませんっ」
「む……面目ない」
年下の女の子にもっともな指摘を受けてしまった。小さく頭を下げると、ロゼッティがさも愉快そうに笑いながら顔を寄せてくる。
「や~い怒られてやんの~っ」
クーファは目を逸らしつつ、腕を一閃。ロゼッティのお尻をひっぱたく。ぱぁ――――ん! っと実に小気味良い音が鳴った。
「いぃったぁ――――!? ってお尻っ、お尻叩いた! チカン! セクハラ!」
「さあお嬢さま、脳みそわたあめ女がうるさいのでそろそろ帰りましょうか」
「だっ、誰の脳みそがわたあめよ! このエセ紳士!」
クーファはメリダの肩に手を添えつつ、優雅に振り返る。
「それではごきげんよう、エリーゼさま。それに、ええと……プリケッッットさん?」
「くっ、小馬鹿にしたニュアンスで人のファミリーネームを呼んだわね……!」
悔しそうに歯ぎしりしたのち、ロゼッティは目に涙すら浮かべながら身を翻すと、
「ふんだっ、せいぜい泣き言を用意して試合の日を待ってなさい。うちのお嬢さまが、あんたのメリダさまをけちょんけちょんに負かしてやるんだからああああぁぁぁぁっ!」
悪役のお手本みたいな捨て台詞を言い残して、ダダダダダ――――っと砂ぼこりを立てながら走り去っていった。取り残されてしまったエリーゼが、ちょこちょことそのあとを追っていく。
ふたりの姿が見えなくなると、メリダは顔に冷や汗を浮かべながら言った。
「あの先生、わたし……こんなに手当たり次第に敵を作って、ほんとにだいじょうぶなんでしょうか、試合……」
「そうですね。とりあえず……」
クーファは彼女の肩に手を置くと、にっこりと笑みを向けた。
「お嬢さま。向こう一週間、お茶会の時間はないものと覚悟してください」
「ええええ~~っっっ!?」
今日何度目かのメリダの悲鳴が、トンネル内に響き渡った。
† † †
帰宅後の屋敷裏、植物園に囲まれた広場。ますます負けられなくなってしまったメリダお嬢さまの、クーファが家庭教師に就任して三日目になるレッスンである。
一週間後の学期末公開試合で結果を残すために、残り少ない時間を最大限に活用して、今日から実戦的なレッスンを行わなければならない。
「そのためにお嬢さまにはまず、マナのロウ、ニュートラル、カオス状態の違いについて学んでいただきます」
「ろう? にゅーとらる?」
お決まりのワイシャツ姿になったクーファと、メイドたちが綺麗に洗濯しておいてくれたトレーニングウェアに身を包んだメリダが、朝と同じように木刀を持って向かい合う。
広場の隅には、エイミーに前もって頼んでおいた黒板が新設されていた。クーファはチョークを手に、まるで学校の先生みたいな心持ちで講義を始める。
「一年生のこの時期ではまだ教わっていないでしょうね。アラインメントと呼ばれるこの概念は、能力者のマナが現在どういった状態にあるかを表したものになります」
黒板に半身を向け、言葉とともにかつかつかつ、とチョークを走らせていく。
「マナをまったくまとっていない《ロウ》状態。マナを解放し、全身の噴出孔(マントル)へ均等に行き渡らせた《ニュートラル》状態――これは通常状態とも呼ばれます。そして最後に、攻撃(アサルト)スキルを発動するために一極集中するなど、マナが不均一に偏っている状態が《カオス》となります」
言葉を区切り、『ニュートラル』を意味する綴りをチョークの先端でつつく。
「オレたちがよく目にする攻撃力、防御力といったステータス表は、ニュートラル状態にある能力者の身体能力を、フランドール統一白兵戦能力測定基準に従って数値化したものになります。お嬢さまもすでに体感なさったように、マナは人間の運動能力を飛躍的に向上させる。逆にマナをまとっていないロウ状態であれば、オレたちは普通の人間となんら変わらない」
ふと、任務前に読んだ資料を思い出し、クーファはくすっと唇をほころばせる。
「以前までのお嬢さまは、いわゆるこのロウ状態でステータスを測っていたから、あんな悲惨な成績になってしまったというわけですね」
「うぅぅ~……っ」
涙目になってしょぼくれるメリダだが、そう悲観することもあるまい。もし今、ためしにもう一度ステータスを測ってみれば、入学時とは比べ物にならない数値になっていることが分かるだろう。
クーファは一度チョークを置き、どすっ、と木刀を地面へ突き立てた。
「では、さっそく実践してみましょう。――お嬢さま。マナを解放し、アラインメントをロウからニュートラル状態へ!」
「は、はいっ! んっ……!」
メリダは目をつぶってぎゅっとこぶしを握り、意識を集中する。やがて、ぼうっ! と全身から黄金の焔が噴き上がった。
「できました!」
「遅い! 解放に三秒もかかっています」
「ええええっ!?」
愕然とするメリダをよそに、クーファはあくまで涼しい顔である。
「で、でもわたしっ、一生懸命やりました!」
「不意打ちで襲いかかってきた敵が三秒も待ってくれるとでも? 『一生懸命準備してるから待っててください』なんて言い訳が通じると思いますか?」
「ふぐぅぅ~……っ!」
ほっぺに悔しさをいっぱい溜めこんで、メリダはまたも涙目である。
しかしクーファは、一切の容赦をしない。
「お嬢さまも嫌というほどご存知でしょう? マナをまとった能力者に対し、そうでない人間はあまりに無力! ニュートラル状態への移行時間は、短くて短過ぎるということはありません。これも日々の課題の一つです。これからお嬢さまには、一カ月で○・一秒ずつ解放時間を短縮していただく。そうすれば三年後には――」
言葉の途中で、まばたきをひとつ。その刹那で、蒼焔が視界を一気に染め上げた。
「○・○一秒で臨戦態勢に入ることができるようになります」
「す、すごい……っ」
クーファのあまりにも自然で瞬間的なマナの解放に、メリダは息を呑む。
ロウ状態へとマナを鎮め、クーファはポケットから懐中時計を取り出した。
「ではお嬢さま。正確なタイムを計りますので、もう一度マナの解放を行ってください」
「は、はいっ」
メリダはいったんマナを鎮めてから、再びぎゅっと力を込める。
ごうっ! と煌焔が全身から噴き上がる。
「できました!」
「さっきよりも遅い! やり直し!」
「ええええっ!?」
「本日の最高タイムが出るまで何度でもやり直しますからね」
「うぅぅぅ~~~~……っ!」
メリダがトレーニングウェアの裾を、ぐしゅぐしゅぐしゅと握りつぶす。
「せんせーの鬼!」
「オレが鬼ですって? とんでもない」
なにせクーファの訓練時代など、二回続けて同じ失敗をしたら鞭で叩かれて、その苦手を克服するまで反省房にぶち込まれていたのだ。それに比べたら天国だろう。
そのとき、背後の茂みでがさがさがさと気配が動いた。
「……ねえ、今の聞いた? 鬼ですって!」
「やっぱり鬼畜な教師なのよ……っ!」
トレーニングを覗きに来たメイドたちが噂話をしているのだ。だから鬼畜ではない。
二回ほどやり直して、ようやく先ほどと同等のタイムが出る。すでに肩で息をしているメリダへと、クーファは再びチョークを手にしながら告げた。
「しばらくそのままニュートラル状態を維持し続けてください。先にこちらのお話をしておきましょう」
かつっ、とチョークを黒板に走らせる。
「我々の位階、サムライの特性についてです。お嬢さまはすでに学習されていることでしょうが、おさらいも兼ねて、もういちど確認していきましょうね」
かつかつかつっと、小綺麗な字が黒板に綴られていく。
教科書と重複する内容だったが、メリダは熱心に目で追っていく。
「暗殺クラス……マナを、しゅうれん……」
「まあ、サムライ・クラスの戦い方は基本から少しずつ教えていくつもりです。今注目していただきたいのはこちらです。能力の強化適性率について」
やや手狭になった黒板に、クーファは【攻撃・防御・敏捷・特殊・攻撃支援・防御支援】と六つの項目を書き、それぞれに【B・C・A・C・C・-】とランクを振り分けた。
「このランク表は、その位階の能力者がマナをまとった際、それぞれの要素がどれぐらいの比率で強化されるのかを表したものです。サムライの場合であれば敏捷力がとても強化されやすく、逆に防御力は強化されづらいといったところですね。自分の位階に合わないトレーニングを行っても非効率なだけなので、訓練時間もこの表の通り、2・1・3・1・1の比率で割り振るのが良いでしょう」
「なるほどっ」
メリダは素直に頷く。口元をほころばせつつ、クーファは再び木刀で地面をついた。
「この基礎ステータスの鍛錬もまた、毎日の大きな課題です。そして今日からの一週間、お嬢さまには公開試合に向けて、もうひとつ特別メニューをこなしていただきます」
「特別メニュー?」
「本来なら攻撃(アサルト)スキルの一つでも覚えていただきたいところなのですが……一年生のこの時期であれば、攻撃(アサルト)スキルは派手なだけで、そこまで重大な決め手にはならない。ここはひとつ、手っ取り早く《勝つための方法》を伝授させていただこうかと思います」
地面から木刀を引き抜き、クーファは手のひらでくるりと回して構える。
「さあ、そろそろ体が疼いて仕方ないでしょう? お待ちかねの打ち合いの時間ですよ」
今朝の悪夢を思い出したのか、メリダの美貌がうげえっと歪んだ。
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Name:メリダ=アンジェル Class:サムライ
【HP】186 【MP】20
【攻撃力】18(14) 【防御力】15 【敏捷力】21
【攻撃支援】0%〜20% 【防御支援】− 【思念圧力】19%
【主なスキル/アビリティ】隠密Lv1
総合評価……【1‐F】
Name:ネルヴァ=マルティーリョ Class:グラディエイター
【HP】274 【MP】31
【攻撃力】25 【防御力】24 【敏捷力】18
【攻撃支援】− 【防御支援】− 【思念圧力】10%
【主なスキル/アビリティ】鋼体Lv1/支援効果半減LvX/ギャリックハマー
総合評価……【1‐D】
【闘士/グラディエイター】
抜きん出た攻撃性能と防御性能で敵を圧倒するクラス。単騎で敵陣に突入できる豪快な戦法はグラディエイターならでは。
反面、一切の支援能力を持たず、また味方からの支援効果を半減するという厄介な特性を持つため、運用には注意されたし。
適性[攻撃:A 防御:A 敏捷:C 特殊:− 攻撃支援:− 防御支援:−]
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七月も終盤に差し掛かり、学生たちお待ちかねの長期休暇が近づいてきたカーディナルズ学教区。終業式を明日に控えた聖フリーデスウィーデ女学院では、乙女たちが武芸を披露し合う学期末公開試合が行われようとしていた。
試合会場は、学教区周辺の養成学校(カレッジ)で共同使用されている巨大コロシアムである。フィールドには森林、荒野、廃墟、湖上など、あらゆる戦場を想定した三百メートル四方のステージがいくつも設置されていて、学年ごとに分かれたユニットが順々に対戦し、勝敗を競い合うのだ。
生徒たちの士気を一段と昂ぶらせているのは、垂れ幕に大きく書かれた「公開試合」のひと文字だった。普段は外界との接触を極力遠ざけているお嬢さま学校も、この日ばかりは話が別。生徒の家族を中心に街の住民、他のカレッジの学生たち、はるばる見物にやってきた観光客、はたまた騎兵団(ギルド)の視察まで、数千人以上の人々が客席を埋め尽くす。試合用の特別な演武装束(バトルドレス)に身を包んだ少女たちも、俄然気合いが入ろうというものだ。
さてそんななか、一年生の選手控え室にいる我らがメリダお嬢さまはと言うと、
「先生、なるべくステージで目立たずにいるテクニックってありませんか……?」
表情をどんよりと曇らせて、隅っこの方に佇んでいるのだ。
せっかく用意した演武装束の、戦場の天使さながらの輝きもなんのその。相も変わらずぼっちなお嬢さまはミーティングの輪にも入れてもらえないのである。そのうえ居心地悪く時間を潰していると、鬱々とした気持ちばかりが大きくなってくるようで……。
「なにをふ抜けたことを。いかなサムライ・クラスといえど、決めるときはズバッと決めて、わっ! と喝采を浴びる。それぐらいの気概でなくてどうしますか」
「だ、だって、お客さまがあんなに観えられているんですよ……?」
「絶好のデビュー戦ではないですか」
「わたし自信ないなあ……」
始まる前からすっかりしょぼくれてしまっているメリダである。いよいよマナを披露できるこの日を心待ちにし、クーファと一週間みっちりトレーニングを重ねてきたというのに、いざ本番になると心に染みついた落ちこぼれ精神がなかなか拭い去れないらしい。
こんながちがちに緊張していてはステータスの半分も発揮できまい。自分が活躍する場面が全く想像できないのか、メリダはもう負けが決まったかのような昏い顔をしていた。
もう出番まで時間もないというのに、これはまずい。涼しい顔で付き添ってはいても、クーファも内心焦りはじめた。なんとしてもお嬢さまに自信をつけていただかなくては。
ところがそんな思惑をあざ笑うかのように、甲高い声が掛けられた。
「あらメリダ! どうしたの、そんな隅の方に縮こまっちゃって」
ぞろぞろと姉妹(ブルーメン)を引き連れてきたネルヴァ=マルティーリョである。相変わらずの物量差で圧倒され、メリダはますます表情を硬くしてしまう。
しかもあろうことか、彼女らのユニットはメリダの対戦相手なのだ。
「偉いわね、ちゃんと逃げずにきたんだ。でも平気なの? とっても具合が悪そうだわ」
「仕方がありませんわ、ネルヴァさまっ」
「なにせこれから、彼女は大勢の前で大恥をかくんですもの!」
まるで打ち合わせしてきたかのように、取り巻きたちが囃し立てる。
ネルヴァは「あははっ!」と、控え室中に響き渡るような声で笑った。
「そうよね! ねえメリダ、試合中もそうやってステージの隅に丸まってるつもり? どうせならダンスでも踊って観客のみなさまを楽しませてなさいよ。これ命令」
「い、いやよ……」
「ご家族の方も観に来られているのよね? あなたの不様な姿をどう思われるかしら。周りの見物客がみんなあなたを指差して笑ってるのを見て、何を感じると思う? ねえ?」
「……っ」
メリダは唇を噛みしめるだけで言い返せない。いつの間にか控え室がしんと静まり返っていて、他の生徒たちも気まずい表情でこちらを気にしていた。
自分の言葉が皆の代弁だとでもいうように、ネルヴァは直球を投げつけてきた。
「ほんと、なんであんたみたいなのがうちの学院にいるんだか。今からでも普通の共学に転校してお婿さん探しでもしなさいよ。いつまでもしがみついて見苦しい」
「……っ!!」
メリダの肩が震え、うつむけた瞳の端から、じわりと涙が滲んだ。
「——ネルヴァさま、おそれながら」
ことここに至り、クーファはすっと両者の間に割り込んだ。
待っていましたと言わんばかりに、ネルヴァは口角を吊り上げてこちらを見上げる。
「あら先生、ごきげんよう。なにか御用でして?」
「ええ。どうしても一つお願いしたいことが」
「まあっ、なんなりとおっしゃってくださいませ」
「いいかげん耳が腐りそうなので黙ってくださいますか? このメス猿」
ひくっ、とネルヴァの頬が引きつった。
背後のメリダも、他の生徒たちも、みな呆気に取られてこちらを見つめている。
「めっ、めす、メス……ッ? い、嫌ですわわたくしったら空耳がしてしまったみたい。申し訳ありませんクーファさま、もう一度おっしゃって?」
「口を慎めド低脳。水路の底に沈めるぞと申し上げました」
ざわざわっ! と周囲がどよめく。なにせ聖フリーデスウィーデの乙女たちにしてみれば、いまだかつて聞いたことのない乱暴な言葉である。
はっきり罵倒されていると分かって、ネルヴァは唇をわななかせた。
「こ、こここのわたくしに向かって、く、口を慎めですって……!?」
「非礼をお許しください。ですが、あなたのような方にこれ以上メリダさまが侮辱されるのは、どうしても我慢がならない」
「なっ……!?」
クーファはひざまずき、目を伏せる。背中には、メリダの強い視線を感じる。
「あなたはメリダさまのことを何も分かっておられない。メリダさまはとても高潔な方。どんな理不尽に遭っても歪まず、何度でも立ち上がることのできる強いお方。それを傍から眺めて嘲笑うようなあなたに、メリダさまを語られるのははっきり言って不快です」
「……ッ!」
ネルヴァは二、三歩あと退りそうになって、寸前でプライドを保つ。
「ふ、ふんっ! 無名貴族が、公爵家の使用人になって浮かれているのかしらっ」
ひざまずいたままのクーファに、びしっと指を突きつけてくる。
「なにがヴァンピール家よ、聞いたこともない。どうせ家庭教師って言ったって、絵本でも読み聞かせてお給金をもらってるだけなんでしょう!」
「先生をバカにしないで!!」
ばしんっ! とネルヴァの手を打ち払った少女がいる。
烈火の勢いで前に出たメリダだった。
「彼は最高の先生よ! バカにするのはこの私がぜったいに許さない!!」
そこまで叫んで、はっと口を押さえる。
彼女がここまで感情を見せたのは、級友たちにとっても驚きだっただろう。しかし、もう言ってしまったことは取り返しがつかない。
ネルヴァはほんの少し目を見開いたあと、面白がるように口の端を吊り上げた。
「へえぇ? 許さないって、具体的に何をどうなさるって言うの?」
「……っ」
メリダは唇を噛み、こぶしを握り——キッと顔を上げた。
「試合であんたを、ぎったんぎったんにしてやる!!」
「言ったわね、落ちこぼれが!!」
両者の視線が、バチイッ! と火花を立てて衝突した。
「試合、楽しみにしているわ、メリダ」
ふっと最後にもういちど嘲笑して、ネルヴァは身を翻した。戸惑ったような表情の姉妹(ブルーメン)たちを引き連れて、控え室から立ち去っていく。
彼女らが去った控え室に、ものすごく気まずい空気が漂いかけたが、
「……み、ミーティング、ミーティング!」
しっかりした何人かの女生徒が周囲に呼び掛け、思い出したように喧騒を取り戻した。
しばらくそのまま硬直していたメリダは、突然頭を抱えてうなだれた。
「言っちゃったぁ〜〜〜〜っっっ! ど、どうしようっ!?」
「いやあ、言っちゃいましたねえ」
「どうして先生はそんなうれしそうなんですかぁ!」
クーファとしては、思わずくすくす笑いたくもなるというものである。
なにせ、彼女のやる気スイッチの在り処が見つかったのだ。
どうやらメリダは……自分ではなく、他人のために力を発揮できる子らしい。
「ではお嬢さま。試合中また弱気になったら、どうかオレのことを思い出してください」
「先生のことを?」
メリダの手を取り、両手のひらでそっと包み込む。
「オレの名誉のために。オレの指導が間違いではなかったことを、この会場にいるあまねく人々に知らしめてほしいのです」
「先生のため……」
クーファより頭二つ以上も小さい女の子の肩に、その言葉が重くのしかかり。
浮き足立っていた心がしっかり地についたような顔で、勇ましく顔を上げた。
「見ていてください! わたし、がんばってみます!」
† † †
とメリダを励ましてみたものの、実はクーファの方こそ不安で押し潰されそうだった。
控え室から引き上げてきて、客席の一角に陣取る。間もなくメリダたち一年生の部から試合が始まらんとしているため、周囲の期待は否応なく高まりつつある。
隣の席には、お弁当のバスケットを持って応援にやってきたエイミーの姿があった。
「クーファさん、まるで自分のことのように緊張されてますねえ」
「え、ええ。生きた心地がしませんよ……」
——冗談抜きで!!
なにせ、客席後方上段にちらっと視線を送れば……そこには聖フリーデスウィーデ女学院に大きな影響力を持つお歴々の、貴賓席が設えられているのである。
もちろん、クーファとメリダの生命線となるふたりの人物の姿も見えた。
ひとりは、銀色の長髪を後ろに撫でつけた五十代ほどの男性。アンジェル騎士公爵家現当主、フェルグス=アンジェル。顔に刻まれた皺とあいまって年齢より老けて見える。
そしてもうひとり、ウールの帽子に伝統上衣(ジユストコール)を羽織った、枯れ枝のごとき痩躯の老人がクーファのクライアント。モルドリュー武具商工会の長、モルドリュー卿である。不倫が疑われている故メリノア=アンジェルの父にして、メリダの祖父に当たる人物だ。
メリダがこの衆人環視のなかでどんな失態をやらかすのか気が気ではないのだろう、モルドリュー卿は神経質そうに周囲を見回し、頬をひくつかせている。なかでも、一番顔色をうかがっている相手はフェルグスだ。メリノアの不倫を断固として否定し、アンジェル家の縁故として彼に信用してもらうことが、モルドリュー卿の悲願なのだから。
そのフェルグス公は、難しい顔をしてステージを見下ろしているばかり。ふいに彼の視線がこちらを向いたような気がして、クーファはさっと顔を戻した。
——来てる来てる来てる来てる〜〜〜〜っっっ!!
内心大慌てである。
もしメリダがこれまでのように試合で不様な結果しか見せられなければ、フェルグス公はますます妻への嫌疑を深める。モルドリュー卿の立場はさらに危うくなり、わざわざ派遣した暗殺教師(エージェント)はいったい何をやっていたのかという話になる。極論、この試合の結果如何では、クーファとメリダがまとめて始末されてしまうことだってあり得るのだ。
自分たちがこの三年間を生き延びるため、その最初の試練が、今日!
——頼みましたよ! お嬢さま!!
手のひらを組んで一心に祈ることしばし、水を差すような声が聞こえてきた。
「あっれぇ〜? ずいぶん余裕がありませんことねえ、腹黒エセ紳士さぁん?」
嫌味ったらしいニュアンスと仕草で歩み寄ってくるのは、ファッションモデル顔負けの赤毛の美少女。艶やかな妖精を思わせる装いは、大衆のなかでもひときわ目立つ。
「この前はあんなに大口叩いてたくせにどういうことかしら? やっぱりあれかしら? 口ばっかり達者で実力が伴わないっていうあれかしら? オホホホホホっ!」
「誰かと思えばプリケツさんじゃないですか」
「プリケットだから!! プリケツじゃないからプリケットだから! いやらしい間違え方しないでくださる!?」
頭のてっぺんからピーッ! と憤慨して、プリケツことロゼッティ=プリケットはクーファの隣の席に荒々しく腰を落とした。
クーファを挟んで反対側から、エイミーがきょとっと首を傾げてくる。
「クーファさん、そちらの方は?」
「エリーゼ=アンジェルさまの家庭教師だそうです」
「まあまあっ。わたくし、メリダさまの専属メイドのエイミーと申します。仲良くしていただけると嬉しいですわ」
クーファ越しに手のひらを差し出すと、ぶすっとしていたロゼッティは表情を一変させた。お菓子をもらった子供みたいに顔を輝かせて、差し出された手をぶんぶん握る。
「メイドさんとお話ししてもいいの!? あたし、ロゼ! よろしくっ!」
よく意味が分からなかったが、とにかく大喜びのようだ。
「なぁんだ! 本家の方ってみんなお腹のなかが真っ黒なのかと思ったらそうじゃないんだ! 乙女心を弄ぶようなエセ紳士はひとりしかいないみたいで、安心安心っ」
「そりゃよかったですね」
おざなりにも過ぎる返事をして、クーファは視線をステージへと戻す。
「……なぁに? 深刻な顔して。そんなにメリダさまのことが心配なの?」
「当たり前です」
なにせ命がかかってるんだ、こっちは!
ロゼッティはもじもじとスカートを握りながら、なおも問いを重ねてきた。
「その、えっと…………どうよ、ぶっちゃけ! メリダさまの見込みっていうか」
「悪くないですよ」
クーファは即答し、ステージに視線を据えたまま続ける。
「突出して何かの才能に優れているわけではないですが、お嬢さまはとにかく飲み込みが早い。根が素直で真面目ですから、教えたことをすぐに吸収する」
本心を確認し、クーファは自分でも「うむ」と頷く。
「教えがいがあります。まだまだ伸びますよ」
「ふふっ。お嬢さまがあんなに素直なのは、クーファさんのおかげですわ」
エイミーがにこにこと口を挟んできたので、クーファはきょとんとそちらを見る。
「オレの?」
「はいっ。お嬢さまは、クーファさんのことをとても慕っていらっしゃいますから」
そう言われると悪い気分はせず、なんだか背中のあたりにむずがゆい感覚がする。
「ふ〜ん……」
茶化すでもなくつぶやいているロゼッティを、クーファはおもむろに振り向いた。
「ところで、なぜそんなことを聞くんです?」
ロゼッティはぽつんと答えた。
「……うちのお嬢さまが気にしてるみたいだから」
直後、高らかにラッパが鳴り響き、客席がいっそう大きく沸き立った。
「まあっ! いよいよ始まりますわね!」
エイミーの言うとおり、学期末公開試合の開始時刻が訪れたのである。
コロシアム内計五つのステージに、第一試合の選手たちが続々と入場してきた。メリダとネルヴァのユニットが対戦するのは、鬱蒼と木々の立ち並ぶ森林ステージである。
「見てくださいクーファさん、あそこ! お嬢さまですわ!」
「……っ!」
もう久しく味わっていない、胃が縮み上がるような感覚。
自分が戦場に立ったときは経験したことのない種類の緊張感が、ばっくんばっくんとクーファの心臓を高鳴らせる。ロゼッティの生徒であるエリーゼ=アンジェルの姿は見当たらず、自然と三人の視線は森林ステージに集中した。
試合のルールは次の通り。
一ユニットの上限は五人。各ユニットには、台座にネクタルの灯された《大燭台》と呼ばれる拠点が一箇所ずつ割り与えられ、この大燭台を守り切ることが勝利条件となる。
フィールドには、スケールの小さい《小燭台》があちこちに点在していて、これらはマナを流し込むことで点火と鎮火が可能。
十五分という制限時間後に両ユニットの大燭台が健在だった場合、点火した小燭台の数が多かった方が勝利となる。攻めることだけを考えていたら自陣を狙われるし、かといって守ってばかりいても勝てない。バランスが肝要なルールだと言えよう。
この規定は夜界に進出する騎兵団(ギルド)の戦士たちが長年研鑽し続けた、少人数での軍事行動を想定した精鋭軍外征戦術論(リベレイションストラテジー)に基づいている。より多くの拠点を奪取しようと望むなら、必然、敵ユニットの戦士たちとの衝突も覚悟しなければならない。
クーファは、ネルヴァ側のユニット構成を確認した。
敵ユニットは全部で四人。リーダー・ネルヴァの位階は、攻撃力と耐久力に秀でたグラディエイター。他にもう一人グラディエイターがいて、三人目はフェンサー、最後の一人はクラウンの位階を持つ。ガンナーやクレリック、ワイザードといった後衛クラスが見当たらないのは幸いだった。こちらの思惑が外されずに済む。
そしてメリダ側のユニットは五人構成だった。見た目上は有利だが、両ユニットともメリダを戦力として計算していないだろうから、実質四対四といったところか。
——そうして侮っていられるのも今のうちだけだ、見ていろ!
厳しいまなざしを送っていると、ロゼッティが同じ方を見ながら顔を寄せてきた。
「知ってる? 相手ユニットのリーダーの子、ネルヴァさまだっけ。入学したてなのにもう攻撃(アサルト)スキルを一つ習得してて、評価ランクが【D】なんだって」
「存じていますよ」
「メリダさまはどうなの?」
「……残念ながら、この一週間は通常攻撃のノウハウを叩き込むだけで精一杯でした」
見下ろしている先で、両ユニットのメンバーがステージ中央に歩いていく。試合前の握手を行うためだ。刻一刻と試合開始が近づき、ボルテージが際限なく高まっていく。
クーファの両サイドで、少女たちがぶるぶると体を震わせた。
「ああもう〜っ、見てるこっちが緊張してきたぁ〜っ!」
「わたくしも! お嬢さまの心臓の音まで聞こえてきそうですわ!」
「あなた方が緊張してどうするんですか……」
彼女らの真ん中で呆れたふうに言いつつも、クーファもすでにメリダの一挙手一投足から目を離せなくなっている。
各々のステージで選手同士の握手が始まった。森林ステージの中央にぽっかり開いた広場でも、両ユニットのメンバーが逆向きにすれ違っていく。最後尾に並んだふたりがすれ違いざま、ネルヴァがメリダの手のひらを、ぱちんっと強めにはたいていった。
「……っ!!」
両者の間で早くも火花が散ったのが、遠目にも分かった。
各ユニットが自陣に引き返して位置につき、いよいよ——いよいよ試合開始である。
コロシアム中央に据え付けられた巨大砂時計。あれが制限時間の十五分を刻んでいる。その脇に立った学院の講師が二人。一人はレバーを握り、一人はラッパを構えた。
本部からの合図を受け、彼らは立て続けに動く。レバーを引くと砂時計が半回転、一粒目の砂が底面に落下すると同時、もう一人の講師が——高らかにラッパを吹き鳴らした。
ごうっ!! と、各ステージ計十個の大燭台が、勢いよく炎を噴き上げた。
「始まりましたわ!」
客席からも、ひときわ高く歓声が響き渡る。
他の四つのステージはともかく、クーファたちが注目するべきはもちろん森林ステージである。メリダ側のユニットリーダー、クラス委員長を務めているらしいユフィーという少女が、いち早く剣を振り下ろして号令をかけた。
「速攻!!」
大燭台を守るユフィー、そしてメリダ以外の三人のメンバーが、三角の陣形を取って突撃した。攻撃重視の型《キングズ・ギャンビット》。早々にフィールドの中央を占拠して、戦局を有利に進めようというのである。
対してネルヴァ側のユニットは、四人全員で前に出た。大燭台の守りを捨て、数の優位で相手の戦力を潰すつもりだ。両軍がみるみる近づき、先ほど握手を交わした中央広場、一つの小燭台が立っているそこで大混戦が始まった。
この乱戦の結果如何で、一気に勝敗が決まる。ゆっくりと戦況を進めている他のステージとは裏腹に、いきなり派手な展開を繰り広げる森林ステージに観客の視線は集中した。
「なあ、あっちの五人チームの方はどうしてメンバーをひとり遊ばせてるんだ?」
近くの見物客の声がクーファにも聞こえてきた。連れらしきもう一人が、「しぃっ!」と人差し指を立てる。
「バカっ、言葉に気をつけろ! あれがメリダ=アンジェルさまだぞ!」
「え? あっ! あの、騎士公爵家なのに無能って噂の……?」
「マナが使えないってのは本当らしいな。見ろよ、すっかり無視されてやがる」
彼らの言うとおり、敵ばかりか味方でさえメリダの存在が眼中にないようである。
だからこそ——つけいる隙があるというものだ。
さあ、これでお膳立ては整った。今こそあなたの世界をひっくり返す時。
行きなさい! メリダ=アンジェル!!
クーファの心の叫びが聴こえたかのように、メリダが駆け出した。戦況を見守っていたユニットリーダーのユフィーが、自陣を離れていく背中に慌てて声を上げる。
「危ないわ、メリダさん! 戻って!」
メリダは足を止めない。敵味方入り乱れている中央広場を迂回して、敵の本陣を狙うつもりだ。一人も守りのいない大燭台を倒してしまえば、メリダたちの勝利である。
「姑息ね、メリダ=アンジェル……ッ」
ネルヴァは味方三人に合図すると、ひとり広場から離れて森に駆け込んだ。マナの恩恵を以て凄まじい速さで森を横断し、わずか数秒後にメリダの前へ躍り出る。
「ほんとにのこのこ出てきたのね、メリダ!!」
「ネルヴァ……ッ」
メリダは足を止め、試合用の刀を構えた。それを嘲笑い、ネルヴァも自身の武器であるメイスを振り上げる。
試合用の武器は刃引きがされ、さらに硬度と重量が絞られるという安全措置が施してあるものの、もちろん当たり所によっては無傷では済まない。相手の武器が四、五回体をかすめた時点で、自主的に負けを認めてしまう生徒も少なくないのだ。
さらに、武器の威力はマナで倍加されているのである。いくら受け手側にもマナの加護があるとはいえ、恐怖は抑えられまい。ネルヴァは、相手が「無能才女」「落ちこぼれ」と揶揄されるメリダであっても、一切の躊躇がなかった。
「両手両足痛めつけて、みっともなく這いつくばらせてあげる!!」
嗜虐心を具現化したかのような禍々しい焔が、ネルヴァの全身から吹き荒れる。焔はまるで蛇のようにメイスに絡みつき、大上段へと振りかぶられる。それが、ごっ、と勢いよく振り下ろされた瞬間、生徒側の客席からは悲鳴が上がった。
しかし、それを逃げもせず待ち構えるメリダの瞳が、かっと見開かれたかと思うと。
神々しい黄金の焔が全身から解き放たれ。
最速で振り上げられた刀がメイスの側面を急襲。
なめらかに打ち払った衝撃が、ギィイ————ン!! と音高く響き渡った。
「なッ…………!?」
反動と驚愕に襲われ、目を限界まで見開いたネルヴァ。
まだ金属音の余韻が鳴り響くこの一瞬。メリダの実技成績を目の当たりにしてきた学院の生徒や講師を筆頭に、その家族、学教区の住民や観光客、果ては他のステージで競技中の選手たちに至るまで、このコロシアムを埋め尽くす全ての人の心が、ぴたりと一致するのをクーファは感じた。
「「「メリダ=アンジェルが……マナをっ!?」」」
他のステージの選手たちでさえ、口をあんぐりと開けて思わず試合を中断しているほどである。決定的瞬間を目の前で突きつけられたネルヴァの衝撃はどれほどのものか。
そして、そんな絶好の機会を見逃させるほど、クーファは生温い鍛え方はしていない。
「——やああっ!」
気合いとともに突き出されたメリダの刀が、ネルヴァの肩口をなめらかに打ち据える。バシィ! とマナの衝突音を轟かせ、ネルヴァは後方へ吹っ飛んだ。
「くッ……うあっ!?」
ほんの一メートル程度のノックバックだったが、ネルヴァは足をもたつかせて倒れ込んだ。ようやく我に返ったのか、慌てて四つん這いになって起き上がる。
自慢の演武装束を土に汚してしまった自分と、それを悠然と見下ろすメリダを睨みつけて、忌々しそうに歯を噛みしめた。
トレーニングでは一方的に叩かれてばかりだったメリダの、何気にこれが初めて取った一本である。加えてネルヴァのあの屈辱的な表情ときたら——クーファはこぶしをぐっと握り、喝采を上げた。
「よォっし!!」
見たか! 見たか! 見たか! 見たか!!
叶うならば今すぐに客席から立ち上がり、周りの見物客へ向かって「どうだ思い知ったか!」と叫び散らしたい気分だった。
なにせ……クーファははっきりと確認したのだ。メリダがマナを解放した瞬間、後方の貴賓席にいるフェルグス公がわずかに目をみはったのを。彼女が見事な先制攻撃を成し遂げた瞬間、モルドリュー卿がぎょっと目玉を剥き出したのを。
よく見ろ! あれが! あんたらが無価値と呼んだ戦士の姿だ!!
「ああっ! 素敵ですわメリダお嬢さま! わたくしもう、涙で前が見えません……っ」
「まだです! まだまだこれからですよ、エイミーさん……!」
ハンカチを取り出しておいおい泣いているエイミーとともに、クーファは再びステージを注視した。
ほんの三メートルほどの間合いで両者は対峙している。ようやく衝撃から立ち直りつつあるのか、ネルヴァは冷や汗を垂らしながらも「はっ!」と虚勢を張った。
「……何いい気になってるの。赤ん坊がやっと道具の使い方を覚えたってだけじゃない」
「…………」
言うまでもないことだが、もはや客席どころか他のステージの選手たちの目さえふたりに釘付けになっていた。張り詰めた緊張感とどよめきがコロシアムを支配している。周囲が気になって仕方がないらしいネルヴァとは対照的に、メリダは氷のような冷たい視線で対戦相手を観察していた。
きっとこう思ってるに違いない。『先生と違ってなんて軟弱なんだろう』と。
「ねえ、来ないの?」
「えっ」
ネルヴァが間抜けに口を開けた直後、メリダは踏み込んだ。刀の軌道を阻む形で、ネルヴァが慌ててメイスを上げる。衝突、金属音。メリダはすぐに切り返して、二閃、三閃。瞬発力ならサムライ・クラスに分がある。ネルヴァは不格好に武器を振り回すばかりだ。
いかにも重そうな一撃が振り上げられ、ネルヴァは反射的にメイスを上げた。直後、ふくらはぎを蹴っ飛ばされて不様に転がる。
「いッ……た!」
思いっきり転倒したおかげで距離が離れ、追撃をもらわなかったのを幸運と見るべきだろう。鼻の頭まで泥まみれにしたネルヴァに、メリダは悠々と近寄っていく。
「相手が武器を持ってるからって、武器で攻撃してくるとは限らないのよ」
「……ッ!! こ……のおおおおッ!!」
ネルヴァが跳ね起きたタイミングを見計らい、メリダはその場で足を払った。半月の軌道を描きながら地面を抉り、舞い上がった土くれがネルヴァの顔面を強襲する。
「うあっ、ぷっ! なに……ッ!?」
両手で目をこすり、完全に無防備になったネルヴァの胴部めがけて、メリダは渾身の一撃を叩き込む。強烈な衝撃音が弾け、再びネルヴァを後方へ吹っ飛ばした。
「あ、あの子、すごい……っ、けど」
客席の何人かが頬を引き攣らせる。またも心の声が同調(シンクロ)するのをクーファは感じた。
「「「えげつない……!!」」」
そして別の意味で驚愕しているのが、隣席のロゼッティだった。
「メ、メリダさまのあの立ち回り方……完全に実戦での殺し合いを意識したそれじゃない……っ!」
ばっ! と振り向き、食い入るようにクーファの顔を睨みつけてくる。
「あんた、いったい何者っ?」
「しがない家庭教師ですが?」
しれっと答え、涼しい顔で視線を受け流すクーファ。
客席で人知れず火花が散っている一方、森林ステージの戦況はさらにヒートアップしつつあった。四つん這いのネルヴァが、ぶるぶると肩を震わせながら呻く。
「このわたくしが……こんな……ッ。メリダ=アンジェルのくせにいいいいッ!!」
彼女の背中から、いっそう高く禍焔が噴き上がる。
ネルヴァは獣のように跳ね起きると、両手で高々とメイスを振り上げた。体中の禍焔がうねり、頭上で制止したメイス・ヘッドに集中、ひときわ激烈な光を放つ。
「わたくしの《ギャリックハマー》をくらいなさい!!」
メリダははっと目を見開くと、とっさに大きく跳び退いた。
間合いが離れたのにも構わず、ネルヴァはメイスを撃ち下ろす。今までの稚拙さが嘘のようななめらかさで、踏み込みから一気に地面を叩きつけた。
マナが炸裂し、壮絶な破壊力が地面を突き抜けた。放射状に亀裂が入って足場が爆裂、土くれと砂ぼこりが大量に舞い上がる。遅れてきた衝撃波が円環状に広がり、客席のギャラリーたちをも震えさせた。
クーファの席にまで余波が届き、乱れた風が軽く前髪を揺らす。
重量系武器の初級攻撃(アサルト)スキル《ギャリックハマー》……大した威力だ。あれが直撃したら今のメリダの防御力では防ぎきれまい。歴戦の勇士にとっても、敵の攻撃(アサルト)スキルは恐怖と警戒の対象。まして初心者であれば震え上がって動けなくなってもおかしくはない。
しかしあのお嬢さまは……あれ以上に怖ろしい攻撃に毎日毎日叩きのめされながら、そのたびに立ち上がって、何度でも立ち向かってきているのである。
「はぁ……はぁ……ッ」
メイスを地面から引き抜き、ネルヴァは身を起こした。周囲三メートル程が崩壊し、大量の砂ぼこりが視界を阻んでいる。敵の気配を怖れて、よろ、と足を踏み出した直後。
砂ぼこりを突き破り、メリダが踏み込んできた。迷うことなく繰り出された一閃が、メイスと激突して火花を散らす。隆起した足場でステップは難しく、両者はそのまま極近距離戦へと突入した。
その瞬間、「わたくしの勝ち!」とでも言いたげに、ネルヴァの唇が吊り上がった。
ふたりとも養成校で戦闘訓練を受けているとはいえ、剣術使いとしてはまだまだのレベルだ。的確な防御や回避行動など行えず、見映えのするような剣舞とは程遠い。ほぼ密着状態で武器を振り回し合っていたら、必然的に互いの体にヒットする。
力任せに振り抜かれたメイスが、遠心力を乗せてメリダの脇腹を打ち据えた。鈍い衝撃音が響き渡って、ネルヴァの唇が嗜虐的に歪む。
メリダはぐらと体を揺らし、しかし……すぐに足をついて踏みとどまった。
「——やあぁ!」
お返しとばかりに切り返された刀が、ネルヴァの肩口を急襲。バシイイ! っと痛烈な衝撃音が弾け、ネルヴァの体が大きくのけぞった。
「なッ……!?」
何度目かのネルヴァの驚愕。彼女は不格好にたたらを踏んで立ち止まるが、約一メートルほどのノックバックを課せられた。
対して、鋭く睨みつけているメリダは二十センチも立ち位置が変わっていない。
「……くッ!!」
犬歯を剥き出しにして、ネルヴァは果敢に挑みかかっていく。刀とメイスが何度も激突し、そのたびに鮮烈な衝撃音。
再び、メイスが先に相手の胴体を捉える。メリダは痛みに眉をしかめるが、しかしすぐに踏みとどまる。そして反撃の一閃が、ネルヴァを大きく吹っ飛ばす。
ことここに至り、見物客たちも異常性に気がついた。
「お、おいどうなってるんだ? さすがにステータスは相手の方が上のはずだろ……?」
「それだけじゃねえよ! なんで正面から打ち合ってグラディエイターが押されてるんだっ? 連中は接近戦のプロフェッショナルってのが売り文句だろうが!」
「お、俺に聞かれても分かんねえよ! 騎士公爵家の秘術かなんかじゃねえの!?」
一方的に押し返されていくネルヴァの姿を目の当たりにして、観客は戸惑うばかり。コロシアムには何千人もの人々がいるが、このなかでカラクリに気がついているのは、主に騎兵団(ギルド)の関係者を中心にしたほんの一握りだけだった。
クーファの隣に座る親衛隊のエリートさまもそのひとりのようだ。ロゼッティの宝石のような瞳が、感情を映して大きく見開かれて、
「まさか、あの子……《カオス・カデナ》を!?」
信じがたいといった響きの声を聞き、クーファの唇が不敵に吊り上がった。
† † †
「カオス・カデナってなんですか? 先生」
公開試合に向けた訓練の初日、黒板を背に教鞭を取るクーファへとメリダは訊ねた。
彼によればそれが、攻撃(アサルト)スキルを上回る勝利の鍵になるのだという。
びっしりと板書されている黒板をチョークで叩き、クーファは答えた。
「《混沌を飼い馴らせ(カオス・カデナ)》。騎兵団(ギルド)の戦士たちが用いている高等テクニックのひとつです。アラインメントのニュートラル状態とカオス状態については、先ほど軽く触れましたね?」
「はい。ええと……マナが全身へ均等に行き渡っている状態がニュートラル。反対に、不均一に偏っている状態がカオス、でしたよね?」
クーファはひとつ頷くと、前触れなく自身のマナを解放した。
ごうっ! と。メリダにしてみれば、火山の噴火じみた圧力が一気に押し寄せてくる。目を見開き、思わず上体をぐらつかせた少女へと、クーファは涼しい表情のまま続ける。
「お嬢さま、二日前のレッスン初日にお話しした、マナの噴出孔(マントル)についても覚えておいでですか? ケテル、ビナー、ゲブラー、コクマ、ケセド、ホド、マルクト、ネツァク、イェソド、そしてティフェレト……。能力者のマナ総量を100%とした場合、全身十カ所のマントルに10%ずつマナを加圧した状態がニュートラル。これがステータス数値と、全身のマナ圧力——いわゆる《思念圧力比率(レーティング)》と呼ばれるものの基本になります」
「は、はい……っ」
「マナをまとうことで肉体や武器のステータスが強化されるのは、ロウ状態とニュートラル状態の差を見れば一目瞭然。そしてその強化率は、当該マントルへ加圧するマナを弱めれば弱めるほど低く、逆に、強めれば強めるほど高くなるのです。——剣を構えて」
言われて、ニュートラル状態を維持していたメリダは慌てて腕を上げる。その手に握られた木刀めがけ、クーファは自身の木刀を打ちつけた。
やや勢いをつけて振り下ろしたにもかかわらず、ばちっと音を立ててクーファの木刀の方が跳ね返される。受け止めた側のメリダには、さほどの衝撃も伝わっていない。
見れば、クーファの握る木刀には弱々しい火の粉がまとわりついているばかりだった。
「このように、いくら武器を重く、振りを速くしようとも、マナ圧力を弱めた攻撃には見た目以上の威力はない。しかし逆に、マナを大量に加圧していれば……」
言いながらクーファは、木刀をゆっくりと振りかぶり、倍の時間をかけて振り下ろす。じれったくなるようなスローモーションだったが、その木刀にはマグマのような勢いで蒼焔が燃え盛っている。それがゆっくり、ゆっくりとメリダの握る木刀に当たった瞬間——
バシイイイイ!! っと爆発じみた音を立てて、仰向けに吹っ飛ばした。
「きゃうんっ!?」
「このように、攻撃の威力は何倍にも何十倍にも膨れ上がるのです」
ひっくり返って目を回しているメリダを前に、クーファは無情に手のひらを叩く。
「ほら、さっさと起きる!」
「うぅっ、はぁ〜い……っ」
「これがアラインメントとレーティングの基礎知識です。10%を越えてマナ圧力が高まっている箇所を《カオスレート》、それ以外を《ニュートラルレート》と区分します。一箇所のカオスレートを高めれば高めるほどその部分が強化される。一時的に攻撃力を跳ね上げたり、あるいは防御力や敏捷力を底上げしたりも可能。しかしこれは諸刃の剣です。総量が100%である以上、どこか一部分へマナを集中的に加圧するということは、他の大部分が弱体化するということに他なりません」
言いながらクーファは、木刀を腰に据えて抜刀の構えを取った。
「たとえば能力者が攻撃(アサルト)スキルを発動するときは、たいていは武器にマナが一極集中し、逆に体の守りは極限まで薄くなります」
「攻撃のチャンスですね!」
「その通り。しかし相手は強力な攻撃の準備中です。タイミングを見誤れば、カウンターをもろに喰らうことになるという危険性を理解しておきましょう」
構えを解き、マナをロウ状態へと鎮め、クーファは再び黒板の前に戻った。
「使いこなせればこれ以上有利なことはないカオス状態ですが、ひとつ大きな問題があります。戦闘時、攻撃や防御におけるマナ圧力の制御は、普段はほとんど無意識のもとで行われているということです」
「無意識に?」
「はい。なにしろマナを加圧するのは、能力者の《意思》に他なりませんから。——お嬢さまも、打ち合いのときは自然と武器にまとうマナが増えたり、ぶたれそうになったときはその場所を守るように集まったりしていますよ?」
「うそっ!?」
慌てて自分の体を見下ろすメリダがおかしくて、クーファは思わず微笑んでしまう。
「どんな状況にあってもマナを均一に保つテクニックを、《秩序を徹底せよ(ニュートラル・スタグネツト)》と呼びます。それほどまでに、マナ・レーティングを自意識でコントロールするのは難しいのです」
言って再び、チョークを黒板へ。もうほとんど書くスペースが残っていないが、次に教えるのが本日最後の講義である。
「ここでスキルの仕組みについて説明しておきましょうか。攻撃(アサルト)、防御(イージス)、移動(フィギユア)に代表される各種スキルは、マナ・レーティングを司る無意識をパターン化したものなのです」
「無意識を……パターン化?」
「はい。たとえば今度の試合でメリダさまの対戦相手になられるネルヴァさま。彼女はすでに《ギャリックハマー》と呼ばれる重量武器系攻撃(アサルト)スキルを習得しておられます。教本に載っている基本的な技ですね」
クーファは小さなチョークを両手の指に握り、頭上高く振り上げた。
「この技は『武器を頭上に振り上げる→踏み込んで打ち下ろす』という一連の動作に、『武器にマナを集中する→集中を一定時間維持=何かに衝突したら爆発→ニュートラル状態へ移行』というマナの流動パターンを『カオスレート45%』で深層記述(プログラミング)し、『ギャリックハマー』という《名前を付けて保存》しているのです。このプログラムを呼び出すことで、無意識下にあるマナ・レーティングを限定的にコントロールすることができる。だから攻撃(アサルト)スキルはほぼ決まった動作しか行えず、隙が大きく、その代わりに通常攻撃とは比較にならないほど強力なのです」
養成校入学したての一年生に聞かせるにはやや難しい話になってきた。
しかしこちらの心配とは裏腹に、あごに指を当てて真剣に講義を聞いていたメリダは、やがて顔を上げて質問してきた。
「それじゃあもしかして、学院の先輩方や騎兵団(ギルド)の方たちがスキルを使うとき、勇ましく技名を叫ぶのは、『このプログラム出てこい!』って意味なんですか?」
「素晴らしい、お察しの通りです。——もちろん訓練すれば無発声でも使えるようにはなりますが、やはり『このスキルを使うぞ!』という強い思念がマナの爆発力となり、より強力な効果をスキルに与えてくれるのです」
「先生っ。もう一つ、質問してもいいですか?」
「なんなりと」
律儀に挙手をしてから、メリダは次の問いを投げかけてくる。
「先ほど、『教本に載っているスキル』と言われましたけど、教本に載っていないスキルがあるんですか?」
「もちろん。なぜならどういった攻撃動作が自分に合っているかは、使い手によって千差万別ですから。教本に載せられるようなスキルは、誰にでも共通する単純な動作のもののみ。それ以上は使い手各々が戦い方を模索し、自分だけの我流スキルを編み出してゆくものです」
「我流スキル……! 先生にもあるんですか!?」
クーファはやや苦い表情で頷いた。とにかくスキルの数を作る訓練というのも昔やらされたのだ。最終的に二百個くらい考えさせられたのだが、最後の辺りはさすがにネタが尽きてきて嫌になった思い出がある。しかもそのなかで実戦で使い物になったもの、今でも使っているものはほんの一握りだ。
「蛇足ですがお嬢さま、ついでにひとつ忠告を」
「えっ、はい」
「我流スキルの開発は使い手の戦闘センスはもちろん、ネーミングセンスが強く問われる分野になります。たくさん本や詩集を読んで感性を磨いておかれると良いでしょう」
「せ、先生? 肩が震えていらっしゃいますけどなにか嫌な思い出でも?」
「お気になさらず」
クーファはふるふると首を振った。自分が考えたスキルにやっちまった名前をつけて仲間内に大爆笑されるというのは、誰もが一度は通る道に違いない。
気を取り直すように、クーファは「ごほんっ!」と咳払いをした。
「さて、ここまで説明すればお分かりでしょう。先ほど言ったカオス・カデナとは、無意識に委ねられているマナ・レーティングを意識的にコントロールする技術のことです」
黒板を埋め尽くす文字列のなかから、『カオス・カデナ』の単語を見つけ出してこんこんと叩く。あたかも数学のように、その下に計算式を綴っていく。
「お嬢さまとネルヴァさまのステータスを例にとって考えてみましょう。前回の成績評価で判明しているネルヴァさまのステータスは、【攻撃力25】【防御力24】【敏捷力18】。それに対し、一週間後のお嬢さまのステータスを——オレの目算ですが、【攻撃力18】【防御力15】【敏捷力21】と仮定します。これだけを比べると、正面から一対一で斬り結んだ場合、お嬢さまには勝ち目が薄いと思われるでしょう」
「は、はい……」
「ですがお嬢さまがカオス・カデナを用い、武器にレート20%のマナを加圧した場合を考えてみてください。カオス時の強化率はレーティングの値とイコールですから、一時的な攻撃力は【22】にまで上昇します。併せてもし、ネルヴァさまが無意識にニュートラルレートを7%まで減少させている箇所があったら、そのときの防御力は……?」
目線で促すと、メリダはあわあわと指を折って考えはじめた。
「え、ええと……っ、元の数値が24だから、その7%で…………あれ??」
「ニュートラルレートは10%を基準にしているので、レート7%の場合、ステータスは三割の減少となります。上昇率と下降率の違いも然り、この辺りは正確な値を求めようとすると計算式が複雑になり過ぎるので、簡略化した式が用いられているのですよ」
ほえぇ、と感嘆したように口を開けるメリダに、クーファはくすっと微笑んだ。
「ニュートラルレート7%の場合、ネルヴァさまの防御力は【17】です。——このように、条件を満たせばお嬢さまの攻撃力がネルヴァさまの防御力を突破できることが分かるでしょう。それどころか相手のステータスが事前に判明していれば、戦闘中、全身のマントルへ配分されているマナの量から、各部の現在ステータスをリアルタイムで読み取ることができる。そうして彼我のステータスを照らし合わせ、過不足のないマナを攻撃や防御に割り振ることができるのです」
「せ、戦闘中に、そんな複雑な計算をするんですか……っ?」
思わず、気が遠くなるといった表情を浮かべるメリダである。クーファは眉を上げた。
「難しいとお思いですか? でも、頑張ってできるようになりましょう。上級者はみんなやっていることですから」
「ふぐっ……は、はい」
涙目になりながらも頷くいじらしい姿に、クーファもついつい甘い顔をしてしまう。
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。なにせこのカオス・カデナは本来、二年生の三学期になって初めて理論を学び、訓練を積んでいく技術になるのですから」
「そうなんですか?」
「ええ。——すなわち、それほどまでに習得が難しい。騎兵団(ギルド)に所属している戦士であっても苦手とする者は少なくない。しかし、上級者を目指すなら必ず身につけなければならない奥義……! なぜなら自分の意思で攻撃力、防御力、敏捷力を自在にコントロールできるのなら、格上の相手とも互角以上に渡り合うことができるようになるからです」
クーファはチョークを置き、木刀をどすっと地面に突き立てる。
「攻撃(アサルト)スキルほどの派手さはありませんが、それを補って余りある実用性がある。今日からの一週間、お嬢さまには基礎ステータスの向上と、このカオス・カデナの訓練にすべての時間を当てていただきます。公開試合で——勝つために」
「はいっ! さっそくがんばります!」
「……いえ。ここでいったん休憩にして、甘いものでも食べましょうか」
「え……?」
メリダが小首を傾げた直後だった。彼女の体から常に噴き上がっていた煌焔が、まるで薪が燃え尽きたかのように勢いを失い、ついにはしぼんで消えていってしまったのだ。
メリダはもう大パニックである。
「あっ、あれ!? あれ!? せ、先生どうしよう! マナが出なくなっちゃった!」
「ご安心を、火種そのものは死ぬまで無くなりませんよ。——ほぼ不動で三十分足らずといったところですか。それが今のお嬢さまがニュートラル状態を維持していられる限界。ステータスに直せば二十から三十の間といったところですね」
「ど、どういうことですか?」
「マナは《燃えている》でしょう? つまり、《消耗している》ということです。消耗した分のマナは、基本的には、ロウ状態で休息を取るしか回復手段がありません。戦場では大きな隙になりますから、覚えておかれると良いでしょう」
まぶたを閉じれば、胸の深部に火種(マナ)の存在を変わらず感じることができるだろう。取り乱してしまったのを恥じるように、メリダはちょっぴり赤くなって言った。
「つ、つまり、今のわたしが休みなしで戦えるのは、三十分もない……?」
「いえ、もっと短いです。激しい戦闘を行えばそれだけマナも多く消費しますし、特にスキルはマナを爆発的に燃やして発動するものです。それだけの代償が要る。——マナの総量も訓練で増やしていくしかありませんから、お嬢さまにはこれから毎日、マナがすっからかんになるまでがんばっていただきますよ?」
「う……っ」
思わずといった様子で、やや苦々しく唇を引き結んだメリダ。クーファはにこやかな笑みを浮かべたまま、木刀を自身の手のひらにピシィン! と打ちつけた。
「返事は?」
「はっ、はいぃ!!」
† † †
「やぁぁ……はっ!」
メリダの繰り出した一撃が、またもステータスで勝るはずのネルヴァを吹っ飛ばす。何度目かの光景を目の当たりにして、ロゼッティは確信とともに叫んだ。
「間違いない! あの子……マナの流れを見てる!」
ネルヴァががむしゃらにメイスを振り回す。それが当たりそうになった瞬間、メリダのマナが大きく揺らめく。一箇所に集中したマナは、敵の攻撃力を大きく相殺する。
そして逆に、メリダがマナを集中させた刀で、敵が無意識にマナを薄くしている場所を狙ってやれば……
バシイッ! と痛烈な音を轟かせて、最大効率のダメージが届く!
「ぐうッ……う!」
苦悶に歪むネルヴァの表情を見て、クーファはトレーニングの成果を確信した。
メリダのカオス・カデナはまだ拙い。制御できるカオスレートは約20%が限界で、その加圧速度も遅い。それでも……一年生のチャンバラ試合だったらこれで充分!
——どんどん攻めなさい、お嬢さま!
度重なる痛打の末、ついにネルヴァはがくっと膝を折った。耐久力(HP)が限界に近づいている。ここまで痛めつけられてなお降参しようとしないのは、強固なプライドが彼女を支えているからだろうか。
「ふざ、けるんじゃないわよ……ッ! なんでわたくしが、負けてるわけ……!?」
肩を大きく上下させながら、凄絶な表情でつぶやいている。地面にくずおれた姿は無防備そのもので、そこをメリダが見逃すはずはなかった。
両手で頭上高く刀を振り上げて、撃ち下ろす。ネルヴァはかろうじてメイスを構えたが、とても受け切れるような体勢ではない。勝負の決着を、観客の誰もが予感した。
しかし、直後。
バシイイ! と雷鳴を轟かせて、弾き返されたのはメリダの刀だった。
「「……っ!?」」
メリダとネルヴァが、同時に目を見開く。予想外の事態に、観客たちもあっ! と口を開く。クーファを含む数人だけが、瞬間的に気づいた。
——しまった! マナが尽きた!
相手を追いつめ切る前にマナを使い果たしてしまったのだ。基礎ステータスの差はカオス・カデナでなんとか埋められても、HPやMPの絶対量だけはどうにもならない。
グラディエイター・クラスの高耐久力が、ここにきて牙を剥き出すとは……!
クーファの思考に数秒遅れてネルヴァが追いつき、壮絶な喜色を浮かべた。
「調子に乗り過ぎなのよッ……メリダ=アンジェル!!」
「くっ!」
一転、ネルヴァの繰り出したメイスが高らかな衝撃音を放った。かろうじて受け止めたメリダも、大きく後方へと押し返される。
ネルヴァは敢然と立ち上がり、全身から禍焔を噴き上げた。もう怖れるに足りないとばかりに無造作に間合いを詰め、力任せにメイスを振り回す。
そのすべてを避けられはしない。刀で受け止めるたびに、メリダは面白いように後方へ撥ね飛ばされる。防御に回すマナが圧倒的に足りていないのだ。
「滑稽ね、メリダ! そうよ! やっぱりあなたはそうして、羊みたいに逃げ回ってるのがお似合いよ! オオカミに怯えてビクビクしてればいいのよ!」
「……っ!!」
「ねえ怖い!? 今どんな気分かしら! これからあなたの残り滓みたいなマナをぜんぶ吹き飛ばして、体中痛めつけてあげる! あなたがわたくしにやったみたいにね! 自分が誰に歯向かったのか、泣き叫びながら後悔しなさい!!」
見る間に一方的な展開になってきた。メリダの残りマナは数値に直せば、五か、四か。マナの全耗を怖れて、メリダは必死に逃げ回るばかり。避け切れない攻撃を受け止めれば、なけなしのマナが削り飛ばされてメリダ自身も大きく仰け反る。
メリダの勝利の芽が、着実に潰されていく……。
「……ま、まあ結局はこんなところだよな!」
唖然としていた観客席で、ぽつりと、どこか安堵したような声が上がる。
「でも大健闘だったじゃないか、メリダさま! これだけ戦えば充分だ!」
「ああ、まったく! マナが使えなかった頃に比べれば大進歩だぜ!」
ひとりが口火を切ると、次々と評価が溢れ出す。もう試合が終わったような口ぶりだ。
メリダの健闘を讃えつつも、最後に彼らはこう口を揃える。
「それでもやっぱり、勝つのは相手の方だな!」
クーファは膝の上で握ったこぶしを、ぶるぶると震わせた。エイミーの手がそっと重ねられてきて、心配そうなまなざしが覗きこんでくる。
「クーファさん……」
気遣ってくれる彼女に返事をする余裕もなく、クーファはちらと後方を振り仰いだ。
「健闘した」「頑張った」。そんな言い訳になんの意味もない。結果の伴わない努力など誰にも評価されないのだ。
貴賓席で、モルドリュー卿はこの世の終わりが来たかのように顔を覆っていた。反対に、フェルグス公は厳しい顔つきでステージを見下ろしているままだ。
しかし、その彼のまぶたがふいに伏せられ、ふう、とかすかなため息が漏れた。
「……ッ!!」
クーファが絶望に顔を歪ませた直後、隣の席から強く脇腹を小突かれた。試合に見入っていたロゼッティが忠告してきたのだ。
「決着がつきそうよ!」
クーファはすぐさまステージに視線を戻した。相変わらずネルヴァが一方的に攻め立てていて、メリダは必死に後ろへ下がるばかり。しかし、ネルヴァがメイスを空振った瞬間を見計らい、メリダは体当たりするようにして鍔迫り合いへと持ち込んだ。
押し飛ばされそうになるのを懸命にこらえながら、キッと顔を上げる。
「……怖くないわ!」
「はあ?」
「あんたのへっぴり腰の攻撃なんて、何度当たってもちっとも痛くないって言ってるの!」
「……このッ!!」
顔を真っ赤にして、ネルヴァは力任せにメイスを突き返す。メリダは大きくノックバックさせられ、しかし転ぶことなく着地した。
ネルヴァのマナが無意識にメイスへまとわりつく。その全身が陽炎のごとく揺らめく。
「生意気なのよ!! メリダのくせに! メリダのくせに! メリダのくせに!!」
激情のままにメイスを振り回す。メリダは地面に転がってかろうじて避け、代わりに命中した木の幹が盛大に抉り飛ばされる。
メイスを振りかざしながら、ネルヴァは喚き立てていた。
「なんであんたが、今頃マナに目覚めるのよ! ずっとそのままでいればよかったのに! おとなしくわたくしのトモダチでいればよかったのに!」
ぎりっと歯が噛みしめられ、瞳が歪む。
「せっかくせっかく……いい気味だったのに……っ!!」
たったひと粒だけ浮かんだ涙は、いったいどんな心境によるものだったのだろうか。
直後にメイスが唸り、メリダの手から刀を弾き飛ばした。上空に舞い上がった刀が、真っ二つに砕ける。すべてのマナが尽きた——観客の誰もがそれを理解した、直後。
「痛くないって言ったわね!!」
ごうっ! といっそう勢いを増した禍焔がネルヴァから解き放たれ、そのすべてがメイス・ヘッドにねじ込まれた。攻撃(アサルト)スキル《ギャリックハマー》の予備動作。
「思いっきり肩を叩いて、スプーンも持ち上げられないように——」
「《幻刀一閃(げんとういっせん)——…………」
瞬間。
コロシアムのすべてが凍りつき、全員の視線が彼女に集中した。
刀を失ったメリダは、即座に腰溜めに手を添えていた。その指先には、暗闇のなかで懸命に瞬くような、けれども神々しい確かな輝きが見える。
驚愕の表情を浮かべたネルヴァは、理解しただろう。刀が砕けたのはマナが尽きたからではなく、最後に残されたマナを、この一瞬のために温存していたからで——
メリダの右足が、雷のごとく踏み込まれた。
「《風牙(ふうが)》!!」
無刀の振り抜きとともに、不可視の衝撃がネルヴァに叩き込まれた。マナを刃のように収斂し攻撃力へと転化した一撃が、メリダの指先から飛翔。それは攻撃(アサルト)スキルの弊害で極限まで守りの薄くなっていた、ネルヴァの腋の下を直撃した。
「かッ! はッ……!!」
ネルヴァの体がぐらりと傾いで、地面に倒れこんだ。わずかなマナによる攻撃だったものの、的確に弱点を突かれた上に、彼女の耐久力もすでに限界である。指先からメイスが滑り落ち、そこに集中していた禍焔が、むなしく霧散した。
誰も彼もが言葉を失うなか、クーファは音を立てて席から立ち上がっていた。
——あのスキルは、私の……!!
中距離戦のために編み出した我流攻撃(アサルト)スキル《幻刀術(げんとうじゅつ)》。それをなぜメリダが!?
「あの子、まだ攻撃(アサルト)スキルは使えないんじゃなかったの……!?」
ロゼッティも驚愕に目を見開いていた。しかしクーファは、衝撃のあまり返事をすることもできない。教えていない。少なくともクーファは教えていない。
つまり……自分で辿り着いたのだ。
たった一度クーファのスキルを見ただけで、位階の説明を聞いただけで、サムライはマナそのものを武器にできることに気がついた。クーファの見ていないところでひそかに鍛錬を重ね、公開試合に向けてもうひとつの切り札を編み出していた。
毎日毎日、基礎体力とカオス・カデナの訓練だけでへとへとだったはずなのに……!
なにより、それだけではない。最後の攻撃力を最大限に活用するために、メリダは相手の隙を突いた。言葉で挑発し、あえて武器を手放し、ネルヴァに攻撃(アサルト)スキルを使うよう意識をコントロールした。クーファの教えを完璧に吸収して……勝った!!
ぞくぞくぞくっ! と、えも言われぬ電流がクーファの背筋を駆け上がった。
——お嬢さま……あなたという人は!
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
すべてのマナを絞り切ったメリダは、肩で大きく息をする。しかしすぐさま抜刀の構えを解くと、駆け出した。
「これ、借りるわよ!」
ネルヴァの手もとに転がっていたメイスを拾い上げると、森のさらに奥へ。その先は敵の本陣奥深く、ステージの対岸には、誰も守る者のいない大燭台が見えている。
「あっ……!」
ネルヴァ側のユニットメンバーがぴくっと動きかけた、その寸前。
「一対一(マンツーマン)! メリダさんを援護して!」
メリダ側のユニットリーダー、ユフィーが一喝した。メンバーが弾かれたように動き、相手ユニットの面々に打ちかかっていく。一人が確実に一人の動きを止める。
もうメリダを阻むものはなにもなかった。残りの距離を素の身体能力のみで駆け抜け、森のなかに設えられた、まるで少数部族の祭壇とでも呼ぶべき敵の拠点に辿り着く。
そこで煌々と燃え盛っていた燭台めがけ——メイスを一閃。
かぁ————ん! と音高く台座が吹き飛び、宙を舞っている途中で、火が消えた。
金属製の台座が地面に落下し、甲高い音を響かせる。人々の視線は、メイスを振り切った体勢のまま制止しているメリダに釘付けになっていた。
静寂の数秒。
「お……おお……っ」
やがて誰かの口から吐息が漏れて、それが呼び水だったかのごとく、「うおおおおっ!?」と大きなどよめきがコロシアムを包み込んだ。
† † †
「お嬢さま!」
「先生っ!」
選手退場口で待ち構えていると、最後尾辺りに見慣れた金色の髪が出てきた。喜色を浮かべたエイミーとともに、クーファは彼女へ駆け寄っていく。
「見ていてくれましたか、先生! わたし…………って、きゃああああっっっ!?」
「お見事でしたよお嬢さまああっ!!」
クーファは駆け寄りざまメリダの腋の下を抱えると、頭上高く持ち上げた。「高い高〜い」である。周囲にひしめいていた他の生徒やその家族の注目を否応なく集める。
メリダは顔を真っ赤にしてじたばたと暴れた。
「せ、先生っ! わたしもう子どもじゃないんですからっ!」
「素晴らしい! 素晴らしい! 期待以上の成果でした!」
「今晩はパーティですわ! うんとごちそうを用意しますからね!」
「エ、エイミーまで! もういいから下ろしてえ〜〜〜〜っっっ!」
さらにそれから三回転ほど振り回されて、メリダはようやく抱っこから解放された。
くすくす微笑ましそうに笑っている周囲の視線がこそばゆいのか、メリダはぎゅっとエイミーのメイド服にしがみついた。
「ううっ、十三歳にもなって……はずかしい……っ」
「すみません、ついはしゃいでしまいました」
「もうっ、先生ったら意外とこどもっぽいんですね!」
ぷんすか怒るメリダを、エイミーが「まあまあ」と髪を撫でながらなだめる。
「そうおっしゃらないでくださいまし、クーファさんは本当に心配しておいでだったんですから。特にお嬢さまが試合を決められたときなんて、椅子から立ち上がって……」
「そうだ! お嬢さま、いつの間にオレから技を盗んでいたんですか? 初歩の初歩とはいえ、独学で他人の攻撃(アサルト)スキルを再現するなんて並みの集中力では——」
そこまで発言したときだ。いきなりエイミーが肩を掴んできて、クーファを止めた。
次いで慌ててメリダから手と体を離し、深く頭を下げる。
「だ、旦那さま!」
メリダの全身がぎしっと固まった。クーファは反射的に顔を上げた。
三人から少し離れたところに、銀髪を後ろに撫でつけた壮年の男性が立っていた。
「お、お父、さま…………」
メリダがおそるおそる顔を向ける。彼女の父親、アンジェル家現当主フェルグス=アンジェル……その存在(マナ)を感じ取り、クーファの背筋に今さらながら、ぞくっと寒気が走る。
——まさか、聞かれたか?
メリダが使ったのは、サムライ・クラスであるクーファの我流スキルだということ。すなわち彼女の位階の正体。でなければ、貴賓席で見物していたはずの彼が試合終了を見計らってこちらへ降りてきたのは、いったいどのような思惑によるものか……。
つばを呑む音さえ聞こえそうな、緊迫の数秒。
やがて、フェルグス公はその皺の目立つ顔を柔和に緩ませて、言った。
「実に天晴れな試合ぶり……」
「……っ!」
メリダの表情がぱあっと輝き、クーファはほっと安堵する。そして足を踏み出したフェルグス公は——娘の傍らを素通りした。その先にいた貴族の男性に笑みを向ける。
「ご息女のご活躍、感服しましたぞディーゼルク卿!」
「これはフェルグスさま! ええ、ええ! 今日の試合は我がディーゼルク家の歴史に残る武勇伝となりましょう! ——それよりメリダさまこそ! いやはや、まさに獅子奮迅の勇姿だったではありませんか!」
「いやなに、あれなど意地汚い勝ち方しかできずお恥ずかしい限り」
「……っ」
メリダの華奢な体がぎゅっとこわばる。
ディーゼルク卿との挨拶を終えたフェルグス公は、次の挨拶相手を求めてきびすを返した。メリダに背中を向けたまま、一瞥もくれない。
「お——お父さま!」
メリダが決死に呼び掛けて、ようやくぴたと、足を止めた。
胸もとを握りしめ、メリダは壁のように大きな背中へ向けて、震える声を絞り出した。
「お父さま……わ、わたし、勝ちました……はじめて勝てました……っ!」
「…………見ていた」
岩のように硬い声で答えて、フェルグス公は肩越しに視線を投げてくる。
「たった一度勝った程度で浮かれるな。そんな報告は他校との対外試合で常勝できるようになってからでよい」
「……ッ!!」
ぎっと歯を食いしばったのはクーファだ。それが健気な娘にかける言葉かと、思わず怒鳴りつけそうになった。
しかしその寸前、きゅっと、メリダの手のひらが軍服の袖を掴む。
クーファを止めようと思ったのではなく、とっさにすがる相手を求めたのだと、彼女の泣きそうな表情を見て悟った。
「……はい。今日は見に来てくださって……ありがとうございました……」
ぺこり、と深く頭を下げる。フェルグス公はぴくりとも表情を動かさず、顔を前に戻すと、そのまま人波の向こうへ立ち去っていった。
時間にしてみれば、わずか一分もない親子の邂逅である。
「お嬢さま、元気を出してくださいまし……」
目に涙を溜めてうつむくメリダを、エイミーがそっと慰める。
クーファも彼女の前にひざまずくと、小さな手のひらを取って言った。
「お嬢さま……よかったですね」
「え……」
メリダはきょとん、と顔を上げて、またすぐに視線を伏せた。
「……あんまり、よくはないです」
「そうでしょうか? 考えてもみてください。今までのお嬢さまでしたら、試合に勝利することも、旦那さまに勝利報告をすることもできなかったでしょう。そしておそれながら……旦那さまの方も、お嬢さまにお声をかけてくださることはなかったと思います」
きゅっと、指を握る力を強めて、言う。
「ですが今日、お嬢さまは旦那さまに話しかける勇気を得た。そして旦那さまの方も、望んだお言葉ではなかったにしろ、お嬢さまに返事をなされた。これは大きな一歩です。旦那さまにとってお嬢さまが、無視できない存在になったということなのですから。——対外試合で常勝? ええ、できるようになってやろうじゃありませんか!」
「先生……」
メリダは濡れた瞳でまっすぐクーファの目を見つめ返すと、こくりと頷いた。
「メリダ=アンジェルっ!」
そのときだ。唐突に鋭い声が響き渡った。
見れば退場口のそばに、姉妹(ブルーメン)たちを連れたネルヴァ=マルティーリョの姿があるではないか。演武装束(バトルドレス)は見る影もなく泥だらけで、手に鈍器のような四角い物体を抱えている。彼女がずかずかと足音も荒々しく近寄ってくるのを見て、よもや場外乱闘がおっぱじまるのかとクーファは覚悟した。
しかし、ネルヴァは近寄りざま、手にしていたものをメリダの腕に押しつけた。
それはいつぞや、彼女がメリダからかっぱらっていった流行りの恋愛小説だった。
「もう読んだから……返す!」
赤い顔を隠すようにそっぽを向いて、ネルヴァはすぐに身を翻した。去り際に、
「……ごめん!」
短い言葉を、意地であるかのように言い残して、駆けていく。彼女の背中を、姉妹(ブルーメン)たちがおろおろと慌てながら追いかけていった。
手にずっしりと重い小説を抱え、彼女らを茫然と見送ったメリダは、
「は……はあ」
数秒遅れて、気の抜けた返事をした。事態を呑み込めていないらしい彼女の表情に、クーファは思わずぷっと吹き出した。
「よかったですね、お嬢さま」
「よ、よかったのかなあ……なにがなんだか」
不思議そうに首を捻っているメリダをエイミーに任せ、クーファは軍服を翻した。
「さてお嬢さま、オレは少し野暮用がありますので、またのちほど」
「え、どちらへ?」
「ネルヴァさまに少々お話が。一度や二度謝ったぐらいで許された気になってんじゃねえぞと思い知っていただかなくてはならないので」
すらり、とどこからか木刀を取り出すクーファである。あたかも獲物をしばき倒す予行演習のごとくビュンビュン素振りしているその背中へ、メリダは大慌てでしがみついた。
「や、ややややめてくださいっ! わたしはもう満足ですから!」
そのとき、助け船のようにラッパの音色が響き渡った。次の試合が始まる合図である。
とりなすように、エイミーがぱんぱんと手のひらを叩いた。
「第二試合はエリーゼさまの出番でしたね。お弁当を食べながら応援いたしましょう!」
† † †
メリダを連れて先ほどの観覧スペースまで戻ると、幸いまだそこは空席のままだった。モデルのように絵になる赤毛の女の子の姿も変わらずだが、ひとつだけ変化もあった。
エプロンドレス姿の老婦人が、ロゼッティの前に立ちはだかっているのである。
「……ロゼッティ先生。それはわたくしどもが期待している教育方針とは違います。まだ休暇気分が抜けないのでしょうか? いい加減目を覚ましていただかなくては困ります」
「め、目を覚ますって言われてもっ、あたしはあたしなりにあの子のためになると思うことをしているだけで……!」
口論……なのだろうか? 背筋をぴんと伸ばした老年の女性に、椅子の上で縮こまる女の子という図式は、叱られている子供が懸命に反抗しているように見えなくもない。
やがてエプロンドレスの老婦人はこちらに気がつくと、機械のように洗練された仕草で身を翻した。通り過ぎざま、エイミーと鏡合わせのように会釈を寄越してくる。
「これはこれはメリダさま。先ほどはたいそうなご活躍でしたわね」
慇懃な言葉遣いだが、声や態度の端々からわずかに刺が突き出している。そのまま立ち去っていく彼女を見送り、クーファはロゼッティへと問いかけた。
「今の方は?」
「……うちのメイド長」
ぶすっと唇を尖らせた彼女は、ひとことだけ答えてひとつ隣の席へとずれた。クーファは礼を言って自分がそこに座り、エイミーを挟んで真ん中の席にメリダを座らせる。
「エリーの家で、何かあったんですか?」
「ううん。エリーゼさまっていうか、使用人(こっち)の問題なの。ごめんね、気にしないで?」
ロゼッティはそう無理に笑って、「二回戦進出おめでとう」と言い添える。複雑そうな事情を感じ取り、十三歳のメリダはそれ以上踏み込むことができない。
すかさずエイミーがお弁当のバスケットを開けて、場を取り成してくれた。
「さあ、お嬢さま。大好物のチキンサンドをたくさん作ってきましたよ!」
そうこうしているうちに、やがて軽快なラッパの旋律とともに、第二試合の選手たちがステージへ入場してきた。途端、客席にわあっ! と大きな歓声が沸く。
「見ろよ! あれがエリーゼ=アンジェルさまか!」
「素敵な銀髪! 可愛らしいお姿っ……まさしくパラディンね!」
彼らの注目は、湖上ステージに入ってきた一人の女生徒である。身の丈に届くような長剣を提げ、ひときわ煌びやかな演武装束(バトルドレス)を身にまとっている。銀色の髪をさらりとなびかせながら、しかし表情はいつものように無感情。
まるで義務であるかのようにいち早く剣を抜き、頭上でくるりと回す。淡々とした動作だったが、客席からはいっそうの声援が飛んだ。おやおやみなさま、うちの子とはずいぶん期待値が違うんですねえと少々やさぐれてしまうクーファである。
「すごいなあ……」
ぽつんと呟くメリダは、遠いエリーゼの姿に何を思っているのだろう。その横顔からは真意を汲み取ることはできないが、分かっていることがただひとつ。
「お嬢さま、お口にサンドイッチのソースがついてます」
「ふわわっ、じ、自分で拭けますっ……むぐぐ」
メリダの高貴な唇をふきふきしてから、クーファはステージに向き直る。
「お嬢さま、向上心を持っていれば、周囲のあらゆるものが勉強材料になります。食事をお召しになりながら、第二試合の選手たちの様子を観察してみましょう」
「よろしくお願いします、先生っ」
メリダがはつらつと答えるのと同時、早くも試合開始の合図が響き渡った。
ラッパの音色とともに、各ステージの選手たちがいっせいに動き出した。クーファたちが注目するのは自然、エリーゼのいる湖上ステージである。
湖上ステージは全体が水深の深いプールに満たされ、あちこちに点在する小島を縦横に橋が繋いでいる、迷路のようなフィールドだ。足場が極端に少なく進行ルートも限られるため、最初の一手でプランを立てておかなければあっという間に袋小路に陥ってしまう。
エリーゼ側のユニットはその最初の一手でつまずいた。彼女らのユニットリーダーはとにかくスピードを重視したのか、拠点から続く橋のひとつひとつに、ひとりずつのメンバーを進ませたのだ。あまり計画性の見られない進軍のさせ方である。
「むやみに戦力を分けるのは、あまりよくないんじゃあ……」
「ええ、一気呵成ももちろん悪くはありませんが、このステージではもう少し冷静さが欲しいところでしたね。お嬢さま、ステージの対岸をご覧になってください」
クーファの指差した先、対戦相手のユニットは全員まだ拠点から動いていなかった。彼女らは数十秒を犠牲にしてステージの構造を把握すると、三手に分かれた。クレリックの位階を持つユニットリーダーが単独、遠距離攻撃クラスであるガンナーも単独、そしてグラディエイターが一人とフェンサーの二人が三角陣を組み、中央の橋へ。この時点で、エリーゼ側のユニットは二つの小燭台を点火させている。
しかし、行軍を開始した相手ユニットは実に迅速だった。するすると迷路を抜けたユニットリーダーが一つの小燭台を、別行動のガンナーが二つの小燭台を撃ち抜き、またたく間に逆転する。そして残りの三人は、中央の小島を占拠した。
「あの中央の島が交通の要所です。過半数の小燭台はあの島を経由しなければ辿り着けない。狭いステージとはいえ、一分足らずでそれに気づくとはなかなか勘が良い」
「エ、エリーたちのユニットがちょっと困ってますっ」
ばらばらの方向に駆けたはずのエリーゼ側のユニットメンバーたちが、思わぬところで鉢合わせたり同じところを回ったりして完全に迷っている。その間にも相手ユニットのガンナーは的確に小燭台を点火させており、みるみると差が広がっていく。
合流したユニットの四人、エリーゼを除く彼女らは、いちど顔を見合わせて頷き合う。それから全員で足並みを合わせ、どこかを目指して駆け出した。
「こうなるともう、方法は一つですね。頭の切り替えが早いのは実に良いことです」
彼女らが向かったのは中央の小島である。そこに立ち塞がる三人を突破して、相手ユニットの大燭台を直接狙う。それ以外に一発逆転の目はない。
しかし相手ユニットも、当然それを見越してメンバーを配置しているのである。橋から攻める四人と、島を守る三人。橋の狭い足場では複数人が並んで戦えず、逆に島にいる三人は入れ替わり立ち替わりポジションを交換して、ダメージを分散させている。
指の仕草で交替の指示を出しているのは、別行動を取っているユニットリーダーのクレリックだった。自身も着実に小燭台を狙いながら、的確な観察力を発揮している。
「フェンサー・クラスには《堅牢》という、敵の挙動を阻むアビリティがありますから、そうやすやすとあの守りは突破できない。無理に踏み込めば敵の真ん中で袋叩きにされる恐れがある。さて、エリーゼさまのユニットもここから底力を見せられるかどうか……」
その語尾にかぶさって、甲高い金属音が鳴り響いた。
クーファたちや観客の視線が、さっとそちらへ流れる。まっ先に見えたのは宙を吹き飛んでいくマスケット銃である。それを装備していたはずのガンナーは、目の前に突きつけられた長剣にたまらず両腕を上げていた。
「こ、降参!」
「…………」
それ以降一瞥もくれず、長剣の主はすばやく駆け出した。エリーゼである。
雷のような速度で駆けつけた先は、戦場の要である中央の小島だ。左手で「道を開けて」と味方に合図したエリーゼは、その勢いのまま敵陣に突っ込んだ。先頭にいたグラディエイターを強引に突破し、しかしその後ろに控えていたフェンサーたちの二重の《堅牢》アビリティによってぎしっ、と両脚を縫い止められる。
「無茶な運用をする! あれでは……」
クーファが言った直後、予想は現実のものとなった。
敵陣のど真ん中で立ち止まってしまったエリーゼは、三方向からいっせいに攻撃を受けた。二本の剣が、鋭い突起をもつモーニングスターが、演武装束(バトルドレス)やむき出しの肌を穿つ。ズガガア! っとマナの衝突音が響き、メリダがはっと口もとを覆った。
エリーゼはぐらりと体を傾げたのち、腰を低く落とした。
「……《ソル・ブランディス》」
肩の高さに構えた長剣に、激烈な光が迸る。白き雷とでも表現すべきような純焔が、圧倒的なプレッシャーでもって相手ユニットの三人をたじろがせる。
わずかな気勢も見せず、エリーゼは短い踏み込みとともに体を一回転させた。長剣が螺旋の筋を引き、周囲三人の胸をほぼ同時に打ち据える。一拍遅れて、マナの純焔が完璧な円環を描きながら拡散。衝撃で三人を大きく吹き飛ばして、湖に落下させた。
一撃三倒……! 他の選手たちとは桁が違う!
集中攻撃をものともしない防御力に、当たり前のように発動させた攻撃(アサルト)スキル、そしてその威力たるや! 養成校一年の平均ステータスを遙かに飛び越えている。これが上級位階・パラディンのポテンシャルかと、クーファは軽い戦慄を覚えた。
湖に落ちた三人は、位階の防御性能の高さが幸いして溺れずには済んだようだ。しかしエリーゼの攻撃(アサルト)スキルを受けてひどく消耗しており、戦闘続行は誰の目にも不可能。エリーゼ自身はそれを確認することもなく、さらに駆け出した。
この時点で小燭台はほとんどが相手ユニットの手に落ちていたが、無防備な大燭台を落としてしまえばエリーゼたちの勝利である。たったひとり残された相手ユニットのクレリックは駄目もとで本陣へ引き返した。敏捷力以前に距離が離れすぎていて間に合わない。
ところが、敵陣の大燭台の前に辿り着いたエリーゼは、なぜかそこで立ち止まった。
くるりと振り返り、必死で駆けつけてくる相手ユニットのクレリックを待ち構える。
「バカにしてるの!?」
クレリックは走りながら、長杖(スタッフ)を両手で引き絞った。互いの距離が近づき、衝突と同時に金属音が響き渡る。相手の渾身の突撃を無表情のまま受け止め、エリーゼは軽く剣を押し返す。桁違いのマナ圧力が、クレリックを大きく後方へ押し戻す。
「くッ……はぁぁ!!」
クレリックは気勢を轟かせると、苛烈に打ちかかった。しかしどれだけ勢いを乗せても、何度杖を叩き込んでも、エリーゼは構えらしい構えもなく片手一本で弾いてしまう。
自分の全力がまるで届かないことを思い知らされ、クレリックの表情に一瞬、絶望が横切る。その瞬間を縫うように、エリーゼは腕を閃かせた。長剣が的確にクレリックの胸を薙ぎ払い、軽々と湖まで吹っ飛ばす。
水柱が上がる頃には、エリーゼはもう背を向けていた。水の代わりに炎を噴き上げる噴水のような大燭台は、あたかも守る兵のいない王のごとき孤独を漂わせていた。相手ユニットが湖から這い上がってくるまで待つほどの義理は、さすがにエリーゼにもない。
画家が描いたように完璧な動作で、エリーゼが踏み込みから剣を放つ。大燭台から昇っていた炎がひと息にかき消され、その時点で勝敗が決する。
客席から大歓声が上がった。ほぼエリーゼひとりで成し遂げた完全勝利、観客の誰もが望んでいたようなヒロイックショウである。エリーゼが高く長剣を掲げ、切っ先に光を反射させてアピールすれば、さらに大きな歓声へと膨れ上がる。
クーファの右隣にいるメイドとお嬢さまも、英雄の活躍に目を丸くしていた。
「はわあ……っ! さすがはエリーゼさまですねえ!」
「う、うん。たしかにすごいんだけど……」
なんだか、エリーらしくない気がする——
そうつぶやかれたメリダの声は、圧倒的な声援に押し流されてどこにも届くことはなかった。とどまることのない熱狂のなか、クーファはおとがいに指を当てて思案する。
さすがにあれは、今のメリダがどうこうできるレベルを超えている。仮にカオスレートを100%まで引き上げられたところで、エリーゼの絶対的な防御力は斬り崩せまい。もし直接対決で敗れでもしたら、クライアントはそれをどう判断するだろうか……。
「見つけた! メリダさん、ちょっといいかしら?」
そのとき、客席の後方から声をかけられた。
振り向けば、いたいけな聖フリーデスウィーデの一年生たちが四人、居並んでいる。その先頭は、今回メリダが所属しているユニットのリーダー、ユフィーという少女だ。
「お食事中にごめんなさい。今の、見ていたでしょう?」
ちら、と視線を湖上ステージの方へと送る。他の三人のユニットメンバーもどこか落ち着かない様子だ。
それもさもありなん。なにせメリダを含む彼女らのユニットは、次の第三試合でのエリーゼの対戦相手なのである。
「これから対策会議(ミーティング)なんだけど、よかったらメリダさんも参加してもらえないかしら?」
「えっ、わ、わたしも、いいの……っ?」
メリダはびくっと肩を跳ねさせて、クーファの顔と、ユニットメンバーたちと、手のひらのサンドイッチをおろおろと見比べる。クーファが思わず微笑して、エイミーへと目配せしてやると、彼女はにっこりと頷き返してバスケットの蓋を閉じた。
「わたくしがご一緒いたします。参りましょう? お嬢さま」
「そ、そうね。先生、いってきますっ」
どこか浮ついた様子のメリダが立ち上がって、ユニットメンバーたちの輪に加わる。エイミーを伴い人波の向こうへ歩いていくのを、クーファは小さく手を振って見送る。
そうして彼女らの背中が見えなくなってから、「さて」と、反対側の席へ呼びかけた。
「どうしたんですか? ロゼッティさん。教え子の活躍を喜んであげないので?」
「…………」
いつも何かしらやかましい赤毛の女の子は、難しい顔でステージを見つめているばかりだった。湖上の小島ではエリーゼがなおも客席へアピールを続けており、彼女のユニットメンバーたちは少し離れた場所から、やや居心地悪そうに視線を散らしている。
ロゼッティは、「はあ」と、どこかやりきれない感じのため息を吐いた。
「たしかに誇らしいんだけど、あたしの悪い部分もきっちり伝わっちゃってるなあって」
「悪い部分?」
「……チームプレイがまったくできないってとこ」
そう言ったきりロゼッティは黙る。クーファも口を閉ざして、ステージへ視線を戻す。
するといくらもしないうちに、がうっ、とチワワみたいな勢いで吠えられた。
「いかにも『悩んでます』って空気なんだから話聞いてよう!」
「ああもう、面倒くさいひとですね。相談に乗ってほしいならそう言いなさい」
きゃんきゃんやかましいチワワ少女は、やがて拗ねたような口調で語りはじめた。
「……あたし正直、今回のお仕事、初めはあんまり気が乗らなかったんだよね。って言っても嫌なんじゃなくて、あたし最近ちょっとスランプ気味でさ。あたし自身まだまだなのに、それどころかちょっと伸び悩んでるのに、ひとのこと教えてる場合なのかなぁって」
「そう言えばあなた、ここ数カ月ステータスがほとんど伸びていませんでしたね」
「そうなの。——って、なんか詳しいね、あたしのこと」
きょとん、とした顔を向けられたので、クーファは咳払いでごまかす。
「職業柄。——それで?」
「ああうん、それでね。スランプの原因も分かってるの。それは聖都親衛隊(クレストレギオン)に入って、ひとりじゃなくチームで戦うようになったから。——今まであたしは、訓練でも試合でもいつもひとりだった。戦場に出れば、周りにいるのはぜんぶ敵。目に映る相手をとにかく片っ端から攻撃していればよかった。でも、ユニットで戦うっていうのはそうじゃない」
クーファは無言で頷いた。
前提として、人類の天敵たるランカンスロープは数が多く、人間より力が強い。騎兵団(ギルド)がユニットやレギオンでの、集団的な軍事行動を徹底するのはそのためだ。
しかしロゼッティは、身分こそ貴族に格上げされているものの、元は下層居住区の出身である。その経歴から偏見にさらされ、マナ能力者の養成校に通うこともできなかった。
当然、ユニットを組んでくれる相手などおらず、騎士訓練生最大の武芸大会である全校統一トーナメントには、たったひとりのユニットとして登録申請。まさかまさかのワンマン優勝を成し遂げたという逸話があるのだった。
一対多数で大立ち回りを演じる彼女の勇姿は、今でも社交場の語り草となっている。
「この前の任務で実戦に出たときさ……あたし間違って、味方に攻撃しちゃったんだ。怪我とかは全然たいしたことにならなかったんだけど、だからいいって問題じゃないよね。実は今回の仕事って、そのペナルティって意味も含まれてるの」
「そうだったんですか」
「レギオンリーダーから、『今のお前に背中は預けられない。一から勉強しなおしてこい』って叱られちゃった。——でもさ、ひどいと思わない? 今までだ〜れもあたしとユニット組んでくれなかったのに、いざ騎兵団(ギルド)に入ったら、今度はユニット組んでこなかったからダメだ〜って。そんなのあたしのせいじゃないっての!」
「親衛隊の方たちにだって罪はありませんよ」
「それはそうだけどさあ……っ!」
ぶつくさと唇を尖らせる仕草はメリダに似て、まるっきり子供のようだ。
「初めはそれでもちょっと楽しみにもしてたけど……エリーゼさまはあの通り、どんなこと考えてるのか、あたしのことどう思ってるのかよく分からないし。あたし、本当にあの子の先生としてふさわしいのかな? ダメな先生だって思われてたらどうしよう……」
「なるほど。どんな職場にも悩みはありますね」
やや感情を込めて同意すると、ロゼッティは餌に食いつく魚みたいに振り向いてきた。
「……ねえっ! あたしたちやっぱり仲良くしようよ! 苦労を分かち合おうよ!」
「お断りします」
「ええええっ!? なんでよう!」
不満でたまらないといったロゼッティをよそに、あくまで涼しい顔のクーファである。悪いがこちとら、本気で現世代最強の座を狙っている身。最有力の対抗馬とイチャコラやっている余裕はないのである。
そもそもよく考えたら、クーファがこうして分家の家庭教師と話し込んでいること自体、クライアントにしてみれば面白くない光景なのではなかろうか……。
今さらながらにそう思い至り、クーファはおそるおそる後方の貴賓席を盗み見る。
そして、眉をひそめた。
「いない……?」
第一試合までは確かにいたはずのその場所に、モルドリュー卿と、ついでにフェルグス公の姿がなかった。フェルグス公は、多忙の身である。メリダの第一試合の観戦と、軽い顔出しのみで引き上げていった可能性は考えられる。
しかし、モルドリュー卿は? メリダの周囲へ神経質に策謀を巡らせている彼が、彼女の残り試合をほったらかして帰ってゆくだろうか……。
先ほどフェルグス公と対峙したときに襲われた、メリダの位階に関する危機感がクーファを席から立ち上がらせる。すると、横からきゅっと袖を掴まれる感覚があった。
「え……どこか行くの?」
ロゼッティである。すがるような上目遣いが、「ひとりぼっちにしないでよう」と雄弁に物語っている。クーファはため息をつきつつ、彼女の頭にぽん、と自然に手を置いた。
「すぐ戻りますよ。——エイミーさんもね」
きょとん、と撫でられた頭を押さえるロゼッティを置いて、クーファは身を翻した。
さて、迅速な行動が必要である。クーファは観客の意識に残らないよう気配を殺し、かつ豹のようにしなやかな動きで、コロシアム内を探索し始めた。客席から出て通用口へ、多くの女生徒がひしめく控え室の前へ、がらんと人気のない入場口から退場口へと——
そしてその一角で、クーファはついに、目的の人物を発見した。
ガス燈の届かない物陰に、見覚えのある伝統上衣(ジュストコール)の裾が揺れている。
「……あの娘…………見……ば…………」
「しかし……殺…………きな…………?」
誰かと話をしているようだ。小声なのと、競技場からの歓声が相まってよく聞き取れない。もっと近づけばよいかとクーファは足を踏み出しかけて——ぴくっ、と硬直した。
「————」
目の前に、何者かの警戒網がある。これ以上踏み込んだら気配に勘付かれる。
——誰だ? モルドリュー卿の話し相手は?
クーファはよりいっそう慎重になりながら、壁に身を隠して相手の気配を探った。こうした技能はサムライ・クラスの専売特許だ。あたかも根を伸ばすかのように知覚領域を拡大し、相手の警戒網と接触しないよう、針の穴を通すような繊細さで意識の手を伸ばしていく。枯れ木のようなモルドリュー卿の背中に辿り着き、さらにその向こうにいる暗がりのなかの存在を——暴き出そうとした、寸前。
わっ、と。退場口から試合を終えた女生徒たちが溢れ出してきた。いつの間にか、試合時間の十五分が過ぎていたらしい。閑散としていたはずのホールに一気に喧騒が膨れ上がり、掴みかけていた謎の人物の気配が、指先からするりと遠ざかっていってしまう。
畳みかけるかのように、女生徒の何人かがクーファの存在に気がついた。
「あら! メリダさまの先生じゃありませんか?」
「本当ですわ! クーファさまですわ! ……何をしていらっしゃいますの?」
壁に張りついていた妙な体勢のクーファに、健康的な汗を浮かべた少女たちがきゃあきゃあと群がってくる。公爵家の使用人であり、聖フリーデスウィーデでは珍しい若い男性ということもあって、クーファはすでに一年生の間では有名になっていた。
「先生っ、わたくしにもぜひレッスンをお願いしたいですわ!」
「メリダさまがあんなにお強くなられたのは、やはりご指導の賜物なのでしょうか?」
「それより先生っ、ぜひわたくしのお茶会に出席してくださいませ!」
「お、お嬢さまがた、おそれながら……っ」
クーファがたじたじになると、周りを囲む十三歳の少女たちは、そっくりに笑った。
「「「クーファさま、お顔が真っ赤ですわ!」」」
こ、このマセガキどもっ。
ぐっと唇を引き結ぶクーファの姿がさも面白いと言わんばかりに、女生徒たちはくすくすと笑い合う。これだから集団をなした女の子というやつは始末に負えないのだ。武芸において百戦錬磨の達人であるクーファでさえ、完全に手玉に取られてしまっている。
諦めまじりに視線を巡らせて……クーファは「はあ」と肩を落とした。
言うまでもなくこのときには、密談を交わしていたモルドリュー卿と謎の人物は、件の暗がりから忽然と姿を消していたのだった。
† † †
その後、二年生の第一試合と第二試合、三年生の第一試合と第二試合が消化され、いよいよメリダとエリーゼのユニットがぶつかる一年生第三試合が幕を開けた。
しかし結局のところ——クーファが心配したような事態にはならず、試合そのものはわずか数十秒で決着してしまった。メリダとエリーゼが直接斬り結ぶどころか、試合中にほとんど剣戟が鳴り響くことすらなかったのである。
試合開始直後、今度はきちんとメリダを戦術に組み込んだユフィーが指示を出し、各メンバーを進軍させた。その一方、敵軍のメンバーが散らばったのを見計らうと、エリーゼは自軍の戦術を無視していきなり突撃した。妨害も、障害物も一切なりふり構わず一直線に戦場を突っ切って、またたく間にメリダ側のユニットリーダー・ユフィーと激突。
わずか一閃で彼女を退けると、そのままの速度で大燭台を制圧。観客がまだ試合開始に沸いているさなかに勝利を決めた。あまりにあっという間の出来事すぎて、メリダはもとより他の七人の選手たちも、ぽかんとそれを見ていることしかできなかった。
そうしてエリーゼは、今試合最短の十三秒という勝利記録を打ち立て、またもコロシアム中を包み込む大歓声を巻き起こしたのだった。
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Name:エリーゼ=アンジェル Class:パラディン
【HP】756 【MP】80
【攻撃力】68 【防御力】76 【敏捷力】67
【攻撃支援】0%〜25% 【防御支援】0%〜50% 【思念圧力】10%
【主なスキル/アビリティ】祝福Lv2/増幅炉Lv1/抗呪Lv1/ソル・ブランディス/リ・パトローナ
総合評価……【1‐B】
【聖騎士/パラディン】
自身の戦闘力、味方への支援能力、すべてにおいて高い水準を誇る万能クラス。
全クラス中唯一の回復アビリティ、《祝福》を宿すおかげで、継戦能力は随一。
失ったHPとMPを徐々に回復するというその効果は味方にも波及するため、パラディンがいればユニットの総合力は跳ね上がる。
適正[攻撃:A 防御:S 敏捷:A 特殊:− 攻撃支援:B 防御支援:S]
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「……お嬢さま。お目覚めになってくださいませ、お嬢さま」
毛布の上から体を揺さぶられて、少女の意識はゆっくりと眠りから引き上げられた。
まぶたがひどく重く、頭が痛む。先日の試合での疲労が色濃く残っていて、体中に鉛をつけられているかのようだ。あのときぶたれた痕が、まだずきずきと疼く。
かろうじて頭をもたげ、壁掛け時計を見やれば、針は五時を差していた。人々の一般的な活動時間帯には早過ぎて、まだ街燈でさえ静かに眠り続けているだろう。
それなのにベッドの脇に立つ誰かは、強く少女を揺り起こしてくるのだ。
「お嬢さま! いつまでもお眠りになっていてはいけませんよ。起きてくださいまし!」
「……はい」
少女は不承不承、上半身を起こした。すぐに毛布がはぎとられて、次いで伸ばされてきた節くれ立った腕が寝間着のボタンを外し、きびきびと着替えさせてくる。
白髪をシニヨンにまとめ上げ、カラスみたいに神経質そうなまなざしをした彼女は、メイド長のミセス・オセロー。聖フリーデスウィーデへの入学とともに、実家から少女の世話係統括として派遣されてきた熟練の使用人である。
少女が眠気に囚われてぼーっとしていると、あっという間に身支度が整えられてしまった。ミセス・オセローは最後に軽く、ぴしゃんと少女の頬をはたいて喝を入れると、老いを感じさせない整然とした足取りで扉へと向かう。
「先生もまだお休みになっていましたから、すぐ起こして参りましょう。朝のレッスンをお願いして、他の子たちに一層差をつけるのです。一分一秒も無駄にはできませんよ!」
ドアノブに手をかけて、ミセスは口調も鋭く言い放った。
「お返事はどうしましたか、エリーゼさま!」
「……はい。がんばります」
「よろしい! 旦那さま方もお喜びになるでしょう」
ばたん! と音高くドアを閉めて、ミセス・オセローは朝のけだるげな空気には似つかわしくない、気忙しい足音を響かせて去っていった。
もともと厳格なひとではあるが、最近はほとんど監視役のような様相である。しかし、彼女がここまで躍起になっている理由も明らかだ。先日の学期末公開試合で、エリーゼの従姉妹……メリダ=アンジェルが予想外の活躍をしたことが影響しているのだろう。
灯りの絞られている街は、当然空気も冷え込む。薄手のトレーニングウェアに着替えさせられたエリーゼは、ベッドの縁で自身の華奢な肩を抱いた。
「……さむい」
吐き出した息は白く溶けて、どこにも届かない。
† † †
エリーゼの屋敷は、カーディナルズ学教区でもっとも瀟洒な高級住宅街に建っている。屋敷地下の修練堂で朝のトレーニングをこなし、お風呂に入ってしっかりと汚れを落としたあとは、ようやくひと息つける朝食の時間である。
とはいえ、食堂の両端にはずらりとメイドたちが整列していて、広すぎる長テーブルにたったふたりだけで食事をするのだ。幼い頃から慣れっこのエリーゼはともかく、平民の生まれだという家庭教師のロゼッティはいつも居心地悪そうにしている。
エリーゼの対席でロゼッティが「ふああ……っ」と大あくびをすれば、すぐにミセス・オセローの叱責が飛んだ。
「先生! なんですかそのだらしない仕草は!」
「うひゃあっ! す、すみません! でも眠くて……」
「先生がそんなことでどうしますか! きちんと睡眠時間は取っていただいているはずですよ。先生自らがお嬢さまに模範を示していただかなくては困ります!」
グラスに口をつけて顔を隠しながら、ロゼッティはおずおずと反論した。
「……あのオセローさん。前も言ったんですけど、やみくもに練習時間を増やせばいいってもんじゃないと思うんです。特にエリーゼさまは成長期だから、あんまり無茶をさせると体を壊して取り返しがつかないことに……」
「まあっ! 先生にはやる気がございませんの!?」
食器がびん、と震えるほどの金切り声で、ミセス・オセローは叫んだ。
「成長期だからこそ、やればやるだけ体が強くなるのです。違いますか? 努力は決して人を裏切りません。苦痛、苦労こそが成功の糧! わたくしはそれをよく知っています。その証拠にほら……先日の公開試合はすばらしい出来だったではありませんか!」
ぬるり、と蛇のような仕草で、ミセス・オセローはエリーゼの肩を撫でた。
「ねえお嬢さま、試合の結果をご報告したら、旦那さま方もとてもお喜びでしたわ。本家のフェルグスさまも、エリーゼさまの勇姿に鼻を明かされたことでしょう! オホホ!」
「……はい。うれしいです」
「ですが、反省すべき点があるのも分かっておいでですわね? なぜ、第三試合ではああも決着を急がれたのでしょう。もっとひとりひとり敵ユニットの子たちを始末して、最後に残されたメリダさまを観客の目の前でひざまずかせて差し上げれば……どちらがアンジェル家の正統な後継者に相応しいものか、誰の目にも明らかだったというのに!!」
「…………」
口数の少ないエリーゼの代わりに、ロゼッティがおずおずと手のひらを上げる。
「あのぉ、ああいうのもちょっとやめた方がいいと思うんですけど〜……」
「ああいうの、と申されますと?」
「だ、だから試合の日も言ったじゃないですか。ステージの上で客席にアピールみたいなことさせたり、普通に勝てるのにわざわざ全員やっつけて力を誇示するみたいな……。学校の子たちからしたら、ちょっと感じ悪いんじゃないかなあ……」
「おっしゃってる意味が分かりかねますわね」
ミセス・オセローは不遜に「ふん」と鼻を鳴らす。
「誇示できるだけの力と立場があるのですから、当然ですわ。お嬢さまが他の子たちより優れているのは事実なのですから、それを知らしめてなんの問題があるのです。あの場には騎兵団(ギルド)の方たちも大勢観えられていましたのよ。彼らに積極的に売り込んでいかなくてどうしますか!」
「そ、そりゃオセローさんは鼻が高いかもしれないですけど、エリーゼさまには学校での立場ってものが……」
「学校での立場! そんなものより大事なことがエリーゼさまにはあるのです!!」
ピシャン! と、ミセス・オセローのかみなりが落ちるのはこれで何度目だろうか。
エリーゼの生まれたアンジェル家の分家にとって、本家の娘メリダの不調は福音に他ならなかった。マナを覚醒させられずにいる彼女を貶められるだけ貶め、一方でエリーゼをパラディンとして華々しく成長させられれば、両家の力関係をひっくり返すことも可能だ……というのが、ミセス・オセローを先鋒とした革新派の主張である。
だからこそ先日の公開試合において、彼女らは多大な衝撃に見舞われた。あの無能才女と呼ばれていたメリダが突如としてマナを発現し、一年生とは思えぬ立ち回りで格上の敵を圧倒。数千人の観客の目を釘付けにしたまま、自ユニットを勝利へと導いたのだ。
その光景がよほど面白くなかったのか、試合前に泡を食って駆けつけてきたミセス・オセローはエリーゼに命じた。メリダ以上に印象的な試合を演出して、観客のイメージを払拭せよと。試合前後のアピールと敵メンバー全撃破という英雄的行動で、メリダの活躍を上塗りしてやるのだと。
彼女にそう強制されては、エリーゼも言うとおりにするしかない。ミセス・オセローの独裁は、屋敷のメイドたちも窮屈に感じているようだ。甲高い声で作業指示と説教を繰り返す彼女に怯えつつも、誰も何も言えない。私語は極力禁じられているのだ。
置物のように佇むメイドたちに見守られながら、食卓の向こうからロゼッティが笑いかけてきた。無理して作っているのがありありと分かる、ぎこちない表情である。
「きょ、今日の朝ごはんは一段とおいしいね!」
「え……」
エリーゼは呆けた声を返すしかない。正直、ソーセージも卵もキッシュも、普段の朝食とどこが違うのかさっぱり分からなかったからだ。
こちらの反応が芳しくなかったからか、ロゼッティは続いてスコーンを取り上げた。
「え、えと、このハニーストロベリーのジャムも最高!」
「……先生、そのジャムはサワーチェリー。ストロベリーはこっち」
エリーゼは淡々と訂正して、手もとにあったオレンジ色の瓶を取り上げる。果肉に蜜が溶けこんでいるためよく間違われるのだ。「あうっ……」としょげたように肩を落とす家庭教師の姿に、エリーゼは無表情で沈黙を返すしかない。
公開試合が終わったあの日から、ロゼッティはたびたびこんな調子だった。なにかに挑戦しては玉砕している、そんなもどかしさがこちらにまで伝わってくる。
もしや、エリーゼがいつもつまらなそうな表情しかできないから気を使っているのだろうか。あるいは退屈の限度が越えて、誰でもいいから話し相手を求めているのだろうか。
それとも——エリーゼの家庭教師になったことを、今に後悔しているのかもしれない。
「ミセス・オセロー。聖フリーデスウィーデから衣装が届きました」
「まあ、お祭りのですわね」
朝食を終えた頃、メイドのひとりが箱包みを運んできた。いつもは無表情を保っているエリーゼの瞳が、その言葉を聞いた瞬間にほんの少し、見開かれる。
食後のお茶を飲んでいたロゼッティが、テーブルに身を乗り出してくる。
「お祭りの衣装ってなに?」
「サークレット・ナイトで使う運び手の衣装。学院からの参加者はあれを着るの」
「——まあっ! なんですかこのみすぼらしい布切れは!」
包みを開けていたミセス・オセローがヒステリックな声を上げた。
学院から送られてきた衣装は、ふんわりと裾の膨らんだ純白のドレスと、硝子細工のように繊細な冠だった。長いスカートの代わりに上半身の露出が多いが、聖フリーデスウィーデの乙女たちがまとえば森の妖精のような可憐さを演出するだろう。
しかしよく目を凝らせば、ところどころ経年による劣化が見受けられる。ミセス・オセローはそれが気に入らないようだ。衣装を一瞥するやすぐ包みに戻して、
「こんなもの、とてもエリーゼさまには着させられないわ。お祭りまでに新しい衣装を用意しましょう。布を取り寄せてお針子を呼んでちょうだい」
「えっ」
思わず声を上げてしまったのはエリーゼだ。ミセス・オセローの瞳がきらん、と光る。
「どうかなさいまして? お嬢さま」
「……いえ」
目を伏せてしまったエリーゼの代わりに、ロゼッティが控え目に意見を述べる。
「あの〜、ひとりだけ別の格好なんてして行ったら悪目立ちするどころの話じゃないと思うんですけど……」
「結構ではありませんか。他の子たちとは違うのだということを分かりやすく示すことができますわ。さながら配下を引き連れる妖精の女王! オホホッ、すばらしい!」
愉快そうに笑うと、ミセス・オセローは衣装の包みをメイドにつき返した。
「適当な理由をつけて学院に送り返しておいてちょうだい」
「……はい、ミセス・オセロー」
メイドは複雑そうな顔をしながらも頷き、包みを手に退室していく。
エリーゼはテーブルを見つめたまま、ドアが固く閉まる音を聞いていた。
「……ごめんね、リタ」
ささやくような言葉は、やっぱり誰にも届かない。
† † †
「とぉおおりゃああ〜っ! エリーに届けええ!」
「その意気ですよ、お嬢さま! もう一本!」
もはや恒例となったマナの衝突音が、メリダの屋敷の広場にこだましていた。
終業式を終えて長期休暇に入り、家庭教師のクーファとのトレーニングにいっそう専念できるようになった今日、メリダの振るう木刀には一段と気合が込められていた。
理由はもちろん、休暇前に開催された公開試合。その第三試合で突きつけられた、従姉妹のエリーゼ=アンジェルとの圧倒的な実力差である。ネルヴァに念願の初勝利を成し遂げ、大きな一歩を踏み出したといっても、到底たるんでいられるような心境ではない。
休暇中のトレーニングメニューは、クーファが完璧なプランを立ててくれている。休暇が明けて学院が再開したとき、さらにレベルアップした自分を見せつけてやる。エリーゼが三歩進んでいる間に、こちらは四歩も五歩も進んで少しずつ差を縮めてやるのだ!
クーファとの打ち稽古にも、俄然熱が入ろうというものである。
メリダより頭二つも高い完璧万能な家庭教師は、相変わらずの涼しい立ち回りである。とはいえメリダのような初級者であっても、能力者同士の戦闘は目にも留まらぬ速さだ。
数合刀をぶつけ合うと、ぱぱぱぱっと断続的な閃光が瞬く。直後、クーファは刀を頭上に振り上げた。メリダはぴくっと反応したのち、斜め前方に跳ぶ。ほぼ同時に放たれてきたクーファの足払いが、鋭く空を切った。
「ほう!」
感心したような驚いたような声が、クーファの口から漏れた。
メリダはすぐさま刀を切り返したが、これはあっさり受け止められる。しかし刀を合わせたまま制止するクーファは、少し嬉しそうに口の端を緩めていた。
「よく今のフェイントに気がつかれましたね、お嬢さま」
「えへへっ! 刀を上げたとき先生のマナが少し下半身に流れたような気がして、もしかしたらって思ってました!」
「ほう……ではその調子でもう一本!」
互いに刀を弾き、距離を離して仕切り直す。
再び数合の打ち合い。クーファがぶんっと木刀を引き絞り、しかし彼のマナは別の場所を意識している。フェイントを見破ったメリダは、すぐさま上に跳ぶ。
しかし、いつまで経っても足払いが飛んでこない。
あれ? と顔を上げれば、そこには変わらず木刀を振り上げているクーファの姿があって……
ぽかんっ! と無防備なメリダの脳天に、一撃が加えられた。
視界にお星さまが飛び散り、たまらず木刀を取り落とす。うずくまって痛みに耐える。
「……せ、先生ずる〜い!!」
「フェイントのフェイントです。まだまだ修行が足りませんね」
メリダが涙目で抗議しても、相変わらずしれっとしている鬼畜な家庭教師だった。
† † †
「じゃじゃ〜ん! 先生っ、これ見てください!」
レッスンの合い間の休憩中。広場の隅に広げたティーテーブルでお茶を飲んでいるクーファへ、メリダはあるものを見せびらかせた。
先ほど学院から送られてきた、ふんわりと裾の膨らんだ純白のドレスである。
「え、オレへのプレゼントですか? 嬉しいですけど女物のドレスはちょっと……」
「もうっ、違います! サークレット・ナイトの衣装です!」
すっとぼけた返答をする家庭教師に、メリダはぷんすかと頬を膨らませた。
サークレット・ナイトとは、夏の初めに全街区(キャンベル)で催されているお祭りである。この日は貴族や平民ばかりか下層労働者階級までもが街に集い、太陽の血(ネクタル)のかがり火を掲げ、花火を高らかに打ち上げる。人々は騎士や天使、あるいは化け物の仮装をして街を練り歩き、ランカンスロープを模した人形を一箇所に集めて盛大なキャンプファイヤーを起こす。
都市の平和を願ったお祭りなのだと訴えると、クーファはカップを持ったまま頷いた。
「ええ、もちろん存じていますよ。毎年この時期になるとやかましい火の玉がぼんばかぼんばか。こっちが泥臭く仕事している傍らでカップルどもがいちゃいちゃいちゃいちゃ。そんな浮かれたお祭りがオレの心を深くかき乱す」
「せ、先生? 何か思うところが?」
「お気になさらず」
言って、クーファは優雅にカップを傾ける。
いったいどういう育ちをしてきたのか、彼はあまり自分のことを話してくれないが、まるで「世間のイベントなど自分には無縁だ」とでも言わんばかりの態度である。
「それでお嬢さま、そのサークレット・ナイトの衣装というのはなんです?」
「あっ、はい。お祭りにはパレードがあるのはご存知ですか? ランカンスロープのでっかい人形を街じゅう引き回して、最後に広場のかがり火に投げ入れるんです。そのパレードの何人かを、聖フリーデスウィーデの生徒が任されることになってるんです」
その栄誉あるお役目には、もちろん人数制限がある。その年の成績優秀な生徒が学年ごとに選抜されるのだ。何を隠そう、学期末に行われた公開試合は、そのパレードに参加できるメンバーを審査するための場でもあったのである。
そして光栄なことに、試合で多くの観客を驚かせる活躍をしてみせたメリダにも、その枠が巡ってきたのだ。
「衣装をよく見てください、先生。直してあるけど、ちょっと古くなってるでしょう?」
「本当だ。だいぶ使い込まれていますね」
「これは、学院ができた当時からずっとずっと受け継がれてきたものなんです。パレードに参加できるのも名誉なことだし、学院の代表としてその場に立つんだもの。この衣装を着てサークレット・ナイトに出ることが、学院に通うみんなの憧れなんです」
「なるほど。歴代の勇士の魂が込められているというわけですか」
クーファはメリダから衣装を受け取り、表面をさらりと撫でる。繕いの跡が薄く見えるスカートの縁をつまみ、どこか眩しそうに目を眇める。
「……実はね? 幼年学校の頃にエリーと約束したんです」
ぽつりとメリダが零した言葉に、クーファは首を傾けた。
「約束、ですか? そういえば、試合の前にもそんなことを仰っていましたね」
「はい。昔、あの子と一緒にサークレット・ナイトのパレードを見たときに。聖フリーデスウィーデの先輩方が、妖精みたいにお美しい姿で手を振ってるのを見たときに……『わたしたちもいつかあの衣装を着られたらいいね』『一緒にパレードに出ようね』って」
胸が締めつけられているかのように、メリダはきゅっと手のひらを握る。
「……わたしはそれから落ちこぼれちゃったから、もう絶対に約束守れないと思ってた。エリーがパレードに出てるのを外から眺めてるしかできないんだって諦めてた。でも今こうして、あの衣装がわたしの物としてここにあるなんて……夢みたい」
少し涙混じりになったメリダは、先生のおかげです、と最後に言い添える。
クーファは心から、微笑みを以て祝福した。
「約束が守れてよかったですね」
「はいっ!」
元気良く返事をしてから、メリダははたと、顔を熱くしてうつむいた。
「あの、先生……先生はもしかしたら、お祭りとかあんまり好きじゃないのかもしれないんですけど……」
「え、そんなことは。どうかされましたか?」
「いえ、その……っ。せ、先生さえよろしければ、キャンプファイヤーのときにわたしと踊っていただけたら嬉しいなって……!」
「あ……」
クーファはつい、気まずそうな声を上げてしまった。途端、メリダの体が硬く強張る。
「……申し訳ありません、お嬢さま。エイミーさんにはすでにお話してあるのですが、実はこれから自宅の荷物を取りに、いちど聖王区に戻らなければならないのです」
「そっ、そうだったんですか……」
「ですが、お祭りは三日続くでしょう? 明日には帰ってこられますから、そのときにはぜひ、オレと踊っていただけますか? ——もちろん、そのときお嬢さまの手が他の殿方に引かれていなければ、ですけれど」
冗談めかして口にすれば、メリダは一転、魅力的な笑顔を咲かせてくれた。
「ふふっ、わたしの手はずっと先生のために空けておきます!」
「おや、光栄ですね」
こちらもにっこりと笑みを返せば、見つめ合う少女の頬がどうしてか、ぽう、ととろけたように赤くなる。クーファの教え子は本当に、彩り鮮やかな感情を見せてくれる。
かと思えば、今度ははたと、なにか思い立ったように身を乗り出してくるのだ。
「あの、先生っ。休憩のお時間、もうちょっといただいてもいいですかっ?」
「どうかされましたか?」
「わたし今、すぐに着替えてきます! この衣装、先生に一番に見てもらいたいの!」
クーファからサークレット・ナイトの衣装を引き取ると、メリダはぱたぱたと屋敷へ駆け戻っていく。「待っててくださいねー!」と声を残して、扉の向こうへ消えた。きっとエイミーを呼び出して、大慌てで着付けを済ませて出てくることだろう。
やれやれといった調子で苦笑しつつ、クーファはティーカップをソーサーへと戻した。
そして入れ替わりに、ごそりと、テーブルの下から取り出した物品がある。
カメラだった。
「見てほしいと仰せになったのはお嬢さまの方ですからね」
屋敷のメイドたちが「鬼畜」と呼んでやまない笑顔で、きゅ、きゅ、きゅ、とレンズを磨きはじめるクーファであった。
その後、お嬢さまの晴れ姿に興奮しきりのエイミーと結託し、ちょっぴりセクシーなドレス仕様になったメリダが恥ずかしがるのも構わず三百六十度に高低差を交え、ふたりして思う存分シャッターを切りまくったのは——もはや言うまでもない。
† † †
時刻が十七時を回り、いよいよサークレット・ナイトの開催が近づいてきた。
駅へと向かったクーファを見送り、メイドたちに手伝ってもらって伝統ドレスに着替えたメリダは、通達されていた学院生徒の集合場所へと向かった。
カーディナルズ学教区の街並みには、建物の隙間を縫うようにたくさんの小道が張り巡らされている。小道の集合地点にはたいてい水路の集積した広場があり、近所の住人たちの交流所として親しまれているのだ。
そんな広場のひとつ、パレードの行われるチャイルズ大通りにほど近い空き地が、聖フリーデスウィーデの生徒たちの待ち合わせ場所だった。集合時間の三十分前にメリダが向かうと、すでにほとんどのパレード参加者が集まっていた。みんなお揃いの純白ドレスを身にまとい、大胆かつ神秘的な己の姿に心を浮き立たせている様子だ。
すでに表通りには人が溢れかえっていた。まもなくあの大観衆のなかを学院の代表として行進するのかと思うと、否が応にも鼓動が早まる。
「メリダさん、こっちよ!」
同じクラスのグループが手招きしていた。マナの使えなかった以前とは違い、もう自分と彼女らは対等の立場である。メリダは気後れすることなく彼女らの輪に加わった。
期待とちょっぴりの不安で頬を紅潮させ、クラスメイトとおしゃべりしながらパレードの開始時間を待つことしばし。残りのパレード参加者も続々と集合してきて、やがて「わあっ!」とひときわ大きな歓声が上がった。
何事かと視線を向ければ、広場の一角に白い妖精たちの人だかりができていた。中心に立っている妖精の女王を取り囲んで、きゃあきゃあと誉め立てているのだ。
「まあまあっ、なんてきらびやかなお召し物でしょう!」
「エリーゼさま! その衣装はどうされましたの!?」
「……家の人が用意してくれた」
人波の向こうに従姉妹の姿が見えて、メリダは「え……」と思わず声を漏らした。
エリーゼは、聖フリーデスウィーデの伝統ドレスを着てこなかったのだ。デザインはほぼ同じだが、素材の高級感がひと目で分かる。光の当たり具合によって緋色に見えるフレイムバードの織物に、冠に嵌めこまれているのは炎精の発火石だ。
エリーゼ自身の浮世離れした雰囲気とあいまって、画一の衣装をまとう他の生徒たちがあっという間に引き立て役になってしまった。舞台の主役を崇めるように周りに群がる生徒たちもいたが、苦々しげに距離を取る子たちも大勢いた。
メリダの近くにいる二年生の先輩たちが、エリーゼの方を冷たい目で睨んでいる。
「……どう思われます? あれ」
「気に入らないわね」
ふん、と。先輩は心底軽蔑したように吐き捨てた。
「私たちと同じ格好なんかじゃ嫌ってことでしょう? 騎士公爵家だかなんだか知らないけど、他人のことを端役としか思ってないのよ。この衣装は先輩たちから受け継いだ大切なものだっていうのに、それさえどうだっていいんだわ。……信じられない」
同様の視線があちこちからエリーゼへと向けられている。
先輩後輩という立場さえなければ、メリダは「違う!」と弁明したかった。エリーゼはそんな自分勝手を言う子じゃない。昔からこの衣装を着ることをとても楽しみにしていたんだから。きっと何か、どうしても着てこられなかった理由が……。
そのとき、ふっと、エリーゼが生徒たちの輪から外れた。
「あら? エリーゼさまどちらへ?」
「……冠がすこし痛い。付け直してくる」
ぽつんと言い残して、彼女は路地のひとつに入っていってしまう。それを見送る先輩たちの視線は、やはり厳しい。
「そのまま戻ってこなければいいのに」
「……っ!」
いても立ってもいられなくなって、メリダはあとを追うように駆け出した。
「メリダさんっ、そろそろ出番よ!?」
「え、えっと、すぐ戻るからー!」
クラスメイトたちに言い置いて、エリーゼの入っていった路地へ駆け込む。
街の住民はほとんど出払っているし、こんな人気のない路地へわざわざ足を向ける観光客もいない。祭りの喧騒は遠く、周囲は取り残されたように静かだ。
だから、エリーゼのことはすぐに見つけられた。声が聞こえたのだ。
「……ぅっ……ふっ、う……っ! うぅっ…………!」
泣き声である。メリダははっとなって、思わず足音を殺した。
先ほどの集合場所より、さらに奥まった路地。そこにも小ぶりな広場があって、一本の樹木が植えられている。こんこんと水の湧く彫刻を前に、エリーゼが座り込んでいた。
顔を覆った手のひらの隙間から、ぽろぽろと涙が零れている。
「着たかった……着たかったのにぃ……っ。わたしだけこんなのやだぁ……! わたしだって着たかった……着たかったよぉ……っ!」
「……っ!!」
物陰から見つめるメリダの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
エリーゼを突き放して、距離を置いてしまって以来、彼女があんなふうに泣いているのを見たことがない。学院でたまに顔を合わせる彼女はいつも超然とした無表情で、何を考えているのか分からなかったから……こちらも彼女が何を思っているのか、知ろうともしていなかった。
ああして弱々しく泣いている姿は昔のままだ。エリーゼはみんなの人気者だけど、特定の誰かと仲良くしている場面をメリダは見たことがない。もしかしたらメリダと疎遠になってからずっと、人目から隠れてはああして泣いていたのだろうか……。
メリダが無意識に足を踏み出すと、衣装の飾りがしゃらん、と音を立てた。
その気配に、エリーゼもびくっと顔を上げる。
泣き腫らした蒼い瞳がメリダの姿を映して、もうひと粒、大きな涙が溢れる。
「……リ、タ?」
「エ、エリー……あの……」
メリダがもう一歩、彼女に歩み寄ろうとした。その寸前だった。
どんっ、と後ろから誰かに追突された。行列で押されるみたいに。
「ねえ、もうちょっと詰めてもらえる?」
「あっ、ごめんなさ——」
とっさに謝りかけて、メリダはぎょっとなった。
後ろに立っていた男の、全身に化け物の仮装をまとった奇妙な容姿に、ではない。
同じような仮装をした数人が路地のあちこちから同時に現れて、出口を塞いだからだ。
「え、な、なにっ……なによ!」
あれよあれよと、メリダはエリーゼとともに広場の中央に追い込まれてしまう。仮装した彼らはふたりを逃がさないように取り囲んできた。どう考えても尋常ではない。
「な、なによ! なんなのよあんたたち!」
メリダが負けじと声を張り上げれば、先ほどぶつかってきた男が、顔を覆っていたフードに手をかけた。
「なにって……白馬の王子さまに見える?」
ふぁさっとフードが払われて、メリダと、背後にいるエリーゼは絶句した。
青年のシルエットである。しかし、人間と呼ぶにはあまりに異形。全身の皮膚が荒野のようにひび割れており、顔の下半分までを包帯でがんじがらめに保護しているのだ。
まるでそうしなければ、今にも内側の腐肉が崩れ落ちてしまうかのように——
相手の正体を直感的に悟り、メリダの足が無意識に二、三歩あと退る。
「ランカンスロ——!!」
叫びかけた寸前、包帯男の手がさっと眼前に掲げられた。
たったそれだけのことなのに、メリダは急速な眠気に囚われた。足もとがおぼつかなくなり、すぐに地面に倒れる。声を上げるどころか、指一本動かすことすら困難になる。
「リタ! リタ……っ!!」
従姉妹の悲痛な声を最後に、意識を失った。