『あ、あのっ……ごめんね、私、男の子とこういうことするの、初めてで……!』
ひどく緊張したような、上擦った声が、パソコンのスピーカーから発せられる。その声を聞きながら、小田桐一真(おだぎりかずま)は、ごくりと唾を飲み込んだ。
デスクトップに表示されているのは、見慣れたエロゲのプレイ画面。丁度イベントが始まったところで、ウィンドウにはヒロインを描いたCGが映っている。
夕焼けに染まる部室。注ぐ夕陽に負けないぐらい頬を赤くして、制服姿のヒロインがじっと主人公を見つめる。
一真の喉が、再び音を鳴らす。
けれどそれは、画面の向こうのヒロインの姿に、心動かされたからではなかった。
「——小田桐くん」
小さな、それでいてよく通る澄んだ声が、一真の名を呼ぶ。パソコンから再生される音声ではない、じかに耳に届く三次元の肉声。
緊張に鼓動を逸らせながら、一真はゆっくりと、声のしたほうに顔を向ける。
そこにいたのは、一人の少女、
いや、美少女だった。
艶やかに背を流れ落ちる黒髪。白い素肌に華奢な姿態。こちらを見る瞳はびっくりするほど綺麗に澄んでいて、窓からの夕陽を受けてきらきらと輝いて見える。
彼女の名は、水崎萌香(みさきほのか)。
この緑坂(みどりざか)学園が誇る優等生にして、全校男子の憧れの的。美しくも凛々しいクールビューティー。そこらの男子では言葉を交わすことも叶わない、高嶺の花。
そして——一真の、生まれて初めての、『彼女』。
「あ、あの……ごめんなさい、私、男の子とこういうことをするのは、初めてで……」
夕焼けに染まる部室。注ぐ夕陽に負けないぐらい頬を赤くして、制服姿の萌香がじっと一真を見つめる。
まるで、ゲームの焼き直しのようなシチュエーション。口にされる台詞も、ゲーム中のそれと全く同じものだ。
『だから、う、上手く……できないかもしれないけど……頑張るから』
オートモードに設定されたゲームから、また音声が流れ出す。
同時に、画面に表示されていたCGに変化が生まれた。
夕陽を背景に佇むヒロイン。その服が胸元まではだけて、愛らしいデザインの下着が露わになる。
応じるように、萌香もまた、自身の制服に手を掛けた。
「だから……う、上手く……できないかもしれないけど……」
萌香の唇が小さく動いて、ヒロインの台詞をなぞる。その声は緊張と羞恥に震え、一真を見上げる瞳はかすかに潤んでいた。
そして、意を決したように、萌香はきゅっとブラウスを握る手に力を込め、
「が……がんばりゅっ——!」
噛んだ。
「…………」
「……えっと、み、水崎さん?」
何やら凄まじく落ち込んだ様子で項垂れる萌香に、おっかなびっくり声を掛ける。
「…………ごめんなさい」
「そっ、そんなに落ち込むことないよ! 途中まではすごく再現できてたと思うし!」
「……本当?」
「うん、本当本当! だから、その、元気出して! ね?」
顔を上げ、窺うように一真を見上げてくる萌香。力一杯頷き返しながら、一真はなんとも言えない脱力感に襲われる。
(何やってんだろう、俺……)
付き合い始めたばかりの彼女と、放課後の部室で二人きり。本当なら最高に幸せなシチュエーションのはずなのに、どうして自分はその彼女と、『エロゲごっこ』なんてしているのだろう。
確かに、このエロゲは一真の私物だし、最近やった中では五本の指に入るくらい好きなゲームではあるのだけれど。
「……ありがとう、小田桐くん」
「お、お礼なんていいよ。それより、今日はこの辺にして——」
「待って。帰る前に、もう一度だけ、挑戦させて」
「いや、えっと……で、でも、今日はもう遅いし、続きはまた明日とか今度とかでも……」
「もう一度くらいなら、時間はあるわ。やらせて。お願い。今度はきっと、最後までゲームの通りにやってみせるから」
——だって私は、小田桐くんの、彼女だから。
ぐっと両手を握り締め、萌香はやる気に満ちた瞳で一真を見つめる。さっきまであんなに恥ずかしがっていたのに、というか今も恥ずかしそうなのに、この熱意は一体どこからくるのだろう。
「ええと……水崎さんがそう言うなら……」
萌香の勢いに押されて、一真は躊躇いがちに頷く。
何故、一真達が二人でエロゲなんてやっているのか。何故、萌香がエロゲのヒロインになりきろうとしているのか。
そもそもどうして、高嶺の花であるはずの萌香と、一真みたいな平凡な男子が付き合うことになったのか。
——全ての始まりは数日前。
夏休みが明けて間もない、九月のある日のことだった。
(ねみぃ……)
寝不足でだるい体を引きずって、一真はやっとの思いで、自身の教室に辿り着いた。
一—C。扉を開けると、この半年ですっかり見慣れた教室の風景が目に飛び込んでくる。
雑談に興じるクラスメイトの間を縫い、自身の座席へ。一真の席はクラスの一番奥、窓際の最後列だ。
「はー……」
半ば崩れ落ちるようにして、椅子に腰を下ろす。
夏休みが明けて早くも一週間。だが、一真は未だに、休みの間に崩れまくった生活リズムを正すことができないでいた。
何しろ、夏休み中はずっと、徹夜でエロゲ三昧の日々だったのだ。こうしている今も、気を抜くと寝落ちてしまいそうになる。
いや、いっそこのままホームルームまで寝てしまおうか。どうせ教室にいたって、親しく話をするような友達もいないのだし——。
「えいっ」
ぷすっ。
「……」
「うりうりうりうりー」
ぷすぷすぷすぷすっ、と猛烈な勢いで頬をつついてくる指を、ぞんざいに払いのける。
「あっち行ってろ」と言ったつもりだったが、悲しいかな、相手のほうはそう受け取ってくれなかったらしい。指が離れた代わりに、机の傍らに立っていた人影が、てててっと正面に移動してくる。
「もー、なんで無視すんの! 人がおはようって言ってるのに」
目元のぱっちりとした、華やかで可愛らしい顔立ちの少女だった。動きに合わせて軽やかに揺れる髪は明るい茶髪。スカート丈は校則ガン無視の短さで、『あたし女子高生です』と、全身で主張するかのような出で立ちである。
しかし、何よりも目を引くのは、制服の胸元を押し上げる二つの膨らみだ。その大きさたるや、ブラウスのボタンが今にもはち切れんばかり。
四ノ宮瑠璃(しのみやるり)。今ではすっかりJK(こんなん)になってしまったが、こんなんでも一応、一真の幼馴染だ。
コミュ力が高くてリア充で、男子にも女子にも好かれていて、誰もが認めるクラスの中心人物で。
そんな無敵のポジションを確立している癖に、冴えないオタクの一真にも昔と同じ気安さで話し掛けてくる、そんな『女の子(幼馴染)』。
「言ってないだろ。うりうり鳴いてただけじゃないか」
「だーから、それがあたし的には『おはよう』って意味だったんだって」
「何語だよ……」
「んー? あたし語? なんつって」
自分の言葉を自分で面白がるように、瑠璃はへにゃっと笑った。メイクでばっちり決めた小顔に、明るい笑顔がより一層の華を添える。
「それよりさー。ねーねー一真ー、なーんかあたしに言いたいこと、なーい?」
サイドで結わえた髪、そして豊かなバストを惜しげもなく揺らしながら、瑠璃が一真の顔を覗き込んでくる。
距離の近さに少しだけどきりとしながらも、一真は「何言ってんだこいつ」と、わけのわからない幼馴染に怪訝な視線を返した。
「言いたいことなぁ……別にないけど。しいて言うなら、“眠いからそっとしといてください”ぐらい」
「そーゆーんじゃなくて! ほーらー、よく見てってばー! なーんか気が付かない?」
「よく見ろって言われても……」
言われるままによく見てみるが、目の前にあるのはどう見ても、いつもと変わらない幼馴染の姿である。小首を傾げたあざとい仕草も、動くたびにたゆんたぷんと揺れる胸の膨らみも、羽根飾りのような髪型もいつも通り——。
「あ」
気が付いた。いつも通りじゃなかったところ。
「なんだ。四ノ宮、髪型変えたんだな」
「もー! 気付くのおーそーいー! 髪型違うのなんか見たらわかんじゃん!」
折角正解したのに、瑠璃は満足するどころか、頬を膨らませてぷりぷりと怒り出した。
「なんだよ……。いいだろ、ちゃんと気が付いたんだから」
「ダメ! っていうか、まだ言うことあるでしょ!」
「……ないって」
ぼそぼそと呟き、目を泳がす。急に気まずくなったのは、求められていることがわからなかったからではなく、むしろその逆だ。
しかし、瑠璃は見逃してはくれなかった。回り込むように一真の顔を覗き込み、にーっと得意げな笑みを浮かべる。
「ね? ね? この髪さ、似合ってるでしょ? あたし可愛いでしょ?」
「あー……えっと、まあ……」
「可愛いでしょー?」
ここぞとばかりに、上目遣いでポージング。その手には乗るものかと、一真は抵抗の意思表示も兼ねて顔ごと目を逸らす。
が、
「ねー、可愛いっしょ?」
「……」
「かーわーいーいーでーしょー?」
「…………」
「ねーってば!」
「わかった! わかった!! 可愛い! 可愛いよお前は! だからそれ以上顔を近付けて来るなっ!」
口に出す勇気はないが、軽く身を屈めるような格好をしている所為で、ブラウスの胸元から谷間が思いっ切り見えているのだ。口に出す勇気はないが。
「——えへへっ。でしょー? ありがと、一真」
乱暴に押し退けられたにもかかわらず、瑠璃はやたらと嬉しそうだった。ほかほかのホットケーキの上で溶け出すアイスのような、幸せに蕩けた顔。
(ホントこいつ、褒められるとめちゃくちゃ嬉しそうな顔するよな)
幼い頃から、家族を始めとする周囲の人間にちやほやされて育った瑠璃だ。『可愛い』なんて言葉、それこそ、生まれた時から散々言われてきているだろうに。
それでも、瑠璃は事あるごとに一真にそれを言わせたがるし、言ってやったらやったで、こっちがびっくりするくらい嬉しそうな顔を見せる。
そんな風に律儀に喜ばれるとこっちも悪い気はしなくて、ついつい甘やかしてしまうわけだが、まあそれはそれとして。
「ほら、もう用済んだだろ。どっか行けって。俺も忙しいんだよ」
「あー、何それ! 人のことお邪魔虫みたいにー! いーじゃん、ちょっとくらいさー」
「お前は良くても俺は良くないんだっての!」
ここだけの話、教室で瑠璃に声を掛けられるのは、色々と居心地が悪いのだ。
何しろ——。
「ルリー! おっはよー!」
突然割り込んできた声に、ぎくっと体が強張る。
近付いてきたのは、同じクラスの女生徒だった。茶色の髪に、メイクとアクセサリーで飾り立てた派手な外見。瑠璃同様、一目見ただけで『リア充』とわかるような女子だ。
「あ、アンリじゃん。おはー」
「おはー。あ! ルリってば髪型変えたんだー! 似合うじゃーん! 超カワー!」
「でっしょー? 読モのあいにゃんがこないだテレビで髪こうしててさー、あたしもやってみよーって」
一真の机のすぐ脇で、きゃっきゃっとリア充トークを始めるイマドキ女子達。
と、アンリと呼ばれた女子(ちゃんとした名前が思い出せない)が、ふいっと一真に視線を寄越した。思いっ切り目が合ってしまい、一真の額に汗が浮かぶ。
「あ、小田桐くんもおはよ。今日もアッツイよねー」
「あー、ああ、えと……! おは——」
ガチガチになりながらも挨拶を返そうとしたが、その時にはもう、彼女は一真のことなど見ていなかった。何事もなかったかのように、彼女は再び瑠璃と話し始める。
「ってかさー、ルリと小田桐くんってホント仲いいよねー。朝から二人っきりで話とかしちゃってさ」
「えー、そんなことないよー。普通、普通」
「そんなこと言ってさー、ホントは付き合ってんじゃないのー?」
「ないない。ただの幼馴染だってば」
にやにやと笑う友人の追及を、こちらもやはり笑顔で躱す瑠璃。
何しろ瑠璃は目立つ存在だから、一真と瑠璃が二人でいると、こんな風に茶々を入れられるのはそれこそ日常茶飯事だ。
……が。
言葉こそからかっている風だが、このアンリという女子も、瑠璃と一真が本当に付き合っているなどとは考えていないに違いない。
『ぱっとしない幼馴染が気の毒だから、人気者で気のいい瑠璃が適当に構ってやっている』——クラスメイトの大半は、一真と瑠璃の関係をそんな風に解釈しているのだろう。
実際、そういう面がないとは言えない。人付き合いが苦手で、何かきっかけでもない限り自分から人に話しかけられない一真が、それでもなんとかクラスで孤立せずに済んでいるのは、『四ノ宮瑠璃の幼馴染』という“立ち位置”を、彼女が与えてくれたからだ。
それについては本当に感謝しているし、ありがたいとも思っている。
ただ、時々無性に居た堪れなくなるだけで。
「そういえばさー、聞いてよルリー! こないだ話したバイト先のことなんだけど、もーマジ最悪でさー! ホンット意味わかんない!」
「えー、何? またなんかあったの?」
一真そっちのけで盛り上がる女子二人を見上げ、ひっそりと溜息を零した時。
ガラリと、教室の戸が開く。
それだけで、あれほど騒がしかった教室が、凍り付いたように静まり返った。教師が突然現れたって、きっとこんな風にはならないだろう。
まず目を引くのは、腰まで伸びる艶やかな黒髪。
そして、感情というものを一切伺わせない、涼やかな眼差し。
水崎萌香。
『全科目満点』という驚異的な成績で主席入学を果たして以来、学園中の注目を一身に浴び続ける稀代の秀才。
眉目秀麗にして品行方正。無口かつ無表情。ただそこにいるだけで周囲の空気を引き締める、完全無欠のクールビューティー。
そして、一真にとっては、四月からずっと同じ教室で顔を合わせている、クラスメイトという名の高嶺の花。
それが、彼女。
クラス中から集まる視線を物ともせず、萌香は静かな足取りで自身の席へと向かう。
萌香の座席——それはすなわち、一真の一つ前の机だ。
「あ……」
進路を塞ぐ形になっていた瑠璃達が、慌てて左右に退く。
それに礼を言うでもなく——いや、そもそも、彼女達がそこにいたことさえ、最初から気付いていなかったかのように、萌香はどこまでもクールに、自身の席に腰を下ろした。
「あー……じゃあ、アタシもう行くから。後でね、ルリ」
萌香の圧倒的過ぎる存在感に耐えかね、そそくさと去っていくアンリ(仮)。
それを合図にしたように、固まっていたクラスメイト達も、ぽつぽつと雑談を再開し始めた。すぐに、さっきと同じ騒がしさが一真と瑠璃、そして、前の席の萌香を取り囲む。
その喧騒に紛れ込むようにして、瑠璃がこそこそと、一真に顔を近付けてきた。
「ねーねー。一真さ、今日の放課後って部活ないよね?」
「は? ……まあ確かに、活動日じゃないけど」
「じゃあさ、暇でしょ? ドーナツ食べ行かない? 今日から新メニュー始まるんだって! 行くよね? はいけってー!」
「勝手に決めるな! 俺にだって色々と予定ってものがだな……」
「えー。予定って言ったって、一真が普段やってることって言ったら、家で一人でゲームしてるか、一人でアニメ見てるか、そうじゃなかったら一人でアキバ行くかじゃん」
「一々『一人で』をつけるなよ! 俺だって好きで一人でいるわけじゃないんだぞっ!」
語り合いたくてもその相手がいない、コミュ障のオタクの辛さが、非オタのリア充にわかってたまるものか。
割と本気で泣きそうになる一真だったが、瑠璃はそんな悲哀すらも吹き飛ばすように、にっこりと、とびっきりの笑顔を見せる。
「だからさー。そーやって一人で遊んでるより、あたしと一緒にどっか遊びに行ったほうが、絶対楽しいって。でしょ?」
「……」
聞きようによってはこれ以上なく傍若無人な台詞なのに、一真は反論できなかった。その言葉が、実はあながち間違っていないことを知っていたから。
「そーだ、久しぶりにカラオケも行こーよ、カラオケ! 友達のおにーさんがバイトしてるってお店があってさ、クーポンもらったんだよねー。すぐ近くだから、帰る途中に寄ってこーよ」
一真が黙っているのをいいことに、瑠璃は勝手に放課後の予定を決めていく。
その態度に、思うところは色々とあるが。結局逆らえた試しは一度もないので、一真は諦めの溜息を零した。
「けど……カラオケって言ったって、俺、エロゲの曲ぐらいしか歌えないぞ? 最近はアニメもあんま見てないし……」
周囲のクラスメイトには、間違っても聞かせられない台詞だ。
だが、周りにいる生徒は皆それぞれの雑談に夢中で、限界まで潜めた小声に耳を傾ける者なんて一人もいない。
だから、聞いていたのはすぐ目の前にいた瑠璃だけで。
「ふぇっ……!?」
瞬間、瑠璃の顔が、一瞬にして茹だったように真っ赤になる。
(あ)
しまった、と思う。見た目はいかにも『遊んでる』風な癖に、瑠璃はこの手の話題がとことん苦手なのだ。
「バ、バカバカバカ! 一真のエッチ! ヘンタイ! またそうやって、あたしのことエッチな目で見る!」
「なんでそうなるんだよ!? 話が飛躍し過ぎだろ!?」
カラオケのレパートリーの話をしただけなのに、何故かとんでもない汚名を着せられた。
「うぅ……! 一真のヘンタイ……! ヘンタイヘンタイ! オタク!」
「待てその二つの単語を同列に並べるな!」
きゃんきゃん喚きながら——それでも一応、周囲に聞こえない程度に声を潜めて——瑠璃は胸元を隠すように、両手でぎゅーっと自らの体を抱き締める。
そんなことをしたら、胸が腕の間で潰れて余計大変なことになるだけなのだが、そこら辺わかっているんだろうか? この、見てくれだけはビッチっぽい純情娘は。
「わかった、変なこと言って悪かった! 謝るから、オタクに対して妙な偏見を持つのはやめろ。いえやめてください」
「そ、それは悪かったけど……でも、一真がエッチなのはホントじゃん。こ、高校生の癖に、そんな変なゲーム持ってて……!」
「やめてください。しんでしまいます」
「こ、こないだも、夕飯お裾分けに行ったついでに部屋覗いたら、ベ、ベッドのシーツに、裸の女の子の絵が描いてあ——」
「やめろよ! しんでしまいますって言ってるだろ! 大体、あれは姉貴が同人やってる知り合いからもらったやつで、俺が知らない間に勝手にベッドに敷いたのも姉貴で、俺は関係ないんだって散々言っただろ! もう忘れてくれよ頼むから!」
「……じゃあ、放課後カラオケ」
「行きます行かせていただきますどこにでも!」
「ん。じゃ、許したげる」
まだ頬に赤みを残しながらも、瑠璃はすっかり機嫌が直った様子でにこりと笑った。
それに安堵しながらも、一真の胸には、一抹の不満が残る。
なんだってエロゲを持っているくらいで、こんなリアクションをされなければならないんだろうと。
……いやもちろん、高校生は本当ならエロゲやっちゃいけないんだけど。だから瑠璃の言いたいことはわかる……というかぐうの音も出ないほどに正論なんだけど。
(……けど、なぁ)
ちょっとくらい——ちょっとくらいは、許してほしい。認めてほしいと思うのだ。そりゃあ確かに大っぴらにできる趣味ではないけれど、エロゲにだって、面白かったり素晴らしかったりする作品は、たくさんあるのにと。
どこかにいないだろうか。一真と同じように、エロゲが好きな女の子が。
一緒にエロゲをやって、『すごい』、『面白い』と、同じテンションで萌えを語り合える、そんな相手が——。
「——四ノ宮さん」
周囲の空気が、一瞬にして張り詰めた。
一真も、瑠璃も、弾かれるようにして、声のしたほうに顔を向ける。
いつの間に席を立ったのか。水崎萌香が、一真と瑠璃をじっと見つめていた。
「……放課後」
「ふぇ?」
「放課後、カラオケに、行くの?」
『二人で』、と、小声で付け足し、萌香がちらりと一真を見る。
それだけなのだが、一真は反射的に身を竦めてしまった。何しろ萌香は普段から徹底した無表情なので、ただ見られるだけでも妙に緊張してしまうのだ。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったのだけれど、聞こえてしまったから」
「え、えっと……」
萌香の指摘に、瑠璃は見るからに狼狽えている。
それもそのはずで、下校途中の寄り道は校則で禁止されているのだ。
歴史のある私立校ならではの、お堅い校則。本来であれば、そんな決まりなんて誰も守りはしないけれど——相手が水崎萌香なら、話は別だ。
何しろ彼女は、学園きっての優等生。おまけに無口で取っつきにくいときている。相手がクラスメイトだからって、校則違反を見逃してくれるとは思えなかった。
いつしか教室は再び静まり返り、皆が固唾を飲んで、萌香達のやり取りを見守っていた。
耳に痛いほどの沈黙の中。萌香が、重々しく口を開く。
「……その、ね。いきなりこんなことを言うのは、失礼かもしれないけれど。私——」
「ごめん! 水崎さん!」
「パシ!」と、軽やかな音が教室に響いた。
「そーだよね、寄り道はやっぱダメだもんね。あたしってばついうっかりしちゃった!」
ばつが悪そうに片目を瞑り、顔の前で両手を合わせる瑠璃。その、いつもと変わらない朗らかな声、振る舞いが、緊迫していたクラスの空気をあっという間に和らげていく。
「次からは、ちゃんと気を付けるね。教えてくれてありがと、水崎さん」
にこっと無邪気な笑顔を見せる瑠璃を、萌香はしばし、無言のまま見つめていた。
けれど、やがて、
「……いえ、いいの。お礼を言われることじゃ、ないから」
素っ気なくそう答えると、さっさと自分の席に座ってしまった。
自分に注目する視線も、瑠璃の見せた笑顔も、何一つ、気に留めない風で。
瞬間、張り詰めていたクラス内の空気が、一気に弛緩する。
一真もまた、緊張から解放されてほっと息をついた。
何しろ、瑠璃と萌香が向き合っていたのは、一真のすぐ目の前である。位置関係的に、一真は丁度挟まれる形になってしまい、はっきり言って生きた心地がしなかったのだ。
もっとも、直接対峙していた瑠璃に比べれば、ずっとマシだったとは思うが。
「あーっと……じゃ、一真。あたしもそろそろ行くね。なんか、ごめんね? 巻き込んだみたいになっちゃって……」
「いや、そんなのはいいけど。えっと……なんだ、元気出せよ」
「別に、へこんでないよ。水崎さんも、意地悪で言ったんじゃないんだし。んじゃね」
言葉通りの明るさで軽く手を振り、瑠璃は離れていった。
自分の席へと戻った彼女を、いつも一緒にいる女子グループが迎える。「ツイてなかったねー」という会話が、かすかに聞こえてきた。
瑠璃がいなくなって、一真の周囲は急に静かになる。
と、同時に、周りで話しているクラスメイトのやり取りが、耳に届くようになった。
「うひゃー、こっわ。四ノ宮もかわいそーに」
「ま、しょーがねえじゃん。だって水崎さんだぜ? 覚えてるだろ? 四月にさー、授業始まって早々教師質問責めにして泣かせたこと」
「電車で痴漢してきたおっさんを一睨みで黙らせたってのも聞いたぜ」
「ああ見えて実は空手の達人らしいぞ? 噂じゃ、しつこく付きまとってた男を返り討ちにして一ヶ月入院させたとかなんとか」
そんな会話が、耳から耳へと抜けていく。
語られる噂話は千差万別だけれど、一つ共通しているのは、彼らにとって、水崎萌香が“高嶺の花”——遠い存在であるということ。
そしてそれは、一真にとっても変わらない。
半年前の四月。入学式で、新入生代表として壇上に立つ萌香の姿は、今でも鮮明に覚えている。
その後、一真は偶然にも、萌香と同じクラスになることができた。二学期最初のクラス替えで、彼女のすぐ後ろの席になるという幸運にも恵まれた。
もしかしたら、何かのきっかけで親しくなれることもあるんじゃないか——そんな風に妄想を膨らませてみることも、なかったわけじゃないけれど。
(まあ、こんなもんだよな。現実なんて)
その妄想が現実になるだなんて、そんな夢みたいなことは思っちゃいない。
「————……くん」
そのうちまた席替えがあって、クラス替えがあって。そうして距離が離れていけば、いずれは、夢を見ることもなくなるだろう。
だって、現実は、二次元(フィクション)とは違うのだから。
「……桐くん……」
それにしても眠い。HRまでもうすぐだが、少しだけ寝てしまおうか。授業中に居眠りするよりはマシだろうし、先生も大目に見て——。
「——小田桐くん」
「……えっ?」
とん、と、肩に、細い指が触れる。
はっとして顔を上げた途端、一真は息を飲んだ。
萌香が。
この半年、横顔か後ろ姿しか見たことのなかった彼女が、こちらを向いている。
一真のことを、見ている。
「っ……え、っと……」
だらけきっていた体が、一瞬にして髪の先まで緊張する。
何しろ、あの(・・)水崎萌香に面と向かって声を掛けられるのなんて、これが初めてだ。その上彼女は滅多にお目に掛かれないような美少女でもあるし、異性に免疫のない一真は思いっ切りへどもどしてしまう。
「あ、あの……お、俺に、何か……?」
挙動不審になる一真を、萌香は相変わらずの無表情でじっと見つめてくる。
それはもうじーっと。顔に穴が開くんじゃないかと思うぐらいに。
(ええええ……? 俺、なんかしたか……?)
不安と緊張の中、一真が必死に自分の言動を省みていると、
「……小田桐くんは」
「え?」
「小田桐くんは……四ノ宮さんと、その……付き合って、いるの?」
「——えぇ!?」
思いっ切り叫んでしまい、クラスメイトの何人かがなんだなんだとこっちを見る。誤魔化すように、一真は慌てて咳払いを一つ。
それから、今度は注意深く声を潜めて言う。
「ま、まさか……! 俺と瑠璃——あ、いや! 四ノ宮が付き合ってるなんて、そんなことあるわけないって!」
「……でも、いつも、一緒にいるわ。さっきだって、仲良く話をしていたし」
「それは、幼馴染だから……! だ、第一、どうして水崎さんがそんなこと——」
話題を逸らそうと苦し紛れに口にした言葉だったが、言ってみて初めて、一真も疑問に思った。今までまともに話したこともなかったのに、何故萌香は、いきなりこんなことを聞いてきたのか。
不思議に思いながら、一真は萌香の顔を見つめ返す。
対する萌香は、何か言いたそうに口を開きかけるが——。
「ほら、全員着席! HR始めるぞー。日直、号令!」
ガラッと戸を開けて、入ってきたのは担任の男性教諭だった。教卓に向かう彼に急かされ、雑談していた生徒達がそれぞれの席に戻っていく。
「……ごめんなさい。先生が来たから、これで」
「あ……う、うん」
正直に言えば、ここで話を切り上げるのは躊躇われた。萌香がさっき何を言おうとしたのかが、どうしても気になる。
しかし、話はこれで終わりとばかりに前を向かれてしまっては、それ以上声を掛ける勇気なんてなかった。
仕方なく、一真は日直の号令に従って、クラスの皆と一緒に席を立つのだった。
◆◆◆
放課後。
一真が資料室を出ると、窓の外はもう暗くなり始めていた。
(うわ、もうこんな時間かよ……)
本当ならこんなに遅くなるはずではなかったのだが、帰り際に担任に呼び止められ、授業で使うプリントの作成を手伝うよう言われてしまったのだ。
当然、上手く躱せるだけのコミュ力なんて一真にはない。言われるままに雑用を押し付けられ、気が付いたらこの有様、である。
(帰ってエロゲやろうと思ってたのにな……)
今からでもさっさと帰ろうと、カバンを取りに教室へ急ぐ。
だが、教室の扉を開けた時、視界の隅で、誰かがびくりと身を竦めるのが見えた。
「え……?」
てっきり、もう皆帰ってしまったと思っていたから、予想に反して残っていたその人影に、一真は目を瞠る。
しかも、だ。
無人の教室にたった一人佇んでいたのは、誰もが認めるクラス一の美少女、水崎萌香その人だったのである。
突然現れた一真に驚いたように、萌香はこちらを見つめたまま動きを止めている。
「え、えっと……」
正直言って、かなり気まずい。今朝、あんなことがあったばかりだから、余計に。
できることならさっさとカバンを取ってこの場を立ち去りたかったが、萌香が立っているのは彼女自身の席——つまりは、一真の机のすぐ前である。荷物を取りに行くには、どうしたって彼女のほうに向かっていかねばならないわけで。
「ご、ごめん。なんか、邪魔しちゃったみたいで……。カ、カバン取ったらすぐ帰るから……」
下手な愛想笑いを浮かべつつ、一真はそそくさと自身の席に向かう。彼女を怒らせることがないよう、あくまでさりげなく、最新の注意を払って。
だが、いざカバンを持って出て行こうとした矢先。
「……小田桐くん」
「はい!?」
何故か、萌香に呼び止められてしまった。
(……俺、何かしたっけ……?)
ぶわっと冷や汗が噴き出すのを感じながら、ぎくしゃくとした動きで振り返る一真。
沈みゆく夕日を背景にして、萌香はそんな一真をしばし見つめ。
やがてゆっくりと、背後に回していた手を、前に持ってきた。
「……あの、これ」
「え?」
「さっき、三年生の先輩が、教室に来て。小田桐くんに、これを渡しておいてほしいって」
そう言って萌香が差し出したのは、どこにでもありそうな紙袋。
(先輩って……多分部長だよな。なんでまた?)
三年生に知り合いなんて一人しかいないから、多分間違いない。しかし、一体何を持ってきたのだろう。別に誕生日でもないし、物をもらうような心当たりなんて、一真には何もないのだが。
「あ、ありがとう。わざわざ」
とりあえず萌香に礼を言い、一真は袋の中を覗き込んで、
(ちょっ!?)
思わず悲鳴を上げそうになった。
紙袋の中には、以前一真が部室に持ち込み、そのまま紛失してしまったゲーム——『最終痴漢バス3』というタイトルのエロゲーが、剥き出しのまま突っ込まれていたのである。
(あああああ! あのっ……あの人はほんとに、何考えてんだよ!!)
見付けてくれたのはありがたいが、よりにもよってこんな危険物を、見るからに非オタの……それも女子の手に委ねるなんて、嫌がらせを通り越して最早テロだ。本当に、一体なんのつもりなのか。
「……小田桐くん?」
「へ!?」
見れば、萌香が不思議そうな顔で、一真のことを見ていた。まあ、預かっていたものを渡したら相手が突然狼狽え始めたんだから、変に思うのも無理はないだろうけれど。
「……どうか、したの?」
「い、いい、いや! なんでもないから! そ、それじゃ俺、この辺で……!」
とにかく、ここに長居するのは得策ではない。一真はそそくさとカバンを掴み、踵を返そうとしたが、
その瞬間、ビリッ、と不吉な音がして、紙袋の持ち手部分が破け、取れた。
「————あ」
落下する紙袋。衝撃で入っていたブツが外に飛び出し、萌香の足下に落ちる。
彼女はごく自然な動きで、それを拾おうと身を屈め、
直後、全ての時が静止した。
「………………あ、あの、水崎さん……」
一真の震える声には答えず、萌香は落ちているそれを、静かに拾い上げる。
「…………『最終痴漢バス』」
ぼそっと零される呟きは、さながら死刑宣告のよう。
頭の中で鳴り響く処刑用BGMを聞きながら、一真はがっくりとその場に膝をついた。
(ああ……終わった……俺の人生……)
真面目な優等生で知られる萌香のことだ。同級生がこんなものを持っているなんて知ったら、きっとすぐに学校側に知らせるだろう。そして噂はあっという間に学年中に広まり、一真はエロゲー好きの変態として、皆にドン引きされながら学校生活を送るのだ——。
脳裏を駆け巡る最悪の未来予想図。追い打ちを掛けるように、静かな声が頭上から降ってくる。
「……小田桐くん。私……あなたに伝えたいことが、あるの」
……ああ、これがラノベだったらいいのに。そしたらきっと、「実は私もエロゲに興味があって……」なんて話になって、そこからヒロインとのめくるめくラブコメが幕を開けるはずなのに。
もちろん現実は二次元ではないので、そんな上手い話になんてなるわけが——。
「私を——あなたの、奴隷(カノジヨ)にしてほしいの」
(……ん?)
はて。
何か今、明らかに状況にそぐわない台詞を聞いた気が。
「…………え、えっと。水崎さん……?」
「……何?」
「その……今の言葉はどういう……」
「…………“雌豚”のほうが良かった?」
「いやそういう問題じゃなくて!」
一真の全力のツッコミを聞いて、ようやく萌香も場の空気がおかしいことに気付いたらしい。美しいまでの無表情に、たらたらと汗が浮かんでいく。
「……み、水崎さん?」
声を掛けると、萌香は無表情のままびくっと痙攣。ついで、ずざざざっと教壇のほうへ後退していく。
「…………えっと」
「ま、待って。今やり直すから……」
表情を変えないままそれだけ言い、萌香はさっと教卓の陰に引っ込んだ。
やがて教卓の向こうから、ぼそぼそと呟きが聞こえてくる。
「……落ち着いて。落ち着かなきゃ……慌てちゃダメ。大丈夫……ちゃんと練習してきたもの……落ち着いて冷静にやれば、きっと……」
「…………」
これは、待っていたほうがいいんだろうか。
しかし、それから五分経っても十分経っても、萌香は教卓の下から出てこない。そうこうしている間にも日は傾き、辺りはどんどん薄暗くなっていく。
「…………み、水崎さん……?」
このまま待ち続けていても日が暮れるだけの気がしたので、一真は恐る恐る、教卓の裏を覗き込む。
瞬間、
「きゃっ……!?」
ぴゃっ、と飛び跳ねた萌香は、そのまま頭のてっぺんを強打。ぶつけた箇所を押さえて声もなく蹲る。
「だ、大丈夫!?」
「だ、大丈夫っ……全然、なんともないわ……平気だから……!」
頭を押さえたまま、萌香はわたわたと教卓から這い出してくる。口調こそ凜々しいが、顔は完全に涙目だった。要するにちっとも大丈夫そうじゃない。
「え、えっと、本当に平気? 保健室とか行ったほうが……」
「保健室……や、やっぱり、そういう場所のほうがいいの……?」
「いやなんの話!?」
「だ、だって、“奴隷”も“雌豚”もだめだったから、場所がいけないのかと……」
「だから、なんの話なのかさっぱりわからないんだって!」
「だ、だから、私……小田桐くんに、攻略されたいの。その……こういうゲームに出てくる、女の子達みたいに」
きゅっと唇を結び、萌香は赤い顔で一真の顔を見上げる。その手には、先ほど一真が落っことしたエロゲ(痴漢モノ)。
言葉の内容というより、その恥ずかしそうな表情にはっとして、一真は息を飲んだ。
(……え?)
『あなたのカノジョにしてほしい』と、そう言った萌香。
それはつまり、
つまり——。
「そ、それ、って…………?」
まさか。そう思いながら、無意識に問いを口にした瞬間。
「お、小田桐一真くん!」
「は、はい!?」
「あなたに、お願いが、あります……! わ、私とっ、ちゅ——」
「“ちゅ”?」
「ち、違うの……今のはちょっと、間違って……」
どうやら噛んでしまったらしい。
冷静になる為か、萌香は言葉を中断して深呼吸を一つ、二つ、三つ——あ、噎せた。
そして、
「小田桐くん——私と、付き合って、ください」
さらっと、黒髪を舞わせて。萌香が、深く頭を下げる。
「っ、え……? えっ、つ、付き合っ……ええええ!?」
頭が事態を理解するより先に、体のほうが反応した。心臓の鼓動が猛烈な勢いで高鳴り、頬が熱くなる。
(いやっ、でも、そんな、嘘だろ!? だってあの水崎さんだぞ! そ、そりゃ、同じクラスではあるけど、全然話したこともないのに!)
夢、あるいは幻覚じゃないのかと思った。けれど、どれだけ時間が経っても、夢が覚める気配はない。萌香が顔を上げて、『実は今のはドッキリなの』なんて言い出す様子も。
(ほ、本当に……? 本当に、水崎さんが、俺を……?)
信じられない。すぐには、とても。
「で、でも、水崎さん……その、俺、オタクだし、そういうゲームだって持ってるし……引いたりとか、しないの……?」
萌香の手の中にあるエロゲを指差しながら、尋ねる。
萌香はどう見ても非オタだし、それに何より女子だし。だからこの手のゲームにも拒否感があるんじゃと思ったけれど、萌香の答えは逆だった。
「引いたりなんて、そんなこと、しないわ。小田桐くんは男の子なのだから、えっちなのは仕方がないと思うし……それに、私、前から知っていたもの。小田桐くんが、こういうゲームを好きだって」
「えっ!?」
何故知られているのだろう。まさか、一真が気付いていないだけで、一真がエロゲオタクであることは実は周知の事実だったとか……?
嫌な想像をしてさーっと顔を青ざめさせる一真をよそに、萌香はもじもじと、恥ずかしそうに言葉を継ぐ。
「……その、それで、小田桐くん。返事を……聞かせてもらっても、いい……?」
「えっ、あ……!」
とっさに言葉が出ない一真を、萌香は顔中を真っ赤にしたまま、じっと見つめ続ける。
夕日の所為なんかじゃない。きゅっと唇を引き結び、大きな瞳を潤ませて。ぎゅっと両手を握り締めるその姿は、どこからどう見たって、羞恥をこらえて勇気を振り絞る女の子のそれだ。
その表情の可憐さに、一真はドキリとしてしまう。
まさか、あの『水崎萌香』が、こんな顔をするなんて。
「あ、え、えっと……! み、水崎さん!」
何か言わなければ。そんな思いにせっつかれて、つんのめるように言葉を吐き出す。応えるように、萌香がゆっくりと、瞬きをした。
「お……俺で、良かったら……」
死ぬほどドキドキしながら、必死の思いで絞り出した返事。
しかし、それを聞いた瞬間、萌香はぴたりと動きを止めてしまった。
かと思ったら、そのままぺしゃんと床にへたり込む。
「え? ちょっ、み、水崎さん!?」
「……本当?」
「え……?」
「本当に、私と、付き合ってくれるの……?」
床に座り込んだまま、萌香はじっと一真を見上げる。頬は相変わらず真っ赤で、なんだか夢でも見ているような顔付きだ。
……これじゃ、立場が逆だ。「本当にいいの?」と聞きたいのも、夢でも見ているような気持ちなのも、むしろ、一真のほうなのに。
「う、うん……。その、俺もずっと、水崎さんのこと、可愛いなって、思って、たし……」
恥ずかしさをこらえてそう言ったら、萌香は火がついたように顔を真っ赤にした。自分なんかの言葉でそんな顔をされるとは思わなかったから、一真は余計にドキドキしてきてしまう。
「あ、え、えと、ごめん……」
「い、いいの……。その、じゃあ、小田桐くん……」
——これから、よろしくお願いします。
そう言って、萌香は一真に、そっと小指を差し出した。
◆◆◆
——その日の夜。
(ほ、ほんとに夢だけど夢じゃなかった……)
夕食を終え、一真は自室で一人、食い入るように携帯の画面を見つめる。表示されているのは、登録されたばかりの『水崎萌香』の連絡先だ。
(うわぁ……うわぁ……! 夢じゃないよな? これ、掛けたらちゃんと水崎さんに繋がるんだよな!?)
萌香の携帯を見せてもらい、直接入力した番号。夢でも間違いでもない。瑠璃以外の女子から連絡先を教えてもらえるなんて、一真の人生始まって以来の快挙だ。
(俺……付き合うんだ。水崎さんと)
ドキドキと鼓動が逸り、一人でに頬が熱くなってくる。どうしてもそわそわしてしまって、一真は携帯を手に、部屋の中を行ったり来たりを繰り返した。
本当なんだろうか。
夢じゃないんだろうか。
あの水崎萌香が、自分の『カノジョ』になるだなんて。
それも、告白してくれたのは、彼女のほうからなのだ。
つまり、萌香はずっと、一真のことを好きでいてくれたということで。
話したことはなくても、一真のことをずっと見ていてくれたということで。
(嘘みたいだ……)
でも、嘘じゃない。夢ではないのだ。今だって頬を抓ってみているけど、ちゃんと痛いのだから。
自分にもとうとう、二次元でも妄想でもない、本物(リアル)の彼女ができたのだ!
「……ははっ」
気が付いたら、笑みが零れていた。自分でも気持ち悪いと思うが、顔がにやつくのを抑えられない。
いやでも、『付き合う』って、具体的にどうしたらいいんだろうか。一真は萌香の『彼氏』になるわけだし、もっとリア充っぽい格好をしたりとか、リア充っぽい話題を探したりするべきなのか。
そもそも、『あの』水崎萌香と、これから一体どんな会話をしたらいいのだろう? 女子はおろか、男子とさえもろくに話すことがないというのに、その程度のコミュ力で本当に場が持つのか……?
萌香に冷たい目で見られる様を想像して冷や汗を浮かべた時、不意に手の中の携帯がブルブルと震え出す。
(ま、まさか水崎さんからじゃ……!?)
死ぬほどドキドキしながら携帯を見たが、メッセージの送り主はただの幼馴染だった。
(なんだ……)
ほっとしたような、がっくりしたような。
とりあえずメッセージを確認。内容はなんてことない雑談だったので、大して気負わず適当に返す。
(こいつが相手だったら、余計なこと考えなくて済むんだけどな)
が、幼稚園の頃からの腐れ縁である幼馴染と、生まれて初めてできた彼女を同列に並べるわけにもいくまい。
萌香の連絡先を見つめながら、思案に暮れる。
と、突然、部屋のドアが開いた。
ひょこっ、と顔を覗かせたのは、姉の一葉だ。
可愛らしくはあるものの、歳の割にはやや童顔気味の顔立ち。ぽけっとした表情も相まって、どことなく子供っぽい印象を受ける人物だ。
が、幼く見えるのは首から上だけで、ちょっと視線を下げれば、出るところは出、締まるところは締まった抜群のプロポーションが目に入る。特に圧巻なのは、Hカップという驚異のサイズを誇るその爆乳だ。
「カズちゃ〜ん。お姉ちゃんお風呂上がったから、次どうぞ〜」
「ああ、ありが——って!? あ、姉貴! おまっ、なんて格好してんだよ!?」
「ん〜? 格好って〜?」
タオルで髪を拭きながら、きょとんと目を瞬かせる一葉。
あろうことか、彼女は下着姿だったのである。
それもいわゆる、パンイチ。
湯上りで上気した肌も、きゅっとくびれたウエストも、そして夢とロマンのHカップも。全てが惜しげもなく、一真の眼前に晒されている。
いやそんなじっくり見てないけど。ちゃんとすぐに目逸らしたけど。
「や〜だ〜。カズちゃんったら照れちゃって〜。昔はよく、一緒にお風呂入ってたじゃな〜い」
「いつの話してんだよ!? いいから早く部屋行って着替えてこいって!」
「え〜……。でもぉ、お風呂入ってすぐに着替えると暑いし〜……」
なんとか追い払おうとするが、一葉はどこ吹く風で、あっさり部屋の中に入ってきてしまう。
「そ・れ・よ・り。どうしたの〜? 携帯握り締めて嬉しそうな顔しちゃって〜。お姉ちゃんにも教えて〜」
「あ、ちょっ……!」
肩にもたれるような格好で手元を覗き込まれ、途方もなく柔らかい感触が腕に触れる。
いやもうこれ触れるっていうか腕が埋まってるっていうかむしろ挟まれてるっていうか以下略。
「だからせめて隠せえええええ!」
ふにふにむにゅむにゅしたそれを渾身の力で押し退け、そこらに落ちていたTシャツを投げ付ける。
結局、一葉が大人しく部屋を出て行ったのは、一真が今日あった出来事を洗いざらい白状した後だった。
ついでに、服は最後まで着なかった。
(ったく、姉貴の奴……)
疲れ果てて、ぐったりとベッドに沈み込む。
(……風呂、入ってこよう)
よいせっと立ち上がった途端、また携帯が震えた。
さてはまた瑠璃かと、何気なく画面を見てみると、
(なんだ水崎さんか……って!?)
人生初の、『彼女』からの電話だった。
(どっ、どっ、ど……!?)
どうしたらいいかわからず、携帯を握り締めたままあたふたする一真。
いや、どうしたらも何も、普通に出ればいいだけなのだが、なんというか心の準備が。
しかし、そうこうしているうちにもし切れてしまったりしたら、それこそどうしたらいいかわからない。
(ええい……!)
覚悟を決め、震える手で携帯を耳元に。
「も、もしもし……?」
『——小田桐くん?』
名前を呼ばれただけなのに、心臓がドキッと鳴った。
(ほ、ほんとに水崎さんからだ……)
『……小田桐くん? 聞こえている?』
「あ、う、うん! 大丈夫! ちゃんと聞こえてるから! え、えっと、それで、どうかした? こんな時間に……」
いや、まだ九時前だから、『こんな時間』というほど遅くもないんだろうか? 今まで女の子(幼馴染除く)とこんな風に電話で話すことなんてなかったから、どう受け答えしていいか今一わからない。
しかし、緊張しまくる一真とは対照的に、萌香は相変わらずクールだった……少なくとも、声を聞く限りでは。
『用事、というほどのことでは、ないのだけれど……その、小田桐くん。明日の朝は、何か予定はある?』
「朝? いや、別に何も……学校行くだけだけど」
『なら……良かったら、私と、一緒に登校してくれないかしら』
「へ? い、一緒に……? 水崎さんと?」
『……嫌?』
「そ、そんなまさか! 嫌なはずないよ! た、ただ、ちょっとびっくりしただけで……!」
しかし、考えてもみれば、待ち合わせて一緒に学校へ行くぐらい、付き合っているなら普通のことだろう。
むしろ、思い付かなかった一真のほうが、非モテ丸出しというか、ぼっち乙というか……やめよう、考えても悲しいだけだ。
『それじゃあ、明日の朝、七時に、駅の前で待ち合わせでいい?』
「う、うん。えっと、改札の前で待ってればいいかな?」
『ええ。私も、見付かりやすいところにいるから』
おお、なんだかすごく付き合ってるっぽい会話だ。
『それじゃあ、おやすみなさい』
「あ、え、えっと、水崎さんもその、おやすみ……!」
結局最後まで緊張しっぱなしのまま、通話は切れた。
「っ……はー……」
携帯を握り締めたまま、崩れ落ちるようにしてベッドに座り込む。
(き、緊張した……!)
初めて萌香が電話をくれたのに、結局、どもってばかりでろくに話せなかった。
大丈夫だっただろうか。「なんだこの人」とか思われなかっただろうか。気付かないうちに、何かおかしなことを言っていたりしたらどうしよう。
(い、いや、落ち込むのはやめよう……! 明日! 明日挽回すればいいんだ!)
折角、萌香のほうから一緒に登校しようと誘ってくれたのだ。記念すべきお付き合い初日、ここできっちり正しい選択肢を選んで、好感度を上げなくては。
その為にも、今日はさっさと風呂に入って早めに休もう。寝坊なんてしては目も当てられない。
(よし、やるぞ……! 俺はやるぞ! ここからガンガンイベント起こして、水崎さんの好感度をがっつり上げて、デートして、キッ、キスとかもして……! エロゲやラノベの主人公みたいな、誰もが羨む最高のリア充になってみせる!!)
決意を胸に、一真は輝かしい未来に向かって、偉大な第一歩を踏み出すのだった。
◆◆◆
そして翌朝が来た。
一真の輝かしいリア充人生が、ついに幕を開けるのである。
負ける要素など何一つ見えない、勝利を約束された希望の朝に、一真は、
「うわあああああああ!?」
思いっ切り寝坊していた。
(なんで目覚まし掛けなかったんだよ俺えええええ!?)
なんでも何も、忘れただけなんですけどね!
気合が高まり過ぎて、逆に空回りしてしまったのだ。それに、昨夜は緊張で中々寝付けなかったし、仮にアラームをセットしていても起きられたかどうかは怪しい。
もちろん、そんなことはなんの言い訳にもならないので、一真は死にたくなりながら大慌てで家を飛び出す。
(間に合ええええええ!!)
この世のありとあらゆる神に祈りながら、走りに走った。
が、結局、一真が待ち合わせ場所である駅の改札に着いたのは、約束の時間を十分ほど過ぎてからだった。
(み、水崎さん!? 水崎さんは……!?)
必死に周囲を見回し、萌香の姿を探す。
まさか、一真の遅刻に腹を立てて、先に行ってしまったなんてことは——。
(! いた!)
壁際に設置されたベンチ。そこに腰を下ろしているのは、萌香に間違いない。
「水崎さん! ごめん、遅れて——!」
謝りながら、一真は大急ぎで駆け寄ろうとし、
直後、ぴたりと足を止めた。
声を掛けた瞬間、萌香が、驚いた様子でがばっと立ち上がったからだ。
「っ……!? 小田桐くっ……!」
目をまん丸に見開いて、萌香はしばし一真を凝視。そして、慌ただしい手付きで時間を確認した後、くるっと一真に背中を向ける。
その瞬間、彼女の手元にちらっと見えたのは——。
(……肉まん?)
いや、あんまんだったかもしれないけど。
「…………水崎さん?」
なんとなく近寄りがたくて、一真は足を止めたまま、そっと萌香の名を呼ぶ。
すると、
「……おはよう、小田桐くん」
萌香は何事もなかったかのように振り返り、すたすたと一真のほうへ歩いてきた。その様子があまりにも自然だったものだから、一真は一瞬、「さっきのは幻覚だったんじゃ?」とすら思う。
「お、おはよう……水崎さん。その、ごめん。遅刻しちゃって……」
「いいの。そんなに、待ってはいないから」
そっと、頬に柔らかいものが触れた。刺繍の入った白い布——ハンカチだ。
「え……? み、水崎さん?」
「だって、小田桐くんは、走って来てくれたんでしょう? こんなに汗を掻くぐらい、一生懸命」
確かに、家からここまで走り通しで、一真はすっかり汗だくになっている。普段運動なんてしないものだから、余計だ。
その汗を丁寧に拭いながら、萌香が言う。
「だから、いいの」
そう言って、萌香は少しだけ微笑んでみせる。
淡く目元を染めた表情は見るからに幸せそうで、一真はそれ以上何も言えなくなってしまった。
朝の日差しの中、萌香の姿はいつにも増して綺麗に、輝いて見える。ふわりと揺蕩う長い黒髪。白磁の肌に澄みきった瞳。改めて見ると、その完璧な美少女っぷりに圧倒されずにはいられない。
こんなに可愛い子が、一真の、『彼女』なのだ。
ドキリとした。
何にかはわからない。真っ直ぐに注がれる視線にだったのかもしれないし、萌香の手が、自分に触れているというその事実にだったのかもしれない。
「……このぐらいで、いいかしら」
「あっ……! ご、ごめん、ハンカチ汚しちゃって……! 洗って返すよ!」
「いいの。私が、好きでしたことだから」
一真の申し出をあっさりと退け、萌香はハンカチをしまう。
それと同時に、手のひらに、柔らかな感触が触れた。
(…………え?)
一瞬錯覚かと思って、一真は自分の手を見下ろす。
けれど、勘違いでもなんでもなかった。
萌香の手が。一真の手を、そっと握り締めている。
「えっ、あ、えと……!」
一気に耳まで熱くなって、一真はあわあわと口を開け閉めする。萌香が、窺うような目でこちらを見上げてきた。
「……だめ、だった、かしら」
「い、いやっ……だめってことは、ない、けど……!」
そう、だめってことはない。だめってことはないけれども、これはちょっと、なんというかその、やばい。
だって、すごく柔らかいし。あったかいし。指とかもすごく細くて、肌の感触もすべすべで、ずっと触っていたくなるような感じで。
これが、女の子の——萌香の、手の感触。
「……行きましょう。小田桐くん」
「う、うう、う、うん」
がっくんがっくん頷いて、歩き出す。萌香と手を繋いだまま。
多少遅刻はしたものの、まだまだ、通学には早い時間帯であることに変わりはない。
そんなわけで、通い慣れた通学路に、人の姿はほとんどなかった。
閑寂とした朝の道を、一真と萌香は微妙な距離を挟んで、ぎこちなく、ゆっくりと歩く。
いや、正確にいえば、足取りがぎこちないのは一真のほうだけだったが。二人の間の距離にしても、単にどのくらい近付いていいのかわからなくて、一真が勝手に近付いたり離れたりを繰り返しているだけである。
(な、何か……何か、話しないと……!)
このままでは、とてもじゃないが学校まで間が持たない。
「あ、あのさ!」
「何……?」
「え、えっと…………み、水崎さんて、いつもこのぐらいの時間に学校来てるの?」
「普段は、違うわ。今日は、小田桐くんと一緒だから」
「そ、そっか……。………………ところでいい天気だね!」
「そうね」
「……………………そういえば宿題やってきた!?」
「宿題は普通、やってくるものではないの?」
「デ、デスヨネー……」
だめだ。どう足掻いても間が持たない。今日に備えて、昨夜のうちにネットの恋愛指南サイトで色々勉強してきたのに。
こんな有様で、萌香は呆れていないだろうか。心配になって、一真はそっと隣を歩く萌香の顔を窺う。
けれど、そんな心配は杞憂だった。
(……!)
口振りこそいつものように落ち着いていたけれど。萌香は、小さく微笑んでいたのだ。かすかに目元を染めて。嬉しそうに。幸せそうに。
直視するにはあまりにも照れくさくて、一真は慌てて視線を逸らす。
そして、思った。手の中にある柔らかな感触を確かめながら。
(俺……リア充してる……! 超リア充してる……!)
幸せだった。満たされていた。今なら世界中のあらゆる人に優しくできる——そんな気さえする。
「小田桐くん」
「はい!? あ、え、えっと、何? どうかした? 水崎さん」
「少し、いいかしら。学校に行く前に、寄りたいところがあるの」
「え? い、いいけど……でも、寄りたいところって?」
「……ついてきて」
それだけ言うと、萌香は角を曲がり、路地へと入っていった。手を引かれるような形で、一真も後を追う。
しかし、一体どこへ行くというのだろう。こんな時間では、寄り道できるところなんコンビニぐらいしかないんじゃないかと思うのだが。
しばらく路地を進み、やがて萌香が足を止めたのは、小さな公園の前だった。朝方なので、ここも当然のように無人。
こんなところに、萌香は一体なんの用があるのだろう?
「こっち。来て」
一真の疑問など知らず、萌香はすたすたと公園の中へ。そしてそのまま、植え込みの中へと分け入っていく。
「み、水崎さん?」
何事かと思いながらも、一真も後を追って繁みを掻き分ける。繁った枝葉を乗り越えると、その奥には意外にも開けた空間が広がっていた。
植え込みはそれなりの高さがある上、葉っぱが隙間なく生い繁っている為、向こう側の様子は全く見えない。例え誰かが通りがかっても、ここに一真達がいることには気が付かないだろう。
枝葉に囲まれた空間は薄暗く、狭苦しさも相まって、なんとなく、いかがわしいものを連想させた。いや、単純に、一真がエロゲ脳なだけかもしれないけど。
けど、だってこの状況は、あまりにも『それっぽ過ぎる』。
本当に、萌香は一体、この場所にどんな用事があるというんだろうか。
戸惑って萌香を見た時、不意に、カバンの落ちる音がした。
「……? 水崎さん?」
突如、持っていたカバンを地面に落とす萌香。
その顔はいつの間にか、耳まで赤く染まっていた。
「み、水崎さん……?」
「あのね、小田桐くん……」
「え?」
「私、男の子と、こういうことをするのは……初めてなの」
そう言って、彼女は空いた手を、静かに、自身の襟元へと伸ばす。
「でも、大丈夫。……ちゃんと、勉強してきたから」
(————へ?)
何を言われたのかわからず、一真がぽかんと口を開けた直後。
しゅるっと衣擦れの音が響いて、萌香が、制服のリボンをほどく。
そして、彼女はそのまま、ブラウスのボタンを外し始めた。
「ちょっ……!?」
ぎょっとする間にも萌香の手は止まらず、白い肌が瞬く間に露わになる。
「ちょ、ちょ、ちょ!? ま、待って! 何してるの水崎さん!?」
ようやく我に返った一真は、なおもボタンを外し続ける萌香を慌てて止めようとするが、
——完全に遅かった。
「どっ……どうぞ!」
ぎゅっ、と両目を閉じて、萌香はえいやっとばかりに、ブラウスを思いっきりはだけさせる。
次の瞬間、一真の目に飛び込んできたのは、眩しいばかりの白い肌だった。
きゅっとくびれたウエスト。滑らかな腹部。平均よりやや小振りながら、触れたらいかにも柔らかそうな胸の膨らみに、それを包み込む淡いピンクのブラジャー。
半端に手を突き出した格好のまま、一真は声もなくその光景に見入り。
「あっ!? ご、ごめん!! みみっ、見てないから!!」
「だ、大丈夫……! 見てもいいのっ、ちゃんと、新しい下着にしてきたから……!」
「いやそういう問題じゃ——って、え?」
……“見てもいい”?
「あ、あの、水崎さ……」
——むにゅ。
「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと!?」
突然手のひらに触れる、馴染みがないけど覚えはある感触。ばっと背けていた顔を前に向けたら、真っ赤な顔をした萌香が、一真の手を掴んで自分の胸に押し付けていた。
(うわ、うわ……! や、柔らかっ、ってか、見た目小さめなのに意外と揉め——ちがあああああ!!)
心の中で絶叫しながら、勝手に蠢きそうになる手を渾身の力で引き剥がす。
「〜〜〜〜〜ッ……水崎さんッ!!」
「や、やっぱり、下着も脱いだほうが良かった?」
「違うそうじゃないッ!! いいからとにかく前隠して!! 服着て!! ホントお願いします!!」
おまわりさんに連行されてしまう前に。
土下座する勢いで懇願したら、萌香は案外すぐに服を着てくれた。
「で、でも、水崎さん……その、な、なんであんなこと……」
そりゃあ確かに、自分達は付き合い始めたわけだけれども。昨日の今日であの展開は、いくらなんでも色々と早過ぎる。エロゲじゃあるまいし。
が、一真の当然の(はずの)疑問に、萌香は不思議そうに首を傾げた。
「だって……小田桐くんは、ああいうことがしたいんだと思って」
「そそそそそそんなことないよ誤解だよ!?」
「えっ」
「“えっ”って何!?」
何故そんな「嘘だ!」みたいなリアクションになるのか。
「でも……小田桐くんは、えっちなゲームが好きなんでしょう?」
「そりゃ好きだけど! で、でも、ああいうのはフィクションで、実在する人物団体とはなんの関係もないっていうか、つまりそれとこれとは話が全然別で……!」
変な誤解をされては困る。確かに一真はよくエロゲをプレイするけれど、それは決して、エロ目当てというわけではないのだ。ストーリーなりゲームシステムなり、どこかしらゲームとして『面白そう』と思える要素があるから、購入するしプレイもするのである……だってエロ目的ならCG集とかのほうがずっと安く済むし。
萌香は一真に言ってくれた。『えっちでもいい』、『えっちなゲームが好きでもいい』と。一真がエロゲを好きなことを知って、それでもなお、一真に告白してくれた。
それは一真にとって、本当に、夢みたいに嬉しいことだったから。
だから、一真がエロゲを好きな理由も、ちゃんとわかっていてほしい。
「聞いてほしいんだ、水崎さん! エロゲっていうのは、世の中の人達が思ってるほどいかがわしいものじゃないんだよ! そもそもエロゲが十八禁なのは、“エロがあるから”だけが理由じゃない! あれはいうなればドレスコード! CEROにも常識にも縛られない自由な発想を可能にする為に、製作側がユーザーに求める資質なんだよ!」
例えばそう、某有名ブランドの蟲ゲーとか。触手プレイで異生物を孕まされたヒロインと、産まれてきた異生物の種族を越えた親子愛なんて、エロゲ以外の媒体では絶対に描けないテーマだと思う。
「その証拠に、業界にはどんなに作品の人気が出ても、頑なにコンシューマ移植を拒み続ける老舗ブランドがいくつもある! これについては賛否両論あるけど、少なくとも俺は、『全年齢版が出ること』を人気作の条件みたいに扱う風潮には反対だよ! エロゲっていう媒体だからこそ最高の良さを発揮する作品が、世の中には数えきれないくらいにあるんだから!」
固く拳を握り締め、魂込めて主張する。
……そして正気に戻った。
「あ!? い、いや、違……! い、今のはあくまで一般論で、別に俺がそういう風に思ってるってわけじゃなくて……!!」
まずい。つい、語りに熱が入ってしまった。あんなことまで言うつもりはなかったのに。
普段話下手な癖に、一度勢いがつくと止めどころがわからない——コミュ障にはよくあること。
(やばいやばいやばい……! 水崎さん非オタなのに、エロゲのことであそこまで熱くなるとか絶対引かれるだろ……!)
仮に相手がガチオタであっても、問答無用でドン引きされたかもしれないが。
(と、とにかく、早く誤魔化さないと……!)
必死に言い訳を考えるが、焦り過ぎて頭が上手く回ってくれない。
だが、萌香のリアクションは、一真の予想とは違っていた。
「……なら、小田桐くんが教えて」
「え?」
「私……小田桐くんと、もっと、仲良くなりたいの。だから、“えろげ”のことを、もっと教えて。小田桐くんが、大事に思っているもののことを」
「い、いや、そこまで大袈裟に言うことじゃ……」
控えめにツッコミを入れると、萌香が一歩、一真との距離を詰めてくる。
そして言った。上目遣いに一真を見て、乱れた制服も直さないまま。
「私を……調教してくれる?」
……あれ?
これ、なんてエロゲ?