千年前、星は未曽有の氷河期を迎えた。
大気組成の変化、太陽の活動力低下、巨大隕石が衝突し舞い上がった粉塵が空を覆ったことによって生じた日照不足……様々な要素が絡み合い、地上は人類が住むにはあまりにも厳しい環境に変じてしまった。
ゆえに人類は地上を放棄した。
人類は地底に暖を求め、千に及ぶ巨大地底都市を建造。同時に、大気のバランスを整えるナノマシンの開発にも着手した。それらが完成し、地底への移住とナノマシンの散布を始めた頃には、人類の人口は六割にまで減少していた。
人類は地底で耐え忍んだ。
緩やかな文明の盛衰を繰り返しながら。
そして千年の時が過ぎ、地上は氷河期以前の環境を取り戻した。
地上に戻った人類は再び繁栄を謳歌する……はずだった。
千年の間に、地上は別の種族のものになっていた。
その種族の名は、至高の血族(スプリームブラッド)。
古くは吸血鬼と呼ばれ、空想の産物と思われていた者たちは、今や人類に比するほどの数を有し、地上を支配していた……。
星明かりという千万無量の観客に見守られながら、少女はひた走る。
千年以上前に建てられた、鉄の骨を剥き出しにしたボロボロのビルの前を通りすぎ、路傍の石と呼ぶにはあまりにも大きすぎるコンクリート片を飛び越え、枯れた大地から生え伸びた雑草を踏み散らし、少女は廃墟と化した古代都市の大通りを駆け抜けた。文字どおり、弾丸のような速さで。
人間の身体能力をはるかに凌駕した走力。だが、少女の着衣を見れば、誰もがその走力に納得し、誰もが少女の正体に畏怖するところだろう。
大きなフードの付いた黒色のローブ……それは至高の血族が好んで着用する、天敵である太陽の光から身を守るために作られたもの。
そこから導き出される答えは一つしかない。
少女は至高の血族だった。
長い睫毛の下にある、至高の血族の象徴たる赤い瞳は、宝石を思わせるほどの美しい輝きを宿していた。鼻梁は芸術的なまでに整っており、薄い唇の内側には人間のものよりも少しばかり鋭い犬歯が生え揃っていた。肌は闇夜の中だと浮いて見えるほどに白かった。見る者に怖気すら感じさせる、浮世のものとは思えぬほどに美しい少女だった。
一瞬のよそ見が大事故につながる速度のなか、少女は後方に振り返り、大人びた声音に苛立ちと憎しみをこめて吐き捨てる。
「どこまでもどこまでも……そうまでして、わたしを滅したいか……!」
少女のはるか後方には、少女と同様に黒いローブに身を包んだ者が五人、少女と同様に弾丸のような速さで走っていた。
そこから導き出される答えも一つしかない。
後ろの五人もまた至高の血族だった。
このままでは振り切れない——そう思った少女は、速度を落とすことなく直角に曲がって路地に入る。物理法則を完全に無視した動きだった。
路地に入ると、少女は雪のように真白い繊手で虚空を掴み、なにかを引き抜くような動作をみせる。すると少女の手には、まるで闇から引き抜かれたかのように黒く、細長い帯が握られていた。
隠し持っていたのではない。
少女が闇から創り出したのだ。
「待て! 不純の血!」
数瞬遅れて路地に入ってきた至高の血族に向かって、五メートルほどもある漆黒の帯を横に振るう。
ビルに挟まれた隘路。そんなところで帯を横に振るえばビル壁に阻まれるのが必至。のはずが、帯は豆腐を裂くようにビル壁を抉り抜け、先頭を走っていった至高の血族の胸に直撃する。胸を叩かれた至高の血族は細長い帯からは想像もできないほどの力で吹き飛ばされ、後続をも巻き込んで、通りを挟んだ向こう側のビルに激突した。
壁を抉られたビルは元々崩れかけていたこともあり、ミシミシと重苦しい悲鳴をあげ、涙の代わりにコンクリート片をボロボロとこぼしながら崩壊し始める。
吹き飛ばした至高の血族たちに当然の結果だと言わんばかりの冷ややか視線を送ったあと、少女は踵を返して再び走り出そうとする。が、
「逃がさん」
雨のように降りしきるコンクリート片を掻い潜り、男の至高の血族が一人、少女に肉薄する。闇夜ゆえの錯覚か、それとも現実か、男の両手は膜のように薄い、闇色のオーラに包まれていた。
間合いに入るや否や繰り出される音速の貫手。少女は身を沈めてそれをかわすも、遅れて沈もうとしたフードが切り裂かれ、美しい銀色の髪が曝け出されてしまう。
立ち上がりざまに、少女は帯を振り上げる。つい先程まで五メートルほどもあったそれは、いつの間にか二メートルにも満たないほどにまで縮んでおり、そのせいもあってか、男が軽く飛び下がるだけで容易くかわされてしまった。
「取り回しを優先したのは失敗だったな!」
「そうでもないぞ」
振り上げた帯を流れるような速さで振り下ろす。男は帯の届かない距離まで飛んでかわしたのだ。二撃目が届く道理はない。はずだった。
音速を超えて振り下ろされた帯は、またしても、唐突に、長さが変わっていた。
三メートル以上にまで伸びた帯を、男は頭上に両腕を交差させて受け止める。ミシリと骨の軋む音が耳朶に触れ、両足がほんの少し地面にめり込む。重さとは無縁に等しい帯にあるまじき重い一撃だった。
すかさず男は帯を掴み取ろうとするも、その時にはもう帯は闇に溶け込むように消え去っていた。少女はすでに漆黒の帯を消し、逃げの一手を打っていたのだ。
男は煩わしげにフードを脱ぐ。
大人と呼ぶには少々幼く、少年と呼ぶには少々大人びた顔立ちをしていた。髪は血気に逸る瞳と同様、血のように赤かった。
「ふん、このクラフトから逃げられると思うなよ、不純の血」
言い終わる頃には、赤髪の至高の血族——クラフトの体は闇に吸い込まれるように消えていた。
異変に気づいた少女は走りながら後方を振り返る。直後、
「逃がさんと言った」
後ろから、クラフトの声が耳に滑り込んでくる。
慌てて進行方向に振り向いた時には、刀と呼ぶにふさわしい鋭い手刀が目前まで迫っていた。
少女は走る勢いをそのままに、手刀を掻い潜り、肩からクラフトに突っ込んで突き飛ばそうとする。しかし、同じ至高の血族といえども男女の力の差はあるらしく、腰を落としたクラフトに踏み止まれてしまう。
そして、
「……っ!?」
零距離の貫手が、少女の胸に突き刺さる。
心臓を狙った一撃だった。
「終わりだな、不純の血」
「まだ……だ……!」
まだ動けることが予想外だったのか、体当たりすら耐えきってみせたクラフトが、少女の細い両腕に突き飛ばされ、たたらを踏む。瞬間、少女はその隙を逃すまいと、クラフトの首筋めがけて手刀を振るう。クラフトは突き飛ばされた勢いを利用して飛び下がるもかわし切れず、首筋をかすめた指先が闇夜に赤い弧を描いた。
予想外の反撃を受けたクラフトは首筋の血を拭いながら、忌々しげに少女を睨みつける。少女はすんでのところで身をよじり、心臓を貫かれることだけは避けていたのだ。
しかし、
「はぁ……はぁ……」
胸を貫かれたことは事実。黒色のおかげで目立たないが、ローブの胸のあたりには大きな血の染みが拡がっていた。
(やはり、互いに〝貴血の加護(ブレス)〟が働いておらぬ……これでもなお同族として認めぬのだから、つくづく度し難いな。ストーカー家の純血主義というものは……!)
もはや言葉を発する余裕もなく、心の中で毒づきながらクラフトを睨み返すのが精いっぱいだった。
後方から複数の足音が聞こえてくる。先程、漆黒の帯でまとめて吹き飛ばした四人が追いついてきたのだ。
「万事休すだな」
勝ち誇った笑みを浮かべながら、クラフト。
少女は唇を噛み、絶望に震えそうになる体を気力で抑えつける。
(まだだ! まだ生き延びる手立ては残っておる!)
だから弱気になるな! 無様に震える姿を奴らに見せるなど以ての外だ!——そう自分を叱咤しながら、少女は再び漆黒の帯を創り出した。
最後の抵抗を警戒して身構えるクラフトたちをよそに、少女は帯を空に向かって思い切り振り上げる。振り上げた帯はぐんぐん伸びていき、ビルの屋上を囲う錆だらけの金網に絡みつく。直後、帯は急速に縮んでいき、収縮の力によって引っ張り上げられた少女は瞬く間に屋上に招き入れられた。
「まだ足掻くか、不純の血」
頭上を見上げるクラフトの口から、歯噛みする音が聞こえてくる。
「いいだろう。ならば徹底的に追い詰めてやろうではないか。この世に生を受けたことを後悔するほどにな」
刹那、クラフトたちは黒い風となって少女の後を追った。
なにもかもが赤かった。
空は朝焼けで真っ赤に燃えていた。
地は人間(なかま)と至高の血族(てき)の血で真っ赤に染まっていた。
そして、その血を浴びた自分もまた、真っ赤に染まっていた。
黒かった髪も、白かった軍服も、その手に持った刀も……なにもかもが血の赤に染まっていた。
ふと、眼下に視線を落とす。
足元には人間と至高の血族の死骸が累々と横たわっていた。
自分を除き、生ある者は一人もいなかった。
誰もいない血塗られた場所——そこが自分の居場所。
認めたくなかった。
認めざるをえなかった。
なぜなら、自分は————…………
ジリリリリリリリリッ!!
デジタルな外見とは裏腹に、けたたましい音を立てる目覚まし時計に顔をしかめつつ、十影(とうえい)はゆっくりとベッドから起き上がる。
「血生臭いのは現実だけにしろっての……」
窓一つない、四方をコンクリートに囲われた狭い部屋だった。それでも個室を与えられているだけマシだと思いながら、十影はベッドの脇に置いていた目覚まし時計の頭(スイッチ)を叩いて黙らせ、ため息をつく。
「もう夜か」
時計は20:00と表示されていた。
ベッドから下りると部屋の入口脇にある洗面所に向かい、顔を洗ってから鏡に映る仏頂面に視線を移す。夢の中とは違い、黒い瞳に映る景色には血の赤は一つも混じっていなかった。夢の中では血塗れだった髪も、今は瞳と同じ色をしている。
そんな当たり前のことを確認したあと洗面所を離れ、クローゼットから上着の裾が長い純白の軍服を取り出してベッドの上に放り投げる。寝巻を脱ぎ捨てて手早く軍服に着替えると、壁に立て掛けていた刀を掴み、部屋の外に出た。
十影のいる建物は、古代文明のコンクリートビルを改修したものだった。
改修の際に、十億分の一(ナノマシン)以下に極小化された機械——ミニマイズマシンを壁、床、天井、柱……建物のあらゆるところに注入。そうすることである程度の破損や劣化はミニマイズマシンが修復し、また、屋内の温度、湿度も自動で最適化してくれるようになっている。千年前の名残りは、もはや見てくれだけにしか残っていなかった。
最上階——五階の角にある自室を出た十影は、まずは腹ごしらえをするために階下におり、食堂を目指す。
食堂のある二階につくと、
「よう、十影。今から飯か?」
こげ茶色の短髪と顔に刻まれた無数の細かい傷が特徴的な、三十代半ばほどの男が気安く声をかけてくる。男もまた、十影同様白い軍服に身を包んでいた。
「ああ。ドルドのおっさんはこれから哨戒か?」
十影はドルドの後方、少し離れたところにいる、自分とそう歳の変わらない、年若い四人の男女に視線を向ける。もっとも、男女といっても比率に偏りがあり、女は一人しかいないが。
「もうちょいしたらな。ったく、あと二〜三日で終わりってところで新兵(ヒヨッコ)どものお守りをさせられるとは思わなかったぞ」
「ぼやくなぼやくな。エクイテスと人手不足は切っても切れねえ関係だからな」
「そりゃ違いない」
そう言って、ドルドは鼻で笑った。
エクイテス——それは純白の軍服と、至高の血族の弱点である銀製の兵装に身を包み、矢面に立って至高の血族と戦う、対至高の血族用に結成された武力組織。
ゆえに、慢性的に人手が足りないのが現状だった。
至高の血族の前では、熟練の兵士ですらあっさりと命を落とすことがある。凡百の兵士や新兵ともなれば、なおさらその可能性は高くなる。人手不足に陥るのは必然としか言いようがなく、エクイテスに所属する誰も彼もがその現実を受け入れるしかなかった。
「新兵たちのBI(ビーアイ)訓練時間はどれくらいなんだ?」
「一人を除いて百時間だ」
「最低水準ギリギリかよ。本当にヒヨッコじゃねえか。ちなみに除いた一人は?」
ドルドは口を開きかけるも、
「アレだよ」
と、一人、こちらにやってくる少女を顎で示す。
子犬のように無垢そうな、そんな印象を受ける少女だった。
肩までかかる亜麻色の髪はツーサイドアップにまとめられていた。瞳の色も亜麻色で、最初に受けた印象と同様に、無垢な子犬のようにつぶらな瞳をしていた。身長は後ろにいる三人の新兵よりも頭一つ以上低いものの、胸のふくらみは軍服の下からでもわかるほどに大きく、印象どおりに子犬扱いするのは少々憚れるものがあった。
ドルドの横で足を止めた少女は、おそるおそる十影に訊ねる。
「あの……その刀、もしかして十影さんですか?」
少女の言葉に、三人の新兵は揃って目を見開き、揃って十影を見つめた。
「そういや時間が合わなかったから、お前らはまだ会ってなかったな。ご想像どおり、このクソガキが十影だ」
直後、後ろにいた新兵たちがこちらに駆け寄り、
「ほ、本当に十影さんなのですか!?」「だ、だ、第三十三太陽塔(だいさんじゅうさんツリー)設営戦の話を聞かせてください!」「〝暁の英雄〟に会えるなんて!」
新兵たちがドルドの脇を通り過ぎようとしたところで、ドルドは片腕を拡げ、三人の突進を軽々と止めてみせる。
「なんだなんだ随分元気が有り余ってるじゃないか。哨戒行く前に一揉みしてやろうか?」
哨戒前に訓練してやろうというドルド小隊長の素晴らしい提案を前に、新兵たちは顔を引きつらせながら、スゴスゴと元いた位置にもどっていった。一人を除いて。
ドルドの隣で微動だにしていなかった少女は、ニッコリと笑い、
「あたし、クイン・クインと言います。これからもよろしくお願いしますね」
そう言って小さく会釈したあと、三人のところに戻っていった。
「……おっさん、クソガキとは随分じゃねえか」
仏頂面をますます不承にさせながら、十影。
「そこは聞き流しとけよ。それよりお前、気をつけろよ」
「なにをだ?」
「クインだよ。お前、たぶん狙われてるぞ。あいつが同世代に敬語使ってるところなんざ初めて見たわ」
「どういう意味だよ?」
「お前、クインを見てどう思った?」
「そりゃ、まあ、かわいいとは思ったけど……」
「はいアウト」
「だからどういう意味だよ!?」
ドルドは声を荒げる十影の首に腕を回し、クインたちに背を向けて耳打ちする。
「あいつ、男性遍歴が凄まじくてな。付き合った男の数も相当らしいぞ」
「アレでか?」
「アレでだ。後方(クストス)から前線(エクイテス)に飛ばされる程度にはやらかしてる」
「おいおい、いったいなにやらかしたってんだよ?」
「恋仲になった上官が妻子持ちだったんだよ。まあ、そんなだから別れることになったのは必然だけどよ、問題はそのあとだ。信じられるか? その上官、クインが原因で離婚するハメになって、おまけに降格までさせられたのに、いまだにクインに惚れてんだぜ?」
「冗談だろ?」
「冗談とは思えない話が他にもわんさかあるが、聞くか?」
「いや、遠慮しとく」
げっそりしながら、十影はドルドから離れた。
「彼女の歳は?」
「お前の二つ下」
「十六かよ。随分波乱万丈な生き方してんな」
「お前がそれを言うか」
「おれはいいだろ。それより、彼女だけがBI訓練時間が違うって言ってたよな? 何時間なんだ?」
「他の新兵の倍だ」
「二百時間か。随分がんばってんじゃねえか」
「風紀という一点を除けば、優秀極まりないからタチが悪い。勤勉さも、百時間で満足しているヒヨッコどもに見習わせてやりたいぐらいだからな」
ため息をつきながら、ドルドは十影から背を向ける。
「ぼちぼち時間だし行くわ。まあ、暇があったらお前に憧れてるヒヨッコどもに話でも聞かせてやってくれ」
「へいへい。ドルド小隊長殿は部下にお優しいことで」
「それが俺のウリだからな」
「言ってろ」
軽口を叩き合ったあと、ドルドはクインたちを連れて階下におりていった。
直後、十影の腹が唸りを上げる。
「いい加減、飯食いにいくか」
腹を擦りながら、十影は食堂へ向かった。
「つっまんねえな〜」
あまりにもなにもない哨戒任務。自然、新兵の口から不平と欠伸が漏れ、自然、新兵の頭にドルドの拳骨が振り下ろされる。頭を抱えて痛がる新兵に追い打ちをかけるように、ドルドの一喝が古代文明のビルが建ち並ぶ廃墟にこだました。
「弛みすぎだバカもんが!」
「ま〜ま〜小隊長。もうすぐ夜明けですし、弛んじゃうのもしょうがないですよ」
愛想笑いを振り撒くクインに毒気を抜かれながらも、ドルドはまだ厳しめの口調で、
「そうはいかん。至高の血族(やつら)の中には、こちらが弛む瞬間を狙って襲撃をかけてくる者もいる。一瞬の気の緩みで死んでしまった奴を、俺は何人も見てきたからな」
重い言葉を前に、新兵たちは黙り込んでしまう。
結果的に部下を脅してしまったことを反省しつつ、ドルドはなんとはなしに、夜空というキャンパスを切り取るように屹立する白い塔に視線を移した。
高さ八百メートルほどもあるそれは太陽塔(ツリー)と呼ばれ、最上部にはその名が示すとおり、人工太陽——アポロン六号基が設置されていた。
千年の間、地底ではほとんど必要とされなかった武器や兵器、長距離の移動に関わる技術は衰退したが、その一方で着実に進歩した技術もある。地底に住んでいた人々が暖かな太陽の光を求めて造り上げた人工太陽が、そのうちの一つだった。
本物の太陽光には及ばないが、人工太陽光には至高の血族の体を焼き、死に至らしめるだけの力がある。それゆえに、太陽塔は人間が至高の血族から身を守るうえで必要不可欠の存在だった。
けれど今は、太陽塔から人工太陽光は照射されていない。
夜や雲の多い日は、地底に建造されたマントル熱対流を利用した発電所から送られる電力を使って、太陽塔から地上に人工太陽光が照射されるが、現在アポロン六号基は修繕中のため、太陽塔のお膝元であるにもかかわらず、この地域には半月ほど、夜が訪れていた。
当然、それを知った至高の血族は太陽塔の破壊を目論む。アポロン六号基の修繕が終わるまで、この第六太陽塔を防衛すること——それがドルドたちの任務だった。
「そういえば、十影さんも今はどこかで哨戒してるんですよね?」
ドルドの重い言葉を聞いても堪えなかったのか、それとももう立ち直ったのか、明るい声音でクインが訊ねてくる。
「あいつのやってることは遊撃というか狩りというか……ちょっと哨戒とは言い難いが、まあ、この辺りのどこかにいるのは間違いないな」
「バッタリ会えたりしませんかね〜」
夢見る少女のような表情で、クイン。
その様子を見て「たぶん」ではなく「確実に」クインが十影を狙っていると、ドルドは確信する。が、よくよく考えたら十影は独身で、特に浮いた話もない。クストスの上官の時とは違って交際しても特に問題は見当たらない。なにより、そうなったらそうなったで面白そうだと思ったドルドは、「ほっといてもいいか」という結論を心の中で下した。
「十影さんの小隊って、やっぱり手練揃いなのですか?」
「おいおい、人手不足なのに一つの小隊に戦力を集中させるわけないだろ」
「ということは、十影さんの小隊も新兵だらけなのですか?」
そこに入りたかった——と、わかりやすいほどに顔に書かれているクインを見て、ドルドは内心苦笑する。
「あいつの小隊に入れる新兵なんて一人もいないから安心しろ。なんてたって、あいつは小隊を組まずに一人で行動しているからな」
「一人でって……その話、本当なのですか?」
「本当だ。あいつの行き先は常に死地の真っ只中だからな。ついてこれる奴がいないんだ」
「……ありえない話ですよね」
いつの間にか興味津々に耳をそばだてている新兵たちにため息をつきつつ、ドルドはクインの言葉に同意する。
「まったくだ。至高の血族一人相手にこちらは二人以上で戦うのがセオリーなのに、あいつは一人で複数の至高の血族を相手にしやがるからな。剣を極めた一族の末裔だかなんだか知らないが、はっきり言って同じ人間とは思えん」
ドルドの一言一句に、新兵たちは目を輝かせていた。
十影は三年前に起きた、第三十三太陽塔設営戦と呼ばれる、至高の血族との大きな戦で多大な戦果を上げ、エクイテスを勝利に導いた英雄だった。
当時十五歳だった十影は新兵とは思えない獅子奮迅の働きを見せ、大勢の至高の血族を束ねていた〝至高の中の至高(オブ・ザ・スプリーム)〟と呼ばれる者を仕留め、勝利に大きく貢献した。
その功績から、十影は人々から〝暁の英雄〟と敬われるようになり、至高の血族からは返り血を浴びたその姿から、〝赤い剣鬼(レッドオーガ)〟と恐れられるようになった。
ドルド小隊の新兵たちの年齢は十五〜六歳。十八歳の十影とそう変わらない。だからこそ、新兵たちにとって十影は憧れの存在となっていた。
しかし、当の十影がそのことを煩わしく思っているのを、ドルドは知っているので、
「けどまあ、所詮は十八のガキんちょだからな。根っこの部分は、お前らとそう変わらない。だからまあ、あんまり特別視することはないぞ」
と、それとなく注意してみるも、新兵たちの様子を見るかぎり、今の言葉は右から左に流れていってしまったようだ。
「小隊長、もう一つ訊いてもいいですか?」
「構わないが……クイン、お前まさか暇潰しで質問重ねてるんじゃないだろうな?」
「いえいえ、そんなことは」
ニッコリとクインは笑う。
仮面と断ずるにはあまりにも柔和な笑顔を前に、ドルドはクインの真意を推し量ることを放棄して、おとなしく質問を聞くことを選ぶ。
「で、なんだ?」
「十影さんもそうですけど、小隊長も近接武器を得物にしていますよね。どうして銃器を使わないのですか?」
クインも、新兵の三人も、銀の弾丸を込めた装弾数十五発の自動式拳銃(オートマチック)を得物にしている。それに対し、十影は刀、ドルドは槍を得物にしていた。
思いのほか真面目な質問に気をよくしたドルドは、右手に持った銀の槍を持ち上げ、得意げにクインたちに見せつける。
「至高の血族(あいつら)は銃弾なんざ平気でかわしやがるからな。BIを摂取したあとだと近接武器(こっち)の方が断然強い。その一方で、BIを飲む前やBIが切れた状態だと、銃の方が格段に戦いやすいのも事実。結局のところ、使い慣れたものを得物に選ぶのが一番ってわけだ。銃にこだわらず、お前らはお前らで自分なりの正解を見つけ——」
突然言葉を切り、ドルドはベルトの左側に吊り下げた、長方形の黒いケースから一本の細長いアンプルを取り出す。呆気にとられる新兵の一人に向かって、
「ジョムス、お前も飲んどけ」
一言命令してから、アンプルの蓋を開け、中の赤い液体を一息に飲み込んだ。慌てているのか、おっかなびっくりな手つきでアンプルを取り出すジョムスを尻目に、ドルドは二十メートルほど先にいる人影を鋭い視線で睨みつけた。ドルドの視線の先には、
黒いローブに身を包んだ金髪の男が、通りのど真ん中に立っていた。
夜であるがゆえにフードをかぶっていないが間違いない。
至高の血族がドルド小隊の前に姿を現したのだ。
誰かが生唾を飲み込む音が、ドルドの耳朶に触れる。その時には、至高の血族はドルド小隊の目の前まで迫っていた。
尋常ではない速さの踏み込み。なにが起きているのか理解していない新兵たちを守るように、ドルドは素早く四人の前に立ち、槍を構える。その佇まいを見て手強いと判断したのか、至高の血族は烈風さながらにドルドの脇を抜け、新兵に襲いかかろうとする。が、
「やらせん」
ドルドは烈風の首根っこを掴み取り、片腕だけで放り投げる。放り投げられた至高の血族はまるで玩具のように、容易く、凄まじい勢いで飛んでいき、すぐそばにあったビルの壁を突き破った。
この程度では至高の血族に傷一つ負わせられないことは百も承知。ドルドは追撃をかけるべく地を蹴り、至高の血族に比するほどの速さで疾駆する。全く同時に、ビル壁の穴から至高の血族が飛び出し、勢いをそのままにドルドに向かって貫手を繰り出した。
一本の矢と化して突貫してくる至高の血族に微塵も臆することなく、ドルドもまた一本の槍と化して突進の刺突を繰り出す。
槍と矢はそのまま真正面からぶつかり合う。かに思われたが、激突の寸前に二人は半身になり、すれ違いざまに互いの頬をかすめるだけの結果に終わる。
ドルドも至高の血族もそんな結果で満足するはずもなく、突進の勢いを一足で殺し切り、即座に反転。至高の血族は間合いを潰すべく踏み込もうとするも、ドルドが反転しながら振るった横薙ぎに出鼻をくじかれ、舌打ちを漏らしながら飛び下がった。
短くも苛烈な攻防を目の当たりにした新兵たちは揃って息をのみ、同時に、至高の血族と独力で渡り合う小隊長の力量に感嘆の念を抱いていた。
人間のそれをはるかに凌駕した、至高の血族に比するドルドの身体能力……この力には当然、カラクリがある。
ドルドが先程摂取した赤い液体……それこそが人間が至高の血族に抗する、太陽塔と並ぶ第二の切り札——BIこと、ブラッドイグニッションだった。
千年前の民間伝承(フォークロア)の中に、吸血鬼の血を飲んだ者は吸血鬼になるという話がある。
それはあながち間違いではなく、至高の血族の血を飲んだ人間は、至高の血族に比する鋭い知覚と高い身体能力、驚異的なまでの反射神経を得ることができる。それだけで済むならこれほどうまい話はないが、当然代償は用意されており、至高の血族の血を飲んだ人間は、血が暴走し、体中の血管が破裂して死に至ってしまう。
人間たちは考えた。血の暴走さえ抑えることができたら、至高の血族の血はこれ以上ないほどの「力」になるのではないのか、と。
まずは血の暴走を抑える中和剤を作り、そこから至高の血族の血と中和剤を配合。何千何万という思考と試行を繰り返し、できあがったのがBIだった。
血を薄め、中和剤と配合したため、BIを摂取しても人間は至高の血族と同等の力を得るまでには至らなかった。が、その差は日々の研鑽で埋められる程度の差だった。
効果時間はわずか十分。おまけにBIを摂取してから三十分以内に連続使用すると血の暴走を引き起こす恐れがあるという欠点と欠陥の多い代物だが、人間が、エクイテスが至高の血族と戦う上で、BIはなくてはならない存在だった。
ドルドと至高の血族は離れた間合いを維持したまま、ジリジリと円を描いて相手の出方を窺う。
場が膠着している今しかないと思ったドルドは、視線を至高の血族に固定したまま、新兵たちに指示を飛ばした。
「一人で来るはずがない! 周囲を警戒しろ!」
我に返るように、新兵たちは腰に下げたホルスターから拳銃を抜く。その中でクインただ一人だけが、至高の血族が現れた時点で銃を抜き、ドルドに言われるまでもなく周囲を警戒していた。
「ジョムス! 仲間を守るのはお前だ! 死ぬ気で奴らの気配を探れ!」
鳥類の如き視覚を、肉食動物の如き嗅覚を、草食動物の如き聴覚を総動員して、ジョムスは周囲の気配を探る。
BIを摂取した者が攻めと守りを引き受け、BIの効果が切れた者や未摂取の者が援護に徹する。十分を超える戦闘を想定し、小隊内で時間差でBIを使用し、ローテーションさせることがエクイテスの基本戦術だった。
ゆえに、新兵の中で唯一BIを摂取したジョムスの責任は重大だった。
BIなしで、生身で至高の血族と戦える人間はそうはいない。仲間の命はドルドとジョムスの二人にかかっている。熟練の兵士たるドルドはともかく、ジョムスにとってそれはあまりにも重すぎる荷だった。
銃を握るジョムスの手は汗にまみれ、口からは「ヒューヒュー」と、過呼吸にも似たおかしな呼吸音が漏れていた。
BIを摂取したことで知覚が鋭敏化されたドルドがジョムスの異変に気づかないはずもなく、ジョムスの負担を減らすためにも、新兵の中で最も落ち着いているクインにBIを摂取するよう命令を下そうとした、その時だった。
まるでそのタイミングを狙い澄ましていたかのように、至高の血族が地を蹴り、ドルドに肉薄する。虚を突かれたドルドは慌てて槍を縦に構え、首筋を狙った手刀を柄で受け止めた。
防御が間に合ったことに胸を撫で下ろす間もなく、乱れ狂うように手刀が次から次へとドルドに襲いかかり、防戦を強いられてしまう。一方的に攻め立てる至高の血族の顔には、勝利を確信したかのような冷笑が貼り付いていた。
「なにを笑ってやが——」
言い終わるよりも早く、冷笑の理由に気づいたドルドは、焦りとともに怒号を口から吐き出した。
「上だ、ジョムスッ!!」
「え?」
あまりにもかぼそく、あまりにも間の抜けた返事だった。そして、それがそのまま、ジョムスの辞世の句となってしまう。
視線を上に向けると、ビルから飛び下りたのか、一人の至高の血族が空から降ってくる。その至高の血族は落下の勢いをそのままに、手刀を振り下ろしてジョムスを縦真っ二つに切り裂いた。
「うわああああああああッ!!」
左右に引き裂かれた仲間を見て、新兵の一人が恐怖をまるごと吐き出すような悲鳴をあげる。もう一人の新兵は慌ててBIを摂取しようとするも、至高の血族の目の前でその行動は命取り以外の何物でもなかった。
「か……ッ!?」
BIを摂取するよりも早く、至高の血族の貫手が新兵の喉を貫いた。直後、
「閉じて!!」
悲鳴に近い叫び声がクインの喉を裂く。
クインの言葉の意味、それは閃光手榴弾(フラッシュバン)の使用を宣言する、小隊内で取り決めた隠語だった。
閃光手榴弾のピンを抜き、至高の血族に向かって放り投げ、目を閉じて耳を両手で塞ぐ。瞬間、円筒状のそれは爆音と閃光を発し、至高の血族の視覚と聴覚を奪い去った。
人間とは違い、閃光手榴弾によって生じた一時的な失明も、耳鳴りも、至高の血族はものの数秒で回復してしまう。
しかし、数秒でも隙は隙。
爆音と閃光をやり過ごしたクインは至高の血族の胸に銃口を突きつけ、ありったけの銀弾を叩き込んだ。
レーザーやプラズマキャノンといった最新兵器の直撃を受けても無傷でいられる至高の血族といえども、弱点である銀でできた弾丸で心臓を撃ち抜かれてはひとたまりもなく、大の字になって倒れ、事切れた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
動かなくなった至高の血族を睨みつつ、一瞬で十五発全てを吐き出した弾倉(マガジン)を捨て、震える手で新しい弾倉を装填する。
新兵の中で最も落ち着いているといっても、クインはあくまでも新兵。仲間を殺されたショックによるものなのか、あるいは極度の緊張によるものなのか、表情には疲労の色が見え隠れしていた。
「……クソッ」
ドルドは相対する至高の血族の猛攻を凌ぎながら、部下を二人も死なせてしまったことを歯噛みする。哀悼は後だ。これ以上誰も死なせないためにも、今は一刻も早く目の前の敵を仕留めなければならない。
覚悟を決めたドルドは、心臓目がけて放たれた矢のような貫手をわざと左肩で受け止め、突き刺さった指を筋肉の力で咥え込んだ。
仲間を殺されてなお顔に貼りついていた冷笑が、狼狽に変わる。ドルドはその隙を見逃すことなく心臓に槍を突き刺し、至高の血族を一撃で絶命させた。
崩れるように倒れる至高の血族から槍を引き抜き、怪我の具合を確かめる。痛みさえ無視すれば問題なく動かせることを確認してから、ドルドは急いでクインたちの元に駆け寄った。
「小隊長! その傷……」
心配するクインに「かすり傷だ」と虚勢を張りつつ、物言わぬ肉塊と化した二人の部下を一瞥し、悪態をつく。
「腐れ吸血鬼どもがッ!…………クイン、ラルフ、お前たちもBIを飲んどけ。この人数じゃあローテーションもへったくれもないからな」
「まだ、いるんですか?」
クインの問いに首肯を返し、
「少なくとも、こちらと同じ数はいる」
その言葉を聞き、クインとラルフはすぐにBIを取り出し、飲み干した。
ラルフはもちろんのこと、クインまでもが少し青ざめた顔をしていたので、ドルドはできるかぎり明るい声音で、二人に明るい話題を教えようとする。しかし、
「心配するな。あいつに救援信号を出しておいた。そのうち駆けつけ——」
パンッ
銃声が廃墟に響き渡る。
「なっ……バカな……!?」
信じられないと言いたげな顔をしながら、ドルドは自分の胸から流れる血を、赤く染まっていく軍服を見つめる。
後ろから銃で撃たれた——その事実を、ドルドはなかなか受け入れることができなかった。なぜなら至高の血族が人間の兵器を使用するなどという話は、少なくともドルドは見たことも聞いたこともなかったからだ。
BIを摂取しているにもかかわらずまともに銃撃を受けてしまったのは、長い年月をかけて培った経験により結論づけた、「至高の血族が人間の武器を使うはずがない」という固定観念のせいに他ならなかった。
どこか遠く聞こえる部下たちの悲鳴には応じず、ドルドはゆっくりと後ろを振り返る。
ドルドの視界には、うすら笑いを浮かべる三人の至高の血族が映っていた。
顔を見ればわかる。奴らはただの気まぐれでエクイテスの誰かから銃を奪い、引き金(トリガー)をひいたことを。
再び、銃の雄叫びが廃墟にこだまする。
BI摂取後なら、人間も銃弾をかわすことは不可能ではない。が、胸を撃たれたドルドの意識には霞がかかり、体は海の底に沈められたかのように重かった。銃弾など、かわせるはずもなかった。
至高の血族を貫くべき銀の弾丸は、ドルドの眉間を無慈悲に貫いていった……。
まるで散歩するような足取りだった。
いつ至高の血族と遭遇するかもわからない夜の廃墟を、十影は驚くほど気楽な歩調で歩いていた。それも、たった一人で。
仮に十影以外の兵士が同じように歩いていた場合、新兵ならば無知ゆえの余裕だと笑われ、熟練の兵士ならば油断しすぎだと窘められていたところだろう。
だが、十影は違う。
十影が鼻歌を歌いながら哨戒をしていても、無知だと笑う者は、油断だと窘める者は、エクイテスの中には一人もいない。なぜなら弛緩しているのはあくまでも外面だけだということを、皆が知っているからだ。
十影の軍服には、赤い彩りが添えられていた。
彩りの全てが至高の血族の返り血だった。
この夜、十影が斬り捨てた至高の血族の数はすでに二桁を超えていた。
文字どおりの一人軍隊(ワンマンアーミー)。至高の血族たちがゲリラ戦じみた戦法で第六太陽塔の破壊を目論むのも、ひとえに十影の、〝赤い剣鬼〟の存在を恐れてのことだった。
足を止め、大口を開けて欠伸をしていると、
「…………ん?」
軍服の内ポケットに入れていた、個人用携帯情報端末——PD(ピーディー)が振動していることに気づく。
懐から取り出したPDの画面には、第六太陽塔周辺の地図が表示されていた。その中で一カ所、十影の現在地からやや離れた位置で赤く点滅する光を確認する。救援を要請する光だった。
光の下に表示された名前を見て、十影は舌打ちを漏らす。
「なにやってんだよ、おっさん」
弛緩していた足取りが一変、十影は猫科の動物さながらに、風を切って廃墟を駆け抜け始める。
ドルドが救援信号を出すことは珍しいことだった。
だからこそ、嫌な予感がする。
十影は急ぎ、救援信号が発せられたポイントに向かった。
仰向けになって倒れる、ドルド。
未来永劫命令を叫ばなくなった小隊長を見て、クインは思わず悲鳴をあげる。
「小隊長っ!!」
遅れて響いたのは、理性が消し飛んだラルフの叫びだった。
「ああアアアァァああアあアあアアアアああああぁッ!!」
狂ったように引き金を引き絞り、吐き出された十と五の銀弾が三人の至高の血族に殺到する。三人は右に、左に、上に、散開して銀弾をかわした。
ラルフは正気を置き去りにした目で前方を見据え、隠語も合図もなしに閃光手榴弾を放り投げる。
「バカ……!」
慌ててクインは目を閉じ、耳を両手で塞いだ。
至高の血族にそう何度も同じ手が通用するとは思えない。爆音と閃光をやりすごしてからすぐに視線をラルフに戻すと、
胴体と泣き別れしたラルフの下半身が、たたらを踏んで倒れる姿が目に飛び込んでくる。
悲鳴よりも先に込み上げてきた嘔吐感を、クインは必死に堪えた。
これで、ドルド小隊も残るは自分一人。
絶望的な状況と言わざるをえない。
しかし、僅かではあるが希望はある。
ドルドは死ぬ前に、誰かに救援信号を出したと言っていた。それまで持ちこたえることができれば生き残れる。ドルドたちの仇も討ってもらえる。
だけど、それまで自分は生きていられるだろうか?——考えたくもない疑問が、クインの脳内で鎌首をもたげる。
「そう恐がらなくてもいいよ、子猫ちゃん」
ドルドを撃ち殺した至高の血族が、用心金(トリガーガード)に指をひっかけてクルクルと銃を回しながら話しかけてくる。表情も口調も気障ったらしい男の至高の血族だった。
「いや待てよ……君の場合は子犬ちゃんと呼んだ方が、しっくりくるかもしれないね」
言い得て妙だと思ったのか、得意げな笑みを浮かべる男に、仲間の一人がうんざりした声と視線を投げかける。
「おいスルガ、いい加減銃(それ)を回すのはやめろ。誤って発射されたらどうすんだ」
「そんなのかわせば済む話じゃないか」
「この距離でか?」
数瞬、沈黙を挟み、
「はいはい、わかりましたよ」
銃を投げ捨てた。それからクインに向き直り、
「え〜っと、なんの話だったかな? あ〜そうそう、君は殺したりしないから、そう恐がることはないよって言ったんだったね」
ふざけた態度のスルガに苛立ちを覚えながらも、クインはできるかぎり冷静に平静に問い返す。
「どういう意味よ?」
「言葉どおりの意味さ。君の血はおいしそうだからね。殺すのはもったいなさすぎる」
人間の、処女の生き血は、至高の血族にとって芳醇なワインよりも味わい深いものだという話を聞いたことがある。こちらは嘘か本当かはわからないが、血の味は容姿に左右されるという話も聞いたことがある。外見だけを見れば、クインはその条件をどちらも満たしている。それはつまり、
「あたしを、飼うつもりなの?」
「有り体に言えば、そういうことになるね」
「冗談。死んでもお断りよ」
そう言って、クインはスルガに向かって銃を構えた。
こちらの抵抗を警戒したのか、スルガの隣にいた二人が一歩前に出てくる。
「至高の血族って、一人じゃ女の子も口説けないタマなしなの?」
至高の血族はプライドの高い者が多い。それを承知した上での挑発だった。
スルガはわざとらしく肩をすくめ、前に出た二人に言う。
「というわけだ。二人とも下がってくれないかい? 彼女が所望するダンスパートナーはこの僕なのだから」
「わかってんのか、スルガ? ここには〝赤い剣鬼〟がいるんだぞ? それに俺たちの目的はあの忌々しい塔を——」
「わかってるよ。そんなに時間はかけない。すぐにでも手足の骨をへし折って、彼女の甘美な悲鳴を君たちにも聞かせてあげるよ」
冗談めかした口調。だが、クインにはスルガの言葉が冗談には聞こえなかった。
至高の血族(やつら)は冗談で人間の手足をへし折ることができる。人間の命を摘むことができる。自然、クインの背筋に冷たい滴が伝っていく。
「それじゃあいくよ、子犬ちゃん」
転瞬、照星(フロントサイト)の向こう側にいたスルガの姿が消える。
BIによって高められた動体視力すらも上回る速度。だが、視覚は欺かれても、他の知覚がしっかりとスルガの存在を捉えていた。
クインは通りの右側、ビルの壁を走って接近してくるスルガに銃口を向け、引き金をひく。弾丸は真っ直ぐにスルガの心臓を目指すも、すんでのところで壁を蹴られ、左側のビル壁に飛び移られてかわされてしまう。
やはり遠距離で至高の血族に弾丸を当てるのは至難。無駄弾を撃つのはやめ、スルガに銃口を向けながら接近してくるのを待つことにした。
スルガはビル壁を蹴って跳躍し、上空からクインに襲いかかる。
いくら至高の血族といえども、空中でできることは限られている。クインはここぞとばかりに、上空に向かって弾丸をばら撒いた。が、スルガが右腕を強く振り抜くと、それによって生じた風圧でスルガの体が横に流れ、弾丸は虚しく夜空に飲み込まれてしまう。
「まずはその右腕だ」
狙う場所を宣言して、スルガは着地と同時に銃を持つ手を掴みにかかる。
得物は銃だが、BI訓練で徒手戦闘も研鑽を積んでいる。クインは左手でスルガの腕を払いつつその場で旋転し、遠心力を乗せた横蹴りをスルガにくらわせた。
BIを摂取したことにより、小さな体躯からは想像もできないほどの力で蹴り飛ばされたスルガが宙を舞う。だが、どれほど強力な蹴りでも、靴底に銀板を仕込んでいない限りは至高の血族に傷一つつけることはできない。蹴りはあくまでも次の攻撃の繋ぎでしかなかった。
懐から円筒状の物体を取り出し、ピンを抜いてスルガに向かって放り投げる。閃光手榴弾だと思ったのか、スルガは両目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。
スルガは気づいていない。同じ円筒状でも、今クインが放り投げた物が閃光手榴弾とは異なった形状をしていることに。
クインが大きく後方に飛び下がった直後、円筒状のそれは爆発し、周囲に銀の破片を撒き散らした。クインが投げた物は閃光手榴弾ではなく破片手榴弾(フラグメンテーション)だった。
「ぎゃああああああッ!!」
無数の銀片が体中に食い込み、スルガは悶絶しながら、頭から地面に落下する。
千載一遇のチャンス。破片手榴弾の爆発範囲から退避していたクインは仰臥するスルガに銃口を向ける。都合良くこちらに頭を向けて倒れていたので、脳天に狙いをつけて躊躇なく引き金をひいた。が、
またしても、照星の向こう側にいたスルガの姿が消え、吐き出された銀の弾丸が虚しい音を立てて地面に穴を空ける。
「勝てる——なんて思わせちゃったかい?」
足元から聞こえる嘲笑混じりの声。銀弾が発射されると同時に、スルガは仰臥したまま両足で地面を蹴り、体を反転させ、地を這うほどの低姿勢で駆け抜けてクインの足元まで迫っていたのだ。
あまりにも予想外で、あまりにも人間離れしたスルガの挙動。完全に不意をつかれたクインがそれに対応できるはずもなく、
「きゃあっ!?」
あっさりと右足首を掴まれ、持ち上げられ、宙吊りにされてしまった。
クインは慌てて逆さまに映るスルガに銃口を向けるも、それよりも早くにスルガは空いた手で銃身を掴み、人間離れした握力に物を言わせて握り潰す。
「あの程度の攻撃で、僕が動けなくなると思ったかい?」
「よく言うよ。やせ我慢してるくせに」
したり顔でこちらを見下ろすスルガを睨みながら、クインは気の強い言葉を返す。しかし、心よりも正確に絶望的な状況を理解している体は、憐れなほど小刻みに震えていた。
スルガは自身の体に視線を巡らせ、ため息をつく。ローブのそこかしこには無数の血の斑点が、破片手榴弾が残した生々しい爪痕が残っていた。
「やせ我慢をしていることは認めるよ。油断していたこともね。正直、君がここまでヤンチャだとは思わなかったよ。だから——」
スルガはクインの足を掴んだまま振りかぶり、
「今の内に、しっかりと躾させてもらおうよ!」
ビルの壁に向かって思い切りぶん投げた。
クインは悲鳴を噛み殺しながら空中で体勢を立て直し、ビル壁に着地するも、
「いっ……!?」
ぶん投げられた際に痛めたのか、右足首に激痛が走り、短い悲鳴が口から漏れる。その隙に重力はクインの体をしかと掴み取り、無慈悲に容赦なく地面に引きずりおろした。
なんとか受身をとり、立ち上がろうとするも、右足首の痛みは我慢できるレベルを遥かに超えており、思わず尻餅をついてしまう。
「右足は、それくらいで勘弁してあげるよ」
嗜虐的な微笑を浮かべながら、スルガがゆっくりと近づいてくる。
クインは尻餅をついたまま懐からスペアの銃を取り出し、銃口をスルガに向け、強く睨みつけた。つもりだったが、眦にはまるで力がこもらず、それどころか、その奥から涙が溢れる気配すら感じ、自分が今、自分で思っている以上に絶望している事実に打ちのめされる。銃口もカタカタと音を立て、情けないほどに震えていた。
「これはまた、なかなかにそそられるねえ」
そう思ったのはどうやらスルガだけではなく、事態を静観していた二人の至高の血族もまた、嗜虐的な笑みを浮かべながらこちらに歩み寄って来る。
そんな二人を見て、スルガは足を止め、わざとらしくため息をついた。
「まだ、僕たちのダンスは終わってないんだけどな〜」
「あんなザマを見せられたら、さすがにな。腕の一本くらいは壊してみたくもなる」
「そうそう、興奮するなと言う方が無理と言うものですよ」
そう言って二人の至高の血族は、銃を構えたまま震えるクインを睨め回す。そんな二人にスルガは苦笑しながら、わざとらしく肩をすくめた。
「やれやれ、目的がどうとか言ってたくせに。しょうがないから、腕の方は君たちに譲ってあげるよ。けど、絶対に僕より先に味見はしないでくれよ?」
「そんなつもりはサラサラないから安心しろ。BIとかいう薬が効いてる間は、血がまずくなっちまうからな」
「それなら安心だ。左足(トリ)は僕が務めるから、どっちが先に行くかは好きに決めるといい」
「なら、まずは俺から行かせてもらおう」
そう言って、何度もスルガを窘めていた至高の血族が、この場にいる誰よりも爛々と双眸を輝かせながらクインに歩み寄っていく。
クインはどうにか勇気を奮い立たせ、震える体を叱咤し、近づいてくる至高の血族に向かって弾丸の雨をばら撒いた。しかし、至高の血族はこちらの必死の抵抗をあざ笑うかのように容易く弾雨をかわし、肉薄。銃を構えるクインの右腕に手を伸ばす。
このまま右腕を掴み取られ、枯れ枝のようにへし折られるか握り潰されるか……暴威に蹂躙される未来から目を背けるように、暴威から逃れることを諦めたように、クインは両の瞳を堅く閉ざした。
……………………………………………………………………………………………………
いくら待てども、暴威がクインを絡め取ることはなかった。
代わりに、生ぬるい、粘性を帯びた液体が頬に付着する。
頬についた液体を指でなぞり、瞼を上げて確認すると、指先は血の赤で染まっていた。
おそるおそる視線を上にあげると、
「え……?」
首と左腕を切り落とされた、出来の悪いオブジェと化した至高の血族が視界に飛び込んでくる。数瞬後、今さらながら斬られたことに気づいたように、首と左腕を失った死体は仰向けになって倒れた。
「大丈夫か?」
聞き覚えのある声が耳朶に触れ、クインの双眸に安堵の涙が込み上げてくる。が、死んだ仲間のことを想うとそんなことで泣いてはいけないような気がして、目元を擦り、気丈な視線で声の主を見上げた。
「大丈夫です、十影さん」
血が滴り落ちる銀の刀を手にした十影は「そうか」と一言だけ返し、視線をスルガたちに移した。瞬間、
「現れましたね〝赤い剣鬼〟!」
スルガの隣にいた至高の血族が、弾丸さながらの速さで十影に襲いかかる。しかし、至高の血族はなぜか十影の脇を素通りし、ビルの壁を突き破って倒れ伏す。遅れて、首がゴトリと音を立てて胴体と離別した。
一瞬の攻防の一部始終を見ていたクインは、ただただ呆気にとられるばかりだった。
十影に襲いかかった至高の血族は、突進しながら貫手で十影を貫こうした。十影はそれを体を傾けるだけで、最小限の動きで、紙一重でかわし、すれ違いざまに首に刀を通した。
特段速い動きではなかった。だがそれは、相手を斬った瞬間にあってなお、殺意はおろか敵意すらも感じさせないほどに静謐な動きだった。知覚しているのに知覚できない、至高の血族を含めた、あらゆる生物の死角をついたような動きだった。
十影が剣を極めた一族の末裔であることは周知の事実。そして、十影の先祖たちが編み出し、受け継がれてきた奥伝(おくでん)が存在し、その全てを十影が極めていることも周知の事実。ご多分に漏れずそれらの事実を知っていたクインは半ば呆然としながら、たった今十影が見せた、戦いの際に生じるあらゆる「意」を消す奥伝の名を呟く。
「今のが噂の、心(しん)の奥伝〝無寂(むじゃく)〟……」
直後、耳鳴りにも似た口笛の音が耳に滑り込み、我に返るようにスルガに視線を向ける。
「まさか……仲間を呼んだの!?」
「そのとおりだよ、子犬ちゃん。僕はツレと違って、〝赤い剣鬼〟に一人で挑むほど自惚れてはいないからね」
そう言ってスルガは、すぼめていた唇を笑みの形に変えた。
狼狽するクインとは対照的に、十影は小波ほどの動揺も感じさせない落ち着いた物腰でゆっくりと周囲に視線を巡らせ、呆れたような声を漏らす。
「ほんと、夜は元気な連中だな」
その言葉を聞き、クインはすぐさま周囲の気配を探る。そして、もうすでに十人近い至高の血族が自分たちを取り囲んでいることに気づき、青ざめる。いくら十影でも、これほど多くの至高の血族を一人で相手にできるとは思えない。
万事休す——そう思っていたクインの目に、信じられない光景が飛び込んでくる。
十影が腰に下げたケースからアンプルを取り出したのだ。アンプルの中身がなにであるかは言に及ばない。
「BI……飲んでなかったのですか!?」
「十人程度なら飲まなくてもいけるが、お前を守りながらとなるとさすがに厳しいからな」
返ってきた言葉は、ますます耳を疑うものだった。
生身で二人の至高の血族を斬り伏せただけでもありえない話なのに、十影は十人程度ならばBIなしでも戦えると断言した。さらに、BIを摂取したクインが集中してようやく感じ取れた気配にも、十影は感づいていた。
同じ人間とは思えん——生前ドルドが言っていた言葉は、誇張でもなんでもなく、純然たる事実であることをクインは思い知る。
BIを飲み干した十影は、もう一度周囲に視線を巡らせ、
「まあでも、この状況で増援を呼ばれたのは、正直ありがてえかもな」
死したドルドに、新兵たちに、視線を向けた。そして、
「今は一人でも多く、至高の血族(おまえら)を斬りてえ気分だからな」
それは怒りか悲しみか……十影の双眸に凄絶な光が宿る。
転瞬、クインの視界から十影が消えた。
「ぎゃあああああああああああッ!」
遅れて、後方から至高の血族の断末魔が聞こえてくる。
続けて右から、左から、そこかしこから響き渡る断末魔の重唱。一人、通りに立つスルガはただただ狼狽するばかりだった。
このままではまずいと思ったのか、スルガは慌ててクインに飛びかかる。
スルガが自分を人質にするつもりでいることに気づいたクインは、依然尻餅をついたまま銃を構え、スルガに照準を合わせる。
「守るって言ったろ」
静謐な声音が耳を撫でる。
いつの間にか、クインとスルガの間には十影の姿があった。
「〝赤い剣鬼〟めえええええええッ!!」
破れかぶれになって突っ込んでくるスルガに対し、十影はいつの間にか納刀していた刀の柄に手を添え、腰を落とし、居合の構えをとる。
スルガが十影の間合いに入った瞬間、三日月の煌めきにも似た閃きがクインの網膜に焼きつく。凄まじい勢いで飛びかかろうとしていたはずのスルガは、依然居合の構えをとる十影の眼前で石像のように固まっていた。
いったいなにが起こったのかわからず、困惑しているクインを尻目に、構えを解いた十影はゆっくりとスルガから背を向ける。
「瞬(しゅん)の奥伝〝煌月(こうげつ)〟」
そう呟いた直後、スルガの左腰から右肩より上の肉体が斜めにずり落ちていく。遅れて下の肉体が仰向けに倒れ、地面に血だまりをつくった。
十影の呟きとスルガの惨状を目の当たりし、ようやくクインはなにが起こったのかを理解する。
十影はただスルガを斬っただけなのだ。BIを摂取したクインの目をもってしても、抜く手はおろか返す手すら見えない神速の居合斬りで。
ただただ呆気にとられるばかりのクインをよそに、十影は空の闇を見上げ、
「これで全部、か。手向けの足しにもなりゃしねえな」
どこか虚しげに、どこか哀しげに、闇の彼方に向かって独りごちた。
白い液体の入ったアンプルを摘まみながら、クインは恨めしそうに十影を見上げる。
「本当に飲まないといけないんですか?」
「少量とはいえ、お前も至高の血族の返り血を浴びてるからな。確率は低いが血の暴走を引き起こす恐れがある。いいから飲んどけ」
「……は〜い」
しぶしぶ返事をし、クインは白い液体——中和剤を一息に飲み干した。直後、顔中に渋みが拡がる。
「にっが〜い! どうしてこんなに苦いのよ!」
「良薬口に苦しって言うだろ」
「わかってるけどさ……う〜……なんであたしだけが苦い思いしなきゃいけないのよ〜、あんたも飲みなさいよ〜」
「断る。中和剤を飲むと、しばらくはBIの効力まで中和されちまうからな。足やっちまってるお前はともかく、おれはまだ不測の事態に備える必要がある。拠点に戻るまでは飲めねえよ。それより、そっちがお前の素なのか?」
「……え? ああ! すみません!」
無意識の内にタメ口をきいていたことに気づき、慌てて畏まり直す、クイン。
十影は人差指で頬をポリポリ掻きながら、
「そんな歳も変わらねえし、敬語なんて使わなくてもいいぞ。背中がむず痒くなる。名前も呼び捨てでいい」
「それなら、あたしのことはちゃんとクインって呼んでね、十影」
「わかったわかった」
一瞬で順応したクインを見て、本当に猫をかぶっていたんだな——と、十影は内心呆れる。そして、思い出す。そのことを忠告したドルドのことを。癒しようのない喪失感とともに。
仲間の死は何十何百と経験してきた。慣れてはいけないものだということはわかっている。それでも慣れざるをえなかった。そうしなければ、心が持たない。
十影は死したドルドを一瞥したあと、クインに背を向けながらしゃがみ込む。
「歩くのきついだろ? 拠点に戻るまで背中貸してやるよ」
「小隊長たちはどうするの?」
「今はこのままにしておくしかねえ。日が昇ってもいないのに下手に死体の回収を要請したら、回収班が至高の血族(やつら)に狙われる可能性があるからな」
「でも——」
「でももへったくれもねえ。おれにとっちゃ死んだ人間よりも、生きている人間の方が大事だ。一人でも生き残っている仲間がいたら、おれはそっちを優先する。だから黙っておぶられろ」
クインは瞳の奥から込み上げてきたものを、瞼を強く閉じて押し返した。代わりに、クスリと笑みを浮かべ、
「思ったとおり、英雄殿はイイ男ですな〜。惚れ直しちゃいましたわ」
「言っとくが、お前の男性遍歴は多少耳にしているからな」
「え? 知ってたの? な〜んだ、猫かぶり損じゃん」
自分の口から猫をかぶっていたことをあっさりと暴露する、クイン。自然、十影の口からため息が漏れる。
「さっさと乗れ。いつまで待たせる気だ」
「ごめんごめ〜ん」
反省の欠片も感じられない明るい口調で謝りながら、十影の首に腕を回し、背中におぶさった。必要以上に胸を押しつけて。
「……おい」
「なに?」
「そんなにくっつく必要はねえだろ」
「気にしないで。わざとだから」
そう言いながらも、クインは十影の耳が少しだけ赤くなっていることに目聡く気づく。
「おやおや〜? これくらいのことで赤くなるなんて、もしかして十影ってば童貞なの?」
「……女と遊ぶ暇なんてなかったからな」
「わ、あっさり認めちゃうんだ」
「嘘をついてまで否定しようとは思わねえよ」
「オットコらしい〜。でも、もったいないな〜。十影が相手なら喜んで股を開く娘(こ)、いっぱいいると思うよ?」
話が下方向に突き進んでいることに、十影は顔をしかめる。
「お前な……同じ小隊の人間が殺されたってのに、そんな——」
突然、クインの両手が十影の口を塞ぐ。
「聞きたくありませ〜ん」
明るい声音とは裏腹に、クインの手は小刻みに震えていた。
仲間の死体をこのまま捨て置くことに抵抗を覚える人間が、仲間の死を悼まないはずがなかった。努めて明るく振る舞っているのも、そうしなければ心がもたないからに他ならない。性格ゆえか、話の内容が下品なのはさておき、十影はクインの心情に気づかなかった己が未熟さを恥じた。
口を塞ぐクインの手を外すと、
「もういい。行くぞ」
手の震えには気づいていない風を装いながら立ち上がり、第六太陽塔の近くにあるエクイテスの拠点を目指して歩き出す。
しばらく通りを歩いていると、
「あ……」
東の空が赤みを帯び始め、空を支配していた闇を押しのけていく。夜が明けたのだ。
「クイン、PDでドルドたちを回収するよう拠点に——」
言いかけて、言葉を切る。
「どうしたの?」
「気配を感じる」
「気配って……まさか、まだ至高の血族がいるの!?」
「その可能性は低いだろ。太陽さえ昇っちまえば、こっちは連中のローブを切るなり焼くなりするだけで済む。そもそもあのローブ自体、日中の戦闘を想定して作られた物でもないだろうしな。今頃撤収してるはずだ」
「それなら、あたしたちと同じように哨戒していた兵士じゃない?」
「かもな。一人だけしかいないのが気になるが」
人数まで断定する十影に、クインは呆れたような声を漏らす。
「なんでBI切れてるのに、そんなことまでわかるのよ」
「鍛錬の賜物ってやつだ。それより、ちょっと寄り道してもいいか?」
「異存はないよ……あたしみたいに一人だけ生き残ったって可能性もあるし」
「……だな」
十影はクインをおぶったまま路地に入り、入り組んだ細い道を歩き、路地裏の一角にあるビルにたどり着く。
「下ろして。おぶったままじゃ刀も抜けないでしょ?」
「足はいいのか?」
「肩さえ貸してくれれば」
十影が腰を落とすと、クインは片足だけで地面に立つ。それから右手を十影の左肩に乗せて、なにかあったらすぐに離れられる程度に十影に寄りかかった。
「うん、いいよ」
十影は首肯を返し、クインがついて来られるようにゆっくりと歩いて、扉もなにもないビルの入口をくぐる。
ビルはそれほど大きなものではなく、一目見ただけでフロア全体を確認することができた。砂埃塗れのフロアには、ロビーとして使われていたのか、受付らしきスペースがあり、触れば粉々になってしまいそうな、風化した背の低いテーブルの上には砂埃の小山が積もっていた。
十影はフロアの奥にある、例によって扉のない部屋に視線を移す。気配を感じるのは、その部屋からだった。
二人は警戒しながら部屋に足を踏み入れる。部屋の入口から向かって右側にある外壁が崩落し、また崩落した壁の向こうのビルも崩れていたため、ビルに囲まれた立地とは思えないほどに、燦々と日の光が降り注ぐ部屋だった。
「誰だ……?」
女性の声が耳朶に触れる。
怪我を負っているのか、ひどくかすれた声音だった。
声が聞こえた方向——崩落した外壁の反対側にいる、壁に背を預けて座っている女性に二人は視線を向けた。
思わず、十影は息をのむ。
その女性が、いや、その少女があまりにも美しかったからだ。
かすれた声音からは凛とした大人の女性を思わせるような響きが感じられたが、外見は十影たちとそう歳の変わらない、嘘のように肌の白い、銀髪の美少女だった。
そして、十影たちの、人間の敵でもあった。
少女がその身に纏っているものは、嫌になるほど目にしてきた黒いローブだった。
長い睫毛の下にある瞳は、血のように赤かった。
そう、目の前にいる美しい少女は至高の血族だった。
十影はいつでも刀を抜けるよう鯉口を切り、少女を観察する。色が黒いためわかりづらいが、ローブのそこかしこに血が滲んでおり、赤黒い染みをつくっていた。特に胸の辺りの染みは大きく、至高の血族といえども致命に近い傷であることは明らかだった。事実、少女の呼吸は不自然なほどに荒い。
「その白い服…………わたしを……殺すのか……?」
少女と目が合い、十影の心臓が一瞬飛び跳ねる。
少女の目は、今まで斬ってきたどの至高の血族にも該当しない、孤独に満ちた輝きを宿していた。
至高の血族は大勢の人間を、仲間を殺し、今もなお殺し続けている。少女だからといって手心を加える理由はない。はずなのに、十影はなぜか刀を抜くことができなかった。
「ねえ、十影……」
クインの呼びかけに反応するように、十影は我に返る。
「どうした?」
「あの娘(こ)、おかしくない?」
根拠もなく同意しそうになるも、その返事はかろうじて飲み込んだ。
「なにがだ?」
「至高の血族って、太陽の光を浴びたら体が焼けちゃうんだよね?」
「なにをそんな当たり前のことを——」
言いかけて気づく。
この部屋には日の光が入り込んでいる。
少女の座っている場所もまた、日の光に照らされている。
少女はフードをかぶっておらず、日の光をまともに浴びている。
なのに、少女の頬には焦げ目一つついておらず、これから焼ける様子も見受けられなかった。
「どういう……ことだ……?」
日の光を浴びて平然としていられる至高の血族は存在しない。
不意に漏れた言の葉は、疑問と動揺で揺れていた。