———16時42分、
めまぐるしく動いていく状況に、必死に頭を回転させながら、無線機に向けて次々と声を飛ばしていく。
「織田、渡り廊下を急いで渡り切って、すぐさま3階に上れ。後方に集団が来ている」
「はいよ、了解っ」
「イリス、2階廊下に待ち構える敵が見える。階段を下り、1回から迂回しろ」
「おっけーッス!」
今日も、私立帝成高校では、帰宅戦争が行われている。
俺たち帰宅同好会は、校門を突破することを目指し、戦いに身を投じていた。
敵は1000を超える人員を擁する『青春バカ』共だ。彼らは校門を守るため、そして俺たちを捕らえ、拘束するために、学校の敷地内をうろついている。
俺が身を置くのは、監視室だった。
目の前には巨大なモニターが展開されていて、校内のあちこちに設置された監視カメラから送られてきた無数の映像が、同時進行で流れている。
モニター全体に視線を奔らせ続けながら、どの映像が校舎内のどの位置を映し出しているのかを把握し、その情報を元に味方の進路を判断して、指示を繰り返す。
身体を酷使する必要はないものの、集中力と判断力を駆使する必要があった。
「イリス、渡り廊下の前までやって来たら、いったんそこにある掃除用具入れに身を隠せ。
織田、3階は安全そうだ。廊下を直進して、反対側の階段から下に下りていけ」
2人とも返事をすると、指示に従って素早く動く。
今回も単独行動だ。俺は指示役に徹し、織田は2年生校舎、イリスは3年生校舎に侵入している。それぞれの校舎の玄関からロビースペースに出て、インフォメーションギャラリーを突破し、校門を目指すという段取りだった。
「ふぅ……」
少し息を吐き、椅子に座り直す。緊張のせいか、てのひらにじっとりと汗をかいていた。
ポケットからガムを取り出し、口に投げ入れる。モノを噛んでいると、緊張がほぐれる効果があると聴く。
「センパイ。この戦い、負けられないッスよ」
様々な策を実行するための道具が入った、身体よりも大きなリュックを背負ったイリスが、廊下を走りながら、無線越しに力強く言った。
すると、頭に包帯をぐるぐる巻きにした織田も続く。
「今は3人しかいないけど……不思議と負ける感じがしないね、今日は」
それに、俺ははっきりと頷いた。
「あぁ。俺たちは絶対に勝つ」
この戦いに負ければ、帰宅同好会は終わりだ。やって来たこともすべて無駄になる。かなりの緊張感があるが、状況は好調だった。
校門に向け、確実に前進している。
味方はたったの3人だ。敵の数は桁が3つも違う。けれどもそれがどうした。記録的大勝利を果たすためには、何があっても第一に、諦めないことだ。
諦めては、いけないのだ。
帰宅部設立の悲願を果たすため。
そして、彼女を救い出すために———
そこは———剣と魔法の世界。魔物の徘徊する中世の街。
俺は数人の冒険者を背に従え、黄昏色に染められた景色の中をぞろぞろと歩いていた。
残存する体力は心許なかったが、心は悠々としたものだった。
ちょうど、戦争———『ギルド間戦争』を終えたところだった。
かなり気分が良い。なんせたった数人で、100人以上の冒険者を擁する大規模ギルドを壊滅させるという、記録的大勝利を果たしたのだ。
しかしこれは、決して偶然ではない。どれだけ数に差があろうとも、圧倒的な知識と経験に基づいた精緻な戦略さえあれば勝てる。それを証明したに過ぎない。
圧倒的な知識と経験。敵の動きを予測し、戦略を組み立て、味方を駒として動かす力は、全てそれに基づいている。『冒険者』になって1年。とうとう俺は、ここまでやり遂げられるようになってしまった。
俺の名は今、広く知れ渡り始めていた。この世界で、最も警戒すべき者の一人として。———近く『神』になり得る者として。
「…………フッ」
ニヤリ、と笑みが漏れた。と同時に、ふわ、と欠伸も漏れた。
乾燥した目に、涙がじわりと染み込んでいく。指の付け根で擦った。
……今、何時だろう。
ふと気になった。
剣と魔法の世界から、意識を切り替える。———具体的には、身に着けていたヘッドホンを外し、目の前のディスプレイから視線を外した。
……真っ暗だった。
黄昏なんぞとうに過ぎて、夜になっていた。
パソコンの稼働音が、静寂の中で微かに鳴り続けている。
部屋の時計を見やる。真っ暗だったが、ディスプレイの光に照らされて、針の位置がぼんやりと読み取れた。
20時45分。
再び欠伸が出た。あるいはそれは、ため息だったかもしれない。
16時くらいに帰宅してから、ぶっ続けでパソコンと向き合い続けていた。
プレイしていたのは、とあるネットゲームだ。オンラインで繋がった他のプレイヤーたちと共に、自由に冒険しながら装備を作ったり強化したりしていくMMORPGである。1年前、発売と同時に購入したのは興味本位だったはずだが……ハマり過ぎていつの間にか『神』の一歩手前である。
今日はもう切り上げなくちゃいけない。明日も学校がある。山のような宿題もある。それらをこなすことは、俺が普通の学生として過ごすための最低限のラインだ。そこは外れたくない、と思う。親にも申し訳ないし。
しかし、ネトゲに割く時間は日々長くなってしまっていた。もはや中毒になりつつあるという自覚があるが、どうしてもやめられないのだ。
それだけの魅力が、ネトゲにはあった。
何がいいって、世界観というか、その世界を成り立たせているシステムが良い。
まず、努力は確実に実を結んでくれる。基本的に、プレイ時間が増えればそれだけ強くなっていく。中には課金によってさっさと強くなる人もいるが、それも相応の対価を払っているという点で、一つの努力の形だと言える。
また、この世界にいる俺は、現実を生きる俺とは無関係のキャラクターだ。顔も素性も明かす必要はないし、偽ってしまってもいい。俺以外のみんなもそうだ。ここでの人間関係はそれを前提にしているから、気軽でさっぱりとした付き合いができるのだ。ギルドメンバーとの関係は、高みに登るための同盟に過ぎない。だから、強ければ強いほど敬意が払われる。実にシンプルで、合理的だ。
ネトゲの中に展開される世界は、現実よりもずっと〝正しい〟世界だ、と思う。
そこで、部屋のドアが叩かれた。
コンコン、ガチャ(同時)
妹が顔を出し、真っ暗な室内に顔をしかめて無遠慮に電気を点けた。
パチリ。蛍光灯の真っ白い光が、室内と俺の姿を明るくさらし出す。
「お兄ちゃん、またパソコンゲームやってるの。よく飽きないね」
怪訝な顔つきをして、そう言われた。
「……ノックの後は最低3秒置けと言ってるだろ」
蛍光灯の眩しさに目を細めながら、言い返す。
「それよりも、夕飯できてるから、さっさと来てよ」
一方的にそれだけ言って、くるりと背を向け、たたた、と走り去って行く妹を見送る。
「…………」
……相変わらず、人の話を聴かない奴である。
リビングに降りて行って、既に夕飯が並べられたテーブルの席についた。
「いただきます」
我が家では妹の意向によって、食事中でもテレビが付けっぱなしにされることになっている。今日も妹は音楽番組を横目で眺めながら夕飯を食べていた。
普段は今売れている何組かのアーティストが登場する番組なのだが、今回は特別回のようで、様々なアーティストの昔のライブ映像が、ランキングと共に流されていた。
「この子、超可愛いねー。今のわたしと同い年くらいの時の映像? 同じクラスにいたら、わたしのポジション取られちゃうな」
妹がむぐむぐしながら言った。口の中にものを入れたまま喋るなよ。
「お前のポジション?」
「クラスのアイドル的存在って意味」
「あ、そう……」
「信じてないでしょ。わたしの魅力に気づいてないの、きっとお兄ちゃんだけだよ」
ぶすーっとした妹の顔から、テレビ画面に視線を移す。
曲にも、歌っている女の子にも覚えがあった。3年くらい前に上映された映画の、主題歌になった曲だ。歌手を声楽家の子供が担当して、大きな話題になった。
改めて見ると、女の子は確かに可愛いし、歌の実力も大人のアーティストに負けないくらいにうまい。当時、『天才声楽家』として話題になっていたのもわかるような気がした。
画面の下に表示された名前を見る。ああ、そういえば椎名リンカって子だったか。
「この子、今はどうしてるんだろ。後でネットで調べてみよっかな」
妹は新しい発見をしたように面白そうな顔をしているが、俺からすれば、自分と無関係の人に対してよくもそこまで興味が持てるものだと思う。
「……ごちそうさま」
あぁ、もうじき今日が終わる。そして、くだらない明日が待っている。
☆
校舎の3階、教室の窓際にある自分の席からは、空がよく見える。
いつからだったろうか、ずっと曇りが続いていて、分厚い雲が空全体を覆ってしまっていた。
太陽の光は遮られ、地上まで届いてこない。そのせいだろうか。
———今日もセカイは灰色だ。
「太郎、おはよー」
頬杖をついてぼんやりしていると、俺の名を呼ぶ柔らかい声がして、肩に手が置かれた。
「んぁ、」
振り返ろうとすると、頬に指先がぐにっと刺さった。
「…………」
「えへへ」
クラスメートのひなぎくが、首を傾けて俺の顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。
「ごめんごめん。でも、つまらなそうな顔して窓の外見てるから」
「窓の外に面白いモノも見えないからな」
頬杖をつき直し、いつもの体勢に戻る。
「あ、また窓の外の方見てー。ねぇ、太郎って外の景色眺めるのが好きなの? それとも教室内に興味がないの?」
ひなぎくはしゃがみ込むと、両腕を組んで俺の机に乗せた。視線を向けると、彼女の黒ぶちの眼鏡と、その奥の、上目づかいに覗く瞳がすぐ目の前にあった。
……顔近いって。
彼女———橘ひなぎくは、言うなれば俺の幼馴染というやつである。
無防備な顔の近さとは裏腹に、今日も彼女は完全防備という感じだ。クリーム色のカーディガンから覗く制服のシャツには皺ひとつなく、スカートにもまったく乱れがない。ふんわりしたショートカットをして、黒ぶち眼鏡(勝手にトレードマークだと思っている)をかけていて、毎日外見に少しの変化もない。
そして見た目の通り、中身も超優等生の女子だった。入試成績は学年トップだと聴く。
俺はひなぎくの問いに答えず、かわりに頬杖をついたまま教室内に顔を向けた。
教室内は妙な緊張感に包まれていて、みなそわそわと落ち着きがない。互いが互いを探り合っているような雰囲気だった。それもそのはず、まだ入学式から幾日も経っていないのだ。ここは、新しく始まった高校生活に、期待と不安がごちゃまぜになった空間だ。
話し相手ができず一人で過ごしている者や、新しくできた友達とお喋りを楽しむ者。俺とひなぎくのように、元々知り合いで一緒にいるパターンはどうも少なそうだ。ここ、私立帝成高校には日本全国から学生たちが集まっていると聴く。だからかもしれない。
「あっ」
ひなぎくが、何かに気づいたように小さく声を漏らした。見ると、ちょうどひとりの女子生徒が教室内に入ってくるところだった。
その時———驚きにも似た感情を覚えた。
特別、ハデな外見をしているわけではない。けれども無意識に視線を奪われた。ひと目見た時、周囲とは違う人種のような……どうかと思う例えだけれど、まるでどこかの姫様が、庶民に紛れて現れたような、そんな印象を受けたのだ。
どう見たって美人だ。しかしそれ以上に、纏うオーラが異質だった。
途端、彼女の周りに、わあっと生徒が群がる。まるで芸能人にファンが集まっているように、彼女を取り囲む輪が作られた。
人ごみの隙間からちらちらと覗く、その姿をじっと見つめる。彼女は、長い黒髪に青いカチューシャのリボンを付け、人形みたいに綺麗に整った顔立ちに上品な笑みを浮かべながら、楽しそうに談笑していた。
何故だろう? どこかで見たことがあるような気がしてならない。
ひなぎくが俺の腕を肘で小突いた。
「やっぱり、太郎も好きなんだ」
「な、何が?」
「彼女のこと。興味しんしんって感じで見てるもん」
ちょっと膨れている。
「まさか、そんなわけないだろ。あんな子が同じクラスにいたことも知らなかった」
「えぇ!? それ、本気で言ってるの?」
「お、驚きすぎだろ」
ひなぎくは信じられないという顔をして俺を数秒見つめた後、首を横に振りながら、呆れたため息を吐いた。
「太郎、本当に周囲のことに興味がないんだね。何日も前から、彼女の話題でクラス中どころか学校中で盛り上がったのに」
「……どういうヤツなんだ、あいつ?」
「彼女ね、椎名凛花」
———カチリ、と頭の中でピースがはまった音が聴こえた気がした。
「ウソだろ……『椎名リンカ』? あの、天才声楽家の」
ちょうど、昨日の夜もテレビで見た。3年くらい前に上映された映画で、主題歌の歌手を担当した少女。確かに、言われればそうとしか見えない。
当時、アイドルでもないのにその歌声と容貌から、日本中で爆発的な人気が出た。その後は、海外に活躍の場を移したとかなんとか聴いたが。
「高校生になった椎名凛花が、わたしたちと同じ帝成に入学して、同じクラスにいるんだよ。まさか、さすがの太郎でも知らなかったとは思わなかった。今や学校のプリンセス扱いだよ、彼女」
学校のプリンセス、か……同じクラスにいたのに気づかなかったのか、俺。
「はあ……でも、すぐ近くにいると引け目を感じてしまってなんとなく嫌だなあ。全国的に有名な天才声楽家で、あんなに綺麗で、性格もいいんだもん。完璧すぎだよね」
ひなぎくは首を横に振りながら、今度は虚しいため息を吐いた。
「はい、みなさん席についてください。ホームルームを始めますよ」
教室の扉がガラリと開いて、クラス担任の先生が入ってきた。
各々思い思いに過ごしていた生徒たちは、大人しくさっさと席に着く。入学直後の生徒たちに、先生への反抗心は存在しない。
「では、欠席確認していきますので、呼ばれた人は返事してください」
淡々とした事務的な声で、先生は出席番号順に生徒の名前を読み上げていく。
我らが1年2組の担任、姫川子夏先生は、皆に「子夏ちゃん」と呼ばれる若い女教師だ。
外見は可愛らしく、生徒なのか教師なのかわからないくらいだが、中身はあまり若さを感じさせない人だ。いつも眠そうな表情をしており、基本的に何事にも無気力で、色々な苦労を背負ってきた大人の雰囲気を醸している。
風の噂で聞くところによれば、最近、ずっと付き合ってきた彼氏にフラレたのが原因だとか。嘘だか本当だか知らないが。
「———佐藤太郎くん」
気を抜いていた俺は、名前を呼ばれ、慌てて「はい」と返事をした。
……さて、欠席確認が滞りなく終わると、次は先生による事務連絡だ。
入学したてのこの時期は、学校のルールや重要な行事の連絡について毎日のように話があるので、しっかりと身を入れて聴いておかないといけない。
子夏ちゃんは手元のプリントをガン見しながら棒読みで連絡を始めた。
「本日4月10日から、部活動の体験入部と、先輩たちによる部活勧誘の期間が始まります」
突然、教室の前の方で、よっしゃー、と誰かが歓声をあげた。もう、はやく部活がやりたくてたまらなかったようで、嬉しいんだろう。
しかし、歓声をあげたのは彼だけではなかった。それに続くようにして、みな嬉しそうに顔をほころばせ、やる気をみなぎらせた声をだし、立ち上がり、ガッツポーズが炸裂し、拍手が巻き起こり、勢い余って抱き合う者たちもいた。
俺も隣の席のイガグリ頭の男子からハイタッチを求められたので、ははは、と無理やりに不自然な笑顔を作り、手のひらを合わせてやった。
どっかんどっかん、あちこちで爆発が起きているみたいだ。教室内は熱気に包まれた。
俺は口をあんぐりと開けたままで、ぽかんとしてしまう。
……こいつらにとって、部活の体験入部スタートってそんなに嬉しいものなのか。
今まさに、帝成高校の校風というヤツを目の当たりにしているようだった。
先日行われた入学式で、やたらキラキラした目つきで、校長が語っていた。
『我が帝成高校の歴史は、部活動と共に歩まれてきました。我が校は、あらゆる大会やコンクールで優勝経験を持っています。部活動強豪校として知名度と実績を積み上げ、今や日本でも屈指のブランド価値ある学校となりました。
従って、どの部活も全国トップを目指すことが義務付けられております。「生徒全員が全身全霊で青春する」ことが校訓であり、皆それに大いなる誇りを持っておるのです。要するに教師も生徒も「青春バカ」ばかりであると、こういうことですな! ハッハッハ!!』
教師も生徒も、この学校の人たちはみんな気持ち悪いくらいに目が輝いている。熱くて、何かに飢えている。感じたのは恐怖だった。子夏ちゃんを見たとき、この学校で初めて俺と同じ目をした人に出会えた喜びを感じたものだ。
まるでこの学校全体が、何かの新興宗教に憑りつかれているかのようだ。まったくもって馬鹿らしい。俺は、高校生活にそんなものを求めてはいない。
どうしてこんな高校に入学してしまったのか。中学3年の時に担任教師が「推薦枠をやるから」と話をもちかけてきて、受験勉強をせずに済むならと、何も考えずに頷いてしまったのが原因だ。まぁ、つまるところ、自分が悪かった。
しかし今振り返ると、あの担任教師は、俺に再び部活をやらせるために帝成の推薦枠を提供してきたのではなかろうか。もしそうなら、あまりにも余計なお世話だ。俺は決して、この学校の『青春バカ』たちのようにはならない。
「部活動の本登録は約3週間後の4月30日になります。それまでに各自、体験入部をしながら入りたい部活を決めて、入部届を出すようにしてください」
部活なんて俺には関係ない話だ。そう思って、先生の話を聞き流そうとした。
「なお、学校の校則上、全員必ず何らかの部活に所属してもらうことになります」
———ちょっと待て。
勢いよく子夏ちゃんを振り返る。相変わらず無気力な顔をした子夏ちゃんと目が合った。
「ん、どうしましたか、佐藤くん。怖い顔をして」
クラスメートの注目が俺に集中する。
「そのー……放課後に用事がある人もいるんじゃないですか。例えば、家が貧乏で生活のためにバイトしなければならなかったりとか」
俺の場合、バイトもしていなければ貧乏でもなく、することと言えばネトゲなのだけど。
遠慮がちに訊くと、子夏ちゃんは手元のプリントに目を落とし、相変わらずの棒読みで、
「活動日は部活によって様々ですので、放課後の用事と被らないような部活を選ぶようにしてください。また、特別な理由によって部活動への参加ができない生徒は、理由とその証明になるものを担任の教師に提出するようにしてください」
こういった質問は想定されていたものなのか、プリントに書いてあったらしい。マニュアル通りの対応をされてしまった。
しかし、それでハイそうですかと言えるわけもない。
「……正直どの部活にも興味が持てなくて、帰宅部希望なんですけど、俺みたいな人は」
子夏ちゃんは再び手元のプリントに視線を落とした。
「えーと……今は興味がなくても、やっていく内に熱中していくはずです。何事もそういうものです。ですから、とりあえず、何らかの部活に所属してもらうことになります」
「……やってみて興味持てなかったら、幽霊部員になってしまう可能性もありますよね」
「ゆうれいぶいん、ゆうれいぶいん……あ、ここか。なになに、幽霊部員はクラス担任に報告がいきます。え」
子夏ちゃんは顔を上げてキッと俺を見た。
「私が怒られちゃうかもなんで、絶対ダメです」
私的利害には厳しいらしい。
そんなわけで、結局俺の抗議は取り合ってもらえず、ひとりで空気読まずにいるのもクラスメートに悪いので、「わかりました」と言って一旦引き下がることにしたのだった。
……『生徒全員が全身全霊で青春する』のが校訓だとしても、部活動が強制なんて。
その後、子夏ちゃんは次の連絡に移り、『同好会』についての話を始めたが、まぁ要するに部活よりもユルい感じで活動する同好会というものがあって、余裕のある人は部活にプラスアルファで入ってもいいですよ、ということだった。
部活だけでも勘弁なのに、さらに掛け持ちしようだなんて思うわけがない。今度こそ先生の話を聞き流した。
———今日もセカイは灰色だ。
ホームルームでは引き下がったものの、俺は部活動強制所属のルールに納得したわけではなかった。だから、一日悶々とした気持ちで過ごし、放課後を迎えることになった。
たまたま今日は日直当番だったので、学級日誌なるものを書いて職員室の子夏ちゃんの机まで提出しに行かなくてはならなかった。
「失礼します」
職員室の扉を開けて中に入ると、思いがけずにけっこう閑散としていた。
けれど、子夏ちゃんは職員室にいた。ぐだっと椅子に腰かけながら、だらだらとパソコンを弄っている。この人姿勢悪いな。
「子夏ちゃん、学級日誌出しにきました」
「姫川先生と呼んでください。特に職員室では」
もー、と呆れたように怒って、俺から日誌を受け取る。
よし、これで任務完了。さっさと帰宅しよう。
「じゃあ、失礼します」
軽く頭を下げて、職員室から出て行こうとすると、
「……ちょっと待ちなさい。佐藤くん、これはどういうことですか」
「え、何か問題ありましたか」
「問題ありまくりです。なんですこれ」
子夏ちゃんは日誌の俺の担当した部分を開いて、突きつけてきた。
担当者:佐藤太郎と書かれたページの文章欄には、
今日は特に何も書くことのない、平凡な一日だった。かしこ
「今日一日をわかりやすく簡潔にまとめたつもりなんですけど。先生も忙しいでしょうし、読むのに時間をかけずに済むように」
「理由をこじつけて手抜きをしないでください。ページ、真っ白じゃないですか。あと、かしこの使い方が著しく間違っています。かしこは手紙に書く言葉です。しかも女の人が使う言葉です」
「そういうものなんですか、かしこ。……いや、でも本当に書くことなかったんですよ」
「それなら、最近見たニュースに関して、自分の意見を述べた内容でも可とします」
最近見たニュースか……。
「そういえば今朝のテレビで、近年、未婚率が大幅に増加しつつあるって聴きました」
「いてこましますよ?」
急に大阪弁になった。かなり目が怖い。
「き、訊かれたことに答えただけじゃないですか」
「もう……まったく、佐藤くんはどうしようもない生徒ですね」
「はぁ。そうですか?」
「そうです。この日誌もそうですけど、何事にも不真面目で無気力ですよね。もうちょっと頑張りましょうよ。ほら、先生だっていろいろ頑張ってるんですから」
「はぁ。…………え? 先生、頑張ってるの?」
「なっ。素で驚かないでください、舐めてるんですか。こちとら社会人2年目ですよ。周りは年上の先生ばっかりですから、いろいろ仕事を押し付けられて大変なんです。例えば最近は、若いんだから何か部活の顧問やれってうるさいんですよ」
「顧問、やりたくないんですか?」
「やりたくないに決まってるじゃないですか。顧問って本当に面倒くさいんですよ。しかもほとんどノーギャラだし」
なんか、仕事の生々しい話を聞かされちゃってる俺。
そんな暴走気味の子夏ちゃんと話していると、職員室に誰か生徒が入ってきた。
それは———椎名凛花だった。
椎名は室内を見回した後、子夏ちゃんと俺のいるこちらに向かって歩いてきた。
彼女がすぐ近くにやってきた時、ふわり、とフローラルの香りがした。
「……姫川先生」
椎名は澄んだ声で、遠慮がちにそう言った。子夏ちゃんに何か用事があったらしい。
「どうしましたか、椎名さん」
「ちょっと、部活についての相談に来たんですけど。お話し中のようでしたら……」
「いえ、大丈夫です。こっちの方は大した用じゃないので」
答えて、俺の方を向く。
「では、佐藤くんは結婚相手を探す方法について、意見を書いてからまた来てください」
そう言って、ぽんと日誌を渡された。
「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ」
しかし俺は立ち去らなかった。
「ほら、今……椎名さんの口から、『部活についての相談』と聴こえたので」
「はぁ?」
「俺、ホームルームで言ってたじゃないですか。帰宅部希望なんです。部活についての相談なら、俺もいれて欲しいなぁって」
「しかし、佐藤くんには帰宅部も幽霊部員もダメだと既に言ったはずです」
すると、椎名は口を開き、
「すみません。私も佐藤さんと同じ、帰宅部希望なんです」
……そうして、椎名は相談を始めた。
話を要約すると、彼女は複雑な事情を抱えており、放課後学校に残っているのが難しいらしい。そのため部活動への参加義務を免除して欲しいのだが、厄介なことに、その理由の証明となるものを用意することができないのだという。
「なんだか話がぼんやりしてますが……証明は、どうして用意できないんですか?」
子夏ちゃんが訊ねると、椎名は困ったように俯いて、
「それは……どうしても、話すことができないんです。何しろ、抱えた事情が複雑で」
なるほど、これは難しい。
しかし、今はどうだか知らないが、少なくとも数年前まで椎名は天才声楽家として名を馳せていた著名人だ。俺たち一般人に話せない事情というのもありそうである。
俺は思索して、椎名の味方をすることにした。
「子夏ちゃん、認めてあげるべきです。誰だって、どうしても他人には言えない事情っていうのはあるでしょう」
———椎名が助けられたような表情をして俺を見た。
「姫川先生と呼びなさい。それに、佐藤くんの魂胆は見え透いています。それを認めたら、佐藤くんが同じことを主張した時に拒否する説得力が失われてしまうでしょう」
———椎名が裏切られたような表情をして俺を見た。
「ちょ、こな、姫川先生。まるで椎名さんを利用しようとしたような言い方しないでくださいよ。じゃあ、これならどうですか。正式な部活として、帰宅部を設立するんです」
「……帰宅部を設立?」
「そうです。あ、そうだ。子夏ちゃん、部活の顧問押し付けられそうって話してたじゃないですか。帰宅部の顧問になっちゃえばいいんですよ。何の仕事もいらないし楽でしょう」
「帰宅部……顧問……」
なんと、子夏ちゃんが揺れている。そんなに部活の顧問やりたくなかったのか。
しかし、我を取り戻したように首を振って、それを否定した。
「ダメですよ。そもそも、正式な部活というのは、まず同好会からスタートして、そこから昇格して設立されるものなんです」
「じゃあ、同好会をつくりますんで、先生、昇格させてください」
「そんな簡単なものではありません。昇格のためには、活動成績を残し、学校側にそれを認められなければならないんです。帰宅の同好会にどんな成績が残せるんですか」
「あー……帰宅の……せい、せき?」
「そんなバカな話があるわけないでしょう。しどろもどろになってるじゃないですか」
うーん。にっちもさっちもいかなくなってきた。やっぱり無理なのだろうか。
———諦めかけた時、俺たちの横から神の一声が聴こえた。
「ハッハッハ! いやいやぁ、認められないこともないと思うがねぇ」
声色は神っぽくなかったが。居酒屋帰りのオヤジみたいな声をしていた。
振り向くと、子供みたいな笑顔を浮かべた禿げ頭のおじさんが、腕を組んで立っていた。
「こ、校長先生」
子夏ちゃんが驚いてそう言った。それで、そう言えばこの人が校長だったと気づいた。
「すみませんな。盗み聞きさせてもらってたんですがね、面白い話をされているようで」
「認められないこともないって、どういうことですか?」
「そりゃあ、帰宅するだけだって、学校に認められるような成績を残すことはできるって話ですよ。……特に、この時期は、な」
「……まさか」
子夏ちゃんが何かを閃いたように息を呑んだ。しかし、俺にはさっぱりわからない。
「いやぁ、なんだか面白いことになりそうですな! ハッハッハ!」
校長は何がおかしいのか、身体をのけぞり、豪快な笑いを爆発させていた。
「あのー、つまり、どういう話ですか?」
子夏ちゃんに要約を求めた。しかし、返ってきたのは、
「帰宅部の件に関しては、私の方で職員会議にかけておくことにします。もしかしたら、佐藤くんの言ったことが実現するかもしれません」
「そ、そうなんですか……?」
そうして、結局話が見えないまま、この話は終わることになった。
校長はくるりと背を向けて歩いて行ったが———去り際に見えた彼の目が、気持ち悪いぐらいにキラキラと輝いていたのが不気味だった。
「ありがとうございます。助かりました」
椎名と一緒に職員室を出た後、彼女はそこで立ち止まって、礼を述べてきた。
「いや、別に俺は何もしてないけど」
「いいえ。もしあの場所に佐藤さんがいなかったら、私はほとんど相手にされないまま、話を却下されていたと思います」
彼女と目を合わせて会話するのは初めてで、何故だか妙に緊張してしまった。
別に椎名に気があるわけじゃない。うん、そのはず。けれど、どうしても意識してしまうのは、椎名凛花という人間の持つその雰囲気のせいだろう。彼女が目の前にいることに現実感がなくて、まるでふわふわと夢でも見ているような気分になるのだ。
「では、私はこのまま帰宅しますね」
「あぁ、じゃあ……さようなら」
礼儀正しく頭を下げて、背を向ける彼女。たったそれだけのことでも上品さが表れるんだなぁと思いながら、俺はぎこちなく手を振った。
と、去りかけた椎名が振り返った。
「帰宅部、うまくいくといいですね」
そう言って、にっこりと愛嬌のある笑顔を向けてきた。その顔があんまり可愛らしくて、不覚にもドキッときてしまった。
「…………っ」
彼女が廊下の角を折れて見えなくなるまで、身体は硬直していた。
それから俺は一旦教室に戻り、学級日誌に『結婚相手の探し方』をガーッと書き(ネットでテキトーに調べた)、再び職員室に行って提出した。子夏ちゃんから「なるほど……これは興味深いかもしれません」と納得を得たので、ようやく帰路につくことができた。
通学鞄を背負って階段を下り、下駄箱で靴に着替えて生徒用玄関を抜けた。校門に向かう道を歩く。いや、歩こうとすると———目に飛び込んできたのは異様な光景だった。
「な———」
俺の通う私立帝成高校には、ユニークな構造をした施設がいくつもある。
その内の一つが、校舎と校門を繋ぐ、やたらに長くて広い一本道の通路である。
「インフォメーションギャラリー」という名称であり、それぞれの学年や部活動、委員会などの掲示板が置いてあって、登下校時にはここで自分に関係する掲示を確認していくという目的の施設のはずだった。
それなのに。インフォメーションギャラリーは、今、無数の生徒で溢れかえっていた。
何が行われているのか、ひと目見てわかった。
先輩たちによる、部活動勧誘だ。各部の新入部員をゲットするための壮絶な戦いである。
みな、もみくちゃになって新入生を取り合っている。それはもう、暴力でしかない。新入生は何が何だか分からない様子で、巨大な波に呑みこまれるようにして捕獲され、先輩たちにそれぞれの場所に運ばれていく。きっと、体験入部に連れて行かれるのだろう。
怒号のような勧誘の声と群衆の蠢き。熱気がこもって凝縮されている。
何だ、これ。とてもここを抜けられる気がしない。
椎名も、彼らに捕まったのだろうか。いや、捕まったんだろうな。
しかし、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
俺は、ネトゲをやりに帰るんだ。帰らなければ。強い決心と共に、一歩足を踏み出した。
一瞬のことだった。
俺という新たな獲物に気付いた先輩たちが、わぁっと襲い掛かってくる。物凄いスピードだ。無数の手が俺に向かって差し伸ばされる。それは、まさに人の波だった。俺という存在ごと呑み込んで、その身体の一部にしてしまおうとするような。
そこで、何故だか校長の声が思い出された。
『帰宅するだけだって、学校に認められるような成績を残すことはできるって話ですよ。……特に、この時期は、な』
思わず目を瞑った。そして、叫ぶ。
「帰宅部希望なんですっ!!」
果たして、俺の言葉は彼らの耳に届かなかった。
そこで、意識は途切れる…………。
……目が覚めた時、視界には真っ暗になった空が広がっていた。
地べたの上で眠ってしまっていたようだ。身体を起こすと、全身に筋肉痛が奔った。
とてつもない疲労感に包まれていて、頭がふらふらする。うまく物事が考えられない。
自分の荷物は足元に無造作に置かれており、俺自身は体育着を身にまとっていた。
ここはどこで、何をしていたんだっけ。よく思い出せない。けれど、おぼろげな記憶が残っていて、それを辿っていくことで、何となく今の状況が理解できた。
部活勧誘に捕まり、何らかの体験入部に参加させられていたんだ。そして先輩たちに解放された後、あまりの疲労で地面に倒れ、そのまま少し眠ってしまっていたらしい。
よくわからんが、とにかく疲れてしまった。まったく酷い目にあった。
周囲に生徒の姿は見えず、静まり返っている。もうみんな帰ってしまったのだろう。
俺も帰ろう。しかしその前に、制服に着替えなくちゃいけないな。更衣室はどこだったっけ。重い身体をひきずって歩き、更衣室を探す。
その時、ふと———どこからか、歌声が聴こえてきたのである。
思わず立ち止まって、耳をそばだてた。
一瞬、幻聴だと思った。天使か何かの歌声だと感じたからだ。それくらいに透き通っていて、美しくて、儚い感じがした。
真っ暗な景色と静寂の中で、歌だけが遠くに響いている……。その状況が、俺を幻想的な気分にさせたのか。あるいは、とてつもない疲労感のせいなのか。
導かれるようにして、その歌声の聴こえる方へぼんやりと進んでいった。
月明かりを頼りに、体育館の中に入っていく。入り口を曲がったところに、部屋がある。そこには、『更衣室』と書かれたプレートがつけられていた。
……歌声は、この中からしているらしい。
それにしても俺は、もともと何を探していたんだっけ。それすらよく覚えていない。
まぁいいか、と思って、更衣室の中に入っていった。
狭い通路を抜けると、視界が開けた。
ロッカーに囲まれた、部屋の片隅に———彼女はいた。
向こう側を向いて、歌を口ずさんでいる。その歌声は、間違いなく先ほどから聴こえていたものだ。
その場に突っ立ったまま、彼女の歌に耳を傾け続けた。
聴き惚れる、ということを、人生で初めて体験していた。
そういえば、と彼女の格好に気がつく。
綺麗なからだつきをしているのが、後ろ姿からでもはっきりと見てとれた。ずいぶん長い髪の間からは、身に着けた下着が覗いていた。
女の子の。
下着が覗いていた。
荷物をぽとりと落とした。
ふわふわした気持ちが一瞬で醒め、硬直した。同時に、彼女がこちらを振り向いた。
———あろうことか、椎名凛花だった。
時がぴたりと止まった。突然、あらゆる物音が聴こえなくなった感覚。思考も停止した。
互いに、相手を見つめたまま動かない。否、動けなかった。まるで刀を突きつけ合い、決闘をしているかのように、迂闊に動けば殺されるような緊張感があった。
一筋の汗が、静かに頬を流れ落ちた。
下着姿の椎名が、わなわなと震えながら、人差し指をゆっくりと俺に向け、なんとか口を動かして、掠れた声で言った。
「な、な、な、なんで佐藤くんが、ここにいるの……?」
「なんで……って……そりゃ……」
必死に思考を取り戻す。
「そ、そうだ。ここって、更衣室だよな?」
「女子、更衣室……だけど」
……女子更衣室、だったんだ。
どうしよう。椎名はまるで性犯罪者を見るような目つきをしているじゃないか。いや、今の状況を冷静に考えてみろ。俺は性犯罪者以外の何者でもない。
何が幻想的な気分だ。完全に頭が働いていなかったのだ。
この膠着状態がいつまでも続くはずもない。椎名は今にも叫び声をあげそうな様子だ。叫び声をあげたら人が来るかもしれない。そうしたら俺、どうなっちゃうのかな。タイホされちゃうのかな。それは嫌だな。すごく嫌だ。それにしても、椎名の身体は何と言うか、とても官能的だ。モデルみたいに脚は長いし、肌は白くて綺麗だし、身体つきはいかにも女の子って感じだ。全体的にすっきりとしていながらも、発展途上っぽい胸やおしりがすごく肉感的なのである。って、俺はこんな時に何を考えてるんだ。バカか。
一体どうすればこの場を丸く収めることができるのか、まったくわからないが、大切なのは落ち着くことだ。そうだ、慌てるな、俺。慌てなければきっと大丈夫。
こほん、と咳払いをした。
「いやぁ、困ったな。間違えて入って来ちゃったよ。おかげでこんなことになってるわけだけど、安心して欲しい。俺、大丈夫だから。ほんと、大丈夫なんだ。下着姿を見てしまったことは謝るよ。どうしたら責任取れるかな。そうだ、俺も脱ごうか? そうしたらおあいこだよな。はは、はは」
言いながら、椎名にちょっと近づく(なんでだ)。
「イヤ————————ッ!! この変態————————————————ッ!!」
「———ぶほッ!?」
堰を切ったように叫び声をあげられると同時に、突然飛んできた鞄が顔面にぶち当たる。くらっと来て、そのまま俺はどすんと尻餅をついた。
その隙に椎名は俺にのしかかってくる。マウントポジションを取られた。
「ひぃぃっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「誰が待つかぁーっ!! 死ねっ、変態、死ねっ!!」
鞄を両手で持ち、ばこんばこん顔面を叩いてくる。もはや彼女は自分が下着姿であることを気にしていない様子だ。俺は、抵抗することも出来ない。
「ぐぼほっ! ひでぶっ! し、椎名、キャラがおかしなことになってるんだが!?」
「———あ」
何かを思い出したように、一瞬だけ手の動きが止まった。
しかし、直後、重い一発が俺の顔面に降り注いだ。
「ああもうっ! バレてしまったのなら仕方ないわ! そうよ、これが本当のあたしなのよ! 上品な性格なんて猫かぶりに決まってるじゃない! でも関係ないわ、あんたはここで死ぬんだから!」
「殺す気なのかよ!?」
椎名凛花の意外な秘密と人間の奥深さに驚愕する間もなく、俺はとにかく叩かれた。
さりとて、相手は非力な女の子である。顔面の痛みは堪えがたいが、叩かれに叩かれても、意識を失うまでにも至らなかった。やがて椎名は叩き疲れたのか、動きを停止した。
ようやく攻撃が終わって、俺は閉じていた瞼を恐る恐る開けた。すると目の前には、はぁはぁと荒い呼吸をする彼女。下着一枚しかまとっていない魅力的な乳房が呼吸に合わせて揺れていた。腰の上には柔らかい尻の感触。
なんちゅーシチュエーションだ、これは。
……いや、興奮しちゃだめだって。これ以上叩かれたらマジで顔面が崩壊しかねない。
なんとか我慢していると、椎名はゆっくりと俺から身を剥がした。思わず、ふぅ、と安堵の息を吐く。いろいろ助かった。
椎名はゆっくりと身を剥がすと、さっさと制服を身に着けて、未だ起き上がれない俺を見下ろした。
「言っとくけど……このことは誰にも話さないでよね」
「このこと、って?」
俺が性犯罪を犯したこと? 当たり前だがそんなの俺にも言うつもりはない。
「あたしの性格のことよ。他の人には、上品で可憐な女の子ってことにしといてくれない?」
「……何か事情があるのか?」
「プリンセスには色々あるの。……その代わり、佐藤くんが女子更衣室に入ったことは内緒にしてあげてもいいから」
「マジでか!」
俺は思わず叫んだ。
「……勘違いしないで、犯した罪自体は消えないからね。内緒にはしても、あたしはあんたを一生軽蔑し続けるから」
「…………」
「じゃあ、あたしもう帰るから。このままここで寝っ転がっててもいいけど、誰か来たら捕まるから気をつけなさいよ」
そう言い残して、彼女は荷物を手に取り、更衣室の出口に向けて歩いていく。
俺は、そうだ、と思い出して、彼女の背中に声をかけた。
「帰宅部、うまくいくといいな」
「…………ふん」
彼女はちらりとこちらを一瞥するだけで、そのまま歩き去っていった。
誰もいなくなった女子更衣室に、大の字になってひとりごろんと寝転ぶ。
おそらく一生もう入ることはないであろうこの場所には、女の子の香りが漂っていた。
☆
土日を挟んで、月曜の放課後、俺と椎名は子夏ちゃんに話を聞くため、教室に残った。
「あれ、二人ともなんか距離遠くないですか。喧嘩でもしたんですか?」
子夏ちゃんが俺と椎名を見て首を傾げた。
「まさか、もちろんそんなことはありませんよ。私たちのことは気にせず、どうぞお話を始めてください」
学校内での椎名は相変わらず猫をかぶっているようで、うふふー、と上品な笑顔を顔に張りつけていた。本当の性格を知っている身としては、違和感しか抱かない。
「そうですか、ならいいんですけど。……それで、帰宅部の件ですが、設立を目指してもいいということになりました」
目指してもいい。少し突き放すような印象を受けるその言葉の意味は、後ろに続く説明によって明らかになった。
「正規の手順通り、まずは同好会発足からスタートします。同好会の規定は員数2人以上ですので、これはあなたたちで満たしています。ここから帰宅部に昇格するためには、まず、部員数が4人以上でなければなりません。ですから部員集めが必要です。また、昨日も言ったように、同好会の活動成績を残し、それを学校に認められる必要があります。それについては———部活勧誘が行われるのは放課後になってから日没までであるわけですが、その間に校門を抜けることができれば、活動成績とみなされることになりました。具体的な時刻を言えば、16時から18時の間です。終了時には時計台の鐘が鳴るので、わかりやすいかと」
帝成高校の校舎には、大きな時計台がついていて、それが学校のシンボルになっていたりもする。それが、18時に鳴るらしい。
「おそらく既に経験したでしょうが……ウチの学校では、熱心な部活勧誘が行われています。校長先生によると、ここ10年、部活勧誘期間で日没前に校門を抜けることができた新入生は一人もいないといいます。
それと、部活動の本登録は4月30日ですから、それまでに活動成績を残し、帰宅部を設立できなければ、他の部活に入部してもらうことになります。今回、学校のルールを捻じ曲げてまでこういうことを認めたのですから、帰宅部設立の可能性を与えられるのは今回限りだと思ってください」
今日が13日だから……30日は、2週間と4日後か。
「……なんか、物凄く大変そうなんですけど。もうちょっと、難易度は下げてもらえなかったんですかね? ドキュメンタリー番組の企画じゃないですよね、これ」
げんなりしながら訊ねると、子夏ちゃんは首を振って、
「これが最大限の妥協です。実はほぼ全ての教師は、帰宅部設立に猛反対だったんです。帝成高校のブランド価値を下げることになりかねない、って。けれども校長先生が……その、面白いこと好きな人ですから。猛反対を押し切って、設立の可能性を残して下さったんですよ。あなたたちが、10年間誰も突破できなかった校門に挑戦するという企画は、絶対に面白くて『激アツ』だ、と」
「企画って言いましたよね、今。俺たち、単に面白がられてるだけじゃ?」
「でも、そこまで悲観的になることもないですよ。本来ならあなたたちはチャンスを与えられることもなかったんですから。もしこれが成し遂げられたら、私も部活顧問の問題が解決するので、確実に自分に迷惑がかからない範囲でなら力を貸しますよ」
自己保身をしっかりと言明する人だ……。
「そういうわけで、私の方で帰宅同好会の拠点を用意してあげました。他の人が絶対気づかない、秘密基地ですよ。……まぁ、部室の使用許可が下りなかったからなんですけど」
そうして子夏ちゃんに連れられたのは、一年生校舎3階の、さらに上にある、屋根裏部屋だった。鉄製の無骨な階段を上り、鍵を使ってドアを開けると、案外しっかりした部屋のつくりに驚いた。
屋根裏部屋と言うより、最上階にある物置部屋という印象だ。やや狭いが、屋根の骨組みがむき出しになっていたりすることはなく、壁なんかもしっかりしている。子夏ちゃんいわく、元々ただの屋根裏だったのを、改築して部屋にしたらしい。
ただ、やはり階段を上り下りしなければならないため、物置としてはいまいち使いにくかったようだ。長らく人や物の出入りがなかったのか、やや埃っぽい。
確かに、誰も気づかない秘密基地のようだと思う。
子夏ちゃんは、特別ですよと俺に部屋の鍵を渡し、がんばれー、と拳をつくって小さく突き上げると、さっさと去っていった。
2人になった俺と椎名は、まずはメンバー探しのために活動を始めることにした。
「さて、どうするか、椎名」
馴れ馴れしく話しかけてみると、不満げな表情が返ってきた。急に態度変わったな。
「なに、どうしたの」
「どうしたの、じゃないでしょ。昨日の今日で、よくもそんな平然としてられるわね」
「いや、だってあのことは水に流してくれるって言ったから」
「言ってないっ。内緒にしてあげるって言ったの。それに、佐藤くんのこと一生軽蔑するって言ったじゃない」
椎名は、むきーっ、と怒り出した。意外に子供っぽい反応をする人だ。
一生軽蔑か。そんなことを言われたっけ。ということは、俺はまだ入学して間もないのに、さっそく一人の女子生徒に一生分も嫌われてしまったのか……。
「あ、傷ついた?」
「……いや。傷つきかけたけど、嫌われる代償に下着姿を拝めたんだから、プラマイゼロ、むしろプラスかもって考えてたところだ」
「てめえ、全然反省してねーじゃねーかコラッ」
椎名はヤンキー口調になって俺の胸ぐらを掴み、がくがく揺すってきた。
「忘れなさい。あたしの下着姿は、忘れなさい!」
「りょ、了解ですっ。忘れますっ」
何とか答えた。プリンセスなのに何でもかんでも暴力に頼るのはどうかと思う。
椎名は俺から手を離し、呆れたようにため息を吐いてから、
「佐藤くんってフランクな性格よね」
「そうか? どちらかというと内向的な方だと思うが」
「でも、あたしに対する他の人の態度とは、全然違うもの」
「ふむ……」
しかし、考えてみれば初めて椎名と目を合わせて会話した時は妙に意識してたよな。けれど今はそんな感じがほとんどしない。もしかしたら、彼女の下着姿を見てしまったことで、椎名凛花とてひとりの人間に過ぎないのだと認識できたのかもしれない。
「……で、話を戻すけど。メンバー募集、どうしようかしらね? 勧誘でもしてみる?」
「でも、知り合いに帰宅部希望のヤツはいないだろうな。そっちはいるのか?」
「あたしも特には。この学校の人、みんな部活とか大好きそうだし。もし、不特定多数に声掛けするとなると……放課後の下校途中を狙うことになるわね」
「あの、壮絶な勧誘合戦に参戦することになるな」
「絶対無理ね……」
考えるだけでげんなりする話だ。
「となると……あとは、同好会用の掲示板にポスター貼ってみるとかだな」
「あ、それ良さそうじゃない。一度作っちゃえば、あたしたちは待ってるだけでいいし」
「……でも、道具がないな。ポスカとか、いったん買いに行くしかないか」
「アホ。買いに行ったらそのまま体験入部へ連れて行かれるわよ。そんなことしなくても、パソコンで作ればいいわ」
椎名は当たり前のことのように言った。
それから俺たちは職員室で鍵を借り、パソコン室に移動した。
「……椎名。お前、そんな特技があったんだな」
「特技? 別に普通でしょ」
きょとんとしている俺の前で、椎名は涼しい顔でパソコンを操りポスターを作っている。
「佐藤くんってパソコンとか触れない人?」
「いやぁ……触ってるんだけどな」
むしろ、触りまくってるんだけどな。毎日何時間もネトゲやってるんだけどな。けど、俺にできるのはネトゲだけなんだよな。
「パソコンのポスター制作ぐらい、中学生の時とかに授業でやったでしょ?」
「やった、と思うけど。でも、あんなのすぐに忘れるって」
「そう? ……あぁでも、あたしってよくパソコン弄ってたからなのかも。授業で使い方教わると、帰ってから自宅のパソコンでいろいろ試してみたりしてたわね」
「真面目だったんだな」
「いや、単純に暇人だったって話。あたし、友達ひとりもいなかったから」
椎名は、あっけらかんと言った。
しかし、普段の彼女の姿を思い出して、手を顔の前で振る。
「いやいや。お前、友達いるだろ。教室で色んな人と仲良くしてるじゃないか」
すると、椎名はパソコンを操作する手を止め、振り返って俺を下から覗きこんできた。
芸術品みたいに綺麗な顔の、吸い込まれそうになるような瞳が間近に迫って、俺は思わずのけぞってしまいそうになる。
「そう見える?」
「……違うのか?」
訊ねると、目線を逸らして顎に手を置き、うーんと少し考えるような仕草を見せた後、
「実はあたし、人間嫌いなのよねぇ」
明るい口調で、そんなことを言った。
「……人間嫌い?」
「ああやってみんなに取り囲まれたり声掛けられたりするの、本当はすごく苦手。友達だって欲しいと思ったこともない。できるならずっと独りで生きていきたいくらいよ。
でも、それを隠して笑顔振りまいてるのは、あたしの正体がみんなに知られた時、どんな反応されるか怖いから。周囲が思い描いてるあたしは、テレビに映っていた時の、おしとやかで清純な女の子だもの。あんなの、そう演じてただけに決まってるのにね」
彼女はそう語り、面白くなさそうなふくれっ面をしてみせた。
驚いてしまう。まさか、そんなものを抱えていたなんて。
「まぁ、そういうわけで、帰宅部希望だったりするのよね。人間嫌いのあたしには、大人数で活動しなきゃいけない部活なんて無理。猫かぶりを続けるのも辛いから、放課後はさっさとひとりになりたいし」
彼女は、悪戯っぽく人差し指を立てる。
「要するに、家庭の事情で放課後まで残れないなんて、ただのでまかせだったってこと」
「……お前、声楽家の活動があるんじゃないのか?」
「ううん、もう辞めたわ。高校進学と同時にね。あたしは帰宅部になって、ようやく手に入れた自由な放課後を、ひとりで好き勝手に満喫するのよ」
嬉しそうな声色で語った椎名はしかし、瞳の奥に冷めた感情を覗かせた気がした。
「ねぇ、佐藤くんはどうなの? 帰宅部希望の理由」
「俺は、」
ネトゲしたいから、と言いかけた言葉を呑み込む。それはきっと、本質じゃない。
「……俺も、みんなと一緒に活動なんて、したくないからだ。この学校の奴らみたいには、なりたくない」
そう答えると、椎名は嬉しそうに笑う。まるで、同志を見つけたように。
———俺たちは、どこか似ているのかもしれない。
それから作業に戻り、ポスターのデザインはほとんど完成した状態になった。
「よし、あとはこの辺にキャッチコピーでも入れたらいいかな。佐藤くん、何か考えてよ」
「キャッチコピー? そんなの簡単に思いつかないって」
「結局、全部あたしに作らせたんだからそのくらい頑張りなさいよ」
確かにそれはそうだ。
しかし……帰宅同好会のキャッチコピーか……。
「『俺たちには、帰る家がある!』とか」
「……誰でも思いつきそうだし、なんかサムい」
椎名はあっさり否定した。ずいぶんシビアだな。
「『部活なんてくそ食らえ! ルールに縛られるなんて権力の犬だ!』」
「なんでそんな過激なの? 引かれるでしょ、普通に」
「『入会してくれたら、椎名凛花と一日デート』」
「てめえこら、あたしをエサにすんな」
「『入会してくれたら、佐藤太郎と一日デート』」
「誰が得すんの? むしろ帰宅部希望の人も入らなくなるよ?」
「『入会してくれたら、金一封差し上げます』」
「なんでさっきから特典で釣ろうとするのよ。どうしてこう、佐藤くんは考えることがいちいち卑屈なの」
「『今、幸せですか? 〜帰宅同好会に入って幸せになろう〜』」
「どう見ても宗教勧誘じゃないの!」
「……注文が多いな」
「あんたが真面目に考えないからでしょうが。そろそろぶっ殺すぞ」
怖い。
「えーと……それなら、『一度きりの青春を、全力で棒に振ろう!』」
「あ、それいいかもね」
存外、椎名が食いついて、ふくれっ面を緩めた。
「ちょっと聴こえ悪いけど……でも、なんだかあたしたちらしい感じするし。この学校の『青春バカ』どもとは違うってことを、はっきり示してるのもいいわね」
椎名はキーボードを叩いて、『一度きりの青春を、全力で棒に振ろう!』と打ち込んだ。
「よし、完成。全体的には、なかなかいい出来になったんじゃないの」
『帰宅同好会』の文字や先ほど考えたキャッチコピーはもちろん、いくつかイラストを配置し、簡潔な活動内容や目的を記載している。秘密の拠点を明かすわけにはいかないので、『興味のある方は1年2組の教室まで』と、クラスの教室を載せておいた。
「じゃあ、印刷してさっそく貼りに行こう」
同好会用の掲示板は2つあり、1つは校舎内の会議室前の廊下の壁、もう1つはインフォメーションギャラリーにある。俺たちはまず、会議室前の掲示板にやって来た。
掲示板は既に掲示でいっぱいになっていて、空白は一番上の辺りしかなかった。
椎名はそれを見上げて、
「この高さじゃあたしには無理かな。佐藤くん、届く?」
「……いや、俺でもギリギリ届かない」
精一杯背伸びしてみたが、無理そうだった。
「これはアレだな、肩車するしかない」
「バカじゃないの、変態」
冷たい声で、余裕で却下された。そういうつもりじゃないんだけどな。
「佐藤くん四つん這いになってよ。あたしがその上乗るから」
「えー……」
「その代わり、上履きはちゃんと脱いであげるから」
「上履きぐらい無条件で脱げよ。別の代わりを用意しろよ」
仕方がないので大人しく地面に手を着いて四つん這いになる。
椎名は躊躇なく俺の背中に足をのせた。背中痛い。
「佐藤くん、すごい。負け犬の格好って感じ」
「てめ……揺らして落とすぞコラ……」
いや、こんなことをしなくても、どこかから椅子を借りて来れば良かったのではないか。
気がついてしまうと、自分たちがしている行為が物凄くアホみたいに思えてきた。
うわー。誰かに見られたくねぇ。
そう思った時、ちょうど廊下の向こうから誰かが歩いてくる足音が聴こえた。
「やば。誰か来ちゃった」
椎名が焦った声を出す。
「どうしよう。椅子借りて来ればいいのにわざわざこんなことしてるなんて、バカみたいだと思われるかもしれない」
「お前、分かってやってたのかよ!」
「今さら降りて何食わぬ顔するのも不自然だわ。佐藤くん、『ありがとうございます!』って叫んで。そうすれば佐藤くんの特殊な性癖にあたしが付き合わされてるだけだと理解してくれるかもしれない」
「お断りだっ!」
そんなバカなやり取りをしている間に、足音はどんどん近づいてくる。
「……ほあー……」
すぐ近くまで来ると足が止まり、動物園で逆立ちするゾウでも見たような感嘆の吐息を漏らすのが聴こえた。
「ぐ……」
屈辱だ。でも勘違いしないでくれ。こうしているのは仕方なくなんだ。
背中と心の痛みにプルプル震えながら顔を上げ、その生徒を見た。
そして、少し驚く。
それは、外国人の女の子だった。ふんわりとした金髪に、緑色の瞳———「フランス人形のような」という表現が、これ以上ないくらい似合っていた。
ちっこくて、その上童顔なので、そのままでも年下に見えるくらいだが、まるで幼女のようなあどけない表情をして、俺を眺めていた。
「…………っ」
目が合うと、慌てて顔を背けられた。
椎名は女子生徒が通り過ぎるのを望んでいたようだが、そうはいかないようだと判断し、
「……こんにちは。ごめんなさい、掲示板を見るのに邪魔ですよね」
振り返り、プリンセスボイスを繕って、そう言った。
「あっ。いえ、そういうわけではないですので」
わたわた否定する女の子。ネイティブな日本語だが、少し舌っ足らずな喋り方だった。
椎名はジャンプするように軽やかに俺から降りた。
反動で俺から「ぐえっ」と声が漏れた。
「わ。……大丈夫です?」
彼女の心配には、俺が答えるよりも早く椎名が反応した。
「いえ、全然まったく気にする必要はありません。それよりも私たち、帰宅同好会というのを立ち上げたんですが、興味はありませんか?」
どうやら、強引に話を変えることにしたらしい。
「帰宅……同好会?」
「ええ。帰宅部設立を目指して活動しているんです」
「はぁ……そうなんですか」
「もしよかったら、余っているポスターがあるので、持って行ってください」
「あ……ありがとうございます」
渡されたポスターをまじまじと見つめる女の子。きょとんとしているようにも見える。
しかし、あっ、と小さく声を漏らして、我を取り戻したように、
「ワタシ、先生に呼ばれていたところだったんです」
「そうだったんですか。でしたら、引き留めてしまってすみません」
椎名が謝ると、彼女からは、思いがけない言葉が返ってきた。
「いえ、あの、帰宅同好会、すごく楽しそうです。ポスター、ありがとうございます」
そう言ってまたぺこりと頭を下げ、金髪をふわふわなびかせながら、ぱたぱたと走っていった。その姿を、俺は四つん這いの姿勢のまま見送った。
「……楽しそうに見える要素あったか?」
よっこらせと立ち上がり、ズボンを叩いてホコリを落とした。
「どうだろう……」
その時、ごおぉん、ごおぉんと、鐘の音が響き渡った。時計台の、18時の合図だ。
ポスターを貼り終えた俺たちは、窓からインフォメーションギャラリーを覗いた。日が沈み、既に勧誘がお開きになっているのを確認して、帰路に着くことにした。
校門を抜けて少し歩くと、帰路が分かれたので、俺たちは「じゃあな」と挨拶をした。
俺の家は学校から近く、歩いて15分くらいのところにある。本当は自転車に乗りたいのだが、自転車置き場の収容量の理由から、学校からの指定範囲内に住んでいる生徒には自転車通学が認められていないので、基本徒歩通学だ。
一人で歩き始めたところで、よく知った顔に会った。
「あれ、太郎」
俺の名前を呼んだその人は、幼馴染、橘さん家のひなぎくだった。
「ヒナ。今帰りか?」
「うん。やっと部活から解放されたとこ」
そう言ってひなぎくは、黒ぶちの眼鏡の奥でちょっと疲れた笑顔を見せた。
俺たちは自然に並んで歩き始める。家はほとんど隣同士なので、帰路は一緒だ。
家の近さのおかげで、ひなぎくとは幼い頃から一緒に遊び、成長してきた。それにしても、同じ高校に入学し、その上クラスメートになったのはかなりの偶然だと思う。
「いろいろ大変だよね、高校生活」
「あぁ、始まったばかりでまだ慣れないな。授業時間増えたし。全然起きてられん」
「あ、居眠りはよくないよ。授業に置いていかれるよ」
「既に、起きてても先生が言ってる内容わかんないんだよな。特に数学」
「うわー。テスト前になって騒ぎ出しても遅いんだからね」
「ヒナは頭いいよな。入学式の時、新入生代表でみんなの前で話してたし。あれって入試成績トップの人がやるんだろ?」
「そうらしいね。緊張したよ、あれ……」
ひなぎくの学力の高さは折り紙つきである。仮に、家からの距離などの通学のし難さを考慮しなければ、どんな高校でも入学できていただろう。
「でも、わたしは別に頭は良くないよ。たくさん勉強してるだけだし、高校の授業ではどうなるかわからないし」
「そんなことないって。もっと誇っていいと思うぞ」
「そうかな?」
ひなぎくは謙遜してそう返すが、悪い気はしていなさそうな顔だった。
「あぁ、ヒナはきっと人に教えるのも上手いんだろうな。例えばテスト対策とか」
すりすりと揉み手。
「えー? まずは自分の力でなんとかしなよ」
怪訝な顔で返された。……そううまくお世話になることはできないらしい。
「……そう言えば、ヒナは何の部活に入るつもりなんだ?」
訊ねると、
「んー、悩んでるんだよね。わたし、何かやってたことはないし。でも、茶道部はちょっと興味持ったかも。日本の文化だし、身に着けたいなって。……太郎は?」
「俺か……」
ちょっと切り出し方を迷ったが、
「俺は、新しい部活を立ち上げようとしてるとこ」
「え? 何それ、すごいアクティブだね! 何の部活?」
「それが、帰宅部なんだ」
「アクティブじゃない!?」
ひなぎくは、はぁー、と複雑そうな感嘆を漏らした。
「うーん、帰宅部ねー……。ま、太郎がそれを希望するのはわかる気がするよ。でも、どうなのかなって思っちゃうな」
「どうなのか、ってどういう意味?」
「正しいことだとは、わたしは思えないんだ。だって、帰宅部になっちゃったら、もう昔の太郎には戻れなくなっちゃいそうでさ……」
上目づかいに俺を覗き込む。心の底を、探っているかのように。
「太郎……あれってまだ、持ってる?」
「あれって、どれさ?」
「ほら、昔神宮球場に野球を観に行ったときの……」
「……あぁ、あのホームランボール。どうだろう。もう、どこかに失くしちゃったかもしれないなぁ」
答えると、彼女は目を逸らし、肩を落とした。
黙ったまま、ややあって、微かに聴こえるくらいの声で、ぼそりと呟いた。
「……わたし、太郎が帰宅部を設立するの、反対する」
「え?」
「わたしが、太郎のこと、更生してあげるから! よし!」
決意に満ちた顔をして両こぶしを握り、ひとりでガッツポーズをするひなぎく。
「こ、更生ってなんだよ、ヒナ……?」
訊ねるが、ちょうどそこで、俺たちの別れる地点に到達してしまった。
「大丈夫だからね、太郎! また明日! 授業寝てる分、課題はちゃんとやりなよ」
彼女はそう言うと、親指を立てて見せ、そのまま、たたた、と走り去っていった。
……一体、何が大丈夫なんだろうか。
☆
翌日の放課後、俺と椎名は1年2組の教室に残り、帰宅同好会への加入希望者を待っていた。ポスターでこの場所へ来るよう指定した以上、ここにいなくてはならない。
「佐藤さん。あのポスター、どれくらいの宣伝効果があるんでしょうね」
椎名が身体の前で恭しく手を重ね合せて(プリンセスポーズ)言った。
「……なんで気持ち悪い声出してるんだ?」
「気持ち悪い言うな。……いつ教室に人が入ってくるかわからない状況ですから」
「帰宅同好会の中でもそのキャラ貫き通すつもりなのか」
「もちろんです。佐藤さんも協力してくださいね。もしも本当の性格をバラすようなことをしたら、個人情報をネット上にばらまきますから」
「それ、シャレにならんからな……」
とっくに他の生徒たちは体験入部に行ってしまい、がらんとした教室内で、遠くに聴こえる運動部の喧騒を感じながら、俺たちは加入希望者を待った。
記念すべき一人目がやってきたのは、それから間もなくだった。
「……失礼します……」
遠慮がちな声と共に、扉から身体の半分だけ出して、室内を伺う生徒。
ずいぶん低いところにある頭。特徴的な金髪。緑色の瞳。昨日、ポスターを貼っていた時に会った、外国人の女の子だった。手には、渡したポスターがぎゅっと握られていた。
その姿が前回と違うのは、顔も身体も何かの粉にまみれて、真っ白になっていたことだ。
「…………」
その姿に、俺と椎名は唖然としてしまった。椎名が先に我に返って、
「こ、こんにちは。とりあえず入ってください」
言うと、女の子は顔を俯かせ気味にして、上目づかいで俺たちの方を見ながらとことこと部屋の中に入ってきた。
警戒してるのか。……いや、緊張してるのか。どうやらかなりの人見知りらしい。
「どうしたんだ、その粉……?」
訊ねると、彼女はずいぶん緊張した様子で、
「あっ、気にしないでください。さっき掃除中に、黒板消しクリーナーが故障して、チョークの粉が逆噴射したのを被ったんです。でも、こういうのはいつものことなので……」
答えて、けほけほと咳をする。……この子、相当な不運の持ち主か何かだろうか?
椎名が「これ使ってください」とハンカチを渡し、ひとまず椅子に座らせた。
彼女は、慌ててハンカチで頭や制服の粉を払った後、膝に両手をくっつけて座り、相変わらず俯いていいる。うーん、どうも気まずい空気だな。このままでは良くない。
「……緊張してるのか?」
俺が囁くように訊ねると、女の子はいっぱいいっぱいにこくこくと頷いた。素直だ。
「緊張してる時は、てのひらに『人』って3回書いて飲むといい」
すると彼女は言われた通りに、手のひらに『入』と3回書いてごっくんと飲みこんだ。ちょっと間違えてるよ。まあいいけど。
「あとは、いま穿いてるパンツの色を3回口に出してみるのもいい」
すると彼女は言われた通りに、
「しろ、しろ、し…………って、何言わせようとしてるんですかっ。パ、パンツなんて穿いてないですっ!」
マジかよ。その返しは予想してなかった。あんぐりと口を開けてしまった。
「……じゃないです、穿いてますっ!」
顔を真っ赤に染めて、わたわたと顔の前で手を振る女の子。
あ、なんだ。やっぱり穿いてるのか。白いの穿いてるのか。ちなみに椎名は、更衣室で見た時は淡いブルーだった。
そんなことを考えていたら、突然耳が引っ張られた。
「い、いででででっ!?」
「佐藤さん? 女の子にセクハラしたらダメじゃないですかー?」
椎名がにっこりしながら俺に暴力を振るっていた。
「ごめんなさいねー。この人、変態なんです」
まだ顔を赤くしたままはぁはぁと息を落ち着かせようとしている女の子に、椎名は優しく話しかけた。
「ま、待って、取れる取れる! 耳取れちゃう!」
「女子に意地悪する男には何してもいいと、憲法で保障されているのを知りませんか?」
「いくら俺でもそれぐらいの嘘はわかるわ!」
そんな風に俺たちが騒いでいると、それを眺めていた女の子は、突然プッと吹きだした。
「す、すいません、笑っちゃって。でも、お2人とも、とっても面白いですねっ」
「あたしも!?」
椎名が濡れ衣を着せられたような顔をした。
しかし、これでようやく女の子の緊張は解けてくれたようだった。
「えっと……あなたは、帰宅同好会への加入希望ということで、いいんですよね?」
椎名に訊ねられると、女子生徒はそうでした、とわたわたと姿勢を正した。
「すいません、申し遅れました、ワタシ1年4組のイリス・ヴェルレーヌです。帰宅同好会に入りたいと思ってます」
「綺麗な名前ですね。出身はヨーロッパの方だったりするんですか?」
「はい。ワタシ、フランス人なんです。小さい頃から日本に来たので、フランス語はからっきしなんですけど」
「へぇ、フランスですか。なんだか、いかにもって感じですね。金髪だし、可愛いし」
「そ、そうでしょうか……」
髪をいじりながら、照れるイリス。
「じゃあ、私も名乗っておきますね。椎名凛花といいます」
「凛花さんですか……そちらこそ、とっても綺麗な名前だと思いますっ」
「いえいえ、そんなことありませんよ。で、こちらは佐藤太郎くん。実に面白味に欠ける名前でしょう」
「悪意全開の紹介の仕方やめろや」
「そうですねっ」
「おいフランス少女。お前も肯定するんじゃない」
楽しそうに笑うイリスを睨みつける。こいつ、さっきまでガチガチに人見知りしてたくせに、早速馴染んでやがるな。知り合いができると急に元気になるタイプか。
そんな時、教室に2人目の訪問者がやってきた。
「えーっと、ここ、帰宅同好会でいいんだよね?」
軽い口調の、気の抜けたような声がして、振り返ると、少し驚いてしまった。
チンピラのような、ハデな外見をした男子だったからだ。明るい茶色に染めた髪に、バンダナをつけている。制服のボタンを3つも外し、ズボンを腰まで下げて穿いている。
頭をがしがし掻きながら、教室の入り口に突っ立っていた。
「いかにも小者っぽいのが来たわね……」
椎名が、俺だけに聴こえる声で呟いた。
「あ……織田さん」
イリスが男子生徒を見て、驚いたように呟いた。
「知り合いなのか?」
「ワタシと同じ、1年5組なんです。でも、ここに来るなんて……。だって、スポーツ万能の、すごいひとなんですよ。噂で聞きましたけど、空手で全国4位だとか、バスケで全国大会の優秀選手になったりだとか、サッカーでプロチームから声がかかったとか……」
「……あの外見からは、とてもそんな奴には見えないが」
「入学した時は、髪の毛も黒くて爽やかな感じだったんです。でも、つい先日から急にあんな感じに変わってしまって……周囲から、心配されてるんですよ」
……グレたってわけか。ザ・帝成みたいなスポーツマンから、チンピラに。
「あ、イリスちゃん! 僕と同じクラスだよね。君もいたんだ、嬉しいなぁ。へへへ」
織田と呼ばれた彼は、だらしなく顔を弛緩させてはにかむ。
「相変わらず可愛いなぁー。ちっちゃいなぁー。ちっちゃくて、頭撫でたくなるなぁ」
彼は手をわきわきしながらイリスに近づいた。直感が告げた。———危険だ、と。
椎名が慌てて駆けつけ、思い切りグーパンチを叩き込もうとして、そこでおそらくキャラを思い出し、手を下ろした。
「ちょ———ちょっとすみませんね。こちら、ナンパ師の方はお断りしてるんです」
「え? ま、待ってよ。ナンパなんてしてるつもりないし、したこともないよ!」
彼はとんでもないとばかりに両手を振る。
「ええと、では……ロリコンの方ですか?」
「ロ、ロリコン? いやいや、僕は確かに幼い女の子とお風呂に入りたいという夢を持ってるけど、ロリコンでは断じてないね!」
……ロリコンだ。俺と椎名は、顔を合わせて小さく頷き合った。
「なぁ……悪いけど、お前をこの同好会に入れることは難しいな。彼女の安全を確保する必要があるから、同じ空間にロリコンがいるのはあまりにも危険だ」
俺は肩をすくめながらそう言って、イリスを手で示す。しかしイリスはきょとんとしていた。きっと、ロリコンの危険性を理解していないのだろう。
「危険って何さ!? あのね、君たちは勘違いしてるけど、僕は幼女に害を与える存在ではなく、むしろガーディアンだからね! そこらの悪いロリコンとは一緒にしないでくれよ」
「ロリコンは認めるのか」
「うん、もうこの際認めるよ。でも、いわゆる『良いロリコン』だ」
彼は、胸を張ってそう言った。
「……で、帰宅同好会には入れてくれるんだよね?」
俺と椎名は、再び顔を合わせてどうしようかと思案する。そこに、たたみかけてきた。
「何も迷うことはないだろー。ポスター見たけど、人数が足りないんだろー? 僕がいなければ、部活設立の条件はクリアできないじゃないか」
こいつは、スポーツ万能のスゴい奴のくせに、どうして帰宅部を希望するんだろうか。
「まぁ……イリス、お前がいいなら……」
そう訊ねてみると、イリスはあっけらかんと答えた。
「ええと、織田さんは、何の問題もないと思いますけど。あと『ロリコン』ってなんです?」
「ありがとう、イリスちゃんっ!! 信じてたっ!!」
イリスにがばっと抱き着こうとする良いロリコン。椎名が慌てて駆けつけ、拳を握った。
「あぶな————いっ!!」
そして、拳を振りおろす。グーパンが彼の顔面にめり込んだ。
「ごぶほぉぉぉぉっ!?」
彼は宙に舞った。後方に数メートルもぶっ飛び、身体を二回宙四回捻りさせて、並べられた机の中に落ちていった。新体操のセンスもありそうだ。
「……すいません、顔に蚊がとまっていたもので」
化けの皮が剥がれかけた椎名が、さっとプリンセスポーズに戻り、苦しい言い訳をした。
……とまぁ、こんなわけで。
2人目の訪問者、織田光をメンバーに加えた俺たちは、帰宅部設立の条件の一つ、員数4人以上という規定をクリアしたのだった。
「……さて。メンバーも集まったことだし、どうするかな」
俺が呟くと、
「ポスターには書いてあったけど、活動内容とか目標とか、ちゃんと教えてくれよ」
腕を組み、織田が言った。あれだけぶっ飛んだのにピンピンしている。頑丈な奴だ。
「じゃあ、ここでその辺り、確認するか」
こういったことは椎名と俺で決めたものなので、ちらりと椎名を見たが、椎名はどうぞどうぞとジェスチャーしてきたので、俺が話すことにした。
みんなをゆっくりと見回してから、こほんと咳をして、切り出す。
「つまり———この世界は、〝青春〟することを善としているだろう。仲間、部活、夢、希望……そういったものを無条件に肯定して、逆にそれらを否定する者を悪だとみなしてる。様々な形で……ここ、私立帝成高校では部活動の強制によって、俺たちは青春することを強いられている。そんな世界に立ち向かうことは困難で、1人では不可能に近い。だからこそ、俺たちは帰宅同好会を結成し、戦いの協力関係———同盟を結ぶんだ」
これが、俺と椎名が帰宅同好会を立ち上げるにあたって定めたコンセプトだった。
俺たちは決して、この学校の『青春バカ』共のようにはならない。
帰宅同好会は———戦うための、同盟だ。
「目指すのは、帰宅同好会を昇格させ、帰宅部を設立すること。タイムリミットは、4月30日。目標達成のために必要なことは、ただ一つ。それは———日没である18時の鐘が鳴るまでに、校門を抜けることだ」
訴えかけるように、そう語った。
窓から差し込む、沈みかけた夕日の光が、教室の中を紅く照らしていた。
「か、カッコいい……!」
イリスが俺をぼんやりと見つめながら、声を漏らした。
「ワタシ……一生ついていきますっ! アニキ!」
「え? いや、そこまでのことは……とりあえず、アニキはやめてくれ」
「アニキがダメなら、センパイと呼ばせてください! 今、センパイの言葉にビビッと来たんです。ワタシ、弱虫でいつもおどおどして、友達もうまく作れなくて……でも、なんだか吹っ切れました! センパイについていくッス、弟子にしてくださいッス!」
「だ、だから、持ち上げすぎて逆に恥ずかしいから……織田、悔しそうに親指を噛むなよ」
その時だった———がんがんと、教室の扉が叩かれた。
「失礼。諸君らは、帰宅同好会ということで相違ないか」
突然響いた太く重い声が室内に響き、俺たちは固まる。ぞろぞろと入ってきたのは、厳めしい雰囲気を放つ4人の男女だった。
帰宅同好会の加入希望者であるはずがないことは、一目でわかった。
4人のうち2人は見るからに肉体が鍛え上げられており、運動部員であることは明白だった。しかし全員に共通することとして、全身から醸し出すオーラが強靭で屈強で、精神的な鍛錬が積まれていると理解できた。
一瞬にして空気が変わり、俺たちはひるんで後ずさった。イリスに至っては「ひぃっ」と悲鳴をあげて教室の奥に逃げ込み、カーテンに身を隠した。
「……そうですが、何の用ですか?」
俺は彼らの威圧感を押しのけて、前に出た。
これから何を言われるか、察しはついていた。
「私はラグビー部主将の豪徳寺大和という者だ。我々4人は、お主らに物申したいことがあって、やって来た次第」
一番巨大で屈強そうな身体をし、真ん中に立っている男が凄みのある声で答えた。
「僕、こいつら知ってるよ……『帝成四天王』って呼ばれてる奴らだ」
「ほう……織田。お前もここにいたでござるか」
先ほど喋ったラグビー部主将の後ろに立つ、袴を身に着け、竹刀を2本も握った男が、一歩前に出て見下すような笑みを作った。額に、大きなX型の傷があるのが印象的だった。
織田が指を差し、言う。
「そいつは……剣道部主将にして『伝説の二刀流』———ムサシ」
鋭い目つきをしている。しかし、生きているのに伝説なのか……。伝説という言葉が、定義的に誤用されている気がするが、気にしないでおこう。二つ名ってそういうものだし。
次に、織田の指先が、隣の男に移った。彼はすらりとした長身で、黒いサングラスをかけ、髪をヘアスプレーで逆立てている。不気味で、表情の読み取れない奴だった。
「そいつは、奇術部主将にして『奇跡の創造者』———マジック」
こいつの名前は、あだ名か何かだよな? まさか本名ではあるまい。どう見たって日本人だものな。一体誰がこんなあだ名を付けたのだろう? こいつ自身か?
再び、織田の指先が移った。次は女子だ。鮮やかな赤色をした着物姿で、雪のように白い肌をしている。尻のあたりまである長い黒髪を、手に持つ扇子ではためかせていた。
「そいつは、茶道部主将にして『空間の支配者』———乙姫」
さっきから不敵な笑みを崩さない女だ。「女王様とお呼び!」とか言いだしそうな雰囲気である。それにしても、だんだん織田の声色がノリノリになってきている気がする。
最後に、織田の指先は真ん中の男に移る。ゴリラのような体躯。ツルツルのスキンヘッドで、いかつい髭を生やしている。あまりに巨体で、完全に俺たちを見下ろす格好だ。
「そして、そいつは……ラグビー部主将にして『哺乳類最強』———ヤマト」
こいつも内心で何かイジってやろうかと考えた(特に、『哺乳類最強』あたりを)が、瞳がギョロリと俺の方を向いて、固まった。思考まで読み取られていそうな感じがする。
しかし……すごいメンツだな。帝成四天王なるものが集まって、わざわざ物申しにやって来るとは大変な事態である。
ヤマトが腕を組んだまま口を開き、重い声を発した。
「お主らは、我が帝成に帰宅部なるものを設立しようと考えていると聞いた。……しかし、我々にとってはそれが好ましくないのだ。
なぜなら我が校の校訓は『生徒全員が全身全霊で青春する』ことであり、皆それに大いなる誇りを持っているからだ。帰宅部が正式な部として認められることは、誇りが冒涜されることに他ならぬ。我が校のブランド価値を傷つけ、来年度以降の新入生の質の低下にも繋がり得る。帝成の部活が日本最強ではなくなるかもしれんのだ」
「しかし、こちらはきちんと校長にも許可を取って、認められた方法に則ってるんです」
俺は言い返す。
「確かに、その通りだ。であるから、そのことは認めよう。だがしかし、言っておきたいのは、そちらがその気ならば、こちらも全力で相手をする、ということだ。
先ほど校庭に全校生徒を集め、緊急集会を開いたところだ。それには、ほぼ全ての教師も参加した。教師たちから、『放課後、帰宅同好会の会員を捕まえ、拘束した部の部費をアップする』という話も頂戴した。学校内のすべての者たちは、放課後になれば我先にとお主らを捕まえようとするだろう。
我々は結託し、総力を結集しているというわけだ。お互い、決められたルールに則って、思い切り戦おうじゃないか。そうしてお主らが我々に打ち勝ち、校門を抜けることができた暁には、帰宅部の設立を認めよう」
ヤマトは筋肉隆々の腕を組み、にやりと余裕のある笑みを浮かべた。
「なるほど……そういうことか」
この学校に存在するくだらん誇りと、自由を求める俺たちの対立。
これは———大変なことになった。ただ部活勧誘をすり抜ければ良いという状況から、明確な戦意を持った全校生徒を相手取って校門を目指さなければならなくなったのだ。
高いハードルが、さらに何十倍も高くなったような心地がした。
しかし、これは交渉じゃない。相手からの通告だ。条件を、こちらは呑むしかなかった。
「わかりました。では、お互い本気で戦いましょう」
それが———帰宅戦争の、始まりだった。