二〇一六年、某日。
篠山(しのやま)マサキは高校二年の夏休みをとある教室で過ごしていた。
ノートを広げた机に頬杖をつき、ぼんやりと窓から外を見やる。小高い丘に立つその学校からは、眼下の町が見渡せる。盆地に存在する田舎町。灰色のコンクリートよりも緑色が幅を利かせたその風景は、夏になると色彩をいっそう鮮明にする。
真っ青な空に、真っ白な雲。深い緑色をまとって茂る木々。遠方にまで広がる田畑の向こうに並ぶ山々の上には、綿雲がゆったりと流れる。そんな昼時、太陽がじわりじわりと地面を焼き、学校中にグラウンドや体育館からの運動部の掛け声が響き渡る。まるで自分たちこそが青春を謳歌していると主張するように。
マサキはそれらの声を聞き、皮肉を込めて鼻で笑った。
青春など、何の価値もない。青春を謳歌したとしても結局は何も残らない。
詰まるところ、青春など現実逃避なのだ。
何故ならば、マサキはその現実逃避をしていたために現状に至ってしまったからだ。
そのとき、チョークで黒板を叩く音がした。見ると、教師が授業を進めていた。黒板に綴られる文字。黒板を叩くチョークの音が一定のリズムを刻む。どうしてか運動部の掛け声よりも大きく聞こえる。
教室の席に着く生徒の姿はまばらだった。また、ほとんどの生徒はノートにペンを走らせるよりも時計に注視している。あと三分、あと二分、あと一分。その時が近付くにつれ、動悸が激しくなっていく。ごくりと固唾を飲む。
そして。
すべての雑音を吹き飛ばすチャイム音が学校中に鳴り響いた。
同時に教師が黒板にすべてを書き終え、生徒の方へと振り向く。次いで口が開いた。
「では、これで終わります。起立」
その言葉を待っていた、とでも言わんばかりに生徒は一斉に立ち上がり、教師の礼という言葉と同時に沸き上がった。俺たちの夏休みはここからだ、とでも言うように。
補習の終了である。
学校の規則により、追試でさえ一定以上の点数を取れなかった者は、夏休み期間にも学校へと赴いて補習を受けなければならない。
元来、真面目に勉強していれば関わることのない事柄なのだが、マサキは野球部に属していた当時に勉強を疎かにしてしまい、補習を受けるに至ってしまったのだ。
だからと言うわけではないが、野球部を辞めた今だからこそ痛感していた。弱小野球部に青春を捧げるくらいならば、補習を受けぬよう勉学に力を注ぐべきだったと。
しかしそんな後悔も今日まで。
補習は終わったのだ。
マサキはひとまず家に帰ろうと教室を飛び出した。途中、部活動のために学校へと来ているクラスメイトや教師などとすれ違いながら駐輪場へ。そして自転車を取り出していたところで、不意に名前を呼ばれた。聞き慣れた女子生徒の声。すぐに誰かは察したものの、姿が見えない。何処にいるのかと辺りを見回し、ようやく見つけた。
駐輪場の側に建つ旧校舎。その一階の一室の窓からそいつは顔を覗かせていた。
「マサキ、帰るの? 野球部は?」
「前に辞めたって話しただろ」
「ああ、そう言えばそうだったっけ。あはは、忘れてた」
少女は楽しげに笑った。
長部(おさべ)ユミ。マサキにとって一つ年下の幼馴染みであり、妹のような存在。しかし高校生になった頃から妙に色香を帯び始め、後ろ髪を一房に束ねて露わにした首筋からは、異性を感じさせられる。そのことがマサキに若干の戸惑いを与えていた。
おそらく思春期を迎えた娘の父親は、こんな感じの気まずさを抱くのだろう。
「っで、そういうお前はそんな所で何をしてたんだよ」
「何をって、同好会――伝承研究会の活動」
「ああ、あの訳のわからないやつか」
「訳のわからないとは失敬な。歴史は野球部よりも古いんだよ」
「じゃあ具体的に何をしてんだよ」
「地元から全国規模までの様々な伝承を調べたり。ほら、こんな本を読んで」
ユミは古めかしい本を持っていた。どうやら論文集らしい。紙の具合から見て、おそらく過去の伝承研究会メンバーが制作した物だろう。
「マサキも興味あるでしょ?」
「ぜんぜん」
「えええ~結構おもしろいのにぃ……。ほら、こことか読んでみてよ」
強引に本の内容を読ませようと、開いたページを突きつけてくる幼馴染み。マサキは仕方なさそうに目を通す。そこには何処かの怪異が綴られていた。
丑三つ時、山奥のとある旧トンネルは異世界への入り口と変貌し、通った者を飲み込んでは絶対に帰さないという。
その内容はなかなかに突拍子がなく、マサキは非現実的だなと思わされた。
「これ、伝承と言うよりもオカルトだろ」
「それを含めた広義的な意味で伝承と言うんだよ。ま、持論だけどね」
「ああ、そう」
マサキはそんな幼馴染みを余所に部屋の中を覗き込んだ。ユミ以外に人の姿は無い。六畳部屋の中央に長机が置かれ、壁際には怪しげな本を並べた本棚が備えられている。そんな部屋からは涼しげな空気が漏れ出てきていた。
「なるほど、ユミはそんなに伝承が好きなわけだ。……っで、本当は?」
「え、本当に好きだよ。でも、ここを避暑地にしてるってのもあるね。ほら、うちっておじいちゃんと暮らしてるわけだけど、おじいちゃんって冷房が嫌だから」
冷暖房完備の部屋で、ゆるりと趣味の図書をたしなめる。ユミにとって伝承研究会とはそういう存在なのだろう。
「お前、趣味は現実を見てないのに、変なところで理屈的というか現実的だよな……。にしても、ここって本当にやる気を感じられない同好会だよな。そもそもお前以外に会員っているのか?」
「いるいる。会長ともう一人ね。今は居ないけど」
「ほんと、やる気ないな……。まあいいや、とりあえず俺は帰るから」
そうして踵を返したマサキだが、ふと思い出して振り返った。
「そうだ。今日、兄貴の引っ越しの準備があるから手伝いに来いよ」
「あ、今日やるんだ。いいよ、涼しくなる夕方頃に行く」
「了解。じゃあ仕事はたっぷり残しておくわ」
「いやいや、そこは自分たちのことなんだからやっといてよ――って、人を無視して帰ろうとするな!」
マサキは自転車に跨がり、早々にその場を後に。背後では続けて抗議の声。なのでマサキは笑ってやった、幼馴染みを挑発するように。すると予想どおりの怒声が返ってくる。それが堪らなく愉快で、ついつい笑い声の音量は上げてしまうのだった。
夕方。
実家から大学へと通っていた兄の篠山ヒサシは、夏休みを機に大学近くのアパートへと引っ越しすることにした。やはり二時間もの電車通学は無理だと気付いたのだ。
今、篠山家が慌ただしいのは、その引っ越しの準備のためだった。
「お前、俺に感謝しろよ。一人部屋になるのは、俺が出ていくお陰なんだからな」
兄の恩着せがましい言葉を無視し、マサキは押し入れを指差す。
「なあ、押し入れの中の物は持っていかないの?」
ずっと共同部屋で過ごしたため、押し入れの中は二人の所有物で満杯。基本的には、捨てるに捨てられない物ばかりが押し込まれている。ゆえに、引っ越しに必要な物はないだろう。だが、こんな機会でもなければ、開けることがないのも事実。ならば、ものはついでである。引っ越しの荷物整理と同時に、押し入れの片付けもしてしまおう。
ヒサシはそう考えた。
答えを聞くと、マサキは満を持して戸を開き、眼前の光景に思わず唸った。
「……これ、どうやって片付けるんだ?」
久方ぶりに押し入れを開けると、そこには積まれた所有物。事あるごとに適当に荷物を詰め込んだ結果が眼前にはあった。
その光景はなかなかに圧巻。まるで壁である。
とは言え、手を付けないわけにはいかない。少しずつでも崩していくしかないのだ。
二人は壁が雪崩を打たぬよう慎重に行動を開始。上の方から荷物を取っていく。
そして片付け作業の終わりがようやく見えたところで、マサキはそれを見つけた。
「なんだ、これ?」
押し入れの奥に何かがあった。手に取ってみる。古い缶箱。どうしてこんな物が押し入れの奥に、と疑問に思いながら蓋を開ける。
中には手紙や葉書が入っており、差出人ごとに輪ゴムで纏めてある。
「これって……」
そこで思い出した。
まだ小学生の頃、マサキはもらった手紙や年賀状をその缶箱に保管していたのだが、時代が流れるにつれてそれらのやり取りはなくなり、同時に缶箱の必要性が薄れた。結果、その習慣はなくなっていったのである。とは言え、手紙や年賀状を捨てるわけにもいかず、こうして押し入れの奥に仕舞っていたのだ。
マサキは懐かしく思いながらそれらを手に取り、内容を検めていく。
小学生の頃は、友人たちに年賀状を書いていたのだが、今やメールですら新年の挨拶を怠るほど。どうせ、新学期になれば学校の友人とは否応にも会う。その時にでも挨拶をすればいい。そんな考えに変わっていったのだ。
そんなことを思い出していたときだった。
「へえ、懐かしい」
耳元で聞こえた声に振り向くと、すぐ側にユミの顔があった。どうやら今しがた来たらしいのだが、押し入れの片付けも済んでしまい、ほとんど仕事は残っていない。今さらに助力もあったものではない。なので文句でも言ってやろうとした矢先、ユミが眼前に何かを差しだしてきた。視界がそれで埋まる。白封筒。差出人は祖母で、宛名は篠山マサキとなっている。
「さっき下に郵便配達が来てたから、代わりに受け取っといたよ。――って、なんで微妙な顔?」
「いや、ありがたいんだけど、代わりに受け取るってどうよ。うちの子じゃないでしょ、きみ」
「だってここに来たときにちょうど配達に来たんだもん。親切心でしょ。感謝してよ」
「あーはいはい、ありがとう」
「ぜったい感謝してないじゃん」
不満げなユミを余所にマサキは白封筒を受け取り、鋏を手に取った。そして中身を切らぬようにしながらも上部をばっさりと切り落とす。
それを見ていたユミが言う。
「あのさ、マサキ。昔から封筒を開けるときは鋏を使ってるけど、もうすこしどうにかならないの? ばっさり行くから中の手紙も切ってしまいそうで見てて怖いんだよね」
「そうか? ちゃんと中身を切らないように気を使ってるから、今までも数えるくらいしか切ったことないし、大丈夫だろ」
「切ってるんじゃん。それにしても、なんで鋏を使うの?」
「なんでって聞かれても……」
おそらく祖父の影響だろう。当時のマサキには鋏を使った開け方が普通に見えず、格好良くすら見えたのだ。たったそれだけの理由。
とは言え、それが習慣となっているのだから驚かされる。
マサキは返答もそこそこに封筒の中身を取り出す。中には三つ折りにされていた手紙が一枚。いったい何事だろうか。祖母から手紙をもらうなど初めての経験だったこともあり、何かしらの緊急の用事でも書かれているのではと気構えていたのだが、しかし内容はマサキの近況を尋ねるもので、当たり障りのないものだった。
「いきなり手紙を送ってくるから何事かと思ったけど……。これだけ? にしても、なんで俺の近況だけ?」
「お前がずっと顔を見せに行ってないからだろ」
引っ越し作業の片手間にヒサシが言った。
「お前、野球の練習があるからとか言って、ずいぶんと顔を見せに行ってないだろ」
「まあ、うん」
「ばあちゃんが通院のために今の家に引っ越したときも、お前は挨拶に行ってなかったよな。たしか一年半くらい前」
「うん、行ってない。と言うよりも、じいさんの葬式以来、顔を見せてない。たしかあれは俺が中学に上がったくらいのときだから……」
「四年くらい前か。だったらばあちゃんも色々と思うんじゃないのか? じいさんが入院してた病院に、今度は自分が通院することになったわけだし。自分もぽっくりと逝っちまうかもしれないから、その前に孫の顔を見ておきたい、みたいなな」
「ずいぶんと不謹慎なことを言うなあ……」
「いいだろ、親族なんだし。それに、あながち冗談とも言い切れないしな。本当にぽっくり逝くかもしれないし、そうなると未練を引き摺ってお前の枕元に立つかもだぞ」
「怖っ」
今までも肝試しやら何やらと付き合わされてきたが、この兄、冗談で怪談を突っ込んでくるから質が悪い。もしかしたらユミが伝承研究会に入るほどのオカルト好きになったのは、この兄の影響なのかもしれない。
「お前、野球部を辞めて暇なんだろ。だったら夏休みのうちに行ってこいよ」
「そんないきなり言われても……」
「マサキ、会いに行ってあげなよ。やっぱり、おじいちゃんおばあちゃんは大切にしないと。私なんて毎日のように顔を合わせてるよ」
「ユミ。お前は同じ家に住んでるだけだろ」
しかし二人の言葉にも一理あるように思えた。
実際、祖母には年賀状すら送っていない始末。不孝な孫であることには違いない。もしかしたら色々と心配を掛けてしまっているのかもしれない。でなければ、こうして祖母から近況を尋ねる手紙など届くはずがないのだ。
「そういうことなら反省しないといけないんだろうけど、でも夏休みのうちに会いに行くってのはなあ。なんか急すぎるんだよなあ。冬休みとかだったら、まあ……」
「マサキ、それは問題を先送りにしてるだけだと思うよ」
「ぐっ……。わかった、じゃあ今から電話する。それでいいだろ」
幼馴染みにここまで言われたならば仕方ない。
マサキは携帯電話に手を伸ばす。が、そこでユミの制止が掛かった。
「どうせなら手紙を送ろうよ」
「はあ? なんでそんな面倒なこと……」
「やっぱり情緒は大切にしないと。手紙には手紙を、電話には電話をってね」
「そんな、目には目をみたいなこと言われても……。それに、いちいち投函しに行くのは面倒なんだよなあ」
田舎町なだけあり、郵便ポストはそれぞれに距離をおいて設置されている。自宅から自転車で一〇分少々。往復で三〇分近くは掛かる。はっきり言って面倒だ。
「そんなマサキにいいことを教えてあげる」
ユミが言った。
「昔、肝試しに行ったでしょ。ほら、雑木林に鳥居だけが残ってる……」
「ああ、あそこか」
昔、マサキはヒサシとユミの三人で肝試しをしたことがあった。場所は、すでに本殿が朽ち果ててしまった廃神社。
「その近くに郵便ポストがあったのは覚えてる?」
「あったっけ?」
「あったよ、丸型のやつが。あそこならここから近いし、いいでしょ」
「う~ん、まあ……」
確かにそこならば家から近い。それに手紙を書くというのも悪くないアイディアかもしれない。実際、祖母に電話をしたところで、会話が思いつかないし、続きそうにない。だったらじっくりと話題を考えられる手紙を送る方が賢い。
マサキは手紙を書くと決め、その意図をさっそく居間でくつろぐ母に伝えた。すると母は結構なことだと賛同。しかし封筒などはあいにく切らしているとのこと。仕方ないので明日にでも買ってくるか。そう考えた矢先、母がはたと思いつく。
「そう言えば、昔の年賀状が余ってたっけ?」
「え、昔の年賀状とか使えるの?」
「大丈夫、大丈夫。使える、使える」
そう言って母は年賀状を取りに行き、程なくして戻ってきた。その手には九枚の年賀状の束。干支からして七年前の物。それを見てマサキは危惧した。昔の年賀状を使用するというのは如何なものか。まるで在庫処分をするような行為。失礼になるのではないだろうか。しかしそこはそのような事を思いつく母の息子。しばし考えた末に「まあいいか」という結論に達する。
「あと、これが二円切手ね。これをちゃんと貼りなさい」
そして渡された九枚の二円切手を見て、マサキは小首を傾げた。
「要るの、これ?」
「当然じゃない。その年賀状の左上を見なさい。そこに五〇って書かれてあるでしょ。それが年賀状――ひいては葉書の値段であり、切手の値段なのよ。でも、すこし前に消費税が上がったでしょ。それで年賀状は五十二円になったわけ。だから不足分の切手を貼る必要があるのよ。あ、あと左上の年賀の文字に二重線を入れておきなさい。でないと、普通葉書として受け付けてもらえないかもしれないわよ」
「へえ~ぜんぜん知らなかった」
とにかく祖母への連絡手段を得たマサキは、さっそく自室へと戻り、机に向かってペンを握った。しかし椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いで思い悩む。なんと書けば良いのか。ありのままを書いても良いが、手紙を送ってきたことから考えて、祖母には心配されている可能性がある。ならば不安を抱かせる内容は避け、それでいて充実した日常を送っている旨を伝えるべきか。
となると――。
「えええ~。すこし前に野球部は辞めたのに、辞めてないことにするの?」
「仕方ないだろ。悪い印象を与える内容は――って、見るなよ」
ふと側を見ると、またもや当然のように幼馴染みの顔があった。
ユミは軽蔑するように目を細める。
「マサキ、嘘はいけないと思うよ」
「嘘も方便って言うだろ。それに、丸っきり嘘ってわけじゃない。実際、野球部を辞める前は汗と涙を流しながらも輝いていたもんなんだ」
「だったら辞めなきゃ良かったのに」
「俺は、補習を受ける事態にまでなって自覚したんだよ。部活動ばかりにかまけてはいけないと。だいたい大会ではいつも早々に敗退するような弱小部だぞ。だったら他のことに心血を注いだ方が有意義だろ。そう、例えば恋愛とか」
「部活動ばかりにかまけてられないとか言ってたくせに、恋愛はいいんだ」
「恋愛は部活動みたいに時間をそこまで浪費しないからいいんだよ」
「そうかなあ。すっごい詭弁っぽいんだよねえ」
マサキはユミの言葉を無視して綴っていく、いかにも青春を謳歌している風に。しかしその手が途中で止まってしまう。
果たして恋愛云々について言及すべきなのだろうか。仮に書くとした場合、なんと書けばいい。彼女がいるなどと嘘を書いてしまった方が良いのだろうか。だた、それは自分が情けなく思えて仕方がない。ならば恋愛に関しては書かないでおくことが無難か。
「さっきはあんなこと言ってたのに、恋愛のことは書かないの?」
ユミが言った。その目は、書けるものなら書いてみろよと挑発的に笑っている。
「ぐ、この……。ああ、書いてやるよ! 近いうちに絶対に彼女を作るってな!」
マサキは半分自棄になって「彼女を作る」という決意表明で締め括った。
しかしここで彼女がいると書かなかったのは、マサキなりのプライドによるものだったのかもしれない。
しかし側でユミの苦笑が零れる。
「彼女、本当に作れるの?」
「当然。見てろ、それはそれは美人な彼女を作ってやるからな」
「そっか……。マサキ、私は奇跡を信じてる」
「なんだそれは。どういう意味だ、おい」
「そうだ。縁結びの神様が祀られてる神社を調べておいてあげるね」
「要らんわ!」
そんな冗談を言い合いながらも、ともあれ祖母宛の葉書は完成。マサキは例の郵便ポストを求めて外へ出ると、自転車に跨がり、いざ。
夕空の下、住宅街を抜けると、田畑に横たわる農道へと出る。街灯すらない道。そこをのんびりと走りながら何気なしに鼻から息を吸う。
青葉の香り。夏になると、その匂いはいっそうに強くなる。生まれてからずっと嗅いでいる匂い。この町を出ていく兄は、いつかこの匂いを懐かしいと感じるようになるのだろうか。二車線しかない通りを見て、不便なところだと不満を持つようになるのだろうか。
そんなことを考えていたところで、その脇道が視界に入る。
田畑の真ん中を突っ切り、雑木林へと続く私道。土を盛って固めただけのそこは農業者しか使わないため、地元住民であるマサキですら利用しない。
しかし今日、その道を行く。
雑木林に向けて私道を走っていくと、それは唐突に視界に入った。丸型の寂れた郵便ポスト。まるで忘れられたように、道の脇にぽつりと佇んでいた。
「……これ、使われてるのか?」
寂れ具合に加え、あまり人が寄りつかなさそうな立地。使われていなくても不思議ではない。しかし使用停止の案内や、差出口を塞がれていないことから現役であると判断。マサキは改めて投函しようとした。そのとき、ふと視線を感じてそちらを見やる。振り向いた先には苔むした鳥居。郵便ポストと同様、手入れがなされていない上、夕刻という時間帯。得体の知れない雰囲気を感じ取ってしまう。不気味だな。そう思った瞬間、雑木林で休んでいたカラスが一斉に飛び立った。マサキは異様な気配を察し、葉書を投函して逃げるようにその場を去ったのだった。
高校二年の夏休みが瞬く間に過ぎ去り、気付けば二学期初日。ふたたび学校の制服を着る日常に戻ったのだなと、マサキは登校中の自転車を漕ぎながら実感していた。
思えば、今年の夏休みはいつも以上に淡々としていた。
何かに心血を注ぐわけでもなく、ただただ日がな一日を漫然と過ごす。そのため、ユミからは「彼女は作らないんですか?」とからかわれたものだ。
しかしそれも致し方ない、周囲に付き合いたいと思える女性がいないのだから。
選べる立場じゃない?
高望みをしている?
知るか。誰にだって選択する権利がある。無論、篠山マサキにもあって然るべき。
そんな言い訳を考えながら校門をくぐり、駐輪場に自転車を置いて下駄箱へ。そうして靴を履き替えて教室に行くと、マサキはクラスメイトと適当な挨拶を交わし、自身の席に着く。教室内は普段よりも騒がしかった。久しぶりの再会に会話が弾んでいるのだろう。そう思いながら特に騒がしい方を見た。ひとつの席を中心に人だかりが出来上がっている。いったい何事だろうかとその中心を覗き込んだ。そして。
誰だ、あれは……。
一人の女子生徒がそこにいた。えらく美人で、柔らかい笑みを浮かべた長髪女子。きっとその容姿は多くの女子から憧れられ、同時に嫉妬されることだろう。
マサキは一瞬だけ目を奪われたが、次にはクラスメイトの友人――井上に問うていた。
「誰だ、あれ。転入生か?」
「えっと……。ごめん、どういうボケ? なんて返せばいいのか、わからないんだけど」
「いや、冗談とかじゃなくて。誰なんだよ、あれは」
「風間(かざま)さんじゃん。風間ハルカさん、一緒に入学した同級生の」
「はあ? 知らないって、あんな奴。意味のない嘘をつくなよ」
「嘘? マサキこそなに言ってんのさ」
井上はマサキに怪訝な顔を見せたが、むしろマサキの方が井上に対して怪訝であった。何を訳のわからないことを言っているのか。同級生に風間ハルカなどいるはずがない。だから他のクラスメイトたちに確認していく。彼女は転校生なのか、と。しかし返答は井上と同じだった。入学当初から一緒だった。この学校で知らない人などいないほどに有名なのに、お前こそなにを言っているのだ、と。無論、それで納得できるはずがない。
「そんな馬鹿な……。そうやってみんなで俺をからかってるだけだろ。なあ、井上」
「するわけないじゃん、そんな面倒なこと」
「でも、まったく記憶に無いんだぞ」
「ど忘れしたんじゃないの?」
「ど忘れって……。常識的に考えてあり得ないだろ!」
「こっちから言わせれば、覚えてないって方があり得ないんだけど」
「だからお前らが嘘をついてるんだろ! なあ!」
地方の田舎町なだけあり、生徒数はたかが知れている。一学年全員が顔見知りという有り様だ。そういう意味で、良くも悪くも新鮮味のない学校なのである。
だからこそ確信をもって言える。
記憶している同級生の中に、風間ハルカの顔はない。まったく記憶にない。ゆえに風間ハルカという女子は、この学校にはいなかった。存在しなかった。
なのに、どうして誰も彼女の存在に疑問を持たないのだ。
どうなっている。もしかして俺の頭が狂ってしまったのか。夏休みを漫然とした過ごしすぎたために頭が呆けてしまい、記憶の一部が欠け落ちてしまったとでも言うのか。
ひとり狼狽えるマサキを見かね、井上がそれを提示した。クラス名簿。クラスメイトの名前が並び立てられているそこに、風間ハルカの名前は当然のように存在していた。さすがにこんな物をこしらえてまで騙すようなことはしない。
しかし、それでも。
混乱のあまり額を押さえるマサキに、井上は更なる証拠を突きつける。携帯電話に収めた写真。学校でのイベントのたびに写真を撮っていたのだろう。そしてそこにも彼女は当然のように写り込んでいた、クラスメイトと仲睦まじい様子で。
「ははは、どうなってるんだよ……」
乾いた笑いを零し、マサキはよろりと側の壁にもたれ掛かった。
本当に風間ハルカはここに存在していたと言うのだろうか。
ただ篠山マサキだけが記憶を失っているだけだと言うのだろうか。
あり得ない。絶対に風間ハルカはここに存在してなかった。
つまりみんなが忘れているのだ、風間ハルカなどここには存在していなかったと。
しかしそうなるとクラス名簿や写真はどう説明するのか。
無理だ。それらは風間ハルカがここに存在していたという明確な証拠なのだから。
「……だから認めろって?」
証拠があるから、風間ハルカがここに存在していたと認めろと言うのか。そして篠山マサキは記憶を失っていると認めろと言うのか。
自問に対する答えに窮するマサキ。そこで肩を叩かれた。ハッとして振り返る。問題の女子――風間ハルカが不思議そうに小首を傾げて立っていた。
「どうしたの、篠山くん。大丈夫?」
どうやら一人で騒いでいたマサキを心配し、声を掛けてきたらしい。おそらくは親切心による行動。しかしマサキは答えない。呆然と相手を見据える。そんな反応を怪訝にそうに見て、ハルカはマサキの額へと手を伸ばした。熱でも計ろうとしたのだろう。だが、マサキからすれば存在しないはずの相手――得体の知れない相手からの接触。ゆえに、次の行動に出てしまったのも致し方ないことだった。
「うわあああああああああ!」
マサキは咄嗟にハルカの手を払い除け、そして。
「だ、誰だよ! 誰なんだよ、お前は!」
そう喚いていた。
充実、空虚。どちらの日常を過ごしていたとしても、行動すれば否応にも現状に変化が生じてしまう。望む望まないに関わらず。
では篠山マサキの日常に波風が立ち始めた原因は、いったい何だったのだろうか。
いったいどのような行動を取った結果、日常は変化してしまったのだろうか。
それはわからないが、喚き散らすという痴態を晒してからは、とにかく変化の中心に存在する風間ハルカを究明することにした。
そのためにまず始めたのは観察。
「おはよう」
ハルカが登校すると、すぐにクラスメイトたちが寄ってきてあれやこれやと話を振る。それらに対して彼女はいっさい嫌な顔を見せず、それどころかにこやかに対応。だから話す方も気分が良くなり、気付けば彼女の周囲には笑みが溢れるようになる。
「えっと、ここはね」
クラスメイトが授業でわからなかった所を聞きに来ても、彼女は快く応じる。その説明は非常にわかりやすく、ほとんどの者は納得してしまう。
「いいよいいよ、私がやっとく」
用事が出来たというクラスメイトに代わって、ハルカは黒板消しやゴミ捨てなどの雑務を請け負うことがある。
そしてそれは教師に対しても同じだった。
「はい、わかりました。これを準備室に運んでおけばいいんですね」
教師に頼まれ事をされてもハルカは不満を見せたりせず、しっかりとその役割をこなしてみせる。頼む側も彼女のことを模範的な生徒として信頼しきっているようだった。
マサキはそんなハルカの様子をじっと観察した。時には物陰で待ち伏せ、時には自分の席で寝たふりをしながら、時にはこっそりと背後を付け回して、わかったことを逐一メモ用紙に綴っていった。無論、ストーカーさながらの行為だと自覚はしていた。しかしそれでも彼女を知ろうと思ったのだ。
なのに、調べれば調べるほど見えてくるのは周囲の彼女に対する期待と、それに見事こたえてしまう風間ハルカという人物の完璧さだけ。
それ以外は何も見えてこない。
ならばと調査は次の段階へと移行させた。
聞き込みだ。
しかし聞く内容は彼女の存在云々ではなく、彼女の過去について。
もはや風間ハルカの存在を否定する気はない。だからこそ、彼女のことをより知るために情報を掻き集めることにしたのだ。
その結果が以下のとおり。
曰く、彼女は高校入学の際にこの町へ家族とともに引っ越してきたらしく、今やこの学校に確固たる地位を築いているそうだ。容姿端麗、品行方正、成績優秀。そんな超人でありながら運動は苦手らしいのだが、もはやそれは愛嬌として周囲に受け入れられている。一方で、彼女と恋仲になれた者はいない。ほとんどの者が高嶺の花として諦めており、稀に告白を試みる猛者もいるが、次の瞬間には屍と化す。サッカー部、バスケ部、テニス部、水泳部、陸上部、柔道部の主将たちはことごとく玉砕。つい最近では、生徒会長もその仲間の一人に組み込まれたと聞く。ちなみに趣味は読書。見掛けによらず、SF小説が好みらしい。家にはそれらの本が並んでいるという。
以上が集めた情報の総括。
結局は彼女の正体を知るには至らなかったが、それでもわかったことがある。
風間ハルカは篠山マサキにとって苦手な人物のようだった。
老若男女問わず、誰にでも理想の恋人像は存在する。
快活な人からお淑やかな人、頭がいい人に運動が出来る人。背が高い、低い。長い髪に短い髪。筋肉質に細身。童顔に強面。気丈な性格に打たれ弱い性格。巨乳に貧乳。
それぞれにはそれぞれの好みがあるものだ。
そういう意味で、たとえ周囲が絶賛しようと、マサキにとって彼女は好みの外だった。
口許を隠す上品な笑い方も、しゃんと背筋を伸ばして歩く丁寧な所作も、教師の頼みを率先して引き受ける性格も、すべてが完璧すぎて息が詰まる。
無論、篠山マサキにとって彼女が高嶺の花であることは否定しない。付き合いたいと願ったとしても不可能だろう。言わば、ねじれの位置。それだけ、風間ハルカと篠山マサキの立ち位置は違うのだ。
だから、まさかあんな事態になるとは想定していなかった。
九月下旬に差し掛かった頃には、マサキもハルカを調べることは不毛だと悟っており、新たな日常を過ごすようになっていた。
登校するや机に突っ伏し、チャイムと同時に起き上がる。しかし授業はほとんど聞き流す。昼休みは気の知れた友人と過ごし、放課後は自宅に直帰。誰かと遊ぶこともしない。
青春とは程遠い。それが新しいマサキの日常だった。
そんなある日のこと。
普段、担任が連絡事項を述べて放課後HRは終わりとなるのだが、今日は一〇月に行われる球技大会について話し合われることになった。
まずはクラスの中から実行委員を選出し、その者を中心として生徒一人一人が出場競技を決めていくことに。
とは言え、実行委員などという面倒事を進んでやろうとする者はいない。ゆえにこういうときは時間が掛かるというのが、マサキの知るこのクラスの特徴であった。
しかしマサキにとっての例外が一人だけ存在していた。
担任の「実行委員をやる奴はいないか」という呼び掛けに誰もが沈黙する中、その女子生徒は毅然と手を上げた。
「先生、私がやってもいいですか?」
風間ハルカである。
この立候補に異論を唱える者はいなかった。面倒事を進んで引き受けてくれたのだから当然でもあるが、同時にそれが彼女に対する信頼の厚さなのだろう。
実行委員に決定したハルカが壇上に立ち、担任から一枚のプリントを受け取った。どうやらそこに球技大会の競技一覧が記されているらしい。彼女はそれを見ながら黒板に競技名を書いていき、終えるとクラスメイトの方に振り返った。
「それじゃあ、希望する競技があれば挙手ののちに言ってください」
その声を合図に、先ほどまで静まり返っていた教室がざわつき始めた。どの競技に出場するかを友人と相談し、和気藹々と実行委員に希望を述べていく。
そんな賑わう教室にて、マサキは机に突っ伏してやり過ごすことにした。球技大会に興味はなかったし、余りものにでも当ててくれればよいと思っていたのだ。
しかしこれがいけなかった。
初めはやることもないので突っ伏していたのだが、次第にうとうとし始め、次に肩を叩かれてハッとすると、側にハルカが立っていた。どうやら彼女が起こしてくれたらしい。
夏休み明けのときは狼狽したが、今やマサキも一定の慣れを覚えていた。それだけにもはや驚くようなことはない。なので落ち着いて何用かと尋ねる。
すると彼女は苦笑した。
「もうみんな帰ってるよ」
「……え?」
マサキは教室を見回す。二人を除き、誰もいない。
「まさかHRってもう終わった?」
「うん、五分くらい前に終わったよ」
「マジかあ……」
マサキは悔しげに天井を仰ぐ。
放課後に用事はない。なので時間は有り余っている。しかし寝過ごしてしまうような時間の浪費はどうも無駄に思えてならない。
マサキは起こしてくれたハルカに礼を述べ、帰り支度を整える。彼女はどう致しましてと答え、自分の席へ。そして用紙に何かを書いていく。
「風間さんは帰らないの?」
マサキが問うと、彼女は黒板を指差した。
「それを書いて今日中に先生に提出しないといけないから」
それ、とは何だろうか。
マサキは黒板を見た。球技大会の競技と、出場者の結果一覧が記されていた。どうやら彼女はそれを専用の用紙に記入し、今日中に担任教師に提出しなければならないらしい。マサキはご苦労なことだと感心しつつ、黒板に書かれた結果を確認していく。ほう、あいつはあれに出場するのか。あいつらはあれにしたのか。そんなことを思いながら自分の名前を探し、目を丸くする。ソフトボールの出場者の中に、篠山マサキの名前が記されていたのだ。
「はあ?」
たしかに余りもので良いと思っていたが、何故にソフトボールに選ばれたのか。
マサキは鞄を肩に担ぎ、慌てて職員室へと走った。
「先生、なんで俺がソフトボールなんですか!」
今のマサキには野球と関わりたくない事情があったのだが、それを知らない担任は微笑を浮かべながら答えた。
「いや、クラスのほとんどが篠山にやらせろって言うし、お前も寝てたし。それにお前って野球部なんだろ? じゃあちょうどいいじゃないか」
「元ですよ! もう野球部じゃないです!」
「そうだったのか? まあ、元でも同じだって。やっぱりそれぞれが得意な競技に出るべきだと思うぞ。ほら、野球とソフトボールってほとんど同じだし」
「いや、それはそうかもだけど……。これって変更とか出来ないんですか?」
「う~ん、すでに決まったことだし、一人の我がままを聞いて変更ってのは、ちょっと難しいかもな」
「そこをどうにかならないですか?」
「そう言われてもなあ……。ソフトボールと替わってもいいって奴がいるなら、そいつと替わるのは問題ないと思うが……。なんにせよ、風間に一言くらい伝えとけ。あいつがうちの実行委員だからな。勝手に替わって迷惑するのはあいつなんだ」
マサキは頷くと早々に職員室を出ていく。教室にハルカがいることはわかっているので、とりあえず不満があることを伝えておこうと思ったのだ。
「ったく、面倒臭いなあ……」
そうぼやきながら放課後の廊下を進む。
窓から差し込む夕陽が校舎内の侘びしい空気を増長させる。また、外から聞こえる野球部の掛け声も、上階から聞こえる吹奏楽部の楽器音も、今はその侘びしさに相乗効果をもたらしていた。客のいない平日の遊園地に流れる陽気な音楽。それに近いものがある。
そんなことを思いながら教室の前へ。ドアを開けようと手を伸ばす。が、ふと止まる。教室から声が聞こえたのだ。本来ならば気にせずドアを開け放つところだが、そうも行かない。ドアに備わったガラスから中の様子が見えてしまったのである。
夕暮れの教室で、男子生徒と女子生徒が神妙な様子で向かい合っていた。男子は他のクラスの生徒で、女子は風間ハルカ。
マサキは直感で察した、これは告白だと。なので、空気を読んで去ろうとも考えたが、そこで下世話な思考が割って入ってくる。是非とも事の行く末を見届けようじゃないか。ゆえに会話が聞こえるように少しだけドアを開ける。当然、してはならないことをしている後ろめたさはあった。しかし好奇心には勝てない。だから息を潜め、耳を澄ませる。さあ、どうなると胸を高鳴らせる。
決着は一瞬だった。
「ごめんなさい」
ハルカは礼儀正しく頭を下げて告白を断ったのだ。
一方、男子生徒は悟ったような苦笑い。おそらく予測していた結果だったのだろう。それじゃあ、と言葉を残して教室を出てくる。マサキは慌てた。このままでは盗み見していたことがバレてしまう。はやく何処かに隠れなければ、と思ったのだが、男子生徒は相当にショックを受けていたのか、マサキに気付いた様子もなく去っていった。
マサキはホッと胸を撫で下ろし、それから先ほどの勇者を称えるように拳を握り込む。
お前はよく頑張った。ナイスガッツ。
しかし同時に悩まされる。
さて、これからどうするか。さっさと伝えることを伝えて帰りたいところだが、今は駄目だろう。もう少しだけ時間を開けて出直すか。
そう考え、その場を去ろうとしたときだった。
「あーもー面倒臭いなあ。こっちは実行委員の仕事をしないといけないってのに、時間を取らせないでほしいわ、ほんと」
愚痴。
マサキは何処から今の声が聞こえてきたのかと周囲を見回す。人はいない、教室の中の風間ハルカを除いて。だからドアの隙間から顔を覗き込ませた。今のは何かの聞き間違いだったと確認するために。
彼女は椅子に座り、実行委員の仕事を再開させていた。有りっ丈の罵詈雑言を吐き出しながら。
「上っ面しか見てないくせに、告白とかしてくんな。それも仕事をしてるときにさ」
このとき、マサキは「告白をしてくれた相手にそれはないだろ」と怒りを覚えることすら忘れ、ただただ驚愕していた。
普段、お嬢様のようにお淑やかな彼女が、不満を口汚く吐き散らかしているのだ。驚かないはずがない。
見てはいけないものを見てしまった。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
マサキはごくりと息を飲み、ゆっくりと覗かせていた顔を引っ込ませようとした。
そのとき、がらり。
こっそりと身を引こうとしたのだが、その際、ドアに手を掛けてしまい、不用意にも開いてしまったのだ。
その失態に唸ったマサキは、次に恐る恐るそちらへと顔を向ける。
彼女が目を丸くしてこちらを見ていた。
一瞬、マサキの脳裏に逃げる思考がよぎった。が、それより何事もなかったかのように振る舞う方が良いのではないかと思い至る。
俺はなにも見てない。だから逃げる理由がない。よって平常心を保ちつつ頼み事を遂行すればいい。それでいい。そう考えた。
咳払いを一つ、マサキは何事も無かったかのように澄ました表情を作り、ハルカの前へ行くと、出場競技に不満があることを伝える。
「あのさ、球技大会の出場競技のことなんだけど。俺、ソフトボールにあてられてるんだけど、これをどうにか出来ないかなって」
「……」
「えっと、聞こえてる? 他の競技に替えてほしいんだよ」
あとは彼女がこちらの意を酌み、何事もなかったように話を合わせてくれればいい。そうすれば真実は闇へと葬られるのだ。
しかしハルカは答えずに俯いていた。前髪で顔が良く見えない上に、沈黙していて何を考えているのか窺えない。
マサキはいったいどうしたのだろうかと顔を覗き込もうとした。その瞬間、彼女に胸倉を掴み上げられ、額同士がぶつかるほどに顔を近づけられる。視界が彼女の般若の形相で埋まり、そして。
「いま見たことは誰にも言うんじゃないわよ!」
こうしてマサキの親切心は水泡に帰したのだった。
誰にだって隠し事はある。
マサキにだってある。親に見られたくない雑誌、友人に知られたくない趣味。だから誰かの隠し事を知ってしまったときは、絶対に洩らさないと心掛けていた。
今回もそうだ。
見て見ぬ振りをして済ませよう。
そう考えていた。
なのに。
「いま見たことは誰にも言うんじゃないわよ!」
彼女はマサキの親切心をものの見事に粉砕してくれたのである。
「ちょっと、なに黙ってるのよ! 誰にも言うなって言ってるんだから答えなさいよ!」
そう懇願するハルカだが、その態度はじつに高圧的。相手の胸倉を掴み、怒鳴りつけるように言うのだ。いや、そもそも懇願ではないと考えるべきか。これは命令だ。
マサキとしてもべつに言いふらす気などなかったし、たとえ言ったとしても誰も信じないだろうと思っていた。それだけ風間ハルカの地位は確固たるものなのだ。
ただ、純粋に疑問には思う。
どうして彼女は正体を隠すのだろうか。
それを問い質したいとも思う。
が、それよりもだ。
胸倉を掴むなど、こうも高圧的に迫られると反抗したくなる。
だから。
「どうしようかなあ。頼む側の態度がもうすこし殊勝なものならなあ」
「うっ……」
マサキが揺さぶりを掛けると、ハルカは胸倉を放してゆっくりと後退り、身を守るように構えた。
「なにを要求する気? 言っとくけど、エッチな要求にはいっさい応じないわよ」
「……俺、そんな人間と思われてるのか?」
「当たり前でしょ。新学期早々、私の手を払って騒ぎ立てた人間のことを信用できると思う? あまつさえ、私のことを忘れてるなんてあり得ないでしょ」
「いや、だからあれは錯乱してたというか、なんというか……」
「それに知ってるのよ。あんた、あれから私のことを探ってたでしょ」
「なんでそれを……」
「普通に気付くわよ、後ろを付けたりされたらね。それに、あんたに色々と聞かれたって、みんなが教えてくれてたしね」
「マジかよ……」
なんでだろうか、この裏切られたような気分は。
「そんな、ハエのように私の周りを嗅ぎ回っていたような奴は信用できないってのよ」
「ハエ呼ばわりかよ。さすがに傷つくわ。……まあいいや。とにかく、俺は今回の件を口外しない。信じろ」
「だから信じられないって言ってんの。言葉、わからない? でも、ごめんなさい。私、変態が活用する言語は習得していないの」
「この女……」
本当に言いふらしてやろうか。
そんな怒りを飲み込み、マサキは思案する。
おそらく誰にも話さないと言い続けても、平行線を辿るだけ。ならば適当な要求でもして、貸し借りを精算してしまった方が彼女も精神的に休まるのではないだろうか。
そんなことを黙しながら考えていたマサキ。
一方、ハルカはその様子を怪訝に見詰めていた。が、はたと何かに気付いた様子で身構えると、マサキを睨み据える。その目には、軽蔑の意志が込められていた。
だが、マサキは思案の最中でそれに気付けず。とりあえず思いついた結論を述べる。
「じゃあ、帰りにアイスの一つでも奢ってくれよ」
何気ない申し出。余計な意図などありはしない。
しかしハルカの眼光がより鋭くなった、まるで相手を非難するように。
当然、マサキはなぜ睨まれなければならないのだろうかと眉根を寄せる。
そんなにもアイスを奢りたくないのだろうか。一〇〇円程度で手を打とうというのに。とは言え、ここで怒ってしまっては全てが無駄になる。
マサキは平静を保つための吐息を洩らし、改めて尋ねた。
「っで、どうなんだ? 俺はべつにどうでもいいけど」
ハルカは悔しげにくっと歯噛みした。そしてしばしの沈思の末、忸怩たる想いとでも言うような苦悶の表情を浮かべながら了承。
「わかったわ。仕方なく、仕方なくその提案を受けてあげるわ。仕方なくね」
「なんで仕方ないをそこまで強調するんだよ」
マサキは思う。
この女、たかがアイス一個分も俺に費やしたくないと見える。どこまで狭量なのだ。
「まあいいや。――っで、お前はいつ帰れるんだよ」
「この用紙に出場者全部を記入し終えたら」
「じゃあさっさと終わらせろよ、待っててやるから。言っとくけど、手伝わないからな」
あそこまで気分の悪い対応をされたのだ。意地でも手伝ってやるものか。
そんなマサキを蔑視するハルカ。しかしそれは手伝ってもらえないことに対する視線ではないようだった。
「……もしかしてあんた、ここで待つ気?」
「そのつもりだけど?」
「出ていってもらえる?」
「はあ、なんで?」
「同じ空気を吸いたくないから、出ていってもらえる?」
「ああ、そうですか」
マサキは舌打ちを鳴らして教室を出ると、廊下の壁に背中を預けて憮然とした表情で待つことに。そしてハルカが仕事を終えて出てくるまでの間、ずっと彼女への悪態を胸中でぼやき続けるのだった。
そう言えば、出場競技に不満があることをちゃんと話し合えていない。
そのことを思い出したのは、教室からハルカが出てくるすこし前のことだった。
待つこと数分、作業を終えた彼女が何事もなかったかのような様子で出てきた。しかしハルカから待たせたことに対する気遣いの言葉はない。それどころか、マサキを一瞥することなく職員室へと向かおうとする。
仕方なくマサキは彼女の後を追った。
「あのさあ、待たせたんだから一言くらいあってもいいんじゃないの?」
彼女は肩越しにマサキを一瞥すると、面倒臭そうな声で答えた。
「べつに待っててほしくなかった。というより、なんでいるの? 暇なの? やることはないの? 趣味はないの? 本当になにもないの? だったらあんたってつまらない」
「……待ってた奴に対する言葉がそれですか」
もはやなにも言うまい。とにかく貸し借りを無くしてしまえば、もう関わる必要もなくなる。今日さえ乗り切れば、明日からまたいつもの日常が続くのだ。
だからマサキはなにも言い返さなかった。
しかし伝えることは伝えておくべき。
「あのさ、出場競技のことなんだけど……」
「あんたがソフトボールに選ばれたこと?」
「そう。俺、野球はしばらくしたくないんだけど。だから他のに替えてほしいんだ」
「無理。あんたは寝てたから知らないだろうけど、みんなやる気満々で勝つ気満々。サッカー経験者はすべからくサッカーに、バスケ経験者はすべからくバスケに、とうぜん野球経験者はソフトボールに選ばれてるわけ。その中、野球経験者だけどやりたくないからしません、なんて意見が通ると思う?」
「それは……」
「第一、寝てた奴に選択権なんてあるわけないでしょ。あんたが野球をしたくない理由は知らないけど、一日だけなんだから我慢して出場しなさい。以上」
取り付く島もない。
マサキの抗議はこうしてはね除けられたのだった。
そして職員室に立ち寄った後、揃って下駄箱で靴を履き替え、外へ。二人とも自転車通学なので、駐輪場を目指す。その間、会話はなかった。話し掛けても彼女からの返答は罵詈雑言だとわかっていたから、というのも理由としてあったが、それとは別に沈黙が苦に感じなかったこともあっただろう。何故か、それほど嫌に思えなかったのだ。
とは言え、是非とも尋ねておきたいことがあるのも事実。
野球部が練習するグラウンドの側を通っている最中、マサキは何気ない様子で問う。
「お前、普段はなんでその本性を隠してるんだ?」
「べつに隠してない」
「仮面、被ってるじゃん」
「仮面なんて被ってない」
「ああ、猫を被ってるのか」
「うざっ」
「じゃあ、なんでその本性を隠すんだよ。まあたしかに、そんなきつい性格じゃあ友達は出来ないだろうけどさ」
「だから私は隠してない。ただ、相手を見て態度を変えてるだけ」
「最低じゃん」
「普通のことでしょ。誰だって相手を見て態度を変えるじゃない。私もその例外に洩れてないだけ。好きな人、嫌いな人、それぞれに相応の態度を示してるだけよ」
「へえ。じゃあ俺は嫌われてるってことでいい?」
「僅かでも、私に好かれてると勘違いできる要素があったの?」
「ないな。でも、嫌われるようなことをした覚えもない」
するとハルカはマサキを批難するように睨むと、意を決したように。
「それは――」
ハルカがなにかを言おうとした矢先、誰かがマサキに声を掛けた。振り向くと、グラウンドとを仕切るフェンス越しに一人の野球部員がいた。
名を吉留と言い、三年生が引退した後に新主将に選ばれた男性生徒である。
「マサキ、今から帰るのか?」
「そのつもりだけど、なに?」
「あ、いや……」
吉留は言い難そうに視線を彷徨わせた。
「なんだよ。はやく言えよ。用がないなら行くぞ」
「いや、その……。あ、もしかして風間さん?」
そこでようやく吉留はハルカの存在に気付いた。しかし、それがマサキを呼び止めたこととは無関係であることは容易に想像がつく。
一方、ハルカはクラスメイトに向けている柔和な笑みを浮かべ、ゆったりと会釈。やはりこの代わり映えは仮面を被っていると評されて然るべきだろう。
「珍しいな、マサキと風間さんの組み合わせって」
「へえ、そうなのか」
皆と同じく入学したとされる風間ハルカ。しかし篠山マサキの記憶に彼女はいない。つまり皆が知っている二人の交流関係を、当の本人だけが知らないのだ。
だが、吉留の口振りから察するに、風間ハルカと篠山マサキはそれほど交流を持っていたわけではないらしい。
「っで、そんな二人は今から何処かに行くのか?」
吉留の問いに、マサキは面倒臭そうに吐息を洩らした。
「べつに。さっき偶然に会ったから、途中まで一緒に帰ろうって話になっただけだ」
「ふーん、そっか」
「……用はないようだし、俺は行くぞ」
「え、あ、おう。じゃあ気をつけて」
「気をつけるのはお前だろ。もう怪我はするなよ」
すると吉留は苦笑いを浮かべた。そこには気遣われたことに対する喜びはなく、むしろ心苦しさが見て取れた。しかしマサキはその反応を無視。さっさと歩き出す。正直なところ、吉留とはあまり顔を合わせたくなかったのだ。
そして今度はハルカがその後を追う。
「良かったの? 彼、話したいことをまだ言えてなかったみたいだけど」
「いいんだよ。どうせ大したことじゃない。――それよりもはやく行こうぜ」
マサキは歩調を早めた。先の話題から逃れるように、この場から早く離れるように。
そんな背中をハルカは不満げに見ていたのだった。
町に数える程度しか存在しないコンビニ。そこでアイスを奢ってもらったマサキは、その後、彼女と何かをするでもなく帰宅。自転車を玄関脇に止め、なんとなく自宅を見上げた。
コンクリート塀に囲われた、二階建ての古ぼけた一軒家。その二階にマサキの自室はある。つい先日までは兄と共有していた八畳部屋。
兄が出ていったのは夏休み中のことで、これからはこの部屋を自由に出来るのだと思った当初は存分に活用しようと心躍らせていたのだが、実際に直面すると、どうもやる気が出ない。理由は単純。そもそも必要性を感じないのだ。おそらく篠山マサキの頭は、八畳部屋の二人使用をするための形となっているのだろう。
マサキは玄関に上がると、そのまま居間を覗き、次に台所へ。母が夕飯の準備を始めていた。なので夕食の献立を聞く。どうやら親子丼らしい。夕食が好物ということで、マサキは満足げに二階の自室へと上がっていく。そして自室に入るや学生鞄を放り捨て、動きやすい私服に着替えを始める。
そのとき、ふとあのことを思い出す。
そう言えば、吉留に話し掛けられたせいで、どうして風間ハルカに嫌われているのか、その理由を聞きそびれてしまった。
果たして、なぜ嫌われてしまったのか。
いろいろと予測を立ててみたが、真実は彼女から聞き出さなければ明かされない。なので、これ以上は考えないことにする。それに今回のアイスの件で、もう貸し借りはなくなったのだ。明日からは彼女と関わらなければいい。嫌われていたからと言って、不都合などありはしないのだから。
人は、知らず知らずのうちに他人をランク付けしてしまう。
上から「親友、友人、知り合い、赤の他人」と言った具合だろうか。
これに風間ハルカを当てはめると「知り合い」に該当する。つまり彼女はその程度の存在と言うことだ。ならば、嫌われていたとしても大して問題はない。
それがマサキが導き出した結論だった。
翌朝。
登校したマサキを多くの視線が迎えた。正門、下駄箱、廊下。教室へと向かう道中、代わる代わる見られるのだ。いったい何なのだ。そう疑問に思って見返すと、さっと視線を逸らし、側にいる友人と何やらひそひそと話し始める。
なにか顔に付いているのだろうか。
マサキは不可解な事態に疑問を抱きつつ教室の前へ。そして出入り口のドアに手を掛ける。ふと、そこで小さな異変に気付いた。今日は一段と教室が騒がしい。なにかあったのだろうか。ドアを開き、教室の中へと入っていった。
途端、教室は静まり返り、マサキにクラスメイトたちの視線が集約する。
その光景に思わず息を飲むマサキ。
向けられた視線。それらに込められた感情は、羨望やら疑問、そして怨恨に嫉妬と様々ではあったが、大半が負の感情のように思えた。
何なんだよ、いったい。
マサキは居心地の悪さを覚えつつ自分の席へ。その間も視線は向けられ続ける。気まずい。自分が何かをしでかしたのだろうか。普段ならば机に突っ伏して授業が始まるのを待つのだが、こんな注目された中ではとても出来たものではない。マサキは周囲を見回した後、井上に尋ねた。いったい何があったのか、と。
すると井上は眉根を寄せた。
「それはマサキが一番よくわかってることでしょ」
「なにがわかるって?」
「だーから、この騒ぎの原因はマサキが一番わかってるでしょって」
「だからって言いたいのはこっちだって。だから、なにがわかってるって言うんだよ」
「だから――」
井上が苛立たしげに理由を言おうとした間際、教室のドアが豪快に開け放たれ、教室中の視線を集める。現れたのは、ユミ。慌てて来たのだろう。額にうっすらと汗が滲んでいる。しかしそんなことはどうでも良いのか、彼女は視界にマサキを捉えると、上級生の教室であることなどお構いなしにずかずかと接近してくる。そして。
「マサキ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「な、なんだよ」
突然のことに狼狽するマサキを余所に、ユミはちらりとハルカを見やってから言った。
「ここだとあれだから、廊下で」
「あれってなんだよ」
「いいから。ここだとあれなの」
「だからあれって――」
「いいから!」
「あ、はい」
仕方なく言うとおりに移動すると、廊下にいた生徒たちの視線が一斉に集まった。マサキはまたかと居心地の悪さを覚える。そんなところでユミが詰め寄ってきた。
「ねえ、マサキ! 風間先輩と付き合うことになったって本当?」
「……はあ?」
「とぼけてないで! もう学校中がその話題で持ちきりじゃない」
「いやいやいやいや、なんでそういうことに……」
なっているんだ、と寝耳に水の話に笑ってしまったマサキだが、幼馴染みの目が真剣であることに気付き、次いで周囲の視線がユミの言葉を肯定していることに気付いた。
「……マジで?」
あまりのことに唖然とするマサキ。
しかし皆の反応からして真実なのだろう。
では何故、そのようなことになってしまっているのか。
いつ、そういうことになってしまったのか。
「誰がそんなことを言い始めたんだよ!」
問うと、ユミはマサキの声に驚いた様子を見せながらも答えた。
「誰がもなにも、風間先輩本人が言ったって……。私はそう聞いてるけど?」
「あの女が?」
マサキはすぐにハルカのもとへ。
彼女は普段どおり皆に囲まれていた。しかしその顔は困った様子。どうやら質問攻めを受けているようだ。その内容は、取り巻きの浮かれた表情が説明していた。
そんなところにマサキが近付いていく。それに気付いた取り巻きは笑みを止め、ハルカへの道を譲るように身を引いた。マサキは作られたその道を通過し、ハルカのところへ。そして彼女が何用かと尋ねてくる前に言った。
「ちょっと話がある」
若干、きつい語調になってしまったかもしれない。やはりその笑みが仮面だと知っているからだろう。どうしてもその奥にある本性に話し掛けるつもりで声を発してしまう。
「話? ここじゃ駄目なの?」
「出来れば二人で話したい。だから、ちょっと」
マサキは廊下の方を親指で指し示した。
人目のない静かな場所で聞きたいことがある。
そういう意味だと察し、ハルカはわかったわと頷いて席を立つのだった。
移動の最中もマサキとハルカは注目を集めた。
理由はすでにわかっている。今まで数々の告白を退け続けた風間ハルカが、ついにその相手を決めたのだ。注目されて当然である。
ただ相手が相手なだけあり、集まる視線に込められた感情は複雑のようだ。
どうしてあいつなんだ。
と言うより、誰だよあいつ。
疑問、嫉妬、怨恨。それらを込めた視線が針のようにマサキの背中を刺し続ける。
しかしそんな注目など今はどうでもいい。
問題は、どうして彼女と恋人関係になっているのか、ということ。
マサキがハルカを連れ出したのは、校舎の屋上。昼休みには幾つかのグループが活用しているが、その時間帯以外はあまり人が寄りつかない。なので、話をするにはもってこいの場所だと思ったのだ。
案の定、朝の屋上に人はいなかった。
ただ、今は好奇心につられて付いてきたハイエナ連中が屋上に続くドアの陰で息を潜めている。その姿、まさにパパラッチ。すこしは空気を読んでほしいものだった。
追い返してもよかったが、マサキはどうせ徒労に終わるだろうと考え、話し声が聞こえない距離を開けてハルカとの会話に臨んだ。
「さてと。それじゃあ聞くぞ」
「聞く? 聞くことなんて何もないでしょうが、このくそ虫が」
笑顔だった。普段どおりの柔和な笑みのまま、口汚い言葉が飛んできた。
「そもそもこういう事態になったのはあんたが原因だってのに、何を聞くっての?」
「俺が原因? いやいや、付き合ってるって言い出したのはお前なんだろ?」
「ええ。たしかに私だけど、あんたが私に交際を強要してきたんじゃない」
「……ん?」
なんだ。なにがどうなってそういうことになっているのだ。まさか、風間ハルカの存在が記憶にないような、それに類似した現象がまた起こってしまったとでも言うのか。
篠山マサキだけが知らない、そんな事態になっているのか。
不安になりそうになったが、マサキはかぶりを振って気を取り直す。
「いやいやいや、俺は一度も交際を強要したことなんてないって言うか、そもそもそんな素振りを見せた覚えもないんだけど……」
「よくもいけしゃあしゃあとそんなことが言えるわね」
「そう言われても、本当に覚えがないんだって」
「じゃあ、あんたがどれだけ卑劣なことをしたのか、それを説明してあげるから、その耳の穴をかっぽじってよく聞きなさい」
そしてハルカの説明が始まり、マサキはようやくボタンの掛け違いに気付いた。
話は昨日の放課後――マサキがハルカの正体を言い触らさない条件を考えていた時間にまで遡る。
◇
彼女の傲慢な態度に、本当に言いふらしてやろうかと思いながらも、冷静にその一件を処理しようと沈思していたマサキ。
しかしこのとき、ハルカは黙するマサキに怪訝な視線を向けており、そしてとある勘違いを引き起こしていたのだ。
この男は、私を脅迫する気だ。今はその下劣な内容を考えているに違いない。私を見る目も、どことなくいやらしい。きっとそうに違いない。
そんなことなど露知らず、マサキは結論を述べた。
――じゃあ、帰りにアイスの一つでも奢ってくれよ――
マサキはこれですべてが水に流れると思っていた。
しかしハルカの勘違いはその自意識過剰な本性によって暴走する。
決定だ。この男、私に気がある。いや、惚れている。だから一緒に帰ろうと、つまりは放課後デートをするようにと要求してきたのだ。待てよ。デートをすると言うことは、まさか付き合うということではないのか。今、私は交際を強要されているのでは。いや、そうに違いない。この男は私に惚れている。今にして思えば、ここ数週間、私のことを探っていたのも惚れているが故の行動だったと考えられる。あの新学期早々の件も、きっと私に触れられるのを恥ずかしがり、咄嗟にやってしまったに違いない。
この男、そんな惚れた女に脅しを掛けるとは、どこまで卑劣なのだ。
ハルカの眼光が鋭くなる。
マサキはなぜ睨まれなければならないのだろうかと眉根を寄せるも、返答を求める。
――っで、どうなんだ? 俺はべつにどうでもいいけど――
ハルカはくっと歯噛みした。
この男、私がその提案を断れないとわかっていながら、自分は気のない素振りを見せ、私からデートをさせてくださいと頼ませようとしている。
この卑劣漢め。
ハルカは悔しげに奥歯を噛み締め、忸怩たる想いでその申し出を了承。
――わかったわ。仕方なく、仕方なくその提案を受けてあげるわ。仕方なくね――
◇
という具合に彼女の中では話が進んでいたらしい。
話を聞き終えたマサキは、あまりの内容に思わず天を仰ぎ、次の言葉を口にしていた。
「お前、ふざけるなよ」
気付けば、自分が最低な人間とされていた。それも、相手の勘違いによって。
「なによ、ふざけるなって。そもそも紛らわしい言い方をしたあんたが悪いんでしょ」
「はあ? どこをどう聞き間違えたら、紛らわしい言い方に聞こえるんだよ。頭、おかしいんじゃないのか、お前?」
「なッ――。私の頭がおかしい? 私よりも学業成績が圧倒的に悪いくせに!」
「今、学業成績が関係してると思えてしまっている時点で、頭がおかしいんだよ!」
「なんですって!」
「なんだあ?」
互いに掴み合う勢いで詰め寄るが、不意にハルカがハッとし、屋上に出るためのドアの方へと目だけを向けた。それで察し、マサキも目だけを向ける。
相変わらずドアの陰には野次馬。気付かれていないとでも思っているのか。しかしこんな言い争いをしている姿を見られたら、どんな噂を流されるかわかったものではない。
ここはとりあえず落ち着くべきか。
マサキは咳払いを挟んで平静を取り戻し、そう言えばと思い出す。
「お前、その話を誰かにしたんじゃないだろうな」
もしもそんな勘違いをそのまま広められてしまっていたならば、篠山マサキは社会的に抹殺される。
「あんたに交際を強要されたって話? するわけないでしょ」
「そ、そうか。なら良かった……」
「良くないわよ。どうするのよ、これから」
「これからって?」
「付き合い続けるのか、別れてしまうのか」
「そんなの、どっちでもいいだろ。そっちが別れたいなら、俺は別れてもいいけど」
彼女と恋仲と言うのは、きっと至上の喜びなのだろう。マサキ自身、それはそれでやぶさかでもない。だが、あくまで合意の上での交際ならば、だ。こんな勘違いによる交際など、なんの意味もない。ならばいっそのこと別れてしまっても問題はない。
そう考えた。
しかし。
「そんなにあっさりと事が運んだら苦労はないわよ。言っとくけど、もう私たちが付き合うことになったというのは、学校中が知っていることなのよ。なのに一日も経たないうちに破局なんて、私の沽券に関わるじゃない」
「べつにいいじゃん、そんなの。第一、お前が広めるようなことをしなければ、俺とお前の間に勘違いがあったってだけで済んだ話だったんだ。それをわざわざ……」
批難するように目を細めると、ハルカは悔しげに歯噛みした。
「仕方ないでしょ。あんたよりも先に付き合うことになったって宣言しておかないといけないと思ってたんだから」
「なんで?」
「あんたが、あること無いことを言い触らすような卑劣漢だと思っていたからよ」
「……ひどいな、主に俺への評価が」
「とにかく、すぐに別れるのは無し。……そうね。何ヶ月か付き合って、あんたの最低さに別れなければならない状況になってしまった、というのがベストね」
「うん。どこがベストなのか、俺が理解できるように教えて」
「だから当分は付き合ってる風を装うこと。いいわね」
「あれ? 俺の声は届いてる?」
「じゃあ質問は?」
「さっきから言ってますけどね」
「無いようね。それじゃあ……」
「あります。ここに質問者がいます」
「はい、そこの豚野郎さん」
「えっとですね。やはり別れるためには、お互いに協力し合うべきだと思うんですよ。わかりますか、自意識過剰女さん」
「なるほどなるほど。では、詳細の内容をお教えいただけますか、ゴミ虫さん」
「簡単です。あなたも他人からの評価が下がるような痴態を晒せばよいのです。これ、名案じゃないですか」
「あはは、塵芥さんってば、おもしろーい。掃除時間に焼却炉にでもぶち込まれればいいのに」
「あはは、汚泥みたいな内面は炎でも焼却できないんですよねー」
「あははははははははは」
「あははははははははは」
互いに笑みを浮かべながら、心の中で罵り合う。お前のせいだ。お前が悪いと。しかしそんなせめぎ合いも最後は仕方ないというため息へと変わる。
結局、二人の出した結論は、頃合いを見て適当な理由を以て別れるということに。
不必要に失態を演じる必要はないし、泥を被る必要もない。
なにはともあれ、彼女がすぐに別れることは反対だと言うのならば、マサキはそれに従うつもりだった。別段、好きな人がいるわけでもないし、最近はずっと時間を持て余している。ならばこんな非日常を味わうのも悪くないと考えたのだ。
そうして話の終着が見えた頃、マサキはふと思った。
「ん、待てよ。あのさ、もしかして俺がお前に嫌われてるのって、その勘違いが原因?」
「どういう意味?」
「だから、俺がお前と付き合うために脅迫したと……」
「ああ、それとは別。たしかに勘違いの件であんたを軽蔑したけど、それよりも夏休み明けのあんたに苛立ってるのよ、私は」
「夏休み明け?」
「夏休みが明けてから知ったことだけど。あんた、野球部を辞めたらしいじゃない。べつに辞めたことをどうこう言うつもりはないわ。ただ、辞めてからのあんたと言ったら、だらだらだらだらと一日を過ごすだけ。見ていて苛々するのよね」
たしかにマサキは野球部に属していた。しかし夏休み中に起こったとある出来事をきっかけに退部。その後は何もやる気がせず、ただただ日常を過ごしていた。
だが。
「そのことであんな態度を取られる筋合いはないな」
迷惑を掛けているわけでもあるまいし、それであのような辛辣な対応をされては困る。苛立つのも嫌うのも勝手だが、それを表に出されては気分が悪い。
しかしハルカ自身もそれは自覚しているようで、わかってはいるが、どうしても苛々するのだと態度を改める気はない様子。
こうなっては平行線。おそらく互いに譲ることはしないだろう。
まだ彼女を知って日は浅いが、それでもその程度のことはわかる。
だからマサキは早々に文句を止め、代わりに教室に戻ろうと促した。あまり長居していても変な噂が立ちかねないし、そろそろ始業のチャイムが鳴る頃だ。事実、先ほどまでドアの陰にいたはずの野次馬たちが姿を消していた。
そうして屋上を去ろうとするマサキを見て、ハルカは怪訝に問い掛ける。
「私から言い出しておいてなんだけど、どうしてこんな事に協力するの? その、言いふらしちゃえばいいじゃない。風間ハルカは、本当はこんな奴なんだぞって」
するとマサキは捨て鉢に言い放った。
「どうせ俺が言いふらしても、誰も信じないだろ」
それだけ風間ハルカの評価は確固たるものなのだ。むしろ彼女を貶めようとしているのではないかと、篠山マサキの評価が地に落ちてしまうだろう。
「だから私に話を合わせるの?」
「だからって聞かれると、それは違う気がしないでもないけど……」
例えば、ユミや祖母に彼女を作ると大言壮語を吐いた手前、彼女を作らなければならない。そういう意味でこの一件は利用価値がある、というのも立派な理由だろう。
また、最近は暇が続いていたので、嘘にせよ付き合ってみるのも面白いと思った、という風に考えてしまったのも事実としてある。
だが、本当にそれらが理由かと問われれば、確信を以て頷くことも出来ない。
正直なところ、わからないのだ。色々と考えてみても「おそらく、たぶん、きっと」などの憶測は出てくるだけで、明確な答えは出ず。
結局、面倒臭くなって考えるのをやめた。
「あんたって変わってるわよね」
「仮面を使いこなすお前も充分に変だぞ」
「ほんと、ああ言えばこう言う奴」
「ほんと、減らず口を叩く奴」
「ムカつく」
「知ってる」
ハルカはムッとしてマサキの足を蹴り、ドアの方へと駆けていく。マサキはそんなハルカに文句を言うが、彼女は「知るか」と舌を出して去っていった。
こうして色々な問題を抱えたまま、二人の奇妙な青春は幕を開けたのだった。