女の子はチョコレートとスパイス、それと素敵な何かでできている。
彼女を舐めると、確かにふんわりと甘い味がした。
「……んっ。いい、ですよ……。うまいじゃないですか……」
真新しい制服のまま、腰を小さく捩って嬌声をあげる。
そして満足そうに、ニヤリと不健全な笑みを浮かべた。
(本当に、甘い? ……そんなわけ)
彼女は見れば見るほど艶容で、滑らかだった。
一方、男である自分は、なんと無骨で凹凸の多いことだろう。きっと、おいしくない。公園の隅のジメジメした石の裏にいる虫を三日三晩煮詰めて、それをカエルの頭蓋骨ですくって飲んだみたいな味がするだろうと思った。
「ちゃんと、指の間もきれいにしてくださいね」
言われた通り、従順にこなす。
親指から小指へと、舐め残しがないよう、丁寧に。
彼女は気持ちが良いのか、喉の奥からくぐもった声をあげた。
(なんか……幸せかも)
彼女によって、おれは圧倒的な底辺へと貶められた。それは、何も考えず、何も期待されないということだ。
全身に絡みついた『関係』という名の鎖を全て引きちぎり、面倒くさいしがらみすべてから解放される。いまは水のなかにいるように身体が軽い。ここでは好き勝手に泳ぎ回ることも、服を脱ぐことも、自由だ。
行為が終わると、彼女はおれに言った。
私と契約しなさい。
偽りの楽園を正し、真の楽園を取り戻すために。
私とあなた以外、すべての人間関係を破壊する、と。
これは、ひとりきりの男女が出会い、逃げ続け、逃げた先で、世界の美しさを知るまでの物語。
入学式の朝。高校の裏門をくぐると、満開の桜坂だった。
だけど、そんなこととは関係なく、みな無口に坂を登る。見上げすらしない。
なんとなく立ち止まって桜を見ているのは、おれと、もうひとりだけ。
彼女は不安げで、落ち着かない様子だった。
「…………」
化粧っ気のない、だけどパウダースノーみたいにきめ細かい肌。
春風に吹かれ優しくなびいているのは、少しウェーブがかかったくり色の髪。お嬢様結びをしていて、長さはセミロングぐらいた。
「……うん」
彼女は小さく、でも力強く呟く。
そして次の瞬間、桜に手と足をかけ、よじ登り始めた。
「いま、助けるからね」
呟く彼女の視線の先。そこには、張り出した枝の上で、小さく震える白い子猫がいた。
さすがに、周囲の生徒も何ごとかと立ち止まる。だが彼女は下界の様子など微塵も気にかけない。いつの間にか結構な高さまで達していた。
「もう少し……」
手近な枝を左手で掴みつつ、右手を子猫にのばす。
その危険な様子に、観衆がわっと沸いた。
(ダメだ!)
思った通り、彼女が手をかけた枝は、根元から大きな音を立てて折れる。
観衆から悲鳴が上がるが、そのときにはおれは駆けだしていた。
彼女の下に入り込む。
そして両手を広げ、受け止めた。
「早っ。いつの間に……」
そんな声が、観衆から聞こてきた。
「大丈夫?」
「え、あ……は、はい」
すぐ目の前にある女子生徒の顔。
気付けば、お姫様抱っこをしていた。
「あっ、ご、ごめん!」
「こ、こちらこそ……」
すぐに目をそらすが、彼女の顔はすでに両目に焼き付いた。
特に印象的だったのが、ぱっちり二重の、くりっとした大きな瞳。それを見ておれは、小型犬、特にシーズーを思い浮かべた。
「あっ……! そうだ! 子猫は!?」
「大丈夫。さっき君が落ちたときに、一緒に飛び降りてたよ」
子猫は地面に下りて、何事もなかったのように欠伸をしていた。
「……なんだ。……良かったよ、本当」
女子生徒は安堵のため息を漏らした。
「あ、あの。ところで、そろそろ降ろして欲しい、かも……」
顔を上げて周囲を見る。
注目の的だった。
「ご、ごめん!」
慌てて、女子生徒を地面に降ろそうとする。
だけど右足が地面につくと、彼女は小さく顔を歪ませた。
「痛いの?」
「す、少し……」
どこか捻ったのかもしれない。
おれは再び彼女を抱えなおした。
「え? え?」
「痛むんだよね?」
「でも、こんな格好……」
「肌、きれいだね」
「えぇ!? きゅ、急に何を!?」
「大事にしなきゃ。危ないことはしないで。おれに言ってくれれば、代わりにするから」
「…………」
「どうしたの?」
「い、いや……。あんまり、その、そういうこと、ストレートに言われたことなくて……」
意識しているわけではないけど……たまに突っ込まれることだった。別に、嘘をついているわけではない。本当にそうだと思ったから、言葉にするのだ。
後ろめたいところがなく、相手も嫌な気がしないのなら、デメリットはない。何より、人間関係も円滑に進む。恥ずかしやつだと言われたこともあるけど、おれ自身、あまりそうは思わない。
「そう。じゃあ保健室に行こう」
彼女を抱えたまま群衆をかき分け、歩いて行く。
「ちょ、ちょっと!」
「暴れたら危ないよ。おれにちゃんと掴まって」
「……うん」
女子生徒は、おれの肩に手を回す。
ちょっと気まずい……と思う。下を見ずに、ひたすら前だけを向いて歩いた。
「あの……」
長い沈黙が続いたあと、彼女が口を開いた。
「名前、聞いてもいいですか?」
「野田進」
「野田くん……。そう、野田くん、ね……」
彼女は噛みしめるように、おれの名前を呼んだ。
「君は?」
「私は宮村花恋……です。花恋は、花の恋って書いて、花恋」
花の恋……。ロマンチックだと思った。一体どんな種類の花だと解釈するのが、彼女にいちばん似合うのだろう。
「きれいな名前だね」
すると宮村さんは、おれの社交辞令ともとれる言葉に、無防備な笑顔で応えてくれた。
「私もそう思う」
それが、おれが見た彼女の最初の笑顔だった。
『やったね! シンの未来は明るい!」
その翌日、授業初日の通学路。自転車を止めてスマホを開くと、姉からLINEが来ていた。
『入学早々に彼女を作るなんて、お姉ちゃん嬉しい!』
姉は同じ高校の3年生だ。吹奏楽部の部長で、今朝はおれが先に家を出てきた。
『同じクラスなんでしょ?』
『今度紹介してね!』
『彼女じゃないって』
クエスチョンマークを浮かべた、パンダのキャラクターのスタンプが返ってきた。
『ま、そのうちね』
まともに返すのも面倒だったので、適当な返事をしてスマホを閉じ、自転車を走らせる。
時間にはまだ余裕があるが、早めに行って本の続きを読みたかった。市立図書館で借りたもので、下巻の貸出開始日までに読み終えたい。
(……あれ?)
だが、そうはいかなかった。
用水路沿いの桜並木。赤いレンガで舗装された狭い道の向こうに、見知った顔を見つけのだ。
彼女、宮村さんは壁に寄りかかっていた。通学カバンを胸の前でぐっと抱きしめ、少しうつむき加減でいる。おれは少し彼女の近くで自転車を停めた。
「宮村さん?」
宮村さんは何も言わず、軽く会釈をしておれの前に立ちはだかった。
「どうしたの? 宮村さんって、通学路こっちじゃないよね?」
「でも、野田くんがこっちだから。……ちょっと待ってね」
宮村さんは、抱きしめていたカバンを下ろす。そして、おもむろに胸元のブラウスのボタンに手をかけた。
「……え? え?」
(そうか、乱れた服を直してるのか)
一瞬でも、まさかボタンを外しているのかと考えた自分が愚かしい。こんな公共の場所で、昨日出会ったばかりの相手を待ち伏せして、いきなり服を脱ぎ始めるだなんて、まるで変態だ。
宮村さんは一般的な女子生徒よりもずっと、胸は大きい。意識していなくても目がいってしまうくらい。ブラウスもパンパンに膨れ上がり、よく見ると下着が透けていたりもする。だから宮村さんのことを、無意識にそういう目で見てしまっていたのかもしれない。……反省しないと。
「いや待って。本当に何してるの?」
間違いなかった。
宮村さんは、ブラウスのボタンをすべてはずしていた。
顔を真赤にして目をそらし、だけどまだ腕でブラウスを抑えているから、それ以上は見えなかった。
理解ができない。いま目の前で起こっていることは、これまで15年間生きてきて、まったく経験にないことだった。
「笑わないで、ね……」
絞り出すような声。一体何を……という質問をする前に、宮村さんは外されたブラウスの胸元に手をかけ、それを勢い良く観音開きにした。
「私の気持ち、受けとってください!」
そこには、薄い桜色の下着に包まれた、大きく柔らかなふくらみがあった。
「え、えぇ!?」
(色が薄くて、すべすべしてそう……)
驚きつつも、心なかでは冷静にそんな感想がでてきた。
やはりというか、宮村さんの胸は、比較対象がなくてもかなり大きい部類に入るだろうと分かる。触れてもいないのに、ブラウスを開いた衝撃で小刻みに揺れるのが見えた。
しかし、何よりも目をひいたのは……。
「それ、は……?」
彼女の胸に挟まれていた、紙片だった。
「だ、だから、これを受けとって欲しくて……」
よく見ると、それは便箋のようだった。
さらに見ると、どこまで意識しているのかは分からないが、下着と同じ薄いピンクで、桜の模様があしらわれている。そして封を閉じている中央のシールは、真っ赤なハート型をしていた。
人気のない通学路で待っていてくれた宮村さん。そこでハート型のシールの便箋を渡されれば……渡され方は多少特殊だとしても……ひとつしかないような気がした。
「……ありがとう。もらうね」
胸に挟まれたそれにそっと手をのばす。
「んっ……」
抜き取るとき、宮村さんはくぐもった声をあげた。
「きょ、今日は暖かいから……。桜がきれいだよ」
何かフォローしようとして口にしたが、自分でも何を言っているか分からない。
だって、その……おれだって困惑していた。
宮村さんは急ぎブラウスのボタンを留める。そして服装を整え、自転車にまたがり、カバンをカゴに放り込むと、顔だけでおれを振り返った。
「あっ、えっと、きょ、きょうしっ……! あの!」
だけど、言葉にはならない。
教室で待っているとでも言いたかったのだろう。しかし最後まで言い切ることはなく、宮村さんは立ち漕ぎで速度を出し、春風のように去っていった。
「なん、だったんだ……」
事態がうまく飲み込めず、ただ棒立ちで惚ける。
手に残されたラブレターには、まだ宮村さんの体温が残っていた。
教室の席につく。
早めに家を出たつもりが、宮村さんの一件で遅くなってしまい、もう間もなく始業時間だった。
宮村さんも当然教室にいて、高山さんたちと何か話していた。
ここからでは背中しか見えないので、何を話しているのか、どんな顔でいるのかは分からかった。
「よう、王子。優等生のくせに、意外とギリギリだな」
カバンを床に下ろし、顔をあげる。クラスメイトの三好だった。
「だから、王子じゃないって」
「でもみんなお前のこと、影では王子って呼んでるぜ? 昨日のウイニングラン以来」
「だったら影で呼んでてくれ。本人の前では言わずにね」
三好が言っているウイニングランとは、おれが宮村さんをお姫様抱っこをして、保健室まで連れて行ったことだ。
「あれだけしたら目立つに決まってるだろ。諦めろ」
三好の言うとおり、昨日の一件以来、多くのクラスメイトが、真ん中の列の最後尾の席にいるおれを、わざわざ振り返る。別に不快ではないけど、むず痒いような感覚はあるし、おれもどう対応したらよいのか分からない……。
そんななか、三好だけは正面切って「よう兄弟! さっきのアレ、格好良かったな!」と声をかけてきた。
三好は大きな体躯に短めの髪、いかにもスポーツマンって感じの男子だ。威圧感はあるけど、裏表がなさそうで、親しみやすくはある。
なのだけど、少し問題はあって……。
「それよりもシン、今日の自己紹介で、どっちが笑いとれるか勝負しようぜ!」
アホだ。少しばかり。
「どういう意図だよ……」
「最初が肝心だぜ? 舐められたらお終いだろ」
まだ互いの名前も力関係も分からないクラスメイトは、巣穴から顔だけ出したプレーリードッグのように警戒している。そんな状態で笑いをとるなんて、無理だ。プレーリードッグの笑いのツボが分かるようなら、三好はいますぐ野生に還って、動物たちと笑いの絶えない愉快な家庭を築けばいいと思う。
「あ、もしくは俺とお前で漫才やるってのはどうだ!?」
「嫌だ」
「おう! そうか! 嫌なら仕方ないな!」
キラッと、真っ白い歯が光りそうなほどの極上スマイだ。こういう、竹を割ったみたいに爽やかなのは、すごく好印象だけど。
三好との会話が一段落ついて、なんとなく教室を見回す。
すると、宮村さんと目があった。
「ひぁっ!」
露骨に目をそらされたけど。
「……恥ずかしがり屋、なのか?」
「え、俺?」
「違う」
恥ずかしがり屋でも、ラブレターはほとんど初対面の相手に送る。それも、あんな大胆な方法で。まだ、彼女のことはよく分からない。
「……よしっ!」
そんなことを考えていたら、宮村さんが急に立ち上がった。
「…………」
こっちを見ていた。
そして、近づいてくる。
おれはどうしたら良いのか分からず、目の前にやってくるまで、ただじっと見ていた。
「返事。いつでもいいから」
小さな小さな、妖精の羽ばたきのよな、小さな声だった。
宮村さんはさりげなく、ウェーブがかった髪を払う。すると絡んでいたらしい桜の香りが、ふんわりと香った。
「それじゃあ……」
それだけ言うと、自分の席に帰って行った。
「何だって? お腹痛いって?」
「そんな感じ」
少しだけ、彼女のことが分かった気がする。
宮村さんは誰よりも恥ずかしがりやで、だけど誰よりも一生懸命なひとだ。
そして、これはなんとなくなのだけど……花恋の花の字は、桜の花のことを表している。そんな気がした。
その後、丸メガネにもさっとした真んなか分けの一安先生がやってきて、高校生活で初めてのホームルームが始まった。やはり、定番の自己紹介からだった。
「じゃあ、窓側から順番に」
その言葉を合図に、最初の生徒が立ち上がった。
『シンってゲーセンとか行く!?』
三好からLINEが送られてくる。脈絡なんてものは、期待していない。
『たまに』
『シンって宮村さん好きなの!?』
……脈絡はなくてもいいけど、会話は成立させたかった。
『分からないよ』
『自己紹介でなんか面白いこと言って!』
彼は会話をする気がないようだった。
自己紹介は進んでいく。みな、すっかりテンプレートと化した、名前、出身中学、中学時代の部活を紹介する。
そして、ひとりの女子が立ち上がった。
(小さいな)
それが、最初に思ったことだった。
中学校と間違えて入学したのではないか。そう思えるほど、彼女の背中は頼りなかった。
「西條理々。一応、小塚中学校出身です」
(一応って、何……?)
「部活はやったことねぇです。あとは……」
西條さん、なる女子は言葉を句切る。
そして教室をぐるっと見渡した。
「ただの人間には興味がありません。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者、にも興味はありません。よろしくしねぇで一生放ってろです」
それだけ言って、着席したのだった。
時が凍ったようだった。
誰かが筆箱を落とし、耳障りな音が室内をぐるっと周回するまで、息をするのを忘れていた。
「つ、次のひと」
彼女の言葉をどう受け止めて良いのかおれたちには分からなかったし、一安先生もたしなめたり、面白い冗談ですねとフォローすることもなく、その言葉がどういう意味をもつのか決定させることを放棄した。さらに言えば、誰も真意を確かめなかったせいで、西條さんの言葉は宙ぶらりんのまま、教室の真んなかの蛍光灯にぶらさげられた。
(どんな顔、してるんだろ)
ただの興味本位で思う。……すると。
「…………」
向こうが見ていた。おれを。
西條さんはぐりんと首を一二〇度くらい回して、右斜め後ろにいるおれを見ていた。おれの方ではなく、おれを見ていた。
『なんかすごく見られてない?』
西條理々さん。ほどける絹のようにきめ細かい、流れるような髪を肩上で切りそろえ、ボブカットにしている。そして、不機嫌そうな真っ黒い瞳、瑞々しく光を反射する薄い唇は、端正な輪郭で囲まれている。そして真っ白な肌は、和紙を何重にも折り重ねたようで、儚く花なりとしていた。
「ええと、西條さん? ちゃんと前向いて」
一安先生に注意され、渋々おれから視線を引き剥がす。
そうして今度は、ちゃんと前を向かず、頬杖をついて窓の外を眺め始めた。
『おっかねぇなぁ』
体格の割に気が弱いのだろうか、三好がぼやく。
だけどおれはむしろ、西條さんを羨ましいと感じた。
周りのことなんか関係なく、自分の好きなように、自分の意志で生きているって感じがしたから。
(おれとは真逆の人種だな。関わらないのがいちばん……)
そう決めて、おれも西條さんにならい、窓の外の桜を眺めることにした。
あとで分かったのだけど、西條さんの変人っぷりは、中学では有名だったらしい。
身体が弱くてあまり登校してこなかったけど、成績は常にトップで、それどころか、海外の有名な自然科学誌に論文が載ったこともあるとか。いわゆる、天才少女だ。そんなひとが、リアルに存在するなんて驚きだ。ますます、自分とは関係のないひとに思える。
一方で、おれの学校生活は平和に、退屈に過ぎていった。
クラスでは三好や他の男子ともうまくやれている。そして、驚くことに宮村さんとも仲良く続いていて、ちゃんとあいさつは交わすし、化学の移動教室では、同じ班だったりもする。もちろん、みんなの前だから手紙の件には触れない。だけど彼女はときおり、こちらに哀しい視線を向けてくるし、おれもなぜあんなことをしたのか、聞いてみたい気持ちになる。
きっと、西條さんにみたいなひとにとっては、取るに足らない、しょうもない悩み。
だけどそれが、いまのおれのリアルで、大きな問題。
ともかく早く返事をしようと思うのだけど、おれには返事をためらう理由があった。
「なぁ、もしかして俺また最下位?」
「うん。三好くんも今日こそ完走できるといいね」
「うへぇ……」
ゲーセンのレーシングゲーム。三好と安丸と勝負をして、最下位がジュースを奢るという恒例のパターン。とはいっても、おれは一度も負けたことがない。だから実質、三好と安丸の勝負だ。
そして、ふたりがレースで盛り上がっている間は、おれの休息時間でもある。
(誰かといるのって、どうしてこんなに体力を使うんだろ……)
自分だけ、なのかもしれない。誰かといるのが嫌、というわけではないが、急激に疲れるのだ。
だから、この状態で宮村さんと付き合ったらどうなるのだろうと不安になる。友達関係に、恋人関係。おれはこれまでの2倍、疲れることになるのではないかと。だが反面、宮村さんと付き合ったら、きっと楽しいだろうとも思う。
恋人ってのは誰もが憧れる存在だ。おれ自身もまだいたことがないけど、きっと良いものなのだろう。
もし、おれが心から宮村さんのことが好きだと言い切れれば踏ん切りもつく。もちろん嫌いではなく、いいひとなのは分かっている。だけど、恋人としての好きに発展するかはまだ分からない。
(……このまま考えても、意味ないかも)
自分だけで分からないのなら、他人の力を頼るべきだ。
幸いおれには、相談に乗ってくれそうな友がいるのだから。
「ねぇ、ふたりとも」
安丸のマシンがゴールし、三好のマシンが民家の壁に体当たりを繰り返している頃、ふたりに切り出した。
「どうしたの、シンくん?」
マシンに乗ったまま、安丸が振り返る。彼は行動を一緒にすることが多いクラスメイトだ。サラサラヘアーの爽やか男子で、いつも人畜無害な笑顔を浮かべている。
「まだ好きじゃないひとと付き合って、幸せになれると思う?」
「え、シンくん誰かに告白されたの?」
「ラブレター、もらった」
それも、至極特殊な渡され方で。
さすがにそれは、宮村さんの名誉のために、言えないけど。
「もしかして、宮村さんか!?」
バレバレだった。
「うん」
「うはっ! 恥ずかしいなっ! 砂糖吐きそうだぜ!」
「どうして三好が恥ずかしがるんだ。……まあそんなことはいいから、どう思う?」
「分からん!」
もっともな答えだった。
「でも!」
「でも?」
「ひとを好きになるために、付き合うのはいいことだ! ……と、俺は思う」
力のこもった答えだった。
「だって、恋人になったらふたりで遊ぶだろ? 色んな話ができるだろ? そうしたら、そのひとのこと、たくさん分かるじゃん! 恋人だから、分かること! それを知ってお互いに好きになれたら、ふたりともハッピーじゃん!」
このときおれは、初めて三好を頼りになる男だと思った。
「すごい……三好くん、いいこと言うんだね」
「そうだろ!? ま、彼女いたことないけどな!」
宮村さんと付き合って幸せになれるかなんて、確証はない。でもひとは、幸せになるために誰かと付き合うのだ。そのためには、三好の言うとおり、まずは相手を知ることから始めるべきだ。
そしてその手段として、まずは付き合ってみる、というのも間違っていない気がした。
「ありがとう、三好。それ、すごく大事なことだと思う」
「おう! だけど、宮村さんと付き合っても、俺たちとも遊んでくれよ!」
「もちろん。……あ、でも、宮村さんって嫉妬深そうだから、それはちょっと心配かも」
「僕はそういうタイプには見えないけどなぁ」
「ラブレター読んだらそんな感じがしたんだ。なんとなくだけど」
「ふーん。そうなんだ」
安丸はどこか府に落ちないという表情だった。
「そのときは任せろ! 俺が宮村さんに、土下座して頼んでやるから! 俺のシンを返してくれぇって!」
「三好くん、それ、男らしいのかなんなのか分からないよ」
「なんならいまから、土下座の素振りしておくか!?」
そうと決まれば、Xデーは早いほうがいい。桜が咲いているうちにしよう。
わいわいと盛り上がるふたりを見ながら、おれは決意を固めた。
それから一週間経った夕暮れの放課後、おれは宮村さんを公園に呼び出した。
公園といっても、市の色んな施設が一箇所にあつまっている敷地だ。ここにはおれがたまに立ち寄る市立図書館の他、ライブやコンサートが行われる市民文化ホール、他にも広い芝生スペースや市の資料館、カフェテラスなど、様々な施設が入っている。
それらのなかでも宮村さんに指定した場所は、文化ホールの裏にある野鳥広場。ここはすぐ横にある池に飛び出すようにして造られた、円形の休憩スペースだ。池に飛来する野鳥を眺められるようになっている。
桜はもうすっかり散って、緑色になっていた。
「ごめんね、わざわざこんなところまで」
「う、ううん。むしろ、気を遣ってくれたんだよね?」
「え?」
「学校から、少し離れてるほうがひとに見られにくいから。……やっぱり、野田くんは優しいんだね」
風でさわさわとなびく前髪をかき分け、宮村さんは優しく笑った。
だけど、そのかき分けた指は小さく震えており、いくらおれでもそれは寒さのせいではないことぐらいは、分かった。
「この前、手紙ありがとうね」
「あ……うん」
宮村さんは笑顔をやめた。
「急に、驚いたよね」
「まあ、ね」
出会って二日目だったし、何よりあの渡し方だ。驚かないはずはない。
ここでおれは、ようやくずっと気になっていたことを尋ねる機会を得た。
「聞いてもいいかな?」
「うん」
「どうして、あんな渡し方を?」
宮村さんにとっても、当然予想できた質問であっただろう。だが彼女は顔を真っ赤にして、恥ずかしくてたまらないといったように、顔をそむけた。
「わ、忘れて……」
それは……どうやっても無理だった。
「……友達に、アドバイスされたの」
「もしかして、高山さんたち?」
宮村さんは小さく頷く。高山さんは宮村さんと同じ中学で、いまも同じクラスだ。よく一緒に行動している。
「その、私ってどんくさくて、何も取り柄ないじゃない? 勉強も運動もできなくて、気も弱いし……。だから、そんな私が、野田くんに振り向いてもらうには、どうしたらいいだろうって」
宮村さんがなんの取り柄もないなんて思えない。誰かが困っていると、性別もスクールカーストも関係なく、どうしたの? と、声をかけられる強さをもっている。一般的に見て、聖母みたいなひとだという印象がある。
「振り向いてもらおうと思った結果があれなの?」
「うん……。私、自分ではよく分からないけど、千穂ちゃん……えっと、高山さんね。……から、その身体は反則級に男受けがいいって言われてるから……」
それは高山さんの意見に賛成だった。
「自分のもってる武器は、最大限に活かして戦わなければダメだよって。だから……」
納得はできないけど、理屈は分かった。まさか高山さんも、直接胸をさらけ出して迫ることなんて想定外だったろうけど……。
宮村さん、良い言い方をすれば純粋。少しだけ後ろ向きな言い方だと、天然なのだろう。
「なるほど……分かったよ。じゃあ、もう一個聞いていい?」
「うん、どうぞ」
告白の仕方よりも、おれはこっちのほうが気になっていた。
「どうして、おれだったの?」
告白されたとき、宮村さんとはまだ出会って二日だ。いくらなんでも、尚早な気がした。
「わ、笑わない?」
「もちろん」
「じゃあ……」
宮村さんは、深呼吸をした。
「運命、だと思ったの……」
「運命?」
「そう。周りの目なんか気にしないで、私を抱きかかえてくれたとき……。ああ、このひとはいま、本当に私のことだけ考えてくれてるんだなって。そう思ったら、あの瞬間、世界に私と野田くん、ふたりしかいない気がしたの。だから……一目惚れ、なのかな。野田くんすごく格好良くて……王子様、って言ったら大げさ? 私は、運命だと思った」
運命。なんの前触れもなく、通り魔のようにやってくるもの。刺されれば、なんの論理もなく、恋に落ちるもの。おれは情熱的でロマンチックだと思ったし、理屈も何もかもを破壊して、自分をただ求めているのだとアピールする、魔法の言葉だと思った。
「あ、ありがとう……。まさか、そこまで言われるなんて……」
「こちらこそ、ごめんなさい。あの、それで……」
どうやら、これはそろそろ自分の想いを伝える場面なのだと思った。
「うん。返事なんだけど……」
ビクッと、宮村さんの身体が小さく跳ねる。
不安そうに目をつぶり「はい」と小さく呟いた。
……そんな不安そうな顔をしないで欲しい。おれはきっと君の願ったとおりのことを言うし、これからは宮村さんを哀しませるやつはおれが許さない。ふたりは恋人になって、退屈なほど満ち足りた毎日を送れるはずだ。
「宮村さん、おれは」
だけど、できなかったのだ。
突然、おれの視界にそれが現れたから。
それは、わずかな隙間からするりと身を滑り込ませるようにして、いた。
「野田くん?」
宮村さんの背後の木陰に、半分身体を隠すようにしてこちらを見ている女子生徒。
なぜか、板チョコを囓りながら。
口の周りを、黒く汚しながら。
そしておれを見て、後スマホを取り出し、何か操作し始める。
すぐに、おれのスマホが震えた。
「ちょっとごめん」
明らかにマナー違反だと思ったけど、確信のような不安があった。
ポケットからスマホを取り出して、確認する。
そこには、未承認の『くろねこ』なる相手から届いたメッセージがあった。
『おいお前、勝手に青春、してんなよ(字余り)』
(……なぜ、俳句?)
顔を上げ、改めて女子生徒を見る。
花が美しく咲き誇ることも、月が優しく照らすことも、この世のすべてが気に食わないのだと言わんばかりの、淀んだ用水路のような瞳をしてる少女。
『ゴー・トゥー・ヘル』
間違いなく、同じクラスの西條さんだった。
「宮村さん、また今度、きちんとお話ししよう」
「え……え……?」
「おれはやっぱり、まだ宮村さんのことをちゃんと知らない。宮村さんにも、ちゃんとおれのこと知って欲しい。だから、これからも仲良くしてね」
OKともNGともとれない返事。
宮村さんはおれの半端な答えに戸惑いを見せたが、すぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「それは、私はまだチャンスがあるってことだよね?」
「チャンスっていうか……そうだね。うん、そうかも」
「良かった。じゃあ、私、諦めないから」
宮村さんは去っていく。
その後ろ姿に、答えを濁されたことに対する失意は感じなかった。
「あ、最後にひとつだけ」
「え? な、何?」
「野田くんは、えっちな女の子は好き?」
むせた。思わず。
「な、何を急に……」
「私の取り柄って、身体がえっちなことぐらいしかないから……。だからこれからも、野田くんさえよければ……」
「良ければ?」
「え、えっちなこと、するから」
それだけ言って、宮村さんは逃げるように走っていった。
「そ、そんなこと言われても……」
させてね、とかではなく、するから、と言い切るあたりに強い意志を感じる。
やはり宮村さんは、気弱なんかじゃなく、芯のあるしっかりした女の子なのだと感じた。
……ちょっとだけ。いやかなり、変な子だとは思うけど。
宮村さんの姿が見えなくなると、西條さんは木の陰から出てきた。
こうして相対するのははじめてだけど、やはり小さいと思った。おれと三〇センチぐらい差がありそうだ。新品の、おそらくいちばん小さいであろうサイズの制服でも、袖からは指先ぐらいしか見えていなかった。
(怒ってる……? いや、これがいつもの表情なのか)
仏頂面さえしなければ、西條さんはすごくもてると思うのに。宮村さんが従順なシーズーなら、西條さんは絶対にひとに懐かない、我が道を行く猫みたいだ。
「西條さん、どうしてここに?」
西條さんはハンカチを取り出し、横にあったベンチに置く。その上に、どかっと腰を下ろした。
「えっちなこと、するから」
「…………」
棒読みなのに、ものすごく嫌そうに言っている感じが伝わってきた。
「……へっ」
しかも自分で言って、吐き捨てるように鼻で笑う。
(何しに来たのだろう……?)
「えっと、だから西條さん、どうしてここに?」
「あなたが今日、ここで宮村花恋にラブレターの返事をすると知っていたからです」
色々と、頭が痛かった。
なぜ知っていたのか。知っていたとして、西條さんとなんの関係があるのか。なぜ邪魔したのか? ていうか、ラブレターの話をどこで? ……何から尋ねればよいのだろうか。
「分からないんだけど……」
「はんっ。そのメガネは伊達ですか」
また笑われた。鼻で。
「メガネ関係ないよね?」
「メガネはインテリの象徴です。インテリなら私の言葉の意図が分かるはずです。つまり、言葉の意図を理解しないあなたはインテリではありません。よって、あなたのメガネは伊達です」
もう、意味が分からなかった。
「あなたがラブレターをもらったことを知っていたのは、あなたが教室で宮村花恋に話しかけられたのを聞いていたからです」
教室で話しかけられた? ……初日の「返事はいつでもいい」というやつだろうか?
「あのとき、私はあなたのすぐ近くにいました。あの時点ではラブレターをもらったという確信はなかったので、あとで確認しました」
(確認って、なんだ……?)
「そもそも、西條さんはあのとき近くにいたかな」
「いましたよ。ちょうど通りかかったんです」
「まあひとはたくさんいたから、特に西條さんを意識していないと気づかないか……」
もしくは、と思う。改めて、西條さんは本当に小さい。となれば……。
「小さすぎて視線に入らなかっ痛っだぁぁぁ!?」
「小さい言うんじゃねぇです!」
スネを叩かれた。足下に落ちていたよく分からない木の枝で。
「言っておきますが、これでも私は十六歳ですからね」
「えっ、もしかして留年し痛いって!?」
また叩かれた。さっきより強めに。
「げっ、この枝、なんか緑色の変な汁ついてます。ばっちぃですね……」
「ちょ! だ、だからってひとのズボンで拭かないで! ティッシュあるから!」
手のひら、手の甲と、まんべんなく汁をなすりつけてくる西條さん。
おれがティッシュを差し出すまで、ずっとそうしていた。
「留年なんかしてねぇです。そうではなくて、誕生日が四月二日なんです。……この意味が分かりますか?」
「さ、さぁ……」
西條さんは、誇らしげに胸に手を当てて主張した。
「私が、学年でいちばんお姉さん、ということです!」
おれは西條さんの平原みたいな胸元を見ながら、宮村さんの九重連山みたいにそそり立つ胸を思い出していた。
「目線で何考えていやがるか分かるんですが。やりますか?」
「あ、そんな……」
申し訳なく、いや、なんだか哀しくなって目をそらした。
「あなたのせいで話がそれまくりです。元に戻しますからね」
西條さんは足を組み直し、静かに話し出した。
「なぜ、あなたが今日ここで宮村花恋に返事をすると知っていたか。それは、これです」
西條さんは、スカートのポケットから一冊の文庫分を取り出した。
「あ、それは!」
「そうです。あなたが教室で読んでいた小説、その下巻です。今日が貸出の開始日でしたね」
表紙を見せて、そして裏返す西條さん。
そこには市立図書館のバーコードが貼ってあった。市立図書館は、この広場と同じ敷地内にある。
「これからついでに借りようと思ってたやつだ」
「ついでに……?」
「え」
「逆じゃないですか?」
何を言っているか、分からなかった。
「あなたは本を借りるついでに、宮村花恋に告白しようとしたんですよね?」
答えにつまった。
「ここ、きれいな場所ですよね」
「う、うん。そうだね……」
「自然が豊かで咲いている花もきれい。雰囲気は良い。さらに、うちの学校の生徒も、まず立ち寄らない。……だけど、何度も足を運ぶには、少し遠い。……そうですね?」
西條さんは、食べかけのチョコレートをおれに向けて、ニヤリと笑った。
まるでお前が犯人だろ白状しろと、追い詰めている探偵みたいだった。
「あなたは他人に気が遣えないひとではありません。宮村花恋がずっと返事を心待ちにしていたと、知っていたはずです。でも、しなかった」
桜の咲いているうちに返事をしよう。たしかにそう思った。
だけど実際は、告白すると決めた日から一週間も何もしなかった。
「読みたかった本の貸出日が今日だった。でも何度も来るのは面倒だった。だから、宮村花恋への返事を、本の貸出日にあわせたんじゃないですか?」
確信めいた言い方で、質問ではなく言及。そう感じた。
「何が言いたいの?」
「あなたは、宮村花恋に興味がないんです」
そのとき、西條さんの後ろの池から鳥の群れが飛びたった。
白い身体に黒の模様が美しい。バサバサと羽音を立てながら、北の空へと。
もう暖かい春の時期だが、広々と拓けた空には、夜の帳が迫っていた。
「ぼ、暴論だ……」
「それは、あなたが宮村花恋からもらったラブレターを見れば分かります。嘘だと思うのなら確認してください」
近くに止めてあった自転車まで駆け戻り、ラブレターをとってきた。
「開けてください」
ラブレターを裏返し、真ん中に貼ってあるハート形のシールを外す。開封して、桜模様の便箋から、真っ白い手紙を取り出した。
「……え?」
そして真っ白い手紙は、裏も表も真っ白いままだった。
「本物はこっちです」
そう言って西條さんは、ブレザーの胸ポケットから一枚の紙を取り出し、開いて見せた。
内容までは読めなかったけど、そこにはたしかにびっしりと何かが書き綴られていたし、いちばん下の段に『宮村花恋』の文字が見てとれた。
「すり替えておきました。あたながラブレターをもらった、当日に」
「はぁ!? どうしてそんなこと!?」
「それは問題ではありません。問題は、なぜあなたが気付かなかったのか、ということです」
「なぜって……」
「私がすり替えたとき、一度も封を開けられた形跡がありませんでした。普通のひとはラブレターをもらうと嬉しくて、何度も何度も開いて見ては、無意味にニヤニヤして楽しむものらしいですよ? おぞましい」
西條さんは何も答えないおれをよそに、まくし立てるように話しだした。
「でも、あなたはそうしなかった。なぜか? 簡単です。宮村花恋のあなたへ対する思い。……そんなものに、あなたは興味がなかったからです」
「違う! おれは!」
つい、声が大きくなる。
「さっき、あなたは宮村花恋に興味がないと言いましたが、訂正します。あれは正しくありませんでした」
ラブレターを懐にしまい、にやりと笑う。勝利を確信した、名探偵のように。
「あなたは恋愛だとか友達だとか、つまり青春に興味がもてないんです」
「そんなこと……」
「あなたは、昔からずっとそうです。だけどそれでも、宮村花恋にOKしようとしたのは、希望があったからです」
すべてを見通したように、西條さんは語り続ける。
「実際、女子と付き合ってみたら楽しくなるかもしれない、何か変わるかもしれない、と。だから、あなたはOKしようと思った」
その通りだった。
「本気で楽しくなると思っていますか? 自分に嘘をつかず、きちんと考えろです。もっと、具体的に」
想像してみる。
満開の桜の木の下で、出会った宮村さん。お姫様抱っこで彼女を受け止めて、ラブレターをもらって、それにOKしようとした。もし西條さんがこの場に現れなかったら、ふたりはいま頃、そこのカフェテリアで互いの話をし、初々しくも手を握りあっていたかもしれない。
「…………」
面倒くさいと、思った。
どう考えても、自室のベッドに寝ころんで西條さんのもっている小説の下巻を読みふけったほうが、有意義で意味があるように思えた。
「違わないんですね?」
(そうなのだろうか?)
「……嫌、じゃない。一緒にいて」
「知っています。でも、嬉しくはない」
「…………」
言い返せなかった。
「……そう、なのか?」
「一度でも、宮村花恋に胸がときめいたこと、ありますか?」
振り返って考えてみた。
「……ない。まったくドキドキしないし、何も感じない」
驚きは、あった。まさに言葉を失うくらいの、衝撃。いきなり胸元をはだけさせるなんて、控えめに言ってもどうかしてると思うし、見ていて飽きない。だから、宮村さんのことは、鮮烈に印象づいている。
それに、面白いひとだという興味もある。かわいい子だとも純粋に思う。
だけど……恋心に発展しそうな種は、なかったように思う。だって、口では恥ずかしいだの嬉しいだの言っておきながら、実際にそういった感情を抱いたことはなかったから。
「ラブレターの渡し方、ぶっ壊れてましたよね。あれで彼女、精一杯色気を見せたつもりですよ」
「分かってるよ。というか、そんなことまで知ってるのんだ……」
恋愛感情がないにしても、お姫様抱っこをして、胸を見せられて、ラブレターをもらって……それでも少しも心がときめかないというのは、そもそも恋愛対象でないという結論になるような気がした。
「友人関係だってそうです。あなたと仲のいいクラスのふたり。……本当に、大切に思ってるんですか?」
三好と安丸のことだと分かった。
「そ、それは……もち、ろん……」
「でもあなたは、ふたりを騙そうとしましたよね?」
おれは、ラブレターを開けていなかった。
だけどふたりには、ラブレターには宮村さんは嫉妬深いひとだと書いてあったと伝えた。
だから、一緒にいる時間が減るかもしれないと。
……一緒にいるのが、面倒くさいと思ったから。
「ゲーセンにもいたんだ、西條さん……」
「んなことはどーでもいいです。どうなんですか?」
「嫌い、じゃないんだ。でも、何が楽しいか分からないんだよ」
友達といると、トイレの回数も多くなる。都合の良い、それらしい理由をつけて翌日のゲーセンも断った。
上辺だけ取り繕って、だけど本音では面倒だから、見えないところでズルをする。それがおれ、野田進という人間だ。
「あなたは私と違って、積極的に青春を嫌っているわけではありません。何も、感じないんですよね?」
「うん……」
「あなたは、青春不感症なんです」
名前をつけられたことで、自分の異常さが理解できるような気がした。
(青春不感症……。おれは、そうなのか……?)
「だったら、教えてよ」
「は?」
力なく、ベンチに座り込む。西條さんのハンカチの敷かれた、隣に。
「……どうすればいい?」
西條さんにあたっても仕方ないと分かっていながらも。
どうしようも、なかった。
「たしかに、かわいい女の子に告白されても、友達に誘われて遊ぶのだって、面倒だって思ってた。でも、それが幸せなことだからって、当たり前だからって言われたら、何も言えないだろ? ……結局、周りに合わせるしかないんじゃないか?」
西條さんには「知らねぇです」のひと言で拒絶さられることを覚悟していた。
だけど。
「嫌なら切り捨てればいいです」
西條さんは、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「楽しくない、くだらない、価値のない現実に自分を合わせる必要なんか、どこにもねぇです」
それが西條さんの答えだった。
「あなたは、このまま周りに合わせていたら、いつか幸せだって思える日が来る。そう考えているのかもしれませんが……幻想です」
教室の西條さんを思い出す。
いつもひとり、黙って佇んでいる。
話しかける者があれば、うるさい、知らない、興味がない。にべもなく、切り捨てる。
そしてまた自分の世界に戻り、たったひとりで生きてきたのだ。
おれはそれを、羨ましいと感じた。
「西條さんは、強いね」
「当然です。私は自分の意志で、自分の好きに生きていますから」
「おれにはそれができない。……だから、こんな生き方をしてるんだ」
世界は灰色だ。
一瞬だけ輝く虹色でもない。
おれのとって、この世界に美しい景色なんて、どこにもない。
「本気でそう思いますか?」
「思う、けど」
「そうですか」
それから西條さんは、何も言わずにおれの隣に座った。
少し動かせば、手も重なる距離。
なんのつもりなのかと、おれは意図を計りかねていた。
「何をしてるんですか。あなたはそっちです」
そう言って西條さんが指したのは、地面だった。
「な、なんで?」
「私が強いと、他者よりも優れているとあなたは認めましたね? だったら、横に並んで座るなんてちゃんちゃらおかしいじゃないですか? そこに、こっちを向いて正座です」
「え、何言って……」
西條さんの顔を見た。
相変わらず、小さくて整った端正な顔つき。
だけど表情は真剣で、本気なのだと悟った。
「さ、西條さん……」
「早くしろです。私が羨ましいんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったら、同じ場所まで連れて行ってあげますから」
その言葉は、とても魅力的だった。
だけど、広場の横の通路には、まばらではあるが人通りがある。可能性は低いにしても、同じ学校の生徒が、知り合いが通りかかるかもしれない。
「早く」
だけど、おれは西條さんの言葉に従っていた。
コンクリの剥げかかったボロボロの地面に、躊躇なく座った。
「よし、では次は私の足を舐めろです」
「はぁ!?」
思わず声が出た。
「なんで足なんか!」
「それが、大人の味だからです」
意味は分からなかったが、冗談を言っているようには見えなかった。
「いま靴を脱ぎます。動くなですよ」
「靴?」
「舐めると言ったら足の指に決まってるです」
西條さんは戸惑うおれをよそに、ベンチに右の片ひざを立てた。
靴を脱ぎ、黒いタイツに手をかけ、脱いでいく。少しずつ露わになる足首は、心配になるほど細く、白く、美しい。少し腰を浮かせて黒タイツをひっぱるたび、短いスカートから太ももが艶かしくのぞいた。
やがてタイツが右足の先から抜けると、そこにはわずかに衣服の繊維と砂粒の付着した、五本の指があった。指は窮屈な衣から空の下に解放され、親指から順番に空気を掻くように、折れ曲がった。
「どうぞ」
西條さんは、おれの顔の前に足をずいっと差し出した。
それ以上は何も言わなかった。
「…………」
震える手で、西條さんの足を掴む。
まるで、瑞々しいトマトを優しく摘みとるように。手のひら全体で、決して傷つけないように細心の注意を払い、丁寧に包み込んだ。
「早くしろです」
グイッと、足を押し出してきた。
「なんか、怖い……」
「ずいぶんと女々しいことを言いますね」
「そう、かな……?」
「そうですよ。それに、怖いとは違うと思いますよ」
「違う?」
「あなたはいま、興奮しているんです」
(まさか。そんなわけ……)
おれの手はしっとりと汗ばみ、西條さんの足を汚している。
汗の感触の気持ち悪さと、正座した膝に食い込む小石の痛みと、異様な者を見るような通行人の視線。
そして西條さんの、ニヤリとした、おれを見下す卑しい笑み。
……悪くなかった。
(嘘だろ……)
いちばん底にいるという、足下のどっしりとした安定感。暗くて冷たい、安心感。そして、絶対にイケナイことをしている、恐怖。……高揚! 降り注ぐ通行人の視線が、生存本能から全身の感覚が敏感になった肌を貫く。むき出しの性感帯を針で刺されたような、激痛。だが不思議と、それが気持ちいいのだ。
(もっと……! もっと見られたい……!)
おれは自然と、そう思っていた。
「そうです。良い調子ですよ」
まずは、嗅いでみた。
西條さんの匂いがした。ローファーとタイツで熟成された、汗の香りが。
嫌……じゃない、どころか、止まらなかった。
そして……。
気付けばおれは、足の甲を舐めていた。
上、右、下と、つつくように舐める。
慣れてくると、下から上へと這うように。
そのたびに西條さんは少し腰をよじらせる。もどかしそうに太ももが動き、下着がのぞいた。淡いブルーの、花柄模様だった。
興奮した。クラスメイトなのに、いや、クラスメイト、知っているひとの下着だからこそ、元より見せられるために用意されたネットの画像などとは、別次元にあるのだと知る。
咎められるかもという恐怖、臨場感、圧倒的な質感、羞恥心……。心臓の鼓動は早く、息苦しく、あまりの目眩に意識が飛びそうにすらなる。
(おかしい……こんなの、変態みたいなのに……)
おれは今日という日を一生忘れない。
同級生の下着の色が、質感が、シワのかたちが、死ぬ瞬間まで克明に残り続けるだろう。
「うまい……じゃないですか。でも、滑稽ですね。なんだか、イヌやネコにさせているような気分です。ふふふっ」
不思議なのだけど、おれは西條さんに褒められて嬉しいと感じた。
照れくさいような、恥ずかしいような、でも嫌ではない気持ち。
もっと悦ばせたい。そして、そんなおれを色んなひとに見て欲しい!
(通行人、結構いるな……)
横目で道路の方を見ると、まばらだが人通りがあった。
顔をしかめて、訝しそうにこちらを見てくるひと。明らかに嫌悪の視線を向けるひと。見えているのに、見ないふりをするひと。
そう、それが正しい反応だ。異常なのは、おれたち。自分が惨めで気持ちが悪いと思うほど……興奮した。
おれは勢いづき、指の間に舌を入れ込んだ。
「んぁっ……」
親指と中指の間、中指と人差し指の間、人差し指と薬指の間……と、舌を行き来させる。一度舐小指まで舐めると、また折り返して親指へと戻る。それを何度か繰り返すと、今度は指を口で咥えていった。
「っ! ちょ、歯が痛いです! へたくそですね!」
「ご、ごめ……」
再び、舐める作業に戻る。
言われたとおり、今度は歯が当たらないように気をつける。
口をすぼめて、ゆっくりと前後に動かす。
すると西條さんは気持ちがいいのか、小さく声を漏らすようになった。
「……んっ。いい、ですよ……。うまいじゃないですか……」
褒められたのが嬉しくて、おれはいっそう励んだ。
「ちゃんと、指の間もきれいにしてくださいね」
言われた通り、もう一度そこに戻り、舐め残しがないようにしっかりと奉仕した。
指が終わると、今度は足の甲へ。
甲が終わると、今度は足の裏へ。
それも終わると、おれは再び足の指の間へと戻った。
いつまで経っても、西條さんはやめろとは言わなかった。
通行人からは間違いなく、変態だと思われている。
怖い。そういう気持ちも多分にあった。だけどその恐怖心が、谷の底からせり上がってくる溶岩のような熱い情熱に代わり、いっそうおれを行為に駆り立てる。
次におれは目を閉じ、余計な音を聞くことをやめた。
いまおれは全身で、西條さんを舐めている。
聞こえるのは、水音と、西條さんの命令だけ。
浮かぶのは、西條さんの恍惚とした笑顔だけ。
口のなかでは西條さんの汗と自分の唾液が混ざり合い、味わったことのないフレーバーが生まれていた。両手では西條さんの足を抱えるようにして、時には頬をすり寄せ、慈しむ。いま、おれの五感はすべて西條さんに捧げられていた。この瞬間、隕石が落ちて世界が終わるとしても、おれは構わず西條さんの足を舐め続けている。
「西條さん」
「なんですか?」
「ありがとう」
おれはこのとき、初めて満たされ、肯定された。
これまで追いかけてきた空虚な青春なんかよりも、ずっとおれの心を揺さぶってくれる。
心の底から嬉しいと、恥ずかしいと、楽しいと感じた。
「やっと見つけた……」
普通ではない、危うい感覚。堕ちていると明確に意識して、堕ちていく。
西條さんの足の裏から、じわっと溢れ出してくる体温を受け止めなながら——。
おれは初めて、ひとのぬくもりというものを感じた気がした。
「西條さんの身体……甘い、でもちょっと苦い味がしたんだ」
行為が終わり、あたりが薄闇に包まれた頃。菓子パンをくわえながらタイツを履いている西條さんに告げた。
「頭おかしいんですか?」
西條さんは頭がおかしいひとを見るような目をした。
「そうやって、いつもお菓子食べてるから」
「お菓子じゃねぇです。じゃりパンです」
「知ってるけど……」
(だけど本当に、西條さんを舐めると不思議な気持ちになるな……)
それは、これまでに味わったことのない感情だった。
気持ちがいいとか、嬉しいとか、そんなんじゃない。
知り合いに見られでもしたら、これまで積み重ねたものがすべて終わる、という恐怖。そして同じ歳の女の子にへつらい傅いていることに対する、恥辱。それらがいちばん近い。だけどその痛みはすべて舌先に集約され、西條さんをひと舐めすると、全員に電気が走り、身体はそれを快楽だと認識するのだ。
「西條さんを舐めているとき、おれの中ですべてがしっくり来た気がしたんだ」
「私も、これが世界の正しいあり方だと感じています。私に頭を垂れ、傅く。こんな当たり前のことですが、実際に実践したのはあなたが初めてです」
それはそうだろう、とは言わなかった。
「あなたは正しいんです。だから私は、あなた以外何もいりません」
「え? それって、どういう……」
西條はさらに一歩、おれに詰め寄った。
そしてネクタイを掴み、目と目を合わせ、言った。
「楽園追放計画」
「え?」
「いま、私が決めました。私とあなたが、私とあなた以外を追放するんです。すべての人間関係を清算し、世界でふたりきりになるんです」
西條さんの発案は突拍子もなかったけど、とても素晴らしいものに感じた。
おれを満たしてくれるのは西條さんしかいないし、西條さんもまた、おれ以外の人間を求めていない。だったら、ふたりだけでいい。他の人間には嫌われて、関係を断つ。シンプルで、ふたつとないクレバーな答えだと思った。
「分かった。おれもその楽園に連れて行って欲しい」
「後悔しませんか?」
「うん。理解できないものにあわせる必要はない。理解してくれるひとがいるって、分かったから」
「では、スマホを出してください」
「スマホ?」
「あなた、ツイッターをやっていますね?」
「やってるけど……」
というか、生徒のほとんどはやっている。いまやLINEとツイッターは、コミュニケーションの道具としてなくてはならないものだ。
「いま私の目の前で、切っていいと思うフォロワーをブロックしてください」
「え、えぇ!?」
「当然です。私とあなた以外、いらないんですよね? だったら、簡単なはずです」
「……わ、分かった」
西條さんに言われるまま、おれはツイッターを開いてマイページを確認した。
『オコじょ フォロー:145 フォロワー:155』
ここ最近で友人が増え、フォロー、フォロワー数が増えていた。
ちなみに、アカウントには鍵をかけているので、おれが承認しない限り、フォロワーが増えることはない。
西條さんの言う通り、楽園追放計画に本気なら、いますぐこれをゼロにしなくてはならない。だけど……。
「……はい」
切れる相手をブロックして、西條さんに画面を見せた。
『オコじょ フォロー:99 フォロワー:99』
「……多くないですか?」
「中学時代の友人は、大量に切ったよ。仲良かったけど、もう一緒に何かすることはないだろうなって。他、ニュースアカウントとかも結構あったから、それも。だけど高校の友人と身内、それから中学時代からの友人で、まだ関わりをもちそうなひとは……」
冷たい、冷たい視線がおれを刺す。
自分から計画に賛同しておいて、この体たらくだ。
「まあ、いいでしょう。いまの時点では」
それは意外な反応だった。西條さんなら、やる気がないのなら話はナシだと言い出すかと思っていたのに。
「そしてその数字にさらにプラス1ですね」
西條さんが自分のスマホを操作する。するとおれのツイッターに通知が入り、承認すると、フォロワー数が100になった。
フォローしてきたアカウントは、真っ黒い猫のアイコン。西條さんだ。おれはすぐにフォローを返した。
『オコじょ フォロー:100 フォロワー:100』
『くろねこ フォロー:3 フォロワー:3』
これが、いまのおれたちの『楽園追放計画』その進行度を示しているのだと分かった。
「これを互いに一年以内で『1』にします。どうです? 分かりやすくてよいでしょう?」
「そう、だね」
「ただし、ラスボスはいますけどね」
「ラスボス?」
「はぁ、もう忘れたんですか? 本当に幸せな脳みそですね」
西條さんは、自分の胸ポケットを叩いてみせた。
「宮村花恋」
「……あっ」
正直に言うと、抜け落ちていた。
幸せな頭だと言われたら、否定できなかった。
「え、えっちなこと、するから」
「それはもういいから……」
だけど真面目にどうすればいいだろうか? かなり深刻な問題に思えた。
「ま、あんな胸以外取り柄のない女に、私が負けるわけはないですけど」
「それって……」
つまり、宮村さんと西條さんでおれを取り合う、ということだろうか? ……いや、自惚れまいとは思う。だけど、西條さんの言っていることは、そういうことではないのか?
「私のほうが、あんな女よりもっとえっちです。……知ってますよね?」
「そ、そうかもね……」
言い切れなかったのは、宮村さんも大概だったからだ。
なんの予告もなく、いきなり胸を見せてきた宮村さん。
なんの説明もなく、いきなり足を舐めさせてきた西條さん。
……どっちもどっちかなぁ。
「というわけで、宮村花恋はアウト・オブ・眼中ですが、楽園計画のほうはサクサクっと進めていきたいです。せいぜい、私の足をひっぱらないでくださいね。……シン」
「ああ。よろしくね。……西條」
宮村さんのことは気がかりだけど……おれが生きてきた十五年間。それが、今日から変わるはずだ。
新しい感情を覚え、新しいパートナーを手にいれ、新しい世界へと旅立つ。
空と海の混じる水平線へと、その美しい楽園へと、おれは羽ばたくのだ。