漫画や映画などの題材として大人気の吸血鬼。
そんな幻想が今や現実となってしまった。
人間と吸血鬼は古来より血みどろの闘争を繰り広げていた。ただしそれは大々的なものではなく、社会の裏側にて人知れず行われる暗闘の類。吸血鬼という異端が世間に認知されるなど、絶対にあってはならない。
しかし、SNSの普及がそれまでの規則を木っ端微塵に打ち砕いた。
誰もが瞬発的にリアルタイムを実況できる環境が整い、不特定多数と不特定多数が浅く広くつながり合う情報化社会の中で、圧倒的存在感を放つ吸血鬼を隠蔽するのはもはや不可能だった。
時代の流れに乗った吸血鬼はその存在を世界に知らしめた。
俗に『吸血鬼の春』と呼ばれる現在まで継続中の社会現象である。
にわかには信じ難いが、彼らは確かにそこにいる。書物の中に封じられた想像の産物ではなく、間違いなく現実を闊歩しているのだ。
とても恐ろしい。
だが同時に、惹かれもする。それも強烈に。
彼らはただ存在するだけで、退屈な現実を生きる人間に絶えず影響を及ぼす。積極的に関わらずとも一目見ただけでもその者の人生観を一変させ、それまでの世界を引っくり返してしまう。
吸血鬼とは劇物なのだ。
扱いには細心の注意と相応の覚悟がいる。
軽い気持ちであちら側に踏み込んだ者の末路は決まって悲惨だ。
しかし、人間の愚かな憧れは留まることを知らない。
そして、そんな憧れに面白半分で応えようとする吸血鬼。
何とかしなくては。
手段を選ぶ時期はとっくに過ぎている。
それこそ劇物を用いてでも、この現状を正さなくてはならない。
月の光も届かぬ真っ暗闇の路地裏を一人の男が駆け抜ける。
「はあっ……はあっ……」
五月中旬。暦の上では夏に入ったものの、夜は未だ涼しく過ごし易い。
それなのに、平凡な顔立ちには汗が浮かび、苦悶に歪んでいる。
「はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……」
路地裏を走る者は二種類に分けられる。
追う者と追われる者。
男は後者。どう見ても後者。
先の見えない暗がりを走っているというのに、前方よりも背後にばかり意識が向いているのが何よりの証拠だ。
そして後者がいるなら、当然、前者がいる。
「待てこら!」
路地裏に幾人かの男女が殺到した。
「止まれぇ!」
待てと言われて待つ馬鹿も、止まれと言われて止まる馬鹿もいない。
男はさらにスピードを上げ、まさしく疾風のように路地裏を駆け抜ける。
逃走者と追跡者の距離が再び空くが――
「よし、追い込んだぞ!」
前方に人の壁。挟撃だ。
もはや命運は尽きたかと思われたが、男は驚きの行動に打って出る。
「おあああああああああああああああああ!」
まさかの正面突破。
常識的に考えれば愚策の一言だが、ここでありえない結果が巻き起こる。
「邪魔だああ!」
まるでトラックの衝突だった。大の男が宙を舞う。尋常ならざる膂力が発揮され、人の壁は障子紙のようにあっけなく破られた。
「ぐっ……、バケモノめ!」
背中に悲鳴を浴びながら、男は笑みを浮かべていた。
――逃げ切れる。
所詮は人間なのだ。『力』を手に入れた自分とは違い、連中は吹けば飛ぶ脆弱な人間にすぎない。ここに至ってようやく確信を持てた。すでに自分は下等種族の呪縛から脱却し、偉大なる高位存在へと生まれ変わったのだ。
「そうだ。そうなんだよ。もう誰にも俺は止められないんだ!」
速度も筋力も明らかに人間の域を逸脱しているが、男の容姿は人間と何も変わらない。あえて特徴的な点を上げるとすれば、少々発達した二本の八重歯くらい。
「ギャハハハハハハハハハハハハハハハ」
感情が溢れる。
楽しい。嬉しい。面白い。
あんなにもつまらなかった世界が光り輝いて見える。
「ハ――」
ただし、突然目の前に現れた地面が全てを台無しにした。
「ハ?」
要は転んだのだ。
受け身どころか手をつくことすらできず、男はアスファルトの地面に顔面から盛大に突っ込んだ。
「ごぶあっ!」
万能感に酔いしれた矢先の珍事。
何かに躓いたのか?
足元を確認する。
怪しいものはなかったが、本来あるはずのものがなかった。
転ぶのは当然だった。男の片足の膝から下がごっそりとなくなっていたのだから。
「え、あ、う、ぎゃ、ああああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫が路地裏を駆け巡る。
「ふむ、なるほどなるほど」
言葉にならない苦痛を訴える哀れな男に、声をかける者がいた。
「再生は、しないのか。そんなランクか」
ペンキをぶちまけたかのような鮮やかな赤髪の少年だった。
年の頃は十代の半ばを過ぎた辺り。詰襟の真っ黒な学生服を纏っており、髪色以外はどこにでもいる高校生といった風体。
「花房美津流。二十一歳。紅鐘学院大学経営学部三年生。尾妻ゼミ所属。テニスサークルと軽音クラブを兼部。備考、彼女なし」
自分の個人情報を羅列されたことで、花房と呼ばれたその男は痛みで飛びかけた意識を無理矢理現実に引き戻された。
「何だ、テメェは……」
「初めまして。僕の名前は新宮伊吹。血戦局の者です」
「血戦局だと、クソッ、あの邪魔者連中の仲間か」
「それと、君の片足を吹っ飛ばした張本人でもある」
「テメェ……っ」
男は怨嗟に満ちた視線を向ける。
しかし、新宮と名乗った少年は平然と受け止め、軽い調子で質問をする。
「ところで、どうかな?」
「あぁ?」
「絶体絶命の危機に直面して秘められし能力が覚醒しそうだとか、既存の能力がパワーアップしそうだとか、そんなワクワクな雰囲気があったりしないかな?」
少年が何を言っているのかはわからないが、癇癪を起こすにはそのずけずけとした物言いだけで充分だった。
「何をわけのわからないことを言ってやがる!」
無様に這いつくばっていた男は怒りに任せて強引に立ち上がる。膝から下のない片足から滝のように血を垂れ流しながらも、ボディバランスではなく足の握力によって地面を踏みしめる。
「さすが。転生したばっかりとはいえ、それだけの『怪力』を持ってるなら、うちの新人班が軽く蹴散らされたのにも納得ができる」
ぱちぱち、と二回だけ乾いた拍手を少年は贈る。
「それだけに残念だよ。そんな素晴らしい特殊能力を持っていながら、あんな事件を起こすなんて」
事件。少年の言葉に男の耳がぴくりと震えた。
「紅学サークル棟襲撃事件。外壁半壊、内装全損、生徒百五十七名が重軽傷」
「よく知ってるじゃねえか。もしかして俺ってばもう有名人になってたりする?」
「ワイドショーで緊急特集されてたよ」
「やっぱりな! そりゃあ俺みたいなスターをマスコミが放っておくわけないよな」
意地汚く笑う男に対し、少年は無表情で問う。
「何であんなことを?」
「俺に相応しい正当な評価を得るために、社会へ問題提起してやったんだよ」
男が浮かべた薄ら笑いは、異常人格者の表情だった。それは、薄っぺらな人間の表情である。
「なるほど。君がどんな奴なのかわかったよ」
「そうだ。選ばれし者である俺をそこらの凡俗と一緒にしてもらっては――」
「このクソ野郎が」
少年は吐き捨てるように言う。
「お前は選ばれし者でも何でもない。たまたま拾ったオモチャを闇雲に振り回しているだけのクソガキだ」
軽蔑の念を隠そうともせず、少年は言葉を刃に変えて相手のコンプレックスを抉る。
「所詮その程度なのさ。誰もが羨む特殊能力を獲得したっていうのに、きっとお前は何も変わってない。変わったところといえば、精々その二本の牙くらいじゃないかな」
「おい、黙れよ」
「それにしても、見れば見るほどつまらない顔をしてるなあ。凡庸を絵に描いたギャルゲの主人公のパラメーターを全部ワンランクダウンさせたみたいな、面白味ってものがまったくない。十把一絡げの端役にも劣る驚異的な無個性っぷりだ」
「黙れって」
「そんなんだから彼女ができないんだ」
「……殺す」
バギリ。恐ろしい音がした。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す。この俺を馬鹿にする馬鹿は誰であろうとぶっ殺してやる」
片足に渾身の『怪力』が込められ、鷲掴みにされた地面に放射状の亀裂が走る。
「イキがるなよ」
しかし、少年はまるで動じない。
「その程度なら、あと一発で充分かな」
「舐めるなあああああああああああああああああああああああああああ」
怒りの全てをエネルギーに変換し、爆発的な速度で飛びかかる男。
だが――
「はい終わり」
少年の言葉通り、男の命は次の瞬間にはあっけなく散った。
✖
対吸血鬼戦略執行局。
通称、血戦局。
社会に蔓延る吸血鬼の毒牙から社会秩序を守るために設立された特務機関。
その本部があるのは、東京は秋葉原の一等地。
そびえ立つ高層ビル群の中でも文字通り頭一つ抜けた超高層ビルこそが、血戦局の本部である。
夜の住民である吸血鬼に対抗する意思を示すためか、このご時世にあっても全フロアに四六時中明かりを点けている。
そしてその内部では、タクティカルベストの黒服が慌ただしく行き交っている。一見すると警察官や自衛官のような雰囲気もあるが、彼らの多くが携えているのは銃火器ではなく、銀色の長物や巨大なトンファーである。さらに目を向けてみれば、年代物の鎧兜に身を包んだ白騎士の姿すらある。
こんな胡散臭い空間なら、赤髪の学生服が歩いていても何の違和感もない。
「今日も今日とてハロウィンみたいだ」
真夜中にもかかわらず絶賛稼働中の職場を眺め、新宮伊吹は呆れの言葉を口にした。
「渋谷のクラブFANGに吸血鬼が潜入! イベント参加者の半数が転生させられた!」
「っざっけんな、その規模に対応できる狩猟部隊はもう出払ってるだろ!」
「警護部に応援要請! 畑違いだろうが関係ない!」
「つーか、夜間のイベントはなるたけ自粛しろっつってんのに、誰も守りゃしねーな!」
本部ビルは上に下にと大騒ぎ。特別珍しい事態ではなく、これが血戦局の日常。昨日も一昨日も一週間前も似たような光景が繰り広げられていた。
しかし、誰も慣れてはいない。むしろ大多数はウンザリしている。世間の常識から切り離された仕事ではあるものの、ここ最近の活動内容はさすがに目に余る。ブラック企業も真っ青の超過労働である。
伊吹自身も日々激務に追われ、そろそろ目蓋が重い。自らの仕事は一段落したので仮眠室で小休憩を挟もうかと思っていたのだが、本部に戻ると珍しく直属の上司からお呼びがかかった。
無視するわけにもいかず、伊吹はエレベーターに乗った。
「失礼します」
最上階の一室。『長官室』と刻まれた大理石のプレートがかけられている。
室内は機能性のみを求め、遊び心は一切見受けられない。特筆すべき点といえば、デスクの上に林立するエナジードリンクの空き缶くらい。
「はいはい、ご苦労様」
そのデスクにて待っていたのは伊吹と同じ高校生年代の少女。
くたびれたスーツの上に朽葉色の大仰なロングコート。ただ、年齢に見合わぬその格好よりも実は目の下の濃い隈の方が目立っている。溢れ出る疲労感はここ本部ビルにいる誰よりも重苦しい。
唯一の洒落っ気である右手人差し指の髑髏を象った指輪も、この少女の場合はひたすら不吉な印象を与えてくる。
「いやいや、何を普通に労ってるのさ。あんな残飯処理を押しつけておいて」
伊吹は文句を言うが、少女はさらなる文句で切り返す。
「迅速に動ける人員がアンタくらいしかいなかったんだから、仕方ないでしょ」
彼女こそが伊吹の上司。血戦局の司令長官、つまりは最高責任者。
名を平逆葉月。呪術の名門、平逆家が輩出した才媛である。
「葉月は僕のことパシリにしすぎだよ」
「伊吹は放っておくと仕事を選り好みしすぎるから、長官のアタシがきっちり管理してあげてるんでしょ。菓子折り持参で感謝されるならわかるけど、文句を言われる筋合いはこれっぽちもないわ」
「選り好みしてるんじゃない。自分に、そして相手に正直なだけだよ」
「それを選り好みって言うのよ」
非常識が横行する退魔業界は徹底した実力主義を採用している。たとえ若年であろうと、前司令長官を追い落とした葉月の実力に疑いの余地はない。血筋からか特務機関を率いるに相応しい『格』も持ち合わせているため、その立場に関する異論は微々たるもの。
ただし、曰くしかない経歴なので周囲からは敬遠されている。
数少ない例外の一人として、同期かつ同年代で、同じく若年でありながらそれなりの立場にある伊吹とは気安い関係を築いている。毎日連絡を取り合っているわけではないが、顔を合わせればそれなりに会話が盛り上がる。
「そう言えば、あの話、長官殿のお耳にはもう入ってる?」
「どの話よ?」
「先週、東京の吸血鬼事件の発生件数が、ニューヨークを抜いて世界第一位に躍り出たって話」
「ああ、その話……」
「ついにって感じだよね」
「何を嬉しそうにしてるのよ。血戦局にとってはこれ以上ない恥ずべき記録じゃない」
「どんな分野でも一位になるってのは良いことじゃないかな?」
「どんな分野でも例外はあるわよ」
「でもさ、予想外ってわけでもないよね。吸血鬼の存在が明るみになってから数年、ニューヨークがトップの事件発生件数をほとんど横ばいで維持してた一方で、東京は天井知らずの右肩上がり。合衆国の牙城を崩す日は、遠からず約束された未来だったんだよ」
そんな伊吹の意見は間違っていない、というか現実だった。
東京は反吸血鬼団体の老舗にして最大手である『修道院』の勢力がついに根づかなかった土地である。完成度の高い戦略を持つ巨大勢力との連携不足、それに伴う情報不足から、東京における吸血鬼対策の確立は遅れに遅れた。
また、この極東の地では常人には理解し難い奇妙な偶像文化が発達しており、大衆は驚くほど吸血鬼に寛容だった。
結果、多くの吸血鬼の発生・流入を許し、今日に至る。
「……ねえ、最近東京が何て呼ばれてるか知ってる?」
葉月が問い、伊吹が即答する。
「吸血都市」
「そう、吸血都市。魔界都市ならともかく吸血都市。都市そのものが人間の血を吸い上げてるんですって」
吸血都市。またの名を吸血天国。
つまり吸い放題。吸血鬼はドリンクバー感覚で東京を利用しているらしい。
「都市情勢があまりにも不安定だからって、オリンピックの開催が中止になったもんなあ」
「その話題を広げないでよ。あの日のショックが蘇るから」
伊吹にとっては笑い話だが、葉月にとっては未だ消化しきれない忌まわしい記憶だった。
栄誉ある開催都市の権利を吸血鬼のせいで剥奪されたあの日。人間社会を守るために粉骨砕身の意気で働く血戦局してみれば、屈辱以外の何ものでもない。
「本当、世も末だ。このままじゃ、次のオリンピックを迎える前に東京は陥落するよ」
第三者的な伊吹の言葉は決して冗談ではない。吸血鬼犯罪に歯止めをかけなければ、東京はいずれ人の尊厳が失墜した死都と化す。
「最高責任者として、局の方針とかを一回見直した方がいいんじゃないかな?」
「そうそれ! まさにその話をするためにアンタを呼んだの」
何気ない伊吹の皮肉に、葉月がばっくりと食いつく。
「ねえ、伊吹。アンタは血戦局の今後についてどう考えてる?」
それはまた大雑把な話だが、いやに改まった口調だったので、伊吹は忌憚のない意見を述べてみる。
「まあ、まず何よりも優先すべきは人材確保及び戦力強化だろうね。ここのところの超過労働は過酷なんてレベルじゃない。由緒正しい専門家だけに任せてもまったく手が足りてないから、吸血都市だなんて揶揄されるんだよ」
今度は皮肉でも何でもない。純然たる事実。
「とはいえ、人材不足は退魔業界の宿命で、血戦局が創立時から抱える悩みの種だからなあ。一朝一夕で解決できるなら苦労しないか」
ヴァンパイアハンター。現在では猟血官と呼称される退魔師は、残念ながらそう易々と育たないのだ。
吸血鬼とは混合種の完成形にして決定版。保有する属性は画一的ではなく、個体毎に大きな差異がある。それ故に、対獣、対霊、対屍、少なくともこの三つの専門技能を修得した人材でなくては、吸血鬼との実戦では使いものにならない。
ただの専門退魔師でも慢性的に不足しているというのに、貴重な多芸能力者を必要数用意できるわけがない。十九世紀末から現代にかけて爆発的に勢力を拡大させる吸血鬼に対し、人間側の勢力は年々縮小傾向にあるのが実情である。
「本気で状況を変えたいなら、ある程度の無茶は覚悟しないと」
伊吹の言葉に、葉月は大きく頷く。
「まったくもってその通り。さすがは遊撃部が誇るエース・オブ・エース。みんなが目を逸らしがちな危機感を良く理解しているわ」
わざわざ呼びつけておきながら回りくどい。言いたいことがあるならさっさと言え。伊吹が露骨に顔をしかめてやると、話は本題に移った。
「血戦局は今、間違いなく劣勢に立たされている」
「うん」
「この苦境を脱するためには、抜本的な一手が必要なのよね」
「うん」
「そこで、吸血鬼の戦力導入を解禁しようと思うの」
「あ、やっと決断したんだ」
「……そんなに驚かないのね」
「この部屋に呼ばれた時点である程度の予想はついてたよ」
「何て可愛げのない。部下ならもっと部下らしい大げさな反応をしなさい」
会話の流れで葉月はあっさりと宣言したが、それは歴史的な決断だった。
吸血鬼の戦力導入。
その案件こそ、もう何十年も前から議題に取り上げられているが一向に進展していない案件である。『修道院』からの抗議、『夕魔猟友会』との競合、そして何よりも人間としてのプライド。主に人道的見地の問題から、実現は厳しいというのが大勢の見解だ。
「わかってると思うけど、極秘任務だから」
葉月の注意を受け、伊吹はこの件に関するいきさつを察する。
「あ、やっぱり。反対派を説得したわけじゃないんだ」
「あんな頭でっかち共と議論をするだけ時間の無駄」
「つまり、独断ってこと?」
「そうよ」
「うわあ、反対派の皆さんは怒り狂うだろうなあ」
「……でしょうね」
ここで葉月は今日一番の疲労感を見せた。
「反対派の意見は根強いけど、だからこそ、だからこそっ、何が何でも成功させなくちゃいけない。下手な吸血鬼を引き入れて失敗した日には、立場的にも肉体的にもすぱっと首が飛ぶわ……」
鬼気迫るその様子に、伊吹は心配そうに声をかける。
「葉月、ちょっと自棄になってない?」
「当たり前でしょ。まともな精神状態ならこんな決断できないわよ」
でも、と葉月は言う。
「吸血鬼が雨後の筍みたいに湧くこんな状況で、様子見とか試験運用とか、そんなちまちまとしたまどろっこしいことをやってる場合じゃない。すぐにでも結果を出すために、禁じ手中の禁じ手を使ってやる」
そして葉月は自分がもっとも信頼する猟血官にある任務を言い渡す。
「真祖を勧誘してきなさい」
✖
発展著しい現代の吸血鬼を、単なる『血を吸う鬼』として一括りにするべきではない。
彼らは個々の趣味嗜好・思考傾向によって七つの『血統』に分類される。
特殊能力を蒐集する『強欲派』。
弱点の克服を目論む『傲慢派』。
吸血衝動に支配された『暴食派』。
世俗的な実利を求める『怠惰派』。
無節操に同族を増やす『色欲派』。
人間への回帰を訴える『嫉妬派』。
吸血鬼優生主義を提唱する『憤怒派』。
これらのどれにも属さず人を害さない善良な吸血鬼もいるにはいるが、その比率は全体の一割にも満たない。吸血衝動や特殊能力といった超常の快感に抗える者など、そうはいないのだ。
実際、その快感を知ってしまったなら、良識など彼方へと追いやられる。
七つの内のどれであろうと『血統』の認定を受けた吸血鬼は、人間社会に多大な影響・被害を及ぼすことが確定している。間違いなく排除すべき害悪であるので、人間社会の砦たる血戦局が軽率に接触するべきではない。
また派閥と表現されているだけに、吸血鬼の間でも『血統』を巡る支配闘争が盛んに行われている。
吸血鬼の戦力導入を検討する際には、この点が最大の問題として立ちはだかる。
あちらを立てればこちらが立たずといった調子で、どの『血統』の吸血鬼を引き入れようとも、必ずどこかとの敵対関係が過熱する。たとえば『嫉妬派』の吸血鬼と同盟を結んだ場合、『憤怒派』の武装部隊が大挙して東京に押し寄せてくることだろう。
どの角度から検討してもトラブルは免れない。
やはり、吸血鬼など機関に引き入れるべきではないのかもしれない。
だが、何事にも例外はあり、抜け道がある。
既存の枠組みから外れたイレギュラーならば、しがらみに囚われない働きを期待できる。
✖
真夜中の大都会を行く伊吹。
「いやあ、楽しみだ」
伊吹は仕事人ではなくあくまで趣味人。退魔の側の人間として多少の使命感は持ち合わせているものの、機関に対する忠誠心や帰属意識は極めて希薄である。
だが、だからこそ、長官の無茶ぶりを快諾した。伊吹以外にこんな人身御供のような任務は果たせない。
「まさか真祖に直接会える日が来るなんて」
新宮伊吹を突き動かすのは吸血鬼への興味に他ならない。この赤髪の少年はとにかく吸血鬼という存在が好きだった。血に飢えた彼らを視覚的に引き寄せるため、わざわざ派手な色に染髪しているのだ。
そんな偏愛家にしてみれば、今回の任務はむしろご褒美だった。
あらゆる吸血鬼の原初にして頂点。
神話を超える神話。
奇跡を犯す奇跡。
ここまでの最高級を知らされたのなら、全ての些事を投げ捨てて真っ先に馳せ参じなくてはならない。
「それにしても、港区に真祖が封印されていたなんて驚いたなあ」
百年ほど前に活動を停止し、表舞台は勿論、裏社会からも姿を消した真祖。
その身柄を血戦局が確保している――という噂話は、それなりに有名ではあった。
しかし世界屈指の巨大都市に所在があるとは、さすがに誰も想像していなかった。
そして同時に、まったくの予想外でもない。当然考えるべき可能性ではあった。
混沌を極める現代社会における吸血鬼の生息地は、湿っぽい墓地でも丘の上の古城でもない。多くの人の欲望が行き交う都市部にこそ彼らは集まるのだ。
そういう意味では東京は隠し場所としてうってつけである。
木を隠すなら森の中、吸血鬼を隠すなら吸血都市。
「葉月も人が悪い。そんなとっておきを今の今までずっと隠してたなんて」
真祖の封印は言うまでもなく最高機密。機関上層部、そのさらに一握りにしか情報は開示されていない。
そんな封印を解こうというのだから、相当切羽詰まっているのだ。
「どんな感じなんだろう。いかにもな紳士か妖艶な貴婦人か、それとも厳ついおっさんか、はたまた年端のいかない幼女なのか……」
独り言を呟いていると、あっという間に目的地に着いていた。
東京湾を臨む港区芝浦港南地区。レインボーブリッジを目視できる湾岸部に、それは堂々とそびえ立っていた。
「これか」
全長百メートル以上はあろう十字架状のモニュメント。
たとえるなら巨人の剣。海外の前衛芸術家が制作したという触れ込みの荘厳なモニュメントは、港区のランドマークの一つに数えられている。
ここが真祖の居城らしい。
伊吹は不審者のように周囲をぐるぐると歩き回り、観察する。
「あ、ここが入り口か」
物理的にも巧妙に隠された扉には幾重幾層もの隠蔽術式と防護結界が張られており、魔的素養の低い一般人ではまず気付けない。事前情報がなければ、その道に通じる伊吹であっても見破れなかっただろう。
「失礼しまーす」
伊吹は葉月から託された呪符を取り出し、あっさりと封印を解除する。
そして、何の躊躇もなくモニュメント内部へと入る。
「真っ暗だ」
外観に窓らしきものはなかったが、それにしてもあまりにも深く濃い暗闇だと感じる。
「さて、どれどれ……」
伊吹は野獣のごとき視力を発揮し、それを見た。
暗闇の中心に置かれた棺。
あまりにも古典的な光景だが、噴き出す余裕はなかった。
理由は、棺の上に鎮座する独りの少女。
「……………………っ」
迷い込んだ一般人、とは一瞬も思わなかった。
見てくれは伊吹と同年代だが、ただそこに在るだけで全感覚を刺激され、思考力を根こそぎ奪われそうになる。
初めて見るが断言できる。事前情報がなくとも断定できる。
まだ何のコミュニケーションも取っていないのに、格の違いを思い知らされた。
これが真祖。
✖
「乱れている」
注目の第一声には痛恨の響きがあった。
「乱れている、そう思わないか?」
誰に対しての問いかけなのかわからず、伊吹は小動物のようにきょろきょろと辺りを見回してしまう。
「え? えっと、僕ですか?」
「貴様以外にいないだろう。馬鹿か。ああ、馬鹿だったな。真祖の寝床に何の躊躇も警戒もなくほいほいと入ってくるのだから、大馬鹿者以外の何者でもない」
「うぐ……」
いきなり痛い所を突かれ、伊吹は早速死を覚悟した。
相手は真祖。少しでも機嫌を損ねたら、瞬きの間に首を飛ばされる。
「だが、こんな大仰な封印を所有していながら、百年もの間ただ放置するしかなかった臆病者連中に比べれば、幾分かマシではある」
「お、お褒めに預かり光栄です」
「うむ。では、もっと近くに来い。門番でもあるまいし、いつまでも扉の前に突っ立っているな」
伊吹は言われるがまま真祖の元に歩み寄る。
そこでようやく少女の容貌を目の当たりにできた。
透き通るかのように白い肌。
黄金色の煌めきを湛えた瞳。
鮮やかな花弁を思わせる唇。
夜闇より濃い濡羽色の長髪。
この世のものとは思えない、全てにおいて超越した奇跡の造形である。
身体に纏っているのは薄汚れたボロ布だが、この少女と組み合わされれば、それすらも神代の芸術品に見える。
「まさか、ヴィクトリア・リード……!」
伊吹はその美貌には見覚えがあった。猟血官採用試験の教本に載った挿絵を穴が開くほどに見詰めた記憶がある。
「ほう、私を知っているのか?」
吸血輝。
聖なる怪物。
高機動災害。
悪夢に咲く薔薇。
孤高孤独の百鬼夜行。
数多の二つ名と共に語られる伝説の中の伝説。
真祖は世界から姿を消して久しいが、旧時代の遺物だからこそ抜群の知名度を誇る。特にヴィクトリア・リードと言えば、真祖の話題が出れば真っ先に名前を挙げられる筆頭である。
「この業界であなたを知らない人なんて、いないですよ」
「そいつは話が早くて助かる」
ヴィクトリアは棺から腰を上げ、伊吹に顔を寄せる。
「それで、どう思うのだ?」
「えっと、どう、とは?」
「昨今の風紀は乱れていると思わないか?」
「ああ」
「同じことを何度も言わせるな馬鹿」
「す、すいません」
風紀の乱れ。
経済、人種、領土、宗教、環境、科学、資源。
世界にはありとあらゆる問題が渦を巻き、澱んだ混沌を形成している。
だが、それらは所詮人間同士の醜い諍い。真祖が興味を示すとは思えない。
「風紀……風紀ですよね」
吸血鬼の興味の対象は吸血鬼。
ならば、猟血官である伊吹の得意分野である。
「風紀は、確かに、著しく乱れていると思います」
伊吹は普段から抱いていた不満を吐き出す。
「どうにも最近はバランスがおかしい。多少のお金さえ払えば誰でも彼でも簡単に吸血鬼になれるかのような風潮になりつつあって、吸血鬼に対する畏怖というかありがたみが薄れてる。こうなると、成り立ての勘違い野郎がくだらない事件を起こして、人間は吸血鬼を単なるバケモノとしか見れなくなる。これは由々しき問題だよ。本来、吸血鬼ってのはもっと誇り高い存在のはずなのに」
どうせ下手な嘘や欺瞞は即座に見抜かれるのだろう。ならばあえて言葉は選ばない。
「ふむ、貴様、中々見所があるな」
真祖の反応は思いの外好感触だった。
「確かに、だ。昔と比較するまでもなく、吸血鬼の数は多すぎる」
と、当然のように現状を語るヴィクトリア。
そんな彼女に伊吹はある疑問を抱く。
「あの、封印されてるのに、あなたは外の状況を把握してるんですか?」
だとしたら、その感知能力は想像の遥か上。
我知らず身構える伊吹だったが、次のヴィクトリアの返答は想像の斜め上。
「ああ、少し前からここに報告書が提出されるようになってな。図解やら統計グラフと共に、外の乱れた状況をとてもわかりやすく説明された。執筆者は、ハヅキ・ヒラサカと書いてあったな」
「あいつめ……」
吸血鬼の戦力導入のため、司令長官はすでに水面下で動いていたのだ。ここで伊吹は今回の任務の重要性を改めて認識する。
「表裏の区別なく吸血鬼が蔓延るこんな環境は、人間にとっても吸血鬼にとっても不健全が過ぎる。貴様の言う通り、バランスがおかしなことになっている。吸血鬼という種族は選び抜かれた精鋭のみで構成されるべきなのに――どうしてこうなった」
本気で頭を抱えるヴィクトリアを見て、事前に聞かされていた彼女の特性に偽りはないと伊吹は確信する。
曰く、誰よりも何よりも吸血鬼らしい吸血鬼。
誇り高いその在り方にとって、現代の吸血鬼事情の乱れは耐え難いものがある。
そして、それならば、血戦局との利害は大部分で一致しているはずだ。
「ニンニクを人ごみに投げれば吸血鬼が見つかる。今やそんな時代ですよ」
お近づきの印に伊吹は皮肉を投げかけてみると、鋭利な眼差しに射抜かれる。
「言うではないか。貴様、名を名乗ってみろ?」
「し、新宮伊吹です」
「シングー・イブキ、新宮伊吹か。日本人の名前はどれもこれも妙な響きがあるな」
そんな少年を見詰め、あからさまに値踏みをするヴィクトリア。
「それに、面構えも面白い。不倶戴天の真祖を前にしているというのに悪感情を欠片も垣間見せないヴァンパイアハンターなど、初めて会ったぞ」
ヴァンパイアハンター。その単語に、伊吹の肩がぴくりと揺れた。
「いや、僕は――」
すっとぼけようとする伊吹だったが、ヴィクトリアはあっさりと指摘する。
「隠しているつもりのようだが、銀と白木と火薬の匂いが全身にべったりと染みついているぞ」
出立前に本部で入念に洗浄したはずなのに、真祖の嗅覚は誤魔化せなかった。本当に嘘や欺瞞というものが通用しないらしい。
「それに、随分と身体を弄くっているな。それで一般人は無理がある。というかその改造具合からすると、人間かどうかも怪しいところだが……」
「僕は、人間だよ。吸血鬼好きの単なる人間」
「ふむ……貴様がそう主張するなら、そういうことで構わないぞ。まあ、私が活躍した時代にもその手の外法に走るハンターは、不完全も不完全ではあったが、いないわけでもなかったしな」
真祖は眼力もまた凄まじい。推理や考察といった小賢しい手順など踏むまでもなく、対象の『異常』を看破する。
だがそれでいて執拗に追及するような野暮な真似はしない。ここにもまた格の違いを見出せる。
「はあ、何もかもお見通しか……。こっちはどのタイミングで素性を打ち明けようか内心びくびくしてたのに……」
暗闇の中で、伊吹は思わず天井を仰ぐ。
「でも、本当に話は早いってわけだ」
気圧されるのは仕方ないにしても、気落ちしている場合ではない。
気を取り直し、伊吹は会談に臨む。
「血戦局、正式名称は対吸血鬼戦略執行局。この国における特務機関の一つなんだけど、僕はそこからの特使としてここに派遣された」
「はっ、特使ねえ……」
「ヴィクトリア・リード、あなたに是非聞いてもらいたい話がある」
交渉の主導権を握るため、伊吹は返答を待たずに続ける。
「単刀直入に言わせてもらう――我らが血戦局に加入して欲しい」
「いいぞ」
「吸血鬼が吸血鬼と敵対する人間の組織に入るなんて本来考えられないだろうけど、全吸血鬼の模範たる真祖として今この現状を認識しているのなら、一度だけでもいいから頭を悩ませてもらいたい」
「いいぞ」
「…………ん?」
「いいぞ」
「は…………?」
「だから、その血戦局とやらに加入してやると言っているのだ」
開始五秒で勧誘成功。
あまりにも、あまりにも拍子抜けの結果だった。話が早いにも程がある。生涯最高難度の任務として構えていた伊吹は、事態を容易に受け入れられない。
「あのさ、僕が言うのもなんだけど、もっとちゃんと話を聞いた方がいいと思うよ。ほら、最近は吸血鬼に関する詐欺とかすごく巧妙になってるって言うし……」
「貴様は詐欺師なのか?」
「違うけど……」
「ならば問題ない。これでも人を見る目には自信がある」
「ええー」
求めるだけの財貨。霊脈の集束地帯。処女の血百人分。
優遇措置・特別待遇を材料に交渉を進めようと目論んでいたのに、どれも匂わせることすらないまま終わってしまった。
「真祖としてこの風紀崩壊を見過ごすわけにはいかない。今すぐ改善に取り組まなくてはならない。そのためには基盤固めが急務。もうすでに完成した情報網があるのなら、利用できる位置を確保するのは当然のことだ。それに、百年ぶりの社会復帰となると、感覚のずれから生じる様々な不都合が予想される。有り体に言ってしまえば、独りで全ての用事を済ませるのは、面倒なのだ」
合理的でいてどこか物臭なヴィクトリアの姿勢に、肩の力が抜ける伊吹。
「そこら辺は割り切ってるんだ」
「意外か? 鼻持ちならない貴族っぽくて見るからにプライドが高そうなのに?」
「いや、まあ、もうちょっと駄々をこねてくれた方が、特使としてやり甲斐があったのにってのが本音だけど」
「葛藤がないと言ったら嘘になるが、それはお互い様だ。吸血鬼の中の吸血鬼である真祖を利用しようなど、貴様らとて苦渋の決断だったはずだ。それでも真の意味でのプライドを守るために、組織の歴史に泥を塗る覚悟をしたのだろう。手段としては確かに意地汚いが――決断は高潔だ。その手を取るだけの価値はある」
「…………」
実のところ血戦局は労働環境改善を第一として、そこまで立派な志はないのだが、ここでそれを言うのは野暮だろう。
「じゃあ、これからよろしく」
「ああ、こちらこそ」
人間と吸血鬼は握手を交わす。
肩透かしの感が否めない――そう思ったのは、あくまでこの一瞬だけ。
吸血鬼は、がっちりと握った手を離さない。
「えっと……」
困惑する伊吹に、ヴィクトリアは問う。
「ところで伊吹。貴様は先程、吸血鬼が好きだと言っていたな?」
「まあ、うん……」
――「僕は、人間だよ。吸血鬼好きの単なる人間」
確かに言っていた。別にお世辞などではなく、本心から口にした言葉だ。
これを、ヴィクトリアは無視できなかった。
「どれくらい好きなのだ?」
今度こそ、伊吹は戦慄した。空間を満たす暗闇が全てコールタールにでも変じたのかと錯覚する重圧が少年の総身にのしかかる。
彼女が彼氏に対して投げかける、くだらない惚気ではない。
まるで存在そのものの真価を量るかのように、赤髪の少年を見詰める金色の双眸はただただ苛烈だった。
伊吹は思う。
ああ、ここは死線だ。
ここを間違えれば、自分は終わる。
伊吹は直感する。
だから、こう答えた。
「何よりも」
飾り気を排した一言に全ての感情を込め、誰よりも自信満々に断言する。
真祖にならこれだけで伝わるはず。
そして実際、想定を超えた成果につながる。
「ふふん、そうかそうか」
ヴィクトリアは大いに気を良くしていた。
そして何やら得心したように頷く。
「よし、合格だ。日本人とはとりわけ几帳面な人種らしいしな、うってつけではある」
「えーっと、何が……」
「喜べ伊吹。貴様をこのヴィクトリア・リードの世話係に任命してやる」
「はい?」
「独りで用事を済ませるのは面倒だと言っただろ。故に、露払いやら道具持ちなどの細々とした雑事は他に任せたい。そこまで吸血鬼が好きだと言うなら、むしろ自ら申し出るべき役職だと思うが?」
要はパシリになれと、ヴィクトリアはそう言っている。
何とも勝手な話もあったものだが、それはある種の監視役も兼ねられる以上、きっと誰かがやらねばならない仕事。
「――うん、引き受けた」
深く考えるよりも先に、伊吹は応じた。
その返事を聞き、やっと握った手を離すヴィクトリア。
しかし一息入れる暇はない。真祖の世話係とはどれだけ過酷なのか、伊吹はすぐさま思い知ることになる。
「では早速、記念すべき最初の任務を授けよう」
そう言うとヴィクトリアはその身に絡みついていたボロ布を剥ぎ取って――一糸纏わぬ裸身となった。
「でええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」
乳、尻、太股……その他諸々。
夜目の利く伊吹は、少女の全てを網膜にばっちりと焼きつけてしまった。
「な、なななな、何で、何なんですか、あなたは一体何をしたいんだ!?」
慌てふためく伊吹を余所に、真祖の少女はあくまで尊大に言い放つ。
「衣装を調達してこい。兎にも角にもまずはそれからだ」
✖
「時代が変わればファッションも変わるのは当然のことだが、まさかここまで変化を遂げているとは。真祖も驚きを禁じ得ない」
伊吹が調達してきたいくつかの衣装の中からヴィクトリアが選んだのは、何とセーラー服だった。
水兵が着る軍服ではなく、日本の女学生が着るあれである。
上下黒一色。赤色のリボンタイが結ばれた少々古風な装いではあるものの、特別変わった箇所はない。ちなみに靴も下着も至って普通。
「どうだ、様になっているだろう?」
ヴィクトリアはその場で早速袖を通すと、見せつけるようにくるりと一回転する。
「え、あ、ああ、うん、すごく似合ってます」
高校生である伊吹にとっては恐ろしく見慣れた格好のはずなのに、何も知らない素人のようにどぎまぎとしてしまう。
「材質も品質も申し分ない。良くやった伊吹。褒めて遣わす」
「あ、はい、ありがとうございます、ヴィクトリア、様」
「眷属でもないのだから、様は止せ。別に呼び捨てで構わないぞ」
「ヴィクトリア……」
「それと敬語も止せ。上辺だけの敬意など、トラウマものの虫酸が走る」
「わかりまし、あ、いや、わかったよ」
「そう。それでいい」
ウィンクを一つ。
きっとヴィクトリアは特に意識してないのだろうが、言動の一つ一つに凄まじい強制力がある。まるで呪いだ。もう伊吹は彼女から目を離せない。
実際、目を離してはいけない。
「よし、衣装も供回りも無事に用意できた。これでようやく活動を始められる」
言うや否やヴィクトリアは棺から飛び降り、一直線に出口へと向かう。
「さあ、ついて来い伊吹。乱れに乱れた風紀を正しに行くぞ!」
扉は開け放たれ、ついに真祖が世界に解き放たれる。
「ちょ、どこへ?」
「決まっているだろう。この街の乱れの中心、アグレル・ファミリーのところだ」
「はあ!?」
「誤魔化しても無駄だぞ。この界隈についての情報も報告書に書いてあった。ロッポンギとやらに奴らが居を構えているのはわかっている」
「ちょ、ちょっと待って!」
「待たない。『違反者』は即断即行で粛正する」
目的を持った吸血鬼というものはとてつもなく恐ろしい。つまらない常識など振り切り、立ちはだかる障害の全てを打ち破り、自らが傷つくことさえ欠片も厭わない。
たかが人間一人にその信念を止めることはまず不可能だ。
ならばせめて、成り行きを見届ける必要がある。
「やれることはやっておくか……」
そして、曲がりなりにも対吸血鬼を謳う機関に所属しているからには、吸血鬼の魔手から人々の安全を守らなくてはならない。
「――あ、もしもし葉月。うん、そう、この通りまだ生きてるよ」
伊吹は携帯端末を取り出し、本部にいる上司に無理難題を要請する。
「港区全域に避難指示を。下手すれば今夜で街一つが滅ぶかも」
✖
アグレル・ファミリー。
北欧に起源を持ち、十年ほど前に来日したとされる『怠惰派』の一団。
この吸血鬼たちは東京に根を下ろすと、持ち前の特殊能力を駆使して既存の勢力を蹴散らし、裏社会に一大勢力を築き上げた。『吸血鬼の春』以降は積極的に人間社会に接近し、政財界の人間を何人も取り込んでいると聞く。
輝かしい功績の全てを主導したのは、ある一体の吸血鬼。
アルベルト・アグレル。
『冷血漢』の異名を持つファミリーの首領。
彼の実力があまりにも抜きん出ていた。
『怠惰派』の重鎮として血戦局からは特級手配を受け、幾度も血で血を洗う抗争を繰り広げているが、ファミリーの権勢は衰え知らず。最近では人間たちを嘲笑うかのように、六本木のど真ん中に堂々と豪邸を建設した。
麻薬密輸、賭博操作、人身売買、計画暗殺、そして能力悪用。
およそ思いつく限りの悪事を働くその暴君ぶりから、伝説の真祖に例えられることすらある大吸血鬼。
彼と彼の眷属は、狂宴の時が永遠に続くと思っている。
勘違いも甚だしい。
反省も後悔もない無軌道な不埒者に、そろそろ思い知らせてやらなくては。
✖
「あれがアグレル・ファミリーの拠点だよ」
「昨今の建築様式とは、こんなことになってしまっているのか?」
「いやいや、あれは家主の趣味だって」
「悪趣味な……」
伊吹とヴィクトリアは路地裏に身を潜め、敵地を遠巻きに観察していた。
至る所に青色水晶による装飾が施されたその大豪邸は、周辺住民から氷の王宮と呼ばれている。
ある意味では『吸血鬼の春』以降の社会を象徴する建築物だ。
吸血鬼の住まいだというのに、人目を避けるつもりがまったくない。門前に配置された警備員たちとて、見る者が見れば一目で吸血鬼だとわかる。『幻術』による認識阻害の類もまったく施されておらず、所有者の自己顕示欲がそのまま反映されている。
「ここまで舐められておきながら、貴様ら血戦局は何故に奴らを野放しにしている?」
ヴィクトリアの疑問に、しかめ面の伊吹が答える。
「何か大物政治家がファミリーのバックについてるとかで、組織的なパワーゲームが複雑なんだってさ」
「利権が絡み合っているということか……気に食わないな」
光線でも出す勢いでヴィクトリアが豪邸を睨みつけていると、やがて門前が慌ただしくなる。
「うわっと、ゴッドファーザーのお出ましだ」
馬鹿みたいに長いリムジンが屋敷の前に止まるのを見て、伊吹は思わず声を上ずらせる。
警備員が恭しく車のドアを開けると、高級感漂うダブルスーツを着た初老の男が現れる。
彼こそが大吸血鬼アルベルト・アグレル。
東京の裏社会に君臨するアグレル・ファミリーの首領である。
「すごい、本物の『冷血漢』だ。本当にすごい。あんな大物初めて見た」
伊吹は有名吸血鬼を見て目を輝かせる――横に誰がいるのかも忘れて。
「ほう、初めて」
「あ」
「では、真祖たる私はあれ以下の小物ということか」
「いや、いやいやいや違う違う、誤解だよ! これはハリウッドスターを見かけた時のパパラッチみたいな俗物的反応というか。ほら、絶景とか奇跡みたいな光景を見たらそんな馬鹿みたいにはしゃがないでしょ。ヴィクトリアはまさにそれ。存在そのものが奇跡。いくら大物だろうと俗物とはそもそも立ってるステージが違うんだから!」
「馬鹿め。ちょっとした冗談にそこまで必死になるな」
そう言うヴィクトリアだが、牙を剥いた世にも恐ろしい表情をしている。
伊吹は必死に話を本筋に戻す。
「そ、それはそうとどうする? アルベルトの奴はもう屋敷の中に入っちゃったけど。『幻術』による魅了で警備員を懐柔してみる?」
「奴らに必要なのは罰だ。偽りとはいえ喜びの類は一片も与えてやらない」
「いやでも、ヴィクトリアは真祖なわけだから、最近はあんまり聞かないあの弱点を持ってるんじゃ?」
「どれのことだ?」
「『敷居の呪い』。招かれざる家には入れないってのが、古い吸血鬼のお約束でしょ」
「古いというのは聞き捨てならないが、確かにその通りだ。原初にして頂点である真祖は、あらゆる特殊能力だけではなく、あらゆる弱点をもその身に宿している」
霧に蝙蝠と肉体を自在に変化させられる吸血鬼にとって、不法侵入は朝飯前。
ただし、『敷居の呪い』の有無によってその自由度は大きく制限される。
ある種の制約に似たこの弱点を持つ場合、直接的なコミュニケーションを取って家の者の許可を得なくては、どんなにセキュリティの甘いボロ小屋であっても勝手に敷居を跨ぐことは許されないのだ。
「だったら、魅了を使わないのは条件的に厳しいって。相手はそこらのヤクザ以上に排他的な連中だよ。僕らみたいな馬の骨は、たとえ招待状を持っていたとしても門前払いされるのがオチだって」
「問題ない。所詮はチンピラだ。軽い口から許可の言葉を絞り出すなど、子猫の腹を撫でるよりも造作もない」
したり顔でそう言うと、ヴィクトリアは伊吹の手を取る。
「それに、今は貴様がいるしな」
そのまま豪邸の真ん前へと伊吹を連れ出す。
セーラー服と学ラン。
真夜中には相応しくない二人組の登場に、警備の吸血鬼たちは怪訝そうに眉をひそめた。
そして、そこでヴィクトリアが取った行動によって、伊吹はもう何度目かわからない衝撃に襲われる。
「ちゅう」
「っ!?」
ヴィクトリアは伊吹の顔を両手で抱き寄せ、唇を重ねた。
キス。しかも、互いの舌を絡めるディープキス。
思いがけず初めてを奪われた伊吹の脳は現実を現実と認識できず、ただされるがまま口内を蹂躙される。
「ぷはっ」
見せつけるようにたっぷりと絡み合ってから、二人はようやく離れた。
するとヴィクトリアの思惑通り、警備の吸血鬼たちが下卑た顔をしてわらわらと近寄ってきた。
「おいおい、随分見せつけてくれるじゃねえかお二人さん」
「うおっ、つーか女の方は滅茶苦茶可愛いじゃんかよ」
「そんな冴えない野郎なんざ捨てて、俺らの相手をしてくれよ」
「ちょっと待て。このレベルの女ならボスに献上した方がいいだろ」
「おお、そうだな。こいつはいい臨時収入になるぜ」
権力を笠に着る下衆に囲まれながら、ヴィクトリアはある言葉を待つ。
「おら、こっちに来い!」
言ってしまった。
招いてしまった。
次の瞬間――東京が揺れた。
爆心地の中心では警備員が弾け飛び、門は吹き飛び、粉塵が舞い散る瓦礫の山が出来上がった。
玄関は開放された。これなら誰でも自由に出入りができる。
敵地の敷居を跨ぐ前に、少女は伊吹の方を振り返る。
「一応言っておくが、誰にでもああいうことをするわけではないからな」
あくまで優雅に告げてから、ヴィクトリアは屋敷の中へと飛び込んだ。
✖
アグレル・ファミリーとはすなわちアルベルト・アグレルの眷属。
正規の構成員の総数は百体前後だが、大吸血鬼の血を分け与えられた超常の戦力は一個大隊にも匹敵する。
そんな集団に対して単独戦闘など常識的に考えれば論外、狂気の沙汰だ。
いくら何でも援護が必要だと思い、伊吹は急いでヴィクトリアを追いかけた。
だがしかし――
「喝!」
嵐。
まさしく吹き荒れる嵐そのものだった。
「なっていない、貴様らは、まったくもってなっていない!」
舞踏会でも開けそうな絢爛な大広間は、凄惨な処刑場へと変わり果てた。
突然の襲撃者に対してアグレル・ファミリーは怒りをもって迎え撃ったが、ヴィクトリアの憤りにはまったく太刀打ちできなかった。
「吸血鬼の面汚しめ!」
ストレート、アッパー、エルボー、ミドルキック、ストンピング、サマーソルト。
放たれる一撃はどれも大砲のごとき威力を発揮し、群がる吸血鬼を悉く薙ぎ払う。
吸血鬼が誇る特殊能力『怪力』。
腕力、筋力、膂力、身体能力の限界突破。
至極単純であるが故に、保有者の素質が如実に反映される。
「姿勢を正せ! 服装を正せ! 生活態度を正せ! 己の全てを見直し正せ!」
「やべえ! こいつやばすぎる!」
程なくして襲撃者との実力差を思い知らされたアグレル・ファミリーの吸血鬼たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「情けない。素行不良の上、根性なしでもあるとは……」
霧化も蝙蝠化もせずみっともなく背中を晒す同族を、ヴィクトリアはわざわざ追うことはしなかった。その場から一歩も動かず、ただ見詰める。
「ぎゃあ!」
すると、吸血鬼の一群はあらぬ方向へと吹き飛んだ。
ヴィクトリアが視線を向けた先にピンポイントで衝撃波のような何かが発生したのだ。
「ぎ、ぎぎ、ぎゃ、あぁあ――」
さらには、押さえ込まれた身体の一部がひとりでに捻れ、千切れ飛ぶ。
吸血鬼が誇る特殊能力『念動力』。
強烈な意思力を外界にまで波及させることで、手を触れずとも物理的干渉を可能とする。分類するなら騒霊現象、あるいは超能力の一種でもある。
遠くの物体を自分の下に引き寄せる、といった便利な扱いが基本だが、真祖が扱えばここまで凶悪になる。感覚的には『見えない手を無数に伸ばす』という表現が正しい。しかも、その『手』の一つ一つが本体と近しい『怪力』を帯びているのだから悪質極まりない。
「評価してやれる点が何一つない。私は貴様らのような愚図を吸血鬼とは認めない」
わずか十数分の間に、栄華を極めたアグレル・ファミリーは壊滅に追い込まれた。
援護なんてとんでもない。
アグレル・ファミリーの戦力が一個大隊に匹敵するのなら、真祖の戦力はイージス艦に相当する。そう評してもまったくおかしくない圧倒的な戦力差だった。
「お見事」
状況を傍観するしかなかった伊吹の心からの賞賛に、ヴィクトリアは素っ気なく返す。
「大したことはない。こいつらは確かにこの街を牛耳れるだけの能力を持っているようだが、それを操るこいつら自身の意識があまりにも低い」
「屍人形みたいな?」
「いいや、ものを考えられる分、なお始末が悪い」
ヴィクトリアは吐き捨てるように言った。
真祖の癇癪は国を滅ぼす。御伽噺もあながち間違ってはいないらしい。
金に物を言わせて建設した豪邸は、見るも無惨な有様に成り果てた。床も壁もあちこちが陥没し、天井には吹き抜けさながらに巨大な風穴が開いている。
「ちっ」
押し殺せない舌打ちが一つ。
これだけの破壊を成しておきながら、ヴィクトリアの憤りはまるで解消されていない。それどころか一段と増しているようだ。
激情を湛える金色の瞳を覗き、伊吹は思わず尋ねていた。
「ヴィクトリア。何が君をそこまで駆り立てるの?」
吸血鬼の胸の内など人間には計り知れないのが常だが、それにしてもヴィクトリアの激情はあからさまに常軌を逸している。その根源には何を秘めているのか。湧き上がる興味を禁じ得ない。
質問に対してヴィクトリアは一瞬だけ動きを止め、
「単純に、思い入れが凄まじいからだな」
きっぱりと告げる。
「思い入れ?」
「そうだ。私ほど吸血鬼を大事に思っている吸血鬼は、他にいないと断言できる」
そしてふと語り出す。
「何と言っても歴史が違う。振り返れば千年以上も昔、単なる『血を吸う鬼』でしかなかったあの頃は、屈辱の一色のみが私の世界を染め上げていた。名もなく、何者でもない、人あらざる弱小零細の身の上にはあらゆる嘲笑と侮蔑が送られ、地を這いずらぬ日など一日としてなかった。つまるところ私の出発点は、今現在のような強さとは程遠い、どうしようもない無力感だったわけだ」
言葉には嫌になるほどの実感が込められていた。決して単純などではない。真祖ならでは、吸血鬼の始まりを知る者ならではの深刻さが垣間見える。
「そんな苦境から脱し、成り上がるべく、時に犠牲を、時に代償を払い、百年、二百年、三百年と、気の遠くなる時をかけて力を蓄え、格を上げ、ようやく――『血を吸う鬼』を『吸血鬼』という確固たる形にしたのだ。いわゆる典型例という奴だな。世界に刻まれたその形は勿論のこと、それを創り上げるまでの道筋もまた私の誇り。この誇りを汚す輩は、何者であろうと許さない。ああ、許さないとも」
伊吹にしても耳が痛い話だった。
吸血鬼とは昨日今日に突然降って湧いたわけではなく、艱難辛苦の歴史的背景がある。そこを疎かにされ、好き勝手に暴れ回れたのでは、当事者としては我慢ならないものがあるのは当然。ともすれば、かつての無力感をも上回る屈辱かもしれない。
「だったら、雑魚を散らした程度じゃあ、全然物足りないでしょ?」
「ああ、あんなのは準備運動だ」
語り終えたヴィクトリアは伊吹の指摘を受け、呼吸を整える。
「本番はこれから――」
その時だった。
絶対零度の冷気が迸り、大広間は一瞬にして氷に閉ざされた。
標的から外されていた伊吹は間一髪で回避に成功したが、ヴィクトリアは完全に凍結され身動きを封じられてしまう。
「この私を前にしてその一呼吸、命取り以外の何物でもない」
崩壊した屋敷の奥から現れたのは、青色のダブルスーツを颯爽と着こなした初老の男。
アグレル・ファミリーの首領。『冷血漢』ことアルベルト・アグレルである。
「なあ、そうは思わないか?」
高位種の証である赤眼が伊吹に向けられる。
眼中にないものと思っていたので驚いたが、それでも伊吹は臆さずに言葉を返す。
「強者の余裕ってやつじゃないですかね」
「だとしたら尚更愚かだ。自分が誰の居城に踏み入ったのか、まるで理解できていないのだからな」
歩を進めるアルベルト。彼が通った後には氷の柱が立ち、景色が一変する。
『永久に閉ざす氷獄』。
属性が『屍』に偏った体温を持たない不死の肉体。そこに宿る瘴気を冷気へと変換し操るという、魔術とも呪術とも体系を異とする特殊能力。
吸血鬼の特殊能力としては歴史が浅いものの、強大にして明確なる超自然現象にはその他の特殊能力を食う可能性を有している。
「どんな強者が私の縄張りを荒しに来たのかと、柄にもなく慎重になっていたが――」
話しながらアルベルトは、氷像と化したヴィクトリアの前に立った。凍結されながらもカタカタと小刻みに震え、抵抗の素振りを見せている。
「今や真祖にも等しい私の敵ではなかったな」
そう言うとアルベルトは拳を握り、撃ち放つ。
当然のように保有していた『怪力』によって、ヴィクトリアの肉体は粉砕された。
「ふん、あっけない」
転がる頭部をぐしゃりと踏み潰し、アルベルトは鼻を鳴らす。
そして、再び伊吹に目を向ける。
「さて、ところで小僧。お前は血戦局の手の者だろう?」
「そう、ですけど」
「では取引だ。どういうつもりで鉄砲玉を送り込んだのかは知らないが、とりあえず落とし前はつけておこうじゃないか」
アルベルトは粉砕された真祖の片腕を拾い上げ、伊吹に投げ渡す。
「そいつを買え。床に散らばっているゴミをお前たちで買い取れ」
「はい?」
「手柄を売ってやる。アグレル・ファミリーに大打撃を与えた吸血鬼、これを退治したのはお前ら人間様ってことにしてやると言っているのだよ」
アルベルトは言葉を続ける。
「お前ら血戦局の影響力の低下は酷いものだ。ここらで一発、誰もが認める功績を打ち立てておかないと、いよいよ吸血鬼に社会を乗っ取られるぞ。そう考えればどうだ? 功績を金銭で買えるのなら、こんなお得な話はないだろう?」
まさしく現金な話に、伊吹は表情を固める。
「もしかして、この取引を持ちかけるためにファミリーを捨て駒にしたんですか?」
「血戦局に借りを作れるだけでなく、報酬まで手にできるのだ。それこそお得な話だろう? 眷属なんてものは適当に募集をかければ簡単に再建できるからな」
そう言って大吸血鬼は親指と人差し指をこすり合わせる。欧米における「お金」を意味するジェスチャーだ。
「支払いは部位によって要相談といったところだな。くくっ、こいつはまたどでかい儲け話が飛び込んできたものだ」
金。金銭。
アンデッドの属性が強いからといって、金の亡者とは。
まったく笑えない。初めてその姿を目にした時は興奮したものだが、伊吹は今、自分の中の熱が急速に冷めていくのを感じていた。
「これを機に吸血鬼の販売に本気で乗り出してみるのも有りだな」
悪質な皮算用を始めるアルベルトを、伊吹は冷ややかな目で見てしまう。
あれだけ凄まじい特殊能力を持っているというのに、金に執着するその様は俗な人間そのもの。伊吹が愛する『吸血鬼』はもっと格好良かったはずだ。
「さあ、さっさと本部に帰って、アルベルト・アグレルの要求をお偉方に伝えてやれ」
守銭奴が催促してくるが、伊吹は首を横に振る。
「いえ、残念ながらそれはできない相談ですね」
「あん?」
「先約のVIPがいるんで、余所様と勝手に取引をするわけにはいかないんだ」
「VIPだと?」
伊吹が親切にアルベルトの背後を指差す。
「誰――」
振り向く前に、アルベルトの側頭部に強烈なハイキックが炸裂した。
「ごっ、ぼあ!」
吹き飛び、壁に打ちつけられるアルベルト。
度を超えた衝撃で頭蓋骨は砕け、頚椎はへし折れるが、痛覚が遮断されたアンデッドの肉体のおかげで何とか意識までは飛ばさなかった。
「な、なぜお前が……!?」
自分を蹴り飛ばした狼藉者を見て、アルベルトは目を丸くする。
ハイキックの体勢のまま片足を高く掲げているのは、粉々に砕き売り捌いてやろうと思っていた鉄砲玉の少女――ヴィクトリア・リードだった。
「おめでたい奴だ。何も理解できていないようだな」
ヴィクトリアは足を戻すと、氷に閉ざされた世界にてこれでもかという冷笑を浮かべた。
「部下の影に隠れて必死に隙を窺う溝鼠に、この私が気付いていないと、まさか本気で思っていたのか?」
「じゃ、じゃあ、あれは!」
アルベルトは自らが砕いた肉片を確認する。
幻影ではなく、それは確かに床に散らばっていた。
だがその断面は血の赤ではなく、影のごとき黒だった。
「よし、だ」
ヴィクトリアから命令を受けると散らばる肉片は表面を覆う氷を割り、ひとりでに動き出す。伊吹の手にあった片腕もさながらロケットパンチのように飛び出す。
「結構グロいな……」
その陰惨な光景に、伊吹は思わず眉をひそめる。
集合した肉片は小学生の自由工作のような接着を繰り返し、やがて寸分違わぬヴィクトリアの美貌を再現する。
「な、あ、分身!?」
滅茶苦茶な展開にアルベルトが声を張り上げる。
「『使い魔』と『形態変化』による身代わりだ。使い古された下の下の戦法だというのに、まさかこうも見事に引っ掛かるとはな。ちなみにそこの人間は初めから気付いていたぞ」
そしてヴィクトリアが「戻れ」と命ずると、身代わりの肉体は見る間に盛り上がり、本来の姿である黒妖犬の巨体となる。
「それの目を通して現代における吸血鬼の指導者とはどんなものかと観察してみれば……。いやはや、一言で評するならば、アルベルト・アグレル――貴様はクソだな。吸血鬼としてのマナーも誇りも使命感もない。貴様は何のために吸血鬼をやっている?」
「ほざけ!」
冷気が迸るが、届くことはない。
「やばっ――」
ヴィクトリアの行動を察知した伊吹は緊急回避をし、辛うじて難を逃れる。
全方位に放出された『念動力』は冷気を弾くどころか、そのままアルベルトをも撥ね飛ばす。勢いはそれだけに留まらず、周囲の壁も床も天井も満遍なく打ち砕き、豪邸はこれにて完全に崩壊した。
「な、何だこの出鱈目な出力は……」
路上に転がるアルベルト。大吸血鬼として持て囃される自らを軽く凌駕するその『力』を受け、ようやく敵対者の正体に考えが巡る。
「ま、まさか、お前は、あ、いや、あなた様は……」
「今頃気付いても遅い」
畏敬の念を向けられてもヴィクトリアはただただ不愉快だった。
「さあ、貴様のようなクソにはもったいない最期をくれてやろう」
瞬間、黒妖犬がアルベルトに飛びかかった。
「おああああああああああああああああああああああああああああ――」
びっしりと牙が並んだ大顎に噛み砕かれる――かと思われたが、アルベルトの鼻先で黒妖犬は桜吹雪のように散り消えた。
「ふへ、へ…………」
慌てふためく初老というものは見るに耐えない。
ヴィクトリアは最大級の侮蔑をもって言う。
「喰われると思ったか? 馬鹿め。そんなあっけない終わりを与えてやるものか」
猶予ではない。
アルベルト・アグレルがこれより辿る運命はすでに決定している。
「何といっても、これは私にとって最初の風紀活動だ。風紀を乱せばどうなるか、風紀に逆らえばどんな目に合うのか、世界に私の風紀を示さなくてはならない」
あのまま犬の餌になっていた方が幸せだっただろう。
元々青白い『冷血漢』の肌が限界を超えて青褪める。
「ただの粛正ではない。これは、見せしめだ」
ヴィクトリアが厳然と告げる。
恐怖に駆られたアルベルトは渾身の力を振り絞り、蝙蝠の群れとなって夜の空へと逃げ出した。
ほぼ同時に、もしかしたらさらに早く、ヴィクトリアもまた飛翔した。
✖
摩天楼を飛び移りながら展開されるハイスピードスタイリッシュアクション。
二体の吸血鬼の戦いは、傍目にはそのように映ったかもしれない。
だが、実際は戦いにすらなっていないのだった。
「死ね!」
飛び乗ったビルを漏れなく氷漬けにしながら、アルベルトは『永久に閉ざす氷獄』を解き放つ。
「死ね!」
雪崩のような冷気の奔流。
無数の氷柱の突き上げ。
巨氷像による拳撃。
『永久に閉ざす氷獄』の攻撃方法は実に多彩だった。極限状態で高まった集中力が地力を底上げし、アルベルトは過去最高の威力と精度を発揮する。
「死ねやああああああああああああああああああああ――!」
そんな必死なアルベルトに対し、ヴィクトリアは何の攻撃も仕掛けなかった。
ただ追うのみ。
攻撃どころか防御もせず、『永久に閉ざす氷獄』を一身に受ける。
「どうした? もっと根性を見せろ。ボスの意地を見せてみろ」
吸血鬼が誇る特殊能力『不死身』。
アンデッド由来のアルベルトの『不死身』とは次元を異とする圧倒的な無限再生。
脳漿が飛び散ろうと、心臓が突き破られようと、脊椎がへし折られようと、傷が生じた瞬間から再生が始まり、次の瞬間にはもう元通り。いくら手を尽くしても手応えというものをまったく感じられない。
「まだだ。まだまだだ。もっと血眼になれ。もっともっと惨めな姿を世界に晒せ」
ヴィクトリアは止まらない。アルベルトをひたすら追い回す。
それはもはや、精神攻撃だった。
終わりが見えないようですぐそこに終わりのある過酷な鬼ごっこは、アルベルトに本当の焦燥というものを教える。
「うおおおおおおおおおああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
そして三十分と持たず、アルベルトの精神は決壊した。
リミッターが外れ、夜天を凍てつかせる極大の冷気が全身から放出される。
「洒落くさい」
正真正銘の全身全霊だったが、それすらもヴィクトリアは正面から食い破った。
「堕ちろ!」
鉄拳制裁が胸板に直撃。
肋骨が粉微塵に砕ける音を感じながら、アルベルトは墜落した。
「ぶはあっ!」
激しい水柱が立ち上る。
墜落先は水中、海、東京湾だった。
「ぐ、あ、あああ、が」
波に揺られ、苦痛に喘ぐ。
『流水』は吸血鬼の数ある弱点の一つであり、アルベルトの弱点にも該当する。
弱点である以上、アンデッドの痛覚無視は機能せず、肌が焼け爛れるかのような苦しみを味わわなくてはならない。
「凍れ!」
とはいえ、アルベルトは弱点に対する有効な対抗手段を持っている。放出した冷気によって氷の小島を浮かべて乗り、どうにか苦痛から脱する。
「はあ、はあ、はあ、あぁ……」
だがしかし、所詮は一瞬の延命措置。
空を見上げると、そこには回避不可能な絶望が待ち構えていた。
「良くぞ生き残った。こんな狭い海に殺されたのでは、百年の恋も冷めるというものだからな」
『念動力』によって浮遊し、高所から見下ろすヴィクトリア。
両者の位置関係はそのまま力関係を表していた。
「頼む、助け、助けてくれ……」
「良い顔だ。罰を受ける違反者に相応しく、どうしようもなく手遅れの反省と後悔に満ちている」
「か、金ならある。いくらでもある。いくらでもやる。だから、助けてくれえっ」
「無理だな。貴様の命運はここで尽きる」
アルベルトは偶然この東京湾に辿り着いたわけではない。ヴィクトリアによって徹底的に誘導され、意図的に追い詰められたのだ。
目と鼻の先にレインボーブリッジがある湾岸部。
そこには人知れず真祖を封印し続けていた最高性能の吸血鬼殺しがある。
「光栄に思え。一瞬とはいえ、貴様は私の本気を引き出すことに成功したのだ」
全長百メートル超。
巨人の剣にたとえられる十字架。
そんな巨大物体は今、ヴィクトリアの手の中にあった。
「久方ぶりの全力だから、明日には筋肉痛になっているかもしれないな」
ヴィクトリアあろうことか自らを封印していた十字架を根元から捩り取り、片手で持ち上げていた。『怪力』と『念動力』を高出力で併用すれば、ここまでの超常さえ実現できてしまう。
こんなバケモノに、誰が対抗できるというのか。
「慈悲を……どうか慈悲を!」
「祈るとは、この期に及んでもまるで人間のようなことをする。無駄だとわかっているだろう。私はあくまで神のごときであって決して神ではない。貴様が見上げるのはあくまでバケモノ、吸血鬼だ」
取りつく島もない。
すでに詰みなのだ。
「さて」
ヴィクトリアは振りかぶる。
「ひいっ……」
「さあ、礎となれ。貴様の粛正を皮切りに、吸血鬼の風紀は正される」
これからに向けての気合いと共に、十字架が投げ落とされる。
その凄まじさを表現しようと思ったら、ミサイルや隕石では足りない。それこそ神の裁きを想起させる威力だった。
「うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、あ――」
ぷちり。
甚大な衝撃波と轟音が席巻する中、そんな音が聞こえた気がした。
✖
深夜の東京は大騒ぎだった。
人々は凍結する摩天楼に氷河期の再来かと怯え、墜下する巨大な十字架に最後の審判を見た。
「前代未聞だ」
東京湾に突き立った新たな観光名所を眺めながら、伊吹はぽつりと呟いた。
真夜中にもかかわらず湾岸部にはすでに大勢の野次馬が集まっている。情報は瞬く間に拡散され、ネット上はそれこそ祭りの様相を呈していた。
「真祖の復活こそが、何よりも一番風紀を乱してると思うんだよなあ……」
これから彼女が巻き起こすだろうさらなる大事件を想像すると、か弱い人間としてはもう笑うしかなかった。
いや、人間に限った話ではない。
ここは吸血都市。野次馬の中には多くの吸血鬼が混ざっていた。
「……やっと来た」
真祖の到来に際し、彼らもまた笑っていた。