その瞬間、世界が停止した。
少年は気づかない。
彼が観測する世界において、その数十秒は存在しない。
それでも、『時の停止した世界』は確かに存在していた。その証拠に、今夜の標的である中年男性と向き合った途端、その男が血を吐いて倒れ伏したのだ。その鮮血を見て、少年は今夜の《取引》もまた、無事に終わったのだと確信する。
「――そうだ。誰も動けない世界で王として君臨したところで、お前個人の力には限度がある。お前一人じゃ、病気になった自分を治すことさえできない。時が止まってしまえば、路上で倒れているお前を病院まで運んでくれる人間もいないだろうぜ」
少年が嗜虐的な笑みを浮かべる。
平凡な容姿にもかかわらず、その歪んだ口元は悪魔のそれに見えた。
「貴様……っ! いったい、なに、を――!?」
「あん? べつに、フツーのことだよ。ここら一帯の空気に毒を混ぜた」
「なっ――――!?」
悪魔じみた所行に男が愕然とする。
対する少年は、笑みを深めるばかりだ。
「べつに、短時間なら害はない。今は逆に解毒剤を空気に混ぜて流している。これで一般住民に被害が出ることはないだろう。……ただし、すでに症状が悪化しているお前を除いて、だ」
「そんな……都合のいい毒が……っ!?」
「――買えるだろう? このカネなら」
少年がポケットに手を突っ込んでくちゃくちゃになった紙幣を一枚つまみ出す。
不気味な紙幣。真っ黒な紙に白いインクで神と悪魔が描かれている。
男は、己の敗北を悟った。
「く……そっ……!」
「いいか。テメーに残された選択肢は二つに一つだ。一つは、このまま死んで全てを失う。もう一つは、俺にお前が持ってる『リル』を――《魔石通貨》とそれにまつわる《資産》を全て譲り渡し、その対価として解毒剤を得ることだ」
「そん……な……!」
青い顔で震える男に、少年は《魔紙》製の契約書を突き出した。
「まっ、心配すんな。全部といっても、本当に全部じゃない。……一リルだ。一リルだけ残しておいてやる。一リルあれば、ゲームは続行できるだろう? それで次の決済日までに、当座のカネをなんとかするんだな」
「い……いや、だ……!」
「……あんなァ、おっさん」
倒れ伏した男を威圧するように少年がしゃがみ込む。
意図して作り出された低い声。
ヤクザなんて生易しいものじゃない。
男には、少年が悪魔に見えた。
「あんたはもう、詰んでんだ。このまま何もしなかったところで、毒が回って死ぬだけだ。そうすりゃあ、《魔石通貨》も《資産》も全部俺のモンになる。だが、契約書にサインさえすれば、命は助かり、『リル』だって一リルだけ残る。言わば、これは俺なりの慈悲なんだ。俺は別にあんたが死のうが生きようが、知ったこっちゃねぇ。チャンスを棒に振りてぇんなら、好きにしな。決断が遅い奴にロクな奴はいねぇ。もうじき右手も動かなくなるぜ」
少年に脅され、男が焦ったように右手を動かす。
今はまだ動く。だが、徐々に右手の感覚も薄くなってきていた。もうじき、ペンも持てなくなる。そうなれば、契約書にサインすることさえ叶わなくなるだろう。
「あ……あう……あううう……」
大の大人が涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらペンを持つ。
震えるペン先で自身の名前を契約書にサインした。……《魔紙》での契約は絶対だ。如何なる手段を用いても、逃れることは叶わない。
「……よし。それでいいんだよ。今日は十三日だったか。この前、決済が終わったばっかじゃねーか。来月の十日までに頑張ってカネを用意しな」
そう言って少年はカプセルを投げつけた。おそらく、それが解毒剤なのだろう。
「お、お前は……一体……」
立ち去って行く少年に声がかかる。
幽鬼のように夜の漆黒へ溶ける少年の姿。
闇の彼方から、歌うような声があった。
「俺の名は失井敗斗。ただの……敗者だよ」
世界の時間を停止する、最強の《資産家》を破った少年は、それでも敗者を名乗る。
ほどなくして、少年の姿は完全に闇へと消えた。
日付は、五月十三日。
奇しくも、金曜日だった。
「うーん……」
時間を停止させる《資産家》を破った翌日。
世界の王を倒した敗者は、今日も羽毛布団の中でぐずっていた。
失井敗斗の朝は遅い。
日はとっくに昇っていて、部屋の明るさから察するに、午前八時を過ぎようというところだろう。八時四〇分にチャイムが鳴る敗斗の高校に登校するには、控えめに言っても遅刻確定という時間帯だった。
仕方がない、と敗斗は思う。
昨日は遅かったのだ。時間停止さん(仮名)の住んでいる街がそもそも遠かったし、《魔石通貨》を流動させる《市場》が解放されるのがそもそも夜の一八時。加えて、一応あれでも強敵な資産家相手に緊張していたのだ。だから、翌日の朝、気持ちのよい羽毛布団の温もりに屈してしまっても仕方ない。……仕方ないよな。
そんな風に自分を納得させて寝返りを打つ敗斗。もはや、登校は諦めた。
目覚まし時計もかけていないのだから、あのお節介な大家が気まぐれでモーニングコールでもしない限り、少年の安眠を妨害する者はいないだろう――そう思っていたのだが。
……むにゅん。
と、敗斗の顔に控えめなクッションが押し当てられた。
枕……ではない。敗斗が使っている枕はこんなにスベスベで滑らかではないし、ミルク石けんのようないい匂いもしない。ならば、頭上に吊ってあった洗濯物がどれか落ちたのだろう。どれかはわからないが、このスベスベ感と柔らかさは安心するものがある。敗斗はこのまま微睡みに身を任せることを決めた。
「……ぁ、ん……」
が、そんなゆったりムードも一瞬で消し飛ぶ。
誰かの声がした。
敗斗が住んでいるアパートは築四〇年オーバーの木造で、鍵もオモチャのようなものだ。その気になれば誰だってこじ開けることができる。そんなボロ屋だからこそ、逆に泥棒にも狙われないと踏んでいたのだが……眼を付けられればこれほど侵入の容易い物件もない。
勝負は一瞬。
泥棒が《魔石通貨》の在り処を感づく前に、力づくでねじ伏せる。
敗斗はカッと両目を見開くと、力任せに目の前のクッションをつかみ上げた。
「ひうっ!? い、痛い、です……っ!」
パンツが喋った。
いや、どう見てもパンツだった。男物ではあり得ない極小の面積にきわどいライン。人生で初めて見る種類のパンツが喋っていた。
(いや待て。冷静になれ。パンツは喋らない。冷静に状況を分析するんだ。今、俺が掴んでいるのは……脚だ。もっと言えば、ふとももだ。肉付き・柔らかさ・肌の白さ加減、全てにおいて究極とも言えそうなふともも。それを掴んでいる。そして、目の前にはパンツ。つまり、その反対側……俺の股間辺りにはおそらく人間の顔が――)
と、そこまで考えた時だ。
敗斗の股間に強烈な頭突きが入った。
「おごぉっふっ!!?」
あまりの激痛にふとももを離し、布団の上で丸くなる敗斗。
そこにはもはや、時間停止さん(仮名)を倒した時の勇敢な面影はカケラもない。
「え、えっちなのはいけないと思いますっ!」
舌っ足らずな幼い声に仰ぎ見ると、髪を二つ結びにした少女が目の端っこに涙を浮かべて赤い顔をしていた。
だが――たとえどんな人間が相手でも、容赦はしない!
ここでカネを奪われるわけにはいかないのだ!
「くそがぁ〜〜〜っ!!!」
「え? え? きゃ、きゃぁ〜〜〜!?」
まだ痛む股間を無視して敗斗が少女に覆い被さる。
そのまま布団に押し倒し、少女の左手を右手で、少女の右手を左手でそれぞれ掴み、拘束することに成功。
形振り構っていられなかった。
両手を拘束してもなお、少女は足をバタつかせて抵抗する。
敗斗は短く舌打ちして、少女の腹へ馬乗りになる。完全なマウントポジション。これで、全ての抵抗力は奪った!
「や、やめてくださいっ!」
「静かにしろォっ!」
つい、いつもの癖で低いヤクザ声を作ってしまう。
それが恐かったのか、少女はますます大声で騒ぎ出した。
「ちょっとぉ! 朝からうるさいわよっ!」
騒ぎが伝わったのか、大家がクレームにやって来る。
(チャンスだ! まだ学校に行ってなかったのか、アイツ!)
起死回生のチャンスを受け、敗斗の顔に笑みが浮かんだ。
「ひっ――!」
それで事態の悪化を悟ったのか、少女はますます抵抗を強めていく。
布団の上で二人、ドタバタと暴れ回った。
(――構わねぇ。援軍さえ来れば、こっちのもんだ!)
敗斗は少女の抵抗の隙間を縫って、大声で扉の外へ叫んだ。
「ドロボーだっ!! 助けてくれ、カナミぃー!」
「泥棒ですって!? おんどりゃぁ! このカナミ様のアパートで窃盗を働くたぁ何事か! また入居者が減って空室が出るでしょうがぁーーー!!」
己の不動産のためなら人殺しも辞さない覚悟のカナミが、閻魔のような声を上げる。
直後、バタン!と大きな音を立てて扉が開いた。
敷居の外にはサラサラの髪をショートカットにした、快活そうな少女が立っている。服装はクリーム色のブレザー。一見すると、良家のお嬢様然とした容姿だが、キツく釣り上がった目が全てを台無しにしている。このアパートの大家、カナミ様であった。
(助かった! これで《資産》を奪われずに済む!)
一瞬、敗斗はそのように思ったのだが――
方や、布団の上で少女を押し倒し、馬乗りになる敗斗。(←カナミ視点)
方や、敗斗に押し倒され、涙ながらに必死の抵抗をする少女。(←カナミ視点)
その現場を目撃したカナミは、二秒で己の行動を決定した。
「この変態ロイヤルデストロイヤーーー!!!」
「俺じゃない――――っ!?」
後頭部に延髄蹴りを喰らった敗斗は、一瞬で意識を刈り取られた。
敗斗は思う。決断の遅い人間はド三流だと。
しかし、決断に慎重性を欠く人間もまた問題なのだと、敗斗は今日も賢くなった。
♢
もし『幸せ』が売られていたら、躊躇なく買うべきだと、敗斗は思う。
そして、この世の全てはカネで買える。
ゆえに敗斗は、一円でも多くのカネを稼ぎ、そのカネでひたすら『幸せ』を買い続ける。
それこそが現代社会を生きる人間の真理であり、正当な行動なのだと――彼は信じて疑わない。
他人は言う。「カネが全てではない。カネで買えないものもあるのだ」と。
曰く、それは愛であり、友情であり、家族であり、本当の幸せなのだと。
嘘をつくなと、敗斗はそんな奴らを糾弾したい。
そんなもんは負け犬の遠吠えだ。
その証拠に、この世でカネを持っている人間――『資産家』は、口が裂けてもそんなことは言わない。むしろ、正反対の意見を口にする。
カネはいいものだ、あって困るものではない、カネは自分を助けてくれる、カネを稼げない男はゴミ以下だ、云々。
カネを持っていないのにカネを語る人間と、カネを持っていてカネを語る人間、どちらが信用に足るか。もちろん、後者である。そしてそれは、敗斗の信念とも一致していた。
これが『円』や『ドル』を始めとする表世界の通貨だけなら、議論は永遠に平行線を辿っていただろう。だが生憎、『全てを買えるカネ』は存在していた。
いつから流通していたのか、誰にもわからない。
数年前とも言われているし、数千年前から存在していたとも言われている。
全てを買える究極のカネ――《魔石通貨》。
額さえ揃えれば、神の心臓さえも強制的に買付できると噂されるそれは、今日も世界の背後……その存在を知り、操る者の間でのみ、静かに流通している。
♢
意識が戻ったのは夕方だった。
狭い四畳半ほどのアパートには、控えめな窓からオレンジ色の西日が射し込んでいる。
学校は欠席してしまったが、《市場》が解放される夜まで眠りこけてなくてよかった、と敗斗は思った。
「あ、あのぉ〜……」
離れたところから遠慮がちに声がかかる。
声のした方を見ると、木製の安っぽいドアの前で縮こまっている少女がいた。
「その……頭、大丈夫ですか……?」
「……寝起き早々、喧嘩ふっかけてくるとはイイ度胸だな、お前」
「えぅっ!? ち、ちがっ!」
少女が慌てたようにぶんぶん両手を振る。
どうやら、敗斗を馬鹿にする発言ではなく、純粋に心配していたようだ。
カナミに蹴られたせいでズキズキと痛む頭の感触を確かめつつ、敗斗は改めて少女を観察した。なにかのコスプレのような派手な服装。二つ結びにされた長い髪が少女の動作に合わせて左右に揺れている。手足はすらっとしていて長いが、顔立ちはひどく幼い。思春期の少女だけが持つ魅力。大人へ成長する過程の美しさがあった。
「そして胸もない、っと」
「んにゃっ!?」
「なるほど……どうりでファーストコンタクトがふとももだったわけだ。あそこは、王道なら胸。その胸がないからこそ、ふとももで代用したわけだ。しかし……お前のふとももは中々に究極的なフォルムを……」
「え、えっちなのはいけないと思いますっ!」
少女が赤い顔でガードする。……どうも、ふとももを隠したがっているようだが、服装の形状的に、それは難しいだろう。そのエロに免疫のない仕草と容姿で、どうやら自分よりも年下のようだ、と敗斗は当たりをつけた。
「う、うう〜……。こんな人がわたしの新しいますたーだなんて……」
「マスター?」
「ごしゅじんさまぁ〜♡の方が良ければそう呼びますケド」
「待て。何の話だ?」
「何の話って……今日からわたしはあなたのものってことですケド。正確には昨日からですか?」
「昨日……?」
そこで敗斗は、昨日の記憶を探る。
昨夜。市場開放。『リル』を奪い合う《取引》。時間を停止する《資産》を持つ資産家。勝利。契約書。『お前の持つ全ての《資産》を――』
「まさかお前……あいつの《資産》だったのか……?」
「そうですケド」
「ば、馬鹿な……! 人間を資産になんて……!?」
「わかりやすく言うと、ドレイでしょうか?」
「ど、奴隷……!?」
「で、ですから……ますたーが望むのであれば、えっちなことをされても文句は……」
ガクガク。ブルブル。ガタガタ。
見ているこっちが可哀想になってくるほどに震え、顔を真っ赤にし、真っ白な手をどけてふとももを解放する少女。
(ごくり……)
知らず、敗斗は生唾を飲み込む。
自分よりも年下の少女を奴隷にして性的な行為を愉しむなど、非人道的な行為だと理解はしている。理解はしているものの……少女の白いふとももから目が離せない。敗斗は決して『ふとももフェチ』などではなかったが、そんな敗斗をも魅了するほど、少女のふとももは完璧だった。
「敗斗ー? 起きたのー?」
「――――っ!!?」
少女のふとももに見蕩れること数秒。意識をふとももに刈り取られ、大家であるカナミがドアの前まで近付く足音に気づけなかった。
冷たい汗。凍る心臓。
状況確認。半べそでふとももを見せつける少女一名。
それを悠々自適に布団から眺める敗者一名。
……確認するまでもなく、敗者は決定していた。
「その子、あんたに用があるっつーから置いといたんだけど、被害とかなかったー?」
気軽な調子でカナミがドアを開ける。その瞬間、敗斗はマッハで玄関口まで駆け、最高の営業スマイルでカナミの視界を遮り、そのタイムラグで少女に平静さを取り戻させた後、ドア口に顔を出したカナミへ少女を紹介した。
「紹介するよ、カナミ。今日から俺の部屋の専属メイドとして雇った人だ。ほら、名前。自己紹介して」
「えっと……めりあ、です」
よくわからないけど、とりあえず……といった感じで少女――メリアが、おずおずとお辞儀をする。
こうして、木造・築四〇年オーバーの四畳半ボロアパートな敗斗の部屋に、専属メイドができた。
「メイド雇ってもいいけど、エロいことすんの禁止! あと、泊めるのも基本禁止! もし泊めるなら、事前に大家に連絡の上、一拍一〇〇〇円の家賃を追加で払うこと! 破ったら出てけ!」
などと、大家様であるカナミ様のありがた〜い入居説明を受け、無事にメリアをメイドとして受け入れることに成功した。
「くっそぅ〜、カナミの奴め〜……。俺より年下のくせして、なんであんなに偉そうなんだ……!」
「年下なんですか?」
「……ああ。俺は一八で高三。あいつは一七で高二。学年までちゃんと違うんだぞ? それなのに、なんで俺があんなやつの尻に敷かれにゃならんのか……」
「……大家さんだから、じゃないでしょうか?」
「うぐぅ」
不動産オーナーとは、表社会においてもトップクラスのステータスを誇る人種だ。迂闊に逆らうわけにはいかない。
「ちなみに、わたしは一四歳です」
「一四……?」
確かに顔立ちだけで言えばそのくらいだろうが、すらっとした手足やしっかりくびれたウエスト、発育したふともも・脚・お尻辺りを見るに、一六〜一八歳くらいでも通用してしまいそうな気がした。カラダは大人、中身は子供。……なにそれ、エロい。
そんな妄想を徒然なるままに耽っていると、メリアが早速(?)、ほうきを持って掃除し始めた。どうやら、自分がメイドであるという自覚が生まれたらしい。
「いや、ちょい待ち」
「はい? なんですか? あ、もしかして掃除機の方が――」
「いや、俺は別にほうき派か掃除機派かの論争を起こすつもりはない。ついでに言えば、俺はクイックルワイパー派だ」
「ああ……。あれ、便利ですよね……。人類の叡智の結晶と言っても過言ではありません……」
「お、おう。そうだな」
テキトーな発言をしたのに、メリアが心酔するような顔でクイックルワイパーに思いを馳せる。どうやら、いらないスイッチを押してしまったようだ。敗斗にとってはテキトー発言だったので、もちろんこのボロアパートにクイックルワイパーなんて上等なものは置いてない。
「って、そうじゃなくて。なんで掃除なんか始めてんだ、って言いたいわけ」
「……? メイドの仕事なら掃除かと。……あ。ごはんの準備を先にした方がいいですか?」
「いや、そうじゃなくてだなぁ〜……」
どう言ったものかと敗斗は悩んだが、遠回しに言っても仕方ないと悟る。
少々残酷だが、ストレートに言わせてもらうことにしよう。
「メリア……はっきり言おう」
「なんですか、ますたー?」
「その『ご主人様』って呼ぶのやめろ。単刀直入に言うが、俺は《固定資産》を持たない」
「……? 固定資産……?」
「固定資産っつーのは……。そうだな……通常の世界でざっくりと言えば、会社で使用することを目的とした財産のことだ。土地、建物、工具類、著作権、商標権、ソフトウェアなんかがそれに当たる」
「はー……。そうですかー……」
「だが、俺が言っているのはもちろん、そんな普通の固定資産じゃない。俺が言っているのは……たとえば、こういうものだ」
そう言って敗斗は、寝床にしていた布団の下からガラスでできた五センチ四方の立方体を取り出した。昨夜、対戦相手から奪った《資産》だ。購入証明書と保証書によれば、それは《沈黙の檻》という名の《固定資産》らしい。
「お前も身売りされた人間なら、《魔石通貨》のことは知ってるな? 額さえ揃えれば、なんでも買える悪魔のカネだ。単位は『リル』。現在、このリルは、まともな方法で取引されていない。ほとんどが所持者である《資産家》を殺し、殺した人間がそのカネを受け継ぐ《遺産相続》によって流通している。そして……その遺産相続という名の殺し合いをスムーズに行うために使われるのが、この《固定資産》だ」
ガラスの立方体越しに暗い視線を送ると、メリアがごくり、と生唾を呑み込んだ。
「……固定資産は強力だ。と言うよりも、固定資産が無いと話にならない。現物のリルを札束で持っていても、殺されちまえば全額奪われる。だから通常、身を守るための固定資産は誰もが持ち歩いている」
「じゃ、じゃあ、どうしてますたーは固定資産を持たないんですか?」
「答えは単純。……税金がかかるからだ」
そう言って、敗斗は《沈黙の檻》をポイっとメリアに投げて渡した。
とんでもない機能のある《固定資産》を前に、メリアは「あ、あわわ……!」と慌てたようにお手玉し、最終的に取りこぼして床に落としてしまう。
最悪の事態に顔を青くし、ぎゅっと目を瞑ったまま耳を塞いだが、破砕音は響かない。ガラスの立方体は無事なまま、床に転がっていた。
「も、もう! なんてことするんですか、ますたー!」
「落ち着け。どうせこれくらいじゃ壊れない。《魔石通貨》で買った《資産》がこの程度で壊れてちゃ、シャレにならないだろう?」
「だからって……!」
むぅ〜とむくれるメリア。その仕草がちょっと面白くて、敗斗は口元を綻ばせる。
床に転がった《資産》を拾い上げつつ、保証書に再度目を落とした。
「この資産で、税金が年、八六〇万かかる」
「はっぴゃ……っ!?」
「一日換算で二万三五六一リルだな。俺の手元の現金は二〇〇万ちょいだから、約十日前後で破産する」
「あ、あわわわ! あぶぶ! ど、どうしましょう!?」
「簡単だ。手放せばいい」
まるでオモチャをあやすように指先で立方体を回しながら、敗斗が飄々と語る。
「《査定係》と呼ばれる連中に査定してもらい、売却する。当然、期末の決算時に『固定資産売却益』として利益計上され、法人税の対象となるが……固定資産税を丸々払うよりか百倍マシだ。ついでに現金が手に入って当座のカネを回す資金にもなる」
「はー。へー。そうなんですかー」
「そう。だから、《固定資産》なんて基本、邪魔なんだよ」
「…………ん?」
じっと視線を向ける敗斗とメリアの目線が交差する。
話を整理してみよう。
固定資産。所有してると税金がかかる。税金は高い。払えないと破産する。だから売却する。そして、メリアは固定資産。
つまり…………。
「ええっ!? じゃあわたし、売られちゃうってことですか!?」
「ま、そうなるな」
ムンクの叫びのような顔をして絶望するメリアに、あっさりと答える敗斗。
自分の考えが正確に伝わってよかった……とほっこり和んだのは敗斗だけで、売られる当人であるメリアは泣きながら敗斗に縋りついた。
「い〜〜や〜〜!! イヤですぅ〜〜〜! 捨てないでごしゅじんさまぁ〜〜〜!!!」
「ええいっ! 抱きつくな! 柔らかい! 気持ちいい! いい匂いがする!」
「じゃあこの家に置いてください〜〜〜っ!!!」
「 断 固 断 る ! 単純な固定資産でも、その税金は年間一〇〇万オーバーがザラなんだぞ!? それなのに、現代日本で許されていない人身売買なんて、いったいどれほど税金とられるか、わかったもんじゃないっ!!」
「人身売買じゃなくてメイド契約ですぅ〜〜〜!!」
「なら確認してみるか!? きっと巨額の税金が取られるに決まってる!」
腰に縋りつくメリアを引き摺ったまま、敗斗は部屋の中央まで移動する。
万年床にしている布団をよけ、小さなちゃぶ台もどかすと……中央にある半畳ほどの畳が顔を出す。それを慎重に端から一〇センチほど持ち上げた。
その下には、敗斗の全財産が隠してあった。
リルの紙幣と貨幣がおよそ二〇〇万。近日中に手に入れ、まだ売却していない固定資産がいくつか。そして、その固定資産にまつわる購入証明書と保証書。
どうせ売るのだからと乱雑に詰め込んでいた紙の束から、メリアの保証書を探す。
時間を止める資産のもの、空中に時間差で毒と解毒剤を散布する資産のもの、昨夜使った毒と解毒剤のもの……。他にも、それ以前に儲けた《資産》の証明書・保証書がいくつかあった。
しかし、いくら探してもメリアに該当する保証書は見つからなかった。
遺産相続の際、資産と購入証明書・保証書はセットで譲渡されるのが常である。主に売却する際に必要となるものなので、固定資産が無事で、書類だけ盗まれたということも考えづらい。
「……なぁ。お前、自分の購入証明書や保証書を持ってるか?」
「ふえ? なにも持ってないと思いますケド……」
メリアが念のため、といった様子で洋服のポケットを探る。……が、やはり何も所持していなかったようだ。
「……ちっ。昨日の奴が意図して渡さなかったのか? 確かに『全ての資産を渡す』ように契約書に書いたが、保証書まで渡せとは書かなかったしな……」
こうなると、心配なのは日割りの固定資産税だ。
通常、固定資産税は年額を三ヶ月に一回ずつ、四回に分けて納税するが、固定資産を売却する際には所持していた期間に相当する税金を支払うか、売却金額から差し引かれることが通例となっている。もしメリアの税金が高額だった場合、こうしている間にも貴重なカネを垂れ流していることになる。
敗斗はチラリと時計を確認する。
現時刻、一七時四七分五四秒。もうすく、市場開放だ。
「……しゃーない。証明書の再発行手数料も上乗せで差し引いてもらって売却するか」
「だから売られるのイヤですぅーーー!!!」
泣き叫ぶメリアを引き摺って外に出た。
てっきり、部屋から出ないものと思ったのだが、「メイドだから、ますたーの言うことはちゃんとききます……」とのことだった。
♢
暗闇に潜み、静かに流れる《魔石通貨》。
《取引》という呼び名で公然と行われる殺し合い。
その狂気のゲームは、一体どこで行われているのか。
答えは、どこででもである。
薄暗い路地裏。深夜のゲームセンター。人里離れた河原。双方のデメリットである『第三者の介入』さえ回避できれば、場所は問わない。強者ともなれば、《資産》を用いて意図的に他者から認識されない空間を作り、街中で堂々と殺戮を行う者すら存在する。
そんな地獄の宴が毎夜、一八時から午前零時までの六時間に開かれる。
敗斗の自宅から地下鉄と電車を乗り継ぐこと四〇分。二人は近隣で最も資産家たちが集まる社交場《BAR GOLD》に到着した。
黒い竜が象る鉄製の扉を開くと、いつも通り薄暗い店内に頼りないロウソクの炎が灯っていた。極限までボリュームを絞ったジャズも流れている。カウンターには、見るからに薄汚い男が立っていた。
「ひぃっ――!」
男の気持ち悪さにメリアが息を詰める。魔女のような鼻にマッドサイエンティストのようなぐちゃぐちゃの頭髪。一見しただけで不自然だとわかる染みだらけの肌。初めて見た時は、敗斗も吐きそうだった。
「ヒッヒッヒ。久しぶりだねぇ、失敗くん。今日は彼女連れかい? 可愛いねぇ」
男の視線を浴びてメリアが震え上がる。
己の容姿とそれが人に与える印象を正確に把握していながら、あえてそんな言動をとる男に、敗斗はため息をついた。
「だから俺を『失敗くん』と呼ぶのをやめろ。……メリア、心配するな。こいつは《査定係》だ。間違ってもお前に手を出したりしない。国家権力の犬だからな」
「相変わらず口が悪いねぇ。でも、魔界の犬と呼ばれるのはいいかなぁ。つまり、僕はケルベロスってわけだ」
「ほざけ、魔女男。ついでにもう一つ訂正しておいてやる。こいつは俺の彼女なんかじゃねぇ。歴とした《資産》だ」
「ほほぅ……。確かに、それだけ可愛い娘ならいくらででも売れそうだねぇ……」
《査定係》である魔女男の容赦ない視線にメリアが青くなって震える。これから自分がこの男に売られようとしているのだから、当然と言えば当然かもしれない。
敗斗は少しだけ気まずい思いをして、頬をかいた。
「……最近手に入れた《資産》だ。査定してくれ」
カウンターに手持ちの資産と保証書をぶちまけた。
次いで……少々気後れしたものの、メリアの腰をポンと押す。
「んで、こいつも頼む」
「おやおやぁ〜? てっきり失敗くんのしょうもない冗談だと思っていたんだけど、ほんとにその娘も売っちゃうの?」
「ま、ますたぁ〜〜〜……」
査定係の訝しむような視線とメリアの泣きそうな視線が集まる。
他人の感情というものは凶悪だ。気を抜くと、己の大事な信念すら揺るがせてしまう。
敗斗はため息をつくと共に目を閉じ、雑念と他人の感情を払いのけた。
「……こいつは元々、人身売買されていたらしい。昨日《取引》した男の《資産》に計上されていたんだ。いくらの金額で資産計上されていたのかは知らねーが、もしよかったら《政府》で引き取って、借金返済のチャンスをやってくれないか?」
最悪、俺の取り分はなくてもいい、と敗斗は付け加える。
それが最大限の譲歩だった。
というよりも、これ以上はどうしようもない。
仮に敗斗がメリアと一緒にいることを望んだとしても、その維持費……『固定資産税』が払えないのだから仕方ない。遅かれ早かれ、メリアは第三者の資産となるか、《国》に返還されるかのどちらかだろう。
ようやく現状と敗斗の意図を理解したのか、メリアもしょんぼりと項垂れて了承する。「査定には数分かかるからねぇ〜」と不気味に笑う《査定係》を無視して、敗斗は店内のソファへと腰を下ろした。
「よぉ、兄ちゃん。あの娘を売るのか?」
座って早々、頼んでもいないのに他の客が寄って来る。
物はともかく、人身売買をジョークだと受け取らない辺り、この男もリルを持つ《資産家》なのだろう。体型は痩せ形で背は高い。髪の白さから言って五〇歳は超えていると思われた。だが、服装はタイトなカーゴパンツに色褪せたGジャンと妙に若々しい。
「……まあな」
面倒さを全面に押し出して返答したのだが、男はむしろ、敗斗のその態度が気に入ったらしい。「飲むか?」とボトルの酒を差し出し、敗斗の返事も待たずに空きグラスへ注いでいく。中身は、随分と高そうなシャンパンだった。
「なあ、兄ちゃん。あんたは今、もしかしたら相当カネに困っているのかもしれない。でもな、自分の女を売るようになっちゃオシマイよ」
どうやら、盛大に勘違いをされているようだ。
ついでに、かなりの説教体質らしい。
敗斗はこの手の人間が大の苦手だった。このタイプの人間には会話というものがまるで成立せず、こちらの話を聞かない。にもかかわらず、自分の意見は絶対的正義だと妄信していて、それに反論すると突如として怒り出すのだ。
「……そうかもしれねぇな」
だから敗斗は、適当にそう答えておいた。
Gジャン男はその返事をいたく気に入ったようで何度も頷く。
「気に入ったぜ、兄ちゃん。こいつは俺の気持ちだ。受け取ってくれ」
黙ってグラスの酒を呑むフリをする敗斗の眼前に、Gジャン男が札束を差し出した。
黒い紙幣。悪魔と神の白い紋。どう見ても《魔石通貨》の一万リル紙幣だ。ピン札が帯で綴じられているところを見るに、丁度一〇〇万リルということか。
無表情の下で、敗斗の心臓が跳ねた。
「……いいのか?」
「おう! もってけ、ドロボー! 彼女、幸せにしてやれよ!」
信じられない幸運だ。いや、この男がただアホなだけなのか。
どうやら相当に酔っているらしい。もしかしたら、今夜の《取引》で大勝ちし、気が大きくなっているのかもしれない。いずれにせよ、ただのカモだ。
「ありがとうございます」
それだけは丁寧に言って、敗斗は一〇〇万リルの札束を内ポケットに仕舞った。
「いいってことよ! それじゃあな!」
「……よかったら、名前を」
上機嫌にフラフラ立ち去ろうとするGジャン男に声をかける。
「俺か? 俺は、シルバーウルフ! 銀狼さ!」
「銀狼……」
おそらく、コードネームの類だろう。
《魔石通貨》を取り扱う者の中には、本名を伏せる者も多い。
「銀狼……か」
立ち去っていくGジャン姿を見ながら、敗斗は呟く。
いいカモになるかもしれないな、と思った。
カネを儲けるには、カネを持っているアホから奪うのが一番効率的だ。
敗斗が今夜の行動指針を固めていると、査定終了を告げる声がかかった。
「一四三万リルだぁ!?」
カウンターで査定表を見た敗斗は、素っ頓狂な声を上げた。
「ヒッヒッヒ。これでもサービスしてあげたんだよぉ。お得意様の失敗くんだからね」
「失敗くんって呼ぶんじゃねぇ! しかも、どこがサービスなんだよ、ああん!?」
敗斗はカウンターに乗り出して魔女男に詰め寄る。査定表の数字が見えるように突き出すと、超至近距離から《査定係》を睨みつけた。
「毒と解毒剤が一万リル。空中に都合良く散布する機械が一〇万リル。その他の細々した資産がまとめて五万リル。ここまではいい。いや、ほんとは散布する機械の購入価格が八〇万リルだったとか、言いたいことはある。だが、まあいい。問題は、これだ!」
敗斗は査定表の一番上に記載された《沈黙する檻》の項目を強く指差した。
「なんで世界の時間を止めるほどの資産が一二七万リルなんだよ!? ああん!? 購入証明書によれば購入価格は七八〇〇万ってなってんぞ!? ボッタクんのも大概にしろ!」
怒りも露に査定表をカウンターに投げつける。
それでも魔女男は動じない。
男のくせに、魔女のように「ヒッヒッヒ」と笑うばかりだ。
「『投資収益率』が低すぎるんだよぉ。所持しているだけで年間八六〇万リルの税金がかかることはもとより、《取引》では意外と弱い固定資産だからねぇ。前情報さえあれば、君がやったみたいに総計一〇〇万程度の資産にも敗れてしまうしねぇ」
「つっても、時間を止めるなんて、すんげー資産じゃねぇか! 女子高生の更衣室を覗き放題だぜ!? 女風呂にも入り放題なんだぜ!? 排水溝の下に潜って通勤途中のOLから女子小学生まで幅広くパンツ見放題なんだぜ!? パンツ! パンツ!」
「君はどれだけパンツに情熱を持っているんだとか、女子小学生は色々アウトだろうとか、そもそも最後のは時間止めなくてよくない?とか、色々言いたいことはあるんだけどぉ、一番の問題はもうこれ、使えないってことなんだよねぇ」
「使え……ない……?」
「うん、そう。ほら、この中にある砂時計の砂……《魔力対症石》って言うんだけど、これがもう固まっちゃってるよねぇ。時間を止めるにはこの砂を流動させなきゃいけないんだけど、この砂の流動性を確保するためには《ミネルマルカ光石》を発火させた光線が必要なんだぁ。で、その光石が一カラットで九三〇万〜一〇〇〇万リルくらいかなぁ」
そこまで言われて、ようやく敗斗にも査定係の言い分が理解できてきた。
つまり、世界の時を停止させる資産を使うには、恐ろしいほどのランニングコストが必要なのだ。
「……ちなみに、その固定資産を楽に運用できる資産家は世界に何人くらいいる?」
「そうだねぇ。この費用を払えるとなると、世界でも上位三人くらいじゃないかなぁ」
となると、《査定係》を通さず、直接顧客に高値で販売するのも不可能に近い。
よしんば、素人に虚偽の説明で売りつけられたとしても、良くてクレーム裁判。《魔紙》による賠償責任の契約を結んでいれば、問答無用で多額の賠償金が支払われることになるだろう。
「……くっそ。今度こそ大儲けできたと思ったのに……!」
「ヒッヒッ。でも、失敗くんの目の付け処はいいセン行ってると思うよぉ。お金は持ってる人からもらうのが一番だからねぇ」
そこで敗斗は先ほどもらった一〇〇万リルを思い出した。
そうだ。こんなことで一々嘆いていても仕方ない。こうしている間にもカネは動き、利益は生まれ続けている。
あとは、その流れをどうやって自分のところに持ってくるか、だ。
「それでぇ? どうするかい? この砂時計だけ売るのやめとくぅ?」
「いや、いい。全部売る。どうせ持っていても税金の支払に困るだけだ。俺は基本、この《健康保険》にしかカネを払わない」
《健康保険》は、リルの《取引》をする資産家がほぼ例外無く所有する固定資産だ。
これさえ持っていれば、《市場》で何人か存在する闇医者の治療を三割負担の金額で受けることができる。
怪我をすることが前提の《取引》を行って、その度に表世界の医者にかかっていたんじゃ間に合わない。治せない傷もあるだろうし、そうでなくても頻繁に通院していれば、怪しまれるに決まっている。
「ヒッヒッヒ。そこそこリルを持っていて《健康保険》しか資産を持たない資産家なんて君ぐらいだろうさ。じゃあ、買い取っておくよ。……ああ、そうだ。あの娘は、どうするんだい?」
そう言われて思い出した。
敗斗は再び査定表に目を落とす。
メリアの項目は、高額なものから順に並ぶ査定表において、一番下に印字してあった。
――メイドの少女。査定額、0リル。
「まぁ、当然と言えば当然だねぇ。諸経費と税金だけでも大損が確定なんだぁ。ついでに言えば、最近売買が行われたのか、購入証明書と保証書も再発行までにかなり時間がかかるみたいでさぁ。それまでの収支は赤が出ること確定だから、タダで引き取るだけでも超良心的だと思うけどぉ」
赤、というのは赤字、つまり損失が出るということだ。
それはそうだろう。身元不明の少女。見たところ、大したスキルも経済力もない。側に置くだけでカネが飛んでいくマイナスの資産……《負債》。そんなモノにカネを払うなんて、馬鹿げている。
最後の挨拶をするつもりなのか、店の奥――スタッフルームの扉の向こうからメリアが出てきた。暗い顔をして俯いている。服の裾を両手でぎゅっと握りしめ、その手は小刻みに震えていた。
それなのに――敗斗の前まで来ると、メリアは無理矢理にニッコリと微笑んだ。
「ありがとうございました、ますたー。短い間でしたけど、楽しかったです」
震える手をカウンター越しに隠して。
もう主人でもなんでもない、ただの敗者に向けて。
他人のために、精一杯の笑顔を。
その時、敗斗の胸中にとても懐かしい感情が生まれた。
ずっと昔。知らない内に失っていた感情。
それは、なにかが『欲しい』という気持ちだった。
この世は、カネだ。カネ以上に大切なものなどありはしない。
そしてそのカネは、欲しいものを――『幸せ』を買うためにあるのだ。
「……そいつは売買中止だ。メリアは、連れて帰る」
気づけば、そんなことを言っていた。
「うーん……」
失井敗斗の朝は遅い。
今日も絶好調で羽毛布団との蜜月を愉しんでいた。
こんな生活サイクルなので学校の遅刻回数・欠席日数は相当なものになっているのだが、当の本人はそんなことを微塵も気にしていなかった。
学校とは所詮、将来働くための――カネを得るための『手段』を手に入れる場所なのである。裏を返せば、『カネを稼ぐ手段』さえ手に入れてしまえば、学校なんて用無しということである。もっと言えば、カネを稼ぐ邪魔になるようなら学校に行く必要すらないと敗斗は考えていた。
世間ではニートやヒキコモリをニュースで散々に叩く傾向にあるが、その中には自宅でアフィリエイトやプロブロガー、『せどり』等の転売をして、マイクロビジネスで生計を立てている者も多いと聞く。
そういう人間にとっては、低賃金でコキ使われる肉体労働を勧められるなど笑い話にすらならないし、むしろ汗水流して働くことでしかカネを稼げない旧世代の人間に比べ、遥かに進化した新人類であると――
「ますたー。朝ですよー。起きてくださーい」
ゆさゆさ。ゆさゆさ。
控えめに敗斗の身体が揺すられている。
敗斗は目覚まし時計をかけない。
なぜなら、朝の心地よい微睡みを邪魔されたくないからだ。
断っておくが、決して敗斗がダメ人間なのではない。先ほどの解説にもあったように、すでに『カネを稼ぐ手段』を手に入れた自分は、ただ漫然と意味のない授業を受け続ける同級生たちに比べて、格段に進化した人間であると――
「もう……どうしても起きないつもりなんですね。わかりました。それなら、こうです!」
次の瞬間、問答無用で羽毛布団を剥ぎ取られた。
夢と現の狭間で『ニート正当化理論』を提唱し続けていた敗斗も一気に夢から剥ぎ取られる。
「寒いわーーーーー!!!」
「きゃあっ!?」
地獄の底から響く閻魔のような声を上げて、敗斗が羽毛布団を奪い返す。次いで、地中深くに封印されたカタツムリのように丸くなって、再び温もりの中に潜り込んでいった。
「も、もう……。びっくりするじゃないですかー。ていうか、ますたー、今、起きましたよね?」
「起きてない、寝ている」
「……寝ている人は返事しないと思いますケド」
メリアがジト目を向けるが、敗斗の『秘技・羽毛布団バリアー』に阻まれ、どんな常識も届かない。これこそが長年のニート生活の末に編み出された究極奥義である。
「なんですか、その役に立たない奥義!」
「む。どうしてお前が俺の心の声を読めるんだ。まさか……《資産》としての能力?」
「普通に声に出てましたよー!」
「そうか……そういうことも、あるか……」
カタツムリになった甲斐あってか、無事に布団も温もりを取り戻した。
敗斗は呼吸を確保するために顔の半分だけ布団から出し、再び朝寝の体勢に入った。
メリアの視界の端に映った置き時計が示す時刻は午前八時一四分。今日も遅刻が確定してしまっている。
「も、もう、こうなったら……!」
メリアが近づいて来る気配を感じる。
まさか、辞書的な物を落下させる気か……!?と案じた敗斗は、寝返りを打ってメリアと反対側を向く。重量のある物体の自由落下衝撃によるダメージを回避したい気持ちはあったが、それ以上に羽毛布団の温もりと呼吸確保が優先された結果である。
しかし、メリアが繰り出した攻撃は予想の斜め上を行った。
「『ほ、ほらー。朝ー。朝だよー、ハイトくーん。朝ご飯食べて学校いくよー』」
どこか作り物めいた棒読みの台詞が聞こえた直後、敗斗の頬に湿り気のある柔らかい感触が。
「ふひゃぁあっ!?」
意図せず、女の子みたいな声が出てしまう。
予期しない謎の感触に驚いて飛び起き、壁の端まで後退る。
状況を理解しようと必死に視線を泳がすと……先ほどまで敗斗が寝ていた布団の傍でぺたんと女の子座りをしたメリアが、顔を真っ赤にして洋服の袖で口元を押さえている。
メリアの顔色。恥ずかしそうな態度。袖で隠している口元。
短パンを穿いた名探偵でなくても、感触の正体を知るには十分だった。
「お、おまっ……! 朝からなにっ! を……!」
「だ、だってぇ……! ますたーの本棚にあったこの雑誌に『男の子の理想の起こし方』だって……!」
メリアが手にしていた本の表紙には『激萌え☆女神ブック』というピンク色の文字で書かれたロゴと、不自然に目の大きいピンク髪の美少女がアニメ調の絵で描かれていた。
健全な男子高校生の自室にあってしかるべき、しかし女の子や親に見られると死にたくなるほど強烈な極秘資料である。……ちなみに、表紙の隅には『再燃!? 特集! 昨今のギャルゲーブーム!』という文字が踊っている。
「だーっ!! こんなもの、年頃の女の子が読むもんじゃありませんっ!! ていうか、勝手に家主の本棚をガサ入れすんのやめてもらえますかねぇ!」
「でも、ますたーの趣味や嗜好を知るのはメイドとして当然の義務ですし、この雑誌は特に何度も読み返した後が……」
「ぎゃぁーっ! やめて! これ以上俺を精神攻撃しないでっ!! つーかメリアさん、一四歳でしたよね!? そのページはオーバー・エイティーンな肌色天国が……っ!!」
その後、メリアから雑誌を取り上げたり、その隙にさらなる雑誌を取り出されたりと、朝から健康的な有酸素運動をした敗斗であった。
ちなみに、その格闘に二十分ほど時間を要したため、今日も敗斗の遅刻回数は無事に上乗せされた。
「念のために聞いておきたいんだが……お前、自分の立場わかってんのか?」
朝から年の近い女の子に所有しているエロ本が見つかるという通過儀礼を終えた敗斗。
メリアが用意したトーストと野菜スープを前に、朝食を食べる手を止めて真剣に尋ねた。
「……? はい、わかっています。わたしは今後、ますたーのメイドとして、ますたーの妄想と欲望を満たすため、立派な幼なじみ役も兼任し――」
「もう俺の幼なじみ属性もバレてんの!? ……いや、そういうことじゃない。こら、その本閉じろ」
朝食シーンでの幼馴染的イベントを模索するために開いていた雑誌を無理矢理に閉じさせる。己の行動に微塵も疑問を感じていないのか「えー? なんでですかー?」と不満そうなメリアを無視して、敗斗は続けた。
「昨日も説明したように、俺がお前を置いとく決心をしたのは。この札束をもらったからだ。数えてみたら、ちゃんと一〇〇万リルあった」
そういって敗斗は懐から札束を取り出した。昨夜、BARで酔っぱらっていたGジャン男――銀狼からタダでもらったものだ。
「はいっ! 世の中には親切な人がいるんですねー。わたし、この世界のことが急に愛しくなってきました!」
「世界を愛するとかスケールでけーな……。だが、ハッキリ言っておく。一〇〇万なんざゴミクズだ」
「へうっ!?」
あえてキツい言葉を選んでみたのだが、効果は抜群だったようだ。一〇〇万が手に入ったことで今後の生活を一切心配していなかったらしいメリアの食事をする手が止まり、左手からぽろりとトーストの欠片が皿に落ちた。
「……何度も言っているが、《魔石通貨》の税金は高ぇんだよ。人身売買ともなれば、その年間税額は一億リルくらい行くと見積もっている」
「いちおく…………っ!?」
「ああ。これを三六五日で割って、一日の税額が約二八万。つまり、お前を側に置いておく限り、一日換算で約三〇万くらいは稼がなきゃなんねーわけだ」
……三〇万て。
考えただけで頭痛が痛くなる、と敗斗はこめかみをグリグリした。『頭痛が痛い』という表現は誤用だが、『痛い』という字が二回出て来るくらい敗斗を悩ませているという意味で、的確な表現のような気もする。
女を囲うにはカネがかかると知っていたが、それにしても法外だろう、と。
「つまり、その札束の一〇〇万は三日半で溶ける。もしお前が《政府》に売られるのが嫌だというのなら、三日以内に次の税額を稼ぐしかねぇ」
「どどど、どうしましょう!? とりあえず、ティッシュ配りのバイトを……! あぶぶ!」
「そんなもんで間に合うか、アホ」
一日で三〇万ということは、二四で割って時給換算一万以上稼がなくてはならない。
肉体労働で稼ぐなら最低限の睡眠を確保して、必要な時給は約二万。しかも、通貨単位は『円』ではなく、『リル』だ。とてもじゃないが、まともな方法で働いていては間に合わない。
「お前に『正しいカネの稼ぎ方』を教えてやる。最初は俺の手伝いをしてカネを稼げ。んで、最終的には自分の食い扶持を自分で稼ぐんだ。残念だが、俺はフェミニストじゃない。タダで養ってもらえるなんて期待すんじゃねぇぞ?」
「わ、わかりました! ますたーの幼なじみになるため、しっかりお金の稼ぎ方をべんきょーします!」
「……頼むから、俺の幼なじみ属性を攻撃するのはその辺にして頂けませんか」
珍しく敗斗が土下座してお願いする。
弱みを握るというのは強力な手札だな、と改めて学習した。
♢
昨今、少子高齢化により子供の数は急激に減少しつつあるが、それでも保育園や小学校というものはなくならない。数が少なくなり、合併や閉鎖が行われても、都市の中心部には、最低一つくらい存在するものである。
敗斗が城を構えている地区は退職した老人たちがのんびりと暮らすような静かな街だが、そこからバスで一〇分も移動すれば小学校に中学校、高校に美容師の専門学校まである学科地域が存在していた。
そんな地区までバスで移動し、『まきなみ小学校』と書かれた校門を当然のように通過する敗斗。今は休憩時間なのか、元気いっぱいにグラウンドを走り回る小学生たちの間を平然とかき分け、玄関口へずんずん進んでいった。
「ま、ますたー……。大丈夫なんですか? 学校はどこも、部外者は立ち入り禁止なんじゃ……?」
「構わん。俺は、女子小学生には好かれる方だ」
「まさか、ロリコン……!?」
「お前はどんだけ俺を変態にすれば気が済むんだ」
メリアを軽く睨みつけつつ、玄関口を左折して隣の教室へと歩いていく。
朝顔の鉢植え。水飲み場。足洗い場。……そういえば、ここの小学校では暖かい間、素足で過ごすことが推奨されていたなと、どうでもいいことを思い出した。
心地よい日の光と爽やかな風を感じていると、まるで自分も小学生に戻ったようなノスタルジックな気分に包まれる。
ややあって、一階にある一年生の教室にさしかかった。
窓は全て解放されていて、白いレースのカーテンが気持ち良さそうに風に揺れている。
ほとんどの生徒がグラウンドでドッヂボールや鬼ごっこに夢中になる中、一人の女子小学生が頬杖をついて外の景色を眺めていた。
肩口で切り揃えられた髪を横で一房だけ結んでいて、くりくりした目が特徴的な女児。ぱっと見は愛らしい容姿をしているのに、なぜかだらしなく口を半開きにしていて、ヨダレが足れる寸前だった。
「まったく……小学生は最高だぜ……。うへへ……」
意味深な発言とだらしない表情に身の危険を感じ、ずざざっ!とメリアが距離をとる。
うん、その対応で正しいよ、と敗斗は仏のような生温かい目をした。
「よう、遊部。今日も絶好調だな」
「んあ? ああ、敗斗さんじゃないっスかー。今日も負け犬っぽい顔をして――どぶほぉぉおおお!?」
敗斗の声にこちらを振り返った遊部が唐突に吐血する。いや、吐血だけではない。むしろ出血の量で言えば鼻血の方が圧倒的に多く、顔中を鮮血に染めていた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
突然の事態にメリアが慌ててポケットからハンカチを取り出す。
止血をしようと遊部に近づくと……血の噴出する速度と量がさらに上がった。
「ごふぅっ!!!」
「あ、あわわ! ま、ますたぁー……どうすれば……?」
おろおろと慌てるメリアにため息をつく。
敗斗にしてみれば、こうなることは十分に予想の範囲内であった。
「とりあえず、遊部と距離をとってやれ。こうなったら、もう止まらん。出せるところまで出させるしかない」
「で、でも……」
心配そうにするメリアの側で、なおも遊部が出血を続ける。
数分もすると出せる血を出し尽くしたのか、僧侶のように神聖な微笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がった。
「驚かせてしまってすみません。もう大丈夫です。ヌけるものは全部ヌきましたから」
「ぬ、抜く……?」
「あらあら。本当に可愛らしい方ですね。もしや、あなたは敗斗さんの彼女さんですか? なんて羨まけしから――いえ、それならおめでたいことなんですけど」
途中、追加で鼻血を噴出させたが、すぐに元の丁寧口調に戻った。
どうやら、敗斗が定義づけるところの『僧侶モード』が発動したらしい。
「い、いえ。わたしはますたーのメイドで、めりあと言います」
「まあ。敗斗さんにメイドが? あらあら、まあまあ。敗斗さん? 一体どうやってそんな羨ましいシチュを手に入れたんですかぁーーーー!!」
僧侶のような微笑みは何処へ。僅か一分足らずで元の遊部が復活してしまった。
「簡単だ。カネで買った」
「うわーお。清々しい笑顔でなんてゲスいこと言うんスかね、この負け犬さんは! そこに痺れる憧れるゥ! よっ! 鬼畜王子!」
「散々な言われようだな……。まぁ色々と事情があるんだよ」
「ほっほーぅ。それは例えば、なんとか時間を停止する資産家を破ったものの、なぜかその男の資産の中に自身売買的な少女が含まれていて、本当なら税金も高いしさっさと売却したいなーと思ったけど、査定係に受け渡す直前で泣きそうだった少女にらしくもなく情が湧いてしまい、自分の信念に従ってカネで『幸せ』を買った――とか、ですか?」
遊部と呼ばれている女児がニヤニヤと八重歯を光らせる。
メリアはパチクリ、と驚いたように目をしばたかせていた。敗斗は面倒そうにガシガシと頭をかく。
「……わかってんなら、ワザとらしい演技するんじゃねーよ。どーせ《市場》の情報はお前に筒抜けなんだからよ」
「それでも、嫌味の一つも言いたくなるじゃないっスかぁー。こんな可愛い少女をカネで買うなんて、おぢさんの一生の夢っスよ!」
「今のお前は一応、女子小学生だけどな」
ふへ、ふへへ……と怪しく笑う遊部がスマホのカメラを構えてメリアににじり寄る。
本能のまま後退り、頃合いを見計らって走り出したメリアだったが、なぜか小学生女児の遊部に先回りされ、ばっちりと最高のポージングで写真を撮られてしまった。
「ま、ますたー! なんなんですか、この人!」
「遊部百合。名前の通り、百合趣味少女。情報屋。事情通。『姿を変える資産』と『記録を改竄する資産』のオーナー。それを使って保育園の園児から会社のOLさんまで幅広く美少女を蒐集することを生き甲斐とする。中身はおっさん」
「失礼っスね! こう見えても百合ちーは現役バリバリの女子高校生! ピチピチJKっスよ!」
「中身っつーのは、実際の体じゃなくて、性格とか魂のことだよ」
とツッコミを入れたのだが、敗斗のそんな声は届かない。当の本人は「やめてくださいー!」と涙目で逃げ回るメリアを追いかけ、「ここか〜? ここがええのんか〜? うへへへ」と危険な笑みを浮かべながらローアングルの写真を連写し続けていた。どう見ても、ただのエロオヤジである。
一通り遊部の記念撮影という名のセクハラが終わった辺りで、敗斗が本題を切り出す。
《魔石通貨》が流れる《市場》にまで詳しい情報屋。
そんな彼女に、昨日の時点で電話をしておいたのだ。
「で? 奴の情報は集まったのか?」
「あー、はいはい。ちゃんと集めてありますよー。……ん」
と言って、遊部が可愛らしい小さな手のひらをこちらに向ける。情報を渡す前にカネを寄越せ、ということなのだろう。ついでに言えば、支払う金額によってどこまで情報を提供するか向こうが決める、という意思表示でもある。
費用は倹約すべきだが、使うべきところではしっかりとカネを使うべきだ。敗斗は自分の持つ信条に従い、その小さなお手てに黒い紙幣の札束を一つ、ポンと置いた。
「ままま、ますたー! なんて金額を……!」
「アホか。情報は命だ。情報屋にはチップ渡してでも友好な関係を築いておくべきなんだよ」
「さっすが敗斗さん〜♪ 負け犬とはいえ、腐っても《資産家》っスね。んじゃあ、はい」
遊部は赤いランドセルに札束を仕舞う代わりに、中からA4の紙をダブルクリップで留めた報告書を取り出した。
用紙の一番上には男の写真が一枚添付されている。痩せ形で長身。色褪せたGジャンに白髪。確かに昨日の《銀狼》だった。
「今回は先方の『決算書』も手に入りましたー。ヤバいっスね。かなりの優良企業っスよ。三月の期末時点で総資産九〇〇〇万強。過去一〇年の帳簿を洗ったところ、不自然な数字もいくつか見つかりました。あからさまな利益調整っスねー。たぶん、本当の資産は一億超えてるっスよ」
「……マジか」
思わず、パラパラと報告書をめくって『貸借対照表』を確認する。確かに資産総額は九〇〇〇万を超えていた。しかも、そのほとんどが『純資産』である。
つまり、どこかから借金をしてきたり、なにかの返済用に確保されている資金や借り物の固定資産ではない。負債がほとんどなく、ただ資産だけが溢れている。カネのなる木だった。
「え、えーっと……。ますたー? お二人はなにを話しているのでしょうか……?」
メリアが控えめに手を挙げた。
先ほどから遊部と敗斗の間で取り交わされる会話に全くついて来れなかったようだ。
「メリアお姉さまは金融の知識をお持ちではないのですね。百合ちーがざっくりとご説明するっス」
「あ、はい。ありがとうございます。……お姉さま?」
「こほん。『決算書』というのは、簡単に言うと企業の成績表みたいなものです。資産と負債……つまり、お金や借金がどれだけあるか示す『貸借対照表』と、今期いくら儲かったのかを示す『損益計算書』で構成されます。で、敗斗さんが気にしていた銀狼さんの成績を見ますに、『どーもこいつ、相当儲かってやがるようだぜ、ケケケ』というのが我々の見解っス」
「わかりやすい説明をありがとう、遊部。要するに、だ。俺とメリアはこれから、このおっさんを殺してカネをガッポリ貰っちゃおう、ってワケ」
「こ、殺っ!?」
「あー。心配すんな。俺はガチの殺しはしないことにしている。極めて平和的な交渉でもって、手持ちの資産をちいっとばかしお裾分けしてもらうっつーだけだ」
「……ヤクザのようなやり口で、一リルを残し他全ての資産をまとめて強奪する極悪人がよく言うっスねー……。あ。でも、この人から資産を奪うのは無理っスよ?」
「あん? なんだ? 資産総額がデカいからリスクが高いっつー話か? んなもん、いつも通り前情報と下準備でカバーしてだなあ――」
「そうじゃないっス。この人、《上場》してないんスよ」
……《上場》。表の世界では自社株を一般投資家に公開することなどを指すが、《魔石通貨》の《市場》においては別の意味を持つ。リル市場で《非上場》ということは、遺産相続という名の殺し合いの《取引》に参加しないということだ。
上場の有無は四半期ごと、つまり三ヶ月おきに決定される。
決算月が三月のリル市場において、現在の五月で上場していないという事実は、イコールで、六月末まで《取引》に参加しないということを指す。この間、非上場の資産家相手に《取引》を行うことはできず、万が一、資産家を殺害したとしても、その資産家が保有する資産は全て《国》に還元されることとなる。
「マジかよ……。まさかアガリの人間だったとは……」
「……『アガリ』? ですか?」
「働かなくても生きていける人間のことですよ、お姉さま。三ヶ月間非上場を決定しても、保険料に固定資産税、住民税、源泉所得税、期末にはもちろん使った分の消費税や法人税が課税されるっス。つまり、《取引》……仕事をしなくても、お金は出てくんスよ」
「その支払を賄えるだけのカネや資産、収益がある人間っつーことよ。《資産家》には大きく分けて四つの種類が存在する。《労働者》、《個人事業主》、《ビジネスオーナー》、《投資家》の四つだ。で、後ろ二つは上手くやると、遊んで暮らせるようになる。……いずれにせよ、ゲームに参加してないんじゃどうしようもねぇ。くっそ……! 一〇〇万も払って空振りかよ……!」
「そうでもないっスよ」
そう言って遊部はちょいちょい、と報告書の束を指し示す。
「そのおっさんが頻繁にコンタクトをとる資産家が何人かいるっス。たぶん、そいつらを手足として動かして、アガった利益からロイヤリティを受け取ってるんスね。つまり――」
「Gジャン男はダメでも、その手下を狙えば十分デカい利益を狙える――っつーわけか!」
敗斗が俄然やる気を出し、報告書を捲る手を早める。
メリアだけが話に全くついて行けず、「あうう〜」と目をぐるぐるさせていた。
どうやら、遊部が通っている小学校(当然のように席があった。遊部の実年齢は一六歳のはずなのに)は、朝の大休憩だったようだ。敗斗たちが遊部とコンタクトをとってから一五分もするとチャイムが鳴り、小学生たちが一斉に校舎に入り出した。
休憩時間終了前に次のターゲットを決め、その情報を得るために追加で一〇〇万を渡そうとした敗斗だったが、メリアの青い顔を見た遊部にやんわりと遠慮されてしまった。
「敗斗さんは払いがイイですし、今日はメリアお姉さまという極上美少女が見れたのでサービスしとくっス。はい、これ。もうすぐ授業が始まるんで、さっさと帰ってください。端的に言って、邪魔っス」
まるで鬱陶しいハエを追い払うような仕草で追い出されてしまった。
遊部に言わせれば、授業を真剣に受ける女児や注意力散漫でついお外を見てしまう女児もこの世の宝らしい。その至宝を撮影する崇高な使命を邪魔するなと、以前にもマジギレされたことがある。
ちなみに、遊部が女子小学生を盗撮……もとい、記念撮影する行為や、《取引》に参加する資産家が遊部を訪ねて来ることなどは小学生の認識から外れているらしい。それ専用の《固定資産》も所有していて、運用しているとのことだ。敗斗が堂々と小学校に侵入したのも、その事実を知っているが故のことであった。
ちなみに、遊部本人は「今ここにいる愛くるしい天使たちが後々、極上の美少女に育つんス! そんな天使に悪影響を与える害悪を排除するのは当然のことっスよ!」などと宣っていた。「じゃあ、一番の害悪であるお前が退場しろよ」という台詞は多くの資産家が呑み込んでいた。それを言うことで情報屋との関係が険悪になる……という懸念ではなく、言っても無駄だと誰もが確信しているからだ。
「……よし。今夜のターゲットが決まったぞ。Gジャン男の手下その1、ロン毛野郎。正式名称は《グラサン》だ。」
グラサンて。
被ることが多そうな上、個性のないコードネームだなーと敗斗が半目になる。
重要なポジションの人間だからこそ、個性のない名前で索敵網から逃れている……という可能性もゼロではないものの、それなら『佐藤』か『鈴木』で事足りる。ロンゲ野郎の趣味が多少なりとも反映されていることは明らかだった。
「ロン毛野郎のポジションは『キャッシュ・ストック』だ。つまり、こいつがチームで運営する資産の内、『現金』の大部分を管理・保有している。チーム経営の場合、一人の人間に資産を集中することはリスクでしかないから、こいつの資産内訳はほとんどキャッシュってわけだ。固定資産を最低限しか持たず、膨大なキャッシュを持つ阿呆。絶好のカモ。……ま、俺らにとっちゃ『お得意様』だな」
情報屋と密会した小学校から帰る道すがら、敗斗が手元の追加報告書を爪先で弾く。
頭の中ではもう、今夜の計画を描きつつあった。
「あ、あのぅ……ますたー……。ご機嫌のところ大変申し上げにくいのですが……ますたーは学校へ行かなくてよろしいのでしょうか……?」
「いい」
「へうっ!? で、ですけど! ますたーの将来のためにも――」
「むしろ将来のために、俺は学校に行かない!」
「謎理論で返されましたぁー!」
「謎ではない。至極当然な理論さ。……帰ったらお前にも教えてやるよ」
――ニート正当化理論を。
敗斗は自信満々に含み笑いを漏らしていたが、メリアは疑わし気なジト目を向けるばかりだ。
交差点の歩行者用信号が点滅して赤になった。
停車していた大型トラックが走り出す。二人は横断歩道の手前で立ち止まった。
「よし。今夜の行動指針は決定した。次は買い出しだな」
「あ。お買い物ですか? 今夜の晩ごはんは何にします?」
「……なに新妻気取ってんだ。買い出しっつったら、今夜の取引で使う《固定資産》に決まってんだろ」
「つ、妻じゃないです! メイドだって言ってるじゃないですかぁー!」
「もうー!」とほっぺを膨らませながら、メリアが頬を赤らめる。
敗斗の『妻』発言がよほど恥ずかしかったようだが、なんというか、まんざらでもなさそうだった。健全な男子高校生なら垂涎ものの極上シチュエーションだが、そこはカネの亡者・失井敗斗。今夜の計画に夢中でそんなラブコメイベントもガンスルーである。
車道の信号が黄色になり、赤に変わる。代わりに青になった歩行者用信号を確認し、鳥の鳴き声を模した電子音声をBGMにメリアが歩き出そうとすると、敗斗が片手でそれを制した。
「時間が惜しい。《タクシー》を使おう」
「タクシー? ですか?」
「……そういや、お前は《魔石通貨》を使うところ、初めて見るんだったな」
そう言いながら、敗斗が内ポケットを探る。
元から手元にあったのが二〇〇万少々。銀狼から一〇〇万もらって、固定資産の売却金額が一四三万。そこから遊部に情報料として一〇〇万支払ったから――残金は約三四三万リルか、と概算する。
左側の内ポケットには帯で綴じられた札束が二つ、右側の内ポケットにはバラで紙幣が詰めてあった。そのバラバラの方から適当に二〜三枚程度の紙幣を抜き出す。そして、メリアの手を握ると、神に命じるように……あるいは悪魔に懇願するように、宙空に向かって買付注文を出した。
「目的地は、《レンタルビデオショップ・ラビット》。現在地から目的地までの『距離』を買う」
瞬間。二人を中心とした景色がブレる。
まるで世界そのものにノイズが混じったかのように歪む視界。
初めての体験にメリアは一瞬、乗り物酔いのような気持ち悪さを覚えたが、そんな不快感もすぐに過ぎ去った。
そして、再び構成された世界は……先刻までとは打って変わっていた。
閉店したらしいガソリンスタンド。雑草だらけの道路。アスファルトがヒビ割れた駐車場。全く車が通らない信号機。ただただ広い空。視界の先に堂々と聳える緑の山々。そして……眼前に佇む古びたビデオショップ。
色褪せた看板にはオレンジ色の文字で『ラビット』と書いてあった。
「ふええっ!? 一体なにが……っ!?」
「よし。早速店に入るぞ」
「ままま、ますたー! こんなトンデモ現象を全力スルーしないでくださいっ! 一体なにが起こったんですか!?」
「……あー。えー。ほら、アレだよ。タクシーに乗ったんだよ」
「タクシーは車の形をしていますよねぇ!? そんな物体、一瞬たりとも見えませんでしたが!? それに、乗車から降車まで世界がブレる速度で走るタクシーなんて聞いたことありません!!」
「あーもう、めんどくせぇなー」
話の流れで把握してくれよ、と願う敗斗だったが、残念ながらメリアはそこまで勘の鋭い系女子ではない。むしろ、たとえ勘が鋭くてもちゃんと聞いちゃう系女子だった。
「これが《魔石通貨》の力だ。正当な額を用意して買付注文を出せば、即座に購入することができる。超常現象を起こすには莫大な金額が必要だから、中継として固定資産を買うのが常道だが、普通のカネで買えるものは安いので問題ない。その例が、《タクシー》な」
「た、タクシーって……今の瞬間移動がですか……?」
「移動にかかる時間をカネで買う。原理は普通のタクシーと同じだ。ただ、《魔石通貨》の購入は即時適用だから、時間の短縮具合はハンパないな。どうだ? 普通のカネを稼ぐのがバカらしくなっただろ?」
「ど、どうなんでしょうか……」
敗斗がカラカラ笑いながらビデオショップのドアを横に開く。その後ろに、おどおどした様子のメリアが続いた。あまりにも急激な変化に、この世界が信用できなくなったのかもしれない。
二人が入ったのは、まさに田舎のレンタルビデオショップ、という出で立ちだった。
大して広くもない店内に、所狭しとビデオが並んでいる。こんなご時世だというのに、DVDやCDの類いは全く無い。無駄に大きく、欠片も機能的でないビデオテープと、もはや、その存在すら知らない人の方が多そうなテープレコーダーのテープばかりが並んでいる。時代遅れどころか、時代の流れから隔離されたような店だった。
「らっしゃーせー」
レジには一人の若い男が立っている。年の頃はちょうど二十歳といったところ。赤いアロハシャツに金髪。そして、サングラスをかけていた。
「まさか……お前が《グラサン》……!?」
「!?」
敗斗が無駄に戦慄し、その様子に、ただでさえ不安気だったメリアがビクリと身体を撥ねさせる。レジのアロハ男……《グラサン》は、人懐っこい笑顔を引っ込め、スッ――とサングラスを中指で持ち上げた。
「如何にも。俺が、真の《グラサン》だ……っ!」
「ま、まさか……! ずっと俺のことを助けてくれていたお前が敵だったなんて!」
「……仕方なかったんだ。敗斗が初めて俺の店に来たあの日。あの時ほど、俺は運命の悪戯を嘆いたことはなかったよ……」
「くっ……! だが、俺はお前を倒す! 俺の信念に誓って!!」
「できるのか? 俺はずっと、お前の側にいた。お前の情を一身に受けるほどにな。お前はもう、俺のいない世界では生きていけないはずだ。そう。俺はお前の、世界でたった一人の友人、なのだから……」
「それでも……守りたい世界があるんだ――ッ!!!」
ダンッ、と敗斗が拳でカウンターを叩く。
ハラハラと状況を見守っていたメリアは緊張で泣きそうになっていた。
そこで、フッとサングラスの店員が表情を緩める。
「完璧だ……! 完璧な厨二設定だったぜ、敗斗! よし、今日もしっかりオマケしちゃる!」
「おー。助かるよ。でも、今日欲しいのは大した資産じゃねぇんだ。単純な麻酔銃を二丁ほどもらえねぇかな?」
「なんだよ、普通の麻酔銃でいいのか? それなら、一〇万――いや、さっきの楽しかったし、一万リルでいいぜ」
「マジかよ、サンキュー。助かるわー。またとっておきのノリを用意しておくぜ」
敗斗が懐から一万リル紙幣を取り出して支払いを済ませた。
引き換えに麻酔銃が二丁入った紙袋を受け取っているところで……ついにメリアのツッコミが限界に達する。
「って、さっきのはなんなんですかぁーっ!」
「あん? なにって、ノリだよ、ノリ。一応ちゃんと言っとくと、勿論こいつは今夜俺たちが相手をする《グラサン》じゃねぇ」
「いや、俺が真の《グラサン》だ!(キリッ)」
「ここは《個人商店》。リルの《取引》で使う中古の資産を横流しして利益を得ているんだ。ちなみにこの店員は、何よりも厨二設定を愛し、楽しいノリを提供すると値段をオマケしてくれる。本名は確か、可成乗男――」
「皇大蛇と申します。以後、お見知り置きを。お嬢さん」
「……だ、そうだ」
敗斗が苦笑とともにため息をつく。
「……ひょっとして、ますたーのお友達はヘンタイさんしかいないのでしょうか」
「聞こえてんぞ」
難聴系主人公を全否定する敗斗である。
「でも、ますたー。今夜の準備って、それだけなんですか?」
「ん? ああ。今日の相手にはこれだけあれば十分だ。ちょっと設定はイジるけど」
「おうおう、敗斗よう。また面白テクニックでミラクルに大物を倒すのか? 次の買い物も安くするから、聞かせてくれよぅー」
「……む。情報漏洩の可能性もあるから詳しくは言えないが……」
「ちょっとでいいって! せめて、どんな敵を相手にするのかくらい!」
ノリオがワクワク、といった感じで目をキラキラさせる。そのキラキラ具合といったら、暗いサングラス越しにもわかるほどの輝きだ。
本来なら貴重な情報を無闇に話したりしないのだが、ノリオの期待と次回購入時の割引、ついでにメリアへの説明も兼ねて、ざっくりとした説明だけしておくことにした。
「……今夜の相手が所有する《資産》は二つ。一つは、常時発動型の固定資産《雷閃》。これは、所有者に対して他者が『攻撃』した時、その直前に全く同種の『攻撃』を攻撃しようとした者に与えるという資産だ。一言で言うと、超強力なカウンターだな」
遊部の報告書にあったグラサンのページ。
そこにあった『所有 固定資産』の項目を思い出しながら敗斗が説明する。
「ええっ! そんなすごい資産を持ってる人なんですか!?」
「んで、もう一つが……」
「ますたー! わたしをスルーしないでください!」
ぷくっと頬を膨らませるメリアだが、目をキラキラさせて続きを促すノリオを見ると、途中で話を止められない敗斗であった。
……主に、次回の買い物割引が目的ではあるが。
「もう一つが、起動発動型の固定資産《王の箱庭》。これは起動後、所有者から半径一キロメートル以内に存在する人間に対して命令権が与えられる、という資産だ。要するに、範囲内の人間を操れるんだな。ちなみに、有効範囲は追加でカネを投資することにより拡大できるらしい」
「えええっ! そんなすごい資産も持ってる人なんですか!?」
「マジかよ、敗斗……。一応聞いとくぞ? そんな強敵相手に、お前が持つ資産は……?」
「麻酔銃……は、別に普通のカネで買えるものだし、《魔石通貨》に関わる資産という意味では、この《健康保険》だけだな」
「くっはー! すげーぜ、敗斗! 事実上、資産なしで強敵に挑むなんて!! ……でも、マジで大丈夫なんかよ、それ? 部外者の俺が言うのもなんだけど、全然勝ち目が見えねーぞ?」
「ああ、それなら大丈夫だ」
そこで敗斗は、ポン、とメリアの頭に手をやった。
「今夜の取引は、こいつも戦うからな」
「「ええーーーー!!!」」
ノリオだけではない。そんな話を全く聞いてなかったメリアも大声を上げて驚いた。
「ままま、ますたー! わたっ、わたしも戦うんですか!?」
「ああ、そうだぞ?」
「敗斗よぅ……。俺が言うのも何だけど、こんな可愛い嬢ちゃんが血で血を洗う戦いに参戦なんて、無理だと思うぜ……。いや、そりゃ確かに、小さくて可愛い魔法少女が大砲級の魔法を使って敵を一掃するアニメもあるにはあるけどよぅ……」
「そそそ、そうですよー! わたしなんて、ちょっと可愛いだけが取り柄の、ただの可愛い女の子なんですからぁー!」
「どさくさに紛れて『わたし可愛い』アピールするのをやめろ」
敗斗が死んだ魚のような目でツッコむ。
「最初に言ったろ。俺は女を囲って無駄金を浪費する趣味はない。自分の食い扶持ぐらい自分で稼げ、ってな」
「そ、そうですけどぉー……」
「それに、難しいことは要求しない。ただこの麻酔銃を持って、敵に向かってトリガーを引くだけの簡単なお仕事だ」
がさり、と敗斗が麻酔銃の入った紙袋を持ち上げる。
そこに凶器が入っていることを知っているメリアは、ブルブルと震えていた。
――どうでもいい、と敗斗は思う。正当な対価を払う以上、それに相応しい労働はしてもらう。そう。敗斗は完全なる男女平等主義者なのだ。
しかし、ここまでの話をしっかり聞いていたノリオは眉をひそめた。
「んー? でもよ、敗斗。仮にその嬢ちゃんが戦闘に参加しても、大して役には立たねぇんじゃねーのか? 麻酔銃を撃ってもカウンターで跳ね返されちまうだろうし、絶対命令権じゃ同じく操り人形になっちまうんじゃねーの?」
待ってましたとばかりに、敗斗がニヤニヤする。
そうなのだ。ノリオの言った通り、普通に考えれば攻略不可能な《資産》なのだ。だからこそ、大金を抱える《キャッシュ・ストック》の役回りに持たせたのだろうし、だからこそ、これまで誰も勝負をしかけようと思わなかった。
だが、この世に完璧な人間などいない。
そして、完璧な資産も存在しない。
「そればっかりは企業秘密だぜ、ノリオ。まぁ、期待してな。次来る時は、とっておきの厨二報告を持ってきてやるぜ」
敗斗が悪魔のような笑みを浮かべ、ノリオも目を輝かせる。
唯一、今夜に地獄が待っていることを理解したメリアだけが、青い顔で震えていた。