魔界最大の都市・ゼルグザリガ。多種多様な魔族が行き交うこの煉瓦の街は、今数百年に一度のイベントを前に活気づいていた。というのも、“七つの大罪”に準えた称号を持つ、《七罪魔》たちの中から魔王を決める大魔術儀式《王座戦争》(アグナローラ)の開催が迫っているのだ。
それ故に誰が魔王となるか賭ける者。何とか観戦できないかと考える者。戦いに巻き込まれないよう郊外に避難する者も現れるなど、街は盛大ににぎわっていた。
そんな市民の期待を一身に背負う《七罪魔》の面々は、皆一様に戦いの準備を進めていた——ある1名を除いては。
都市の外れに、曲がりくねった黒い木々の生える痩せた土地があった。その一角に、所々窓ガラスが割れ、蜘蛛の巣が張っている古びた不気味な洋館がひっそりと佇んでいた。
「外、出たくねぇなぁ」
その洋館の一室。寝室と思われるベッドの上に寝転んだ黒髪に三白眼の少年は、心底だるそうに呟いた。少年の名はラグナル。この少年こそが、《怠惰》(ピグリーティア)の称号を姓として与えられた《七罪魔》の一魔だった。
「トイレ、面倒くせぇなぁ。ってか、なんで俺が出向くんだよ。トイレが来いよ……」
ラグナルが、トイレに行くことすら厭うダメっぷりを見せつけていると、ノックの音が響いた。
「あいよ」
ラグナルが気の抜けた返事をすると、ドアノブがゆっくりと回転して扉が開いた。顔を覗かせたのは、栗色のロングヘアと巻角を生やした可愛らしい少女だった。
メイド服を着た少女はやや小柄かつ華奢、胸の大きさは、手から少し溢れる程度だった。
「ラグナル様〜、お手紙が……って、まだ寝てたんですか?」
もう昼もとうに過ぎたというのに、いまだベッドに寝転がるラグナルを見るなり、呆れた様子でメイドの少女、メリィは言った。
「ん〜、寝てはねぇよ」
その言葉にラグナルは、寝返りを打ちながら、良く言えばリラックス、悪く言えばだらしない声で返す。
「ベッドで横になって動かないことを寝ていると言うんですよ。まったく……もうすぐ《王座戦争》も始まるんですから、せめて少しくらい体を動かしたらどうですか? そんなふうにゴロゴロしてばっかりだと、すぐに負けちゃいますよ?」
そう言いながら、メリィはラグナルが寝ているベッドまで近づくと、何のためらいも無くベッドに腰かけた。
「大丈夫だ。俺はサボればサボるほど強くなって、動けば動くほど弱くなるからな。今は絶賛パワーアップ中ってわけだ」
「……じゃあ、今どのくらい強くなってるんです?」
「一撃で大地が沈むぜ」
適当な調子で眉唾なことを言う主にメリィは眉を八の字に歪ませた。
「あの、本当に大丈夫なんですか? 《王座戦争》で負けたら《礎》(ファウド)になっちゃうってこと、ちゃんと分かってます?」
「分かってるっての。《王座戦争》で敗北した《七罪魔》は、自身を死へと追いやった《七罪魔》に魂を取り込まれ、力の一部となる。取り込まれた魂を《礎》と呼ぶ。だろ?」
「そういう単語の意味的な話ではなくて……まさかとは思いますけど、面倒だからわざと負けて《礎》になっちゃおうとか考えてませんよね?」
「いくら面倒でも、さすがにそんなことは思ってねぇよ。死にたくねぇし。……でも、だからって魔王なんて面倒なもんにもなりたくねぇんだよなぁ。……あ、そう言やさっき手紙が来たって言ってたろ? それ、《王座戦争》中止のお知らせだったりしねぇか?」
「残念、これは《王座戦争》の開催式の招待状です」
「マ〜ジか……」
「というかラグナル様、《王座戦争》が中止になんてなったら一大事ですよ。魔界の住民が人の形をしているのは、魔王様を中心として組み上げられた《魔国術式》(モーグレム)のおかげなんですから。王座が空白になって、《魔国術式》が成立しなくなったら、今の生活はできなくなっちゃいます」
「そりゃあ、そうなんだけどよぉ……はぁ〜……まぁいいや、手紙読んでくれ」
「あ、はい」
メリィは封筒を開け手紙を取り出すと、要点を掻い摘んで読み上げることにした。
「えー、明日の九時半から《王座戦争》の開催式を行うので、遅れずに来るように……とのことです」
「明日!? 急すぎだろ、運営バカかよ」
「たぶん、《七罪魔》の任命式(レヴロリタ)の際に、「1か月前とかにもらっても、覚えてるわけねーだろ」とか言ってさぼったからじゃないですか?」
「だからってこれは極端すぎだろ! あぁヤダヤダ、本当に面倒くせぇ〜。一生寝てたい」
「そうしてさしあげたいんですが……あ、そうだ! 《王座戦争》に勝ったら、一緒にバカンスでもどうです? 羽を伸ばすんです! のんびりゴロゴロと! ね?」
「おー、悪くねぇな。また人間界でもでのんびり観光————……っそれだぁ!」
ラグナルは上体を起こすとベッドから立ち上がった。
「ふえっ!? ど、どれですか? そしてどこに?」
「トイレだ。お前はとにかく自分の荷物でもまとめとけ」
「へ? なんのために?」
「《王座戦争》とおさらばすんだよ」
「???」
自分の主が何をしようとしているのか分からず、メイドはトイレへと向かう背中を見ながら首を傾げるばかりだった。
「……今、何と言った?」
魔王城の謁見の間で、黒鉄の鎧に全身を包んだ魔王ジキィドが放ったその言葉には、脊髄を鷲掴みにするかのような冷たい怒気が濃密に含まれていた。
「ひっ……」
小太りな中年魔族、ダン・ティークは、恐怖で少し身体を震わせ小さく声を漏らした。
石造りの大広間は薄暗く、壁際の蝋燭以外の採光は、頭上に飾られた大きなステンドグラスのみだ。その下、部屋の中央に配された玉座に座るジキィドからは、圧倒的な威圧感が放たれている。一般的な下級魔族ではこの部屋に居る事すらできないだろう。
ビリビリと怒りのオーラを全身に感じながら、ダンは恐る恐る言葉を紡いだ。
「で、ですから陛下。我が主、レーネルガルト卿は詐欺師によって財産を奪われてしまったのです。税として納められる物など何も残っておりません。ど、どうかご慈悲をッ!」
魔王は無言でゆっくりと右手を上げる。ダンはそれを見て、集中せずとも大きな魔力が集まっていくことに気付いた。
ダンの全身から冷や汗が噴出す。
「へ、陛下? いったい何を」
「分からないのか?」
その一言でダンは、自分の運命を悟った————。
「ひ、ひぃい、ひゃああああ!」
極限の状態の中、ダンは必至に振り返り謁見の間の出口に向かって走りだした。足を縺れさせながらも走るダンの姿には悲壮感が漂っている。しかし、ジキィドはその手を止めることはなかった。
そして————。
ガッシャーン!
「きゃあああ————!」
「うおぉぉぉぉぉぉぉ! やっっっっべぇぇええええええ!!」
そんなシリアスムードとステンドグラスを豪快にぶち壊し、絶叫を響かせながら、何者かが謁見の間に突入してきた。
侵入者————ラグナルは、大量の荷物を包んだ風呂敷を背負ったメイドを抱きしめたまま、謁見の間の床に着地する。しかしかなりの勢いで突っ込んだらしく、必死に足でブレーキをかけるも、結局停止したのは着地点から五十メートルほど滑ったところだった。
「あわわわわ、あわわわわわわ……!」
不可抗力とは言え、ステンドグラスを破り、雰囲気を壊し、魔王の前に不躾に躍り出てしまうという不敬の三連撃を犯してしまったメリィは、思わず震えた声を出す。
「えぇっと……どうしてこうなった」
しかし、周囲の空気なんておかまいなしなラグナルから漏れた第一声はそれだった。
「それはこちらが聞かせてもらいたい所だな、ラグナル」
「あっ、お、お義父様。お久しぶりですね? お元気でした? えっと、こ、これには、海よりも深〜い事情があるんすよ。本当に深くってなんつったら良いか……と、とりあえず、右手に集めてらっしゃるその魔力を鎮めませんか? 怖くて話もできねぇっす」
突然の展開に驚いていたダンは、ジキィドの注意がラグナルたちへと向いている間に、これ幸いとそそくさと謁見の間から逃げ出した。
「……まぁ良い」
ジキィドは右手に集めていた魔力を、割れたステンドグラスに送ると、散らばっていた破片が浮かび上がり、そのまま元通りに修復されていく。
「ス、スゴイ……」
メリィは時間でも巻き戻すように治って行くステンドグラスを見て思わずそんな言葉をもらした。
「さてラグナルよ。何故こうなった? 先に言っておくが、虚言には罰を与える」
「……具体的にはどんな罰っすか?」
「背骨を引きずり出す」
ラグナルは顔を引きつらせ、その隣でメリィは「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた。
「人界に逃げようとした結果がこれです! 誠に申し訳ありませんでした!」
ラグナルは腰を折って深々と頭を下げた。メリィもラグナルに倣い頭を下げる。
「……お前のことだ。境界森林(ボーダーフォレスト)を越える為に飛んだのだろう?」
「はい。なんか、境界森林を越えたと思ったら何でだか魔王城に突っ込んでまして。ちょっと何言ってんのか分かんねぇと思うんですけど、俺にも何が起きたのやら……」
「……この魔界を覆う結界、世界隔壁(デッドエンド)についてはお前も知っているだろう? あれは《王座戦争》の開催に合わせ、閉じらるようになっている。例え魔族といえど通ることはできない」
「なるほどね。まぁ、無理だろうなとは思ってたが……」
謎が解けて納得した、という様子の主の服の裾をメイドが引っ張った。
「ラグナル様、分かってたのにこんなことしたんですか!?」
「やってみなくちゃ分からない。そんで、やらずに後悔よりやって後悔だ」
「カッコイイ台詞ですけど……分の悪い賭けに負けた後で使う言葉じゃないですよ〜!」
ジキィドから唸り声が響いた。
「何故《王座戦争》(アグナローラ)を拒む?」
「俺は、《礎》(ファウド)にも魔王にもなりたくないんですよ。白状すると《七罪魔》の肩書だって、税金で生活できる物くらいにしか思ってません。正直、魔界の為に命がけの戦いをするとか、アホらしくって……。ってか、お父様は良いんですか?」
「何がだ」
「だから、俺みたいなのじゃなくて、もっとこう、貴方みたいに燃えたぎるような、魔界愛に溢れた魔族こそ、参加するべきだってことですよ。それに俺、弱いですし。有っても無くても変わらない《礎》にしかならないと思いません?」
「お前がどう思っていようと関係ない。お前は《七罪魔》だ。実力は十分にある」
「ど〜〜〜しても、どうにもなりませんか?」
「ならん。と、言いたいところだが……不参加となる方法がないわけではない」
「マジですか!? じゃあそれで————」
「“不戦敗”という形で、だがな」
その瞬間、ジキィドから放ったれた殺気に、見えない凶器が全身に突きつけられたのかのような感覚に陥り、ラグナルは息を呑んだ。
「不戦敗という形で」とは、つまりここで殺すということだった。
メリィは恐怖で震えあがり、ラグナルの服を背後からぎゅっと掴んだ。それによってラグナルは心を持ち直す。
「へぇ、不戦敗ね……でもそんなことしたら、今度は次の魔王の《礎》が一個足りなくなるんじゃないですか? なら普通に不参加を認めるのと変わらないと思うんすけど」
「心配ない。魂を一時的に我が手に収めて置き、勝者に譲渡すれば良いのだ」
「意地でも俺を《王座戦争》から逃れさせない気ですか。……へッ! お義父様がその気なら、こっちにも考えがありますよ」
「ほう? 言ってみるがいい」
「俺の不参加を認めてくれないと…………俺は魔界の住民を、無差別に殺します」
「うぇえぇ〜〜〜〜っ!?」
少し声を裏返しながらメリィが驚きの声を上げた。
「な、ちょ、えぇ? ラグナル様?? なんで??」
「ふむ……人質か」
「それサイテーじゃないですか!?」
「バッカおまっ……自分の命は大切にしなきゃダメだろ!」
「だから、カッコイイけどこんな場面で使う言葉じゃないですよ〜〜!!」
「うるせぇ! 俺は弱ぇんだ! 何でもやらなきゃ生き残れねぇんだよ」
「で、でもだからって、クズすぎですぅ……」
「何とでも言え。さて、お義父様はどうします? 俺も一応《七罪魔》ですし、アンタが俺を殺し切るまでに、十万は軽く殺せます。民を生かすも殺すも、貴方次第ですよ?」
ジキィドは深くため息を吐いた。
「……お前はどうしても《王座戦争》に参加したくないようだな。仕方ない、参加したくなる理由を我が与えよう」
ラグナルの背後で岩の砕けるような音がしたのとほぼ同時にメリィから悲鳴が上がった。ラグナルが慌てて振り返ると、そこには突如床を突き破って出現した木の根に首を絞められ苦しそうにしているメリィの姿があった。
「メリィ!」
ラグナルは拳を握って木の根を殴ろうとした。しかしラグナルの拳が繰り出されるよりも先に、木の根は乱暴にメリィを解放した。ラグナルは慌てて手を止め、倒れ込むメリィを抱き留めると、後ろへと下がって、木の根と距離をとる。
「っ! けほ、けほ」
「大丈夫か!? って、おい、お前、首になんか付いてるぞ……?」
メリィの首には、いつのまにか紅玉が輝く、黒い木製の首輪が巻き付けられていた。
「へ?」
メリィは自分の首に手を伸ばす。
「え、アレ!? 何これ、私こんなの付けてなかったのに!」
ジキィドのくぐもった笑い声が響いた。
「そのメイドを随分気に入っているようなのでな……人質に取らせてもらった」
少しだけ愉快げに言いながら、ジキィドは片足を上げた。その足の裏からは木の根が生えており、床を突き破って生えていた木の根と繋がっていた。木の根は、床に戻るのに伴って、ジキィドの体の中へと戻っていく。
ラグナルはギリリと歯を食いしばり、拳を握りしめた後、ゆっくりと脱力した。大切なのは自身の怒りの感情ではない。メリィの命だ。
「それで? この首輪にはどんな仕掛けがあるんすか?」
ラグナルは怒りを鎮めながら、まず何よりもメリィの命がどういう形で握られてしまったのかを確認した。
「三つほど、爆ぜる条件が存在する」
「…………は、爆ぜる? これ、爆発、するんですか……?」
メリィの泣き出しそうな声にラグナルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「一つ目は、強引に外そうとすること。二つ目は、明日の開催式に貴様が欠席すること。そして三つ目は、《王座戦争》の開催期間中に、貴様が二日以上他の《七罪魔》と接触しないことだ」
「チッ……これで積極的な参加は不可避か。で? どうすれば外れんだよ」
「《王座戦争》の終了か、貴様の死だ。さて、ラグナルよ。大切なメイドを生かすも殺すもお前次第だ。後悔せぬ方を選べ」
ラグナルがメリィの顔を見ると、その瞳は涙ぐんでいた。
「あ、あの、私、ラグナル様に拾って貰ったから生きているわけで、私の命は既にラグナル様の物です! だ、だから、ラグナル様のためなら死ん————あ! いひゃい!」
メリィの両頬をつねって引っ張り、ラグナルは最後まで言わせなかった。
「そんな顔しながら言うんじゃねぇよ」
メイドから手を放し、少年は深呼吸して魔王を睨む。
「参加だ! 参加してやるよ」
ラグナルはジキィドを睨んだまま不安そうなメリィの頭を、安心しろとでも言うかのように撫でた。
「でも覚えとけ……俺は、絶対にお前の思い通りになんかならねぇからな!」
「好きにしろ。《王座戦争》に参加した時点で、お前の未来は王座に着くか《礎》となるかだ。お前がどちらになろうと、我はかまわん」
本当にどちらでも良いのだろう。ジキィドの言葉には何の感情も込められていなかった。ラグナルは軽く舌打ちをする。
「そうかよ、じゃあ本当に好きにさせてもらうぜ。まず手始めに、このまま魔王城に泊めてもらおうか。帰るの面倒くせぇし、寝坊して開催式に遅れたなんて馬鹿みてぇなことになりたくねぇ。確実に《王座戦争》に参加するためだし、問題ねぇよな? お義父様」
「構わん」
ジキィドが指を鳴らすと同時に、床に黒い染みのような物が瞬く間に広がって行く。そしてその中から、黒髪をオールバックにした執事らしき人物が姿を現した。
「お呼びですか」
「そこの者たちを客室へ送れ」
「畏まりました」
執事はそう言いながら一礼お辞儀をすると、再び広がった黒い染みのような物の中に沈んで行った。
「……おい。今のは何だったん、うおっ!」
「ひやぁ!」
すると、突如ラグナルの足が掴まれた。
足元を見ると、そこには、いつの間にか先ほどの黒い染みが広がっており、あのオールバックの執事の物だと思われる手が伸びていた。
ラグナルとメリィの身体はその手に引きずり込まれるようにして、黒い染みの中へと沈んで行く。
「ふえっ。ラ、ラグナル様ぁ……」
ホラー過ぎる展開に、メリィが助けを求めるような声を出すと、ラグナルは焦りながらジキィドを睨む。
「おい! なんかこれ、見た目ヤベェんだけど、大丈夫なんだろうな!?」
「案ずるな。少し……魚のような臭いがするだけだ」
「魚のような臭い!? なんで————うわっ、生臭ッ!」
ラグナルとメリィが鼻をつまむのはほぼ同時だった。
「はうぅ、く、口で息するのも嫌ですぅ……」
「耐えろ」
「いや耐えろじゃねぇよ! さっさと抜け出させろ!」
「だ、そうだ。ガルトル。客のオーダーに答えてやれ」
「畏まりました」
一気に黒い染みの中へと引きずり込まれラグナルとメリィは、キングサイズのベッドが置かれている客室へと放り出さる。
「のあっ!」「きゃっ!」
二人の身体は、ベッドのバネに軽く押し返されて少しだけ浮いた。
すると、黒い染みの広がった天井から先ほどの執事が顔を出す。
「では、何か御用がありましたらそちらのベルをお鳴らし下さい。すぐに使いの者が駆けつけますので。それでは、ごゆるりと……」
そう言うなり執事は黒い染みの中へと顔を沈めると、そのまま、何の変哲もない天井だけを残して跡形もなく消えた。魚のような臭いも、もうどこにも無い。
だがラグナルは、自分の体を嗅がずにはいられなかった。
「あークソッ! 洗って無い靴下の方がマシな臭いしやがって……あの臭い、体に着いたりしてねぇだろうなぁ?」
ラグナルがぶつくさと呟いているとメリィはラグナルの首の辺りに鼻を寄せた。
「くんくん。大丈夫です。ラグナル様の匂いしかしません」
「おいおい、何で俺の匂いとか分かるんだ? お前」
「大好きな匂いなので!」
メリィの笑顔は、それはもう、とても良い笑顔だった。
「へ、へぇ……」
「ていうかラグナル様、なんであんな事言ったんですか〜!」
「あ? あぁ、ありゃハッタリだ。マジで無差別に殺したりする分けねぇだろ」
「違いますよ! まぁ、それも衝撃でしたけど……《王座戦争》に参加するってことですよ。あんなに嫌がってたのに、私のために……魔王様に啖呵切ってまで……」
「どうせ現状、俺が死なない方法も他にねぇんだし、気にすんな」
ラグナルはベッドに倒れるように寝転がる。
「しっかし《王座戦争》か。《礎》は嫌だけど、生き残れても魔王になっちまうんだよなぁ。魔王になったら魔界の管理に追われる日々か……うわぁ、面倒くせぇ〜……」
メリィは溜息を吐いた。
「も〜、真剣になってくださいよ。ラグナル様の命が掛かってるんですよ? 他の六魔を倒して魔王になれば、魔界を好きなようにできるんですし、頑張りましょうよ!」
「魔王とか責任重すぎなんだよな。欲しいものもねぇし。やりたい事もねぇし」
「そんな無欲なのラグナル様だけですよ、本当」
「俺だけねぇ……」
ラグナルはそこまで言うと目を見開いて、勢いよく起き上がった。
「うわっ! どうしたんですか? 急に」
釣られるようにしてメリィも起き上がる。
「それだ!」
メリィには、ラグナルの瞳が珍しく輝いているように見えたが、理由が分からず首をかしげる。
「それ? もぅ、毎回なんなんですか! わかるように説明してください!」
「《王座戦争》を楽に切り抜ける方法だ。《七罪魔》の全員が、俺と同じでやる気が無けりゃ良いんだよ! 誰も何もしなけりゃ戦いにはならねぇ!」
「えぇ〜!? いや、それは、そうかもしれませんけど、どうやって————」
「そこは……説得だな」
「せ、説得って、そんなことできるんですか?」
「できるできないってか、なんとかするしかねぇだろ。まぁとにかく、今の《七罪魔》がどういうやつらか調べるのが先だけどな」
ラグナルは頭を掻きながらベッドの隣にあるサイドテーブルに置かれたベルを鳴らした。すると数秒の間も置かない内に扉が開かれ、緑髪で耳の尖ったメイドが顔を見せた。
「何かご用でしょうか?」
「あぁ、この城って図書館とかあるか?」
「有りますよ。ご案内いたしましょうか?」
「いや、図書館に行きたい訳じゃねぇ。最新版の『七魔録』、持って来て欲しいんだ」
『七魔録』とは、今代の《七罪魔》がその称号を与えられるまでが記された本である。本人が公開している経歴から、インタビューまで掲載されており手早く《七罪魔》について知ることが可能だ。
「畏まりました。少々お待ちください」
メイドがそう言って扉を閉めた瞬間、再び扉が開いた。
「ぜぇ、ぜぇ、はぁ……っ、こ、こちらが、最新版の、『七魔録』、です……」
「は、速いな」
「全力で、はぁ、はぁ、っ、はぁ、走ってぇ……っ、参り、ました、ので」
息も絶え絶えという様子で部屋に入って来たメイドはラグナルに本を手渡した。
「あ、あの、そんなに急いで来なくっても、良かったんですよ?」
「い、いえ、はぁ、お客様を、はぁ、お待たせする、わけにはっ、いきませんので……」
ラグナルとメリィは顔を見合わせ、緑髪のメイドに向き直る。
「そ、そうか……ありがとう。もう下がって良いぞ」
メイドは「また何か御用がありましたらお呼びください」と言って、去って行った。
「……紅茶も頼もうと思ってたけど、あれじゃ頼めな————」
バン! と音を立てて扉が開いた。
「お紅茶ですね!?」
扉を開いたのは、先ほど出て行ったばかりのメイドだった。どうやら扉越しに聞こえていたようだ。
「いや、良いって!」
「大丈夫です! すぐにお持ちいたします!!」
扉が閉まり、またもやすぐに扉が開く。
「ぜぇ、はぁ、オエェッ! か、は、はぁっ、はぁ、お、お持ち、しましたぁ!」
メイドは嘔吐きながら紅茶の乗った給仕ワゴンを部屋の中に押し入れる。
「お、お前……」
「つ、次は、何を、いたしま、しょうか!」
「……歩いて休憩室に行って、体力が回復するまでゆっくり休め」
「か、かしこまり、ました」
メイドはそう言うと部屋から出て扉を閉めた。
「とっても一生懸命な方でしたね……」
「何か、魔王城って変な召使が多いのかもしれねぇな」
ラグナルは、部屋に置かれていたソファに腰かける。メリィは給仕ワゴンをテーブルの傍まで動かすと、その上に紅茶とお茶請けを並べた。ラグナルは紅茶を一口飲むと、『七魔録』をメリィに渡した。
「よろしく。読むのが面倒くせぇ」
「はいはい。あ、懐かしいですね〜、これ。ラグナル様が、インタビューめんどくさがって、私に押し付けた取材も載ってます」
「嫌味か」
「違いますよぅ。良い思い出だなってだけです。それで、どこを読めば良いんです?」
「とりあえず載ってる順でいいから、今代の《七罪魔》について掻い摘んで教えてくれ。性格とか、そいつのことが分かるようなエピソードとかだな」
「分かりました。えぇっと、最初に載ってるのは……《暴食》(グラ)の方ですね」
「《暴食》か。どうせ脂ぎったスゲェデブだろ?」
「偏見ですよ! 今代の《暴食》の方は可愛い男の子です」
「はぁ? 男の子ぉ?」
「こちらです」
メリィはラグナルにページを向けた。するとそこに映っていたのは、肩書から連想されるような物凄い巨漢ではなく、水色の髪に金色の瞳をした少年だった。
「コイツが《七罪魔》ぁ?」
「そうですよ。ヴァルイレス・グラ様です。というか、ラグナル様はどうして知らなかったんですか? いくら世の中のことに興味が無いとは言え、任命式(レブロリタ)の時に顔くらい————って、そう言えば、ラグナル様はすっぽかしたんでしたね」
「だって、律儀に出席する《怠惰》(ピグリーティア)なんて、らしくねぇだろ?」
「はぁ……続けますね。ヴァルイレス様といえば、魔界一可愛いって有名ですね。男性ですけど、女の子みたいで。さらに性格もお優しくて、ファンクラブまであるんですよ」
「へー」
「あ、《暴食》の肩書きに相応しいエピソードがありました。特技は何でも食べられることなのだそうですが、ある大食い大会では、抑えが利かずについつい“他の選手たちも”食べ尽くしてしまったとか」
「待て待て! 選手たちも食べたって?」
メリィはサラッと言ったが、かなり衝撃的なエピソードだ。
「はい。生存者曰く————暴走したヴァルイレス様に、色んな魔族が様々な手段で抵抗したが、その抵抗ごと、真正面から食われていった、とのことです。自分が助かったのは一重に運が良かったからでしかない、とも言っています」
「うっへぇ〜、いくら《暴食》だからって仲間食いとか……」
「でも、ヴァルイレス様はお優しい方ですから、同じ魔族を食べてしまったショックで、三日ほど寝込んでしまったそうですよ。ここにも、命を蔑ろにしない為にも、食べ物への感謝の気持ちは忘れたことが無いようにしているって書いてありますし」
「おっと、そいつぁ良い。何か適当に綺麗事を言っときゃ簡単に引き込めそうだ」
「言い方が悪いですよ」
「良いんだよ。ほれ、次だ次!」
「えー次は……《憤怒》(イーラ)の方ですね。セラブリス・イーラ様です」
メリィは開いたページをラグナルに見せた。そこにはへそ出しのホルダーネックに短パンを履いた赤い髪をポニーテールにした長身の女性が写っていた。体から伸びる四肢には筋肉が着いていて、腹筋も割れている。胸も大きい。
「デカいな」
「ど、どこ見てるんですかっ」
「見たままの感想を言っただけだ。それより、問題は性格だ。ソイツはどんなヤツだ?」
「セラブリス様と言えば、魔界格闘技大会に初出場で殿堂入りを果たし、会場が持たないという理由で、永久に出場を禁止された伝説を持つ方ですが、性格は〜っと……」
メリィはぱらぱらとページをめくる。
「ん〜、体力自慢ですが、頭脳労働は苦手、というところですかね。大会のことも、暴れてたらなんか終わったという認識のようですし」
「見た目通りの超強いアホってことか。……弱ったな、アホの説得って面倒くせぇんだよなぁ。話が急に変な方に飛んだり、そもそも話を聞いてくれなかったり……」
「あっ、あと、この方はどうやら《強欲》(アバリーティア)の方と、非常に親しいようですね」
「じゃあとりあえず、次は《強欲》を調べてくれ。何か良い考えが浮かぶかもしれねぇ」
「畏まりました」
メリィは再びページを進めて止めた。
「この方ですね。スティンナース・アバリーティア様です」
スティンナースは金色の髪をハーフアップにした女性だった。緑の瞳と母性溢れる豊満な体型、そして柔らかな表情は、見る者に穏やかで優しい姉のような印象を与えた。身に纏っているのは所謂喪服で、その佇まいは《強欲》の持つイメージとはかけ離れている。
「……何で喪服なんだ?」
「非業の死を遂げた全魔族の鎮魂の為に、だそうです。そのことから“喪服の慈母”という異名で呼ばれることもあるみたいですね」
「まぁ〜た似合わねぇのが出て来たなぁ……」
「そうでもありません。スティンナース様は多くの事業に手を出していて、年間に軽く20億ゴールド以上も稼いでらっしゃいますし」
「おぉ、ちゃんと《強欲》らしいじゃねぇか」
「……と言っても、稼いだ分だけ慈善活動で積極的に手放しているようですけどね。一応お金が大好きみたいですけど、理由は「お金は、簡単に誰かを助けてあげられる物だから」と仰っていますね」
「なんだ、やっぱらしくねぇな。ま、そういう《七罪魔》もいるってことかねぇ」
ラグナルの言葉を聞きながらもメリィは、他にナースの強欲らしいエピソードがないか探すべく本に目を走らせる。
「ですねぇ、他には珍品集めが趣味ってことくらいしか《強欲》っぽさは……あれ?」
「何かあったのか?」
「いえ、どうもスティンナース様には、お金のためなら何でもやるという噂があるみたいで、色々な事件の黒幕なのではないかとも言われてるみたいです。有名どころで行くと、昨年魔界を賑わせた「ガーニ邸3億ゴールド消失事件」も、その一つのようですね」
「う〜わ……そういうタイプかよ。そりゃまた面倒くせぇなぁ」
「本人は、失脚を狙った誰かが流した悪評だって言ってますけど……」
「ま、どっちにしろ金は好きそうだな。こりゃ交渉に使えるかもしれねぇ」
「ラグナル様、全然使わないから貯金が増える一方ですもんね」
「今こそ使うときってわけだ。よし、次!」
「次は〜っと、ありました。ルナクリーク・ルクスリア様。今代の《色欲》(ルクスリア)の方です」
そう言ってメリィが見せたページには、白磁のような肌の、紫の髪をした美青年だった。胸元が大きく開いた露出度の高い服を着ている。
「……ふ〜ん。中々のイケメンだな」
「この方は、何やら変身能力を持っているようですね。相手の最も欲情する姿に変身し、場合によっては幻術で、その……複数人に対応するそうです」
「へぇ……他には?」
「……あっ…………あの、えっと、すみません。ラグナル様」
ページをめくりながらメリィの顔が赤くなって行く。
「ん?」
「あとは、エッチな話しか……その……私には読めません〜〜…………」
メリィの声が尻すぼみに小さくなって行く。
「……次」
「はい……」
メリィは改めて本のページを進めていく。
「えー、今代の《嫉妬》(インヴィーディア)の方は……マリニスカ・インヴィーディア様、ですね」
そのページには、深海のような暗い色合いの髪をツインテールに結び、スカートにフリルが付いた青と黒のゴスロリ服を着る少女が映っていた。
胸元は平坦だが、小柄で華奢なスタイルで、中々に可愛らしい容姿だ。好きな者は一目で好きになるだろう。だがその瞳は、どことなく濁っているように見え、その容姿の好印象を吹き飛ばすほどの負のオーラを放っていた。
「ず、随分と暗そうなヤツだな」
その結果、ラグナルの感想はこの一言に集約された。
「やっぱりそう思いますよね。折角可愛いのに……あ、この子、性格もあんまりよくない感じですね」
「マジか」
「インタビュアーの方の質問をネガティブに解釈して勝手に怒ってます。なんかもうスゴイですよ? 好きな食べ物聞いただけなのに“誰が何食べてようが勝手だ”とか、“みんなと同じ物を好きじゃないことがそんなにおかしいのか”とか、“群れることができる凡舌共が羨ましい”とか、そんなのばっかりです……」
「歪んでんなぁ〜……」
「着いて行きたい、今代の《七罪魔》ランキングでは、毎年不動の最下位ですね」
「ある意味最強だな、そこまで行くと逆にスゲェよ」
「ちなみに、ラグナル様が6位です」
「…………ち、ちょっと待て。ヴァルイレスはともかく、変態とか体力バカとか、悪い噂のある富豪とかが居る中で6位って、俺そいつらより不人気なのか?」
「はい。でも当然と言えば当然かと。ラグナル様は世間にあまり知られていませんし、多くの方が、やることなさすぎてダメになる気がするって、辞めて行きましたからね」
「……納得行かねぇ〜」
「ご安心ください! 私にとってラグナル様は、永遠の1位ですから」
「いや、順位を気にしてるんじゃなくてな……はぁ、まぁ良い。次だ次」
「分かりました。え〜、最後の一魔は……あっ」
「どうした?」
メリィは今代の《傲慢》(スパーラディア)の肩書を与えられた《七罪魔》について記されたページを開くとラグナルに見せた。そこに映っていたのは、白髪に透けるような白い肌をした赤い瞳の幼い少女だった。白いロングケープを身に纏うその姿は、どこか神秘的に見えたが、少女の表情はかなりの自信に満ち溢れていた。
「《傲慢》の《七罪魔》、クレイアード・スパーラディア様です。あまり表に出ませんが、たぶん知名度は一番高い方だと思います。あと、性格も難しい方です……」
「……顔から傲慢さが滲み出てるな。で、コイツはなんで有名なんだ?」
「実は、彼女《創造の力》を持っているんですよ」
「《創造の力》? あの対価無しで何でも創り出せるっていう?」
「はい」
《創造の力》とは、読んで字の如く万物を創造する能力である。魔族の中でも、二十万年に一魔くらいの割合で生まれると言われる稀少な存在で、その圧倒的な力ゆえに抜群の知名度を誇っていた。それは、基本的に様々な事に興味がないラグナルですら知っているほどだった。
ラグナルは心底嫌そうな顔をすると天井を仰いだ。
「最ッ悪だ……何でよりによって、今回の《王座戦争》にそんなヤツが参加してんだ? 面倒くせぇな畜生がぁあ〜〜〜〜! 絶対、そいつの勝ちで決まってんじゃねぇか……」
そしてフラ〜っとソファに倒れる
「あぁっ! ダメですよ、ラグナル様!」
「止めるな、メリィ。今の俺には横になる時間が必要だ……っ!」
「いえ、そうではありません。こういう時は私の膝をお使いください」
ラグナルが無言で頭を上げると、メリィはそこに膝を入れ込んで膝枕を完成させた。
「あー、どうすっかなぁ〜」
「ラグナル様、やっぱり終盤まで引き籠って————」
「んことしてたらお前が死ぬだろ。爆発する条件、もう忘れたのか?」
「あ……」
メリィは眉を落としてそっと自分の喉に手を触れた。そこには、確かに首輪が存在しており、メリィの命と共にラグナルを《王座戦争》に縛り付けていた。
「……お前が死ぬのは絶対ダメだ」
寝たままの姿勢ではあるが、ラグナルの瞳と声は真剣そのものだった。
「そう言っていただけるのは、嬉しいのですが……何事も、時に妥協は必要です。もしもの時は妥協して、私のことはお忘れくだ————」
ラグナルは突如起き上った。
「へ? うひゃあ! な、なんれひゅか!」
メリィの両頬がラグナルの手によってムニムニと揉まれる。
「ふざけんな。お前が死んだら、誰が俺の世話すんだ? 面倒くせぇこと言ってねぇで素直に『分かりました、生きます!』って言っとけ」
「……ラグナル様、それ、プロポーズみたい……」
自分の言葉を振り返ってみて、ラグナルもそれを自覚し、頬が赤くなった。
「……き、気分を切り替えて、飯でも食うか」
「そ、そうですね。えへへ。じゃ、ベル鳴らしますね」
メリィの手で部屋にベルの音が響いた後、ラグナルとメリィは同時に、自分のすっかり熱くなった頬に手を当てた。
8:50 《王座戦争》(アグナローラ)開催式当日。
「《七罪魔》の皆さんに遅刻して嫌われてはお話になりません! ——ということで30分前行動厳守ですよ!」
「えぇ〜……」
メリィに強制的に起こされたラグナルの前に、朝食として用意された擦りリンゴ入り のヨーグルトが差し出される。
「布石を打つのは早ければ早いほど良いはずです。早期に仲間を獲得できれば、《王座戦争》がグッと楽になりますよ」
「おっと、楽になると聞いちゃあ、動かないわけにはいかねぇな」
ラグナルは出されたヨーグルトを喉の奥に流し込むと、椅子から立ち上がった。
「よし、じゃあ行くとするか」
「行ってらっしゃいませ、ラグナル様。どうかお気を付けて」
「別に気を付けることなんかねぇよ。今日はまだ本番じゃねぇんだからよぉ」
#####
9:20 《王座戦争》開催式当日
「なんでまだ誰も来てねぇんだ……?」
ラグナルは《王座戦争》の開催式会場の側に用意された控室の奥、壁際に置いてある椅子に座り、誰一人として来ない《七罪魔》を待ちながら貧乏ゆすりをしていた。
《王座戦争》に参加する《七罪魔》の控室として選ばれた場所は、魔王城の中でも、普段は上流階級に属する魔族を招く際に使われる広いパーティルームだった。
天井と壁は柔らかな夕陽を思わせる金色で覆われ、床は清潔感のある純白のタイルが貼られた室内はいかにも高級そうな造りになっていて、さらにカウンター席や様々な酒瓶がずらりと並ぶ棚、ビリヤード台やダーツなど遊具なども用意されていた。
「こんなことなら、開始一分前でよかったな……」
ラグナルがそんな極端なことを呟いた瞬間、ようやくドアノブが回った。
「おはようございまーす。って、アレ? まだ全然来てないんだね」
開いた扉から顔を見せたのは《色欲》(ルクスリア)の《七罪魔》ルナクリーク・ルクスリアだった。
「……《色欲》だな?」
「そういう君は《怠惰》(ピグリーティア)かな? 名前は、えーっと……」
「ラグナルだ」
「そう! それだ。いやー、初めて見たよ。任命式は欠席だし、『七魔録』のインタビューにはメイドに答えさせてて、顔写真も載ってなかったからさ。是非一度、会って仲良くシテみたかったんだよねー」
ルナクリークはそう言いながら、腰を振る扇情的な歩き方で、ラグナルに近づくと、座っているラグナルの足と足の間に膝を入れ込み、顔を上から覗き込んだ。
嗅ぐだけで理性が溶かされそうな甘い女の香りがして、ラグナルは口と鼻を押さえる。
「……近いぞ」
「嫌かい? じゃあ、これならどうだろう」
ポン! と軽い音がしてルナクリークの全身が白い煙に包まれる。発生した煙は瞬く間に薄くなって消える。すると————。
「なッ!?」
ルナクリークがいるはずの場所に、先ほど部屋に残してきたメリィが微笑んでいた。さらに驚くことに、その服装は、一応隠すべき場所は隠れているものの全体がスケスケのネグリジェで、ひどく扇情的だった。
「マジか!」
その姿はラグナルにとって——所謂ツボだった。
「どうです? 喋り方も、雰囲気も、細かい仕草まで……貴方の好みを読み取り、細部まで再現しました。この姿の方が一体誰かは知りませんが、何はともあれ、今なら理想の女性を好きなようにできます。でもその前に……きちんと自己紹介をしておきましょうか」
自然な仕草でラグナルの両肩に手が回される。
「私はルナクリーク・ルクスリア……貴方の理想の情婦です。気軽にルナと、熱く焼け付くような感情を込めて呼んでください。もちろん、この娘の名でも構いませんけどね」
ラグナルはルナを押し退けようとするもあっさりとその手を掴まれると誘導されるようにルナの胸に沈み込んだ。柔らかな感触が手の平全体に広がる。
「我慢しなくて良いんですよ? ねぇほら、準備万端じゃないですか、お互いに」
確かに、既にラグナルの下の方はそういう形になっていた。
「だぁー! やめろ!! 触るなぁ!! そして触らせるな!!」
と、ラグナルが叫んだところで再び扉の開く音がした。
「あれ、もう誰か来て……」
「「「あ!」」」
扉を開けて現れた《暴食》(グラ)のヴァルイレスは、ラグナルたちを見て硬直した。しかし次の瞬間、思わず、といった様子で自分の腹部を押さえだすと——
ぎゅるるるるるるるるるるるるるる!
強大な腹の音が響き渡った。
「あ、あの、ごめんなさい! ぼ、僕……その、お腹が減って……な、何かのんびり食べて来るんで、ごゆっくり!」
「うおっ! ちょっと待て! 誤解だ! いいから助けてくれ——!」
ラグナルの言葉は届かなかったようで、ヴァルイレスは扉を開け放したまま走り去って行った。最悪のファーストコンタクトである。ラグナルは、息を詰まらせながら顔に片手を当てた。
「あらあらこれは、良い噂が経つかもしれませんね。さっきのことを考えると扉は……開いたままの方が良いですね。その方が興奮します。さぁ存分に交わりましょう。そして通りかかった人たちに見せつけてあげましょう。私たちの、素敵な姿を」
ルナが自分のパンツを下ろそうとする。
「ちょっ、マジでやめ————」
「おっす! ん? 何してんだオメェら」
次に扉を入って来たのは《憤怒》(イーラ)のセラブリスだった。ヴァルイレスとは違って特に動揺も無く、立ち去って行く様子はない。むしろ、コレがどんな状況なのかさっぱり分かっていないようだ。
「……やぁ、セラちゃん」
すると、ルナの喋り方も声も元に戻っていた。
「あ、オメェ……ルナか!」
言いながらセラは、ルナの頭を掴み、ひょいと持ち上げてラグナルから引き離した。
「もー! 君は毎度毎度、どうして邪魔するんだ!」
「だってそれ、公共の場でやって良いことじゃねぇんだろ? よく分からねぇけど」
「よく分からないことを止めるなんて、そんなの変だよ! せめて、何をしようとしているかは詳しく知っておいたほうが良いと思うよ? 今ならボクが手取り足取り腰取り教えてあげるから、これを機に是非とも知っておこうよ!」
「必要ねーな。ナースが止めろって言った。それだけで十分だ」
「ナース? あぁ、スティンナースちゃんか……まったく、君は彼女の言うことなら何でもほいほい受け入れちゃうんだから」
「おう! ナースはいつも正しいからな」
「篤い信頼だね。でもさぁ、彼女を信じてるからって、ボクの高ぶりを遮って良いことにはならないとは思わないかい? 遮るなら遮るで、責任を取ってもらわなくちゃね」
ルナは自分を掴むセラの手を指先で優しく撫でた。
「うひゃ、くすぐってーよ!」
パッと離されたルナが呆然としていたラグナルの上に落ちた。
「うぐっ」
「ただいま」
そう言って顔を近づけてくるルナの両肩をラグナルは必死に手で押さえる。
「っ! ————だからやめろって!」
「大丈夫、これは淫靡なただの夢さ。だから遠慮なんかせずに、パンツの中から取り出しちゃってよ。元気な君の————」
「のあ————! だぁから辞めろっつーの!」
その瞬間、またしてもセラはひょいとルナを持ち上げて、ラグナルから引き剥がした。
「邪魔をしないでくれってもぉおおおお〜!」
「じゃあ余所でやれ」
「……むぅううう、分かった。じゃあ君、一緒に部屋から出ようか」
ルナの笑みにラグナルは怪訝な顔で返した。
「嫌だよ。面倒くせぇ」
冷めた反応にルナはすぐラグナルの股間へ視線を落とした。
「ん? あぁ、すっかり萎えちゃったのか……ちぇ、分かったよ。体も反応してないのに無理やりヤったんじゃ楽しくないし、諦めることにするよ」
セラの手からするりと抜けたルナはそのまま部屋の外に出ると、廊下を通りかかったフットマンに声をかけた。その姿はいつの間にかワインレッドのロングヘアーをなびかせた美女へと変身している。
「んふふ、ねぇ、そこの君ぃ。ちょっと休憩したくない?」
「え、いや、今は勤務時間中ですし……」
「そんな意地悪なこと言わないでよ」
フットマンの手を掴んでルナは自分のスカートの中へと誘導する。
「なっ!?」
「ねぇ分かるでしょう? アタシ、もうすごくトロトロなのよ」
「で、でも」
「大丈夫よ。なぁんにも考えなくて……ね?」
あのフットマンはおそらく、そう時間を置かない内に休憩に入ることだろう。とても甘くて濃厚で、終わった後に疲労感が残る休憩に。
「まったく何が面白ぇんだか」
そう言うとセラはその場に胡坐を組んで座り込んだ。
「……とりあえず、礼を言っとかないとな」
「あぁ?」
「お前が助けてくれなかったら今頃、大事なもんを失ってたよ。ありがとな」
「お? おう。よく分かんねぇけど、どういたしまして。しっかしお前ってスンゲー弱いんだな! ルナなんかに組み伏せられるなんて、弱すぎて笑っちまうぜ」
「いやあれは、組み伏せられてたんじゃなくてだな————」
「あら、セラではありませんか」
その声が扉の方から聞こえてくると、セラは勢いよく振り返り満面の笑みを浮かべた。
「ナース!」
声の主である《強欲》(アバリーティア)のスティンナースの名前を、心底嬉しそうに呼ぶその姿は、まるで主人の帰宅を喜ぶ大型犬のようだった。
「そちらにいらっしゃる方は……もしかして《怠惰》の方かしら?」
そう言いながらナースは部屋に足を踏み入れてセラの隣に立った。
「あぁ、初めましてだな。俺が《怠惰》の《七罪魔》、ラグナル・ピグリーティアだ」
ラグナルが名乗るとセラが笑い声を上げた。
「っはは! ルナに組み伏せられてたお前が《七罪魔》ー? 冗談はよせよ」
「セラ、彼はおそらく組み伏せられていた訳ではありませんわ」
「あんだと?」
「ルナが相手だったなら、動けなくなっても仕方ありません。特に殿方はそうでしょう」
「そうなのか!? へ〜、やっぱナースは物知りだな! 頼りになる」
「セラ……ワタクシも貴女を頼りにしていますわ」
そのやり取りを見てラグナルはこの二魔が既に同盟を組んでいる可能性を感じた。
「なぁお前ら、頼りにしてるったって、《王座戦争》で生き残れるのは一魔だけだろ? いくら仲良かろうがお前らも敵同士なんじゃねぇのか?」
「ところがどっこい! アタシらにゃ秘策があんだよ!!」
探りを入れるつもりで聞いた質問に堂々と答えられて、ラグナルは鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔をしてしまう。
「セラ! それは秘密だと————」
「おう、だから中身は喋らねーぞ。っつーか中身知らねーから口を滑らすこともねーんだよなこれが! 残念だったな〜!」
ラグナルに対して二カッと笑うセラとは対極的にナースは眉を下げて溜息を吐いた。ナースのその表情は言うことを聞いてくれない子どもに手を焼く母のようである。
「苦労してんなぁ、お前」
「えぇ……でも悪くない苦労ですわ。どう悪くないか、と言うのは難しいのですけれど、何故か心地良さを感じますの。これがきっと友情という物なのだと思っていますわ」
「分かるぜナース! アタシもナースのためだったらいくらでも暴れられる! これが友情ってヤツだな!」
セラの浮かべる晴れやかな笑みとナースの浮かべる穏やかな笑みから、ラグナルはこの二魔が信頼で結ばれていることを感じた。
「チッ」
その時、開け放したままの扉の外から小さく舌打ちが聞こえた。
「ん?」
ラグナルたちが視線を向けると、扉 から《嫉妬》(インヴィーディア)のマリニスカが覗いていた。その瞳は強烈な嫌悪感と敵意に満ちてひどく濁っていた。
「気持ち悪い友情ね、反吐が出るわ」
マリニスカは心底忌々しげに言うと、そのまま音も立てずに立ち去って行った。
「あのクソ野郎〜、毎度毎度急に悪口言ってきやがって……ムカつくぜ」
苛立った様子のセラの周囲に微かな怒気が漂い始めた。どうやらセラは、憤怒らしくかなり短気な性格をしているようだ。
「セラ、何度も言いますが、マリニスカを相手にしてはいけませんわ。あの手の者は関われば関わった分だけ不幸になりますもの……それと、女性に対してはクソ野郎ではなく、クソアマと言うのですわ」
「へー! やっぱナースは物知りだなー」
ナースから罵りに関するレクチャーを受けて、セラから放たれていた怒気はあっさりと消えていた。どうやら短気な上に気分が変わりやすいらしい。
「ところでラグナル、他の《七罪魔》の方はどちらにいらっしゃるのかしら?」
「他のヤツか? ヴァルイレスは多分どっかで物食ってて、ルナクリークはどっかで男食ってる。マリニスカはさっき見た通りだ」
「そう。皆遅刻しているのではと心配になったけれど、一応お城に居るのならば安心ですわね。……あら? でも先ほど、クレイアードの名前が————」
突如、フォオン————と独特な音が響き、天井付近に三日月型のペンデュラムが出現した。刃を携えたそれは、ナースの足元に向かって落下してきた。
「おわっ!」「っ!」
床に亀裂が入る参事を目の当たりにして、ラグナルとナースは絶句する。そのペンデュラムは、高濃度の魔力を宿しており、まさしく魔剣と同等の代物だった。
「ちょっ! 危ねーじゃねーか! ナース大丈夫だったか?」
「え、えぇ、平気ですわ……」
すると、背後から気高く、凜とした声が響いた。
「余の名を許可なく口にしたのは誰だ? 不敬であるぞ」
振り向くと、そこには幼い姿には不釣り合いな威圧感を全身から放つ《傲慢》の名を持つ少女、クレイアードが扉の外に立っていた。クレイアードは、強者の風格を漂わせながらゆっくりと部屋の中に入って来る。何をやっても殺されるような気がして、ラグナルとナースは無意識の内に呼吸する事すら忘れていた。
「む? 何だスティンナースか、同じ《七罪魔》の好だ。特別に許す」
クレイアードがそう言った瞬間、ペンデュラムが朽ちて跡形もなく消えた。「許す」という言葉と共にナースは思い出したように息を吸った。
「おい、ナースに何やってんだテメェ」
クレイアードを前にしても全く動じないセラは、先ほどの比では怒気を纏い、クレイアードにくってかかる。
「セラ! 待って」
「……ふん、セラブリス・イーラか。怒りに任せて暴れ回るだけの獣風情が、よくもまぁ余の前に姿を現せたものだな」
「うっせーよ、死ねこのクソドチビ!」
クレイアードの脳天に向かって、高身長のセラが勢い良く拳を振り下ろす。
「予想通りだ」
クレイアードが見下したように言うと、空間がほんの一瞬だけ揺らぎ、セラの隣に、彼女と同等の体格も白い人型の魔物が出現していた。その魔物は、下から上へと打ち上げるような軌道のパンチを繰り出すとセラのパンチを相殺する。拳と拳が激突したことで激しい音が響き渡り、室内に軽く風が吹いた。
「あぁ!? んだこいつ」
「余がつい先ほど作った即席魔物(スラッキー)だ。中に魂も入っておらん紛い物の生命だが……貴様と同等の力を持っている」
「アタシと同じぃ?」
「そうだ。良いか? 貴様なんぞ余にとってはいくらでも量産して使い捨てることのできる、取るに足らん存在————」
「ふん!」
セラが右ストレートを打ち込むと、即席魔物の上半身が消し飛んだ。
「何か言ったか? オメェ」
「予想外だ。面白い」
セラの真隣に先ほどと同じ見た目の魔物が出現すると、彼女の頬に向けて、先ほどと全く同じ鋭い右ストレートを打ち込んだ。
「ぶッ!」
盛大に殴り飛ばされたセラは、壁を突き破った。
「んえ!? な————ぎゃああああああああああ!?」
そして、隣の部屋で何故か孤独に体育座りをしていたマリニスカをも巻き込んで転がっていった。しかしその勢いは止まらず、隣室を通過して2つ隣の部屋の壁をもぶち破ってようやく止まった。セラもマリニスカもピクリとも動かない。
「む、予想以下か……まさか防御すら間に合わんとはな。つまらん」
即席魔物がボロボロになって崩れて行く。
「ふん、もう寿命か。しかしこれだけの力があれば長い寿命など要らんだろう。さて……」
そう言い、クレイアードは部屋の真中に豪華な椅子を出現させると、腰を掛けた。
「そこの獣とクズを介抱したければするが良い、余が許可する」
口を抑え心配そうな様子のナースにクレイアードが声をかけると、ナースはセラの元に走って行った。
「セラ!」
ナースはセラの元へ走って行った。
「……何故貴様は動かん?」
「面倒くせぇし、スティンナースがいれば充分————!?」
クレイアードが指を鳴らしたと思った瞬間、ラグナルのすぐ横に斧が振り下ろされた。
「ッ、な!?」
床のタイルを粉砕した斧を握っているのは、先ほどの魔物より細見の即席魔物だった。
「んん? 外したか……」
「何言ってんだ? っていうか、何で斧を————」
空間が揺らいでラグナルの頭上に黒いスライムが現れる。落下してきたスライムに巻きつかれる形でラグナルは身柄を拘束される。
「おわっ!! きもっ!!」
「まぁこれで外れまい」
さらに、即席魔物の手元に槍が創り出されるとその切っ先をラグナルへ向ける。
「おい待て! クソッ! なんで——」
「貴様が平凡な魔族の分際で、余と同じ《七罪魔》を呼び捨てにしたからだ。面倒くさいなどというふざけた理由で《七罪魔》を助けないのも気に食わぬし、余に対して敬語も使っておらぬ。死ぬ理由としては十分すぎるであろう。分かったら大人しく逝くがよい」
「なんつー理不尽なッ!」
その言葉とほぼ同時に、即席魔物はラグナルに向かって真っ直ぐに槍を突き出した。
「っ!!」
しかし槍は、反発する磁石のように、不自然に軌道を変えてラグナルの体から逸れた。
「むぅ? どうなっている……スティンナース! 貴様の仕業か?」
セラに治癒魔術をかけていたナースは、首を左右に振った。
「私は何もしていませんよ」
「では……貴様が何かしたのか?」
クレイアードがラグナルを睨んだ。
「あぁ、俺が攻撃を外させたんだ」
「外させただと? 良かろう、余が外れぬと思った攻撃を外させた褒美だ。余に己の名を伝える権利をやる。口にするが良い」
「ラグナル・ピグリーティアだ」
本日三度目の自己紹介をしながら、ラグナルはちゃんと任命式やパーティに出席していればこんな事にはならなかったのだろうかと思った。
「《怠惰》? 貴様が、か?」
「あぁ、俺が今代の《怠惰》だ」
「……なるほど、攻撃を避けるくらいなら相手に外させるということか……チープで地味だが、《怠惰》らしい力だ。褒めて使わす」
先ほど創造された魔物や槍が朽ちて跡形もなく消えた。
「ふぅ〜、生きた心地がしなかったぜ……」
「許せ。……おっと、貴様には他にも謝っておかねばならぬことがあったな。先ほど知らなかったとは言え平凡な魔族と嘲ったこと、謝罪する」
「あぁ、別に構わねぇよ。大事にもならなかったし」
「さすが、《七罪魔》の一人に選ばれることはある。その器の大きさも評価してやろう……尤も、余の謝罪を受け入れるのは当然のことだがな」
「当然なのに評価するのか?」
「世の中には当然にすら届かぬクズが多いのだ。故に、当然の価値が上昇している」
自分の考える当然が間違っているのではないかとは考えない。《傲慢》の《七罪魔》に選ばれるだけのことはあってクレイアードはやはり傲慢だった。
「あの、さっきスゴイ音がしたんですけど何かあったんですか?」
カップに入った山盛りのポップコーンを片手にヴァルイレスがひょっこりと姿を現す。
「余に無礼を働いた獣が居たのでな、少々懲らしめた」
「け、獣? って、あ! セラブリスさん! マリニスカさんまでッ! お二人とも一体どんな無礼をすればこんなことに……?」
「マリニスカの方は事故だ。謝罪する気は毛頭ないがな」
「俺には謝ったのにか?」
ラグナルが言うとクレイアードは鼻で笑った。
「分かっておらぬなぁ……良いか? そこの嫉妬女はなぁ、性格が下劣を通り越して完全に腐敗している上に、停滞しておるのだ。そんな女に謝罪など口にしようものなら、余の高潔な魂に傷が付く。貴様への謝罪とはその意味に天と地ほどの差があると知れ」
「あー分かった。よく知らねぇけど、アイツが嫌いだから、謝りたくねぇんだな?」
「そういうことだ」
「で、でも、手当はしてあげないと」
ヴァルイレスは、セラに治癒魔術をかけているナースに視線を向けるも、視線を逸らされてしまう。ヴァルイレスは少し眉を下げた。
「仕方ないですね。じゃあ僕が————」
「待て。ヴァルイレス、貴様本当にマリニスカを起こすつもりか? 開催式直前までそのまま眠らせておいた方が良いとは思わぬか?」
「その意見に同意いたしますわ。正直可哀そうだとは思いますけれど、マリニスカさんはできるだけ長く眠っていた方が周囲の為にも、彼女の為にもなると思いますの」
クレイアードとナースの二人がヴァルイレスの善意を否定する。
「でも、このままなのは可哀そうです」
しかしヴァルイレスは折れずに、マリニスカへと近づいて行った。
「バカなヤツめ、世の中には絶対悪と呼ばれても仕方のない存在が確かにいるのだ」
「……そんなに嫌なら止めりゃ良いじゃねぇか。お前ならパッと何か創造して、ヴァルイレスを止めるくらい余裕だろ?」
「たわけ! この程度の些事に使うなんぞ、余の能力が泣くわ!」
「その拘り、捨てたほうが快適に生きられると思うぜ」
マリニスカを助けようと駆け寄っていったヴァルイレスだったが、何故かポップコーンをモリモリと食べるばかりで、治癒魔術を使う素振りを一向にみせない。
「これくらいで良いかな……」
ヴァルイレスはそう呟くと、ポップコーンを置いてマリニスカの手の甲に口付けをした。するとすぐにマリニスカの体に生命力が漲って行く。
「ほぉ、食べて取り込んだエネルギーを治癒力に変えて送り込んだのか」
クレイアードがそう呟くと、程なくしてマリニスカが眼を覚ました。
「うっ……」
「大丈夫ですか?」
マリニスカにヴァルイレスが心配そうに声をかける。
「……えぇ、体調は万全よ。でもどうして私、寝てたのかしら」
「えっと、僕もよく分からないんですが、どうやらクレイアードさんが————」
「チッ! またアンタのせい!? いっつもいっつも……ッ!」
マリニスカは敵意のある瞳でクレイアードを睨んだ。対してクレイアードは蔑みの視線で返す。それはまるで生ごみを這いまわる虫けらでも見るかのような目だった。
「というかクレア……アンタ、開催式にはちゃんと来たのね。任命式は恥ずかしがって出席しなかったのに、今回はよ〜く出て来れまちたね〜?」
陰湿な笑みを浮かべながら喋り続けるマリニスカに、クレアは一切動じない。相も変わらず虫けらを見るような目をしているだけだった。ようやく口を開くと、
「……呆れた物だな。稚拙な言葉で余を挑発するよりも先に、まず己を介抱したヴァルイレスへ礼を尽くせ。その後で気分が乗れば相手をしてやる」
と、マリニスカの神経を逆なでした。
「はぁ? 何で私がアンタの言うことなんて聞かなきゃいけないわけ?」
宣言通りクレアはもうマリニスカと視線を交わすことすらせず、ケープの下から本を取り出すとそれを読み始めた。
「へぇ、そうやって私から逃げるんだ? クレアちゃんは臆病でちゅね〜」
クレアは何の言葉も返さなかった。
「……何か、答えなさいよ!」
「あ、あの!」
ヴァルイレスがマリニスカに声をかけた。
「何よ」
「いえ、えっと、その……僕は何の事情も知らないんですけど、そういう喧嘩腰なのって良くないかなぁと思って……」
「……ねぇ」
「は、はい」
「アンタ、私を助けてお礼でも言われたかったの?」
「え!? いえ、そんなつもりじゃ————」
「口では何とでも言えるわ。本当は言われたかったんでしょ? でも残念だったわね。私がアンタみたいなカワイイ顔の男の子にありがとう〜なんて、そんなこと言う訳ないじゃない。ねぇ知ってたかしら? 自分よりも可愛い顔をした男って、視界に入っただけで嫌な気分になるのよ? 有無を言わせず女として終わってるって言われた気分になるもの。私の気持ちが分かるかしら? 見てるだけでイライラしてくるのよね〜! どうせアンタ、綺麗なお姉さんに囲まれてチヤホヤされて甘やかされてるんでしょう? 色々なお世話をしてもらってるんでしょう!? 色々なお世話を!!」
マリニスカの言葉をそこまで聞いて、ラグナルはナースやクレアが何故、マリニスカを起こすことを嫌がったのか理解した。
「ぼ、僕————」
「どうせ私の顔覗き込みながらこいつも手籠めにしてやろうとか思ってたんでしょ? それとも、思ったよりもブサイクで気持ち悪かったかしら? あぁ、違うわね。周りに魔族がいるものね。なら答えはコレしかないわ。良い子ちゃんアピールでしょ? 私みたいなヤツに優しくして自分への好感度上げようって魂胆な訳? あっはは! 顔が良いヤツは特よね〜! それだけで好感度うなぎ上りよ? もしアンタが超ブサイクだったら、手助けなんかしたところで正義の味方気取りかよ気持ち悪いの一言で、何もかも終わりだったに決まってるわ。もし魔族は見た目なんかじゃないんだなって感心するヤツがいても、じゃあそのブサイクと付き合いたいかって聞いてごらんなさい。絶対答えはノーだから! 結局のところはそういうことなのよ。あーとぉおおおっても腹が立つわ〜! アンタみたいなヤツがいるから世の中が良くならないのよ。全員が平等な世の中こそ素敵なものだとは思わないの? ねぇアンタが自分の顔を焼け爛れさせることで平等な世界への第一歩が踏み出せるって言われて、迷わずその可愛らしいお顔を犠牲に出来るかしら? 出来る訳ないわよねー! 結局アンタが大事なのは自分だけなのよね」
「ぼ、僕、そんな」
ヴァルイレスの目に涙が浮かぶ。
「泣いちゃうの? それって悲しいから泣くの? いいや違うわよね。それで今まで何とかなって来たから今ここでも泣————」
そこまで喋ったとき、倒れていたセラがゆっくりと起き上がると、マリニスカの脳天に拳を振り降ろした。
「ふぎっ!!」
それによってマリニスカは白目を向きながら床に下半身を埋めることになった。
「ベラベラうっせぇよ。何言ってんのかもよく分からねぇし、そのまま死んでろ」
その姿は実に無残で哀れな物だったが、ラグナルは同情する気など全く起きなかった。
「よくやったセラブリス」
「あぁ!? テメェに褒められても嬉しかねーよ」
「褒美をやろう」
空間が揺らぎ、黄金の皿が創り出される。さらにその上に見ただけで思わず涎が出てしまうような、極上の高級肉が出現した。
「うぉっほぉ! 肉だ! クレイアード、お前スンゲー良いヤツだったんだな!!」
セラは肉を手づかみで乱暴に食べ始める。
「まったく、頂点に立つ余が悪であるはずが無かろう……って聞こえておらぬか。食事に夢中になりおって、やはり獣よなぁ。……スティンナース」
「ふぇ! は、はい!?」
セラの食事風景を見ながらボーっとしていたナースは名を呼ばれてビクッと体を震わせつつそう答えた。
「貴様にはその黄金の皿をやる」
「えっ! よろしいのですか!?」
「そこの下劣女を気絶させたのはセラブリスだが、そのセラブリスの治療をしたのは貴様だからな。貴様にも褒美をやるのが筋だろう。まぁ要らんなら無理にとは言わんが」
「いえ、有り難く頂戴させていただきますわ。クレイアード様」
ナースの顔が悦びに満ちた。どうやらセラの食事を眺めていたのではなく、黄金の皿の方を見ていたようだ。さすが強欲である。
「……」
ヴァルイレスは、俯いてズボンをぎゅっと掴んでいた。ラグナルはそんなヴァルイレスに近づいてそっと頭を撫でた。
「お前は間違っちゃいない。助けてもらっといて礼も言わずによく分からねぇ罵詈雑言飛ばす女が正しいことなんか言うはずねぇだろ? だから気にすんな」
ヴァルは微動だにしない。泣くのをグッと堪えているのだとラグナルには分かった。
「少なくとも、俺はお前の容姿なんか気にしてないぜ。例えお前がキモイオッサンでも俺はお前を今と変わらずに評価したさ」
《王座戦争》の中止に使えそうだから。という本音は当然伏せた。
「本当、ですか?」
「当たり前だろ? というか、容姿のせいにするヤツこそ容姿に甘えてるってのが俺の持論だ。特にマリニスカは酷いもんだ。可愛い顔してんのに、意味不明に妬んで————」
白目とだらしなく出た舌。現在は酷い容姿である。
「————今はヒデェ顔だな」
「……ぷふっ」
ヴァルイレスは思わず笑ってしまった。
「お、笑ったな」
「あ、ごめんなさ————」
「良いんだよ笑っとけ、仕返しだ」
「わ、分かりました。ふふふ、変な顔……」
ヴァルイレスが少し涙を浮かべながら笑う顔を見て、ラグナルも自然に笑顔になった。少し和やかな空気が2人の間に流れた瞬間————。
「わぁ! 何てエッチな顔なんだ!!」
変態的な言葉がそんな雰囲気をぶち壊した。明るく弾んだ声で部屋に駆け込んで来たのは、フットマンと甘い休憩に入っていたはずのルナだった。姿は元に戻っている。
「来たか、性欲の化身」
クレイアードが軽蔑の混じる視線を向けて言うとルナはグッと親指を立てた。
「ありがとう、最ッ高の褒め言葉だよ。もっと言って良いよ! 君みたいなロリっ娘の口からそういう言葉が出て来るなんてそれだけで興奮できるし!」
「では今後言わぬようにしよう」
「おっと、それは残念。でもその残念な気持ちを消し飛ばすくらい、今のマリィちゃんは良い顔してるよ。何だい何だい君、性格は下劣だけど、こんな物凄くエッチな顔が出来るなんてボク全然知らなかったよ。白目もだらんと出た舌も最高だ! あ、どうしよう、勃起してきた。もう無抵抗なマリィちゃんのお口にズポッと! 挿っちゃおうかな!?」
「セラ」
「分かった」
多く言葉を交わさずともナースの気持ちを理解し、セラはルナの背後に立つと頭を掴んでそのまま持ち上げた。
「ッ〜〜〜〜! また君か! 邪魔しないでくれよ!」
「テメェこそ、凝りもせず人前でやろうとするんじゃねーよ。よく分かんねーけど、それを見せられるのが嫌なヤツだっているんだからよー」
「断る! ボクはこれからも、隙あらば公衆の面前でやって行きたいと思っている」
「じゃあこの手を放す訳にはいかねぇな」
「……かまわないさ」
「あんだと?」
「ビンビンのまま触れたい相手に触れられない。このお預け状態もまた、よくよく考えたら滅茶苦茶興奮することにさっき気付いたんだ。ごらんよボクの剛直を! こんなにビンビンだったこと今までなかった。先端からも、こんなに溢れて……あぁ我ながら本当に素敵な状態だ。自分のこれをオカズに女の子の方で十回はイケそうだよ」
ルナの下半身に視線を向け、ナースはすぐに目を逸らした。
「……あの、先ほどラグナルから、ルナクリークは殿方とお楽しみになっていると聞きましたわ。どうしても発散したいのなら、またその殿方を誘ってみてはいかがかしら?」
「あぁ、あの子ね。もう無理だよ。激しくしすぎちゃって気絶した」
「あら……」
ナースが呆れ気味に言ったところで床に黒い染みが広がり、その中からゆっくりと執事のガルトルが姿を現した。
「どうやら皆様お揃いのようですね。マリニスカ様は……すぐに医務室の方へとお連れしましょう。あれくらいならば完治に三分も要りません」
マリニスカは気絶したまま黒い染みの中へと沈んで行った。それから、ガルトルはおもむろにポケットから懐中時計を取り出して時刻を確認し始めた。
「時間のようです。ふむ……仕方ありませんね。マリニスカ様には後で個別に《王座戦争》の説明をいたしましょう」
「《王座戦争》の説明、ですか?」
ヴァルイレスが訊ねると執事は頷いた。
「はい。《王座戦争》の前にはルールを説明する義務がございますので、もう既にご存知かとは思いますが、僭越ながら今ここで説明させて頂きます。大切なことですので皆様もしっかりとお聞きください。また、疑問がありましたら遠慮なくご質問ください」
「分かりました」
「《王座戦争》は明日の朝日が昇った瞬間……正確には午前五時三十分からとなります。それまでの時間は、戦いに備えて英気を養う為の猶予であるとお考えください。万が一、この期間中に他の《七罪魔》へ攻撃を行えば、魔術拘束を受け《王座戦争》初日に無防備な状態を敵に晒すこととなりますので、ご注意ください」
「ねぇ」
ルナが声を上げた。
「何でしょう?」
「さっそく二つ質問なんだけどさ〜、そのルール違反って誰が判断するの? あと、攻撃って、例えば自分が意図してなかったところで相手に被害が出ちゃった場合も、攻撃をしたとみなすの?」
「その質問にお答えする前に、開催式の目的についてお話しておきましょう。開催式は、民衆に《王座戦争》の始まりを知らしめる以外に、この式典自体が一種の大魔術となっております。この過程を経ることで、初めて《七罪魔》は倒した相手の魂を己の《礎》として取り込むことができるようになり、《王座戦争》のルール下に置かれることとなります。つまるところ、一つ目の質問である「誰がルールのジャッジを行うのか?」という問いに関しましては、《王座戦争》という魔術そのものが、ハッキリとした基準で自動的に判決を下すと、お答えさせていただきたいと思います。次に、どのようなものを攻撃とみなすか、という問いに関しては、攻撃するという意志を持って行われた行動は、攻撃とみなされると、お答えしておきます」
「ふ〜ん。じゃあさ、例えばずっと前から張ってあるボクの屋敷の結界に、開催式の後で《七罪魔》の誰かがうっかり近づいて作動しちゃっても、ボクは拘束されないんだね?」
「はい。しかし、あらかじめ張ってあった結界に引っ掛けることが目的で、意図的に誰かを連れ込む、もしくは誘導した場合は攻撃とみなされます」
「それを聞いて安心したよ。これで心置きなくのんびりできる」
「ちなみに、誰かに命令をして攻撃させた場合も、敵意を持った攻撃と判断されますのでお気を付けください。他に、質問のある方はいらっしゃいませんか?」
執事は《七罪魔》たちを見渡すが誰も手を挙げなかった。
「では次に、戦闘許可区域について説明させて頂きます。戦闘許可区域は王都のあるゼルグザリガを除いた魔界の全土です。ゼルグザリガで戦闘を行った場合は拘束されます」
「質問をしてもよろしいですか?」
ナースが軽く手を上げて言った。
「どうぞ」
「戦闘中、もし事故で王都に被害が出てしまった場合は————」
「即刻戦闘を中断して頂ければ、特にペナルティはありません」
「分かりましたわ」
ナース以外にそれ以上質問をしようとする者は居なかった。
「では最後に、《王座戦争》の期間について説明させて頂きます。《王座戦争》は明日から七日間行われます。七日目の日付が変わった瞬間に《王座戦争》は終了し、その時点で二魔以上の生き残りが居た場合は……強制的に現魔王様の寿命を延ばすための《礎》となってしまいます。そのような結果とならないように全力で————」
「ちょっといいか?」
今度はラグナルが執事の言葉を遮った。
「何でしょうか?」
「《王座戦争》中に、もし魔王が死んだらどうなる?」
ラグナルが平然と発したその言葉に、クレアと、言葉を深読みしなかったセラ以外の全員が驚き、静まり返った。別に魔王を倒すと口にしたわけではなかったが、その発言はそう捉えられても仕方の無い物だった。
「……え、何だよこの空気」
「あの、聞きようによっては、叛意があると捉えられる発言でしたよ?」
ヴァルイレスに言われてラグナルは「はあぁ!?」と声を上げる。
「いやいやいや、なんでそうなる? 死んだらどうなるか聞いただけじゃねぇか!」
「何故、魔王様がお亡くなりになられたらどうなるのか、気になったのですか?」
ガルトルに言われて、ラグナルはため息を吐きながら頭を掻いた。
「あぁ、いや、ほら……今回の《王座戦争》は、お義父様の寿命が残り僅かになったから始まったもんだろ? もしお義父様が急死したら《王座戦争》がどうなるのか、普通は気になるもんだろうが。ったく叛意がどうとか、勘弁してくれよ……」
ラグナル以外の《七罪魔》たちは、これまで《王座戦争》中に魔王が死亡したという前例が無かったことで、魔王は《王座戦争》終了まで健在で当然だと思っていた。
しかしラグナルの疑問で、魔王が死ぬことは無いと言い切れる根拠を、誰も持っていないことに気づいた。
ガルトルは、《七罪魔》たちから答えを促される視線を受け、口を開いた。
「……《王座戦争》には、魔王様の残りの寿命を最終日で固定する術式も含まれています。故に、最終日前にお亡くなりになることはありません。とは言え、不死になっている訳ではありませんので、もし他殺された場合、《王座戦争》は失敗。それに伴い《魔国術式》も崩壊となりますが……魔王様が必ず魔界で最強の魔族となる《王座戦争》の仕組みと、その魔王様を討つ可能性を持つ勇者が、現時点で確認されていないことから、他殺に関しても心配は無用であると断言させていただきます」
「そっか。はぁーあ、それを聞いてなんかほっとしたぜ」
軽い口調で言うラグナルにつられて、周囲の空気も緩んでいく。
「ラグナル」
だがそんな中で、クレアだけはどこか楽しげな視線をラグナルに注いでいた。
「ん?」
「楽しみにしているぞ」
「はぁ?」
ラグナルには言葉の意味がまるで分からなかった。
「では、そろそろ式場へとご案内いたします」
ガルトルが時計を見ながら言った。
「セラ、絶対に生き残りましょう」
「もちろんだぜ!」
セラはルナを放るように離すと、ナースと大きさの違う拳を軽くぶつけ合わせた。
「あぁどうしよう、今から色んな魔族が大勢いる前に出るのに、おちんちん大きくなったままだ……。ヤバい! 余計に興奮してきた!」
はぁはぁと息を粗くしながら恍惚の表情で言うルナ。
「ルナクリーク様、誠に申し訳ないのですが、そう言った行為は式中、お控えください」
ガルトルの言葉にルナは「ひゃふぁん!」と変な声を上げた。
「こ、ここに来てまさかの焦らしプレイ追加!? これはドS執事……間違いなくドS執事だ!! はぁあん! お、おかしくなっちゃうぅ!!」
視線を憚ることなく痴態を晒すルナからラグナルは視線を逸らした。メリィの姿になっていたとは言え、アレに劣情を覚えた過去の自分を殴りたかった。
「僕、生き残れるんでしょうか……」
しかしヴァルイレスの呟きが耳に入ると、ラグナルはすぐさま真剣な表情を作り、しゃがみ込んだ。そしてヴァルイレスと視線を合わせる。
「なぁヴァルイレス、式の後で話たいことがあるんだ」
「話たいこと、ですか?」
「あぁ、良いか?」
「良いですよ」
「ありがとよ。これで俺もお前も、もしかすると他の皆も生き残れるかもしれない」
ラグナルはヴァルイレスにだけ聞こえるようにそう言った。驚いた顔をするヴァルイレスに、ラグナルが口の前で人差し指を立てて見せる。ヴァルイレスは頷いてそれ以上は何も言わなかった。
「では皆様、魚のような臭いがどうしても苦手だという方は、しばらくの間、鼻での呼吸にご注意ください」
ガルトルの足元から黒い染みのような物が広がって行くと全員がその中に沈み始めた。
「あ、なんか食べたことのある物の臭いが……」
ヴァルイレスの呟きを皮切りにして、事前に鼻をつまんでいたラグナルと、自分の魔術であるが故にもう慣れてしまっているガルトル以外の全員が声を上げ始めた。
「う、臭ッ! 臭いですわ!」「ざっけんな! 何だこの臭い!?」「んんぅう! ここに来て鼻腔も攻めるなんてぇ……」
皆口々に臭いの感想を漏らす中、クレアはガスマスクを創造して顔に取り付けた。
「おい貴様……この不快な魔術を次回余に使うまでになんとか改善しておけ。良いな?」
マスクの奥でクレアがガルトルを睨んだ。
「……善処します」
ガルトルは笑みを浮かべると、生臭さに謎の興奮を覚えているルナと、自分専用のマスクを創ったクレア以外は、鼻での呼吸を抑えつつ、黒い染みの中へと沈み込んで行った。