それは地獄の一幕を切り取ったような光景だった。
漆黒の夜空の下で、安らかに眠っているはずの街の中で、場違いな炎が雄たけびを上げていた。一帯を焼き尽くし、無辜の生命を炭化させてもまだ足りないと嘆いていた。ビルだった残骸の壁面を舐めて、路上を疾走し、炎は何もかもを呑み込まんとしていた。
罪人を苛む業火が地上に顕現した、と言われれば信じてしまうような有様。けれども焼かれているのは罪人でなく、ただ暮らし、日常を営む人々だった。人間だったものが焼き焦がされ、そこらに散らばっている。阿鼻叫喚は四方十数キロにもわたるだろう。
凄惨な鉄火場の中。
一人の少女が、荒く息を吐きながら、地面に座り込んでいた。
「か、ふっ」
血を吐き捨てた。それから、手に握った直剣を支えに、なんとか立ち上がろうとする。モスグリーンの軍服を着た身体は、しかし言うことを聞かず、両足に力が入らない。
彼女の前方に暗い影が広がる。
否。それは漆黒の表皮を持つ、巨大な生命体だった。
そいつは通りの中心に、さもそこが自分の城であるかのように佇んでいた。
五階建てのビルに並ぶ体躯。四肢はなく、どす黒い半固形の物質が全身を構成している。見上げれば頭頂部と思しき箇所はあるが、丸く光る感覚器官が無数に並ぶだけだ。
「……救援を要請する、繰り返す……救援を要請する……」
少女は片耳に装着したデバイスに、か弱い声をかける。ノイズだけが響く。応答はない。
雄叫びを上げ、怪物がゆっくり傾いた。
半固形の身体から、数十の影がぼたぼたと落ちる。それら一つ一つが、猪に似た外見の異形であった。
獣のようないでたち、だが、地球上の生物ではない。弾丸の貫通を防ぐほど頑強な外皮。加えて、爆撃ですら傷一つ付かない、身体を覆う特殊な防御壁。
それだけの防御壁を実現するプロセスの名は、魔法。
旧兵器の一切を無為に還す非現実的な現実。
魔法を操る、異世界から侵略してきた、未知の生命体。
——故に総称、魔(ま)物(もの)。
燃え盛る街は魔物による蹂躙の結果であり、そして少女は、要人が脱出するまで魔物を引き付ける囮役だった。
「こんなところで、死ねるか……」
うわごとのように呟き、少女は異形たちをにらみつける。
少女はエリートだった。今も極秘任務の最中であって、それをこなせるだけの実力と経験があった。要人警護のプロフェッショナルとして腕を磨き、実績を上げてきた。
けれどそんなもの、戦場においては無力だった。
産み落とされた魔物たちは、既に道路を埋め尽くすほどの勢力になっている。立ち上がることすらままならない自分。灰と血に埋もれる市街地。
ぼやける視界の中で、ゆらめく赤と、そびえたつ黒に必死に焦点を絞る。
無力な自分。
何も守れず、何も成せず、ここで異形の怪物に敗死する結末。
「いや、だ……」
立ち上がろうともがく。
「私は、まだ……ッ」
歯を食いしばり、全身を苛む激痛に耐えながら前を見た。
今まさに疾走せんとする魔物の一体を、正面から見据えた。
「私は、まだ、まだ死ねない——!」
気概とは裏腹に、もう打つ手はなく。
それはこの時代にありふれた悲劇だった。
異形の存在に蹂躙される、無力な人類。
この時代において——それは数年前まではごく普通のことで、惑星そのものが恐怖劇の舞台だった。
今は違う。既にこれは、英雄譚である。
業火に満ちた地獄を切り裂く、閃光。
真上から白銀の奔流を叩きつけられ、少女の眼前で異形が蒸発した。
「…………え?」
綺麗さっぱりと、何もかも消し飛んでいる。最初から何もいなかったのではないかと疑ってしまうほど、それは呆気ない最後だった。
「——もう大丈夫だ」
声が、聞こえた。少女はガバリと顔を上げる。
瞬間、来た。
着地する際の足音は実に軽かった。だから、最初から彼がいたような気さえした。
降り立ったのは、少女とは異なる軍服を着込んだ少年だった。
戦慄するような蒼い外套——特定の国家に所属しない戦力、国連軍の魔導外装だ。
炎に照らされ、彼の横顔が見える。
おそらく同年代だろう。整った顔立ちだと思った。その、光を当ててもそのまま飲み込んでしまうような濁った眼さえなければ。
ちらと一瞥され、少女は身体の芯から震えた。同じ人間とは思えなかった。
「回収対象と合流した。敵を殲滅し安全を確保したい、攻撃の許可を」
『許可します』
「了解」
そこでやっと、気づく。
少年が右手に保持している両刃の大剣。少女の直剣より二回りは大きいだろうか。汚れ一つない、しかし濃密な死の空気を纏い——少女はそれを、魔剣だと感じた。
その剣の持ち主を知らぬ者はいない。人類が現在保有する最大戦力にして、あらゆる戦場を駆け抜け、魔物を殺して殺して殺し続けるキリングマシーン。
それが自分と同い年の少年だと聞いた時は、あまりの驚愕に言葉を失った。
眼前の彼は、現物だ。
「————覚(お)きろ、<アルカディウス>」
直後、大剣が蠢動する。刀身各部に設置された排出孔から過剰魔力が放出された。白銀の粒子が結ばれヴェールのように揺蕩う。
獣たちが、白銀の輝きを直視し震えあがる。それは間違いなく、至極明瞭に、自分たちを滅ぼす光だった。
叫びをあげて無数の魔物が疾走を開始した。後ろに控える巨体の魔物も、感覚器官全てを少年へ向ける。突進よりも砲撃が先んじた。人間の肉体など瞬時に蒸発せしめる魔力砲弾。無数の光が収束し、放たれる。
絶体絶命という言葉が生ぬるいほどの窮地だった。ネズミが猫に、なんて次元ではない。
これ以上ない死地。庇われていても少女は死を覚悟する、はずだった。
けれど。
少女は、しかと目を見開き、ただ彼の背を見ていた。
目をつむる、歯を食いしばる、そうした反応一切を忘れて、彼を見つめていた。
少年が剣を振り抜いた。
刮目していたというのに、剣筋はまるで追えなかった。気づけばすべてが終わっていた。
「…………ッ!?」
魔力砲弾の全てが砕け、空中で刹那の輝きに散る。斬撃を受け、いや正確に言えばその余波に巻き込まれ、存在ごと両断されたのだ。
それから——天が割れた。そうとしか表現のしようがなかった。斬撃が大気を切り裂き、空を衝いた。雲一つない夜空に太刀筋が刻まれるのを、少女は確かに見た。
数秒の沈黙。自分の心臓が止まってしまったのではないかと疑うほどの静謐。
魔物の群れが突然、順に全身から血を噴き出した。断末魔を上げる暇もなく息絶える。
最後に巨体の魔物が、天から地にギロチンが降ったように、真っ二つに裂けた。地鳴りを起こして、巨大な体躯が倒れこむ。
少女はその光景を呆然と見ていた。
「……痛む箇所は?」
結果に頓着することなく、少年は少女のすぐそばに駆け寄る。そこでやっと事態の決着を理解し、どっと力が抜ける。視界がぼやける。激痛でうまく言葉が出せない。
彼は少女の身体に応急処置を施し始めた。
少女はされるがまま、何故か気恥ずかしくなって、視線をそらす。
少年の背後を見た。
ビル群が不意に、揺れた。
違う——魔物。ビルに匹敵する体躯の魔物が、群れをなして、こちらの様子をうかがっていた。まるで背景のように振る舞っている影一つ一つが、小型の魔物をため込む母艦。
ヒッ、と、喉から怯えた声が漏れた。
「う、うし、ろっ」
「ああ。君の応急処置を終えたらすぐ討伐に向かう」
少女は恐怖から、パニックの一歩手前だった。彼は少し困ったような顔をした。探るようにして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「心配するな。危機はすぐに去る」
あまりに簡潔なセリフ。それを聞いて、少女は絶句する。何を、何を言っているのだ。これだけの戦力差をどうやって覆すというのだ。
応急処置を終えた少年が、立ち上がる。背中に迷いはない。
そこで、張り詰めていた糸が切れてしまったように、少女の視界が闇に呑まれていく。とっくの昔に限界を迎えていた。気力も体力も尽きていた。
「大丈夫だ。君は死ななくてもいい。君が死ぬ必要性はここにはない」
炎と敵で構成された世界に、彼は踏み出した。味方などいない。魔物たちが蠢動する。視界を埋め尽くす軍勢に対して、大剣を握り、彼は一人で歩み始める。
勝てるはずがない。数秒後には二人そろって挽肉になるのが道理だ。
「危機は去る。この戦争も俺が終わらせる」
正気の沙汰ではない発言。だが声は揺るぎないものだった。
「だから、もし、戦争が終わってまた会えたら……名前を教えてくれ」
助けた人にはこう言うことにしているんだ、と彼は告げた。
無数の魔物の雄叫びがとどろき、重なり、世界を揺らす。それを打ち消すようにして、少年が爆発的に加速して駆け出す。
その背中だけが、最後まで脳裏に焼き付いていた。
少女——咲ノ芽木葉(さきのめこのは)が次に目を開けた時、見えたのは医療室の天井だった。
彼も彼女も五体満足で、ただ積み上げられた敵の死骸が、結果だった。
既に<英雄>は次の戦場を駆けていた。
それは——この凄惨な侵略戦争に終止符が打たれる、一年半前のことだった。
◇
暗い時代があった。
夢を焼かれ、希望を燃やされ、涙する間もなく人々が炎に包まれる時代があった。
異界より現れた、魔物と呼ばれる生命体により、罪なき民草が虐げられること、二十年。
異界大戦と名付けられた戦争が始まって、二十年。
世界そのものを略奪せんとする彼らによって、無数の殺戮が行われた。
戦争が二十年間続いた背景には、彼らの肉体が誇るスペックが挙げられる。弾丸は通じず、金属すらその剛腕で捻じ曲げ、個体によっては水中や空中を自在に動き回る。
極めつけは魔法による驚異的な防御能力——核攻撃ですら殺害不能という理不尽極まりない現実に、多くの人々が斃れた。
恐怖。絶望。
悲鳴。鮮血。
ありとあらゆる時代を見ても、大戦が行われていた頃ほど、人々に笑顔がなく、怯え、日常的に虐殺が行われていたことはない。
土地を奪われ、資源を簒奪され、生命を蹂躙され続ける日々が続く。
——その凄惨な恐怖劇に、終止符を打った男がいた。
人々にとって光、善、正義の象徴。いかに残虐な手法を用い、醜い姿をし、超常を絶する能力を有する敵だったとしても、聖剣を用いて必ず挑み打ち勝った強靭な精神。
最終的には——侵略者たちの頭領、<魔王>と呼ばれる個体を討伐するに至った。
彼の手によって、人間と魔物の戦争は終わった。
まだ世界は元通りにはなっていないけれど、誰もが必死に生きている。
人間は生き残った魔物を倒し、世界を整備し、安らかに暮らせるよう前へ進んでいる。
これは人間が世界を生きる権利を勝ち取った後のおとぎ話。
これは英雄譚が終わった、その後の英雄譚。
ところで皆さんは、『英雄譚』とはどんな意味かご存じだろうか?
都内某所。
そこは人間が入るには、あまりに大きな部屋だった。
中心に据えられた円卓がミニチュアに見えるほど床は広く、天井は高い。
四方の壁には巨大なタペストリーがかけられ、シャンデリアの明かりが織糸を照らしている。描かれているのは神話に名高い、羊飼いダビデ(ちつぽけなもの)と巨人ゴリアテ(大いなる存在)の決闘だ。
「趣味のいいタペストリーですなあ」
あごひげをさすりながら、円卓の一角に腰かける壮年の男性が、部屋を見渡して呟いた。
「いえいえ……普段は使わない部屋ですから、みな様が来て喜んでますよ」
部屋に会する一同、その言葉に頬をほころばせた。この会のホスト——日本国内閣総理大臣の言葉だった。
各々が自分の席を見定め、最後に、部屋の入口から真向かいに当たる席に総理大臣が座る。
つい先日行われた各国首脳会談、その場にいた面々が、場所を変えて集っている。最初にタペストリーを誉めたのはアメリカ合衆国大統領だ。
「今日でしたね……」
「<英雄>——英赤雄介(えいせきゆうすけ)の、国際魔法学園への入学」
イギリス首相と中国国家主席の言葉を受け、総理が、円卓の中央にモニターを立ち上げた。
写真を見た一同、静かに目を伏せる。写っているのは一人の少年だった。視界を確保するためだけに短く雑に切られた前髪。光を当ててもそのまま飲み込んでしまうような濁った眼。
人類を阿鼻叫喚の地獄に突き落とした、異界大戦。終わりの見えない殲滅戦争。それに終止符を打った唯一無二の英雄。
彼はまだ、成人すらしていない少年だった。
「終わりにしなければならない。戦争が終わり、やっと我々が、大人としての責務を果たす時が来たのだ」
「まだ子供だったんだ……無力な大人のために立ち上がってくれたんだ。我々は全力で、彼が日常に戻ることを応援しよう」
声は次々に上げられた。一つ一つの言葉に、熱がこもっていた。
「文章として公開することはなくとも、改めて決議しようじゃないか」
なあ、とアメリカ大統領が進行を促す。総理は頷き、それから少し息を吸った。
「英赤雄介の私生活について、介入を一切禁ずる。意義のある方は、挙手を」
異議なし、と全員が口にして、それからふっと表情を緩めた。
この場にいる人間はみな、英雄の幸福を願うと口にした。
青春の意味など知らず、本来は同年代の子供らと遊んでいるべきころから、彼は戦場を駆けずり回っていた。何もかもを犠牲にして、人類に勝利をもたらしてくれた。
そんな彼に対して幸福をもたらさんとする祈りの、なんと美しいことか。
繰り返す、この場にいる人間はみな、英雄の幸福を願うと口にした。
彼らの内心は一つだ。
————んなワケねーだろ。
<英雄>。
世界を救った。異界の<魔王>を討伐した、最新にして最強の<英雄>。
なんとしても——ほしい。
(彼が動くだけで地球上のパワーバランスは崩れる)
(その時にはどうしようもないほど、勝利者と敗北者が浮き彫りになるだろう)
(すなわち、彼を抱え込めているか、否かだ)
打算。策謀。謀略。それらを経て巨大国家の首脳にまで上り詰めた彼らの視線は、蛇のようにギラついていた。
(絶対、何がなんでも獲りに行く。ホワイトハウスで肩を組んで記念撮影してやるッ!)
(バッキンガム宮殿でティータイムの準備はできている。茶葉から器まで超一級品だ!)
(満漢全席のため料理人を招集済みだ。中国のオモテナシを見せてやる!)
特に——アメリカ大統領、イギリス首相、中国国家主席、彼らはそれぞれ怨念じみたオーラを放出するほどに、鬼気迫っていた。
ホストである総理は嘆息する。
容易に想像できる展開だった。間違いなく、各国からは刺客が送り込まれている。
青春を失った英雄を、学園生活の中で自国に引きずり込む方法。瞬時に弾き出せる。
(刺客……ハニートラップ、だろうねえ。何処ぞから、彼が異性愛者であるって情報が漏えいしたみたいだし)
困る。困るのだ。
異界大戦という総力戦を終えたばかりの今、あらゆる国家はあらゆる方面において万全の体制ではない。復興に尽力している。それでも、優先順位をつけるなら——復興を終えた時に、英雄を確保している国になれるレース、乗らない手はない。
だが、そのレース自体が困るのだ。
(ウチとしては、何事もないままっていうのが一番だ)
英雄、英赤雄介の国籍は日本。つまり、この場にいる内閣総理大臣からどう奪うかというのが第一段階。
総理は内心、自分の選択が間違っていなかったことを確信した。
(他ならぬ、英赤雄介の後見人との協力体制。悪いけど私はこのレースに参加しない。レースが決着のつかないままであってほしいと願っているよ)
当然日本からも刺客を送り込んだ。だがそれはハニートラップのためではない。
護衛。要人警護のプロフェッショナルにして、かつては総理本人の護衛すら務めたエース中のエース。
それは、英雄と同じ年齢の少女だった。
なんたる運命か。総理は世界が今、自分を中心に回っているという強い実感があった。
海外の諜報員からは<天雷姫(ケラウノス)>という異名で恐れられた彼女こそが、英雄を守る盾となる。
また——彼女には、文書に残さず口頭で一つだけ、通達を付け加えた。それがどう転ぶかは、総理にとってもギャンブルだった。
鬼が出るか蛇が出るか。総理は手を組み、ひそかに口元をつり上げた。
◇
夢を見ていた。
御大層な夢ではない。ただ、公園で二人の少年少女が遊んでいるだけだ。
少年は、迷彩柄——野戦服を着て、あちこちに包帯を巻いていた。少女は白いワンピースを着て笑い声をあげている。二人で砂の城を作っている。
城が出来上がり、二人は汗をぬぐい、顔を見合わせる。
ああそして。
それから、少女は俺の眼前で眼前で灰となって解けていき——
結局今日も彼女を救えないまま、俺はベッドの上で目を覚ました。
「……あー」
上体を起こすと、最初に目に入ったのは、壁に掛けられた学生服だった。
あくびをかみ殺しつつベッドから下りて、寝間着のパジャマを脱ぎ、学生服に着替える。
鞄を掴んで部屋のドアを開け、ひとまず一階へ向かった。
「朝飯は……駄目だな、あんま食欲がねえ……」
キッチンをスルーして洗面所に入ると、鏡に黒髪短髪の男が映り込んだ。タレ目気味の赤い三白眼がこちらをぶっきらぼうに見ている。
髪型を手早くセット。練習の甲斐あってすぐ完了。よし。
制服にしわがないか確認。ピッカピカだ。よし。
丁寧に歯を磨く。虫歯は一つもない。よし。
鼻毛がはみ出ていないか確認。よし。
一歩引いて全身を念入りにチェック。よし!
「……不快感は与えねえ、よな?」
今日、俺は多くの人と出会う。第一印象ではとにかく不快感を与えないのが大切だ、とこの間読んだ本に書いてあった。要するに清潔感があればいいらしい。でも清潔感がない人間って何だ? ドブまみれはダメとかか?
「雄介君、はやいねー。おはよー」
その時、真横から眠そうな挨拶が飛んできた。
見れば我が同居人にして後見人である女性が寝間着姿で立っている。
スーツを着ればどこからどう見てもデキる大人の女性なのだが、こうしてだらしない恰好だとこいつほんとポンコツだな。まあ中身が実際ポンコツだから仕方ないんだけど。
「おお、おはよう、マキナ。食欲ねえから朝食はいいや」
「分かったけど、いいの? おなか空いちゃうわよ?」
「まあ大丈夫だろ、多分。お前こそ二度寝する前にさっさと食べた方がいいぞ」
「二度寝するの前提!? 私のこと何だと思ってるのよ!」
ブロンドヘアーを振り乱して、保護者であり家主であるマキナ・アーデンクルスは俺を指さした。
「君本当に年上への敬意とかが足りてないから気をつけなさいよ! 向こうではちゃんと敬語使わないとダメだかんね!」
「それぐらい分かってる。尊敬すべき相手にはきちんと敬語を使うさ」
「……あれ!? 尊敬すべきでない人になってる!?」
マキナは愕然としていた。
いや、確かに尊敬すべき面はあるが、他の面がありすぎてなあ……
学校指定の革靴を履いて、ふうと一息。
「じゃあ、頑張ってきてね。もう荷物は部屋に運び込まれてるって連絡きたから」
その言葉には少し、寂しげな色があった。
俺が今日から通う学校は全寮制であり、この家を離れることになる。一年にも満たないほどしか住んでいない家なので特に愛着はない。家には、愛着はないが。
「寂しくなったら会いに来い、マキナ。桜束魔法学園(おうそくまほうがくえん)はいつでも見学可だからな」
「……寂しくなるのは誰ですかぁ?」
絶対こいつ今ニヤニヤしてるから死んでも振り向かないぞ。
「お前に決まってるだろばーか」
「ふーん耳赤くしておいてそんなこと言うんだ、そっぽ向いててもバレバレなんですけどー?」
んんんんんッ! 死にたい!
咳払いしてなんとか顔の熱を吐き出し、足元のフローリングに立てていた鞄を掴んで、俺は改めて振り向く。
「定期的には帰ってくるつもりだが、しばらくは会えないだろうな」
「そうね、私は寂しいかな」
ストレートに言われると胸にくるものがある。
だが俺はポーカーフェイスを得意とするクールガイだ。必死に冷静な表情を取り繕いながら、口を開く。
「行ってきます、マキナ」
「うん。行ってらっしゃい、雄介君」
言葉を交わしてから、俺たちは少し笑った。
思えば長い付き合いだが、それでも。
何度見てもやっぱり、マキナの笑顔は綺麗だった。
「いい報告を期待してろよ。まずは一週間で彼女十人ぐらい作ってくるから」
「————は?」
綺麗な笑顔が一瞬で引っ込み、久々に見る絶対零度の表情にスイッチした。
「なにそれ」
「何言ってやがる、俺が学園に通うのを決めたのはそれが理由だって何度も言ってるだろ」
「うん、何度も聞いたけど、まだ言ってるの?」
「当たり前だ!」
学生生活への憧れなんて要するに同年代とのつながりしか求めてねえよ。女友達と食事したり女友達と買い物したり、あるいは、こ、恋人と手をつないで帰ったり……!
「俺の野望は絶対に邪魔させねえ。いいか俺は、俺は絶対に、彼女をつくるッ!!」
熱く迸るパトスのまま、俺はマキナにそう宣言した。
反応を見れば、その、なんとかいうか。
こんなに目に光のないマキナは初めて見た……
「何度も何度もやめるよう言ってもまだ駄目、なの?」
「あ、当たり前だろ。何人たりともこれだけは譲れねえ」
マキナのあまりの状態に思わず声が震えた。どうしたんだこいつ。
「わ、私と一緒に暮らしていたことはどうなるわけ!」
伏せがちになっていた顔をガバリと上げて、突如マキナが掴みかかってきた。
「七歳差だよ七歳差! 誤差じゃん! むしろちょうどいいじゃん! もう同棲じゃん! もし彼女ができても絶対良くは思わないって!」
「え、いや、その時はちゃんと紹介するから大丈夫だって」
心配してもらえるのはありがたくはあるが、たまには気を楽にしてほしい。
そういう意味もあって優しく言い聞かせると、マキナは完全に硬直した。
大丈夫か? 冷属性魔法でも浴びたのか?
「ていうか俺、いい加減もう行くけど、おーい? 大丈夫か?」
寝間着姿で掴みかかってきているから、視線を顔から少し落としただけでまずい。もこもこのパジャマに押し込められた身体というか肌と肌でできた線というか、なんなんだこれ。パジャマはち切れそうじゃねえか。
胸倉を掴む手をゆっくりと解いてから、俺は一歩距離を取る。
途端、マキナの両腕ががくりと垂れ下がる。
「なんか、よく分かんねえけどさ。元気出せよ。安心しろ、結婚式の時、ぶっちゃけお前が何言っても俺は泣く自信がある」
「その前に絶対私が泣いてますけど!?」
再度マキナが絶叫したときだった。
彼女が片耳に引っ掛けていたデバイスが僅かに震えた。マキナが慌ててウィンドウを立ち上げる。魔力で編みこまれた、半透明の空間投影型だ。
「……ッ」
「あ? 仕事、か?」
答えることなく、彼女は表示されたメッセージに目を通していく。
この反応……マジなやつか?
訝しんでいるうちに、マキナがメッセージを読み終えたのか、ウィンドウを片手ではたくようにして消した。
「…………英赤雄介」
突然フルネームで呼ばれ、思わず背筋が伸びる。表情と声色もかつてのそれだ。服装さえ違えば、ここは前線指揮所へと変貌するだろう。
「貴官へ通達しなければならないことがあります。緊急かつ極めて重要性の高い事項です」
「……何なんだよ」
かつての語調で返しそうになり、一旦言葉をのみ込んでから言い直す。
「まず前提を確認します。貴官は、自分の立場を分かっていますか」
「どこにでもいる一般的な……悪かった嘘だよ冷たい目をやめろ。魔王をブッ殺して世界を救った英雄、これで満足か?」
ほぼ投げやりに答えてしまったが、仕方あるまい。
俺の返事に頷いてから、冷徹な上官だったころの姿勢と空気で、マキナはゆっくりと唇を動かした。
「貴官に恋人はできません」
「えっ」
素で絶句した。
いや。いやいやいや。は?
「ワリィ、マキナ、お前何を言ってんだ?」
「貴官に恋人はできません——現実を見なさい」
「嘘だッ!!」
俺は鞄を放り捨てて叫ぶ。そんな、そんなバカなことがあってたまるか!
何のために入学を決意したと思っている。さっきも言った通り、彼女をつくるためだ!
「分からないのですか? いえ、分かりたくないだけでしょう」
「止めろッ! 止めてくれッ! それ以上言うなッ!」
耳をふさいでのたうち回る。理解することを体全体で拒んでいた。……薄々、分かってはいたんだ。立場が立場であるがために、俺の野望は成就しないだろうということは。
でも、それを認めるわけにはいかない。生まれてこのかた女子の手を握ったこともなければ、そもそも肌に触れたこともほとんどないミスター童貞にとって、いかに足掻いても彼女ができないという縛りは死刑宣告に等しい。
現実から逃避しようとしていた俺の両手を耳からはがし、マキナはトドメを刺そうと口を開く。
「学園の生徒の中には——ハニートラップが存在します」
「言うなぁぁぁぁぁぁぁ!!」
俺のウハウハ学園ラブコメは、この瞬間終わりを告げた。
顔を覗き込んだまま、マキナが淡々と台詞を続ける。
「クラスの名簿を取得しました。教室には、貴官以外は女子しかいません。恐らく各国から、自国の女子を同じクラスにするよう圧力がかかった結果でしょう」
「…………」
「ハニートラップに引っかかった場合、高確率で子供を作ろうとするでしょう。受胎するまで何度も、何度でも。そして無事妊娠すれば、貴官のような馬鹿は終わりです」
「……なん、で」
「一人で世界のパワーバランスを崩せる人材ですから、貴官を使い世界の主導権を取ろうとします。つまり貴官は人間ではなく、戦力として、絶対的な兵器として扱われます。当然人権なんてありません。貴官へは妊娠させた相手と子供を人質として命令が下されますから拒否もできませんね」
「あ、あははは……」
笑うことしかできない俺に対し、容赦なくマキナは現実を突きつけた。
「だから貴官に恋人はできません。できてはいけません」
「ちょ、ちょっと言ってる意味が分かんねえや。三行でお願い」
「在学中に
彼女つくったら
人生終了」
「あああああああああああああああああああああ!!」
こうして——俺のクソッタレな学園生活は幕を開けたのだ。
◇
魔導リニアモーターカーは音もなく進んでいた。
二十年に及ぶ大戦争——異界大戦を通じて人類側に起きた技術的ブレイクスルー。
それは侵略者である魔物を解析することで実現した。
何故人類はあれほど追い詰められたのか? 何故人類はそこから巻き返せたのか?
すべての答えは、魔力にある。
魔力。人類が発見できていなかった、大気中に存在する物質。
魔物はそれを用いた防御魔法によって、ことごとく人類の攻撃を防いでいたのだ。
そして、その解析に成功した人類は、魔力をエネルギー源としたまったく新しい科学法則を導き出した。電気ではなく魔力が動力源となり、ついには魔力を直接ぶつけ、防御魔法を貫通し魔物を殺傷するに至った。
以上の科学法則、並びに科学法則に従って行われるエネルギーの変換・使用を、俺たちは魔法と呼んでいる。
「…………魔法で彼女が作れねえかな」
土台無理なことは分かっていても、そう吐き出さずにはいられなかった。
このリニアモーターカーだって、大気中の魔力を燃料として、俺を学園まで運んでいる。
止まれ! 止まってくれ! 俺をハニートラップのるつぼになんて連れて行かないで!
俺の念が通じたのか、車体は減速していき、ついには停止した。
『ありがとうございました。桜束魔法学園駅、桜束魔法学園駅です』
全然通じてねえ。
逡巡の後、モーターカーから降りる。ホームにはまるで人気がなかった。
背後で車体が動き出すのをしり目に、周囲を見渡す。駅を囲むようにして、あちこちにビルが佇み、朝日に照らされていた。
この駅自体が学園の敷地内に組み込まれている。つまり周囲のビル群は全て、学園の校舎や関連施設だ。
壁に走り寄って、窓越しに眼下を見やる。制服を着こんだ人々が、ぽつぽつと通りを歩いていた。
「すげぇ……」
感嘆の声が漏れた。ここはもはや都市だ。車内では意気消沈していて窓の外を見る余裕がなかったが、これだけ広けりゃ、ハニトラじゃない女子が一人ぐらいいるかもしれない。
でも少なくとも。
このタイミングで、無人のホームで俺を待っている女子は、明らかに怪しいだろ。
「……で、どちら様でしょうか」
振り向いた。ホーム中央に佇む少女がいた。
きれいだと思った——黒髪のロングヘアが風になびく。女子にしては高い背丈だったが、髪は彼女の腰ほどまで伸びていた。
服装は、学園の制服。女子用のスカートに、学校指定のスクールソックス。
目と目を合わせた。頭を揺さぶられるほどの美貌と、撃ち抜かれるようなとび色の瞳だった。
「警戒しなくてもいい」
「……さすがに、無理だな」
都市を一望した。学園の生徒らが活動を始めていることも確認した。きっと部活とかがあるんだろう。
ならこのホームが無人である道理はない。
「人払いをしたのは、英赤雄介。君が登校する際にパニックが発生しないようにだ」
「そりゃあどうも。お手を煩わせちゃって悪いですね、何しろ有名人なもので」
俺の軽口に微笑んで、両手を下げたまま、少女が歩み寄ってくる。
視線を落とす。彼女のスカートのベルト部分に、左右一振りずつの双剣がぶら下がっていた。
得物は把握した。
距離も掴んでいる。
先手、一撃で殺せる。
そこまで考えて——かぶりを振った。
「分かった、分かった! そっちのこと、もう警戒しないからさ、いつでも抜刀できるようにしないでくれよ!」
両手を上げ叫ぶと、少女が目を丸くする。
「じゃあ改めて自己紹介ってことで。俺は英赤雄介。しがない一般通過新入生だよ」
ヤケクソのような名乗りだった。
だが、きちんと考えは通じていたらしい。少女はわずかな身じろぎで抜刀の姿勢を解くと、すっとお辞儀をした。
「失礼をした。私の名前は——咲ノ芽木葉(さきのめこのは)。日本政府からの通達により君の生活をサポートすることになった、同じく新入生だ」
「そりゃあ、なるほど、どうもな」
手を差し出すと、顔を上げた彼女は一瞬面くらってから、握手に応じてくれた。想像通り、剣を握る際のたこがある。握手の間ずっと、彼女は俺の顔を見ていた。
「どうした、咲ノ芽さん? なんかついてるか?」
「いや……やっと名乗れた、と思ってな……それと、私のことは木葉でいい」
彼女、木葉はよく分からないことを言って踵を返した。ついて来い、ということか。
二人並んで階段を下りる。人払いをしたというのは事実らしい、駅構内にはまるで生徒の姿がない。
隣の木葉の顔をちらりと見た。
先ほどの剣気。手練れの剣士であることは間違いない。
もしマキナから何も言われてなけりゃ、彼女のことを素直に護衛だと思っていただろう。
違う。違うだろ? 咲ノ芽木葉。
俺を甘く見るんじゃねえよ。入学初日。ただの補佐役。そのくせ熟達した剣術少女。
こんな属性てんこ盛りでハニトラじゃありません、は道理が通らねえだろ。
「にしても随分な挨拶でびっくりしたぜ」
駅構内を出て、俺たちは市街地と言って差し支えない地域に出た。
商業施設が立ち並ぶ大通りをまっすぐ進めば、目的地である校舎に着くはずだ。
「あれ、一秒足らずで、刀抜いて振れる姿勢だったろ。素直に怖かったわ」
「先ほどの……ああも容易く見破られるとはな。なるべくは自然体のつもりだったが」
「嘘つくんじゃありませんよ。木葉、わざとやってただろ? 気づいてくださいって顔に書いてあったぜ」
「ふふっ、そこまでお見通しか」
彼女は優しく微笑んだ。
ひとまず当たり障りのない会話をしてみたが、以外とノリが合う。なんというか、会話のテンポが取りやすい。計算かもしれねーが助かるぜ。
「……で、なんで木葉って呼ばなきゃいけねーんだ? 咲ノ芽でもいいと思うが」
自然体を装って切り込んだ。どうだ。
「ああ。私たちは幼馴染なんだ」
問いを予期していたかのような、流れるような回答。
思わず、俺の足が止まった。
「…………え、幼馴染? マジで?」
「うむ。君は、覚えていないだろう?」
振り向いた彼女は、寂しそうに笑った。
「聞き及んでいるとも。世界中の誰もが知っている。君は少年兵としての過酷な訓練と並行して、違法な人体改造手術を受けた。手術自体は失敗し……その上、副作用として、それ以前の記憶を失った」
すべて事実だった。魔法への適性を高めるための手術——何が手術だあれは人体実験だクソふざけるな——を受け、失敗した俺は、脳への過負荷が原因で記憶喪失になった。
俺は戦場にたどり着く前の俺を知らない。
「えーと、てことは……小学校低学年か中学年、あたりか?」
「そうだ。その時はお互い、下の名前で呼んでいたよ……雄介」
俺は——嫌でも、その呼び名に込められた、万感の思いを感じた。感じてしまった。
「……悪いな木葉、嫌な話させたわ」
「いや。いいんだ。これからまた、思い出を作っていこうじゃないか」
改めて、彼女の隣に並んで歩き出す。
自分が情けなく思えた。保身のために、大切なことを見失っていた気がした。
幼馴染。いい響きだ。いや超いい響きだな。絶対勝てそう。
「……ん?」
幼馴染らしいなこいつ。
入学初日。補佐役。凄腕の剣士。で、幼馴染。
「…………ん?」
怪しい属性が増えただけじゃね?
「ん? ん、んんんッ!?」
しかも幼馴染かどうかって——俺記憶失くしてるから判別つかねえじゃん!
もしそこにつけ込んでいるのだとしたら……この女、とんでもない外道だぞ!?
上機嫌そうに隣を歩く木葉の横顔に、俺は全身の震えを隠せなかった。
都内某所。
「ヌルいな——」
円卓の中心モニターに表示されているのは、今まさに通学路を和気あいあいと歩く、英赤雄介と咲ノ芽木葉の姿だった。
それを見て、アメリカ大統領があごひげをさすりながら嗤う。
「……何か言われましたか?」
「いいや、何も」
英雄の学校生活を見守りたい! という皆の総意で、こうして学園敷地内の監視カメラから映像が流されている次第だった。その場において、アメリカ大統領はゆっくりと席を立つ。
「ただ、もしも英雄と恋仲に落ちるような女子生徒がいるのなら——断じて、今映る君のところの生徒ではない」
指さされた内閣総理大臣はあいまいに笑う。実に日本人的な反応だと、大統領は鼻を鳴らした。
それから前のめりになって、指を一本立てる。
「いいか。男をオトすために必要なのは……すなわち男ウケだ」
「は?」
「私がたまたま目をかけている女子生徒がいるが、彼女はあらゆる点において高水準、死角のない完成度を誇っている」
「いや今、男ウケって言いました?」
総理の困惑をよそに、アメリカ大統領は画面に燃え上がるような視線を向ける。
「そんな彼女が英赤雄介と出会ったならば! 二人は熱い恋に落ちてしまうかもなァ! ハッハッハッハ!」
その時、監視カメラの映像に動きがあった。
しかけてきたか、と総理が唾をのむ中、大統領は天を掻き抱くように両手を広げる。
「さあ、行くがいいッ! ——<男性種の天敵(ハイエンド・チヤーミング)>!!」
木葉さんの幼馴染発言にブルっちまいながら歩くこと、数分。
大分駅から離れたが、まだ学園には遠い。いやマジで遠い。広すぎだろ。
「というわけで、その日は君と一緒の布団で寝ていたんだ」
今俺は、隣を歩く木葉の、俺との思い出話を延々と聞かされていた。
実際ここまで話が続くなら、本当かもしれないとは思う。ただ、決定的な決断ができないのだ。
「翌日は朝から公園に出て、二人で竹刀を振っていたんだぞ」
「へぇ……は? 公園で幼児二人が竹刀振り回してたのか?」
「うむ! ——むッ」
常識を疑う思い出話を意気揚々と披露された直後、木葉が動きを止めた。
ちょうど、曲がり角に差しかかろうかというところ。
「雄介」
「分かってるよ」
「え? あ、ちょッ」
何の気なしに、俺は角に飛び出す。
そこに、狙いすましたかのように、真横から食パンをくわえた女子が突っ込んできた。
足音。地面の振動。それらから接近を看破することは容易い。
片手に鞄を持ち、全力でダッシュしている。体勢は崩れ気味、カウンターの一撃で殺せる——違う。そうじゃない。
パンくわえてるぐらいだし、急ぎなんだろう。
ならば確実にぶつからないやり方を取るのが、スマートな男というもの。
「ふぉっ、ふぉいれくらさいーっ!」
一秒を拡大して分解し、一瞬を切り刻んだ先——刹那のみ、意識を戦闘用に切り替える。
突っ込んできた少女の骨格、筋肉を把握。次に取る動き全てを読み取り、俺の身体をそれに連動させる。見て反応するのではなく、見た時にはもう反応が終わっている。だから人間の知覚では捉えきれない。
反射的な動きも予備動作もなしの回避行動。水が流れるようにして、俺は突っ込んできた少女をわずかに避けて進む。
戦場ならば、敵の攻撃が俺をすり抜け、俺の攻撃が向こうの首をはね飛ばしていただろう。それは後の先というべき境地。
つまりこの場においては、彼女が俺をすり抜けて走り去っていくことになった。
名も知らぬ少女の背中を見送って、俺は歩みを再開しようと木葉に向き直った。
「——ん? え? あれ? はれぇ?」
一連の流れを見ていた木葉は、口を開けっ放しにしたまま、唖然としている。何度か目をごしごしとこすって、おそるおそる俺を指さした。
「い、いま、きみ、すり抜けてなかったか?」
「ああ、すり抜けたぜ。簡易な明鏡止水状態でも攻撃をすり抜けることは可能だ」
今度こそ、木葉は絶句した。
「で、なんだっけ。二人で竹刀振ってて、あっその時ってどっちの方が強かったの?」
「いやその、待て。控えめに言っても、絶技や奥義の類、だったと思うんだが……というかそもそも、ここでそれを使うか……?」
「急いでたみたいだし」
俺の返答を聞いた彼女は、天を見上げて、それから、疲れた表情で「分かった……」とだけ呟いた。
「分かるワケねーだろッ!?」
円卓をぶっ叩いて、アメリカ大統領が吠えた。
「なんで走ってきた可愛い子相手に奥義発動するんだよ! そうはならねえだろッッ!!」
「多分戦場で不意打ちを受けた時と同じ反応でしょうね」
総理の冷静な指摘に、大統領は歯噛みする。さすっていたあごひげを、数本まとめてブチブチと引き抜き握りこんだ。
「さすがは英雄……といったところか……英赤雄介……ッ!」
木葉と二人で歩いていて気づくが、一応、すれ違う生徒はいる。
だが俺を見て、声をかけようとするたびに、木葉が的確に視線で迎撃しているのだ。人間、動き出そうとした瞬間を鋭くにらまれたら、思わず静止する。その隙に木葉は俺を急かして進んでいく。
慣れてるな。ただの補佐役じゃない。要人警護……いや、さすがにうがち過ぎか?
そう考えに耽っていると、ついに木葉の警戒を突破する生徒が現れた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
振り向けば、先ほど激突しそうになった少女が、パンを片手に追いかけてきた。
「何ですかさっきのっ!? 私、あなたのことをすり抜けませんでしたか!?」
「ああ、すり抜けたよ?」
問いに答えると、女子生徒は完全にフリーズした。
俺たちと同じ制服。ただワイシャツのボタンは上二つほど外していて、かなり着崩している。それで、その……ええと……マキナよりおっぱいおっきいな!?
凝視しないよう視線を必死に滑らせるも、スカート丈がなぜかミニになっている。ふとももまでを長いソックスが覆っているが、僅かに見える肌色が逆に心臓に悪い。どうしようもなくなって顔を注視した。背中まで届く赤髪に、少し吊り上がった碧眼。彼女もまた、その場にいるだけで空気を自分色に染め上げてしまうような美少女だった。
「な、なんで、ですか……?」
「一瞬明鏡止水状態になって——」
「違う! これは理由を問われているんだ雄介」
木葉の素早い指摘に、なるほどと手を打つ。
「いや、パンくわえてたでしょ? 急いでんのかなって」
「そんな……あり得ません、教材には、これをすれば激突率が百二十%向上すると……」
ぶつぶつと考えこみ始めた少女相手に、木葉が、いつでも俺を守れる位置取りを確保した。
「え? パンくわえて走ってる子って警戒対象なの?」
「警戒レベル最大の要観察対象といったところだな」
思わず小声で問うと、低い声で剣呑な言葉が返ってきた。マジで? なんで?
「と、とにかく、仕切り直しましょう!」
「……何を?」
「私はエリーナ・アートフィールドといいます。雄介さん、あなたと同じ新入生ですー」
「ああ、自己紹介ね。俺は英赤雄介。こっちは幼馴染の——」
「……咲ノ芽木葉。すまない、急いでいるんだが」
幼馴染と言った途端に、エリーナが少しだけ、木葉へ視線を向けた。
「雄介さん兵科ですよねー。私も兵科ですし、学校まで一緒に行きましょうよ〜! あ、私のことはエリーナでいいですからっ」
だが次の瞬間には、彼女は俺の右腕を絡め取ってずんずん歩き出した。
ちょ、ちょっ……右腕がすごく幸せになってる! 柔らかいモノに挟まれてる! 何これ何だこれ! 初対面でこれってどう考えてもハニトラだろ!
木葉は目を見開き、愕然としていた。そりゃそうだ。大胆不敵にもほどがある。
「ご、ごめん、ちょっと離してくれると……」
「いやあ、学生寮に先入りしていたんですけどー、入学式の時間間違えて飛び出しちゃったんですよ! さっき気づいたんですけどー、一時間も間違えちゃってました〜!」
てへ! と自分を小突くエリーナ。
……俺は無言で腕を振りほどくと、彼女の顔をのぞき込んだ。
「エリーナ。学生のうちはいいが、もしお前が兵士になるなら時刻確認だけは怠るな。場合によっては、お前だけでなく部隊に損害が出るぞ」
「…………あれ!? ガチ説教されてます!」
「当たり前だろーが!」
勝手なイメージだが、学び舎とは正しさを正しく学ぶ場所だ。兵科というからには、その辺りはきっちりするべきだろう。
「うぅ……教科書と全然違う……」
何やらまた一人で反省会を始めてしまったが、大丈夫かこいつ。
「もしかして、私みたいなタイプ、苦手ですか……?」
「え、いや、分かんね……初めて話すタイプだし……」
「じゃあ、好みのタイプとかって、どんな感じですか〜?」
歩きながら、さりげなく繰り出された質問に、思わず心臓が跳ねた。
落ち着け。落ち着け俺。クールガイはこの程度で動揺しない。
ていうかこれ、ほぼ尋問だったり、するか? もしそうなら、こいつはハニートラップってことになる。
情報戦だろうと英雄は簡単に負けねえ。それを教えてやるよ。
「そうだなー、胸がXサイズ以上とかかなー」
数秒、女子二人は、視線を真下に落とした。
それから、エリーナは俺の袖から手を離した。木葉は数歩退いた。
「…………なんちゃって、はははっ」
二対の視線が『は?』と言っていた。うん、迎撃成功だな! ガハハ!
大通りを冷たい風が吹き抜けて、俺は頬をひきつらせた。
都内某所。
「空振りの化身といったところか——」
円卓の中心モニターに表示されているのは、微妙に気まずい感じで通りを歩く雄介ら三名。
その中でも特にエリーナを見て、イギリス首相が茶をすすりながら嗤う。
「……何か言ったか? 言ったよな?」
「いやいや、何も」
ティーカップをソーサーに置いて、イギリス首相はゆっくりと席を立つ。
「ただ、もしも英雄と恋仲に落ちるような女子生徒がいるのなら——断じて、今映る君のところの生徒ではない」
指さされたアメリカ大統領は額に青筋を浮かべる。実に無様だと、首相は唇を歪めた。
それから前のめりになって、指を一本立てる。
「いいだろうか。男をオトすために必要なのは……すなわちサディズムだ」
「は?」
「私がたまたま目をかけている女子生徒がいるが、彼女は高貴さ、高潔さ、しなやかな鞭さばきを誇っている」
「いや今、サディズムって言ったか? あと何、鞭さばき?」
大統領の困惑をよそに、イギリス首相は画面に自信に満ちた視線を向ける。
「そんな彼女が英赤雄介君と出会ったならば! 二人は熱い恋に落ちてしまうかもしれん! ハッハッハッハ!」
その時、監視カメラの映像に動きがあった。
来やがったか、と大統領が唾をのむ中、首相は天を掻き抱くように両手を広げる。
「さあ、行くがいいッ! ——<妖艶なる支配者(ピグレツト・クイーン)>!!」
それは校門というにはあまりにも大きすぎた。
「でけぇ……」
三人での楽しいウォーキングの果て、俺たちは校舎に着いたのだが……校門が五階建てのビルぐらい高い。この学園、人間のスケールを見誤っているとしか思えない。
「大きいな……」
「ああ……魔物でもこういうやついたわ……」
「いたんですか?」
エリーナの問いに頷くと、彼女は興味を示し、俺にすっと寄ってきた。近い近い! さっきから距離感がバグってる!
こいつ、絶対ハニトラだろ!
「てことはそれ、多分雄介さんが倒したんですよね? どうやって倒したんですか〜?」
「え、えーと、確か両断したら死んだ」
「……………………」
「ひどすぎて、まったく参考にならないな……」
言葉を失うエリーナと額を押さえて呆れる木葉。
「殺したら死んだと同じような意味じゃないですか!」
「大体、君は斬撃を飛ばしていただろう。あれを剣術と認めるのには断固抵抗するぞ」
「そりゃ俺だって剣術だとは思ってねーよ……ん?」
三人でやいのやいのと騒いでいると、不意に車の駆動音が聞こえてきた。
見れば、黒塗りの高級車がこちらめがけて疾走している。
おそらくVIPの登校なのだろう。高級車は校門の真正面に停まった。窓にはスモーク加工が施されており、中は見えない。自然と、俺たち三人は横にどく。
後部座席から降りてきた黒服が、車体から校門にかけて赤いカーペットを敷いた。
それから——黒服はそのまま、カーペットの上に四つん這いになった。
「なんか違くない?」
思わず声に出してしまったが、両隣の二名も同意らしく頷いている。
そして、高級車のつややかなドアが開く。
颯爽と降りたのは、まごうことなき、幼女だった。
頭頂部は俺の腰ほどまでしかないだろう。恐らく特注サイズの制服。新入生用のリボン。スカートの下からは、黒のストッキングに包まれた細い両足が伸びている。
もみあげ部分を縦に巻いた金髪が、朝日にきらめいていた。
気品のあふれた佇まい。あどけない顔つきの中に潜む芯の強さ。それらを見せびらかす彼女に、俺は目を奪われた。この子——自分の見せ方を分かって、やってやがる。
琥珀色の瞳が周囲を見渡し、それから眼前に跪く、もとい四つん這いになっている男を捉えた。
「このキャストルテ・アンブローズの初登校にしては、粗末な送迎車ですわね」
俺たちが少女に目を奪われている隙にだろう、四つん這いの男は口にギャグボールをはめ込んでいた。高級レストランの特等席に座るような振る舞いで、少女が男の背に乗っかる。それから、どこからともなく取り出した鞭で、男の尻をビシバシ叩き始めた。
ふご! ふご! と叩かれるたびに何か叫びながら、男はよちよち歩きで進み始める。
俺たち三人の時は完全に凍り付いていた。
「何もかも違くない?」
震え声を絞り出したが、両サイドからの反応はない。当然だわ。完全にドン引き案件だ。
楽しそうに男のケツを叩きまくる少女を呆然と眺めていると、不意に顔がこちらを向き、視線が重なった。
「——あらあら。あんなところに上等なリムジンがあるではありませんか」
背筋を悪寒が走った。
少女が蹴っ飛ばすようにして、黒服を乗り捨てる。転がった拍子にギャグボールが外れた男は、感極まったように「ありがとうございます!」と叫んでいた。何が?
「英雄の乗り心地は如何なものでしょうか……ねえ、英赤雄介さん」
近づくほどに、その大きな瞳に、俺の顔が映り込む。
……小柄で動き回られたら厄介だ。虚を突いて一歩踏み込めば首に手が届く、へし折ればいい。そこまで考えて、その思考を捨てるように、息を吐いた。
その時にはもう、動かずとも手を伸ばせば届くほどの距離になっていた。彼女はこちらを見上げる。見上げているのに、何故か見下ろされているような感覚がした。
「貴方、わたくしのブタになることを、許してあげてもよくてよ?」
「嫌です」
当然即答した。
「何故拒否することができるッ!?」
円卓をぶっ叩いて、イギリス首相が吠えた。
「キャス様からのお誘いだぞ!? ありがとうございますとむせび泣くところだろうに!」
「ちょっと貿易の話していい? イギリス禁輸国指定していい?」
大統領からの白けた視線を意に介さず、首相は震える手でティーカップの持ち手を掴み、べきりと砕いた。
「さすがは英雄……といったところか……英赤雄介……ッ!」
謎の勧誘を切って捨てて、俺は他二人にアイコンタクトを取った。
木葉もエリーナも無言で頷く。触るなキケンだ。三人でロリを放置して歩き出す。ついでに記憶から、今の頭に悪い光景を排除しようと努力した。
「そういやクラスって、校門内に入ったら自動で送信されるんだっけ? 見てみようぜ」
「いいですね! おんなじクラスだったら嬉しいですけどー」
そ、そうか? そう直球で言われると照れてしまう。
各々、耳に引っ掛けていたデバイスを起動させる。眼前で大気中の魔力が編み込まれ、半透明の空間投影ウィンドウを立ち上げた。
新着メッセージが一件。選択すれば、でかでかと表示されるA組の文字。ちらりと二人のウィンドウを見ると、同様にAの文字が見えた。
「……ワーオ。運命ってやつか?」
『あっはっは』
異口同音にわざとらしい笑い声をあげて、二人はそそくさとウィンドウを消す。
……これやっぱあれかな。各国からの圧力とかあったのかな。すげえ不安なんだけど。
俺が思い悩んでいると、背後から甲高い声が聞こえた。
「わたくしもA組でしてよ!」
嘘だろ——振り向けば、しっかり自分の足で歩いてくる、先ほどのロリがいた。
「初めまして、英赤雄介さん。わたくしはキャストルテ・アンブローズ。誇り高きアンブローズ家の次期当主でしてよ」
髪をなびかせ、彼女は凛とした視線を俺に向ける。
聞き覚えがある、アンブローズという名——記憶を探れば、すぐに思い当たった。
「……ああ、なるほど、道理で」
アンブローズ家。高貴な血筋であり、なおかつ様々な分野において無尽蔵ともいえる投資をしては成功している、野心家の一族だ。
その次期当主。ならばこれだけ立ち振る舞いが洗練されているのも頷ける。それにアンブローズ家には、俺は世話になったことがある。俺は思わぬつながりに破顔した。
「これは失礼しました、アンブローズ嬢。わたくしは英赤雄介と申します」
突然跪いた俺に、木葉がギョッとする。
「ゆ、雄介、まさか君もああいう趣味が?」
「違うわ! アンブローズ家には、戦役時代に世話になったんだよ……アンブローズ嬢、貴女のお父上からは恩を受けました。あだで返すつもりはありません。何か困ったことがあれば、ぜひ言ってください」
俺の言葉に、アンブローズ嬢は虚を突かれたような顔をした。それからふふんと自慢げな表情になって、懐から銀色のゴツい首輪を取り出した。
「きちんと分かっているではありませんか! では」
「ブタだけは勘弁してください……」
跪いたまま、俺は首を垂れた。っかしーな、アンブローズのおっさんよ、あんたが自慢してた娘さん、とんでもない性格じゃねえか。聞いてねえぞ。
「あーあと、飛び級とかじゃないですよね? 確か同い年と聞いてますが」
「無論、貴方とは同じ年齢ですわ。なので敬語はよくってよ」
「そりゃあ、どうも」
立ち上がり、四人で再び歩き出す。
木葉がまた面倒ごとが増えたと言わんばかりに頭を抱えていたが、スルーしておいた。
「そちらのお二人は?」
「私は咲ノ芽木葉だ」
「私はエリーナ・アートフィールドといいます。雄介さんのファンです」
いつの間にファンになったんだお前!?
戦慄していると、校舎入り口が見えた。どうやら上履きとかは特にないらしい。外履きのローファーのまま、校舎に入る。既に登校していた生徒らが、俺の顔を見て驚愕する。
「それにしても登校初日から、わたくしの寵愛を拒否する男がいるなんて」
「寵愛? それ寵愛だったの?」
愛の鞭ってか? 勘弁してくれよ。
「わたくしが嫌でしたら、一体全体どのようなレディなら寵愛を拒みませんの?」
いつの間にか隣にいたアンブローズ嬢の問いに、俺は内心でげぇっと呻いた。
今日二度目だよ、もう答えたよ。辟易しつつも、デマをとっさにでっちあげる。
「そうだなー、十三歳未満の子とかかなー」
アンブローズ嬢の表情が凍った。見れば、後ろにいた木葉とエリーナも同様だ。
また今回も迎撃成功してしまった……いい加減敗北が知りたい。
ていうか、アンブローズ嬢、お前がそのリアクションはおかしいだろ!
都内某所。
「場違い極まりないな——」
円卓の中心モニターに表示されているのは、微妙に気まずい感じの雄介ら四名。
その中でも特にキャストルテを見て、中国国家主席が手を組みながら嗤う。
「……何か言ったかね?」
「何も」
鋭い眼光で場を見渡しながら、中国国家主席はゆっくりと席を立つ。
「ただ、もしも英雄と恋仲に落ちるような女子生徒がいるのなら——断じて、今映る君のところの生徒ではない」
指さされたイギリス首相は全身を震わせながら紅茶をすする。一生飲んでろと、国家主席は一笑に付した。
それから前のめりになって、指を一本立てる。
「いいだろうか。男をオトすために必要なのは……すなわちストーキングだ」
「は?」
「私がたまたま目をかけている女子生徒がいるが、彼女は英赤雄介のあらゆるデータ、嗜好、ライフスタイルを把握し、もうそ……シミュレーションでは彼との婚姻に二千三百七十九回こぎつけている」
「は?」
首相の困惑をよそに、中国国家主席は画面にギラついた視線を向ける。
「そんな彼女が英赤雄介と出会ったならば! 二人は熱い恋に落ちてしまうかもしれん! ハッハッハッハ!」
その時、監視カメラの映像に動きがあった。
お出ましか、と首相が唾をのむ中、国家主席は天を掻き抱くように両手を広げる。
「さあ、行くがいいッ! ——<闇に潜む者(ストーカー)>!!」
一年A組の教室は、階段を上がって廊下を突きあたりまで歩いた場所にあった。
必然、他の新入生らが窓越しに俺を見ては手を振ったり写真を撮ったりしている。ここまで来ると木葉も必要最低限にしか人払いをしてくれないので、耐えろ、あるいは慣れろ、ということなんだろう。
自分の教室前で、俺は完全に立ち尽くしていた。ポケットに手を入れたり出したり、自分でも分かるぐらい挙動不審だ。
「……どうする? やっぱ教室入る前に音響閃光弾(フラツシユバン)とか用意するか?」
「中にいるのは敵の大群ではないんだが」
困惑する木葉に対して、エリーナは颯爽とドアまで近づく。
「やだなあ咲ノ芽さん。今のは雄介さんなりの、緊張の現れですよー」
教室のドアは自動ドアだった。スライド音と共に、ドアが開く。中では女子生徒らが一か所に集まって、じっとしていた。
「ほら。そもそも窓から見えてましたしー」
「そうですわね。ここは突きあたりの教室。ここまで来たという時点で、雄介さんがこのクラスなのは明白でしょう」
言われてみりゃそうだわ。
エリーナとアンブローズ嬢が悠々と教室に入ったので、俺も続く。木葉は俺の背後をしっかりキープしていた。
一か所に固まっている女子生徒は、全員フリーズしている。視線は残らず俺に向いているが、どう反応すればいいのだろうか。
「…………ど、どもっす」
片手を挙げて、信じられないほど震えた声を出した。挨拶は大事だ。
数秒の沈黙。
『ぎゃ……ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』
教室が爆発した。そう思ってしまうような絶叫だった。
「はあああああ!? 本物? モノホン? 英赤、雄介?」
「マジで言ってるのこれ、一年間同じ教室? 嘘でしょ!?」
「先月は英雄→←総理のアンソロを企画してしまい誠に申し訳ありませんでした……」
全員ぴーちくぱーちくとまくし立ててくるが、何も聴き取れねえ。
「え、えーと、まあ一緒に過ごしていくので、普通のクラスメイトとしてお願いします」
「絶対無理だと思いますわよ、これ」
アンブローズ嬢の指摘は嫌になるほど正論だった。
肩を落として、それからふと教室を見渡す。
「悪い、座席表とかってないのかな?」
「それなら前に表示されてるよ」
見れば黒板を模した巨大ウィンドウが、教室前方、教壇の奥に投影されている。
英赤という文字が、廊下側一番後ろの席に表示されていた。
「ありがと。とりあえず荷物置いてくるわ」
教えてくれた女子に礼を言って、自席へ向かう。
礼を言った瞬間にその女子がキャーと叫んだが、見なかったことにした。
さすがに一年間共に過ごす級友ら相手にぞんざいな態度を取るつもりはない。マキナの情報通りなら男子は俺だけ。つまり、英雄であり男子であるというのは、二重の意味で異物であることを意味する。その状態で孤立を貫いたら普通に陰口とか叩かれちゃいそうで怖いよ。
机の間を通り抜け、自席へたどり着く。
だが……なんか、先客がいた。
女子生徒が一人、机に突っ伏し自分の両腕を枕にしている。
「ん? あれ?」
何度も教室前方の座席表を確認するが、間違いなくここが俺の席だ。
「わあ雄介さん、隣の席みたいですね〜!」
エリーナが弾んだ声と共に背中を叩いてきた。それどころじゃない。
「おい、ここで間違いないんだよな」
「そうですよー……って、あれ? 席、間違えてますよー」
立ち尽くしていた俺の横をすっと抜けて、エリーナが爆睡中の女子の腕をつついた。微動だにしない。
「おーい、起きてくれー」
仕方ないので俺も手を伸ばし、女子生徒の肩を揺さぶった。
変化は劇的だった。
女子生徒の全身がブレ——一瞬にしてその場から消失する。
「なッ————」
エリーナが驚愕の声を漏らす。前触れも予備動作もなかった。それは縮地と呼ばれる、魔力に頼らない純然たる体捌きの技術。
「な、何ですか今のっ!? 一瞬で消えちゃいましたよ——」
紅い長髪を揺らし、エリーナは隣の俺を見た。そして目を丸くした。
既にそこに俺はいない。エリーナはただ一人取り残され、ぽつんと立っていた。
「…………あれぇ!? そして誰もいなくなってます!?」
わたわたと周囲を見渡すエリーナだが、俺たちは彼女の真後ろにいた。
俺の席で寝ていた女子は、瞬時に俺の背後へと回り込もうとした——ので、俺も同様に高速移動して、回り込んだ女子のさらに背後に回り込んだのだ。
「……結構速いな、君」
「……さすが、英雄」
互いに顔を見合わせた。俺は一歩引いて、彼女を観察した。
学校指定のスカートから、生足がすらりと伸びる。視線を上げると、暗めの茶髪が肩にかからない程度に切りそろえられていた。整った顔立ちだが、目の下にでっぷりとクマがあるのが目を引いた。グレーの瞳は眠そうに細められている。なんというか、すげえ不健康そうだ。
「申し遅れた。自分は恋海美(レンハイメイ)。よろしく」
ぺこりと一礼してから、彼女は俺を見た。
「今のはデモンストレーション。上々のはず」
「何のデモンストレーションですか……」
俺たちを確認したエリーナが呆れかえる中、俺は顔を寄せてそっと尋ねる。
「えっと、英赤雄介です。あの、今の瞬間移動みたいなやつって」
「察しの通り、縮地と呼ばれる移動術」
「……いや、恐れ入ったよ。俺は身体能力にモノ言わせてただ速く動いただけだ。でも君は違う。技術であの動きを実現していた。陳腐な表現だけど、俺は君に敬意を表したい」
事実だった。スピードで勝ちはしたが、不意を打たれたと想定すれば、決して油断できない。学生でありながらここまで動けるのは、普通にすごい。
「ええええ嘘!? なんか一番好感度稼いでます! これが最適解だったんですか!?」
隣でエリーナが仰天している。レンは俺の反応に満足げな笑みを浮かべ、それからエリーナにそっと視線を滑らせた。足から頭のてっぺんまでを見て、唇を釣り上げる。
「正統派、王道、無駄な脂肪。つまり没個性、単純、無駄な脂肪……相手にならない」
「…………ッ!」
途端、二人の間でバチバチと火花が散った。
俺はそれをシカトして、鞄を机の横にひっかける。絵に描いたような同士討ちだ、一生やってろ。
「とにもかくにも、雄介、おはよう」
背後に龍と虎のオーラでも出てそうなにらみ合いからイチ抜けして、レンは俺へ無表情のまま挨拶をした。
「ああ、おはようだな。今更だけど」
挨拶は大事なことだとマキナに言い含められているので、きちんと返す。
それにしても……縮地って特殊な歩法とか身体操作とかの組み合わせであって、魔力を使わないはずなんだよな。ただ速く動くだけならできるけど、そういうの憧れるよな……できないかな。
そんなことを考えていると、不意に正面のレンがびくんと跳ねた。
「お、おは、よう……?」
「……どうした。朝なんだから、おはようだろ」
挨拶の言葉が間違っていたら恥ずかしすぎる。マキナがパチこいてたってことじゃん。もしかしてこんばんはが朝の挨拶だったりするのか?
俺の疑念が膨れ上がる中、レンがびく、びくと小刻みに震えだす。
え、ちょ、なに、大丈夫か。
「…………おはよう、雄介」
痙攣が収まったかと思えば、先ほどまでまったくの無表情だったレンが、突如満面の笑みを咲かせて再び挨拶してきた。
どうした? 何をキメたんだ?
「今朝は少し冷え込むから、上着を着たほうがいいかもしれない。職場のエアコンが効きすぎていると、昨晩話していたし……」
本当に何をキメたんだ!?
「もう出ないと……あ、雄介、そんな……だめ、仕事に遅刻しちゃう。そんなっ……フォーリンラブな遅刻をしてしまう……っ!」
レンはよだれを垂らしながら、直立したままビクンビクン! と全身を震わせた。頬に朱が差し首筋に汗が浮かんでいる。
隣のエリーナがあまりの光景に絶句していた。今日はよく、見てはいけないものが見えてしまう日だ。
しっかしマジでどうなってんだろう。何が起きたらこうなるんだ?
「いや、もしかしてこれ、縮地の反動というか、副作用だったりするか?」
「んなわけねーですよ」
俺の推理をエリーナが即座に全否定する。
だがもしそうなら、さっさと保健室に運んだ方がいい。
判断は素早く、そして行動は間髪入れずに。戦場での鉄則に従い、俺は痙攣し続けるレンを抱き上げた。
「っと、あれ? なんか重い……服の下に暗器を仕込んでるのか」
「あの、お姫様抱っこの時ぐらい相手の武装を確認しなくていいです」
思えば、暗器の発祥は中国だったはずだ。袖の下とかスカートの裏側に小型の武器を仕込むのは戦場においては不必要だが、学園生活においては合理的だろう。
保健室の場所を聞こうと女子たちに振り向けば、全員キャーキャー叫んでいた。
「……この抱え方って何か、ハレンチな行いだったりするのか?」
「だからといってファイヤーマンズキャリーに切り替えるのはやめろッ!」
きちんとけが人向けの運び方にしようとしたら、木葉から一喝された。
「何故その場で襲わないッ!?」
円卓をぶっ叩いて、中国国家主席が吠えた。
「あの発情顔に興奮しない人間がいるのか! 即座にリミッター解除だろう!?」
「襲ってたら退学だろうに」
首相からの白けた視線を意に介さず、国家主席は奥歯が砕けるほどに歯を食いしばった。
「さすがは英雄……といったところか……英赤雄介……ッ!」
◇
レンの席は俺の一つ前だった。
保健室には運ばなくてもいいだろう、とみんなが言うので、ひとまず席に座らせる。
しばらく待てば、彼女はきちんと現実世界に帰ってきた。
「迷惑をかけた。申し訳ない」
ぺこりと頭を下げてから、レンは改めて自己紹介をする。
「自分は恋海美。中国出身、一年間よろしくお願いする」
俺の席の周囲に集まっていた面々は顔を見合わせて、それから各々名乗った。
「日本出身、咲ノ芽木葉だ。よろしく頼む」
「エリーナ・アートフィールドです! アメリカから来ました、私のことはエリーナで大丈夫です〜!」
「わたくし、ユナイテッド・キングダムより参りました、キャストルテ・アンブローズと申します」
「日本出身、英赤雄介だ。よろしく」
それから、俺たちより遅れて登校したクラスメイトらを見やる。既に席の数ぐらいはいそうだが。
「ところでなんだが、このクラスって俺以外男子いねえの?」
『…………』
四人の女子はあいまいに笑ったり露骨に顔を背けたりして、俺の問いを聞かなかったことにした。何とか言えよダボ。
やっぱりこれマキナの言い分は正しいことになるよな——ハァァ!? 異性と仲良くなっちゃいけないのに、クラスに異性しかいねえの!? ハメ技じゃねーかッ!
憤激冷めやらぬ内心のまま、机に肘を置いて頬杖をつく。
すると自席に座っているレンが、くるりとこちらに振り向いた。
「ところで雄介、其方(そちら)にとって好ましいパートナーの条件があれば教えてほしい」
げぇぇぇっと呻きそうになった。今日三度目だよ、もう答えに答えたよ。
辟易を通り越して無感情に、俺はまたもや嘘八百をでっちあげる。
「そうだなー、白い翼が生えてる人かなー」
「なるほど」
レンは頷いて、鞄から取り出した分厚い手帳に素早くメモった。使い古されている、ハンディサイズの辞書みたいな手帳だった。
「情報を更新。好みの異性は胸がXサイズ以上、13歳未満、白い翼が生えている、と」
「どんなモンスター性癖男だよそいつ」
「お前だが?」
木葉が半眼で俺を見た。
「あれ? 今のって通学路の会話も込み、でしたよね〜?」
「そうですわね。レンさん、貴女いつの間に聞きましたの?」
エリーナとアンブローズ嬢が顔を見合わせて、それからレンに問う。
確かにそれもそうだ。レンはぱたんと手帳を閉じて、堂々と言い放つ。
「最初から。雄介とはずっと一緒にいた。自分は雄介と同じ列車で登校している」
「…………!? !? ……!?」
完全に言葉を失ってしまった。登校初日から何してんの? 普通に話しかけろや!
戦慄する俺たちに構うことなく、レンはそこはかとなく胸を張って告げる。
「私は母国では<闇に潜む者(ストーカー)>と呼ばれ、恐れられていた。この程度は朝飯前」
「悪口じゃねーかっ!?」
恐れるっていうか腫れ物扱いなんじゃねえかなそれ。
だが触発されたかのように、エリーナとアンブローズ嬢はキッと視線を鋭くした。
「それを言うなら、私も本国では<男性種の天敵(ハイエンド・チヤーミング)>という異名を持っています!」
「ええ、ええ。わたくしとて<妖艶なる支配者(ピグレツト・クイーン)>という二つ名がありましてよ!」
「…………ッ!」
謎の張り合いを繰り広げる三人。再び、火花がバチバチと散り始めた。
ええと、二つ名っていうのは、つまり訓練兵時代の異名か? それなら三人とも、それだけ周囲と隔絶した実力を誇る、ツワモノってことになる。
異名かあ。……ほしいなあ。俺多分、<英雄>がそれに該当しちゃうんだよね。
……<絶死齎す滅魂者(エンテレケイア・ブレイカー)>とかどうかな。
自分用の二つ名を考えていると、三人が同時に、木葉へと顔を向けた。突然視線を向けられ、木葉が黒髪を揺らして狼狽する。
「……え、まさか私にもあるだろうとか、そういうのか?」
三者三様に頷いた。
木葉は顎に指をあててしばし考えこむ。
「ええとだな、その、<天雷姫(ケラウノス)>と呼ばれたことぐらいしかないぞ」
自分から聞き出したというのに、エリーナたちは返ってきた答えを聞き鼻を鳴らした。
「なんですかそれ。そんなんじゃ私たちに勝てませんよ?」
「まったく強みが見えませんわね。雷なんて出してどうするのですか」
「取るに足らない弱者……」
リアクションが失礼過ぎるだろ。てか、雷出せるのは超つえーだろ。何が不満なんだよ。
勝手に馬鹿にされて木葉が困惑していると、教室前方のドアが開いた。
スーツを着た、灰色のショートヘアの女性が教室に入ってくる。先生のようだ。木葉とアンブローズ嬢はそれを見て、また後でと俺に言って自分の席に戻った。
席に座ったまま居住まいをただす。やっと学校生活っぽくなってきた。
「おはよう、諸君」
先生が教壇に立つと、座席表が消え新たなウィンドウが立ち上がった。浮かんだ文字は『一年A組担任 ヴェティ・クルーニー』、先生の名前だ。
——元軍属だなこの人。歩き方が軍隊式だ。歩幅がミリ単位で無駄なく調整されてるし、重心が全然ブレない。除隊した後、実戦経験を買われて先生になったってとこか。
「私の名前は表示されている通りだ。君たちを一年間預かることになった。兵士として訓練を受けたことがあろうとなかろうと、進級時には前線に配属されても恥ずかしくないレベルまで仕上げるつもりだ」
マジでか。一年間で前線レベルってハードルが高すぎませんかね……
「だからこそ、厳しく接するつもりだ。例外はない……だが」
視線が、俺に向けられた。うん一番例外っぽいよな俺。さすがにこの人より強いし。
「教師としての務めを始める前に、少しだけ、時間が欲しい」
「おん?」
クルーニー先生は教壇を下りると、まっすぐ俺の席まで歩いてきた。生徒らの合間を縫うようにして進み、俺の目前で立ち止まる。
「私は、だな、その」
「あーっと、どっかの部隊だった感じ、ですよね」
「ああ」
肯定してから、彼女は一拍息を吸って、四十五度にお辞儀をした。何だこれ。
「君の国のやり方で、最大限の感謝を伝えたい」
声が少しだけ震えていた。
「私たちを、世界を救ってくれて、本当にありがとう……!」
込められた感情全てを読み取ることはできなかった。だが万感の思いが存在することだけは、それだけは俺にも分かった。
参ったな。教師と生徒っていう枠組みを一発目から無視してくるとは思わねえよ。いやこれなんて返すのが正解だ? ちゃんと英雄として応対したほうがいいのか、いやさすがにそれは嫌なんだよな。
「顔を上げてくださいよ、先生」
ほとんど意地で敬語を使い通す。英雄としての過去を切り捨てようとするわけではない。が、学生である事の方が気持ちとしては優先したいのだ。
「それが聞けただけで、十分ですから」
「……ありがとう、<英雄>」
先生はそれだけ言って、ジャケットを翻して教壇へと戻っていった。恐らく特別扱いはこれで終わり、ということだろう。
クラスメイトらも少しの間俺を見てから、視線を前に向けた。しんみりしちまったな。
「さて、時間を取らせてすまなかったな。それでは入学式へ向かう前に、簡単なレクリエーションを始める。一人一人、その場で自己紹介をしてもらおう。席順にだ」
俺の列の一番前の少女が指名され、立ち上がって自己紹介を始めた。
当たり障りなく自己紹介が続くから、あっという間に俺の番が迫る。ついに前の席のレンが立ち上がった。
いや待って——自己紹介ってどうやんの?
「恋海美。中国から来た」
何を言えばいいんだ。前線だと名前と部隊名だけ言えばよかったが、A組で自己紹介してるのに名前とクラスだけ言っても、実質何も言ってねえ。
「スリーサイズは上から73・54・78」
教室がざわめいている。うるさい。集中させろ。考えろ。俺は何を言えばいい?
『嘘、女子のスリーサイズに無反応……!?』
『眉一つ動かさないなんて、完全に無我の境地じゃない!』
顔を上げた。だめだ何も分からん。
周囲が騒然としている。レンが口をぽかんと開けて、俺を見ていた。
「ゆ、雄介? その、何か思うところ、とか」
「……もう言うことはないのか?」
『な…………ッ!?』
俺の番かと問うただけで、クラスメイトが一斉に、戦慄したような声を上げた。
「……な、い」
レンが席に座り、がっくりとうなだれた。何? 一発ギャグでも披露してスベったのか?
俺はゆっくりと、なるべくゆっくりと席を引いて、震える両足に力を込めて立ち上がる。隣のエリーナがごくりと喉を鳴らした。
背筋を伸ばし、教室を見渡す。木葉やアンブローズ嬢も俺を刮目している。
「英赤雄介——すみません、何言えばいいのか分かんないんで、質問に一つ答えるとかでいいすか先生……」
俺は逃げた。本当に何言えばいいのか分かんなかった。
クルーニー先生はやれやれと嘆息した。ご迷惑をおかけいたします。
「構わんだろう。なら……そうだな。親睦を深めるという意味で、最近の印象に残っている思い出でも聞いておこうか」
「印象に残っている……ああ! <魔王>ブッ殺したことですかね!」
教室の空気が一瞬で死んだ。
「…………違う。違うぞ英赤。そういうのが聞きたかったんじゃない。というか目を輝かせて語る思い出にしては重すぎる。もう少し日常的なことにしてくれ」
先生が眉間をもみながら補足する。もっと、日常的なことか。
「あーじゃあ、ユーラシア大陸中央戦線にいた頃に……」
「違う! 日常的というのは頻度の意味じゃない! せめて戦役後で頼む!」
「戦役後ですか……卵が割れるようになりました」
「ちがッ——違わない! だが温度差がすごい!」
つばを飛ばしながら、先生は肩で息をしていた。やたら疲れた様子だ。
何かまずいことでも言っただろうかと、周囲を確認すると、クラスメイトらは——一様にドン引きしていた。
あれぇ!? なんで!?
クルーニー先生はもういいと俺に着席を促す。慌てて俺の次の女子が立ち上がる。
何だ、今どこで失敗したんだ。明らかに自己紹介の後の空気感じゃなかった。何をやらかしたんだ、俺は。クソ……全然分からねえ。
クラスメイトらの自己紹介がまるで頭に入らない。マキナ、すまねえ。初戦から負けた。しかも気づかないうちに負けてた。こんな屈辱は久々だ。
拳を握っていると、窓際の最前席の生徒が立ち上がった。木葉だ。
幼馴染の自己紹介ぐらい聞いておくか、と脳内反省会を切り上げた、のだが。
見た瞬間に違和感。間違い探しとかじゃなくてアハ体験に近い。
木葉は学生服ではなく、一分の隙もないダークスーツとタイトスカートを身にまとい、スクエアフレームの眼鏡をかけていた。
「私は咲ノ芽木葉。クラスの一員であり、しかし見ての通り、もう一つの立場がある」
右手に持っていた指示棒で、彼女は虚空をぺしりと叩いた。そこに魔力が編み込まれ、半透明のウィンドウが投影される。
表示された文字は『一年A組副担任 咲ノ芽木葉』。
「ということだ。私はクラスメイトであり、そしてこのクラスの副担任も務めさせていただく。一部教科の担当やクルーニー先生の補佐が主な仕事だ。制服を着ている時の私のことは、下の名前で呼んでくれ。一年間、どうぞよろしく頼む」
「は?」
意味不明な自己紹介に、隣の席のエリーナが、思わず声を上げた。
「…………はああああああ!?」
それから数秒置いて、ほかならぬ俺が素っ頓狂な叫びを上げた。
クラスメイト兼先生——いやクラスメイト兼先生ってどういうこと!? それはさすがに両立しねえだろ!
「ちょ、ちょっとお待ちさない、咲ノ芽、いえ木葉さん!」
アンブローズ嬢が立ち上がり、猛然と食ってかかる。
「さすがにそれは無理がありましてよ!? 貴女、何らかの裏工作をしたでしょう!」
至極当然の言い分だ。エリーナもレンも俺も、首が千切れるほど頷いてる。
直球の指摘に対し、木葉はやれやれと嘆息した。それから、指示棒の先端をピシャリとアンブローズ嬢に向ける。
「アンブローズ……スーツを着ている私のことは咲ノ芽先生と呼べ」
この女、当然のように教師ヅラしてやがる!
「まあたまたま学園の管理国が日本だったが、それは関係ないぞ? 日本政府はある程度学園運営に干渉できるが、まったく関係ないぞ?」
「絶対関係あるではありませんか! 今の、ほとんど自白でしてよ!?」
「別に立場を悪用したりしなければいいだろう、君たちには何のデメリットもない。それはそうと、英赤君は放課後私の部屋に来るように」
早速立場悪用してんじゃねーかッ!!
喧騒に包まれる教室の中で、俺は頬をビキバキと引きつらせる。
再会した自称幼馴染は——クラスメイト兼、女教師になっていた。
都内某所。
「いい加減にしろよ貴様」
喧噪に包まれる一年A組の教室を見ながら、アメリカ大統領が額に青筋を浮かべた。
「ない。ないぞこれはさすがにないぞ」
「今すぐ立場を返上しろ、権力握ってたら何するか分からん」
イギリス首相と中国国家主席も同様に目を血走らせて総理大臣を見ている。
だが総理は肩をすくめた。
「本人も言っていたでしょう、何も関係ありませんよ? これっぽっちも」
三人の殺気が膨れ上がる。罵詈雑言が飛んでくる五秒前といったところか。
総理はモニターに映る木葉を見た。
(サポートの体制は万全に整えました。よろしくお願いしますよ、<天雷姫>……)
総理は手を組み、不敵な笑みを浮かべた。
都内某所。
先日のサミットを終え、他国の首脳らは既に帰国している。
円卓の一席に腰かけて、時の内閣総理大臣はタペストリーを見上げていた。
ちっぽけものが大いなる存在を打ち倒す神話。それはどこか、人類が魔物に勝利したことを——その中でも、史上最も人間を殺害し、未だ暗黒、悪、非道の象徴とされている忌まわしき存在、<魔王>を、<英雄>が討伐したことを——連想させた。
ふうと息を吐き、円卓の中心に向き直る。
同時、円状に配置された空席に魔力が編み込まれ、人をかたどる。
遠隔地の人間を立体的に投影する機能——各国首脳は普段、そうして会合を開いている。
「先日はどうも、有意義な時間でしたね」
総理は何食わぬ顔で、ホログラムの男たちに告げた。
『ふっ。そうだな、実に有意義な痛み分けだったとも』
半透明のアメリカ大統領が、あごひげをなでながらぼやく。他の面々も一様に、薄い笑みでは隠し切れない苛立ちを抱いていた。
『だが今日の話し合いはそうはいかないだろう、今後のためにもっと深く切り込んでいく必要がある』
イギリス首相の言葉。総理はすっと目を細めた。
『そうさな。我々としてもやはり、間延びするのはいかん。今朝のうちに、何らかの形で結論を得たいものだ』
追従するように、中国国家主席も決然として言い放った。
極めてあいまいな会話。意味の空白は、この場においては逆に特定の内容を指す。
もっと深く切り込む。今朝のうちに。結論を得る——
それはあまりも堂々とした、宣戦布告だった。
総理は微笑みながら、自席のひざかけに仕込んだボタンを触った。メッセージを五指のかすかな動きのみで打ち込み、協力者であるマキナ・アーデンクルスへ送信する。
内容は簡潔だった——『<天雷姫(ケラウノス)>を今すぐ動かせ』。
両眼に野望を滾らせる男たちの、第二ラウンドが始まった。
◇
窓から差し込まれる陽光は、カーテンとカーテンに挟まれ細切れになっていた。それは部屋全体を本とすれば、しおりのようだなと思った。
ゆっくりと身体を起こす。意識は完全に覚醒している。少し部屋の温度が高く、二度寝に誘われそうになる。
「ふあ……今日も昨日みたいに、ハニトラ共を撃退しねーとな……」
独り言を漏らしながらベッドから降り、窓へ歩く。カーテンを開ければ、見慣れない光景が広がっていた。建物を取り囲むように植えられた木々とその奥の市街地。。
ここは、兵科校舎すぐ横に建てられた学生寮。俺は風景を見ながら、簡単なストレッチで身体をほぐす。それから洗面所に行き、顔を洗った。血色は悪くない。
肩にかけたタオルで頬の水滴をふき取りつつ、俺はすっと部屋の入口に向かい、躊躇なくドアを開けた。
「おはよ、エリーナ。朝イチで衝突事故は嫌だから、普通に挨拶してくれ」
しばし待つと、そろーりとエリーナが歩いてきた。既に制服に着替えているあたり、結構待っていたのかもしれない。
「あの、その、気配察知禁止にしませんか……?」
事前に気づけてなかったら本当にカウンターで首飛ばしちゃうかもしれないだろ。
エリーナは嘆息してから、気を取り直すように頬を張って、おはようございまーすと言い俺の部屋にずかずか踏み入った。
え? なんで?
「うわあ、私物全然ありませんね。殺風景な部屋です」
「うっせーな」
言われた通り、部屋に私物はほとんどない。あらかじめ設置されたベッドに勉強机、窓際の小さなテーブルと椅子二脚。一人部屋にしては広く、小さなテーブルをずらせば、ベッド横に四、五人ぐらい座れるだろう。
部屋を見て、エリーナは俺が寝ていたベッドに腰かけ——突然、ごろんと横になった。
え? なんで!?
「おいそれ俺のベッドなんだが」
「いいじゃないですか別にー」
深紅の髪が白いシーツにぱっと広がった。寝ころんだままうーんと伸びをするもんだから、ワイシャツが双丘に押し上げられパツパツに膨れ上がる。スカートもめくれていて、少ししゃがめば見え……いや今の段階でも見え……見え……落ち着けッッ!!
全身が硬直し、異様に汗がにじむ。
落ち着け。これは明らかに罠だ。
窓の外を見ろ。自然を見て平静を取り戻すんだ。
そう……俺が見るべきは人類の未来であって、パンツじゃねえ。
つーか交際する前に下着を拝見させていただくとか不純にもほどがあんだろ。最低限の倫理観さえあればんなことしねーよ。よって俺は女子のパンツごときに負けない。
そう、内心で理論武装している時だった。
「おはよう雄介」
のそりと、ベッド下からレンが這い出てきた。
——あれ? 侵入を感知できなかったって、俺結構なまってる?
眉をひそめる俺にまるで頓着することなく、彼女は立ち上がってうんと伸びをする。
レンの服装はショートパンツにタンクトップのみという、なんとも目に毒な寝間着姿だった。朝日に照らされ、その白い肌は宝石のようにきらめいている。
「……はい?」
リラックスして寝転んでいたエリーナは、一転して全身を硬直させていた。
「お前、いつからいたんだよ」
「ずっと一緒にいた。これからも、ずっと一緒にいる」
レンがブイサインを突き付ける。まるで答えになってなかった。
しかし、戦場にいた頃の俺なら、看破できたはずだ。それができなかった……不覚だ。
とはいえ今やるべきことは反省じゃねえ。
「おい」
はい? と異口同音に返事をしてながら、二人は俺を見た。それから顔をひきつらせた。
きっと俺は額に青筋を浮かべまくっていただろうから、仕方ない。
俺は二人の首根っこを掴み、ドアの外へ叩き出す。
「いい加減にしやがれッ! 俺の朝を邪魔するんじゃねーッ!」
勢いよくドアを閉める。それから部屋の中に戻り、冷蔵庫の中に入れておいたペットボトルのミネラルウォーターを一口飲んだ。なんでこんな目に遭わなきゃいけねえんだよ。
ベッドに腰かけて、自分を落ち着かせるため深呼吸した。
おそらくエリーナのであろう甘い香りがした。
「クソ! 死ねッ! 死ね俺!」
俺は勢いよく、ミネラルウォーターを自分の頭にぶっかけた。物理的にだが頭が冷える。
制服に着替えるか、と立ち上がったところで、部屋のドアがノックされた。
性懲りもなく戻ってきたのか。ナメやがって。
肩をいからせてドアを開けると、誰もいなかった。
——否、俺の視界の下に、ひょこっと金髪の幼女が立っていた。
既に制服姿で、髪のロールもばっちりキマった、キャストルテ・アンブローズだ。
「……アンブローズ嬢か」
「お……おはよう、ございます、雄介さん……」
アンブローズ嬢は、普段の優美さの欠片も残っていない様子で俺におびえていた。
客観視すれば、なんかキレてる上に頭びしょびしょの男が出てきたのか。
うん。怖いね。
「その、朝の散歩にでも、と思いましたが、何やら立て込んでいらっしゃるご様子、ですわね……?」
「あ、ああいやすまん、アンブローズ嬢を怖がらせるつもりはなかったんだ」
外見は俺より一回り年下なんじゃねってぐらいの子が、涙目で怯えてるんだ。放置するわけにもいかず、肩にかけっぱなしだったタオルで慌てて水を拭く。
「全然ほら、不機嫌でもないぜ。ちょっと立て込んではいたがもう終わった。ああそうだ、散歩だな。いいともいいとも、散歩いこーぜ」
慌ててまくし立てると、アンブローズ嬢は目をしばたいた後、笑みを浮かべる。
「それはそれは! ちょうど良かったですわ!」
直後、ガシャンと音を立てて、俺の首に超太い銀の首輪がはめられた。
「さあ散歩へと向かいましょう、マイピグレット!」
「やっぱ嫌です」
即座に首輪を破壊して、俺はドアの内側に立てこもった。
い、行くと言ったではないですか!? とアンブローズ嬢がドアを叩く。
割と頑丈な扉に背を預け、俺はその場にずるずると座り込んだ。
しばらく無言を貫くと、やがてドアを叩く音は止み、小さな足音が立ち去っていく。
それを確認してから、俺は両手で顔を覆った。どうなってんだこれ。俺が望んだ青春はこんなんじゃなかったはずだ。ベッド下にストーカーがいるし、隙あらば俺をブタにしようとしてくる幼女がいる。考えてみればエリーナは良心的だった。もう少しあいつには優しくしよう……
俺は気力を振り絞って立ち上がる。とにかく着替えよう。
パジャマに手をかけた。
その瞬間——カチャと、鍵の開けられる音が響いた。
「…………ッ!?」
俺の部屋か!? 俺の部屋だよな!? まさかレンの奴、もう合鍵を作っていたのか!?
戦々恐々としながら、ゆっくり開けられていくドアを見る。恐怖のあまり指一本すら動かせない。
果たして——向こう側に立ち、ドアノブを握っていたのは、咲ノ芽木葉だった。
寝間着のまま、寝ぐせも直してない状態。眠たげな目をこすり、俺を見ている。
「ああ……おはよう、雄介……」
「お、おう」
なんだ、木葉か。俺の補佐役ってぐらいだったし、合鍵持ってても不自然じゃない。
「様子を……見に来たんだが……大丈夫か……?」
「えっと、まあ。危機的な何かはもう去ったし」
俺の言葉に、そうか、と頷き、木葉は部屋の中へふらふらと入ってくる。彼女の背後でドアがすーっと閉じていった。
「超眠そう、だな」
「ゆっくり、眠れるのは……久々だったからな……」
既に距離はほぼない。腕を伸ばせば抱きしめられるほどの距離。
「……ゆーすけ」
「ど、どうした?」
「…………ねむい」
は? と聞き返す暇すらなかった。木葉が膝から崩れるようにして、こちらに倒れこんできた。
「うぉおおっ!?」
とっさに受け止めるが、踏ん張りがきかず倒れこむ。ベッドに背中から飛び込む形。天井を見上げたまま、俺は何とか状況を整理しようと努力した。
木葉に、ベッドの上で、のしかかられている。
——あれぇ!? これ今まで一番危機的な状況じゃねえかッ!?
「お、おい木葉、どけよ、おいっ!」
そう叫ぶも、返ってくるのは穏やかな寝息だけだった。揺さぶろうとしてハッと気づく。パジャマはボタンが留まっておらず、はだけてしまっている。鎖骨から肩にかけて肌が露わになっている。あといい香りがすごい。
触るに触れない。頭に血が上ってクラクラする。
小声でもしもーし、木葉さーんと呼ぶも、ここが世界で一番安心できる場所ですみたいな寝息だけが、俺の部屋に響いている。
こっ——こいつが一番ハニトラだろ!?
結局木葉が起きたのは、朝のHRが始まる五分前だった。
◇
「セ——————————フッッ!!」
学生生活二日目——俺は幼馴染をファイヤーマンズキャリーで抱え全力疾走するハメになった。
起きて二分で着替え、寮から教室までを三分で疾走。俺が抱えて走った方が早いので、無理やりこの抱え方にさせてもらった。
教室後方のドアから教室に飛び込み、息を吐く。
「ふぃー、意外と間に合うもんだな」
「君のスピードが異常すぎるだけだ。人を抱えて、魔法も使わず、何故あんなスピードで走れるのだ……」
木葉を床に下ろす。彼女はまじまじと俺の身体を観察し始めた。なんか気恥ずかしい。
ただ俺としては、走っている間、気が気でなかった。
正直その……走ってる時、接触箇所が多すぎて、心臓がバクバクだった。心臓が破裂して死ぬのかなという気持ちだった。いや本当に。
木葉から視線を逸らし、そこでやっと、クラスメイトらを見た。
一同、俺と木葉を見て凍結していた。
「……あーっと、おは、よう?」
片手を挙げて挨拶するが、反応はない。
何かおかしい点があるだろうか、と自分の身体を確認する。
制服——露骨に乱れている。ネクタイは超緩いし、ワイシャツのボタンも適当にしか留めていなかった。見れば木葉も同様で、相当きわどく肌色が露出している。
ああそうだね。男女二人で、乱れた衣服で、ダッシュで登校したら——超怪しいね。
「違う、違うんだ」
両手を突き出して、俺は震え声で弁明を開始した。
「ただ少し、その、木葉がねぼけていたというか」
視界の隅でレンが泡を吹いて突っ伏した。我ながら言葉のチョイスがひどすぎた。
「そ、そうだ。ちょっと私が、恥ずかしいところを見られてしまったというかだな」
木葉の補足に、エリーナが机をぶっ叩いて立ち上がった。
「ほ……ほら見たことですかッ! 教師権限でいやらしいことをしたんでしょう! 夜の個別授業だけでは飽き足らず朝課外でも保健体育の実技とは恐れ入りますよ! このエロ女教師!」
「エリーナさん、どちらかというと、いやらしいのは貴女の頭だと思いますが……」
名前を知らないクラスメイトと談笑してたらしいアンブローズ嬢が、肩をすくめてこちらに歩いてくる。
「大方、木葉さんが雄介さんの部屋で寝入ってしまい、起こすに起こせず遅刻寸前になった、といったところでしょう……そうでしょう? そうなんですよね?」
よく見たら、アンブローズ嬢の下半身が全体的にガクガクだった。足腰にキテんじゃねえか、メンタル弱っ!
「マジで正解だぜ。ほんとほんと。大体朝からそんなことするわけねーだろ」
身の潔白を叫んでいると、教室前方のドアが開き、クルーニー先生が入ってきた。
騒然としている教室を見渡し、訝し気に眉を寄せる。
「おい、何の騒ぎだこれは」
「マジで何でもないっす」
先生の登場によって、かなり場は沈静化した。ここぞとばかりに席に座る。
隣の席からビシバシと視線が突き刺さるが、無視無視。
「諸君、おはよう。連絡事項は特にないが、今日から授業が開始となる。午前は座学の授業、午後には屋外アリーナで実技訓練を行う。決して気を抜かないように」
クールボイスの朝のお告げに、みんなで元気よくはいと返事をする。
「それではこのまま座学を始めるぞ。咲ノ芽先生、補佐をよろしくお願いする」
「分かりました」
席に座っていた木葉は、今朝の寝ぼけ方からは想像ができないぐらいシャキっと立ち上がった。ついでに、いつの間にかスーツに着替えて眼鏡をかけていた。いやほんといつの間に着替えてんだよそれ。
各々、自席にウィンドウを立ち上げさせる。俺もデバイスの教材データと学習机をリンクさせた。座学といっても、兵科である以上学ぶのは戦術や戦略に関わる領域だ。今からの授業で扱うのは、一年生用の総合的基礎戦闘理論である。
さてさてどんなもんかね、と指を滑らせ一ページ目を開く。
俺の顔写真がババンと出てきた。
「ンフォッ」
驚愕のあまり、変なむせ方をした。突如奇声を上げた俺に、エリーナがギョッとした顔を向ける。大丈夫と手で制して、天井を見上げ自分を落ち着けてから、もう一度教科書を見た。俺の顔写真がバババンと表示されている。
…………なんで?
みんな、さもそれが当然であるかのようにページをめくっている。
これは一体何のドッキリなんだ。まさか普通のことなのか?
誰も異を唱えないので、仕方なく身を縮こまらせる。居心地が悪い。
クルーニー先生は粛々と、基礎戦闘理論の序文、要するに心構えを語っていた。
「我々人類と、異世界から侵略してきた魔法を扱う生命体——魔物との戦争は、異界大戦と名付けられた。これは地球上の人口を三十億に減らしつつも、我々の勝利という形で決着している。諸君は考えられる二度目のために、戦士として育成されなければならない」
教室の空気が、冷たいものに変わっていく。
「魔物と人類は、生命としてのスペックの段階から違うと言わざるを得ない」
教室前方に投影されたウィンドウが、標準的な人類と標準的な魔物の歩兵を並べる。両者のスペックは、回復能力、膂力、強度、走行速度、全てにおいて魔物が圧倒していた。
それでも訓練し、魔法の扱いに習熟し、経験を積めば——魔物相手に有利に立ち回ることは、絵空事ではない。この学園は、そのための場所だ。
「最たる例としては……魔物の中でも高位、異界大戦において大陸セクションの攻撃を指揮していた個体は、肉体を不要とする在り方、思念体としても生存できることだろう」
げえ、と声を上げそうになった。思念体。マジで嫌な言葉だ。
指揮官クラスの高位の連中は、肉体を完全に蒸発させても、魔王のもとに思念体のみで帰還し、新たな肉体を与えられ再侵攻してきた。
蘇るたびに人間を大量に焼き払い、それを幾百幾千もの犠牲を積んで再殺し——そしてまた、蘇る。同じ顔で、俺の前に現れる。元気だったか、などと笑みを浮かべながら。
ギリ、と小さな音が聞こえて、そこで自分が拳を強く……強く、握っていることに気づいた。
息を吐いて、ゆっくり拳を解く。
「魔物は知力の面でも、計り知れないスペックを誇る。具体例を挙げると、南アメリカ大陸の攻撃指揮を執っていたレグナスという個体は、六種の言語を学習し、地球の言語学と近代西洋哲学に関して研究を行っていた……諸君の仮想敵であり、おそらく将来実際に戦うであろう相手は、そういう存在だ」
今の話で、ビビったり震えたりしてる生徒はいない。世界各国からエリートの集まる学校だからか、すごいな。俺普通に魔物の概要聞いたとき怖くて帰りたかったもん。
「だが決して、絶望的な戦いが待っているわけではない——英赤」
「ひゃい!」
指名は突然だった。俺は椅子を蹴り倒すような勢いで飛び上がった。
「高位の魔物、つまり思念体でも生存可能な個体を撃滅する方法を述べろ」
「え、あ、はい。百人規模の部隊で発動できる超上級大規模儀式魔法【ジ・イクスパーゲイション・ストリーム・フォルティシモ】による攻撃です」
いや何度聞いても長すぎだろこれ。
「あるいは——」
思念体を撃滅する方法をつらつらと喋ろうとして、ピタリと口を止めた。
「……あるいは?」
「いえ、以上です」
何か言われる前に席に座った。
先生は首を傾げ、それから講義に戻っていった。
「大戦の最中、人類は魔法の解析、並びに地球上においてかつてより存在していた魔力の発見に成功する。魔物とは違い、人間の肉体は魔力コントロールに不向きだった。そのために開発されたのが、次世代型対魔物個人兵装——退魔騎装(ナイトイレイザー)」
教科書をめくった。代表例として、長剣型の退魔騎装の写真が載っていた。これは戦役後期から前線配備された第三世代型、その名も<デイブレイカー>だ。現役バリバリで、未だこいつを使っている軍は多い。
「そして戦況の不利を覆し、ついに——<英雄>が<魔王>を討伐し、異界大戦は終結した。だが、二度目の戦役が起きたとして、同じ結末をただ願うだけではならない……これが、諸君が戦いを学ぶ理由だ」
はい、と一同返事する。慌てて俺も口パクした。
「ではテキストの内容に入るぞ。最初の項目を開け」
基礎戦闘理論——はてさてどんなもんやら。言われたページを開く。
「基本的な立ち回りは、ツーマンセルによる攻撃だ」
ふむふむ。
「確実に敵個体を殺傷するためのアタッカーが一名、相手からの反撃や不意打ちを処理するサポーターが一名、これが戦場において最低限必要な人員だ。孤立は絶対に避けろ」
うんうん。
「そして戦闘に置いて頭に入れておかなければならない原則がある。それは『敵個体の射線を把握すること』『距離を詰めること』、しかし『逃走経路も確保すること』だ」
…………ん? あれ? なんか、すげえ、覚えのあるフレーズが出てきた。
「これら三つを『封殺の三原則』と呼ぶ。特に三番目は、確実に相手を封殺できる状況を作り出せるまではうかつにしかけない、ということも意味する。気を付けるように」
もう完全に知っていた。知りに知っていた。
思わず、隣のエリーナを小突いた。彼女は顔をこちらに向けて、ぱぁっと笑顔になる。
「何ですか、私とおしゃべりしたくなっちゃったんですか〜?」
「あのさ、これさ、もしかしてさ……考えたのさ、俺?」
一転して、エリーナは何とも言えない表情になった。
「……最後のページを読んでください」
言われた通り、最後のページを開いた。あとがきだ。著者名——いや知ってるこいつ知ってる。中央アジアで一緒に戦ってたじゃんこいつ。
あとがきの、一番後ろの文章に目を通す。
『最大の英雄にして勝利の立役者たる、英赤雄介が考案した戦闘理論を、一般兵卒でも習得できるようダウングレードした。彼に最大の感謝をささげたい』
……この書き方だと俺死んでるんじゃねえかな。
しかし、そうか。確かに考案したけど……まさか教科書の理論の大元になってたのか。全然知らなかった。
それを踏まえてテキストを読めば、もう知ってる文章が山のように出てくる。
頬をひくつかせながら、テキストを読み飛ばしていく。大体知っている。だがもちろん、俺の知らない、追加された項目や改変された文章だってある。それは当然だ。
読んでいくほどに、その改変箇所が目立つようになる。
読んでいくほどに……違和感が募っていく。
「ということで、基本的な逃走経路の確保の仕方は以上だが……さて、釈迦に説法ならぬ、釈迦の説法と言うべきか。何か補足するべきことがあるか?」
指名されているのは、明らかに俺だった。
へらへら笑いながら、立ち上がる。別に俺は自分の理論に手を加えられたからってキレるほどガキじゃない。
「いやまあ、あれっすね」
「あれ、とは?」
「改訂が必要っすね」
「…………続けろ」
「教科書は、効率の良い攻撃方法をメインにしているように読めます。これは間違いないですか?」
「事実だ」
クルーニー先生の返答は簡潔だった。
「いかに相手を撃滅するかが主眼に置かれてて……敵の身動きを封じて、囲んで、攻撃を浴びせる。これを軸に、立ち回りが構築されてます。このへんは俺が考えた時と同じです」
「そうだな。想定されるのは地球を戦場にした防衛線だ。そこで求められるのは……確実な敵の撃滅だ」
「リスクヘッジについては?」
「君が考案した戦闘理論からは、一部削除されているな」
俺の問いに、先生は予期していたと言わんばかりに切り返した。
「だが生存と相手の殺傷は、同じ優先度だ。魔物を放置して逃げるわけにはいかない。無辜の人命を奪う危険な存在を相手に、見て見ぬふりはできない」
「違います違います。こんなんならリスクヘッジしない方がマシって言いたいんです」
俺を見たまま、先生は絶句した。
「死なない限り負けじゃないです。でも逆を言えば、相手を死なせたら俺たちの勝ちです。半端なリスクヘッジをするぐらいなら相手を殺すことを優先した方がいい」
「……英赤」
「はい?」
先生は神妙な顔で俺を見ていた。
「それは君ならできるかもしれないが、誰にでもできることじゃない」
「む……なら、教科書的にはダメってことですかね」
「いや、一つの理想型なのは間違いない。相手が何かする前に殺してしまう、最高の安全策だ。しかし我々は、人々を守るために戦う。時には自分の身も守らなくてはならない」
そう、その通り。守るための戦いこそ学ぶべきモノだ。
けれど。
不意に、頭のどこか、ひどく冷えた部分が声を上げる。
現実を見ろ。効率よく最大数を殺傷することこそが、守ることにつながる。
何故自分の命を惜しむ。一瞬一秒を、魔物を殺戮するためにこそ使うべきだ。
相手を殺すことが最終目的にふさわしいのは——ほかならぬ<英雄>の戦果が物語っているだろう?
かぶりを振った。深く息を吐いた。熱が放出されるようにして、渦巻く思考が霧散していく。
「……以上です。何か参考になれば」
「ああ、いい意見だった。教科書を改訂する際に載せるべきだな」
それはやめてくれませんかねえ!
「雄介さん、いろいろ考えてるんですねー」
先生に促され席に座ると、隣のエリーナが俺を小突いてきた。
俺のお話、いろいろってまとめられちゃったよ。。
「まーな。ただ俺も、守るための戦いが一番だと思うぜ、それは当たり前だ。誰にも死んでほしくはねえよ、だけど……」
「……だけど?」
「…………悪い、何でもない」
適当にお茶を濁した。エリーナは首を傾げている。
「まあとにかく、俺もまだまだ学ぶべきことがあるんだよ。なあレン」
前の席に座るレンの背中を小突く。
レンは——ぐらりと傾き、そのまま床に倒れた。見れば、今朝俺が登校した時と同じく、泡を吹いて気絶しっぱなしだった。
いやずっとその顔だったの!?
都内某所。
円卓中央のウィンドウには、気絶しているレンの頬を叩いて蘇生を試みる英赤雄介が映されていた。
『いやまあ……彼女はその……打たれ弱さも魅力だから……』
中国国家主席の強がりに、全員白けた視線を向ける。
「と、とにかく、彼も楽しく学生生活を送っているようですよ」
見守りたいというていの監視に、総理はいい加減辟易していた。
だがアメリカ大統領が腕を組み、自信ありげに笑う。
『今日はこの後、実技訓練があるだろう? それも見ようじゃないか。ウチの子、エリーナの強みは、あらゆるTPOでマルチに活躍できる万能性だ。ハイエンドはダテじゃない』
つまり実技訓練でも何か仕掛けてくるということだ。
総理は嘆息し、ウィンドウに目を向ける。
ちょうど意識を取り戻したレンが、人工呼吸してくれなければ目覚めないともう一度寝入ったところだった。
◇
散々な目に遭った。
昼食を終えて、実技訓練用の屋外アリーナに着いた頃には、俺はもう疲労困憊だった。執拗に人工呼吸をねだるレンを捌くのに体力を根こそぎ持っていかれたのだ。
「いいか諸君。退魔騎装というものは、確かに兵器だ。しかしその本質は、魔法を放つための出力装置という点にある」
クルーニー先生が前に立って、講義をしている。
「人間の身体のみよりも、退魔騎装を介した方が魔力転換効率は上昇する。退魔騎装を使う最大のメリットはこれだ」
よく知る知識を聞き流しながら両手をポケットに突っ込んだ。学生服のままだが、これは簡易な戦闘用魔導外装もこなせる代物だ。
「発動魔法効力の、現状における個人限界値を記録するため、今日は仮想ターゲットに対し攻撃魔法を撃ってもらう。武器を手に取り、それぞれの列に待機しろ」
先生が視線を横に送った。見ればスーツ姿の木葉が、大量の武具を詰め込んだコンテナを引き連れて歩いてきている。コンテナ下部の車輪を魔力で動かしているようだ。
「特注型と量産型でコンテナが違う、注意したまえ」
注意を背に受けながら、俺たちA組生徒は、パッと二手に分かれた。
右側の量産型退魔騎装、つまり学園の備品を借りる側。
左側の特注型退魔騎装、つまり——預けていた個人所有のワンオフ品を受け取る側。
「へぇ……大体あっちなのか」
顔見知りは全員、特注型のコンテナへ向かっていた。というかクラスメイトのほとんどがそっちに行った。量産型を取りに行く生徒は片手で数えられるほどだ。
眼前のコンテナに並ぶは、教科書に載っていた傑作量産型、<デイブレイカー>。一本を引き抜き、片手で持つ。そっかあ、クラスのほとんどは自分のを持ってるんだなあ。
「——いやちょっと待て向こう全員特注型持ちなのか!?」
思わず傍にいた木葉の肩を掴み、素っ頓狂な叫びを上げてしまった。
「そ、そうだぞ。何にそこまで驚いているんだ……?」
「マジかよ……」
学生がこんなぽんぽこ特注型を手に入れられるようになってんのかよ。特注型なんて、視察に来るお偉いさんのご子息とかが持ってるイメージだったんだけど。
ジェネレーションギャップに打ちのめされる俺を見て、木葉はふっと笑った。
「そうだよ。お前のおかげで、こうして時代は変わった、変わることができたんだ」
……いや、いい時代になったなァ的な感慨に浸ってたわけじゃねえけど!?
「私も特注型を手に入れたのは、戦役が終わってからだな」
木葉の言葉に、俺は彼女が腰に下げた双剣を見た。出会った初日にも携えていた代物だ。
「銘は<テンペスタース>。十字にクロスさせるとマイナスイオンが出るぞ」
「その機能必要か?」
呆れかえったその時、どたどたと騒がしい足音が聞こえた。
「はいはーい雄介さん見てください! 私の特注型!」
振り向けばエリーナが、巨大な突撃槍を抱えている。穂先から柄元まで一メートルを超えているだろうか。
「その名も<フルクトゥス>! 複合機能内蔵式で、花の水やりとかできます!」
「その機能必要か!?」
何故それを自信満々に言えたんだよお前。
次は誰だと見渡せば、アンブローズ嬢が身の丈を超えるほどの大鎌を持って来た。
「あら、エリーナさんも特注型をお持ちでしたか。ですがわたくしの<モルス>に比べれば貧相ですわね……何せこちら、重層錬金構造のため、刃を展開すれば、日傘になりますわ」
「だから、その機能は本当に必要なのか!?」
なんでどいつもこいつもロクでもねえ機能ばっかあるんだよ!
特注型のあまりのボンクラっぷりに憤っていると、ちょんちょんと肩を叩かれた。
「ああ、どうせレンだろ!? 分かってるよ! さあ言ってみろよテメェのはどんなビックリドッキリ機能が——」
ヤケクソ気味に叫びながら振り向けば、やはり、レンが佇んでいた。
大型のスナイパーライフルを両手に保持して。
「……<アポストロス>」
「……うん」
「……その、ええと。自分の退魔騎装は……見ての通りの機能だけで……その……ギャグのようなことは、できない……」
おろおろしながら、レンが悲し気に呟く。
俺は——熱い涙を流しながら、彼女の両肩に手を置いた。
「いいんだ……! それでいいんだよレン……! お前は間違ってない……!」
むしろ兵器をおもちゃにしてる連中がおかしいんだよ。アクセサリーじゃねえんだぞ。
「おい、もうカリキュラムを始めるぞ。早く戻ってこい」
クルーニー先生がこちらに鋭い視線を向けた。
はいはーいと返事をして……三人がギラリと、やたら鋭い眼光を俺に飛ばしてきた。
「期待していてくださいね、雄介さんー」
「あなたの命運もここまででしてよ!」
「自分を刮目しておくことを推奨する」
え? 何が? 言うだけ言って、みんな俺を放置して足早に立ち去った。木葉はそんな三人に、剣呑な視線を向けている。何だ? 殺し合いでも始まるのか?
「……私たちも行くぞ」
木葉に連れられるまま、訓練地点へ向かう。
攻撃訓練を行う地点では、既に何名かの生徒が、魔力で構築された弓道の的みたいな仮想ターゲットめがけ魔法を放っていた。俺たちはそれぞれバラけて、列に並ぶ。
砲撃音と共に光が飛び交い、的を粉砕する。今この場で見た限りだと、下級攻撃魔法【バリスタ】か中級攻撃魔法【ブラスト・フレア】しか使われていないな。
下級中級上級の差は消費する魔力量だ。大きく魔力を消費すれば最低限の威力は保証される。ただ、魔力操作の上手い人間の下級魔法は、下手な人間の上級魔法を超えることもできる。
クルーニー先生の背後に、大きなウィンドウが立ち上がっていた。どうやら生徒たちの発動効果を数値化し、棒グラフにしているらしい。縦軸中央に引かれた赤い線を超える者はいない。
「……魔法適正が高い方は、見当たりませんわね」
同じ列に並んだアンブローズ嬢の指摘。頷いた。
魔法適正——EからAにかけてのアルファベットに割り振られる、一度に扱える魔力量の限度を示す個人の資質。
一般的に、B以上は超すごい。上級攻撃魔法が使えるってことで、要するに人間相手なら戦場一つを丸ごと焼け野原にできる。あと、そのあたりから魔力が個人資質に寄せられる形で、属性エネルギーに自動変換される。
「……おやおや、雄介さん。あちらを御覧ください」
「おん?」
アンブローズ嬢が指し示す方向を見れば、別の列でエリーナが攻撃準備をしていた。
大槍の穂先を的に向け、腰を落とす。同時、彼女の周囲に滞留する魔力が、彼女自身を発火点として燃え広がるようにして、深紅の焔に変換されていった。烈火のヴェールを目の当たりにして、並んでいた他の生徒が慌てて距離を取る。
「エリーナのやつ、適性高いのかよ……」
「見てるだけで汗が出てきますわね……」
これこそが、魔法適正がB以上、つまり上級魔法適正を持つ人間である証左。
「あいつは火属性適性者(パイロテクニクスト)か」
「そのようですわね」
列の最後尾を離れ、エリーナの魔法を見るため近づく。
彼女は一瞬、後ろを見て、俺と視線を交錯させた。カモが来たと言わんばかりの顔——嫌な予感。エリーナがにまっと笑って、前に向き直る。
「……てやぁっ!」
同時、エリーナの身体から流し込まれた魔力を<フルクトゥス>の魔法発動プログラムが制御・転換し、穂先に発射口となるクリムゾンカラーの魔法陣を展開——下級攻撃魔法【バリスタ】が起動、他の生徒のものとは違う、赤く染められた破壊の光を放出した。
まばゆい砲撃は一直線に伸びて、ターゲットを蒸発させる。
同時、反動でエリーナがこっちに吹っ飛んできた。ごろごろと砂利の上を転がり、一瞬白い下着が見えた。
「あ、あいたたた……」
「な——なんて計算された転がり方、下着の見え方……ッ」
一緒に見ていたアンブローズ嬢が戦慄したようにつぶやく。
「えへへ、ちょっと失敗しちゃいました……えっと、どうでしたか〜?」
砂を払いながら、エリーナが立ち上がる。
それどころじゃなかった。今日見た中で、一番可能性のある魔法砲撃だった。思考が切り替わるのを自覚した。カリキュラムを思い返した。個人限界値を計測するのが目的なら、チャンスは一度きりじゃない。
「お前ならもっとイケるだろ」
「……はい? え、こ、これ以上ですかッ!?」
顔を真っ赤にし、両腕で自分の身体を抱きしめ、後ずさるエリーナ。
「これ以上っていうと、その、ぱんつ脱げってことですか……?」
「お前は何を言っているんだ」
彼女の腕を引き、並ぶ生徒らの横を通り、もう一度攻撃地点に立たせる。
それから俺は彼女の背後にぴたりと密着し、槍を構える腕に手を添えた。ほとんど抱きしめるような姿勢。
「————!? !? !?」
「退魔騎装のプログラム自体に不備はない。ただ収束率は結局人間の身体から伝達させる際の効率で左右される……お前自身の工夫でもっと威力を上げられるはずだ」
「は!? いや!? 何?? 何されてます私今??」
「魔力収束の感覚を共有する。俺がガイドするから、それに従って魔力を収束させろ」
「そっ、そうじゃなくてぇっ!?」
筋はいい。磨かれる前の原石と言っていい。一押しあれば化ける、逸材だ。
感覚共有のため、徹底的な無我に意識を落とし込む。自分自身を空間に拡散させるイメージ。段々と、エリーナの体内に蓄積されている魔力を感じ始めた。
何やらわめく彼女の声も、もう聞こえない。魔力を胸部から両腕に沿って移動させ、両手から突撃槍へ——そこで、魔力が漏れ出さないよう蓋をする。先ほどより効率を底上げされ、槍からにじむ熱が大気をゆがませる。
「今だ」
俺が言うと同時、エリーナが魔法を起動——比べ物にならない砲撃音を響かせ、【バリスタ】が放たれる。地面を直線状に融解させながら疾走、的を貫通し外壁に激突した。
確認のため計測ウィンドウを見た。赤い線を越えている。
「……こんなもんだな。感覚を忘れるなよ」
「わ、忘れようにも忘れられないですよ……」
身体を離すと、エリーナが首まで赤くして挙動不審になっていた。
どっかのひげ面のおっさんが『何で逆に攻略されてんの!?』と叫ぶ怪電波を受信したが、何のことだ?
「なんというか、教え慣れてますわね」
戻ると、じとっとした視線をアンブローズ嬢が向けてくる。俺は肩をすくめた。短期間で効率よく戦闘力を上げる教え方だ。根本的な理解をすっ飛ばすから、教師向きじゃない。
そうこうしているうちに、今度は別の列から冷気が流れてきた。
誰かと確認すれば、レンだ。片膝立ちの姿勢で腕を膝に乗せて、スナイパーライフルを構えている。膝射と呼ばれる射撃姿勢だ。彼女の身体から立ち上る冷気が、エリーナの実技でばらまかれた熱気を打ち消している。
「彼女も高い適性を持っているようですわね。冷属性適性者(フロストテクニクスト)でしょうか」
「ほーん」
「そして何を隠そう……わたくしも、風属性適性者(ストームテクニクスト)なのですわ!」
「ほーん」
「……リアクションが薄くありませんか?」
いや——メッチャ怪しいやん。上位3%しかいない高適性者が俺に絡みに来まくってんの、メッチャ怪しいやん。こんなん絶対ハニトラでしょ。
動揺を悟られまいとしているうちに、レンが放ったコバルトブルーの【バリスタ】が的を粉砕する。教師が数値を計測する中、彼女はライフルを片手で保持すると、こちらにとてとてと駆け寄ってきた。
「どう?」
「何も言うことがねえ」
本当に、唸るほど美しい攻撃魔法だった。転換効率も高い。
「えへへ、パンツを穿かなかった甲斐があった」
レンは(あんまり表情動いてねーけど)満足げにブイサインを突き出す。それどころではない。え? なんて? え? パンツが……何?
一呼吸置いて、俺は何も聞かなかったことにした。その時。
「……レンさん、エリーナさんのように世話を焼かれる機会を逸しておりますわよ」
「…………ッ!?」
残虐な笑みを浮かべた幼女の一言に、レンが雷に打たれたように固まった。
それからわたわたと左右を見て、そっと俺の顔色を窺う。
「自分、うまくやるのが一番、雄介に誉めてもらえると思ったけど……も、もう一度やって、失敗した方がいい……?」
「いやいいから。というか、アンブローズ嬢もわざと失敗したりすんなよ?」
一応くぎを刺す。彼女はふふんと笑い、ちょうど順番が来たので攻撃地点に進む。
「ご心配なく。わたくし——アガリ症なのでわざと失敗するまでもありませんわ!」
よく見たら、アンブローズ嬢の下半身が今朝よりガクガクだった。また足腰にキテんじゃねえか、メンタル弱っ!!
彼女が持つ大鎌——<モルス>から漏れ出す魔力が突風となってアリーナの空気をかき混ぜる。
思わず眉を寄せた。彼女を凝視し、魔力の流れを注意深く観察する。
『うわ!? 見えてる見えてる! キャストルテちゃん、風でスカートめくれてる!!』
『しかも黒の超エロいやつじゃん……って英赤君に見られてるわよ!?』
「そもそも実技が苦手なわたくしにとって……この場で勝負するなら、身を削る覚悟が必要なのは分かっています」
アンブローズ嬢が何故か頬を赤らめながら、俺を見る。
「身を削る……しかしここまでやるなんて……! 自分は、其方を侮っていた……!」
隣でレンが何事かうめいている。
騒がしい周囲と切り離されたような感覚。ただクリアに、魔力の動きを感じる。
「そ、それでその、雄介さん、不慮の事故とはいえ責任を……いえ、あの、いくらなんでも凝視しすぎですわ! どれだけ黒のレース付きがお好きなんですの!?」
——そのタイミングで、俺は大体把握できた。未だ大鎌から突風を吐き出す彼女に向かって歩き出す。
「へ? ……え、えぇ、ちょっ!? そ、そんな顔で迫られても……あわわわわ」
わたわたと両手を突き出すアンブローズ嬢に対して、俺は手を伸ばした。
「こ、ここは、ここでというのはいけません! いけませんわ! 皆さんいらっしゃいますしはじめてが砂利の上というのはいくらなんでもせめてわたくしの部屋でッ……」
「——ここだ」
「ええええええええええええええっ!? そ、そんなに強くご希望、なのでしたら……わたくしは……わたくしは……ッ!」
「おい聞いてんのか。ここだっつてんだよ」
そこでやっと、アンブローズ嬢は俺の手が指し示す箇所を見た。
「収束起点に大鎌の切っ先を選んでたが、違う。刃の根元にするべきだ」
「…………はい?」
「だからここだよ」
俺は人差し指で、<モルス>の刃の付け根をトントンと叩いた。
説明が分かりにくかったのか、アンブローズ嬢は目を白黒させている。
「アガリ症っつー割には、収束率は悪くねえと思ったんだ。ならやり方をミスってんのかと思って観察したが、案の定だった。ここを変えるだけでかなり良くなるはずだ」
「……そんな真剣に、わたくしのことを……ッ?」
「あ? 伸び悩んでるやつがいるなら、アドバイスするのは当然だろ」
魔物をぶち殺すために使えるやつは一人でも多い方がいいからな。
「——ッ。分かりましたわ。わたくし……期待を裏切らないよう、頑張りますわ!」
何故からやたら気合いの入った様子で、彼女はターゲットに向き直った。
こいつどうしたんだ?
「シィィィッ!」
鋭いかけ声と共に、アンブローズ嬢が【バリスタ】をぶっ放す。的を貫通した砲撃が外壁をえぐった。うん、棒グラフは赤い線をぶち破っている。
しばし残心を取った後、アンブローズ嬢は自分が放った魔法の痕跡を見て目を丸くした。理解が追いつくのに数秒、それを成し遂げたのが自分だと気づいて——反転し、勢いよく俺の胸に飛び込んできた。
「や、やった! やりましたわよ、雄介さん!」
「おーおー、いや、マジでよくやったよお前」
まばゆい金髪をかき混ぜてやると、彼女はくすぐったそうにした。年下の女の子がじゃれついてくるのってこんな感じなのかな。どっかのおっさんが『たらしこまれてないかこれ!?』とティーカップを壁にブン投げる怪電波を受信したが、一体何の話だ?
「よし、後は英赤だけだな」
クルーニー先生の声に、ハッとアンブローズ嬢が俺の胸から顔を引きはがす。それから耳を赤くし、咳払いをして一歩退いた。
「ま、まあ、ブタにしては有意義なアドバイスでしたわね!」
「もっと素直に感謝してほしいブヒよ……」
思わず豚語で返してしまった。いかん、こんなに可愛げのある飼い主なら豚でもいいかなと思い始めている。
まあハニトラ連中の実技を見て思ったこととしては。
——なんだよ、結構マジメじゃねえか。
どんなハニトラを仕掛けてくるかと思えば真剣にやってて、お兄さん感心したよ。
「……よく考えれば、自分だけアドバイスを受けていない。これは明らかな特別扱い」
その時、未だに自己正当化に励んでいたレンが、突如天啓を得たりと顔を上げた。
まだやってたのかよ、と言う暇もなく、アンブローズ嬢がかみつく。
「な……何ですの、その負け惜しみは!」
「負け惜しみ? それは此方の台詞。其方は負け犬、いや、負け豚」
「負けブタって何ですのっ!?」
完全に調子を取り戻したレンが、俺の腕を抱きしめた。いや近い近い!
涼しい顔をしていたレンだが……不意に、びく、びくと震えだした。
彼女の首元から頬までが、段々赤く染まっていく。
「あっ……」
昨日見たばかりの光景に、俺の口から諦観の声が漏れた。
痙攣が収まったかと思えば——彼女は無表情のまま、ツーと涙を流し始めた。
「見て、雄介……みんな、自分たちを祝福してくれている……」
先生の話を聞いているクラスメイトらを見渡し、レンは一層強く俺の腕を抱く。
「幸せになろう、雄介……!」
「——あ、結婚式!? 今この場が、結婚式だと誤認してらっしゃる!?」
ピンときた瞬間、驚愕のあまり敬語になってしまった。何をキメたら腕組んだだけで新郎新婦がバージンロード歩いてる世界線にトぶんだよ!?
助けを求めるべく、周囲を見渡す。生徒らは完全に無視していた。二日目にしてこの順応能力、大物ぞろいだな。いいから助けろや!
最終手段として担任教師を見た。ぎゃーぎゃー騒いでいる俺たちを一瞥し、眉間をもんでから……クルーニー先生は、視線を木葉に向けた。清々しいほどのシカトだった。木葉はムスっとした表情で俺たちを見ていたが、慌てて姿勢を伸ばす。
「咲ノ芽先生、向こうは立て込んでいるようなので、先に模範例を見せていただけますか」
分かりましたと即答して、木葉が攻撃ポイントに立つ。
「……咲ノ芽先生って、やっぱり凄腕なんですかね?」
すっと近寄ってきたエリーナが耳打ちしてきた。吐息がくぐったくて、耳が熱くなる。
「ん、まあ、どうなんだろう、な」
「……いや何照れてるんですか!? さっき平然と私をあすなろ抱きしてましたよね!?」
さっきは無我だったんだよ。ていうかあすなろ抱きって何だよ……
いいから見るぞ、と前を見た時、木葉の周囲に異変が起こった。
彼女は双剣を引き抜き、どちらも逆手に握った。だらんと両腕が下がり——木葉を中心に、バチバチと、小さな雷撃が地面を焦がし始めたのだ。
「な……雷属性適性者(エレクトロテクニクスト)……ッ!?」
エリーナの驚嘆もやむなしだ。
雷の属性魔法は、その速度や発動現象の不安定さから、極めて高度な適正と魔力操作精度が要求される。攻撃に指向性を持たせるだけでも常人には難しい、稀少魔法に片足を突っ込んでいるような属性だ。
それに適した資質を生まれ持つ確率というのは、ゼロコンマの後にいくつゼロを付ければいいのか分からないようなパーセンテージになる。
幼馴染で補佐役で、超が三つ付くほどの稀少属性適性者。
…………役満じゃねーか。やっぱこいつが一番怪しいよ。
「凩(こがらし)流剣術壱ノ太刀——」
バチバチというノイズに混ざり、木葉の小さな囁きがかろうじて聞こえた。
「——『根絶(ねだやし)』」
名前が物騒過ぎるだろ。
双剣が振るわれた、それを視認できたのはこの場で幾名だろうか。
刀身の軌跡をなぞるようにして魔力が結集し、雷撃となり疾走。的を粉々に粉砕した。棒グラフを確認する。縦軸の上限いっぱいまで、グラフは伸びていた。
残心を解除し、木葉は双剣を腰元に納刀する。
「今見たように……諸君が目指すべきは、魔法だけでなく、戦闘行為と魔法の混合にある。咲ノ芽先生は抜刀術と攻撃魔法を織り交ぜてくれたが、どういった戦闘術を得意とするかは、これから先見極めていってほしい」
クルーニー先生が講義を続け、生徒らが真剣に聞く。
一方木葉は、俺たちが視線をそらした瞬間に制服姿へ着替えていた。いつどこで着替えたんだよ。ちゃんと脱衣シーンを見せろ。
それから双剣と黒髪を揺らし、俺たちの方へ駆けてきた。
「雄介、どんなものだ」
眼前で立ち止まり、木葉が誇らしげに胸を張った。強調される二つの膨らみを凝視しながら、いいんじゃねえのと相槌を打つ。
「小さいころから雄介は、私がものを壊すとすごいパワーだと褒めてくれたからな!」
「幼いころの俺、もっと言うべきことありませんかねぇ!?」
その時、全身で俺にまとわりついているレンがびくんと跳ねた。
え、何、ここから進化するのか? 第二形態があるのか? 勘弁してくれ泣きそうだ。
痙攣が収まり、レンは木葉を見て、ついに感極まったように一層激しく泣き出した。
「雄介は、自分が幸せにするから任せて……!」
「…………通訳は」
木葉が俺を見る。できれば見てほしくなかった。
「……多分、小さいころの俺の話に反応したから、俺の親族とか友人とかの代表スピーチ、だと思われてるんじゃねえかな」
「そうか。いやまあそうだな。今のところ、君は一番任せたくないな」
木葉は冷たく告げて、引きはがすべくレンの両肩をつかんだ。
って——木葉さん! 近い近い当たってる当たってるおっぱい当たってる!
他の連中は真剣に実技やってたのに、なんて浅ましい奴だ。
お前絶対ハニトラだろ!
「——以上が攻撃魔法を実戦において放つ上で考慮すべきことだ。では改めて、世界最高峰の教材を見るとしよう」
天を見上げ唇をかみ、必死に耐えていると、やっと木葉がレンを俺から引き離した。晴れて自由の身となった俺に、クルーニー先生が不憫なものを見る目を向ける。
「疲労困憊のところ悪いが、やれるか、英赤。せっかくなので、ターゲットの自動攻撃も設定しようかと思ったんだが……」
「……やれます、やれますとも!」
憂さ晴らしに魔法をぶっ放したいという気持ちしかなかった。
都内某所。
「いやどういう教育したらこんなことになるんですか」
総理は思わず、心の声をそのまま発していた。対象は当然、レンだ。
『シミュレーションで婚姻に何千回も成功したとか言ってたが、逆に現実と妄想の区別がついてないぞ、お前のとこの子』
『さすがに引く』
アメリカ大統領もイギリス首相も、露骨に顔をひきつらせている。
その中傷を受けていた、張本人である中国国家主席は——
『レン……! よく、よく立派に育ってくれた……! 幸せになりなさい……!』
鼻をすすり、涙を滝のように流しながらモニターを見ていた。
現実世界に取り残された——中国国家主席が勝手に向こう側へと飛んで行ってしまっただけだが——男三人は顔を見合わせ、ぎこちなく笑みを浮かべた。
攻撃ポイントに立つ。
手に持つは長剣型の、量産型退魔騎装<デイブレイカー>。
自動攻撃してくるターゲット相手では、一般兵卒なら五つぐらいは防御重視で立ち回りつつ撃破できるだろう。それを基準に考えれば、二桁相手に無傷ならドン引き案件だ。
「雄介、他の退魔騎装の方がいい、などの要望があれば聞くが」
「いやいや、こいつが一番なじむから別にいいよ」
木葉の問いに答えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「なじむ? <デイブレイカー>が配備された時期には、もう聖剣を使っていただろう。使ったことがあるのか?」
「これ開発したの俺なんだけど……」
「え?」
「え?」
アリーナを一陣の風が通過していった。誰もが、口をぽかんと開けている。
「あ……あ、あぁ、ああああああああああああああっ!?」
沈黙を破ったのは、俺を指さすアンブローズ嬢の絶叫だ。
「お父様の! 第三世代型開発投資! テストファイター! 貴方、だったんですの!?」
「そうそう。軍事企業と合同で新型を開発することになって、根幹設計とテストファイターやってたんだ。そん時にアンブローズ家の支援を受けて、で、完成したのがこいつだ」
鈍く光る<デイブレイカー>をかざす。木葉は完全に絶句していた。
「…………いやいやいやいや、やりたい放題にも程があるでしょう、それ」
エリーナが愕然とした声を漏らす。
「おう。実際よくできてると思うぜ? 転換スピード調整とかフィードバックシステムとか、第二世代になかった機能全部詰め込んだ上でバランス取れてるし」
「退魔騎装ではなく、お前自身の話だ……」
木葉がこめかみに指をあてて、苦し気につぶやいた。
この<デイブレイカー>は片手で保持するには長い刀身であり、その実、長剣というより大剣と呼ぶべき代物だ。
だがこれぐらいなら片手で振り回せる。視線でクルーニー先生に開始を促す。
「……よく見ておけ、だが魅入られるな。いつかたどり着くべき場所ではない……人類の限界値を知っておくのも、勉強の一つだ」
どんな言い草ですか——口を開く暇もなくターゲットシステムが起動する。
「————ッ」
息を吸う。思考を切り替える。感覚を平時以上に身体へ没入させる。筋繊維一本一本の動きが理解できる。感覚が拡張され、風に舞う砂塵がスローになる。
憂さ晴らし——だけではない。ちゃんと俺にも考えがある。今日までのリアクションを見る限り、俺の英雄としての功績は、かなり尊敬とか敬愛とかの材料になるらしい。
ならばそこを逆手に取る。
あまりに隔絶した実力差を見せつける。住む世界が違うことを思い知らせ、尊敬を恐怖に反転させる。人間は同じ形をした異物を許容できるほど寛容な生き物じゃない。
周囲がドン引きする中でも俺に近づこうとするなら、そいつはハニトラ確定だ。
というわけで——<デイブレイカー>に魔力を流し込む。銀色の魔力が粒子のまま空間を揺蕩う。一秒が切り刻まれ、展開された数十の仮想ターゲットの、中心に据えられた砲口が発熱するのが見える。
収束された魔力が拳大の弾丸として放たれる——退魔騎装を介していない以上、収束率は低い。顔面直撃コースのものを、空いていた片手で払った。
次々と放たれる攻撃の全てを、一歩も動かず叩き落す。<デイブレイカー>は刀身の向きを変えるのみで弾道に割り込ませ防御。火花が視界を埋め尽くす。その向こう側のターゲットを見据えた。
下級攻撃魔法【スプレッド】を起動。単一の相手に撃ち込む【バリスタ】に対し、複数の相手をけん制する広範囲攻撃魔法。流し込んでいた魔力を転換させ、刀身に魔法陣を無数に貼り付けた。それらから一斉に収束魔力を放つ。
ターゲットが放つ拳大の魔力弾を、一つ残らず撃ち抜く。空中で激突した魔力と魔力は拮抗することなく、一方的に俺の攻撃が貫通し、そのままターゲットに殺到し、粉砕する。
ターゲットの全滅を確認して、切っ先を下げ振り向いた。生徒一同が唖然としている。
視線を浴びながら、誰も一言も発さない空間の中央で、内心で拳を突き上げる。
——よっしゃ完璧ィ!
「ま、こんなもんかな」
かるーい調子でそう言うと——にわかに生徒らがこちらに走り寄って、俺を囲んだ。
あれ?
「す、すごいすごい! 今のどうやったの!?」
「【スプレッド】だよね!? 全然【スプレッド】じゃなかったけど!」
「総攻め!? 総攻めだったの!?」
え……ちょ……あれ? 想定と真逆の反応しかねえ! あれぇ!?
結局もみくちゃにされるがまま、俺への尊敬度が上がった。
俺の計算通りだったら——全員ハニトラなんじゃねーか! ふざけんな!
◇
生活と食事は切り離せないものだ。みんな昼食は弁当か食堂で済ませるが、夕食となると選択肢は多い。学園敷地内の商業地区には多くの飲食店があり、学生で賑わっている。
ただし、敷地の広さが災いし、店によってはモノレールで移動しなければたどり着けないほど遠い。そのため最も手っ取り早いのは、学生寮の一階に設置された、これまた学生食堂を利用することだ。
「ええと……どれが、美味しいんだ……」
俺は寮の食堂の注文列で、見たことも聞いたこともない料理名の羅列に目を回していた。
「雄介さん、好きな食べ物とかないんですか〜?」
「甘いの、とか」
「食べ物をお聞きしているのですが……」
俺の前に並んでいるエリーナとアンブローズ嬢が、俺の発言に白けた視線を送る。
いやそう言われても分かんねーよ。軍用レーションとかないの?
「あれなんてどうだ?」
後ろに並んでいた木葉が、メニューウィンドウの一角を指さす。ええと、何、『サバの味噌煮定食』……ええ!? 魚って、味噌で煮るもんなの!?
「じゃ、じゃあそれで」
何も分からないので、とりあえずおすすめされたものにしておく。
各々トレーを持って、あらかじめ席を取っておいてくれたレンの下へ向かった。
すごく自然に、五人で行動している。なんとなく不安になるメンバー構成だが、致し方あるまい。他に知り合いがいないし。
席に座る。斜め前のレンが、俺のお冷に何かしらの粉薬を入れようとしてアンブローズ嬢に迎撃された。出だしから不安が的中してる……
「いただきます」
手を合わせ、箸を持つ。改めて見ると、サバ味噌、美味そうだな。
「さあブタ! わたくしにあーんする栄誉を与えてあげましょう!」
「はい、あーん! です!」
アンブローズ嬢が何か言った瞬間に、エリーナが肉の塊をフォークごと口に突っ込んだ。それを行儀よく咀嚼してから、幼女は高貴さをかなぐり捨てエリーナに掴みかかった。
「……木葉、学生の食事っていうのは、こういう風に騒がしいのが普通なのか?」
「さすがに、これは、違うぞ」
制服姿の木葉が疲れ切った表情でぼやく。良かった、これが普通だったら外の世界怖すぎる。
「それにしても、お前の実技は見事だったな」
「ん? ああいや、木葉の方がお手本って感じですごかっただろ」
かなりの腕前だ、とよく分からない太鼓判を押すと——彼女は、自嘲するような笑みを浮かべた。
「どうかな。私は……ここぞという時に、強さを発揮できたためしはない」
自虐的な声色に、思わず押し黙った。
三人娘の叫び声が食堂に響く中で、俺は、木葉の横顔から目が離せなくなっていた。
「ずっと前に……幼いころ、同い年の少年と仲良くなったんだが……彼は、私の理想というか、信念みたいなものに共感してくれた。でも……消えた。私は彼を庇おうとして、意識を失って、救助されたときにはもう、彼は跡形もなかった」
「…………そっか」
俺はサバの味噌煮を一切れ、口に含んだ。美味しい。
それを咀嚼し、胃袋に落としてから、唇を開く。
「分かるよ」
「え?」
「俺もさ、俺にすっげー大事なこと、教えてくれた女の子、いたんだ。まだ俺が小さくて……聖剣もない、英雄だなんて呼ばれてなかったころ。俺はあの子に、大事なことを教えてもらった。俺は彼女のことを大切に思っていた。でも……その子は俺を庇って、俺は気を失って、気づいたときには、消えてなくなってた」
「…………そう、だったのか」
奇妙な合致だった。俺も木葉も、かつて、守りたいものを守れなかった。
「だからこそさ、これから、あんな悲劇を起こさせないようにしないといけない。そうだろ?」
意図して明るい声を出した。けれどこれは、確かに本心だった。
「ああ、そうだな」
木葉も表情を力強いものに変えた。
似た者同士なのかもしれないなと思った。だからこそ、力を渇望した。守りたいと思えた人を守れる力。世界を、人類を守るためではない。本当に欲しかったのは、もっと小さな、ちっぽけなものを守るための力で——
「……なんていうか、咲ノ芽さんって、時々正妻みたいな顔しますよね」
気づけば三人は同士討ちをやめて、じとっと俺たちを見ていた。
いわれなき中傷に、木葉は顔を真っ赤にしてエリーナに怒鳴る。
「せ……ッ!? 正妻とはどういう意味だ、この二号!」
「今しましたよね!? そういうところですよ!」
ついに木葉も交えて、四人で騒ぎ始めやがった。他の席に座っている生徒らが、ちらちらこっちを見ている。
俺は四人を無視して、もう一度サバ味噌を食べた。美味しいと思った。今まで食べてきたものより格段に。
でもなんとなく、マキナと暮らしていたころの料理が、恋しいなとも思った。