「おお、藤坂工輝よ! 死んでしまうとは情けない!」
目を開けると同時に白を基調としたデザインの服に身を包んだ神々しい白髪の女性にそんなことを言われた。死後の世界に来ていきなりとんでもない言われようである。
とりあえず、ゲームとかで見たことはあっても、恐らく殆どの人が経験したことが無いであろう『死んだあげくに情けないと言われた時』の気持ちをぶつけることにしよう。
「一発殴っても良いですか?」
「良いわけないでしょう!?」
ありえない!といわんばかりの表情を浮かべてくる。いや妥当だよ妥当。
「死んだことに対して情けない!なんて言われたら殴りたくもなりますよ。ふざけないで下さい女神様」
「ふざけないで下さいはこっちの台詞ですよ……」
神々しい女性——女神様ははあ、と息を漏らす。
「そういや女神様。女神様って、俺が死んだ後のことわかりますよね確か」
「え? はい、まあ一応」
良かった。実は溺れていた女の子を助けるため豊平川に飛び込んだところまでは覚えているのだけれど、それ以降がどうにも思い出せないのだ。打ち所でも悪かったのだろうか。
「女神様、あの女の子は助かったんですか?」
「女の子?」
女神様が小首をかしげる。可愛い仕草だなおい。でも求めている反応と大分違うのだが。
「ほら俺、『溺れている!』と思って川から飛び降りて助けに向かったじゃないですか」
「……あーあー! はいはい! そうですね! お、女の子、でした、よ、ね……ぶふ!」
え、ちょっと待ってなにその反応。
「あの時の藤坂さんはもう、それはそれは、カッコ、よかった、ですよ……!」
女神様はあからさまに笑いを堪えて、堪えすぎて若干涙目になりながら俺にそう伝える。いや絶対カッコよく無かったよねこれ! 明らか馬鹿にしているよねこれ!
「え、ちょっと待ってください。なんですかその反応。俺、間違ったことは何にも言ってないですよね!?」
「……聴きたいですか? 私が笑っている理由」
女神様は笑いを堪えつつも、上目遣いで俺に尋ねて来る。くそ、可愛いな……でもさすがに——!
「実はですね」
「選択権無し!?」
「川で女の子が溺れてる! と思って勇気を出して飛び込んでみたらその女の子は服を着せられていたラブドール。でも時すでに遅し、川は思っていたより浅くて飛び込んでしまった藤坂さんは地面に頭を打ち付けそのままぽっくり亡くなってしまいました」
「聴きたくなかった!」
情けないにも程がある! 字面だけ見たらただの馬鹿じゃん!
「なんですかその情けない死因! それ女神様の創作とかじゃないんですか!?」
なんで女の子とラブドール間違ってんの俺!?
「創作な訳ないじゃないですか。女神にラブドールとか言わせないでください汚らわしい」
「いやアンタが喜々として発したんでしょうラブドールって!」
「乙女の口からなんて単語を……不覚にも藤坂さんに夜のお供を提供してしまいました」
「有難迷惑ですよ淫乱女神! 誰が乙女だ誰が!」
「なっ! 誰が淫乱女神ですか! 見てくださいこの清楚極まりない容姿を! 女神ですよ私は! 私が何度藤坂さんの妄想の中で何百回汚されたことか!」
「人の妄想をねつ造すんな! 何百回も使ってないわ! まあ女神様は確かに俺の理想の体型そのものですが……単位が間違っていただけで優に千は越していますが……」
そう言って俺は女神様の体の部位のある一点をじっと見つめる。そこにあるのは平原。シート敷いてピクニック出来そうなくらいなだらかな平原だった。
女神様は俺の視線に感づき、ばっと両腕で隠す。
「ちょっとどこ見てるんですか!」
「胸です」
「直球!? やめてください厭らしい! お願いですからあなたはもう少し巨乳にも興味を持ってください!」
「嫌ですよあんな脂肪の塊。俺は小さい胸が好きなんです」
「…………」
俺のその発言に、女神様は先ほどよりも胸のガードを強くする。胸が小さいからかガードも固そうですね。
「大体巨乳とか貧乳とかいうのがもう気にくわないんですよ俺は。なんですか『貧』って。小さい=貧しいみたいな理屈がもうおかしいでしょう! チチがデカいからなんだっていうんですか! あんなん小さめのサンドバッグとさほどかわらないでしょう!」
「女神という立場上それなりに多くの人間を見てきた私ですが、胸をサンドバッグと言い放ったのは貴方が初めてです」
「一概に小さければ小さいほどいいってわけでもないんですが……個人的にはA寄りのBかBよりのAが最高ですね……!」
「全く興味ないんで止めてください」
女神様は「汚らわしい汚らわしい」とかなんとかほざきながらスカートの裾を直す。
「それにしても最近死にすぎですよ藤坂さん。いくら生き返るとはいえ心配してくださる方もいらっしゃるんですから、もう少し気を付けてください。この街に住み始めて今年で二年目ですから、それなりに藤坂さんの能力も広まっては来ていますが、それでも知らない人は知らないですし。それにいくら能力を知っていると言えども、実際見たら結構ショッキングなんですからね」
「申し訳ないです……」
「死ぬ理由が人助けなんで私もあんまり強くは言えないですし、行為自体は立派ですが」
「まあ、人助けする度に死んでるわけじゃないですし。それに俺だって好き好んで死んでるわけじゃないんですから」
「それはわかっていますが……」
女神様はなにやら不安そうに俺の方を見つめて来る。
「藤坂さんが住んでいるあの共同住宅にも新しく人が入ったじゃないですか」
「ああ、八野のことですか? あいつはあいつでいい胸持ってますよ。俺の好みドストライク。俺の中では今のところ女神様と八野の二強ですね」
「とんでもなく不名誉なランキングでトップを取ってしまったことが悔やまれるのですが……。確かあの方にはまだ能力見せていないですよね?」
「あ……」
そういえばそうだった。初めて会った際に伝えたものの、あいつの前で能力を使ったことは一度もない。牧下さんも八野が入居してからまだ一度も活動の声をかけてこないし。
「すでに住んでいる方々とは違って八野さんはまだ藤坂さんの死に耐性が付いてないのですから、いきなりショッキングな死を見せたりはしないでくださいよ」
「なにその『プールに入る時は水を体にかけながらゆっくり入りましょう』みたいな感じ。慣れさせるためにいっぱい死んどけってことですか……アンタ本当に女神ですか?」
「いや誰もそんなことは言ってないでしょう! ただもう少し、能力を使うにしても周りに気を遣ってくださいってことですよ!」
声を張り上げて女神様はキッと俺を見つめる。
「貴方はもう少し自分の体を大切にして下さい! いくら『生き返り』の能力を持っていたとしても、さすがに死にすぎです! 特に最近は!」
「仕方が無いじゃないですか、人を助けるためなんですから。まさか女神様は俺に『助けられる命を見殺しにしろ』とか言うつもりですか?」
俺のその言葉に、女神様は「うっ……」と言葉を詰まらせる。
「だ、だからと言って自分をないがしろにしてはいけません!」
「ないがしろになんかしてないですよ! 女神様も知っているでしょう、俺が命を懸けてまで人を助けている理由!」
「そ、それは確かに知っていますが……」
俺が人を助ける理由。それは別に、相手のことを思いやった末の行動では決してない。俺はただ自分のために人を助けているだけ。俺の信条に則って動いているだけなのだ。
『情けは人のためならず』——この信条に則って、俺は自分のために人を助けているのだ。
情けは人のためならず。よく『情けをかけるとその人のためにならない』みたいな意味で捉えている人がいるが、これは決してそんな意味じゃない。本当の意味は『人にかけた情けは、巡り巡って自分に返ってくる』というものだ。いつか窮地に立たされた時に助けてもらう——そのために俺は人を助けているのだ。打算この上ない。そんな理由でもなければ、わざわざ命を懸けてまで人を助けたりするものか。死ぬのってめちゃくちゃ辛いし痛いんだから、それ相応の対価がなければ命なんて張れない。
「……はあ。まあ、いいです。私もなんだかんだでその考え方は素晴らしいものだと思いますし……応援もしていますし……」
女神様は俺の固い意思を折ることが出来ないと悟ったのかため息を吐き、「それでもやっぱり、むやみやたらに死なないでくださいね」と釘を刺して会話を締めた。
「……あ、どうやら体の修復と転送が終わったようです」
「もうそんな時間ですか。女神様と会話するの楽しいんで、待ち時間もすぐですね」
「はいはいありがとうございます。いきなり褒められると裏があるような気がしますが」
「本心ですよ! 俺は女神様と話すこの時間が大好きです。いちいち死ななきゃ来れないのが難点ですが。簡単に来るようになればいいのに」
俺のその言葉に女神様は少し頬を赤く染め、嬉しそうにはにかみながら、
「……その言葉は素直に受け取りましょう。それに、残念ながら今は簡単には来れませんが、藤坂さんが寿命で亡くなった際にはこちらに来ることも可能です。その時は時間を気にせずお話ししましょう。だから今は限られた時間の中で、精一杯生を謳歌して——」
「まああわよくば女神様のその小さな胸に顔を埋めたいってのはありますが。どうにかして会話をそっちに持っていこうと試行錯誤してはいるんですがどうにも……」
「最低です! 藤坂さんは本当に最低です!」
「え、ええ……?」
「なんでそんな全くわからない、みたいな表情浮かべてるんですか!?」
女神様は先ほどとは打って変わって声を荒げながら、指をパチンと鳴らした。その音を合図に、こちらと現世を繋ぐ門が開く。
「ほら、開けましたからさっさと行ってください!」
「わ、ちょ、押さないでくださいよ。わかりましたから。……では、行ってきますね」
その言葉を聴き、女神様は俺の背中を押すのを止めて、
「何故ここが家みたいな……まあいいです」
女神様はどこか嬉しそうに微笑んで、
「いってらっしゃい」
その言葉に俺も笑みを浮かべながら、神々しい門を開き——その中へと飛び込んだ。
目を開けるとそこは自室のベッドの上だった。まあここをセーブポイントにしているのだから当然ではあるが。
しかし、確かに女神様の言う通りだな。いくら生き返るからって言っても、最近少し死にすぎていたかもしれない。人助けを止めるつもりはないけど、もう少し自分の命は大切にしなきゃなあ。生き返れるからって無茶するのは、正直人間的に危ういだろ。
そう、生き返り。俺の超能力。
今から二十年程前。突如として人間は超能力に目覚めた。予告なく、本当に突然——人類の一部は超能力者となった。
国が公式に発表している数値によれば、一万人に一人、くらいの割合らしい。
そして未だ超能力について詳しいことは解明されていない。超能力を発動させるためにはなにかしらの条件がある──わかっているのは、たったこれだけだ。
一応法整備はされたが、悪事を犯す超能力者は大抵能力が強い上、どんな能力を持っているかは見た目で判断できない。機能するにはもう少し時間がかかるだろう。なので、能力犯罪者に懸賞金をかけ、自治組織に確保を手伝って貰っているというのが現状だ。
ちなみに、俺の超能力──生き返る能力。これの発動条件は簡単で、『絶命すること』……簡単に言えば、死ねばオートで生き返るってわけだ。あ、勿論俺が死んだ後死体は消えて無くなる。死んだ当事者である俺はその瞬間を見たことはないのだが、目撃者の話によると光となってパッと消えるらしい。
で、体の損傷を治している間女神様のいるあの空間に送り込まれる。一応即生き返ることも出来なくはないが、損傷が激しい場合生き返ってもすぐにまた死ぬことが考えられるので推奨されてはいない。
そして生き返るときはいきなり設定しているセーブポイントに現われる。本当に急に現われるらしい。「誰もいなかったのに、瞬きをしたら藤坂がいた」と言われたこともある。
「……うし。そろそろ行くか」
ちょっと休憩したことだし、また街に出るか。困っている人が俺を待っている。
財布と携帯をポケットに入れ、俺は自室を出た。そのまま一階へと続く階段を下りる。
高校二年の俺は現在、二百万人ほどが住む大都市・札幌の、地下鉄東西線東札幌駅や菊水駅から徒歩圏内、白石区に存在する「みなすけ荘」という共同住宅に住んでいる。漢字で書くと「皆助荘」。皆を助けてあげられるような居住地にしたい、という意味らしい。
住人は現在大家さん含めて五人。俺、大家の牧下玲菜さんに、二十二歳の久地中亮さん、二十歳の佐山花恋さん、そして高校一年生の八野心。
二階には住人の部屋と主要設備、一階には大家である牧下玲菜さんの自室がある他に、久地中さんが経営している喫茶店と牧下さんの経営している古本屋が内在している。
「喫茶店は絶賛営業中だろうし、今日も古本屋の方から出るかあ」
このみなすけ荘、実は住人用の玄関というものがない。元々はあったらしいのだが、今はその元住人用玄関と一部を改造し、そこを古本屋として使っているらしい。
というわけで古本屋の方に足を運ぶと——
「お、やっと来たね工輝君。遅いなあもう」
「あ、誰だ店内にゴミ袋二つもおきっぱにしている人は。さすがに今から捨てるのは怒られそうだしなあ」
「あっはっはまずは私が怒るよ」
そこにいたのは、胸に大きなゴミ袋を二つ装着した女性——大家の牧下玲菜さんだった。
「なにしてんすかこんなところで。もう収集車行っちゃいましたよ」
「どうしても君は私の胸を捨てたいようだね……残念ながらこの胸は私と固く結びついて取れないんだ。諦めてくれ」
「いえ、まだ挫けませんよ俺は」
なにその鋼の意思、とケラケラと面白そうに牧下さんが笑う。なに笑っているんだこの人は。明日には自分の乳がもげているとも知らずに。
牧下玲菜さん。前述した通りみなすけ荘の大家である。同時に古本屋も経営しているが、こちらはどうやら道楽でやっているよう。まあ家賃だけでも稼げるしね。いい人だし面白い人だし、背も高く美人でもあるのだが巨乳だ。残念。あと独身である。まあ牧下さん小さい子が趣味だからな……ロリもショタもいける口らしいし。後数年は独身だろう。
あと胸がデカい。ふざけている。EだかFだかくらいはあるだろう。萎めばいいのに。
「ちょっと君に頼み事が出来てね。部屋に行ったらぐっすり寝てたから恐らくこれから『困っている人狩り』に出るだろうと踏んでいたんだけど」
「なるほど。……てかちょっと待ってください。なんですか『困っている人狩り』って!」
「なにって……君の普段の行動に決まっているじゃないか。街に繰り出し、困っている人を次々助ける——まさに『困っている人狩り』だよね」
「やってることは滅茶苦茶善人のはずなのに、なぜだか凄く悪人みたいに聞こえるんですけど! 俺はただ困っている人を助けているだけですよ!」
「そう言いつつも、結局自分のためだしね。やってることは人助けだからいいけど。私はもっと偶然かけた情けが巡り巡って返ってくる、みたいな感じだと解釈していたよ」
「その考えは駄目ですよ牧下さん。困っている人が来るのを気長に待ってたら気付けば人生終わりますよ! 情けをかけたいならば、自ら出向いてかけてやるんです。その情けは決して無駄にはなりません」
「なんだろうなあ。心がけは立派なのに、どことなく全て台無しだよね」
辛辣だった。
「まあ、牧下さんの予想通り困っている人を助けに行こうとしていたところではありましたけどね。で、頼み事とはなんですか? 俺は人の頼みは断らない男ですよ」
知ってるよ、と言いながら牧下さんはカーディガンのポケットから一枚の紙を取り出し、
「小説の予約票。これを心ちゃんに届けてほしいんだよね。どうやら今朝、これ落として学校に行っちゃったみたいでさ。発売日が今日だから、学校帰りにまっすぐ取りに行こうと思っていたらしくて」
「なるほど。これを俺に届けてほしいと」
「そういうこと。私が行っても良かったんだけど、ちょっとこれから狸小路自治会の方に出向くことになっててね。方向は一緒なんだけど車で迎えに来て貰ってまっすぐ行くから会えそうにもなくて。それで代わりに。いいかな?」
「ええ、勿論。……でも、八野どこにいるんですか?」
「死んだせいで感覚が狂っているみたいだが、普通の生徒は今下校中なんだ」
「ああ、そういえばそうだった……」
俺は死んだせいで早めに家に帰れたが、本当はまだどの生徒も下校中だよな。
しかしそのお陰で八野と外で会えるのだ。今日は運が良い。
八野心。高校一年生の女の子である。四月に室蘭の方から転居してきたばかりで、もう二週間ほど経つのだがあまり詳しいことは知らない。話もするんだが、向こうの返事がそっけないからなあ。でもなんだかんだ相手はしてくれるから、根は良い奴で間違いない。
それにしても高校生で親元を離れての生活ってのは中々珍しいと思うのだが……まあ何かしらの理由があるのだろう。俺が言うのもなんだけど。
あと胸が小さい。俺の見立てでは恐らくB寄りのAだろう。俺の好みそのものだ。女神様のA寄りのBとかなりいい勝負を繰り広げている。さすがランキングトップの二人だ。今度揉み比べをして勝者を決める必要性がある。土下座したら揉ませてくれないだろうか。
「先に心ちゃんとも連絡を取ったんだよね。あの子、先に向かってその辺で時間潰してるってさ。大通のジュンク堂ね。丸大ビルをちょっと過ぎた辺りのとこ。で、君もそこに向かって欲しい。別に急がなくてもいいとは思うけど、あんまり待たせないようにね」
「わかりました」
困っている人を狩るのもいいけど渡すの忘れないでね、と牧下さんは念を押してくる。子供じゃあるまいし。そんなことあんまりないですよ。あんまり。
「いいなあ。私も心ちゃんに会いたかったよ」
「仕方がないでしょう牧下さん。狸小路自治会ってことは、異能事件に関してなんらかの情報が入ったってことでしょう?」
「そうだね。少し前までは落ち着いていたんだけど、ここ最近は結構頻繁に事件が起こっているみたいだし。特に窃盗事件と闊歩する痴女の出没。まだ大事件レベルではないんだけど、他の事件と比べて頻度が高いからタチが悪いんだよね。実害の数だけ見たら一番かも」
ふり幅凄いなおい。でも事件には違いない。そして事件という名目で現れる以上、そこには被害者——つまりは困っている人が存在するのだ。それは見過ごせない!
「痴女闊歩の方は手を付けるのが難しいんだけどね。奇妙な点が多くて」
「ああ、確かに。多方面で活躍してますもんね、あの痴女。悪い意味で」
痴女闊歩事件。服を脱いで男を惑わし脱ぐほど力が増す怪力の痴女が闊歩している、というものである。最初はあまりにも荒唐無稽であり、誰も相手にしていなかったのだが……。
「『夫が痴女を見て以来エロいことを考えている表情を固定したまま喋らなくなりました』『痴女がベンチを素手で破壊していました』——こうも相次いで痴女関連の事柄が起こっていたら、さすがに動かざるを得ないよねえ。決定的な証拠がないから捜査はまだ難しそうなんだけど。そんなに怪力話が飛び交っているのに怪我人が出ていないのも奇妙だし」
「そういう能力者なんですかねやっぱり。能力には変な条件も多いですし」
「能力者でも一般人でもタチが悪いけど、身長が低いと素敵だね。低身長痴女……ふふ」
「うわ……」
「ちょっと、素で引くのは止めてくれないか」
いやだって、この人今すげえ気持ち悪い笑い声出しやがったよ! ふふって!
「じゃあ君だって想像してごらんよ。その痴女が君好みの小さい胸をしていたら」
「何言ってんですか、俺はそんな気持ち悪い笑いなんて……ふふ」
「出したよこの男! いとも簡単に出したよ気持ち悪い笑い声を!」
し、仕方がないこれは! 笑ったの謝りますよ出ますねこれは気持ち悪い笑い声!
「ま、まあ都市伝説の痴女は置いといて。そういった事件の情報が手に入るんですね」
「ああ、そういうことになるね」
「じゃあ行かなきゃ駄目ですよ! せっかくの情報なんですから!」
「まあ情けかけるの大好きな君からしたらそうだろうけれども……いや私も勿論積極的に動きたいけれども……でも! 私も心ちゃんと外で肩を並べてデートしたかった……!」
「大人が本気で悔しがっているところを見るのはなんだか心にキますね。もっとカッコいい理由なら心打つエピソードみたいになるんでしょうけど……」
ふたを開けてみれば『ロリコンの大人の女性が背の低い女の子とデートできなかったことを心の底から悔しがっている』だもんなあ。ちょっとした事案だよなあ。
「ま、安心してくださいよ! 牧下さんの分まで俺が八野とデートしてきますから!」
「家出る前から本題見失ってるよね君。ちゃんと心ちゃんに届けてね予約票」
不必要な心配をする牧下さんを背に、俺は裏口を出て本屋へと向かった。
今日は良い一日になりそうだ。
店を出て三十分程。せっかく急がなくても良いと言われたので、俺は困っている人を探すためにみなすけ荘からジュンク堂までを一条大橋を渡って歩いていった。結果、発見は出来ないまま目的地付近に着いたが。とりあえず八野に近くまで来たと連絡をしておこう。
しかし下校時刻だからか、結構人通り多いなあ。こりゃさすがに困っている人もいそうだ、などと考えながら辺りを見渡していると、
「テメ何見てんだコラァ!」
いきなりそんな怒号が街に鳴り響いた。
「え、あの、ちょ……」
声を浴びせられた少年が、オロオロしながら言葉を紡ごうとする。が、
「こちとらむしゃくしゃしてんのよ……」
「ごめんだけど、君、ちょっち付き合ってくんね?」
「ほんの少し! ほんの少しで済むからさ!」
三人の不良がそれを遮って、まくしたてて少年を人気の無いところへと連れて行こうとする。うわあ、今時いるんだ、あんなタイプの不良。……まあ、とりあえず助けるか。
「はいはい、ストップストップ」
少年と不良達の間に割って入る。両者ともいきなり飛び込んできた男に面食らってしまったようで、少し怯んでいる。他の通行人達は皆見て見ぬふりをしているわけだし、割って入ってくるようなアホがいるとも思ってなかっただろうし、まあ当然か。少年には呆気にとられるような表情より、もう少し希望を持った表情を浮かべて欲しかったが。
「——んだてめえは!?」
「いや明らかに少年が困っていたから助けてあげようと思って。困ってたよね?」
「えっ……は、はい……!」
少年の返事に不良達はぐぬぬ、と歯ぎしりを始めてしまった。だからなんか古いんだよ。
「ち、どいつもこいつもよお!」
募りに募った苛立ちが限界値を迎えたのか、三人のうち、明らかに喧嘩っ早そうな不良が俺を殴りにかかってきた。不良が俺に拳を浴びせるまさに寸前——俺はにやりと笑って、
「おっとストップ! 殴ってもいいけど、殴られたらその反動で俺、この画面タップしちゃうかもなあ」
と、不良達にスマホの画面を見せつけた。
表示されているのは一一〇の数字。言うまでもない——警察への緊急通報だ。
「っ! テメ!」
「ストレス発散したいなら人助けすると良いぜ。良いことすると気分が良くなる」
俺のありがたいアドバイスを、しかし不良達は無視して、
「……くそ! 覚えてろよ!」
などと吐き捨てて一目散に逃げていった。うーん、全体的にずっと古かったな。
「っと。大丈夫か?」
後ろに隠れさせた少年の方を見やる。どうやら怪我もなさそうだ。
「す、すいません。助けていただいて……」
「いやいやいいさ。趣味みたいなもんだし」
趣味というか、なんというか。説明するのもめんどくさいし、まあいいか。自分のためにやっていることで、特に理解してもらおうとしているわけでもないし。
「趣味で、人助け、ですか……かっこいいですね」
少年は顔を少しうつむけた後、笑顔でそう言った。
「正義感がある人って、憧れます。僕なら絶対見て見ぬふりをしてしまうでしょうし……」
「俺も殴られるのは嫌だけどな。痛いし」
正直結構勇気もいる。今だって『情けは人のためならず』に基づいた行動を取ると決めているからできたわけで、それがなければとっくに引き返していることだろう。
「でも、困っている人は助けてやりたい。全員とは言えないが、俺の目に届く範囲でなら」
情けをかけるために。結局は自分の利益のためなんだが、まあそれを言ってしまったらせっかくのカッコイイ感じが台無しなんで言わないでおく。この少年には夢を見て貰おう。
「なるほど……」
少年は俺の顔をじっと見つめて、
「お兄さんは、正義のヒーローなんですね!」
と、羨望の眼差しを向けてきた。よ、よせやい! もっと言って!
「あ、すいません。僕これから用事があるので……失礼しますね」
「あそう」
「では。本日は本当にありがとうございました!」
少年はそう言って、一礼して不良達が去って行ったのと同じ方向に走って行った。
「気を付けろよー!」
先ほどの不良に偶然ばったり出くわすことも可能性としてなくはないからな。「はいー!」とかすかに聞こえたので、恐らく届いたことだろう。
しかし、街に来てすぐに情けをかけることに成功したな。これは幸先いいんじゃないか? さあ、どんどん情けをかけてやろう。
困っている人……! どこかに困っている人はいないか……!?
「ねえねえ、そこのおにーさん」
「ん!? どうした!?」
俺が周りをキョロキョロ見渡していると、後ろから不意に声をかけられた。
そこにいたのは、学ランを来た笑顔の男の子。……男の子、だよな? なんとなく俺の小さい胸レーダーが引っ掛かっている気がしないでもない。まさか、小さい胸が好きすぎて、多少の男なら行けるようになってしまったとでもいうのか……?
「あ、あのー。おにーさん? 僕の胸凝視してどうしたの?」
「おっと、すまん。つい吸い寄せられてしまって」
いつの間にか俺の目の前に少年の胸があった。危ない危ない。これじゃ牧下さんと一緒じゃないか。いや、牧下さんは気付けば幼女を抱っこしていたらしいし、それよりはまだ……いや、駄目だ駄目だ。もっと自分を律しないと。そういう甘えが身を滅ぼすのだ。
「ふふ、面白いおにーさんだね!」
糸目の少年は、楽しそうにケラケラ笑う。
「で、俺に用か少年。もしや困っていることでも!?」
「うん。そうそう。おにーさん、落ち着きなく厭らしい目で辺りをキョロキョロ見渡してるから、もしかしたら見たかなーと思って」
「おいおいなんとなくとげがあるように感じるのはおにーさんの気のせいかな?」
「ここら辺で、気弱そーな男の子見なかった? 背は僕よりちょっと大きい感じの。僕の友達なんだけど、さっき三人組のアナログ不良に絡まれてて。助けを呼ぼうとして一旦場を離れたら、いつの間にか騒動は収束してるし。その上友達は見失っちゃって」
俺の疑問は華麗にスルーされてしまった。ええと、気弱そーな男の子……。
「ああ、見た見た」
多分、さっき俺が助けた少年だろう。不良の数も一致するし、アナログだったし。
俺は少年が向かって行った方を指さして、
「その子なら、さっき俺が助けたよ。で、あっちの方に走って行ったぜ」
「おおー! 勇敢なおにーさんだ!」
よせやい照れるぜ。
少年の羨望の眼差しを全身で感じる。このむずがゆくも気持ちいい感じ! 決してこの為に人を助けているわけでは無いけど、『やってて良かった!』って思ってしまう!
「ありがとね、おにーさん! 助かったよ!」
少年は満面の笑みで俺に感謝の言葉を述べてくれた。
「いいってことよ。人を助けられて俺も嬉しいし。WIN—WINの関係ってやつだ」
「カッコいいこと言うね〜!」
パチパチ、と軽い拍手を貰ってしまった。おいおい、おだてたってなにも出ないぜ?
と、羨望の眼差しと拍手をいただいていると、少年の向こう側から探していた顔が。
そこにいたのは、セーラー服に身を包んだ少女──八野心だった。
「お。実は俺も人を探していたんだが、ちょうど今見つかったわ」
「ん? どこどこ?」
ほらあの子、と俺は少年の背後からこちらに向かって来る八野を指で示した。
「へえ……あの子……」
少年は声のトーンが少し低くなり、にやりと笑った。ん? まさか……。
「お前も可愛いと思うか、やっぱり! いいよなああの胸! 神が与えた産物だよな!」
「お、おおう……おにーさん。いきなり気持ちが悪くなったね……!?」
引かれてしまった。先ほどまで羨望の眼差しを俺にこれでもかというほどむけられていたというのに、まさかのドン引きだった。
常時笑顔みたいなキャラだったのに、笑顔さえ浮かんでいなかった。
「いやさすがにいきなりテンション爆上げで胸の話されたらね……」
と困ったような笑顔で補足までされてしまった。
「ま、最後はどうあれありがとうねおにーさん! また会おうね!」
「おうよ。お前も気を付けてな。お友達に絡んでた不良も同じ方向に逃げてったから」
「うん! お世話になりましたー!」
快活な笑みを浮かべながら、少年は走り去っていった。ドン引きこそされたものの、友達思いのいいやつだったな。……さて、俺も八野に話しかけるか。
「おっす八野」
「あ、藤坂さん。こんにちは」
八野はぱちくりと目を瞬かせながら、俺に軽い会釈をした。
「えと、届けに来てくれたんですよね予約票。わざわざすいません。いつものアレをしたかったですよね。困っている人を助けるっていう」
「それは同時にしていたから問題ない。お前にこれを渡すことも立派な人助けだしな。てか、ジュンク堂で待ってなかったんだな」
「思ったよりも待ち時間があったので……あの大きな百均でマシュマロ買ってました。食べます?」
「悪かったよ……サンキュ。せっかくだし一個貰うわ」
『困っている人狩り』をしつつ、困っている八野も助ける。今日は良い日だ。
俺は今一度、八野の全身を見つめる。肩くらいまであるミディアムヘア、目にかかるほどの長さの前髪、牧下さんも絶賛する高校一年生にしては低い背丈。後輩。敬語。セーラー服。多くの魅力が詰まった彼女であるが、一番の魅力はその胸だろう。
まさに人類の完成形といっても問題ないほどのサイズ! B寄りのA! 本当に素晴らしい! 胸がでかい人類は全員この胸を見習って欲しい。大は小を兼ねるとよくいうが、あれは世迷い言かなにかだろう。舌切り雀こそがこの世の心理だ。小さいつづらを選んだお爺さんが正解だったじゃないか。あのお爺さんは小さい胸至上主義者に違いない。
「…………」
少しばかり頬を染めながら、八野は鞄で自身の胸を隠し始める。あれ、なぜ隠す。もしかして凝視してたか俺。
「ええと、ほれ」
俺は財布の中にしまってあった予約票を取り出し、八野に差し出した。八野は予約票の端をちょんとつまんで、
「あ、ありがとうございます……。これは本当に楽しみにしていたので……」
と、少し顔を赤らめて、予約票をバッグの中に大事そうにしまった。
可愛すぎかよ! 死ぬわ!
しかし本当に楽しみにしてたんだなあ。表情でわかるって相当だぞ。
「予約特典で上巻と下巻の間の話も書き下ろされるみたいだったので、凄い楽しみだったんです。上巻も凄いいい引きで終わっていて、続きが気になってしょうがなくって……!」
俺の心の中の問いに答えるかの様に、八野は目を輝かせながら語り始めた。可愛いなあ。GIFにして心が挫けそうになった時に何度も見直したい。
俺のそんな気持ちが伝わってしまったのか、八野はハッと言葉を止め、
「ふ、藤坂さんはこの後も引き続き『困っている人狩り』を続けるんですか?」
「なんでその言い方知ってんだよお前」
さっき牧下さんが思いついたものじゃなかったのかよそれ。なんで八野にまで広まってるんだよ。
「い、いやほら、藤坂さんの行動はまさにこれそのものじゃないですか。さっきのキョロキョロと困っている人を探す姿は、まさに獲物を探す狩猟者そのものでしたよ」
「まじかあ」
困っている人を見逃したくないという気持ちがそこまで溢れてしまっているとは……。声かける時とか変な顔になってなかったよな俺……。
「正直、困っている人が声をかけるにはハードルが高そうでした。まあ藤坂さんは自ら声をかけてもいるみたいなので構わないかもしれませんが」
「そうか……もう少し自然な感じで過ごした方が良さそうだな……」
助けてほしい人が声かけ辛いってのは駄目だな。極力困ってそうな人には声をかけている俺ではあるが、見た目だけじゃわからない人ってのもいるもんだし。
「っと、いつまでも話してるのも悪いか。早く本買いたいよな」
「え、あ、その……お気遣いありがとうございます」
話している最中、ずっとスクールバッグを握り締めていたし。本当に楽しみで仕方がないのだろう。可愛い。もし俺と八野が彼氏彼女の関係だったならば今すぐ抱きしめている。
「…………」
八野は突然こちらに向けていた顔を背け、肩にかけていたバッグをなぜか前に持ち替えた。あれ? なんで? 妄想顔に出てた?
「では、私は本屋に向かおうかと思います。藤坂さんはまだ狩りを続けるんですか?」
「言い方言い方」
『困っている人』という一文を付けないと、ただのカツアゲ野郎みたいじゃねえか。
「そうだなー。下校時刻ってことはまだ学生方もパラパラいるだろうし。人が増えればその分困っている人が出て来る割合も増加するわけだし。もう少しふらふらしてるかな……あ、やっぱ無し。八野を本屋経由でみなすけ荘まで送るわまずは」
八野も女の子だ。それに可愛い女の子だ。狙われたっておかしくない。窃盗犯は美少女の日用品を手に入れたいという変態だという可能性だってある。
「いえ、遠慮しておきます」
「最近ここいらで窃盗被害も起きてるらしいぜ?」
「知っています。学校でも知らされましたし。でも……窃盗の方は大丈夫でしょう。とりあえず、下校時に被害に遭うことはありません」
「痴女も闊歩しているんだぜ?」
「私が痴女を見ていったいどんなダメージが入るというんですか」
「いや……その……」
決して口には出さず、「言ってもいいの?」という意味を込めて俺は八野の胸を見る。
「ちょ……やめてください!」
「俺は自信を持ってしかるべき胸だと思うけど、お前気にしてるじゃん。大丈夫か? 痴女に暴行加えたりしない? 新たに事件を発生させたりしない?」
「しませんよ失礼な!」
顔を真っ赤にしながら八野は抗議してくる。
うーん。しかしなあ。八野は特に格闘技はおろかスポーツ自体やってないみたいだし、狙われたら最後なんじゃないかと思うんだが。超能力を持っているかどうかもわからんし……みなすけ荘に来るくらいだから、なにかしら能力に関わっているとは思うんだが……。まあ、言いたくないことを深く探るつもりもないし、能力に関しては考えても仕方がない。
「という訳ですから大丈夫です。藤坂さんはいつも通り困っている人を狩ってください」
「人聞き悪すぎだろそのセリフ。……いや、やっぱり送っていくよ。お前はさっき大丈夫と言っていたけど、それでも百パーとは限らんだろ。なにかあったら俺が後悔してしまう」
あの時俺がついていったら——そう考えずにはいられないだろう。
「てなわけで、送ってく。文句は受け付けん」
「……はあ」
八野は諦め混じりのため息を吐き、
「わかりました。こうなると藤坂さんは意地でも意見を変えそうにありませんし……私を心配してのことですし」
「よっしゃ」
八野と二人っきりだぜ! 学校帰りだし、これはもう放課後デートと同義! やりましたよ牧下さん!
「では、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく頼むぜ!」
そうして、二人並んで本屋の方に向かって歩く。
「…………」
……無言が辛い! こんなに会話って途切れるもんだったっけか!?
そういや俺、女子と二人で並んで歩く経験はほぼ皆無だった! みなすけ荘メンバーとは何度かあるけど、佐山さんはバックに愛が重すぎる彼氏が付いていて浮かれた気持ちになんて全くならなかったし、牧下さんは巨乳だし。
タイプの女の子と肩を並べるなんて現実、本当にあるんだな! 感動!
でもさすがに無言はなあ。俺からついていくなんて言っちまったわけだしな、よし。
「そういやまだ八野の入居パーティーやってなかったな」
「あ、やるんですね。入居パーティー」
「当たり前よ。俺の時は焼き肉屋だったなあ。今度は寿司とか食いたい」
特別な日って言ったら寿司って感じするよな。俺も誕生日の時はよく食べに行った。
「お寿司ですか……行くんだったら安いところが良いですね」
「お、わざわざ指定が入るとは。なんか理由あるのか?」
「はい……私、辛いの苦手なんですよね。百円寿司って、わさびは別途の袋に入ってて、使いたい方だけ使ってくださいって感じじゃないですか。あれが楽で」
わざわざさび抜きでって頼まなくて済みますし、と八野はそう締めくくった。そうか、俺は普通に食えるからあんまり気にしてなかったけど、苦手な奴もいるんだよな。あのシステム面倒だと感じていたが、苦手な人からしたら確かに楽なシステムだな。
なるほどなーと感心している内に、気づけば会話が終わってしまっていた。八野はさっきからすまし顔で本屋に向かっているし……。あれ、どうだろう。ただ漠然と向かってるだけだと思ってたんだけど、なんか足取り早くなっている気がする。…………。
「八野が今回予約した本、どんな本なの?」
「気になりますか!?」
俺がそう質問した瞬間、ぐい!っと八野が顔を突き出してきた! 近い近い顔が近い! でも役得この上ないから指摘ができない! ああ、目がキラキラ! 間近で見ると可愛さ割り増しなんですけど! なんかいい匂いするんですけど!
「!……す、すみません。少しばかり取り乱してしまいました」
ハッと我に返った八野は、そそくさと先ほどまでの位置へと戻る。ああ……。残念だがまあ仕方がない。今日の夜もう一度思い出して楽しむことにしよう。
「まあまあ、良いってことよ。それよりもさ。教えてくれよ、その本の事。そんなに目を輝かせるくらいなんだから、めちゃくちゃハマってるんだろ?」
「し、仕方がないですねえ」
そう言いつつも、八野の口角は少し上がっていた。素直じゃない奴め。まあ、入居してきたときはそんな素振りすら見せてくれなかったのだから、そう言った意味では、少しずつだが仲は良くなってきているのだろう。喜ばしい事だ。
「今回購入するのはですね、かの有名な作家、夜星有先生最新作『街をぶらつく。とある歌を歌いながら。』上下巻の下巻でして……」
「夜星……? 知らない作家だな……」
俺がそう呟くと、八野は信じられないといった顔をしてきた。そんな顔も出来るのかよ。
「え、え、え!? 藤坂さん、あの夜星先生を知らないんですか!? 名作揃いの作家ですよ!? 『それはまるでトキワ荘のように』とか『夢は決して叶わない』とか『新しい人類』とか、名作ばんばん世に送り出している作家ですよ!?」
「い、いやそんなこと言われても……知らんもんはしらんし……」
正直本に疎いというのもあるが。俺は基本的に漫画しか読まないからなあ。
「ぐ、そうですか……やはりまだまだ夜星先生もマイナーということですか」
「なんか悪かったな」
「いえ。いいんです。有名になりすぎると逆に冷めてきてしまうことだってありますしね」
厄介オタクみたいなこと言い出したぞこいつ。ドヤってる感じは可愛い事この上ないが。
「で? その最新作の内容は一体どんなんなんだ?」
これ以上夜星先生の話を聞くとその話だけで本屋にたどり着きかねない。そう思い俺は作品のあらすじを八野に求めた。面白そうだったら八野から借りて読んでみよう。
「この作品は主人公の青年が自分の人生を見つめ直し、愛する人——『君』を守り抜くために新しい道を歩みだす、といった温かみ溢れる物語です。この作者さんは人間の『負』の感情を不快感無く描きつつ、明るい未来への希望の魅せ方が非常に巧みでですね——!」
生き生きと止まることを知らないかのように口を動かし続ける八野。それを見つつ、俺はほっこりとした気持ちになる。目を輝かせて、表情をコロコロと変えながら、自分の好きなものについて熱く語るその姿は、いつもよりも数倍可愛く、そして素敵だった。
目の保養になることこの上ない。
「で、ですね——って、藤坂さん聞いてます!?」
「聴いてる聴いてる。主人公がヒーローになりたいって言い出したんだろ? それで?」
「それでですね——」
八野の話は本を買い終わった後、みなすけ荘への帰路でも止まることは無かった。
会ってから約二週間。ずっと俺達から一線を引いていた八野がこんなに楽しそうに話すのを止めることなんて、一体誰が出来るのだろうか。
少なくとも俺には無理だった。
「ただいま帰りました」
「ただいまー」
表はまだ喫茶店が営業中なので、古本屋からみなすけ荘に入る。鍵がかかってたので、あれからまだ佐山さんは帰ってきてないのだろう。
「じゃあ藤坂さん、今度『それはまるでトキワ荘のように』をお貸ししますね」
「おう、楽しみにしてるわ」
結局俺は八野お勧めの密林作品を貸してもらうこととなった。正直下心もあるっちゃああるのだが、それ以上に作品が気になって仕方がない。歩いている間八野からずっと話を聞かされていたせいで、作品への興味がふつふつと湧いてきている。
「話を聞いていただきありがとうございました。こういうことを話す機会が無くて……」
「いいってことよ。俺も楽しかったしな」
八野の可愛い姿も堪能できたことだし、むしろお礼を言うのはこちらの方だ。やっぱり女の子は好きなものを語っている時が一番可愛いな。
「そ、そうですか……それなら良かったです」
八野はなぜかみるみる顔を赤く染めてそう言った。なんか変なこと言ったか俺。
「な、なんでもないですので……それでは部屋に戻りましょうか……」
「おう。そうだな」
違和感を覚えつつも、居住スペースである二階へ上がろうとしたその時——
「お、帰ってきたね工輝君、心ちゃん」
階段の中腹辺りに、黒髪にカーディガンを羽織ったロングスカートの、清楚という言葉を表したかのような巨乳がいた。あれ、牧下さん俺達より早く帰って来てたのか。胸の脂肪のせいで顔がよく見えなかったから不審者でも侵入しているのかと思った。
「なんか失礼なこと考えてない?」
「いえ全然。どうしたんですか牧下さん。店も開けずにそんな暗いところで」
「どうしたもこうしたもないさ。店を締めてでも君達の帰りを待っていたんだよ。あ、心ちゃん、予約していた本は買えたかい?」
「あ、はい。おかげさまで。牧下さんもありがとうございました」
牧下さんはにっこりと優しい笑みで答え、俺達の方へとゆっくり階段を降りて来る。
「で、待ってたって一体なんで。今日は皆で外食ですか?」
「残念ながら最近はあんまり儲かってなくてね。来月末くらいになると良い感じに懐も温まるんだろうけど……まあ、その話は置いておこう。君達この後なにか予定はあるかな?」
「いえ、私は特には。買った小説を読もうとしたくらいでした」
「俺も別に。飯時まで昼寝でもしようかなと」
「ふむふむなるほど。つまり工輝君は暇という訳だね」
「まあぶっちゃけるとそういう事になりますかね。でも八野は——」
「あ、大丈夫ですよ。確かに早く小説を読みたくはありますが……。皆を集めるほどの用事があるのでしたら、私も参加します」
そう言って八野も話し合いに参加を表明する。——ああ、なるほど。そういうことか。
「君達の貴重なお楽しみタイムを削ってしまうのは非常に心苦しいが、しかし工輝君。君の好きな情けをかけるための話をこれから一階で始めようと思ってね。心ちゃんもここに住む以上は経験しなければいけないことだ。さあ来たまえ」
「よっしゃ行くしかないですね」
牧下さんの話を聞いて、眠気もどこかへ吹っ飛んでしまう。この藤坂工輝、情けのためならどこへでも駆けつけ、なんでもする所存です。
「ええと、私達は今から何をするんですか?」
「心ちゃんは初めてだから、今日は待機組だけどね。そうだね、工輝君風に言うと——私達はこれから、人に情けをかけるのさ」
「……はあ」
「工輝君にはお昼に話していた窃盗事件。それに関して新たな情報が得られてね。さすがに戦闘員が少なくて皆を危険だとわかっていることに進んで巻き込ませたくもないからさ、今は暴力事件とかは極力避けてたんだけど……これならいけると思って」
「とか言いつつも、結構巻き込んでくるぞ牧下さんは」
「なるほど、気を付けます」
「痛いところを突っ込んでくるな君は。能力と性癖は割かしぶっ飛んでいる方だが、案外常識は持っているよねえ。でも今回突っ込むのは私の言葉なんかじゃない」
そこで牧下さんは目を爛々と輝かせて、ぐいと身を乗り出してこういった。
「今回私たちが突っ込むのは窃盗事件で——ぶっ飛ばすのは窃盗犯だ」
能力犯罪者確保の手伝いをしている自治組織。実は、みなすけ荘もそのうちの一つである。自治組織登録名はそのまま「みなすけ荘」。
元々みなすけ荘入居の条件としてこの「自治活動参加」が存在する。そして、自治活動強制参加の代わりに家賃が他の物件よりも格段に安くなっているのだ。住人が自治活動に参加するモチベーションにも繋がっているだろうし、上手い条件だと思う。俺としては低家賃に追加して、皆の力を借りてより多くの困っている人々に情けをかけることができるという多大なるメリットもあるので、正直みなすけ荘は最高の環境である。
「しかし今日はまた急ですね。せっかく明日休日なんだし、明日朝からでも良かった気が」
「そうしたいのはやまやまなんだけどね。夜になると窃盗犯が動き出す。その前に作戦を伝えたいんだよ」
というか、窃盗事件は夜に起こっていたのか。詳細は知らないんだよな。
「さて着いた着いた。後は——花恋ちゃんだけかな」
集まるのはいつも久地中さんが経営している喫茶店「クロック」。ちなみに、このクロックという名前には『お客にくつろげる時間を提供したい』という意味が籠められているらしい。集合がかかった際には、毎回律義に店を閉めて会議場所を提供してくれている。
「花恋は連絡が来た時丁度買い出しに出ていてな。連絡したら『すぐ戻る』とのことだ」
低く落ち着いた声で話すのは喫茶店マスターの久地中亮さん。百八十センチほどある高い身長、毛先だけ金髪であり、料理の邪魔にならないよう切り揃えられた髪、キリリとした目つき、そしてオリジナルの店名が入ったエプロン。見た目はまさに格好いい店主である。見た目だけは。
「相変わらず二人三脚で頑張ってますね」
「当たり前だ。俺と花恋だからな。あいつが傍にいる限り俺は一生働ける自信さえある」
久地中さんは顔色一つ変えずに、力強い声でそう言った。
「あそこまでいい女は世界中の隅から隅まで探したところでいないだろう。この地上において見つけることは不可能だ。故に花恋こそ世界一。花恋こそナンバーワン」
「気持ち悪い部分出てるよ亮君」
そう、久地中さんと今買い出しに出ているみなすけ荘住人のうち最後の一人、佐山花恋さんは現在進行形で付き合っている。俺がここに引っ越してきたときには既に付き合っていたから——もう少なくとも二年以上は経つのだろう。馴れ初めも気になるのだが佐山さんが絶対に教えてくれないため、俺も詳しい事情はわからない。久地中さんも佐山さんが嫌がるからか全く口にしないし。
「花恋の素晴らしいところは気遣いができるところだ。俺が何を言わずとも必要としているものをそっと差し出してきてくれたり、手が回らない時には自ら今一番しなければいけないことを的確に行ってくれる。花恋こそ至高。花恋こそ女神」
毎日最低でも一回は必ず「佐山花恋自慢」を聴いている気がする。普段はどちらかというと寡黙で不愛想なのだが、一旦花恋スイッチが入ると止まることは無い。
「少々気が強いところがまた可愛い。俺が花恋の可愛い点を褒めると、あいつは『うるせー!』と顔を逸らすんだ。しかし俺はわかっている。顔が少し赤くなっていることを! そう、あいつは決して不機嫌になったわけじゃない。褒められて恥ずかしいのが顔に出ていることを悟られないよう顔を逸らしていたんだ! 可愛い! なんだこの生き物は!」
久地中さんがバン!とテーブルを叩く。ちょ、熱弁し過ぎ。
「よく毎日違う話出来ますね……。俺、久地中さんから聴く佐山さん話、多分まだ一回も被ってないですよ」
「当然だ。花恋の素晴らしい点なんてまだまだある。時間なんていくらあっても足りない」
「愛が重い!」
「なんだ。俺の花恋への愛に対して否定的だな。まさかお前——!」
「いや違いますから」
久地中さんはこちらに鋭い目つきを向ける。やめて怖い!
「お前俺から花恋を奪おうと——! 許さん!」
「いやだから違うって言ってるでしょ!」
「盲目にも程があるよね」
敵意を剥き出しにしながら、久地中さんは俺から目を離さない。店の隅では、八野が文庫本を読み始めていた。おい、興味無くしてんじゃねえよ!
「というか本当に心配しなくて大丈夫ですよ。そもそも俺佐山さんは恋愛対象外ですから」
「……なんだと?」
俺のその何気ない一言を聞くや否や、久地中さんは動悸と息切れを起こしながら驚きの表情を浮かべた。いや、そこまで?
「お前、花恋が恋愛対象外だと……? あの佐山花恋だぞ!? いったいどういう神経をしていたらそんな思考回路に行きつくんだ!? 普通の人間なら老若男女問わずに花恋を恋愛対象にするだろ! なあ牧下!」
「身長百六十以上は恋愛対象にならないからパス」
「なあ八野!」
「え?……いやまあ綺麗で格好いい方だとは思いますが」
「ほら見ろ!」
「何を!? 何一つ情報伝わってこなかったんですけど!」
牧下さんは自分の性癖を吐露しただけだし、八野は文庫本から目を離さずに生返事しただけだし!
「よく見ろ。恥ずかしがっているだけだろうが。あいつらも本当は花恋の事が好きで好きで堪らないが、彼氏の目の前で言うのは申し訳ないと思って遠慮をしてくれているんだ」
「解釈がポジティブすぎる! そもそも言ってることおかしいでしょう! さっきは『好きになったら許さん』とか言っときながら恋愛対象外というと怒るとか!」
「俺以外の人間が花恋のことを恋愛対象として好きになるのは許せないが、同時に花恋のことを好きになってしまうのは人間としてこの世に存在している限り仕方がない事だとも思っている。ほら、梅干し見ると唾液が出て来るだろ。あれと同じだ」
「人体構造と同じレベル!?」
この人佐山さんのこと好きすぎだろ! いやまあ確かに素敵な女性なのはわかるけどさ……。料理美味いし、気も回るし、久地中さんの話だと掃除や洗濯といった家事も全般得意らしいし……。久地中フィルターももちろん多少はかかっているだろうが、普段の店での働き具合を見ていたらあながち間違いってわけでもなさそうだし。
「でもなあ……胸がなあ……」
「胸? 花恋の胸か?」
「はい。佐山さんの胸のサイズ、恐らくCでしょう?」
「なに人の彼女の胸のサイズ当ててんだよ。お前も十分に気持ち悪いぞ」
「あ、本当に合ってるんだ。さすがの私もそれはちょっとヒく」
「黙っててくださいF。C以上はちょっとなあ。C以上の女性はもう恋愛対象として見れないんですよね。なんかこう……上手く言えないんですが、感覚的にもう無理です」
「なんだとお前——!」
「例えば」
俺に反論しようとする久地中さんを遮るように、俺は言葉を続ける。
「久地中さんは、佐山さん以外の女性のことをどう思ってますか?」
「高い声で話す人間かな」
即答だった。そして最低だった。
「正直花恋以外の人間に関してはそこまで性別を気にしていない。声が高いか低いかの違いだ。男性と女性の区分は無い。学説上の人間の分類が『男』と『女』で分けられるのならば、俺の中での分類は『花恋』と『それ以外』だ」
女性陣がうわあこいつ言いやがったよ……という目で久地中さんを見る。
「さすがですね……。まあ、俺もそんな感じです」
「そんな感じなんだ」
「藤坂さんも大概ヤバいですね」
男性陣に対する女性陣の意見をスルーし、俺は話を続ける。
「さすがに性別の区別はつきますが……それに則って言うならば、俺の中での分類は『胸のサイズがB以下の女性』と『それ以外』です。巨乳の方とかは極論『胸に脂肪の付きすぎた男性』と大差ないです」
「なるほどな……」
「なるほどなんですか。ここの男性陣って歪んでいる人ばかりなんですか牧下さん」
「ちょっと入居審査を間違った感あるよね。まあ私も世の中の人間は『低身長』と『高身長』で分類されると思っているけど」
「早く帰って来て佐山さん……!」
まるで常識人がいないかのように悲しがる八野を気にせず、久地中さんはすっきりした顔で俺にフ、と笑みを見せて来た。
「お前の言い分はわかった。しかし花恋を恋愛対象に出来ない人がこの世にいるとは思わなかったぜ……ほら、コーヒー。お代はいらん」
「え、いいんですか?」
経営難という話は聞いていないが、二人は結婚資金を貯めているはずだ。
「経緯はどうあれ、お前は一生花恋のことを好きにならないことがわかったからな。一つ屋根の下に男がいることがお前が入居した当時からずっと気がかりだったんだが、今日からはぐっすり眠れそうだ。これは俺からの礼のようなものだ」
「釈然としませんが、まあお言葉に甘えて。ごちになります! いただきます!」
無料のコーヒーを一口。さすが久地中さん。めちゃくちゃうまい。
「でも、俺の好みは伝えていましたよね。別にそんな勘違いしなくてもよかったのでは?」
隠していた訳でもないし。小さい胸が好きという話はこっちに引っ越してきた当時から話していた。越してきてすぐに牧下さんが放った『私や花恋ちゃんみたいな美女と一緒の家で暮らすからって、変な期待しないでよ〜?』というジョークに対して『俺は小さい胸にしか興味がないんで大丈夫です。牧下さんこそ大丈夫ですか、胸腫れてますよ』と言ったことは今でも覚えている。今思えば会ったばかりなのに随分と失礼なことをしたものだ。今なら臆面もなく言えるのだが。
「いや、お前が貧乳——」
「貧乳じゃないです。小さな胸です」
「——小さな胸が好きなことは入居してきてからこれでもかというほど聴いてはきたが、花恋の魅力はそれすらも凌駕すると信じて疑ってなかったからな」
「ああ……まあ、安心してください。佐山さんの胸がC以上である限り、俺は一生佐山さんに恋愛感情は抱きませんから!」
「おう! 花恋の胸がC以上で良かった!」
俺と久地中さんは女性陣が小さな声で呟いた「サイテー」を聞かなかったふりをして、二人して佐山さんの胸の話であっはっはと喫茶店内に爽やかな笑いを響かせていると──
「良いことなんか一つもねえ!」
突如久地中さんの頭に、何者かが綺麗なキックをきめた。
というか佐山花恋さんだった。
「なに私の胸で盛り上がってんだお前らは! 店の外にまで聞こえてたぞおい!」
「まあまあ落ち着いて佐山さん。確かに佐山さんの胸は盛り上がってますが」
「お前自分のタイプじゃなかったらセクハラしていいってわけじゃあないからな!?」
「落ち着け花恋。俺がお前の話で盛り上がるのなんていつもの事だろ」
「それをやめろって言ってんだよ恥ずかしい! つかテメーはみなすけ荘の連中以外の奴らにまでアタシの話するのマジでやめろ!」
「恥ずかしい? 何故だ。俺はお前がいかに素晴らしい女なのかを伝えているだけだが」
「それが恥ずかしいんだよ! プライベート筒抜けじゃねえか! さっきも買い物途中に常連さんにばったり会って『聞いたよ? 深夜にホラー特集見て怖くなっちゃって、マスターに抱き着いて寝たんだって?』って滅茶苦茶にやにやされながら言われたんだぞ!?」
ギロリ、ただでさえ鋭い目つきを更に研ぎ澄まして佐山さんは久地中さんを睨みつける。しかし顔が真っ赤なままなので、いささか恐ろしさに欠けていた。
「ああ、常識人が帰って来てくれました……」
「心ちゃん、思うのは良いけど声に出すの止めて。さすがにちょっと傷つくから」
自分のことを常識人と思っていたのか、牧下さんが八野にそう告げる。勘違いも甚だしい。低身長を見るために休日イオンのキッズコーナーに繰り出す人が何言っているんだ。
「くっそ、アタシはこれでも昔はこの街に名を轟かせてたっていうのに……一時期伝説にもなったんだぞ……!」
恨めしそうに佐山さんがそう呟いた。
そう。俺は詳しい事情を知らないのだが——佐山さんはこの街の生ける伝説らしい。
目の前にいる金髪三白眼ポニーテール・佐山花恋は、昔、この街にその名を知らぬ者などいないと言われるレベルにまで上り詰めた——伝説の不良らしい。
所謂元ヤンという奴である。
残念ながら俺はそのころまだこちらに越してきていなかったために詳しい事情は知らない。本人は時々今みたいに伝説であったことをぽろっとこぼすことはあっても絶対にその先を話さないし、牧下さんや、あの佐山花恋の事なら何でも外部に漏らす久地中さんですら、この伝説については話さない。一体何があったというんだ。しかし——
「俺はいかに花恋が可愛いかを力説しているだけだ。なにか問題があるっていうのか」
「その行為そのものが問題なんだよ!」
今ではこのザマである。四六時中久地中さんとイチャイチャしている。
不良時代のことは知らないが、当時を知っている人からすれば今のこの佐山さんはどう映るのだろうか……。やっぱり牙が抜け落ちたとか思うのだろうか。
「金髪三白眼ツンデレ元ヤン高女子力ポニーテールモデル体型女子とか、属性過多すぎるよねえ」
「アニメに居たら絶対媚びすぎって言われてますよね」
「うるせえよ! 全員揃ったんだから早く始めろ!」
顔を真っ赤にしながら、佐山さんは牧下さんにそう言った。牧下さんはそうだね、と呟いた後、その場にスッと立ち、
「じゃあ皆揃ったところで、みなすけ荘会議を始めようと思う。今日、皆ご存知、情報収集を主とした自治組織である狸小路自治会から有力な情報を得たんだよね。わかりやすい事件だ。心ちゃんが入ってからまだ一度もちゃんとした活動はしてなかったし、初めてには丁度いいと思ってね」
「そうか、八野は今回が初めてか」
「あの、引っ越し手続きとかは両親が全部やってくれていたので、具体的に何するかよくわかっていないんですが……」
「あれ、そうなの?」
まあ確かに、八野みたいなタイプは自ら望んでこんなことをするところに飛び込んでは来ないしな。ご両親になにか思惑があったのだろうか。
「八野も聴いたことがあるだろ……てか、授業でやらなかったか? 超能力犯罪を防ぐために、公的機関以外にも有志が集まって自治組織を作ってるって話」
能力が世界中で確認されるようになってから、政府は授業の中に能力者とその周りについても入れるように発令した。能力者には過激派も多いし、妥当な判断だろう。
「一応軽く説明しとくか。能力犯罪者が急増している昨今、政府は自分達の力のみじゃ賄いきれないと悟り、国民に協力を求めたんだ。『ちゃんと報酬は出すから、国民も能力犯罪を取り締まってくれ』ってな。で、そこから各地に自治組織が出来始めた」
「自治組織の成り立ちは主に商店街や町内会、学校のOB会とかが多いな。うちの学校も掲示板に募集の張り紙貼ってあるわ」
「自治組織は一定の基準さえ満たしていれば簡単に作れるからね。『四人以上・長が成人済・活動拠点を持つこと』。細々したものはまだあるけど、大体ここを押さえておけば問題ない。あと組織の名前ね。公序良俗に違反しないものならなんでもいいから、組織の名前を決めて提出しなければならない。うちなら『みなすけ荘』みたいにね。今工輝君が言ったような所なら『狸小路自治会』とか『麻生町内会』とか『卯辰高校OB会』とか」
『みなすけ荘』長の牧下さんが俺の話に補足をしてくれた。町内掲示板には毎回能力犯罪の情報とか貼られているし、結構機能している。
「報酬は能力犯罪者を捕まえた際の謝礼金と、情報提供の謝礼金の二パターンあって、それに伴って自治組織は大まかに三つに分けられる。主に能力者事件の犯人を捕まえる前線行動自治組織——通称『前自』。主に情報収集を専門とする後方支援自治組織——通称『後自』。そして、そのどちらともを手広く行う『両自』。これも書類を作るときに決めて提出しなければならない」
この謝礼金制度がニクいよな。自治活動参加のモチベーションに上手く繋げている。というか、自治組織のほとんどは恐らくこの謝礼金目当てなんだろうな。久地中・佐山カップルだって結婚資金が欲しいから毎回やる気出しているし。まあ、この人達は正義感強い方だから、それを差し引いてもモチベは高い方なんだろうけど。良い感じに発破をかけられている。俺も人に情けをかけてなおかつお金も貰えるというのは嬉しい限りだしな。
「みなすけ荘は軽犯罪を取り締まる系の『両自』だな。というか、日本のほとんどの自治組織は『両自』だ。その分、『前自』『後自』はその道のエキスパートが揃ってるって感じ」
「凶悪能力犯罪者には追加で懸賞金もかけられるしな。情報の買取金額も高くなるし」
「補足すると、私がよく情報を仕入れて来るのは『後自』の狸小路自治会。後、札幌で有名なのは『前自』のテレビ塔自治会とか、『両自』のすすきの呑み屋連合とか。今後は心ちゃんも自治組織の一員として動いてもらうんだし、覚えておいて損はないよ」
俺の後に続いて佐山さんと牧下さんが補足説明をしてくれた。正確な数字は知らないが、札幌だけでも結構な数あるらしいからな自治組織。
「で、今回取り扱う事件だけど。前自の人達がなにやらばたばた動いていたから戦闘多めの事件もあったみたいだけど——自治活動新人の心ちゃんのことも考えて、また私達の戦力のことも考えて、情報もしっかりあって手を出しやすそうな事件、ということで今回は窃盗事件をチョイスしてみた。これなら心ちゃんは見学で済みそうだしね」
「見学でいいんですか? 窃盗犯探しって、人海戦術とか使わないと無理そうですけど」
手当たり次第に囮調査とかするしかないんじゃないのか?
「まあ、普通はそうかもね。でも、その窃盗犯は往来で活動するタイプの窃盗犯じゃなかったんだよ。ついでに言うと、君と亮君はどうあがいても被害を受けることは無い」
「なんですかそのなぞかけみたいなの」
俺と久地中さんは関係ない。ということは女性しか狙わない? 女性しか狙わない窃盗で、往来ではどうあがいても盗まれることは無い?
「…………あ」
そして、俺と久地中さん、佐山さんの三人は頭の中で一つの単語を思い浮かべた。確かにこれなら俺と久地中さんは対象外だろう。
代表して、牧下さんが今回のターゲットを決め顔で再度発表した。
「今回の能力犯罪者、確保の対象は——下着ドロだよ」
場の空気が、なんとも言えない感じになる。下着ドロ。いや確かに犯罪だし、女性の敵だというのもわかるのだけれど……なんとなく小者臭がするんだよなあ。
確かに困っている人は多そうだし、そういう面では大歓迎だけれども。
「なにその微妙な反応」
「いやいや、続けてください」
牧下さんは若干俺達の反応に不満を持ちながらプリントを配り始めた。
「これがさっき狸小路で貰って来た下着ドロに関する詳細。目を通しながら聴いてね」
貰ったプリントには、下着ドロの詳細がざっくりと書かれていた。しかしながら目撃情報はないようで、どうにも全体像は見えてこないが。
「ここに書いているように、どうやらこの下着ドロ、主に夜に活動しているらしい。で、曜日で狙う地区を変えているみたいなんだよ」
「……確かに。一週間毎日ことに及んでいる上、絶対に決まった地区で盗ってるな」
「じゃ、今日は何曜日?」
「今日は金曜日ですね……って、ああ。そういうことか」
なるほど。金曜日に狙われる地区は丁度みなすけ荘のあるこの白石区だ。
「だからさっき窃盗犯が動き出す前に作戦を伝えたいとか言ってたんですね」
俺のその一言に、牧下さんは「そういうこと」と軽く頷く。
「で、今日やるのは簡単も簡単——囮作戦でいこうと思う。誰か一人の下着をベランダに吊るして、それを下着ドロに狙わせるんだよ。そうだな……できれば二階がいいかな?」
「二階って……狙ってくれるのか犯人は。どちらかというと一階の方が狙いやすいんじゃないのか?」
「ほら、ここ見てみて。『被害届から見るに、窃盗犯に階数は関係ない模様。一階から果ては五階まで、幅広く狙われている。痕跡はないが、目撃証言が一つだけ有り。それによると、犯人は宙を浮いていた模様』って書かれているだろう? もうわかっただろうけど、この窃盗犯は空を飛ぶ系の能力を持っている。恐らく移動も空で済ましているね。当たり前だけど夜は暗いし、狙っているのは全てここと同じ様な住宅街だから深夜になってしまえば街頭以外ほとんど消えてしまうし。空中だったら足音とかも立たないし無音で移動できる。それなりに自由に動けるんだろう」
「……で? その、誰かの下着を囮に使って、その後はどうするんだ?」
佐山さんの質問に牧下さんは間髪入れず答える。
「二階の、下着を吊るしてある部屋に花恋ちゃんを待機させる。で、君の透視能力を使って下着を監視だ」
「うわ、徹夜確定みたいなもんかよ」
佐山さんの能力は『魔法少女のステッキを持っている間、目に関する能力を宿す』というもの。ステッキの色で宿す能力が変わる。赤系だと『動体視力を上げる』力を宿し、青系だと『遠くまで見通せる』力を宿す。更に成人したのに魔法少女のステッキを振り回す佐山さんも見ることが出来る。
「まあ今回は人前に出ないしまだマシか……」
「前は街中でステッキ振り回してましたもんね」
「やめろ! 思い出させるな!」
大通公園の真ん中でテレビ塔に潜む犯人を捜すために青色のステッキを持って仁王立ちする佐山さんは、なかなかに心にクるものがあった。
「透視能力は黄色のステッキだったよね」
「ああ。そこに関しては心配するな。ちゃんと部屋に保管してあるから」
「うん、オッケー。で、花恋ちゃんに状況を逐一報告してもらいながら、亮君と工輝君には車庫で待機してもらう。なので勿論亮君には気配を無くす能力を使ってもらうよ。あれは触れている相手も対象になるんだよね?」
「ああ、そうだが……」
久地中さんの能力は『くしゃみをすると気配が消える』という能力。気配を元に戻すためには、もう一度くしゃみをしなければならない。要するに、くしゃみがスイッチとなっている能力だ。勿論自然にくしゃみを待つ訳にもいかないので、このような場で能力を使うときには必ずこよりを鼻の中に入れて強制的にくしゃみを引き出している。普段佐山さん関係以外であまり感情を表情に表さない、無愛想な久地中さんがこよりを鼻の穴に突っ込んでいる様はなかなかに笑える。
「寝静まった夜更けに盗られているらしいからね。音を出したら一瞬で気づかれることだろう。ドアを開ける音とか、そういったものは出来るだけ立たせないようにしたい」
「車庫のシャッターを開けて、車の陰に隠れて待機って感じか」
「そういうこと。下着ドロが来るまで下で工輝君と仲良く手を繋ぎながらね。で、下着ドロが侵入してきたのを花恋ちゃんが確認したら二人に連絡。そして、工輝君が気配を消しながら下まで行って、降りてきた瞬間に下着ドロをがっちり確保。成し遂げた瞬間が一番気が緩むだろうからね。どう?」
「俺が確保係ですね」
「なにかあったら大変だからね。その犯人が凶器を持っているとも限らないし。こんなことを言うのは心苦しいが、君なら何が起こっても大丈夫だからね」
「まあ確かに。誰かに痛い思いをさせるくらいなら俺が死にますよ」
俺のその言葉に、八野はポンと手を打った。
「藤坂さんは生き返りの能力を持っているんでしたね」
「ん? ああそうだぜ。場合によっちゃ、今日初めて八野の前で見せることになるかもな」
「止めろよ工輝、縁起でもない」
佐山さんに優しく注意されてしまった。しかし八野もここに住んでいく以上、慣れていかなきゃいけないことになるだろうからな……。
「私は人の死に慣れたいとは思いませんが、今後もあるかもしれませんし、藤坂さんの能力を一度見ておくのは確かに必要かもしれませんね……」
八野は俺の方を見てそんなことを言った。
結局、牧下さんの指示に反対意見は出なかった。いつも通りの役回りだしな。
「心ちゃんは今日は私と見学。これ以上出る幕は無いからね」
そう言って牧下さんは八野の手を取る。それが妥当だろう。八野はまだ自治活動に慣れていないから不安だろうし、牧下さんはそもそも能力を持っていない。
「わかりました。じゃあ、今夜は皆さんを応援しています」
「ありがと、心」
八野の言葉に佐山さんは頭を撫でる。いいなあ。俺も挑戦したい。あわよくば胸を撫でたい。撫でまわしたい。
「……」
八野が来ていた上着のチャックを上まで上げた。あれ、俺また見てた?
「あのよ」
作戦会議が一息ついたその時、久地中さんが静かに手を上げた。
「どうしたんだい亮君。なにか質問でも?」
「ああ、質問だ。囮作戦をするのは構わんが——」
ちらり、と久地中さんは佐山さんの方を見て、あることを尋ねる。
「その囮は、一体誰の下着を使用するんだ?」
「「!」」夜の十二時。日付が変わった。俺と久地中さんはかれこれ一時間手を繋いでいる。
「うぃっくし!」
「うわあびっくりした……久地中さん、もしかして今くしゃみしちゃったんですか?」
「仕方がないだろ……さすがに北海道の四月の夜は寒いっての……」
そう言って久地中さんはかじかんだ手でこよりを作り始めた。
「夜通しこれはきついですよね……早く来ないかな、下着ドロ」
車庫の中に隠れて、俺達は佐山さんからの連絡を待っていた。みなすけ荘は十字路に建っているため、二方向から丸見えだ。遮蔽物もない。本当にこんなとこ狙うのだろうか。
「というか、ふ、そもそも俺達のところに、すー、来ることが確定しているわけではないからな……ふん。もしかしたら徹夜で張った挙句、ふ、ふふ、来ないという可能性も……」
それだけは勘弁してほしい。いつ来るかわからない分それなりに神経を使っているから、体力的にも精神的にも疲れるのだ。こんなのを何度もやってられない。
「てかこより鼻に入れながら話すの止めてくださいよ。なんですかこの状況」
深夜に男二人で車庫に隠れながら手を繋ぎ、一人はこよりで鼻を刺激している。何も知らない第三者から見たら一体どのように映るのだろうか。最悪俺達が通報されかねない。
「ぶぁっくしょん!!」
「うわ、いきなり! 予告してからくしゃみしてくださいよ! 突然大きな声出されるとさすがに驚きますって!」
「仕方がないだろ。こより使うくしゃみは大体強めの出るだろうが……」
「そもそも車庫に隠れているのに能力使う必要あります? ここ別に犯人からは見えないんだから意味ないんじゃあ……」
「万が一にでも俺達が気づかれたら困るだろ。逃げられるどころか、もう二度とこの家は狙われなくなる。それに牧下は油断した瞬間を狙っていたからな。少しでも『人がいそうな気配』を察知されて警戒されるのを防ごうと思ったんだろ。犯人も神経研ぎ澄まして来ているだろうからただでさえ『音』や『気配』みたいなものには敏感だろうし」
「なるほど。言われてみればその通りですね」
はあ、と鼻が落ち着いた久地中さんはため息を吐き、
「遅いな。明日も普通に店開けるっていうのによ……。せめて手を握ってくれるのが花恋だったらな。一生そのままでもいいと思えたのに」
「いや一生て。佐山さんが嫌がりますよそれは」
「それは困るな。一生はやめよう」
即答だった。潔いというかなんというか。それほどまで一人を愛するのって、とてつもなく凄いとこなんだろうけど。
『……おーい』
と、スマホから佐山さんが小さめの声でこちらに話しかけてきた。
「どうした」
俺達も先ほどよりも声のトーンを低くして応じる。
『来た。今ぐんぐん登ってきている。待機よろしく』
「任せろ」
俺と久地中さんは、車庫から佐山さんの部屋の下を見つからないように覗く。
「いるな」
「はい。……しかし、なんか思ってたのとビジュアル違いますね」
もっと豪快に空を飛んでいると思っていたが、実際には男性がぽつんと空に浮かんでいるだけだった。どうやら階段を登るかのように少しずつ空を登っている様子。なるほど、確かにあれなら音を出さずに目当ての下着までたどり着けるか。
「藤坂見ろあれ。足が震えている。しかも時間が経つにつれてどんどんガクガクしている」
久地中さんの指摘箇所を見てみる。うわ辛そう……。もう限界キてない? あれ。
「あの感じを見るに、恐らく奴の能力は『足に負担がかかり続ける代わりに、かかっている間宙を歩く』みたいな感じの能力だ。まあ、空気椅子しながら歩いているようなもんだな。あんまりもたないからか、急いで下着を剥ぎ取っているだろ?」
「本当だ。慌てながら取っていますね。牧下さんのブラを」
「窃盗犯が地面に着地した瞬間を狙うぞ。空気椅子後の足は相当がたが来ているだろうから、走って逃げることもないだろう」
窃盗犯は吊るしていた四枚のブラを全部盗り、三枚はバッグに、もう一枚は入りきらなかったのか頭に着けて、ロープを降り始めた。
「いやなんで頭に着けてんだよ。巨乳好きの考えることはわかんねえな」
「あいつを巨乳好きの代表にしてやるなよ。純粋な巨乳好きの迷惑になるだろ。……よし、行くぞ。ついてこい」
俺と久地中さんは手を繋いだまま、部屋の下までたどり着く。はたから見れば俺達も変な奴らなんだろうなあ。深夜に男二人が手を繋いで女性の部屋の下に待機しているんだもの。久地中さんの能力が『気配を消す』でよかった。
そうしているうちに、窃盗犯が下まで降りてきて——!
「窃盗犯確保!」
俺は瞬時に窃盗犯を羽交い絞めにした!「二回目ですよ」
目を開けるなり、女神様は苦言を呈してきた。いや、ホントもう、申し訳ないです……。
「一日二回は心配になります。体の傷は治せても精神的な疲れは溜まっていくんですよ」
「すいません……」
俺は女神様の前に正座して素直に謝る。
「俺もまさか刺されるとは……」
「確かにそれは想定外だったかもしれませんが……。まあ、いいでしょう。いつもみたいに自ら命を捨てたわけでもないですし……」
「ありがとうございます」
なんとか女神様の許しを得た。いやまさか刺されるとは。というか、あそこまで暴れることすら想定していなかった。普通、羽交い絞めにされて足まで縛られて囲まれて、それでもまだ逃げようとするか? なんか少し様子がおかしかったようにも見えたし……。
まあ、確保の役割を俺に命じたのは牧下さんの英断だったな。
「女神様って、確か外の様子もわかるんですよね?」
「全部ではありませんが、まあ一応は。藤坂さんが死んだ前後くらいならわかりますよ」
「あの後皆どうなりましたか?」
「皆さん無事ですよ。藤坂さんを刺した直後の下着ドロを久地中さんが殴って縛り上げ、確保も成功しました。下着ドロは警察に突き出して、皆さん今はお休みになられています。そして——八野さんは嘔吐した後、牧下さんに介抱されながら自室へ戻っていきました」
「……ああ、そういえば吐いていましたね」
というか、あの時は八野の様子が全体的におかしかった。下着ドロを見た瞬間に悲鳴を上げ、その後も様子がおかしかったし。
「八野はなんで吐いたんでしょうか。確かに人が死ぬ瞬間を初めて見たのかもしれませんが、驚くことがあってもなにも吐くまで……女神様、何か知ってることあります?」
「守秘義務です」
女神様は心苦しそうに、しかしバッサリとそう言った。
「ええー……」
「申し訳ありませんが決まりなので。下手なことして女神業クビになったらどうするんですか。責任とってくれるんですか」
「俺でよければいくらでも」
「まあ私が女神じゃなくなったら、藤坂さんとの接点も消えるんですけどね」
「それはキツい! わかりましたよ、女神様に聞くのはやめておきます」
とは言ったものの、『守秘義務』という言葉から大体の想像はつく。それに元々、確信こそ無かったが、薄々感じてはいたのだ。
八野は、超能力を所持している。
「藤坂さん」
女神様は、神妙な面持ちで俺の方を向く。
「今、八野さんは悩んでいます。どうか、話を聞いてあげてください」
「……女神様、今ものすごく女神っぽいですね」
女神様のそういうところ、大好きですよ、俺。
「何を言っているんですか! 私はいつでも女神ですよ!」
「はいはい。やめてください胸を張るの。凝視しちゃうじゃないですか」
「自己申告!? ちょ、見ないでください! 近寄らないでください!」
「触らないから大丈夫です」
「触らなくてこの気持ち悪さなら全く大丈夫じゃありません!」
女神様はふいと後ろを向いてしまう。ああ、胸……胸が……。
「……さすがに今日はもうゆっくり休んでください。藤坂さん本人は自覚していないかもしれませんが、身体的にも精神的にも疲労が溜まってしまっているはずです」
……そう言われてみれば。思えば今日一日きちんと休んではいないかもしれない。
「それに、今の時間帯なら起きてももう皆寝ています。夜も更けてきました。今日はゆっくり寝て、明日、また人のために活動しましょう」
「……そうですね。わかりました。そうします」
確かにそうだ。八野の話を聴こうにも、俺が疲労していればそれすらきちんと出来ないかもしれない。それは駄目だ。万全の状態で八野と向かい合わなければならない。
「起きる頃には傷も癒えているはずですから。こちらで寝てしまって大丈夫ですよ」
「では、お言葉に甘えて」
そう言うと俺は女神様の方へ向かった。
「え、いやなんでこっちに来るんですか?」
「え? 膝枕してくれんじゃないんですか!?」
「一言も言っていませんそんなこと!」
「しょうがないですね、じゃあ胸でいいですよ。胸枕で」
「なんで妥協したみたいになってるんですか!? なんですか胸枕って!」
「その素晴らしく慎ましやかな胸の上に俺の頭を置くことです。低反発なんだろうなあ」
「その行為に猛反発ですよ! 訳わからないこと口走るくらいには疲れ溜まってますね!」
駄目かあ。今日ならいけると思ったんだがな、胸枕。
「……しかし、休んでほしいのは本当ですし……仕方がないですね」
「え、胸枕ですか!?」
「それはしません」
即答された。女神様はその場にちょこんと座って、
「ほら、膝枕してあげますから。早く来てください」
「…………え?」
「なんですか、やってほしくないんですか?」
「いえ。いえいえ! ぜひお願いします!」
俺は綺麗なダイブをかまし、女神様の膝に頭を乗っける。
「いやあ、気持ちいいですね」
「そうですか? それは良かったです」
「胸が無いからこの状態でも女神様の顔を見られるし」
「膝から突き落としますよ」
あれ? なんか変なこと言った? 最高の褒め言葉だったんだけど。
「ありがとうございます。快眠できそうです」
「はい。ゆっくり休んでください」
女神様は俺の頭を優しく撫でて来る。高校生にもなってこれは少し恥ずかしいが、今日は。今日くらいはこの優しさに甘えさせていただこう。
「女神様……ほんと……ありが、と……」
俺の意識はそのまま、気持ちのいいまどろみへとゆっくり落ちていった。
女神様が、ずっと俺の頭を撫でてくれたことだけは、しっかりとわかった。
「……は!」
目が覚める。気持ちのいい時間は永遠には続かなかった。いや続いたらまずいんだけど。
「今日は……土曜日……」
ベッドの近くにあったデジタル時計で日付を確認する。
「時間は…………もう昼じゃねえか!」
思わずベッドから飛び起きる! 八野と色々話そうと思っていたのに!
とりあえず飯を食って、その後八野とコンタクトを取ってみるか——と、そこまで考えたところで俺は部屋の冷蔵庫の中身を思い出す。そういやからっぽだった。今日も昼飯は久地中さんとこで済ますか……。俺はスマホと財布をポケットにしまい、階段を下る。
喫茶クロックの扉を開けると、そこには久地中さんに佐山さん、そして牧下さんもいた。
「おはようございます皆さん」
「うっす工輝。傷は大丈夫か? ぐっすり眠れた?」
「はい。傷の方はもうなんとも。それに今日はもう快眠でしたよ!」
なにせあの女神様が膝枕してくれたからな! 今度は絶対に胸枕をしてもらうんだ。興奮して眠れなくなってしまうかもしれないけど。
「おはよう工輝君」
「おはようございます牧下さん。皆さん昨日はお疲れ様でした。あの後、久地中さんが下着ドロを確保してくれたんですよね。ありがとうございました」
「ん? お前見えてたのか?」
「はい、そのすぐ後に意識が飛んじゃいましたけど」
女神様に大体の詳細は教えてもらったし。
「それで、あの……八野の様子はどうですか? 俺、あいつが吐く瞬間も見たんですよね」
俺のその言葉に、空気が変わる。どこからともなく、しん……という音が聞こえてきた。
「……心ちゃんは今部屋に籠っているよ」
「塞ぎこんじまってる。心の奴、昨日のことを気にしているみたいだ」
佐山さんが昨日のことを思い出しながら言う。あの瞬間佐山さんは現場にはいなかったが、二人から事情は聴いていたらしい。
「あの後、八野は吐いた処理に関する礼だけ言って、早々に部屋に帰って行った。あの時のなにかがあいつを刺激したことくらい、俺にだってわかる」
「……もともと、心ちゃんは危ういところはあったんだよ。もう少し時間をかけてやっていこうと思っていたんだが……昨日のあれはイレギュラーだった」
「危うい……? 牧下さん、何か知ってたんですか? 確かにここに入居するくらいですから、『なにか』があるとは考えていましたが……」
「心ちゃんの能力のことは君達と同じく、私はなにも知らないよ。でも、取り巻く状況は君達よりも知っている。そうだな、こうなってしまったらさすがに話した方が良いかな。……心ちゃんは昨日、『転入手続きは親がやってくれた』って言ってたよね」
牧下さんは話し始める。
「その時に親御さんから聴いたんだよね、心ちゃんの話。それまでは元気で活発な、子供らしい子供だったのに、彼女がまだ小学生だったある日、いきなり人が変わったようにおとなしくなったらしい。人と喋ることを極力避け、学校が終わればすぐに帰宅し家で一人で本を読む。両親も『この子に超能力が目覚めた』ということにすぐに気づいたそうだ」
牧下さんはいつものにやにやを抑えて話し続ける。
「でも、それを本人に問いただそうとすることは出来なかった。心ちゃんは親の前では出来る限り『普段通り』でいようと努めていたらしいし、学校にもちゃんと行っていた。まるで『自分には何もない』と主張するようにね。親御さんも、そんな姿の心ちゃんに話を聴くことは出来なかったらしい。それでも、現状を変えなければならない。そこで、心ちゃんを別の環境に置こうと決めた」
「何故?」
「地元では、もはや誰もが心ちゃんに話を聴こうとはしていなかったから、という理由だそうだ。無口で、その場にいないような存在——それが『八野心』となっていた。両親も、もはや心ちゃんに触れることができなかった。だから心ちゃんのことを知っている人がいない場に彼女を置いて、『八野心』の世界のリセットを試みた。『八野心』のことをなにも知らない人に触れて──心ちゃんを変えることが出来ないか、と考えたそうだ」
親にも言えない超能力。一体八野はどのような能力に目覚めてしまったのだろうか。
「田舎から人が多いこっちに越して来たのもみなすけ荘に入れたのも、他人と触れあって欲しかったかららしい。今の心ちゃんだと、自ら他人に関わっていきそうになかったから。だから一人暮らしはさせられなかった。イヤでも他人と関われるような場所に彼女を置きたかったらしい。それにここは元々『能力にて問題を抱えた人』を入居対象にしていたからね。そういう側面もあって、親御さんはここを選んだんだろう。親御さんに言われたよ。『どうか、心と話して下さい。心と関わってやってください』ってね」
「それ、俺達は聴いていないんだが」
「言ってないんだ、当然だろう」
牧下さんはさらりと言って、俺達三人の顔を見渡し、
「まあ、正直その点に関しては心配は皆無だったけどね。花恋ちゃんは他人への思いやりが出来て誰とでも仲良くなろうとする子だし、亮君は確かに花恋ちゃん一筋だけど決してその他の人間に対して気遣いが出来ない男ではないし、工輝君に至っては彼女は君の好みそのものだから放っておくはずがない。予想通り、君達は決して彼女を孤独にはさせなかったしね。私も勿論、出来る限り彼女とコミュニケーションをとったつもりだよ」
心ちゃんは私の好みの身長でもあったしね、と付け足す。それはいらない情報だなあ。
「心ちゃんも、最近は私達に心を開きつつあったし……前はあの作戦会議の時みたいに、軽口も叩いてくれなかったからね」
来た当初の八野は、それこそ寡黙を絵にかいたような女の子だった。
「今回のことさえなければ、もう少し時間さえあれば、アイツも自発的に自分のこと色々話してくれたのかな……」
少しだけ寂しそうに、佐山さんがそう漏らす。
「……俺」
「心ちゃんのところにお話に行くんだろう?」
見透かしたように牧下さんが笑う。他の二人も、だろうな、といった目で俺を見て来る。
「まあ、ここで立ち止まるようなやつではないだろお前は。普段の行いを見てれば分かる」
「人を助けずにはいられない奴だもんよ、アンタは」
「本当は、ここにいる全員が話を聴いてあげたいんだけどね。今まで隠してきた全てをいきなり全員に話させるのも酷だろう。大変な役割を頼んでしまってすまないが、心ちゃんの話を聴いてあげてほしい。彼女が背負っている何かを、君が降ろしてあげてくれ」
「勿論。言われなくてもやるつもりでしたよ」
どっちみちやることは変わらない。少し理由が増えただけだ。
「ほれ」
佐山さんが、なにやら小袋を渡してくる。
「俺と花恋で作った弁当だ。お前もあいつも、まだ何にも食べてないだろうからな。持ってって、一緒に食ってやれ」
「……久地中さん、そういう気遣いするからお客さんにモテるんですよ」
「大丈夫だ。アタシが離してやんねーから」
お、珍しく佐山さんが惚気た。良いもん見させていただきました。
「んじゃ、ちょっくら行ってきます」
「おう」
「頑張ってこい」
「行ってらっしゃい、工輝君」
三人からの声援を背に、俺は再び二階へと上がっていった。
「八野ー、いるんだろー。おーい。ちょっと色々話そうぜー」
コンコン、とノックをしてみるものの、しかし返事はない。本当にいるのか? でも、三人は一階に降りてきた姿を見ていないって言ってたし……。
「久地中さんが昼飯作ってくれたから一緒に食おうぜ。もう昼時だ。腹減ってんだろ?」
……これでも反応なしか。一体どうすりゃ——と、俺が次の策を考え始めたその時、扉ががちゃり、と音をたて開いた。
「……どうぞ、入ってください」
数時間ぶりに見た八野はどこか疲れている様子だった。目に隈を確認できたので、恐らく眠れなかったのだろう。
「おお……」
初めて八野の部屋に入った。
八野の部屋に入った!
すげえ! なんか小説いっぱいある! なんかいい匂いする! 女の子の部屋だ!
「こちらに座ってください」
八野はミニテーブルの横にクッションを置き、俺に促す。すげえ、なんかクッションも俺が使ってるやつよりふかふかしてる! 気がする!
お弁当の中身は至ってシンプル。栄養バランスとボリュームを考えた、久地中さんお手製弁当。お腹が減っていたのもあってか、俺達はそのお弁当を一瞬で完食してしまった。
「……」
話のきっかけも兼ねて久地中さんはお弁当をくれたはずなのに、その思いやりを一切無視して馬鹿みたいにがっついてしまった……。二人とも無言になってしまう。ぴりぴりと空気が張り詰める。どう話を切り出そうか。いや、迷っていてもしょうがないか。
「なあ、八野」
「わかっています」
俺が話を切り出すより先に、八野が口を開く。
「私の、能力の話ですよね。あの時急に様子が変わって、挙句の果てに吐いたから、ですよね。さすがに気になりますよね、そこまで来たら」
「ああ」
俺の肯定に、八野は決心をするように胸の前で拳を作る。
「いつかは言わなきゃならないと思っていました。でも、いざ言うとなると、怖いですね」
「大丈夫だ」
間髪入れずに、俺は八野にそういった。
「俺はお前が何を言っても、お前のことを嫌ったりとか、そういうことはしないから。そういう心配は全くしないで大丈夫」
断言できる。八野の胸とか、そういう下世話なことは一切関係なく、俺は嫌わない自信がある。距離を置かない自信がある。変わらない自信がある。俺は能力なんかで——人との接し方を変えたりなんて、絶対にしない。
その言葉に八野は嬉しそうにふふっと小さく笑い、
「……では。藤坂さん。私の能力を伝えたいと思います」
八野はそこで言葉を区切り、一度深く深呼吸をし——机の引き出しからチョコレートを取り出し、口の中に放り入れた。
何をし始めたのかわからないまま八野を見ていた俺を、八野が決意の宿った目で見つめ返してくる。
すると。
『聞こえていますか、藤坂さん』
どこからともなく、声が聞こえた。さすがにもう耳馴染みがある八野心の声。
しかし、目の前の彼女は——口を一度も開いていなかった。
『私の能力は【心の送受信】。他人の心の声とそれに乗った感情を受信し、自分の心の声を送信できるんです。しかも——受信は常時。発動条件が、終了条件がわからないんです』
「……なるほど」
合点がいった。なんとなく察しが良かったのは能力のお陰だったのか。
「……あれ? お、驚かないんですか!?」
むしろ八野の方が俺の態度に驚いている気がするんだけど。しかし慌てふためいている様は初めて見た。可愛いなあ。
「この状況でのんきに可愛いとか思わないでください!」
「そうか。そういうの全部バレてんのか。じゃあもう口に出して言うわ。可愛い可愛い」
「止めてください!」『止めてください!』
心からの叫びだった。八野は照れて顔が真っ赤になる。あ、たまーにいきなり顔を真っ赤にすることとかあったけど、こういう訳だったのか。
「なんでそんなに落ち着いているんですか! 心が読まれているんですよ! もっと、気持ち悪いとか、気色悪いとか、そういうこと思わないんですか!」
「なるほど、そう思われたくなかったから言わなかったのか」
う、と八野は口を紡ぐ。まあ、そう思うのは仕方のない事だろう。
「でも、俺は思わない。お前の能力を気持ち悪いとか、そういうことは一切思わない」
それを言ったら俺の能力だって十分気持ちが悪い。なんだ、死んだら生き返るって。
「そのくらいで、俺は態度を変えたりしない。蔑んだりしない。引いたりしない。遠巻きにしない。避けたりしない。——俺は、お前の見方を変えたりなんかしない」
俺は何も変えない。変えてたまるものか。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえて、とても嬉しいです。……藤坂さんが最初で、良かった……」
肩を震わせ、八野が消え入りそうな声で言葉を溢す。……もしかして、泣いてる?
「泣いてます……こんな能力、受け入れられないって、そう、思っていましたから……」
能力がバレたからか、八野は俺の心の声に返事を返してきた。
ぽんと、八野の頭に手をやり、優しく撫でてやる。人に頭を撫でてもらうと少しばかり落ち着くってことを、俺はあの女神様から教わっているのだ。
八野は口で嗚咽を漏らしながら、俺の脳内に直接語り掛けて来た。
『ずっと、怖かったんです。能力を手に入れてから……ずっと……皆が、なにを思っているのかが分かるんです……。仲の良かった子達がお互いを見下し合っていたり、悪意にまみれていたり、悪口ばかりを溜めていたり……しかも、それが私にはわからないんです』
八野の感情的な声が響き渡る。出会ってから二週間。一度も聴いていない声。
『本当の声なのか、心の声なのか、それが私にはわからないんです。それが余計に怖くて、もしそれに返事をしたら、今度はその悪意が全て私に向くんじゃないかって。人の心を見透かすんじゃねえよとか、気持ち悪いとか、そういう考えが一斉にこちらに向かって来るんじゃないかって……そう考えたら、なんにも喋れなくなっちゃって……。それで、私は一時期塞ぎ込んでしまいました。学校に行くのも辛くて……部屋でうずくまって、現実逃避したくて、無心で当時好きだったチョコレートを食べていたんです。そんなことをしていたら、勿論お母さんが心配して部屋に入って来て……私のことを抱きしめながら、「学校で何か嫌なことでもあったの?」って、優しい声で言ってくれました』
八野は当時の情景を思い浮かべつつ、今度は自身の口で話し始める。
「でも私はなんて言っていいのかわからなくて、言葉が詰まって……心の中で『悪口が怖くて、学校に行くのが辛い』って言いつつも、発することができなかったんです。なのに」
八野は唇をプルプルと震わせながら、
「なのにお母さんは、『そっか』って。『辛いんだったら、我慢しなくても大丈夫だよ』って……! 口から何も出ていないのに、お母さんは全てを理解していて。人の完全なる善意があんなに怖いと感じたのはあの日が初めてでした……。私は他の人々の悪意が聞こえるのが怖いと言いましたが、私だって人間です。私にだって、悪意がある。心の中で悪口を言うことだってあるんですよ……。自分の能力を通して『相手の悪意が聞こえる』ことの恐怖を知っているからこそ、私はより恐ろしくなりました。もしかしたら相手にも、私と同じような恐怖を抱かせてしまうのではないかと——」
大粒の涙を流しつつ、八野は言葉を止めない。溜めてきた全てを放出するかのように。
『その後、チョコレートをまた食べたら私の声は届かなくなりました。それでわかったんです。「送信」はチョコレートでオンオフを切り替えられると……。訳が分からなかったです。その日まで、チョコを食べてもそんなこと起きなかったのに……。しかも、受信が分からない。私を一番苦しめている、受信のスイッチを、私は見つけられていない……!』
心の送受信。正直、俺には発動してからの八野の苦悩は想像も付かない。しかし、決して良いものなんかでは無いのだろう。無意識下で自分の悪意を聴かれ、その上相手の悪意まで見透かせてしまうのだから。
そうなってしまったら。両親も、友人も、先生も、先輩も後輩も、見知らぬ誰かまで。その全てが、自分に隠すことのない敵意を向けてくるかもしれない。それは決して確定じゃない。でも、無いとは言い切れない。そして本当にその全員が敵意を剥きだして来たら——きっと、耐えられない。だから彼女は、自分の心に蓋をしたのだ。
能力のことを全員に黙って、自分の気持ちを押し殺して、『普通である』と装って。
そうやって騙し騙し、なんとかギリギリのままここまで保ってきた。
八野は涙をなんとか堪えながら、それでも少し口角を上げて言葉を繋ぐ。
「ここにいる人達は……みなすけ荘の人達は、優しい人ばかりでした。いきなり越して来た私のことを気遣って、他の人と変わらずに接してくれて……皆が皆のことを思いやってて……言いたいことははっきり言っていて。全員、裏表のない方でした。すごく、居心地が良かった。私だって、皆さんのスキンシップを避けるのは心苦しかったんです」
自治活動を進んでやるような連中なんだ。お人よしこの上ない。
「でも、だからこそ……私は能力を言うのが怖かったんです。だって、『心の送受信』っていうのは、明らかに異常だから。私がもし言われる立場だったら、絶対に気持ち悪いと思うから……! 今まで相手に思っていたことの全部が、隠してきた気持ちの全てが伝わっているとわかったら……! 普通の人は、耐えられない!」
八野は、感情に任せて声を上げる。辛そうな叫びを轟かせる。
「昨日のあの瞬間。私がいきなり吐いて、そして私を介抱したあの瞬間。恐らく牧下さんは感づいたんです……。私の能力のことを……。それを考えると、私はもう、会うのが辛くなってしまって……気づいたら、引きこもっていました……」
嗚咽を漏らす。言葉が漏れ出る。
「この家がとても居心地が良かったから! ここの皆さんがとてもいい人達だったから! この二週間が、とても素晴らしいものだったから! だから!」
八野の涙は、止まらない。
「受け入れられなかったその時は! どんなに辛いんだろうって! この二週間は、能力が発現してからの人生で、一番素敵な時間でした! だからこそ! その素敵な時間が、壊れてしまったらどうしようって! そう考えたら、私はなにも言えなくって……! だから、藤坂さんが私の能力を受け入れてくれたことが、嬉しくて、嬉しくて……!」
そして俺は——八野のことを無意識のうちに抱きしめた。力強く、心のままに。八野の全てを、受け入れるように。肌が触れ合う。八野の心がダイレクトに俺にぶつかってくる。
それでも俺は、抱きしめる力を決して緩めない。
「俺は、全部丸ごとひっくるめて、お前のことを受け入れる。だから心配すんな」
八野の頭を、もう一度優しく撫でた。
「俺、この能力——生き返りの能力、嫌いだったんだよ」
「え……?」
いきなりの発言に、八野は顔を上げて俺を見る。まあ、意外だろうな。
「昔……つっても中学二年くらいだから、そこまで昔でもないか。まあ、そん時さ、俺、いじめに遭ってたんだよ。テレビとかで良く見る感じの、結構きついやつ」
「い、じめ……」
「そ、いじめ。能力とか関係なしに、ただ単純に虐められてた。なんでだろう、多分、俺に理由はなかったんだろうな。ただ、自分より格下の奴を作りたくて、それがたまたま俺だったっていう、それだけの話なんだろうけどさ。で、ある日耐えきれなくなって、自殺しようって決めたんだ」
「自殺……!?」
八野が驚きの声を上げる。自殺。そこまで俺は、追い詰められていたのだ。今となっては馬鹿のことを考えたと思う。この能力がなければ、俺は本当に死んでいたのだから。
「せっかくだから、俺を虐めていた奴の目の前で死んでやろうと思って。いじめを見て見ぬふりをしていた奴らも同罪だと思って、先生とか同級生とか、全員の目の前で死んでやろうと思ってさ。で、屋上から飛び降りた。あんまり恐怖はなかった。奴らに一矢報いようと、それだけだったんだろうな。狙い通り、クラスの奴ら全員の前で俺は死んだんだ。消えゆく意識の中で、俺は『やった!』って思った。一矢報いた上にこんな世界からおさらば出来るって思って。でも、違った。目を開けたら、俺は自宅のベッドの上にいたんだ」
あの時の感覚は今でも思い出せる。現状を理解することができなかった。
「両親が来て、色々話してわかった。俺の能力は『生き返り』という能力なんだってことがわかった。やっと終わったと思ったのに、地獄はまだ続くと知ったの時の絶望感と言ったらなかった。両親は優しくしてくれたけど、どう接していいかがわからない感じだった。そりゃそうだよな。自殺をしようとして失敗した息子の接し方なんて、わかるはずない」
家族には迷惑をかけたと、今でも反省している。
「で、家にいるのも辛くて、自殺を決行した次の日に俺は学校に登校した。……正直言って、あの時が一番辛かった。皆の俺を見る目が、人間を見る目じゃなかったんだ。あれは明らかに化け物を見る目だった。当たり前だ。目の前で死んだ奴が、次の日五体満足で登校してきたんだから。……お前と同じく、俺は自分の能力が嫌いになったよ。どんな呪いだって思った。自分の能力が嫌で嫌で仕方がなかった。同級生のいじめはエスカレートした。能力が気持ち悪いっていうはっきりとした『理由』と、どこまでやっても死ぬことは無いっていう『安堵感』。その二つがいじめを増長させた」
本当に辛い時期だった。今でも鮮明に思い出せる。ただただ、暗くて辛い毎日だった。
「そんなある日の帰り道。俺は、事故に遭いそうな子供を発見したんだ。もうほとんど助からないような、そんな状況だった。で、自暴自棄だった俺は、どうせ死ぬなら人を助けて死んでやろうって考えて、その子を自分の命と引き換えに助けた。死んだその時。最初に死んだときはショックのせいか目が覚めるまでぐっすり寝てたんだけど、その時はどこか別の世界に行ったんだ。そこには、女神と名乗る女性がいた」
これが女神様との最初の出会い。あのころから女神様は優しいオーラを全身に身にまとっていた。これを他人に言うのは初めてのことだ。普通は受け入れてもらえないんだけれど、八野は違う。俺の心を通して、それが嘘ではないことを理解してくれていた。
「女神様は、俺の傷が癒えるまでの間、ずっと俺の言葉を聴いてくれた。俺が抱えていたドロドロした何かを、ただただ優しい顔で受け入れてくれた。心が楽になったね。そのお陰で、俺はなんとか心を病まずに生きていけていたのかもしれない。それからも、何度か俺は人を助けて死んだ。別に助けようと思って死んだわけじゃない。人の命が消えるくらいなら、何度でも蘇る俺の命を消せばいい。そんくらいの気持ちだった。女神様は『人のために命が張れるなんて立派ですよ』って言ってくれたけれど」
誰もが俺のことを否定していたあの時期に、唯一俺のことを全肯定してくれていた女神様。感謝してもし切れない。
「そんなある日のこと。ついにいじめがエスカレートして、公園で俺は殺されそうになった。皆から殴られ蹴られて、ぼこぼこにされて。『あ、死ぬなこれ……』と思った、まさにその時だった。俺が命を消費して助けた子供の親が偶々その現場を目撃して、通報してくれたんだ。それだけじゃない。他にも俺が助けた人が何人か通って、いじめっ子を確保したり、俺の応急処置をしてくれたりした。……結局、俺は間に合わず死んだわけだが」
ずっと感じたことのなかった人の温かみみたいなものを、あの時俺は確かに感じた。
「死んで、また女神様と会った時。俺、泣きながらそのことを必死に説明したよ。俺が助けた人達が、今度は俺を助けてくれたって。奇跡が起こったんだって。それが嬉しくて嬉しくてたまらなかったって。そしたら女神様はぎゅっと俺を抱きしめて、こういったんだ。
『それは、藤坂さんが皆を助けたからですよ。【情けは人のためならず】。あなたがかけた情けが、巡り巡って自分に返ってきたんです。藤坂さんが、自らの力で手に入れた奇跡なんです。あなたは自分の能力を呪いと言っていますが、そんなことはありません。あなたの能力は、正しく使えば、きちんと自分に返ってくる。見方を変えればいいんです。悪い方ばかりに目を向けるのではない。良い方にも、目を向けましょう。確かに今は辛いかもしれません。でも、下ばかり向いていては埒があきません。ですから——前を向いてください。あなたの目の前には、きちんと明るい未来が広がっているのですから』
それを聴いて、俺はさらに泣いた。女神様は、その後は何も言わずにずっと俺を抱きしめてくれたんだ」
言われたのは三年前だが、今でも一言一句間違えずに言える。恐らく一生忘れない言葉。
そう。女神様はずっと俺をその胸の中で泣かせてくれたんだ。あの時の女神様の優しさと、平らな胸の感触は、今でも鮮明に覚えている。
「そこから俺は、自分の能力を、生き返りの能力を受け入れた。クラスの目を気にせず、文字通り命を張って、助けられる者は全て助けた。そしたら次第にいじめはなくなって、俺のことを馬鹿にする奴も、避けるやつも徐々に減っていった。高校に入ったら友達も出来た。能力を否定していたあの時には、そんな未来が来るなんて想像も出来なかったよ」
情けは人のためならず——これを実践し始めたのもこの頃だ。
情けは巡る。巡り巡って、そして俺に返ってきた。これは、俺が手にした情けだ。
「つまりさ。八野」
俺は、胸の中で未だに泣きながら俺の話を聴いてくれた八野に向かって言う。
まるで、あの時の俺と女神様みたいだ。
「お前の能力も、別に悪い側面ばかりじゃないんだ。どこかにきっと、良い側面があるはずだ。見方を変えよう。俺も手伝ってやる。俺は絶対に傍にいてやるから。俺はお前を受け入れるから。だからお前も、自分の能力を一回受け入れてみようぜ。そこにはきっと——今まで見たことないような素晴らしいものが、きっと見えるはずだから」
八野は、涙を流しながら、それでも俺に言う。
「…………ふ、藤坂、さん……! 見捨てないで、くれますか?」
「勿論」
「……ずっと、見守ってくれます、か?」
「勿論」
「……私の味方で、いてくれますか?」
「勿論。俺は八野心の味方だよ。当たり前だろう」
俺のその言葉に。八野は、更に泣いた。
心の声が追い付かなくなるくらい、口から声が溢れだして。泣いて泣いて——今まで溜めた涙が、その全てが空っぽになるまで、休むことなく、泣き続けた。
「……お見苦しいところをお見せしました」
数分後。八野はやっと泣き止んだ。しかし俺の元を離れたくないのか、すぐ隣にちょこんと座っている。語彙力が乏しくて誠に申し訳ない事この上ないが、可愛すぎる。何がとは言わないがヤバい。手は限りなく俺の近くに来ているものの、絶対に俺には触れない位置に置かれている。本当は人肌恋しくて触れていたいのに恥ずかしいから触れない、という気持ちに愛おしさが感じられて、もうほんとヤバい。
ちなみにあの後もう一度チョコレートを食べて、送信は今はオフ状態にある。
「なあ、質問なんだが」
「はい?」
「結局、昨日なんで吐いたんだ?」
心が読める、感情が乗った声が聞こえる——それはわかった。しかし、そことこれが繋がらない。
「あ、それはですね。藤坂さんの心の声が聞こえたからです」
「俺の心?」
「はい。死ぬ直前の心。……藤坂さんは、よく毎回あれを耐えていますね。痛いという感情、辛いという感情、死にたくないという感情——その全てが一気に私に流れ込んできました。それで、いきなりの負荷に私は思わず……」
吐いてしまったのか。というかあの嘔吐は俺が原因だったのか……。
いやまあ、正直慣れているわけでは決して無いのだが。なんというか、良くも悪くも鈍くなってしまったのだろう。きちんと痛いし辛い。本当は一生味わいたくはない。
「ほんと悪かった」
「いえいえ。私も悪いんです。自分の能力の切り方をわかっていないから」
「……そういえば、さっき言ってたな。能力は常時発動しているって」
この世界に常時発動型の能力は存在しない。俺の『死ぬ』、久地中さんの『くしゃみ』、佐山さんの『ステッキ』——なにかしらの条件があって、初めて能力は発動する。
「はい、そうなんです。小学校の頃、家族と一緒に外食に行った時にいきなり発動したんです。その前も、行っていたはずなんですけど、なぜかその日にいきなり……」
「送信が『チョコを食べると発動、もう一度食べると終了』ってことは、多分受信も同じような条件なんだよな。発動の仕方は久地中さんに近い。んでもって、能力が変わるのは佐山さんのに似ている」
くしゃみをスイッチとしている久地中さん、ステッキの色で能力が変わる佐山さん。八野の能力はこの二つを合わせたようなものになっている。
……しかし、そこに気付いたところでなにがトリガーになったのかは全くわからないが。チョコから察するに、『なにか』を口に入れることで発動可能になるんだろうけど。
「まあ、俺も一緒に探してやるよ。能力の発動条件」
「……ありがとうございます」
俺の決意表明に、八野はにっこりとはにかむ。可愛い。さっき抱きしめた時もめちゃくちゃ柔らかかったなそういえば。胸の感触もとても良かった。もう一度抱きしめたい。
「て、何考えてんですか!」
「そうか、こういう事も全部聞こえていたのか」
「聞こえてましたよ! 藤坂さんが私の胸のこと考えていることとかバレバレだったんですからね! 本当に恥ずかしかった……!」
「そうかー……」
聞こえていたんだよな、俺の八野に対するあれこれ。八野のその素晴らしい胸が好きだとか揉みたい頬ずりしたいとか思っていたことも全部筒抜けだったのか。そうか。うーん。
じゃあもういいか。
「何が!?」
八野が戦慄した顔でこちらを見て、非常に近かったのに急に距離を置き始める。何故だ。
「いや見られているならもう心で考えても口で言っても変わんないなと思って。という訳で揉ませてください」
俺は綺麗な土下座を決めた。
「無理に決まっているじゃないですか! 止めてください、さっきまでのカッコいい藤坂さんは一体どこへ!? 確かに私の前では変わらないかもしれませんが、それでも口には出さないでくださいよ!」
無理かー。まあいいや、しばらくはさっき抱きしめたあの感触で繋ぎ合わせよう。
「なにを繋ぎ合わせるんですか! やめてください! さっきまでの感動に満ち溢れていた私の記憶がなんだか汚らわしいものみたいになってしまうじゃないですか!」
「汚らわしくないぞ。お前は自分の能力に向き合うことに決めて、俺はそんなお前を心の底から応援することに決めた。ただちょっとお前の感触が良かっただけだ」
「汚らわしい以外の何物でもない!」
八野が悔しそうに床を叩く。そこまでかよ。
「そういやさ、なんでお前昨日いきなり様子も変わったんだ。吐いた原因は分かったけど、様子が変わった時はまだ俺は死んでなかったわけだし」
「そういやさで済ませないでください……」
八野は顔を赤らめたままに、深刻そうな表情を浮かべる。
「あの下着ドロの心の声が、初めて聴くものだったんです。あんなことをしているんだから、もっと色々な感情がうずめいているのだと思っていました。でも、違ったんです」
そして、八野はとても真面目な顔で、
「あの人の心の中は、『巨乳』しかありませんでした。捉えられたこの現状をどうにかしようという意識は一切なかったんです。藤坂さんを刺したのも、自分の意志でやっているのではなく、『やらされている』かのような、そうプログラムされているかのような、そんな心でした。それは初めて見る感情で——思わず悲鳴をあげてしまったんです」
「……それって、洗脳ってことか?」
意識を乗っ取られているから故の行動だったというわけか?
「可能性としては、十分にあり得ます。何者かが、あの人の心を改ざんした」
八野は、ぎゅっと拳を握り締める。
「……お前の能力が、早速役に立ったな」
「え?」
「俺達だったらそんなことはわからなかった。ただ異常な精神の下着ドロを捕まえて、それで終わりだっただろう。お前のお陰で、その異常な現象に気付くことができたんだ。お前の能力は、やっぱり良い能力だよ。きちんと人の役に立ってる」
「……藤坂さん」
八野が嬉しそうに笑う。悪い面ばかりじゃない。八野の能力は人の役に立てる能力だ。
「私、この謎を解明したいです。私の能力が、それを解くカギになるのなら——私は、私の意思で、この力を使いたい」
その声を聴いて、俺も思わず嬉しくなる。その調子だ。
「じゃあ、まずはあの人達に協力を仰がないとな」
「う……」
いや、不安そうな顔するなよ。遅かれ早かれ伝えることにはなるんだ。
「わ、わかりました。行きましょう」
「おう」
そして俺達は、八野の部屋のドアを開けた。
「お、帰ってきたか」
あれから結構な時間が経っていたのだが、喫茶クロックには三人が未だにいた。
「お弁当美味かったです。これ、容器です」
「サンキュ。でも……返しに来ただけってわけじゃないだろ?」
佐山さんが、ちらりと八野の方に目を向ける。勿論ですとも。
「ほら、八野」
軽く背中を押してやる。ちょっとの勇気を。一歩踏み出せるように。
「み、皆さんに話したいことがあります」
その一言で、三人は一斉にじっと八野の方に視線を向ける。
「私の能力についてです!」
八野の体は、少しばかり震えていた。大丈夫だ。後ろには俺が付いている。
「わ、私の能力は! 『心の送受信』です! 私は! ずっと皆さんの心を読んでいました! 本当にすいませんでした!」
がっと。勢いよくお辞儀をして、そのまま八野は顔を上げない。
「謝ることは無いだろ別に」
最初に声を発したのは佐山さんだった。
「能力は自分で選んだものでもないんだからさ、心が謝る必要なんてどこにもないって。むしろアタシは嬉しいよ。言い辛いことを、面と向かって自分の口で言ってくれて」
「……佐山、さん」
八野は恐る恐る顔を上げる。ああ、今にも泣きだしそうな声だ。
「俺も別に構わない」
久地中さんは八野の一世一代の告白に、それでもいつもと変わらぬ表情で応える。
「俺は基本的に花恋以外にどう思われようと知ったことではないしな。俺の心の中身を見られて八野に幻滅されようが関係ない。別にやましいことを考えてもいない。そもそも俺の心の中は花恋一色なのだから、見られても恥ずかしい事なんかない」
「それはアタシがちょっと恥ずかしいんだが」
「お前の能力は、俺に一切関係がない。全く気にならない」
「久地中さん……」
久地中さんのぶっきらぼうな言葉に、八野の涙は今にも溢れ出しそうだ。気にならない。その一言が、八野にとってどれだけ嬉しい一言か。久地中さん、わかっているんですか?
そして最後に牧下さんが、八野のところまで来て、ぎゅっと抱きしめて、一言。
「お疲れ様。よく頑張ったね。大丈夫だ。私達は皆——君のことを受け入れるよ」
「まき、した、さん……!」
そして八野は、また泣いた。不安に思っていた全てが片付いたのだ。でも、俺はこうなることはわかっていた。ここの人達なら大丈夫だと。だって、俺の能力ですら受け入れてくれたのだから。……牧下さんは自分の好みドストライクな身長の八野を抱きしめられて、若干性的興奮を感じている節があるけれど。なんかハアハア聴こえない? 大丈夫?
八野の感動メモリーがまた汚れてしまったりしない?
「……牧下さん」
八野が涙を止めて、冷めた声で名を呼ぶ。
「ハア、ハア……なんだい心ちゃん」
「もう抱きしめるの止めてもらっていいですか?」
「いやいや、今まで辛かったろう? 恥ずかしがることなんてないんだよ。ほら、おねーさんに存分に甘えてくれ」
「恥ずかしいという感情は一切ないんですが。むしろ今恐怖の感情が芽生え始めているんですが! なんで幼い子をあやすみたいな言葉遣いなんですか!?」
「ハア、ハア……フ、フフフ……! 大丈夫、大丈夫だからね」
「止めてください放してください! 辛いんですけど! 私の素敵な記憶が変態共によって塗り替えられていくんですけど!」
「おいちょっと待て共ってなんだ共って。変態は一人しかいないだろう」
「いや三人いますよこの空間には!」
「おい心、なんでアタシの彼氏だけ問答無用で変態認定喰らってんだよ。事実だが」
逃げようとする八野と、逃がさない牧下さん。平和だなあ。俺も後で抱きしめに行こう。
「藤坂さん不穏なこと考えるの止めてください! 誰か変態から助けてください! 牧下さんのその両耳は飾りじゃないですよね!? この悲痛な叫び聞こえてますよね!?」
「おいやめろ牧下。飯の時間だ。もう夜だぞ」
「いったい!……わかったよ。結構堪能させてもらったしね」
八野の悲痛な叫びを聴いてか、久地中さんが牧下さんの頭をお盆で叩いて助ける。
「あ、すいません。私、昨日の件についてお話が……」
「だろうと思ったよ。でも今日はやめよう。今日はお祝いパーティーだ。心ちゃんの歓迎会、まだしていなかったからね」
牧下さんがそういうと、厨房から佐山さんがごちそうを色々持ってきてくれた。ザンギにエビチリにボンゴレパスタ、小ぶりなピザに野菜たっぷりのコンソメスープ……見ると他にもまだまだ料理が作られていた。ちゃっかり佐山さんの好物であるロールキャベツまで準備してやがる。さすがだぜ。
「腕によりをかけた。食え」
「ぶっきらぼうにもほどがあるでしょうその言い方。でも食います! いただきます!」
俺は目の前に並ぶ御馳走——まずはピザに食らいつく! 美味い! これは美味いぞ!
「八野も席に着いて食え! 今日のは特に美味しい!」
「はい! ありがとうございます!——美味しい! こんなに美味しいロールキャベツを食べたのは初めてです……! 本当に、本当に美味しいです!」
久地中さんは当たり前だと笑って、どんどん新たな料理を追加してくる。
「心は生魚食べられる?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ほれ、刺身の盛り合わせだ」
久地中さんは勿体つけずに俺達の前に豪華な盛り合わせをドンと置いてきた!
「心、わさびは?」
「あ、八野わさび苦手らしいです」
「というか辛いものが苦手でして。両親は大丈夫なんですけど……あ、これ美味しい。味が凄くしっかりついてる……藤坂さんもどうぞ」
八野はそう言って俺にザンギを差し出してきた。これはチャンス!
「あーんはしません」
「先読みしやがった。ちくしょう、わかったよ普通に食べるよ」
駄目だった。しかし俺は諦めんぞ! どうにかしてあーんしてもらうんだ!
「……」
八野の冷ややかな視線がこちらに向いている気がしているが、無視して箸を進める。
と、いきなり、
「はい工輝君キャッチー!」
牧下さんに頭をがっちり掴まれた。
「いったい! ちょ、何してんですか牧下さん!」
「工輝君の頭を捕まえたんですー。ほら、こっち向いて!」
「いやなんで……うわ、酒臭い! もしかしてアルコール摂取したんですか!?」
「しましたー! もう大人なんだぞ、飲んでなにが悪いー!」
「いや駄目ではないですけど!」
この人酒癖悪すぎんだよ!
「久地中さん! なんでお酒をあげたんですか!」
「宴会だからな」
「ああくそ! 自分には被害が無いからって!」
主にターゲットになるのは俺なんですよ!
「牧下さんって酒乱なんですか?」
俺と牧下さんの攻防をしり目に、八野が丁度カウンター側に来た佐山さんに問う。
「酒乱ってか……酒癖がかなり悪いんだよ。しかも絡み酒。でも見ている分には楽しいぞ」
他人事だと思って!
「ほーら工輝君、今日は頑張ったねー。心ちゃんと話してくれて私は本当にうれしいよー」
「ありがとうございます。だから離れて!」
巨乳に絡まれても全く嬉しくない! 押し付けて来る二つの大きな肉塊が鬱陶しい!
助けを求めようとちらりと八野を見ると、八野は俺と牧下さんの狭間にある潰れたおっぱいを見て何かを思ったのか、自分の胸のサイズを気にしていた。ああ、可愛い! 大丈夫、その胸が一番いい胸だから! 気にしなくていいから! だから今は俺を助けて!
「そんな頑張った工輝君にはご褒美をあげよう!」
「ありがとうございます——!?」
口にキスされた。
「なにしてんすか! ちょ、よりにもよってキスって!」
「ご褒美のチューだぞ! ありがたく思え!」
「くそう、男なら問答無用でひっぱたいてましたよ!」
その二つの脂肪をねじり切ってやろうか! 俺はなんとか牧下さんの顔を掴んで強制的に離れさせ、八野の胸を見て癒されようとする。あわよくば揉もう。
「……」
「……ん? 八野、どうした?」
「……工輝さん、私の胸、揉みます?」
「……んん? あれ?」
願ったり叶ったりだが、なんか様子がおかしくね? 工輝さんとか呼ばなくね?
「私の小さい胸で満足してくれるなら、揉んでくださいよお! 皆心の中で大きいおっぱいのことばっかり考えて、う、うわああん」
なんか泣き始めた! しかも絶対さっきまでの涙とは質が違う! 駄目な涙だこれ!
「え、な、なにこれ!?」
「多分、玲菜の心を読んでしまった結果、貰い酔いしたんじゃねえかな……」
佐山さんもこの現状にさすがに驚いている。なにそれ!?
「さあほら! ほら! 心の中であんなに揉みたい揉みたい言ってたじゃあないですか!」
「違う! 俺はこういう感じでお前の胸を触りたいんじゃない! もっとこう、なんかいい感じな雰囲気で触りたいんだ! セクハラも結局は心の中だから言えることで、実際にその場面が来ると紳士だから尻込みしちゃうタイプなんだ俺は! きゃー! やめて! 俺の手を取って問答無用で揉ませようとしないで!」
痴女です! この部屋には既に二人ほど痴女がいます!
「ほらほら! 藤坂さん垂涎の微乳ですよ! ほらほら!」
「微乳じゃねえ小乳だ! 微乳は微妙って言葉を連想させるから好きじゃないんだよ!」
「心ちゃんもげっとー! ぐへへ、心ちゃんはいい身長だなあ! 撫でまわしてやるー!」
「うう、ぐす……! どうせ私なんて、胸の小さい人間なんて……! もう、もう世界中の巨乳は全て萎んでしまえばいいのに!」
ヤバい面倒くさい!
その後、久地中さんも佐山さんとイチャイチャしだして、無法地帯となってしまった。皆酔う中俺だけ素面なのもあって、正直かなり疲れたんだが——楽しそうに笑う八野が見られたのでよしとしよう。
翌日。日曜日。今朝八野が昨日感じたことを牧下さんに伝えたらしいが、「すぐに行動したいだけど、昨日の報告と情報収集のために今日も狸小路に行くことになっているんだよね。どうせだから、皆への情報の公開はその後でいいかな?」と言われたらしい。
なので俺達他の住人は、牧下さんから招集がかかるまで待機、という事になっていた。情報は多いに越したことは無い。特にこういった大きな事件の場合は。俺個人としては今すぐにでも事件解決のために動きたいのだが、せっかく情報が手に入るというのなら、今は待った方が良いだろう。不確定な状態で動くよりかは、少しでもアタリがある方が良い。
という訳で、いい感じに時間を持て余していた。特に用事もなかったので困っている人を助けに行こうと部屋の中で準備をしていたら、
「あ、藤坂さん。すいません、ちょっといいですかね」
と八野がコンコン、というノックと共に尋ねて来た。
「おう、全然構わんぞ。どうした?」
俺がそう言うと、八野はゆっくりとドアを開け部屋へと入ってくる。キョロキョロと部屋の中を観察し始める八野。ちょっと恥ずかしいんですけど。というか俺の部屋に女の子がいるんですけど! あの牧下さんくらいしか入ったことなかったんですけどこの部屋!
やべ、一気に緊張してきた! なに、八野は一体何をそんなに見ているの!? 恥ずかしいものは目の届く範囲ではないんですけど!?
「あ、すいません。その……男性の部屋の中に入るのは初めてだったので」
照れながら言う八野に無限の可愛さを感じる! なんだよその表情! 殺す気か!
「……聞こえているんですけど」
「今この瞬間、世界で一番可愛い」
「もう本当に躊躇なくなりましたね!」
顔を真っ赤にさせながら八野は声を張り上げる。
「というか、目の届く範囲ではって……あることにはあるんですね」
「なに。見たい?」
「セクハラすら段々雑に! 見たくないですよ!」
「まあ本当に少ないけどな、そういう系の本」
「え、そうなんですか」
なんだよその意外そうな声。俺そんなにエロ本所持してそうに見えたのかおい。
「まあ、正直」
「お前の俺に対する評価どんなんなんだよ! マジで持ってねえよ! つか、ああいう系はほとんど買う気が起きねえんだよ!」
言わずもがな俺の好みは『小さい胸』なので、そういう系統のものを買おうとするんだが——大体のものは『貧乳』『微乳』とかいうワードをチョイスしやがる! 腹立たしくてしょうがない! 小さい胸は貧しくも微妙でもないんだよ! 小乳と表記しろ小乳と!
「うわあ、今の藤坂さんの心は私の人生でもトップクラスに読みたくなかったですね」
「本心だからしゃあない。偽る気は毛頭ない」
「そんな堂々と言う事ですか……。まあ、小さい胸にしか興味がないのは幸いですが……」
「その点については心配するな。一生小さい胸にしか興味が湧かないことをここに誓おう」
「うわあ聞こえてた!? そこは普通聞こえないものなんじゃないんですか!?」
「この距離だったら多少ぼそぼそと言っても聞こえるだろうが。外も静かだし。ぼそりと言ったセリフが聞こえないのは小説の登場人物だけだぞ」
「小説の登場人物みたいな性癖持っている人が何を言ってるんですか……」
お互い軽口を叩き合う。ちょっと前まではこんなに距離が縮まるとは思ってもみなかった。色々大変ではあったが、昨日の出来事があってよかったと、改めて思う。
「てか、髪型変えたんだな」
「はい。と言っても、前髪をピンで留めただけですけどね。視界が明るくなりました」
「いいな。うん。いい。凄く可愛い。めっちゃ似合ってる。いい」
「う、あう……。その話は良いんです! えっと、お、お暇ならこれをどうぞ!」
俺は心の底から可愛いという単語を連呼する。八野は恥ずかしそうにしながら、照れを隠すように俺に一冊の本を渡して来た。
「これは一昨日言っていた……」
「夜星先生の『それはまるでトキワ荘のように』です。お貸しする約束でした、よね?」
はにかみながら八野は俺にそう伝える。確かに借りようとは思っていたが。
「あ、もしかしてご迷惑でしたか……?」
「いや、全然大丈夫。むしろ招集かかるまで暇だったから丁度良かったよ。サンキューな」
「それなら良かったです! 良い読書タイムを!」
安堵と嬉しさが織り交じった表情を浮かべながら、八野は部屋を出て行った。俺としてはもう少し楽しく談笑したかったのだが、恐らく俺に小説を読ませたい故の行動だろう。
さてさて、せっかくだし読むとしますかね。八野お勧めの小説を。最近全く活字を読んでなかったから、めいっぱい楽しめるか少し不安ではあるのだけれど。勇気を出して八野が貸しに来てくれたんだし。ちゃんと読むのが筋ってもんだ。
そうして俺は、ページをめくり始めた。
くっそ面白いんだが。
さっきまでの『面白さを感じられるかどうか不安がっていた俺』をぶん殴ってやりたいくらいのめりこんでたんだが! もう一冊読み終わってしまった!
文体の癖は強いのにするすると読めた……凄いな夜星先生。
しかしこうなると別の作品も読みたくなってしまう。参ったな。さすがに読み終わった後は困っている人を助けに街へ繰り出そうかと考えていたんだけれど。むしろ別の夜星作品買いに行くのもありか……? いやでも金がな……。昨日の下着ドロの謝礼金が入るのはまだ先だしなあ。いつも早くても二週間くらいは入金までかかるし。学生にとってはなかなかいい額の小遣いなんだがなあ……。
いや待てよ? 八野なら全巻持っているよな。どうせ牧下さんが帰ってきたら招集かかってこの家戻ってこなきゃならないだろうし、だったら借りて家でゆっくり読むか? 後から読んでも面白いんだろうけど、どうせだからこの勢い、この感情のまま次の巻も読みたいし。……うん、そうしよう。八野から借りて読むことにしよう。
思い立ったら即行動。俺は読み終わった小説を小脇に抱えてすくりと立ち上がり、意気揚々とドアを開けた——が、なにかが突っかかって途中でドアが止まってしまう。
「おっと」
ドアの向こうから大人の女性の声が聞こえた。隙間から覗いてみると——
「やあやあただいま工輝君。帰ってくるなり人の胸になんて仕打ちをするんだ君は」
そこにいたのは牧下さんだった。どうやら無駄に胸が発達しているせいで、そのデカい脂肪にドアが引っ掛かってしまったらしい。
「心ちゃんじゃなくとも最近君の考えが分かるようになった自分がいるよ。全く……人によってはラッキースケベポイントだというのに、そんな表情しちゃって」
「どの胸がほざいてんですか。これのどこがラッキーなんですか」
「ドア越しに私の胸を揉んでいるようなものじゃあないか」
「仮に俺が巨乳好きだとしても、この方法でその感覚を得るのは上級者すぎる!」
そいつこそがド変態だよ! 嫌だろそんなのが一緒に暮らしていたら!
「情報を集め終わったからね。招集をかけようかと思って来たのさ」
「お、なにかいい情報を得られたんですか?」
俺がそう言うと、牧下さんは歯切れが悪そうに唸って、
「正直なところ、芳しくはない……けど、手に入れたといえば手に入れたからね。動かなきゃ何も始まらないから、とりあえずは動いてみようかと」
なるほど。確かにその通りだろう。情けと同じだ。自ら動かないと得られないのだ。
「というわけだから下に行こうか。もう他の皆には声をかけてあるからね」
「了解です。ささ、早く人を助ける会議をしましょう!」
そうして俺は牧下さんと共にたまり場と化した喫茶クロックへと降りて行く。
「今日も店を閉めることになるとは……」
降りて早々、久地中さんの悲痛な叫びが聞こえてきた。可哀想に。ご愁傷さまです。
「でもその分人に情けをかけられますよ! きちんと相応のものが後で帰ってきますって」
「うるせえ妖怪情けかけ。こっちは売り上げにダイレクトに生活に影響するんだよ……」
恨めしそうな声を出す久地中さん。正直なところ俺にはそこら辺の感覚は全くわからないのだが、経営者には経営者なりの苦悩があるんだろう。
「ま、まあ亮。外回りするときにビラも一緒に配ろうぜ? な?」
「なるほど、そういう地道な努力の積み重ねがこの店の人気を担っているんですね」
「常連ばかりだと限りがあるしな。超人気店にするつもりはアタシも亮もないけれど、それでも定期的に新規の客が来る程度には繁盛させたいと思ってるよ」
俺の声に、佐山さんがそう答えてくれた。この二人三脚感も客からしたら面白いんだろうな。実際見てて飽きないバカップルではあるし。
「っと、そういえば八野。貸してもらった小説、読み終わったぞ」
「おお! 中々の速読家ですね藤坂さん! ど、どうでしたか!?」
「最高に面白かったわ! 今まで読んでなかったのを後悔するくらいにはハマってしまった! 後で夜星先生の他の作品借りてもいいか?」
「! それはよかったです! ぜひぜひ!」
俺の言葉を聴いて安堵しつつ興奮を高める八野。可愛い。
「ちょ、止めてくださいいきなりそういうこと言うの!」
「口には出していない。心で思うくらい別にいいだろ」
そう言うと、そうですが……と恥ずかしそうにさっと顔をそむけてしまう。馬鹿だなあ。そういう仕草をするからまた俺に心の中で可愛いとか思われるんだぞ! あー可愛い!
「心ちゃんが可愛いのは認めるけれど、そろそろやめてもらっていいかな?」
牧下さんが手をパン!と叩き、目線を自分に集中させる。あ、すいませんでした。
「まずは心ちゃんの情報からだね。一昨日の下着ドロの心を見て、なにやら気付いたらしいじゃないか。私とかはもう聞いてしまったけれど、改めて皆に話してくれないかな」
「は、はい。一昨日私は下着ドロの心を見たのですが——その心の中が異質だったんです」
「異質だった?」
佐山さんの反復に、八野はこくりと頷き、
「ええ。あの方の心は明らかにおかしかった。普通下着ドロを行うのなら、『どんな下着を取ろう』とか『逃げ道の確認』とか、捕まったあの時であれば『どうやって捕まえてきている藤坂さんを振りほどくか』といったものを絶対に考えるはずなんです」
「まあ、だろうな」
「でも、違った。あの下着ドロの心には、そういったものが一つたりともありませんでした。あるのは『巨乳』というワードのみ。明らかに変です。あの場であのようなことをする人間が、それだけを考えるわけがない」
そして八野は人差し指を立て、
「そして、私は藤坂さんと一つの仮定を立てました。もしかしたらあの下着ドロは——洗脳されていたのかもしれない、と」
「洗脳ね……」
八野の言葉に、久地中さんが合点がいったかのようにそう呟いた。
「確かに、藤坂を刺したときもあまり正気を持っているようには見えなかったしな」
「アタシも透視で奴の動きを見ていたけど、そういえばあんまり人間味は感じなかったな。まるでロボットのような、決められた動きをしていた感じはあった」
判断材料はある。本当に洗脳されていた可能性が高いなこれは。
「私も全くの同意見なんだよね。あの日の一部始終をすべて見ていたわけではないけれど、確かに『下着ドロ』なんて欲の塊みたいな行為をしている割には、人間味を感じなかった。——だから、そう言った情報がないかどうか今の今まで狸小路に出向いて聞いてみてたんだ。丁度他の自治組織もいたから、広く聞いて回ってたんだけど」
と、なんとなく端切れが悪そうに笑みを作り、
「残念ながら、それに関連した情報を得ることはできなかった。せっかくなにかを掴みかけたのに、ごめんね皆。特に心ちゃん」
「ああいえ、いいですいいです! 謝らないでください!」
牧下さんの謝罪に、八野はあたふたしながら答える。まあ謝られてもって感じではあるわな。牧下さんが悪いわけでも、『後自』が悪いわけでもないし。そう簡単に情報が回るわけでもないしな。この件に関しては、新たな情報を気長に待つしかないだろう。
「その代わりに別の情報を仕入れてきてね。今日はそっちを攻めようと思う」
「別の情報?」
「『痴女闊歩』——男を惑わし脱ぐほど力が増す怪力の痴女の方だ」
牧下さんはテーブルの上に一枚の紙を置き、仕入れた情報を俺達に伝え始めた。
「心ちゃんの情報から出た『洗脳犯』も気にはなるけど、手掛かりが少ない。そんな中で手に入れた最新の情報が、最近話題になっている事件——『札幌を闊歩し男を惑わし脱ぐほど力が増す怪力の痴女』だ。『家族で買い物をしていたところ痴女に遭遇しました。その時夫と息子が痴女に見とれて以来、ずっとエロいことを考えている表情のままで、全く口をききません』みたいな痴女を見た男性が突如として変貌したり、『人間を十数メートル吹っ飛ばしていた』ということがあったらしい。ということで、このプリントを見て欲しい」
プリントには時刻に場所がずらりと書かれている。
「これ……所謂『痴女の出没個所とその時刻』ってことですか」
「心ちゃんその通り。このプリントは今までに出た痴女の目撃証言をかき集めて行動をまとめたものだ。そういう癖なのか何なのかはわからないが、基本的に人通りが多い場所に出没している。そして、この行動をよく見てみると」
牧下さんは札幌の地図を取り出し、
「札幌駅・大通公園・すすきの周辺。この三か所に多く出没することがわかった。というか、殆どこの三か所。たまに他の場所にもいるのが目撃されているみたいだけど……そこまで気にしていたら進めないから一旦置いておこう」
また凄い場所に出没しているな、痴女。通報されるリスクとか考えていないのだろうか。それほどまでに周囲に肌をさらけ出すという行為は快感なのだろうか。
「で、待ちの姿勢だった一昨日とは打って変わって、今日は攻めの姿勢で行こうと思う。——人海戦術を使って、痴女を探し当てよう」
「ああ、なるほど」
下着ドロと違って、さすがに痴女は手当たり次第に探し出すしかないか。
「丁度お昼過ぎに出没しているみたいだから、時間的にもいい頃合いだ。三か所に手分けして動こうと思うんだけど、どうかな?」
「いいんじゃないか? アタシは賛成だ。情報の少ない今だと出来ることもそれくらいしかないだろうし……危険度もかなり低いし」
「俺も構わん。楽そうだしな」
牧下さんの提案に、佐山さんと久地中さんが同意する。というか久地中さんは佐山さんがオッケーならなんでもオッケーしそうだけれど。
「私も大丈夫です! 頑張ります!」
八野も意気込んでいる。昨日の今日だからやる気に満ち溢れているのだろう。
「勿論俺もオッケーです。というか俺はいつもとそんな変わらない気もしますけど」
結局は街に繰り出して辺りを見回す行為をやるだけだし。俺にとってはそんなの日常茶飯事だ。探し当てる対象が変わっただけで。
「よし、じゃあ皆了承したという事で。先にグループ分けもやっちゃおうか」
牧下さんは一度俺達をぐるっと見渡した後、
「すすきのは私と工輝君、大通公園は花恋ちゃんと心ちゃん、札幌駅は亮君で行こうか」
「おいちょっと待て」
間髪入れずに久地中さんが口を挟む。
「なぜ俺が一人なんだ。いや違う、なんで俺が花恋と一緒じゃないんだ」
「本当に君は花恋ちゃんのことになると駄々をこねるね……。せっかく心ちゃんが私達に心を開いてくれたからね。探索と同時に親睦も深めてもらおうかなと思ったのさ」
至って正論をぶつける牧下さん。佐山さんは元々八野と仲良くなりたがってたしなあ。こんなことでもなければ二人っきりになれることもそうないし。いい機会と言えば、これ以上ないくらいいい機会だろう。本当なんだかんだで周りの事しっかり見ているなこの人。
「…………………………なるほど」
少し考えた後、何かを呑み込むようにして久地中さんが班分けを了承した。そこまでか。佐山さんとは基本四六時中一緒なのだから、今回くらい八野に譲ってもいいだろうに。
俺も八野とデートはしたかったが。今回は佐山さんに譲ろう。八野にもっとここの人達と仲良くなってほしいし——なんて思っていたら、八野が少し顔を赤らめながら、
「あ、ありがとうございます、そう考えて下さって……」
と俺に向かってそう言った。
「今更ながら、難儀な能力だなそれ……周りも周りで恥ずかしいこと考えてることバレても全く気にしない奴らばっかりだし」
佐山さんが俺と牧下さん、そして愛する久地中さんを見ながら言う。
「まあ本心だからな。隠す理由もないわけだし」
「そもそも恥ずかしい事考えてると思ってないですし。知られても平気って言うか」
「むしろ私達のこの気持ちを恥ずかしいと捉える方がおかしいくらいだよね」
「うるせえ性癖歪み三人衆」
そんなあなたはその中のトップと付き合っているわけですが。
「私、基本的には皆さんいい人だと思っているのですが、時たまこの人達は本当にヤバいと思うことありますよ」
「八野まで!? おいおい心の声が聞こえるお前なら俺達の純粋な心を見てきたはずだろう!? なんでそんなこと言うんだ!」
「純粋なる邪な心を出会ってからずっと見てきたからですよ! 久地中さんは佐山さん限定なんでエグイ妄想してても耐えられましたけど、藤坂さんと牧下さんは本当に駄目ですよあれ! 特に牧下さんなんて放送コード引っ掛かりますよあれ! 大人でしょ!?」
「おいちょっと待て心。亮は一体アタシでどんな妄想してたっていうんだおい」
「そんなこと口が裂けても言えません! どんな拷問を受けたとしても、あの妄想を言葉にするよりかは幾分マシです!」
「ちょっとはオブラートに包んで心! その対象が今まさに目の前にいるんだけど!」
「なんだ、知りたいのか花恋。じゃあ俺の口から伝えてやろう——」
「駄目です駄目駄目! 私まともに佐山さんの顔見れなくなる!」
ぎゃあぎゃあと盛り上がる三人。楽しそうだなあ。
「これから事件の捜査だっていうのに、全く緊張感無いね」
「あなたが作った場所なんですから当然ですよ。もっと真面目にやりたいのなら、まずはあなたが真面目になってください」
「残念ながらそれは無理な相談だ。最早子供達を見て触れ合うのは私の生きがいと言っても過言ではないからね——さて」
牧下さんはスッとその場から立ち、
「はいはい! それじゃあ皆、そろそろ移動しようか! 痴女は待ってはくれないよ!」
そうして、俺達の痴女大捜索が始まった。
(つづく)