強風に煽られたゴミクズのように吹き飛んで転がって、地面との摩擦に身を削られたのちに、俺の体はようやく衝撃の慣性を失って止まった。
「——っ……」
視界がぼやけ、体が焼けるように痛い。
抜けるような青空の下、俺の意識は混濁しつつあった。
「テア……くん……?」
呆けた呼びかけがあった。
次の瞬間、何が起こったのかを理解したかのように、もう一度——
「——テアくん……っ!」
それはもはや悲鳴に近かった。地べたに転がる俺のそばへ、一人の女性が駆け寄ってきた。酷く狼狽した様子で、その場にしゃがみ込んで——
「どうして……どうして庇ったりなんか……」
流れ出る血の感覚。体の背面がどうしようもなく抉れているのが分かった。
焼けるような痛みはそこから来ているもので、俺の全身を駆け巡っていた。
「——どうして、こんな無茶をしたの……っ!?」
俺を覗き込むその目には、焦燥と涙があった。
赤い髪が目立つ、とびきりの美人。
この防衛戦線における現場指揮官。
俺の訓練生時代の元教官でもあるその人は、ここが戦場であることを忘れているかのように、俺だけに意識を向けていた。
「……俺……なんかに構っている場合じゃ、ないでしょう……?」
——言葉を振り絞る。
ここは戦場だ。悪魔との戦地だ。下級、中級の悪魔が飛び交い、それを押しのける葬撃士の攻撃も飛び交う。そんな中、眼前の陣には悪魔の大幹部——極星一三将軍を名乗る最上級悪魔の一角・アガリアレプトが存在している。
極性一三将軍クラスの悪魔が前線に出てくることは珍しい。だから俺は最高戦力の一人として先行し、奴を手負いにした。あとは陣に退いたアガリアレプトを仕留めるだけだ。この戦場はもうそういう段階だ。数もこちらが優位で、ヘマさえしなければ勝てる。
そんな中で——俺は察知した。
現場指揮官であるミヤ・サミュエルその人を狙った遠距離魔法攻撃を。
それは陣に退いたアガリアレプトが発動せしめた、足掻きのような一撃だった。
自身も最高戦力の一人であるため、ミヤ教官は前線に出ていて——他の悪魔の排除に目をくれていて、迫り来るその攻撃に気付いていなかった。
だから俺はいても立ってもいられずに引き返し——その結果がこれだった。
「どうして、庇ったりなんか……」
目に涙を溜めて、ミヤ教官が再び呟いた。
理由なんて、ひとつしかない。俺はただ、あなたを……。
「いいから……俺のことなど気にせず、早くアガリアレプトにトドメを……」
現場指揮官のあなたが、士気を下げようとしてどうする。
誉れ高き葬撃士であるならば、悪魔の殲滅にこそ集中するべきだ。
そんな俺の想いが伝わったのかどうなのか、ミヤ教官は目元をこすりながら頷いた。
「……分かったわ——けれど、君は死なせない」
近場を奔走していたメディックを捕まえて、ミヤ教官は俺の身をそいつに預けた。
「テアくん……君に助けられたこの命で、この戦場を必ず勝利に導いてみせるわ。だから君も頑張って。意識を落とさないように気をしっかり持つの。分かったわね?」
「……善処します」
「善処じゃなくて、必ずそうしなさい。いいわね?」
力強くそう言うと、ミヤ教官は体をひるがえし、敵陣に向かっていった。
後ろでまとめられた赤い髪には、見ているだけで感じられる頼もしさがあった。トレードマークの銃剣を持って、《赤蜂》の二つ名にふさわしい振る舞いで刺すように撃ち貫いて前線を上げていく。
意識が切り替わり、集中状態に入ったのか、もう油断は見られない。周りさえも勢い付けてゆく、ミヤ教官のリズムだ。この人と一緒なら俺も私も活躍出来る——そう思わせてくれるだけの雰囲気がミヤ教官にはあって、周りからの信頼が厚い。ゆえに指揮官。あれならきっと、アガリアレプトは倒され、この戦場は勝利に終わるだろう。
それにしても……意識を保ち続けるというのは、こんなにも辛いことだったか?
痛みすら感じ取れなくなってきて、眠くて、あらゆる面で末期感があった。
「……」
すみませんミヤ教官、少しだけ眠らせてください。
もし二度と目が覚めなかったら、その時はごめんなさい。
幼い頃の俺が目の前に居た。
そんなことが現実に起こりうるはずがないので、これはきっと夢か、幻か。
あるいは走馬灯?
なんでもいいが、その幼い俺は虐げられていた。
その赤い目でこっちを見るな! と通行人が遠巻きに吐き捨てている。
狭い道で、俺を避けるように歩く流れが出来ていた。
差別——……昔の記憶……——忌々しい過去。
それを打ち破るために、俺は——
「——立ち止まっては、いられなくて……」
「テア、くん……?」
気が付くと、幼い俺を取り巻く風景がどこかに消え去っていて、目の前に映し出されたのは白い天井。漂うは薬剤の香り。清潔感あふれる白いシーツのベッドに寝かせられ、そんな俺を一人の女性がおっかなびっくり覗き込んでいるところだった。
「——テアくん……目を覚ましたのね?」
「教、官……?」
ベッドの傍に佇んでいたのは、赤い髪を後ろで束ねた一人のお姉さんだった。
胸元が大きく開いた上着に、スリットの入ったタイトなミニスカート。
くっきりした目元を潤ませ、けれど安堵したように静かな笑みを浮かべているその女性は間違いなく、俺の訓練生時代の元教官——ミヤ・サミュエルその人だった。
「ここは……」
「聖サーリカ記念病院よ」
帝都の、病院……? そうか……俺は教官を庇って、それで……。
「……俺は、どれくらい寝てましたか?」
「一週間よ」
「一週間も……。じゃあ奴は……アガリアレプトはどうなりました?」
「テアくんに助けられたあと、トドメを刺したわ。戦場の後始末も終わって、だからこうしてここに居られるの。テアくんが目覚めてくれて……本当に良かった」
俺を眺めるその目が、次第にくしゃっと歪み、涙がとめどなく溢れ出し——
「本当に良かったわ……」
もう一度呟き、目元をこする。
それでも教官の涙は収まる気配を見せない。
俺が目覚めた嬉しさ、以外の涙が、そこには混じっているような気がした。
教官はなぜか、とても悲しそうでもあるのだ。
「……どうしました?」
「ごめんね……こんな言葉だけじゃ、償いきれないんだけど……」
ぽつりと漏らされる謝罪の言葉。
償いきれないとはどういうことか?
俺は生きているのだから、そんなことはないと思うが……。
そもそも償いなんていらない。
ミヤ教官にはそんなことを気にして欲しくはなかった。
俺はあなたを守れて満足だから。
そしてこの怪我はあなたのせいじゃなくて、自業自得でしかないのだから。
「あ、そうだ……先生を呼んでくるわね。目覚めたこと、伝えないと……」
どこか気まずそうに、俺から逃げるように、教官は病室の外に向かった。
結局、重めの謝罪の意味がよく分からないまま、俺は黙って待っていることにした。
体が少し、鈍いような気がした。
呼んでくるだけにしては遅いな、と思い始めた頃、病室の扉がノックされた。今更ながらに、そういえば立派な個室だと気付いた。葬撃士協会の計らいだろう。
「どうぞ」
ノックに応対すると、扉が開けられ、二人の男性が入り込んできた。一人は白衣姿の男性で、恐らくは俺の主治医。もう一人は葬撃士協会の帝都統括理事だった。
ミヤ教官も最後にやってきた。俺と目が合うと、そそくさと逸らされた。
「目覚めたとの吉報を受けて、急いで参った所存だ。誉れ高き《七翼》の怪童、テア・フォードアウト、まずは君の命が無事に助かったことを大いに喜ばせてもらいたい」
理事が歩み寄ってくる。俺が上体を起こそうとすると、理事は手で制した。
「そのままで構わない。幾百の戦いを乗り越え、幾千もの悪魔を討伐し続けてきた若き英雄殿に無理はさせられないのでね」
「お気遣い、痛み入ります」
そう告げる中、主治医が俺の体を軽く触診し始める。どこか恐れ多そうな態度。それは俺への敬意がそうさせるのか、あるいは俺の性質を畏れているだけなのか。
ともあれ、理事の言葉は続けられた。
「体の具合はどうだね? 良くはなかろうが」
「いえ、比較的良いのではないかと。俺は《忌み子》ですから、回復力は高いです」
どこぞの悪魔の血を半分引いて産まれた存在——それが忌み子だ。
忌み子は皆、非凡な身体能力と人域を超えた回復力、そして赤い瞳を備えている。
だから普通の人とは違う、何もかも。
「なるほど、その回復力を信頼したいところだが……少し残念なことになっていてね」
理事がそんなことを言った。触診を終わらせた主治医が、立ち去ろうとする。教官が扉を開けて、一礼しながら主治医を見送っていた。
「残念なこととは……なんでしょう? 俺は何か後遺症でも……?」
「端的に言えば、君はもう戦えない」
——怖気立った。この人は何を言っているのだろうか……そんな風に思いつつも、なんとなく分かってしまう自分が居た。それでも、分かりたくはなかった。
もう、戦えない……?
衝撃のあまり、体が微塵も動かせない。
そんな中、嗚咽が木霊する。それは多分、教官の……。
——ごめんね……こんな言葉だけじゃ、償いきれないんだけど……。
不意に耳元で、先ほどの教官の謝罪が幻聴のように響いた。
硬直が解けて、俺は顔を上げた。やはり泣いているのは教官で、とても苦しげなその表情を見ただけで、俺の中にも重苦しい塊が落ちてくるようだった。
やっと——謝罪の意味が分かった。
俺が戦えなくなった責任を、教官は感じているのだろう。
だとすれば俺は……あなたになんてモノを背負わせてしまったのだろうか……。
「君は此度、彼女を——ミヤ・サミュエルくんを助けた結果、かのアガリアレプトの《魔法》によって背中を酷く損傷した。常人ならば死を避けられぬ重体であったが、それでも助かったのは忌み子の回復力があればこそだろう。だが——」
理事は自分の背中を二度ほど叩き、
「その回復力をもってしても、いや、今回に限ればその回復力が仇となったらしい。ズタズタにちぎれた背中の神経が、妙な繋がり方で回復してしまったようだ。その影響で君はもうかつてのようには戦えない、とのことだった。悪化を恐れ、手術にも踏み切れぬ」
そこまで言ってから、理事は泣き続ける教官に目を向けた。
「辛ければ、君は退室しても良いのだぞ?」
「いえ……私には、彼のこれからを見届ける義務が……あります」
責任を感じての言葉が、俺の胸に突き刺さる。そんな義務はないはずだった。すべては俺が悪くて、教官が背負う必要はまったくない。
もう戦えないなんてこともありえない。普通に手足は動くのだから。
「理事、俺はまだ……戦えます」
「無茶を言ってはならんよ。君からは膂力が消えた。体力も不十分になった」
「しかし……俺が戦って、悪魔を殲滅させなければ……」
「理解はしている。悪魔の血を引くというただそれだけの理由で、忌み子は不当に貶められることがある。ゆえに君は悪魔を殲滅させ、忌み子の格下げ要因を無くそうとしている」
「理解しているのでしたら、分かってください。俺はまだ——」
「繰り返しになるが、無茶を言うな。君はもう休め。いい機会だろう。まだ幼い時分からよくやってくれたよ。退院した暁には新たな人生の歩み方を探して欲しい」
「俺は——」
「引き際としては」理事の強い眼差し。「今が一番美しかろうよ。葬撃士の最高位階である《七翼》に史上最年少で到達し、鬼神の如き働きで悪魔を葬り続けてきた怪童、テア・フォードアウト。そんな男の最後は美人の現場指揮官を庇っての再起不能。英雄譚としてはよく出来た話だろう?」
「しかし……俺は、まだ……!」
足掻くようにシーツを握り締める。かつての握力には程遠かった。
そんな俺をなだめるようにして、理事は、
「テア・フォードアウト、君には葬撃士協会の特別名誉職の席を用意しよう。君さえ良ければ退院後の進路をそれにしてくれても構わない。功労者の君をぞんざいな扱いには出来ないし、したくもないのだよ」
「ですが、俺は……」
「それと、誉れ高き《七翼》のライセンスを君から取り上げたりはしないことになっている。本来こういう扱いはしないものだが、君のライセンスは永世扱いとさせてもらう」
「永世扱いなら……俺は葬撃士を名乗り続けられます。再起を目指してもいいはずです」
「そんなにも、復帰したいものかね?」
理事はどこか呆れたように言った。
「晩節を汚す可能性もあるのだぞ?」
「悪魔を殲滅させるためなら、俺は幾らだって汚れられます」
「難儀な男だ。再起を図ろうとするのは、彼女の、ミヤくんのためでもあるのかね?」
「当然です」
勝手に庇って勝手に傷付いた俺が悪いのに、教官は自分こそが俺を壊したと思っているのだろう。だから重苦しく謝ってきたし、泣いてもいるのだろう。
そしてそれは、俺が背負わせた重荷だ。
だったら俺がこの手で、それを取り除いてあげなければならない。
「そうか……ここまであれこれ言わせてもらったが、結局は君が何を目指そうとそれを止める権利なんて私にはないのだ。功労者である君の歩みは特に邪魔出来ん。つまりは、君のやりたいようにやって欲しい、という結論になる。そして、それでいいと思っている」
「それは……ありがとうございます」
「うむ、邁進し続けよ若人。では私はこれにて失礼させていただく。今はまず、しっかりと養生しておきたまえ。そしてミヤくんとも、よく話しておくといい」
そう言って退室した理事をよそに、俺は教官を見つめた。
教官の濡れた瞳も俺を捉えている。
お互いに言いたいことがあって、タイミングを計っていて——
——先に口を開いたのは、教官だった。
「ごめんね……私のせいで、テアくんの体が……」
「謝らないでください」
俺は体を動かし、ベッドから出た。目覚めてから初めてまともに動いたが、多少ふらつきを感じるだけで、歩く分には何も問題なかった。
「テアくん、ダメよ……まだ安静にしてなきゃ……」
「大丈夫ですよ。それより、俺の方こそすみませんでした」
俺は理解していなかった。
自己犠牲の果てにある、相手に背負わせてしまう重荷のことを。
「俺がこうなったのは、俺の自己責任です。教官は悪くないですし、恨んでなんかいません。俺はむしろ、教官を守れたことを誇りに思っています」
「でも……私の不注意があったせいで、テアくんは私を庇ってしまった。私が油断せずに戦っていれば、テアくんは無茶をせずに済んだかもしれない。そうでしょう?」
「かもしれません。ですが結局のところ、庇ったのは俺自身の意思です。教官を庇わないという選択肢もあった上で、それでも俺は覚悟を決めて庇ったわけですから」
「テアくんは……お馬鹿さんよ」
涙をぬぐってから、教官は優しい手付きで俺をベッドに戻し始める。
「どうして私なんかを……庇ってしまったの? 私なんて、ほっといてくれても良かったのに……どうして……?」
「その動機は、俺にとって教官は大切な人だから、ではいけませんか?」
俺は教官に憧れを、そして好意も持っている。
理由は単純で、教官は俺の夢を応援してくれたから。
俺の夢は悪魔の殲滅。でも数だけは居る悪魔の殲滅なんて現実味のない話であって、言うなれば『いつか自力で空を飛んでみせる』と言うようなもの。つまりは絶対に不可能と言える話なのだ。だからよく馬鹿にされた。だがそんな中で、教官は違った。
『へえ、そうなのね。私も同じ目標掲げて頑張ってるから、将来一緒に活動しましょ?』
六年前——俺が帝都の葬撃士養成所に入った際、俺の担当教官となったミヤ教官はそう言ってくれた。衝撃的だった。現役バリバリの葬撃士ほど、悪魔の数の暴力性を分かっているから、俺の目標を否定しやすいはずだった。ところが教官はそうはしなかったのだ。
だから俺の心は一気に惹かれた——ただそれだけの、単純な話で。
「私がテアくんの大切な人? 悪い冗談ね」
ベッドに横たえた俺に毛布をかけて、教官は椅子に座った。
「テアくんには見る目がないわ。こんな年増に憧れて、庇って、そのせいでこんなことになって……何を考えているの? もっと自分を大事にしなきゃ駄目じゃない」
突き放すようでいて、俺を慮る言葉だった。
「私のために葬撃士への復帰を目指すんだとも言っていたけど、それだって駄目よ。私を気遣う必要なんてまったくないから。テアくんはゆっくり休まなきゃ。ね? 悪魔の殲滅だって私が代わりに成し遂げてみせるから、あとは託してくれないかしら? 自分勝手なことを言っているのは重々承知よ。でも、テアくんにはもう無茶して欲しくないの」
「その気遣いが胸に染みますよ。でも……嫌です、と言ったら?」
「縛り付けてでも、安全圏に居させるわ」
ミヤ教官の目は割と本気に見えた。
「私に出来る償いは、もうそれしかないのよ……テアくんがもう危険なことをしないように、無茶をしないように、精一杯見守ること」
「俺はそんな償い、望んでないです」
「望まない自己犠牲を押し付けてきたテアくんに、それを言われたくはないわ」
「それは……」
返す言葉もなかった。
「とにかく、しばらくは安静にしてること。いいわね?」
教官が椅子から立ち上がった。
「……帰るんですか?」
「市場に行ってくるわ。目覚めたテアくんのために、何か果物でも買ってくるから」
教官はそう言うと、部屋の隅に置かれたバッグから財布を取り出した。他にも色々と入っていそうなほどに大きなバッグだった。ちらりと見えたのは……着替え?
まさか教官は泊まってまで、ずっと俺の傍に付いていてくれたのか。
そしてこれからも、仕事すら投げ出して俺の傍に付いているつもりで?
なんで……そこまで尽くしてくれるのか。
恐らくは——俺を壊したという負い目を、引きずっているからであって……。
「……教官こそ、無茶しないでくださいよ」
そう呟いたとき、教官はすでに病室の外に出ていて、俺の声は届かなかった。
「それなら俺だって、少しは無茶させてもらいますから」
リハビリがてら、院内の散歩を行なうことにした。安静にしてろと言われても、俺は立ち止まってはいられないのだ。元の自分を取り戻すために。
「——あっ、テア! 目が覚めたってホントだったのねっ!」
院内の散歩として中庭を歩き始めたその矢先、何やら快活な声が俺の耳朶を打った。
振り返ってみると、小柄な顔見知りが走り寄ってくるところだった。俺よりも頭二つ分ほど背の低いそいつは、任務帰りだろうか、葬撃士の女性用制服を身にまとい、肩に届くか届かないか程度の金髪を揺らしつつ、俺の傍で足を止めた。赤い瞳が俺を見上げて、ニカッと笑う。かと思えば、その目元を潤ませていた。
「良かった……ちゃんと動いてる」
「心配かけたな」
「ホントよ……うぅ……アンタがメディックに運ばれたって聞いたとき、ホントに心配したんだからねっ!」
そう言って小柄な彼女——シャローネは、人目も憚らずに俺の胸元に顔を押し付けてきた。心配した、というのは紛れもない本心からの言葉、なんだろう。
このシャローネも俺と同じ忌み子で、そういう者同士、手を取り合ってきた仲間だ。俺より三つ下の一四歳だが、しっかりとした女の子で、信頼出来る奴なのは間違いない。
「シャローネの方こそ、あの戦場で怪我とかは?」
「あたしは……大丈夫」
俺から一旦離れ、シャローネはずずずと鼻をすすった。
「テアがアガリアレプトを弱らせてくれてたおかげで、その後の掃討戦は楽に終わったのよ。ミヤさんがスイッチ入って本気だったのもあるし」
「なるほどな」
「そういえば……ミヤさんは来てるの?」
「今は買い物に行ってるけど、来てるぞ。というか……戦後処理を済ませてからずっと泊まってたらしい」
「そっか……そりゃそうよね。ミヤさんが一番心配してたのは間違いないし」
シャローネは目元をこすりながら、
「ねえテア、ところで一つ聞きたいんだけどさ……」
「なんだよ?」
「あのさ……テアが戦えなくなった、って聞いたんだけど……嘘よね?」
「……」
「ねえってば……嘘なんでしょ?」
「それは……」
「嘘って言ってよっ」
俺はつかの間、返答に困っていたが、直後には事実を伝えていた。
「悪いが嘘じゃない。でも嘘に出来るように頑張る。俺はそういうつもりだ」
「——っ、そんな……!」
シャローネの赤い瞳の中に、じわりとまた、涙が溜まり始めるのが分かった。
「……なんでそうなっちゃうのよ……馬鹿じゃないの……」
「馬鹿って言われてもな……」
「——馬鹿よ! 大馬鹿よ! もっと自分を大事にしなさいよ、もうっ!」
人目を憚らない涙が再び流され、俺はありがたく思った。
俺のために泣いてくれるそんなシャローネの頭を、ぽんぽんと叩きながら告げる。
「泣くなシャローネ」
「あんたが……泣かせたんだからね……?」
「ああ、だから泣き止ませるのも俺の役目だよな。ひとつ、いい報告が出来るとすれば、俺はまだ諦めちゃいないってことだ」
「……復帰を目指すってこと?」
「その通りだ。悪魔を殲滅させてもいないのに、この俺が隠居するわけないだろ? 教官の負い目だって消さなきゃならないのにな」
「ホントに……諦めてないの?」
「本当だ。だから泣くなよシャローネ。肝っ玉母ちゃんの名が廃るぞ?」
そう告げてやると、シャローネは少し恥じらうように目元をぬぐった。
「そ、そんな二つ名ないんだけどっ……」
「孤児院での働きっぷりはまさにそんな感じだろ。そういや子供たちは元気か?」
「うん……元気よ。でもみんなテアのこと心配してる」
「そのうち顔出さないとな」
そんな会話をしているうちに、俺の周りにはいつの間にか人だかりが出来ていた。俺の現状を知ってか知らずか、キラキラした眼差しを向けてくる子供たちが目立った。
「テアってば……病院でも人気なのね」
「もう最強じゃないのにな……。それよかこりゃ、落ち着いて喋れる俺の病室に移動するべきだな。シャローネが子供たちに埋もれて視界から消えるのも時間の問題だ」
「い、移動賛成……息苦しくもあるのよ……」
そんなやり取りを交わしつつ、子供たちの輪から脱する。病室に向けて歩き始める。
若干名付いてくる子供たちを、握手と引き換えに優しく追い返す。
やがて病室にたどり着く。扉を開けて中に入ると、妙な光景が目に付いた。
俺のベッドがなぜか——不自然に盛り上がっているのだ。
「ねえ、病室間違ってない?」
「いや、そんなことはないが……」
「じゃあ何アレ? 絶対に誰かが毛布に潜り込んで寝てると思うんだけど……」
状況としてはその通りで、一応すでに中身の予想はついている。教官が帰ってくるにはまだ早いし、そもそもあんな真似はしないことを考えると、中身は絶対にあいつだろう。
「あぁ……もしかしてあのストーカー女?」
呆れ顔のシャローネだった。思い浮かべている人物は間違いなく俺と同じだと思う。
互いに顔を見合わせ、ひとつ頷いてから、俺とシャローネはベッドに近付いた。
「おいエルザ、お前だろう?」
と、俺が代表して呼びかけた傍から毛布がもこもこと動き始め、やがて枕元にズボッと一つの頭が飛び出してきた。特徴的な長い銀髪。どこか眠たげな碧い目が、俺を捉えてうっすらと笑う。……やっぱりお前だったか。
「……いつの間に潜り込んでやがったんだ?」
「テアの匂いでいっぱいだからこの毛布好き」
そんな、答えになっていない答えを返してきたのが、同い年の葬撃士であるエルザ・クルジスタだ。それなりの友人関係にあると思うが、その胸の内を理解出来る日は永遠に来ないのではないかと思われる。というか、来ない方がいいだろう。
「とりあえずベッドから出てくれないか?」
「じゃあ服着るから待ってて」
「なんで脱いでんのよっ!!」
シャローネが糾弾しているが、多分糾弾したら負けなのだ。
エルザは相変わらず変態性が高いようだが、でもそれに安心してしまう部分もある。庇って負傷し、再起が怪しいことを告げられ、教官に余計なモノを背負わせてしまった中、このアホらしさは少しばかり、俺の暗さを取り除く役目を果たしてくれていた。
そう考えているうちに、エルザがベッドから出てきた。葬撃士の制服に青いマフラーと黒いタイツを組み合わせた格好だ。
綺麗な銀髪は背中の途中まで伸びており、体はシャローネほど小柄ではないが、かといってグラマーに育っているわけでもなく、とても平均的かつ慎ましやかだ。表情や感情はいつも大体無を貫いていて、そこはシャローネと対極的な部分だと思う。
「で、お前は見舞いにやってきたって認識でいいんだな?」
「そう。それプラスご奉仕」
「そんなオプションはいらない」
破天荒な思考とまともに付き合ったら負けなので、俺は冷静に応じた。
代わりにシャローネが八重歯を剥く。
「エルザあんたねっ、あんまりふざけないで欲しいんだけど! 今テアがどんな状態なのか分かってるわけっ!?」
「それはもう盛大に分かってる。満足に戦えない体になったって聞いた」
「だったら——」
「だからこそ、励ましてあげたいなって思って、急いでここまで来たの」
おふざけのない雰囲気で発せられた、それはどこまでも真面目な言葉だった。
「でも何すればテアを励ませるから分からないから、体使おうかなって」
「ありがたいが、体を使う必要はないからな? 気持ちだけで充分だ」
「気持ちだけでやる気出る?」
「そもそも今の俺には葬撃士への完全復帰を目指すんだってやる気しかないからな。こんなところで隠居なんざゴメンだし」
諦めてはやれないのだ。俺自身のために、そして教官のためにも。
「テア、あたしは何があってもあんたのこと応援してるからね?」
「わたしも」
「ありがとな、二人とも」
仲間の応援もあればこそ、俺は前向きに行くしかないのだ。報われると信じてな。
——その後、シャローネとエルザが帰って、静かになった病室。
その窓辺に佇んで、俺は病院の外を見渡した。
「……」
レンガ造りの建築物が数多く立ち並ぶ、広大な街並み。人間領最大の国家であるエステルド帝国、その首都アンゲルスともなれば、そりゃこれだけの規模にはなる。大いなる威容を誇る皇族家の城もここからはよく見えた。
ここだけ切り取れば間違いなく平和と言えるだろうが、しかしこの世界は決して生ぬるい環境ではない。帝国の南西に位置する大魔王ルシファーの支配領域から、人間領めがけて悪魔が日夜飛来する。
それに対処するのが葬撃士という存在だ。命懸けの職業だけあってなり手が少なく、殉職者も多いことから、人員は大体いつも不足気味だ。
その只中に身を置いていた俺だが、もう戦力として関わることは……出来ないのか?
「いいや、戻ってやるさ」
抗うように呟いて、そのとき。
病院の正面門から、ミヤ教官が前庭に入ってくるのが見えた。
お帰りのようだった。背筋を伸ばして歩くその姿はいつ見ても凛としており、女性らしい清楚さを感じるのと同時にカッコよくさえある。
女性葬撃士の中でも猛者の部類に入る教官は、その美貌も相まって人気がある。
人柄も好かれている。今だってその人の良さを存分に発揮していた。
例えばそう、すれ違い様に挨拶されればきちんと応じ、小さな子供が駆け寄ってくれば頭を撫でて対応する。ゴミが落ちていれば文句も言わずに回収し、何か困っている人が居れば声をかけて手伝い始める。
こうやって見ているだけでも、教官は控えめに言って聖人だと分かる。ちょっとした買い物に行くだけなのに帰りが早くないのは、俺が見てないところでもこんな風に完璧な振る舞いというか、根っからの人の良さを爆発させているからなんだと思う。
この街で生きていれば、教官の善行に関する話題を必ず耳にすることになるだろう。
ミヤ・サミュエルとは、そういう人なのだ。
だから人気があって、俺もそんなファンの一人で、大好きだ。
だから庇ったし、でもそれが原因で余計な負い目を背負わせてしまった。
——戦えなくなった俺を見守る、という義務感。
それを植え付けてしまった。
それに、もしかしたら。
俺を潰したことを、誰かに責められたりも、しているのかもしれない。
「そんなの……」
想像するだけで、心の奥が痛んだ。
もしそうなっているなら、それは全部俺が悪いのだ。
勝手に庇って勝手に傷付いた俺が悪いのに、あらゆる矛先は教官に向かう。
そんな状況、俺は耐えられない。
「だからなんと言われようと、俺は……」
——復帰を目指さなければならない。
例え教官自身から復帰はやめてと言われたとしても、だ。
「あ、またベッドから抜け出して……駄目でしょ?」
そんなことを考えているうちに、教官が病室に戻ってきた。
「この程度、なんでもありませんよ」
「体に障るかもしれないでしょ? 念には念を入れて今は大人しくしておかないと」
「復帰のためには少しでも動いておく必要があります」
「復帰って……」教官の表情が少し曇った。「テアくんは……諦めるつもりはないの?」
「ありません」
「大人しく見守られるつもりはないってこと?」
「ないですよ。自分のために、そして何より教官のためですから。俺はあなたの負い目を取り除きたいんです。俺が復活すれば、教官は何も背負わずに済みますよね?」
「そんなこと、しなくていいのよ……私はもう、背負って生きる覚悟が出来たわ。弱った君を一生見守る……それが私に出来る償い」
それにね、と教官は続ける。
「私にそこまでの価値はないわ。テアくんが頑張らなきゃならないほどに高価じゃない」
「その認識は間違ってます」
「いいえ、合ってるわ。テアくんが高く見積もり過ぎているのよ」
教官は果物の入った紙袋をテーブルの上に置いた。
「私は君を……戦えない体にしてしまったの。そんな女のどこに価値があるの?」
「因果関係が逆です。とんでもない価値があると思ったから俺は助けたんです。価値というより魅力でしょうか。人間として成熟している教官に俺は魅力を見出しました。聖人であるあなたを、俺は死なせなくなかった。だから助けたんです」
「私は聖人なんかじゃない……私は……テアくんを壊した悪人よ」
「俺が勝手に壊れたんです」
「だから……だからね、そうやってもう一度壊れて欲しくないから、無茶しないでって言ってるのよ」
それがどうして分からないの? と言いたげに教官は俺を見つめてくる。
「テアくんはもう頑張らなくていいのよ。これからは私が守ってあげるから、養ってあげるから……ね? テアくんはもう休んでいいの。私に守らせて? 償わせてよ」
「嫌です」
俺はそんなの望んじゃいない。
「教官のために、俺は復帰を目指します。そのためなら無茶もします」
「言ったわね?」
「言いました」
「そう言ったら、縛ってでも安全圏に居させるって告げたはずだけど?」
「教官にそんなことは出来ませんよ。あなたは優しい人ですから」
「……っ」
図星だったのだろうか。教官は目を背け、おもはゆそうにうつむいた。
「確かに出来ないわよ……だけど、そういう無茶が出来ないように、テアくんを見張ることは出来るからね?」
その言葉は嘘ではなかった。事実として、俺はこの日から教官の監視下で入院生活を過ごすことになった。夜中だろうとお構いなしに、教官は目を光らせていた。
それでも隙はあった。教官だって眠るときがある。俺がこっそりと抜け出さないように夜中は起きている反面、その影響でむしろ日中にこそ隙があった。
椅子に座ったまま船を漕ぎ始めた教官を尻目に、俺は院内のリハビリ施設にかよった。
リハビリというか、やっていること自体はトレーニングに近く、施設のトレーナーからそれはやり過ぎだと釘を刺されることが幾度となくあった。それでも俺は無理を言ってトレーニングを継続させてもらい、教官が起きてしまう前に病室まで戻り、あたかもお利口に寝てました感を演出した。
教官とのそんな出し抜き合いは何日も続いた。
監視は正直嬉しいものではない。当然だろう。俺の目標を妨げようとする明確な意思のもとにその行動は実行されているのだから。
しかしだからといって、教官のその行動を責める気にも咎める気にもならなかった。
だって根底には優しさがあるから。
俺が大人しくしていれば、教官はきっと聖人のような振る舞いで俺の看病に徹してくれるのだと思う。いや、監視を除けば今だって普通に手厚い看病を施してくれている。
だが一方で譲れないところもあるから、教官は俺の邪魔も行なう。
それが教官なりの償い方らしい。
俺が勝手に壊れたのに、教官は自分こそが俺を壊したと思っている。
それゆえに俺がもう無茶をしないよう、俺を見張っている。
教官に、そんな余計な使命を背負わせてしまったのはこの俺だ。
だからこそ、その余計な使命を取り除く責任が俺にはあるはずだった。
そんな想いと共に、今日も俺はうつらうつらと船を漕ぐ教官を横目に、病室から抜け出した。リハビリ施設にたどり着いて、負荷の大きいトレーニングを開始する。
トレーナーはもう何も言ってこない。言っても無駄だと理解してくれたのと、俺の熱意を分かってくれたからだ。併設されている石造りのプールで泳ぎ、体力の増強も図ったのち、俺はぼちぼち病室へと引き上げることにした。しかし——
「——テアくんっ」
リハビリ施設から廊下に出た、まさにその瞬間だった。
背後から声をかけられて、俺はびくりとした。
振り返らずとも分かる。それは教官の声だった。
「起きたら居なくなってて、まさかとは思ったけど……」
いずれ……バレるときが来るだろうとは思っていた。それが今なら受け入れよう。
俺の正面に回ってきた教官は、目元を悲しげに細めていた。
「……大人しいフリをして、密かにトレーニングしていたのね?」
「はい……。……いけませんか?」
「いけないわよ……どうして、言うことを聞いてくれないの?」
注目が集まる。廊下に渦中の二人が揃えば、そりゃそうなってしまうだろう。
「テアくん……お願いだから無茶しないでよ」
それは俺を慮る切実な懇願。
それと同時に俺の妨げでもある。
でも不快には思わない。根底には優しさがあると知っているから。
しかし——
「教官、俺は無茶しますよ」
「どうして……!」
教官が俺の衣服をギュッと掴んできた。さながら、死地に向かおうとする大切な人を止めるかのように。
「テアくんはどうしてそうなの! どうして頑張り過ぎちゃうの!? 頼んでないのに私を庇って傷付いて、今度は傷付いた体を無理に動かそうとして……私のために、私のためにって、テアくんがそこまで頑張らなきゃいけないほどの価値、私にはないって言ったじゃない……!」
「だから……——それに対して俺は、教官にはそれほどの価値があるって言ったじゃないですか!」
思わず大声で言い返した。言葉は止まらなかった。
「教官こそ、どうしてそうなんですか! どうして勝手に俺を守ろうとしてるんですか!頼んでないのは俺も同じです! 過保護も大概にしてくださいよ!」
「過保護って……私はただ、テアくんがもう壊れないように守ろうって——」
「分かってます! 分かってますけど……俺は教官に、そんな義務感に駆られて欲しくはないんです。俺が悪いんですから。俺が勝手に庇って勝手に傷付いただけなのに、そのせいで教官に責任を感じさせてしまって……だから、このままじゃいられないんですよ!」
「テアくん……」
「教官の想いを踏みにじってでも、俺は復帰を目指します! そうしなきゃ、俺は教官を庇った選択を後悔してしまいますから!」
教官の体を守ることは出来たが、その代わりに心を傷付けてしまった。
こんな体になってしまったことに関して後悔はないが、教官に負い目を背負わせてしまったことに関しては後悔しかない。
だから復帰を目指すというただそれだけの話で——
「……じゃあ俺、病室に戻ってますから」
歯向かって怒鳴った気まずさもあり、俺はそう言って逃げるように背を向けた。
教官の優しさを一蹴した自分が、とても嫌な奴に思えた。
でもそうならなければならないのが、今の俺であるはずだった。
——西日が差し込む病室。
周辺の家屋から、ぼちぼち夕飯の香りが漂い始める時間帯。
戻ってきた俺はベッドに腰掛け、腕で目元を覆うようにしながら寝転がる。
「俺は……」
何か間違ったことをしようとしているのか? ——そんなはずがない。教官のためを思えば、復帰を目指すのは正しいことだろう。
「あとは教官が、認めてさえくれれば……」
例え認めてくれなくても、復帰は目指す。それは変わらない。だけど、教官も復帰を応援してくれるのであれば、俺は気持ちよく前に進むことが出来る。
そんな風に考えていると、病室のドアが唐突に開いて——
「……」
教官が、静かに入り込んできた。何か言われるかと思ったが、ひとまずは何も言わないままドアを閉めて、教官は窓辺の椅子まで移動し、腰掛けた。
すぐに俺を追って病室にやってきたということは、何か言いたいことがあるんじゃないかと思う。しかし、思考を整理しているのか、特に会話のない時間がしばらく続いた。
ベッドの軋み、鳥のさえずり、誰かが部屋の前を通り過ぎていく足音。
時間から取り残されたかのように、あらゆる音が遠くに聞こえた。
カーテンを揺らめかす初夏の風が、俺の前髪を優しく撫でて——
「私はね、テアくん」
不意に届いたその声に、俺は目元を覆っていた腕をどかした。
すると当然のように、教官が俺に目を向けていて——
「テアくんが感情的に話すの、久しぶりに聞いた気がするわ」
「……え?」
「君は基本的には静かな子だから。私の前では特にお利口さんで居ようとするんだもの」
どこか柔和に微笑んで、教官は続ける。
「だからね、ああやって声を張り上げたってことは……それは全部本気の言葉なんだろうなって、私には思えた」
「……本気ですよ」
あれらの言葉に嘘はなかった。真実まみれのポエムだ。
「私の想いを踏みにじってでも、復帰を目指したいの?」
「はい……前から言ってる通りです」
「だから私の昼寝中にこっそりと抜け出したの?」
「申し訳ないとは思ってます……でも、諦めるわけにはいきませんから。止まってやるわけにはいかないんです」
「……どうしても?」
「はい……教官にはこう言えば分かると思いますけど、俺はそういう奴ですから」
無理だと言われても、無茶だと言われても、必ずやれるのだと信じて目的に向けて突き進む。悪魔の殲滅という夢に関してもそうだし、復帰に関してもそうだ。無理だろうが無茶だろうが、そんなのは知ったことではない。やると決めたらやる。それだけだ。
近くで何年も見ているのだから、教官も俺のそんな性格は分かっているはずだった。
「まったく……」
だから直後には、教官はその顔を困ったように苦笑させ始めていた。
「ええ、そうね……テアくんはそういう子だったわね」
「分かってくれたんですか?」
「分かりたくないけど、分かってしまったわ……。思えば養成所時代からそうだったものね。過労で倒れ込むまで鍛錬したり、回復後も反省せずに同じことしたり……。テアくんは呆れちゃうほどに頑固な子だったわ」
「そして今も、それは変わらないという話です。こんな俺を大馬鹿者と罵ってくれて構いません。ですがその代わりに、復帰を目指すことだけは許してください。お願いします」
そう告げると、教官は腕を組んで黙り始めた。
迷うような素振りだったが、それを見せていたのはわずかな間だけで——
次の瞬間には、仕方がないと言いたげに息を吐き出したのだった。
「ええ、許すわ」
「……え?」
「復帰を目指すこと、許すわって言ったの」
「でも……いいんですか?」
「何よ、許して欲しかったんでしょう?」
それはそうなのだが、あまりにもあっさり過ぎる判断に驚いていた。
「本当に……いいんですか?」
「だって、テアくんが本気で何かに取り組んだら、もう止まらないのは分かっているんだもの。何年この目でテアくんを見てきたと思っているの? もう六年よ六年。案の定、私がどれだけ泣き付いてもテアくんは復帰への足掻きをやめてくれなかったわけでね」
「もしかして……ここまでずっと試してました?」
「さあどうでしょう、ってはぐらかせたらカッコいいんでしょうけど、残念なことにテアくんを止めたかったのは本気よ」
「それなのに、もう止めないんですか?」
「ええ、止めはしないわ」
でもね、と言葉を挟んで、
「テアくんが無茶しないように見守ること、別に諦めたわけではないのよ?」
「……え?」
「いいかしらテアくん。君が復帰を目指すことに関してはちゃんと認めるわ。ここから手のひらを返すこともしない。それは約束する。だけどね、だからこそ——」
教官は真剣な眼差しで、
「復帰を目指すための鍛錬は、私の目が届く範囲でやって欲しいのよ」
そう、言うのだった。
「復帰を応援するって決めたからには、私はテアくんに最善を尽してもらいたい。だからね、最善な復帰のためのサポートを、私にさせてもらえないかしら?」
私の目が届く範囲で——サポート——?
——まさか……。
ひとつの可能性を察した俺に、教官は仕切り直すように冷静な態度で言った。
「要するに、近々退院することになると思うけど、退院後は私の家に住み込みながら鍛錬してちょうだい、ってことね」
「……マジですか?」
そんなわけで、俺はまだまだミヤ教官の気遣いから逃れられそうになかった。
「はっ! せいっ! ——くっ……」
「テアっ、まだまだやれるでしょ! 頑張って!」
ミヤ教官から復帰の許しを得た三日後の朝。
俺は金髪ロリことシャローネのもとを訪れ、組手を行なっていた。
昨日の昼に退院し、本日から教官の家に住み込みつつ復帰を目指していくことになるのだが、そうやって教官の家でお世話となる前に、ちょっとだけシャローネのところに寄って手合わせをお願いしたのである。
「——はっ! やあっ!」
「こんなもんじゃないでしょ! あたしの知ってるテアはもっともっとすごいんだから!まだまだやれるはずよ! ファイトよファイト!」
励ましつつも真剣に相手をしてくれているシャローネに応じながら、俺は拳や足を繰り出していく。だがやがて限界がやってきて、たまらず地面に倒れ込んでしまった。
かつては三日三晩だろうと平気で戦えた体力が今はこれだ。見る影もない。
「テア、お疲れ様っ。ハイこれ牛乳。とりあえず一旦休憩ね」
俺とは違ってまだけろっとしているシャローネが、牛乳瓶を俺の頬に押し当ててきた。
冷たいが、それが今は心地良い。
「にーたんもう動けなくなったのかー」「テア兄らしくないな」「でも繰り出しの速さはさすがテア兄ちゃんだよね〜」「うん、技術と経験は残ったままなんじゃない?」
シャローネに続いて、寝転がる俺を取り囲むように数名の子供たちが近付いてきた。
保育所に入る年代の子から、初等科卒業程度の年代の子までの、幼い男女たち。
髪色も様々で、顔付きもまったく似てないが、ひとつだけ共通点を挙げるとすれば、全員が例外なく赤い瞳というその一点。
彼らはいわゆる忌み子で、俺やシャローネと同じく人と悪魔の血を引く混血児だ。
この場所は俺が運営し、シャローネに世話を任せている忌み子のための孤児院。
その庭で組手をやって倒れ込めば、そりゃこんな風に取り囲まれるに決まっていた。
「こら、アンタたちは早く朝ご飯食べちゃいなさいってば。テアに構ってるうちにスープが冷めちゃうでしょ?」
「うっせーなつるぺたー」「そうだそうだ、地平線は黙ってろ」「もうシャローネ姉ちゃんよりわたしの方が大きいもんね〜」「ぼくもそのうち抜いちゃうぞ」
「アンタらねえ……っ!」
くわッ、とシャローネの赤い瞳が見開かれ、一陣の風が吹いた。風のタイミングは完全に偶然だったが、シャローネの怒りの表現に一役買ったのは間違いなかった。
「いいからッ、さっさと朝ご飯食べろって言ってんのよ! 昼も夜も抜きにするわよ!」
「ひぎゃー!」「大地の怒りだ!」「怒っても隆起しない地平線だけどね〜」「笑えるね」
「こらッ、マジで抜きにしてやるわよ! 覚悟してなさいそこの脱兎四人衆!」
煙を噴き出しそうな勢いでぷんすかしたのち、シャローネはその幼い顔を俺に向けた。
「ほら、あんたもいつまで寝てんのよ。さっさと起きちゃって」
「はいよ」
俺は返答しながら立ち上がったところで——ぐらりとバランスを崩す。
「ちょっ……!」
そしてシャローネが驚いたように声を上げ、慌てて俺の体を支えてくれたのだった。
「悪いなシャローネ、助かったよ」
「わざとじゃ……ないのよね?」
「これがわざとなら、俺は舞台俳優になれると思わないか?」
「じゃあ……もうちょっとだけ休んでなさいよ。無理しないで。お願いだから」
シャローネは気遣うように呟くと、俺を孤児院の縁側に連れて行き、寝かせてくれた。
それからシャローネ自身もその場に崩して座り、その膝に俺の頭を乗せる。
「……膝枕なんかしなくていいんだが」
「いいから黙ってて」
有無を言わさぬ口調に押され、俺はされるがままとなった。
シャローネの生足の感覚が、口には出せないが心地良かった。
そんな癒やしの時間が幾ばくか続いたところで、俺は調子を取り戻す。頭を起こす。
「もういい。組み手を再開しよう」
「ホントにもう平気なの?」
心配するようなその言葉に頷き返し、俺は孤児院の前庭に移動する。
「ああ平気だ。だからやるぞ。復帰のためだ」
「——だったらよォ、その組み手、オレとやるってのはどうだ?」
不意に差し込まれた男の声。
ハッとし、孤児院の門前に目を向けると、そこには——アッシュグレーの髪の毛が特徴的な、一人の青年の姿があった。
荒んだ笑みを俺に向け、青地の軍服じみた制服をなびかせつつ歩み寄ってくるそいつ。
知らぬ仲ではなかった。かといって親しくもないそいつは、
「なァんで生き延びちまったかねえ? あの戦線で大人しくくたばってくれてりゃあ、オレとしては万々歳だったってのによォ。なあ、悪運のつえー死に損ない野郎が……ッ!」
そう言っていきなり、ナイフを構えて突っ込んできた。
「テアっ、避けて……!」
突然の襲撃にシャローネが悲鳴の如く叫ぶ中——
俺は奴のナイフ特攻をいなし、その腕を掴み上げ、ナイフをはたき落とした。
「んだよ、弱体化したって聞いたが、この程度ならまだ対処出来んのかよ。まあ技術と経験は残ってるわけだしな、当然ってところか」
「なんのつもりだ、ガレッシャーノ」
俺はそいつ——かつての同級生、ガレッシャーノ・エルバルドーレに対して問い詰めるように尋ねた。
帝都葬撃士養成所という学び舎において、ミヤ教官の担当クラスに俺たちは共に居た。そして俺が常にナンバーワンの成績を収め、こいつは常に二番目の立場にあった。関係性としてはそれだけだが、こいつに言わせればそれだけで済む話ではないらしい。
「なんのつもりかって? そりゃお前、決まってんだろ? ミヤセンセーを庇って弱体化しちまった若き英雄テア・フォードアウトくんを嬲ってやろうと思っての訪問だ」
「お前……」
「いい気味だなあ、テア。やっと転がり落ちてきやがった。待ち侘びたぜ」
気分良さげに笑いながら、ガレッシャーノは俺の手を払い、ナイフを拾い直す。
「今のテメエから学べることが一つある。それは要するに、いつまでも一等賞じゃ居られねえってことだ。なあそうだろ? あれだけ強かったテメエが、今じゃそこの小娘にも心配されるほど弱っちまってよォ……哀れだな? 惨めだな? だから無駄に復帰とか目指すのはやめて、ここでオレに引導を渡されて引退しちまう、ってのはどうだ?」
——一位と二位。
——学生時代のヒエラルキー。
それを引きずり、あまつさえ拗らせ、ガレッシャーノは根に持っている。
俺に対する執着、粘着。
長年続くそんな自分勝手な恨みを、俺が弱体化した今を好機と捉えて晴らそうとしているのだろう、こいつは。
なんで朝っぱらからこんな面倒事に巻き込まれなきゃいけないんだ……。
「さあテア、構えろよ。素敵な朝の時間に真っ赤な色添えをしてやっからよ。もちろんテメエの血でな?」
「……お前は今、皇族家の近衛精鋭部隊《パラディンズガーデン》の一員だろう?」
エステルド帝国のシンボルである《双翼の盾》が胸元に刺繍された、軍服じみた青い制服がその証拠だ。
「だからどうした?」
「曲がりなりにもエリートのお前が、こんな問題行動を起こしてしまっていいのか?」
「おいおい、オレを気遣ってる場合か?」
半笑いでそう言ったかと思えば——
「そういうところがムカつくんだよ」
笑みを潜めて、ガレッシャーノは額に青筋を浮かべた。
「強者の余裕なのか知らねえが、テメエのそういう態度がいつもオレを逆撫でる」
「ああそうか、そいつは悪かったな」
「どうしてテメエは今もまだ調子に乗っていられんだ?」
目を細め、睨み、ナイフを握る手にだんだんと力が込められていくのが分かる。
「今や協会のお情けで《七翼》を維持してるだけの雑魚がオレを気遣ってんじゃねえよ。雑魚は雑魚らしく恐れおののいとけって話なんだよ。分かるか?」
「分からないな」
「テメエ……」
「確かに今の俺は雑魚だが、じゃあお前が強者かと言えばそれは違う。お前は中途半端なままだ。俺の弱体化と引き換えにお前が強くなったりはしないわけだからな。お前に恐れおののけって言われても、どこを恐れおののけばいいんだ? 教えてくれよ」
朝の時間を穢されて、俺はあまり良い気分ではなかった。苛立っている。だから皮肉げにそう言ってやった結果、その言葉はガレッシャーノにクリティカルヒットしたようで、
「教えてくれって? あぁいいぜ? ハナからそのつもりだ……弱体化したテメエをズタズタのボロ雑巾みてえにするために、オレはわざわざここに来てやったんだからな。今更泣き喚いても許してはやらねえぞ? あの世で後悔しとけやッ!」
ナイフを逆手に持って、ガレッシャーノは身を沈めた。
——臨戦態勢。
それを見たシャローネが、看過出来ないと言わんばかりに駆け寄ろうとしてきたが、
「来るな」
「なんでよっ! その人はあたしより格上の《五翼》でしょ! 今のテアじゃ敵うはずが——」
「いいから、黙って見てろ。子供たちが庭に出ないようにそこで見張っとけ」
子供たちがいつの間にやら縁側に集まり、野次馬と化していた。
ガレッシャーノが鋭い笑みを浮かべ、
「穢れた血のガキどもが、テメエの死に様を見届けてくれるみてえだな?」
「お前の負け姿を見に来たんじゃないか?」
「——抜かせッ!」
その言葉が戦闘開始の合図であるかのように、ガレッシャーノが始動した。
消える。それまでの姿が蜃気楼だったかのように、跡形もなくなった。
しかしそれは当然、本当に消えたのではなくて、足の運びに重きを置いた縮地術で素早く移動しているだけの話であって——
つまり、
「——死ねやッ!」
こんな風に奇襲されたところで、その瞬間に縮地術による素早さは攻撃のために一旦減衰される。よく観察し動きを読めば、真正面から殴られているのと大して変わらない。だから俺はそのナイフ攻撃を、ガレッシャーノの手首を掴んで軽々と防ぎ止めた。
「なッ……!」
ガレッシャーノが愕然とした表情を浮かべる。
「テメエ……なんで今のが見切れる……ッ!」
「答えはお前がさっき自分で言ってただろ? 俺には技術と経験が残ったままなんだよ」
確かに俺は弱体化した。どうしようもなく弱ってしまった。だが俺が俺という意識を保っている以上、そこにはこれまでに培ってきた技術と経験が残ったままなのは明白。
しかし技術と経験は残っていても、俺からは膂力と体力が失われた。
要するに継戦能力が欠けている。
戦闘が長引けば長引くほど俺は不利になる。
シャローネとの組み手で最後はバテバテになってしまったことからもそれは明らかだ。
けれどそれは逆に言えば——
「今度は俺のターンな?」
ペース配分などを無視して最初から全力を注いでも構わないのであれば、俺はまだ雑魚に分類されるほど落ちぶれちゃいない。
ガレッシャーノの手首を掴んだまま、俺はもう一方の手で拳を作り——
振り抜く。
全盛期には遠く及ばないが、それでもなお瞬間的な威力と速さだけは保証された拳。
それがガレッシャーノの顎を捉え、そのまま脳まで揺らしたようで——
「ぐっ……」
からん、とガレッシャーノがナイフを落とし、その場にふらりと跪いた。
やったーっ! とシャローネと子供たちが沸き立つ。
しかしガレッシャーノが歯を食いしばり、立ち上がり——
「まだだ……ッ!」
そう言って徒手空拳で攻めてきたが、そんなモノは冷静に回避したのちにカウンターの一打を顔面にぶち込んでやった。
「ぐぶっ……!」
鼻血を撒き散らし、ガレッシャーノが仰向けに倒れる。
俺はガレッシャーノを見下ろし、
「もういいだろ?」
「ま、まだだ……こんなことがあってたまるか……弱体化したテメエなんかに、このオレが拳一つで負けるはずが——」
「——負けたのだよ、お前は」
そのときだった。
威厳ある一つの声が孤児院の庭に響いた。
「ガレッシャーノ、お前は《パラディンズガーデン》の面汚しだ。謹慎処分を言い渡す」
気が付けば、孤児院の前に一台の馬車が停まっていた。そしてそこから、二人の人間が降りてくるところだった。
二人のうちの片方は、同い年の葬撃士である銀髪少女のエルザ。
そしてもう一人は、岩のような屈強な体躯を持つ壮年の男性だった。今しがた声を発したのは言うまでもなくこちらだった。
撫で付けた金髪。彫りの深い目元には影が差し込んでいる。着用している衣服はガレッシャーノと同じモノで——すなわち、《パラディンズガーデン》の制服だった。
「もしやあなたは……」この眼前の男、俺の記憶が確かならば——。「《パラディンズガーデン》隊長、ジルセイド・ワグナー卿……」
「ほう。直接顔を合わせたのはこれが初めてのはずだが、私の情報は既知であったか。いやはや、誉れ高き《七翼》の怪童に名を知ってもらえているとはありがたい。——それはそうと、済まぬな。部下が迷惑をかけた」
落ち着いた口振りで、ワグナー卿が俺に応じてくれた。
皇帝陛下直属の近衛精鋭部隊《パラディンズガーデン》隊長、ジルセイド・ワグナー。
名門・ワグナー伯爵家の当主にして、腕も確かな《七翼》の葬撃士だ。
ワグナー卿は再びガレッシャーノにその目を向けると、怒りの表情をあらわにし、
「今一度告げよう。ガレッシャーノ、お前を謹慎処分として罰する。私怨を晴らすために弱ったテア・フォードアウトを襲撃しただけでも愚かだというのに、返り討ちとはな」
「ま、待ってください隊長!」
ガレッシャーノが焦ったように口を開いた。ワグナー卿には逆らえないらしい。
「オレはオレという個人でテアに挑んだだけであって、《パラディンズガーデン》の看板を背負ったつもりはねえですよ! それなのに謹慎処分は重過ぎやし——」
「その制服を着ながら行動している時点で、お前は《パラディンズガーデン》の看板を背負っているのだと自覚しなければならない。その自覚すらなかったのであれば、もはや呆れざるを得ないというもの」
ワグナー卿は厳格な雰囲気を滾らせ、ガレッシャーノを睨んだ。
「これ以上、私を失望させるな。分かったのであれば今すぐ馬車に入れ。良いな?」
「わ、分かりました……」
ガレッシャーノは口惜しげにうつむきながらも、ナイフをしまって歩き出す。その最中に一度だけ俺を振り返ったかと思えば、
「……覚えとけよ」
「無駄口を叩くな!」
ワグナー卿の一喝がすぐさま飛び出し、ガレッシャーノはビクつきながら馬車へと逃げ込んでいった。その様子を見届けたワグナー卿が、やれやれと言わんばかりに首を振り、
「まったく……改めて謝罪させてくれテア・フォードアウト。あやつが迷惑をかけた」
「いえ、気にしてはおりませんので」
そんなやり取りをよそに、エルザが俺のもとに歩み寄ってきた。そしていきなり俺の手を掴んで自分の胸を触らせようとする奇行に走り始めたので、その頭をチョップした。
「……痛い。でもテアに痛みを与えられるのは快感」
「相変わらずだな……で、お前は何しに来たんだよ」
「わたしはワグナー卿をここまで案内してきただけ」
(そういえば……)
……ワグナー卿がここまでやってきたのはなぜだ? 部下のガレッシャーノを咎めに来た、とは考えにくい。幾らなんでもこんなにも早くガレッシャーノのやらかしが伝達されるのはありえない。ワグナー卿は元々ここに何か用事があって、たまたまこのタイミングでの訪問になった、ってところだろうか……?
そう考えつつ、ワグナー卿に訪問の理由を尋ねる。
「ところでワグナー卿、あなたほどの方が自らこのような僻地まで足をお運びになられるとは、一体何事でしょうか?」
「何を隠そう、君に用があるのだ、テア・フォードアウトよ」
「俺に、ですか?」
「ああ。それゆえ、君と親交があるというエルザに、君の居そうなところを案内してもらったというわけだ」
「失礼ですが、エルザとはどういったご関係で?」
「平民に嫁いだ姉の子供。つまりエルザは私の姪にあたる」
「……エルザお前、貴族の血が入っていたのか?」
単なる変態ではなかったらしい。まあ確かに黙っていれば高貴に見えなくもないか。
「えっへん。テア、わたしと子作りしたくなった?」
「ならないからな?」
無表情に胸を張ったエルザに釘を刺しつつ、俺はワグナー卿を改めて見据えた。
「お越しになった用件を教えていただけますか?」
「単純な話だ。私は君を、《パラディンズガーデン》に誘いたいと考えている」
「……え?」
あまりにも予兆のない、それはまさに唐突と言える話だった。
「君とサミュエルくんの件、私は当然ながら既知だ。サミュエルくんを庇い、君は名誉の負傷により万全の力を失った。遅ればせながら、まずはその勇気ある行為を存分に称えさせていただこう。君は素晴らしい帝国人だ。同じ国の者として誇りに思う」
「それは……もったいなきお言葉、ありがとうございます」
「もちろん、君の力が失われたことは非常に残念でならない。しかしだ、君にはこれまでに培われてきた戦闘技術と実戦経験——すなわち、史上最年少で《七翼》にまで上り詰めた天賦の才能が残されている。そして、その才能が死んではいないという事実を、君は今しがたガレッシャーノを打ち倒すことで示してくれた。素晴らしい手際だった」
ワグナー卿はちらりと馬車に目をやり、
「図らずも、あやつの暴走は一応の役には立ったということになるな。弱体化し、それでもなお葬撃士としての高みに君が君臨し続けているという現実を、その身をもって証明してくれたわけだ」
まあいずれにせよ、と言葉を区切り、ワグナー卿は締めくくるようにして続けた。
「私が言いたいことは単純にして明快。もし今後の進路が決まっていないのであれば、是非とも我らが《パラディンズガーデン》に特別名誉顧問として加入してもらいたい。君がこれまでに培ってきたモノを、我が隊員たちに教授してもらいたいのだよ。お願い出来ないだろうか?」
ワグナー卿はそう言うと、俺の返事を待つかのように、目を閉じて佇み始めた。
「……」
俺は考える。それはきっと、とてもありがたい誘いに違いなかった。
《パラディンズガーデン》は、皇族家とその城を守護する近衛精鋭部隊だ。葬撃士ならば誰でも歓迎、というわけではない。皇族家の守護者となるからには、当然ながら強者でなければならず、最低でも《四翼》以上、そして帝国出身者のみ、という甘くはない入隊条件が課せられている。
そんな特別部隊に加入出来るとなれば、それは帝国人にとって最高の名誉。まして入隊希望者が多いにもかかわらず、向こうの隊長じきじきに、それも特別名誉顧問という俺専用の椅子まで用意した上で誘いに来てくれるのはありがたいにもほどがある。
だが、俺にとってこの誘いは受けるべきものではなかった。
「ワグナー卿、誠に僭越ながら、俺はその話を辞退させていただきます」
「なるほど。理由を伺っても構わぬか?」
「俺は葬撃士への完全な復帰を考え、実際に目指しています。だからです」
「悪魔どもの殲滅が、君の夢であったか」
「ええ、そしてミヤ教官のためにも、俺は葬撃士への復帰を目指さなければなりません」
「戦地にて再び剣を振るうことが、今の君の目標というわけだな?」
「その通りです。ワグナー卿自ら足を運んでいただいたにもかかわらず、このような返事しか出来ず申し訳ございません。ですが、何卒ご理解いただきたく存じます」
「承知した。そういった事情ならば確かに、むやみに誘うわけにはいかぬというもの」
ワグナー卿はどこか清々しく笑うと、俺の傍に歩み寄ってきて、その分厚い手のひらを俺の肩に置いてくれた。そして、熱意のこもったエールをくれる。
「頑張れ若人。私は君の復帰を心より祈らせていただく」
「ありがとうございます」
「しかし復帰への懸念があるとすれば、その継戦能力だろうか」
「そうですね。体力不足の影響で、近接戦のスタミナは短時間しか持ちませんから」
「だが、君ならばそんな懸念すら打破出来ると信じている。《パラディンズガーデン》への誘いを蹴るからには、必ずや葬撃士の最前線へ復帰してみせよ、テア・フォードアウト」
「はっ。双翼の盾に誓って、必ず」
「うむ。しからば私はこれにて失礼させていただく。急な訪問、済まなかったな」
ワグナー卿は俺たちに目礼しつつ、馬車に戻っていった。
そうして馬車が走り去った一方で、シャローネが子供たちを食堂に戻してから、俺の傍にやってきた。
「《パラディンズガーデン》への誘い、ホントに蹴っちゃって良かったの?」
「いいんだよ。そこは目指すべきところじゃないからな」
「そう? まあテアがそう言うなら、あたしから言うことは何もないわね。ちょっともったいない気もするけど。それにしても、あたしとの組み手のときは手を抜いていたわけなのね。ホントはまだあんなに強かっただなんて……」
シャローネは少しふてくされていた。
「それは誤解だ。お前との組み手ではペース配分に重きを置いていただけなんだよ。別に手を抜いていたわけじゃない」
「……そうなの?」
「ああ。またやる機会があれば、そのときは本気でやってやるよ」
「約束だからね?」
その言葉に頷いた俺は、それからエルザに目を移し、
「ところでお前、ワグナー卿行っちまったけどいいのか?」
「別にいい。ただ案内を頼まれただけで、ここからは自由」
「そうか」
「ん。それより、《パラディンズガーデン》の隊員に勝ってしまうだなんて、テアはすごい。テアがまだ強そうでひと安心。わたし、ムラムラしてきた」
「うん、なんか沸き立つ感情がズレてるよな?」
でもこれがエルザという少女なのだから、もはやどうしようもない。
「ところでテア、あんたのこれからの予定は?」
と、シャローネが尋ねてきたので、俺はあくびを噛み殺しつつ応じる。
「今日の予定なら、これから教官の家だな。今日から使用人として教官の家に住み込みながら復帰を目指すことになっててさ」
使用人……? と首を傾げるエルザの隣で、シャローネはキョトンとしていた。
「は? 何よそれ……あんた、ミヤさんに養われるヒモになるってこと?」
「ち、違う! ヒモじゃない! サポートしてもらうだけだ!」
「ど、どういう経緯でそうなったのよっ!」
「なんか……復帰を目指すなら私の目の届く範囲で鍛錬しなさいって教官に言われてさ」
「だ、だからミヤさんと一緒に暮らすってこと? やっぱりヒモじゃん!」
「断じてヒモじゃない」
その称号だけは意地でも受け取ってやらない。
「い、一緒に暮らすだなんて不純だわ! テアの変態! 不埒者!」
「なんでだよ……俺が望んでそうなったわけじゃないんだぞ?」
そんな感じにシャローネから責められる一方で——
「テアに質問。わたし、ミヤの家に付いてっていい? 今日お休みだから」
エルザが急にそんなことを言い出した。俺はがるると唸るシャローネをいなしつつ、
「ま、まあ、別にいいんじゃないか? 誰も連れてくるなとは言われてないしな」
「うぅ……あたしも任務さえなければ付いていきたいんだけどっ!」
「任務、頑張って」
「あんたに応援されたって何も嬉しくないのよ! この変態女!」
「褒めても何も出ない。母乳は出るようになりたい」
「……朝っぱらから何言ってんだよ。ほら、さっさと行くぞ。じゃあなシャローネ」
そんなわけで、俺はエルザと一緒に孤児院からの移動を開始した。
「見えてきたな、教官の家が」
「二六歳独身女の家」
「その表現はやめろ」
田んぼに取り囲まれた帝都の郊外を歩きながら、俺は同い年の葬撃士であるエルザとそんな会話を交わしていた。エルザは相変わらず無表情だった。
ともあれ、正面にはミヤ教官の家が見え始めている。
教官の家は、その実績に見合わない街外れの小さな平屋だ。駆け出しの頃のハングリー精神を忘れないために、今もまだ同じところで暮らし続けているらしい。真面目な教官らしいと言えばらしいだろう。
やがて教官の家の玄関にたどり着いた。
試しにドアを開けようとしたが、施錠されていた。
昨日退院した際に合鍵を預かっているので、俺はそれで鍵を開けることにした。
「鍵が閉まってるってことは、ミヤは寝てる?」
「多分な。俺の退院に伴って昨日から任務を再開したらしい。昨日は夜間の任務だって言ってたし、遅くまで活動してたんじゃないか?」
「任務再開ってことは、ミヤは四六時中テアを見張るのはもうやめた?」
「とりあえず、ここでの生活をベースに動いてくれれば、入院生活のときみたいな監視はもうしないってよ」
教官としてはとにもかくにも、自分の管轄内に俺が居て欲しいのだろう。それは俺の復帰を邪魔したいがためではなく、純粋に俺を見守りたいがために。
「そういえば、使用人として暮らす、みたいなことを言っていたのはなぜ?」
「教官がそうしなさいって言ってきたからだ。まあ恐らくはこの家への拘束時間を増やしたいんじゃないか? 掃除とかやってりゃ自然と家に居る時間は増えるだろうしな。あとはまあ、使用人の役目もこなせないようじゃ復帰なんて遠いぞ、ってメッセージか」
実際、使用人も出来ないような奴が葬撃士として活躍出来るわけがない。だから使用人であることにも全力で取り組んでいきたかった。まあ教官の理想は『俺に何もさせず、ただ養うこと』らしいが、俺がそれを断ったからこういう形で落ち着いたってことだよな。
「とりあえず、中に入るか」
俺は玄関を開けて、エルザと一緒に教官の家に入り込もうとする。
「テア、ミヤの家に入ったことはどれくらいある?」
「そんなにないぞ」
野暮用で数回ほど訪れたことがあるだけだ。しかもいずれも玄関止まりで、この先に踏み込んだことは一度もない。ちゃんと中に入るのは今日が初めてになりそうだった。
「わたしも実はない」
「やっぱり滅茶苦茶綺麗に片付いてるんだろうな」
真面目でしっかりとしている教官のことだ、床はテッカテカのピッカピカで塵一つ落ちていないのは確実だろう。窓も呆れるほどに磨かれていて、もはや鏡かってくらいに室内を反射しているのは間違いない。洗濯物なんかは律儀なぐらいにきちんと畳まれ、とんでもなくいい匂いを発しているんだろうな。
そんな風景を想像しつつ、俺たちは早速上がらせてもらうことにした。
そして三〇秒後——まだ教官が起きてきていない居間に足を踏み入れた瞬間、
「マジか……」
俺の幻想は打ち砕かれた。
「汚い」
エルザがぽつりと呟いた通り、教官の家は汚かった。汚いというか、散らかっている。ゴミが散乱しているわけではないが、衣服が脱ぎ散らされていたり、キッチンに使用済みの食器が溜まっていたりして、世間がこれを見たら教官のイメージが少し崩れてしまうんじゃないかってほどである。
「ミヤは片付けられない人?」
「……かもしれないな」
他人の前では色々としっかりしている教官だが、その反動で自分には結構甘いのかもしれなかった。よくもまあ俺をここに招こうという考えに至ったものだ。幾ら俺を見守りたいからといって、この汚れ具合を俺にさらけ出してしまっていいのだろうか。見られて恥ずかしくはないのだろうか。
ともあれ、俺はエルザと一緒に掃除を開始した。脱ぎ散らされた衣服を洗濯し、使用済みの食器を洗い、溜まった古新聞をひとまとめにして燃やし、食い散らされたかんづめを潰し、突如現れたGを始末し、油っぽい床を磨き、汚れで曇った窓を拭いた。
そうして小一時間ほどかけて、人が住むにふさわしい環境をどうにか取り戻す。
そんな折、寝室の方から物音——。どうやら教官が起床したらしい。
「テアと二人きりがいいから、ずっと寝ててくれて良かったのに」
お前な……、と俺はエルザに呆れる。
その一方で、寝室のドアを開く音、それに続いて足音がこちらに迫ってきて——
「あら……もう色々とやってくれていたのね」
あくび混じりにそう言いながら、教官が姿を現したその瞬間、
「——いっ……!」
俺は思わず変な声を発してしまった。目を疑う光景が視界に飛び込んできたからだ。
「なんでミヤ、全裸なの?」
エルザの言う通りだった。寝ぼけまなこをこすりながら居間にやってきた教官は、なぜか裸だった。束ねられていない赤い髪が美白の双丘を覆い隠しているが、下腹部の方はあまりガードされておらず——
「それ以上見ちゃ駄目。目が肥える」
エルザが背後に回ってきて、俺の目元を手で覆った。見たかったが……でもナイスだ。
「……あれ? なんでここにエルザが居るの?」
教官からすると、そこがまず一番不思議な部分だったらしい。俺に言わせれば、一番不思議なのは教官が全裸で起きてきたことなんですけどね。
「なぜここに居るのか。それはテアに同行を求めたら、テアが許可してくれたから」
「ねえテアくん、家主じゃないのに許可を与えるって、それはどうなのかしら?」
「だ、駄目でしたか?」
「まあ……連れてきちゃったものはしょうがないから、今回だけは許してあげるけど」
寛大な心で許してくれた教官に、エルザが切り込む。
「ところでミヤ、露出の快感を得たいのかもしれないけど、さっさと服を着ることをオススメする。このままじゃテアの目がいつになってもオープン出来ない」
「……服? ——あっ……!」
そう言ってようやく、教官は自分が全裸であることに気付いたらしい。
頬を赤くする気配が、視界真っ暗闇状態でもしっかりと伝わってきた。
「こ、これは違うのよ! 露出の快感を求めているとかじゃなくて、私、寝相悪くてたまにこうなっちゃうのよね……い、急いで何か着てくるわ」
廊下を引き返していく足音が聞こえて、それと同時に俺の目が解放された。
俺の正面にエルザが回り込んできて、無表情に両手を小さく振り始める。
「わたしがママ」
「俺は目を開いたばかりの雛鳥じゃないからな? 何も刷り込まれないからな?」
意味不明な行動はやめていただきたい。
そうこう言っているうちに、教官が居間に戻ってきた。今度こそいつもの格好で、青少年の目にも優しかった。いや、これはこれで胸元がひらいていてあれなんだが。
「ねえエルザ、改めて聞くけどなんでエルザが私の家に居るの?」
「テアが許可してくれたから、ってさっき言った」
「そうじゃなくて、エルザが私の家に来ようと思った動機はなんなの?」
「テアとミヤの同棲を邪魔してやろうと思って」
「……素直でよろしいわね」
教官が呆れたように息を吐いた。
「あのねエルザ、これは別に同棲とかじゃないのよ。テアくんの復帰を危なげなくサポートするためのシステムなわけ。分かる?」
「つまりいやらしい意味はないの?」
「ないわよ」
「じゃあここでわたしとテアがいやらしいことをしても問題なし?」
「それは問題しかないからね? ほんと……あなたって子は誰に対してもそういう態度でいられるのだけはすごいと思うわ」
教官さえも手を焼く存在、それがエルザである。
「ところでテアくん……その、早速掃除をやってくれたみたいね? 助かったわ」
教官は多少恥じらうように言った。
その恥じらいは多分、散らかり具合を見られたことに対して、なのだろう。
「だいぶ散らかっていたでしょ? ごめんね……見苦しかったと思うし、謝っておくわね」
「謝るよりも、まずは改善を頼みますよ教官。俺はちょっと動揺しただけであとはなんとも思いませんでしたけど、見る人が見ればイメージダウンですからね?」
「承知しているわ……でも、テアくんが最終的になんとも思わなかったのなら、私としては別に、他の人にどう思われようと……」
「え?」
「な、なんでもないのよっ。そ、それよりほら、朝食をお願い出来るかしら……?」
「は、はい……お任せを」
なんだか嬉しいことを言ってくれていたような気がするが、まあ空耳だろうか。
俺は意識を切り替えて、朝食作りに取り掛かることにした。
キッチンに出向いて、北方の万年氷によって冷やされた冷蔵室を開ける。
すると食材はめぼしいモノがあまりなく、卵やハムが最低限並んでいる程度だった。
基本的には外食がメインで、料理はろくにしないって感じの冷蔵室だ。
そういや教官の料理姿って見たことがないけど、上手なんだろうか?
そんな疑問を抱きながら、俺は卵を幾つか手にしてキッチンへ戻った。
「手伝う」
しゅばっ、と真横にやってきたエルザが、俺の手から卵をぶん取った。
「おい」
「任せて。わたしという女の本気を見せてあげる。ミヤへの牽制も兼ねて」
そう言ったかと思えば、マイペースなエルザとは思えない手さばきでボウルに卵を割って入れ、掻き混ぜ始めた。それからフライパンに油を垂らし、ガスを火に変換する調理用加熱器の上にそのフライパンを乗せた。
手際の良さはそこからも衰えず、やがて完成したのは見事に半月型のオムレツだった。
俺は使用人としての仕事を完全に取られた形である。何してくれるんだよ、まったく。
「お待ちどうさま。是非とも食べて欲しい」
その後、椅子に座らされた俺と教官の前に、オムレツの皿がことんと置かれた。
「へえ……見事なものね」
感心と、他にも何か別の感情がこもっていそうなひと言を、教官は口に出した。
「じゃあいただくわ」
教官がナイフとフォークを手に取って、オムレツを切り崩し始めた。
俺も同じようにエルザ手製のオムレツを食してみる。
「これは……旨いな」
中身が半熟でとろとろだった。単なるプレーンオムレツだというのに、次のひと口を無性に渇望してしまう魅力がそこにはある。
「ええ、これは素直に美味しいわね……」
教官も褒めているが、しかしそこにはやはり、絶賛したくはない、という想いが込められているように感じられた。
思うに、教官は掃除が苦手なのだから、なんの捻りもなく料理だって苦手なのかもしれない。だからこそ、料理上手という意外な一面を見せてきたエルザに、少し悔しさを感じているのかもしれなかった。
「もっと褒めてくれて構わない」
対するエルザはいつも通りの無表情ながらも、どこか勝ち誇っている感じがした。
そんな感じで、悔しがる教官、勝ち誇るエルザに挟まれつつ、ちょっと微妙な雰囲気のまま、朝食タイムは過ぎ去っていった。
その後、教官はフリーランスの葬撃士として、仕事に出かける準備を始めていた。愛用の小型二丁銃剣を手入れして、今日こなすべき悪魔狩りの依頼書に目を通している。
「ミヤ、これから仕事?」
「そうよ」
「じゃあミヤが仕事に行ったあと、ミヤの寝室でテアと一緒に寝てもいい?」
「逆に問うけど、なぜそれが許されると思ったの?」
教官は呆れ顔でエルザを見つめていた。俺も呆れざるを得ない。エルザの思考回路が桃色じゃなくなるのは任務のときぐらいだからな。もう少しどうにかしろよ真面目に。
「そもそもよ? エルザはこれから私と一緒に家を出ることになるから、そんないかがわしい真似は出来なくなるわよ」
「? どういうこと?」
「今日エルザはお休みなんでしょ? そんなエルザに頼みごとがあるのよね」
教官はそう言うと、エルザに近付いて耳打ちを始めた。……なんだろう? 気になる。
「……ということなんだけれど、頼めるかしら?」
「そういうことなら任せて欲しい。龍の背中に乗ったつもりでOK」
「頼もしいわね」
教官とエルザだけの秘密らしい。まあ女性には色々あるしな、踏み込まないでおこう。
「じゃあ色々と巡ってみる必要がありそうだから、わたしはもう行く。テア、バイバイ」
「ああ。なんか知らんけど気を付けてな」
そう告げてやると、エルザは小さく手を振りながら教官の家をあとにした。
「じゃあ私もそろそろ仕事に行ってくるわね。——あぁそうだ、テアくんの今日の予定を一応聞かせてもらえる?」
「今日はこの周辺を走って過ごそうと思います。まずは体力を増やしていかないと」
「それならあまり心配しなくて良さそうね」
教官は腰元にポシェットを巻き付け、出かける準備を完了させる。
「じゃあ行ってくるからね。無理は禁物よ?」
「了解です」
「本当に分かっているの? もし無茶したら、強制養い体制に突入するからね?」
「わ、分かってますよ……」
強制養い体制とは要するに、俺の復帰鍛錬を一旦打ち止めにし、教官の手厚い庇護下で俺をヒモ化させる、ということだろう。
教官はしばし、俺を疑うようにジーッと眺めていたが、
「ま、信頼しておくわ。それじゃ、仕事に行ってくるからね」
そう言って出かけた教官をよそに、俺はホッとしながら鍛錬を開始したのである。
復帰への鍛錬をこなしているうちに、夕方を迎えた。
外を走っていた俺が教官の家に戻ると、ちょうど教官も帰ってきたところだった。
「あ、教官もお帰りですか? こういう偶然ってなんとなく嬉しいですよね」
「そうね」
同意の言葉ではあったが、淡々としていた。どこか静かに怒っているようだった。
気にしつつ、俺は教官に続いて家の中に入り込んで、居間へ。
「ところでテアくん、エルザがまたここに来たりしてない?」
「エルザですか? 少なくとも俺は見てないですよ……というか、再来訪の予定が?」
「ちょっとね。まあ来てないなら別にいいの。今はまだ気にしないでちょうだい」
今朝の耳打ちに関連しているのだろうか。
「ところでテアくん」
二回目の、ところでテアくん。
今度のそれには、何かを咎めるようなニュアンスがふんだんに込められていた。
「聞いたわよ? テアくん、今朝ガレッシャーノと戦ったそうね? どうしてそんなことをしたの? 目の届かないところで無茶はしないで、って改めて言わせるつもり?」
……なるほど、静かな怒りはそれが原因だったらしい。
「しかも君はそれを報告しなかった。怒られるとでも思ったのかしら?」
「正直に言えば、そうです……怒られると思って」
「言わなかったせいで、もっと怒られるってことを理解しなさいね?」
元教官職で、先の戦いでは現場指揮官。
人の上に立つことが多い教官は、注意の仕方ひとつ取っても迫力がある。下の者に舐められないよう、そこに関しては相当努力したのだと思う。
「……すみません、でした……」
「今度からきちんと報告しなさい。君は今、無茶出来ない体なんだから。ね?」
冷淡だったかと思えば、いたわるような優しい言葉。そんな態度に救われる。
教官は普段の冷静さを取り戻しながら続けた。
「まあでも——……結果的にガレッシャーノには勝ったそうね?」
「はい……でも完全に卒倒させたわけではないので、仮に継戦していたらどうなっていたか分かりません」
「でもガレッシャーノは《五翼》だもの。生半可な相手ではないわ。そんな相手からダウンを奪えたというのは、テアくんの現状を考えればかなりすごいことよね」
教官はそう言うと、少し考え込むように目を伏せた。
「ねえテアくん」
「はい?」
「私は君にもう少し自由を与えるかもしれないわ」
「え?」
「詳細はあとで説明するわね?」
「は、はあ……」
いきなりのこと過ぎて何も分からないが……もう少し自由を与える、というその発言はかなり気になる。覚えておこう。
「ええと……じゃあ俺はそろそろ、夕飯を作らせてもらおうかと」
俺は使用人でもあるのだ。朝はエルザに任せてしまったが、夜こそは俺が——
「——待ちなさいテアくん」
しかしそのとき、教官に待ったをかけられてしまった。
「夕食、私に作らせてもらえない?」
「え? それはなんでまた急に……」
と言いかけて、俺は口を閉ざした。
理由なんて聞かなくても分かった。今朝のエルザに触発されたのだろう。教官は意外でもなんでもなく普通に負けず嫌いだ。そんな性格だからこそ、女性葬撃士の中でもトップクラスのアタッカーとして成り上がれたわけで——
「ねえテアくん、いいかしら?」
「もちろんですよ、どうぞ。でも俺にも手伝わせてください」
「分かったわ。一緒に美味しい夕食を作りましょうね?」
そんなわけで、教官と共同で夕食を作ることになった。教官たっての願いで、メインディッシュはオムレツである。やはり今朝のエルザに負けたくはないらしい。
「テアくん、君はあくまでサポートね? 作るのは私がやるから」
「分かりました」
ということで、俺は教官のサポートとして尽力することになった。
でも教官の料理の腕前って真面目にどの程度なんだろうか。俺がサポートに徹していられるなら、そりゃ幾らでもそうしたいところではあるのだが……。
場合によっては結局俺が作ることになるんじゃないか、と考えつつ、俺は冷蔵室から卵を取り出してキッチンに戻った。
「教官、卵です」
「ありがとね。じゃあ早速割るから」
調理器具や調味料はすでに表に出している。
教官はボウルの縁に卵をコンコンと叩き付け始めた。しかしヒビすら入らない。
……卵を割るのすら手こずるほどに、やはり料理とは無縁だったりするのだろうか。
「あの、教官、もっと強くても大丈夫ですよ?」
「じゃあ……こうかしら?」
俺がアドバイスした直後、教官は武器でも振るうのかってくらいに素早く腕を振って卵をボウルに叩き付けた。ぱきゃっ、といい音が鳴ったのと同時、その中身が砕け散って俺の顔面に付着した。
「……」
「……」
つかの間、お互いに動けない無言の時間があった。
黄身と白身が顔を伝って垂れていく感覚を覚えつつ、俺はその沈黙をやぶる。
「教官……申し訳ないですけど、俺が作ってもいいですか?」
「だ、駄目……私がやるの。もう一度だけやらせて?」
「じゃあ……とりあえず、もう一度だけやってみてください」
恐らく教官は料理が得意ではないのだろうが、なればこそ一度の失敗で終わりにさせるのは駄目だろうなと思った。人は失敗を糧にして学んでいくのだから。
「ふぅ……集中集中。ちょっとお水を飲ませてもらうわね」
教官はそう言って、調理台の上にある硝子のコップを手に取った。そのコップの中にはすでに透明な液体が入っていて——
「——って、教官っ、それ水じゃないです!」
俺が慌ててそう告げるも、教官はすでにごくりと喉を鳴らしてしまっていた。
「え? お水じゃないの? ……確かにお水にしては苦いかなって思ったけど、じゃあこれって何かしら?」
「……料理酒です」
「——っ! ど、どうしましょう……」
教官が愕然とした表情を浮かべ始めた。
「ま、マズいわね……」
なぜお酒を飲んだことに対して大げさな反応を示しているのかと言えば、教官はアルコールを摂取すると良くない状態に陥ってしまうからだ。
お酒は教官を——変貌させる。
教官自身、それをきちんと把握しているから、そしてそれを恥と思っているから、常日頃からお酒を飲むような真似はしていない。
にも拘らず、今、誤って摂取してしまった。
だから教官は愕然としており——
そして俺は諦めの境地で、これから起こる出来事を大人しく受け入れるしかなかった。
「な、なんで料理酒がこんなところに……?」
「エルザが今朝、隠し味に入れていたのを見たんです……だから用意してました」
しかしこんな悲劇を引き起こすのだと知っていれば、俺は用意なんてしなかった。
教官の様子を確認してみると、顔が徐々に赤くなり始めていた。目も据わっていて、正気が失われ始めたのが分かる。
「あの……教官? だ、大丈夫ですか?」
「——……」
反応がない。
いや、教官は気分良さげにぽわぽわしていた。
これはもう……切り替わっている、と見て間違いなさそうだった。
「……——じゃあテアくん、料理を再開しましょうか?」
まるでなにごともなかったかのように、教官がそう言った。でもこの教官はもういつもの教官ではないのだ。顔が赤くなっただけじゃない。目が据わっただけじゃない。お酒を摂取した教官がいつもと決定的に違うのは——
——精神が徐々に、昂ぶっていくってことだ。
「あ、でも料理を始める前にお顔の卵を拭いてあげるわね。ごめんなさい、卵すら上手く割れない不出来な女で……こんなんじゃ、テアくんを養うことは出来ないわね」
「い、いや、養わなくていいので……」
俺の顔を拭き始めた教官は、なんだか妙なことを言い出しているが、まだ平常心に近いままだった。どうかこのままで居てくれ、と願うものの——
「はい、これでよしっと。綺麗になったわね。よしよし」
「ちょ、ちょっと教官、なんで頭を撫でるんですか!」
「テアくんが可愛いからかな? ——なんてね」
俺の頭から手を離し、教官は茶目っ気たっぷりに笑った。
その可愛らしさにどきりとしつつ、普段の教官との差異に冷や汗を流す。
酔った教官からは真面目さが消え。
からかうように。
甘やかすように接してくる。
まだまだ浅い変化だが、シラフの教官に言わせれば黒歴史量産体制への突入——。酒を飲まなくなった原因だというその人格が、その片鱗をだんだんと覗かせ始めていた。
「うーん、でもテアくん、なんだかちょっと卵の匂いがするかも。あとできちんとお風呂に入らないと駄目よ? あ、なんなら私と一緒に入っちゃってもいいんだぞ?」
「っ——え!」
「冗談だけどね?」
してやったように、いたずらっぽい笑顔を浮かべる教官だったが、
「でも本当に入りたいなら、あとで一緒に入ってあげてもいいのよ?」
「……っ!」
これもまた冗談だと理解しているが、教官スキーな俺にはたまらない囁きで。
そんな俺を面白そうに眺めつつ、教官は調理台の前に移動した。
「でもお風呂云々の前に、まずはオムレツ作りを再開しましょうね?」
「は、はい……じゃあまた卵を割るところからですね」
料理に戻ってくれたが、まだ酔ったままで、ここから更にヒートアップしていくことを考えると、教官の前ではまだ何も油断出来ない。
俺は酔った教官が嫌いではないが、主導権取られまくりで苦手と言えた。
「さあテアくん、今から君は私の先生よ?」
ほら早速おかしなことを言い出している。
「……俺が先生ですか?」
「そうよ。卵割りの先生」
「地味な先生過ぎやしませんかね……」
「でも先生は先生よ。ね? テア先生?」
ぐっ……教官から先生って呼ばれるのは、なんだか妙な背徳感が……。
「ねぇ先生、早く私に卵の割り方を教えてくださらない?」
俺の耳元でそう囁いたかと思えば——ふぅっ、と直後には息を吹き付けてきた。
「うぉっ……ちょ、ちょっと教官……!」
「あらいい反応。テアくんはお耳が弱いのかな?」
「そ、そんなのどうでもいいでしょうが! 早く割りますよ卵を!」
「は〜い。じゃあ改めて卵の割り方を教えてもらえる?」
「そりゃ教えますけど……でも教えるも何も、コンコンってやるだけですよ? 力加減さえ気を付ければ難しいことは何もないんです」
「その力加減がよく分からないから、後ろから手取り足取り指導してもらえると私嬉しいんだけどなあ。テアくんを養うためにね、私、料理上手になりたいの」
そう言って俺を誘うようにお尻をふりふり。
——まさか……後ろから手取り足取りってそういうことか。
後ろから抱きつくように指導しろってことかよ……!
「さあテアくん、熱血指導お願いね?」
「わ、分かりましたよ……」
無視出来ないし、実際そうするのが一番効率良く教えられそうだし、俺は頷いた。教官の真後ろに移動して、覆いかぶさるように密着し、教官の手に自分の手を重ね合わせる。 教官の臀部に俺の腰元がぴたりとくっ付いてしまい、多少動揺した。
「きゃっ……テアくんったら急に背後から覆いかぶさってきてどうしたの? 大胆なことをするのね……」
「あ、あんたがやれって言ったんでしょうが!」
「んふふ〜、そうでした」
そう言っておどけたかと思えば、
「なんか……ちょっと調子に乗っちゃったかもね……これ、意外に恥ずかしいわ……」
自分で誘っておきながら、いざ実際に後ろからガバッとされたら照れるらしい。
「じゃあ……ええと、離れましょうか?」
「そ、それはイヤっ。テアくんを養うために、ちゃんとこのまま教えてもらうから……でも、いきなりケダモノ化は駄目だからね?」
「で、ですから養わなくていいですって! それにケダモノ化だってしませんよっ!」
「どうだか。テアくんだって年頃の男の子だもの。心に獣を飼っているんでしょ?」
「飼ってません!」
「へえ〜?」
疑うような半笑いで、教官が俺を振り返った。
「こんな年上の女に惚れちゃう物好きなのに、心に獣が居ないの?」
「い、居ませんよ」
「まあそっか、テアくんは甘えん坊だものね? 牙を剥くような獣は居なくて当然よね?」
「誰が甘えん坊ですか!」
「でもこうするとほら、嬉しそうだもの。甘えん坊でしかないわよね〜? よしよし」
俺の頭を撫で撫でするミヤ教官。
もしかして俺は今、無意識に歓喜の表情を浮かべているのか……!?
「さあ甘えん坊のテア先生? 改めて私に卵の割り方を教えてちょうだいな?」
再び俺に背を向けて、教えを請う姿勢となったミヤ教官。
振り回されて少し疲れてきた俺は、教官早くシラフに戻ってくれ! と祈りつつ、教官への授業を始めることにした。
「ええと……まあとにかく、卵を割るのは何も難しくてですね」
俺は重ね合わせた手を動かして、教官の手に卵を握らせた。そうしてボウルの縁にコンコンと卵をぶつけ、ぱかっと割らせることに成功する。
「あら、あっけなく出来ちゃったわ」
「難しくなかったでしょう?」
「ええ、テア先生のおかげだわ。ありがとね」
振り向きざまの、ウィンク。そしてギュッ、と軽いハグ。
酔った教官ならではのスキンシップに俺はぐらりと来てしまう。
「あら、テアくんには過激だったかしら?」
「べ、別に過激とは思いませんけど……」
「それはつまり、もっとすごいことをやれって遠回しに言っているのね? きゃーテアくんってばいやらしい〜」
口では俺をなじるようなことを言いつつ、教官こそ俺の足に軽くタッチを図ったりしていやらしい。酔いは醒めるどころかどんどん回ってきているようだった。それに対して俺は耐え忍ぶしかないのだろう。
「じゃあテア先生、ここからもご教授よろしくね?」
そんなわけで、その後も——二人羽織みたいな状態で卵を割り、掻き混ぜ、焼く工程にまで入った。そして不格好ながらもプレーンオムレツを完成させるに至った。
付け合せのスープやらサラダすら密着状態で作り上げ、それらをテーブルに運んだところでようやく、俺は解放されたのだった。鍛錬よりも疲弊したのは間違いなかった。
「なんとか出来ましたね……」
「んふふ〜、私とテアくんの愛の結晶がテーブルに並んでいるわねっ」
「そ、その言い方はやめませんか?」
「だけど満更でもないんじゃない?」
「そ、そんなこと……!」
「あら、お顔が真っ赤よ? んふふ〜、まったくもぅ、テアくんは可愛いんだから」
隣に座る教官が、今もなお酔ったまま俺の頭をまた撫で始める。しかし迷惑とは思わない。忌み子ゆえに家族が居ない俺でも、愛情を感じ取れるこの瞬間は尊い。酔っていないシラフの教官からもやられてみたいが、まあ難しいだろうな。
「さてと、じゃあ冷める前に食べちゃいましょうか。——いただきます」
そう言って食事を開始した教官に続いて、俺も手を合わせていただき始める。
「不格好だけど、自分で作ったからか美味しいわね。テアくんはどう思う? エルザのと比べたらどっちが美味しいかしら?」
「さすがにエルザだと思いますよ」
「な、何よ……ここは素直に美味しいって言ってくれてもいいんじゃないの……?」
「でもだからこそ、俺たちの方には伸びしろがあるはずです。これからも一緒に色々と作っていきましょうよ」
「こ、これからも一緒に——っ」
教官がびくんと体を震わせ、サッと目を伏せる。
「や、ヤダもう……テアくんってばその台詞は不意打ちが過ぎるわ」
「へ?」
教官は顔を赤くしていた。俺の言葉に胸を打たれたようだが、そこまでのことを言っただろうか。
「その自覚なしの感じがまたなんとも……うぅ、私に恥ずかしさを感じさせたんだから、こうなったらテアくんにも感じてもらうからね!」
「えっ?」
唐突な宣言があったのち、酔いどれた教官はにやぁっとした笑みを浮かべて、
「はい、あ〜ん」
そう言ったかと思えば、自分のオムレツを切り分け、俺の口元に差し出してきた。
——羞恥の押し付け、あるいは共有。
あ〜んをすることで、俺にも恥ずかしさを抱かせようとしているらしい。
なんてことだよまったく……これだから酔った教官はなんというか、嫌いじゃないけど苦手だ! アグレッシブ過ぎるし、なんであ〜んするのは平気なんだよ! 今は責めっ気が全面に押し出されているから恥ずかしくないってことなのか!?
「どうしたのかな〜? 早く食べてもらいたいんだけどなあ」
「くっ……」
これに屈すれば間違いなく恥ずかしい思いをするが、俺は教官のあ〜んをみすみす逃したくもなかった。
だから決めた。屈してやる。恥なんて一瞬だ。気にしないようにすればいいんだ。
「い、いただきます……!」
覚悟を決めて口を開け、俺はフォークに刺さったオムレツに齧り付こうとした。
その瞬間、教官があくどい笑みを深めたかと思えば——ひょい。
フォークがサッと引かれ、オムレツが眼前から消えて、俺の歯は虚空を空振った。
「……え?」
まさかのフェイント……っ!?
俺が衝撃を受ける傍ら、教官は我慢しきれないと言わんばかりに笑い始める。
「て、テアくんったら……くふふ……餌に群がる鯉みたいで可愛い〜」
「こ、鯉……っ!? ちょっと教官っ、このからかいはさすがに怒りますよ!」
「んふふ〜、テアくんが怒っても何も怖くないのよね〜。でもだからといって怒らせたくはないから、今度こそ、ちゃんとね?」
再び差し出されるオムレツ。
俺は警戒しながら顔を近付け、サッと引かれないことを確認してから口を開く。
直後に今度こそ——あむっ、と噛み締めることに成功し、俺は歓喜した。
夢にまで見た、は言い過ぎかもしれないが、教官からのあ〜んは最高過ぎる! もちろん恥ずかしさだってあるものの、それを上回る喜びの方が大きかった。
「むっ……なんだかテアくん、あまり恥じていないのね。この仕打ちはちょっと蜜に寄り過ぎてしまったのかしら……」
そう言って教官は少し考える素振りを見せて、
「——あ」
と直後、いいことを思い付いたように悪そうな笑みを浮かべた。
イヤな予感——もしくは悪寒。
そうして俺が身構えようとしたすんでのところで——
「はむっ」
隣に座る教官が——俺の耳たぶを、甘噛みしたのだった。
「——っ!?」
つかの間、理解出来ずに放心。直後に現状を把握し、俺は絶大なる羞恥と共に、
「な、何やってるんですか教官……ッ!?」
「これにゃらテアきゅん……ひゃずかしがってくれるかな〜ってね。そしてどうひゃら成功したみひゃいね?」
俺の耳たぶをはむはむしながら、教官は満足げにそう言って、しかし——
「でもちょっと……私の方もひゃずかしいかも……」
策士策に溺れるって言葉が合っているかどうかは分からないが、とりあえず——自爆したようだった。
その後——ちょうど夕食を食べ終えた頃に、教官の酔いは醒めてくれた。
「……あれ? 私は一体何を……」
後片付けをしていた俺は教官のそんな変化に気付き、一旦後片付けを切り上げて椅子で休む教官に近付いた。目覚めの一杯として水を持っていく。
「教官、大丈夫ですか?」
「あぁテアくん……私は何をしていたのかしら? もしかして寝ていたの?」
目元を揉みほぐしながら、教官が尋ねてきた。酔っている最中の記憶が曖昧になるのは昔からのことだ。記憶が完全に抜けているわけではないらしく、こちらから助言すると思い出せたり、ふとした瞬間に酔っ払い時の記憶が蘇ることはあるらしい。
だからこそ、酔った自分は最悪だと自覚し、普段はお酒を控えているわけだ。
「いや、教官は寝てませんよ。夕食作りの最中に料理酒を飲んでしまったので、そこから先の記憶が薄れているだけですね」
「——あ」
俺がそう告げたことによって、教官は間違って料理酒を飲んでしまったことを思い出したようだった。頬を若干、照れ臭そうに赤らめ始める。
「……酔った私は何か、テアくんに迷惑をかけてしまったかしら?」
「いや、大丈夫でしたよ。だから気にしなくていいです」
俺は詳細な報告はしない選択を選んだ。
詳細を告げてもそれは、教官にしてみれば黒歴史でしかないのだし。
それに実際、迷惑をかけられてはいないのだから、どうでもいいことだろう。
「そうなのね? なら良かったわ」
教官は心底安心したように呟き、それから俺が置いたグラスの水を飲み始める。
「ふぅ……今回は大丈夫だったみたいだけど、私はお酒を飲むと途端におかしくなってしまうものね。本当に気を付けないといけないわ……」
酔った詳細を知らないというのは幸せなことだと思う。
そんな風に考えつつ、後片付けを再開する。
「そういえば教官、俺にもう少し自由を与える、ってさっき言ってましたけど、それは結局どういうことなんですか?」
「それに答える前に、エルザはもう来た?」
「いや、まだ来てないですけど」
「じゃあエルザが来たら説明するわね」
という言葉のあと——コンコンコン、とノックの音が聞こえてきた。
それは玄関の扉が叩かれる音だった。……もしかしてエルザだろうか?
「テアくん、ちょっと見てきてもらえる?」
分かりました、と頷いた俺は玄関に移動し、ドアの向こうに呼びかける。
「どちら様でしょう?」
「テアの未来の花嫁」
「お帰りください」
そう言いつつも、俺はロックを解除してドアを開けてやった。
すると案の定、そこにはエルザが佇んでいたのだが——
「お前……何やってんだ?」
なぜか、裸エプロン姿だった。俺はつかの間目を合わせ続けたのち、理解することを放棄してすぐに扉を閉めて何も見なかったことにした。
「なぜ閉めたの?」
「……不審者が居たからだ」
「そんな者は居ない。わたししか居ないから安心してもう一度開けて欲しい」
「だからお前が不審者なんだよ!」
「いいから開けて。ミヤのお使いを成し遂げてきたのにこの仕打ちは酷い」
「酷いのはお前の格好だからな?」
言いつつ、俺は再びドアを開けてやった。当然ながら裸エプロン姿のエルザがまた視界に飛び込んできて、なんとも目に毒というか……。
「わたしのこの姿に興奮する?」
「興奮するしないの前にびっくりしたんだよこっちは。あとエプロンの裾ひらひらさせるのやめてくれ見えそうだから」
慎ましやかな胸元がチラチラと見え隠れしているし、何も穿いていないのであろう下半身も非常に危険だった。
言いたいことは他にも山ほどあるが、とりあえず家に上がってもらうことにした。
「やっぱりエルザだったのね……にしてもなんて格好よ」
居間に戻った瞬間、教官がエルザを見て呆れ顔になった。
エルザは自慢げに小ぶりな胸を張る。
「これはテアを誘惑するための一手(ひらひら)」
「だからひらひらさせんなってば」
言いつつ、俺は教官に目を向けた。
「なんにせよ、エルザがこうして来たわけですから、エルザへの頼みごとも含めて、もう少し自由を与える、という発言についてぼちぼち説明をお願い出来ますか?」
「ええ、分かったわ。——エルザ、頼んだモノは持ってきてくれたようね」
「ん、バッチリ」
エルザは先ほどから縦長の黒いケースを担いでいる。楽器でも入っていそうな代物だ。
エルザがそれを教官の前に置いた。教官は満足げに頷く。
「ありがとうエルザ、確かに受け取ったわ。じゃあこれが代金ね」
財布から紙幣の束を取り出すミヤ教官。
それなりの大金だ。ケースの中身は一体なんだろうか。
エルザが札束を受け取って、ゆっくりと数え始める。
「ちょっと多い」
「ならお使い代ってことで、多い分も受け取ってくれていいから」
「じゃあ遠慮なく。テアとの子作り資金が潤って嬉しい」
「あなたね、そういう下品なことを口に出すのはやめなさいってば。女の子でしょ?」
教官がエルザを咎めている。普段はこんな感じで堅物なのに、なんで酔うとああなってしまうのだろうか。世界三大ミステリーのひとつに認定して欲しいぐらいだ。
そう考える俺をよそに、エルザは教官に歯向かう。
「わたしは素直な気持ちを言ってるだけ。この格好もテアへの愛情表現。でもミヤは真似しない方がいい。おばさんがこんな格好するのは痛いだけだから」
「あぁそう……とりあえずあなたの上官に口の利き方がなってないって報告しとくわね」
「や、やめて」
「やめて欲しかったらまずはさっさと服を着なさい」
言い争いで教官に勝てるはずもなく、エルザはバッグから衣服を取り出し、渋々と裸エプロン姿から着替え始めた。
「おい……なんでここで着替え始めるんだよ」
「ミヤへのせめてもの抵抗」
「それで割を食うのがなんで俺なんだよ! 脱衣所に行けよ!」
「凝視してくれて構わない。なんなら見せ付けたい。くぱっと体内ま——」
「——エ・ル・ザ? あなたいい加減にしなさいね?」
そのとき、教官が威圧的な声を発した。あとがないことを察したのであろうエルザは、俺にちょっかいを出すのをやめて、そそくさと衣服を身に着け始めた。
エルザはその後、わざと履かなかった黒タイツを俺の手元に置いていくという最後の抵抗を果たしつつ、名残惜しそうに帰っていった。
「まったくあの子は……。テアくん、そのタイツはあとで処分しておきなさいね」
「分かりました」
とは言いつつも、折を見て返しておこう。捨てるのはさすがにもったいない。
「それより、エルザに持ってきてもらったその黒いケース、結局なんなんですか?」
「これはね、狙撃銃よ」
「狙撃銃……ですか?」
葬撃士は基本的に、前衛職と後衛職に分けられる。花形は前衛。後衛は大した身体能力を持たない者が選ぶ役職だ。進んで後衛を選ぶ者も居るが、それは少数派だろう。
いずれにせよ、狙撃銃はそんな後衛がよく用いる武器なわけで——
——ミヤ教官がなぜ狙撃銃を? 教官は銃剣で戦う前衛だというのに。
「この狙撃銃はね、私からテアくんへの贈り物なの」
「……え?」
「本当はね、もう少しあとに渡す予定だったのだけど、テアくんはガレッシャーノをダウンさせられるくらいの強さは現時点で持っているようだから、早いところ渡しておいた方がいいのかなって思ってね」
「じゃあ、もう少し自由を与える、っていうのはもしかして……」
「そうよ。最終的にどうしたいかはテアくんにお任せするけど、私は現時点をもって狙撃手への復帰を推奨させてもらうわ」
……やはりそう来たか。
でもまさかそう来るとは思わなかった部分もある中で、教官は言葉を続けた。
「テアくんは葬撃士への完全復帰を目指すんだ、って言っているけど、それは剣士に戻るって認識でいいはずよね?」
「ええ……もちろんです」
「なら、そのためにこれからどうやって過ごすつもり? 地道に鍛錬を続けるだけ?」
教官は諭すように俺を見る。
「私はね、地道な鍛錬の継続を悪いことだとは思わない。だけど、そうやって地道な鍛錬だけに集中するのは危険だと思うの」
「危険というのは……実戦から遠ざかってしまうという意味で、ですか?」
「その通り。鍛錬に集中しても、実戦感覚は養えない。本当に剣士としての復帰を目指すのであれば、まずは後衛の狙撃手として復帰して、実戦感覚を忘れないようにしながら、段階を踏むようにして前衛復帰へのリバビリをするべきだと私は思うのよね」
「管轄内で見守りたいと言っていた教官が、よくそんな許可を出す気になりましたね。狙撃手として実戦に出向くとなれば、俺は普通に任務を請け負うことになりますけど?」
「分かっているわ。だからテアくんの強さが一定以上のところまで戻ってきたら、私はそのとき初めて許可を出すつもりでいたの。私の想定ではその許可を出すまではまだまだ時間が掛かると思っていたのだけど、君は私の想定以上に弱っていなかった。ガレッシャーノに勝ってしまうし、それはつまり狙撃手の役目なら充分にこなせるということよ。だから今、新たな自由を与えるの」
「なるほど……」
教官の考えには納得した。過保護なようでいて、俺をきちんと完全な復帰に導くためのシナリオを考えてくれていたのだ。ありがたい。
ならば俺は、それを受け入れよう。
剣士の俺が、狙撃手への一時的な復帰——思うところがないではないが、もはや手段は選ばない。確かに鍛錬だけに集中していたら実戦感覚は養えない。
悪魔を殲滅させるために、何より教官の負い目を取り払うためにも、俺はやれることはなんでもやってかつての自分を取り戻してやると決めたから。
「教官、分かりました。俺はまず狙撃手に復帰してみようと思います」
「ええ、そうしなさい。テアくんなら必ず上手くやれるわ。——じゃあこれを、正式にプレゼントするわね」
教官が黒いケースを開けた。中には真新しい漆黒の狙撃銃が収められていた。
「これって……最新モデルじゃないですか」
「そうなの? 狙撃銃はあんまり詳しくないから、選定はエルザに託したのよね」
「さすがは現役の狙撃手だけあって、いいのを選んできましたよあいつ」
銀に弱い悪魔対策として、銀弾入りの弾薬箱もセットになっていた。
「教官、こんなにいいモノをありがとうございます」
「いいのよ、私にはこれくらいしか出来ないのだし」
何かを背負っているかのように、教官の表情は固く引き結ばれている。俺を最前線から遠ざけたことに対する負い目が、当然ながら依然としてあるのだろう。
だから俺は、この狙撃銃と共にステップアップしていかなければならない。
そう思いつつ、俺は狙撃銃を掴み取り、奮闘を誓った。