王歴四一七年。
世界一位の魔術大国・アレサ王国。
世界二位の魔術大国・イヴァノグラード帝国。
この両者は直接的な戦争行為を避けつつも、永い冷戦状態にあった。
そして……『秩序の調律者(オルディネ)』。
自らを「変革の抑止力」と自称するこの組織は、両国に与し、また対立を繰り返し。
魔術によって傾く天秤の拮抗を、わずか数十名の魔術師のみで保っていた。
そして、アレサ王国首都・アレスタの中心部に位置する、王立クライエス魔術学園。
その食堂では、大小ふたつの影が、忙しく動いていた——。
東から差す陽光が、街を染め上げる。
次いで鶏が、甲高い鳴き声を響かせる。
朝だ。
この魔術が支配する世界でも、平等に正確に。朝は訪れる。
「……っし。今日もいい天気じゃねえか!」
そんな中。手に包丁を握った男の独り言が、妙に目立って響いた。
時刻は午前五時。大時計の鐘もまだ鳴っておらず、多くの人々はまだ床の中であろう。
にも拘わらず、彼は一切の精彩を欠くこともなしに、生き生きと活動していた。
ここは王立クライエス魔術学園、その食堂である。
「メイ! そっちの調子はどうだー!?」
男が厨房に向かって呼びかけると、すぐに奥から小柄な少女が姿を見せた。
いや……少女、というよりは、幼女に近い年頃であろう。透明感のある銀髪が短く纏められ、かわいらしさがまず先行する出で立ちだ。エプロン姿からも分かるように、この学園の生徒ではない。表情にあまり変化は無いが、それが却って彼女を謎めいて、魅力的に見せていた。美少女、そういって相違ない。
そんな美少女・メイは、歳に似合わぬ無表情で返答した。
「問題ない。あと五分後には全部切り終わる」
「じゃあそれ終わったら麺の分け作業を頼むわ。ちゃんと均等にな。割と多めに用意してあるから時間かかるぞ。大丈夫か?」
「大丈夫」
「っし、頼むな。今日は新メニューの日だ。いつも以上に手際よく、だぜ!」
「分かってる。任せて」
無表情のままVサイン。すぐにメイは自分の作業へと戻った。
少女と別れ、男は包丁を手にしたまま、通用口から食堂の外——庭へと出る。
陽の光が心地よい。朝の空気も、肺腑を掃除してくれているように思えた。
毎日、こうして調理前に庭へと出るのがこの男、カイルの習慣であった。
カイル・レヴェナント。この魔術学園の食堂を取り仕切る「料理番」である。
メイはそんな彼の料理番助手。つまり、彼らはたった二人で、この広大な学園の食堂を担当しているのだ。故に、この時間から準備しなければ間に合わない。
「さて、と! んじゃ俺はスープを、——…………、ん?」
つと、カイルの意識が一点に釘づけされる。
視線の先には、少女。
ここから少し離れた学園の庭で、少女が剣を振っているのだ。
「——ッ! はあッ! ッっ! ——っはああッ!」
連携の修練であろう。美麗で、流れるような剣戟である。
制服から見てこの学園の生徒だろう。思わず見惚れてしまう。流麗な髪が跳ね、彼女の整った顔を一層美しく彩っていた。まるで、絵画と見紛うほどに。
「っ、……痛っ!?」
と突然、ゲシッ。後方から足を蹴られて、カイルは振り返った。
「え、えっと? ……メイ? なんで今キミに蹴られたの、俺?」
「仕事してないから。ついに取れちゃった? 『料理バカ』から『料理』が」
「んふふ、メイちゃーん? 俺にとって褒め言葉なんだぜ? 料理バカ、ってのはさ!」
「女の子を眺めてる暇なんてない。真面目にやって」
「……はい」
それだけを言いにわざわざ来たのだろう。メイは無表情のまま、再度厨房へと引き返していった。血は繋がっていないが、メイはカイルにとって妹のような存在である。「嫉妬か?」と返そうものなら、蹴られる回数が増えるだけだろう。
頭を掻きながら、カイルは懲りずに少女を眺める。
彼女は尚も、剣を振るい続けていた。この調子だと、日が昇る前から訓練していたのではないだろうか。朝食もまだ採っていないように見える。
——気に掛かる。とても。料理番として。
「……何か、軽食でも作ってやろうかな」
メイに見つかればドヤされるのを覚悟で、カイルは少女に向かって歩んでゆく。
少女は、すぐにこちらに気付いた。
「ん。あっ……、申し訳ございません。うるさかったですか?」
「あーいや、別に大丈夫だよ。……こっちこそゴメンな突然。おはようさん!」
「はい、おはようございます!」
天真爛漫だが、礼の所作が高貴な者のそれである。この学園は貴族の子息も多いので、彼女もご多分に漏れず、上流階級の生徒だろう。
カイルは、眼前に立つ少女の姿を眺める。
(妙だな……。初めて見る顔だ)
この少女とは初対面である。カイルは、それに違和感を覚えたのだ。
クライエス魔術学園において、食堂を利用しない生徒はほぼ皆無——。故にカイルが知らない生徒など存在しないハズなのだが。
カイルの疑念など知らぬ様子で、少女は微笑んでいた。
「学園職員の方、ですよね? もしかして、お仕事の途中だったのではありませんか?」
「まー途中といえば途中なのかな。でも、それより気になる事があってさ」
「気になる事、ですか?」
「ああ。キミさ、朝メシ食ってねーだろ?」
カイルがそう問うた途端、……何故か、彼女の表情は険しさに彩られた。
「……それが、何か」
「あー、やっぱ食ってねえんだな!? ダメだぜー、訓練なんてヘヴィな事してんのに!」
「は、はあ」
「ま、つーワケで、だ! 俺が今からキミに朝食を作ってやる! 何がいい?」
「……いえ。結構です」
「遠慮すんなって、何にするよ? もしダイエット中でもそれ考慮した上で、」
「だからいりません。さようなら。訓練に戻ります」
「え? い、いやー、でもさ、身体に悪いし——……、」
「くどいですッ!」
「ッ!?」
突然だった。
少女が一気に飛び退いて、カイルとの距離を空けたのだ。
放たれているのは、「敵意」。否——これはもはや「殺意」と言って相違ない。
現に少女は、剣先を向けているのだから。
カイルへと。
「……え、えっ? え? 何、……?」
あまりに急転直下である。数秒前と正反対の空気に、カイルは言葉を失う。
少女は剣を向けたまま、口を開いた。
「……あなた、一体何者ですか」
「な、何者って……さっきも言ったろ。この学園の職員だぞ? ただキミにメシを……」
「いらないと言っています。何故、そこまで食い下がるのです。おかしいですよ」
「何ていうか。俺って、空腹の人を見ると許せないというか、……何というか」
そこまで口にし、カイルは思い直した。
自身の料理番としての矜持など、この少女が知るはずもない。これでは自分の考えを押し付けている、しつこいだけの不審者だ。警戒するのも納得だろう。
苦笑を伴い、カイルは少女に謝罪しようと決めた。……が。
「答えてくださいますか。一体『どこ』から送られたのです、あなたは」
「へ?」
「答えなさいっ!」
ヒュンッ!
突然、少女は地面を蹴った。
すぐにカイルまでの距離を縮め、次いで流れるような動作で……、
彼の喉元に、剣を突き付けてきた。
「っお、おおおおおおおおっ!? ななな、な、何だよいきなりっ!」
「もう一度だけ訊きます、どこから送られたのです!?」
「ど、どこ!? ……どこ、って」
「《幾千の兇刃、万物微塵に——……、!」
「おいコラ詠唱開始すんなバカっ!」
「では正直に答えなさいっ! 私を狙う刺客なのでしょう!?」
「タダの職員だっての! ちゃんと斡旋所のサラばあさんから紹介された仕事だよ!」
「斡旋所? サラおばさん? ……え、あ、あの。……じ、じゃあ。本当に職員さん?」
「だからそうだって! 何だよいきなり、剣向けた上に魔術まで撃とうとしやがって!」
「ご、ごめんなさ——、!」
キュゥゥゥゥゥゥぅぅぅぅ……——っ。
「「……は」」
硬直した。二人とも。
突如鳴り響いた、絞るような、間の抜けた効果音のせいで。
何の音だろうとカイルは思ったが、すぐに答えに行き当たる。理由は少女の反応である。
「っっっっっっっっっっっ、ッ!」
彼女は言葉を詰まらせ、耳まで真っ赤になって……そして、腹部を両手でおさえていた。
何のことはない。先刻の絞るような音は、彼女の「腹のムシ」である。
途端、カイルはケラケラと朗らかに笑った。
「……っははははっ! 何だ! やっぱ腹へってんだろ。身体に悪いぞ? ……っし、ちょっと待ってろ! 今何か作ってやるから——、」
「け、………………結構ですっッッ!」
少女は校門の外へと、一気に駆けて行ってしまった。
「あらら……行っちまった」
訓練を眺めていたら突然剣を向け、腹の虫を奏で、慌てて消え去って——。
服装が悪かった。今、彼はエプロンをつけていない。これで料理番と気付くのは難しい。
「刺客……とか言ってたよな」
爽やかな朝に似合わぬ単語である。カイルを刺客と勘違いし、先制攻撃を仕掛けてきたのだとすれば、あの少女は常に刺客を警戒するような存在なのだろうか。
「……遊んでる場合じゃねえか。俺はスープの準備だ」
気を取り直して、校舎の中へと戻る。
次いでかまどの前まで行くと、人差し指を立てて……小さく詠唱を綴ってゆく。
「《来たれ無辺の業炎。地獄の咢は総てを灰燼へと滅さん》。『ワイドフレイム』」
言葉を切ると、ボッ、と。指先に炎が灯った。
顕現できたのは、蝋燭程度の炎。ひどく大袈裟な詠唱を経たにも拘わらず。
「……ま。この程度だよな。俺の魔術の才能なんざ」
吐き捨て、自嘲し。カイルはその種火を、かまどへと持っていった。
——パチ、パチ。
すぐに種火は薪へと燃え移り、炎は盛大なものと化してゆく。
そう……この程度でいいのだ、魔術など。「生活を少し便利にする」くらいで。この世界で、誰もが呼吸するかのように使用できるのだから。……本来は。
「くくくっ! アイツら、どんな顔するだろうなあ! この新メニュー食ったら!」
大きくなってゆく火と共に、哄笑も大きくなってゆく。
これを食べたらどんな反応をするだろう? どんな笑顔を見られるのだろう?
早く皆にこの料理を食わせてやりたい——。彼の心中は、その思いだけで満ちている。
——鍋の準備は終わった。次は、材料を余分に切っておこう。
そう決めたカイルは、手元の包丁に強化の魔力を込めて、切れ味を上げる。
「待ってろよ、オマエら……! 今日も最高にうまいメシ食わしてやっからなあ!」
陽の光を受けたカイルの瞳は、無邪気な輝きを放っていた。
まるで、少年のような。
「……では、みなさんは問題ないと? この学園の現状が?」
昼休み——王立クライエス魔術学園、その生徒会室。
生徒会長レクティア・ソルシエールの凛とした声が、高く響いた。
彼女の問いに対し、クラス委員たちは次々と、戸惑いの声を漏らしてゆく。
「問題……って言われてましても……」
「学園自体のレベルが落ちた、って話も聞かないしねえ……?」
「……そうだよね。この学園、そもそも入学試験がかなり厳しいしさ」
全て消極的な意見。そもそもこの委員会は臨時である。昼休みの数分を用いて開催されていた。故に、彼らは自分たちの昼休みが削られ、どこか不満顔が多い。
が、生徒会長のティアは、そんな事など知らぬとばかりの態度である。
「我がアレサ王国と、イヴァノグラード帝国との関係は、なおも予断を許さない状況です。あまりにも気が抜けている、そう思いませんか?」
「……私たちに、言われても」
「なるほど。クラス委員に問題意識がない……それこそが問題のような気もしますね」
言い捨てる彼女の姿は「美麗」、その一言に尽きた。
艶やかな長髪が、流れる滝の如く輝いている。顔立ちは切れ長な印象で整っており、彼女に対する「校内一の美少女」という評判を納得させるに充分な魅力を放っていた。背丈はそれ程でもないが、大きな胸といい、スカートから伸びるスラリと長い肢といい、女性的な美しさも既に備えている。生徒会長である事から学業の成績も推して知るべしだろう。女性としてほぼ完成された姿が、ここに在った。
が、今のクラス委員たちは、彼女の容姿などを気に掛けている余裕がない。
「早く昼食を食べたい」。彼らの意識は、それだけに集中しているように見える。
彼らの意思を察したか。ティアの隣の副会長・ロザリーが助け舟を出す。
「ねえティア。みんなお腹空いてるから、そろそろ終わらせよう?」
ロザリーの発言にも、ティアは眉根を寄せただけだった。
「……ロザリー。委員会では『会長』と呼ぶように言っているでしょう?」
「えぇー? でもわたしたちって親友だよ? 役職呼びって他人行儀じゃないかな?」
「駄目よ。こういった場こそ、立場をしっかりと示した上で——……、」
「もー、そんな堅苦しいから書記も辞めちゃうんだよっ!」
そう言うとロザリーは立ち上がり、クラス委員全員に呼びかける。
「もういいよみんな! お腹空いてるよね? あとはわたしとティアでやっておくから! 先にお昼行っちゃって!」
「「「「「やったあああああッ! さすが副会長ッッ!」」」」」
「ちょっとロザリー!? 勝手に……、…………——あぁ、もう!」
ティアが制止する間も無かった。まるで雪崩である。クラス委員全員、ロザリーの許可を得た途端、この生徒会室を一挙に退室してしまった。
残されたのは生徒会長であるティア、そして副会長のロザリー、二人だけ。
「……甘すぎよ、あなた」
「ふふっ! 会長のティアが鞭で、副会長のわたしは飴だからねーっ!」
発言する度に、ロザリーのツインテールが小さく揺れる。スカートは極めて短く、小柄な体躯も相まって、彼女を殊更かわいらしく見せていた。それでいて所々コケティッシュな所作が蠱惑的である。細身でしなやかな躰も彼女の魅力を引き立てている。ティアが女性的優美さ担当だとすれば、さながらロザリーは「美少女担当」といったところだろうか。事実、この会長・副会長のふたりは「生徒会の二輪の華」と並び称され、男女含めた全校生徒憧れの的であった。
その一輪であるティアは、形のよい口元に手を当て、悩ましげな表情だ。
「食堂、食堂、食堂……。どうしてみんな、あんなに食堂に拘るのかしら」
「あ、そういえばティア、知ってる? 今日、食堂に新メニューが追加されるんだよ!」
「また食堂の話題……。というか新メニュー、って何?」
「やっぱり知らないんだ。少しは学園の評判以外にも興味を持とうよー?」
ティアは怒りの混じる表情で、小さく嘆息——。やがて、堰を切ったように叫んだ。
「あのね、ロザリー! ここは魔術学園っ! 魔術を学ぶ所なの! 分かってる!?」
「う……うん? 分かってるけど?」
「分かってない全然っ! あなただけじゃないわ、みんなそう! この学園は『アレサ王国の魔術学園における最高峰』なんて評された事もあったのに……ッ!」
「え、そうなの?」
「ほら知らない! それが今じゃどう!? こんな有様じゃないッ!」
バンッ! と勢いよく。ティアは机に置かれた一枚の紙に、掌を叩き付けた。
この学園の募集案内だ。
最も目立つ一番大きな文字で、こう書かれている。
┌─────────────────────────────────────┐
│ 月イチで食堂に新メニューを追加! │
│ 巷の流行を敏感に察知、まさに食の最先端! │
│ 栄養の配慮も抜かりなし! 味は言うに及ばず! │
│ 最 高 の 料 理 番 があなたを待っています! │
│ ◆クライエス魔術学園 │
└─────────────────────────────────────┘
ティアは再び、紙面を強く叩いた。
「おかしいでしょ!? 何コレ!? 学園案内よ? 何で一番目立ってるのが食堂の詳細なの!? しかもご丁寧に可愛いイラスト入り! ここは幼稚園か何か!?」
「まぁ、生徒会長として気になるのは分かるけど……」
「いや生徒会長とか関係ないわよね!? ロザリーはおかしいと思わないの!? 魔術訓練中もランチの話題で私語! 講義が終わった途端、廊下を爆走して食堂まで一直線! 何なの!? 完全に『魔術を学ぶ』って主旨を忘れてるじゃない、みんなっ!」
「うーん、でもしょうがないと思うなあ」
ツインテールの少女は飄々とした表情で答える。
「だって、この学園の食堂ってホントおいしいんだよ! 『この学園で何が一番?』って聞かれたら、わたしは間違いなくこう答えるよ! 『食堂です』ってね!」
「……あぁあ。どうして、こんな事に……っ!」
頭を抱え、ティアは苦悶の表情を作ってしまった。
王立クライエス魔術学園——。卒歴にこの名を持つ者は、仰望の眼で見られる。
創立は百数十年前。入学試験は実技魔術・学科魔術の両方に優れている必要があり、授業内容も他の魔術学園と比してレベルが高い。留年の憂き目にあう生徒も少なくない。
だが、卒業後の進路は安定していた。むしろ社会全体が、この学園の卒業生を迎え入れようと「争奪戦」を繰り広げる。王立魔術研究所を筆頭に、貴族の顧問魔術師、王族の講師、果ては王都軍に至るまで——。多くの有力な就職先が、目の色を変えてクライエス魔術学園の卒業生を囲い込もうと、躍起になっていた。クライエスのOBが各分野で活躍しているという点も、競争に拍車をかけているといえる。
その状況は、今も変わらない。変わったのはこの学園の「ウリ」である。
「優秀なOBを輩出」「卒業生は最前線で活躍」。これが、少し前までの評判。
今ではこの学園の名を聞けば、反応は概ね三つに統一される。
「あの食堂のランチを毎日食べてるの!? 羨ましいっ!」
「今度案内してよ、食堂のメニューで食べてみたいのがあるの!」
「初めてお前に殺意を覚えたわ。異国のメニューで海外旅行気取りかア?」
(——おかしい。おかしいわよ! 魔術よりも食堂のほうが評判になるなんて……ッ!)
この学園の代表である生徒会長として、また優秀な魔術学園の生徒として。人一倍の自負を持つティアには、それが我慢ならなかった。
加えてティアの家は、優秀な魔術を輩出し続ける名門貴族・ソルシエール家。先祖が学園創設に関わった経緯もあり、この学園に対する思いは非常に強かった。
先刻のクラス委員を集めての会議は、この「食堂問題」を解決せんが為のものである。
結果は……ご覧の通りだが。
「確か、私が会長になる前からおかしくなってたって話よね……。何が原因なのかしら」
口に手をあててティアが反芻すると、ロザリーの表情がパッと明るくなる。
「食堂料理番の『カイルちゃん』だよ! あの人って凄いの! 異国の珍しいメニューをたくさん追加してるんだよ! それがまたおいしいの何のって……! はああぁんッ!」
「……カイル『ちゃん』? 何そのフザけた名前。今の料理番って女の人なの?」
「男の人だよ。あだ名。え、知らない? ティア、生徒会長なのに」
「あいにく食堂は興味の埒外なの。今じゃ食堂の場所すら忘れたわ」
「ほんとティアって食堂嫌ってるよねー。いつも食堂の話題が出ただけで不機嫌になるし。 うーん……。よし! じゃあ今から会いに食堂行ってみない?」
「え? ……い、今から?」
虚を突かれたティアに構わず、ロザリーは食い下がり続ける。
「うんっ! ティアって友達いないワケじゃないのに、いつも一人でランチしてるよね? わたしが誘っても全然ノらないんだもん! せっかく生徒会室が使い放題なのにっ!」
「それは、そうだけど……」
「ちょうどお昼だし、一緒にランチしよ! それに『食堂なんて下らない』って言うけど、ティアは分からないんだよ。あそこのごはんを食べた事ないから。だから……——」
「……いいわ。行きましょう」
「うーんやっぱ駄目だよねえ。……って嘘!? いま行くって言った!? め、珍しい!」
「決意したの。……そう、決意。ついに雌雄を決する時が来たのよ。その料理番と」
「ひえええッそっち!? ま、まさか、カイルちゃんと喧嘩するってこと!?」
相対すべき敵の名を得て、ティアの心は期待と敵意に踊る。
(カイルちゃん……それが問題の料理番の名前ね)
決意してからは早かった。ティアとロザリー、二人揃って生徒会室を後にする。食堂は一階に位置しているため、三階から階段を下りた。
……すると。ティアの聴覚が、騒がしい声を捉える。
「何……? 随分とうるさいわね?」
生徒会長として注意したい思いを抑え、食堂へと歩を進めてゆく。
すると、先刻の違和感が氷解した。騒ぎの発生源はこの食堂だと理解したのだ。
昼時の食堂——それを一言で言い表すならば「戦場」である。
「おい! 押すなって!」
「横から入ってんじゃねぇよッ! ブッ殺されてえのか、ああァ!?」
「横入りはそっちじゃない、ちゃんと順番守ってよ!」
怒気、殺気、そして狂気……。
さまざまな感情が臨界点を超え、各々でせめぎ合っている。
クライエス学園の食堂は、かなりの広さである。ちょっとした体育競技場ほどの広さといっても言い過ぎではない。木目美しいテーブルとイスも、かなりの数が揃っている。
……が。今は、その全てが空席となっていた。
理由は単純明快である。配膳コーナーの前に、全員が並んでいるから。
「な、っ……!? 何なの、この行列……!? まるで王宮のパレードじゃない!」
壁面を覆い尽くす程の行列である。ティアは隣のロザリーを見やるが、至って冷静だ。
「えー? 普通だよ普通! まあ確かに、今日はいつもより少ーしだけ人が多いかな? 何といっても新メニュー追加の日だから!」
「そ、そのせいで今日はこんな騒がしいってこと?」
「うん。新メニュー追加の日って、いつもとちょっと違うんだよ。まずはカイルちゃんがみんなに見本食をプレビューして、ぐだぐだそのメニューに関する知識をひけらかすんだ。で、ガマンできなくなったみんなが『とっとと食わせろ!』って叫んで、人によってはカイルちゃんを殴って、ようやく新作の注文開始、ってカンジなんだよー!」
「な、殴るの!? ……その料理番って人気者なの? それともコケにされてるの?」
「うーん、両方? 愛され・イジられキャラってカンジ。作る料理はどれもおいしいんだけど、何たってカイルちゃんは魔術が全然、……——あっ、アレがカイルちゃんだよ」
どうやら件の男が姿を見せたらしい。ティアはロザリーが指さした方向を見やる。
「っし、オマエら! 今日も必要以上に元気じゃねえかよ! 待ちきれねえか!?」
通称「カイルちゃん」は、登場と同時に威勢のいい大声を張り上げた。
途端わあっ! と。行列の盛り上がりが、最高潮へと至る。
「……馬鹿みたい」
ティアは不愉快極まる表情で、彼を睨むように眺めてみた。
年齢は十九くらい。背は……高いとも低いともいえない。自分よりは高い。上下黒の服の上に白いエプロンを付けている。これのお蔭でかろうじて料理番と分かる風体だ。「どこにでもいる黒髪の青年」といった印象しか抱けない。
顔も妙に冴えない。その軽薄な笑みが、妙に苛立ちを加速させる。
そして、その顔は——…………。
「……え」
視認がそこまで至った途端、ティアの瞳が強く見開かれる。
「あ、あの男ッ!?」
「ん? ティア、知り合いなの?」
知り合いではない。が、ハッキリと記憶していた。
今朝、訓練中に「恥ずかしいところ」を見られた、あの男だ——!
♢
カイルは両手にどんぶりを持ち、行列の生徒たちへ呼びかける。
「悪ィな! このサンプルを作るのにちょっと手間取っちまった。出来たてじゃねえと駄目なんだよ! ……ココに置かせてもらうぜ?」
そう言ってカイルはどんぶりをトン、と。テーブルの一つに置いた。
上部には蓋が被せられており、どのような料理かは分からない。列を乱しつつ、数名がテーブルへと寄ってくる。
「コレが新メニュー? 何だろ……湯気が出てるから、熱い食べ物だよね?」
「察しがいいな。その通りだ」
「器も珍しいよね、結構大きいし。前のカツ丼に近いのかな……?」
「近いッ! 東方の食べ物なのは同じだぞ!」
「……まさか、また箸を使う食べ物じゃねえの?」
「イイぞ、イイ線いってる! まあオマエらが箸が苦手なのは分かるけどな。今回は箸でも楽に食えるモンだから安心しとけ。つーか箸はこの国じゃ馴染みがないけど、慣れればどんな料理でも使える信頼性が高い道具であって、それ一本あればたとえ戦場でも……」
「おいカイルちゃん! 御託なんざどうでもいいからっ!」
「ホントだよ、とっとと蓋開けて見せてくれ! みんな殺気立ってて仕方ねえんだ!」
「まあ焦るなって! まずはこの料理の連綿たる歴史から……」
「いいや待てねえなあ! ——おいテメエらッ、この料理番やっちまうぞ!」
「え、ち、ちょっと待……、! い、いいいい痛い痛い痛いイタイ! やめろおっ! 髪の毛むしらないでぇっ! つーか魔術まで使ってんじゃねえこのバカ!」
ドカ、バキ、ゴキ、ズガ、ゴリ、ブチ。
壮絶で凄烈な効果音。カイルが血の気の多い生徒数名から、袋叩きにされているのだ。
どれだけその修羅場が続いたか——。しばらくすると、カイルはフラフラと上半身だけを起こし、恨みがましい目で周囲を見やる。
「お、オマエら……やめろってコレ! もうお約束みたいになってんじゃねえかよ!」
「ならもったいぶってんじゃねえって! どんなんだよ!? 早く早く早く!」
「気になるかあ!? それはな……、コイツだああああッ!」
ボロボロになったカイルは、身体を引きずりながらテーブルにすがりつく。
そして、どんぶりへと手を伸ばすと——ついに、その蓋を取り去った。
「「「「「…………? な、何だこりゃ?」」」」」
総員、きょとんとした表情に統一される。
無理もない。アレサ王国には、これと似た料理が存在しないのだから。
どんぶりの内部は黒いスープで満たされており、その水面に肉、野菜、それに謎の具が鮮やかに、ささやかに浮いている。またスープには黄色く細い物体が何本も浸されていた。「パスタ?」という声が周囲からあがる。
「あ、あの。カイルちゃん。これ……何?」
カイルは立ち上がり。胸を張って、フフンと鼻を鳴らした。
「ラーメンだ! 知らねぇ?」
全員が顔を見合わせる。が、誰も彼も首を捻るばかり。
唯一、行列の中ほどにいた女子が手を挙げた。
「あ、あたし聞いたことあるよカイルちゃん! 確か東方の料理だよね!?」
「おおっ、よく知ってるじゃねえか! その通り。東方の異国由来の、スープパスタのような麺料理だ。まーアレよりスープの粘度も無くてサラサラしてるし? 調味料や具に至っては、ここらじゃ全然手に入らないモノばかりだけどな!」
「えー、それおいしいのー? ただの水っぽいパスタなんじゃないのー?」
「文句は食ってからだろ? ……ほら誰か! 試食してみるヤツはいないかー? 出来ればネコ舌じゃない奴ー!」
パン、パンと手を打ち鳴らし、カイルは候補者を募る。
と、すぐに「試食第一号」の生徒が、前に出てきた。
「あ、あの。……こんにちは、カイル」
「おっ、エヴァンじゃねえか! オマエが試食してくれんのか!?」
「うん……なんか、仲間に無理やり担ぎ出されちゃって……」
気弱な男子生徒・エヴァンはテーブルへと歩み寄っていき、椅子に腰かけた。
「あ、ちょっといいかエヴァン? 食い方なんだけどな。このラーメンってヤツは少し特殊なんだ。スルスルじゃなく、ズルズルいってくれ」
「ず、ズルズルって……音を立てて食べるって事!?」
一瞬、周囲がどよめいた。当然だろう。この国において、否多くの国のテーブルマナーでは「音を立てて食事をするのは無礼だ」とされているのだから。
「あ、ちょっと引いちゃったか? でもよ、それが正しい食い方なんだ、ラーメンって」
「いやいや、それはさすがに下品すぎるよ! 音を立ててなんて!」
「大丈夫、ズルズルいけって。どーせみんな数分後には同じ食い方してんだから!」
「う、うん……じゃあ」
衆人の注目を集める中、エヴァンは箸を持つ。
次いでスープに沈んでいる麺を数本、すくってみた。
しばらくそれを眺め、……やがて観念したのか、エヴァンは麺を口元へと持っていき、勢いよくズルズルっ、とすすった。
食堂は静まり返っている。この場に集う者すべてが、エヴァンの動作に注視していた。
味はどうか? 食感は? 濃さは? 食べやすさは?
——が。そんな疑問は、次のエヴァンの言葉ですべて雲散霧消する。
「っっっッ!? な、何これ……! おいしいっ! 凄いおいしいよカイルッ!」
「だろ?」
ニッとカイルは笑った。
「な、何だこの麺は!? パスタとはまるで違う風味だよ! それにこのスープ……っ! 熱いけどそれがまたいい! 後を引くカンジだ……止まらない! 箸がッ!」
「分かるだろ? 俺が『ズルズルいけ』って言った意味が」
「確かに! この絡み具合は『スルスル』じゃ無理だ! 『ズルズル』いくからこそ、スープの絡みが絶妙なんだよ! ……あ、具もおいしい! これはホウレンソウ?」
「どうよ、バラエティに富んでるだろ? ——驚きだよなあ。東の国はすげえよ、こんなスゲエ食べ物を作っちまうんだから。もっと極東の方じゃ、ラーメンは更に独自の進化を遂げてて、また別質のウマさらしいけど……いつかソレも食ってみてえモンだぜ」
しみじみと、カイルは遠い目をしている。完全に自分の世界に入り込んでいた。「カイルちゃんはナルシストだから始末が悪い」と毒づかれてしまう原因だ。
が……彼以上に異様なのは、エヴァンであった。
黙々とラーメンを口に運び続けている。麺をすする事を躊躇し、あれほど衆人の眼を気にしていた彼が。まるで周囲に誰も存在していないかの如く、ただ唯無心に。熱い麺を気にする事もなく、口へと運搬し続けている。
そして何より……エヴァンの食べ方は「おいしそう」に見えるのだ。周囲にもそれは伝播したらしい。ざわめきが強くなっている。喉を鳴らしている者すら見て取れた。
「お、おい……」
「ああ……。——なあカイルちゃん、俺にもラーメン一つ!」
「お、俺もっ!」
「私もラーメンちょうだい!」
「あ? まあ待てって。これからラーメンの素晴らしさをイチから説いてやるから!」
「ハァ!? うるっせえよ、どうでもいいから出せって! こちとら腹減ってんだ、さっき以上に何するか分かんねえぞ!? 御託聞いてるヒマなんざねーんだっての!」
「わーかったわかったわかったって! 今から作るからっ! ——メイ、準備は!?」
「大丈夫。問題ない。いつでもいける」
ひょこっ。突然、厨房の奥から、小さな頭が覗いた。
彼女——メイは、無表情でカイルにVサインを送る。
途端に、メイを目にした周囲から次々に「カワイイ!」と声が上がる。この二人が料理番となって以来、メイは食堂におけるアイドル扱いであった。
「——っし! 待たせたなオマエら! 今から新メニュー解禁だあッ!」
ぅおおおおおおおおおおおおおっ! と。生徒の雄叫びが反響した。
即座に、生徒たちが配膳口に殺到する。並んでいたにも拘わらず、はやる気持ちがそうさせるのであろう。
臨戦態勢。カイルはメイに口早で指示する。
「メイ、俺はラーメン作るのに集中する。新メニューの日とはいえ、それ以外の注文もあるだろう。そっちはオマエに任せても大丈夫か?」
「大丈夫。誰だと思ってるの、私を」
「おぉー怖ええ! そんな可愛げが無いと、嫁の貰い手がないよーメイちゃん!」
「いい。カイルと結婚するから」
「お、おいメイ……? それ、本気か?」
「本気」
「……あ、あのな、メイ。俺たちは、その……兄妹のようなモンであって、」
「やっぱり嘘」
「ウソかよ!? ったくこの娘は……!」
「やっぱり本気」
「え、っ」
「やっぱり嘘」
「……悲しいなあ。ついにメイも反抗期か。——まあいいや、手際よくやれよっ!?」
「当然」
二人揃って、配膳口に立つ。それぞれが生徒の注文に応じる為である。
「カイルちゃんっ、わたしラーメンね!」
「あいよっ! 熱いから気をつけろな! 焦って食うんじゃねえぞ!」
「こっちはA定食ねメイちゃん! ……ああ、あ、あとさ! ここ今度デートしない?」
「はい。A定食まいど。あとロリコンお断り。カイルで足りてる」
「お、俺はロリコンじゃねえっての! 俺は年上好きなのっ!」
凄まじい手際だ。配膳口に生徒が来た瞬間、すでに料理ができている。
無論、ラーメン以外の生徒も存在する。が、それで一連の流れが滞る事はない。メイが「何もしていない瞬間は無い」とばかりの動作で、別メニューを次々と作りあげてゆくのだ。お蔭で列の消化もスムーズに進んでいた。
カイルはメイ以上だ。彼女を上回る手際・速度で、秒単位でラーメンを仕上げて渡してゆく。生徒と無駄口を叩きながらそれである。最早脅威以外の何物でもない。今ではラーメンの注文の隙をみて、メイの調理に手を貸してすらいた。
冷製フェデリーニ、ミートオムレット、季節野菜のサラダ、ピカタサンド、カツ丼、果てはスイーツのタワーまで……。国籍も共通点も無い多数の料理。殺到する新メニューへの注文をこなす度、別の料理までもが作り上げられてゆく。
一方、テーブル席では。徐々にラーメンを食した生徒が増えていた。
「た、確かに……っ! これは……!」
「おいしいっ! 初めて食べた味なのに、まったくクセがないよ!」
「具もいろいろあって面白いな。つーか何だこの絶妙な辛みは? 新手の香辛料?」
感想と共に、ズルズル。食堂の全域に麺をすする音が反響している。
彼らの反応をみるに、概ね皆満足のようだ。その光景をちらと窺って、カイルは嬉しさでついニヤけてしまう。
「カイル。キモい」
「へ、ふへへへ……っ。そう? いやぁそう言ってもさー、嬉しいじゃん? こうしてみんな喜んでくれるとよ! コイツらの笑顔の為に生きてるからさ、俺って!」
「さすがは料理バカ。食べなくても作るだけで生存できそう。希少種」
この会話中も二人は注文の料理を仕上げ続けている。
既に行列は両者の手際も相まって、半分以下まで減っていた。あの雪崩のような注文をこなした事で、さすがに疲れも出るだろう——。そう思う人間の期待を裏切るように、カイルもメイも平然としていた。行列は更に短くなってゆく。
——そして。ついに行列、その最後尾に並んでいた生徒の番となった。
カイルは最後尾の生徒を見て、表情を綻ばせる。
「お、ロザリーじゃねえか! 今日はまた随分と遅いな! ラーメンでいいか?」
「うん! ちょっと生徒会の会議があって。今日は連れもいるんだけど……彼女、どうにも食堂ではお昼をとりたくないらしくて。わたしの分だけ注文しに来たんだ!」
「連れ?」
「あーいや、気にしないでっ! メイちゃんもこんにちは! 今日もカワイイなあー!」
「こんにちは。ロザリー。ありがとう。ロザリーもイケてる。後ろを見たら一目瞭然」
メイの言葉に己の後方を振り返るロザリー。確かにそこでは、多数の男子生徒がロザリーを遠巻きに眺め「スカートの中……」だの「見えそう……」だの呟いている。小柄ながらも短いスカートから伸びるこのしなやかな脚は、全男子生徒注目の的であった。
「あ、あはは……。いやーでも優秀だよねーメイちゃん。器用だし、カワイイし!」
「だろー? 俺の妹みたいなモンだからなー。ちなみに褒めてもオマケはしねーぞー」
「あ、バレてた? たはー」
「当たり前だ! オマエいっつもそれじゃねえかよ! メイをダシにしやがって!」
ぺろっ、とロザリーは舌を出して誤魔化す。
「でもわたし、カイルちゃんの事だって凄いと思ってるよ? ……わ、割と好きだし?」
「お? なんだなんだあ!? 今度は俺相手にオベッカかあ!?」
「ちっ、違うもん! ホントにそう思ってるんだもん! カイルちゃん、みんなが知らないメニューをいとも簡単に実現しちゃうんだから。このラーメンみたいに!」
「いやあー結構大変だったんだぜ? レシピは向こうの言語で書かれてるから翻訳しなきゃだし? 麺の製法はとてつもなくメンドクセーし? 一番困ったのは、ラーメンの現物を食べた事のある東方人を探し出すことだったけどな!」
「え、いたの!? 東方の人! 東の国とはほとんど外交してないのに!」
「見つけ出したのさ。陸路で全世界を廻っている商人をな。ンで、香辛料やらを山ほど買うのを条件に、味見だのを手伝ってもらったんだ。お蔭で金欠よ……」
「毎度の事ながら、料理になると凄い信念っ! この食堂の食材だって、カイルちゃんが自前で持ってきてるものも多いんだよね? 野菜とか!」
「ああ。実は今日のラーメンも、自費調達した具を一つ加えてるぞ。何か分かるか?」
「えっ……、何だろ? わかんないなあ。何なの?」
「火竜爪。スープのダシに入れてある」
「か、火竜爪っっ!? 嘘でしょ、火竜爪って食材っていうよりマジック・アイテムだよ!? 魔術出力の上昇効果があるヤツ! というか食材になるの?」
「なるさ。大層な名前だけど、実際はただの唐辛子だからな。問題はエグみがあって食用に適さないってとこだけど……そこは俺が絶妙な辛みに演出したのさ。美味いぜ?」
「ひええぇぇ……! アレってかなり高価だよ? 相当お金かかったんじゃ?」
「ああ。薄給なのにこんな事ばっかやってっから、いつもメイに怒られてるよ……」
「ふふっ! カイルちゃんの料理バカっぷりに感謝しなきゃだね!」
「おーそうだそうだ、もっと感謝して褒めろ称えろ、この俺をっ! へいお待ち!」
「ありがと! 〜〜♪」
トレイにラーメンを乗せ、配膳口から離れるロザリー。彼女は即座に席について、目の前にある未知の料理に心を躍らせている。そしてついに箸を握った。
「いただきまーすっ!」
これで行列すべてが消化された事になる。カイルは配膳口から、食堂全域を眺めてみる。
生徒数に基づいて用意されたテーブル、そのほぼ全てが埋まっていた。つまり、全校生徒に近い人数がここで現在、食事に勤しんでいるという事である。
今では「ズルズル」と、食堂全域がラーメンをすする音に支配されている。
「ん。……んん?」
——と。カイルの視界に、一人の女子生徒が映る。
彼女はこの配膳口の正面、食堂の中ほどにポツンと立っていた。全員が座って食事している中、とても目立っている。その瞳は真っ直ぐに、カイルだけを射抜いていた。
やがて……少女はこちらへと歩み進んでくる。
大股で。ズカズカと。動作で怒りを体現するかのように、彼女はこの配膳口まで至った。
至近距離。カイルと目が合うと先制攻撃とばかり、彼女は真っ先に口を開く。
「あ、あなた! 料理番のあなたっ! 外に出てきてくださいますか!」
「え? 俺? お、おう。……ちょっと待って」
有無を言わせぬ語調に断る舌もなく。カイルは厨房と食堂を隔てる配膳口を横から越えていった。周囲から、この少女に気付いた生徒たちの声が耳に届く。
「珍しいな……会長がいるぞ。つーか相変わらずエッロ!」
「ホントだ。あの人っていつも一人でランチしてるからね。食堂に来ないんだよ」
「マジ? ぼっちメシ? あんな美人なのに? 恋人どころか友達すらいねえの?」
「いやむしろ友達は多いって話なんだけど……この学園の七不思議のひとつだね」
生徒会長。そういえば一度も会ったことが無かった、と思いつつ、カイルは来訪者の少女と相対した。
「……んで? 何の用?」
少女は慇懃無礼とすらいえる一礼をカイルに与える。
「どうもはじめまして。私はレクティア・ソルシエール。この王立クライエス魔術学園の生徒会長を任されております。皆のようにティア、とお呼びください」
「あ、ども。俺はカイル・レヴェナント。ご覧のとおりこの学園の料理番だ! 趣味は家庭菜園と料理、特技は、……ん?」
言葉を切って、カイルはティアの顔を凝視する。
「んんん? …………オマエ、どっかで……?」
「そっ、それは思い出さなくてもいいんですっ! 少しあなたに言いたい事があって、」
「あ……——あ、ああああああああああぁーっ! お、おおおおオマエっ!? 今朝の『剣で訓練中に腹のムシ大演奏会を開催したオンナ』じゃねえかっ!」
「だから思い出さないでくださいっ!」
「大丈夫か? ちゃんとメシ食ったか? まだ腹減ってねえか?」
「わ、わざと!? わざと言ってるんですか!? ぐ、ぐぬぬぬぬぬぅ…………ッ!」
猜疑、怒気、憤怒、羞恥、そして、敵意。
ありとあらゆる感情を顔に映し、カイルを睨み付けるティア。何のことはない、相対する人間が気に食わない者が見せる、一般的な反応である。
だが、周囲には動揺が走っていた。
「お、おい……何だよ? あの人、いつもの冷静な対応はどこへ……?」
「えぇ……? か、会長どうしたんだ? あんな感情露わにしねーだろいつもは……?」
いつもはこうではない、らしい。カイルは改めてティアを眺める。
朝と同じ制服姿。腰に差した剣。腰まで届く長い髪はしなやかに伸び、シャープな顔立ちにとても似合っている。スタイルも抜群に良く、本来ならば「高嶺の花」として近寄りがたい雰囲気なのだろう。……今は、別の意味で近寄りがたくなっているが。
彼女は冷静さを取り戻して、咳払いをひとつした。
「コホン…………あなたは、どう思いますか? この学園の現状を」
「は?」
「『アレサ王国随一の魔術学園』。数年前まで、クライエス学園の評価はそれでした」
「え、そうだったん!? コイツら、わりと自由に生きてんのに!?」
「やはり知らないのですね。そうなんですよ。 校風が自由なのは王国一ゆえの余裕でしょう。……が、今はどうです? 『食堂がステキな学園』です。ここの生徒たちを見れば一目瞭然ですね。もはや国を背負うエリートという自覚すら皆無、食堂の料理に一喜一憂です。堕ちたものだと思いませんか?」
「ん……いや、別に」
「良いところに気が付いた、そう思います。この国は世界最大の魔術師を擁する、一大魔術国家——。故に他国への奥儀秘匿も含め、ほぼ鎖国中といっても良い状況です。つまり『他国の文化が入って来にくい』という事ですね。……しかし」
言葉を切り、ティアはカイルを指さした。
「あなたはそこに目をつけた。異国の料理とかいう物珍しさで生徒を釣り、食堂は晴れてこの学園の特色となりました。ご満足ですか? カリスマ気取りの料理番さん?」
「いや、そんな大層なモンじゃねえけど」
「へぇ? では何故、あなたはここまで手間をかけて、料理をこしらえるのです?」
「決まってるじゃねえか。——俺の料理を食ったみんなの、喜ぶ顔が見たいからだッ!」
カッコつけた言い回しである。が、すぐに周囲からの茶化す声が響く。
「まーたソレかよカイルちゃん! クッセエからやめてくれよソレ!」
「そうそう、毎回毎回聞いてる方が恥ずかしいっての! 何の影響受けたセリフなん?」
「うるっせえよテメエらはっ! ——ごめんな会長サン。せっかくいい話してる最中に」
「……有り得ない」
「は?」
「有り得ないんですよ。人が喜ぶから料理を作る? 冗談はやめてください」
「そんな事ねえよ。昼休みのひと時、少しでも楽しい気分になってもらえたらなー、って思ってるんだって! この学校の生徒全員にさ!」
「成程、ごはんを食べる人にだけ幸せを与えたい、と。ごはんを食べない人は無視、と」
「はい? いや、誰だってメシは食うじゃん? 変なこと言うなあ、会長サンは」
「……いますよ。ごはんを食べられない人」
「何?」
「いいえ何も。——しかし盛大ですね。この学園の堕落を象徴するようです」
クルリ。ティアは背を向けて、食堂全域を眺める。
「……ご覧なさい、この食堂を。ズルズルと下品にすする料理など、学園の品位が疑われます。今すぐやめさせてください」
「ええー、無理だろ。それより腹へってねえのか? 昼メシまだだろ?」
「か、関係ないでしょあなたにはっ! ととと、と、とにかくっ! あなたは派手にやりすぎです! 早くこのズルズルをやめさせてっ!」
「何だよ、腹減って機嫌悪いのか? ……——しゃーねえ、ちょっと待ってろ!」
そう言うとカイルはティアを置き去りにし、厨房へと引き返した。途端、どんぶりを取出して具やスープを叩き込む。
時間にして数秒。すぐにティアの方へと戻ってきた。
「ほら、これ! 食ってみな!」
「は……!?」
これ以上ないほどの渋面。ティアの視線の先は、カイルが抱えているどんぶりである。
「な……何です、これ」
「ラーメンだ! 何かアンタ、この食堂が気に食わないみたいだけどさ……一口コイツを食えば、そんな事はどうでも良くなるぜ? ほら、食ってみろって!」
「えっ、な、何……!? や、やめてください!」
混乱している様子のティアに構わず、カイルはなおも食い下がる。
「食べてみな、会長サン。ズルズルっと!」
「い、いりません!」
「ほら」
「イヤです!」
「まぁそう言わずに!」
「止めて!」
「いいから食ってみろって、ほら。一口でいいから——、」
「いらないって言ってるじゃない! 食べたくないのよ、『人が作ったモノ』なんて!」
————キィィイイイイイインッ!
鋭い剣閃が、煌めいた。
次に響いたのは、どんぶりが割れる高い音。床にラーメンがぶちまけられる音——。
ティアが剣を抜いて、一閃——。カイルの持つラーメンを、叩き斬ったのだ。
「や、やめてよっ……! 嫌なの! 私にそれを近づけないでっ!」
絶叫が、静まり返った食堂に響く。
抜いた剣の先は震えており、なおもカイルの鼻先へと向けられていた。眼つきも尋常ではない。敵意、というよりは恐怖に近い表情であった。
「……」
食堂全体が静まり返っている。
完全に、空気が凍っていた。誰も口を開かない。開けない。
生徒たちの視線は二人の足元へと向かっている。原型など残っていない。無残に、残酷に。ラーメン「だった」ものは、今では床に広がる汚物でしかなかった。
「……、………………」
長く、永く。静かな時間が過ぎる。
沈黙を破ったのはロザリーだった。席を立ち、二人の間に割って入ってきたのだ。
「……あ、あ、あああのね、カイルちゃん! ティアは、その、学園の現状を変えようと思っててね!? い、いろいろ頑張ってるんだけど、その、あの、え、えっと!」
「……違うわ、ロザリー。今はもうそんな事、どうでもいいの」
「どうでもよくないもんっ! どうしちゃったの一体!? ヘンだよティアっ!」
「気に食わないのよ。規律を乱し、食で人に幸せを分け与えてる気分の、この男が」
「……あ、謝ろう? ね?」
「お断りね」
「謝ろうよっ! カイルちゃんは食べ物を粗末にする事が一番——、!」
——パァン。
先刻のラーメンを斬り捨てた瞬間が「空気が凍った」ならば。この瞬間は「時間が停まった」に等しいだろう。
突然、平手でビンタを放ったのだ。
誰が、誰に。
カイルが、ティアに、である。
「……テメエ。食べ物を粗末にしてんじゃねえよッ!」
「っっっッ!」
ティアの表情が、一瞬にして憤怒に染まる。
彼女は感情をむき出しにし、カイルの懐に潜り込んできた。
一撃、二撃。素早く剣で斬撃を放つ。
「っな!? ……ち、ちょっと待て、殺す気かっ!? 落ち着けえっ!」
カイルはその場から飛び退き、回避。どうにか斬撃を食らう結末だけは避けられた。
両者の間隔が開く。——距離は五メートルほど。
その中心部に、すべての原因であるラーメン。どうにも恰好のつかない絵面である。
「……フン! 何です? 怒ってるんですか!? 自分の料理を台無しにされて!」
「俺が作ったからとかじゃねえ! 食べ物を粗末にするんじゃねえよバカ!」
「食べ物? アハハハハハっ! そんな下品な物体が食べ物!?」
「ンだとテメエっ! ——ってまたかよッ!?」
ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!
息をつく間もない。矢継ぎ早に、突きと斬撃が繰り出されてきた。
怒りに身を任せて攻撃を続行するティア。カイルは必死にそれを回避する。
「っ、この……っ! な、なんつー速度だよっ!?」
「は、初めてです……貴族であり、ソルシエール家である、私の頬をぶった方などっ!」
「……あぁなるほど、金持ちンとこのガキかオマエ! 通りで食べ物の大切さを知らねえワケだよなあ!? 魔術より常識学んだほうがいいんじゃねえの、なあお嬢っっ!?」
「『お嬢』? 私の事ですか?」
「他に誰がいんだよ!」
「やめてください、その呼び方ッ! 不愉快です!」
「やめねえよウスラ馬鹿お嬢が! とっととゴメンナサイしろっつってんだろ!」
斬り上げ、横薙ぎ、上段突き、袈裟切り——。
次々に放たれる攻撃を、カイルは器用に避け続けた。食堂という狭い場所にも拘わらず。勝手知ったる場所ゆえであろう。ティアの表情にも苛立ちが目立ってきた。
と、ようやくその攻撃が停止する。
「……フン。何を言っても無駄みたいですね。もう面倒です。『己』を賭けませんか」
「己……って。オマエ」
言い淀み、ティアの表情を窺うカイル。
さすがの鈍さを誇るカイルでも、彼女の言わんとした事が分かったらしい。
「……何言ってんだ。決闘のつもりか? 数年前に禁止されただろうが」
「ええ、ですから非公式で。問題になりますからね、教師の方々に嗅ぎ付けられたら。訓練とでも言っておけば、面倒事にはなりません」
「生徒会長がそれでいいのかよ……?」
「生徒会長だからこそ、です。私の権限で許可します。時刻は放課後でいかがですか?」
「か、構わないけどよ……」
「ふふっ、ありがとうございます。では勝った場合、負けた場合の落とし前を、事前に決めておきましょうか。まあ、もう決まってるようなモノですが」
「俺が負けたら?」
「この学園から出て行ってください」
「俺が勝ったら?」
「この学園から出て行ってください」
「……バカにしてんのか?」
「冗談です。何でも構いませんよ、お好きにどうぞ。私が負けるなど有り得ませんから。……そう、料理番に負けるなど!」
「ああそう。じゃあ分かった。俺が勝ったら……オマエにラーメンを食わせる!」
一瞬、ティアは面食らったが、すぐに取り澄ました表情で笑う。
「……ふふふふっ……! いいですね、それ! まあ何れにせよ、無意味ですけれど。結局勝利を手にするのは、私なのですからっ! ふふふっ!」
「随分と嫌われたもんだなあ、俺……」
「カイル・レヴェナントさん……あなたをこの学園から排除します。生徒の支持を受けて人気者気取りですか? 馬鹿馬鹿しいっ!」
「別にそんな気はねえよ。少し落ち着けって! つーか何でそんなキレてんの!?」
「許せない……許せないんですよ。ソルシエールの後継者としてっ! この学園を、随一の魔術学園をっ! タダの食堂学園にまで堕とし、おかしくした、あなたがッ!」
憤怒に満ちた言動。今朝見せた優しさは、今の彼女には皆無であった。
息を荒くするティアに、カイルが返した反応は、……溜息だった。
「……ハァ。つーか。俺に言わせりゃ、アンタのほうがおかしいぜ、お嬢」
「っ……。どういう、意味です」
「オマエ生徒会長だろ? この学校の現状に納得がいかないんなら、学園長に直訴すればいい。俺が気に食わない場合も同じだ。学校側に訴えれば済む問題だろ。なのにどうして直接、俺みたいなしょーもない料理番につっかかってくるんだ? 熱くなりすぎだろ」
「……し、知ったような口をきかないで!」
「しかもだ、ロザリーもみんなも言うように、こんな行動はお嬢のタイプじゃないらしいだろうが。……許せないのは俺でも学園でもない、別のモノなんだろ。違うか?」
「それは——、」
「俺にはまるで、オマエがこの食堂がキライに見える、…………いや」
「食べる事そのものがキライに見えるぜ?」
「っ」
カイルの断言に、ティアは言葉を失った。
近くで成り行きを眺めていたロザリーも加勢してくる。
「そ、そうだよティアっ! おかしいよ! 何で急にカイルちゃんと喧嘩はじめちゃったの? ついていけないよ、わたしたち!」
「……」
「前からそうだったよ!? なんかずっと食堂を避けてるみたいだったし、食堂の話題になると不機嫌になるし……! 分からないよ、ここまでする必要が! 何で!?」
「…………」
黙したまま、ティアは踵を返した。そして食堂の出口に足を向ける。
「……放課後ですよ。逃げないでくださいね」
「ティ、ティアっ! どうしちゃったの!? ね、ねえっ!」
追いすがってくるロザリーを放置し、ティアは食堂を後にした。
途端、食堂全域を覆っていた緊張が解消された。一気にざわめきが大きくなり、多くの生徒がカイルへと駆け寄ってくる。
「……お、おい。ヤバいんじゃねえの? カイルちゃん? 何やったんよ会長に?」
「知らねえよ。恨み買った覚えなんてないんだけどなあ……」
「職場どころか命すらヤベエかもよ? 何たって会長、『炎滅齎す貴剣(ノウブレイズ)』っていう二つ名を持つくらいの魔術師だしさー?」
「つーかカイルちゃんって、魔術がすっげーヘボかったよね? 勝算ゼロじゃないの?」
「へ、ヘボとか言うなよ! 俺だって傷つくんだぞ!?」
「だーって、ねえ……。カイルちゃんがマトモに使える魔術って、強化魔術だけでしょ? アレってヘボい魔術の代名詞じゃん。しかもカイルちゃんは『アウトサイダー』……」
「しっ心配すんなって! 大丈夫だ! 最悪でも引き分けに持って行ってやるから!」
「マジ? 頼むよ? ブックのまとめ役はオレがやるんだからさあ?」
「え、何……? 俺の闘い、賭けの対象にされんの……?」
「そもそも決闘が禁止された理由は、賭けの対象にされるからだろうが」。そう言おうと思ったが、やめた。厨房からの凄まじいプレッシャーを感じたからだ。
「……あ、メイ。見てた? あ、あのさ、……——ってオイッ!?」
ビュオンッ!
空を斬る音と共に、こちらへと投げつけられたのは……フライパン。
その鉄の調理具は、狙い過たず。カイルの頭部に衝突する。
食堂に「コーン」と、中身が空っぽである事を証明する、気持ちのいい音が響いた。
「さっさと手伝って。後片付け。サボんないで」
「は、はい……」
頭部から血液を垂れ流し、カイルは床に散らばったラーメンの片づけを実施した。
♢
午後の講義はつつがなく終了した。
鐘楼が五つ、鳴り響く。
十七時。つまり放課後——約束の時刻である。
現在、ティアは校舎一階にある女子更衣室に居た。
この室内は勿論、廊下にすら人の気配はない。彼女一人である。
「——……ん、……っと」
襟元のボタンを外すと、ブラウスが肩を滑ってゆく。
次にスカート、ソックスを脱いだ。白く細く、きめ細やかな彼女の柔肌が露わになる。姿見に映る己の姿は黒の下着のみである。肌寒さを感じ、ティアは両手で細い肩を抱いた。早く着替える必要がある。ロッカーを開け、戦闘用の魔装束を取り出した。
魔装束——。貴族が「誇りを賭した戦い」でのみ身に纏う、儀式用装束である。
魔力増幅の陣が刻まれたロンググローブ、ニーソックス。それに腕と肢をスルリと通す。次に膝上のスカートを腰の後ろで止め、身体に密着するタイプのバトルジャケットを上半身に直接纏い、紐を締め上げる。最後にブーツへ肢を通して、服装は整った。
そして、魔術の可動状況を確認——。
「《来たれ無辺の業炎。地獄の咢は総てを灰燼へと滅さん》。……『ワイドフレイム』」
術名と同時、掌から業炎が一気に広がり……そして消えた。
出力は充分。問題ない。
「……いけるわね」
言葉によって世界の法則にアクセスし、現象を引き起こす。それが魔術だ。
こうして詠唱文を口にすると、ティアは得も言われぬ高揚感を覚える。幾度も幾度も訓練を繰り返し、練り上げた魔術の数々——。それらは今や、ティアにとって己を構成する、最大の要素となっていた。今では『炎滅齎す貴剣(ノウブレイズ)』とさえ称される程だ。
故に、負けるワケにはいかない。この学園の規律を乱す、料理番ごときになど。
敗北は己の歩んできた路の否定に他ならないのだから——。
「お母様……見守っていてください」
カツン、とカカトを鳴らす。
腰に剣を差し、臨戦態勢。ティアは更衣室を出て、玄関へ勇ましく歩いてゆく。
……なのに。その足が途中で止まった。
怖気づいているワケではない。腹部が空腹を訴え、今にも「アノ音」を奏でそうなのだ。
「ああ。もう……っ」
廊下で一人。生徒会長は思案を続け、やがて。
「……だ、誰も見てないわよね?」
きょろきょろ。こそこそ。かさかさ。挙動不審に過ぎる動作で、ティアは周囲を窺い、……誰もいない事を確認すると、懐から小さなクッキーを数枚、取り出した。
歪な形である。大きさも不揃いで、お世辞にも美味しそうとは言えない。それをティアは口へと持っていった。
——ポリ。ポリ。極めて事務的で、極めて無機質である。
食事は空腹を満たすがための行為、それを地で行く食べ方であった。
二枚、三枚。やがて四枚目を食べ終わったところで、ティアは満足したのか、手をパンパンと払って口元を拭い、……………………、
「何? それ」
「ッ、ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!?」
噴き出した。誰も居ないはずの廊下で、声がしたのだから。
声の主は、自分の眼前に立ち、こちらをジーっと見ている小さな少女である。短い銀髪が季節外れの新雪が如く輝き、冷たさの中にも不思議な雰囲気を放っていた。
「な、な、な、な……ッッ!? 何っ!?」
混乱の渦中に叩き落とされたティアとは正反対、少女は穏やかに言葉を綴る。
「こんにちは。会長」
「……こ、こここここここんにちは? あ、あの……いつの間に?」
「今さっき。偶然見かけたから」
「な、なるほど。私が気付けなかっただけね、うん。…………ん? あ、あら? 確かあなた……メイちゃん、よね? 食堂の」
「うん。メイ・フラック。料理番の助手」
無表情でVサイン。
どうやらこれが彼女の決めポーズらしい。あの食堂でも見た覚えがあった。
メイは首を傾げて、ティアの手元を凝視する。
「何? それ」
「ッッッっ! あ、あの……これはっ! ………………ば、晩ごはん?」
「なるほど。晩ごはん。小食なんだね」
「え、ええ! そっそれで何か用かしら!? これからあなたの同僚と闘うのだけど!」
「別に用はない。偶然会っただけ。でも、言っておきたいかも。会長に。一言だけ」
姿勢を正し、メイは穏やかに告げた。
「会長は誤解してる。カイルを」
「誤解?」
「うん。カイルは、別に人気者になりたい訳じゃない」
無機質であるが、何より確信をもって、メイは宣言した。
ティアは反応に困る。そんな事は、言われなくても分かっていたから——。
「……大変ね、あなたも」
「大変? 私が」
「ええ。その歳で料理番の手伝いなんて。学校には行かないの? 何だったら、この学校に掛け合ってみるけれど……」
「気にしないで。好きでやってる事。カイルといると退屈しない。蹴りの的にもなるし」
メイのシュールな言動に、思わず頬が緩んでしまう。
妙な状況だ——そう思った。話題の中心はカイルだ。今からその相手との対決に向かうというのに、自分は笑っていた。この少女は、人の警戒を解くような雰囲気を持っている。
「頑張って。会長。応援してる」
「え……? 私を応援するの? カイル・レヴェナントじゃなくて? 逆じゃない?」
「ううん。会長を応援してる」
「あ、ありがとう……。もし負けても恨まないでね?」
「恨まない。むしろ僥倖。ぶっとばしちゃって。あの料理バカ」
「い、いいの!? そんな事言っちゃっても!?」
「いい。調子に乗ってるから。最近。料理のせいで家計が破綻寸前。いい薬」
それだけ言い残し、ぱたぱた。
紅葉の葉のような手を振って、メイは一足先に校門へと向かっていった。
またしても一人となったティア。脳裏を去来するのは「カイルは好かれているのか、バカにされているのか」という疑問である。今のメイにしても、学園の生徒にしても。
——カイル・レヴェナント。よく分からない男だ。考え無しの阿呆と思えば、本質を突いた発言を不意にぶつけてきたりする。
(食べる事そのものがキライに見える。……か)
誰にも気づかれなかった間隙を、ヌルリと穿たれる。そんな気分だった。
彼の言う通りだ。「人が幸せそうに食事をしている」。レクティア・ソルシエールは、その現実が気に食わないのだから。
♢
「さあて……そろそろだな」
カイルは、校庭の中心部で、開始の刻を待ち続けていた。
その地点を円型に囲むように、人垣ができている。
生徒会長との騒ぎを聞きつけたのだ。誰もがカイルに野次を飛ばし続けている。
「負けんじゃねーぞー! 一応俺は応援してやってんだからな、一応っ!」
「さすがに昼メシ食えなくなんのはキツいぞーオイ!」
「えー、現在のオッズは現在1対40っ! 会長圧倒的有利! さあ張った張った!」
「先に降参するってのはどうだあー? 怪我しないで済むんじゃねーのーっ!?」
好き勝手、各々が囃し立ててくる。
「……鍋料理かよ、アイツら。各々が各々の言葉(味)でうるさく主張してきやがって」
カイルは興が乗り、ちょっと言い返してみようと思った。
「いいのかオマエら、俺を応援しなくても! もう最高の昼飯が食えなくなるんだぜ!」
その煽りへ返ってきた反応は唯一つ……「爆笑」である。
「あははっ、逆に歓迎されちゃうでしょ、ソレ!」
「そうそう! 学校のランチ以外でもカイルちゃんの料理が食べられるって事だし!」
「次の職場が決まったら教えてよ! たまに行ってあげるから!」
ズズッ——。あまりにも温かい声援の数々に、涙と鼻水が止まらない。
「……ホント、幸せモンだね。俺ってば」
彼らはカイルの料理に対して、全幅の信頼を置いている。それはカイル本人とて自覚していた。が、こと料理以外となると、途端にナメられてしまうらしい。
頭を掻きつつ、自身の姿を見下ろしてみる。
現在のカイルの恰好は、厨房の時とほぼ同じ。エプロンを付けていないだけだ。
結果、黒のボトムスと黒の開襟シャツという服装だが、いつもの厨房とはまるで異なる雰囲気である。エプロンの「白」が与える印象は、それほどに強いものなのだろう。
そして、その手に握られているのは、……鍋のフタ。
野次の原因の大半はコレである。周囲の生徒たち、誰もが意見を同じくしているのだ。「コイツは真面目に戦うつもりがない」と。
そんな騒々しい現場、鮮やかな声色が目立って響いた。
「カイルちゃーんっ! こっち! こっちだよっ!」
人垣の前方から、ロザリーが軽やかな足取りでこちらに歩いてきた。
そのスカートが翻る度に、後方の野次馬から「うおおおおッ!」と雄叫びがあがる。丈が極端に短いため、その「内部」が見えそうになっているのだ。
「走んな走んな。あんま脚あげたらパンツ見えっぞ、このエロ娘」
「あー、そういうトコ気になっちゃうんだ! ダメだぞー、そんな眼でわたしを見ちゃ。わたしは生徒、カイルちゃんは職員さんなんだから! ふふふっ!」
眼前に至ったロザリーは、上目遣いでカイルに笑みを与える。無邪気な少女の容姿でありながら、妙にコケティッシュな所作である。本人は一切意識などしていないだろう。「副会長は圧倒的に男子に人気がある」と皆が熱く語っていた理由がよく分かる。
「……そういう無意識なところが人気の秘訣なんだろうな、お前の」
「えへへっ、そう? でもカイルちゃんには負けちゃうかなあ? 今も学園中の注目を集めて、こうして騒ぎ立てられてるワケだしねーっ! ……で、どう? 勝算は?」
「さあな。ま、手強い相手だとは理解してるよ。今朝も、相当な迅さで襲い掛かられたし。……アイツ、相当な使い手なんだろ?」
「あ、分かっちゃう? 多分、この学園でティアに勝てる生徒はいないんじゃないかなー。『炎滅齎す貴剣(ノウブレイズ)』なんて術師称号(メイジコード)すらあるんだよー」
「が、学生なのに術師称号(メイジコード)だア!? ……や、ヤベエだろ、それ……?」
術師称号(メイジコード)とは、優れた魔術師が持つ二つ名である。学生が手にしているなど極めて稀だ。
つまり。この学園の生徒会長は、常識外の魔術師という事になる。
「ふふふっ! カイルちゃん、怖じ気づいちゃった?」
「気は重くなったかな……周囲も完全アウェイだし」
「そんな事ないよ! みんな何だかんだいって、本当はカイルちゃんの作る料理を何より楽しみにしてるんだから! 誰も望んでないと思うよ、この学園からいなくなるなんて。……わ、わたしも、カイルちゃんには学園にいて欲しいし。ねっ?」
「お優しいお慰めありがとよ。……ンで、どっちに賭けたん?」
「えっ? な、何、賭けって? 何の話かな?」
先刻までの態度が一転。ロザリーの挙動が、不審にすぎるものへと変貌した。
「しらばっくれるなよ。俺とお嬢のどっちに賭けたんだ?」
「……ティア」
「お、俺じゃねえのかよっ!?」
「だだだ、だって! カイルちゃんって魔術がすんごくショボいんだもんっ! というかロクに魔術使えないんだもん! しかもティアはあの『魔術創造者』の娘なんだもん! ついでにティアの強さを知ってる身としては安全なほうを選んじゃうもん!」
「……覚えとけよ、ロザリー。オマエの注文だけ量少なくしてやるからな」
「なんでええええっ!? ……むうーっ! 酷いよおカイルちゃんっ!」
「何でもクソもねえだろうが! 大体オマエ、お嬢を止める側じゃねえんスか!?」
「そ、それは、……そう、なんだけど」
一瞬でロザリーの表情に影が差した。
「……ねえ、カイルちゃん。いつもはあんなじゃないんだよ? ティアって」
「らしいな。あのブチギレの理由に心当たりは?」
ロザリーは首を横に振る。
「意外と思い込みで暴走しやすい性格なんだよね、ティアって。……あ、でも前から食堂の話になると、途端に不機嫌になる感じはあったかな……何か理由があるのかも」
「食堂を嫌いになる理由、って、……想像つかねえぞ」
「だ、だから……ね? あの、何というか。あまり怒らないでほしいんだ。わたし、今回の騒動でむしろ二人が仲良くなってほしいって……、」
「——お待たせしました」
ロザリーの言葉を遮るように。凛とした声が、高らかに響き渡る。
カイルも野次馬も、全員が声の方を振り返った。
レクティア・ソルシエール。彼女が、魔装束と呼ばれる戦闘服に着替え、こちらへと向かってくる。
「…………じゃ、頑張ってカイルちゃん。賭けはともかく、ホントに応援してるよ」
雰囲気を察し、ロザリーは人垣へと下がった。カイルはティアに半眼を与え構える。
「よお……お嬢。来たな」
「お互いに。よくも逃げずにいられました。褒めてさしあげます。いい子、いい子」
「……オマエ、俺の事ナメてるだろ?」
「ナメてませんよ。バカにはしてますけど」
「それをナメてるって言うんだよ!」
黙り込む周囲を掻き分け、ティアはカイルの正面に立った。
魔装束——。もはや「完全に殺しに来たレベル」の装備である。
彼女の服装は、赤と白で統一されていた。そこかしこに魔力上昇の紋章が刻まれている。スカートはまだいい。が、上半身のバトルジャケットが、彼女の身体にぴったりとフィットしていた。お蔭で豊かな胸が殊更強調され、周囲の生徒は目のやり場に困ってしまう。
が、正面のカイルは無遠慮に、彼女をぼーっと眺めていた。
「……何です。ジロジロと」
「あ、いや、綺麗だなー、と思って」
「っっっッ! な、なあ、あああっ……っ!? な、何をッ! 精神攻撃ですか!?」
「何でだよ!? ただ褒めてやっただけだろ!」
「も、問答無用っ! やああああああッ!」
「ちょっ、待、——!」
言葉どおり。問答無用であった。
ティアは掛け声と同時、剣を抜いて一気に、カイルまでの距離を詰めてきた。
速い。
「っッ!」
カイルは鍋のフタをかざして斬撃を防御する。
——キィン!
鋭い金属音が、いやに大きく校庭に響いた。
「……何です、それ」
ティアの睨むような視線は、カイルの右手に向けられている。
「あぁ!? 見てわかんねえのかよ!? フタ! お鍋のフタっ!」
「でしょうね……。武器はどうしました。それとも魔術中心の戦闘スタイルですか?」
「いいや、コレが俺の戦闘スタイルだ! これぞ料理番、ってカンジだろ?」
「……ああもう。本当に馬鹿にしてますね! この私をっ!」
地を蹴り、ティアは一旦距離を取った。そして刹那で詠唱へと突入する。
「《幾千の兇刃、万物微塵に解体せよ》……っ!」
「く、っ!? 速いな!」
一切滞る事のない、流れるような詠唱である。
「斬り裂け! 『ウィンドジェイル』ッ!」
真空刃。風によって構成された無数の刃が、襲い掛かってきた。
直撃ルートだ。避けたところで、必ず身体のどこかには当たってしまう——。
そう判断したカイルは、またしても鍋のフタを前方にかざした。
「っ!」
ギャギャギャギャギャアアッ!
空気が震える。耳を塞ぎたくなるような不快音が、連続的に響いた。
殺到した刃が、次々にフタへ衝突しているのだ。尋常ではない衝撃に耐えつつ、カイルはそれらすべてを防いでゆく。
——やがて、真空刃は終息した。
風の魔術が引き起こした砂埃が、煙のように舞う只中。カイルは、無傷で立っている。
「……へぇ。頑丈ですね、そのフタ。なにか特殊な祝福でも受けているんですか? あぁそれとも強化魔術とかいう『おまじない』なんですかね?」
興味深そうに、生徒会長はそう問う。
が、答える暇など与えてくれなかった。すぐに攻撃を再開したからだ。
「おっ、オイお嬢っ! オマエ……っ!」
問いかけておいて答えさせないのはどうなんだ、そう非難したかった。が、カイルは放たれる剣戟を捌くのに手一杯である。
「く、お、お、ッ! ……なっ、なんつーラッシュだよッ!」
上段突き。袈裟斬り。三連続突き。下段薙ぎ払い。唐竹割り——。
斬撃を受けたと思ったら、すぐに次の斬撃が飛んでくる。
これではまるでリンチ……いや、「暴風」だ。反撃の糸口すら与えられず、一方的な暴虐に晒され、唯々終わりが訪れるのを待つ。そんな自然災害に等しい。
「ほらほらあッ! どうしました! 攻撃しないんですかっ!?」
「くっそ……、ッ!」
「いっそ降参したらどうです!? いえ降参してください! 私、面倒はイヤなので!」
挑発とともに、暴風は続く。終息の兆しを見せずに。
一撃一撃が、迅い。
一発一発が、重い。
ここまで練度を得るため、一体どれ程の研鑽を積んだのだろうか。
血筋だけではない。純粋に、この少女は強い。カイルはそれを今、実感していた。
「すごい剣術だ——。そんな事を思ってません?」
剣戟の最中、心を見透かしたような言葉が与えられる。
「あ、ああ! そうだよっ、そう思ってるよ! まるで反撃できそうもねえしな!」
「少し一方的過ぎますね。私も飽いてきましたので、そろそろ終わらせましょう。『奥の手』を発動しますね。……あなたには、圧倒的な敗北をさしあげます」
「え……ちょ、待って? この攻撃でまだ手加減してたの? 奥の手? え?」
「はい。それでは行きますね」
「ちちちちょ、ちょっと待、」
「《其は虚空を嚥下する咢。双牙を燃やし、仇なす者を喰らい尽くせ》」
「こ、攻撃中に詠唱!?」
「喰らって爆ぜろ! 『バーストゲイト』ぉッ!」
「くぅッ!?」
瞬間、空間が収縮するのが分かった。
これは……爆発魔術だ。
範囲は広きに渡り、その衝撃は先刻の真空刃などの比ではない。破壊力も保証済みだ。
こんな大魔術、鍋のフタでは到底防ぎきれない。
カイルはとっさに後方へと飛び退いた。
——一瞬遅れて、爆発。
炎が酸素を食らってその範囲を拡大する。
途端、周囲の生徒たちが、一挙にわあっと叫んだ。
「す、すっげええええええッ! やっぱ会長スゲエよ! 何なんアノ爆発の規模!?」
「こっちまで衝撃が届いてきたよ!? 魔装束のブーストがあるにしても……!」
ティアへの賞賛が耳朶を叩く中、カイルは中空を舞う。
直撃は避けられた。が、宙に浮いた身体は、爆発の衝撃を前面で受け、後方へと予定以上の距離を飛ばされてしまった。
着地。…………失敗。
あまりにもダサすぎる体勢で、カイルは地面に尻もちをついた。
「ってててて……っ」
煤、埃、砂。煙。微細な粒子が中空を舞う。視界が確保できない。
カイルは口をおさえつつ、この煙幕のどこからティアが斬り込んでくるか、待ち構えた。
視界を奪われた状態、仕掛けてくるならここしかない。
前か。右か。左か。それとも後ろか——。
が……ティアが飛び込んできたのは、そのいずれでもなかった。
「————ッ!? う、上、だあぁッ!?」
「頭上」だ。
跳躍だけではおよそかなわぬ角度から、斬撃が放たれる。
「くっ!」
ガキィィインッ!
かろうじてナベのフタで刃を防いだ。——が、あまりの威力で真っ二つになる。
これはもう使えない。そう見て、カイルは足元にポイと鍋のフタを捨てた。
……土煙が終息し、徐々に周囲の視界が晴れてゆく。
そして自身の眼前、その「少し上」に位置するティアに、カイルは驚愕した。
——浮いている。地面より、五メートルほど上に。
「じ、……冗談だろ…………!? 『飛翔魔術(エアムーヴ)』!?」
「ふふっ! どうです? 今や失われた魔術とさえ謳われる『エアムーヴ』——。これこそが、私の奥の手です」
誇らしげに語る彼女の背中には、蒼碧に輝く魔術翼が生えていた。この魔術物質で構成された翼が浮力を生み出し、高速戦闘を可能とする魔術。……と、以前カイルは何かで見た覚えがあった。現実に目にするのはこれが初めてだが、どこか神々しささえ感じる。
周囲からも、驚愕の声があがっていた。
「マ、マジかよ……っ! 嘘だろ!? 飛翔魔術まで使えんのかよ会長は!? アレって『絶滅魔術(ロスト・スペル)』だぞ!? 数十年前に確認されたのが最後の!」
「『桁外れの才能を要求されるから誰も使えない』って話だよな……」
「さ、さすがは『炎滅齎す貴剣(ノウブレイズ)』にしてソルシエールの血脈……っ!」
騒然とする中も。生徒会長の少女はひとり浮遊している。
一帯が砂煙で覆われた際、彼女はこの高さから斬り込んできたのだ。
「なるほどな……確かに、上空からじゃなきゃ不可能な攻撃角度だった」
上方のティアは攻撃を停止していた。宙に浮いたまま、微笑を見せている。
「上に私、下にあなた——。まさに私たちの力関係を表している、そう思いませんか?」
「……オマエ、俺の事バカにしてるだろ」
「バカにしてませんよ。バカだとは思ってますけど」
「それをバカにしてるって言うんだよ!」
毒づきながらも、カイルはティアの力に驚いていた。
(……予想外だぜ。お嬢が、ここまで高レベルの魔術師だったとはな……)
通常、魔術は集中力が乱れると発動しない。故に物理攻撃の最中は、魔術詠唱を停止し、攻撃に専念するのが一般的である。にも拘わらず、ティアはいとも簡単に、それを覆してみせた。かような戦術が実現可能な魔術師など、ごく一握りであろう。恐るべき集中力だ。
ばかりか、今では使える者のいない飛翔魔術すら、易々と使いこなしている。この若さで末恐ろしい魔術師である。精神も含め、相当の訓練を積んだに違いない。
……納得だ。ここまで魔術を究めたが故、食堂で騒ぐ現状に我慢ならなかったのだろう。
頭上で微笑を湛えたティアへ、カイルは一言だけ呟いた。
「……魔剣士(マギアフェンサー)」
「はい?」
「魔剣士。お前の戦闘スタイルだよ、お嬢。違うか?」
「ご明察です。って何を得意げに宣言してるんです? 見れば分かる事じゃないですか」
「妙だな、と思ってさ。オマエが魔剣士だという事実が」
「妙?」
「錬金術師(アルケミスト)、祈祷師(シヤーマン)、召喚士(サモナー)、回復士(ヒーラー)、制約師(ドルイド)、呪術師(カーズ)、自然魔術師(スカウト)……などなど。魔術師は、多くのタイプに分類される」
「あの。料理番に講義を開かれる覚えはないんですけど?」
「その中でも、魔剣士の立ち位置はかなり特殊だよな。魔術は攻撃魔術のみに特化し、同時に近接戦闘技術をも研ぎ澄ます。——『ただ戦うための魔術形態』だ」
「…………」
「つまり、潰しがきかない。魔剣士を目指すヤツの行く末は、軍人か傭兵か剣闘士くらいのモンだぜ? 何故そこまで戦闘に特化する必要があるんだよ? 『王都警備隊(スクード)』にでも入るつもりか? この国では最強の戦闘魔術部隊なんだろ、アレって」
「そんな気はありません。そもそも軍などはノリが苦手です」
「……じゃあアレか。『秩序の調律者(オルディネ)』とか?」
「は? ……っはははははははっ! 何言ってるんです!? 調律者? 馬鹿なんですか、あなたは? あんなものになるつもりないですよ!」
『秩序の調律者(オルディネ)』——。「世界秩序を調律する」と自称している独立組織の名である。
二百年前の大戦を二度と起こさぬよう、世界の均衡を乱す魔術師の排除を、目的としていた。この組織はいずれの国にも属さない。構成員は世界最高峰の戦闘魔術師数十名であり、また強さによって序列が与えられる。序列一位ともなれば、その強さは「たった一人で千人の魔術師に匹敵する」とさえ噂されていた。
彼らの標的は「異常な魔術の才覚がある者」「その存在が世界のバランスを崩壊させてしまう者」である。組織が「世界の均衡を崩す」と裁定した人物・集団を、独自に殺害・殲滅するのだ。その全貌は謎に包まれているが、大事件の度、その影を覗かせる。
禁術を復活させた王族の暗殺事件、戦略級魔術を継承していた村の焼き討ち、大物貴族の拉致——など。これら事件に、秩序の調律者(オルディネ)の関与が疑われていた。
「っくくくくっ……! いや、まさか。秩序の調律者(オルディネ)なんて言葉が出るなんて思ってませんでした! 面白いですね、あなたという方は。私が調律者って……くくくっ」
……が、現代。彼らへの一般的な認識は、冷めたものである。
「神きどりで選民思想な暗殺集団」。ティアの反応が、何よりの証左であろう。
「だーって。アイツらって戦闘においては最強の連中じゃん? 一人で数百人分の力を持つ魔術師ばっかって話だし。お嬢も入りたいから戦闘専門なのかなー、と思ってさ」
「有り得ません。冗談じゃないです、あんな人殺し連中。そもそも実在すら怪しいのに」
「それ聞いて安心したぜ。で? んじゃ結局、何でそこまで強くなりたいわけなんだ?」
「そうですね。強いて言うならば……『自分のため』。それ以外の理由は不要です。——私もあなたにひとつ、質問してもよろしくて?」
「よろしくてよ」
「なぜ魔術を使わないんです?」
穿たれた問いに、カイルは言葉を詰まらせた。
「だんまりですか? おかしいんですよね。攻撃魔術どころか、防御にすら魔術を使わないんですから。——通常、魔術師同士の戦闘では『魔術を盾で防ぐ』なんて手段は取りません。相反する属性の魔術をぶつけ相殺するか、魔術障壁を張るのが一般的です」
ティアは「でも」と言葉を続ける。
「あなたは違う。盾……もとい鍋のフタで魔術を防いでいました。こんな事をするのは、突然魔術の戦闘に巻き込まれた子供くらいのものですよ」
「……手加減してるから。ってのはどうだ?」
「ご冗談を。ここまで必死に立ち回っている人が手加減? 有り得ませんね」
「…………」
「唯一魔術らしきモノは、あの鍋のフタ……。アレ、強化魔術ですよね? でも強化魔術って『ショボい魔術』の代名詞ですよ? もはや魔術とすら呼べないレベルの」
ティアの推察に対し、カイルは。
「やっぱりバレちゃったか。へへっ。俺がロクに使えんのは強化魔術だけ、って」
答えに窮し、無理やり吐き出した苦笑。ティアは確信した表情を見せる。
「やはり。あなたは魔術を使わなかったんじゃない。使えないんです。そうですよね?」
「否定したいところだけど……否定したら嘘つきになっちゃうかな」
「……あなた、『アウトサイダー』だったんですか」
——アウトサイダー。「魔術の行使が著しく制限される者」の総称。
本来、魔術は誰でも使用できる。が、一億人に一人と言われる割合で、その「当たり前」が実現できない者が存在した。
さまざまな魔術が、人並み以下でしか顕現できない、そんな人間が。
カイルは薄く笑って、指に火を灯した。
「……見える? これが、俺にできる攻撃魔術の限界だ」
極めて小さく、弱々しい炎。息を吹きかければ消えてしまいそうだ。
「どう? やっぱり見下しちゃう? 今みたいに上から」
「そんな事しませんよ。アウトサイダーでも、立派に魔術職をこなしている方はいます。……でもあなたは別ですね。この学園の風紀を乱している。アウトサイダーの自分が魔術学園の生徒を料理で洗脳し、悦に入っている。愚かな自己満足のために」
「愚かな自己満足、の部分だけは合ってるな」
「……カイル・レヴェナントさん。あなた『魔術における四大要素』をご存知ですか?」
「ん? 『才能』『現象への理解』『集中力』『訓練』、——だろ」
「ご名答。その中で、一般的にもっとも重要と云われるのは?」
「……『才能』だ。適性とか血筋とも言い換えられるな」
「知ってたんですね。血筋、才能、適性——。要は生まれもってのものこそが、魔術のキャパシティを決定する。これは揺るぎない事実です。アウトサイダーは、この才能がゼロに等しい者だと云われています」
「でも『現象理解』『集中力』で、一般程度の魔術師まで至る者もいるだろ?」
「所詮、一般程度ですよ。また『訓練』などで得られる物などもたかが知れていますし。——まぁつまり……私はこう言いたいんですよ。あなたの勝ち目はゼロです。アウトサイダーでは、私の訓練相手にもなりません」
フン、と。カイルを文字通り見下す形で、鼻で笑うティア。
カイルは言葉を返す事もない。ただ黙って、彼女の宣言を耳に入れていた。
「……で? どうなさるおつもりです。また強化魔術ですか? 鍋のフタを失った今、次は何を強化するんです? ご自身の身体ですか?」
「…………」
「ああ、ムリでしたっけ、強化魔術を人体にかけるのって。身体が崩壊するんでしたね。ならば降参されてはいかがです? もう反撃する気も起きないでしょう?」
「いや、反撃はしたいところなんだけど、……ちょっと、気になってる事があってさ」
「煮え切らないですね。どうぞ? ハッキリ仰ったらどうです?」
「え。いいのか……言っても」
チラリ。カイルは自分の上に浮かぶティアを一瞥し、……目を逸らして告げた。
「……見えてるんだよなあ、さっきから。スカートの中)が……」
「っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!? へ、変態っ!」
瞬間、ティアは上空でスカートをおさえ、顔が一気に赤く染まる。
……正直、カイルはいつ、この話題を切り出そうか迷っていた。戦闘中の自分でさえ気付いていたのだ。つまり……周囲の生徒全員が気付いていたワケで。
「ぁ——あぁ、あああああああああっ!」
「ちょ、お嬢!? 落ち着け!」
カイルの静止も届かない。ティアは自分を見失い、空から一直線に突っ込んできた。
ビュオンッ!
魔術の翼による加速をともなった斬撃が、交錯の際で放たれる。
「っつ!」
どうにか屈んで回避——。が、それで終わる訳もない。
ティアはすぐに切り返し、逆方向から同じように突っ込んでくる。
「落ち着け! お、落ち着けってお嬢っ! 深呼吸深呼吸っ!」
「——、……——、ね?」
「な、何!? 何て言ったんだ!?」
「見えてませんよね!? みみみ、み、見えてなかったですよねっ!?」
「……く、黒?」
「色を言わないでっ! あああああああああッ!」
「……レース」
「うわああああああああッ! うわあああああああああアアアアアアッッッッッッ!」
ビュンッ! ザシュッ! バシュッ! ドシュッ!
四方八方、前後左右。ありとあらゆる方向へと飛び回り、でたらめにすぎる斬撃が繰り返される。もはや勝負も何もない。このままでは周囲にも被害が出るだろう。
「ったく、完全に空飛ぶバーサーカーじゃねえかよ! ……ちょっと本気出すか」
そう言うと、カイルは言葉を切って、深呼吸。
すぐに極めて小さな声で、長い呟きを綴ってゆく。
「……——《阿羅耶、那由多、迦楼羅、摩陀羅、……総て以て、我とせん》」
「はぁ、ハぁ、……ハァッ。…………、ん? 詠唱?」
息も絶え絶えに攻撃を停止し、ティアが眉間に皺を寄せる。
聞き覚えのない詠唱だからだろう。この詠唱文を、彼女が知るわけがない。
そう……知るはずがない。この魔術は、オマエたちには必要のない魔術だから。
心の中でそう思いつつ、カイルは誰も聞き取れぬ声量で、詠唱を終了させた。
——魔術、発動。
カイルはいつものように、発動後の状況確認を開始した。
手は動く。首も動く。そして足も、動く。視界は良好。五感に欠落もない。
……成功だ。
意識を新たに、上方へと視線を向ける。
「な……何ですか」
目的は唯一つ。彼女を。レクティア・ソルシエールを、拘束する。
息を吸い込んで、意識を前方上部に集中し。
カイルは、地を蹴った。
「——————っ!」
途端に、ティアの表情は驚愕に染まる。周囲からも盛大などよめきが発生していた。
理由は明白。いつの間にか、カイルが移動していたからだ。
上空、『ティアの背後』まで。
「な、何!? 風の魔術を展開しての高速移動!? アウトサイダーなんじゃ!?」
カイルは答えない。「見えぬ答えの前に敗北しろ」、そう言わんばかりに。
——そこからは、流れるような動作だった。
首に腕を廻して、背中に膝をあてる。剣を握る右手を押さえておく事も忘れない。
そして、そのまま前方へ体重をかけて……落下。ティアを地面に叩き付けた。
「っぐ! あああああああッ!」
落下の衝撃に、苦悶の声を絞り出すティア。
ここまでくれば後はもう作業だ。彼女の両手を背中に回し、捻った状態で押さえつける。
そして、カイルは魔力を帯びた右手を伸ばし——。
彼女のバトルジャケットを消滅させた(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。
「へ? ……——————き、きゃああああああああああああああああああああッ!」
「おわァ、っ!? な、何だよ!?」
尋常ならざる、ティアの絶叫。それに驚いてカイルは思わず拘束を解いてしまった。
——しまった。マズい。反撃が飛んでくる。そう思った。
が、ティアは両手で肩を抱き、その場にへたり込んで、立ち上がろうとしない。
「あ、あの……お嬢?」
パクパク。問いかけにも、金魚のように口を動かすだけのティア。
「……ふ、ふく」
「は?」
「ふ、ふ、ふ、服! 服をどうしたんですか!? わ、わ、私の服はっ!? ねえっ!?」
「う、うん……? 消滅、させたけど?」
「かかかかかか返してっ! 返してよおおおっ!」
何をパニくっているのだろう。今度はカイルが混乱する番だった。
「い、いや……そりゃそうだろ? そら服は脱がすよ? お嬢が着てるの魔装束じゃん? 着るだけで魔術出力が倍増するんだぞ? まずはその火力を奪うのが定石だろ?」
「か、火力を奪う!? ウソよ! 貞操も奪う気なんでしょうっ!?」
「上手い事言ってんじゃねえ! ……って」
カイルの視線がティアの肢体へと釘づけにされた。
——肢を崩し、胸をおさえ、顔は真っ赤で肩や背中が剥き出し。大きな胸も隠しきれていない。眼に涙を浮かべる羞恥の表情は、嗜虐心を妙にそそる光景であった。息を荒くして肌を紅潮させているせいで、何か間違いを犯してしまいそうな感情にとらわれてしまう。
騒がしい周囲に気付き、そちらをぐるりと窺うと。
「な、カイルちゃん……酷いよ! 女の子の服を奪うなんてっ! 見損なった!」
「いやいーぞカイルちゃん! よくやった! アンタやっぱ最高だわ! GOD!」
「男子っ! ちょっといい加減にしなよ、笑いごとじゃないよコレっ!?」
数々の罵声。一部の賞賛。それらが耳朶を叩き、ようやくカイルは気が付いた。
「大変なことをしてしまった」と。
つまり。自分は衆人の視線がある只中で、ティアを半裸に剥いてしまった。
「……や、やっべえっ! あ、あの! あのな、お嬢? べ、別にオマエを恥ずかしい目に遭わせるのが目的じゃなくてな? なんつーか俺の思慮不足? のせいでこんな事になっちゃったワケで、決して邪な感情が俺の欲望を、——……」
「っ!」
ティアは左の手で胸元を隠し、無言で立ち上がった。
そして……右の腕を振りかぶって。
パァンッ!
「最っ————————低ッ!」
強烈なビンタ。
それだけをカイルに与え、ティアは校庭から走り去っていった。
一方、カイルはその場に崩れ落ちた。
仰向けになると、視界を空が覆い尽くす。
「…………やっちまった」
「カイル」
とととっ、と。緩やかな足取りで、メイがこちらに走ってきた。
「真っ赤。痛そう」
「うん。痛い。でもこれでいいんじゃないかな。俺のビンタもこれで帳消しだから」
「ならないよ。チャラには。男子の力はつよい。破壊力換算であと十発は必要」
「マジか……あと十発、この痛みに耐える必要があるのか。きっついな」
「私も蹴りたい。カイルを。やり口が酷すぎる。あまりにも」
「……うん。反省してる」
「この豚め。このいやらしい豚め」
ゲシ、ゲシ。ささやかに、メイはカイルの右足にローキックを繰り返す。
魔術の反動でマジ痛いからやめて、と言える状況ではなさそうだった。
周囲の反応も、メイとそう大差のないものである。
「カイルちゃんさぁ……これ、負けた方がカッコ良かったんじゃねえの……?」
「なんかもう興ざめだわ。アホらし」
「……はーい、んじゃ解散でー。賭け金は後日返却しまーす……」
誰もがあれ程盛り上がったことを忘れ、ぽつぽつと解散しはじめた。
しばらくすると、この校庭に残るのはカイルとメイ、二人だけとなった。
「これに懲りたら、もう止めて。食堂に給与をつぎ込むの」
「……ああ。善処して努力するわ」
陽が沈み、辺り一帯を赤く染める。
カァー、カァー、と。烏が夕暮れを告げた。もう夕刻だ。
「……帰ろうか」
カイルは、隣の少女へとそう言った。
家に帰るどころか「土に還るわ」、そう宣言したい心境ではあったが。
陽が、完全に沈んだ。
もはや夜と言っても良い時刻である。
周囲も心なしか、静寂が目立つように感じられる。立ち並ぶ家々の窓から灯りが漏れ、どの家の煙突からも、良いにおいの煙が立ち上っていた。夕食の時間なのだろう。
「はぁ……また感情任せに暴走しちゃったわ。…………どうして、こんな目に」
——そんな中。家路についている、ティアの足取りは重かった。
原因は明らかである。あの料理番・カイルだ。
朝。訓練中に遭遇し「聞かれたら恥ずかしい音」を聞かれる。
昼。ロザリーに連れられ食堂へ。カイルの行いに取り乱し、なぜか対決する羽目に。
夕。カイルと戦闘。終始圧していたものの、最後は服を奪われ——、
「っっっ! な、ナシナシ! 忘れろ! 忘れなさい、レクティアっ!」
恥辱の記憶を上書きするように「忘れろ」を連呼するティア。
そう、忘れようとしているのだ。なのに……あの戦闘の「最後」が頭から離れない。
(何だったの、あの魔術……。アウトサイダーなのに風の魔術を使った……?)
加えてその後、服を完全消滅させた魔術。その見当も付かない。
あの瞬間を思い出す。一瞬で接近され、組みつかれ、地に叩き付けられ、服を——、
「っっっっっ! ち、違う! だから違う違う違うっッッ! 忘れろーっ!」
ブンブンと頭を振り、脳裏から恥ずかしい記憶を追い出そうとする。
「はぁ……明日からどんな顔して学園行けばいいのよ。……もう」
仮面でも被ろうか。そんな事を考え意気消沈していると、見慣れた屋敷が視界に入った。
ソルシエール家本邸。この街でも一、二を争う広大な屋敷である。
門を通過し、屋敷まで続く長い路を歩いてゆく。そして屋敷の扉を開け、中に入ると、大広間に控えていたメイドが深く頭を下げた。ティアとそう大差のない年齢だ。
「おかえりなさいませ、レクティアお嬢さま!」
「ただいま、ノエル」
メイドのノエルへの挨拶もそこそこに、ティアは二階の自室へと向かおうとする。
「あ、あれ? お嬢さま、もうお休みですか?」
「疲れたのよ。主に精神的に」
「はあ。——あ、あの、お嬢さま。…………ご夕食は?」
夕食。その言葉を耳にした途端、ティアの表情は、目に見えて不愉快になっていった。
「……あのね、ノエル。同じ事を何度言わせる気? 私は、人が作ったものを食べない」
「で、ですが。旦那様から言いつかっておりますので……」
「旦那様。十年以上も家に帰ってきていない男が、旦那様。歪んでるわよね、この家」
「それは……」
「しかもそれ、いつの言いつけ? もう期限とか切れてるんじゃない?」
「べ、別に期限などはありません……っ!」
「まあとにかく。私は私が作ったものしか食べない。それに今日の分は学校で食べたから。——以上よ。おやすみなさい、ノエル。厨房は使うからそのままにしておいてね」
「……はい。おやすみなさいま、」
「せ」まで、ティアの耳に届く事はなかった。
自室の扉を閉め、外部の声を完全にシャットアウトする。ノエルの事は嫌いではないのだが、こと食事の話になると口やかましいのだ。
「ただいま、お母さま」
入り口すぐ側の壁に掛けられた、母の肖像画に言葉をかける。
「……さて、と。眠る前に、明日のごはんの準備をしなきゃ」
いち個人が使うには、あまりに広すぎる室内。その中央を歩き、ティアはベッド脇に設置された、五十センチ四方の「魔導保存庫」の前に座った。
そして懐から出した鍵を差して、……カチリ。
分厚い扉を開くと、中には卵、バター、砂糖が整然と並べられていた。魔導を用いた最先端で最高級の保存庫のため、卵が腐敗する恐れもない。
だが、ティアはこの中に「一番大切なもの」が無い事に気付いた。
「……参ったな。小麦粉切らしちゃってた」
完全に忘れていた。帰り道で買ってくればよかった。が、愚痴っても仕方がない。
考えるが早いか、ティアは剣を腰に差し、制服のまま、自室を飛び出した。
階段を下りるとすぐ、ノエルがこちらに気付く。
「……あら? お嬢さま、もうキッチンをお使いに?」
「ちょっと小麦粉がなくなっちゃって。ひとっ走りして買ってくるわ」
「そ、そんなの! 私どもにお言いつけ下さったら、いくらでも使いに……!」
「気持ちは嬉しいけど、誰にも触れられたくないのよ。原料にすらね」
ノエルが悲しい顔をしたのを、ティアは目にした。
が、こんなのは文字通り日常茶飯事だ。特に気にかけず、彼女は屋敷を飛び出してゆく。
門を再度通り抜けて、敷地前の通りへ。向かう先は市街地だ。
「この時間なら、どの店もまだ営業中よね。……さて、どこへ行こうかしら」
ティアは薄暗い道を歩きながら、どの店で小麦粉を購入するか検討する。
原料といえど、結局は人の手を渡って販売されている。故に「何を混入されるか分かったものではない」ため、ティアは毎回、食材を買う店をランダムで変えているのだ。
「……っはは。ははは」
自嘲気味に笑うティア。自分を気遣うノエルすらも信用できない、自分の疑り深さに。
考え込みながら、各々の店の分岐点となる道まで向かってゆく。
そのせいで、周囲に人気が無い事に気付けなかった。
「あのー。すみません、お嬢さん。ちょっとよろしいですか?」
「っ!?」
不意に声を掛けられ、全身が緊張感を得た。
ティアは思わず腰の剣に手を伸ばす。もはやこれが習慣となっているのだ。
……が。声の主である男の姿に、若干拍子抜けする。
「お急ぎ中、申し訳ありません。道をお教え願いたいのですが……」
どう贔屓目に見ても「優男」といった風体だ。武器も所持している様子はない。フードを目深に被ってはいるが顔立ちもよく、人当りのよい笑みを口元に見せていた。
どうやら「刺客」ではないらしい。
剣の柄から手を放し、いくらか警戒を解いて、ティアは口を開いた。
「……ええ、構いませんよ。どちらまでですか?」
「はい! 実は僕、職を探してまして。この街の斡旋所はどこかな、と」
「ああそれでしたら、この路をまっすぐ行って、中央広場を右に、——……、」
そこまで説明すると、……突然「ポン」と。男は、ティアの肩に手を乗せた。
「え? な、何です?」
戸惑いの表情であるティア。男は笑顔を崩さずに、
「魔術を使ってみてくれませんか?」
と口にした。
「は……? ま、魔術、を?」
妙な要求である。初対面の相手に道を尋ね、答える前に「魔術を見せて」とは。
刺客ではないにしろ、やはり不審者だったのだろうか?
ならば、このまま撃退してしまおう——。
そう決めたティアは彼の言葉どおり、魔術の詠唱へと取り掛かった。
「《生まれ出る陽光、遍く総てを照らさん》——っ!」
速さを考慮し、選んだのは「目くらまし」。発光魔術だ。
詠唱は既に完了した。あとは術名を唱えれば、魔術はその形を露わにする。だが。
「明滅せよ、『レイスクエア』ッ! ……………………、え?」
一瞬、詠唱文を間違えたのかと思った。
発動しない。魔術が。
混乱で眼を泳がせるティアを、男は楽しそうに笑った。
「あはははっ! 驚きました? ……では、ちょっと眠っていてくださいね?」
言い終わるが早いか、男は瞬時にティアとの距離を縮め、腹部に一撃。
その意識を剥奪した。
「かは、っ」
苦悶の吐息を吐き出すティア。
くの字に折れ曲がり、力を失った彼女の身体を、男は片腕で支えた。
♢
「……軽いなあ。ちゃんとごはん食べてるのかな、この娘」
ぷらん、ぷらんと。
男はたった今意識を失った、ティアの身体を振ってみる。
少女ではあるが、女性らしい体つきである。普通の男であれば、さぞや扇情を煽られる魅力的な肉体だろう。幸か不幸か、この男にそんな趣味は無いのだが。
すぐに、隠れ潜んでいた賊らしき男が、彼の下へと駆けてきた。
「ヴァルダさん! お疲れさまっす!」
「別に疲れてないよ。イージーワークさ、こんなの」
ヴァルダ。そう呼ばれた男は、頭部のフードを脱ぎ去った。
年の頃は十八前後。端正で女性的な顔である。美青年といって良いだろう。特徴的なのは、極限まで冷徹な「瞳」だ。眼は心を映す鏡というが、とすれば彼の心は絶対零度まで冷え込んでいるだろう。そこまでの印象を抱かせる、冷たい双眸であった。
ヴァルダは意識のないティアを賊へと渡す。
「この娘、ホントに強いの? なんか凄い軽いし、あっさり捕まえちゃったよ?」
「そりゃヴァルダさんが相当な手練れだからっすよー。このガキ、妙に力を付けちゃってるらしくて。俺たち程度じゃ手が出せないんすよねえ」
「ふうん。ま、どうでもいいけど」
「いやーさすがっす! やっぱヴァルダさんに頼んで正解だったみたいっすね!」
ヴァルダは男の世辞に反応せず、むしろ彼の服装に目を引かれた。——濃い緑色の服。汚れが目立ち、穴だらけ。これでは「私は日陰者です」と喧伝しているようなものだ。
「……汚らしい服だねえ、キミ。まるでゴロツキじゃないか。少しは身だしなみにも気を払いなよ? 恰好の時点で不審者と思われたら、余計な面倒が増えちゃうよ?」
「恰好っすか? は、はあ……」
「まあいいや。先に行ってて。馬車はそこ。御者も既に乗ってるから」
「え?」
「聞こえなかった? 彼女を馬車に乗せて、リーダーさんの所に行ってて」
「わ、分かりました……。あの、ヴァルダさんは?」
「僕はちょっと調べものがあるから。んじゃ、後は頼んだよ」
「ええ……?」
ぽかんとしている賊の男を尻目に、ヴァルダは、街の中心街へと足を向けた。
頼まれた仕事はこなした。問題あるまい。
少しして、背後からバタバタと騒がしい音がする。さらに少し後、馬の鳴き声が響いた。ようやくあの男が出発したらしい。遠ざかる馬の蹄の音、車輪の音を背中で聞きながら。ヴァルダは歩みを続ける。
——正直、どうでも良かった。ヴァルダが仕事において重視するのは「血」そして「死」のみである。かの国に協力し少女を誘拐するなど、自分向きではない。
故にやる気がでない。子供の誘拐が仕事など、彼のプライドが許さないのだ。
『秩序の調律者(オルディネ)』——。その序列三位として。
♢
一方、ほぼ同時刻。
カイルとメイは、中心街から少し離れたところに居た。
雑貨屋。食材から日用品まで、幅広い品揃えを誇る店舗に。
店主の女性は、カイルの注文を復唱している。
「——ん、これで全部だね。明日の朝には必ず届くようにしておくよ」
「助かるぜおばちゃん。いつもありがとな!」
「あいよ。メイちゃんもいつでもおいで〜? 美人さんは場を明るくするからねえ!」
「美人? 私が? ありがと。おばさんもまだまだイケる」
「もぉー嬉しい事言ってくれるねぇ〜! ほら、これを持ってきな! おまけさ!」
そういうと、店主の女性はメイに筒状のカラフルなものを寄越した。
「……これ、花火?」
「そうそう、打ち上げ花火だよ〜。空に打ち上げるヤツの小型版さね。商店街の祭りの余りさ。なんならカイルに向けて発射しちゃいなさい、馬鹿なこと抜かしたらね!」
「うん。そうする。ありがと」
「あはは、駄目だぜおばちゃーん! ウチの子に変なこと吹き込んじゃ! 怒るぞー!」
「……本気で言ったんだけどねえ」
「もっと駄目じゃねーか! 教育に良くねえなこの街!」
釈然としない思いを引きずりながら、カイルはメイと雑貨屋を後にした。
この街は、深夜まで営業している盛り場が多く、それに伴って「食材を売る店」もかなり遅い時刻まで営業しているのだ。
つまり。二人の目的は、明日の食材の買いつけである。
残すはあと一件、野菜を買えば全て完了する。
食堂で使用する食材は、常に買い付けた業者から学園に送ってもらう手筈になっている。
ゆえに、手荷物など存在しないはずなのだが……メイの両手は、様々なものを抱えて一杯になっていた。買い付けの際、メイを連れてゆくと、店主が皆「おまけ」をくれるのだ。
メイが可愛がられ嬉しくなったカイルは、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いやー人気者だね、メイちゃん! 商店街を練り歩くだけで、生活費需品がそろっちゃいそう! いっそもう働くのやめて、これ一本にシフトしちゃおうか!」
「それは困る。児童買春斡旋で捕まる。カイルが」
「ち、違うだろ罪状が!? 誤解招くような事言うのやめろよ!」
どこからこんな言葉を覚えてくるのだろう、とカイルは不安になった。
最後の店は、さらに中心街から離れた場所にある。そちらへと歩みを進める二人は、さながら兄妹といった風情だ。
その妹が、兄に不意な質問を投げかけてきた。
「ねえ。何で本気でやらなかったの?」
「ん?」
元々言葉少ないメイだが、何の事を言っているのかは明白だ。あの校庭の件であろう。
「本気で、って。オマエ……それは『正宗を出せ』っていう意味か?」
「無論」
「ぶ、物騒なこと言うなよ! 死人が出るわ! あんなモン使ったら!」
「でも手加減できる。カイルなら。いくらでも」
「まあ……確かに、そうなんだが」
「それにあの戦闘はヘン。魔術をほとんど使ってない。どうして?」
「使ったよ、一瞬だけ。でも使ったら『服を脱がせた!』って怒られたじゃん!?」
「不幸だったね。可哀そう」
「そうだろー!? どうかと思うぜ、あのタイミングで女の武器を使ってくるなんて!」
「違う。可哀そうなのはカイルじゃない。会長。毒牙に噛まれたから。変態料理番の」
「そっちかよ!? ……ったく、魔術の使い損だぜ。お蔭で今も足が痛えわ……」
大袈裟に足をさすりながら、——つと、空を見上げた。
星がひとつ、ふたつと瞬くのが分かる。
道の脇には魔導式街灯が建ち並び、燐光を放っていた。さながらこちらは「地上の星」といった風情である。街灯が全域に配備されているなど、この首都アレスタ以外では稀であろう。この国の、ひいては街の豊かさを物語っている。
「悪くない街だ」。そう思っていた。生徒たちと馬鹿騒ぎをして、食事を作って、自分の料理で喜んでもらえる。それだけでいいと思っていた。
だが、そんな思いが、誰かを傷付けていたらしい。自分の与り知らぬところで。
真面目くさった調子でカイルは口を開いた。
「……メイ、徐々に荷造りしていけよ。どうやら出る事になりそうだから。この街」
「出るの? 料理番は? 辞める?」
「仕方ないだろ。今日みたいな騒動が続いたら、学園にも生徒にもに悪いよ」
「ヘタレだね。私は悲しい。カイルがここまで根性なしだとは。リベンジも頭にない」
「だーもう、うるせえっての! ……ほら、あと一件! 気合入れていくぞっ!」
「わかった」
二人連れだって、最後の店へと続く通りを歩く。
「決めてる? 次の仕事場」
「んー、どこってのはないんだが、……——って、危ねえッ!」
突然、カイルはメイの身体を掴んだ。そして抱きかかえるようにして、そのまま通りの端へと飛び込んだ。
馬車だ。座席を引いた馬車が、猛スピードで突っ込んできたのだ。
カイルは馬が停止したのを確認し、懐のメイを確認する。
「ッぶねえなあ! 無事か、メイ!?」
「……大胆。いきなり抱きしめるなんて。大胆すぎる。カイル」
「なにを勘違いしてんのアンタ!? 馬車に轢かれそうだったから助けたの!」
「好き……カイル……愛してる……」
「頬染めるのやめてくんない!? ロリコンじゃないから俺っ! とにかく無事ね!」
からかい飽きたのか、懐からしずしずと離れるメイ。
カイルも苛立ち顔で立ち上がる。途端、馬車の御者がギロリとこちらを睨んできた。
「テんメエエエエエエエっ! 前見てんのか、このクソガキ! ぶっ殺すぞ!」
「はあ!? オイオイ……言うに事欠いて何だよ!」
怒りのせいで、カイルはつい言い返してしまう。
「オマエさあ! 子供が歩いてんだろうが! しかも夜だぞ!? 何考えてんだ!」
「夜だ? 夜なら馬車は走っちゃいけねーってのかよ!?」
「はん……どおりで。余所モンだなアンタ」
「だったらどうするよ、あぁ!? ちゃんと前見て歩けや、ボケがッ!」
「前見てねえのはそっちだろうが! 大体この街はな、夜の運行、——が」
そこでカイルは、言葉を切ってしまった。
原因は視線の先。馬車の後部座席だ。
人が二人、乗っている。一人はボロを纏った男。もう一人は——、
……あれは。
「あぁ? 何だ? 何だよ?」
「あーいや、何でもないっス! いやースンマセンね! どうぞ行ってください!」
「チッ」
御者は舌うち一つ。パッカラパッカラと、馬車は街の外へと走って行った。
その行く末を、カイルとメイはジッと眺め続ける。
「……なあ、メイ。見たか?」
「見た。馬車の中。会長がいた」
「意識が無かったよな。しかも、隣に座っていたのは、どうみても」
「ゴロツキ」
「……選ぶ言葉に容赦がないよね、メイちゃん」
「つまり、会長は誘拐された。あのゴロツキに。そう推測される」
「確定じゃねーけどな。でも、その可能性が高い。この街って、夜の馬車運行は危ないから禁止されたんだよ、一か月前に。ンな状況で、お嬢が自ら馬車に乗るとは考えにくい。つまり彼女の意志じゃない。……状況証拠は揃ってるな」
「どうするの?」
短い言葉で指示を乞うメイ。
カイルはどうするべきか思案しようと、口元に手をあてて……やめた。
逡巡すら必要ない。答えは決まっている。
「……メイ。家に戻って、正宗をもってきてくれないか」
「おおっ。リベンジ? 会長に?」
「違っげえよ! 別にお嬢と再バトルしようってんじゃねえよ! 助けんだよっ!」
「分かってる。冗談」
「ほ、ホントに分かってる? そういう事言える状況じゃないかも、っての……」
「くどい、料理バカ。合図はこれを使って」
そう言うと、メイは懐から出した花火を手渡してきた。オマケでもらったあの花火だ。
「了解だ。じゃあ俺は馬車を追う。花火で合図した場所まで、アレを持ってきてくれ」
「うん。他には? 通報する? 王都警備隊に」
「その方がイイな。この国でも有数の戦力だからな、警備隊って。頼んだぞ」
「わかった。任せて」
お決まりの、無表情でVサイン。
そしてカイルの横に立つと、彼の頬へと——。
ささやかに、その唇をあてる。
「気をつけて」
「……ん? お、っ? おお」
すぐにメイは二人の住居へと引き返していった。
「ったく……ホント、毎度毎度、あの行動の意図がわからねえんだけど。まあいいか」
王都警備隊——通称・スクード。「アレサを守護する盾」とも呼称される、強力な魔術師たちの戦闘部隊だ。彼らさえ呼んでおけば、敵など物の数ではないだろう。
「……さて」
カイルの眼は、あの馬車が向かっていった方角へと差し向けられている。
馬車はもう視界から消えていた。が、その走行の痕跡は、しっかりと残されている。
車輪の跡だ。これを辿ってゆけばいい。
「待ってろ、お嬢」
呟いて、決意し。足早にカイルは街を後にした。
♢
「……ん、っ」
暗黒に呑まれていた意識が回復した。
小さな呻きと同時、ティアは瞳を開く。
——まず視界に飛び込んできたのは、石積みの壁。薄暗い灯りを反射し、石のブロックは不気味な色彩を見せている。
次に、自分の周囲を確認しようとして……目を疑った。
「……これは」
ティアは今、両手を上げた状態で、足を崩し座っているのだが、問題は頭上だ。両手首が鉄の錠で拘束され、そこから鎖が天井まで伸びている。
囚われ。今の状態は完全にそれであった。
「そういう、こと」
ようやく理解した。自分は誘拐されたのだ、と。
「油断したわね……こんな簡単に、捕まってしまうなんて、……っ!」
『炎滅齎す貴剣(ノウブレイズ)』が聞いて呆れる。悔しさに唇を噛むと、痛みとともに血が滲む。
が、お蔭で意識がハッキリとしてきた。故にもう一度、新たな気持ちで周囲を確認する。
室内は七メートル四方程度。床も無論、石造り。素足なので冷たい感覚が伝わってくる。天井の高さは、自分の部屋とそう大差がない。灯りは壁に置かれた数本の蝋燭だけ……といった様子である。
(窓が無い、という事は。ここ、地下室……?)
答えをくれる者が誰もいない中、一人で推察を重ねていると。
「お、目が覚めたかあ? レクティア・ソルシエール! ヒヒヒヒヒッ……!」
木の扉が開くと同時に、男の下卑た声が反響した。
声の主は、すぐにこの室内へと入ってくる。緑がかった汚れた服。そこかしこが穴だらけである。どうみても野盗か何かだ。
「……? 私を攫った人じゃないですね、あなた」
「察しがいいじゃねえか。そうだぜえ? ありゃプロの犯行、ってヤツだ。俺らァ相当な戦力でな。ボスに至っちゃ『これまで百人を呪い殺した』なんて話もあるんだぜ?」
実行犯——あの男がいないと聞き、若干の安堵が生まれた。やり合って敵うワケがない。ここまで簡単に、自分をかどわかした相手には。
「ふん、まあいいです。……私を解放しなさい! 今なら穏便に収めてあげます!」
「おお怖ええ! 脅しかあ? まあいいや、さっそく質問に——、」
「聞こえなかったのですか。解放しなさい。痛い目に遭いたくなければ!」
「……自分の状況分かってんのか? すげえ度胸だな?」
「自分の状況? …………——き、きゃああああああああああっ!?」
「ひゃア、イイ声ッ! 待ってた待ってたそういうの!」
ティアが悲鳴を上げた理由は、己の姿である。
今の今まで気が付かなかったが……半裸である。
衣服は取り払われ、下着だけ。そんな姿で、天井からの鎖に両手を拘束されているのだ。
ティアは羞恥よりも、怒りが沸々と湧き上がってきた。
「な、情けない人……っ! 恥知らず! 卑怯だと思わないのですかッ!?」
「思わねえなあ。全然思わねえ。ま、時間も勿体ねえし、……んじゃ本題に入るぜえ?」
くいっ。ティアの頤を持ち上げ、顔を接近させて。男は低い声で口を開いた。
「——オマエの父親はどこにいる?」
想定内の質問である。むしろ自分が攫われる理由など、これ以外には存在しない。
故に、返答はすでに準備されていた。
「知りません。知ってても答えません」
「ふん。まあそう言うよなあ? やっぱそうくるよなあ?」
「……まあ、そう言ったところで、信じてはくれないのでしょうけど」
本当に知らないのだ。今、父がどこにいるのかなど。
ティアの父、マクシミリアン・ソルシエール。彼はティアが三歳の時に姿を消し、現在も行方不明だが……こうしてティアを誘拐し、行方を知ろうとする者が、時折存在した。
今までも何度か経験した事である。その度、命からがら逃げ出したが。
「繰り返しますが、本当に知りません。知っていても、お父様の居場所は吐かないわ」
「へっへへへへへへ。だよな? 言わねえよなあ? そうじゃねえとオレとしても、とっても困るワケで。……おっと、ヨダレが」
品の無い笑いを披露し、男は懐から何かを取り出した。
黒革で全体が構成され、握りの先からは二メートルくらいの細長い「尾」が伸びている。
鞭だ。
あんな物で行われる行為など、容易に想像がついた。——拷問。
「……い、いやあっ!」
思わず身をよじり、逃げ出そうする。
が、言うまでもなく逃げ道などあるはずも無い。
魔術を放ち、逃げようと思った。が……無理だ。詠唱に必要な集中力を保てない。たとえ集中できたとしても、この男に詠唱を中断されるだろう。
故にただ震えて、男の手元を見ることしか出来ない。
「じゃ拷問開始な。すぐに答えんなよ、つまんねーから。……そおーれ、一発目えッ!」
「ひ、っ……!」
風を切る音が一瞬して。
——パァァアアアアアンッ!
強烈な破裂音が、室内全体に反響する。
「っっ————————、! っああああああああアアアアッ!」
ティアは激痛で絶叫した。
身体が弓なりにビクリと跳ね、頤を反らせた反動が、頭上の鎖を揺らす。
狙われたのは、太腿。すぐに赤い痕が浮かび上がった。
「あ、ああ……あっ! はぁ、はぁ、はぁ……あああ、っ……!」
——痛い。汗が滲む。息が荒くなる。鼓動も早くなった。尋常ではない激痛だった。
「うへへへへへっ。やっぱいいわー、オンナの悲鳴は! まだまだいくぞー? 喋らないと段々痛くなるぞー? そこには蝋燭もあるしな、色々楽しみだぜえ……へへへ!」
「いや……イヤあ……っ! も、もう、やめてえ……!」
涙が頬を滑る。
この激痛が何度も続くのか——。そう考えると、気が遠くなりそうだった。
嫌だ。もうイヤだ。
身も心も凌辱され、人としての尊厳も奪われ、ここで朽ち果てるなど。
こんな、小物の男によって。
「はあーい! 二発目ええッ!」
「っ……ぅああ……——ッ! い、いやああああああッ!」
涙を伴った絶叫が響き渡る、室内。
「————ヘイ、お待ちいぃッ!」
バァンッ!
突然、威勢のよい掛け声と共に、扉が蹴破られた。
闖入者だ。部屋の外の薄暗さで、その顔までは判別できない。
「……誰だ、テメエは」
「俺? 料理番」
「はあ? 頼んでねえぞ。勘違いだ。消えろ」
「いやいやそう言わずにっ! タダでいいんで、是非とも食らっちゃって下さいや!」
そう言うが早いか、闖入者は素早く腕を振って、何かを投げた。
銀色に光るソレは一直線に、鞭を持つ男の頭部へと向かい——突き刺さった。
「——俺のフォークを。なんちゃって」
「あ」
トン。
ささやかに過ぎる音を伴い、額に刺さったそれを見て……ティアは目を疑った。
フォークだ。食器の。
それが賊の頭部から生えているかのように、突き刺さっているのだ。
「ガハ、………………ッ!」
ドサリ。多くの言葉を吐くことも無く、賊の男はその場に崩れ落ちる。
「ふーっ。やっぱ、備えあれば憂い無し、やね。持っててよかったわー」
「だ、誰なのっ!?」
ティアは前方へと目を凝らす。黒い衣服。冴えない表情。そして、飄々とした態度。
室内へと踏み入ってきたのは……今日、放課後に校庭で戦った相手であった。
「料理番参上だ! 助けに来たぞー、お嬢」
「カイル・レヴェナント!? ど、どうして!?」
「ってまた裸!? ホ、ホント好きねえ、アンタ……」
「え? ……——きゃ、きゃあああああああああッ!? み、見ないでくださいッ!」
「ばっ馬鹿!? 騒ぐなって!」
分かってはいる。が、叫びの一つでもあげたくなるというものだ。
この男の眼前で裸体を晒す羽目になるとは。一度ならず二度までも。それも一日の間に。
「ううっ……! イヤ……、もうイヤ……! 死にたい……っ!」
「死ぬとか言うなよー、せっかく助けにきてやったのに……。誘拐されたんだろ?」
「え……ど、どうしてそれを? というか、なぜこの場所が?」
「お嬢を連れ去る馬車を見かけてな。そこで倒れてる男が誘拐した奴か?」
「……違うわ。多分。もっと細身で、もっと若かった気がする」
「だろうな。お嬢ほどの実力者を簡単にかどわかす奴が、一撃でやられるハズもねえ。ま、事情は後だ。とりあえずここから逃げるぞ」
「あ……あ、あの……服を着てからでいいかしら?」
「あ、当たり前だろうが! 早く着替えてくれよ、そっち向いてるからっ!」
ティアの身体を視界に入れず、カイルは器用に手元の拘束を外した。
そしてそそくさと背を向ける。部屋の隅に置いてあった、彼女の衣服を突きだして。
「……早くしろよー」
「あ、ありが、とう……」
泣きそうになった。ぶっきらぼうでありつつ、こちらを気遣ってくれる彼の優しさに。
だが——絶対に涙は見せたくない。特にこの男、カイルの前では。
衣擦れの音を奏でつつ、ティアは着替えを開始した。
その途中も、倒れ込んだ男が視界に入ってくる。衝撃で意識を失ったのか。既に死んでいるのか。ティアには判別しかねた。
(……にしても)
見れば見るほど、異様な光景であった。もはやシュールとすら言える。
頭にフォーク、その絵面が。
頭部の頭蓋を突き刺すほどの威力など、本来この脆弱な食器で出せるはずがない。
(魔術……? それともただの馬鹿力……?)
先端を磨き上げた「武器として機能する特殊なフォーク」なのだろうか。料理人らしい武器ではあるが……。そう推察していると、次に起きた現象にティアは目を見開く。
男の頭部に刺さったフォークが、ボロボロと。砂のように消え去ってしまったのだ。
「え!? な、何!? 崩れたわよ!?」
「あーそうか、お嬢は見たことないかコレ。俺の魔術の結果だよ!」
ティアの疑問を察したか、カイルは背を向けたまま指を立てる。
「ここで、成績優秀な生徒会長サマに質問。『強化魔術を施せる武器の条件』は?」
「え、……術者が長期間にわたり使用し、自分の魔力を浸透させる必要があるわ」
「正解。じゃあもし、初めて触った武器に、大量の強化魔術をかけたら?」
「大量の強化魔術? ……その時点で机上の空論よ。だってそんなの不可能……、」
「空論でも暴論でも何でもいいから! どうなるよ?」
「……物質崩壊が起こる。魔術経路が構築されてないから、分子結合が不安定になって」
「はいまた正解っ! その現象が今のだよ。校庭でお嬢の服を消し飛ばしたのは、その物質崩壊の応用さ」
カイルの回答により、抱き続けてきた疑念が、ようやく形を得はじめた。
——このフォークは、強化魔術を施されていた?
つまり。
「ちょ、ちょっと待って……? じゃあ何? あなたが使ったのは、強化魔術って事?」
「そうだよ。それの超強力版。いうなれば『強化強化魔術』みたいな?」
つまり、先刻の現象はこういう事だ。——フォークに強化魔術を施し、敵に投げた。
以上。言葉にしてしまえば簡単である。が……。
「う、嘘よ! 知ってるの!? 強化魔術の本来の使われ方を!?」
「鍛冶師が剣の仕上がりに気持ち程度でかける魔術、だろ?」
「そうよ! 不可能なの! フォークを頭蓋に突き刺せるほど、攻撃力を上げるなんて! 一体どれだけ物質構造を学べば実現できるの!? 錬金術師でも無理よ!?」
「らしいな。そもそも『分子構造の理解』の時点でみんな諦めるって話だ」
「諦めるどころか、誰もやろうとすらしないわよ! 錬金術師でさえ機器や薬品で物質を単一に分けて分析、そして膨大な実験に次ぐ実験を繰り返して、ようやく『物質変換』の魔術が物質に通る……彼らですらその程度よ!? 解ってるの!? それほど困難な行為なの! 物質に魔術を加える行為っていうのはっ!」
「え? お、お嬢? 何か怒ってない……?」
「あ、あなた……一体どういう人間なんです!? 料理番、なのよね?」
「別に? 最初は包丁の切れ味を上げるために始めたんだよ。それがどういうワケか、俺はこの魔術だけは得意でさ。まあ誰にでもとりえはある、って事なのかな」
信じられない。ティアには、眼前の男の語る言葉が。
例えば、包丁は「切るもの」。その機能・特性を引き上げるのが強化魔術だ。
……が本来、カイルが行ったような、劇的な上昇効果は期待できない。
不可能なのだ。そこまでの魔力を物質に送る事など、机上の空論なのだから。
原因は、魔術の四要素がひとつ『現象への理解』である。
火炎魔術などは「空間に炎を顕現させる」という、ひどく曖昧な理解でも魔術として成立する。だが強化魔術は「魔術を施す物質そのもの」への理解が無ければ不可能だ。
つまり、分子構造や物質特性を、術者が理解している必要がある。「現象への理解」どころか「物質への理解」にまで、要求される理解が拡大されるのだ。ティアの言葉どおり、錬金術師ですら膨大な手順・設備を経て、ようやく実現するレベルである。およそ人類単独では不可能な領分だろう。
だが。カイルはいとも簡単に、それを実現してみせた。
今しがた眼にしたティアでさえ、信じられない。
「そ、そんな……ありえない。しかもあなた、アウトサイダーでしょう!?」
「だからこそだろうな。アウトサイダーゆえに、ここまで強化魔術が伸びたのさ」
「アウトサイダー、ゆえに……?」
「今度は逆に俺から質問だ、お嬢。魔術の行使には何が重要だっけ?」
「……『才能』『現象への理解』『集中力』。そして『訓練』の順で重要ですね」
「ん。で俺はアウトサイダー、一番重要な『才能』がゼロに等しい。だからこそ他の三つを磨き上げ、ここまで強引に引き上げたんだよ」
「『才能』以外の三つで強化魔術を伸ばしてきた、……という事?」
「ああ。集中力は元々高かった。訓練も嫌いじゃない。唯一才覚があったとしたら『現象への理解』だろうな。これだけは何故か異様に得意だったんだ。触っただけで身体の一部のような、そんな感じがするんだよ」
「才能がないアウトサイダー……普通の魔術は使えない。だから現象への理解、集中力、訓練で、誰も使わない強化魔術を究めた……?」
「いいまとめだな。そもそも誰も考えないからな、強化魔術を究めようなんて。誰だって他の魔術を優先して習得する。それほどに使い道のない魔術なんだ、これは」
使い道がない——。戦闘においても、強化した剣で攻撃している間に、魔術は大規模な破壊をもたらす。効率が最悪だ。故に誰も使わない、覚えない、究めない。ゆえに現代において強化魔術は発展しなかった。
「ま、唯一の例外は鍛冶師だろうな。素材の時点からその物質に触れてるから、物質に自分の魔力が通り易くなっている。俺みたいに『強化魔術に全振り』してるワケじゃないし、結局まじない程度の効果しか期待できないけど」
「全振りしたところで土台無理よ……。物質への理解が及ばないでしょう?」
「ははっ、かもな。まーオマエらと違って普通の魔術を使えない、……つまり普通の魔術を『覚える必要がなかったから』ここまで強化魔術に専念して究められた、って事だよ」
そう結ぶと、カイルは背を向けた状態のまま黙った。
ティアは着替えを再開しつつも、カイルという男を測りかねていた。
——彼は魔術の才能が無かった。が、物質への理解という点だけは優れていた。ゆえに持前の集中力と訓練により、誰も使わない強化魔術を究めていった……という事だろう。血筋が重視される貴族の者として、およそ信じられない存在である。
思考がそこまで及び、ティアはようやくブーツの紐を締め終わる。
「……もういいわ。着替え終わりました」
「っし。んじゃ行くぞ」
「あ、待って。武器が私の剣しかないけれど……他にはいらないの? この男の鞭とか」
「いらないんじゃね。俺、鞭は叩く方より叩かれるほうが好きだし」
「……は?」
「冗談だっての。冗談じゃねえけど」
「そう。冗談であってほしかったわね」
もうここに留まる理由はない。二人揃って、出口へと足を向ける。
が……ティアは、最後に一度だけ、ちらりと。足元で転がる賊の男を一瞥した。
「……死んでるの?」
「さあな。この程度なら死んでねえんじゃね? まあどっちでもいいさ」
「ど、どっちでもいい……って……」
「ボスだけで充分ってこと、生きたまま話を聞き出すのは。——ほら行くぞ、お嬢」
それだけ言うと、カイルはこの部屋から出て行った。
……違う。そんな事を訊いたんじゃない。
生きてようが死んでいようがどうでもいい。そう言ったように聞こえ、訊き返したのだ。事実、カイルはそのつもりで言ったらしい。結果が生死、そのどちらでも構わない、と。
この男は、ひどく生命の扱いが軽い——そんな気がした。
「ま、とりあえず外に出るぞ。早くしねえと仲間が来て面倒になるからな」
この男に微かな戦慄を覚えつつ、追随する。
外は廊下だった。長く長く続き、その向こう側に階段が見える。建物の地下なのだろう。
二人揃って無言で階段の方へと駆けてゆく。やがてその階段をのぼってゆくと、風が頬を叩くのを感じた。
——出口だ。歓喜を伴って、飛び出そうとするが、カイルは腕を開いてそれを制した。
「お嬢、下がってろ」
「え……? どうしたの?」
理由を聞く前に、ティアは出口の向こうを覗いた。……途端、発言の意図を理解する。
敵だ。この出口が、無数の敵に囲まれている。
「な、なんてこと……! 一体どこにこれだけの……!」
「面倒だな。とりあえず外に出るか。いきなり攻撃してくる様子はねえし」
落胆を伴い、ティアはカイルと外に出た。
周囲を確認する。——まず今、自分達がいるのは、森の中だ。樹木が周囲に立ち並び、夜の闇を一層深くしている。先ほどまでの地下へ続く入り口は、枯れ木や草で覆われ、巧妙に隠されていた。まさに隠れ家といった風情。街との距離は不明だが、少なくとも市街地からは大きく外れているだろう、とティアは推測した。
カイルもティアと同じく、周囲を見回している。
……というより、自分たちを囲む、敵の人数を確認しているようだ。統一された服装ではない。鎧をまとう者もいれば、フード姿の者も見て取れた。
「二十、三十、——四十人ちょいか。……でも変だよなあ。ここには一人しかいなかったってのに。何で今になって、こんな人数が集合してるワケ?」
「我々は『分散』しているのだ。それが今、集結したに過ぎん」
「お?」
声の主は、包囲網の一番向こう側。
二人揃ってそちらを見ると、年配の男が、不敵な笑みを浮かべていた。
紫色のローブで全身が覆われ、まさに魔術師といった出で立ちである。白い口髭が目立っていて、老獪な雰囲気がこちらにも伝わってくる。
「アンタがリーダー?」
「その通りだ。我が名はパーディアス・ヘカトンケイル。呪術師(カーズ)だ」
「あ、ご丁寧にどうも。俺はカイル・レヴェナント。料理番やってます」
「……料理番? なぜ料理番がここにいる?」
「なんでっすかね。成り行き?」
「フン。要は紛れ込んだ鼠、そんなところか。取るに足らんな。塵め」
呪術師パーディアスは鼻で嘲笑した。
「運がないな、貴様。まさか撤収のため集まったところに出くわすとは」
「え……じゃあオマエ、手下を全員集めて引き返すところだったって事? あちゃー……こりゃまた、随分間の悪いときに逃げ出しちまったなあ……」
「その少女を手中に収めたのだ。最早あの街に留まる理由などない」
「なんでお嬢を誘拐したん? 金持ちだから?」
「知らんのか塵。その少女は、あの『魔術創造者』マクシミリアン・ソルシエールの娘。かの者をおびき出すには、最適な存在だ」
「ソルシエール? ……ああ、そういう事か」
得心がいった。そんな表情で、カイルはティアの方へと振り返った。
「ようやく思い出したぜ。あのソルシエール卿の娘だったのか、お嬢」
「……そうよ。もう顔なんて覚えてすらいないけど」
「マクシミリアン・ソルシエール。名門ソルシエール家でも特に際立った魔術能力を持ち、歴史上の大魔術師と呼ばれる者のように『魔術を創造する』ことが出来る。が、その強大な能力は、世界のバランスを簡単に変えてしまうため、『秩序の調律者(オルディネ)』から狙われることを恐れ、行方をくらませた——。そう何かで読んだ覚えがあるな」
「おまけに自己中。それも付け加えておいて」
「そうか? 魔術を創造できるなんてスゲーじゃねえか。立派だと思うぜ?」
「どこが。……一度も家に戻ってこない人の、どこが」
ティアにとって、父親は「立派な存在」とは程遠い位置にいる存在だった。
母が死ぬ原因を作った男。母が死んだ時も帰ってこなかった男。そして今も……こうして、自分が死地に放り出される原因を作った男。その程度である。
「なるほどな。大体理解したぜ。お嬢を人質に、父親を脅して引き入れようって事か?」
「正解だ。かの男を引き入れれば、それ即ち強大な力となるからな」
「ふうん……つーかアンタ、割とベラベラ喋っちゃってるけど、いいのそれで?」
「構わんさ。貴様のような塵に何を言おうと。それに——、」
「どうせすぐに殺すから。そう言おうとしてる?」
パーディアスは答えなかった。代わりに、手を挙げた。
すると微動だにしていなかった大勢の敵が、包囲の輪を狭めてくる。
カイルは、心底ウンザリした表情である。
「あーあ……だから言ったんだよ、地下で。『早く出ないと面倒なことになる』って!」
「ええそうね。実際なってるわね。面倒なことに!」
「ま、面倒なだけだけどな」
「え?」
訊き返すティアの隣、カイルは己の懐へと手を伸ばした。
「そう……『面倒なだけ』だ。いちいち相手してやるのが」
懐から引き抜いたのは——十本超の、フォーク。先刻、賊に投げつけたモノと同じだ。どうやら懐に十数本、常備しているらしい。
それを、カイルは目にも止まらぬ速さで、投擲した。
——「ぐあ」「うッ」「カハっ」。呻きと共に、フォークで刺された賊の数名が倒れ込む。
「へへっ……どうよ! これぞ料理番、ってカンジの武器だろ?」
周囲の賊は一気に警戒、……していなかった。白けた空気だけが満ちている。
理由は明白。手勢の数名を無力化したに過ぎないのだから。
「……料理番。それで全部、か?」
「ん? うん」
「無駄極まる抵抗だな。この程度では、戦力を削いだ事にならん。底が見えた」
パーディアスの嘲り。が、カイルは——。
「心配すんなよ、大将。代わりなら幾らでもあるさ。……『幾らでも』、な」
小石。レンガ。枯れた小枝。足下に落ちているそれらを、拾い集め。
すぐに小さな声で、長い呟きを綴ってゆく。
詠唱だ。
「え、……? そ、それに強化魔術を使うってこと!? ウソでしょ!?」
そんなもので戦える訳がない。今すぐ逃げよう。ティアは、そう言いたかった。
が、もう手遅れだ。
「殺せ」
パーディアスが、総員に号令をかける。
途端、一斉に包囲していた全員が、こちらへと攻撃を開始した。
ある者は剣を抜いて。ある者は詠唱を開始して。
人質である故か、ティアは彼らの標的からは外されていた。
殺意はすべてカイルに向けられている。
「……に、逃げて!」
それしか言えなかった。剣を抜くこともできなかった。
カイルはそんなティアの言葉に微笑し、前方を睨むと。小さく口を動かした。
「——調理(戦闘)開始だ」
それだけ言い残し。
姿が消えた。
「……え」
呆然とする。言葉のアヤではない。本当に、カイルの姿が消えたのだ。
これが幻ではないと確信したのは、敵の反応である。
「な、………………!? ど、どこだ! どこに消えたっ!?」
彼らもカイルの存在を見失っている。
右往左往、放つはずだった魔術も斬撃も標的を失って、動けずにいた。
あのパーディアスですら、驚愕で眼を見開いている。
「どこ見てやがる。こっちだ」
「ッ!?」
不意に響いた、カイルの声。誰もがその発生源へと振り返った。
視線が向かうのは……包囲の外。
消えた地点から、数十メートルは離れていた。常識ではありえない移動距離である。
ティアには覚えがあった。校庭で自分の背後を取った際の、あの高速機動——!
「……て、テメエッ!」
一番カイルの近くにいた鎧兵が、斬りかかる。
カイルは既に、両腕を振りかぶって迎撃態勢。
彼がその手に握っているものが何か、ティアにはよく見える。
枝だ。さっき、地面から拾った。その枝を握り、袈裟斬りの要領で。
——振り下ろす!
「ガ、ハァっ!?」
断末魔と共に、鎧が砕ける音が響く。
襲い掛かった男は、血を撒き散らし、血反吐を口から吐き出し。倒れ伏した。
「な、なんだ……アレ」
「枝だろ……? な、何であんな威力が……? 夢でも見てんのか?」
周囲の「困惑」は「動揺」へと移行していた。
尋常ではない。木の枝が武器になる、そんな状況は。
「……か、構うなあっ! 武器が枝だあ!? 遊んでんじゃねえぞテメエッ!」
が、次は別の男が果敢にカイルへと突撃した。
そんな彼に対して、カイルが取った行動は、極めて単純である。
レンガで殴ったのだ。下から上へ。顎を抉るように。
結果。
「ぅお——わああああああああああああああああああああああっ!?」
吹き飛ばされている。宙を舞っている。
男は、きりもみ回転し、捻じれて折れ曲がって……やがて森の木々の向こうへと消えた。
「……と、飛んだ?」
周囲の「困惑」は「動揺」へ。そしてすぐに「混乱」まで至った。
「な、…………何だ。何だよ。——何なんだコイツはアアアアッ!?」
そして「混乱」に「恐怖」が入り混じる。
もはや訳も分からず、四人の男がカイルへと襲い掛かった。——が、結果は同じである。枝で斬られ、レンガで飛ばされて。
その間、少し遠くで詠唱が開始されたのを、カイルは見逃さない。
「《森羅万象を統べる大地へと告ぐ、我が呼びかけに答え、——、」
パァンッ! 耳を覆うほどの炸裂音。
魔術は放たれなかった。カイルが数個の小石を、礫として投げつけたのだ。
魔術師の男は肩口から血と肉を吹き飛ばし、術を発現することなく、崩れ落ちた。
これで、七人目。
「た、ただの小石なのに……! ここまで破壊力が出せるの……!?」
ティアには、眼前で繰り広げられる戦闘が理解できない。
——小石。銃器と遜色のない威力。
——レンガ。その破壊力はまさに戦斧。
——枯れた小枝。自分が剣を振うよりも強力だ。
異形であり、異様であり、異常な戦術。
ゆえに最後までこの勢いで戦闘が続くのだろう、とティアは思っていた。
だが。
「っ、と?」
カイルの手が止まった。手元の枝が「物質崩壊」を起こしたのだ。
触ったばかりの物体に、過剰な強化魔術を施した代償である。これを好機と見たか、男達は一気にカイルへの距離を縮めてくる。
「……い、今だああああっ! 囲め! 囲めえッ! 周りを固めろ!」
誰が叫んだか、総員その声の指示に従っていた。
——結果、カイルはあっという間に包囲された。次の枝を拾う暇すら与えられない。
「あらら……。やっぱりこうなったか」
一本の樹木を背に、新たな包囲陣が、カイルの周囲に巡らされている。
先ほどまでは、彼がどんな手を使うか、誰一人として想像すら出来なかった。
が、あの「超速での移動」を目にした以上、油断は皆無だ。包囲の輪に抜け目はない。
確実に殺す——。その意志が明らかである。
「参ったね。どうすっかな」
口元に手を当てるカイル。どうやら戦力の計上へと及んでいるようだった。
減ったのは、七人。戦闘前は敵の総数を四十人程度とカウントしていた。つまり、まだ三十近い敵が残っている。
形勢は逆転すらしていない。圧しているようにも見えたが、なおもカイルに不利な状況なのである。
「——カ……カイルっ!」
不安からか、思わずティアは料理番の名を叫んでいた。
当の本人は珍妙な表情である。
「え……な!? は、初めてじゃね……? お嬢が俺の名前を呼んでくれたの!?」
「そ、そんな事ないわよっ!? ——そ、それよりっ! 囲まれてるのよ!」
「うーん、どうすっかな。本気を出すのはまだ控えたいんだけど……、おっ?」
カイルの眼差しが、ある一点で固定された。
「……お、おおおおっ!?」
目を見開く、その先では。
「ん、あ、あの娘は……食堂の!?」
——たたたたっ。
ささやかな足取りで、遠目から駆けてくる少女の姿が見えた。
食堂料理番の助手、メイ・フラックである。
「おおおおメイッ! ようやく来たか、待ちかねたぜ! アレは持ってきたか!?」
「もってきた。正宗」
「よし、こっちに投げろ!」
「うん」
ティアは、メイの手元が鈍色に輝いていることに気付いた。
あれは……刃物?
詳細を視認する暇もなく、メイはそれを振りかぶって。
「いくよ」
「え、ちょ、……メイ!? おい!?」
投擲した。やり投げの要領で。
そのせいで、抜き身の刃が高速で、カイルへと向かってゆく。
「……ってこのおバカっ! 刃をこっちに向けて投げるんじゃないよっ!」
刃は、敵の包囲を一直線に潜り抜けていった。
——スコーンっ!
小気味よい音を立て、それはカイルの真後ろの樹に突き刺さった。
相当な切れ味らしい。柄のところまで刃が完全に埋まっている。
「ハア……。ったく、ホントに恰好つかねえの。あとちょっとで俺の頭に刺さってたぞ」
「ほんと惜しい。あとちょっとだった。カイルの頭にストライク。ロリコン討伐失敗」
「あーやっぱ狙ってたんだ。もうこういう事しないでね。次やったら泣くから」
愚痴りつつカイルは樹からそれを引き抜いて、右手に握る。
片刃の短刀──一見したイメージはそれだ。極東の刀に似ているが、全長はずっと短い。ギラリと鈍色の曇りない刃が不気味に輝く。峰の全域に渡り、貫通したスリットが二本刻まれており、そこを通して向こう側が見えた。模様として施された透かし彫りが、ある種芸術的な優美ささえ兼ね備えている。
だが、この短刀はどう見ても——。
「ほ、……包丁!? それが武器!?」
「ああそうだ。『庖丁正宗』。それが、コイツの名だ」
「……放課後の再現ね。また鍋のフタのような料理道具で戦う、って事でしょう?」
「いや、料理道具じゃないんだこれ。俺が正宗を使うのは、ある目的の時だけさ」
カイルは、庖丁正宗を構え、——告げた。
「『対象を殺す』。その時だけ」
「……!」
ゾッとした。身体が今までにない震えを生じた。先刻の「生きている死んでいる」の件よりも、ずっと。
なぜ、ここまで簡単に「殺す」という言葉を、吐けるのか?
そしてなぜ、ただ一言「殺す」という言葉に、ここまで説得力があるのか?
答えは明白だ。ただ、それを口にする勇気がティアにないだけの話である。
「この男は、人を殺したことがある」と。
「《温羅、沙羅、伽羅、棋羅、……総て以て、刃とせん》。『エンハンス』」
早口でカイルは詠唱を紡ぐ。すぐに庖丁正宗へ強化魔術が宿った。
「っし……行くか。ここからは手加減が難しい。恨むなよー、四肢が欠けても!」
警告もそこそこ、カイルは手近な敵に近づいていった。
「な、何だテメ、——、」
不意な行動だったが、男は剣と盾をカイルに向けて、防御態勢を取った。
しかし。
「……無駄なんだよ、それじゃ」
ス、ッ。
まるで熱を帯びたナイフが、バターを切るかのように。
庖丁正宗は、剣を斬り、盾を斬り。刃に当たったものすべてを斬り裂いて、男の腹部に吸い込まれていった。
「……………………え」
理解できなかっただろう。何が起きたのか。
男は力が抜けたように、その場に足から崩れ、倒れる。
——総員絶句。が、カイルは状況吟味の暇すら与えない。
力なく身体が揺れた、そう思った瞬間、別の標的へと飛び掛かっていた。
次の「的」は、鎧の男である。
「——う、うわあああああああっ!」
狙われた者は絶叫し、背中を見せて逃げ出そうとする。
が、無駄だ。
カイルは彼へとすぐに追いすがり、背中へと一閃。一瞬遅れ、血液の噴水がしぶく。
「ぁ、あ」
力ない言葉と共に、男は倒れ、動かなくなった。
身に着けていた鎧など、簡単に斬り裂いてしまっている。
「ひ、ひいいぃ……!」
「く、来るな! 来るなああああああああッ!」
ゆらり。ふらり。のらり。くらり。
カイルの身体が揺れる。そのせいで、男達は魔術の狙いを上手く定められていない。
そして予備動作なしで、カイルは地を蹴る。次の標的に向けて。
——攻撃は、風に泳ぐ旗のよう。
——接近は、獲物を捉えた猛獣のよう。
ゆえに、読めない。分からない。捉えられない。次にどのような戦術に出るのか。
幽鬼(ファントム)。喩えるのならば、まさにそれであろう。
「《光は闇に、土は風に。我に刃向いし意思を無へと——、ッ! ——ぐ、あ!」
魔術を放つ者も存在する。が、それらへの対応も決まりきったものだった。
別の人間を盾にするか、そもそも発動を察知した瞬間に斬っていたか。その二つである。
恐るべきは庖丁正宗、その切れ味だ。
強化魔術で増幅されたそれは、極限まで切れ味が上昇しているようだった。元々刃物としての機能が優れているのだろう。そこに来て、強化魔術でさらに上乗せである。
そして、今までの武器とは決定的に違うのは「最初からカイルの武器である」という点。
つまり「物質崩壊」しないのだ。
カイルは、この包丁を手にしてようやく、本来の力を出せたという事になる。
「ごほォっ!」
「た、たたたたたたたたたたたた助け、! 助けてえええええっ!」
「うごぉあ、あああああ……! ぐは」
「ヒ、ぃ! ッガはッ!」
十人、二十人……。次々に敵は頭数を減らしてゆく。もはや早すぎて、ティアの眼では追い切れない。誰かが倒れたと思った傍から、次の犠牲者が生まれていた。
——暗幕の森が、血で染まる。
殺陣と呼ぶにはあまりに一方的な、ワンサイド・ゲームで。
カイルの斬撃音すら響かない。聞こえるのは……男達の断末魔だけ。
今ではもうその声すら疎らである。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ…………、ぁ、っ」
これで最後。
戦闘行為に及び、なお立っている者は唯一人。カイルだけとなった。
「ふう。前菜(オードブル)にすらならねえな。……で、残りはアンタだけか。呪術師パーディアス」
死屍累々。四十名超の敵、それらすべてが地面に倒れ伏している。
死んでいるのか、生きているのか……。ティアの脳裏はそればかりが過ってしまう。が、彼にとってはやはり「どっちでもいい」事なのだろうか。
パーディアスとてそれは同様だ。手下を全て失った今でさえ、何の感情も読めない。
「……塵、と言ったな。認識を改めよう。貴様を重大な敵戦力と評価する、料理番」
「別にいいよ、塵のままで。アンタに評価されても嬉しくねえし」
パーディアスは、警戒の眼差しをカイルにぶつけている。
「あれだけの人数を、ものの数分で平らげてしまうとはな……。慈悲も加減もない」
「悪人には容赦しない主義なんだわ、俺」
「貴様……何者だ。異形とすら云える立ち回り、異常な破壊力を誇る枝や石……。最も理解し難いのは、その魔術だ。かような術は眼にした事がない。何をした、貴様?」
「質問に質問で返すけど、正直に答えると思う? ……んで、どうするよ? 情報のためにアンタだけは殺すつもりないけど、どうせ素直に投降する気なんて無いんだろ?」
「愚問だな。私は貴様を殺し、この場を切り抜ける。その少女も手にし、計画を進める」
「あーそう。でも無理じゃねえの? アイツがいねえじゃん。お嬢誘拐の実行犯。そいつがアンタらの中で一番の実力者だろ?」
「ほう。気付いていたか」
「そりゃな。あの強さを誇るお嬢を、容易に誘拐できたんだからな。何者だそいつ?」
「秩序の調律者(オルディネ)だ」
「……何?」
瞬間、カイルの表情が凄惨なものへと変貌した。
「どういう事だ……? 普通じゃねえぞ、秩序の調律者(オルディネ)が出張ってくるなんて」
「我が国に協力頂いているのさ」
「問題はそこじゃねえ。お嬢の誘拐に、何でわざわざアイツらが出てくる? 答えろ」
「私の与り知らぬところだ。組織に直接問い合わせてみてはどうだ。不可能だろうが」
「いや、他にも手はあるぞ。アンタの国の上層に直接お伺いしてみる、ってのはどう?」
カイルの提案に、パーディアスの顔が、僅かな感情を見せた。
「……貴様、私の国が分かるとでも? ハッタリだ。我々は一切の証拠を残していない」
「目星はついてるさ。イヴァノグラードだろ? アンタはそこの密偵だよね?」
「ふん……見た目よりは頭が回るな。見抜かれていたか」
「あ、やっぱイヴァ人のスパイなんだ? テキトーに言っても当たるもんだなあー」
「カマをかけられた、という事か」
「だーって、あの国くらいじゃん? こういう外道に平気でうって出る国なんて」
ニヤリ。カイルは嫌味満載の笑みを作る。
——イヴァノグラード帝国。アレサ王国に次ぐ、世界二位の魔術大国である。
現在アレサ王国との関係は悪く、両国は冷戦状態と言えた。パーディスはこの大国、イヴァノグラードの密偵らしい。大方、これまで自分を誘拐しようとしたのも、同じ国の連中だろう。ティアはそう確信した。
が、……問題は「秩序の調律者が自分を狙っていた」、その事実である。
ティアは怖気に身を震わせる。あの変革の抑止力とは名ばかりの「暗殺組織」が、自分の誘拐に関与しているなど。なぜ彼らが、自分を狙うのか——。
そんなティアの恐怖は、別の恐怖に上書きされた。原因は他ならぬ眼前の魔術師である。
パーディアスが、構えたのだ。
「まあいい。——計画の背後を悟られたとて、支障はない。手下を全て失ったところで、問題もない。それを知る貴様は、今ここで殺されるのだからな」
戦闘の予兆が、否応なく高まってゆく。カイルの眼差しも殺気を帯びていた。
「……メイ。お嬢と一緒に離れてろ」
「うん。——さ、会長。こっち」
「え? ぁ、……っ!? ち、ちょっと、メイちゃん!?」
問答無用。メイの意外に強い力に手をひかれ、ティアは二人そろって樹の陰へと回った。
カイルとパーディアス、両者の対峙を、その木陰から眺める形となる。
「会長、心配?」
メイの問いかけにも複雑な表情しか出来ない。
「大丈夫。カイルは強いから。アホだけど。大人しく離れてよう?」
「う、うん……」
少女の言葉に従う他ない。が、ティアは自分の不甲斐なさに、苛立ちが募る。
剣を抜き、パーディアスに斬りかかる事も可能だろう。が、到底敵うとは思えなかった。
ハッキリと解る。この戦場はもはや、自分の力が及ぶ領域にはない、と。
「さあて……そろそろ始めようか!? パーディアスっ!」
無力化された男たちが、地で蠢く戦場。
二人の間は、十数メートルの間があった。緊張感が徐々に上がってゆく。
「ああ。——ゆくぞ、料理番」
「いいぜ。来な。……あ、でも一つ訂正要求。俺って、タダの料理番じゃないんだわ」
「理解している。あの業を目の当たりにすれば、嫌でもな」
「そういう意味じゃなくて! 俺は『世界イチの料理番』だって事! 覚えとけよ!」
フッ、と。カイルもパーディアスも口元に笑みを見せ——、両者、地を蹴る。
戦闘が開始された。
「は、速い!」
ティアが叫ぶ。
体勢を低くして駆け、互いの敵へと向かってゆく二人。
異様な速さだが、魔術ではない。両者の純粋な身体能力ゆえであろう。二人とも戦い慣れているのだ。
そこかしこに転がる男たちを器用に避け、彼らは激突の様相を呈す。
「《そ、…………。されど——、……、…………を——》」
疾駆する中、パーディアスが詠唱を開始している。
何を言っているのか聞き取れない。どの魔術か、悟らせない為であろう。
そして、両者交錯の直前。パーディアスの右手が「蒼の魔力」で覆われるのが見えた。青白い、見ているだけで底冷えする色である。
カイルは変わらない。庖丁正宗を下段に構え、斬り上げのモーションに入り。
両者、激突——。
「ッ!」
先制攻撃はカイル、……ではなかった。
先にパーディアスが魔力を纏った右手を、カイルへと突き出してきたのだ。
「っ、っとと!」
カイルは後ろに飛び退いて、それを避ける。
——回避。再び、二人の距離は十数メートルほど空いた。
「……ほう。避けるか。真っ先に攻撃へ出るのだと思っていたが」
「なにが仕込まれてるか分かったモンじゃねえからな、その右手に。完全に待ち受けてるカンジがしたし。怪しすぎだろ。……やっぱアンタ、相当な使い手だな」
「何故、そう思う」
「動きに隙が無いからな。正直、さっきから先制攻撃を放とうとしてたんだが、ンな機会は一切なかった。だから後回しにしたんだ。所作ひとつでも、実力は隠せねえモンだな」
ニヤリ、と。事ここに至り、初めてパーディアスが明確に、笑った。
後ろ暗い者特有の、威圧感が全面に出ている笑いである。
「……料理番。私は、貴様の使う魔術を知らない」
「だわな」
「では、私が何の魔術を得手とするか——。それは分かるか?」
「分かるハズないよね。だってアンタ、魔術使うところを見せてくれてねえもん」
「そうだ。『相手の使う魔術が分からない』。それは、貴様も同じだ」
高らかにそう宣言するパーディアスに、ティアの不安は一層強くなる。
「そ、そうよ……。あの男は、何をしてくるか分からないわ!」
「繰り返すが、手下が全滅しようと計画に変更はない。——貴様は、ここで死ぬ」
言うが早いか、パーディアスが攻撃を再開した。
カイルまで一気に接近し、右手の魔力を当てようと、攻撃を繰り返す。
「ぅお、っ!?」
声をあげながら、カイルはその攻撃を避ける。避け続ける。
振り下ろし、抜き手、殴りつけ——。様々な形をとって繰り出される、呪術師の攻撃を。
今や、カイルは完全に防戦一方となっている。
「……妙ね」
眼前で展開される一連の流れに、ティアは違和感を覚えた。
——なぜ、手に留めて接近戦を挑むのか? なぜ、それを撃ち放たないのか?
現在、パーディアスは術解放直前の状態である「待機」で留め、攻撃している。
後は術名を口にして放つだけなのに、自ら接近戦を挑んでいるのだ。待機状態で留めておく、これはこれで非常に高度な術制御ではあるが……気にかかるのは、その理由である。
(まさか……放って外れる事を恐れている?)
推測が脳裏を駆け巡る。つまり「外れたら終わりの一発に賭ける魔術」か、「外れたら術の正体が即座にバレてしまう」。そのいずれかではないか、と。
カイルもその違和感に気付いたらしい。苛立ちで声を荒げた。
「お、おい! さっさと魔術を撃てよ! こっちが攻撃できねーだろうがッ!」
「攻撃してみるといい。その時が、貴様の最後よ」
挑発しつつ攻撃を続行するパーディアス。
カイルは挑発に乗らず、なおもそれらの攻撃を、避け続けていた。
パーディアスとて負けてはいない。いやむしろ、今ではカイルを手玉に取ってすらいる。
攻撃を避けつつ、常に魔術を放つ「フリ」をして……近接攻撃。
これを繰り返し、カイルの警戒心を刺激して「決定的な一撃」に踏み込めぬよう、水面下での牽制を続けているのだ。賢しい戦術である。つけ入る隙がない。
「……くっそ。正宗で攻撃しようにもなあ。太刀筋読まれてるしなあ……!」
「いいぞ、来い。当ててみろ。怖いか?」
「こ、怖くねえよッ! つーか何その煽り!? 呪術師やめて煽り師に転職したら!?」
「少しはやると思ったがな。見込み違いだったか」
「ああそうかい! ——んじゃ、コイツはどうよっ!?」
そう言うと、ついにカイルは攻撃に打って出た。
包丁での斬撃ではない。枝だ。
いつ拾ったのか、強化魔術を施した枝を、パーディアスに向けて投擲したのだ。
「っ!?」
驚愕。呪術師の瞳が見開かれた。
向かってくるのは、あの甚大な破壊力を持つ枝。素手では防げない——。
そう判断したパーディアスの行動は、きわめて反射的なものだろう。魔力を纏う右手で、それを叩き落としたのだ。
——ぽとり。地面に枝が転がった。
途端、彼の顔が、怒りに歪んでゆく。
「……フン。やられたな」
吐き捨てるパーディアス。
防御に成功、そうティアの眼には見えた。なのになぜ「やられた」?
一瞬疑問に感じたが……地面に落ちた枝を見て、すべてに納得した。
自分の魔術を暴かれた、ゆえに「やられた」なのだ。
——パキパキ、と。枝が急速に凍りはじめている。
「え、ああ、……? あ、アレって……凍結魔術!?」
「そうだ。『氷の呪術』。私の術に接触したものは例外なく、死ぬまで凍るのだ」
隠す必要などもう無いとばかりに。呪術師の男はティアへ解答を与えた。
「フン……だと思ったぜ。呪術師って聞いた時点で、そーいうタイプだとは予測してた。凍結とはさすがに予想外だが」
カイルとは別、ティアは驚きで言葉も無い。
凍結魔術自体は極めて一般的な魔術である。吹雪の発生、周辺の気温低下、氷山の召還。いずれも攻撃魔術として使用する者が、ほとんどであろう。
が。パーディアスはそれを「呪術」として転用しているのだ。
呪術とは、文字通り「呪い」である。食らった場合、長期間苦しむ事となる。何年、何十年に渡って。つまり彼の魔術は「喰らえば永遠に凍り続ける魔術」に他ならない。
「……改めて名乗ろう。我が名はパーディアス・ヘカトンケイル。イヴァノグラード帝国密偵部隊長。術師称号(メイジコード)は『絶氷より出ずる餓狼(フロスト・バイト)』。……もはや術が割れる必要はない。ここから先は、存分に撒き散らせてもらう」
そう言って、パーディアスは手を前方に向ける。
「——『死』をなあッ!」
攻撃、再開。
が、今度は接近戦などという、生易しいものではない。
遂に魔術を撃ってきた。右手に留めるだけだった「凍結の呪い」を、カイルに向け次々と撃ち放ってきたのだ。
「ぅおっ!? やっべえ……っ!」
こうなると、もう攻撃どころではない。
カイルは周辺を走りながら、パーディアスの魔術を避ける羽目になった。
「おおっと! うわっ! ひえっ!」
「どうした、攻撃はっ!? 逃げ回るだけか、料理番っ!」
「じゃ、じゃあ手加減してくれよ! とりあえずその連続詠唱やめてくれや!」
「断る。《故に呪詛は汝を蝕む》……『フローズンダスト・ペイン』」
連続詠唱という高度な技術を使い、パーディアスは凍結魔術を連発している。
さっきまでの穏やかな攻撃ではない。避けたと思った瞬間、次の魔術がカイルに向かってくる。魔術を食らう、イコール死。ゆえに一撃ももらうわけにはいかない。
カイルは休む間もなく、それらを器用に避け続けていた。
「クソ……冗談じゃねえぞ! 想像以上の使い手じゃねえか、このジジイっ!」
外れた魔術は、周囲の樹や草に着弾する。
途端——パキパキ、と。
嫌な音をたてながら、着弾地点から霜柱が拡大する。
森の気温が低下してゆく。凍ってゆく。
幹が完全に白くなり、凍って倒れそうな樹さえあった。ティアはこの魔術を目の当たりにし、その恐ろしさに身を震わせる。
そして、地より響く、悲鳴と断末魔——。
外れた凍結魔術が、倒れ伏していた野盗たちに、直撃しているのだ。
「ヒィィイィィイイイイ……ッ! こ、こ、こ、氷が……、氷があああああ!?」
「や、止めてくれエッ! パーディアスの旦那ああああッ!?」
男たち必死の懇願に、耳を貸すこともない。パーディアスは表情ひとつ変えず、巻き添えを増産しながら、凍結魔術を放ち続けていた。
パキッ、パキリ——バキンッ。
凍った四肢が砕ける嫌な音が、そこかしこから響く。
「——っ! ひ、酷い……っ!」
ティアは思わず耳を塞いだ。仲間の命など何とも思っていない。目的の為ならば、手段を選ばないのだろう。こんな男に狙われていたという事実に、身も心も凍えてしまう。
「……ったく、エゲツねえ魔術だ! これに当たるんじゃねーぞ! お嬢、メイっ!」
そもそもティアは誘拐の対象である。パーディアスもしっかりと勘定に入れているのか、こちらへと魔術を撃つような真似はしていなかった。
標的は、唯一人。カイルのみである。
状況は変わらない。パーディアスの魔術に対し、カイルは回避以外の手を取れずにいた。
避けるので手一杯。接近して攻撃など、出来る状況ではない。
「——ッソが!」
やがてカイルは毒づいて、一際大きく地を蹴って移動。
近場の樹の影に隠れる。
「……どうした? 姿を隠し、機会を窺っているのか?」
ザッ、と一歩、パーディアスは歩を進める。
「斬り込んでくるといい。その為の武器だろう?」
更にもう一歩。
「まあ無駄だがな。貴様のその武器なぞ、何の脅威でもないのだからな」
また一歩。
と、……その足が止まった。耳がピクリ、と動く。
「——っ!? 詠唱かっ!?」
弾かれたように、パーディアスは身構えた。
詠唱文だ。聞き取れなかったため、如何なる攻撃が飛んでくるのか判断できない。故に最大限の警戒を意識——。そんな様子に見える。
が……カイルが取った行動は、極めて単純なものだった。
何のことはない。ゆっくりと樹の幹から、その身を晒したのだ。
「……何を企んでいる?」
「別に? たださ、その凍結魔術が相手じゃ、俺の正宗も使えないなー、と思って」
「だろうな。我が前には刀剣も銃弾も無意味、凍って砕けるがオチよ」
「砕けるのは勘弁願いたいね。高いんだよ、この短刀。極東の業物だから」
「ではどうする? 先ほどのように小枝で戦うか? 結果は同じだぞ」
「いや。——だから、出力を上げる。《応えろ、庖丁正宗》」
そう唱えた瞬間。
包丁が、伸びた。
「な、!」
——いや、伸びたように見えただけ。
包丁の刃と峰、そこから光が迸り、固定化されている。
光刃。文字通り、光の刃。そのフォルムは極東の武器「刀」を象っている。長さは太刀と同程度。伸長されたように見えたのは、それが原因だ。
放たれる燐光は眩く、暗闇と冷気に満ちたこの森を照らす。
「これなら凍結も通らない。ようやくイーブン、ってとこだな」
光刃は、そもそもがこの世に存在していない魔術物質である。ゆえに凍結されない。
「な、何だ……? その光刃は……!?」
だが。パーディアスは別のところに驚愕していた。
「属性を一切感じない……? 何故!? 属性付与ではない光刃だとでもいうのか!?」
「ああ。これは、唯々『切れ味を上げる』という点のみを強化した結果だ」
「……き、聞いたこともないぞ、そのような術はっ!? 何だ、ソレは!」
「何だと思う? さーて、次はオマエが気を付ける番だ。これ触った瞬間、腕落ちるぞ」
行くぞ、と。極めて短く宣言し。カイルは呪術師に飛び掛かった。
——迅い。先刻より、数倍も。
「ッ、ッッッ!?」
ヒュンッ!
放たれた真一文字の斬撃。
それを、パーディアスは身を屈めて避けた。
次いで凍結魔術で反撃しようとして、中断。飛び退いて、カイルとの距離を取る。
「くっ!? な、何だ! その刃はあああッ!」
叫び、魔術を放とうとするパーディアス。
が、カイルは、それを許さない。
離された距離を一気に詰め、近接戦へと持ち込んでゆく。
「オラどうしたよ、呪術師っ! 負けちまうぞ、料理番ごときになあッ!」
「っッ、《集いし反抗の意思、今ここに収束せよ》、『マギアシールド』ッッ!」
——パキンッ! とっさに展開した魔術障壁も意味をなさない。
カイルの光刃の前にまるで紙切れのごとく両断され、無効化される。
もはや彼が取れる手段は一つ。「回避」のみ。攻撃どころではない。そんな暇はない。
故に光刃の軌道を読み、命からがら回避している。そんな様子だ。
形勢は一気に逆転した——。
「す、すごい……!」
眼前の光景は、ティアの理解を超えていた。
カイルは、アウトサイダーである。故に魔術が使えない、そう思っていた。
が、攻撃魔術が使えずとも、それを補って余りある程の強化魔術で、呪術師パーディアスと渡り合っている。
そして何より、カイルの周囲。
「ふ、風景が、…………斬られてる」
言葉としておかしいが、そう表現する以外にないのだ。
大振り下ろし、斬り上げ。——それらを放つ度に、地に斬り痕が刻まれる。
横薙ぎ、回転斬り。突き。——それらを放つ度に、木々が両断されてゆく。
何かを切った事で、振りの速度が鈍ることはない。カイルの斬撃は一切の摩擦抵抗を無視し、周囲に傷痕を刻んでいた。極限まで切れ味を上昇させた結果だろう。
故に、攻撃速度は止まらない。むしろ天井知らずに、上がってゆく。
これが料理番、カイル・レヴェナントの戦闘。
「くぉ、ぉおお、おおおお…………っ!」
苦悶の声を上げるパーディアス。もはや回避が追い付いていない。
光刃が頬をかすめ、服の一部を削り取り、反撃の隙すら与えられず。このままではいずれ、致命的な一撃を貰うのが明白である。
本人もそれを自覚したか、剣撃の嵐から一旦身を引いた。
後方へ大きく跳んで、カイルとの距離を取る。
「……ま、まさか、……料理番ごときに、計画を阻害されるとはな……ッ!」
そして、こちらを一瞬窺った。
ティアとメイが控える、「こちら」を——、
「え」
そこからの流れは、急速であった。
パーディアスがカイルから目を離し、斬撃の合間を縫って。
一直線、ティアの方へ跳んできた。
剣を抜く余裕もない。ティアはあっという間に、その身を後方から拘束されてしまった。
「——きゃあ、ッ!」
「動くな」
短く悲鳴をあげたティアに低く、そう命じてくるパーディアス。
その細い首元に、魔力を纏った右手が差し向けられる。
凍結魔術——。それが満ち満ちる、邪悪に過ぎる右手を。
これは……「人質」だ。うんざりした表情で、この光景を眺めるカイル。
「……メイ。こっちにこい」
「うん」
パーディアスはメイを脅威と見ていないらしい。ティアの真横で控えていたメイが、カイルの方へと駆けてゆくのを、黙って見逃している。メイはカイルの陰に隠れた。
カイルとメイ。十数メートルの間をとって、ティアを盾にするパーディアス——。
これが現在の構図である。
「その短刀を捨てろ」
真っ直ぐにカイルを捉え、パーディアスはそう命じてくる。
「繰り返す。その短刀を捨てろ。ソルシエールの娘が傷物にされたくなければな」
「……分かりやすいくらいの悪役ね、アンタ。ヤバいと思ったら人質取って逃げる訳?」
「黙れ。何度も言わせるな、短刀を捨てろ」
「でもさ、お嬢は人質じゃん? 殺したらどうしようもなくね?」
「殺しはしない。が、身体機能に損傷を与えるのは吝かではないぞ。何なら肩にでも触れ、永遠の凍結を与えてやろうか? 死なない程度に延々、永遠と、苦しむ事となるが?」
そう言って、ティアの肩口へと手を伸ばしてくる。
「ひ、ひっ……!」
ティアの唇が恐怖で震える。これが触れでもすれば、魔術は彼女の肩を喰らい、数刻の後には永遠に凍結の苦しみを味わう事となる。触れたら終わりだ。
「か、カイル……っ!」
料理番は、ティアを憐みに近い表情で眺めつつ。
「……動くなよ、お嬢」
パーディアスの命令には従わなかった。
包丁を捨てず、前方を睨み。小さな呟きを開始する。
「《阿羅耶、那由多、迦楼羅、摩陀羅、総て以て、我とせん》。『ハイエンハンス』」
「な、き、貴様……! 聞こえなかったのかあッ!? その剣を捨て——、」
と、不自然に途切れた。パーディアスの言葉が。
「……え」
呆然とする。ティアも、呪術師の男も。
眼前に居たはずのカイルが、姿を消したのだ。
同時、一陣の風が通過した。すると首を絞めつけていた力が、急激に低下。
ティアは首を回し、ふと後方を振り向いた。
「さ、カイル!?」
カイルが、ティアとパーディアスの後方へと移動している。
あの高速移動だ。カイルは斬撃を放ち終わった体勢のまま、光刃を煌めかせていた。
放った斬撃の行先は——、
「ぁ、あ」
パーディアスが、声にならぬ声をあげる。
肩口から血液が噴出している。
腕が、跳んだ。
パーディアスの魔力を纏った右手が、肩の根本から切断されている。
「く、ぉおおッ!? ぐああああああああアアアアアアアアアアッッッ!?」
地の底からのような絶叫。
もはや人質どころではない。パーディアスはティアを突き飛ばし、ふらふらと森の奥へと逃げていった。
「逃げるか。ま、だろうな。——お嬢、ケガは?」
「う、うん。ええ。だ、大丈夫」
「悪いな、怖い思いさせちまって。あんな手に出ると予測できなかった、俺のミスだ」
パーディアスの行方を眼で追いながら、カイルは呟いた。食堂の時とはまるで別人のような双眸——。さながら猛禽類のような鋭利さに、ティアの視線は釘付けにされた。
呆然としていると、メイが駆け寄ってくる。
「会長。大丈夫?」
「……え? え、ええ。大丈夫よ。カイルは……?」
「大丈夫。多分。ほら」
そう言って、バシンッ。メイはカイルの足に蹴りをくれた。
「いたたた! ったく……こうなるから本気出したくねーんだよ!」
先刻の高速移動による代償だろうか、足をさすりながら、カイルは愚痴っている。
その間も、パーディアスの消えた森の向こうから、視線は外していない。
「どうするの。逃がす?」
「馬鹿言うなよメイ。逃がさねえさ。ああそうだ。逃がしてやるかよ……っ!」
ビュン、ビュンッと。カイルは光刃を纏う正宗を二度、振った。
そして刃を正眼の型でかまえて詠唱を開始する。
「……《我が剣閃、全てを断つ。其が因果、総てを絶つ。故に刃は慈悲もなく、なれば逃れる是非もなし》」
詠唱、……完了。
すると、光刃が一際大きくなった。
太刀が斬馬刀に、といっていい長さである。
それを両手で握り、肩に背負って。カイルは前方を睨む。
——視線の先。パーディアスが肩をおさえながら、逃げるのが目に入った。
既にかなりの距離がある。周囲は木々が障害物となっている。
が、そんな事は問題ではないとばかり、袈裟切りの要領で——、
振り下ろす!
「──斬り裂け! 『朧三日月(ルーナ・クレシェンテ)』!」
ビュンッ!
音が、遅れて聞こえた。
斬馬刀と化した庖丁正宗から、光の刃が放出される。
真空刃——。虚空を駆けるその斬撃は、樹を斬り、草を斬り、地を斬り、虚空を斬り。
そして狙い過たず。逃げるパーディアスへと向かって。
——ザンッ!
その左足を切断した。
「ッ! ぐあああああああああああああああッッッ!?」
絞り出した絶叫が、森に木霊する。
パーディアスはバランスを崩し、その場に倒れて転がった。
右手、そして左足を欠損した呪術師は、もはや攻撃も逃走も叶わない。
ゆっくりとした足取りで。カイルとティアは、倒れ込んだパーディアスへ接近してゆく。
「…………よ、ようや、く、理解、したぞ。……貴様、強化魔術の、使い手だな?」
絞り出したパーディアスの問いに、カイルは頷いた。
「よく分かったな。初見で気付いた奴は今までいないんだぞ」
「お、思い、出した、のだ…………。何物をも断つ、飛翔せし三日月の斬撃——。それを、秩序の調律者(オルディネ)の『強化魔術の頂に至った者』が振るう、とな」
「そりゃすげえや。多分俺に似てイケメンなんだろうなあ……ソイツ」
「少なくとも美男子ではない。私の眼前に居る貴様は」
「わ、割と嫌なヤツだなあアンタ!? そういう事言っちゃう人だったの!?」
いつも通りの反応を見せるカイル。が、ティアは目を白黒させている。
「え、ちょ、……ちょっと待って? 今、『調律者』って言ったの? どういう事?」
パーディアスは眼だけを動かして、ティアの方を見た。
「知らぬのか……ソルシエールの娘。この料理番の男は、……元・秩序の調律者だ」
「え、……は、?」
「……どうやら本当に知らぬようだな、この娘は」
「偶然なんだよ。俺がお嬢の誘拐に気付いたのはさ」
「強大な魔術師は術師称号で呼ばれる。確かその男は序列一位にして『極晄刃(エンハンサー)』の名を戴いているはずだ。彼らの歴史上ただ一人……組織を抜け出す事に成功した、最強の男よ……。まさか貴様がそうだったとは……な」
「元だ元。古い話さ。三年くらい前か?」
「よく抜け出せたものだ……。調律者は裏切りを許さない、そう聞いたが?」
「俺だけは特例だったんじゃない? 知らねえけど」
「え? え? え……!?」
ボーッとしているメイは別として、ティアだけが話についていけない。
——料理番であるはずのカイルが、元『秩序の調律者』!?
——しかも序列一位? それって最強って意味でしょ!?
ありえない会話がティアの思考を掻き乱す。もはや、ついていけない領域だ。
この呪術師も危険な男だった。が、料理番は輪を掛けて、とんでもない男だったらしい。
「…………く、くくくく……ッ! 何という運の無さだ、私は」
「だな。ま、後悔の続きは監獄ん中でしてろや。……増援来るまで寝てろ、ジイさん」
そう言うと、カイルはパーディアスの顔面を殴りつけた。
ゴッ、と鈍い音を響かせ、老齢の呪術師はピクリとも動かなくなる。気絶させたのだ。
途端に、メイがカイルに向かって駆けてゆく。
「お、メイ! いい仕事だったぞ! 怪我は、——って痛! なんで蹴るんだよっ!?」
「遊びすぎ。もっと早く終わった。さっさと本気出してたら」
「出してたじゃん本気!? あのジジイが妙に強かっただけだっつの!」
「じゃあ鈍ってる。力が。もう歳? 人の事ジジイとか言えない」
「悲しいこと言うなよー。つーか、オマエがもっと早く正宗を持ってきたら——、」
「あ、あの。…………カイル? 会話に割り込んでごめんなさい」
「んん? 何だよ、お嬢?」
「一つ聞いておきたいんだけど。……どうするの、コレ」
「どうするの、って」
ティアが指さしたのは、自分達の足元。
死屍累々、地面を覆い尽くす勢いで転がっている、斃した敵である。
そればかりではない。周囲はパーディアスの放った魔術が木々を凍らせて、得も言われぬ終末感を漂わせていた。
「……どうしようもなくねーか? 凍結の進行も止まったみたいだし、放置で」
「ほ、放置……?」
「王都警備隊(スクード)も呼んでるし、処理してもらおうや。……俺、眠いよ」
ふぁー、と大口で欠伸をするカイル。メイも伝染ったのか、つられるように欠伸をした。
が、ティアにそんな余裕は無い。むしろ鼓動が高鳴り、尚も興奮状態から覚めそうになかった。今日という日は、それほどに衝撃が強い一日だったのだ。
だからこそ、理解できない。欠伸をかいて、のほほんとするカイルが。
と。ズズズズッ……。
周囲から、地鳴りのような震えが伝わってくる。
「ん……? 何の音?」
三人同時に、妙な顔で振動の発生源を辿る。
すると……その三つの視線は、ある一点へと集中した。
パーディアス・ヘカトンケイル。彼が半身を起こし、詠唱を始めていたのだ。
「ッな、何で!? カイル、あなた、完全に気絶させたんじゃないの!?」
「そ、そのつもりだけどよ。何ぶん自分、加減については非常に不器用でして……」
「いいかげんすぎるわよ! ——ああああぁ、何か大変なことになってる!」
パーディアスの周囲に白い霧が集結してゆく。その霧は、樹や草など周囲から伸び、彼の足元に蒼い魔術物質として形成されていた。
「……やべえな。アイツ、俺らを巻き込んで、この森と一緒に自爆するつもりだ」
「じ、自爆!?」
「足元に魔力が集まってるだろ? 樹や自然から吸い上げたあの魔力を一気に解放して、この森ごと消える気なんだ。さすがは密偵、自然魔術まで齧ってたか……面倒だな」
「あ、あなたならお手の物でしょ? さっきみたいに遠距離から斬撃を飛ばせば……」
「避けたいよね、それは」
「は? な、何で!?」
「うーん。殺すのはどうも気が引けるっていうか……」
「い、今更それ言うの!?」
「だって情報がまだ完全じゃねえだろ? アイツが生きてないと背後関係が……」
「ああああああああモおおおおおおッ!」
この人、本当に元・秩序の調律者(オルディネ)? もう任せておけない。
そんな諦めと共に、ティアはパーディアスへと斬り込もうとした。……が。
「……——《森羅万象を統べる大地へと告ぐ、我が呼びかけに答えよ! 激つ憤怒の衝動、一切の狐疑逡巡を破棄し、有象無象へ遍く暴虐の牙を突き立てん》ッ!」
「え、……?」
突然、響いた詠唱の声。
ティアは声のした方を振り返ろうとする。
が、それより先に魔術が展開された。
「一切合財ブッ壊れろおおおーっ! 『グランドフォール』ッッッ!」
「きゃ、きゃあああッ!?」
——ズドオオオオオオオオオオオオオオンッ!
桁違いの衝撃、そして轟音。
思わず自失してしまうような災害の只中、ティアは立っていることができなかった。
やがて衝撃が終息し、目を開いて状況確認すると。
「……な、に。これ」
呆然とする。前方の地形が一瞬で変わってしまった。
パーディアスの立っていた地点を中心に地面が割れ、木々が倒れ込み、まるで周囲の自然が彼に牙を剥いたかのようだ。パーディアスの姿は見えないが、どう考えても地割れの中に呑みこまれている位置関係である。
「こりゃあ……自然魔術か?」
「そ、そうね。そうだと思うわ。で、でも。だとしても、この規模は……!」
異常だ。カイルの強化魔術と同等、またはそれ以上に。
災害現場さながらの光景にゾッとしていると、後方からあの詠唱と同じ声が響く。
「みんなー! 大丈夫!? 急いでたから出力調整マズっちゃったよー、あははっ!」
明るく朗らかで……そして、聞き覚えのある声である。
後方を振り返ると、やはりそこに立っていたのは見知った人間だった。
「ロ、ロザリー!? どうして!?」
ティアの友人、ロザリー。
彼女は申し訳なさそうな顔で、ティアに頭を下げる。
「ごめんねティア。今までずっと黙ってて。わたし、ティアの護衛を頼まれてたの!」
「護衛? だ、誰に?」
とっとっとっ、と。
ロザリーは答えずにティアの正面まで歩を進め、顔を覗き込むように、微笑んだ。
「ロザリー・ツェンテス。王都警備隊(スクード)首席魔術師、通称『大自然のお友達(テラ・マスター)』です。改めてよろしく、レクティアさまっ♪」
「え。……ええっ!? お、お、お、王都警備隊!?」
「ま、マジかよ!? ロザリーが!?」
呆然とするティアを、カイルが肘で突く。
「なあ、お嬢……知らなかったのか? 俺はもちろん知らなかったけどさ?」
「ぜ、全然知らなかった……。王都警備隊って相当な魔術師でなければ所属できないんだけど……? し、しかも首席? この歳で!?」
「そだよー! こう見えて魔術エリートの家系なんだー、わたしって! ふふっ」
「はは、は。……あははははは」
この気の抜けた笑いは、ティアの口から放たれている。
そういえば、自分はロザリーについて何も知らなかった。
一番の友人だと思っていたのに、その程度の認識だった事が恥ずかしくなってくる。
「ま、ここの処理は警備隊にまかせて、学校の食堂にでも戻ろうよ! いろいろと話したいこともあるからっ! ……でもビックリ、さっき聞こえたカイルちゃんの過去には!」
ひらり、ひらり。いつものように蝶が幻惑するかの如く、スカートを翻し、どこか性的魅力を放つ笑みを見せるロザリー。
ティア、カイル、メイ。三者は顔を見合わせ、複雑な表情をした。
なんか全部ロザリーに持っていかれた——。そんな事を思いながら。