「いいよ……見せて、あげる」
夕日差し込む部室の中、恥じらう美少女が淫靡に告げてくる。
片側を結んだ金髪のセミロング。オシャレに着崩した制服。絶妙なナチュラルメイクで彩られた彼女は、いわゆるギャルという人種だ。
そんな彼女が今、俺の目の前でゆっくりとスカートの裾をたくし上げていく。
ごくり。
思わず生唾を飲み込んだ。
スカートから覗くのは、すらりと伸びる白く艶めかしい脚。
その肢体の先、純白の布地が視界に映り込み——
「……ちょっと、早くしてくれない?」
よほど恥ずかしいのか、彼女が顔を真っ赤にしながら急かしてくる。
ここはやはり、俺も男として覚悟を決めなくてはならないだろう。
さあ、いざ!
——パシャリ。
「……撮れたぞ」
俺は手にしたデジカメで、スカートをたくし上げる目の前のギャルを写真に収める。
すると、先ほどまでの艶めかしさはどこへやら、彼女はもうすっかり気の抜けた様子で椅子に腰を下ろした。
「ふぅー、やめやめ。さ、作業に取り掛からないと」
俺が手持ち無沙汰になって棒立ちしていると、彼女がチラと横目で見てくる。
「あ、小島(こじま)はもう帰っていいよー、おつかれー」
そんな呼びかけに俺——小島新太(こじま・あらた)は大きくため息をついた。
確かにもう俺の役割は済んだわけで、これ以上居座る必要なんてこれっぽっちもない。
ないんだが……。
「お前さ、いくらなんでも無防備すぎね? 仮にも密室に男と二人きりだぞ」
もう何度目かになる忠告。けれど、このギャルはくるりと向き直ったかと思うと、ウインク交じりにぺろっと舌を出した。
「あんたにそんな甲斐性あるわけないじゃん。だいたい、二次専門の童貞だろっての」
だから警戒する必要ナーシ、と軽口を叩きながら再び背を向けた。
確かに俺は度胸も甲斐性も三次元女子に興味もない二次元ヒロイン専門オタクだけど、それでも彼女の警戒心の薄さは心配になるレベルだ。
けれど俺の心配などどこ吹く風で、彼女は作業を開始してしまった。
タッタッ、と彼女が手を動かすたび、液晶タブレットの画面に滑らかな線が描き込まれていく。そしてその線は、みるみるうちに美少女の姿形を成していく。
画面の中の美少女は、先ほどまでの創造主と同じように、夕日に照らされた室内で恥じらいながらスカートをたくし上げていた。
まもなく覗く、至高の布地——『パンツ』が描き込まれる。
僅かな線入れで皺を付けてリアルな質感を表現し、エロさ爆発な穿き物と成った。
それを眺めているだけで、興奮のあまり息遣いが荒くなってしまう。
ちなみに彼女が今描いているのは、いわゆる同人誌用のイラストである。
彼女は同人誌を制作しており、俺はそれに協力しているのだ。彼女の同人誌への熱意は本物で、俺もそれは認めている。
ただまあ、作品のためとはいえ、男の俺にパンツを見せるのはどうかと思うけどな。
俺はそんな彼女に、オタク趣味でビッチ——『オタビッチ』、という称号を心の中で勝手に贈っている。口に出せば何をされるかわからないので、決して本人には言わないけど。
「ラフ完成〜♪」
彼女が上機嫌にそう言って見せてきた美少女のイラストは、ラフの段階だというのにたまらなくエロ可愛くて。
「うはー、スゲーな! やっぱ最高だわ、お前のイラスト——てか、げへへ、パンツ」
「へへん♪ ほら、あとは出来てからのお楽しみ! 作業の邪魔だから帰った帰った」
言われるがまま部室を出ようとしたが、ついイラストの続きが気になって振り返った。
すると、目が合った彼女はからかうように笑った。
「どした? まだ見足りない?」
「イラストをなっ。——じゃあな!」
別れの挨拶は告げたので、今度こそ部室を出ようとしたのだが、
「小島」
名前を呼ばれて、反射的に振り返る。
すると、直立した彼女がスカートの裾をたくし上げていて——
「変態」
その言葉で、ハッと我に返る。
俺としたことが、その白い穿き物につい見入ってしまった。
彼女はニッと笑みを深めると、スカートの裾から手を離す。
それからすぐさま椅子に腰を下ろして作業を再開した。
「……ったく、どっちがだよ。創作を理由にセクハラされるこっちの身にもなれっての」
俺のそんな言葉にも、彼女は見向きもしない。
すでに没頭中。この女はこと創作において自分のワールドに入ったが最後、行き詰まるまでは帰ってこないのだ。
「聞いちゃいねえ。それじゃ、俺はほんとに帰るからな。鍵を閉め忘れるなよ」
当然返答はなく。俺は半ば呆れ気味に部室を出て、そのまま校舎を後にする。
夕焼け空を見上げて、未だに現状が夢の一部なのではないかと感じていた。
あのギャル——綾崎絵麻(あやさき・えま)との邂逅は、一週間ほど前に遡る。
五月上旬の朝。
俺——小島新太が二年C組の教室の戸を開けると、窓際に集まるギャル集団の姿が目に飛び込んでくる。
何がそんなに面白いのか、とにかくキャピキャピと騒いでいる。
そのうちの一人はだらしなく床に座り込んでいるせいで、パンツが丸見えだった。
「レースなんか穿きやがって、このビッチが」
そんな独り言を呟いたところで、肩をトントンとつつかれた。
「うぉっ!? ——って、お前かよ……」
振り返った先には見慣れた一人の女子生徒が立っていた。
黒髪ショートボブの、小柄な背丈の美少女。丸目が特徴的で、愛くるしい小動物みたいな容姿をしている。
彼女の名前は宮瀬沙弥(みやせ・さや)。俺とは家がお隣同士の、いわゆる幼馴染だ。
「そんなに驚かなくてもいいのに。これ、忘れていったから届けにきたんだよ」
そう言って差し出してきたのは、数学の宿題用ノート。
どうやら昨日こいつの家で一緒にやったものを、そのまま置き忘れてしまっていたらしい。
「わざわざ持ってきてくれたのかよ、お前クラス違うのに。ま、助かるけどさ」
「えへへ。あっくんのクラス、一限から数学だから困るかなと思って」
そう言えばそうだった。こいつが俺のクラスの時間割まで覚えていることに驚きだが。
ありがたく受け取ると、沙弥はなぜだかモジモジとしていた。
「どうした? トイレか?」
「もぉう、違うよ! その、あっくんは新しいクラスに慣れたかなって思って」
新しいクラスに慣れたかどうか。答えはイエス。すでに俺の立ち位置は確立している。
進級してから一ヶ月。連休を挟んだとはいえ、人間関係はすっかり固まっている頃合いだ。そんな中で、俺は『ぼっち』としての地位を確立していた。
まあでも、それほど悪いクラスではないと思う。俺はイジメも受けていないし。
連休が明けて数日が経った今でも、特にその辺りに変化はないだろう。
そう思って、教室に視線を向ける。
教室はいつもと変わらず騒がしい。談笑する者や、屋内でも構わずにサッカーボールを転がす者、そして窓際に集まるパンツ丸見えのギャル連中——
そこで気付く。
『あの女』がいないことに。
俺が最も嫌悪するギャル共のリーダーである、『あの女』が。
「——ごめんっ、そこ通してもらってい?」
そのとき、そう声をかけられ、沙弥の後ろに女子生徒が立っていることに気が付いた。
片側を結んだ金髪のセミロング。雪のように白い肌。愛嬌満点の大きな瞳に整った鼻梁。その芸能人ばりの派手な顔立ちと、すらっと華奢ながら出るところの出た抜群のプロポーションも相まって、誰もが羨むカリスマ女子高生。
綾崎絵麻。
オシャレに着崩した制服と、絶妙なナチュラルメイクで彩られた彼女はギャルという人種に当てはまるわけだが。他の連中とは違い、不潔だとかは一切感じさせない。
彼女こそが、俺の嫌悪するギャル集団のリーダー格であり、スクールカーストの頂点に立つ存在——『あの女』である。
沙弥が道を譲ると、綾崎絵麻はにこやかに微笑みかけ、
「さんきゅ、宮瀬さん」
軽快に告げるなり、俺たちの横を通り過ぎて教室に入っていく。
すれ違いざまに甘い香りがして、どうしてだか鼓動が強く脈打ち始める。
綾崎はキャピキャピ騒いでいたギャル連中と挨拶を交わし、すぐさま輪に加わる。そんな様子を見ていたら、またもや沙弥に肩をつつかれた。
「ん、なんだ?」
「綾崎さん、やっぱり美人で可愛いね〜。だからってあっくん、じーっと見すぎだよ?」
「お前なんか勘違いしてるだろ……。てか俺、三次元に興味ないし」
中学のときにちょっとばかしリア充連中といざこざがあって以来、俺はそういった連中とは出来る限り関わらないようにしている。まあ、一種のトラウマ案件というやつだ。
その代わりと言ってはなんだが、俺は二次元の女子には興味津々だ。
スマホを取り出し、壁紙にしている美少女イラストをうっとり眺めていると、沙弥がひょこっと覗き込んできた。
「その絵って、あっくんが尊敬している人が描いたものだよね。えっと、ア、ア、アンコ——」
「『アヤエ』、な。『アヤエ』さん。俺の崇拝する神絵師だ。いいかげん覚えろよな」
俺が『アヤエ』さんのことを知ったのは中二のとき。ピクシブで見つけて以来、あの方が描く美麗イラストに心を奪われ続けている。俺の灰色の日常に潤いをくれる、まさに神のごとき存在だ。
にしても沙弥のやつ、アンコって……頭文字しか合ってねえ。大方、今朝はあんぱんを食べたとかそんなところだろう。
「えへへ、そうだったね。それじゃあ、わたしはそろそろ行くね」
「おう、気をつけてな」
「うんっ、転ばないように前見て歩くね〜」
そういう意味じゃないんだが。嫌な奴とか、嫌がらせとか、他人の悪意とか……全部同じ意味だが、まあ沙弥は人気者だし、その辺りは俺が気にすることでもないか。
ひょこひょこと小動物のように歩いていく沙弥を見送ってから、窓際最後列の隣にある自分の席に着く。
窓際最後列は綾崎絵麻の席だ。よって、休み時間は毎回騒音に悩まされているわけで。
隣に座る綾崎をチラと横目で見て、直感で思った。
派手なパンツを穿いてそうだな、と。
♢
迎えた放課後。
俺は日直だったため、自分の席で日誌を書いていたのだが。
「あんさー、えまっち今日ヒマー?」
「あー、ごめん。今日予定あってさ」
一人のギャルが綾崎の席にやってきて話し始めた。
こいつらギャルって連中は一度話し始めると長いんだよな、団地のおばさん方みたいに……なんて思いながらシャーペンを動かしている間も、奴らは大声で会話を続ける。
「えー、カラオケ行こーぜー。連休恋しくてさぁ〜」
「パスー。チカってば、昨日フリーしたじゃん。それに連休終わったばっかだし」
「ん、えまっちからいつもと違う匂いがするんですケド。なに使ってんのー?」
「あ、気付いた? アナスイのスイドリームスに変えてさー」
「え〜、なになにぃ〜? 香水の話ぃ〜? ユリも混ぜてぇ〜」
また一人増えやがった。一人称に自分の名前を使うゆるふわギャルが。俺こいつが一番苦手なんだよな。この語尾を伸ばした甘ったるい猫撫で声を聞くだけで、中学時代に陰から俺を「キモオタ(笑)」と罵った奴らのことを思い出して、無性に腹が立ってくる。
それにしても、人が仕事中だってのに気の利かない奴らだな……と思って視線を向けたら、綾崎と目が合った。他のギャル共もつられてこちらを向く。
まずい、と思って視線を逸らしたものの、時すでに遅し。
「うっわ、パンジマが今こっち見てたんだけど! マジウケるー!」
チカと呼ばれたギャルが小声(のつもりだが聞こえている)でそう言って、ユリ(名字は忘れた)がクスクスと笑い声を漏らす。
ちなみに『パンジマ』というのは俺のあだ名だ。体育の着替え中、パンチラヒロインがプリントされたインナーシャツをうっかり見られてしまったことから付いた蔑称に近いものである。
「うわー、ユリ的にあーゆうのマジで無理なんですけどぉ〜。ね、エマっち」
「え? ああ、まあ」
くそ、これだから三次元は嫌なんだ。人が日直日誌を書いている最中に騒いでいるそっちにも非はあるだろうに、鬱陶しいことこの上ないぜ。
「てかあいつ、この前もキモいTシャツ着てたらしくてさ」
「それって、キャラクターがプリントされてるってやつ?」
「そーそー、男子達が騒いでてさ。なんかギャルっぽい女の絵で、自分からスカートめくってパンツ見せてるらしいよ。体育の着替え中に見たんだって。マジキモすぎっしょー」
「それ本間くんがインスタ上げ損ねたって言ってたぁ〜。てゆうか、実はエマっちとか狙ってたりしてぇ〜、ってヤバ! ユリすごいことに気付いちゃったかもぉ!」
「うっわ、それマジウケるー。わかりみー」
「もぉう、無いってば。飛躍しすぎー」
本当にこいつらギャル共の会話は他人を平気で傷付けやがるな。
てか全然ウケねえし、すごいのはユリって奴の頭の残念さだけだわ。それと、語尾に意味不明な「み」を付けてる奴も鬱陶しいから帰ってくれ。
それにしても、オタクへの偏見——というか、地味でいかにもなオタクへの偏見は相変わらずだよな。まあ、ヒロインのパンチラTシャツを着ていた俺のせいでもあるんだが。
自分で言うのもなんだが、俺は根っからのオタクだ。別に隠すつもりもオープンにするつもりもないごく普通のオタクで、好きなジャンルは主にギャルゲー全般である。
その中でも特に好ましいのは『パンツ』関連のものだ。
三度の飯よりヒロインのパンツ、と言ってもいいほど重度な自覚はある。沙弥があまりうちに来なくなったのも、部屋の二次嫁たちのパンチラ(グッズ)のせいだろう。
ちなみに、パンチラヒロインがプリントされたTシャツは今も着ている。それも特にお気に入りの、『アヤエ』さん作の物を(もちろん、本人から許可は頂いている)。ここでこいつらに見せつけてやったら教室から出ていってくれるだろうか。……いや、いいネタにされるだけか。
俺がそんなことを考えながら、日誌の感想欄に『今日も周りが騒がしかった。チネ』と書き殴っていると、
「パンツ、ね」
綾崎が何やら感慨深そうに呟いた。気のせいか、俺の胸元を見つめて。そんなに凝視されても今はブレザーを着ているし、ネクタイもつけているから見えないぞ。
それから結局、奴らが教室を出て行ったのは俺が日誌を書き終えた頃だった。
苛立ちと落胆を胸中に燻ぶらせながら、俺も教室を後にする。
職員室に入り、『ぞえちゃん』という愛称で親しまれている担任女性教師の川添(かわぞえ)先生(眼鏡のアラサー独身)に日誌を提出したところで、
「確かに受け取りました。それと、ついでと言ってはなんですが、漫画研究部の部室に届け物をしてくれませんか? この古本なんですが」
そう言った川添先生の足元には、紐で括られた見るからに古い漫画の山があった。
まずい、面倒事を押し付けるつもりだな。だってこれ、どう見たって置き場所に困ったやつだし。図書室にも置けないレベルの年代物だろ。下手すりゃ先生の私物まである。
「い、いや〜、俺、実はこのあと用事がありまして……」
「そうですか。まあ、私も漫画研究部の顧問として、たまには部室に顔を出して部員の活動を指導しないといけないですしね」
「うぐっ…………あの、やっぱり俺が持っていきます」
「そうですか、助かります。ではお願いしますね」
川添先生はにこやかにそう言った。
なぜ俺がこんな面倒事をわざわざ引き受けたのか。
それは俺が漫研の部員だからだ。漫研は全員入部制となっているうちの学校の穴場——いわゆる幽霊部員の溜まり場となっていて、活動している部員などろくにいない。当然、俺も部室には最初に挨拶しに行った覚えしかない。
そんな穴場が廃部にならずに済んでいるのは、見逃してくれている顧問・川添先生のおかげである(単に本人が楽をしたいだけかもしれないが)。よって、その顧問のご機嫌取りをするのは、一部員としての義務の一つなのだ。
俺はげんなりした気持ちで古本の山を両手に抱え、文化棟という建物の三階突き当りにある部室へ向かう。
夕日が差し込む廊下の先、漫研の部室の前に到着した頃にはうっすら汗を掻いていた。古本を床に置いてから一応鍵を確認したが、やはり施錠されている。
当然だ。部室の鍵は借りられていなかったし、ましてや放課後に活動している部員がいるはずもない。
そもそも漫研の部室は広くもないし、窓が一つで風通しも悪ければ、壁際に並ぶ本棚は古本オンリー、中央に長テーブルが一台あるだけの質素な空間だ。現在所属している部員の数は二桁に届いているらしいし、全員がちゃんと活動していれば、こんな部室一つで足りるはずがないんだよな……などと思いながら、借りてきた鍵で開錠する。
それから何の気なしに扉を開けたのだが、
——ふぁさっ。
次の瞬間、俺は絶句していた。
視界に映るは宙を舞う『パンツ』。
それも一枚や二枚じゃない。花吹雪のごとく舞い落ちる無数の穿き物は、全てが女物。丁寧に言い換えるならば『おパンティ』だった。
そんな数多のおパンティに囲まれるのは、床に座り込んだ一人の女子生徒。
見覚えのある派手めな彼女は、頭上を舞うパンツを気に留めることもなく、何やら液晶タブレットに必死で描き進めていた。
そいつは——綾崎絵麻だった。
「あ」
こちらに気付いた綾崎が声を漏らしたタイミングで、頭に一枚のパンツが被さった。
フリルのあしらわれたピンクのレース。私物だとしたら良い趣味をしている。似合うかどうかは別として。
互いに無言が続き、時が止まったような感覚に囚われる。
だが、本来は脚を出す箇所から覗くその瞳は、確かに俺を捉えていた。
自然と後退りする俺。立ち上がる綾崎。
綾崎は液タブをテーブルに置いてから、頭の被り物(おパンツ)を丁寧に取る。
現状は限りなく異常だ。頭の中では何も理解出来ていないが、考えても答えは出ない気がする。その代わりに、本能的な何かが即座にこの場から逃げろと告げている。
だがすでに、綾崎から鋭く睨み付けられているせいで動けそうもない。さながら蛇に睨まれた蛙の気分だ。
弱った獲物を仕留めるかのごとく、綾崎は視線を外さぬままつかつかと近付いてきて、
——グイッ。
「うッ!?」
ネクタイを掴んで引っ張られ、強制的に綾崎との距離が目と鼻の先となる。
てか近い! 近い近い! なんだよこの状況!
いや、落ち着け。こういうときこそ冷静に、頭を働かせて状況判断だ。
まずは現状確認。俺の目の前には綾崎絵麻——忌むべきリア充ギャルがいる。
にしてもこの女、顔だけは妙に整っていやがる。とはいえ、こちらを見つめるその視線は少なくとも好意的なものではない。よって、俺も自身の本能に従って睨み返す。
すると、綾崎は思いのほか簡単に視線を逸らし、そのまま俺の胸元辺りを見つめ——
「——ッ!」
そのとき、なぜだか綾崎は驚いた様子で目を見開いた。かと思えば、すぐさま再び睨み付けてくる。
「な、なんだよ」
俺が威嚇するように声を絞り出すも、綾崎は怯むことなく、今度は視線も逸らさない。
「あんた」
「ひゃいっ!?」
素っ頓狂な声を上げた俺に構わず、綾崎は言葉を続ける。
「同じクラスの小島、よね。どうしてここに?」
あちらさんとしては普通に尋ねているつもりなのかもしれないが、俺からすればカツアゲされている気分だ。正直、怖い。若干ちびりそうだ。
何せ、教室でキャピキャピ談笑しているときとは声のトーンが違う。すごい迫力だ。
とにかく逃げろ、こいつはやばい、パンツまみれのギャルなんて異常過ぎる。——そう頭では理解しているのに、相手が忌むべきギャルだからか対抗意識も生まれていた。
俺は漫研の部員だ。そして、顧問の頼みを引き受けてここにいるのだ——と。
「お、俺はここの部員だからな、部室に顔を出して何が悪い。それに今日は、顧問に頼まれた物を置きに寄っただけだ」
「顧問に頼まれた、ねぇ……てかあんた幽霊部員じゃん。今まで部室で見たことないし」
確かに俺は、正真正銘の幽霊部員だけどさ。
けどじゃあ、お前はなんなんだよ。漫研の部室でパンツに囲まれるギャルとか、意味わかんねえぞ。
「そ、それはそうだけど……お前の方こそ、どうしてここにいるんだよ。まさか、真っ当に部活動をしていたなんて言わないよな?」
パンツまみれの件については触れない方が良い気がしたので、あえて訊かないでおく。
綾崎はようやく俺のネクタイから手を離し、一歩ぶん距離を取った。
「あ、あたしも一応、部員だし……放課後はたまに活動してるっていうか……そのために、合鍵も作ったくらいだし……」
綾崎は急に動揺し始めた。そんなに漫研の部員であることが後ろめたいってか。
というか、放課後に活動してるってマジかよ。しかも合鍵を作るほど熱心というのは、普段のこいつのイメージからするとしっくりこない。部室を私物化して不良の巣窟にしている、とかの方がまだ納得がいくぞ。
「にしても、活動ねえ……」
俺が床に散らばるパンツを見遣ると、気付いた綾崎はそれらをすぐさまかき集めた。
今のうちに部室を出ようとしたところで、
「待って」
呼び止められて、反射的に動きを止めてしまう。
おそるおそる振り返ると、床に散らばっていたパンツはすでに見る影もなくなっていた。そして綾崎はというと、液タブを手にして立っていた。あれは確か最新機種で、値段もそこらのとは桁が違ったような気がする。
「……ずいぶん良いのを使ってるんだな」
つい感想を言っちまった。綾崎は一瞬だけきょとんとしたかと思えば、すぐさまニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「あたし、道具には妥協しないタチなの。で、あんたはこれがなんなのかわかるってことよね?」
「そりゃ、液タブくらい知ってるだろ。というかそれ、お前の私物なのかよ」
「とーぜん。自腹で買った相棒よ」
綾崎は誇らしげに液タブを抱えてみせた。意外と様になっている。
「で、そんなもんを見せつけるためだけに俺を呼び止めたのか。地味オタの俺にまで自慢するとか、承認欲求の塊か、極度のかまってちゃんかよ」
「はぁ。ちょっと待ってなさい」
割と棘を持たせて言ったつもりだが、綾崎は気にする素振りも見せない。そして液タブにサラサラと何かを描き始めた。
慣れた手付きだ。立ちながらだというのに、やはり様になっている。そのせいか、すでにもう彼女がどんなものを描いているのか気になっている自分がいる。
なんて感心していたんだが、
「えへっ」
「ん? な、なんだ?」
「えへへへへ……」
綾崎は作業に没頭していたかと思えば、いきなり笑い出したのだ。はっきり言って、超怖いんですが。
その顔はとろんと蕩けていて、とてもじゃないが他人様に見せられるものじゃない。ニヤついた口元からはよだれまで垂らして、表情だけですでに十八禁指定が入ってもおかしくないほどだ。
「お、おい、綾崎……?」
「うへ、うへ、うへへへへへ……ッ」
「ひぃっ!?」
いきなり変な笑い声を出すものだから、つい悲鳴を上げちまった。なんなんだよ一体、もう超絶怖いんですが!
それからしばらくの間、綾崎はペンを走らせながらニヤついていたが、何かを描き終わるのと同時に大きくため息をついた。
「ほい」
正気に戻ったらしい綾崎が液タブの画面を見せてくる。
そこには、漫画らしきものが描いてあった。ラフスケッチだが、俺好みの美少女が躍動的に描かれている。……はっきり言って上手い。上手すぎる。完全にプロレベルだ。
それに、イラストタッチがどことなく『アヤエ』さんに似ている気がする。さすがに同一人物なんてことはないだろうが。
描かれているキャラクターには見覚えがある。『キミカノ』という学園モノのギャルゲーに登場する優等生ヒロイン・天辻(あまつじ)ミカサだ。ひらりとスカートが翻り、パンチラ状態で恥じらうその姿は、否が応でも目を釘付けにする。
鼻息荒くしばらく眺めてから、ふと嫌な視線を感じたので顔を上げると、目の前にはドヤ顔を浮かべる綾崎の姿があった。
「……これ、お前がさっき描いたやつか?」
「そうよ」
「えっと、あのさ、ちょっと訊いていいか?」
「何?」
「お前って、もしかして漫画家志望なのか? これってキミカノの天辻ミカサだよな? 相当上手いけど、もしかしてプロだったりするのか?」
綾崎は俺の問いには答えず、何やら考え込んでいる。
この反応は、当たりってことだろうか。
綾崎はずっと黙っているので、こちらから切り出すことにする。
「いやな、漫研に入ってて絵を描いてるから、てっきりそうなのかと思ってさ」
「まあ確かに、描いたのはキミカノのミカサちゃんだけど」
「やっぱりか! まさか綾崎がキミカノをプレイしていたとはな〜。ちなみに俺の嫁は八咲舞(はちさき・まい)——舞たんな。後輩キャラで、クールなのに家庭的なところとかたまんないぜ。何より、パンチラと見せかけてのあの名シーンには唸ったもんだ!」
——と、つい語り出してしまった。俺の悪い癖だ。綾崎だってオタク趣味があるとはいえ、リア充なギャルだ。俺にこんな話を聞かされたらもう、全力でドン引きしていることだろう……。
なんて思ったのだが、綾崎は真剣な様子で向き直ってきた。
「あんたさ……あたしがもし『同人誌』とか描いてたら、変だと思う?」
「えっ、綾崎って『同人誌』描いてるのか!?」
綾崎はまずったとばかりに顔を両手で覆った。
「だっ、だからっ、もしもの話! いいから答えて!」
「……いや、別に変ではないだろ。まあ同人誌って言ってもどんなジャンルかとか、内容もろくに知らないし、そもそも評価なんて出来ないけどさ」
すると、綾崎は何か思うところがあったのか、じーっとこちらを見つめてくる。
「な、なんだよ」
「……まあ、あんたって見るからにオタクだしね」
「お前だってオタクだろうが……」
「あたしは違うし」
「何が違うんだよ」
綾崎は腕を組んで仁王立ちし、
「あたしは隠れオタだもん」
そう、ドヤ顔で言った。
俺がただ呆然としたまま反応に困っていると、綾崎はごほんと咳払いをする。
「そこで一つ提案があるのよ」
人生史上最大級に嫌な予感がしたため、聞く前に即座にお断りしようとしたのだが。それを制止するかのように、綾崎が人差し指を突き立てた。
「あたし、実は同人誌を描いてるんだけどさ、どうしてもイメージが湧かないシーンがあるんだよね。だからあんた、あたしに協力して」
「は?」
いきなりこいつは何を言っているんだろう。
あの画力を見せられて、しかもさっきの下手なごまかしの後だ。今さら同人誌を描いているって事実には驚かない。けど、協力ってなんだ。
「何よ、嫌なの?」
「嫌っていうか……なんで俺がそんな面倒そうなことをしなきゃいけないんだよ」
「だってあんた、あたしの秘密を知ったじゃない」
無茶苦茶だ。論理が破綻しすぎていてついていけない。
だけどまあ、ここは努めて冷静に対応するとしよう。
「秘密ってあれか? お前がパンツまみれになってたことと、なんかやたら絵が上手いこと、それに同人誌を描いているっていう」
「そーそー。ちなみに補足しとくと、あたしがパンツにまみれていたのは、同人誌を描くためのイメージトレーニングの一環だから。いわゆる実践訓練をしていただけだから。絵描きならみんなやってることよ」
「いや、学校でパンツまみれになる絵描きなんて聞いたことねえよ……」
「と・に・か・く! そーゆうことだから。わかった?」
わかった? って、今の話で納得するような奴はとんだお人好しか、頭の中にお花畑が広がってる能天気くらいだ。
こいつ、典型的なリア充女だな。他人の話を聞かないくせして、自分の考えを押し付ける。こんな奴とはできる限り関わらないのが吉だ。
「あのなぁ、俺は誰にもお前の秘密を話したりしねえよ。話すメリットがなければ、話す相手もいないしな」
「自分で言ってて悲しくなんないの?」
綾崎はドン引きした様子で蔑視してくる。ちょうど今なってたとこだよ。
とにかく、俺は言うことは言った。だから早々に立ち去ろうとしたんだが、
「あんた、今帰ったら絶対後悔することになるわよ」
背中に浴びせられた脅し文句。
別に、俺はこいつに何も弱みは握られていないはずだ。それなのに、こいつの言葉からはやけに気迫というか、予言めいた何かを感じさせる圧があった。
それに、脳裏にはまだ先ほどのラフイラストがちらついている。考えれば考えるほど、俺が大好きな絵師さんのイラストタッチと似ている気がするのだ。
……くそ、話だけだ。聞いてさよなら。それで終わりだ。
「はぁ、とりあえず話だけは聞くよ。で、協力って言っても、具体的には何をしてほしいんだ?」
「お、ヤル気になってくれたのね。——実はあたし、キミカノの二次創作を描こうと思ってるんだけど、とあるシーンの描写が全然思い浮かばないのよ」
「へぇ……」
「でもどうしてもやりたいの。ちなみにあたしの嫁はミカサちゃんね。普段は優等生だけど、いろいろと抱えているものがあって、最初はだいぶ冷めているの。でも好感度が上がってからは照れたりもしてくれて、頼ってきたときなんかはもう超可愛くて——」
そう語る綾崎は嬉しそうに笑ったり、切なそうに落ち込んだり、なんだか表情が忙しない。自分の好きなものを語らせると大抵のオタクはうるさいものだが、彼女はそのテンプレだな。
キミカノがPS2用ソフトとして発売されたのはだいぶ前になるが、それからアニメ化して、コミカライズやノベライズなどのメディアミックスも幅広く展開された人気シリーズだ。最近ではPS4版も発売されたほどである。
けど、ギャルでクラスカースト最上位の綾崎絵麻の口から『キミカノ』や『嫁』、『二次創作』なんて単語が出ると、今更だが違和感を覚えずにはいられない。
だというのに、綾崎は未だに語り続けている。
「——んで、そのとき思ったのよ! これは天啓だ! もう描くしかないって!」
「そうか……」
「ちょっとあんた、ちゃんと聞いてんの?」
綾崎は机上に腰を下ろしてジト目を向けてくる。俺は慌てて取り繕う。
「聞いてた聞いてた。お前がキミカノ好きなのは伝わったよ、うん。言わずと知れた名作だし、俺も好きだぜ。ちなみにさっきも言ったけど、俺の嫁は舞たんな」
「そ。まあ、あんたの嫁はどうでもいいんだけど」
俺も綾崎の嫁トークはどうでもよかったけどな。
「でも悪い、結局お前が俺にどういう協力を求めているのかはわからなかった。もっとわかりやすく教えてくれないか? シーンが思い浮かばないって言うならたとえば、街のスナップ写真を撮ってきてほしいとか、中高生男子の行きそうな場所を教えてほしいとか」
すると、綾崎はなぜだか恥じらうように視線を逸らした。
「恥ずかしがっているところ悪いんだが、それを聞かないことには始まらないぞ?」
「わ、わかってるわよ! ……その、あのね……あんたに頼むのには、それなりの理由があるのよ……」
「だから、その理由をだな——」
「——だってあんた、パンツ好きでしょ!?」
いきなり大声で叫ぶものだから、びっくりして尻餅をついてしまった。
すると綾崎は俺を見下ろす形で、唇を半月状に歪ませる。
「だからね、見せてあげるわよ……パンツを」
言うなり、自らのスカートの裾に手をかける。
「お、おい、綾崎さん……? いや、俺が興味あるのは二次元の女の子のパンツなんですけど……!?」
「知ってるわよ。あんたが歪んだ性癖の持ち主だってことぐらい、すでにリサーチ済みなんだから」
ひいぃぃっ! リサーチなんていつの間に!?
そうこうしているうちにもスカートはめくり上がっていく!
「そんなあんただから、頼むんじゃない。ギブアンドテイクは成立するわ。あんたにとってはむしろ、テイクの割合の方が大きいくらいよ」
「いやだから、意味がわからないんですけど……!」
綾崎の動きが止まる。代わりに眉間に皺が寄ったかと思えば、苛立たしげにその長い足を組んだ。
「鈍いわね……要は、あたしはパンツモノを描きたいのよ」
「へ?」
思わず声が裏返った。
動揺を隠せない俺に構わず、綾崎はなおも続ける。
「だけど、男の子にパンツを見られたときのヒロインの反応っていうの? そういうのがイマイチはっきりしないというか……こう、リビドーが滾らないのよ。わかる?」
綾崎がリビドーって言った。それだけはわかった。
「つまりは、欲求不満なのか?」
「はっ倒すわよ? その上でパン一にして教室につるし上げてやろうかな」
「嘘です嘘です、オタックジョークなので流してくださいごめんなさい」
本気で脅してくるから本気で謝ってみた。どうやら許してくれたらしい。
「あんたのそのオタックジョーク自体が寒すぎたってのは置いといて、つまりはあたしのミカサちゃんが『ひゃうぅ』ってなるところを描きたいわけ。出来れば、読んだ人たちが絶賛するレベルのハイクオリティで」
ひゃうぅについても突っ込みたいが、『あたしのミカサちゃん』って言ったぞこいつ。
「だから俺に女のパンツを見ろと。つまりは主人公役を務めろってわけだな」
「そ。やっとわかってくれたみたいね」
「でも、そうなるとミカサ役も必要だろ? 誰かあてでもあるのか?」
「あたしよ」
すげえドヤ顔だ。
「え……まあ、異論があるわけじゃないけど……一つ、確認しておきたいんだが」
「何よ?」
「あのさ、お前がやろうとしてるのって、その、年齢制限有り? だったらやばくね?」
綾崎は俺の言葉を咀嚼するように考え込んでから、意味を理解したのか瞬時に顔を真っ赤に染めた。
「あ、あんた、最っ低! 変態! 色情魔! 万年発情男!」
「おい待て! 勘違いするなよ! 俺はただ純粋に疑問に思っただけでだな!」
「うっさい変態! あたしはパンツオンリーでも十分エロかわMAXやばばばばばにできるから! その先は読者様の想像力にお任せするタイプだからッ!」
……さいですか。つーか、オタ語なのかギャル語なのかよくわからん混ぜ方すんなよ。
まあ、パンツだけで十分エロさを出せるという意見には深く同意せざるを得んな。
そんな風に思っていたら、なぜだか綾崎が虫けらでも見るような視線を向けてきていたので、紳士的な振る舞いを意識して咳払いをする。
「とにかく、だ。内容はわかった。けどな、そんな一方的な用件を飲めるか。こっちだって暇じゃないんだ」
「ほんとあんたって鈍いわね。だから、あんたにとってテイクの割合が大きいって言ったじゃない。第一、どうせ家に帰ってもネトゲするか漫画読むくらいしかやることないくせに」
「うるさいな……なんなんだよ、そのテイクってのは」
綾崎はニヤリと笑みを浮かべ、
「あたしが描くイラストを直で見放題。これほどの好条件はないわ!」
自信満々に言い放った綾崎。
しかし、これについては俺も否定できなかった。
なぜならこいつが俺の予想通りの人物だとすれば、まさしく好条件極まりないからだ。
「——お前ってさ、もしかして、『アヤエさん』なのか?」
俺の問いに対し、綾崎は笑顔のまま頷いた。
その瞬間、俺は自然と綾崎の手を握っていた。
奇跡だ。まさか実物のアヤエさんとこうして顔を合わせることができるなんて……感動しないはずがない。この華奢な手で、指先で、あの美少女達を創造なさっているのか。
アヤエさんが描くのは主に美少女イラスト。決してパンツモノばかりを描いているというわけではないが、パンツは得意分野で大好きらしい。彼女が描く美少女のイラストは、十八禁でもないのに我がリビドーを熱く滾らせ、エロティシズムと呼ぶべきものを強く揺さぶってきた。
商業活動はしておらず、あくまで趣味の一環として絵を描いているらしいが、その速度とクオリティはアマチュアとは思えないほどであり、俺は密かに布教を進めている。
そんなお気に入り絵師さんのイラストが直で見放題というのだ。なんなら作業風景を見る機会もあるかもしれない。というか、これは俺も携われるということなのでは?
なるほど、確かにこれはテイクの割合が大きい。俺にとっては良い話でしかない。
そんな風に感動していたのだが、なぜだか目の前の綾崎は顔を真っ赤にして固まっていた。
なんだ? どうしたんだ? キモオタの俺が近くにいるからショートしたのか?
——と、我に返ったらしい綾崎は俺の手を振り払って、ドヤ顔を浮かべた。
「ま、まあ、わかってくれたならいいわ。これで文句はないわよね?」
「ああ! もちろんだぜ!」
「それはそうよね。(……あんた、あたしのイラストをTシャツにするくらいだもん)」
「へ?」
後半はもごもごと言っていたので聞き取れなかった。
けれどもう一度言ってくれるつもりはないらしく、綾崎は俺をキッと睨み付けると、
「ただし、わかってるとは思うけど、絶対あたしに襲いかかったりしないでよね。パンツ見せてあげるってだけでも、テイクの割合が大きすぎるんだから」
「いや、それは心底どうでもいいんだが」
「やっぱり一度シメた方がいいかな?」
「ひえぇっ! ごめんなさい! 謹んで協力させていただきますぅ!」
俺の言葉に気を良くしたのか、綾崎は再びドヤ顔になった。
「それと、このことは絶対に他言無用でお願いね。あんたが校内で唯一仲の良い幼馴染ちゃんにもよ。いいわね?」
「お、おう」
まあ、普段こいつがつるんでいる連中に、パンツモノの同人誌を描いていることがバレるわけにはいかないわな。わざわざ合鍵を作ったのも、こうしてひっそり活動していることを他の生徒や教師に勘付かれたくなかったからだろうし。
それに言われなくても、沙弥にこんなことを言えるかっての。
「さっそく今週末、土曜から作業を始めるから。お披露目予定のオンリーイベントがもう来月に迫ってるの。十時に部室に来ること、いいわね?」
「休日にまで学校へ行くのか……」
「何よ、他に最適な場所でもあるの?」
「いや、そう訊かれると……ないな」
「でしょ。うちにあんたを呼ぶわけにもいかないしね」
「お、おう……」
「それと、はい」
綾崎がスマホを差し出してくる。
「…………磨けってか?」
「は? 今のボケ? 素だったら相当ヤバいんですけど」
綾崎の反応と、画面に表示されたQRコードからようやくその意図を理解する。
「は、はは、連絡先の交換だろ? せっかくボケたんだから突っ込めよな」
本当は連絡先の交換なんてものに長年縁が無いせいでその意図に全く気付けなかったわけだが、それを言ったらすごく虚しくなる気がしたので、ついごまかしてしまった。
綾崎がジト目を向けてくる中、なんとかコードを読み取ることに成功する。
数少ないLINEの友達欄に『えまちょろ』という名が刻まれた。……変な名前だな。
「あと、普段は馴れ馴れしく話しかけてこないでよね。連絡事項も基本はLINEで。あんたの協力が必要なときはあたしの方から連絡するから、いつでも反応できるようにしといて」
「要望多すぎだろ……」
「あたしもう帰るけど、一緒に校舎を出たら誰かに見られるかもだし、あんたも帰るならあたしの五分後に出てよね」
「へいへい」
「それじゃ、またね」
綾崎は上機嫌にそう言ってから、荷物を手早くまとめて部室を出ていった。
俺は言われた通り、五分後に部室を出て、職員室に鍵を返してから校舎を出る。
——ブブブッ。
そのときスマホが振動したので確認すると、綾崎からのLINEが届いていた。
『えまちょろ:これからよろしくー♪』
その文章を見て、なぜだかアヤエさんとのピクシブでのやり取りを思い出す。
あの人、やけにレスポンスが早いんだよな。
『こちらこそ』——と送ると、案の定、一分も経たないうちに返事がきた。
『えまちょろ:なんか新鮮w 小島とLINEとかwww』
俺はなんか馬鹿にされている気がするんだが。安易に草生やすなよな。
まあ確かに、タメ口のやり取りは新鮮だが。ピクシブではあくまで敬語だったし。
けど、やっぱり文字のやり取りの方が俺たちには向いている気がする。いや、あくまで俺的には、だけど。
まあ、いつまで続くかわからんが返事をするか。
『先に言っとくが、呼び出しに反応できなくても怒るなよ。俺にもプライベートがあるからな』——送信、と。
——ブブブッ。
返事はやっ。また一分以内だ。
『えまちょろ:小島にプライベートとかw ウケるwww』
おい今どこにウケる要素があった? やっぱこいつ馬鹿にしてんだろ。
アヤエさんとはこういうプライベートが関わるようなやり取りはしなかったな。ただ一方的に俺が崇拝していて、こっちが絵の感想を言うと、アヤエさんがそれに反応してくれて。
そんなアヤエさんが、実はリア充ギャルだなんて思いもしなかった。むしろ、キモオタなおっさんまであると思っていたくらいだ。
『へいへい。華麗にスルーしてきたけど、俺も忙しいときはスルーするからなw』——送信、と。
——ブブブッ。
相変わらず返信早すぎだろと思って確認すると、沙弥からのメッセージだった。
『沙弥:今夜のおかずはぶり大根だそうです♪ それでお母さんが、せっかくだからあっくんもうちで食べていきなさいって言ってるんだけど〜』
『そうする』——と送信する。
沙弥のお母さんが作る料理はどれも絶品なんだよな。そのぶん、娘の料理の腕前は壊滅的なわけだが……この前、お手製のダークマターを差し入れられたときはリアルに昏倒しかけた。まあ、今日のぶり大根には手出しをしていないと信じよう。
そういえば、綾崎とのことは沙弥にも秘密なんだよな。まあ、あいつは抜けてるところがあるし、大丈夫だろうけど。
そして綾崎はといえば、メッセージに既読は付いていたが返事はなく。
都合の悪い文章には返事すらしないとか、気まぐれすぎるだろ。
LINEを閉じて、ホーム画面に表示されたアヤエ氏のイラストを見て思わずニヤついてしまう。
実物がどうあれ、これからは大好きな絵師さんのイラストを生で拝見できるのだ。これで興奮しない方がおかしい。
退屈だった日常に潤いがもたらされたと言っても過言じゃないぜ。
そんな風に楽観的に考えながら、俺は帰路に就いた。
♢
帰宅すると、リビングの電気が点いていた。
「ただいま」
「シンちゃんおっかえりぃ〜」
ソファに腰掛けながら陽気な声をかけてきたのは、茶髪ロングの女性——従姉の杏香(きょうか)だった。海外出張している俺の両親に代わって保護者の代理を務めてくれている人で、週三ペースでこうして様子を見に来てくれる。親戚とはいえ年上の相手なので、俺は杏香姉と呼んでいる(あっちは新太の新の字をもじって『シンちゃん』と呼ぶ)。
杏香姉は都内の私立大に通う女子大生だ。長身で爆乳、女子大生らしいシンプルかつ上品な私服。見てくれは綺麗なお姉さんといった感じだが、性格は豪胆かつ大雑把、そして能天気。そのくせ酒癖も悪いから、なんというか、良くも悪くも距離感が近い。見た目に反して中身は子供といった感じの人だ。
「ん〜? ……ひっく。あれぇ〜、ひょうはおそかったねぇ〜?」
若干だが、ろれつが回っていない。これはだいぶ酒が入ってるな……。
「まあ、ちょっといろいろあってな。てかまた酔ってるし。いいかげん、介抱する方の身にもなってくれよ……」
これではどちらが保護者の代理かわかったもんじゃない。
「ん〜、にしても、この前のオフ会たのしかったなぁ〜」
杏香姉は缶ビール片手に、幸せそうにくつろいでいる。
この人も俺と同じオタクだ。大学ではアニメ研究サークルとコスプレ研究サークルを掛け持ちしているとか。割となんでも手を出すタイプで、特にこだわりはないらしい。
「杏香姉が今日来るとは思ってなかったから、俺外で飯食ってきたけど」
杏香姉用のつまみを棚から出して、テーブルに置いてやる。すると、杏香姉が勢いよく抱き付いてきた。
「あれぇ〜、シンちゃん。ひょう遅かったのって、もしかして、おにゃのこぉ? お姉ちゃん妬けちゃうな〜、このこのぉ〜」
杏香姉はスキンシップが激しいんだよな。平気で小突いてくるし、酒くさい息と一緒に柔らかい何かがたゆんたゆんと押し付けられるし。
確かに帰りが遅くなったのは綾崎のせいだが、飯は一人で牛丼だったぞ。
「水入れてくるわ」
「ちょちょ、逃げないでよぉ〜」
離れようとしたら、わざわざ引き戻された。……酔っ払いめんどくせえ。
「さやぴーが悲しむぞぅ、この浮気者め〜」
「沙弥はそういうんじゃないって言ってるだろ。もちろん、綾崎もな」
「アヤサキィ? アヤサキ、なにちゃ〜ん?」
うっわ、ほんとめんどくせえ。腕をがっちりホールドされているせいで、逃げることもできないし。
酔いのせいか身体が熱い。熱とともに魅惑的な感触まで伝わってくるが、俺は雑念の一切を振り払うべく、大きく咳払いをした。
「杏香姉も知ってるだろ、俺が彼女を作るのは二次元だけ。三次元なんて、必要最低限のことをするだけの空間だ」
すると、杏香姉は慈しむように俺を見つめてきた。
「よしよ〜し、ちゅらかったねぇ〜」
「撫でるなっての。それより、俺明日も早いんだけど」
「それでそれで〜、さやぴーはいつ攻略するのぉ〜? もうチューはしたぁ〜?」
「話聞けよ酔っ払い! もういいかげんにしろ!」
攻略とか、沙弥はギャルゲーヒロインじゃないっての。
まあこの通り、杏香姉は沙弥を大層気に入っていて、すでに妹扱いしているほどだ。沙弥の方も懐いているというか、二人とも仲良いんだよな。
「シンちゃんは優しいからねぇ」
「優しくなんか、ねえよ」
「…………」
「杏香姉?」
「…………ぐーっ……ぐーっ……」
最悪だ。もう寝やがった。
俺はもたれかかってくるその豊満ボディと肩を組んで、別室まで運ぶことにした。
くそ、推定Eカップはあるだろう爆乳が当たってきやがる……ッ!
それに酒の匂いとは違った、なんかフレグランスな大人の香りまでするし……あああ、理性の崩れる音がするぅ!
ようやく別室に着いた頃には、俺のメンタルはすっかり疲弊しきっていた。
布団を敷いてから杏香姉を横たわらせてやると、
「……シンちゃん」
「どうした?」
「ぎもぢわるい」
「ちょっ!?」
俺が何か容器を持ってくるよりも早く、杏香姉はとんでもなく俊敏な動きでトイレへと駆け込んでいった。
「もう、知らね」
俺はスポドリを置いてから、二階にある自室に入ってベッドにダイブする。
はぁ。なんかすごく疲れた。
まあ、この疲労感の原因は主に、放課後の綾崎とのやり取りのせいだろうけど。
本当に、今日は驚きの連続だったな……まさか、綾崎絵麻がアヤエさんだったなんて。
今後については不安もあるけど、ワクワクもしている。
そんなことを考えながら、俺はゆっくりと意識を遠のかせていった。
♢
それからの数日間、学校で綾崎と直接話すことはなかった。
だが、何度かLINEでやりとりをすることはあって。
たとえば授業中、俺が居眠りに勤しんでいると、
——ブブブッ。
俺のスマホが振動し、ソシャゲの通知かと思い確認すると、綾崎からのLINEで。
『えまちょろ:暇だったし描いてみたw』
そんな文章とともに、画像ファイルが添付されており。
——ガタッ!
「ふぉお——っ!」
俺はつい奇声を発して立ち上がっていた。
なにせ、アヤエのラフイラストが送られてきたのだ。シャーペンでノートの隅に描かれたものだが、理知的な眼鏡ヒロインで、俺はもうすでにメロメロである!
「授業中ですので座ってくださいね」
川添先生(担当教科:現代文)から注意を受ける。クラスメイトたちから冷たい視線を浴びながらも、俺は幸せな気持ちで着席した。
すると、再びスマホが振動し、
『えまちょろ:小島マジウケるw ちなみにそれ、ぞえちゃんがモデルだよwww』
——ガタッ!
「んなわけあるかッ! イラストの方が数億倍尊いわッ!」
俺は再び立ち上がるとともに、隣の席の綾崎にありったけの思いを叫んでいた。
だというのに、当の綾崎は素知らぬ顔だ。終いには頬杖をついて窓の外を眺める始末。
「えーっと……体調が悪いなら、保健室へ行ってはどうですか?」
川添先生が困惑した様子で尋ねてきたので、俺は渋々気を落ち着かせて「平気です」と言って座り直した。
そんな、席が隣同士なのにLINE限定という奇妙なやりとりをするうちに、約束の前日——金曜日になった。
この日は、昼休みに綾崎からLINEが届いた。
『えまちょろ:明日は十時に部室集合だからねー!』
『了解』——と返信を送った頃には、綾崎はギャル連中に囲まれていた。
「えまっち、なんかごきげんじゃん。今LINEしてたのって彼氏ー?」
「えー、違うってば」
「なんだぁ。でもユリ、エマっちの恋バナ聞きた〜い」
「パスー」
「ならさー、明日の合コン来てくんない? えまっち来れば盛り上がるしさー」
「それもパスー。今あたし、恋とかする気ないからさー」
「ちぇー、いつもそれだよなー」
「もしかしてぇ、エマっちは女の子が好きとかぁ?」
「あはは、違うってば。てか、チカ昼は学食って言ってなかったっけ? 混む前に行こーよ」
「やば、そだった。行こ行こ!」
ギャル連中は揃って教室を後にする。今日の昼休みは穏やかな気持ちで過ごせそうだ。
それにしても、綾崎のやつ……合コンを断ってまで俺みたいなオタクとパンツモノの同人誌作りをするなんて、リア充らしからぬ行動だ。さすが、見てくれはギャルだが、実際はアヤエさんなだけある。
これは明日、すっぽかしたりしたら大変なことになりそうだ。遅刻は厳禁、寝坊なんて論外だ。俺だってアヤエさんの作品作りには興味があるしな。
——そう、思っていたのだが。
迎えた土曜日。
重い瞼を持ち上げると、目の前には金色の髪をした少女の姿があった。窓から差し込む陽光を浴びているせいだろうか、キラキラと輝いて見える。
ん?
金色の……髪?
まだ寝ぼけているのかもしれない。昨夜は緊張のせいか、なかなか寝付けなかったんだよな。
「おはよ、小島」
よほど寝不足だったのか、聞こえるはずのない声まで聞こえてきた。
目をこすって見遣ると、寝起き一発目には少々刺激の強い顔がにっこり微笑んでいた。
「んあ……? これは、夢か……。次元変わって出直してこ——」
「誰が出直してこいって?」
ギクリ。
その声で眠気なんてものは一瞬にして吹き飛んだ。
現実逃避すべく再び両目を瞑ったものの、威圧的な気配を肌で感じる。間違いない、奴がいる。これはリアルだ、さあどうする俺。
おそるおそる半目を開けると、やはり扉の前には俺の自室にいるはずのない人物——綾崎絵麻が立っていた。
着用するのはもちろん制服。それはそうか、元は学校で落ち合う予定だったわけだし。
にしてもこいつ、スカート短すぎだろ……中が見えても文句は言えねえぞ。
「半目で女子を視姦するなんて、随分とイイ度胸してるじゃん」
「視姦などしとらん!」
この女は朝っぱらから何を言っとんじゃ!
——とツッコミを入れるようにして飛び起きると、綾崎はため息をついた。
「やっと起きたか。——で、誰が出直してこいって?」
笑顔の綾崎さん、怖いっす。怖すぎっす。拳がキリキリ振動してまっす……。
「えーっと、どうしてここに……?」
「あたしとの約束、覚えてる? 十時集合のやつ。来ないから来てやったんだけど」
「おう、さっき思い出したぜ——って、もう十一時半かよ! 昨日いろいろあったから、つい寝すぎちまったぜ」
「で?」
「出直してきます、ごめんなさい」
————。
綾崎をリビングに待機させ、俺はすぐさま身支度を済ませたのだが。
現在、俺は自室にて正座をさせられていた。
「さて、どうしようかな」
どうやら綾崎は杏香姉を警戒しているらしい。他人の親族がいるところでは、同人誌を描くことに抵抗があるのかもしれない。
「ところで、どうして俺の家を知ってるんだ?」
「へ? ああ、実は前に部室で会ったとき、こっそり後をつけてたのよ。ほら、いざってときのために一応ね? そういうわけよ、ハハ」
ハハ、じゃねえよ。怖いわ。
俺はしばらくジト目を向けていたが、一向に目が合わない。
それにしても、男の家に堂々と上がり込む辺りはさすがだよな。それはそれ、これはこれといろいろ割り切らないと、絵師アヤエの印象まで下げかねないぜ。
しかしまあ、わざわざせっかく来てくれたわけだし、寝過ごした俺にも非がある。ここはいっちょ、気を回しますか。
「杏香姉なら俺が入ってこないよう言えば平気だ。綾崎は作業の準備でもしといてくれ」
「え、マジ? じゃあそうさせてもらうー」
上機嫌に自分のバッグを漁り出した綾崎を背に、俺はリビングへと向かう。
すると、テーブルに置き手紙があった。
『お姉ちゃんはコスプレイベントに行ってきまーす。P.S——さやぴーにはあの美ギャルちゃんのことは内緒にしといてあげるからね〜』
「美ギャルちゃんって……まあ、助かるけどさ」
内心ホッとした。綾崎を家に上げたことが沙弥に知られたら、きっとろくでもない事態になるだろうからな。
リビングで麦茶を入れて、冷蔵庫に入っていたケーキ(綾崎が買ってきてくれたっぽい)をおぼんに乗せて、自室に向かう。
そういえば、俺の部屋って俗に言うオタク部屋なんだよな……。六畳一間のスペースの至るところにフィギュアが置いてあるし、壁はポスターとタペストリーで隙間なく埋め尽くされているし……綾崎のやつ、さすがにドン引きしているんじゃないだろうか。
そう思って部屋に入ると、まじまじと壁のポスターを見る綾崎の姿があった。
それは当然ながらただのポスターではない。お尻を突き出したヒロインがアップで描かれた、いわゆる萌え微エロポスターである。
「仕方ないだろ、急に来客があるなんて思わなかったんだ。文句は言うなよ」
先手必勝ということで声をかけると、綾崎は我に返ったように向き直ってくる。
「文句なんて言わないって。ただ、これって数量限定のプレミア物でしょ。よく持ってるなって感心してたのよ」
本当に感心した様子で言うものだから、俺は自然と涙していた。
「うわ、キモ、なに泣いてんのよ……」
「……いやさぁ、お前、良い奴だったんだな。俺、そのポスターをゲットするのにすげえ苦労してさぁ。真夏の大雨の中、カッパ一枚で五時間並んだんだぜ。帰りは濡らさないように必死だった」
「泣き始めたのにはドン引きだわ……。まあ、あんたのオタグッズの数々は大体予想通り——いや、予想以上だったけどね。じゃ、そろそろ本題を始めさせてもらうかな」
「お、おう。んで、どうするんだ?」
綾崎はごほん、と一度咳払いしてから、
「手始めにまず、あたしを襲って」
なんてことを真顔で言った。
「は?」
だから俺は、そんな疑問の声しか出せなかった。
いや、え? 何? やっぱ十八禁に変更したんすか?
「いいから、あたしに迫ってきて……」
綾崎は頬を赤く染めながら、胸に手を当てて言う。
豊満な胸、煽情的な肢体、恥じらいに染まる艶やかな表情。そんなギャルが告げる淫靡なセリフ。……どこかのエロゲーに有りそうなシチュエーションだ。
俺は二次元に生きることを決めた賢者であるからして、こうした状況でも冷静に分析することが出来ているわけだが。
「お、お前、もっと自分を大事にしろよ」
エロゲ主人公ばりにかっこよく言ってみたんだけど、目の前の綾崎は知らぬ間に侮蔑するような顔つきで俺を見ていた。
「あ、綾崎さん……?」
「いや、そういうのいいから。早くしてよ。あとがつかえてるんだから」
「へいへい……」
どうやら襲う『フリ』をしろ、ということらしい。今の態度でよくわかった。
俺はごくりと生唾を飲んでから、両手を不審者さながらに突き出して綾崎に迫る。
そして怯えた様子で後退りする綾崎を、あっという間に窓際にまで追い込んだ。
すると、綾崎は静止した。……どういうことだ?
間近にまで迫った俺が困惑していると、綾崎は顎でくいくいと下を指し示した。
なるほど、どうやらスカートの裾をめくれと言っているらしい。そんなことがわかってしまう俺もどうかしてるよな。
仕方なく、中腰に屈んでからスカートの裾をつまむ。
ハァハァと荒い息遣いが俺の首筋に触れてきて、なんだかもどかしい気持ちになる。
そのまま、俺はスカートの裾をゆっくりと捲っていき——
——ガチャッ。
そのとき、背後で扉が開いた。
振り返ると同時、顔から血の気が引いていくのがわかる。
「何を、やってるの……?」
そこに立っていたのは、沙弥だった。
……終わった。
潔癖とも言える我が幼馴染がこの光景を見て、次に何をするか。昔からの付き合いだからこそ俺にはわかる。
スマホを取り出して、一一〇番。はい、終了ー……
「——ストップ!」
そこで待ったをかけたのは綾崎だった。こいつも相当焦っているみたいだが、どうやらまだこの状況を打開するつもりらしい。さあ、言ってやれ!
「そのっ、これは合意の上だから!」
綾崎の言葉に沙弥が、そして俺までもが凍り付いた。
ぽろっとスマホを落とした沙弥は、そのままふらふらとした足取りで去っていく。
「お邪魔、しました〜……」
そんな挨拶を残して。
そこで我に返った俺はすかさず綾崎に向き直り、
「って、お前なに言ってんだ! 誤解に誤解を塗り固めてどうするッ!」
しかし、綾崎は反省する色を見せずにぺろっと舌を出して、
「ごめーん、つい。ほら、あたしがオタバレするわけにもいかないしさぁ〜。にしてもびっくりした〜、これからはもうちょい気を付けないとね」
つい、じゃねえよ。てか、こいつ自分の心配しかしてないし。
「とにかく、今から俺と一緒に誤解を解きに行くぞ!」
「解きに行くって言ったって、どこに?」
「あいつの家に決まってんだろ! スマホ落としてったし!」
俺は言うなり綾崎の腕を引き、隣の宮瀬家まで猛進する。
インターホンを鳴らすと、沙弥の母親が出て、
『あらぁ、新太くん。ごめんねぇ、沙弥ったら今——居留守? するって言って聞かないのよぉ。また喧嘩したのね、おほほほほ』
軽くあしらわれてしまった。……にしても居留守って。
仕方がないので沙弥のスマホをポストに入れて、部屋に戻ってきた。
「よし、それじゃあ再開しよっか」
綾崎は切り替えたように言う。
軽いなー、このビッチ。どうせリアルでのあれやこれやも経験済みなんだろう。
こちとら人生初の大問題が発生したってのにさ。
つーかそもそも、沙弥のやつが勝手に上がってくるのが悪いんだよな。俺たちは互いに思春期真っ盛りのお年頃なわけだし——って、普段あいつを異性扱いしていない俺が言える立場じゃないか……。
——ごほん。
そこで再び綾崎が咳払いをした。
「あのね、小島。あたしだって本気なの。遊びや冗談でこんなことをやろうってんじゃないのよ。その証拠にほら、ノートPCに液タブやら資料集、それに自作の設定集にキミカノの画集もちゃんと持参してきたんだから」
綾崎の言う通り、スクールバッグにはぎっちりと作業道具が詰め込まれている。
こいつが遊びや冗談でやっていないことはすでに理解しているつもりだ。
ただ俺が言いたかったのは、綾崎の友人らに比べて、俺や沙弥はそれほど性的なものに耐性があるわけではないということだ。要するに、進んでないのだ、いろいろと。
「まあ、その……お前にとっては普通のことでも、俺らにとっては刺激が強すぎるって部分を忘れないでほしい。そりゃ、俺はエロゲだってやったことがあるし、いろいろと十八禁コンテンツに手を出すこともあるけどさ……沙弥は、その辺りとも無関係だからさ」
綾崎はわかったようなわからないような、そんな曖昧な表情をしてから力強く頷いた。
「とにかく、宮瀬さんのことは休み明けになんとかするから気を取り直してよ。ね?」
弾けるような笑顔で頼み込んでくる綾崎を見ていると、こいつがモテるというのもわかる気がする。噂ではもう軽く二桁に届くくらいの男子に告白されているらしいし。
「お、おう……」
「あー、それと。声のトーンは抑えめにね? 宮瀬さんに聞こえちゃうかもだし」
しーっ、と唇の前で人差し指を立てる綾崎。
こいつ、どうせ自分のオタバレ防止のことしか考えてないんだろうな……まあ、沙弥に聞かれて困るのは事実だから別にいいけどさ。
「じゃあ、始めるぞ」
そうして俺は再びスカートの裾に手をやる。
つまんでから、ゆっくりと捲り上げていく。
背徳感が込み上げるというか、やってはいけないことをやっているような気持ちになってくる。
俺は二次元に生きる賢者、俺は二次元に生きる賢者、俺は二次元に生きる賢者……。
呪文を繰り返すように、その文言を脳内でリピート再生し続けて雑念を取り払う。
そうしてスカートを捲り上げていくと、件の『パンツ』がついに顔を出した。オレンジカラーのレース——って、だいぶ攻めてんな!
なんてツッコミを入れると何を言われるかわからないので、ここは努めて冷静にいく。
「……これでいいのか?」
「う、うん……写真、撮って」
綾崎に手渡されたデジカメで、ローアングルからパンツごと綾崎の全身が写るように撮影する。
それからデジカメを返して、一息ついた。
「なあ、今穿いてるのって見せパンってやつなのか?」
「は? 普通にパンツだけど」
「そ、そうか」
「だってそうじゃないと、恥ずかしくならないじゃない」
こいつも恥ずかしいと思っていたのか。言われてみれば、頬がほんのりと赤いままだ。
「それで、良い絵は出来そうか?」
「うーん、わかんない。ちょっとここで描いていい?」
「お、おう! ぜひそうしてくれ」
まさか生作業を見られるとは思っていなかったので、興奮しながら丸机に腰を下ろす。
綾崎はすでにノートPC等のセッティングを終えていたらしく、デジカメで先ほど俺が撮った画像を参考にしつつ、タタタとタブレットにペンを走らせる。
「……ハァ、ハァ……じゅるり」
出たよ、ヤバい奴モード。こいつ、今が人前だって自覚がないのか? いや、相手が俺だから気にも留めていないのか。
と、その絵を見て俺も欲情してきちまった。
「おお、やっぱお前上手いなー」
「うひひ」
「ぷりっとして、きゅっ。良い太ももだなこりゃ。眼福眼福」
「ハァ、ハァ、やばぁ……」
「おほっ、おまっ、汁っ、汗だよな? これ汗でいいんだよなっ!?」
「……さい」
「ん? サイコー? 確かにサイコーだぜこりゃ、惚れちまうね。こんだけエロ可愛いと、俺もミカサ推しに転向ありうるかも——」
「うっさい!」
ベチッ、と頬をはたかれて、俺は驚愕とともに尻餅をついてしまった。
やっぱりギャルって怖いや……こいつのこと、同じオタでもあるからなんだかんだ慣れてきた自分がいたけど、認識を改めなければ……。
「ご、ごめんなさい……」
「そんなに怯えないでよ。あたしも悪かったわよ、ここで描き始めたのはあたしなのにね。でも、あたしらがどっちもハァハァしてたら収集付かなくなるでしょ。一応、宮瀬さんのことも警戒しとかなきゃだし」
「そ、そうだな。うん、伸び伸び描いてくれたまえ」
そうして待つこと十分。
「できたー♪ ネーム完成!」
そうして見せてきたのは、男子の部屋でパンツを見られる——先ほどの俺たちと同じ場所・シチュエーションの、恥じらう天辻ミカサだった。
「はえー! マッハじゃねえか! それにこのクオリティ! エロかわで、じゅるり……よだれもんだじぇ……」
本当に早くてハイクオリティ。ネームのレベルじゃない。やっぱり生アヤエは違うな。
俺は今、真の意味でこいつが絵師『アヤエ』なのだと実感した。
「んで、さ。実は家でこのパンツ見せシーンまでの話と、終わりまでを一応描いてきたんだけど」
「まじか!」
「うん、全部ネームだけどね。ぜひ、忌憚のない意見を聞かせて」
そう言って手渡されたものを、先ほどのパンツシーンと合わせて読ませてもらうことになった。
正直、ワクワクする。楽しみだ。これほど胸が高鳴ったのは、久々と言っても過言じゃない。
そうして読むこと五分。
合計十六ページに渡るその作品『完璧優等生なあの子のパンツが見たい(仮題)』を読み終えた。
「どう? どうだった?」
綾崎がワクワクしながらも緊張した様子で尋ねてきた。
俺は自然と愛想笑いを浮かべて、
「お、面白かったよ、うん」
そう答えたら、綾崎は無表情になった。
「綾崎……?」
「つまらなかったんでしょ、顔にそう書いてある」
「それは……」
「嘘付かなくていいよ、あたしのためにならないし。——で、本当はどうだったの? 遠慮しないで言って」
こう言われてしまっては、正直に答える他ないだろう。
俺は視線を逸らしてから、
「……はっきり言って、面白くなかった。というか、パンツのシーンが突拍子もないというか、これだったら一枚絵でカラー付きが良いなって、そう思ったよ」
言ってから、ちらっと綾崎の方を見遣ると、綾崎は両目を見開いて硬直していた。
泣くかと思った。自分の言ったことがだいぶキツいという自覚はあったし、綾崎だって女子だからだ。けれど、綾崎はそれから肩の力を抜いて笑顔となった。
「そっか。やっぱ、ダメだったか」
「やっぱって、自信なかったのかよ?」
綾崎は項垂れるようにして足を崩し、
「うん……。正直、話作りとかってほとんど経験なかったし……それに、偏ってる自覚はあったんだ。あたしってほら、パンツ好きじゃん? だからパンツ描写が無いシーンを描いてるとさ、『あ〜、早くパンツ描きてぇなぁ〜ハスハス』とか思っちゃうわけ」
自覚はあったらしい。確かに綾崎は絵が上手い。けど、こと内容に関してはチープで、展開や構成はちぐはぐ。そのせいでキャラの個性を殺してしまっている感が否めない。
それでいて『パンツ描きたいよぉ!』という欲が強すぎるため、パンツシーンがくるとここぞとばかりに力が入る。より印象付けたいシーンに力を入れるのは大事かもしれないが、空気感みたいなものに差があり過ぎると、高低差に読者が付いていけなかったりする。綾崎の場合、それが顕著なのだ。
もちろん商業誌ではないし、ましてやこれは同人誌。描きたいものを描けばいいという大前提がある手前、全否定は出来ないが、それでもファンでない者がこれを買うとは思えない。下手をすれば、大事なパンチラシーンに辿り着く前に試読をやめてしまうだろう。
俺は「忌憚のない意見を」と言われたので、正直に苦言を呈したわけだが、綾崎がこれで良いと言えば俺に止める権利はないし、むしろどうぞご自由にという感じだ。
さて。これから綾崎——アヤエさんはどうするのか。
それは彼女自身が決めることだ。
「ねえ、小島。あんたはこの作品に何が足りなかったと思う?」
綾崎の声は心なしか震えていた。
俺は言葉を出来る限りオブラートに包むよう心掛けて告げる。
「ストーリー、かな」
「ストーリー? もうちょっと具体的に」
綾崎が縋るような眼差しで俺を見つめてくる。
そんな風に見つめられても、大したことなんて言える気がしないんだが。
「俺は自分で小説を書いたこともないし、漫画だって落書きレベルで昔自由帳に描いていたくらいだ。だけどそんな俺でも、こと一ジャンルにおいては断言出来る」
真っ直ぐに綾崎を見つめ、
「パンツは物語で映える——ってことだ」
ドヤ顔で言ってのけた後、さすがに呆れられたかドン引きされたかと思ったのだが、綾崎はキラキラとした目で俺を見つめていた。すごい、なんだこの憧憬の眼差し。
「それでそれで?」
先を促されて、悪い気のしない俺は思わず立ち上がっていた。
「要はだな、思わせるんだよ——この子のパンツが早く見たいってな! お前の絵のファンなら問答無用で見たいと思うだろうよ。俺だって見たい。でもそれだけなら、イラスト一枚で良いんだよ」
綾崎はうんうんと頷いてみせる。俺も饒舌になり、勢いに拍車がかかる。
「でもそれをわざわざ同人誌で見せようってんだ。どうせなら最高の展開にページを捲る手が止まらなくなって、来てほしいここぞってときに最高の形でパンツ——『神』を拝みたいだろうがっ!」
おぉ〜っと拍手までする綾崎。俺はもうドヤ顔でふんぞり返ってしまって、思わず口元がニヤついてしまう。
「んで、結局どうすればいいの?」
結論を急くように綾崎から問われて、俺はまどろっこしくなっている自覚はありながらも、省くことなく順々に説明していく。
「俺は物語作りに関しては素人だし、これは俺的に良いと思うだけだから後々自分で考えてほしいんだけど、まずは物語に起承転結を付けることを意識するといいと思う。これはパンツ以前の基礎的な話だな」
「ほうほう」
「で、内容の部分だが、ミカサは最初、主人公とは同じクラスの委員長ってだけで、特別仲が良いわけでもない——言ってしまえば他人なんだよな。んで、彼女は他人には頼らない孤高の存在だったわけだ。だからこそ、主人公に一度心を開いたらもう、関係性の進展はノンストップなわけだよな。それこそ依存状態に近いくらいにのめり込んでいく」
「そうなのよ。冷めてるっていうのかな、自分以外は全員馬鹿で、本当の自分を理解してくれる人なんていないと思ってたミカサが、一度主人公を認めてからはもう……くぅ〜っ、思い出すだけで萌えるッ! 萌え死ぬッ!」
……どうでもいいが、ギャルが嫁愛を語る姿って痛すぎ——いや、なんかすげえな。
それはそうとして、伝えるべきことはストイックに伝えるとしよう。
「けど、お前の作品からはその心情の変化が全く感じられない。過程がすっ飛ばされてるんだよ。アフターストーリーを描いているわけでもないのにな」
俺の指摘に対し、綾崎は悔しそうにしかめっ面を浮かべる。
確かにこいつもそういうミカサの良さに気付いた上で、原作を楽しんだのだろう。だからこそミカサに魅了された。けど、こと自分がイラストを描くとなると、すっかり『ミカサのパンツをどうするか』ということしか頭に残っていなかったのだろう。パンツ狂あるあると言える。
あるあるだからこそ、俺にもわかるのだ。ゆえに、俺は自分の中にある核心を告げる。
「だからさ、見せ方的にはパンツシーンの前に、まず天辻ミカサってヒロイン特有の個性を見せるべきだと思うんだ。それがちょっとでもいい。で、さりげなく下着の話や展開に持っていくような構成にするなり、十八禁の場合ならシモの話に繋げたりするわけだな」
これは俺が同人誌や多くの作品を目にしてきた経験から語っているだけの創作初心者論だが、こんな俺の意見が少しでも綾崎の力になってくれれば嬉しい。閃きのきっかけには何が作用するかわからないはずだ。
「それと、パンツイラストにも一点」
「そっちもか〜」
綾崎は不満そうに頬を膨らませているが、ここまで来たら言わずにはいられない。
「お前のパンツイラスト、こと今回に限っては『恥ずかしい!』って気持ちが前面に出てるのは良いんだけど、それだけなんだよな」
「というと?」
ぽかんと呆ける綾崎を前に、俺は人差し指を突き立てる。
「『見てほしいよぉ』って気持ちがまるで伝わってこないんだよ。ミカサは主人公が好きなのに、だ。ヒロイン造形がしっかりしていないと、大事なシーンが台無しになる。パンツってのは、布一枚じゃダメなんだ! ちゃんと可愛いヒロインに穿かれていないと萌えられないんだ! それはパンツ好きなお前ならわかるよな?」
「もちろんよ! ヒロインの表情、手や足の角度や仕草、背景にアングル、シチュエーション、そして見られちゃいけない場所を隠しているという意義、それらがあって初めてパンツの存在感——アイデンティティみたいなものが際立つわけだし、エロなら筋が映え、エロに走らない場合でもその女の子そのものを表してくれるのよね!」
「わかってるじゃないか! 一枚絵なら問題なかっただろうに、いつもと違って前後の物語を意識するあまり、アヤエのパンツイラストらしさが損なわれていたってことさ!」
俺たちは知らぬ間に固く握手を交わしていた。こいつなら出来る。きっと、自称パンツソムリエであるこの俺を唸らせるパンツモノ同人誌を作り上げることが可能なはずだ!
——ガララーッ!
そのとき、沙弥の部屋の窓が勢いよく開いて、
「え、えええ、えっちな話がいっぱい聞こえてるからっ! あんまり大声で話してると、変態がいるって通報されちゃうんだからねっ!」
どうやら俺たちのパンツ談義は隣にまで聞こえていたらしく、顔を真っ赤にした沙弥から怒鳴られてしまった。
確かに俺も綾崎も、途中から興奮しすぎて声のボリュームなんか考えなくなっていたもんな……。
ここで先ほどの誤解を解消できればよかったのだが、すぐさま窓を閉められてしまったため、状況はさらに悪化してしまったように思える。
だけど今は、むしろ清々しい気持ちになっていた。
「変態上等! 俺たちは無類のパンツ好きな変態だもんなっ!」
「いや、あたしは宮瀬さんにまでパンツ好きな変態だって思われたら困るから」
「おまっ、つれない奴だな……」
自分だって散々大声を出して盛り上がっていたくせによ……。
俺が意気消沈していると、なぜだか綾崎がニコッと太陽みたいな笑顔を向けてきた。
「でもありがと。あんたと話してると、なんでも前向きに考えられる気がするわ」
「それって、俺がただのバカってことか……?」
「さあね。バカかは知らないけど、変態であることは確かよね」
「お前にだけは言われたくねえよ」
パンツメインの同人誌を描こうとしている奴にだけは言われたくない。逃れようのない変態に違いないだろ。
話がひと段落したからか、綾崎は唐突に荷物をまとめ始める。
「帰るのか?」
「ええ。とりあえず、家に帰ってじっくり煮詰めてみる。——だいじょぶよ、休み明けにはちゃんとした方向性を決めておいて、あんたにまた協力してもらうから」
「お、おう」
綾崎はスキップを踏むように部屋を出て、そのまま玄関まで駆け下りていく。
帰り際だが、俺はずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「なあ、綾崎。実はずっと気になってたんだけどさ、なんでお前みたいなリア充JKがイラストを描いてるんだ? はっきり言って、イメージと全然違うんだが」
綾崎は靴を履きながら小首を傾げ、
「うーん、あたしはお姉ちゃんの影響で絵を描き始めたからな〜、むしろこっちの方が先っていうか。ほら、何かを好きになるのに、理由とかいらないじゃん?」
「へえ、そうだったのか。じゃあ、お姉さんもすごい人なんだろうな」
「かもね」
靴を履き終えたらしい綾崎はこちらへ振り返ると、意味深な笑みを浮かべた。
「あたしがイラストを初めてネットにアップしたのは中二のとき。ピクシブね。それからいろいろあったけど、ずっと支えてくれているある人のおかげで今まで続けてこられたから、これからも頑張って絵は描き続けるつもり」
「お、おう」
——『ずっと支えてくれているある人』、ねえ……。彼氏、とかだろうか。
「もちろん、リアルの友達もあたしにとっては大事だけどね」
「まあ、それがお前なんだろうな」
「うん、そゆこと。——今日は付き合ってくれて、ありがとね」
「おう」
綾崎は「ああそれと」と言い、
「宮瀬さんのことも、ちゃんとなんとかするから。安心して」
「まあ、あいつなら放っておけばそのうち忘れると思うけどな」
「またそんなこと言って、貴重な女友達なんだから大事にしてあげなよ。んじゃ、またねー。杏香さんにもよろしくー♪」
そう言って、綾崎は出て行った。
しんと静まり返る玄関。いつまでも一人で突っ立っていても仕方がないので、俺は自室に戻る。
部屋に入ると、なんかすごく良い匂いがした。これ、あいつの残り香じゃ——
「って、何考えてんだ俺は!」
あいつは確かに尊敬する絵師さんではあるが、同時に忌むべきギャルだ。それはそれ、これはこれ。しっかりと分けて考えないと、うっかり教室で「アヤエ先生サインくだちゃい」とか言っちまいそうだからな。
——ブブブッ。
また綾崎からのLINEかと思い身体をビクつかせたが、相手は沙弥だった。
『沙弥:スマホを届けてくれてありがとう、今お母さんが持ってきてくれました。さっきは事情も聞かずに勝手にいろいろと考えちゃって、ごめんね。でも今日は頭の中がいっぱいだから、そっちには行かないでおくね』
この綾崎帰還からのドンピシャなタイミングからすると、窓から綾崎が帰ったのを確認したんだろうか。
それはともかく。今回の件はどう考えても沙弥は悪くないし、誤解をするのも無理はない。幼馴染のあんな光景を目の当たりにしたら、誰だってパニックに陥るだろう。俺が逆の立場だったら叱っていたかもしれないくらいだ。
文面から察するに、今は顔を合わせづらいということなんだろう。それなら俺の方からも訪問するべきじゃない。
ひとまず、ここは無難に返しておこう。
『俺の方こそごめん。でも今日のは誤解なんだ。俺と綾崎が如何わしい関係なんてことは万が一にもないから。それだけは信じてくれ』
そんな文章を送信すると、すぐさま返事がきた。
『沙弥:うん、信じてるよ。だから今度ちゃんと説明してね』
『もちろん!』
そう返信してから、大きくため息をついた。
さて。綾崎がオタクだってことがバレないようにしながら、今日のことを説明するにはどうしたらいいんだ? 演劇の練習で〜とか、恋愛相談の一環で〜とか?
いや、俺ら二人で個人レッスンなんておかしいし、恋愛相談ってのにも無理がある。綾崎が俺みたいな非リア充に相談するわけがないし、逆もまた然り。
……まあ、こればっかりは綾崎の「なんとかする」という言葉に期待するしかなさそうだな。
「はぁ。疲れたな」
自然とそんな独り言を呟いてから、PCの電源を入れてピクシブに入る。
アヤエさんのページに入り、作品一覧からお気に入りのギャルっ子パンチライラストを拝見。癒しパワー充填。
俺が綾崎絵麻——アヤエさんにできること。
多分、そんな大したことはできないだろう。
だけど、できるものならあのパンツ好きに満足のいく同人誌を描いてほしい。
「ちょっと考えてみるか」
俺は自分の同人誌コレクションを棚から出して、片っ端から読み直すことにした。
もちろん全部、パンツ関連の作品である。
放課後、漫研の部室にて。
「——でさ、やっぱシチュが大事かなって思って!」
目をキラキラ輝かせた綾崎が俺に食い気味で迫っていた。
俺は間近に迫るその眩しすぎる顔を押しのけて、大きく咳払いをする。
「……ああ、実は俺もそう言おうと思ってた。お前みたいな感覚型は、シチュエーションとか根本から雰囲気を作っていくのが大事かもって」
「おっ、やっぱし!? さすが小島! あんたも考えてくれてたんだ!」
イェーイ! とハイタッチまで求めてくるから、仕方なく応じてやる。
「いてっ!? お前、力強すぎるわ……手が痺れただろうが」
「んでさぁ、あたし考えたわけ。ベストなシチュを選ぶにはどうするべきか」
「ほう」
「やっぱし、あんたと実際に試してみるのがベストかなって!」
名案、閃いたり! とでも言いたげに告げてきたわけだが、俺はウンザリとしながらため息をついた。
「あのなぁ、そんなシチュエーションをどこで試すのかって話だ。俺んちはもう無理だぞ。沙弥が警戒してるし、第一、沙弥の誤解もまだ解けていないわけだしな」
ああ、思い出したら頭が痛くなってきた。今朝は久しぶりに一緒に登校しようと思って沙弥の家を訪問したのに、部活(家庭科部)の朝練とやらで先に行っていたし、昼休みに隣クラスを見に行ったときも女友達と話していて、とても声をかけられるような状況じゃなかったのだ。
というのに、他人の悩みも露知らず。綾崎絵麻はやる気マックスで燃えていた。
「場所ならちょっとキケンだけど部室があるじゃん。まあ、シチュによって場所も考えなきゃいけないわけだけどさ。——それと、この前のことならもう宮瀬さんの誤解は解いておいたから」
「えっ、ほんとか!?」
綾崎はうんうんと勢いよく頷いた。
「だからもうそっちは忘れて、あたしの方に集中してよっ」
「お、おう。でも、どうやって誤解を解いたんだ?」
「いいじゃんそれは。細かい男は嫌われるよー」
「お、おう……」
若干、というかかなり気になるが、ここは置いておこう。
本題というと、シチュエーション云々だったか。
「お前は俺に襲わせようとしたり、まあ最初からコンセプト自体は間違ってなかったんだよな。問題はワンシーンのためにしか考えられていなかったシチュだったわけで」
「そうね。あたし、密室の中で男に強引に迫られて裾を捲られるミカサちゃんのシーンが描きたくて、あのシチュにしただけだし」
描きたいシーンのために物語を作り込むこと自体は悪手じゃない。ただ、それは結構難易度の高いことだ。だからこそ、ここはあくまで王道に、ありきたりなストーリーの中でそのワンシーンを磨き上げる形にするべきだと、俺は昨夜に結論付けた。
「ってことで、なんかイベント事に関連したものがいいと思うんだ。たとえば、今はゴールデンウィークが恋しい時期だよな。五月病なんかをテーマにするといいんじゃないか」
俺の素晴らしい提案に対して、なぜだか綾崎は憐れむような視線を向けてくる。
「なんだよ」
「いや、五月病ってそれイベント事って言わないし。イベント事って言えば、七夕とかそういうのでしょ。もっと楽しもうよ、せっかくの高校生活なんだからさー」
うっ、眩しいっ、眩しすぎる! これがリア充JKの威光というやつなのか!?
「俺のことは放っておいてくれ……いいんだよ、高校生活は灰色ライフでさぁ。俺の三次元においてのライフなんてとっくにゼロなんだからよ……」
「あんたって、リアルのこととなると途端に情けなくなるよね。なんかトラウマでもあんの?」
そんな風に「なんかトラウマでもあんの?」って気軽に訊ける奴は人付き合いにおいて悩みなんて皆無で、そりゃあもう人生が薔薇色なんでしょうねぇ。
俺だってさ、一時期はリアルに夢を抱いていたこともありましたよ。
けど、リアルは基本的にハイリスクローリターンだ。それに比べて、二次元はお金と時間を対価に支払えば、約束された勝利の糧が手に入る。ハイリスクハイリターンなんだ。
そうとあらば答えは簡単。確実にリターンを得られる二次元を選ぶに決まっている。
俺がそんな風に悟りを開いていると、またもや綾崎が憐憫の眼差しを向けてきた。
「な、なんだよ」
「——決めた。小島、あたしとデートしよ」
「……は?」
「だから、デート。週末はお互い忙しいだろうし、今から行こーよ。ね?」
「はぁあああああ——っ!?」
♢
というわけで、俺たち二人は最寄り駅近くのデパートの中——ランジェリーショップを訪れていた。
って、なんでやねん!
「見て見てー、可愛いのいっぱいあるよー!」
キラキラとライトに照らされた初夏の新作コーナーの前で綾崎が声をかけてくる。
俺は入り口で背を向けてあかの他人を装った——が、店員さんやその他の客からの視線が痛い。
「小島ってば〜、なんで無視すんのー?」
「うるせえな! 気まずいからに決まってんだろ!」
俺が勢いよく振り返って怒鳴るも、綾崎はきょとんとしながら手招きしてきた。
はいはい、行けばいいんだろ、行けば。
ああ皆さん、俺は決して怪しい人間じゃないですよ。あくまで知人に呼ばれたから入るだけなんで。
だが、俺が綾崎のもとに辿り着く頃には、周囲の目がなぜか優しいものとなっていた。
——学生カップルさんかしら、美人な彼女さんで彼氏くん幸せ者ねえ。
——でもちょっと心配になるわ〜、彼氏くん大丈夫かしら〜。
変な会話が聞こえてくるんですが。
「ほらー、これとかどう?」
綾崎が嬉々とした様子でパープルカラーのTバック(布面積ブーメラン以下!)を差し出してくる。
もはや狂気の沙汰としか思えない綾崎の行動だが、仕方がないので答えてやるとする。
「いやいや、お前みたいな奴がパープルなんて選んだらビッチ感丸出しだろーが。もう初夏だって言うなら、悪いことは言わないからライトブルーかサマーオレンジのボーダー柄スキャンティー(ショーツよりやや布面積少なめ)辺りにしとけ、ギャップになるから。ほら、これとか良いんじゃないか? ショーツだけど値段もお手頃だぞ」
ついアドバイス&セレクトしちまったぜ☆
なんて良い気分になったが、綾崎が虫けらでも見るような眼差しを向けてきていた。
「えーっと、綾崎さん……?」
「あのさぁ、あんたなんか勘違いしてない?」
あれれ? 雲行きが怪しいぞ? 気のせいかお客さんもほぼいなくなってる気がする。
綾崎は俺オススメ・ライトブルーのボーダー柄パンツを力強く握り締めて、
「あたしはさ、あんたの好みを訊いてるの」
「え、おう……?」
「それは断じて、あたしの下着を選んでもらうことなんかじゃない!」
綾崎は叫ぶなり手にしたパンツを——投げつけてきた。
俺の顔面に直撃したパンツがふぁさっと床に落ちる直前に綾崎がキャッチ。そのまま綾崎はレジに進んでいき、そのパンツを購入した。
「ほら、被ってよ」
「はい?」
不穏な空気を感じながら店を出たのだけど、その直後に綾崎が先ほど買ったパンツを差し出して、意味のわからないことを言い出した。
その表情は——無表情。氷のように冷え切っていた。
「被ってよ、ほら。あんたのお気に入りなんでしょ」
「な、なんの冗談だよ、それ……」
「ちゃんと頭に被るんだよ。公衆の面前であたしに恥をかかせたんだから」
それを言うなら俺の方だ。まったく、何が悲しくて三次元の、しかもギャルのパンツを選ばなきゃならないんだ。
それにしても顔が怖い。こいつの周りだけ氷点下いってるよ絶対。
「早く、被って」
有無を言わさぬ態度。
周囲を見回すと、人が多い。
俺はひとまずブツを受け取ってから、ポケットにねじ込んだ。
「ここじゃ無理だ。第一、お前の言いたいことがさっぱりわからないんだが」
綾崎は目を鋭く細める。
「あたしはさ、あんたの下着の好みが知りたくて連れてきたの。柄とか色とか種類とか。さっきも言ったでしょ?」
ここでようやく理解した。
なんだ、そういうことか。ただの参考にってことか。
そんなことなら簡単だ。
「それなら——俺に好みなどない。なぜなら、どのパンツが良いかはどの子が穿くかによるからだ!」
「だったらタイプのヒロインが穿いてるものを言えっての!」
がーん、と股間を蹴り上げられて、俺は思わず地に膝を突いていた。
このアマ、金的は反則だろ……。
その後、綾崎はふいっと視線を逸らして、
「男にパンツ選んでもらうとか、初めてだったんだから……」
なんかよくわからんけど恥じらっていた。とにかく耳まで真っ赤にしていた。
つまりは、パンツセレクトの処女を奪われた——的な?
なんて訊いたら今度は何をされるかわからなかったので、俺はポケットのブツを差し出した。
「まあせっかく買ったんだし、試しに穿いてみれば——ひぃっ!?」
綾崎がジロリと睨み付けてきたのだ。
けど、せっかく買ったんだし穿けばいいのに。まあ、部屋に飾るという選択肢も無きにしもあらずだが。
少なくとも、俺の目に狂いがなければ、綾崎にライトブルーのボーダー柄が似合うというのは間違いないはずだ。
綾崎はジト目を向けてきたけれど、渋々受け取ってくれた。
「まあ、自腹で買ったものだしね」
そう言って、呆れた様子でニッと笑った。
それから俺たちはゲーセンを訪れた。……正確に言えば、付き合わされたわけだが。
「ほいさーっ!」
夢中になって太鼓の達人をプレイする綾崎。無邪気に笑ってるし、すごく楽しそうだ。
「なぁ、どうしてその……デ、デートなんだ?」
それを後ろで眺める俺はおそるおそる尋ねてみると、綾崎はどんどこ叩きながら、
「なんか良い案思い浮かぶかと思って! ほらっ、いろんな場所回れるし! ——あっ」
俺が話しかけたからかミスの連発。今のところ微妙なスコアだ。
まあ初デートでランジェリーショップに行くカップルなんてそうはいないだろうし、そんなことだろうと思ったけどさ。
「ちっ」
プレイし終えた綾崎は拗ねた子供のように頬を膨らませて、俺を睨み付けてきた。
「俺のせいだとでも言いたげだな」
「だってそうじゃん。普通やってる最中に茶々入れる?」
「へいへい、わるうござんした」
「てか、そもそも一緒にプレイしないでどうすんのって話だしっ」
対戦したかったんですかそうですか。
ったく、それならそうと言ってくれよな。俺、音ゲー苦手だから断ってただろうけど。
ぷりぷりと拗ねたままの綾崎にどう接したらいいか困っていると、ふと腕を引かれた。
「な、なんだっ」
「次あれやろーよ」
そう言って連れてこられたのは格ゲーコーナー。
仕方ない、ここはガチオタの実力を見せてやりますか。
「手加減無しだかんねっ!」
「泣いても知らないぞ?」
————。
数分後、俺は床に這いつくばっていた。
「ねー、もぉう、いじけないでよー」
先ほどまでとは立場が逆転。綾崎が宥めるように声をかけてきて、惨敗した当の俺はプライドをズタボロにされて燃え尽きていた。
何が「泣いても知らないぞ?」だ。泣いたの俺じゃねえか。
プレイ直後に気付いたことだが、こいつの登録名は全国上位ランカーと同じものだった。『えまちょろ』なんて頭の悪そうなプレイヤーネーム、そんじょそこらのオタは付けないだろう。
「ずりいぞ、ランカーだって知ってたらやらなかったのによぉ……」
「まぁまぁ、小島だって修行すればもう少し強くなれるって」
ねっ、と太陽スマイルで微笑んでくる綾崎。なんかうぜぇ。
俺がこんなキャピギャルにゲームで負けるなんて認めたくない事実すぎるんですが。
「あ、小島ー、次あれー」
俺はリベンジに闘志を燃やして振り返ったが、そこにあったものを見てげんなりした。
プリクラ。
現代において、俺が最も不要に思う機器の内の一つである。
まずそもそも『男の子だけで入るのはNGだぞ☆』と舐めた注意書きをしている時点で俺にとっては一生無関係な場所のはずだ。中学の行事後にクラスの打ち上げで撮るときも、入りきらないという理由で機器の外に一人棒立ちさせられた地獄を俺は忘れない。
それなのに、まさか再チャレンジしろだと? しかも、女子と二人きりで?
「ほーら、早く来てよ。今空いてんだからさー」
「いや、俺そういうのは——って、ちょっ、そんな引っ張らないでぇぇっ!」
————
そうして結局撮らされた。
「うっわ、超ウケるー。小島マジでダルそうじゃん」
だってマジでダルかったもん。お前は終始楽しそうに笑ってたけどな。
やばいな……この時点ですでに三徹並に疲労困憊してるぞ俺。大丈夫かスタミナ。
「って、え? 小島マジで顔色悪いじゃん! だいじょぶ!?」
俺があんまりにも気だるそうにしていたからか、綾崎は心配した様子で駆け寄ってきて、ハンカチで俺の額を拭き始めた。
「や、ちょ、汚れるぞ……」
「は? ハンカチって汗拭くもんでしょ」
「いや、そりゃそうだが……」
「とりあえず、外に出よっか。喉渇いたし」
——そうしてやってきたのは、なんとカフェだった。
これが噂のスターバッグコーヒー、通称スタバか。これ言っとけばイマドキ感ある単語だよな、ほんと。
「はい」
カウンター席に座った俺の目の前に、見たことのない飲み物が置かれた。
何これ、マックシェイク? と推測してサイズ的に百円玉が二枚もあれば足りるだろうと財布を探っていたのだが、隣に座った綾崎に手で制された。
「あたしの奢り。今日付き合ってもらったお礼も兼ねてだから」
「そういうことなら。まあ、こんな重労働がたかが二百円なんて割に合わないけどな」
「それ四百七十円だけど」
「——ぶひゃっ!?」
思わず吹き出しちまった!
「うわ、汚っ……」
「お、おまっ、これバーガーより高いじゃねえか!?」
「へ? バーガー? あんた何言ってんの?」
綾崎は異星人でも見るかのような目で俺を見て言った。
「それキャラメルで、あたしのは抹茶ね。逆がよかった?」
って訊きながらもう飲んでるし……。
俺も倣うようにストローを吸ってみると、甘さとほろ苦さがひんやりとしたシェイク風味の何かと一緒に口いっぱいに広がり、喉を潤していく。
「生き返った……」
「あんたって時々おじいちゃんみたいだよね。マジウケるんですけど」
心底楽しそうに笑う綾崎を見て、こいつがモテるのはこういうところなんだろうと思った。何せ、笑顔が様になってるんだ。
それも他のギャル共とは違って、他人を小馬鹿にしたような不快になる類のものじゃない。綾崎は口は悪いが、俺を見下したりはしてないんだ。ただ単純に、一男子として接してくれている。
街中を歩いていても、こいつはそこかしこで人目を引く。今日一日を共にしただけでも、やっぱりこいつのカリスマ性はタダものじゃないんだなと思い知らされた気がする。
——カシャッ。
そんな風に感心していると、突然シャッター音が耳に届いた。
「何撮ってんだよ……」
「いや〜、習慣でさ〜」
綾崎がスマホで撮影したのだ。おそらく俺と自分と、謎のスタバドリンクをセットで。
「あ、そーだ」
何かを閃いたかのように綾崎が自撮りを始める。うわー、ドリンク片手にウインクなんて決めちゃってるよこの人。すげえキャピキャピしていて、ザ・ギャルって感じだ。
「ほらほら、上手く撮れてるっしょ? インスタ用でさー」
そう言って差し出されたスマホの画面には、ウインク綾崎withスタバドリンクが写っていた。何これ、アングルなんでこんな上からなの?
「ちょっとー、無反応とかなくなーい?」
「あー、カワイイカワイイ。すげーカワイイわー」
「ムカつく」
びちっとデコピンをかまされ、思わぬ威力に睨み付けると、そこで俺のスマホがLINEの着信を示した。
確認すると、差出人は綾崎。先ほどの自撮り画像と、俺と一緒に写っているものが送られてきていた。
「いや、いらねーよ」
「あたしの自撮り使って、『彼女とデートなう。』って呟いていいよ。きっと架空の相手だって思われるだけだから。——って、もう古いか。あはは」
なんだこいつ、喧嘩売ってんのか。こっちはそもそも流行ってたことすら知らんわ。
それに悪いが、架空デートなら相手は『パンキュン』のアユミっちか、『キミパン』のあずさたんを選ばせてもらうぜ。断じて三次元女なんかと妄想デートをしてたまるか。
「そいえば、小島ってインスタとかやってないの?」
唐突に尋ねてくるから、俺は鼻で笑ってやった。
「インスタとは、昨今のJKに流行りのインスタグラムのことか。——生憎だが、俺はそんなリア充専用アプリなどインストールしていないんだ。ま、パンスタ(『パンティスタジアム』というソシャゲの略称)ならやってるけどな。ランクはMAX百。新規で始めるならフレンドになってやっても——って、なんだよその目は」
綾崎がジト目をただひたすらに向けてきていたのだ。
少なからずパンツを愛する同志だと思っていたのに、どうしてそんな目で俺を見る。
「だってさー、あんたなんでもパンツとか二次元に結びつけるんだもん。これじゃあこっちから話題振っても損ってもんだよー」
「なんだよ、嫌なのかよ」
「嫌っていうかさー、外でくらい別の話の方がよくない? 公衆の面前でパンツはまずいっしょ」
こいつに正論を諭されるとは……確かに、それは一理ある。
「悪かった。今度からは時と場合を選ぶことにする」
「うん。あと、次は出来ればあんたからも日常的な話題とか振ってよね」
その言い方だと、デートに『次』があるみたいじゃないか。
ったく、こいつっていまいち掴めないところがあるんだよな。今日のデートだって、為になったのかよくわからんし。
そんなことを考えていると、綾崎が急に俺の顔を覗き込んできた。
「うおっ!? な、なんだよ……」
「いやー、またなんか考え込んでるなって」
「別に、なんでもねえよ。それより、結局どうして俺を街に連れ出したりしたんだ?」
綾崎は呆れたようにため息をつく。
「アイデア出しの一環って言ったじゃん。あとは〜、その、一応責任は取らないとって思っただけ。どっちにしろあたしの一方的なものだからさ、気にしないでよ」
「責任? なんの話だ?」
綾崎は慌てた様子で視線を逸らしてから、ごまかすようにストローを一気に吸った。
「んじゃよ、綾崎。やっぱり気になったから訊きたいんだが」
「ん?」
「沙弥の誤解を解いたって言ってたけど、なんて説明したんだ?」
——ズズズーッ。
綾崎は容器の中身が空っぽになってもまだストローを吸い続けている。
さては、さっきの責任云々ってのも、沙弥関連の話についてだったんだな。
「その責任ってのが絡んでるんだろ?」
「ま、まあいいじゃん、そのことは。一応理解はしてくれたみたいだし」
「一応って、全然信用ならないんだが」
「はい、この話は終了ー。——ところでさ、あたしも訊きたいことがあるんだけど」
強制的に話題を変えやがった。内容についてはよほど言いたくないらしい。
「はぁ、まあいいけどよ。——で、なんだよ」
綾崎は俺の顔を横目にチラ見したかと思えば、
「あんたさっきから、なんのためにデートを〜とか、どうして俺を街に〜とか言ってくるじゃん?」
「おう」
綾崎は俺の耳元に唇を寄せてきて、
「(それ、遠回しにパンツ見せろって言ってるようにしか聞こえないんだけど)」
「はぁっ!?」
この女、声を潜めてそんなことを言ったかと思えば、そのとんでもなく丈の短いスカートに手を置いた。
勘違いにも程があるぞ。俺がそんなことを言うわけがないだろ。ましてや今は外、公衆の面前だ。——いや、人目が無ければいいとかそういう話でもないんだが。
でもこいつの仕草はなんだ? どうしてこのタイミングでスカートに手を置いた? こいつまさか、ここでパンチラしようってのか?
あり得る。綾崎ならやりかねない。こいつは作品のためならなんだってやる女だ。下手をすれば大ごとになる。ここは俺がしっかり気を付けないと。
そう思い、綾崎の手を押さえた。
「俺がそんなこと言うわけないだろ。——それとお前、さすがにここではやめろよ?」
すると、綾崎がジト目を向けてくる。
「は? あんたに見えないように押さえただけなんですけど。——それと、今の状況わかってる? あたしら多分、周りからはイチャつくバカップルに見えてると思うよ」
気が付くと、周囲の視線が俺たちに集まっていた。
まあ当然か。ただでさえ派手で目立つ綾崎と、地味オタな俺。その釣り合わなすぎる組み合わせの二人が一緒にいるってだけでも珍しいというのに、そいつらが場を弁えずにイチャつくバカップルとあらば——
「——って、俺たちがバカップルゥ!?」
「小島、声デカいって」
まずった。この女が変なことを言い出すから、つい気が動転して叫んじまった。
でも周囲からすれば、どう見たって女王と下僕の構図にしか見えないはずだ。……それもそれで腹立つ話だが。
まあ、その辺りは置いておこう。今はこの場からの撤退が最優先事項だ。
俺は綾崎から手を離して、鞄を担いで立ち上がる。
そのまま早足で店を出ると、綾崎も急いで付いてきた。
「ちょっと! 歩くの早いんだけど」
「あ、悪い」
立ち止まって振り返ると、綾崎は不満そうに俺を見つめていた。
さっきのは完全に、早とちりした俺が招いた状況だ。だからどう謝ろうか考えていたんだが、
「あれ、えまっちじゃね?」
その声に、俺たちは同時にビクつく。
声のした方へ視線を向けると、三人のギャルが立っていた。こいつらの顔には見覚えがある……多分、同じクラスの奴らだ。
俺の中の何か——具体的には生存本能的なやつが警笛を鳴らしたため、すぐさま自動加速装置が起動して逃走を敢行!
——しようとしたら綾崎に首根っこをふん掴まれて、おとなしく後ろに身を隠した。
「やっほー、みんなは部活帰り?」
愛想良く挨拶をする綾崎。
すると、ギャルの一人(確かチカとかいう奴)があからさまに俺のことを覗き込んで、
「そぉ部活ー。もう脚パンパンでさー、絶対太くなったわー。——つーかえまっち、後ろの誰? 彼氏?」
こいつ、俺の顔を覚えてないときた。俺も下の名前しか知らないけど。
「あ、ユリ知ってるぅ。こいつ同じクラスだよぉ。えーっと、なんだっけぇ、短いとか、小さいとか付く名前の——あっ、『パンジマ』だぁ!」
どうやら、ゆるふわぶりっ子ギャル——ユリは俺の顔を覚えていたらしい。ついでに嫌なあだ名も。……小さいまで出てあだ名の方を言うって、もう確信犯だろこいつ。
すると、他二名も「あぁ、パンジマね」「あのオタの」と同調し始めた。
もういいかげん慣れたとはいえ、放課後にまで絡まれると嫌気が差す。が、綾崎の面子もあるし、下手なことは言えないよな。
それにしても綾崎はずいぶんと黙ってるなー、と思っていたら口を開いた。
「実はたまたまスタバで会ってさー、話してみたら案外面白い奴だよー、『小島』って」
綾崎は明確に俺の名前を強調して呼んだ。
すると、ギャルたちは「ああ小島ね、小島」「小島とか、言われてみればそんな名前だったわー!」などと掌を返したように俺の名前を連呼し始めた。
「みんなも今度話してみなよ、オタ話以外だってちゃんとできる奴だから。——あ、ちなみに彼氏とかじゃないから。噂とかマジ勘弁ね」
綾崎はお得意の太陽スマイルで言った。
こいつ自身も決していい気分はしていないだろうに、嫌味一つも感じさせないところがすごい。これこそがトップカーストに君臨する者のコミュ力なのだと実感してしまう。
「じゃ、あたしこの後用事あるから、そろそろ行くね。またねー」
綾崎があっさりと別れを切り出すと、他三人は楽しげに去っていった。
「……ふぅ」
綾崎はため息をついたかと思うと、
「ほんっと、ごめん!」
思いっきり頭を下げてきた。
なんでこいつが謝ってるのかは知らないが、まあ非があるとするならば、平日の夕方に学校の最寄り駅前を二人でぶらつくなんて行動を取ったことだろう。知り合いに遭遇するとは考えなかったんだろうか。……こいつって他人のことは気にするくせに、自分のことになると意外と抜けていたりするからな。
俺はまあいいけど、今日のがきっかけで、少なくともこいつは友達とギクシャクしたりするかもしれない。
そう思うと、なんだか居たたまれない気持ちになった。
「別に俺はいいけどさ……その、大丈夫なのか? 噂とか」
「ああ、多分平気。あたし自身の噂だったらとっくにいろんなものが立ってるし、そもそも今回の件は結構強めに釘刺しといたからさ」
あれで強めか。俺に対する時とはえらい違いだな。
「ま、他の奴と会う前に帰ろうぜ」
「あ、うん」
先導するように歩き出すと、トボトボと後をついてくる。
それが昔飼っていた犬の散歩中を彷彿とさせ、少し和んでしまった。
「あ、やっと笑った」
俺は自然と微笑んでいたらしい。またキモいとか言われるんだろうか。
「小島ってば、ずっとしかめっ面だったりダルそうな顔してるんだもん。そりゃあ、あたしとのデートは楽しくなかったかもしれないけどさ、さすがに一度も笑ってもらえなかったらどうしようかと思ったよ」
綾崎は照れくさそうに笑いながら伸びをした。
そうか、こいつは俺のことを気に掛けてくれていたんだな。
俺が高校生活なんて灰色だ〜とか言ったから、きっとリア充っぽいことでなんとか楽しませてくれようとしたに違いない。
その気持ちは、素直に嬉しかった。
「ありがとな」
「えっ?」
「その……正直ヘトヘトになったけど、まあまあ楽しかったぞ」
「まあまあかい。そこはお世辞でも楽しかったーでしょ」
安堵したように言う綾崎。
本音を言えば、こういうのもたまには悪くないと思ったよ。
そんなの、さすがに恥ずかしすぎて言えないが。
「あー、でもさぁ、あんた他の子とデートするときに下着売り場とか入っちゃダメだかんね?」
「入らねえし、そもそもデートなんかする機会ないわ」
「だから、これからだっての。万が一にも億が一にもそういうことが無いとは言い切れないじゃん?」
「無いね。断言できる。俺とデートしようなんて酔狂な女はお前くらいだろうよ」
それだって、実際はデートと呼べるものじゃないわけだし。
まあ、今日わかったのは、デートも二次元だけで十分ってこったな。
「そういえば、お前の方は参考になったのか?」
ふと本題のことが気になって尋ねていた。
「あー、割と。ネームが出来次第、あんたにも送るよ」
「お、おう」
そうして駅前まで歩いて。
「あたしほんとにこの後、用事あるんだ。パパとのディナー。だから今日は実は、あたしの時間潰しが本命なのでしたぁ〜」
綾崎はへらっと笑いながら言う。
「そうか。じゃあな」
「うん、今日はサンキュね。また明日〜」
そう言って、綾崎は大きく手を振りながら去っていった。
俺はなぜだかその背をボーッと見送ってから、見えなくなったところで歩き出す。
——と、そのときスマホが振動した。
綾崎かもしれないと思い、なぜだか気持ちが急くのを感じながら確認する。
『沙弥:今からそっちにお母さんの肉じゃが持っていくね〜!』
ビクッ、と全身が震えた。
別に悪いことをしていたわけじゃないが、激しく動揺してしまう。
『三十分後ならオーケーだ』
そう返信して、急いで走り出す。
まだ帰宅していないなんて言ったら、また沙弥によからぬ勘違いをされるかもしれないからだ。
そこで再びスマホが振動したので、走りながら確認する。
『沙弥:えへへ、もう来ちゃった』
「……笑えねえ」
嫌な予感がしたが、足だけは懸命に動かした。
もちろん、言い訳の内容を考えながら。
♢
「た、ただいま〜……」
小さく挨拶を告げる。
リビングに杏香姉と談笑する沙弥の姿があったからだ。
俺はひとまず自室に避難しようとしたが、
「あっくんおかえり〜っ」
沙弥に笑顔で声をかけられ、俺は観念してリビングに入る。
「お、おう……」
「ご飯にする? お風呂にする? それとも、は・な・し、する?」
沙弥さん、最後のは何ですか。なんかすごく怖いんですが……。
その愛らしい笑顔にエプロンがよく似合っている。良妻感がすごいが、これで料理がド下手なんだから、人は見かけによらないってのはあながち間違っていない気がする。
まあそれはさておき。ここは無難に対応するとしよう。
「えーっと、じゃあお風呂にしようかな」
「うんっ、わかった。その後はどうする?」
「えーっと、ご飯を貰おうかな」
「うんっ、じゃあお話はその後ね」
「……すみません、やっぱりお話からにします」
「うんっ、じゃあそうしよっか」
「あはは〜、シンちゃんは将来お嫁さんの尻に敷かれるタイプだよねぇ〜」
杏香姉も冷やかす暇があるなら助けてくれよな。……ちなみに、嫁(二次元)の尻に敷かれるのは割と嫌いじゃないです、はい。
そこで沙弥は和やかな笑顔から一転、頬を膨らませて変顔(?)状態になった。
「あっくん、今日は綾崎さんと会ってましたね?」
「な、なんでそれを……」
「嘘をつかなかったのは偉いです、撫でてあげます」
ほんとに頭を撫でてきた。これだと嫁じゃなくて母親だろ。
沙弥はたまに説教やら大事な話をするとき敬語になるんだよな。なぜかは知らんが。
「綾崎さんから事情は聞きました。なんでも、三次元に慣れるために頑張っているそうですね」
「は?」
「へ?」
「いや、なんでもない……」
びっくりした〜、天然系純粋幼馴染の口から『三次元に慣れるため』なんて意味深ワードが飛び出すものだから、つい動揺しちまった。
だが、今ので理解した。綾崎は先日の誤解を解くために、沙弥にそう説明したのだと。
綾崎のことだ。おそらく『小島はこのままだと社会不適合者になって生涯独り身のままだろうから、あたしが改善しようとしてあげている』とかそんな説明をしたんだろう。
うん、俺に甚だ失礼なわけだが、悪くない手段ではある。あいつが自分の口から内容について話したがらなかったのも納得だ。
他に妙案があるわけでもないので、俺は仕方なく綾崎の手に乗ることにした。
「ま、まあ、そんなとこだ。綾崎って意外と良い奴だよな、ほんと」
「あ〜、あの美ギャルちゃんねぇ〜。確かにイイカラダだったしぃ、お姉ちゃんのすっごい好みだったなぁ〜……ひっく」
杏香姉が缶ビール片手に口を挟んできた。……もう完全に酔ってやがる。
こんな平日の夕方から従弟の家でソファにもたれかかって飲酒なんて、大学生ってどんだけ暇なんだよ。
「杏香さんとも知り合いなんだ! わたしが思ってるよりも、あっくんと綾崎さんって仲良いんだなぁ〜」
「ま、まあ、知り合いって言っても、一回しか会ってないけどな」
なんで俺は言い訳みたいなことしてんだか。
「玄関でちょ〜っとガールズトークしたんだけどぉ〜、最近のJKはああも発育がイイものなんだねぇ〜——って、さやぴーは貧乳だったね〜、こりゃ失敬、あはは〜」
おい酔っ払いJD! 最後のは余計だ! 本人すごく気にしてるかもしれないだろ!
「……お肉いっぱい食べなきゃ」
ほらー、気にし始めちゃったじゃん。
俺もさ、長年一緒にいるから気付いてはいたんだぜ? 沙弥のお胸が中一の頃からずーっと変わらずAカップのままだって。あえて俺は口にしていなかったというのに、このアホ従姉は……。
仕方ない、ここは俺がなんとかフォローを入れるか。
「い、いやでも、貧乳って意外と需要あるし、それにほら、成長期はこれからだろ?」
「そ、そうかな? まだ望みはあるかな?」
よし、このまま励まし続ければいける。
「ああ! だから気を落とすことはないんだ!」
「さやぴーってなんかペットの子犬みたいだもんねぇ〜。男子って意外と可愛い系が好きだしねぇ〜」
酔いどれJDもナイスアシストだ! このまま畳みかけるぜ!
「それにほら、お前って勉強が出来るだろ? それに家事も——料理以外は完璧だ! 何気にハイスペックだよな! そして何より可愛い! 最強だな! 俺もお前みたいな幼馴染がいて鼻が高いぜ!」
気付けば、沙弥の顔は沸騰したように赤くなっていて、ぷしゅぅ〜と今にも煙を出しそうだった。
「あわわわ……そんな、可愛いなんて、ふへへ〜……」
「お、おい、沙弥? だいじょぶか?」
「あっくんが、可愛いって、ふへへへへ〜……」
「おーい」
呼びかけても反応なし。まさかここまで効果があるとはな……。
「でもシンちゃんはデカパイ好きだもんねぇ〜、お姉ちゃんみたいな〜♪」
おいいいいいいィ——ッ!? 人がせっかく励ましてたのに何言ってくれてんだこの酔っ払いはぁ——ッ!
案の定、沙弥はハッと我に返った様子で俺を見つめてから、しょんぼり落ち込んだ。
「へへ……お気遣いさせてごめんなさい……」
ほらー、また落ち込んじゃったじゃないかー。
考えてみれば、この負の乳スパイラルはそもそも杏香姉によって引き起こされたものなんだよな。
「沙弥、ちょっと場所を移すぞ」
ならば、危険人物のいない場所に移ればいいだけだ。
俺はすぐさま沙弥の手を引いて自室に入った。
「「…………」」
入ったまではいいが、なんだこの気まずい空気は。
俺がひとまず椅子に座ると、沙弥は床の上に腰を落ち着けた。
「……あのね」
「はい!?」
つい素っ頓狂な反応をしてしまった!
だが、沙弥は構わずに続ける。
「一つ、聞いていいかな?」
「なんだよ?」
「あっくんは、綾崎さんと友達なんだよね?」
「友達……とは違うけど、まあ、少なくともお前が危惧してるような仲ではないよ」
多分、気付かないうちに心配をかけていたんだろう。沙弥はあまり問い詰めたりすることはないが、それでも気遣ってくれているのは理解しているつもりだ。
俺と綾崎が一緒にいれば、普通は俺が一方的に脅されていたり弱みを握られていることを考えるだろうし、沙弥もその辺りを危惧していたんだろうな。
「よかった、ちょっと心配だったんだ。それとね、あっくん達、噂になってるんだよ」
「噂?」
「うん、これ見て」
沙弥がスマホの画面を差し出してきて、そこには『あの綾崎絵麻とパンジマがデートしてた』などというツイートが投稿されていた。
情報化社会とは実に恐ろしい。わかってはいたことだが、いざこうして自分が標的になると、改めて怖気を感じる。
それによく考えないでも、放課後の学校最寄り近辺には誰かしらいるよな……と自分の行動の浅はかさを呪いつつ、一応綾崎にこのことをLINEで報告しておく。
すると、すぐさま返事がきた。
『えまちょろ:それ、あたしもさっき見た。ま、すぐ収まるっしょ』
軽いなー。綾崎ほどともなると、男との噂くらい日常茶飯事ってことか。
まあ、こいつがそれほど気にしていないなら俺も気楽に構えてよう。第一、特に友達もいない俺は周囲からの評判がどうあれ、あまり影響は受けないしな。
「綾崎は気にしてないみたいだな」
「強いんだね、綾崎さんは」
「強い? そうか? 慣れてるだけじゃねえの?」
「ふふ、あっくんはそういうの疎いもんね」
「お前な、俺がどれだけの女の子とデートをしてきたと思って——」
「うーん、それはあんまり参考にならないと思うな」
思いのほかズバッと言われた。まあ実際、今日の綾崎とのデート(?)でも何一つとして上手くいかなかったし、沙弥の意見は的を射てるんだろうけどさ。
「ま、お前があんま心配することじゃないさ。俺らも気にしてる場合じゃないしな……」
「なんか、大変なんだね」
沙弥は心配そうに見つめてくる。
確かに大変だ。少なくとも、作業面に関しては。
綾崎はイベントが来月に迫っていると言っていた。つまり、実質の作業期間は二週間ほどしか取れないと考えていい。それなのに、ネームもまだ描き上がっていないのだ。
本人は割と余裕をこいているように見えたけど、これって結構まずいんじゃないか?
推敲する時間はじっくり取った方が良いだろうしな……てか、そこら辺のスケジュール計算とかはちゃんとしてるんだろうか。
ああ、考えたらどんどん不安になってきた。くそ、確認してみようかな。
そんな風に頭を悩ませていたとき、スマホが振動した。
確認すると、綾崎からのLINEだった。
『えまちょろ:今日はありがと。今夜中にネームをいくつか仕上げて送るから、明日の朝にでも読んで、学校で感想ちょうだい』
そんな俺の心配は杞憂に終わったようだ。
だって、こいつのやる気は十分に燃え上がっているのだ。これは明日が楽しみだ。
でも『学校で感想ちょうだい』って、また放課後に部室とかでってことか? そもそも部室で二人きりになっているのだって、誰かに気付かれたらまずいと思うんだが。
「ったく、こいつは」
「ふふ、あっくん楽しそう」
沙弥に言われて、思わず困惑してしまう。
「楽しそう? 俺が?」
「うん、あっくん今ニヤニヤしてたし」
沙弥はニヤニヤ、というよりニコニコといった感じで、幸せそうに微笑んでいる。
でもそうか、俺は周りから見ると楽しそうなのか。それもニヤニヤって……なんか恥ずかしいな。
「でもあっくん、ほんとに大変なときにはいつでも相談してね? 力になるから」
こういう存在を、世間では天使というのかもしれない。
そんな風に思いながら、俺は沙弥の頭に手を置いた。
「おう、料理以外でサポート頼むな」
「もぉう、あっくんてばひどい〜——あ、肉じゃが冷めちゃう!」
沙弥に手を引かれ、再びリビングへ向かう。
鼻先に漂う良い香りが、食欲を刺激してきた。
♢
翌朝。
普段より少し早めに起きて、PCの電源を入れる。
メールを確認すると、綾崎から三つの添付ファイルが送信されていた。
やはり、昨日言っていたネームだった。すごい、昨夜だけで三つも仕上げたのか。
さっそくファイルをダウンロードして、内容に目を通す。
まずは一つ目。
悪くない。というか、普通に面白い。王道デートからの、和やかな雰囲気でのパンチラ。〆のもろパン。最後は悪戯っぽく自分から見せてくれるとかミカサ可愛すぎ。ハスハス。
二つ目。
なるほど、こういう切り口があったか、と思わせるストーリー。二人でデパートを訪れて、ランジェリーショップに入って〜——って、これまんま昨日の俺らじゃないか! 俺の場合、パンツは見せてもらってないけどな!
三つ目。
勉強会という名目で、ミカサの家にやってきた主人公。真面目じゃない自分も知ってほしいというミカサは、保健体育を教えてくれるとのことで、まずはその純白おパンツの脱がし方を優しくレクチャーしてくれて——
「ってこれエロ同人じゃねえかぁっ!? もろ十八禁だろうがよこれぇぇ——っ!!」
興奮のあまり一人で叫んじまった。
朝っぱらからこんな如何わしいものを見せやがって、あのドエロギャルは一体何を考えてやがるんだ。
というわけで、さっそく感想をLINEで送るとしよう。
『ネーム確認した。まず結論から言わせてもらうと、俺の一押しは三——
いやいや、落ち着け俺。
気を取り直して文を作り直す。
『ネーム確認した。まず結論から言わせてもらうと、俺の一押しは一つ目かな。ぶっちゃけ、王道の安心設計だし、ミカサが初めは普段通り真面目に振る舞うけど、後半になるにつれて口調が砕けて、態度からも距離感が縮まったことを感じられるようになってるところなんかグッジョブだ。最後は優等生像とは真逆の、からかうような笑顔で自分からパンツを見せてくれるところなんかは、思わずキュンときた』
ここで文を一区切りし、他作品のものも一応。
『それと二つ目だが、これもアリっちゃアリなんだけど、結構ノリに任せた出オチ感が強いんだよな。パンツも溢れかえってるせいで、ミカサのが見えたときのインパクトが弱かったような。いや、興奮したけどさ、ミカサのおパンツ。——ちなみに三つ目は年齢制限的に論外な。余裕があるときにいつか完成させて読ませてください』
ふぅ、こんなところか。さて、そろそろ出ないと遅刻しちまう。
そうして俺は、胸を高鳴らせながら家を出た。
——のだが。
教室に入った俺は、再びリアルの厳しさを痛感していた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、黒板にデカデカと描かれた相合傘。その下に書かれた俺と綾崎の名前。
おかしいとは思っていた。登校道中、学校に近付くにつれて増える生徒からの視線がやけに突き刺さってくるなと。
常時ステルスモードで過ごしてきた俺だからこそ、周囲の目に過敏になりすぎているのかもしれない——そう思って流していた。けれど、教室に着いてわかった。すでに昨日の噂が広まりきっているのだと。
室内を見回し、まだ綾崎が来ていないことを確認する。好都合だ。
俺はまず、昨日遭遇したギャル共を睨み付けた。
「ち、違うって、うちらじゃないし」
目が合った女子生徒——チカが、必死に首を左右に振る。
となると、こいつらの他にも見られていたってことか。
ひとまず黒板の落書きを消し始めると、
「てかさ、それマジなん? なんかゲーセン一緒にいたとか聞いたんやけど」
茶髪の男子生徒が声をかけてきた。クラスの中心グループに属しているチャラ男系イケメンの、確か早川とかそんな名前の奴だ。なんでエセ関西弁なのかは知らん。
しかし、まさか俺がお前みたいなトップカーストに属する男子と話すことになるとはな。しょうがない、それとなく流すか。
「ガセだよ。と言っても、信じてもらえないかもしれないけど、綾崎さんの名誉のために一応言っとく」
名誉とかキモー、と女子の一人が笑いながら言った。あれ? イマドキのJKからすると使うだけで笑えるレベルの単語なのこれ。
「え〜、でもぉ、スタバで会ったって言ってなかったぁ? ユリ覚えてるよぉ」
ようやく消し終えた辺りで、ぶりっ子ギャル・ユリが口を挟んできた。朝っぱらから甘ったるい声は健在だ。横槍ビッチとでも命名してやろうか。
俺はユリ相手に日頃の鬱憤晴らしも兼ねて、がううっと威嚇してみせるも、あっかんべーで返された。くそ、意外と肝が据わっててムカつくぜこの横槍女……。
「ユリちんが言うならあれじゃね? デキてるやつじゃねそれ」
早川うるせえな。耳障りなところなんかユリちんとやらとそっくりだぞ。
「ユリねぇ、前々からエマっちが彼ピの話しないの変だなぁって思ってたんだぁ〜」
あー、語尾うぜえ。めんどくせえ。帰りてえ。
お前ら暇人と一緒にすんなよ。こちとら大事な同人誌の作業中なんだよ。
でもどうする。
ここで黙ったままやり過ごせば、その皺寄せは綾崎にいく。確かに変に嘘をついた綾崎も悪いが、誰だってあの状況で本当のことを言ったりはしないと思う。
やっぱ、俺がどうにかするしかないよな、うん。
俺がこれからすることは仕方がないことだ。綾崎が来る前に、早々にケリをつけよう。
大きく息をついてから、覚悟を決める。
「……答えてやるよ。ただし、一つ約束してほしい」
「え?」
ユリを真っ直ぐに見つめて言ってやる。
「綾崎……さんには追及するな。友達ならな、負担とか考えろよ」
しんと静まり返る室内。ユリは動揺した様子で辺りを見回してから、渋々頷いた。
それを確認した俺は口にする。
「あの日、俺はたまたま綾崎さんを見つけた。デパートで、だ。びっくりしたよ、普段一人でいるイメージなんてない綾崎さんが一人だったんだ。だからなんとなく挨拶だけでもしようと思ったけど、なかなか話しかけられなくてな。そのままゲームセンターまでついていって、隣でゲームをしたりもしたけど気付かれなかった。あの人、多分俺の顔を覚えてなかったんだろうな。だけどスタバに入ってから、思い切って声をかけた。つまりは、それだけの話だ」
淡々と語る俺の嘘話を、誰一人として疑っていないようだった。
パンチラ痛Tを着ているような地味なキモオタの俺が学内のアイドル・綾崎とデキているという話より、俺みたいな奴がストーキングしていたという話の方がよっぽど信ぴょう性があったのだろう。
現実とは往々にしてこんなもんだ。みんな、信じたいものを信じる。
それは仕方のないことだろう。俺も、俺みたいな奴と普通に話してくれる綾崎みたいなギャルの存在を今だって奇跡みたいに感じているし、もしかしたら友達に……なんて、ありはしない幻想を時々だが抱いたりもする。
何より憧れの絵師さんとこうして巡り合えたのだから、一ファンとしてもっとお近づきになりたいとすら思っている。
これは一種の恩返しだ。俺は今朝がた見たネームに、正直感動しっぱなしだ。今もあの手描き感満載のネームが目に焼き付いて離れない。煽情的なパンツの虜だ。
それだけのことだ。他意はない。
そう言い聞かせて、俺は自分の席についた。
最低だとか気持ち悪いだとか、そういった声は多々聞こえてきたけど、幸いなことに直接言ってくる奴はいなかった。
それから授業が始まっても、綾崎は来なかった。
そういえば、メールの受信時刻が朝の五時半とかだった気がするけど、まさかあの時間まで起きていたんじゃないだろうな?
そんな風に心配していたら、綾崎は昼休みを迎えるなり登校してきた。
「おあよぉ〜」
眠そうに欠伸をして入ってくる綾崎に、すぐさまギャル連中が群がっていく。
先ほどの出来事などお構いなしに、パンジマが〜やらストーカーが〜やらの話題を持ち掛け始めた。聞きたくもないのに、会話の端々が耳に届いて不快になる。
まあ、そりゃそうか。俺と約束したのはユリ個人。もし他多数の女子に口止めをしていたとしても無駄だったことだろう。
結局上手くいかないもんだな。どうして周囲は放っておいてくれないんだろう。俺たちはただ、必死に一つの物を作り上げたいだけなのに。
これだからリアルは嫌なんだ。人間関係がすごく煩わしい。
そんな風にいろいろと考えていたら、なんだか気分が悪くなってきた。外の空気を吸おうと思い立ち上がったところで、
「ふーん」
綾崎が席に座るなり、不機嫌そうに頬杖をつく。
あの綾崎が教室でこんな態度をとるのを初めて見た。正直意外だ。
女王の逆鱗に触れたと感じたのか、取り巻き連中の顔が青ざめる。
「……う、うちらの勘違いだったかも!」
そのうち、一人が慌てた様子で訂正する。他の取り巻きもすぐさま同調したことで、程なくして教室は平穏を取り戻した。
それからはメイクが〜とかあの雑誌が〜などのリア充トークが繰り広げられた。平常運転、すでに俺のストーカー疑惑などどこへやらだ。
これがトップリア充、綾崎絵麻の影響力か。デートの時にも感じたが、やはりすごい。あいつのその日の気分一つで、周囲の反応や態度が一転するもんな。取り巻きのギャル共には今や奇妙な連帯感まで生まれている気がするし、綾崎恐るべしだ。
当の綾崎は今では楽しそうに話しているが、その真意はわからない。今俺をどう思っているのかも、その表情からは読み取れない。
俺は立ったままでいるのも不自然なので、昼食をとりに教室を後にした。
味のしない昼食を終え、教室に戻って授業を机に突っ伏して過ごす。
その間中、なぜだか綾崎の視線を感じた。俺は絶対にそちらを向かないようにした。
そうして迎えた放課後。
早々に立ち去ろうと教室を出たところで、スマホが振動した。
確認すると、綾崎からのLINEだった。
『えまちょろ:先に部室行ってて』
一瞬だけそのまま帰ってしまおうかとも思ったが、そっちの方が後々面倒事になりそうだったので、素直に部室へ向かうことにした。
職員室で鍵を借りて、部室に入る。
なぜだか、ひどく殺風景に感じた。それもそうか、今は騒がしい奴がいないんだから。
棚に並ぶ漫画本の一冊を手に取り、椅子に腰掛ける。
これが本来の漫研部員らしい活動だ。いや、本当は内容や展開の解釈について部員同士で話し合ったり、その作品の名台詞や名場面について語り合うものなんだろうけど。
ここに置いてある漫画って、どれも十年以上前の古いものばかりなんだよな。多分、ろくに活動もしていないから部費が下りず、新しい本を買い足せないんだろう。
全員入部制のこの学校の穴狙いで入部した者ばかりで、モチベーションが低い奴らの集いであれば、自然と誰も来なくなるのは必然だ。そりゃ、部費も下りないよな。
はぁ。
なんというか、暇だ。
——ガラーッ。
そんな風に考えていたら、扉が勢いよく開いた。
立っていたのは、予想通りの人物。
けれど、その表情は見たこともないくらいの憤怒で歪んでいた。
「よ、よぉ、綾崎」
つい怖気づいた俺は、愛想笑いを浮かべて挨拶していた。
しかし、つかつかと近付いてきた綾崎は俺の目の前に立つなり、
「——いててててっ! いてえだろっ! 何すんだ!?」
「なんであんな嘘ついたのよ!!」
力いっぱいつねってきた手を振り払った途端、綾崎はすごい剣幕で怒鳴ってきた。
俺は自然と目を逸らしてしまう。
「そりゃ、仕方なく……お前だって、嘘はつくだろうが」
「あたしの嘘は自分を守るためのものよ! あんたの嘘とは違うし!」
「それ、堂々と言うことか……?」
綾崎は腕を組んで堂々と仁王立ちする。
「当然。それならあたしがずるいだけで済むじゃん」
「は?」
「でもさ、小島の嘘って、なんかこう、苦しくなるんだよね……」
苦しくなる? なんだ? 周りになんか言われたのか?
あいつら、俺がせっかく嘘までついたのに友達を傷付けるような真似しやがって……!
「ちょっと行ってくるわ」
「ちょちょ、待って! あんた何か勘違いしてない!?」
「あ?」
腕にしがみつく形で引き留めてきた綾崎を見ると、彼女はゆっさゆっさと胸を——いや、首を左右に振っていた。一緒にいろんなものが揺れていたので目が泳いだ。
「な、なんだってんだ、一体……」
「あんた今、どこ見てた?」
「見てねーよ」
「見てたじゃん」
「見てねえって! お前の胸なんて!」
「ほら、見てたんじゃん」
綾崎は誇らしげに胸を張る。誘導尋問が上手いな、確かに立派だよ。
「椅子に座って」
仕方なく言われた通りに座ると、綾崎は机を挟んだ向かいに座った。
「あんたの嘘ってさ、自分を貶めるものじゃん?」
「まあ、結果的にはな。だけどあの場合はしょうがな——」
「しょうがなくないでしょ。あそこで黙ってるなり、適当なことを言ってごまかしとけば、みんなあたしに訊いてきたはずよ。あんたとの関係とか、全部ね」
「でも、結果的にお前の負担はだいぶ減っただろ?」
「だから、それよそれ。あんたさ、あんたが悪く言われているのを聞いて、あたしが何も感じないとでも思ってんの?」
こいつが何を言いたいのかいまいちよくわからない。
でも、俺のために憤ってくれていることはわかった。昼休みのとき不機嫌そうになったのも、俺の嘘が原因だったんだな。
「……悪かったよ。もう少し上手いやり方があったかもしれない」
「わかってくれればいいよ。でももう二度とああいうことはしないで。それと——ありがと。ちょっと……嬉しかった」
綾崎は照れた様子で、視線を床に向けながら告げてきた。
こいつは怒ったかと思えば感謝してくる。感情表現が豊かというか、顔と一緒にコロコロと変わる奴だな。
「……結局、嫌だったのか嬉しかったのか、どっちなんだよ……?」
「だからっ……そんなの、どっちもに決まってんじゃん……」
決まってんじゃん……なのか? そんなのわかんないじゃん。
とか冷やかしたらぶたれそうだったからやめておいた。すでにぶってきそうだし。
「あんた、ほんとにわかってんの?」
「何がだよ? さっきから遠回しな言い方ばっかだな」
「それはあんたがっ、鈍感、だから……」
言いたいことが言えなくてもどかしい、ってところか。数多のギャルゲーをプレイしてれば、そのくらいのことは表情や仕草でわかるぜ。
それどころか、俺は少女漫画を嗜むまである。いわゆる感情の機微に関しては、相当触れてきていると自信を持って言える。
だが、思ったよりリアルの難易度が高いことは認めよう。ギャルゲーの経験も実践にはあまり役立たないことが最近わかってきた。
さて。とりあえず、こいつが言うには外れているんだろう俺の答えを告げよう。
「お前は、俺の悪口を聞いたから怒ってる。それは俺がヘマをしたからだ。自分の友達に知り合いの悪口なんて言わせんじゃねえ——そういうことだろ? ほら、わかってんだ——いてぇっ!?」
話の途中でデコピンをお見舞いされたのだ! 机に身を乗り出してまでやることかよ!
「なんなんだよ一体! 間違ってるなら教えてくれよ!」
「あたしはねっ、あんたの悪口を、あんたの口からだって言ってほしくないのよ!」
「へ……?」
言ってることが予想の斜め上すぎて困惑してしまう。
「それにあんた、その調子じゃ気付いてないんでしょうね。あんたが自分を貶めることで、一緒に他の人も貶めてるってことに」
「なんだよそれ……俺がお前を貶めてるって言いたいのか」
「そうよ。それにあたし以外にもいるわよ。言わないけどね!」
なんだってんだ、ほんと訳がわからん。
「へーへー、それはわるうござんした。なんだかよくわからないけどな」
「なら言ってあげる。——あたしは、あんたのことを評価してるのよ。良い奴だし、面白い奴だと思ってる」
やけに上からだな、おい……。
それはともかくとして、なんだか悪い気はしない。
「で、それがどうしたってんだ……」
「だからね、あたしがいいなと思ってる人を侮辱されるのは、たとえその本人だとしても嫌だってこと。だって、あたしの審美眼を否定されているのと同じじゃない」
「そ、そういうものなのか……?」
未だにぴんときていない俺を見て腹が立ったのか、綾崎は上履きを脱ぎ捨てて机の上に上がり始めた。
おいおい、何やってんだ、あぶねえだろ……。それにこの角度じゃパ——
「どう?」
綾崎は笑っていた。
スカートの裾をつまんで、狂気じみた笑みを浮かべていた。
その笑みの下の光景に、視線が釘付けになる。
ライトブルーのボーダー柄。
昨日俺が選んでやった『パンツ』だった。
「感想は?」
ごくり。
問われ、生唾を飲み込む。
やはり俺の目に狂いはなかった。
素晴らしい。
三次元の女のパンツに、その造形美に、存在感に、これほど心を揺さぶられるとは。
爽やかなライトブルーと穢れ一つない白が生み出す芸術的なまでの横縞模様。細くもムチムチとした肉感がたまらない白い太ももが動くたびに、秘部を覆うその布の皺は煽情的に形を変え、新たな世界を幾度も創造し、変革し続けている。
許されるのならば、もう少し近くで……
そう思って自然と引き寄せられるように近付いたところで、スカートの裾がひらりと元の位置へ戻る。
「あうぅ……」
俺は思わず主人との再会を求むる忠犬のようにか細い鳴き声をあげた。
そんな俺を弄ぶかのように、位置の高低差によりチラリと見え隠れする水色ボーダー。
見たいのに、見えない。一度美食を味わったら戻れないというが、まさにそれだ。
お預け。全てが見えてはロマンが無いという派閥もあることは存じ上げているが、こと今回に限れば俺はお預けされる状況を作ってくれた先ほどのフルオープン状態にむしろ感謝をしてもいいと思えるくらいだ。
ありがとう、裾つまみ。お預け最高。ハァハァハァ……。
「すごいわね、あんた……パンチラだけでどんだけ思考を巡らせてんのよ……」
さすがにドン引きした様子の綾崎。だけどな、仕方ないんだ! 俺はパンツが好きなんだよっ!
「認めてやるよ」
「は?」
「——お前はっ、二次元と三次元の狭間を生きる人種であるとな!」
ついに宣言してやった。
これを認めるのは悔しいが、最強のパンツを身に付けた綾崎は今まさに間違いなく、俺にとっては素晴らしき声優の皆さんやアイドル達のように三次元を解脱していたのだ!
それほどの美として認めてやったというのに、綾崎は呆れた視線を向けてきている。
そのまま綾崎は満足したのか机を下りて、椅子に座るなりこほんと咳払いをして、
「でもあたし、このパンツ嫌すぎて二度と穿かないかもな〜。何がって、色と柄がねぇ。ボーダーって、世界で一番あたしに似合わない柄だしぃ〜」
「馬鹿もんがぁっ!」
「それはこっちのセリフだぁ!」
つい勢いよく怒鳴った俺を、綾崎がすかさずチョップしてきた。
「いてて……何すんだ!」
「ね? 腹が立ったでしょ? あんたが認めたものを馬鹿にされたら、すごく腹が立つでしょ? つまりはそういうことよ」
ドヤ顔で語る綾崎。しかし耳まで赤くしているものだから、全然様になっていない。
「お前、それを教えるためにわざわざ見せてくれたのか……」
「ま、まあね!」
「でも、どうして穿いてきたんだ? 実は気に入っていたり……?」
綾崎はふいっと視線を逸らして、
「……まあ、今日はある種の勝負のつもりで来たからね」
「つまりは、勝負下着と——ごばばっ!?」
机に身を乗り出した綾崎に思いっきり口を塞がれた。息ができなくて死ぬかと思った。
「それ以上は言ったら絞めるから」
「はい、すみません……よく、わかりました」
素直に謝った俺を見て、綾崎は満足そうに微笑んだ。
「わかってくれたならいい。じゃ、この話はおしまいね」
ふふんと上機嫌に鼻を鳴らす綾崎は、ニコニコとしながら俺を見つめてくる。
「な、なんだよ……」
「ほら、だから、感想。あたしが描いたネームの」
「はぁ? LINEで送っただろーが」
「感想は直接のも貰いたいんですぅ〜。同人誌だって直接手渡しするのが楽しいって言うし、そのときのコミュニケーションって言うの? そういうのもあるらしいじゃん!」
恋に恋する乙女な顔をして語る綾崎。これがパンツメインの同人誌に馳せた想いなんだから、クラスの連中が知ったらさぞ幻滅するだろうな。
「ま、言えるわけないか」
「は?」
「いんや、こっちの話。——まあそういうことなら言ってやるよ。俺の一押しは一つ目、王道デートのやつだ。理由は簡単。安心設計、エロ萌えパンツ描写期待大。個人的にだが、普段は絶対エロいことをしないような女子が自分からパンツを見せてくれたときなんて超萌える」
「あ〜、さっきのあたしとか?」
「いや、お前は見るからに安売りしてそうだろ」
「は? 鼻血出す勢いだったくせに」
「出してねえし!」
「よだれは出てました〜」
「くっ……」
よだれは出てたやもしれん。
「ま、まあ、つまり、シチュエーションにしろパンツのセレクトにしろ、相性さえ合えば抜群の効果を出すってことだな」
「そんなパンツをレア防具みたいな言い方されてもね」
「その考え方は間違っていないからな。んで、二つ目だが、まあ悪くないんだがインパクトがな。初っ端からランジェリーショップだと、他に目移りしちまう」
「あー、あれどうだった? 三つ目。あんたへのお礼のつもりで描いたサービスネーム」
「最高だった。ぜひ完成版を見たいと思った。——今回は選外に置かせてもらうが」
「マジ? んじゃあ、夏コミにでも引っ提げて参加しようかな! 売り子はお姉ちゃんとかに頼んで」
「おぉぉっ! ——ごほん。まあ、その話は今は置いとけ」
夏が楽しみになってきたのは言うまでもない。申し込みは済ませてあるんだろうが、実現可能なのかとか、そもそも当選するのかどうかとかはまだ考えないでおく。
「じゃあ、一つ目で決定ってことで!」
「おい、いいのかよ、そんな軽い感じで。俺が言うのもなんだが、俺の意見を鵜呑みにするのはよくないと思うぞ」
綾崎は勢いよく立ち上がって、
「いいんだよ! あたしはまず、あんただって喜ばせたいわけだし! ——じゃ、さっそく作業に取り掛かるから! 画が欲しくなったらLINEするから、すぐさま部室集合ねっ。バイバーイ!」
綾崎はそう言い残すなり、本当に帰ってしまった。
一人残された俺は、呆けたまま椅子にもたれかかった。
「俺を喜ばせたい、ねえ……」
俺のことも一読者として見てくれてんだな。嬉しい限りだ。
でもそれだけじゃない。
今回、あいつは俺なんかのために憤ってくれて、そして俺なんかのために恥を忍んでパンツまで見せてきた。
それは、俺が今まで嫌悪してきたリア充共じゃ決してやらないような行動だ。
あいつは、他の奴とは違う。
薄々わかってはいたことだけど、あいつは嫌な奴じゃない。
それはそうか。あいつは綾崎絵麻であり、同時に俺の恩人・アヤエさんでもあるんだから。
今ではその共通部分も感じるし、本人だと言われてもしっくりくる気がする。
なら俺はどうだ。
俺はちゃんと役に立っているのだろうか。正直、自信はない。
けど、せっかく協力しているんだ。どうせなら、悔いが残らないように力添えしたい。
アヤエさんの——綾崎の同人デビューを華々しいものにしてやりたい。
そのためには俺も自分が喜ぶために、もっと頑張らないとな!
柄にもなくそう意気込んで、俺も部室を後にした。
♢
「ただいまー」
家に着くと、ソファに座り込んで夕方アニメを見ながら、缶ビールをあおる杏香姉の姿があった。
「あ〜、シンちゃんおかえり〜」
「嫌な出迎えだな……。授業とかちゃんと出てるのかよ」
「ちゃんとフル単取ってまーす。それと、お弁当買ってきたから食べなよ〜」
こう見えて、杏香姉は頭が良い。ただの酒飲みオタクではないのだ。俺も試験前なんかは勉強を見てもらうことがある。……もちろん、シラフの時にだ。
まあそのぶん、家事は出来ないんだよな。こうして弁当を買ってきてはくれるけども。
杏香姉が買ってきてくれた唐揚げ弁当だけでは野菜が少ないので、サラダだけでも作ろうと思って冷蔵庫を開けると、中には禍々しい見た目のサラダらしきモノが入った容器があった。……これは沙弥お手製だな。
「サポートは料理以外でってあれほど……」
「妬けますなぁ〜、愛妻サラダですかな?」
びっくりした、知らぬ間に杏香姉が真後ろに立っていたのだ。
「そんなんじゃねえって、つか酒くさい。離れてくれよ」
本当はそれ以外の匂いもして気が落ち着かないのもある。だが、杏香姉はぐて〜っと背中に抱き付いてきた。
「シンちゃんはぁ〜、シンちゃんが思ってる以上に、いろんな人からい〜っぱい愛されてるんだからねぇ〜」
杏香姉のやつ、もうできあがってるのか。酔ってるとはいえ恥ずかしいことを言ってくれるぜ、この保護者代理は。
「愛が重いと潰れちゃうくらいには繊細なんだぜ、俺は」
「だいじょーぶ、これでも普通の人よりは少ないだろうから〜」
どっちなんだよ、てか何が大丈夫なんだよ。さっそく結構傷付いたんだが。
「ほら、サラダ取り分けるからテーブルについてくれ」
「お姉ちゃんはさやぴーのサラダいらな〜い」
それ本人の前でだけは絶対に言うなよ? 泣いちゃうから。
俺は沙弥作のサラダを小皿に乗せて、テーブルにつく。
「いただきます——うっ」
さっそくサラダらしきモノをいただくと、口いっぱいに苦みやら辛みやら甘みやらが謎の粘り気と一緒に渾然一体となって押し寄せ、そのあと遅れて野菜のシャキシャキとした歯ごたえが伝わってきた。
沙弥は隠し味とか言って有るものを手当たり次第に加えるんだよな。花嫁修業と称して家庭科部に入部すること早一年……まだまだ先は長そうだ。
「シンちゃんは一つのことに集中すると、周りが見えなくなるタイプなんだよね〜」
「いきなりなんだよ」
ほんと、いきなりだ。すでに視線はテレビに釘付けだし、酔っているんだろうな。
「確かにトイプードルは可愛いけどね〜、やっぱ嫁にするなら柴犬——さやぴーが一番だよ〜」
マジで何言ってんだこの酔っ払い。何の話かさっぱりだぞ。
……いや、嫁とか言ってたよな今。それに柴犬が一番ってたとえは、どっかで聞いたことがあるような……。
「……てか、杏香姉。今、沙弥を柴犬にたとえなかったか?」
多分、失礼に当たるよな。沙弥が柴犬って、全然ぴんとこないし。
「あ〜、さやぴーはどっちかって言うと、チワワかポメラニアンだねぇ〜」
「ならやっぱ、トイプードルっていうのは……」
「あの美ギャルちゃん! すらっとしてボンッ、キュッ、ボンッ! なゴージャスボディだからね〜。ま、意外とカップはCくらいかもだけど〜」
この人、時々言い回しが古いんだよな。とても二十歳の若者には思えないときがある。
でも綾崎がCカップというのは妥当な気がする。身体が細いからバストが強調して見えるだけで、案外そこまで大きくはないだろうというのが俺の見立てである。
というか、杏香姉の話を遡ると、俺が綾崎に夢中になっているせいで沙弥を蔑ろにしているって意味に聞こえるんだが! 考えすぎなのかね!
「心外だな。俺が夢中になっているのは同人誌制作で、そりゃあ綾崎は尊敬している人でもあったわけだけど、それとこれとは別っていうかだな……」
「ど〜じんしぃ〜?」
「——ッ!」
まずった。ついペラペラと話し過ぎた。
杏香姉を見遣ると、未だにテレビの方を向いたままだった。
よかった、酔っ払いが相手で。綾崎のことは誰にも言うなと言われているし、一応、親族相手だろうと守秘義務は守らないとな。
「ごちそうさまでした、と」
そうして食べ終えてから、サラダの容器に水を浸して部屋に戻ろうとしたところで——
「ま、人の好意を素直に受け取るのがイイ男、だからねっ」
ニマ〜ッとした笑みを浮かべてそう言った杏香姉の顔は、それほど赤くは染まっていなかった。
ということは……
「は、ははは、さっきのはここだけの話なっ」
「わかってま〜す。今日のことはぁ、お姉ちゃんとシンちゃんだけのナイショだよ〜」
うわ、うぜぇ。この女子大生、男だったらマジで一発ぶん殴ってるレベルだ……。
まあ保護者代理としては優秀なんだろうな、こんなお節介な助言をくださるなんて。
「へいへい、そりゃどーも」
俺は部屋に戻るなり、LINEでメッセージを送信した。
『サラダさんきゅな、まあまあ美味かった』——と。