ギードは、ある男の部屋の前にいた。
ディン共和国のスパイチーム『焔』において、その男の担当はギードであることが暗黙の了解だった。奇人ばかりの『焔』ではあるが、その男のマイペースさは群を抜いており、比較的常識的感性をもったギードに連絡が一任されていた。
それも当然と言えば当然だけどな、とため息をつく。
なにせ男を拾ったのは自分なのだ。
孤児であった幼い少年を世話して、一流のスパイに育て上げた。
まさか、ここまで手を焼く存在に育つとは思ってもみなかったが。
男は、朝から自室に籠っていた。朝食も、昼食も摂らず、トイレにも行かず、自室から一歩も外に出ていない。
一体なにやってんだか、と呆れて、扉をノックする。五秒経っても返事はない。それ以上ノックせず開けた。
その部屋の変わり様を見て驚愕する。
白い壁紙と赤い絨毯の美しい寝室——それが、真紅に染まっていた。
鮮血のようなものが部屋中に飛び散っており、ベッドや洋服棚を汚していた。まるで殺人現場だ。人の死には慣れているギードでさえ悲鳴をあげそうになる。陽炎パレス——そう名がついた美しい洋館の一室が、凄惨な有様となっていた。
そんな部屋の中央には巨大なキャンバスが置かれ、その前に男が立っていた。
男はうっとりした顔で絵を見つめる。
「極上だ——」
叩きつけるように絵筆を振るい、キャンバスと絨毯、それからギードの顔に絵の具を飛ばす。すると、何かに気づいたように、ん、と振り返った。
「……師匠、何の用だ?」
「お前こそどうしたっ?」
「絵を描く気分になったんだ。師匠、今から足りない絵の具を買ってきてくれないか?」
「……ナチュラルに師匠をコキ使うよな、お前」
シリアスな話題を持ってきたのにボケんじゃねぇ、と悪態をつく。
ボケのつもりではなく、この男ならば自然体かもしれないが。
「特別任務だ。お前には明日からチームから離れて、単独で動いてもらう」
「特別……?」
任務の詳細を説明する。説明が進むにつれて、男の顔つきも変わった。それは並みのスパイならば怒り出すほど過酷な命令だ。実力者のギードでさえ拒否する。犬死にしろ、と宣告されているに等しい。
「お前でも成功率は一割未満だろう。失敗すれば死ぬ。やれるか?」
「引き受けるよ——師匠の命令ならば」
即答。
拒否も覚悟していたギードは唖然とした。
男は再び絵筆をはしらせて、キャンバスに紅色を塗りたくる。「今日はこのくらいでいいか」と頷き、ギードに視線を合わせた。
「師匠、もしもの時のために、遺言を残しておくよ。今の僕がいるのは全てアナタのおかげだ。孤児だった僕を拾い、スパイに育て上げてくれた。採用してくれたボスにも感謝は尽きないし、『焔』のメンバーは愛していると言っても過言はでない。僕は家族を知らないが、皆を家族のように思っている。そして、その家族にも友人、恋人、親族がいて、その集まりが国なのならば、僕はやはりこの国を愛している」
「逃げたいとは思わないのか……?」
「微塵もないな」
息をつく。ここで男が断ってくれれば、どれだけ気が楽だったか。
「なぁ、バカ弟子、この任務が終わったら、ある称号を名乗れよ」
「スパイが名乗りを上げてどうする」
珍しくまともな発言だったが、あえて告げる。
「『世界最強のスパイ』」
まるで子供みたいなネーミングだった。
ただ、相手は思いの外気に入ったらしい。
「極上だ——」
すぐに出発するらしい。男は絵筆を片付けると、スーツ姿に着替え直して武器を服に仕込んでいく。絞殺用のワイヤーを隠した腕時計、ボイスレコーダー機能付きの万年筆、服の襟にはカミソリを隠し、袖の部分には長い針を潜ませる。
五分と経たずに支度を済ませる男に、ギードは言葉をかけた。
「いってこい」
男は目を丸くした。普段かけない言葉に戸惑ったらしい。
「——いってきます」
やや時間を空けて、男はどこか恥ずかしそうに微笑を湛えた。
世界は痛みに満ちていた——。
歴史上最大規模の戦争が世界にもたらしたのは、理不尽な苦痛、そして、生々しい傷跡だった。世界大戦と呼ばれる戦争はガルガド帝国の降伏で終結したが、戦勝国側も死傷者が一千万人を超えて、実質、勝者のいない戦争となった。
死傷者の多くは民間人。それも世界大戦の特徴だった。
戦争はもはや剣や弓の時代ではない。
科学技術が進歩した時代、兵器一つ一つの殺傷力は旧時代と格が違う。短機関銃、毒ガス、戦闘機、対人地雷——ありていに言えば、人を殺し過ぎる。特にお互いが理性を失う大戦終盤は、見境のない虐殺が各地で行われた。狙われたのは力のない女子供だった。
終戦後、惨状を目の当たりにした世界中の政治家が認識する。
戦争はコスパが悪い——と。
つまるところ、戦争は外交手段の一つに過ぎない。
他に代替する手段があれば別にいい。
石油の採掘権を得るために、戦車を持ち出さなくとも、敵国の政治家をたぶらかし条約を締結する方が効率的だ。手段はいくらでもある。家族を人質に取り脅迫しても、金と亡命を約束して買収しても、女を抱かせて手駒にしてもいい。目障りな政治家をスキャンダルで失脚させてしまえばいい。暗殺してしまえばいい。数百万人の自国民を失う戦争よりも、ずっと効率がいい。
平和など表向きでいい。
講和条約が世界各地で結ばれて、平和を信条とした国際機関が樹立。初会議では、世界各国の首脳が立ち並び、にこやかな笑みを共に握手をしてみせた。
かくして「光の戦争」は終焉を迎える。
現代で繰り広げられるのは、スパイたちの情報戦——「影の戦争」だった。
ディン共和国は、世界大戦の被害国であった。
本来戦争に無関係の田舎国だった。産業革命時にも工業化の波に取り残されて、上質な農作物を生産し続けた。植民地支配を広げる国力もなく、侵略されるほど資源もない。しかし、当時、世界支配を進めるガルガド帝国に隣接する国であり、一方的な侵略を受けて多数の死傷者を出した。
大戦終了後、これまでの平和主義から国策は逸れなかったが、「影の戦争」を勝ち抜くためにスパイ教育に力を入れ始める。
十年の年月をかけ、国の各地にスパイの養成機関を設立した。
国中に何百人といるスカウトが、見込みのある子供を養成学校に通わせる。そして、容赦なくふるいにかける。未熟なスパイは邪悪と言わんばかりに。養成学校は四半期ごとに厳しい試験を設けて、卒業者の数を絞る。過酷な卒業試験は死者も出すが——。
「えっ、わたし、卒業っ? 試験も受けていないのに? やったああああぁ!」
この日、例外が生まれていた。
養成学校の校長は自室に呼び出した少女を見て、大きなため息をついた。
「仮卒業ですよ。卒業ではありません」
「でも、一人前のスパイとして働くんですよね? 落第寸前のわたしが!」
「それは、まぁ、そうですがね……」
本当にどうしてこの少女が、と校長は手元の書類を見た。
仮名はリリィ、十七歳。筆記試験では好成績を誇り、ある特異体質の持ち主。しかし、実戦試験では壊滅的な評価だ。大きなミスを繰り返し、落第ギリギリに居座り続けている。担当教官から、次の試験で退学だろう、と太鼓判を押されている。
外見が評価されたのかしら、と校長はリリィを改めて観察する。艶やかな銀髪と愛らしい童顔、服の下でも強く主張する豊満なバスト。十七歳は若すぎるが、その年齢を好む男も多い。男を惹きつけ惑わす存在。つまり、ハニートラップ要員。
「……アナタ、色仕掛けは得意?」
「えっ、ふぇ、ふぇえええっ? 無理です! わたし、えっちなやつは苦手なんですよ!」
「女スパイとして致命的ね……」
「そんな無茶を言われても……えっ、もしかして、私の任務って……」
「違うわ」
「なんだぁ、よかったですぅ」リリィは安心したように胸を撫で下ろす。
校長は再び息をついた。
相手はこの惨状を知って、リリィを選んだのだろうか。
「違う、というのは、まだ詳細を聞いていない、という意味よ」校長はリリィに睨みを効かせる。「『不可能任務』って分かる?」
リリィは口元に手を当てる。
「えぇと、同胞が一度、失敗した任務の通称でしたっけ?」
「そう」校長は指をパチンと鳴らす。「スパイや軍人が失敗した任務、あるいは、その難易度から達成不可能と判断された任務——それが『不可能任務』です」
「はぁ……」
「そして、その『不可能任務』を専門に行うチームが創設されたそうよ」
えっ、とリリィが目を丸くした。
その驚愕に同意する意味を込めて、校長は頷いた。彼女もまた、正気の沙汰とは思えなかった。
一度失敗した任務は再挑戦をする場合、その難易度は跳ね上がる。ターゲットから警戒され、一度使用した手段は使えない。一度目の失敗で情報も外部に漏れている。
不可能任務には手を出すな——それが、この世界の常識だ。
それを専門とするチームなんて前代未聞だ。
「名は『灯』——それが、アナタが配属されるチームです」
リリィの顔が強張るのが見て取れた。
校長は、声のトーンを落として語り掛ける。
「あえて厳しい言い方をします。アナタには、確かに可能性がある。類まれな美貌、その特異体質、授業を真摯に取り組む態度。将来性はあるでしょう」
「うふふ、褒められるのは久しぶりです」
「逆に言えば、それしか長所はない」
「…………」
「落第寸前の落ちこぼれ——この学校が下した評価です。意地悪でも怠慢でもなく、優秀な教員が判断した結果が、『アナタはスパイの能力がない』。超難度の任務をこなせるとは思えません。不可能任務は一流のスパイでも成功率一割未満、死亡率は九割を超えると言われています」
「死亡率九割……」
「リリィ、アナタはそれでも『灯』に行きますか?」
懸念は当然だ。実際、彼女はミスばかり犯している。
一か月前の試験では、彼女はターゲットの目の前で銃を落としてしまった。
四か月前の試験では、道に迷子になり、制限時間ギリギリにクリアした。
七か月前の試験では、盗み出した暗号コードをトイレに流してしまった。
試験にスレスレで合格している存在だ。
校長は罪悪感さえ抱く。
自分は、ただ少女を死に追い込んでいるだけではないか、と。
「……校長先生は、善意で言っているんですよね」
リリィは視線を落とした。
「あはは、だからこそ胸が痛いです。ぎゅって押し潰されそうです……」
「教え子を殺したくありません」
もちろん、校長に決定権はない。リリィの任命は、養成機関の長より上位の機関が決断した。
ただ、本人が拒絶するならば、一考の余地はあったが——。
「わたしは『灯』に行きます。逃げるなんて真似は絶対にしません」
少女は、胸を張って告げる。
「コードネーム『花園』、決死の覚悟で参ります!」
その瞳には決意の色が宿っている。
その覚悟があるなら大丈夫でしょう、と校長は納得した。
「なーんて、です。決死の覚悟なんてありませんよぅ♪」
と、リリィは舌を出す。
寮の焼却炉で、彼女はご機嫌に独り言を繰り返した。次々と炉に私物を投げ込み、彼女が在籍した痕跡を消す。養成学校のある山に煤煙が立ち上っていく様を眺めつつ、彼女は、えへん、と一人胸を張った。
「簡単な推理です。不可能任務を専門とする超人チーム。エリートが集まっているに違いありません。平々凡々なチームよりむしろ安全。大出世! いやぁ、隠れていても才能は見つかっちゃうもんですなぁ。むふ、やっぱり分かる人には分かっちゃうんですよ」
生徒には周知な事実であるが、この少女、なかなかな性格の持ち主だった。
校長の憂慮を気に留めず、ただ仮卒業の事実に浮かれて不用品を処分する。
エリートチームの一員になれる!
しかも、たくさんお給料をもらえる!
そのメリットで、リリィの気持ちは有頂天に昇り「いえーい! 青春を燃えてけ!」と景気よくノートやテスト用紙を燃やす。八年間、暮らし続けた寮室にはゴミが積み重なっていた。
とうとうゴミ箱が空になろうとした時、ふと、ある書類が目に入った。
『生徒数と将来性を加味して、今回は合格とします』
ゴミ箱の奥底に押し込んだ通知文——。
無言で破き、焼却炉に投げ入れる。
同じものを、十枚連続で。
将来性——リリィが言われ続けた言葉だ。自然と備わった才能で、リリィはこの学校に残り続けた。けれど、この才能はいつ開花するのだろう?
何年凡人を耐えればいいだろう?
何度、蔑みに堪えればいいだろう?
「それでも、やってやりますよ……」
この学校で味わった苦渋を全て焼き払う。
「わたしはエリート集団で才能を開花させるのです。さようなら、わたしの母校!」
寮室の清掃を済ませて、養成学校を発つ。残念ながら、同輩に別れを告げる時間はなかった。おそらく同輩は、空っぽの部屋を見てこう思うに違いない。あぁ愚鈍がとうとう退学になったんだ、と。
慣れないバスと汽車の乗り継ぎをして、一日——。
ある港町に辿り着いた。ディン共和国では、三番目に人口の大きい都市。首都から離れておらず、海外と繋がる玄関口として栄えた街だ。駅を降りると、煉瓦造りの建物がぎっしりと並び、思わず息が漏れた。十年前は帝国に占領されていた街とは思えない。
花や新聞の押し売りをかわして、リリィは指定された建物に辿り着く。
ホワイトカラーの都市労働者が行き交う通りに、時計屋と塗装屋に挟まれた二階建ての建物があった。看板には『ガーマス宗教学校』。来客口では受付らしき男がタバコをふかしている。勇気を出して入り「素敵いっぱいの転校希望者です」と伝えると、男は一瞬目を細めたあと「奥に」と親指で後方を示した。
おぉスパイっぽいですよ、とリリィは感心する。
リリィは名目上、架空の宗教学校の生徒を名乗らされていた。身分証も、制服も既に受け取っている。
主人が示した部屋は物置だった。大量の木箱が積まれている。それをずらすと、地下通路に繋がる階段がある。明かりに乏しい地下通路をしばらく歩くと、視界が開けた。
巨大な洋館があった。
貴族が暮らす宮殿と呼べそうな館だ。
あんぐりと口を開けてしまう。
街のどこにこんなスペースがあったのか。建物同士が城壁のように並んでおり、視界を覆っている。きっと街に長年暮らす人でさえ、この洋館の存在を知らないだろう。
(ここに『灯』の皆さんが……)リリィは唾をのんだ。(さすが、不可能任務をこなすエリートスパイの本拠地、です)
どんな天才が待ち受けているのか。
恐れる気持ちもあるが、できれば優秀であってほしい。でなくては、誰が自分の才能を目覚めさせてくれるのか。
高鳴る鼓動をおさえて、リリィは洋館の扉を開けた。
「コードネーム『花園』、到着しましたっ!」
スパイにあるまじき、堂々と名乗りをあげる。
さぁ、出てきなさい。エリートたち。
期待と緊張を込めた眼差しで前を向く。
「あれ……?」
首をかしげる。
洋館の玄関先——そこにいたのは、リリィと年の変わらない六人の少女。
彼女たちは大きな旅行カバンを抱えて、来訪者に視線を寄越していた。どうやら彼女たちも到着したばかりらしい。リリィと同じく配られた学生服を身に着けている。
「おい、お前」
その一人、白髪の少女が睨みをきかせてくる。
ショートカットの凛然とした雰囲気を纏う少女だ。目元がつり上がっており、こちらを刺すような鋭い視線を向けてくる。引き締まった身体つきも相まって、中々に威圧的だった。
「養成機関での成績を教えろ」
「え……えぇと、『灯』の皆さんはどこですか?」
「まず、質問に答えろ。くだらん嘘つくなよ」
え、なにこの突然の尋問は。面接?
凄みがきいた視線に反射的に口走ってしまう。
「しょ、正直に話すと落ちこぼれで——」
その答えを遮って、不気味な音が玄関に響いた。
時計の鐘。
正面に掛けられた振り子時計が、館中に響く音を響かせた。
時刻を見れば、六時。
事前に伝えられた集合時刻が訪れた。
「——極上だ」
七人の少女が一斉に顔を上げる。
玄関正面の大階段の上には、いつの間にか、スーツ姿の男性が出現した。
美しい男性だった。肩近くまで伸びた髪と色白の肌のせいで一瞬女性に見えたが、無駄な肉を削ぎ落としたように細い長身を見て男性だとようやく判断できた。男の美しさが一切の無駄を排除して成り立ったものであると気づくと、凍り付くような無表情がより一層不気味に感じられた。髪さえ整えれば、街に溶け込んで消えていきそうだ。
ただ、なぜかスーツは真っ赤に汚れている。返り血のような赤さで。
「ようこそ、陽炎パレスへ。僕は『灯』のボス、クラウスだ」
陽炎パレス——それがこの建物の名前らしい。
男は階段の上から説明を続ける。
「歓迎する。よく来たな。僕とお前たち七名が『灯』のメンバー全員だ。このメンバーで不可能任務に挑む」
「へ?」リリィが尋ね返す。
「初任務は一か月後。それまで僕がお前たちを鍛えあげる予定だが……そうだな、今日は長旅で疲れただろう。訓練は明日にして、仲間と親睦を深めておくといい」
クラウスは身を翻して館の奥に消えていった。
唖然とした。
あの男は今なんて?
『灯』のメンバーは、一人の男とスパイ見習いのみ?
不可能能任務まで一か月を切っている?
「あの男、何が目的なんだよ」
先ほどの凛然とした、白髪の少女が呟いた。
「あたしらみたいな問題児ばかり集めて、不可能任務なんて」
追い打ちをかける情報に、リリィが目を見開く。
白髪の少女は重々しく頷いた。
「あぁ、そうさ。七人全員——養成学校の落ちこぼれだ」
面を食らって、しばらく声が出なかった
年端も行かない七人の少女。
そして、あの謎めいた男だけで挑むらしい。
死亡率九割の超難度任務に——。
クラウスが何も説明せず去ったので、少女たちは館を勝手に探索した。
陽炎パレスの内装は見るからに豪勢だった。
建物内には赤い絨毯が敷き詰められて、広間には革張りのソファが並んでいる。キッチンには食器棚全面に高級食器が並べられて、最新式のガス式コンロが設置されていた。地下には大浴場や遊戯室もある。
最後に大広間に向かうと、メッセージを見つける。
壁には大きな黒板があり、文字が記されてあった。女性が書いたような丸っこい文字。クラウスが書いた物とは思えない。
『陽炎パレス・共同生活のルール』
そこには、ここに暮らすための規則が細かく記されていた。
「えっ、今日からここに暮らしていいんですかっ?」
リリィが歓声を上げた。
おぉ、と他の少女も呻いた。
黒板には、自由に使用してよい部屋や館を出入りする方法が書かれている。なるほどなるほど、と読み進めていくが、最後の二つで首を傾げた。この二つだけ汚い字で記されている。
『ルール26 七人で協力して生活すること』
『ルール27 外出時に本気を出すこと』
少女たちの頭に疑問符が浮かんだ。
前者はやけに幼稚じみているし、後者は意味不明だ。
全員で頭を捻らせるが、答えが浮かばない。
その時、白髪の少女がテーブルに置かれた封筒を発見した。
「お、金もあんじゃん。とりあえず懇親会でも開こうぜ?」
彼女が見つけた封筒の中には、十分すぎる生活資金があった。
せっかくなので、七人の少女は全員で晩御飯の支度を始める。全員で食材を買いに行き、一人一品ずつ用意していく。少女たちが驚いたことに、洋館の調理品はどれも一級品だった。ただの新品ではなく、使い込まれている。
女スパイとして鍛えられた少女たちは、一通り家事ができる。あっという間に晩御飯が完成した。
料理とリンゴジュースで乾杯し、少女たちはざっくばらんに言葉を交わし合う。
そして、すぐに打ち解けた。
少女の一人が養成学校での過酷さを語れば、別の少女も手を叩いて共感する。話が盛り上がれば、更に別の少女が、自分の学校はもっと大変だった、と自虐を交えて笑い話にする。とにかく会話が途切れず、次へ次へと展開されていく。
みんな落ちこぼれだからでしょうか、とリリィは分析する。
少女の中には成績の低さを認めない者もいたが、各々トラブルを抱えていたのは事実のようだ。
出身の地方も、養成学校も、年齢も、バラバラだったが、自然とウマがあう。
数奇な出会いだけでなく、豪華な洋館にも浮かれていた。養成学校は規律が雁字搦めで、気を抜いて食事ができる環境ではなかった。食事も質素で、大半はクズ野菜と赤身の乏しい肉だけの料理だった。
「養成学校じゃ分からなかったですが」リリィがジュースを飲み込んだ。「スパイって、こんな豪華な暮らしなんですね。イメージと違いました」
「な! 天国みたいな日々が送れそうだな」
白髪の少女が頬を緩める。ちなみに彼女は十七歳で、リリィと同い年と判明した。
すっかり打ち解けた二人は、いえーいとハイタッチを交わす。
だが一方で、冷静に現状を見つめる少女もいた。
「妙っすよ」
茶髪のパーマ気味の少女だった。
気弱な顔立ちをしている。歳は十五歳と幼め。顔を俯かせて、ハの字に眉を歪めながら、もじもじと身体の前で指をすり合わせている。獣に怯える小動物を思わせる。目は潤んでおり、今にも泣きそうになっていた。
「この洋館、少し前まで絶対誰かが生活していたっす」
「ん、それがどうした? 歴史あって良いんじゃね?」
「その入居者はどこに消えたんすか……? やっぱりこのチーム変っすよ。自分みたいな劣等生だけで、不可能任務だなんて」
「んー? 確かに気になるけど、明日教えてくれるんだろ」
白髪の少女がチキンを頬張る。それで話は終わりというように。
しかし茶髪の少女は納得しなかったようだ。しゅんとして目を伏せる。
「確かに、想像とはちょっと違いましたけどね」
フォローするようにリリィが言った。
他の少女が、一斉に彼女へ視線を向ける。
「でも、これはこれで最高ですよ」
リリィは天井にぶらさがるシャンデリアを見つめて、甘い口調で言った。
「ほら、考えてもみてください。こんな豪邸で、女の子たちで三食ご飯食べて、訓練して任務に駆け回って、お風呂入って、ご飯食べて、ボードゲームして、たまには夜遊びに繰り出して、そして、スパイとして大活躍できたら——それって理想ですよね」
「飯四回食ってんぞ」白髪の少女がツッコミを入れた。
「まぁ、多い分には」
「願望自体は悪かねぇけどな」
リリィの願望に、反対意見は出なかった。
もしかしたら、全員同じ想いかもしれない。
「その素敵な野望を叶える方法は決まっているわ」
また、別の少女の一人が口を挟んだ。
ストレートヘアの黒髪の少女だった。少女たちの中で最年長の十八歳。人目を惹き付けるような抜群のプロポーションと眩いばかりに美しい顔立ち。その美少女ぶりを更に引き立てるような優艶な笑みを浮かべている。
「任務を達成してしまえばいいのよ、このみんなで!」
なんとなく委員長っぽい彼女が言うと場がまとまった。
自然とそれが解散の合図となる。
片付け当番をじゃんけんで決めて、少女たちは割り振った自室に向かった。陽炎パレスには十分に部屋があり、少女たちは個室を手に入れた。
良い仲間に巡り合えましたね、とリリィが満足して、自室に向かう。その直前で視界に、浮かない顔をした少女が映った。
さきほど不安を訴えた気弱な茶髪の少女だった。
「……やっぱり、まだ不安だったりします?」
そう微笑みかけると、彼女は小さく頷いた。
「情けないけど、そうっす……」か細い声だった。顔の筋肉が強張っている。「あの、ちなみにリリィさんは逃げる当てとかあるっすか?」
「逃げる?」
「不可能任務に挑む前に、逃げるんすよ」
「うーん、残念ですが、わたしに身寄りはないです。家族もいないですもん」
「うぅ……学校には卒業を言い渡されているし……八方塞がりっすね……」
どうやら彼女も身寄りがないらしい。
スパイ養成学校の生徒は、事故や不幸で両親を亡くしたケースが多い。
そんな事情でもなければ過酷な工作員を志す者が少ないだろう。
「心配しすぎですよ」
リリィは仲間を励まそうと満面の笑顔を作った。
「そもそもですね、クラウスさんだって、勝算なく落ちこぼれを集める理由がないんです。だって部下がザコだったら危険なのは自分じゃないですか。明日から完璧な授業で、わたしたちを鍛え上げる気なんですよ」
「ふ、不可能任務が達成できるほど……?」
「もちろん! あのオーラばりばりの人が凄い授業をして、わたしたちの秘めたる才能を目覚めさせてくれるんですって」
根拠のない励ましではなかった。
彼には、養成機関の教官を遥かに凌ぐ威圧感があった。おそらく育成の天才なのだろう。落ちこぼれを集めて不可能任務に挑む以上、相応の自信があるはずだ。
「……それもそうっすね」
茶髪の少女の表情が和らいだ。
「ありがとうございました、気分が落ち着きました。ぐっすり眠れそうっす」
「どういたしまして。では明日からの訓練に備えて、よくおやすみです!」
リリィは小さく手を振った。
もちろん不安はある。現状の自分たちでは不可能任務を達成できない。任務の詳細こそ不明だが、落第寸前の少女が死亡率九割を乗り越えられるはずがない。
だからこそ、クラウスがこの状況を打開してくれる——そう信じ切っていた。
陽炎パレスに訪れて、二日目。
少女たちが大広間に待機していると、クラウスが現れた。昨日の赤く汚れた服ではなく、清潔なパンツルックス。本人が整った容姿なので、リリィは一瞬見惚れてしまった。
「おはようございます、ボス」と高鳴る心を誤魔化すように挨拶する。
「その呼び名は虫唾がはしるな」クラウスは眉をひそめた。「ボスはやめてくれ。先生、もしくは、クラウスだ」
「はぁ……じゃあ、先生って呼びます」
「構わない。さっそく『灯』の会議を始めようか」
大広間には、コの字形に置かれたソファがあった。そのソファに腰かけてリラックスしていた少女たちは一気に気を引き締める。
クラウスはあくまでマイペースに語りだした。
「改めて、説明しよう。『灯』は、不可能任務の達成を目的とした臨時チームだ。任務は、ガルガド帝国の研究施設潜入ミッション。詳細は後日語るが、施設内のある物を盗み出す。この任務が不可能任務と言われる所以は、先月この任務に関わったスパイチームが失敗だ。全員死亡あるいは行方不明。情報一つ持ち帰っていない」
少女の誰かが「全員死亡……」と呻いた。
クラウスは頷いた。
「僕たちは一月後に発ち、研究施設の潜入任務に入る。猶予は僅かだ」
内容を改めて聞かされて、リリィの足が一瞬冷えた。
一流のスパイでさえ成し遂げられなかった任務を、落ちこぼれの自分たちが挑むのだ。やはり、それだけ聞くと馬鹿げているように思える。
「心配するな」
そんな少女に気がついたのか、クラウスが優しい声をかけてきた。
「僕は、見ての通り世界最強のスパイだ。僕より優秀なスパイは存在しない。僕の授業をこなせば、不可能任務など児戯に等しい」
教育には自信があるようだ。
不安など知らないような堂々とした立ち振る舞いだった。
「いや、『見ての通り』って言われても分からんけど」
白髪の少女が凛然と告げる。クラウスの宣言にも物怖じせず、鋭くツッコミを入れた。
クラウスは深く頷いた。
「なら、僕の授業を受けて決めればいい」
彼は大広間に置かれた木箱から、複数の南京錠を取り出した。それを生徒たちに向かって、一個ずつ投げていく。
「過去、帝国の軍事施設で用いられた鍵だ。潜入時にはこの解錠が必須スキルとなる」
リリィは受け取った南京錠を観察する。
一般に流通しているものよりも、大きく、重たかった。
「この鍵を開けろ。制限時間は一分以内」
いきなりの試験!
リアクションを取る暇もなく、リリィはポケットからピッキングツールを取り出した。だが、カギの内部にツールを差し込むと理解した。ピッキング対策が施された特注品だ。合わせるべきシャーラインがどう乱れているのかさえ分からない。
こんなの一分は無理ですよぅ、とリリィは嘆く。
汗を流しているうちに制限時間が過ぎた。
「終わりだ」
クラウスが言い放つ。
振り返ると、一人だけが成功していた。残りの六人はリリィ同様失敗している。
だが、こんなの出来ないのが普通だ。
養成学校でさえ、これほど複雑な機構の南京錠を見たことがない。
クラウスは開かなかった南京錠を回収した。
「成功は一人か。気にするな。想定の範囲内だ」
「くっ」白髪の少女が顔を赤くする。「そう言うアンタはできるのかよっ」
「疑うなら見ておけ」
次の瞬間、クラウスは六つの南京錠を上に放り投げた。
「鍵はこのように——良い具合に開けろ」
後の事は、リリィは視認できなかった。
クラウスが二、三度、腕を振るった。
だが、それ以上はまったく見えない。理解できたのは、もたされた結果だけだ。
解錠された南京錠が、六個、絨毯に落ちる。
一個一分どころか——六個一秒。
少女のうち誰かが「すご……」と呻いた。
リリィも呆然とした。
養成機関の教官レベルを超然と上回る。これほどのスキルがあれば、どんな施設でも潜入して機密文書を盗み出せる。そう確信できる神業だった。
これが第一線のスパイの実力——。
もはや人外の境地だ。
「言っただろう? 僕より優秀なスパイは存在しない、と」
その自信が実力に裏打ちされたものと証明される。
リリィの足の震えが止まった。
——信頼できるかも。
「これを見てまだ不安がある者は?」
少女たちは全員首を横に振った。異を唱えるものはいない。少女たちは皆、羨望と期待の眼差しをクラウスに向ける。
一秒でも早く授業を受けたい、とその表情が語っていた。
やっぱりこの人が自分を変えてくれるんですね、とリリィも目を見張る。
生徒から羨望の眼差しを受けながら、クラウスは悠然と口を開いた。
「さて、次の講義だが——」
「え?」
「ん?」
妙な間があった。
クラウスが不思議そうに首を傾げ、リリィも「あれ?」と頭をひねった。
気のせいでしょうか。今、この先生おかしなことを口走ったような……。
間違いかなと感じて、リリィは頭を下げた。
「あ、すみません。先生、授業を止めてしまって」
「いや、疑問があるなら言うといい」
「大丈夫です! 解説を続けてください! わたし、それが早く聞きたくて——」
「終わりだぞ」
「へ……?」
「ピッキングツールを良い具合に使えば開く。お前たちは悪い具合に使うから開かない。鍵開けの解説は、以上だ」
「「「「「「「…………………………………………」」」」」」」
少女全員が重たい沈黙を共有した。
視線をぶつけ合う。やはり全員、同じ気持ちのようだ。
この男、もしかして——。
クラウスも様子がおかしいと察したらしい。
不思議そうな面持ちで見つめ返す。
「……まさか、理解できないのか?」
まさか、はこっちのセリフです。
リリィはそう気持ちを込めた目線をぶつける。
クラウスは腕を組み、数秒黙り込んだあと、口を開いた。
「……大サービスだ。今後の授業予定を教えよう。交渉『美しく語れ』編と、戦闘『とにかく倒せ』編、変装『割となんとかなる』編だが、ついていけそうか?」
「無理です」
「本当か?」
「マジです」
「『美しく語れ』を『蝶のように語れ』と言い換えても?」
「余計、混乱しました」
「なるほど、極上だ」
クラウスは深く頷き、それから、ふぅっと息を吐いた。
「初めて自覚したよ——僕は授業が下手らしい」
さらっと、とんでもないことを抜かして、彼は大広間を歩き出した。開いた口が塞がらない少女の前を通り過ぎ、広間の扉まで辿り着くと、
「後は、自習だ」
と言い残して去っていった。
静寂。
少女たちはしばらく無言でいたが、事態を察し、もう一度顔を合わせ、互いに頷き合い、一斉に立ち上がり、
「「「「「「「ちょっと待てえええええええええぇ!」」」」」」」
と叫んだ。
大広間は阿鼻叫喚の有様だった。
「一体わたしは何を見させられたんですかぁ!」「笑い事じゃないっすよ!」「ずっと気になってんだけど、一体なにがどう『極上』なんだよっ!」「アレは相当ひどいわね……」
少女たちが口々に喚き散らすのも無理もなかった。
希望がなくなった。
落ちこぼれが不可能任務を達成する方法が消えた。
「これで、どうやって任務に挑めばいいんすか!」
茶髪の少女が普段より一層泣きそうな顔をした。
リリィも唇を震わせる。ようやく自分たちの置かれた状況を飲み込めてきた。
『灯』のボス——あの男は凄まじいポンコツだ。
「さ、最悪、わたしたちだけで訓練して、相応の実力を身に着ければ……」
「でも、問題は訓練だけはないわよ」黒髪の少女は顔に指をあてた。大人っぽい優艶な仕草。「あの人は教官兼ボス。つまり作戦の指揮も彼が担うのよね?」
「えぇと、つまり、なんです?」
「まともに指示が出せるのかしら? 『裏口から良い具合に潜入しろ』『モグラのように探れ』という命令が来るかもしれないわ」
あり得そうだ。
というか間違いなくそうだ。
リリィは、自分の顔が青白くなっていくのがわかった。
「やってられるかあああああああああぁ!」
未曾有の危機に白髪の少女が叫ぶ。
堰を切ったように他の少女たちもめいめいに主張を始めた。
天国から地獄へ急転直下。
かくして、新スパイチーム『灯』は始動一時間足らずで崩壊した。
リリィは食材を抱えて、雑踏を歩いていた。
買い物に出たはいいが、足に力が入らない。重い足取りで陽炎パレスに戻る。途中何度もジャガイモを零しそうになって、深いため息をつく。
(どうして、こんな目に……?)
結局、クラウスは部屋に籠ったきり出てこない。
仕方なく少女だけで鍵開けの訓練を行ったが、そんなものは養成学校で散々やってきた。急激な成長は見込めない。
独学でなんとかなるなら、自分たちは落ちこぼれていない。
一か月後に迫った不可能任務を達成できるわけがない。
(まったく、一体どこのどいつですか! 先生が完璧な授業をしてくれるって言ったお馬鹿さんは! このままじゃ才能を開花させるどころか、死んじゃいますよっ!)
心中で悪態をつきながら迫りくる現実に震える。
今振り返ると、養成学校の校長はこの展開を危惧していたのか。
——本当に逃げてしまうか?
仲間が語った考えが頭を過ぎる。
(でも、逃げる先なんてないですし……それに——)
自分一人が逃げたら仲間たちはどうなる?
『ま、願望自体は悪かねぇけどな』と凛然と頷いた白髪の少女。
『任務を達成してしまえばいいのよ、みんなで』と優艶に励ました黒髪の少女。
『気分が落ち着きました。ぐっすり眠れそうっす』と気弱な笑みを見せた茶髪の少女。
彼女らと過ごした期間は、たった一晩だ。
けれどもリリィと変わらない年齢で、リリィと同じ境遇を過ごしてきた少女だ。そんな仲間を見殺しにして、自分だけが逃げる……?
(けど…………わたしにできることって……)
その時、頭にアイデアがよぎる。
——唯一の突破口。
ありえない、と反射的に否定する。
しかし、一度頭に浮かんだ計画はそう簡単に頭から消えない。時間が経つにつれて、他に方法はないように思えてくる。
その時だった。
人混みから老女の声が聞こえてきた。「強盗よっ!」
反射的にリリィが振り向く。
大男がカバンを抱えて、雑踏を駆けてきた。道行く無数の人を押し分けて、大男は逃走を図っている。しかも——リリィに向かって。
「邪魔だ! ガキッ!」強盗はリリィを突き飛ばしてきた。
丸木のような太い腕に押されて、「きゃぁっ」とリリィは道端に転がる。
その間に、強盗は走り去っていった。
「あいたたた、です……」
リリィは尻を擦って、転がったジャガイモをかき集めた。一個一個数えて、息を吹きかけ泥を払っていると、品のよさそうな老女が近寄ってきた。
どうやら彼女が強盗の被害者らしい。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい……?」
「ん? あ、はい、大丈夫です」
老女が弱弱しく眉を曲げた。
「お互い不幸だったねぇ。まぁ、命があるだけでも良しだねぇ」
「ん……それもそうですね」リリィは笑顔で返した。「命があるだけマシですね」
「そうそう」
「命があれば、美味しいごはんにありつけますもん!」
「お嬢ちゃん、ポジティブだねぇ」
「まったく! こっちは本気の本気で悩んでいるのに、くだらない邪魔してきたんですもん。感謝してほしいですよ——まだ生きていられるなんて」
老女が顔をしかめた。
「ん? 誰のことを言っているんだい?」
「え、そんなの決まっているじゃないですか」
リリィは薄く微笑んで、前方を指で示した。
「——強盗さん」
その指の先では——大男が倒れていた。
老女には、何が起きたのか理解できなかったようだ。
先ほどまで駆けまわっていた男が、泡を吹いて失神している。
たった一瞬で。
「突発的な持病ですね、きっと」
リリィは大男の元に近づくと、こっそり針を引き抜いた。カバンを奪い、髪を結っていたリボンで男を縛り上げる。後はやってきた警察が処理してくれる。
意識のない大男の姿を見て、リリィは小さく頷く。
(そうですよね……わたしたちはもうスパイですもん)
唖然とする老女にカバンを手渡して、にこやかに尋ねる。
「ねぇ、おばあちゃん、この街の観光名所ってどこですか?」
やるしかない。
いくら敵が強くとも生き延びる手段は一つだけ。
尻込みすれば無為に時間を消費するだけだ。
少女は、人知れず静かに微笑む。
(他に手段がないなら——ターゲットを仕留めるだけ)
内心で呟いて。
リリィは、そっと始動する。
(コードネーム『花園』——咲き狂う時間です)
クラウスの私室は、陽炎パレス二階の端にあった。
陽炎パレスには際立って豪華な部屋が複数あったが、なぜかクラウスはそれらを用いなかった。部屋の配置から察するに、彼の自室はさほど広くないはずだが。
もしかしたら特別な仕掛けでもあるのでしょうか、と勝手な想像をして、リリィは部屋をノックする。
が、返事はない。
何度も何度も叩くが一向に返答がない。
イライラして扉を開けると、クラウスは部屋にいた。ノックを無視する主義なのか。
殺人現場のような部屋だった。
紅色の液体が部屋の全面に飛び散っている。リリィは悲鳴をあげた。油の匂いを嗅ぎ、それが大量の絵の具と分かると胸を撫で下ろした。
クラウスはキャンバスの前で椅子に腰かけ、腕組みをしている。
「用件はなんだ?」彼が顔をあげた。「僕は見ての通りだ」
「なにが?」
「新しい授業法の模索中だ。用があるなら後にしてくれ」
絵を描いているようにしか見えない。
だが、彼の足元には大量の本が積まれていた。どれもタイトルには『教育学』が入っている。本気で試行錯誤しているらしい。しかも、かなり真面目に。
じゃあ油彩画には何の意味があるのかと気になって、絵を覗き込む。全面、紅の一色で塗られている。荒々しい線が描き連なっている抽象画だ。
キャンバスの右下には『家族』と書かれていた。
タイトルなのか? この絵の具のゴミ捨て場みたいな絵が『家族』?
この男の思考回路は分からない。
「先生、新しい授業法は思いつきそうですか?」
「まったく」
即答。
リリィは、肩を落とす。やはりこの男はポンコツか。
「安心しろ。一週間以内に結論を出す。それまで自主鍛錬に勤しんでほしい」
一週間も待てるわけがない。任務の日は一か月と迫っているのに。
唾を飲み込み、提案した。
「先生、一個だけ提案があります」
「なんだ?」
「今から、お出かけしませんか?」
クラウスの眉間に皺が寄った。
「なぜだ……?」
「気分転換です」
リリィは頷いてみせる。
「人間、狭い部屋にいると、考えも狭くなってしまうものです。そんなときは、レッツお散歩! 根をつめるだけじゃなく、リフレッシュも大事ですよ」
「散歩なら先週した」
「あ、なら大丈夫ですね……とはならないでしょう!」
「ノリが良いな」
クラウスは首を横に振った。
「気遣いは嬉しい……が、乗り気になれないな」
「でも、一日部屋にいても解決策が出なかったんでしょう?」
「痛いところを突くじゃないか」
一瞬、クラウスが目を細める。
怒らせたか、と心臓の鼓動が早くなるが、クラウスの表情はそれ以上変わらなかった。笑ったのだろうか。
「行きましょうよ! 名所は街で聞き回ってきましたから」
「そうか、なにがあった?」
「ふふん! たっくさん集めましたよ。たとえば、二千年前の遺跡の出土品があるコトコ博物館、移動遊園地!」
「興が乗らない。他には?」
「他……? えぇと、食料品が集まる『かえで横丁』や、お化けの噂がある海岸、ステンドグラスが綺麗な教会もあるだとか」
クラウスが関心を示さなかったので、リリィはまとまりなく候補を挙げる。
「………………」
それらの提案に対し、クラウスはしばらく無言を続けて、
「——極上だ」
と満足気に腕を組んだ。
「わかった。だが、もう夕方だ。出かけるのは明日にしよう」
窓の外を見れば、確かに空がオレンジ色に染まっていた。
今日中がよかったが仕方がない。無理を言って、乗り気になったクラウスの機嫌を損ねても仕方がない。
「はい! では、明日に!」
リリィはとびっきりの笑顔を向けた。
第一段階クリア。
『かえで横丁』は、名前とは真逆で、カエデが生い茂る山奥ではなく、街のど真ん中にあった。港町なので海外からの嗜好品や輸入品が並ぶ。
規模は、ディン共和国でも有数の大きさらしい。休日は特に多くの商店がひしめいていた。道は屋台も立ち並び、香しい匂いが漂っている。エビとジャガイモの香草焼き、ベーコンとキノコのバターソテー、クルミのケーキとつい目移りしてしまう。
陽炎パレス三日目の昼、リリィはその光景に圧倒されていた。
笑顔の人で溢れていた。子供は棒キャンディーを舐めながら両親の手を引き、カップルはオルゴールを見て頬を緩ませる。老人は懐中時計屋の前で、その細工に惚れ惚れするように頷いている。
盛況な市場の前で、リリィが声をあげた。
「うわあああぁ、こんなにたくさんの人、初めて見ました! 邪魔くさい!」
「………………」
「すみません、後半本音が……」
「その誤りは致命的だがな」隣にいるクラウスがクールに指摘した。「そういえば、他のメンバーはどうした? てっきり何名か一緒だと思ったが」
「誘いましたが、自主鍛錬したい、と断られちゃいました」
嘘だった。本当はこっそり抜け出した。
二人は通りを歩き出した。
プランは、屋台を冷やかして、貝料理が美味しいと評判のレストランに向かう予定だ。
途中、美味しそうな缶詰の屋台があったので購入する。エビやカニの海産物も購入したいところだったが、すぐに陽炎パレスに戻る予定ではないので諦め、メモするだけに留めていく。
次々と屋台を移るリリィに対して、クラウスが声をかけてきた。
「そういえば、お前の出身は僻地だったな。都会はあまり来ないか」
「はい、実習で来たときは大変でしたよ。歩きにくくて、いつも転んだり道に迷ったりしていました。今は、すっかり慣れましたが」
「その割には、はしゃいでいるじゃないか」
「迷い慣れたんです」
「どおりで」
クラウスは小さく頷くと、体の向きを変えた。
「目当てのレストランは、こっちだ」
既に道を間違えていたらしい。
顔を赤くなるのを感じつつ、クラウスの後に続いた。
「先生、質問です」リリィは指を立てた。「駅からここまで来た道順を教えてください」
「……ん? 駅を南西に向かい、郵便局の角を左、葬儀屋の角を右、それから、しばらく道なりに歩いてラジオ屋を左だ」
「教えられるじゃないですか!」
「当たり前だろう? 緊急工事があったため迂回したが、道くらい覚えている」
「え、工事の標識なんてありましたっけ? どうやって気づけたんです?」
「なんとなくだ」
「…………」
なんで肝心な部分を教えられないんですかっ!
もはやこの程度で怒鳴っても仕方ないので、リリィは一旦言葉を飲み込んだ。
「歩行者の数、では……? 行き交う人々の数がいつもと違っていたから、とか」
「あぁ、言われてみれば、そんな方法かもしれないな」
クラウスはあっさり認めた。
隠していた訳ではないようだ。自覚がなかったらしい。
リリィは唸る。
どうしてでしょう? なぜ教えられる内容と教えられない内容があるんです?
と、その時——。
「きゃっ」
と、リリィが足元をつまずかせた。
「ころびっ!」思わず叫ぶ。
石畳のくぼみに気が付けなかった。
身体が浮く感覚と同時に、抱えていた四つの缶詰を離してしまう。
だが、リリィの身体は地面に顎を打ち付ける前に、制止する。
「——大丈夫か?」
顔を向けると、クラウスがリリィの身体を抱き留めていた。クラウスの整った顔が間近にあり、その事実に気がついたあとで、自身のふくよかな胸を駆れの腕に押し付けていることにも気づき、
「はひゃぁっ!」
とリリィは飛び上がった。
身体が一瞬で火照ってしまった。
一方、クラウスは無表情を崩さない。よく見れば、リリィが放り投げた缶詰も全て片手に納めている。リリィを抱き留めるだけでなく、缶詰を一個も落とさなかった。
「や、やっぱり、教える能力はともかく、他の能力はあるんですね、先生……」
照れ隠しに称賛すると、クラウスは「この程度で褒められてもな」と首を横に振る。心外だと言わんばかりだ。
「言っておくが、僕が指導できない原因は判明したぞ」
「そうなんですか?」
その驚きに答えず、クラウスは手にした缶詰を上空に高く放り投げた。缶詰は回転して、リリィの元に落ちてくる。
リリィは、その缶詰を両手で受け止めた。
「いきなり、なんです……?」
「お前は、この缶詰をどうやってキャッチした?」
「え、そんなの、手を器のようにして受け止めて——」
「足の動かし方は?」
「…………」
訊かれても言葉が出てこなかった。
足? 今、わたし、動かしましたか?
落下地点に足をずらした? 受け取る時、僅かに屈んだ? 一瞬重心を左足に動かした気もするが、はっきりと確信は持てない。
聞かれたって言えることなんて——。
「…………なんとなく、動かしました」
「それが僕の感覚だ」
クラウスが吐き捨てる。
「『缶詰をキャッチした』ことは語れるだろう。しかし行動全てを説明できないはずだ」
冗談ですよね、とリリィは呟いた。
けれど、彼の眼差しを見れば真剣と分かった。
つまり感覚が違いすぎるのだ——クラウスと、自分たちでは。
人が、物の握り方をうまく教えられないように。
ベッドから起き上がり方を説明できないように。
シャツの脱ぎ方を語れないように。
クラウスは、解錠の仕方、変装の仕方、戦闘の仕方を教えられないらしい。
いや、それが真実としたら、この男は一体どれだけ——。
リリィは唾を飲み込む。
「だとしたら、指導なんて無理なんじゃ……」
「今必死に頭を働かせている」
その返答は普段通り淡々としていたが、僅かに疲弊の色が滲んでいた。
部屋に積まれた書籍の山を思い出した。彼が怠けていたとは思えない。
実直に、真剣に、誠実に、悩み、それでも打開策を見つけられていない。
「…………」
リリィは一瞬目を閉じる。
それから目を見開き、大きなガッツポーズをしてみせる。
「いや! ここに来る目的を忘れてはいけません!」
「どうした、いきなり?」
「リフレッシュ! 小難しいことは置いておいて、頭を空っぽにしないと」
「お前、かなり気分屋だな」
「えぇ、学校では『敵にも味方にもしたくない女』の名を馳せていましたよ!」
「変人扱いだったのか、可哀想に」
「先生に言われたくないですっ!」
どこかズレた会話をかわして、屋台が並ぶ通りを歩く。
すると、店先の風景写真が目に留まった。
「先生! これを見てください!」
クラウスの袖を掴んで、強引に引き留める。
リリィが見つけたのは、あるジュース屋の屋台に貼られた写真だった。自然に囲まれた湖の写真。モノクロ写真ではあるが、その豊かな風景は鮮やかに伝わってくる。
「綺麗な場所ですね…………」
「お、エマイ湖の写真か」店主が快く説明してくれる。「駅から国営バスに乗れば、二時間超で行けるぜ。まぁ、今日は休日だから、かなり混んでるがな」
「へぇ、人気なんですね!」
「人気なんてもんじゃねぇよ。この街で一番の観光名所さ。首都の成金共が揃って、行楽に来る保養所だ。貸しボートもあって、中々見どころがあるぜ」
リリィはお礼の代わりに瓶ジュースを購入して、クラウスに笑いかける。
「ふふん、また有力な情報ゲットです。後で行ってみましょう」
「……あぁ、いいだろう」
クラウスは同意する。嫌そうな反応は見えなかった。もしかしたら、この外出を楽しんでいるのかもしれない。
第二段階クリア。
レストランでの食事後、二人はエマイ湖のほとりに到着していた。
バスで二時間と言われた道のりだったが、クラウスが運転する乗用車だと半分の時間で済んだ。彼の自家用車は、リリィの予想に反して、平凡で、どこにでもある黒い四輪車だった。それを指摘すると、クラウスからは「スパイが目立ってどうする」とまっとうな反論をされた。間違った発言は述べていないのに、変人に言われると理不尽に感じる。
エマイ湖は、ジュース屋の店主が言ったように観光客で混み合っていた。湖畔にパラソルを並べて、優雅にカクテルを飲んでいる人間がひしめいていた。
湖畔に立て看板があり、エマイ湖の説明があった。
山に囲まれた自然に富み、面積は一キロ四方の巨大な湖。ボートを借りて、湖の中央に向かえば、静かに大自然を鑑賞できる——そんな触れ込み。
風が少ないのか、まるで鏡のように太陽の光を反射している。これほど綺麗な湖を手漕ぎボートで味わうのは、中々に粋な体験だ。
「この賑わいでは、貸しボートは一つも余っていないだろう」
「その時は、順番待ちですね」
と待ち時間を覚悟したが、いざ場所まで辿り着くと、運良く残ったボートを一つ見つけた。二人乗りの小さな手漕ぎボート。
「お、ラッキーですね」
「ところで……この場合、漕ぐのは僕か?」
「まぁ、そこは男性が」
クラウスは「そうだな」と一足先に乗り込む。それからリリィに手を差し伸べてきた。
リリィは緊張しながらクラウスの手を握り、乗船した。
彼の手は意外に温かった。
出発すると、舟はすぐに湖の中央に着いた。クラウスはオールを漕ぐ技術も一流らしい。「速いですね」と褒めると「雲のように漕ぐだけだ」と謎の返答。
日が暮れ始めていた。空が赤くなりはじめ、山の木々も湖面も岸もすべて夕焼けの色に染めている。この距離では、湖畔の人々は橙の豆粒にしか見えない。
喧騒は聞こえてこない。周囲には、他のボートの陰さえない。
燃えるようなオレンジの世界にいるのは、自分とクラウスだけだった。
「写真より、ずっと綺麗ですね」
「そうだな」
そこは『極上だ』と言わないらしい。彼なりの基準があるのだろう。
「リリィ」
「えっ、はい! は、初めてですね、名前を呼ぶなんて」
「今日見たこと、そして、今見ている風景を忘れるな」
彼は黒い双眸を岸の人々に向けた。
「横丁で顔をほころばせる子供の笑顔を忘れるな。この抱きしめたくなるような自然の美しさを忘れるな。夕焼けに照らされる家族を愛おしく眺める人々を忘れるな」
「人々……」
「十二年前、この国は帝国に侵略された。この国は中立宣言をしていたにも関わらず。一方的な侵略に抗えずに市民は虐殺された。終戦して十年、帝国は再び『影の戦争』でこの国を侵略している」
「え、そうなんですか?」
「さっきの横丁も平和に見えるが、一度、爆破事件が起きかけた。犯人は帝国のスパイ。外務省の要人を狙った暗殺だった。それを察知して阻止したのは、情報に長けたスパイだ。警察でも軍人でも官僚でも政治家でもない」
クラウスは告げる。
「世界は痛みに満ちている。その理不尽をねじ伏せられるのは僕たちスパイだけだ」
念を押すように「忘れるな」ともう一度口にした。
それで満足したように、また夕日を眺め続ける。
「…………………………」
熱い感情をぶつけられたが、それに逆らうように、リリィの心は冷めていた。
同じ風景を見ているのに、自分と相手は違いすぎる。
彼は想像もつかないだろう。
自分が、彼の言葉をどれだけ白けた気持ちで聞いているかなんて。
「……でも、死んだら元の子もないですよ」
リリィが口を開いた。
「国が大事とか、任務を真っ当するとか、立派だとは理解しています。わたしは昔スパイに命を救われました。だからスパイとして頑張りたいとは思います。憧れもあります。でも、だからって——簡単には命を懸けられません」
途中から、クラウスの目が見られず視線を下げた。
「いつか咲き誇りたいって意地くらいありますよ」
「…………」
「落ちこぼれだから思います。養成学校で蔑まれて、それで、運良くスパイになっても、あっけなく死んじゃったら、何のための人生だったんですか……?」
この身体の芯から冷え切る気持ちを、きっとアナタは理解できないんでしょう。
アナタとわたしは違いすぎるから——。
リリィはため息をついて、胸の前でぎゅっと拳を握る。
「先生……」
「なんだ?」
「風が寒いです。近寄っていいですか……?」
「風なんて吹いてないが?」
「女の子は冷えるんですよ」
リリィは腰を浮かすと、クラウスの元に近づいた。
重心が寄って、ボートが傾きだす。
「気づいていますよ。落ちこぼればかり集めた理由……要は『捨て駒』でしょう?」
他に理由は思いつかなかった。劣等生と指導が出来ない教官を集める理由なんて。
合理的だと感心する。
死亡率の高い任務に自分たちを特攻させて、情報をかき集めさせる。将来性のない落ちこぼれの命などコストに値もしないのだろう。自分たちが命と引き換えに集めた情報で、一流スパイは手柄を得ていくに違いない。
リリィは、クラウスの膝に手をついた。
顔と顔を近づけ、距離を詰める。
「今日一日かけて確信しました。アナタは指導ができない。わたしたちは死ぬしかない。そんなの嫌だ。わたしはいつか絶対笑ってやるんです。才能を開花させてやるんです。どんな手段を使ってでも——こんなところで死ねない」
「リリィ……?」
「ごめんなさい、先生。本気の本気です」
クラウスの瞳を見る。
「コードネーム『花園』——咲き狂う時間です」
次の瞬間だった。
リリィの胸元から——毒ガスが噴射された。
◇◇◇
十二年前——。
ガルガド帝国の侵略時において、ある人道外れた兵器が用いられた。
致死性が高く、爆弾のような痕跡を残さず、姿なきまま残り続ける——毒ガス。
ガルガド帝国は実験の現場に、ディン共和国の小さな村を選択した。
豊かな村は瞬く間に地獄に代わり、村にいた数百人の命は儚く消え去った。
絶命寸前で生き残った特異体質の少女を除いて——。
◇◇◇
噴射された毒ガスに対し、クラウスは反応さえできなかったに違いない。
仮に察知ししても逃げられるはずもなかった。超至近距離で、足はリリィが押さえつけた。彼女の胸元から噴出されたガスは、クラウスの口と鼻を直撃したはずだ。
クラウスは唖然とした顔で、リリィを突き飛ばす。
だが、遅すぎる。既に作戦は施行した。
「麻痺、毒、だと……?」
喋りにくそうに、声を発する。
クラウスは震える指先を見つめて、慌てた様子で口元を押さえる。彼の身体が揺らぎ、座る姿勢さえ維持できず、横に倒れ込む。
「バカな……ガス状の毒を散布するなんて自殺行為……」
「わたし、この毒、効きません」
「……どういうことだ?」
「特異体質ですよ、わたしのね」
リリィはなんてことのないように笑う。
成人男性が動けなくなる威力の毒ガスの中、彼女だけが悠然とする。
「どうです? いくら先生でも毒は対処できませんよね?」
既に毒ガスは、湖上に流れる風が霧散させただろう。
だが、クラウス一人を仕留めるには十分だった。
彼は横たわったまま、全身を細かく震わせた。
リリィは嬉しさのあまり笑い出した。
「あははっ! 案外、楽勝なんですね。一流のスパイを欺くのは」
クラウスが青ざめた顔で震える。
毒を食らい、ほとんど動けないようだった。
この状況を作り出すために、リリィはいくつも策略を練った。
気分転換と称して誘い出し、自然な流れで、貸しボートまで辿り着けた。直前まで『湖』というワードさえ出さず、完璧に騙し討ちを成功させた。
いくら一流のスパイとはいえこの状況は打開できない——完璧な勝利だ。
「ふふ、たっぷり脅迫しちゃいますね? せんせ?」
「ふざ、けるな……」
クラウスが睨みつけてくる。
「お前、何が目的だ……?」
「約束をしてほしいんです」
「口約束でいいなら、いくらでもするが?」
「戯言はやめてくださいよぉ。わたしは毒に関しては、自信があるんですよぅ?」
リリィは甘ったるい声を出して、ポケットから更なる得物を取り出す。
紫色の液体が滴る針。
「特製の秘毒——この針を食らうと成人男性でも一瞬で失神します」
「な……」
「逆らう素振りを見せたら、この針を打ち込みます」
約束は必ず履行させますよ、と。
その針を、容赦なくクラウスの目元に近づける。先日は強盗も倒した即効性の毒だ。
危機が眼前にあるのに、クラウスは動かない。いや、動けないのだろう。
リリィは、微笑んで見せる。
「要求は二つ。『灯』の解散。及び、メンバーの生活保障」
「…………っ」
「死にたくないんですよ——指導一つできない教官の元で」
この男ならば、自由に使える金やコネクションはあるだろう。
それを使う以外に、自分が生きる方法はない。
クラウスは視線に威圧を込めてくる。
「冗談はよせ……これ以上近づくなら、僕も反撃する」
「嘘はやめてください。動ける毒ではありません。それに、武器もないでしょう?」
「どうして、それを……?」
「確かめました。転んだわたしを抱き留めた時に」
くだらない脅しは通じない。そのための対策は、リリィは既に取ってある。
クラウスは目を伏せた。
「横丁での転倒は演技だったのか」
「え、えぇ、も、もちろん計算通りですよ……?」
偶然だった。
本当は別の手段でボディタッチを仕掛ける計画だった。
「と、とにかく! 先生、私の命令に従ってもらいますよ」
リリィは堂々と胸を張り、動けないクラウスに針を更に近づけた。
持てるだけの才能と磨き上げた技術で、一流のスパイを圧倒する。
これで、終わりだ。
「……詰んでいるな」
とうとうターゲットが抵抗をやめた。
大きく息をついて諦念に満ちた瞳を向けてくる。
「麻痺毒はあっという間に回った。動くのは舌先と足先のみ。泳ぐことも難しい。助けを呼ぼうにも、ここは湖のど真ん中。目の前には訓練されたスパイ見習い。偶然借りたボートに都合のいい武器がある期待はない。これこそ、まさに——」
「チェックアウトです」
「——チェックメイトだな」
決め台詞を間違える。
幸い、それをクラウスは指摘しなかった。
「だが、一つ分からない」と語り掛ける。
「……ん? なんですか、この期に及んで?」
「さっきから、ずっと謎なんだ」
「だから、一体なにを?」
「リリィ、ところで——」
クラウスが深い瞳を向ける。
「——このお遊びには、いつまで付き合えばいい?」
その言葉と共に。
二つの変化が生まれた。
「へ?」
リリィの右足。そこには、大きな足枷がつけられていた。
次に舟の底。見ると、徐々に水が漏れ出していた。
一体なにが、と状況を把握する。クラウスが左足を大きく伸ばしていた。僅かに動ける足を使って、仕掛けを作動させたらしい。
「な、なんですかっ?」
「特注の足枷だ。そして、舟の栓を抜いた」
「栓……?」
「この舟は、八分後に沈む。鎖で繋がれたお前の足を引っ張りながら」
ハッと気がつく。
取り付けられた足枷は、鎖で舟に固定されていた。今まで座席の下に隠されていて、見えなかったらしい。
服に仕込んだピッキングツールを取り出して鍵穴に差し込む。けれどもビクともしない。どういう仕組みの鍵なのかも掴めない。解錠を諦めて、鎖の破壊に取り掛かる。けれども、太く鉄製の鎖はビクともしなかった。
「お前では外せないよ」
クラウスが語る。
「鍵はこの舟のどこにもない。お前の技術では、到底開けられない足枷だ。つまり、何をしようが、お前は湖の底に沈むわけだ」
「そんな……」
「僕が鍵を開けない限りな」
「…………っ!」
「解毒剤を出せ。それが条件だ」
そういう狙いですか、とリリィは唇を噛む。
だが、まだ勝機を失ったわけではない。
「け、けど! 関係ないですよ! この毒針に刺されたくなければ、鍵を——」
「刺せばいいだろう」
「え……」
「その毒針を刺せば、僕が失神するんだろう? 誰がお前の足枷を開けるんだ?」
「うぐ……」
今度こそ、リリィは押し黙る。
打つ手をなくした。
どころか、完全に追い詰められた。
舟の浸水は収まらない。リリィの身体と共に沈没していく。
納得がいかない——優位に立っていたのは、自分なのに。
「どうして、ですか……?」
「ん?」
駄々をこねる子供のように喚いた。
「わたし! この舟で仕掛けるなんて誰にも言っていません! 一体いつ舟に細工する暇があったんですか? むちゃくちゃです!」
「昨日の晩だ。お前が、この湖で何か企ていることは明白だった」
「そんなに早く……?」
「このエマイ湖は、街で一番の観光名所だ。しかし、昨日、お前は『街で聞き回った名所』を語るとき、なぜかエマイ湖だけは候補に挙げなかった。外出を躊躇する人間に、もっとも有名なスポットを伝えない理由はなんだ? 不審すぎる」
リリィは、自身の敗因を悟る。
警戒しすぎたのだ。
彼女は襲撃場所を湖と決めていた。悟られないよう、湖の話題を控えた。誘う直前で偶然知った素振りをみせる。だが、それが致命的なミスだった。
当然だ。
この男はスパイだ。街の観光名所を知り尽くしているだろう。
そんな男に、エマイ湖を挙げなければ不自然に思われても仕方がない。
「加えて、エマイ湖の沿岸には多くの観光客がいる。自然な流れで、僕に仕掛けるならば貸しボートだろう」
「でも、このボートに乗るとは限らないでしょう! これは、たまたま残っていた——」
「そう、たまたま一艘だけ残っていた。お前は不審に思うべきだった。湖上で見る夕焼けが絶景の湖で、観光客が賑わう中なぜか残り続ける一艘のボートを」
「え……」
「足元をよく見るといい——漕ぎ手側からな」
どういうことか、とリリィはボートを覗いた。
息を呑んだ。
リリィがずっと座っていた席の下。
『修理中』——そんな警告がペンキで書かれていた。
むしろ、どうして今まで気が付けなかったのか。
「幼稚なトリックだ」
クラウスが乾いた声で言った。
「この警告文は、漕ぎ手にしか見えない。お前側からは死角となる。だが、それで十分だ。このボートは誰も使用しない。貸しボートは人気だ。岸にはこの一艘だけが残る」
手漕ぎボートは、男女で乗る場合、どちら側に座るのかハッキリしている乗り物だ。
漕ぎ手となる男性が進行方向側に座り、女性が逆側に座る。
そこに男性のみが見える警告があった場合、女性は一切気づけない。
唯一チャンスは乗船時たが、そのとき、クラウスに手を差し出されて、リリィの注意は逸れていた。
ゆえに罠を見抜けなかった。
クラウスはぴしりと言った。
「説明は以上だ。リリィ——お前では僕の敵にさえなれないよ」
実力差を見せつけられ、リリィは悔しさに唇を噛み締める。
「く、くぅ……わたしの計画がバレていたなんて……」
中々現実を受け入れきれない。
クラウスは、やれやれ、と息をついた。
「更に言えば、昨日、お前が部屋に入った時点で、僕は襲撃を察したがな」
「えっ、それは一体どういう理由で……?」
いくらなんでも早すぎる!
リリィが目を見開いていると、彼は告げた。
「——なんとなくだ」
「一瞬でも期待したわたしがバカでしたっ!」
「いいから、さっさと解毒剤を出せ。そろそろ舟が沈む」
リリィは唇を噛み締めたあと、「く、悔しいですが……」とポケットに手を伸ばす。
違和感にはすぐ気がついた。
「あれ……?」
「ん、どうした?」
「解毒剤……ないです……」
「やめておけ」クラウスは息をついた。「今更そんな駆け引き、時間の無駄だ」
見苦しい真似はするな、と言いたげだ。
「いや、違います…………本当にありません……」
「だから、そんな嘘に騙されるわけ……」
「部屋に忘れてきました…………」
「………………………………は?」
珍しく、クラウスが目を見開いた。
毒を噴射された時でさえ、こんなに驚いた素振りは見せなかった。
「……毒使いが解毒剤を忘れたのか?」
「だって、緊張していましたから……い、色仕掛けは苦手ですもん!」
「色仕掛け? いつ仕掛けた?」
「そ、それはともかく……あ、あのぉ、先生、解毒剤なしで開けられませんか?」
「無理だ。指先が震えている」クラウスは自身の手のひらを見た。「解錠はもちろん、これでは泳ぐのも難しいな」
「あはは、ですよねー」
「………………………………………」
「………………………………………」
麻痺毒で動けないクラウスは、ただ沈黙していた。
足枷で逃げられないリリィもまた、沈黙するしかなかった。
二人が見つめ合っていると、ドプン、と一際大きな水の音がした。
舟が本格的に沈み始めた音だった。
「……リリィ、命令だ」
「……はい」
「死ぬ気で漕げ」クラウスが目を細める。「というより——漕がないと死ぬ」
駆け引きどころではなかった。
リリィはオールを握りしめると、
「いやああああああああああああぁ! 死にたくなああああぁい!」
絶叫して、全力で漕ぎだした。
一方、命の危機でもクラウスは落ち着いていた。
「安心しろ。さっきは沈むまで八分と言ったが、あれは嘘だ」
「ホントですかあぁっ?」
「九分五秒だ」
「安心できません!」
「リリィ、オールは雲のように漕——」
「少しは手伝ってくださいよぉおおおお!」
もちろん、クラウスの動きを封じたのは自分だが。
過ちを悔いながら、リリィはがむしゃらに岸を目指した。
リリィは岸に辿り着くと同時に、舟に倒れ込んだ。「なんとか生き延びましたああぁ」と大きく息を吐く。
舟の半分は浸水した。沈没する紙一重だった。
出発した場所に戻れず、行き着いたのは観光客の誰一人いない岸。なお輝き続ける夕焼けと、それに照らされる湖面、太陽に向かって飛んでいく鳥々と心奪われる風景を独り占めできる。それを味わう余裕はなかったが。
脱力しきって、四肢を投げ出す。
生きることには生きた。ただ、迫ってくるのは、惨めな現実だ。
「はーぁ、失敗しちゃいました」呆然と夕空を見上げた。「やっぱり落ちこぼれは、落ちこぼれですね。一流のスパイ様には歯が立ちません」
「そう悲観するな。悪くない毒だった」
「どうせ、わざと食らったんでしょう?」
「実力を測るためにな」
毒が抜けたのか、クラウスは既に立ち上がっていた。鳥と戯れている。彼の腕に小鳥が二羽留まっていた。動物に好かれるタイプらしい。人には好かれないのに。
そんな余裕があるなら足枷を外してほしいんですが、と主張したいが、今のリリィは言える立場ではない。
「現状は変化なしですね」
嘆くだけだ。
問題は何一つ解決していない。
「わたしは落ちこぼれで、先生は授業ができなくて、不可能任務は死亡率九割で、期限はどんどん迫ってきている。こりゃゲームオーバーですわ」
加えて、リリィは上司に毒を盛る罪まで背負った。罰が与えられるだろう。
脅迫に失敗した時点で、リリィに待っているのは惨劇だ。
「……憧れていたんですけどねぇ……国を救うスパイに……」
諦められないと足掻いた結末がこれだ。
何も変えられなかった。
何も得られなかった。
運命は、とっくに決まっていたのだろう。じたばたと藻掻く自分は滑稽でしかない。
「なればいいだろう」
しかし、クラウスが穏やかな声で告げてきた。
「へ?」リリィは身体を起こした。
「理想を諦めるな。才能はあるじゃないか。闘いこそお遊びだったが、身に迫る危機を察し、誰よりも真っ先に行動したお前は文句なしで——極上だ」
「ほ、褒めても何も出ませんよぅ」
彼は腕に留まった鳥を飛ばすと、リリィの元に歩み寄ってきた。
それから、足先で足枷を軽く蹴飛ばすと、どういう原理か、あれだけ開かなかった鍵があっさりと開く。
「リリィ、お前は『灯』のリーダーになれ」
「え?」
「『灯』のボスは僕だが、部下の中心となる人物が必要だ。お前の言う『咲き誇る』が何を指すかは分からんが、『灯』のリーダーでは不足だろうか?」
訳がわからなくて、唖然とした。
不可能任務を専門とする前代未聞のスパイチーム——そこで重要な役職を与えられた。
天啓に思えた。黄昏の闇に、ふっと新たな光が射しこむような。
落ちこぼれと蔑まれ、こんな自分を変えたい一心で養成学校から去った——そんな自分に示された新たな道筋が見えた。
「ふ、不測どころか……かなり嬉しいです……」
「では、励んでくれ。お前がリーダーだ」
「お、おぉ、リーダー……カッコいい響き……」
ウットリした顔でその単語を繰り返した。
単純なやつだな、とクラウスが呟いた気がしたが、すぐに頭から抜けていった。
「でも、いいんですか? わたし、先生を脅迫して——」
「些事だ。それよりも今回の功績を考慮した」
「功績?」
首をかしげていると、クラウスは頷いた。
「お前のおかげで、いい授業方法が見つかった」
いつのタイミングで?
結局、リリィがその全容を知るのは、その翌日になる。
陽炎パレス四日目。
大広間に、また『灯』のメンバーが集められた。少女たちは、また訳の分からない授業を聞くと思い、憂鬱な表情を浮かべていた。だが、心の内では、起死回生の期待を捨てきれていなかった。一度目の授業は何かの間違いで、今度こそ本当の講義が始まるかもしれない——そんな縋るような希望だ。
全員がソファに腰かけたところで、クラウスがやってきた。
少女たちの前に堂々とした態度で直立する。
腕組みをして、目を閉じて、黙り込む。瞑想のように。
十秒、時が流れた。
この変人はなにをしているんだ、と少女たちが思い始めたところで、ようやくクラウスが口を開いた。
「さて、見ての通りだ」
「なにが?」白髪の少女が凛然と尋ねる。
「謝罪だ」
「見えねぇよ」
起死回生はないな、と少女たちが肩を落とす。
少女たちの落胆に気づかないのか、クラウスはいつもの調子で淡々と説明を始めた。
「告白しよう。実を言えば、僕は、スパイチームのボスも教官も初めてだ」
「…………」
「意外だろう?」
この程度でツッコんだら負けだ。
少女全員がスルー。
「僕が未熟ゆえに、お前たちに不必要な心配をさせたようだ。すまなかった。今後は、僕に話せる限りの情報を開示したい。質問あるなら聞くといい」
「じゃあ、二つ」
白髪の少女が手を挙げた。やはり彼女は物怖じしない。きつい瞳でクラウスを睨みつけている。
「アンタは何者なんだ?」
「それは言えない」
「あたしたちが選ばれた理由は?」
「それも言えないな」
「くたばれ」
「そうだ。スパイが開示できる情報は限られている。僕は開示したいが、語れる秘密は乏しい。しかし、それでも信頼関係を築かなくてはならない。それがスパイチームだ。出来るのは意志表明だが、それで納得してくれ」
クラウスは、小さく息を吸う。
少女たちに言葉を投げる。
「お前たちは捨て駒ではない。僕が、死なせない」
瞳は、どこまでも真剣だった。
「約束する。もしお前たちが一人でも命を落とした場合、その時は僕も自死するさ」
少女たちは、目を見開き固まった。
クラウスの言葉には、演技ではない強い意志が込められた。
嘘ではない。
誤魔化しではない。
この男は本気で少女たちと共に、不可能任務をこなそうとしている。
「で、でもっすよ?」茶髪の少女が気弱な声で呟く。眉をぐっと八の字に曲げて。「実際問題、自分たちは落ちこぼれなわけで不可能任務なんて——」
クラウスは首をひねった。
「分からないな」
「へ?」
「どうしてお前たちは、自分たちを『落ちこぼれ』と形容する?」
「そ、それは……」
「僕はずっと絶賛しているじゃないか」
絶賛?
少女たち全員が、頭に疑問符を浮かべる。
「伝えておくと、『灯』のメンバーを選任したのは僕だ。養成学校に赴き、僕自らスカウトした。お前たちは無限の可能性を秘めている。人間の評価など、所属する集団でいくらでも変わる。養成学校では落ちこぼれだろうが、『灯』では——全員、極上だ」
あぁ、とどこか納得する気持ちだった。
リリィの心が温かな何かで満たされていく。
振り返れば、クラウスはずっと言い続けてきた。
最初から——玄関先で目を合わせた時から『極上だ』と生徒を褒め続けた。
この男——身内に甘すぎる。
「そして、お前たちを高める方法は既に思いついた」
クラウスは少女たちに背を向けると、チョークを手に取った。
まだ一度も使用していない黒板に、大きく文字を書き込んでいく。
簡潔な一文。
『僕を倒せ』
他の少女たちが呆然とする中、リリィがいち早く理解した。
人間離れした男が見出した教育方法を。
「さて」クラウスはチョークを放り投げる。「後は、自習だ」
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