その遺体は共同墓地に埋葬されていた。
墓地の前には、美しい男が佇んでいた。男性にしては長めの髪は雨に濡れて、頬に張り付いている。野暮ったく見える長髪はその端麗な顔を隠し、印象を消すためであるが、夜の墓場で一人雨に打たれるとむしろ異質を際立たせた。
職業柄、目立つことを嫌う彼であるが、この時ばかりは今の自分の異様を気に留めていないようだ。
彼はスパイだった。
名前は、クラウス。他にも複数の名前を使い分けているが、最も用いるのはその名だ。
共同墓地には彼以外、誰の姿もない。冷たい雨が降る夜に、わざわざシャベルとランタンを持って墓参りをする人間など彼一人だ。
寂しげな瞳で、そっと墓標を見つめる。墓標には、幾人の名前が刻まれている。普遍的で目立たない名前ばかり。しかし、それが故人を示す記号にはならない。刻まれた名前は、故人が生前使用していた偽の経歴に過ぎなかった。
スパイの多くは、生きた証を残せない。
しかし、それで十分だ。彼らが得た情報——成果、教訓、思い出、意志は、今も彼の胸にあり続けるのだから。
クラウスは誰にも見られていないことを確認すると、シャベルを地面に突き立てた。墓を掘り返す。棺を壊さないよう、その周辺に穴を掘る。作業を終えると、懐からそっと白い箱を取り出して、穴の底に置いた。
「師匠……指だけでもここに埋めさせてもらうよ」
祈りを済ませて、シャベルで土を被せていく。瞬く間に穴は塞がった。
クラウスは大きく息をつく。
ここに埋められているのは、かつての仲間だ。スパイチーム『焔』。孤児だったクラウスをスパイの世界に引き入れて、一流のスパイに育て上げた家族同然の存在。
彼らが与えてくれた温もりに想いを馳せていると、背後から人の気配がした。
「先生……」
振り向くと、八人の少女が黒い傘をさして並んでいる。
彼女たちが身に纏う架空の宗教学校の制服は、墓場によく馴染んでいた。
「何も全員で来ることはなかったんだがな」クラウスは目を細める。
少女たちの中で、まず銀髪の少女が一歩前に出た。リーダーのリリィ。手にはワインボトル。彼女はその栓を抜くと、中身を墓石にかけていった。そして手を組んで、じっと目を瞑り言葉をかける。
少女たちはボトルを回しながら、順々に墓石にワインをかけ、祈りを済ませていく。途中、誰かがワインの配分を間違えたらしく、最後の一人は二、三滴しか残らなかった。細かな部分で、まだそそっかしさが残る。
だが、クラウスは彼女たちの潜在能力を強く信じていた。
「ボス、見ていてくれ。この九人が『焔』を受け継ぐ新たなチーム——『灯』だ」
墓石に向けて声をかける。
当然返事はない。しかし、通じただろう、とクラウスは感じていた。
家族への挨拶を済ませたあとで、次に少女たちへ視線を飛ばした。この墓地の前で、改めて確かめておきたかった。
「『灯』を存続させる以上、僕たちは『焔』の使命を引き継ぐことになる。当面の目的は、『焔』を壊滅させた集団『蛇』の捜査だ。甘くはない。覚悟はできているのか?」
彼女たちは動じなかった。
どこか誇らしげに笑みさえ見せる。
「その分給料は多いんだろう?」「『焔』は私の憧れよ」「たくさん人を救うの」「俺様はみんなと一緒がいいですっ!「ボスの隣にいられるのなら……」
少女たちは各々の言葉を口にする。
出身、スパイになる動機、野望、『灯』に対する帰属意識は多種多様だろう。
しかし、答えは一つだった。
少女たちの言葉が続いた最後に、リリィが頬を緩める。
「このリーダーに相応しい——咲き誇れる自分になれるなら」
「——極上だ」
その言葉と共に、メンバーは墓石に頭を下げて踵を返した。瞳には強い意志が宿っている。いち早く帰宅して訓練を積みたい。そんな感情が行動から滲んでいた。
クラウスだけは去り際、墓石に視線を送る。師匠との約束を再確認するために。
「守り抜くよ——今度こそ」
しばらくここに来ることもないだろう。
そして、墓石で眠る家族たちもそれを望んでいるだろうとも知っていた。
世界は痛みに満ちている——。
旧来の世界では、戦争とは数か月で終わるものだった。国々が憎み合おうと、物資が尽きれば戦えない。戦争の最中でも麦を収穫する時期には中断しなくてはならない。手元にある銃弾が尽きれば、潔く負けを認め、撤退するだけ——科学技術が進歩するまでは。
産業革命の礎ともなった蒸気機関は、船や機関車など輸送技術を発展させた。戦争のための物資を大量生産し、別大陸からの莫大な穀物を戦地に供給できた。軍人でさえ植民地から輸出することで補える。
一度引きおこった戦争は大多数の予想を外し、数年にわたって行われた。
この戦争に勝者はいなかった。参戦した全ての人類がそう確信する。
——戦争はコスパが悪い。
一度起きれば、経済は停滞し、国民は疲弊し、国力は衰える。唯一得をしたのは、戦争に参加せずに物資を供給し続けた別大陸の国々のみ。あまりに無駄が多い。
だから世界中の国々は意識を切り替える。戦争は繰り返してはならない。国際的な平和機関を樹立し、協調の時代に入っていく。もちろん野望を捨てることはない。ただ表立って、大砲を向け合う必要もないのだ。資源を得るのは——別の手段でもいい。
かくして、「光の戦争」は終わりを迎える。
新時代に行われるのはスパイたちの情報戦——「影の戦争」だった。
ディン共和国もまた「影の戦争」に参戦していた。
大戦前までは諜報機関と言えば、陸軍情報部と海軍情報部の二つ。しかし、二つは仲が悪く、また軍部特有の厳格な規律のせいで諜報機関としてはレベルの低い代物だった。その結果、世界大戦下、その二つの情報部を超越する組織「対外情報室」が作られた。
対外情報室の中心は、伝説的な諜報機関『焔』。中世から王族の下で存続し、市民革命時には彼らを亡命させたという経歴を持つらしいが、詳細は謎に包まれている。各軍情報部の生え抜きと『焔』が連携し、対外情報室は躍進。世界大戦の終結にも貢献した。
そして、世界大戦の終結から十年——。
陰謀と裏切りによって三十八代目『焔』は壊滅する。
しかし、その生き残りである青年が、その意志を引き継ごうとしていた。
とある臨時チームを、正式なチームとして昇格させた。
三十九代目『焔』。それは先代と区別するため別の名前で呼ばれる。
通称『灯』——。
◇◇◇
『灯』の拠点は、ディン共和国の港町にある。
国内有数の商業都市にひっそりと建てられている。商社が立ち並ぶ街の一角に、ガーマス宗教学校という小さな建物があった。その建物の倉庫にある隠し通路を進むと、広大な庭と建物が顔を出す。陽炎パレスと呼ばれる豪華な洋館だ。かつては王族の隠れ家であり、名実共に「宮殿」だったらしいが、その詳細はもう住人でさえ把握していない。
つい最近までは、ある事情によって建物中に盗聴機が設置されていたが、現在は取り払われて、機密性は保たれている。仮に場所を特定されようとも、内部で何が行われているかは誰にも読めない鉄壁の要塞だ。
「——極上だ」
クラウスは、その壮麗な洋館を改めて確認する。
美しい男性だ。その長身に気づかなければ、女性と勘違いしてもおかしくない。細身の体格、そして、端正な顔を隠すように伸びた髪。本人が意識的にそうしているのだが、非常に中性的な外見だ。実年齢は二十歳であるが、あまりに落ち着いた態度は二十代後半にも、三十代にも感じさせる。
特徴的なプロフィールは三つ。
——一つ、彼は『灯』のボスだ。八人の少女を部下に従えている。
拠点に戻るのは十日ぶり。扉を開けて、絨毯の敷かれた廊下を進むと、少女が一人飛び出して、にこやかに手を振ってきた。
「あ、先生も戻ったんですねー! お久しぶりですっ!」
銀髪の愛らしい少女だった
名はリリィ。艶やかに伸びた銀髪と、豊満なバストが特徴で、常に笑顔を振りまいている。八人の少女をまとめるリーダーでもあった。
クラウスが彼女を見るのも、十日ぶりとなる。
「あぁ、久しぶりだな」
そう声をかけると、リリィは覗き込むようにクラウスを見つめてきた。
「外国旅行は充実しましたか? 先生の行き先は、ライラット王国ですよね? いいなぁ、美味しい海産物で有名ですよねー」
「それなりに満喫したよ。お前の休暇は?」
「もちろん充実しましたよ。お給料も出ましたし、十日間もありましたもん!」
クラウスは、少女たちに十日間の暇を与えていた。
『灯』は新設されたチームとはいえ、一度、過酷な任務を果たしている。その達成までは休養がなかったため、しばしの休暇を設けたのだ。ちょうど対外情報室から成功報酬も支払われている。十代の女性が受け取るには、潤沢すぎる額だ。
「先生のお土産も買ってきましたから、ぜひ食堂に!」
リリィが楽し気に十日間を語り、クラウスの腕を引いた。カバンを下ろす暇さえ与えてくれない。
ふと気になったことを尋ねた。
「ところで、他のメンバーは?」
やけに洋館が静かすぎる。
リリィが、んー、と頬を膨らませた。
「残念なことに、まだバカンス中ですね。どいつもこいつも気を緩めすぎです」
視線を動かしても、他の少女の姿は見えない。
階上から足音も聞こえなかった。
食堂からは香ばしい匂いが漂っている。ベーコンが焼けた香り。それが彼女のお土産らしい。自分の帰宅時間に合わせて、用意してくれたようだ。
食堂の扉は開け放たれている。
料理は既に並べられていた。純白なテーブルクロスの上に、ベーコンステーキとフルーツの皿、ワインボトルが並べられている。
クラウスが一歩食堂に足を踏み入れた時、
「——まぁ、嘘ですけど」
リリィが舌を出した。
次の瞬間、潜んでいた無数の少女が現れた。
扉の陰、テーブルクロスの下、吊り下げられたシャンデリアから、無数の少女が飛び出して、クラウスに飛び掛かってくる。
リリィ以外の七人の少女の一斉奇襲。
各々の手には、拘束用のワイヤー。
襲い掛かる少女たちに対して、クラウスは
「だろうな」
と冷静な態度を崩さなかった。
その襲撃を予期していたように、身を捩って一度目の攻撃を回避すると、その細く長い腕でテーブルクロスを掴んだ。
それをサッと一息に引き寄せる。
クロスの上に乗っていた食器類は微動だにしない。
そのテーブルクロスを投網のように少女たちに投げかけると、そのまま包み、七人の少女をまとめて絡めとると床に転がした。
「さすがに単純すぎる」
クラウスは淡々と口にする。
部下たちの突然の暴力に怒りさえ見せない。
リリィが悔しそうに拳を握り込んだ。
「くっ……いくら先生でも、休暇明けは油断していると思ったのに!」
「一流のスパイはその程度では油断しない。成長は認めるが、まだまだだな」
「そこまで言うなら、コツを教えてくださいよ……」
「奇襲はふわっとやる。以上だ」
「先生の方こそ成長しませんよねっ!」
プロフィール二つ目——クラウスは教官だ。
『灯』の少女たちは、養成学校の落ちこぼれで構成されている。才覚はあるものの、事情を抱え、養成学校に適合できなかった者たち。クラウスは彼女たちを従えるボスであると同時に、彼女たちの才能を開花させる教官でもある。
——手段を問わず、クラウスに『降参』と言わせること。
それがクラウスが少女たちに与えた課題であり、彼女たちは日夜クラウスと闘いながら研鑽に努めていた。
休暇明けもすぐにその課題に挑んだ少女たちに、クラウスは頷いた。
「しかし、気合は十分に伝わった——極上だ。そう伝えておくよ」
「そりゃあ、気合いは満ちていますよ!」
リリィは両手の拳を握り込んだ。
「なにせ『灯』が臨時チームじゃなく、正式なチームと認められたんですもん! 意気込みますよ。発足後、記念すべき初任務もバシッと成功させてやりますよっ!」
飛び跳ねるジェスチャーまでしてみせる。鼻息が荒い。
その後で、まだテーブルクロスに絡まっている他の少女に「皆さんもそうですよねっ?」と声をかける。すると「初任務、どんとこい!」「私たちの結束力を示す時ね!」と返答があった。
休暇の間に英気を養ったらしい。声の一つ一つが力強い。
しかし、クラウスは首を捻ざるを得なかった。
「初任務なら終わったぞ?」
「へ?」
「ライラット王国で三つ、国内で二つ、僕が既に済ませておいた。次は六つ目だな」
「…………」
少女たちが顔を硬直させる。
発足後初任務に胸を躍らせた期待、それがひび割れる音までも聞こえてきそうだ。
クラウスは「では、訓練を励むように」と口にすると、テーブルに置かれた林檎を掴み、すぐに食堂を出ていった。
プロフィール三つ目——彼は超マイペース男。
後には、何も説明を受けない少女たちが残される。
彼女たちは互いに視線を合わし、状況を整理し、ようやく『自分たちが任務に誘われなかった』現実に気が付くと——
「「「「「「「「ちょっと待てえええええええぇっ!」」」」」」」」
とクラウスの背に向かって怒号を浴びせた。
◇◇◇
「一人で達成したのか? この短期間に?」
内閣府の一室で、ロマンスグレーの男が呆れ顔をしていた。普段ならば、相手を射殺すような鋭い眼光を向けているが、この時ばかりは戸惑いの色が滲んでいた。白髪交じりの髪をかき上げて、手元に置かれた報告書に視線を落とす。
対外情報室での出来事だ。簡素な名前とは裏腹に、万全のセキュリティが施された堅牢な部屋。内閣府の警備員に認められ、専用の鍵でエレベーターに乗り、暗証番号を入力すると、ようやく辿り着ける。赤絨毯の上に置かれているのは、テーブルとソファのみ。事務員はおらず、一人の男が常駐する不気味な空間だ。
「……信じがたいが、キミならばやりかねないな」
その主であるCと呼ばれる男は眉間を押さえていた。彼が対外情報室の室長だ。
「せっかく少女たちを正式に引き入れたんだ。連れていけばいいのに」
「実力不足だ」
クラウスは即答する。
椅子に腰をかけて、室長が淹れたコーヒーを飲む。相変わらず、まずい。
「僕だって経験を積ませたいさ。だが、サラリーマンの商談じゃないんだ。未熟なアイツらを、そうやすやすと任務に連れていけるものか」
「任務なら、一度達成しているだろう?」
「アレは例外だ。彼女たちの力なくして達成できなかった」
ある男の裏切りを予想し、独力では不可能と判断した。仕方のない選択だった。
しかし、今回クラウスが達成したのは、一人で十分にこなせる難度ばかり。不必要。どころか、少女たちを連れて行けば、余計な危険に巻き込みかねない。
「もちろん、彼女たちの才能は認める。いずれ参加してもらう。ただ、今は時期尚早だ」
彼女たちを養成学校に戻さなかった責任は負うつもりだ。
自分が教え、鍛え、そして、導く。
しかし、事は慎重に運ぶべきだ。
「……そう言って何年も腐らす結末にならなければ良いがな」
「見透かしたような言い方だな」
「キミが犯しそうな過ちだ」
室長の鋭い眼光がクラウスを捉えている。
冷ややかな瞳で返した。
「なら、ちょうどいい任務を紹介してくれないか?」
「ちょうどいい?」
「命の危険が乏しく、かつ、経験が積めそうな任務はないか?」
「そんな都合のいいものはない」
一応言ってみたが、にべもなく返される。
「なら、しばらく任務は控えたいな。やるべき仕事は、十分果たしただろう? 数週間は部下の教育に尽力したい。『蛇』の情報もかき集めたいしな」
「そういかないとは、わかっているはずだ」
室長は、テーブルの上にファイルを積み上げた。
ざっと見たところ、数冊分。どれも新しい任務と見ていいだろう。
「…………」無言で見つめ返す。
「露骨に嫌そうな顔だな」
「本来僕には一ヵ月の休暇が与えられたはずなんだがな」
「キミの顔色が少しマシになったからな」
室長は一旦緩めた顔を引き締めた。
「だが、キミだって分かっているだろう? 今こう話している間にも、帝国は卑劣なスパイを送り込み、この国を侵略している」
「…………」
「政治を腐敗させ、帝国に有利な条約を結ばせ、発明を盗み、国民を従順な愚民に啓蒙する。我らが同胞はその侵略を阻止するため、敵地で諜報活動に励み、命を落としている。『焔』の喪失は、我が国に多大な影響を及ぼした」
『焔』の名前を出されると、口答えしにくい。
それを見抜いて、室長は名を出したのだろうが。
彼は更に一冊、分厚いファイルをテーブルに乗せた。
「特に、この任務を達成できるのは——キミだけだ」
その書類は仰々しく、漆黒な紙と紐で綴じられている。
厄介な任務であることは、見る前から分かった。
「『灯』の未熟も、現状、キミのワンマン体制も仕方ないと承知している」
「…………」
「しかし、この痛みに満ちた世界は、キミたちの成長を待ってくれない」
「………………」
「無言で不服を主張するな」
クラウスはその書類を掴み、パラパラと軽くめくる。百枚近くページがある。十秒とかからず最後のページまで辿り着くと、破り引き裂いた。
室長が眼光を光らせる。「拒否する気か?」
「見ての通りだ」クラウスが答えた。
「なにが?」
「もう覚えた」
室長の瞳に僅かな驚愕が窺えた。
クラウスは息をついた。
「引き受けるしかないんだろう? 『焔』が愛した国民を守るためには」
何度も師匠から教わってきたことだ。
引き受けたくない任務であろうと、それが私情である限り排さなくてはならない。
この世界を変えられるのは、スパイだけなのだから——。
陽炎パレスに帰着したのは、深夜だった。
内閣省のある首都とは距離があるので、どうしても遅い時間となる。
玄関以外に電気は灯っていない。少女たちは就寝したようだ。時計を見れば、深夜十一時を指していた。年頃の少女が寝るには早いと感じたが、自分が不在でも訓練に努め、疲れていたようだ。広間には、無数のスパイ道具が散らばっている。
自室でネクタイを緩めていると、部屋がノックされた。
「ボス、紅茶をお持ちしました……」
静淑な声。
扉を開けると、トレイにティーポッドを乗せた少女がいた。
赤髪のボブカットの少女だ。スレンダーな身体つきをしており、とにかく四肢が細い。精巧なガラス細工のようだ。手荒く扱えば壊れかねない。そう感じさせる。
名は——グレーテ。
「ありがとう。しかし、わざわざ起きる必要はなかったよ」
「ボスのためですから……」
「何度も言っているが、その呼び名はやめてくれ」
とにかく落ち着かない。
自分の中で「ボス」と呼ばべき存在は、ただ一人。『紅炉』というコードネームの先代のボスだけだ。
グレーテはその言葉には返さずに、紅茶の支度を始めた。温まっているティーカップに、ポッドから紅茶を注いでくれる。無意識に毒を盛っていないか確認するが、そんな素振りはない。本当に善意でやってくれたようだ。
彼女は部下であって、家政婦でないのだからそこまでしなくていい。
そう何度も伝えているが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「……旅行先で、香り高い紅茶があったので、ぜひボスに、と」
「良質な茶葉だな。高かったんじゃないか?」
「……ボスに振る舞うためですから。安物は扱えません」
「そうか、ありがとう」
クラウスは、てきぱきと支度をする少女を観察した。
彼女が自分に親身に接するのは、今に始まった話ではない。前回挑んだ任務の最中でも、彼女はやけに自分を慕うような素振りを見せた。
(分からないな。僕は、彼女に好かれる行為をしただろうか?)
彼女がどうして親し気に接するのか。
思い出す——彼女の態度が変わった日を。
◇◇◇
ドラマチックなイベント——という程ではないが、印象的な出来事ならばあった。
生物兵器奪還任務の前だ。
重大な任務に向けて、クラウスもまたトレーニングを行った。肩慣らしと遊び心も合わせて、別人に変装をして「クラウスを訪ねにきた同僚」という設定で陽炎パレスを訪問した。まったく気づかない少女たちに「クラウスは高級ワインを与えると、泥酔する」と嘘を信じ込ませ、ついでにリリィから「先生が保管する缶詰を日夜盗み食いしている」という証言を得た。
一通り少女たちを欺き、変装を解くと、シャワーを浴びたくなった。
慣れない服を纏い、汗をかいていた。浴室に向かった。
陽炎パレス内には、大浴場と浴室がある。前者は少女たちが。後者は自分が使用する。
扉を開ける前に、脱衣所に人がいると予想できた。なんとなく。
ノックするか。そう手を伸ばし、止めた。
少女たちには浴室を使う理由がない。自分を襲撃する算段だろう。ならば、気づかぬフリが礼儀か。そう考え、扉を開けた。
グレーテが立っていた——裸で。
「ん?」
「えっ」
彼女は咄嗟にバスタオルを掴んで、しゃがみこむ。だが手遅れだ。彼女の何も纏わぬ姿は既に目撃していた。透けるような白い肌やしなやかに伸びた脚。普段は隠されている部分までもが目に飛び込んでくる。反射的に、美しいな、と呟いた。
「大胆な色仕掛けだな。まず、その勇気を褒めておこう」
感心しつつ、襲撃に身構える。
しかし、どこからも少女が出てくる気配はなかった。
「……ボス」グレーテはバスタオルを抱えたまま、涙目になって震えている。
なにかがおかしい。
すぐに判断し、脱衣所から退出した。
その日以降、グレーテの態度は変わり始めた。
◇◇◇
(……振り返っても謎だ。好かれる要素がない)
事故とはいえ、裸を見られたのだ。嫌悪感を抱くのが自然。あるいは、関係が気まずくなるものだろう。しかし真逆の結果なのはなぜだ。裸を見せた相手に、責任を取ってもらうということか。それは性に対する価値観が前時代的というか、かなり歪んでいる。
「本日は御帰宅が遅くなりましたね……明日は、ゆっくり出来そうですか?」
回想に耽っていると、グレーテが声をかけてきた。
「いや、難しいな。大きな任務を引き受けたし、報告書の書き直しも命じられた」
「書き直し……? ボスともあろう方が?」
「僕が引き受けるのは、一度他人が失敗した任務が多いからな。今後の対策として詳細な記載を求められるんだ」
「さすが、ボスですね……」
「『なんとなく成功させた』と提出したら、ふざけるな、と」
グレーテは「あぁ」と哀し気な声をあげた。
それはクラウスの苦手分野でもあった。
彼は自身の行動を具体的に説明することができない。人がシャツの着方やボタンの付け方をうまく語れないように、彼はスパイに携わる技能を人に教えられない。僕を倒せ、という荒唐無稽な訓練方法はそれが理由だ。
もちろん報告書には、最低限の情報は羅列したし、大まかな出来事は記した。しかし、具体性を求められると、感覚的に答えてしまう部分が多くなる。
その結果、仕事を貯めてしまった。
しばらく休息は取れそうにない。
グレーテは何か言いたげな表情を浮かべた。
「ボス……」
「なんだ?」
「よろしければ、膝枕をさせてください……」
「よろしくあるか」
いきなりなんの提案だ?
訳が分からないでいると、グレーテは両腕を大きく横に広げた。
「ならば抱擁でも……」
「どうした? 熱でもあるのか?」
アプロ—チが激しい。
仲間から変なことを吹き込まれたのだろうか。
「一応聞くが、色仕掛けの訓練か?」
「いえ、ボスを欺く気は毛頭ありません……」
彼女は残念そうに顔を俯けさせた。
「ただ、休息をとってほしくて……」
「休息?」
「……前回の不可能任務の成功も、ほとんどボスの働きです。それだけでも激務だったにも関わらず、今も、任務も雑務も、わたくしたちの教育まで全て一人でこなして……」
前回の任務とは、生物兵器の奪還のことだろう。
計画通りとはいえ、彼女たちは敵に泳がされるがままに行動した。一流のスパイとの実力差は依然として存在する。彼女たちは囮として行動し、結局、クラウスがほぼ独力で解決する手法を取った。
「疲れ、等、も」グレーテが息を呑んだ。「溜まっているのでしょう……」
『等』を強調させた言い方。
触れない方が身のためだろう。
「気遣いは嬉しいが、今は訓練に集中してくれ。さしあたり僕を襲うことだ」
「っ! 夜這いのお誘い……!」
グレーテの声が上ずった。
クラウスは眉間をつねった。
「グレーテ、次に僕の部屋に来るときは、別の奴を連れてこい」
「っ! 複数で……!」
「僕一人ではツッコミきれない」
改めて思うが、このチームには変なやつが多すぎる。
グレーテが去ったことを確認して、息をつく。
部屋にはティーポッドが残されていた。中身は、なみなみ入っている。
彼女が運んできたのは、ちょうど喉の渇きを感じたタイミングだった。まるで願望を見透かしている。優れた観察眼がなくては、こうはできない。
紅茶の香りが漂う一室で、少女が残した言葉を考える。
(疲労か……)
Cには顔色がマシになったと言われたが、彼の発言は信用ならない。
自分を慕う彼女の発言を一考すべきか。
指で頬を触れる。
普段よりハリが弱い。筋肉が疲弊している。人より使用頻度の少ない表情筋でさえ。
(彼女の言う通り、休息を取るべきか。しかし、自分には——)
壁に視線を移す。そこには、ある武器が飾られていた。
スパイに似つかわしくない長大な道具。東洋の品だ。弓なりに曲がるそれは、戦闘の達人が用いると抜群の威力を発揮する。
刀。師匠であるギードの武器だ。今となっては形見でもある。
——守り抜け。今度こそ。
彼の遺言だ。
父親のようでもあり、親友のようでもあり、家族だった男。
(僕の心配よりも、彼女たちの成長こそ優先度が高いだろうな……)
脳裏にあったのは、Cから渡された任務だった。
『暗殺者殺し——それが今回の任務だ』
クラウスが追加で受け取ったのは、政治家の資料だった。
世界中で反帝国派の政治家が不慮の死を遂げているという。死因は転落死。自殺を仄めかす遺書も残っているが、偽造の可能性が高い。何者かに自殺を強要されたのだろう。
『ターゲットの名は「屍」——と私が今名付けた。死人のような外見らしい』
大仰な名前をつけたものだ。
『ディン共和国でも、二週間前、政治家が亡くなった。飛び降り自殺。やつの仕業と見るべきだろう。とうとう我が国にも侵入したようだ』
まるで子供のイタズラに呆れるように、室長は余裕をもって息をつく。
『第一課のチームが「屍」を追った情報だ。大切にしてくれ』
クラウスは頷いた。
次に告げられる言葉は予想がついた。
『この情報を掴んだ同胞は殺された。引き継いだ人間も殺された。つまり、これは不可能任務に分類される』
続行不可能と判断された任務——不可能任務。
任務の性質は、スパイというより秘密警察。国内の防諜か。
さらに資料を見た限りでは——。
『断言してもいい。前回の不可能任務よりも難易度は上回る』
クラウスも同意できる事実だった。
『優秀な同胞が何人も殺された。超一流の暗殺者に違いないし、暗殺を手引きする仲間がいるだろう。それに知っての通り、キミの情報は帝国に流出している。キミが表立って動けば、「屍」は雲隠れし、帝国に帰還してしまうだろう』
最後に室長は告げた。
『少女たちを参加させろ。独力では無理だ』
室長の言葉が耳にこびりついた。
対外情報室での一幕を振り返り、クラウスは息をついた。
読まされた資料を今一度思い出しながら、計画を練る。室長の脅しはハッタリではない。規模こそ小さいが、純粋な難易度は前回の生物兵器奪還よりも上回る。
かなり厳しい状況を覚悟しなければならない。
問題は、少女たちを参加させるかどうか——。
(いや、アイツらが『屍』に殺されるかもしれない……やはり僕一人で挑むべきか)
戦闘、読み合い、欺き合いで敵に劣る気はない。
しかし、どれほど自信があろうと、自分の身体は一つだ。あらゆるリスクには対応できない。少女を守り切れる保証はない。
(アイツらが成長をしてくれれば、話は別なんだがな……)
それは根拠のない願望だろう。指導する教官が断言するのだから間違いない。
なんにせよ、もう少し情報をかき集めてから判断したいところだが——。
『だがその前に、別の任務も任せたい』
室長からは、違うミッションも与えられていた。
(あの古狐め)
悪態をつく。
現役で最前線に立っていた頃は、相当のやり手に違いない。あの猛禽類のような眼光でターゲットを脅迫している様が目に浮かぶ。
つまるところ方針は一つだろう。
簡単な任務を迅速に終わらせて、『屍』殺しに備える。
自分の疲労など取るに足らない問題だった。
任務を授けられた翌朝、クラウスが外出する際、また少女たちに罠を仕掛けられた。
廊下に出た時、なぜか仔犬がいた。少女の一人が飼っている品種だ。逃げだしたか。そう感じ手を伸ばしたところで、仔犬はさっと身を引いて逃げていく。その仔犬を歩いて追うと、物置部屋に辿り着いた。五人の少女が待ち構えていた。襲いかかられる。
「お遊びにもならないな」
それを簡単にあしらう。
物置部屋を出ようとした時、ドアノブに罠が仕掛けられていることに気が付いた。死角に針。迂闊に握ってしまえば、指先を傷つける。
ハンカチで指を保護して摘まみ上げると、何か塗られていた。
毒——このチームの毒使いと言えば、一人、思い浮かぶ少女がいた。
「リリィ、お前か」
ひゃん、と奇妙な声が聞こえた。
扉が開いて、怯えた表情のリリィが顔を覗かせる。
「バ、バレました……? 油断したところに、罠を張ったつもりなんですが——」
「単純すぎる」毒針を彼女に返した。「熟練のスパイは悪意に敏感だ。この程度の罠は、僕でなくとも、なんとなく気づいてしまう」
「むぅ、これでも成長したと思ったのに……」
「解毒剤を忘れない程度には、か?」
「ふふーん! 最近は十回に一回しか忘れませんよ!」
一回あることが問題なのだが。
やはり任務に挑ませるのは不安が残る。
「ついでだ」ふと閃いて、彼女の肩を叩いた。「ちょっと、ついてこい」
きょとんとした彼女を引き連れて、陽炎パレスの敷地から出る。
街の一角に泊めてある乗用車に乗り込むと、リリィを助手席に座らせた。そのまま車を走らせて、高速道路に向かう。道中、確認しておきたい事柄があった。
「えっ、なんですか、強引に。もしかして、これがドライブデートという——」
「お前たちは、任務に参加したいか?」
混乱するリリィの声を遮る。
高速道路に入り、周囲に人影がなくなった辺りで切り出した。
「参考までに聞いておこうと思ってな。お前たちは現状をどう感じているんだ?」
「それは、もちろん——参加したいですよ」
リリィは勘違いを悟ったのか、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「死にたくない、っていうのは大前提ですけどね。みんな、スパイとして活躍するために訓練し、今だって先生を倒そうと頑張っていますもん。わたしだって世界に轟く名スパイとなって、ちやほやされたいです」
「そうか」
「それに、成功報酬がないとお給料だって下がるんじゃ……」
「その心配は要らない。僕単独で達成した任務でも、成功報酬は等分している」
「えっ? それなら、わたしはこのままサボりでも全然だいじょ痛ぁっ!」
ハンドルを握ったままで、彼女の額を指で弾いた。
「ちやほやされたい願望はどこに消えた?」
「だって! 何もせず寝ているだけで、お金たくさんもらえて、名スパイ扱いされて、崇められるのが理想じゃないですか!」
「欲望を垂れ流すな」
「でも——それが叶わないなら、やっぱり任務に挑戦したいですよ」
リリィは声量を押さえて呟いた。
「わたしたちだって、スパイですもん。世界を変えたいです」
その声には普段の軽薄な色はなく、深い感情が込められていた。
ただリーダーに指名されて、無邪気に喜んでいた時とは違う。横目で確認できる表情からは、使命感が窺えた。
「——極上だ」
辿り着いたのは、首都と港町の境にある地方都市だった。
二つの街を繋ぐ鉄道の沿線上に建っており、人口が数万人を超える街だ。規模こそ小さいが、駅周辺には無数の商業ビルが立ち並び、路地を形成している。
「続きは、任務が終わったあとに話そう」
クラウスが車から降りると、リリィの表情がぱっと華やいだ。
「えっ、さっそく任務に参加させてくれるんですかっ?」
「その通りだ。お前は一時間街を散歩し、飲み物を購入して車に戻ってこい」
「了解です。で、その後は?」
「帰宅する」
「へ?」リリィが口を開ける。
「ターゲットとの接触は、僕一人で十分だ」
彼女を車に乗せたのは、ゆっくり会話をするためだ。陽炎パレス内では、ここ最近、中々時間がとれない。
「それは任務じゃなくて、お使いですっ!」
リリィの不満を無視して、クラウスは髪を後方で縛り上げ、任務の態勢をとった。
室長に任されたのは、国内に潜むスパイの摘発。
任務の内容はシンプル。
他のスパイチームが得た情報を元に、ターゲットを捕縛するだけ。
ただ、相手は熟練のスパイ。帝国を信望する政治家に資金を援助し、港湾開発の妨害を目論んでいる。同胞が二度捕縛を試みたが逃げられ、自分に回ってきた。
集合住宅の一室が今回の潜伏先。クラウスは水道業者に扮して訪問したが、相手は襲撃を察知していた。同胞のミスだろう。室内に罠を仕掛けられていた。相手はクラウスを逆に捕らえ、情報を吐かせたかったに違いない。
その罠を切り抜けて、敵と交戦になる。
幸い、いくら暴れても問題ない環境だった。両隣の部屋の住人は不在。管理人いわく両部屋とも旅行に出かけているという。心置きなく闘える。
師匠譲りの格闘術で叩き伏せるまで、そう時間はかからない。
「お前、この街に仲間はいるか……?」クラウスはナイフを敵の喉元につきつける。
「…………」男スパイは無言を貫いた。
「いない、か。なら一安心だ」
「……っ」
敵の反応でなんとなく真実を察する。
どうやら、この街には彼の仲間はいないようだ。
「伝えておくと、他の街の仲間も摘発されている。くだらない誤魔化しはやめておけ」
国内に潜むスパイ網の摘発は、一斉に迅速に行う。
途中で摘発の情報が漏れ、相手に逃げられては敵わない。
「襲撃を察知した理由はなんだ? おそらく——か」
相手は沈黙を貫き通したが、その表情で全てを把握する。疑問は氷解した。
これで任務は完了だ。
クラウスは同胞に連絡を入れて、身柄を引き渡した。背広姿に着替え直して、部屋を出た。後処理は全部他チームがやってくれる。今回はもう帰って報告書を記すだけだ。
クラウスは自身の手をじっと見つめた。
(やはり筋肉が重たい……)
追い詰められた相手は、毒薬を飲もうとした。微量と言えど、口に含ませてしまった。貴重な情報源であるターゲットを死なせていた可能性がある。
連続無休の影響が出始めた頃かもしれない。
(時間はないが、期待させたリリィの詫びも兼ねて、レストランで休息でも——)
そう思い始めた時だった。
——発砲音。
数瞬後に、悲鳴。
街から聞こえてきた。
反射的に顔を上げる。この地方都市には、いくつかのギャングが存在するが、抗争が行われる情報は入っていない。自暴自棄になった敵スパイの暴走? だが、先ほどのスパイに、仲間はいないはずだ。
正体不明の銃声。
なにより、あの悲鳴の主はリリィだった。
彼女が何かに巻き込まれた——?
(疲労を言い訳にはできないな……)
幸い、装備はほぼ完全な状態だ。銃も携帯しているし、他のスパイ道具も身に着けている。相手は運が悪い。
(相手が誰かは分からないが、僕の仲間に手を出して、ただで済むと思うな)
心の中で呟いて、クラウスは路地に向かって駆け出した。
幸い、突然街に響いた発砲音に市民は戸惑いを見せていなかった。
それを不思議に感じていると、路上の廃車に警察が群がっている光景を見かけた。タイヤがパンクしている。先ほどの音は、タイヤが劣化により爆ぜた音だと勘違いしたのか。警察はすぐに去ろうとしている。街は平穏そのものだ。
しかし、あれは間違いなく銃声だった。
何者かが意図的に警察を誘導しているとしか思えない。
悲鳴の方向に駆けると、リリィは目立つ場所にいた。路地の中央で座り込んでいる。
——腕から出血。
彼女はドラム缶に背中を預け、右腕の応急処置をしていた。自身の制服のスカートをナイフで割いて、包帯を作っている。首筋に流れる珠のような汗が、その痛みを物語る。
クラウスが駆けつけると、彼女は路地の奥に目を向けた。
「先生っ! わたしは大丈夫なので、西に! ベージュのコートを羽織った男ですっ!」
相当深い傷をつけられたようだ。彼女の足元には、血のたまりが出来ている。
状態は気になったが、今は彼女の言う通り、襲撃者を追うべきだ。
(何者だ……?)
全力で路地を駆ける。人気の無い裏路地だ。すれ違う人間はいなかった。
しかし、コートの男は見つけられない。既に遠くへ逃げられたようだ。
目を閉じて、耳に意識を集中させる。路地を駆ける足音は二名のみ。しかし、焦燥や動揺の感情を滲ませる足音ではない。直感的に。
足音はクラウスとは遠い場所だ。メインストリートに混ざっていき、他の足音と混ざっていく。これ以上聴力で追うのは難しい。
立ち並ぶ建物の屋根にワイヤーを引っかけ、跳躍。
屋根の上まで到達すると、辺りに視線を飛ばした。
ベージュのコートを羽織った男の姿はない。
逃げる素振りのある男も、尾行を警戒するような素振りのある男も。
既に路地には、あらゆる人の気配が消えていた。
(逃げられたか……? いや、何か違和感があるな)
その引っ掛かりを掴めないが、一度諦めるしかない。
元の場所に戻ると、リリィは応急処置を済ませていた。
腕に包帯を巻き終えて、汗も引いている。
「あ、先生。敵はどうでした?」
やけに軽い口調だった。
「すまない。残念ながら、取り逃がしたようだ」
「えっ、先生でもっ?」
「信頼は嬉しいが、場所が悪すぎたよ」
あまり主張すると言い訳じみているが、さすがに無理だ。
襲撃が起こった時点で、現場とは離れた場所にいたのだ。駆けつけた時に姿を消されていたら、手の出しようもない。
「…………」
しかし、リリィは不思議そうに黙っている。
「なんだ? 失望させたか?」
「あ、いえ、ただ先生が自信満々に敵を追いかけたので、ちょっと意外で……」
「自信満々?」
自分は、そんな態度を見せていただろうか?
だとしたら相当恥ずかしいが。
「——いや、今は襲撃のことはいい。腕の治療が先決だ」
「あ、そうですね」
またリリィから詳細を聞いて、尋ねておこう。対外情報室が知っているかもしれない。これが「屍」に関係しているのなら、面白い展開だが——。
クラウスが病院の方に歩きながら、考えを巡らせていた時だった。
えい、と声がした。
振り返ると、奇妙な光景が広がっていた。
分からなかった。
なぜ目の前の出来事が引き起こされているのか。
リリィがクラウスの腕に毒針を突き立てていた。
しかも、怪我しているはずの右腕で。
全身に悪寒がはしる——。
燃えるように身体が熱くなり、汗が噴き出した。
リリィの毒針の効果だろう。凄まじい即効性。
毒のスペシャリスト『花園』のリリィが作り上げる秘毒——。
「なぜ……?」震える唇で尋ねた。
「えっ、先生が言ったんじゃないですか?」
視界の先では、リリィが首をかしげている。
「『次に会った時、鎮痛剤として毒針を打ち込め』って」
当然言った記憶はない。
「鎮痛剤……?」
「だって、先生の右腕は出血していて……」
出血? そんなはずがない。右腕を怪我していたのは、リリィのはずだ。
それ以上言葉を聞いていられず、リリィにもたれかかった。
足に力が入らなくなっている。頭が目まぐるしく重たい。
彼女は慌てた声をあげながら、クラウスを抱き留めた。自らの過ちを悟ったようで、目を白黒させている。
その混乱の最中、ようやく抱いていた違和感が繋がった。
「——極上だ」
リリィの腕に掴まって、そう言葉を吐き出した。
やはり彼女の腕には、怪我の痕跡がない。
「なるほど。素晴らしい手段だな。発砲後、僕に怪我を訴えたリリィと、今ここにいるリリィは別人か」
「へ……?」
「更に言えばリリィ。今ここにいる僕と、そして、右腕から出血し『毒針を刺せ』とリリィに命令した僕も別人だ」
考えうる可能性は一つだ。
「僕たちは二人いる」
その鮮やかな手口に惚れ惚れする。
リリィを完全にコントロールしたのだろう。
敵はクラウスになりすまし、右腕の怪我を見せ、リリィに悲鳴をあげさせた。その後は適当に言い伏せたのだろう。『右腕に包帯を巻き、再会したら毒針を刺してくれ』と。敵はそうやってリリィを欺き終えると、自信満々にその場を去り、次はリリィに変装し、クラウスと接触した。
流れるような計算、そして、並外れた変装技術——。
こんな芸当を出来る人間は一人しか知らない。
「……想定通りです」
静淑な声がした。
振り返る。
そこにいたのは、もう一人のリリィ。右腕についた血液を拭い、微笑みを浮かべる。
「ボスは罠に敏感です……悪意や殺気は、確実に気づいて対処します……」
今朝の一幕も見ていたのだろう。
ドアノブのトラップに察知し、回避するクラウスの姿を。
「なので、リリィさんを操り、善意の毒針を撃ち込みました」
もう一人のリリィは、自身の顔を指で触れる。
「コードネーム『愛娘』——笑い嘆く時間にしましょう」
その名乗りと共に、彼女は左手でリリィの顔を剥ぎ取った。
マスクの下にいたのは、赤髪の少女。
——変装のスペシャリスト、グレーテだった。
◇◇◇
スパイの世界では、変装はありふれた工作だ。
別人に変装する技術は誰でも身に着けている。カツラ、サングラス、化粧——それらをうまく用いれば、難しいことではない。
しかし、他人に変装する場合は別だ。難易度は別次元だ。
まず、顔の全面を覆う樹脂製のマスクを用意し、そこに色付け、肉付けする。
求められるのは、針を穿つような観察力。
他人の姿を、仕草を、声を、完璧に真似するのは、一流のスパイでも困難な技術。
しかし『灯』のメンバーを集める際、クラウスは養成学校で聞かされた。
類まれな変装の技術がありながら、実力を発揮できない少女がいる——と。
◇◇◇
(いや……彼女はどう考えても、十全にその実力を発揮しているのだが)
情報との食い違いに戸惑う。
クラウスは特別な指導をしていない。彼女がどんな事情を抱えていたかは分からないが、自分で乗り越えたのか。それとも、教官の目が節穴だったのか。
「……とうとう追い詰めました」
グレーテが嬉しそうに微笑む。手には、カツラと破り捨てたマスク。
彼女の技術は、見る度に驚かされる。
彼女は今さっき完全にリリィだった。外見、声、仕草を完璧にコピーしている。
クラウスがその変装を見落とした理由は、彼女の技術の高さ——だけでなく、傷だ。
あまりに生々しく、滴り落ちる血。
血は本物だろう。錆びた鉄の匂い。輸血用のものを使用したか。仲間の流血を見て、動揺しなかったと言えば嘘になる。クラウスの弱点を見抜かれている。
「…………」
クラウスは悔しそうな演技を続けながら、さりげなくリリィの服に手を伸ばした。事前に告げられた情報が正しいなら、そこには解毒剤を忍ばせているはずだ。
「解毒剤はねぇよ」しかし、背後から凛然とした声が聞こえてきた。「——もう盗んだ」
路地裏から、別の少女が顔を出している。
『灯』の一員、白髪の少女、ジビアだ。
彼女の宣言通り、リリィの身体のどこにも解毒剤はなかった。
そして、ジビアに続くように、続々と他の少女も現れた。武器を片手に、クラウスを包囲するように現れる。チーム全員の少女八人が路地に集う。おそらく先ほどメインストリートに紛れていった足音も、別の少女が演じていたか。
彼女たちは各々の「さすがグレーテの計画ね」「俺様も凄いと思いますっ」とグレーテに賞賛の言葉をかけている。
その様子にキョトンとしていたのは、リリィだった。
「え。わたし、何も聞いていないんですけど」
「……事前に伝えていたら、ボスに情報が漏れていたので」
「納得できるので反論できないっ」
リリィはそっとクラウスの身体を地面に座らせた。
石畳に腰をかけるクラウスを囲むように、少女たちは並び、勝ち誇った表情を見せている。この時を待っていたかのように。
ふふ、と嬉しそうにグレーテは微笑んだ。
「這いつくばるボスも魅力的ですね……膝枕が似合いそうです……」
クラウスは首を横に振った。
「お前に、そんなサディスティックな一面があるとは知らなかった」
「ボスはマゾヒストだと推測しています……」
「そういう意味で日頃『襲え』とは言ってない」
「自分を追い込みすぎですよ……」
グレーテは口にした。
「……本調子のボスならば、傷ついたリリィさんを見て、変装を見抜いたでしょう……」
「…………」
「三か月前に『焔』を失って以来、ボスは多くを成し遂げました。『灯』のメンバーを選抜し、自身が休息を捨てるような訓練を部下に命令させ、不可能任務を成功させた。その後も、未熟な『灯』のため休暇返上で働いておられます」
「そんな気もするな」
「最後に休みを取ったのは、いつですか……?」
隠し立てできない圧があった。
少女たちは知らないことだが、『焔』を失う直前までは、単独で特別任務に務めていた。それを含めればかなりの日数となる。
「……四百六十五日前だ」
「「「「うわぁ……」」」」
何人かの少女のリアクションが重なった。
約十五か月間。休暇を取らず、任務と訓練に明け暮れていた。
「アンタ、バカじゃねぇの?」と少女の一人にツッコまれる。
グレーテが息をついた。
「……無茶ですよ。常人なら血を吐いて倒れる水準です」
彼女の言葉に、他の少女の楽し気な声が続いた。『自分たちも頼ってくれ』『次は全員で任務にチャレンジしよう』と、そんな趣旨の言葉が、いくつもあがる。
やはり彼女たちも現状に疑問を感じているようだ。
だからこそ力を示すために、連携と技術を見せつけてきた
「………………」
クラウスは返答が浮かばなかった。
「もう抱え込まないでください……」グレーテは微笑んだ。「もうボスには、わたくしたちがついております……」
グレーテはそっと懐から銃を取り出した。小ぶりの自動拳銃だ。
「さぁ『降参』の宣言を……」
その銃をカシャリとスライドさせて、クラウスの額に銃口に押し当てる。
「——そして、どうか、今晩からはわたくしの胸で眠ってください」
慈愛に満ちた笑みだった。
女神のような、温かみのある穏やかな瞳をしていた。
クラウスは両手をあげた。無抵抗を示すように。
「お前たちの想いは受け取った」
グレーテは頬を緩ませた。「はい……」
「確かに、僕は疲れている。不可能任務を終えても休暇は一日も取らなかったし、特に、この二週間は任務が連続し、任務の合間にはお前たちとの訓練があった。さすがの僕だって体力は無尽蔵ではない。これが疲労困憊という状況なのだろう」
「えぇ、だから——」
「だが、ところで——」
クラウスは告げた。
「——このお遊びには、いつまで付き合えばいい?」
「え……」
クラウスは地面に這うように倒れた。
銃口から離れると共に、脚を大きく伸ばしてグレーテの足を払う。
その俊敏な動きにグレーテは反応できなかった。元々格闘が得意なタイプではない。彼女が体勢を整える頃には、形勢は逆転している。
彼女の喉元に、クラウスの貫き手が当たっていた。
「——極上だ」
ほんの少しでも動けば、爪で頸動脈を裂く。
そう脅すように、彼女の細い首を指で触れた。
他の少女は何も動けなかった。呆然と立ち尽くしている。
「敵意のない毒針——見事だな。その発想をまず褒めておくよ」
クラウスの身体からは、毒は抜けている。
会話を引き延ばしている間に、体調を取り戻せた。
「ごめんなさい……」リリィが申し訳なさそうに呟いた。「毒針を完全に刺せなかったんです。掠ったので、微量は盛れましたけど、血管には到達してなくて……」
彼女に批難される謂れはない。何も聞かされず、利用されただけなのだから。
グレーテは目を丸くし、固まっていた。
「どうして回避を……」舌が回っていない。「攻撃を読めるはずが……」
「読めていたよ」
クラウスは彼女の首から指を離した。
「お前の言う通り、一流のスパイは、悪意や敵意に敏感だ。善意の攻撃が有効的なのは間違いない。しかし、事前にあれだけ不審な点が散見していれば、警戒もする」
「事前に予測……?」
「人払いが露骨すぎた」
クラウスは、グレーテの手首を軽く弾いた。彼女は銃を取り落とした。それを奪って、手の中で軽く回した。
他の少女が襲い掛かる様子はない。彼女たちも理解しているだろう。万全の自分にただ挑んでも勝ち目はないことを。
「察した理由は、なんとなく。だが、不審な点をあげればキリがない」
解説を続ける。
「流血するリリィは路地中央、目立つ場所にいて、足元には血だまりがあった。長時間そこにいたのは確実。なのに僕以外誰もいない。市民や警察がパンク車を銃声の発生源と錯覚し、誰もそこに駆けつけなかったからだ。偶然にしては出来すぎている。その目的までは不明だが、銃声とパンク音を耳で聞き分けられる人物を嵌める意図は察したさ」
銃声は、遠く離れていたはずのクラウスにまで届いた。
警察や勇気ある市民は、人気のない路地裏に駆けつけるだろう。しかし、パンクした車を見て足を止める。その先に進み、怪我をしたリリィを発見できるのは特別な訓練を受けたスパイだけだ。
この瞬間に、敵の狙いは自分であると察した。
もちろん、そんなものは後付けの理由で、自分は直感で把握したのだが。
「露骨な誘導に気が付けば、自然に警戒する——」
クラウスはハッキリと告げた。
「——今日、僕と闘ったスパイもそうだった」
相手は、両隣の住人が同時に旅行に出かけたことを不審に感じたという。杜撰な人払いだ。その時は同胞に呆れたが、今となっては他人事に思えない。
同じ過ちを犯した少女たちは唖然として、口を開ける。
クラウスは、少女たち一人一人に視線を飛ばした。
「仮に、今日の任務をお前たちに任せていたら、お前たちは殺されていたよ」
少女たちは気まずそうに目を逸らした。
最後、グレーテに首を向けると、彼女は最後まで顔を背けなかったが、その表情は先ほどの覇気は無かった。
「お前たちには、極上の才能がある。いずれ花咲くだろう。だが現状、実力は不十分だ」
クラウスは言い残した。
「僕はお前たちを頼れない」
少女たちを置いて、そっと路地を抜けた。
その夜、クラウスは自室で息を吐いた。
(アイツらを任務に連れて行くのは、まだ厳しいな……)
今日の結果を考えれば、そう判断せざるをえない。
(たとえ無理を押してでも、僕一人で挑むしかない)
それが合理的な選択だ。
過酷だろうと関係がない。『屍』には一人で挑むしかないようだ。
(難しいものだ、新チームを運営するというのは……)
そう改めて感想を抱いた。
次なる任務に向けた情報整理や報告書の作成など一日を終えても、仕事はまだ大量に残っている。そして、それは世界最強の自分でしか処理できない案件ばかり。
疲労は感じているが、ここで自分が無茶をしなければ誰かが代わりに命を落とす。
(問題が山積みだな……)
——次々と降りかかる高難度任務。
——それらを安全に達成できるとは言い難い部下たち。
——着実に、そして、確実に溜まり続ける自身の疲労。
——迫りくる不可能任務「暗殺者殺し」。
チーム作りを侮っていたつもりはないが、この様だ。
戸惑いながら正解を模索するしかない。
導いてくれる師匠や自分のボスはもういない。尊敬できる仲間は失われた。
教官であると同時に、一流のスパイ。それを全うするにはどうするか。
(『焔』の仲間はもういない。僕が身を滅ぼしてでも、アイツらを……)
そんなことを考えながら、クラウスはつい目を閉じて——。
考え事をしているうちに、微睡んでしまった。
座りっぱなしだった椅子の背もたれから、身体を離す。
ベッドではない場所で眠ってしまうなんて、いつぶりだろうか。少年時代に戻った気分だ。訓練の後は、よく広間のソファで眠りこけていた。
無意識に、また過去の幻影に囚われている自分に気づいて首を横に振る。世界最強のスパイを自負する人間が、そんな甘えた男なんて冗談もいいとこだ。
自分を意識から引き上げたのは、優しい草の香り。
「……グレーテ?」
「本日のお茶をお持ちしました……」
机のすぐ隣では、ティーポッドが載せられたトレーを持つグレーテの姿があった。
「よく眠れるよう、ハーブティーをご用意させていただきましたが。逆に起こしてしまったようですね……」
「いや、構わない。少し眠っていただけだ」
「昼間は訓練に付き合っていただき、ありがとうございました……先ほど、反省会が終わったところです……」
グレーテは手早くティーカップにお茶を注いでいく。
自分が微睡んでいたのだから、襲撃を企てればよかったのに。
そう感じるが、彼女にも彼女の主義があるようだ。ハーブティーに毒の形跡はない。
グレーテはお茶を差し出して、両腕を大きく横に広げた。
「……さぁ、最後にわたくしとハグをすれば完成で——」
「それはいい」
ありがたくお茶だけをもらう。
グレーテは露骨に残念そうに睨みつけてきた。当然、クラウスは無視する。
「……お前はブレないな」
もはや称賛する。
昼間の敗北で諦めてくれると思ったが、アプローチが絶えることがない。お茶を口に含んだ瞬間に、喉が渇いたことを自覚させられるタイミングの良さも見事だ。
彼女は茶を飲んでくれたことで気を取り直したのか、満足げな表情で、ハーブティーを飲む自分を眺めている。
「あえて率直に聞くが」
そろそろ確認したかった。
「お前は、僕のことが好きなのか?」
「……っ!」
グレーテの肩が震えた。
ずっと握っていたトレーを取り落として、バタバタとした不自然な動作で拾い直す。
「……さ、さすがはボス」目を丸くしていた。「……よくお気づきになりましたね」
「隠しているつもりだったのか?」
「……………………………………………………」
しばらくの沈黙があって、グレーテはぼそりと呟いた。
「……想定通りです」
「嘘をつくな」
クールに告げられても、さすがに流せない。
スパイの恋愛感情は難しい問題だ。チームで行動する場合、任務よりも恋情を優先する者も出てくるし、場合によっては、弱味になる時もある。気づかないフリを続けていれば、思わぬところでトラブルが生じする。
ここはしっかり告げるべきだろう。
「グレーテ、僕は、お前の想いには——」
「返事は……」グレーテの声は震えていた。「……待ってください」
強引に遮られる。
彼女は首を横に振っていた。
「……それは、心の準備ができておりません」
「できればハッキリさせておきたい」
「ですが……」
消え入りそうな声を聞いていると、申し訳なくなった。
スパイと言えど、相手は十八歳の少女だ。心に土足で上がり込む真似は控えるべきか。
「すまなかった。では別の機会にしよう」
「……ありがとうございます」
「ただ、公私混同は感心しない、とだけ伝えたかった。明日からはお茶を淹れなくていい。お前は僕の使用人ではない。僕に気を遣わず、訓練に励んでくれ」
グレーテは不服そうに唇を結んだ。
彼女の恋心を丁寧に扱いたい心はあるが、今の自分には手一杯だ。
教官とスパイ、それに加え、男としての責任まで背負う余裕はない。
「……わかりました」
やがて彼女は頷いた。
「ですが、せめてこの報告書だけでも……」
「報告書?」
「本日、ボスが達成した任務の報告書です……」
グレーテは隠し持っていた書類を渡してきた。数枚の紙が綴じられている。
「差し出がましいとは思いましたが……ボスが苦戦しているとおっしゃっていたので」
「……代筆してくれたのか」
「はい……ボスの動きを見張って、書ける範囲だけでも、と」
中身を確認する。自分の動きが事細かに記されていた。
見張られていた気配はないから、かなり遠くの距離で双眼鏡を用いたのだろう。これも自分の任務に迷惑かけないよう配慮した結果か。
「もはや、さすが、という言葉しか出てこないな。お前は気遣いがすぎる」
「……ボスのためですから」
「ありがとう。受け取っておく。僕は仕事に専念するから、お前は早く寝るといい」
グレーテは丁寧に頭を下げた。
頭を下げるべきなのはこちらだが、彼女らしい。
彼女はそのまま飲み干したティーカップを片付けて、部屋から出ていこうとする。
クラウスはその部下の献身を労い、改めて机に向き合った。休憩ができたことで気力は取り戻してある。『屍』との闘いに備え、自身の仕事に取り掛かろうとして——
「いや、待て」
——グレーテを引き止める。
違和感があった。
鍛え上げた直感が、その不思議な感覚に警鐘を鳴らしている。
何かを見落としている。その何かを理性が強引に救い上げる。
「だったら、お前はいつ今回の計画を立てたんだ?」
まさに今退席しようとしていたグレーテが首を傾げる。
「いつ、と言いますと……?」
「早すぎる」
クラウスは訝しむ視線を向けた。
「僕は、今日の任務を誰にも伝えていなかった。お前が計画を練る暇はないはずだ」
今回の襲撃は、少女たちに準備期間はなかった。
クラウスがリリィを車に乗せたのは、その場の思いつきだ。任務の内容も伝えていない。しかし、多少の粗はあれど、グレーテを中心に流れるような連携を見せた。
それでも十分評価はできるのだが、更に別の仕事も並行していた——?
グレーテは口元に指をあてた。
「そうですね……リリィさんにつけた発信機が移動したのを見て、場所を予測し、全員で集めて汽車に飛び乗り、状況を把握するのに時間をかけて……」
グレーテは小さく呟き、情報を整理する。
やがてその答えを吐き出した。
「2秒……それが、今回の計画を練り上げた時間です……」
短い。
だが嘘とは思えない。クラウスが訪れた町まで移動し、クラウスやリリィの居場所を把握する時間、人払いを行う時間を考慮すれば、計画を練る時間なんて皆無だろう。
圧倒される。
もちろん、クラウスならば同じ時間で、更にクオリティの高い計画を思いつく。しかし、それは自分が世界最強を自負するほど優れたスパイだからだ。
彼女の頭脳は、既に凡百のスパイを超えていた。
たった二か月前まで養成学校で落ちこぼれただった少女が——。
才能だけでは説明できない驚異の成長速度。
「……ですが、褒められるようなことではありません」
グレーテは首を横に振った。
「事前に何百、何千とシミュレーションした一つを試しただけです……毎日ボスと闘っていれば、精度の高い想定ができます。そうして毎晩毎晩ボスを攻略する方法を練り、アイデアを溜めて、そのストックから、状況に合う一つを選び取るだけです……」
「お前はそこまで……」
「当然ではありませんか。想いを馳せる相手が、一人で全てを背負い、身体すり減らし、自分に頼ってくれない。支えるどころか訓練まで付き合わせているのですよ……?」
グレーテはどこか泣きそうな瞳で告げた。
「歯がゆくて仕方ありません……恋人の負担にしかなれない無力な自分が……」
クラウスは唖然とした見つめ返す。
その何千と繰り返した計算が急成長の要因とでも?
あまりに深すぎる愛情——。
クラウスには分からない。
——なぜグレーテはここまで自分に想いを捧げるのか?
その答えは、クラウスの直感でさえも掴めない。
しかし、今優先すべきは別のことだ。
「————————」
迷いは一瞬。決断には時間はかからない。
光明が差した。
この八方塞がりの状況を打破する手段。
ならば、まずは彼女の誤解を解くことから始めよう。
「グレーテ」
クラウスは声をかけた。
「僕は、お前を負担なんて思っていない」
「……え」
「それどころか感謝している。『焔』の喪失で生まれた心の空洞を埋めてくれたのは、お前たちだった。本当は僕が誰よりも『灯』の存続を望んでいた」
グレーテが両眉をあげた。
「そうなの、ですか……?」
「あぁ、それゆえに慎重になりすぎている。みっともないほどに」
臆病者と謗られるだろう。
大切に想う。それゆえに失いたくはない。
しかし、それでも一歩を踏み出さなくてはならない。怯えるだけでは何も掴めない。
「暗殺者殺し——それが次の任務だ」
「……えっ」グレーテが目を見開いた。
「グレーテ、力を貸してくれないか? お前が必要だ」
懸けるしかない。彼女の理智さと愛情に。
チームが次の段階に進むためには、彼女の強い覚悟が不可欠だ。
グレーテは息を吸った。
「もしかして、それは……」
「なんだ?」
「……プロポーズですか?」
「違う」
肩の力が抜けた。
なにをどう解釈したのか。やはり自分の気持ちをハッキリ伝えるべきか。
「……冗談です」
しかし、クラウスが口を開く前にグレーテは薄く微笑んだ。
「ボス、わたくしはこの恋が報われるなんて、露ほども期待しておりません……愛に見返りは求めません……しかし、わたくしの返答は決まっております」
静淑で、それでいて、実直な声だった。
「——喜んで引き受けます。それがアナタと、アナタの作るチームのためならば」
瞳には、迷いがない。
その愛情の根拠は不明だが、言えることは一つだけだ。
「——極上だ」
「……想定通りです」
クラウスが告げ、グレーテは静淑な声で呟いた。
とにかく、ようやく新たな可能性が見いだせた。
前回をも上回る難易度の不可能任務——それを成し遂げる方策は思いついてある。
「四人のメンバーを選抜する」
「選抜……?」
「あぁ。残念ながら、今回の任務には八人全員を連れていけない」
クラウスは頷いた。
「現時点における——『灯』最強の四人で暗殺者に挑もう」
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