グレンの学院内における評判を地におとしめた決闘騒動から三日が経った。グレンの授業に対するやる気のなさは相変わらずで、学院内の生徒達の評判はすこぶる悪い。
 だが、当のグレンはなんの負い目もないようだ。のんべんだらりと日々をこなしていた。
 やがて生徒達はグレンの授業中に、自由に自習をするようになる。元々学習意欲の高い者達ばかりなので、グレンの授業で時間を無駄にしたくないのだ。生徒達は皆、思い思いに魔術の教科書を広げ、思い思いに勉強に励んでいる。
 そんな生徒達の様子を見て、グレンも何一つ文句は言わない。いつの間にかそれがグレンと生徒達との間での暗黙の了解になっていた。

「はーい、授業始めまーす」
 その日もグレンはいつものように大幅に授業に遅刻してやって来た。そして、死んだ魚のような目で、やる気のない授業を始める。
 生徒達はため息をついて、教科書を開き、自習の準備に入る。
 実にいつもの光景だが、こんなやる気のない授業から、まだ何かを学ぼうとする健気で真面目な生徒がいたらしい。
「あ、あの……先生。今の説明に対して質問があるんですけど……」
 授業開始から三十分ほど経過した頃、おずおずと手を上げる小柄な女学生がいた。初日の授業でグレンに質問し、あっさりあしらわれてしまった少女――リンだ。
「あー、なんだ? 言ってみ?」
「え、えっと……その……今、先生が触れた呪文の訳がよくわからなくて……」
 するとグレンは、面倒臭そうにため息をついて、教卓の上に置いてあった本を一冊拾い上げた。
「これ、ルーン語辞書な」
「……え?」
「三級までのルーン語が音階順に並んでるぞ。ちなみに音階順ってのは……」
 グレンがルーン語辞書の引き方を解説し始めた時、グレンに関してはもう無関心を決め込むつもりだったシスティーナも流石に黙っていられなくなり、立ち上がる。
「無駄よ、リン。その男に何を聞いたって無駄だわ」
「あ、システィ」
 質問をしたリンは、グレンとシスティーナに挟まれて所在なさげにおろおろする。
「その男は魔術の崇高さを何一つ理解していないわ。むしろ馬鹿にしてる。そんな男に教えてもらえることなんてない」
「で、でも……」
「大丈夫よ、私が教えてあげるから。一緒に頑張りましょう? あんな男は放っておいていつか一緒に偉大なる魔術の深奥に至りましょう?」
 システィーナがうろたえるリンを安心させるように、笑いかけたその時だ。
 一体、何がその男の心の琴線に触れたのか。
「魔術って……そんなに偉大で崇高なもんかね?」
 ぼそりと、グレンが誰へともなくこぼしていた。
 それを聞き流せるシスティーナではない。
「ふん。何を言うかと思えば。偉大で崇高なものに決まっているでしょう? もっとも、貴方のような人には理解できないでしょうけど」
 鼻で笑い、刺々しい物言いでばっさりとシスティーナは切り捨てた。
 普段の怠惰で無気力なグレンならば、「ふーん、そんなものかね?」などとぼやいてこの話は終ったはずだ。だが――
「何が偉大でどこが崇高なんだ?」
 その日はなぜか食い下がった。
「……え?」
 想定外の反応にシスティーナも戸惑う。
「魔術ってのは何が偉大でどこが崇高なんだ? それを聞いている」
「そ、それは……」
 即答できない自分にシスティーナは苛立った。確かに魔術は偉大だ崇高だとは周りを取り巻く人間がそう連呼するから、そういうものだと認識していた節もある。
「ほら。知ってるなら教えてくれ」
 だが、決してそれだけでもない。呼吸を置いて言葉をまとめ、自信をもって返答する。
「魔術はこの世界の真理を追究する学問よ」
「……ほう?」
「この世界の起源、この世界の構造、この世界を支配する法則。魔術はそれらを解き明かし、自分と世界がなんのために存在するのかという永遠の疑問に答えを導き出し、そして、人がより高次元の存在へと到る道を探す手段なの。それは、言わば神に近づく行為。だからこそ、魔術は偉大で崇高な物なのよ」
 自分では改心の返答だとシスティーナは思っていた。
 だから、返ってきたグレンの言葉は不意討ちだった。
「……なんの役に立つんだ? それ」
「え?」
「いや、だから。世界の秘密を解き明かした所でそれが一体なんの役に立つんだ?」
「だ、だから言っているでしょう!? より高次元の人間に近づくために……」
「より高次元の人間ってなんなんだよ? 神様か?」
「……それは」
 即答できない悔しさにシスティーナは打ち震えていた。
 そんなシスティーナに、グレンはつまらなさそうに追い討ちをかける。
「そもそも、魔術って人にどんな恩恵をもたらすんだ? 例えば医術は病から人を救うよな? 冶金技術は人に鉄をもたらした。農耕技術がなけりゃ人は飢えて死んでいただろうし、建築術のおかげで人は快適に暮らせる。この世界で術と名付けられた物は大体人の役に立つが、魔術だけはなんの役にも立ってないのは俺の気のせいか?」
 グレンの言うことはある意味真実だ。魔術を使うことができ、魔術の恩恵を受けられるのは魔術師だけだ。魔術師でない者は魔術を使えないし、魔術の恩恵は受けられない。まるで当たり前のことだが、魔術が人の役に立てない最大の理由だ。魔術は冶金技術や農耕技術のように、その行使が直接的に広く人の益となる性質の技術ではないのである。
 そもそも、魔術は秘匿されるべきものだという思想が、大多数の魔術師達の共通認識であり、魔術の研究成果が一般人に還元されることを頑として妨げている。ゆえに今でも魔術は多くの人々にとっては不気味で恐ろしい悪魔の力であり、普通に生きていく分には見ることも触れることもない代物だ。
 そう、事実として魔術は人々に直接役に立っているとは言えない。魔術を一般人の俗物極まりない視点で切り捨てた意見ではあるが、それは厳然たる事実だった。
「魔術は……人の役に立つとか、立たないとかそんな次元の低い話じゃないわ。人と世界の本当の意味を探し求める……」
「でも、なんの役にも立たないなら実際、ただの趣味だろ。苦にならない徒労、他者に還元できない自己満足。魔術ってのは要するに単なる娯楽の一種ってわけだ。違うか?」
 システィーナは歯噛みするしかなかった。どうしてこの程度の俗物的な意見すら切り返せないのか。圧倒的に言い負かされてしまっているのか。
 誇り高きフィーベル家の次期当主として、魔術に全てを捧げてきたこれまでの人生を真っ向から否定されているというのに、何をどうやってもこのグレンという男の言を崩せそうにない。一応、この男は一つの堅い事実の上に論陣を張っているからだ。
 あまりもの悔しさにシスティーナが唇を震わせていると……
「悪かった、嘘だよ。魔術は立派に人の役に立っているさ」
「……え?」
 グレンの突然の意趣返しにシスティーナはもちろん、固唾を呑んで二人の様子を見守っていたクラスの生徒一同も目を丸くする。
 だが。
「あぁ、魔術は凄ぇ役に立つさ……人殺しにな」
 酷薄に細められたその暗い瞳、薄ら寒く歪められた口から紡がれたその言葉は、クラス中の生徒達を心胆から凍てつかせた。
 その姿は……普段の怠惰なグレンとはまるで別人のようだった。
「実際、魔術ほど人殺しに優れた術は他にないんだぜ? 剣術が人を一人殺している間に魔術は何十人も殺せる。戦術で統率された一個師団を魔導士の一個小隊は戦術ごと焼き尽くす。ほら、立派に役に立つだろ?」
「ふざけないでッ!」
 流石に看過できなかった。魔術を無価値と断じられるならまだしも、外道におとしめられるのは我慢ならない。
「魔術はそんなんじゃない! 魔術は――」
「お前、この国の現状を見ろよ。魔導大国なんて呼ばれちゃいるが、他国から見てそれはどういう意味だ? 帝国宮廷魔導士団なんていう物騒な連中に毎年、莫大な国家予算が突っ込まれているのはなぜだ?」
「そ、それは――」
「お前の大好きな決闘にルールができたのはなんのためだ? お前らが手習う汎用の初等魔術の多くがなぜか攻性系の魔術だった意味はなんだ?」
「――それは」
「お前らの大好きな魔術が、二百年前の『魔導大戦』、四十年前の『奉神戦争』で一体、何をやらかした? 近年、この帝国で外道魔術師達が魔術を使って起こす凶悪犯罪の年間件数と、そのおぞましい内容を知ってるか?」
「――っ!」
「ほら、見ろ。今も昔も魔術と人殺しは切っても切れない腐れ縁だ。なぜかって? 他でもない魔術が人を殺すことで進化・発展してきたロクでもない技術だからだ!」
 流石にここまで来るとグレンの言は極論だった。確かに魔術には人を傷つける一面が数多く存在するが、決してそれだけではないのだ。
 だが、普段すっとぼけた顔のグレンが、この時だけは何かを憎むような形相でまくし立てていた。その勢いに圧倒された生徒達は何一つ反論できなかった。
「まったく俺はお前らの気が知れねーよ。こんな人殺し以外、なんの役にも立たん術をせこせこ勉強するなんてな。こんな下らんことに人生費やすなら他にもっとマシな――」
 ぱぁん、と乾いた音が響いた。
 歩み寄ったシスティーナが、グレンの頬を掌で叩いた音だ。
「いっ……てめっ!?」
 グレンは非難めいた目でシスティーナを見て、言葉を失った。
「違う……もの……魔術は……そんなんじゃ……ない……もの……」
 気付けば、システィーナはいつの間にか目元に涙を浮かべ、泣いていた。
「なんで……そんなに……ひどいことばっかり言うの……? 大嫌い、貴方なんか」
 そう言い捨てて、システィーナは袖で涙を拭いながら荒々しく教室を出て行く。
 後に残されたのは圧倒的な気まずさと沈黙だった。
「――ち」
 グレンはガリガリと頭をかきながら舌打ちする。
「あー、なんかやる気出でねーから、本日の授業は自習にするわ」
 ため息をついてグレンは教室を後にした。
 その日。グレンがそれ以降の授業に顔を出すことはなかった。

 放課後。黄昏の色が目に優しい。
 その日の授業を全てボイコットしたグレンはシスティーナとの一件以来、ずっと学院東館の屋上バルコニーにいた。何をするわけでもない。ただ、ぼんやりと無作為に、その日一日をつぶした。
「……向いてないのかね、やっぱ」
 屋上を囲う鉄柵に脱力した身体をだらしなく寄りかからせ、遠くをぼうっと眺めながらグレンはそんなことをつぶやいた。
 この五階建ての豪華な校舎の屋上から見渡せる学院敷地内の光景は、昔とほとんど変わっていない。複雑に絡み合う敷石の歩道、空中庭園、古城のような別校舎、薬草農園、迷いの森、古代遺跡、そして転送塔――人工物と自然が入り乱れる不思議な光景。そして、空にはお決まりの、幻影の城。
「ま、向いているわけねーわな。魔術が大嫌いなくせに魔術講師とかどんなギャグだ」
 グレンはふと、着任以来やたら自分に絡んできたあの銀髪の少女を思い出す。そう言えばまだ、その少女の名前すら知らないことに今さら、気づいた。
「ったく、あの白髪女め、思いっきり叩きやがって……ったく、ホント初日から生意気な奴だったな……」
 思えば十字路で衝突しかかったのが出会いだったか。
「……なにが魔術は偉大だ、だよ。アホか」
 たった十日間ほど見ていただけだが、あの銀髪の少女が本当に魔術に真剣で、魔術を極めるために日々、なんの迷いもなく切磋琢磨していることだけはわかった。魔術の暗黒面や危険性には見て見ぬ振りをし、魔術の華々しい側面だけに憧れ、世界真理などと言う耳に心地良いことだけを追い求める……子供だ。
 だが、あの少女が子供だと言うなら、その子供に噛みついた自分はなんなのか。
「……ガキか、俺も」
 ひょっとしたら、自分はあの銀髪の少女が羨ましかったのかもしれない。魔術が素晴らしいものだとなんの疑いもなく信じ、それを極めることに全ての情熱を捧げることができるあの少女が羨ましかった――自分は何に対してもさっぱり情熱を持てないがゆえに。
「やっぱ、俺、ここにいるべきじゃねーな……」
 正直、あの少女を前にして今後もあのようなひどいことを言わない自信がなかった。グレンの魔術嫌いは根が深く徹底的だからだ。別に自分がどうなろうと構わないが、目標を持って頑張る者を邪魔するのは良くないことだ。それだけはわかる。
「セリカにゃ悪いが……」
 グレンは懐に忍ばせておいた封書を取り出す。その中身は辞表だ。恐らく魔術講師なんて自分は一ヶ月ももたないだろうと思い、密かにしたためておいたのだ。
 今、ここにグレンはなんとしてもセリカのスネをかじって生きていく決意をしたのだ。
「よし、帰ったら土下座の練習だ。一生懸命謝ればきっとセリカも許してくれるさ……俺が無職の引きこもりに戻ることをな!」
 最低最悪な前向きさを胸に抱き、屋上を後にしようと鉄柵から離れたその時だ。
「ん?」
 この魔術学院校舎は本館の東西に東館と西館が翼を広げるように、屈折して隣接する構造を取っている。今、東館の屋上にいるグレンは、西館が正面に見下ろせる。
 西館のとある窓のそばで影が動いたような気がした。
「……なんだ?」
 確かあの部屋は魔術実験室だ。流石にこんな時間まで生徒が残っているはずはない。
「《彼方は此方へ・怜悧なる我が眼は・万里を見晴るかす》」
 グレンは右目を閉じて三節のルーンで遠見の魔術――黒魔【アキュレイト・スコープ】の呪文を唱えた。その瞬間、まるで窓のすぐそばから実験室の中をのぞき見ているような光景が、右目のまぶたの裏に広がる。
 実験室の中には一人の少女の姿があった。
「あの金髪娘は……」
 思い出した。件の銀髪少女にいつも子犬のようについて回るあの少女だ。確か、銀髪の少女にはルミア、とか呼ばれていたか。
「何やってんだ? こんな時間に」
 ルミアは教科書を開き、それを見ながら水銀で床に円を描き、五芒星を描いた。さらにルーン文字を五芒星の内外に書き連ね、霊点に魔晶石などの触媒を配置していく。
 どうやらルミアは一人で法陣の構築を実践しているらしかった。
「ほう? 流転の五芒……あれは……懐かしいな。魔力円環陣か」
 この法陣は特に何か起こるものではない。法陣上を流れる魔力の流れを視覚的に理解するための、言わば学習用の魔術だ。これを何も見ずに構築できるようになれば、まずは法陣構築術の基礎を抑えたことになる。
「しっかし、下手くそだな……ほら、第七霊点が綻んでるぞ? あーあ、水銀が流れちまってる……って、おい、触媒の配置場所はそこじゃねー……お、流石に気づいたか」
 まるで昔、どこかで見たような失敗だ。
「そういやガキの頃、よくセリカと一緒に遊びでやったっけな、あれ」
 思えばあれが、グレンが初めて実践した一番魔術らしい魔術だったか。特に何が起こるわけでもないチンケな魔術に、あの頃はなぜか胸が躍ったのを覚えている。
 グレンがのぞき見ているとは露知らず、ルミアは試行錯誤の末、なんとか法陣を完成させ、呪文を唱えた。だが、法陣は起動せず、ルミアは不思議そうに首をかしげるばかりだ。
「ばーか。そんなんで上手くいくかよ」
 ルミアは何度も教科書と床の法陣を見比べて確認し、ちょこっと法陣の端を手直ししては呪文を唱える。やっぱり上手くいかない。困ったように肩を落とす。
「……アホくさ」
 見てられなかった。グレンは遠見の魔術を解除して、ため息をつき、屋上を後にする。
「ま、頑張りな、若人」

 ばんっ!
 突然、魔術実験室の扉が外から乱暴に開けられ、ルミアは思わず飛び上がった。
「ぐ、ぐ、グレン先生!?」
 開かれた扉の向こうには、グレンが仏頂面で突っ立っている。
「相変わらずボロいんだな、ここ」
 グレンは室内を見渡しながらぼやく。
 比較的広い間取りの部屋だ。壁の棚には髑髏やらトカゲの瓶詰めやら結晶やら、妖しげな魔術素材達が並んでいる。並ぶ机の上には羊皮紙に描かれた魔法陣やフラスコ、拗くれたサイフォンのようなガラス器具達。奥には大きな魔力火炉や錬金釜までもがある。この部屋の胡散臭さが昔とちっとも変わっていないことを、グレンは懐かしく思った。
「ど、どうしてここに……?」
「そりゃこっちの台詞だ。生徒による魔術実験室の個人使用は原則禁止のはずだろ?」
 言って自分でも白々しいとグレンは思った。辞表を提出するために学院長室まで行こうとすれば、必ずこの魔術実験室の前を通ることになる。なんとなく気になって実験室の扉の隙間から中を見れば、やっぱり実験が上手く行かず四苦八苦しているルミアの姿があった。気づけばグレンは扉を開いていた。
「ごっ、ごめんなさい! 実は私、法陣が苦手で最近授業についていけなくて……でも、今日はいつも教えてくれるシスティがいないし……どうしてもこの法陣を復習しておきたくて……その……」
「忍び込んだわけか。てか、魔法錠がかかっていたはずだろ。一体、どうやって」
「え、えへへ……ちょっと事務室に忍び込んで……」
 ぺろっと小さく舌を出して、ルミアは手に持った鍵をかざして見せた。
「……見かけによらず意外とやんちゃなんだな、お前」
 グレンが呆れたように肩をすくめる。
「ごめんなさい、すぐに片付けます! 後でどんなお叱りでもお受けしますから!」
 慌てて後片付けをしようとするルミアの腕を、グレンがつかむ。
「先生?」
「いーよ。最後までやっちまいな。もうほとんど完成してんじゃねーか。崩すのはもったいねーだろ」
「で、でも……上手くいかなくて……どの道もう諦める所だったんです……」
 少し哀しそうにルミアは息をついた。
「どうしてなんだろう……前は上手くいったのに……手順には問題ないはずなのに……」
「馬鹿。水銀が足りてねーだけだ」
「え?」
 グレンは床の法陣のかたわらに歩み寄り、水銀の入っている壷をつかみ上げ、酌をするかのように片手で眼前に構える。目を細めて法陣を凝視し、じわりと手に持った壷を傾ける。その手には震え一つなく、やがて壷の口から水銀が糸のように法陣へと零れ落ちる。
 不意にグレンが壷を持つ腕を素早く動かした。機械のような正確さで、水銀の糸が法陣を構築する各ラインをなぞっていく。そこになんの迷いも淀みもない。
「……凄い」
 その手際にルミアは目を丸くして息を呑んだ。
「ちょっと慣れた奴はよく素材ケチって魔力路を断線させちまうんだよ」
 グレンは壷を置くと、床に落ちていた手袋を左手に嵌めた。床の水銀法陣に指をつけ、卓越した手さばきで水銀を動かし、要所の綻びを修繕していく。
「お前達は目に見えない物に対しては異様に神経質になるくせに、目に見える物に対してはなぜか疎かになる。魔術を必要以上に神聖視している証拠だ……よし」
 グレンは立ち上がり、左手に嵌めていた手袋を投げ捨てた。
「もう一回、起動してみな。教科書の通り五節だ。横着して省略すんなよ?」
「は、はい」
 ルミアは再び法陣の前に立つ。深呼吸をして、詠うように涼やかな声で呪文を唱えた。
「《廻れ・廻れ・原初の命よ・理の円環にて・路を為せ》」
 その瞬間、法陣が白熱し、視界を白一色に染め上げた。
「――っ!」
 やがて光が収まれば、鈴鳴りのような高音を立てて駆動する法陣が視界に現れる。魔力が通っているのだろう。法陣のラインを七色の光が縦横無尽に走っていた。
 七つの光と輝く銀が織り成す幻想光景。
 その姿は神秘的で――そして何よりも単純に美しかった。
「うわぁ……綺麗……」
 ルミアはその光景を感極まったようにじっと見つめていた。
「やーれやれ……そんなに感激するようなもんかね? コレ」
 グレンは冷めた目で法陣を一瞥する。
「だって……今まで見た誰の法陣よりも魔力の光が鮮やかで……それに繊細で力強い……先生って凄い……」
「馬鹿言え。この程度、誰だってできる。そもそもこれを組んだのは、ほとんどお前だ。お前が精製した素材や触媒の質がよかったんだろ、きっと」
「……先生?」
 ルミアは実験室をそそくさと出て行こうとするグレンの背中に気づいた。
「帰る」
「あっ……ちょ、ちょっと待って下さい!」
 ルミアは慌ててグレンの後ろ袖をつかんで引き止める。
「……なんだよ?」
「え? あ、……その……」
 引き止めてからどうしたものかと考えているようだ。ルミアは目を白黒させていた。
「ええと……そうだ、先生、今からもう帰るんですよね?」
「ん? ……まあな」
 本当はこれから学院長室に辞表を提出しに行くはずだったが、今となってはなぜかそんな気分じゃない。別に明日でもいいだろう。
「じゃあ、途中まで一緒に帰りませんか?」
「……はぁ?」
 意外過ぎるルミアの申し出に、グレンは眉をひそめる。
「その……私、一度、先生とゆっくりお話したかったんです」
「やだ」
 にべもなくグレンは切り捨てる。
「そう……ですか」
 残念そうに、哀しそうにルミアは肩を落として目を伏せた。その姿からは、なんとなく飼い主に置いていかれた子犬の姿が被る。
「一緒に帰るのはごめんだが……」
 どうにも調子狂うなと思いながら、グレンはボソリとつぶやいた。感覚としては可哀想な捨て犬を見て、後ろ髪を引かれるような気分である。
「勝手について来る分には好きにしろよ」
「あ、……ありがとうございます、先生! じゃあ、ちょっともったいないけど、急いで片付けますから待ってて下さいね!」
 ルミアは嬉しそうにふわりと笑って、急いで法陣の後片付けを始めた。
 グレンはそんなルミアの無邪気な様子を見てやれやれと肩をすくめた。

「うわぁ、先生、あれ見て下さい!」
 学院を出て、フェジテの表通りにさしかかった二人の視界に飛び込んで来たのは、空に浮かぶ幻の城だ。
 延々と緩やかな下り坂の先へと続く大通りは空に視界が開けており、彼方に浮かぶ天空の城の全容を仰望できる。夕暮れ時、緋色に美しく染まる天蓋が、その荘厳なる城を黄金色に燃え上がらせ、その偉容をより一層映えさせているようだった。
「私の友人にあの城が大好きな子がいて、私はその子みたいに城の謎解きには興味ないんですが……あんなに綺麗で雄大な姿を見てしまうと……そうですね、私も一度はあの城に行ってみたいって思ってしまいます」
「……そうか?」
 やや頬を上気させて空を仰ぐルミアとは裏腹に、グレンの反応は冷め切っていた。
「あんな城があるから魔術に勘違いするバカが出てくるんだ。まったく、鬱陶しいったらありゃしない」
「先生?」
 その言い草は誰かを非難していると言うよりむしろ、どこか自嘲のような響きがあった。
「ほら、よそ見してないで行くぞ」
「あ、はい……」
 グレンが歩き出す。ルミアが慌ててそれについて行く。
 フェジテの町の表通りを、グレンとルミアの二人が一緒に歩いていく。
 一緒に、とは言っても、グレンが大股で無遠慮にずかずか歩くのに対し、ルミアが早足で必死についていくという構図だったが。
 今は夕方なので、昼間ほどではないが、表通りにはそれなりに人が行き交いしている。ルミアがついて来ていることなどすっかり忘れ、グレンが人を避けることに専念していると。
「先生って……本当は魔術がお好きなんですよね?」
 隣に並んだルミアが不意に、そんなことを言った。
「どうしてそう思う?」
「いえ、その……先生が私の法陣を手直ししてくれていた時……先生、凄く楽しそうだったから」
 グレンは思わず口元を押さえて言葉に詰まった。
 楽しそう? 自分は楽しそうな顔をしていたのか? 魔術を実践して?
「ははっ……ねーよ」
 グレンは笑い飛ばした。
「もうわかっちゃいるとは思うが俺は魔術が大嫌いなんだ。楽しいだなんて、ありえん」
「ふふ、そうですか」
 だが、ルミアは訳知り顔で微笑むだけだ。
 まるで自分の内を見透かされているようで、なんとなくグレンは面白くない。
「でも……もし、先生が本当に魔術をお嫌いだったとしても、今日の言い方はちょっとひどいですよ? システィ……システィーナ、泣いていましたし」
 あの銀髪の少女の名前はシスティーナだったらしい。
「明日、謝ってあげて下さいね? システィにとって魔術は、今は亡きお爺様との絆を感じていられる大切なものなんです。偉大な魔術師だったお爺様をシスティは大好きで、ずっと尊敬していて……いつかお爺様に負けない立派な魔術師になる……それが亡くなったお爺様との約束なんです」
「……そうか。そりゃ流石に悪いことをしたな」
 自分の尊敬している人を間接的にとは言え、無価値で下らない物におとしめられたら、誰だって怒るだろう。
「それは置いといて、なんだ? お前は俺に説教するために誘ったのか?」
「あ、いえ……それもありますけど、そうじゃなくて……」
 言葉をまとめるようにルミアはしばらく沈黙する。
「あの……聞いてもいいですか?」
「内容による」
「ええと……この学院の講師になる前は……グレン先生って何をされてたんですか?」
 言葉に詰まったように、グレンは一呼吸置いてから堂々と胸を張って言った。
「引きこもりの穀潰しをやってました」
「え? 引きこもり? 穀潰し?」
「学院にセリカって言う偉そうな女が幅をきかせてるだろ? 俺がガキの頃、そいつにはお袋代わりに世話になってたんだけど、そのよしみで今までずっとそいつに養ってもらってたんだ。ふっ、凄いだろ?」
「あ、あはは……なんでそんなに得意げなんだろう……?」
 ルミアは苦笑いをするしかない。
「でも、それ嘘ですよね?」
 どうしてそんなに自信を持って断言するのか、グレンは戸惑いを隠せない。
「嘘じゃねーよ。この俺がマトモに働くような殊勝な人間に見えるか? この一年はセリカのスネを齧りまくりだったんだぞ?」
「一年……それよりも前は?」
「……あー、悪ぃ、カッコつけ過ぎた。あの学院を卒業して以来ずっと、だ。どうも働くってのが性に合わなくてなー、本当の自分探しをしてたっつーか……」
 どうにも納得いかなそうにルミアはグレンを見つめている。
「あー、俺の黒歴史を掘り返すのは終わりだ、終わり! 今度は俺が聞くぞ!」
 この話は蒸し返されたくないので、グレンは強引に話題を変えた。別にこのルミアとか言う小娘になど興味の欠片もないが、背に腹は変えられない。
「お前らってさ。なんでそんなに魔術に必死なの? システィーナって奴と言い、お前と言い、魔術ごときにマジになり過ぎだろ?」
「それは……」
「今日、話したがな。魔術って本当にロクでもない術なんだぞ? 別になくても困らないし、あればあったでロクなことにならん。何を好き好んでこんなもんやってんだ?」
 話題を変えるために何気なく問いかけたことだが、ルミアという少女は思いの他、グレンの問いを真摯に受け止めたらしい。しばしの時を、考え込むようにうつむいた。
「他の人達が何を思って魔術の勉強に励んでいるかはわかりませんけど……私は魔術を勉強する理由があります」
「ふうん、アレか? 世界の真理探究とか、人間の進化とやらか?」
「あはは、違いますよ。そんな高尚なこと、私にはとても無理ですから」
「……ほう?」
 グレンは初めて、ほんの少しだけ、このルミアという少女に興味が沸いた。
「じゃあ、なぜ、魔術を志す?」
「そうですね……私は魔術を真の意味で人の力にしたいと考えています。そのために今は魔術を深く知りたい」
 グレンはその言葉を自分の魔術否定に対する遠回しな批判と受け止めた。
「やれやれ、力は使う人次第ってありきたりな理屈か? 剣が人を殺すんじゃない、人が人を殺すんだってか?」
「はい。でも……私はもう少し違うことも考えています」
「?」
「今日、先生が仰ったとおり、人を傷つける可能性を大いに秘めた魔術なんて、きっとない方がいいんです。なければ少なくとも魔術で傷つけられる人はいなくなるから。でも、現実として魔術はすでに在るんです」
「……まぁな」
「それがすでに在る以上、それが無いことを願うのは現実的ではありません。なら、私達は考えないといけないんです。どうしたら魔術が人に害を与えないようにするか」
「……」
「でも、魔術のことをよく知らなければ、それを考えることなんて到底できません。知らなければ魔術はどこまでもただの得体の知れない悪魔の妖術で、人殺しの道具で、法も道もない外法なんです」
「要するに……盲目のままに魔術を忌避するより、知性をもって正しく魔術を制する、と? 全ての魔術師がそうなるように働きかける、と?」
「はい。私みたいな凡才にそれができるかどうかわかりませんが……」
「お前、魔導省の官僚……魔導保安官にでもなる気か?」
「ふふ、そうですね。それが私の目指す道に通じるなら……それが今の私の目標です」
 グレンは能天気な少女に深くため息をつきながら諭す。
「言っておくが徒労に終るぞ? いや、努力すりゃ官僚くらいにはなれるかもしれん。だが、お前の目指している物はあまりにも高過ぎる。お前一人がどうこうできるほど、魔術の闇は浅くない」
「わかってます。それでも……です」
「なんでだよ? なんでそんな報われない道をあえて行くんだ?」
 すると、ルミアはなぜかグレンに優しく微笑みかけ、それから何かを懐かしむように遠くを見た。
「私……恩返ししたい人がいるんです」
「恩返し? なんなんだそりゃ?」
「あれは今から三年くらい前の話です。私が家の都合で追放されて、システィの家に居候し始めた頃。私、悪い魔術師達に捕まって殺されそうになってしまったことがあって……」
「見かけによらず、なかなかハードな人生送ってんだな。てか、家の都合で追放って……お前って、ひょっとして、どっかの有力貴族かなんかの生まれ?」
「あ、いえいえ! そんな大層な家じゃないです! ホント! 貧乏でした! 貧乏!」
 ルミアが慌てたように手を振って否定する。
 だが、貧乏人が生活に困って子供を捨てるのは普通、『追放』とは言わないだろう。
「待てよ……ていうか、お前……」
 ふと、何を思ったのか。グレンが不意にルミアの顔をのぞき込んだ。目を細め、遠くを透かし見るかのような表情だ。
「……先生? どうかしましたか?」
 するとルミアは、何かに期待するような表情で、グレンを見つめ返す。
 だが。
「うんにゃ、なんでもない。……で? 話の続きは?」
 ありえん、とでも言いたげにグレンが頭を振って、ルミアに話の続きを促す。
 ほんの少し残念そうにルミアは息をつくと、話の続きを始めた。
「あの時の私、前の家を追放されたこともあって不安定で……どうして私ばっかりこんな目にって、怯えて震えて泣いて、もうだめだと諦めて……でも、そんな時、どこからともなく現れた別の魔術師があわやと言うところで私を助けてくれたんです」
「なんだそりゃ。そいつ絶対、タイミング狙ってんだろ。ったく格好つけやがって」
「その時の私は、私を守るために悪い魔術師達をためらいなく殺害していくその人がとても恐ろしかった。あの人も悪い魔術師を殺すことが自分の仕事だって言ってました。でも、あの人は人を殺めるたびに凄く辛そうな顔をしていて……それでも私を守るために最後まで戦ってくれて。なのに、あの時の私は怖くてその人にお礼すら言えなくて……」
「ふーん」
「あの人と過ごした時間はほんのわずかでしたけど……あの人は本当に優しい人だったんだと思います。だから自分の心を痛めながら、自分以外の誰かを守るために戦っていた。あんな風に道を外してしまった悪い魔術師達さえいなければ……あの人は、私のためにあんなに悲しい顔をしないで済んだはずなのに……」
「ふーん」
「私はあの人に命を救われました。あの事件の後、今度は私があの人を助ける番だと思いました。人が魔術で道を踏み外したりしないように導いて行ける立場になろうって。そのために魔術のことをよく知ろうって。そんな道を歩んでいけば……いつかあの人に、あの時のお礼が言える日が来るんじゃないかって。暗闇の中、ただ一人きりで泣いていた幼い頃の私に光をくれた……あの人に」
 そこまで聞いて、グレンは肩を震わせて含み笑いを始めた。
「くっくっく……ご都合展開過ぎだ、それ。そんな三文大衆小説もびっくりな超展開、ベタ過ぎて売れないぞ、きっと」
「ふふ、そうかも。でも、事実は小説よりも奇なりって言いますし」
 真摯な想いを無神経に笑い飛ばされたと言うのに、ルミアは穏やかに笑うだけだ。
「ははっ、ねーよ」
 それきり、特に会話はなかった。
 相も変わらず自分のペースでずかずかと歩くグレンに、なぜか機嫌の良いルミアがちょこちょこと子犬のようについていく。そんな構図を保ちながら、二人は二人が初めて顔を合わせた例の十字路まで辿り着いた。
「あ、先生。私、こっちです。システィのお屋敷に下宿しているので」
「そうかい。じゃあな、気をつけて帰りな」
「大丈夫ですよ? もう近いですから」
「そうか。だが、万が一ってこともある。一応、気をつけな」
「ふふ、先生って意外と心配性なんですね?」
「馬鹿。それだけお前が危なっかしいっつーコトだ」
「あはは、気をつけます。それじゃ先生、また、明日!」
「……ん」
 グレンは次第に小さくなっていくルミアの背中を、なんとなく眺めていた。
 ルミアは途中何度も振り返って、グレンの姿を見つけては嬉しそうに手を振っていた。
「……犬か、あいつは」
 何気なくこぼれた言葉だが、それはなんとなく的を射ている気がした。
 ルミアが犬なら、システィーナとかいう少女は猫かね、あぁ、なるほど、つんとお高くすましている様などぴったりだ……などと益体もないことをつい考えてしまう。
「しかしまぁ……ぼ~っとしているようで色々考えてるんだな、あいつ……」
 グレンは先ほど、ルミアが言っていたことを胸中で反芻した。
「……『考えないといけない』……か……」
 そして、グレンは懐から辞表を取り出し、それを空に掲げ、中身を透かすように眺めた。
「さぁて……どうしたものかね?」